聖徳太子=阿毎多利思比孤 part2at HISTORY
聖徳太子=阿毎多利思比孤 part2 - 暇つぶし2ch200:日本@名無史さん
22/03/06 22:05:35.06 .net
お前の個人的な考えなど誰も聞いていない。
幕末の江戸城大奥など、女性だけで1000人を超えていたそうだ。
京都御所だって数百人はいた。
日本国内の記録でもそうなのに、お前は何を根拠にそんなことを呟いているんだ?

201:日本@名無史さん
22/03/06 22:14:42.94 .net
>>189
>幕末の江戸城大奥など、女性だけで1000人を超えていたそうだ。
ほれ
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。
そしてそれ最盛期の話なあw
>女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる
あのさあ、あんな”狭い

202:日本@名無史さん
22/03/06 22:18:41.86 .net
>>189
あのさあ、 ”狭い” 場所に1000人近くの妾なんて住めるわけないだろうが、
普通に考えて。
そして中国の史書には”妾”と書いてあるわけで。

203:日本@名無史さん
22/03/06 22:24:45.08 .net
>>189
そして 江戸時代の ”側室” はこんなもん。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
女好きと言われている初代の家康が20人いないわけで。
後宮に700人800人の妾とかまともに数字を信じられるはずがないw

204:日本@名無史さん
22/03/06 22:51:40.81 .net
まあ、生涯に800人くらいレイプしまくったというのならありうるけど、
人権の薄い、中東のハーレムや中華帝国でもない限り、
狭い箇所に1000人近くの妾を押し


205:込めておくなんてやらないわなwww



206:日本@名無史さん
22/03/07 08:25:45.20 .net
>>191
妾の部分だけ信じるんだw
アホだなw
普通に考えて、身の回りの世話をする女中らが数字に入っているだろ
それでも後宮または大奥にいる限りはお手つきとなる可能性はあるから、妾も間違いではない
つまりは隋書の記事を否定する根拠はなく、お前が日本の内裏や大奥の規模を知らなかっただけw

207:日本@名無史さん
22/03/07 09:24:52.70 .net
>>194
だから、当時の倭のどこにそんな大規模な遺構が残ってるよ?w
難波宮が当時あったとしても、そこまで大規模な後宮が収まるような宮殿だったのか

208:日本@名無史さん
22/03/07 09:26:24.22 .net
宮殿ってさ、後宮だけだったわけじゃないからね。
もちろん表側だってあるわけで。

209:日本@名無史さん
22/03/07 09:34:42.18 .net
>>194
>日本の内裏や大奥の規模を知らなかっただけw
おまえこそわかってなかっただろがw
最盛期1000~3000人という数字だけを語ってるけど、
それは他藩に嫁いだり、養子にいったりして従った者も入れての数だと言う話だろうし、
城の規模・面積・空間を考えても、
一挙に千人くらい同じところに詰めてればどんな状態になるかなんて
容易に想像つくのに、全く考慮してないw
おまえの脳内は完全机上の空論w

210:日本@名無史さん
22/03/07 09:43:38.23 .net
要は おまえは数字や文章ばかり追っかけてないで、
右脳を使って 空間や様子を想像しろよw
頭に描かれる映像をさあw

211:日本@名無史さん
22/03/07 11:30:49.62 .net
結局托卵なんだよな
志貴皇子だけでなく大津皇子にも預けてかもな
悲しい結末になったが
和歌、枕詞、言霊の力は凄いね 

志貴皇子は自分のことをムササビと詠んだんじゃないかな?
ササのビ、鳥のようで鳥ではないムササビ
モモのこと
牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨

212:日本@名無史さん
22/03/07 11:36:14.57 .net
記紀で何度でも蘇るキャラクターがいたよね
芦原醜男

213:日本@名無史さん
22/03/07 14:06:41.16 .net
>>197
>最盛期1000~3000人という数字だけを語ってるけど、
自分で勝手に600を3000に水増しして否定か。
ひどい詐欺だな。
>一挙に千人くらい同じところに詰めてればどんな状態になるかなんて
日本の宮廷は、同じところに詰め込むのではなく、複数の建物や部屋に分かれているんだよ。
知らないのか?

214:日本@名無史さん
22/03/07 15:01:55.21 .net
そおいや昔は天皇の皇后出せる氏族って決まってたんやの
葛木氏とかがそれに当たるわけで

215:日本@名無史さん
22/03/07 15:04:03.81 .net
崇神天皇の時代あたりは物部氏あたりの一族との婚姻が多かったの

216:日本@名無史さん
22/03/07 16:11:37.99 .net
【ナマポ】 あの上から目線、腹立つわ 【福祉課】
スレリンク(okiraku板)
URLリンク(o.5ch.net)

217:日本@名無史さん
22/03/07 22:38:25.33 .net
>>201
出所はWIKIだけど。
前出のWIKIの記事読んでくださいな。

218:日本@名無史さん
22/03/08 11:08:26.00 .net
聖徳太子で興味深いのは片岡の飢人、聖伝説
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
旅人の親は亡くなっていない
旅人の親のことを刺竹の君と言い直している
かなり興味深い歌
ちなみにしなてるは坂照るの字を当てられることもある、片岡やにほ鳥にかかる枕詞
片丘に埋葬されたのは孝徳天皇の父の茅渟王である
天皇の父なのに�


219:サの事績は全く残っていない 記紀を編纂した勢力がとても書けない、嘘にもできない内容だったんだろうね 個人的には親なき軽(孝徳天皇)を重ねて詠んだ歌じゃないかと思っている そして聖帝、仁徳天皇にも思いを馳せていのかもねえ 聖は神意によく耳を傾ける立派な人物の意 聖徳太子も神意によく耳を傾けて、軽を守り抜いたのだろうか?



220:日本@名無史さん
22/03/08 11:38:01.86 .net
茅渟王と吉備姫王の子が宝(皇極天皇)と軽(孝徳天皇)とされている
吉備姫王は643年まで生きた人物
軽の母が吉備姫王なら軽の親が少なくとも片方は生きていたことになる
あるいは茅渟王の事績と共に消された本当の母がいたという仮定も考えられる
仁徳天皇の瑞祥は楠木の大木から作られた琴と雁が卵を生んだという話
雁と琴が仁徳天皇の実体じゃなかろうか?
面白いことに聖徳太子の母は楠であった伝承が残っている
徳の字は楠の母を暗示するかもしれない
楠の大木から軽船が作られて最後に琴が残った
孝徳天皇の諱は軽である

221:日本@名無史さん
22/03/08 11:48:56.06 .net
茅渟王と軽の母は6世紀末、軽を生んだ直後くらいに殺されたんじゃないか?
そして吉備と蘇我氏の血を引く吉備姫王は生き延びた
吉備姫王は643年まで生きたので、その後誰かに嫁いだ可能性がある
吉備姫王→皇極天皇の流れを汲む、天智天皇天武天皇が天
天智天皇は天命開別天皇という名でもある
アマと吉備姫王はかなり関係があるんじゃないかな?

222:日本@名無史さん
22/03/08 14:19:01.05 .net
聖徳太子の歌に出てくる刺竹のという言葉は、大宮や君にかかる枕詞
大宮地の霊言えば座摩神のことで、平安時代、神祇官西院において「御巫」称される女性神職、座摩巫により奉斎されていた神さま
上町台地の座摩神社に祀られている
「いかすり」は「居処領(いかしり)」、「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる
生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神
波比祇神・阿須波神は大年神と天和迦流美豆比売の間に生まれた神
地主の水神、山の神、里の神さまやね
延喜式祝詞に天御蔭・日御蔭と隠り坐しとあるのは興味深い
座摩の御巫の称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、生井・栄井・津長井・阿須波・婆比支と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す下都磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御舎を仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して、

223:日本@名無史さん
22/03/08 14:35:06.67 .net
天和迦流美豆比売
天+和+軽+ミズヒメ
孝徳天皇の諱は軽で和風諡号は天万
万は卍のことで和を意味する
偶然か?

224:日本@名無史さん
22/03/08 14:37:15.89 .net
聖徳太子は虚像で実像は阿毎多利思比孤
阿毎多利思比孤は法隆寺釈迦三尊像光背に出る上宮法皇
阿毎多利思比孤は百済昆支王の子孫
阿毎多利思比孤の死の原因は倭国の百済からの独立表明で百済に暗殺された
上宮法皇は厩戸皇子ではなく、上宮法王帝説の意図は崩された
サイト「国際的視点からの古代史考」を参照のこと

225:日本@名無史さん
22/03/08 15:22:21.68 .net
吉備姫王の墓の周辺から猿石が見つかっている
女、山王権現、僧(法師)、烏帽子の男の像である
猿石女の背面には、インド神話に伝わる神鳥・ガルダにそっくりな像が彫られている
ガルダは、仏教の守護神・迦楼羅天(かるらてん)にもつながる異国の神様
山王権現は山の神、里の神
天和迦流美豆比売も同じ系統やね
吉備姫王の嫁ぎ先、茅渟王の周辺にいた人々はこのような集団だったかも�


226:ニ想像が膨らむよね



227:日本@名無史さん
22/03/08 15:45:23.91 .net
崇峻天皇の崇峻はどう見ても山に纏わるネーミング
秀でた山を崇めるという意味だろうか?
次は山の勢力に皇位を譲ろうとしたのかな?
殺された理由は何だったのだろうか?

228:日本@名無史さん
22/03/08 16:03:56.19 .net
上宮法皇=厩戸皇子は死亡日の違いと母親が一致しないので否定される。

229:日本@名無史さん
22/03/08 16:17:48.97 .net
片岡にかかる枕詞のしなてるは、またにほ鳥にかかる枕詞でもある
しなてるは坂照るの字を当てられることもある
にほ鳥のは息長川やカツシカにかかる枕詞である
にほ鳥は牛留鳥の字を当てられることもある
息長真手王の娘、広姫は敏達天皇の皇后
子は押坂彦人大兄皇子、斎宮になった菟道磯津貝皇女、事績が不明な坂登皇女
息長氏が守ってきたのは牛の姫ではなかろうか?
広姫から続く母系が大切な意味を持つかもしれない
敏達天皇は名前の通り素早く、広姫の娘、坂登皇女を嫁がせたのではないか?
名前の通り坂登皇女はサカの妃になっていたのかもと想像が膨らむ
押坂彦人大兄皇子の子とされる茅渟王は実は坂登皇女の子だった可能性はないだろうか?
坂照る片岡、片岡に眠る茅渟王
茅は萱やススキ、芦のこと、茅の輪の茅やね
渟は留めるという意
茅渟は和泉摂津の海のことだが当てられた文字にも意味が込められているかもね

230:日本@名無史さん
22/03/08 17:33:30.25 .net


231:日本@名無史さん
22/03/08 19:05:55.77 .net
田目皇子の経歴が謎なんだよな
聖徳太子の異母兄
子に高向王、宝女王の最初の夫
高向王の子が漢皇子で天武天皇と同一人物じゃないかという説がある
第一回遣隋使のアマタラシヒコの候補だな

232:日本@名無史さん
22/03/08 19:21:59.14 .net
崇峻天皇の猪の話 
崇峻天皇にとって1番の脅威は、先代の用明天皇の第一皇子で用明天皇の皇后を娶った田目(豊浦)皇子だったんじゃないか?

233:日本@名無史さん
22/03/08 19:40:53.96 .net


234:日本@名無史さん
22/03/09 18:13:40.87 .net
理屈に耐えられず逃げる哀れな奴らw

235:日本@名無史さん
22/03/10 00:27:40.53 .net
推古天皇聖徳太子とアマタラシヒコ
その謎は皇極天皇の極、それと第一回遣隋使の記録を素直に読めば解決する

236:日本@名無史さん
22/03/10 16:12:37.62 .net
天王になれるのは限られるからな

237:日本@名無史さん
22/03/10 19:37:57.87 .net
鬼前大后は百済人の娘だったのかもね。百済人の姓に鬼室があるからね。

238:日本@名無史さん
22/03/10 21:56:30.24 .net
伏見稲荷と秦氏と目にも関係してそうなんだが

239:日本@名無史さん
22/03/10 22:13:59.08 .net
鬼前大后が百済人の娘だったら、干食王后も百済人かもしれないね。

240:日本@名無史さん
22/03/11 11:58:15.69 .net
相変わらず独り言スレシリーズw
日本において自分の民族アイデンティティを見失い
妄想にひたり終始するスレ主w

241:日本@名無史さん
22/03/11 12:59:25.43 .net
負け犬は独り言を呟き自分どけの世界で勝った夢を見るのだろうか。

242:日本@名無史さん
22/03/11 13:06:52.00 .net
帝説が鬼前=穴穂、干食=膳として上宮法皇=厩戸とし
法興は元号でないとまで言い切ったのは犯罪行為であろう。
現代においてもそれを支持する人がいるとすれば、同罪だろう。

243:日本@名無史さん
22/03/11 13:19:55.69 .net
天王は僧などやっとれんだろ

244:日本@名無史さん
22/03/11 16:24:50.13 .net
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委�


245:苒� 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之 兄が西の国、弟が東の国という感じで分かれたのかもねえ 東の国が朝の時は西の国はまだ日が登ってないからねえ 兄がアマの田目皇子、弟が日の聖徳太子という兄弟の話かな 南北朝ならぬ東西朝時代か 田目皇子は豊国辺りにいたのかもね 豊前は吉備の痕跡がちらほら見られる 茅渟王の妻、吉備姫王を娶ったのかと想像が膨らむね 田目皇子の子、高向王の妻は宝、後の皇極天皇 豊、秦氏、伏見稲荷、眼力社、この辺りの話が関係してそうなんだがなんせ田目皇子の痕跡がかなり消されている



246:日本@名無史さん
22/03/11 18:17:00.85 .net
聖徳太子はいなかった新説は「聖徳太子と言われる人物は厩戸だった」というのであるから驚きだ。
この説の中に、金石文の上宮法皇も出てこなければ、隋書のアマタリシヒコ大王も出てこない。
こんなことが日本史の中で平然と行われている。国家ぐるみに犯罪だ。

247:日本@名無史さん
22/03/11 18:46:49.08 .net
アマタリシヒコを見ても無視されている。
だから言うんだよ、敗戦も占領もなかったことになると、この国では。
日本国王府も院政でごまかしてるんだよwwwww。

248:日本@名無史さん
22/03/11 19:30:12.84 .net
嘘を駆使して統治してきた結果、武士社会になって、権力を失った。
そこに西欧の圧力で復権を果たしたが、相変わらず、外国には侵されなかったとの主張を繰り返すなら、
いずれ、契丹人社会が到来したように、外国勢力に圧倒され、立場を失うであろう。
今度は、東に逃げる先と逃げる交通手段があるのう。命がけの残留を選ぶか逃亡を選ぶかw
嘘は支配のための自己満足にすぎない、嘘をついてもつかなくっても結果は同じwwww。

249:日本@名無史さん
22/03/11 19:46:13.26 .net
書紀という政敵が記した歴史を自分の歴史にする
アマタリシヒコ大王を認めない
法興元号を認めない
聖徳太子(=アマタリシヒコ)を厩戸とする
帝説を書かせる
神皇正統記を書かせる
etc
支配の正当性を誇りたいというささやかな願望www
いずれ潰えるwwwwwwwwww

250:日本@名無史さん
22/03/11 20:16:16.89 .net
茅渟王を殺し吉備姫王を奪い娶ったのが田目皇子でアマタラシヒコでしょ
推古天皇と聖徳太子は古のありようを推し茅渟王の子軽を守ったんじゃないの
九州のアマタラシヒコ、畿内の聖徳太子

251:日本@名無史さん
22/03/11 20:40:33.95 .net
国王府ってそこの属国って意味ではないがよ

252:日本@名無史さん
22/03/11 20:49:12.11 .net
>>235
タラシヒコは天下を統べる意味なので、大王に即位していなければいけないのだが。

253:日本@名無史さん
22/03/11 21:13:08.79 .net
>>233
嘘の歴史は国民統治のためであって、
外国から見れば「ああ、そんなことしてるのね」って感じでしょwww

254:日本@名無史さん
22/03/11 21:13:51.29 .net
要は日本国民はバカにされんだよwww

255:日本@名無史さん
22/03/11 21:47:32.45 .net
要は日本国民はバカにされてんだよwww

256:日本@名無史さん
22/03/11 22:04:35.29 .net
>>227
あなたこそ負け犬だから、独り言レスでスレ埋めてるんだろw
誰も読まないことわかってる長文レスでw
で、あなたの お国はキチガイサヨ政権倒れたねw

257:日本@名無史さん
22/03/11 22:28:07.98 .net
>>230
西知家とはそういう意味があるんだろうか?
人民としての西知家ではなくて、
リアル西知ろしめす家
ただの夢幻思考ですがね。

258:日本@名無史さん
22/03/11 22:30:12.74 .net
人民西知家が京都市右京にあるから、
皇室西知家はもしかしたら京都市左京にあったのかもしれん・・・

259:日本@名無史さん
22/03/11 22:33:59.04 .net
私が日本書記を編纂しました。

260:日本@名無史さん
22/03/11 22:35:42.43 .net
私は霊体だけど人の身体を借りています。

261:日本@名無史さん
22/03/11 22:39:52.75 .net
左右大臣を理解できれば、この話の意味がわかるよ。
我々から観て�


262:Eということは、 天皇から見れば、左。 我々から観て左ということは、 天皇から観て右。 唐名は、京兆府、扶風、馮翊など。 京識(きょうしき、みさとづかさ)。 唐名は、京兆府、扶風、馮翊など。 京都所司代は、京職(きょうしょく)。 天子南面ス。



263:日本@名無史さん
22/03/11 22:44:17.45 .net
左利きが左でやるというのは、
無理ですが理にかなっています。

264:日本@名無史さん
22/03/11 22:45:20.56 .net
理にかなうではなくて、
利き器官の場合は、
利きに適っているというのだろうか?

265:日本@名無史さん
22/03/12 00:24:44.69 .net
嘘で歴史を固める目的は唯一国民の離反を恐れてのことだね
他国はお構いなしに攻めてくる
このとき神聖にしておけば国民は擁護してくれる
まあ、そういう仕掛けだ。国民がいろいろ歴史関連を真に受けて掘り返してくれるのは頼もしいわけだw

266:日本@名無史さん
22/03/12 01:07:24.59 .net
日本書記に嘘は書いてないよ
20年後に過去観測機が完成して実際に過去を観測することで証明されるから安心しろ

267:日本@名無史さん
22/03/12 05:29:21.94 .net
>>250
佳子観測機と言えば、過去だよばーか、
超スーパーコンピューターで、
恐らく消滅した星の位置とか、
全星の宇宙古代、中世の様子とか、
計算して出せるんじゃないの?
そのデータを持っている、
宇宙人宇宙科学
宇宙人は殺されたくないから、
日本国民と世界国民は、
抹殺されない。
宇宙人を敵に回すか。

268:日本@名無史さん
22/03/12 06:36:58.95 .net
完全敗北感に狂い続けている独り言朝鮮人おじさんw

269:日本@名無史さん
22/03/12 09:24:59.51 .net
法皇は最高位の者が出家して成るもの
厩戸は皇子で摂政だそうだ。出家したって上宮法皇にはなりえんのだよ、のう帝説くーんwwwww

270:日本@名無史さん
22/03/12 09:30:39.98 .net
皇族で僧になれるのは天皇を引退した者だけだよ

271:日本@名無史さん
22/03/12 09:31:37.87 .net
あるいは皇籍にあり出家したとかなら皇位継承権はない

272:日本@名無史さん
22/03/12 09:34:57.02 .net
仏教における天王号はほとんど仏教における神号と同じこと
その代理者である天皇が僧になれるわけないだろ

273:日本@名無史さん
22/03/12 09:35:44.74 .net
天皇を神と記載してるのは日本書ではない
仏教に書かれておること

274:日本@名無史さん
22/03/12 10:37:22.44 .net
隋書では、王タリシヒコは仏法を重んじているとあるから、その文脈で読まなくては。

275:日本@名無史さん
22/03/12 12:10:56.00 .net
隋書ではハイセイはタリシヒコに「戒塗」を請うた。
それに対してタリシヒコは宴を開いたのは受け入れたということだ。
「戒塗」は受戒と塗香のこと。戒を受け入れ、体に香を塗り戒を逃さない意味。仏教の作法だ。(出発の意味ではないwww)
すなわち、アマタリシヒコ大王は受戒して出家した。大王が出家すれば法皇だ。

276:日本@名無史さん
22/03/12 13:11:36.62 .net
>>259
どうしてこれくらいの事を誰も言わないのか?塗香もインド仏教を勉強すれば出てきますよ。
九州説の「出発を請うた」は名前と共に恥を出版したなwwwwww

277:日本@名無史さん
22/03/13 09:34:44.89 .net
上宮聖徳法王帝説では法隆寺釈迦三尊像光背を全文引用し、
「法興元丗一年」を「法興元世一年」とコピーし、「後の人は(法興を)年号と思うかもしれないけれどそれは間違い」言い切っている。
「丗」は「世」ではない。この拓本中の他の場所に「世」がでており、はっきり異なるからだ。
これも作為だとの指摘がなく、法興が忘れ去られ元号である認識がなかったと解説されたりする。
なお現在でも「この銘文を後世の追刻とする見方もある」との議論を犯罪的に誘発し、
「法興元世一年」説を完全には否定させないようにしている。
こんなことがパワハラでまかり通っている�


278:翌翌�



279:日本@名無史さん
22/03/13 11:42:42.76 .net
な、まれにみる頭脳だと感じたかな?wwwwww

280:日本@名無史さん
22/03/13 11:57:40.60 .net
4か月ほどの命だったなw

281:日本@名無史さん
22/03/13 23:02:20.97 .net
大王ってのはその時代においては大連、大臣の上に立ち統括する者でしょ
大連てのがもともとは旧国主みたいな連中らを取り仕切り軍事的活動を行う長官みたいなもんやからね

282:日本@名無史さん
22/03/13 23:03:33.99 .net
連(旧国主層)は自分らのとこに兵を抱えておるから軍団を形成できたわけだしの

283:日本@名無史さん
22/03/13 23:04:52.94 .net
臣ってのはつまり家臣上がりみたいな連中らのこと
自分では兵力持ってねえの

284:日本@名無史さん
22/03/13 23:16:14.30 .net
書紀には大王位はない。
氏姓の連や臣の記述が書紀以外でどこにあるか教えて下さいな。

285:日本@名無史さん
22/03/13 23:18:02.20 .net
>>267
記紀より古いやつをね

286:日本@名無史さん
22/03/13 23:49:09.15 .net
家系図

287:日本@名無史さん
22/03/13 23:50:04.98 .net
各氏族で所有しとる記録などもあるしな
書紀しか知らんのか

288:日本@名無史さん
22/03/13 23:52:48.40 .net
その家系図は記紀より古い代物か?

289:日本@名無史さん
22/03/14 00:08:11.58 .net
氏姓に連や臣がついた金石文を知りたい。
大王は金石文にあったな。
ヤマト政権そのものが架空で、はっきり大王政権であった。大王が後に天皇と呼ばれるようになったならなぜ、日十大王やアマ多利思比孤大王を隠すのか?

290:日本@名無史さん
22/03/14 04:59:54.91 .net
稲荷山鉄剣の金錯銘に「大王」の文字があるね。
ワカタケルという読み下しは合ってるのかちょっとなんともね

291:日本@名無史さん
22/03/14 07:51:58.21 .net
百済から出土した木簡に「ナニワ連公」があった。
7世紀中半のものらしい。

292:日本@名無史さん
22/03/14 09:26:49.53 .net
隠すって?
隠してないから連だの臣が伝わってるんだろ
大丈夫か?

293:日本@名無史さん
22/03/14 10:01:31.22 .net
百済出土木簡「那尓波連公」
石神遺跡木簡「石上大連公」
法隆寺命過幡「山ア名嶋弖古連公過命時幡」
いずれも7世紀半ばのものらしい。それ以前に遡れる例はありますか?

294:日本@名無史さん
22/03/14 11:00:35.49 .net
つまり6世紀における「連」の痕跡は見つかっていない。
なお、法隆寺命過幡「山ア名嶋弖古連公過命時幡」は東野氏は干支が+60年ずれるとしている。

295:日本@名無史さん
22/03/14 14:55:21.89 .net
謎の7世紀の壁。
それより古い国内の資料が見つからない。

296:日本@名無史さん
22/03/14 15:16:58.63 .net
古墳があるじゃん

297:日本@名無史さん
22/03/14 15:18:07.63 .net
王は剣を握ったまま埋葬されるからそれで分かるだろ

298:日本@名無史さん
22/03/14 15:29:10.74 .net
>>280
掘り返して見せてくれや
書紀以前の書物は破棄したらしいから、残るは金石文や海外資料しか証拠品がない。
氏姓なんたら言ったって証拠品がなけりゃ「書紀から想像すれば」ってことに過ぎない。
いい例が大王さ。書紀では大王は位ではなく敬称として使われている。金石文では位だ。

299:日本@名無史さん
22/03/14 16:15:01.48 .net
>>281
大王
オオキミ → 敬称
ダイオウ → 位
意味合いが違う

300:日本@名無史さん
22/03/14 17:02:05.05 .net
根拠は?

301:日本@名無史さん
22/03/14 20:12:54.44 .net
権力が掘っても結果が正確に残されていなければ盗掘。
この意味で日本では古墳はほぼ盗掘されているだろう。

302:日本@名無史さん
22/03/14 20:53:12.57 .net
動かしたら証拠も消えるわな

303:日本@名無史さん
22/03/14 21:12:05.47 .net
そんなわけで江戸時代以前に発掘された古墳は全て盗掘扱い。
まあ実際に出土品なども散逸している。
出土品が残っていても、伝~出土みたいな扱い。

304:日本@名無史さん
22/03/14 21:12:21.56 .net
>>282
こいつバカ?

305:日本@名無史さん
22/03/15 00:40:22.81 .net
漢語とやまとことば
使い分けがわからないチョーセン人w

306:日本@名無史さん
22/03/15 09:01:3


307:5.51 .net



308:日本@名無史さん
22/03/15 09:49:02.49 .net
泡が珍しくいいことを言っている。

309:日本@名無史さん
22/03/15 10:08:26.64 .net
孝徳天皇軽の父、茅渟王の事績が丸々ないだろう
アマタラシヒコが殺したんじゃないか?
崇峻天皇の次は皆が古のありようを推し、茅渟王になる予定だったんじゃないの
アマタラシヒコは畿内に居れなくなり本拠地の豊前辺りに移ったんでしょうね

310:日本@名無史さん
22/03/15 10:20:27.37 .net
アマになる為に吉備姫王とその娘宝も奪って連れていったのかもね
古を推した推古天皇と聖徳太子、それを阻止したアマタラシヒコ
この因縁が乙巳の変に繋がっていくんでしょう

311:日本@名無史さん
22/03/15 13:12:39.39 .net
大王を名乗るってのはその政権に参加していないなら誰でも名乗れるよ

312:日本@名無史さん
22/03/15 13:14:33.16 .net
ヤマトからは関東惣領と呼ばれた毛野氏だの吉備も吉備惣領だからな
自分らでは大王を名乗っておっても不思議ではない
ヤマト側から見た呼称やからな

313:日本@名無史さん
22/03/15 13:16:29.75 .net
吉備や筑紫の場合は討伐軍が送られたあと独立勢力としては存在できなくなった
官衙が置かれてヤマトから役人らが送り込まれるようになったからな

314:日本@名無史さん
22/03/15 14:21:26.01 .net
>>293
大王の意味を理解していないアホ

315:日本@名無史さん
22/03/15 17:11:11.65 .net
法隆寺釈迦三尊像光背は623年頃に完成され現存する。
法興元卅一年が基準年として使われている。歳次辛巳は621年である。
丈六光銘の原典はなく元興寺伽藍縁起並流記資財帳(747年作) にそのコピーが残っている。裴世清来訪の翌年に記述したとあるので609年に原典は作成された。
疑問(1)「天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時・・・」「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇 在揩井等由羅宮」など天皇名で時代を表わしているなら、それより後の法隆寺釈迦三尊像光背にはなぜ天皇名がないのか?
疑問(2)621年が法興31年に当たるなら、丈六光銘が造られた609年は法興年代だが、なぜ丈六光銘には年号が記されていないのか。

316:日本@名無史さん
22/03/15 19:49:03.92 .net
疑問(3)丈六光銘中にある「池邊天皇之子名等與刀禰ゝ大王」は等與刀禰ゝ(豊聡耳)をのことである。
丈六光銘中の人名は天皇・王・大臣など位で装飾されているのに、天皇筋にない大王を使うのは変である。
アマタリシヒコ大王が法皇になり空位になった大王を厩戸が埋めたとすると、天皇と大王の関係が釈然としない。

317:日本@名無史さん
22/03/15 20:05:08.70 .net
法隆寺釈迦三尊像光背
法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟乗斯微福信道知識現在安隠出生入死随奉三主紹隆三寳遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師


318:造 丈六光銘 天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時 百濟明王上啓 臣聞 所謂佛法既是世間無上之法 天皇亦應修行 擎奉佛像經教法師 天皇詔巷哥名伊奈米大臣 修行茲法 故佛法始建大倭 廣庭天皇之子多知波奈土與比天皇在夷波禮?邊宮 任性廣慈 信重三寶 損棄魔眼 紹興佛法 而妹公主名止與彌擧哥斯岐移比彌天皇 在揩井等由羅宮 追盛?邊天皇之志 亦重三寶之理 揖命?邊天皇之子名等與刀禰ゝ大王 及巷哥伊奈米大臣之子名有明子大臣 聞道諸王子教緇素 而百濟惠聰法師 高麗惠慈法師 巷哥有明子大臣長子名善德爲領 以建元興寺 十三年歳次乙丑四月八日戊辰 以銅二萬三千斤 金七百五十九兩 敬造尺迦丈六像 銅繍二?并挾侍 高麗大興王方睦大倭 尊重三寳 遙以隨喜 黄金三百廿兩助成大福 同心結縁 願以茲福力 登遐諸皇遍及含識 有信心不絶 面奉諸佛 共登菩提之岸 速成正覺 歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之 明年己巳四月八日甲辰 畢竟坐於元興寺



319:日本@名無史さん
22/03/15 21:44:46.62 .net
天皇諡号は和風であれ漢風であれ、崩御後に送られるものであるから、
747年に609年作の丈六光銘をコピーした時に、推古は生きているから
止與彌擧哥斯岐移比彌天皇の名称はあるわけない。
したがって、丈六光銘は正確にコピーされていない。
疑問(1)(2)(3)は丈六光銘が正しいと思ってみるから起る。
疑問(1)については原典に天皇名はなかった。
疑問(2)法興年号は書かれていたがコピーで消された。
疑問(3)等與刀禰ゝは大王ではなかった。
すなわち、法興年号の代わりに天皇名で時代を示すように改竄した。「大王」を大王でないものに付け、混乱することを図った。丈六光銘コピーは犯罪である。

320:日本@名無史さん
22/03/15 23:21:51.98 .net
丈六光銘は正確にコピーされていないとなると、上記3点以外も疑うべきである。
疑問(1)により609年には「天皇位」はなかった。
「百濟明王上啓 臣聞 所謂佛法既是世間無上之法 天皇亦應修行 擎奉佛像經教法師」は上下関係が逆転しているとみてよい。
天皇位がなければ「天皇詔巷哥名伊奈米大臣」は誰が詔したのか、大王でしかない。
原典は「大王詔巷哥名伊奈米大臣」となっていたのだ。
すると、巷哥名伊奈米(蘇我稲目)は大王の大臣であったことになる。大王政権の大臣である。アマタリシヒコ大王の大臣である。
書紀はアマタリシヒコを聖徳太子=厩戸としてに潜らせたが、聖徳太子の擁立者が蘇我であったことが理解できるであろう。

321:日本@名無史さん
22/03/16 00:41:13.27 .net
第一回遣隋使のアマタラシヒコは田目皇子だよ
その後亡くなったんでしょうね
アマタラシヒコが勝手に大王を名乗ったんでしょう
東西王朝みたいなもの

322:日本@名無史さん
22/03/16 04:11:49.66 .net
聖徳太子=蘇我馬子=阿毎多利思比孤  である
阿毎多利思比孤は九州王であり、倭国は九州と畿内の二朝併存だった
阿毎多利思比孤が大和にも覇を唱え、統一倭国王になったのだが、
その本来的称号は天王である
天を兄とし日を弟とし、つまりは九州王が畿内王を従えている
日本とは畿内のことである
法隆寺と四天王寺が聖徳太子により建立されたが、
四が欠落したものと説明される天王寺の地名の本来こそが天王寺であり、
それはすなわち天王の寺という意味になる
天王とは九州王を指している
一方、紀記編纂時に天皇の称号が生じたが、
元来、皇の字は皇帝すなわち帝国の王=諸国の王を意味するのであり、
名目において二朝の王を意味して初めて天皇が成立したわけである
蘇我氏を滅ぼした大化の改新の頃、法隆寺が焼失しているが、
王位を簒奪した天智天皇によって焼き払われたと


323:考えられる その再建が太子の怨霊を封印する目的でなされたとの仮説には蓋然性があろう 壬申の乱で王位を得た天武天皇は蘇我系だと考えられるが、 そこに連なる橘三千代の系譜により法隆寺が篤く信仰された背景にはそのような事情が隠されている https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533027941/534-541 //lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542085302/482,488,491,496,498,767,779,781,787 //lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542563254/168,170,177,180



324:日本@名無史さん
22/03/16 08:10:45.35 .net
史料的根拠とその考察が示されなければレスしようがない

325:日本@名無史さん
22/03/16 10:53:52.00 .net
>>301
「巷哥名伊奈米大臣」の大臣は創作で「臣」の可能性は否定できない。
法興6年現在風土記によれば葛城は臣であり、「大臣」の信頼できる記録を求む。
釈迦三尊でも「臣」が使われ「大臣」が区別されていない。

326:日本@名無史さん
22/03/16 12:40:26.99 .net
なんでも創作と呼べばいいのだから楽なものだな。

327:日本@名無史さん
22/03/16 12:55:41.52 .net
コピーと称して歴史を創作するは楽だ。

328:日本@名無史さん
22/03/16 13:47:49.70 .net
バカの創作歴史はつじつまが合わず、バレる。

329:日本@名無史さん
22/03/16 14:08:13.04 .net
いずれにしろ
後宮700人は日本では無かったろう。
間違いなく誇張だな。
別なとこに住んでたと言ってたバカがいたが、
それは後宮とは言わないし、700人ものそういうとこにどうやったら通えるんだよ?w
もう少し現実を考えて想像してから ものを言えよw
あほあほあほwww

330:日本@名無史さん
22/03/16 14:09:19.41 .net
だから天皇号は贈号なんだが

331:日本@名無史さん
22/03/16 14:09:57.54 .net
天皇認定作業は680年~800年にかけて行われたんだぞ

332:日本@名無史さん
22/03/16 15:25:42.30 .net
>>311
根拠は?

333:日本@名無史さん
22/03/16 15:56:29.29 .net
680年より前の資料に天皇の称号が出てくるから問題なんだよなあ。
諡号だって、和風諡号のいくつかは、実は生前から使われていた称号の可能性があるとも言われているし。
景行天皇のオオタラシヒコなんてその例だしね。

334:日本@名無史さん
22/03/16 16:12:30.10 .net
>>313
史料は?

335:日本@名無史さん
22/03/16 17:24:22.41 .net
法隆寺釈迦三尊像光背にでる人物は法皇・太后・王后と王子で、書紀で使われるスメラミコト・ミコト・ミコ・ヒメミコ・キサキは出てこず。

336:日本@名無史さん
22/03/16 17:34:09.47 .net
アマタリシヒコの居所は畿内
裴清の来訪経路は「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。又經十余國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。」。
「至」の最後が秦王国であるから、秦王国に大王がいた。秦王国から十餘國を経て海岸に達する。筑紫より東で、十餘國を経て海岸(絶海を意味)に達する国といえば、畿内となる。

337:日本@名無史さん
22/03/16 17:54:39.19 .net
>>315
法隆寺釈迦三尊像光背に書かれた世界は書紀が全く触れなかった世界というより、
書紀が描いた歴史世界は法隆寺釈迦三尊像光背銘によって作り物だと否定されている。

338:日本@名無史さん
22/03/16 19:45:33.62 .net
>>304
資料的根拠が無くても仮説は提起し得る仮説上の論理的瑕疵や資料的反論を求めたい
未だこの仮説には効果的反論をもらえていない
スレリンク(history板:233番)-237

339:日本@名無史さん
22/03/16 19:52:34.50 .net
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
「池邊大宮天皇」は用明天皇(~587)のことで、用明天皇が病気のときには、推古はまだ天皇ではないので、推古天皇を大王天皇と書くこの銘文はすくなくとも推古天皇即位後に書かれた。大王天皇の呼称は「大王」がアマタリシヒコの称号であるから、さらにアマタリシヒコの没後に製作年はずれ込む。福山敏男の「623年以降の作」説は妥当である。
塔露盤銘
元興寺伽藍縁起并流記資財帳(747)に「難波天皇之世辛亥正月五日 授塔露盤銘」と題し、紹介されている。コピーである
上記は丈六に年代的に近い「天皇」記載の銘文であるが丈六に「天皇」が記載されていた傍証にはならない。

340:日本@名無史さん
22/03/16 19:56:50.78 .net
>>318
史料的根拠のない仮説ならいくらでも提起できる。
押し売りを追い返すのにこの国では論理が必要なのか?

341:日本@名無史さん
22/03/17 03:52:38.01 .net
>>320
試しに

342:日本@名無史さん
22/03/17 07:56:52.86 .net
日本の古語もよくわかってない
朝鮮人の悔しがり妄想スレw

343:日本@名無史さん
22/03/17 08:15:33.52 .net
阿毎多利思北孤という言葉が人名だと知って、
日本人なら真っ先に思い浮かぶのは アマテラスとかタラシヒコとかいう人名だろう、
感覚として。
このことが勘として働かずにわけのわからない説を唱えているのは、
日本人の教育をまともに受けてない人だからだろう。
”阿毎” → 天
”多利思” → 照らす or 垂らし 
”北孤” → 比孤と修正して 彦 や 日子
などと簡単に予想が付き、これは固有名詞ではなく、
やまとことばによる尊い現人神への尊称であるとすぐに思いつくものだ。
これがすぐに思いつかないのは日本人ではない可能性が高い。

344:日本@名無史さん
22/03/17 08:55:48.52 .net
>>313
680年以前に「天皇」称号が使われていたと主張したが、その証拠を示さなかった。
>>319でその資料と思われるものをしめした。
一つは作成年代が特定できずとも丈六光銘作成時点より古いことがわかった。
一つは、丈六をコピーした同じ資材帳の中の物でコピーであり、信憑性かくものであった。
また、>>313は和風諡号が存命中に使われた例があると主張したがいまだ証拠を示していない。

345:日本@名無史さん
22/03/17 09:31:34.26 .net
証拠とかなんとかそんなこと言ってるんじゃないのよ。
書紀や古事記や万葉集を、そして平安時代などの書物を知っていれば
当時使われた大和言葉がどんなものか
おおよそ見当がつくわけよ。
人の名前にも ”~の~しヒメ”(姫) だの ”~の~しヒコ”(彦) というように
形容詞や助詞をつけて個人を特定したわけね。
だから
阿毎多利思北孤
  →  アメノタリシヒコ とか アメテラスヒコ とか アマタラシヒコ
 のように解釈できるわけ

346:日本@名無史さん
22/03/17 09:32:29.46 .net
武寧王は、墓誌には斯麻王、『三国史記』に諱を斯摩、『梁書』では隆。対応が付いている。
隋書にアマ、タリシヒコ、オオキミと記された人物を書紀中の人物と対応させようとするが成功例がない。
「アマタリシヒコ」が実名であろうが、一般名であろうが、オオキミと名乗っている人物がおり、600年、608年には実在した男性王である。
隋はハイセイを派遣して確認しており、倭国最高位の人物である。
受戒した模様で上宮法皇が実在するので、上宮法皇=アマタリシヒコである。
書紀中に該当する男性天皇がなく、皇子が出家して法皇になるわけもなく、書紀はアマタリシヒコを倭国王として認定していないと結論できる。
この不認定は作為的であるがゆえに、
丈六等の書き換えが行われ、失敗したが帝説で上宮法皇=厩戸として強引な同定を行おうとした。
この行為は、大王政権の歴史上からの抹殺を図っているのである。が、風土記や金石文にその片鱗が残っている状態である。

347:日本@名無史さん
22/03/17 09:45:50.89 .net
>>326
>失敗したが
あのさあ、簡単に失敗するような書き方


348:すると思う?w 外国人が見るかもしれない国書作るのに、 そんな浅はかな書き方するとは思えないのだが。 どうしてそうキミはそう隠そうとしたとかそういう発想になるわけ?w



349:日本@名無史さん
22/03/17 09:50:25.81 .net
隋書でハイセイは608年に男性王に会っている。
書紀では推古天皇(女性、554年生)がハイセイに会っている。書紀はここでも嘘を書いている。
後に、東大寺僧がアマタリシヒコはどの天皇かと問われ、用明と答え、用明は600年には既に亡くなっていたという失態を冒している。

350:日本@名無史さん
22/03/17 11:51:29.82 .net
新唐書「次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。」
は訪中した東大寺僧奝然(938ー1016)の発言をもとにしたものと思われる。
奝然の俗姓は藤原氏。藤原真連の子であるから、日本書紀は読んでいる。
だから、天皇の順序が伝えられた。推古がハイセイと会っていることも知っている筈だ。
さらに、タリシヒコを知っているのだから隋書も知っていたことになる。
用明と答えたのは男性で、もっとも多利思比孤の時期に近かったからだろう。
彼には多利思比孤は天皇であるべきだとの認識があり、皇太子の認識はなかったということだ。
間違ったのは天皇の中に答えがなかったからだ。

351:日本@名無史さん
22/03/17 12:19:09.22 .net
不快感ではね

352:日本@名無史さん
22/03/17 12:29:41.49 .net
>>328 >>329
「日本書紀」編者が遣唐使を聖徳太子の功績にしたくて
推古天皇の御代に実際にはまだなかった摂政制度が始まって
天皇の業務をすべて代行する大権力を握った聖徳太子の命令で開始されたことにした説
実際には最初の遣唐使を行ったのは用明天皇であったにもかかわらず
それが聖徳太子の功績にされたために
当時の天皇は女帝の持統天皇ということになってしまった

353:日本@名無史さん
22/03/17 13:05:46.85 .net
用明天皇 587年頃没 

354:日本@名無史さん
22/03/17 13:26:55.61 .net
>>332
それは記紀の記述だからね
暗殺でもないのに30代ぐらいで在位2年で急死ってあまりない

355:日本@名無史さん
22/03/17 13:30:52.96 .net
何時頃没した?

356:日本@名無史さん
22/03/17 13:31:39.49 .net
331訂正
持統天皇→推古天皇

357:日本@名無史さん
22/03/17 14:10:06.05 .net
お前達の話(書き込み)など何も関係ない、
ちなみに家は『』こういう家なんだけど、どういう事だと思う?
低脳「?????」

358:日本@名無史さん
22/03/17 15:14:28.02 .net
アマ多利思比孤は仏教治国を目指し仏教を広め寺院を建立した。また、12位階も隋書に出る。これと同等のことが推古紀にあり、厩戸皇子摂政の事績とされ、憲法のことも詳しく書かれている。すでに指摘したように、アマ多利思比孤は国王であり摂政ではない。書紀はアマ多利思比孤大王を摂政として挿入したのである。したがって、逆に厩戸の事績はアマ多利思比孤の事績と認定できうる。
何故書紀はこのようなことをしたのか、すなわち、倭国王を天皇と認めなかったかの問題が提起される。アマ多利思比孤オオキミ(大王)政権をポイント的に認めなかったのか、系列的に認めなかったかの問題も生じる。
大王位そのものを表さない書紀であるから、大王政権を系列的に認めていないとできよう。大王政権が倭国を統治していたのであるが、その個々の政権が、名前、姻戚、性別、位を変えて、あるいは別人物として、あるいは抹消されたりしていると考えるべきなのである。
従って言いたいことは、書紀は歴史書として核になる代物ではなく、読み物として参考にされるべきものだと言うこと。

359:日本@名無史さん
22/03/17 17:38:30.05 .net
>>323
>日本人なら真っ先に思い浮かぶのは アマテラスとかタラシヒコとかいう人名だろう、
>などと簡単に予想が付き、これは固有名詞ではなく、
>やまとことばによる尊い現人神への尊称であるとすぐに思いつくものだ。
矛盾しているじゃん。
アマテラスもタラシヒコも人名だよ。

360:日本@名無史さん
22/03/17 17:42:11.88 .net
要するに、隋書にある倭国政権と、日本書紀にある畿内日本国は別の国なんだよ。
ならば倭国と呼び得る国は、後漢書以来、一貫して九州北部しかない。

361:日本@名無史さん
22/03/17 18:03:59.44 .net
>>316にタリシヒコ政権が畿内である推定を行ったが、何か?

362:日本@名無史さん
22/03/17 19:32:41.59 .net
アマタラシヒコは豊旗ですね
豊前だね
オオタラシヒコが拠点にした辺り
4世紀のオオタラシヒコを支えた勢力がまた同じようなことをしたんじゃないか?

363:日本@名無史さん
22/03/17 20:37:00.86 .net
「ですね」「だね」「体言止め」「じゃないか?」は反撃を恐れている表現だ。
反撃を恐れず自信を持った発言でなければ、レスはない。

364:日本@名無史さん
22/03/18 10:57:43.23 .net
>>342
負けてるから、そうやって自分だけにわかる理屈をこねて自分を励ましてるんだねw
わかるよ、よくわかるよ、キミの焦燥感ww
はたから見てるとバカにしか見えないんだけどwww

365:日本@名無史さん
22/03/18 13:18:30.55 .net
「~るんだね」「体言止め」「~だけど」
反撃を恐れるあまり、不快感すら詠嘆口調になる統失。

366:日本@名無史さん
22/03/18 13:24:51.91 .net
タラシヒコの諡号が、九州にゆかりのある天皇にしばしば使われていることは確かだ。

367:日本@名無史さん
22/03/18 17:22:33.34 .net
「ゆかり」「しばしば」が既にあいまい。
あいまい表現を「確かだ」と断定口調で言ってもあいまい。
それよりも、アマタリシヒコ時代の遺跡とか金石文とかないのかね。
根拠があるから、九州説なんだろう。教祖様は何ておっしゃってるんだ?

368:日本@名無史さん
22/03/18 20:10:29.22 .net
九州説の根拠となる遺跡や金石文が無いのなら、
九州説が起きたきっかけでもいいんだが。

369:日本@名無史さん
22/03/18 20:49:17.83 .net
筑紫、吉備、葛城の三国があって、一世紀中期まで独自外交して力があったのが筑紫ってことだろ。

370:日本@名無史さん
22/03/18 21:18:16.75 .net
継体天皇の時代ですら、筑紫を下せていない。
倭国の名は白村江まで使われている。

371:日本@名無史さん
22/03/18 21:40:01.04 .net
大宰府を囲む羅城は総延長50キロメートルを超える。
歴史学者は白村江の敗戦を受けて防衛のために建設したと主張するが、敗戦後に大宰府は唐に占領されているのだから、そんなものを建設する意味がない。
敗戦国に許されたのは、平城京のような城郭を持たない首都だけだった。
それは中国文化を取り入れているはずの当時の東アジアの都市のあり方としてはひどく不完全だ。
本来なら、東アジアの国の首都は大宰府のように羅城があるのが普通なのである。
大宰府羅城の正確な年代は不明だが、羅城の一部である水城の最下層の木材の炭素年代測定の結果は、卑弥呼の時代のものであった。
大宰府のような大規模な王都であれば、後宮に女性が数百人いてもおかしくない(後の京都御所と同じくらい、江戸城大奥よりは小さい)。

372:日本@名無史さん
22/03/18 21:45:18.56 .net
継体紀では最終的に筑紫を下している。
それ以前に、九州と関東で同じ大王名の鉄剣が出ているのは統一の証拠だろ。
磐井の件は一時的な反乱だったろう。
白村江で「倭国」が使われていることと九州説と何の関係がある?

373:日本@名無史さん
22/03/18 21:49:47.96 .net
継体天皇と戦ったのは筑紫の君イワイであった。
(イワイは亡くなったが、筑紫の君の座は息子が継承している)
白村江で負けて捕虜になった倭国の指揮官は筑紫の君サチヤマであった。
遣隋使の年代は間に位置しており、筑紫の君が大宰府の主であり、倭王タリシヒコの一族であると考えるのは不自然ではない。
隋書には、倭には阿蘇山という山があり、時折火を吹くという。
旧唐書には、日本は倭の小国であったが、やかて倭を併合したある。

374:日本@名無史さん
22/03/18 21:51:15.40 .net
>>351
>継体紀では最終的に筑紫を下している。
下していない。
屯倉一つを獲得しただけだ。
筑紫の君の称号はイワイの息子が継承したので、倭の国体は維持されている。
これでは下したことにはならない。

375:日本@名無史さん
22/03/18 21:53:34.74 .net
>>351
>白村江で「倭国」が使われていることと九州説と何の関係がある?
後漢書によると、倭とは朝鮮半島南岸の狗邪韓国を西北の境とし、九州北岸の倭奴国を南限とする。
そしてその代表は倭奴国王であった。
つまり倭とは九州北部にあった国というのが中国がわの認識だということになる。

376:日本@名無史さん
22/03/18 22:03:50.10 .net
>大宰府を囲む羅城は総延長50キロメートルを超える。
歴史学者は白村江の敗戦を受けて防衛のために建設したと主張するが、敗戦後に大宰府は唐に占領されているのだから、そんなものを建設する意味がない。
百済王族扶余勇が倭国にいることが唐書にある。彼は白村江の敗戦で倭国に走った。
彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
朝鮮山城といい、50㎞の羅城は扶余の都のものに同類とされている。
>敗戦国に許されたのは、平城京のような城郭を持たない首都だけだった。
それは中国文化を取り入れているはずの当時の東アジアの都市のあり方としてはひどく不完全だ。
本来なら、東アジアの国の首都は大宰府のように羅城があるのが普通なのである。
隋書では無城郭と記されているが。
>大宰府羅城の正確な年代は不明だが、羅城の一部である水城の最下層の木材の炭素年代測定の結果は、卑弥呼の時代のものであった。
大宰府のような大規模な王都であれば、後宮に女性が数百人いてもおかしくない(後の京都御所と同じくらい、江戸城大奥よりは小さい)。
炭素年代測定が正しければ、材料がその当時の物だったということで、建造された時期がそうだともいえまい。
朝鮮山城は天智が百済将軍に命じて造らしめ水城もつくらしめたとの天智紀を信じれば、
天智=扶余勇であり、時代背景などすべてつじつまが合う。

377:日本@名無史さん
22/03/18 22:11:46.35 .net
>>355
>彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
大宰府が占領されてから作ったのか?
>隋書では無城郭と記されているが。
なるほど。
そこは考慮しなくてはいけないね。
>炭素年代測定が正しければ、材料がその当時の物だったということで、建造された時期がそうだともいえまい。
それは詭弁だ。
普通は、伐採した年代と建物を建造した年代が違うなどという想定はしない。
大宰府だけ何百年も前の建材を再利用したというのか?
少なくとも水城の建設は卑弥呼の時代にまで遡るというのが科学的な考え方になるはず。
>天智=扶余勇であり、時代背景などすべてつじつまが合う。
時代が近いだけで、同じ人物だとする確証はない。
当時の倭と百済の親密な関係を鑑みれば、羅城の様式が同じなのは当然だし。

378:日本@名無史さん
22/03/18 22:11:50.82 .net
>遣隋使の年代は間に位置しており、筑紫の君が大宰府の主であり、倭王タリシヒコの一族であると考えるのは不自然ではない。
大宰府が磐井の時代にあれば、隋書に無城郭とは書かれない。
>隋書には、倭には阿蘇山という山があり、時折火を吹くという。
畿内へ行く途中に見に寄ったのかもしれん。
>旧唐書には、日本は倭の小国であったが、やかて倭を併合したある。
それは天智=扶余勇政権が南遷した百済を日本と名付け、旧倭国を併呑したという意味。
旧唐序から670~672年と見受けられる。その後壬申の乱で倭国が復活するが国名は日本を踏襲した。

379:日本@名無史さん
22/03/18 22:22:12.64 .net
>普通は、伐採した年代と建物を建造した年代が違うなどという想定はしない。
大宰府だけ何百年も前の建材を再利用したというのか?
少なくとも水城の建設は卑弥呼の時代にまで遡るというのが科学的な考え方になるはず。
天智紀に朝鮮山城は天智が百済将軍に命じて造らしめ、水城もつくらしめたと記述されている。
天智紀の他の事項については年代、人名が克明であり、
朝鮮山城・水城は天智=扶余勇が造ったとするのがぴったりだと思う。
朝鮮山城の分布は、扶余勇が最初に移った北九州あたりに多く、最後に遷った近江が東限だ。
だんだん必要性を感じなくなったのと、朝鮮山城支配様式が倭国には合わないと解ってきたのだろう。

380:日本@名無史さん
22/03/18 22:31:23.09 .net
>>彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
>大宰府が占領されてから作ったのか?
扶余勇が百済国を南遷させるまえに大宰府あたりに何があったかは不明だが、倭国王のもとに支配されていた。
倭国王が扶余勇に百済国南遷を許したので大宰府等防衛システムが簡単に作れた。
こういうことが行われたのは倭国王自身が百済出身だからだと別の考察で帰結された。

381:日本@名無史さん
22/03/18 22:49:43.92 .net
>>357
>畿内へ行く途中に見に寄ったのかもしれん。
畿内へ向かう途中でどのような�


382:求[トを通ったら阿蘇山の近くに行くというのか。



383:日本@名無史さん
22/03/18 22:50:38.12 .net
>>357
>それは天智=扶余勇政権が南遷した百済を日本と名付け、旧倭国を併呑したという意味。
それなら日本国はかつての百済と記載されたはずだ。

384:日本@名無史さん
22/03/18 22:53:43.39 .net
>>359
>倭国王が扶余勇に百済国南遷を許したので大宰府等防衛システムが簡単に作れた。
なぜ倭が筑紫大宰府を百済に明け渡すというこか。
倭も百済も敗戦国になったら、何から何を防衛するなか。
壮大な大宰府羅城の建設には何年もかかっただろう。
白村江より前から作っていたはずだ。

385:日本@名無史さん
22/03/18 23:04:33.31 .net
>それなら日本国はかつての百済と記載されたはずだ。
いろいろ、中国にも事情があるんじゃないか。禰軍は百済佐平であったが、百済崩壊時に寝返って唐の将軍になった。かれは、恩義ある扶余家百済をなんとか生き延びさせたい気持ちがあったように思う。禰軍は天智紀に倭国を訪れたとある。扶余勇に会ったと思う。禰軍墓誌に扶余勇を指してだと思うが「日本ヨショウが罪を逃れんとし」とあるのは、白村江の戦の罪を言っているのだろう。実際、扶余勇は罪にはならなかった。しかし、天智紀に「筑紫都督府」が残されている。扶余勇は唐の都督を承諾して罪を免れたのだと思う。一旦唐の都督となり配下に下ったのだから、日本が百済の生き残りだと言えば、後の政権に攻撃材料を与えるではないか。慈悲ということだろう。そういう胸の内が禰軍にあったように思う。

386:日本@名無史さん
22/03/18 23:11:56.37 .net
>なぜ倭が筑紫大宰府を百済に明け渡すというこか。
この時の倭国王は百済国生まれで、扶余家百済を助ける義務のようなものがあった。
>倭も百済も敗戦国になったら、何から何を防衛するなか。
基本的に唐は海の向こうまでは攻める気はないように思う。ただ、罪にする。
倭国王は封禅の儀に出席することを約束し、唐の配下に下ったことを認めた。
>壮大な大宰府羅城の建設には何年もかかっただろう。
白村江より前から作っていたはずだ。
土饅頭だ。百済は南遷を繰り返しているから、都を作るくらい平気じゃないか?
人力は倭国王にかき集めさせればいいのだから。

387:日本@名無史さん
22/03/18 23:28:45.02 .net
>畿内へ向かう途中でどのようなルートを通ったら阿蘇山の近くに行くというのか。
中国人は火山を見たことがない。是非とも見ておきたいだろう(見たとすれば)。
倭の五王が統一しているから、既に道はあっただろう。途中とは、わざわざ立ち寄るという意味。
火山は聞いた話かもしれないし、あまりタリシヒコの居所と直接関係ないと思うが。

388:日本@名無史さん
22/03/19 00:33:44.89 .net
九州もまた特別な地域だね。
各種神宮神社、志賀島、長崎、南方列島、高千穂、
筑紫の日向の小戸の阿波岐原、阿蘇雲仙島原各種国立国定公園・・・
印象的で歴史的な地方だね。

389:日本@名無史さん
22/03/19 00:38:04.71 .net
厩戸皇子は、蘇我馬子が最大の敵だったみたいだね。
奥さんが蘇我馬子の娘だったんだっけ?

390:日本@名無史さん
22/03/19 08:56:47.81 .net
バカなのかてめえは

391:日本@名無史さん
22/03/19 09:59:49.61 .net
扶余勇に北九州を譲った倭国王に就いての補足
書紀では天智称制となっていて倭国王が不存在だが、旧唐書に「倭国酋長」がいる。
これが倭国王だが、誰かという問題が生じる。
すこし込み入って来るが、皇極紀のギョウキ王まで遡らねばならない。
書紀は百済王族ギョウキ王を人質としていない。
かつ40名あまりの高名な人々が同伴している政治集団。
細かいことを省くが、彼が孝徳天皇となり、新たな宮殿様式(百済武王のものと類似)で難波に宮を作り、律令政治を始めた。
ギョウキ王は子をなくすが、もう一人いたことが書紀を読めばわかる。
この人物が孝徳の皇太子になるべきだが、書紀は正直に書いていない。
斉明に重ソさせたり、天智(=扶余勇)を持ってきたりしている。
実際はこの百済生まれの皇太子が孝徳の後を継いだ倭国王だと思う。
かれこそ、大海人皇子。
大海人皇子が倭国王で、百済崩壊が起り、白村江の戦で援軍を送り、百済を再興するのに助力した。
扶余勇と大海は従兄で扶余家では勇が本家筋にあたり格上。
百済はつねに、南遷先を準備していたんではないかな。
倭国には人質と呼ばれる百済王族が何人も来ているのは、支配地域を南に求めていたんだろう。

392:日本@名無史さん
22/03/19 12:50:31.38 .net
>>368
いやねえ
音楽アプリAWAにある、
深見東州「厩戸皇子のアリア第1楽章、第3楽章」のなかに、
「愛する妃とじこは、馬子の娘」というフレーズがでてくる。
一度だけ、そのとじこさんは、馬子側についてしまったらしい。
だからもう、実際の日本史は、現代人には想像がつかない。

393:日本@名無史さん
22/03/19 13:18:5


394:9.31 .net



395:日本@名無史さん
22/03/19 13:19:32.78 .net
>>367
>奥さんが蘇我馬子の娘だったんだっけ?
蘇我馬子は厩戸王の最大の後見人だよ。

396:日本@名無史さん
22/03/19 13:27:06.69 .net
>>364
>土饅頭だ。百済は南遷を繰り返しているから、都を作るくらい平気じゃないか?
おいおい。
山々の峰をめぐる山城だよ。
大野城や基肄城もその一部だ。
とてつもなく大きな城郭だぞ。
山手線一周が約35キロだそうだが、大宰府羅城は一周50キロを超える。
すぐに作れるものではない。
白村江より前から、倭国の王都であった大宰府の守りとして建設されていたと考えるべきだ。
余豊は関係ないだろう。

397:日本@名無史さん
22/03/19 13:32:50.30 .net
>>372
馬子の娘、蘇我刀自古郎女は早くに亡くなったか何かで
厩戸王が生涯添い遂げ一緒に葬られた妻は膳部菩岐々美郎女だった
蘇我氏との縁が薄くなったので最後のほうは
飛鳥から遠い斑鳩隠居で干されていたともいう

398:日本@名無史さん
22/03/19 13:41:10.12 .net
都を作るには道がある。その総延長は一本7㎞として南北10本東西10本として140㎞。
大宰府羅城は朝鮮山城や水城を結んでいると考えられている。
水城・朝鮮山城と同時に計画されたと見るべき。

399:日本@名無史さん
22/03/19 14:39:22.55 .net
50kmの羅城は土
部分的に石を使う朝鮮山城は周囲6km くらい。

400:日本@名無史さん
22/03/19 14:54:20.77 .net
その水城の最下層が3世紀だからなあ。

401:日本@名無史さん
22/03/19 16:44:02.85 .net
京の都を造築したのは秦氏やど
秦氏らは日本において大工の起源となっておるからのお

402:日本@名無史さん
22/03/19 16:47:33.18 .net
聖徳太子の法隆寺だのも造営したのは秦氏と言われる
聖徳太子に仕えた部下だったからね
その秦氏が自分が作った寺にユダヤと関係ある文字だかなんだか刻んだってんで話が出てきたんやん

403:日本@名無史さん
22/03/19 16:51:44.22 .net
最下層が3世紀は木の炭素年代測定だろうが、その木は掘り返して取り出したのだね。
構造的なことが全部わかったはずだな。長い樋の年代はどうでした?

404:日本@名無史さん
22/03/19 18:39:56.82 .net
水城の最下層部は粗朶と粘土が何層にもなっており、
最上部の粗朶層はAD660年が測定の中央値。
最下層の粗朶層が3世紀と測定されるものの、一点のみの測定であるので、測定を増やして確定したいとしている。
よって、木樋はAD660の粗朶層の上にあるので、水城は天智紀にあるとおり、天智が造らしめたと言ってよいだろう。
最下層の部分は別途研究されればよいだろう。

405:日本@名無史さん
22/03/19 19:58


406::33.69 .net



407:日本@名無史さん
22/03/19 20:08:50.18 .net
他人が言い出した九州説に相当人生を費やしたようだなw
全くバカだ。邪馬台国も磐井もたった24時間で落城w
これまでの統失演技は負けた時の準備wwwww

408:日本@名無史さん
22/03/19 20:19:53.97 .net
>>382
>思い付き仮説を立てて立証する場合、諦めも必要。
思いつきというのは的確ではないな。
大宰府の巨大遺構は事実だし、水城の最下層が非常に古いのも事実だ。
私は九州説だが、扶余勇の話には批判的だし、それではむしろ新しくなってしまう。
あなたは自分が好きな何人とやり取りしているのか理解していないのではないか。

409:日本@名無史さん
22/03/19 20:26:57.40 .net
九州説の立証をライフワークにしたとすれば、扶余勇=天智説の登場は青天の霹靂だな。
それで、執拗な付きまといをしたのだな。まあそれほどの衝撃だったろうことは理解してやる。
しかし、それは突飛な考えに飛びついた君が悪いんだよ。教祖が馬鹿だと見抜けなかったこともなwww

410:日本@名無史さん
22/03/19 20:32:55.07 .net
>水城の最下層が非常に古いのも事実だ。
なら、粗朶の最上層部がAD660も認めるわけだ。水城はその上に立ってるんだよ。
まあ、残る人生を九州説に賭けざるをえまい。無駄だと思うが、やってきたんだから続けりゃいい。
べつに、日本人全員が幸福でなくちゃあならんということもないからな。

411:日本@名無史さん
22/03/19 20:51:03.68 .net
>何人とやり取りしているのか理解していないのではないか。
統失一人だろう? 複数人演技は負けの準備とは既に言っておいた。
君が何様か知らないが、人生を棒に振ったようだ。南無阿弥陀仏。w

412:日本@名無史さん
22/03/19 20:56:31.92 .net
前にも言ったな「俺は負けたことがない」とw
おれは誰にも負けない知能を持ち、全知全能なんだよwww

413:日本@名無史さん
22/03/19 21:07:51.54 .net
大宰府は内裏から南に伸びる朱雀大路を中心に整備された都市だったが、
さらにその周囲に東アジア最大級の羅城があったことになる。
これが白村江より前の7世紀以前に遡るものだとしたら、それを一地方行政機関とすることは無理があるのではないか。
日本で最初の条坊制の都市は藤原京とされるが、なぜか日本書紀などでは新益京と呼ばれる。
それ以前に倭京(または単に京)と呼ばれる都市の存在が日本書紀から窺えるのだが、その場所や実態については謎とされる。
これはいったいどうしたことなのか。
日本の首都がわからないと言っているのも同然なのだが、それは倭京が機内にあると思い込んでいるからではないのか。
後漢書では、そもそも倭とは九州北部を指す言葉なのだから。
日本書紀では645年の大化が日本で最初の年号とされているが、それに先立つ618年(まては620年)には倭京年号が存在していたという説がある。
それなら倭京とはどこにあったのか。
後の藤原京や平城京に先行する条坊制の都市であった大宰府こそ、筑紫を中心とした倭の王都、倭京だったのではないか。

414:日本@名無史さん
22/03/19 21:20:04.99 .net
それでは倭国の王都がなぜ藤原京に移ったのか。
なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
それは白村江における敗戦しかないではないか。
戦勝国であった唐は、大宰府を占領して筑紫都督府を置いた。
倭と同じ敗戦国である百済には熊津都督府を置いた。
(熊津は百済の古都)
筑紫の君サチヤマは唐の捕虜となり、倭国は滅亡したのだろう。
日本国は唐の傀儡政権であり、遣唐使をせっせと派遣して朝貢するようになった。
すべて辻褄が合う。

415:日本@名無史さん
22/03/19 21:24:46.80 .net
天智天皇の子志貴皇子は自身のことを
牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨
と読んでいる
天智天皇の系譜はササの婢なのかもね
ムササビはモモのこと
天武天皇も天智天皇もミミでありモモなんだろうね

416:日本@名無史さん
22/03/19 21:29:01.19 .net
おまえらの考えって日本を滅亡に導こうって誘導してるだけなんだよ
乞食?

417:日本@名無史さん
22/03/19 21:32:43.23 .net
多利思比孤は九州王朝の王
当時中国と交流していたのは九州王朝だから
そもそも聖徳太子は王ではないから

418:日本@名無史さん
22/03/19 21:43:14.21 .net
天武天皇はマジでアマタラシヒコ、田目皇子の子孫の可能性がある
豊前を中心にしたミミ、大タラシ、吉備のアマタラシの勢力
田目皇子→高向王、宝→天武天皇

419:日本@名無史さん
22/03/19 21:50:45.86 .net
扶余勇の大宰府の下敷きになってしまった都市はあるだろうか。
それが消されるまで、倭国の中心だったと立証すればいい。私はそんな昔を調べていないので否定も肯定もしない。
あったとしても、隋書にある通り無城郭だから、城郭や朝鮮山城のない大宰府だ。
しかし、タリシヒコがそこの大王だったとは思えない。なぜなら、
北九州には邪馬台国があっただろうが、その後、五王に見るように古墳は4~5世紀に低地化している事実がある。
低地化したのは低湿地開発のおかげで耕地面積が飛躍的に伸び経済的に低地族が優位になったからだろう。
低地の規模から言って経済的に畿内が倭国の中心になっただろう。北九州では狭すぎる。
そういう状況が起きて都の残骸が大宰府にはあったかもしれないけれど、
タリシヒコの時代は古墳低地化が起きて100年以上経つので、この事実からも北九州ではないと思う。
日本書紀にある倭京とか新益京とかは新たな都藤原京と比べての話とすれば難波だろうと思う、難波も条坊制だから。
これは思い付きだから、立証するには、大宰府や大阪上町台地を掘り返すことだろう。
まぁ、扶余勇の大宰府の前になにかあった?あれば、簡単には扶余勇は移れるだろうか?遠い話だわ。

420:日本@名無史さん
22/03/19 21:59:52.56 .net
>大宰府は内裏から南に伸びる朱雀大路を中心に整備された都市だったが、
さらにその周囲に東アジア最大級の羅城があったことになる。
これが白村江より前の7世紀以前に遡るものだとしたら、それを一地方行政機関とすることは無理があるのではないか。
隋書に無城郭と書かれているのだから、羅城も大野城もない。前提が崩れた。
都があった論証にはならない。やりなおしだ。
仮説を立証するために仮説を積み上げている統失w

421:日本@名無史さん
22/03/19 22:03:19.37 .net
>それでは倭国の王都がなぜ藤原京に移ったのか。
なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
それは白村江における敗戦しかないではないか。
戦勝国であった唐は、大宰府を占領して筑紫都督府を置いた。
倭と同じ敗戦国である百済には熊津都督府を置いた。
(熊津は百済の古都)
筑紫の君サチヤマは唐の捕虜となり、倭国は滅亡したのだろう。
日本国は唐の傀儡政権であり、遣唐使をせっせと派遣して朝貢するようになった。
すべて辻褄が合う。
なるほどね、辻褄がね。で、どんな事実を踏まえて?

422:日本@名無史さん
22/03/19 22:06:10.69 .net
統失は整理して1ケ月後にでも。この調子じゃかみ合わないからね。敗北宣言か?wwww

423:日本@名無史さん
22/03/19 22:13:34.56 .net
>>397
事実
唐は畿内ではなく筑紫に都督府を置いた
倭は国号を日本に変更した
筑紫の君が捕虜になった
遣唐使が派遣された

424:日本@名無史さん
22/03/19 22:49:05.67 .net
>唐は畿内ではなく筑紫に都督府を置いた
で、都督は誰だったの?
扶余勇を都督にして罪を逃れさせる禰軍の計らいだろうと説明したが・・・。
>倭は国号を日本に変更した
年次的に扶余勇が倭国号を変更したかったが百済ではまずいので日本に変更したと説明した。
>筑紫の君が捕虜になった
筑紫君は大海人に命じられた総大将だったかもしれないな。
>遣唐使が派遣された
扶余勇都督が半島に報告連絡相談に遣いを出したのを遣唐使と言っている。
お前が挙げた事実は扶余勇で解決している。九州説を必要としない。

425:日本@名無史さん
22/03/20 08:31:25.87 .net
扶余勇って人物しかおらんの?

426:日本@名無史さん
22/03/20 08:51:23.20 .net
さあ、知らんね。

427:日本@名無史さん
22/03/20 12:54:36.87 .net
百済語が日本語に残ってない時点でアウトーw

428:日本@名無史さん
22/03/20 12:59:20.03 .net
>>390
>なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
はあ?w
大宰府が王都だったってどこの資料なんですか?www
まじこいつ頭おかしいなwww

429:日本@名無史さん
22/03/20 13:10:25.46 .net
自説の否定は自殺行為→統失を深化w

430:日本@名無史さん
22/03/20 13:18:03.30 .net
>>405
>自説の否定
はあ?www
分裂症はあなただと思うけどwww
それとも、また誰かと勘違いしてるの?www
あなたを面白がって相


431:手してるの俺だけじゃないんだがwww いいかげん自覚しろよ、自分のおめでたさをwww マジバカすぎるwww



432:日本@名無史さん
22/03/20 13:27:37.10 .net
>>404
>大宰府が王都だったってどこの資料なんですか?www
じゃあ東アジア最大級の羅城を持つ大宰府をどう位置づけるつもり?
筑紫を中心とする倭国の王都というが一番わかりやすい説明なんだが。
畿内大和が政治の中心だというのは、大和に神武が即位したという記紀を間に受けた皇国史観に過ぎず、考古学的状況と矛盾するんだよ。
むしろ、倭国が消滅したと思われる7世紀以前の資料がほとんどないことを不思議に思えよ。
倭国は紀元前から中国と国交を交わし、金印まで受け取って国書をやりとりしていたのに、7世紀までの文書はどうなったんだよ。

433:日本@名無史さん
22/03/20 13:55:35.72 .net
>>407
突国から攻撃されやすい九州太宰府に王都を置くわけがない。
以上。

434:日本@名無史さん
22/03/20 14:45:40.51 .net
>じゃあ東アジア最大級の羅城を持つ大宰府をどう位置づけるつもり?
隋書に無城郭とあるから608以降のものだ。水城の成立は天智紀によるから663以降のものだ。羅城と水城、朝鮮山城は結ばれており同時期に計画された。663以降のものだ。
>筑紫を中心とする倭国の王都というが一番わかりやすい説明なんだが。
パズルはバカには難しい。だからバカは空想を持ち込む。www

435:日本@名無史さん
22/03/20 16:07:17.69 .net
>むしろ、倭国が消滅したと思われる7世紀以前の資料がほとんどないことを不思議に思えよ。
倭国は紀元前から中国と国交を交わし、金印まで受け取って国書をやりとりしていたのに、7世紀までの文書はどうなったんだよ。
5世紀には倭の五王は河内にいた。鉄テイという半島で作られた威信財は近畿(大量)と瀬戸内に出るが、お前の言うところの太宰府の倭国はその頃どうなっていたんだい?

436:日本@名無史さん
22/03/20 16:34:57.44 .net
>>303
解決!! 邪馬台国の場所は沖縄
スレリンク(history板:163番)-167

437:日本@名無史さん
22/03/20 17:21:38.09 .net
>>411
現実味のなさの極みだねw
距離が遠すぎだわw

438:日本@名無史さん
22/03/20 17:27:06.07 .net
>>412
自説に自信のないお前が自信をもって批判とはワロタwww

439:日本@名無史さん
22/03/20 18:24:15.74 .net
>>413
だからまた人違いしてるんだろw
おまえをからかってるやつは俺だけじゃないんだけどw
俺の邪馬台国説は神武東征前は北~中九州の連合王国、
東征後は畿内で確定してるのだが
魏の使者は松浦から入り吉野ケ里周辺の行政都市のイト国止まり
女王の都はさらに南の宮崎にあり、
ヒミコは名前の通り”日の巫女”としておわす人
具体的な行政にはタッチしてはいなかった
具体的な行政はイト国で行われていた
倭人伝をちゃんと素直に読めばそう書いてあるからw
南を東に読み替えるとか馬鹿な解釈をする畿内説は論外だわw

440:日本@名無史さん
22/03/20 19:45:43.11 .net
名指しされた統失が自分だと言ってるw

441:日本@名無史さん
22/03/20 19:55:49.25 .net
>>415
負け惜しみ言うなよw
面白いよ、朝鮮人w

442:日本@名無史さん
22/03/20 20:12:33.31 .net
倭人伝は司馬家が自分らの権威を高めるために書いた創作って学会では確定しただろ
いつまで戦後体制下で醸成された嘘を鵜呑みにしてるんだ

443:日本@名無史さん
22/03/20 20:14:18.43 .net
>>417
どこの何の学会や?w

444:日本@名無史さん
22/03/20 20:46:28.02 .net
一人芝居も聞き飽きた

445:日本@名無史さん
22/03/20 21:20:56.57 .net
見事に九州は散ったな。
九州説が陰ったのは「国際的・・・」が上梓されたからだろうなw

446:日本@名無史さん
22/03/20 21:21:56.21 .net
統失は九州説の残党かwww

447:日本@名無史さん
22/03/20 21:24:56.42 .net
>>419
おまえは一人だが、おれらは一人ではないのだがw
ID出ないから誰が誰だかわからないんだなw おまえw
やっぱバカだw

448:日本@名無史さん
22/03/20 21:28:08.67 .net
>>420-421
残党ではないよw
邪馬台国については新参者の九州別説だよ、>>414で書いたが。
俺はこれで決定だと思ってるけどねw
ちゃんと倭人伝読めよw

449:日本@名無史さん
22/03/20 21:52:16.32 .net
大宰府が7世まで九州王朝の都だったなw。すり替え専門の統失。

450:日本@名無史さん
22/03/20 22:15:03.47 .net
>おれらは一人ではないのだが
組んでるじゃないかww

451:日本@名無史さん
22/03/20 23:51:33.57 .net
東征説は九州説とは言えないだろ。
そんなキテレツな説と組んだ覚えはない。

452:日本@名無史さん
22/03/20 23:52:33.56 .net
倭の五王が河内に居たっていうのは、何が根拠なのか。
妄想?

453:日本@名無史さん
22/03/20 23:53:18.24 .net
大宰府羅城の建設が608年以降なのはわかった。

454:日本@名無史さん
22/03/20 23:54:25.26 .net
>>414
>女王の都はさらに南の宮崎にあり、
宮崎は投馬国だよ。
都万神社は日向国の旧国府。

455:日本@名無史さん
22/03/21 00:50:02.34 .net
倭の五王とはかぎらないが、鉄テイと古墳のおおきさからいって5世紀は畿内が倭国の中心。河内湖の排水の証拠がある。馬飼育の中心でもあった遺跡もある。北九州には記録はないとしても5世紀当時優位を示す遺物はあるのか?

456:日本@名無史さん
22/03/21 03:50:12.49 .net
>>424
まだ言ってるのか、キチガイ朝鮮人w
別人の言ったことを俺のせいにしようとする”偽旗作戦”w
いかにも卑怯な朝鮮人らしいレトリック思考w
おまえは敗北してんだよw
いい加減認めなよw 敗北者w

457:日本@名無史さん
22/03/21 03:57:12.99 .net
>>429
倭人伝を読むと
女王国の東側に海がありそれを渡ると倭人の別種が居ると書かれてある。
普通に考えて東側に海があるとすると宮崎がぴったりである。
海は豊後水道、渡ると四国、四国にも倭人の別種がいたということであろう。
この時点で女王国は大和や難波でないことがわかる。
東側には海ありませんもんね?ww
まあ、文章を素直に読む限りあてはまるのは九州であろう。

458:日本@名無史さん
22/03/21 06:20:30.95 .net
アメリカの西部がゴールドラッシュで沸いても、政治の中心は東海岸であり続けた。
畿内が繁栄しても、福岡が衰退したわけではないし、対外貿易における優位性は揺るがない。

459:日本@名無史さん
22/03/21 08:04:36.37 .net
鉄テイは半島で生産され畿内に輸入された。鉄ラッシュの半島から、威信財として権威あるもののところに運ばれた。権威は鉄を通じて国を治めた。残念ながら鉄テイは北九州を素通りしたようだ。

460:日本@名無史さん
22/03/21 12:19:20.78 .net
>畿内が繁栄しても、福岡が衰退したわけではないし、対外貿易における優位性は揺るがない。
鉄テイは威信財だった。鉄テイをほぼ占有して畿内は地方を支配した。
北九州の貿易の優位性とは何のことか?

461:日本@名無史さん
22/03/21 12:39:36.91 .net
>>303
スレリンク(history板:985番)
スレリンク(newsplus板:311番)
スレリンク(history板:166番),232,233
233 日本@名無史さん [sage] 2022/03/21(月) 12:25:11.91 ID:
>232
●聖徳太子
本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」とされているほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる。

462:日本@名無史さん
22/03/21 16:42:31.85 .net
>>435
筑紫の王族の末裔だろ?

463:日本@名無史さん
22/03/21 20:43:18.02 .net
米国が売りつける旅客機には仕掛けがしてあるのだろうねw
日本も気を付けないと、特に政府専用機にはww

464:日本@名無史さん
22/03/21 21:41:46.77 .net
スサノ


465:オが自分の体毛で木を植え用途を定めた話 アゴの毛→スギ→船 ムネの毛→ヒノキ→家 シリの毛→マキ→棺 眉マユの毛→クス→船 体の部位は木を植えた地名に関係するんじゃないか? 枯野伝説によれば、楠の大木から軽船(風土記では速鳥という名の船)を作ったとある 楠は古代の西日本では丸木舟の材料として使われ、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している 眉マユなんだが和泉に摩湯という地名があり以下の伝承が残っている 摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる 摩湯の丘陵の海岸近くに池上曽根遺跡がある 巨大神殿と巨大な井戸、鉄工房、巨大なヒスイの勾玉が出土した集落で弥生時代末期に営みを終焉している 有馬は摩耶マヤ山の麓。摩耶は空海が釈迦の母、摩耶夫人の像を作ったことに由来すると言われているがそれまで山に名前がなかったのかという疑問が残る 和泉の摩湯の伝承は実話を元にしているんじゃないだろうか? 聖徳太子の母は楠であったという伝承が叡福寺に残っている 厩戸ウマヤトはマヤの戸、マヤの港という意味かもしれない



466:日本@名無史さん
22/03/21 22:01:58.90 .net
天皇が亡命する時は米国機になるだらう。気をつけな。

467:日本@名無史さん
22/03/22 00:57:59.96 .net
ソ連人?

468:日本@名無史さん
22/03/22 01:38:00.45 .net
聖徳太子が10人の声を同時に聞き分けた伝説は、
10か国語理解できた意味だとか、
いろんな解釈があるけれど、
「耳」という観点に意味を持たせたのかもしれない。
摂(津)=攝=三島のように。
つまりそれは10耳、多耳という意味であり、
古代官名文字の「耳」を意識している。

469:日本@名無史さん
22/03/22 17:29:32.00 .net
これまでの経緯は、「聖徳太子=アマタリシヒコ」を九州視点から難癖をつけていたんだね。
逆にすべて撃破され、両立はしないので九州王朝説の立脚点が崩れたんじゃないか?。

470:日本@名無史さん
22/03/22 17:51:11.77 .net
なるほど。聖徳太子は大阪で、大阪は九州倭国ではないからミミだったのだな。

471:日本@名無史さん
22/03/22 17:54:30.67 .net
え?阿波におった人らが飛鳥に移ったんじゃないの?

472:日本@名無史さん
22/03/22 17:56:06.38 .net
アメタリシヒコは阿波君なり!って名乗っとるやん

473:日本@名無史さん
22/03/22 22:42:51.09 .net
豊の字も入っているから、聖徳太子の名はかなり九州を意識している。

474:日本@名無史さん
22/03/22 22:56:59.07 .net
九州豊国の支配者が阿毎だから一族ではあるのだろうな

475:日本@名無史さん
22/03/23 00:18:48.70 .net
茅渟王を殺して吉備姫王を奪い畿内に居られなくなり本拠地に戻ったんじゃないの?アマタラシヒコは。
倒した相手の女を奪うことは普通にあったらしいんじゃない?
アマタラシヒコは田目皇子ですな
聖徳太子と推古天皇は茅渟王を皇位に付けたかったんでしょ
南北朝ならぬ東西朝ですな

476:日本@名無史さん
22/03/23 08:38:06.66 .net
そもそも、筑紫の倭王タラシヒコが畿内でチマチマしたことをする必要がない。

477:日本@名無史さん
22/03/23 20:47:55.02 .net
このスレへの軍事侵攻を止めろ

478:日本@名無史さん
22/03/26 19:53:51.38 .net
オオキミ政権の王の和風諡号にスメラミコトを付与したのが過去の天皇諡号だとすると、
本来次のような和風諡号だった。
ミマキイリヒコイニエオオキミ
イクメイリヒコイサチオオキミ
オオタラシヒコオシロ�


479:純Pオオキミ タラシナカツヒコオオキミ オキナガタラシヒコオオキミ ホムタオオキミetc よってアマタリシヒコオオキミも個人を表し、一般名称ではないと言える。www



480:日本@名無史さん
22/03/26 20:50:35.45 .net
目、豊、旗、稲荷、アマタラシヒコはこの辺が関係していると思うよ
天武天皇も同じでしょう
二上山を調べればわかる
聖徳太子とは別人やね

481:日本@名無史さん
22/03/26 21:52:57.64 .net
調べてばいいだろうw

482:日本@名無史さん
22/03/26 22:27:11.78 .net
>>453
アリバイ成立せずw

483:日本@名無史さん
22/03/27 07:55:44.03 .net
>>452
なぜオオキミをわざわざ付けるのか理解できない。
タラシヒコがオオキミと同じ意味なら、二重表現になってしまう。
むしろ付けるならスメラミコトを付けるべきではないか。

484:日本@名無史さん
22/03/27 09:07:58.77 .net
>>456
書紀の和風諡号xyz天皇は帝紀にあったxyz大王から拝借したのではないかといっているのだが。
文章も読めないのか、まったくどうしようもない。

485:日本@名無史さん
22/03/27 10:22:36.46 .net
          _ - ─-- 、_
        ,,. ´´三三三三ミミヽ__
       /三三三ミミミミミミミミヽ
     ,'彡彡                ミ|  おう、スパイ教育を受けた人民をドンドン出してやるぞw
     l彡リ       習        ミミ}
.     l彡リ                 ミミ}
     |ヾll  ´ ⌒ゝ、  ノ⌒ `  ミリ
     {〈│   -‐o-    -o‐-  l'|         /::::::::ソ::::::::::゛'ヽ
     | |    ` ⌒ ノ   ⌒ ´  | |        /:::::::-、:::i´i|::|/:::::::::::ヽ
     し|  .....   r l   ヽ   .... |ノ       /::::::,,、ミ"ヽ` "゛ / ::::::ヽ
      |      ーゝ _ノ ' 、   | `      /::::::==  下痢糞  `-::::::::ヽ  シナポチの下痢糞ですw
      |    /、_ __ __ _,ヽ  l        |::::::::/ .,,,=≡, ,≡=、、 l:::::::l.
       l      ー-‐ '    /        li::::::::l゛ /・\,!./・\、,l:::::::!  偉大なる習近平閣下には是非とも国賓としてお越しいただければと
      ::::| `丶、      / lヽ       .|`:::|  :⌒ノ/.. i\:⌒  |:::::i   
     /  (i ″   ,ィ____.i i  i         (i ″   ,ィ____.i i   i /    勿論、どんどん中国の方々に我が国に来てもらいたいですw
    丨        l|| ヽ!    │       ヽ i   /  l  .i    i
    │  │    ヽ │    (         ヽ ノ ヽlエlエr´ヽ、/´ ゙\
    │  │     ヽ |   ,,.. |          |、ヽ ` ̄´  /     ヽ
    │  │    __{_亅 、/  ソ          │ │! ./’    ,- '、
     |   |    〈!-   ^ヽ /          │  小’    ノ   ヽ
    ¦  │    -斗―i./‐’      ,,...._   _⊥‐''´    _ノ'´    ゝ
     ヽ  \     !'、  │     --宀‐^」下l   _,....-‐'''        ヽ

486:日本@名無史さん
22/03/27 16:23:18.69 .net
>>457
そもそもオオキミ政権だったかどうかも不明。
オオトミ政権やオオムラジ政権だったかもしれない。

487:日本@名無史さん
22/03/27 16:56:13.95 .net
アホばかりじゃないか。
隋書に「姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌」。
阿輩雞彌(オオキミ)と号していたのだから、オオキミは称号。それでオオキミ政権。

488:日本@名無史さん
22/03/28 03:42:52.48 .net
オオキミと読まないと思うんだけど

489:日本@名無史さん
22/03/28 03:44:23.79 .net
筑紫君(つくしのきみ)
毛野君(けぬのきみ)
三輪君(みわのきみ)

490:日本@名無史さん
22/03/28 03:47:40.16 .net
言ってみれば後世の氏族長者
長者となったものが氏族代表としてやがて連
臣は臣、氏族代表となれてない家柄の者が臣

491:日本@名無史さん
22/03/28 03:49:43.99 .net
渡来人なら直から連となった東漢氏
東漢氏の長者のみに与えられることとなる

492:日本@名無史さん
22/03/28 07:50:31.23 .net
>オオキミと読まないと思うんだけど
阿輩雞彌はどう読めますか。

493:日本@名無史さん
22/03/28 20:26:31.63 .net
あはぎみ

494:日本@名無史さん
22/03/28 20:28:30.79 .net
四国、大阪平野、奈良、東海、山陽地方
に広がったの阿知直の一族
つまり漢人だと思う、その人

495:日本@名無史さん
22/03/28 20:31:53.67 .net
天皇家は後宮に女官数百人もおらんでよ
その風習があるのは漢人らの方だろ

496:日本@名無史さん
22/03/28 20:32:58.60 .net
百済の寺院が奈良に造られる前には一時、四国の方に作られたんだろ
つまりまず漢人地域に作られたんだよ

497:日本@名無史さん
22/03/28 20:37:17.43 .net
つまり漢人の王の方から中国の皇帝に使者が立ち連絡が行ったんだよ

498:日本@名無史さん
22/03/28 20:59:50.00 .net
漢人の王で中国あたりの皇帝の子孫だの名乗ってるならその人は別に天子を名乗っても不思議ではない
日本の天皇家で天子号おらんやろ

499:日本@名無史さん
22/03/28 22:46:01.80 .net
>>466
自説は相手できません。あしからず。

500:日本@名無史さん
22/03/28 23:03:46.09 .net
なんともね

501:日本@名無史さん
22/03/28 23:45:43.12 .net
日本人と中国人・朝鮮人の君主観が違うよね。
日本の天皇 = 現人神 神聖 有り難い存在
大陸の君主 = 覇者 権力者 恐れるべき存在
代々天皇で大陸君主のイメージに当てはまるったら、武烈天皇くらいじゃないのか?
やった女を殺しちゃう人だからw
武烈はちょっと異質だね。

502:日本@名無史さん
22/03/29 00:02:15.37 .net
日本の支配層は最初は新羅系だったけど、百済が攻撃されるにつれて複数回に百済王家が渡来してる。天皇家が受け入れつつ、百済に乗っ取られたら。

503:日本@名無史さん
22/03/29 00:17:59.52 .net
>>475
根拠を示しながら説明せよ

504:日本@名無史さん
22/03/29 01:35:57.70 .net
新羅王家の子孫いるが確かハプロO1bじゃなかったか?
日本の天皇家とは別だよ

505:日本@名無史さん
22/03/29 08:59:06.51 .net
>ハプロO1bじゃなかったか?
遺伝子が根拠なら別の所でやってくれ。
ここでは歴史学的根拠を求めている。軍事侵攻するな。

506:日本@名無史さん
22/03/29 09:02:59.01 .net
そちらの唱えてるのも自説やの

507:日本@名無史さん
22/03/29 09:04:39.67 .net
お前の説をここで主張するのはスレチ。

508:日本@名無史さん
22/03/29 09:13:37.13 .net
だからそちらも単なる自説やの

509:日本@名無史さん
22/03/29 09:50:22.75 .net
分からん奴だな、俺の歴史学的説を俺のスレで説明している。
ハプロなんちゃらはお前のスレでやってくれや。

510:日本@名無史さん
22/03/29 14:07:08.08 .net
>>468
平安文学でも後宮はハーレムそのもの。

511:日本@名無史さん
22/03/29 14:32:50.73 .net
後宮ってね、男子禁制なんすべて
御台所と呼ばれる女主人を中心としてそこに出入りする官は女性らのみ

512:日本@名無史さん
22/03/29 14:34:37.52 .net
御台所が一応、妻か
その世話をする女性らを女中って呼ぶの
愛人みたいのが側女と呼ばれて部屋を与えられるからお部屋様とか呼ばれたりな

513:日本@名無史さん
22/03/29 14:35:48.07 .net
御台所、側女くらいだから基本は多い人で5、6人

514:日本@名無史さん
22/03/29 14:36:34.73 .net
女中って呼ばれるのはその人らの世話をするために雇った女官らのこと

515:日本@名無史さん
22/03/29 15:04:23.26 .net
>>484
中国の後宮は


516:男子禁制で肯定以外の男は宦官にならないと出入りできなかったが 日本の天皇の後宮は男子禁制ではなかった (※江戸城大奥は男子禁制(男子は7歳以下の幼児と坊主、医師のみ出入り可) 江戸城が皇居になった明治時代~戦前まで 天皇の後宮も江戸城大奥にならって男子禁制だった時期がある) 「枕草子」「紫式部日記」「源氏物語」などを読めば 後宮に住む天皇のお妃の部屋に男親や男兄弟が日常的に出入りして お妃主催の歌会やら絵合わせやらが頻繁に行われて男性の貴族たちが参加 貴公子たちがお妃付きの女房たちと恋の駆け引きしてる



517:日本@名無史さん
22/03/29 15:25:35.53 .net
うん?節操ねえな

518:日本@名無史さん
22/03/29 17:08:37.13 .net
おまえら主題を忘れて後宮の話か。朝鮮に負けるぞい。

519:日本@名無史さん
22/03/29 21:07:39.75 .net
とあうわけで、日本でも後宮には数百人の女官(女中、女御、更衣)がいたわけだよ。
源氏物語の書き出しでも思い出してくれ。

520:日本@名無史さん
22/03/29 23:35:59.57 .net
日本は幼稚です。外国にみられている意識がないのですなw

521:日本@名無史さん
22/03/29 23:46:35.46 .net
とうわ言を語っており

522:日本@名無史さん
22/03/30 08:08:41.00 .net
後宮の人数の検証が終わったようで、
アマ多利思比孤が聖德太子であることにケチは付けられないということですね。

523:日本@名無史さん
22/03/30 11:03:43.69 .net
名前が違います

524:日本@名無史さん
22/03/30 12:14:10.33 .net
名前が違うので理論を展開して導いているのです。そんなことでは朝鮮に笑われますw

525:日本@名無史さん
22/03/30 12:37:38.09 .net
斑鳩宮にはそんな大きな後宮はないんだよ。

526:日本@名無史さん
22/03/30 13:08:00.95 .net
「新唐書」は阿毎多利思比孤が用明天皇だといってるのだから
記紀でまだ若かったのに在位2年で急死としている用明天皇の没年が創作で
実際はもっと生きてたんだろ
聖徳太子の功績にしたくて用明天皇が死んで崇峻天皇も死んで
女帝の推古天皇の御代の話にしたら女帝に後宮?ということになってしまった

527:日本@名無史さん
22/03/30 13:32:53.17 .net
>>497
聖徳太子=厩戸だと思っているのか?
アマタリシヒコは大王だから難波(後の孝徳の宮もここだな)

528:日本@名無史さん
22/03/30 13:38:58.31 .net
>>498
>「新唐書」は阿毎多利思比孤が用明天皇だといってるのだから
東大寺僧がそう申告した。唐が確認したわけではない。
>記紀でまだ若かったのに在位2年で急死としている用明天皇の没年が創作で
実際はもっと生きてたんだろ
都合で年齢を変えるw
>聖徳太子の功績にしたくて用明天皇が死んで崇峻天皇も死んで
女帝の推古天皇の御代の話にしたら女帝に後宮?ということになってしまった
アマタリシヒコは結局誰なんだい?

529:日本@名無史さん
22/03/30 16:01:26.87 .net
記紀にない天皇、記紀にない王朝があったんだよ。

530:日本@名無史さん
22/03/30 16:10:53.20 .net
>>501
お前ら天皇は天武から名乗ったてのを知らないんかい?
アマ多利思比孤はオオキミと号すと隋書に出ているだろう?。記紀のまえはオオキミだったんだよ。
記紀にない王朝は当然あった。アマ多利思比孤オオキミも隠された王朝。

531:日本@名無史さん
22/03/30 17:26:51.92 .net
>>500
>東大寺僧がそう申告した。唐が確認したわけではない。
日本の東大寺僧が答えたならますます信ぴょう性が高い
>都合で年齢を変えるw
いやいや、お前が自分の都合で勝手に変えてるだろ
日本の大王が厩戸王なわけがない
>アマタリシヒコは結局誰なんだい?
用明天皇
どれだけ文盲?

532:日本@名無史さん
22/03/30 19:17:01.84 .net
阿毎(あめ)って中国の方の文献に書かれとるわけでしょ
おそらく発音なんだろうから日本で書いた天(あめ)の発音記号じゃないの?

533:日本@名無史さん
22/03/30 19:19:18.75 .net
天を称号としてるのは神々なんだけど
天〇〇命とかな
神官かなんかになっておりその名前を名乗った可能性は?
天皇家はすでに人代だから天の呼称は消えとるんだよ

534:日本@名無史さん
22/03/30 19:20:18.57 .net
西暦600年ころにはすでにその習慣があったのか!ってのがビックリだが

535:日本@名無史さん
22/03/30 19:55:27.06 .net
>>503
アマタリシヒコ�


536:ェ用明なら用明は何時まで生きたんだい?そのあとのスメラミコトの在位もお願いします。



537:日本@名無史さん
22/03/30 20:35:30.00 .net
>>505
>天皇家はすでに人代だから天の呼称は消えとるんだよ
逆だよ。
その時代でも実はまだ天の何某というように、天を姓として使っていたことが、中国側の史料でわかるんだ。
日本側の史料はずっと後の記紀を待たなくてはいけなくて、7世紀より前の文字記録が国内にはなぜかほとんどないんだ。

538:日本@名無史さん
22/03/30 22:24:37.92 .net
>>508
でも、その天を姓としたタリシヒコ(=上宮法皇)は滅ぼされ、天皇家の基となるのは別の百済人だが。

539:日本@名無史さん
22/03/30 23:19:39.84 .net
海の王子と眞子の、
305号にいる正体は?

540:日本@名無史さん
22/04/01 02:27:48.45 .net
百済人?

541:日本@名無史さん
22/04/01 10:05:23.93 .net
百済扶余家の王族が倭国王になっています。
後に彼らを天皇と認定してxxxxxのスメラミコトと諡号しています。
たとえば、孝徳は百済ギョウキ王です(皇極紀)。
天武は孝徳の皇子と見られます。
天智は扶余勇であることが中国史書との照合の結果得られます。
アマタリシヒコは昆支王の子孫ですが残念ながらスメラミコトに認定されませんでした。

542:日本@名無史さん
22/04/01 11:31:43.54 .net
ん???

543:日本@名無史さん
22/04/01 11:31:58.97 .net
なら天皇認定取り消しやの

544:日本@名無史さん
22/04/01 12:36:34.11 .net
天皇を認定するのは百済人。倭人が口出しする権利はないw


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