聖徳太子=阿毎多利思比孤 part2at HISTORY
聖徳太子=阿毎多利思比孤 part2 - 暇つぶし2ch100:日本@名無史さん
22/03/04 11:19:46.02 .net
天丸の血筋は百済王族によって守る体制w

101:日本@名無史さん
22/03/04 12:28:37.80 .net
>>94
藤原は鎌足が百済王族を表す墓だから、その子孫は百済王家。天丸は近親結婚の近親結婚の.........近親結婚w

102:日本@名無史さん
22/03/04 13:13:05.04 .net
デタラメをいかにも定説のようにw
中臣が百済から来たと断定している人はいないw
なんの証拠もないしなw

103:日本@名無史さん
22/03/04 14:03:18.44 .net
鎌足の墓は倭国に来た百済王族のものと同等w
この事実は覆らない
藤原は百済王族であることがばれた。近親結婚で血を守る考えが百済王族にあった。健全な精神ではないw

104:日本@名無史さん
22/03/04 14:05:01.12 .net
擁護派は今後どうするんだい?
擁護する値打ちがあるんかい?wwwww

105:日本@名無史さん
22/03/04 14:26:24.11 .net
>デタラメをいかにも定説のようにw
中臣が百済から来たと断定している人はいないw
なんの証拠もないしなw
主人の素性が暴かれていても経っても居られなくなった統失君が再登場ww
鎌足の織冠は扶余豊が百済王になるときに授けられた織冠とおなじ。すなわち鎌足は百済王と同格。
鎌足のキョウチョ棺はアマタリシヒコの棺と同じ。これも百済から来た倭国王クラス。
鎌足は白村江で来たか、先に来ていたかは不明なれど、百済王族と見てよい。
新たな展開。昔、NHKでは「東国のどこかから」のイメージ戦略だったなwwww

106:日本@名無史さん
22/03/04 15:13:35.84 .net
>>99
>主人の素性が暴かれて…
誰が主人やねん?www
おまえが一人で過疎スレでデタラメ書いてそうやって発狂してるから
面白くてチョしてるだけなのだがwww
♪遊ばれてるのもわからないなんて可愛そうだわ…♪ w

107:日本@名無史さん
22/03/04 15:57:38.18 .net
>>100
織冠と夾紵棺を説明してごらん、統失に可能か?ww

108:日本@名無史さん
22/03/04 16:07:56.89 .net
聖徳太子の母は楠だからね
枯野伝説が聖徳太子の立ち位置に影響しているんじゃないの
大足姫と竹内宿禰の熊襲征伐、その時畿内にも楠の大木、政権みたいなものがあったかもね

109:日本@名無史さん
22/03/04 16:26:37.48 .net
あらら、腐っちゃってるねw
証明できそうになさそう…
DNAも消滅しちゃってるね…

110:日本@名無史さん
22/03/04 17:23:35.36 .net
織冠と夾紵棺を説明してごらん、統失に可能か?ww
鎌足の阿武山古墳は1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。本来な�


111:逕Jの所だがX線写真など撮影され、そのあと埋め戻された。極めて貴重な暴露発見w。京都帝国大学だからね。 鎌足はギョウキ王が引き連れていた40余名の高名の人々の一人とおもわれる。 ギョウキ王(=孝徳天皇)と言えば大化の改新。大化の改新の筋書きを作ったのが鎌子だから、どんぴしゃり。 本来なら、孝徳・天武系だが、扶余勇が来て勇をサポート。その後は藤原を名乗り、どの系列の天皇になろうが、お側に仕えるやくを引き受けた。 これも、大化の改新の時に表に出ない役柄とぴったり一致。



112:日本@名無史さん
22/03/04 18:09:43.89 .net
104の分析は統失の頭にもこびりついた。反論すればするほどこびりつくww
俺様にかかれば日本の古代史はどんどん明らかになってゆく。
百済王家が鎌足を倭国に派遣した目的は「扶余家の血筋を絶やすな」だろう。
百済王家の血筋を絶やさぬ方法まで見えてきたね。近親結婚でねw

113:日本@名無史さん
22/03/04 19:08:53.82 .net
>>104-105
自分が統失と言われたのが悔しいからって、
他人に統失転嫁するのやめてもらえます? 統失プヨヨンさんw

>織冠と夾紵棺を説明してごらん
統失に命令される筋合いはないし、
説明するまでもないw
あらあら
所詮キミが証明できないだけですよww
1939年に埋め戻されちゃってるから、くさちゃってるね、ミイラw
軍部に保存の思想も無かったろうし。
DNAでの証明は無理っしょw
で、所詮は王族ではないわけですよ、キョムパル(プヨヨン発音に合わせて)様はw

114:日本@名無史さん
22/03/04 19:12:51.37 .net
>>106訂正
1939年 → 1934年

115:日本@名無史さん
22/03/04 19:52:06.34 .net
鎌足が王であるかのような織冠と夾紵棺であった理由を説明しよう。
藤原家のその後をみてみると、三条実美は自分を「北家の出」と言っている。
ずうっと、藤原家は続いていた。おそらく、天皇を支えていた。
陽の王(表向きの王)と陰の王(王を輩出する母体家系の主人=藤原当主)と考えると、皇室の内では天皇一人偉いわけではない。
陰と陽があって初めて天皇が生まれる。
こう考えると、陽の王も陰の王も死ねば、同格だということなのだろう。
それで、鎌足の棺は王と同格の装飾が施されていた。
藤原家は平城京(新羅系)においても存続したし、
たとえ、血統が途中で乱れても、藤原家から生まれたものが天皇になれば、百済王家は続いているのである。まあ、厚みですかね。

116:日本@名無史さん
22/03/04 19:54:53.19 .net
108は、さすが、ノーベル賞以上の知能ですなw すっぽんの統失は泥の中でウヨウヨwww

117:日本@名無史さん
22/03/04 20:15:51.54 .net
どうです?これで天皇家の血筋の正統性が補強されたでしょう?
自称中道左派の極右さん、あんたがたは力づくで血筋を説明しようとしてませんか?
あんたがたの言っていることは、天武天皇という人一人の考えですよ。
実体は、わたしの推測通り、百済王家です。それの何がいけないのですか?受け入れられませんか?

118:日本@名無史さん
22/03/04 20:26:20.84 .net
アホとしか

119:日本@名無史さん
22/03/04 20:30:00.33 .net
>>108
平城京を勝手に新羅系にしてるけどさあw

120:日本@名無史さん
22/03/04 20:32:45.44 .net
>>110
>これで天皇家の血筋の正統性が補強されたでしょう?
何の説明にもなってないけどwww
やっぱあなたは真正統失だねwww
それで人のこと統失言えますね?w

121:日本@名無史さん
22/03/04 20:47:19.72 .net
>>112
平城京は新羅系だけど何か異論?
>>113
中身に触れないのはさすが用心深いね、負けるから?ww
「ノーベル賞以上の知能」にも触れなかったね、恐れてるのwwww
お前のレスは中身が


122:ない。喚いてるだけ。これは以前にも言ったはずだがwww



123:日本@名無史さん
22/03/04 21:48:34.87 .net
だからアホとしかな

124:日本@名無史さん
22/03/04 22:45:02.31 .net
能書きはいいんだよ統失君!
鎌足の織冠と夾紵棺の説明はどうなった?
誰かの説明を探してるのかい?それでもいいよ、質問して血祭りにするからww

125:日本@名無史さん
22/03/05 00:19:47.77 .net
>>114
>ノーベル賞以上の知能
そんなことオレは一言も言ってませんが、誰かと勘違いしてませんんか?
真正統失さん?w
もうおまえさあ、
ID出ないんだから、文体で人判断しろってさっきもレスしたんだけど、バカw
おまえさあ、自分が統失だって誰にでもわかるんだから、
あんまり他人のこと統失呼ばわりしない方が良いよ、バカw
わかった?バカw
おバカプヨヨヨヨーンwww

126:日本@名無史さん
22/03/05 01:49:00.14 .net
藤原鎌足は扶余豊璋でよろしいのか?ギョウザ王の別名もあるわけか。

127:日本@名無史さん
22/03/05 09:06:26.08 .net
>>118
扶余豊璋は半島に戻り、白村江の戦で高句麗に逃げ唐に捕縛され流刑。
鎌足は倭国に留まっていますから、鎌足≠豊璋。
ギョウキ王は武王の王子で孝徳天皇です。654年に死亡。鎌足は669年死亡。
鎌足≠ギョウキ王。

128:日本@名無史さん
22/03/05 09:56:13.62 .net
ギョウザもプヨヨンも日本の記録に残っていない
なのに適当に日本の貴人に適当に当てはめてホルホル満足する
現代のプヨヨヨヨーンwww

129:日本@名無史さん
22/03/05 10:00:27.02 .net
>>114
平城京は新羅系って、
天武は、おまえによれば、天智の親族なんだろ。
なのになんで新羅なんだよ?
言ってることがおかしくない? おまえの珍説に当て嵌めてるにしても?
矛盾プヨヨヨヨーンwww

130:日本@名無史さん
22/03/05 10:09:04.10 .net
アマタラシヒコは天皇の美称だろ
治天下天皇
あめのしたしろしめすすめらみこと

131:日本@名無史さん
22/03/05 10:20:05.91 .net
>>122
だね
固有名詞ではない可能性大

132:日本@名無史さん
22/03/05 12:16:02.90 .net
>>120
ギョウキは日本書紀に出ている
扶余勇は旧唐書にでている。日本書紀は彼について無視はできなかった。

133:日本@名無史さん
22/03/05 12:19:00.47 .net
>>121
天武は扶余勇(=天智)の従兄。
天武時代の遣新羅使。
百済がない状態での天平の甍は新羅仏教。

134:日本@名無史さん
22/03/05 12:21:38.99 .net
>>122
>>123
美称なら推古天皇はアマタリシヒメだろうwwww
後宮に女は同性愛か?wwwww

135:日本@名無史さん
22/03/05 13:35:25.11 .net
>>123
皇統譜を見ろよ。
和風諡号でタリシヒコが何人もいる。
継承される名であると同時に、固有名詞でもある。

136:日本@名無史さん
22/03/05 13:36:22.37 .net
ちなみに聖徳太子も推古天皇も、タリシヒコの諡号は贈られていない。

137:日本@名無史さん
22/03/05 13:44:03.08 .net
>>120の治天下天皇(あめのしたしろしめすすめらみこと)について
「治天下」は大王政権の時につかわれた。
天皇政権下の上宮法王帝説では法隆寺金堂薬師如来像光背銘の「治天下」を「御宇」と書き換えてコピーしている。
「治天下天皇」なる言い方はないのではないか?如何?

138:日本@名無史さん
22/03/05 13:56:33.61 .net
アマタリシヒコは遣隋使(607)を通じて「海の西の菩薩天子が仏法を重んじ興すと聞き、よって朝拜し兼ねて僧侶数十名をつかわし仏法を学ばせに来た」といった。隋の文帝は仏教治国策をとり、煬帝は受戒していた。アマタリシヒコ大王は百済仏教をすすめ、さらに隋に仏法を求めた。608年に来訪した裴清にアマタリシヒコ大王は言った「我は聞く、海の西に大隋が有り,禮義の國ゆえ,遣いをやって朝貢した。・・・請い願わくは大國の惟新の化を聞くことを」。裴世清は


139:「皇帝の徳と儀が四海に流れ世界を慕わせる。故に使をやらせ、これに諭を宣す」といった。裴世清は使いをやって「朝命既達,請即戒塗」と伝えた。「戒塗」は戒をまもり香を塗り身を清める意味である。「於是設宴享以遣清」は、裴世清にたいして宴享を設けたのであるから、アマタリシヒコ大王が「戒塗」を受け入れた。大王が仏門に入れば法皇となる。アマタリシヒコ大王が戒塗して上宮法皇と呼ばれた。法皇となれる人物はアマタリシヒコ大王以外にない。上宮法皇=アマタリシヒコ大王と結論される。



140:日本@名無史さん
22/03/05 14:04:57.06 .net
そうだね。
でも上宮法王と聖徳太子が別人なんだよ。

141:日本@名無史さん
22/03/05 14:32:41.09 .net
>>126
単純バカwww
統失でバカってどんな気分?w

142:日本@名無史さん
22/03/05 14:36:03.34 .net
>>127
天 垂らし日子 と解釈すれば尊称。
おまえは日本人じゃないから、言葉のニュアンスが理解できないんだねw
わかった?外国人?w

143:日本@名無史さん
22/03/05 14:59:01.92 .net
尊称だとして書紀の誰?。摂政が最高位を語り、ハイセイに王のように会うのはおかしいだろう?後宮をもつのもなw

144:日本@名無史さん
22/03/05 15:07:00.76 .net
内裏と呼ばれる後宮は平安京にもずっとあったけど。

145:日本@名無史さん
22/03/05 16:02:38.20 .net
>>133
勝手な解釈で天皇の諡号を曲解するなよ。
諡号って知っているか?
皇統譜はちゃんと見直したか?

146:日本@名無史さん
22/03/05 16:06:16.08 .net
>>134
時期的には聖徳太子に当たる人だろ。
聖徳太子と推古帝の関係とか、
実際はどうだったかがわからない限りあてはめられないだろうけど。
後宮はあっても不思議なかろう。
規模は書かれてあるほど大きくなかったろうが。

147:日本@名無史さん
22/03/05 16:11:54.71 .net
>>136
卑弥呼(日の巫女)と同じように中国の記録にのっけられたと考えれば良いだろう。
それこそ、奴らから見れば当時の倭は蛮族だったのだろうし。
尊称で ”我が国の天垂らし日子さま” とでも紹介したのかもしれないし。
当時の倭人は漢語を知らなかったろうし。

148:日本@名無史さん
22/03/05 16:30:24.08 .net
>>137
時期的には女帝推古天皇の時代なのに、明らかに別の(男性の)天皇と思われる名が記録されているから問題なんだよ。

149:日本@名無史さん
22/03/05 16:35:58.70 .net
ちなみに推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊とヒメになっている。
尊称として天垂らしヒコと紹介するのは男性天皇に限る。

150:日本@名無史さん
22/03/05 16:39:48.30 .net
天皇のための諡号を、存命中の皇太子が外国公使に向かって名乗ったら、謀反の可能性を問われかねない。

151:日本@名無史さん
22/03/05 16:44:45.01 .net
天から日が垂れるんか?
そこがおかしいな話なんじゃないか?
日とはなんぞや?天とはなんぞや?息長とはなんぞや?根子とはなんぞや?

152:日本@名無史さん
22/03/05 16:51:53.97 .net
ちなみに女性が権力を掌握した場合には、タラシ姫になる。
息長タラシ姫、すなわち神功皇后がその例になる。
タラシ彦なら、間違いなく男性の天皇を意味する。

153:日本@名無史さん
22/03/05 17:03:56.83 .net
天足彦の称号やろ
そのまんまやんけ

154:日本@名無史さん
22/03/05 17:04:01.34 .net
ちなみに神功皇后は、明治時代までは第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていた。
大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。
諡号である息長タラシ姫から推察するに、当時は大王の扱いだったと思われる。
推古天皇のような女性天皇がタラシ彦と呼ばれるこたはない。

155:日本@名無史さん
22/03/05 17:04:40.54 .net
第一回遣隋使の前の歴史を詳しく見直さないといけないよ
6世紀後半の巨大な河内大塚古墳は誰の墓なのか?
6世紀後半は皇極


156:天皇と孝徳天皇が生まれた時代 この2人の誕生に焦った人物がいたんじゃないの? この2人の守り神は古を押した推古天皇と聖徳太子でしょう 楠の母を持つ聖徳太子 仁徳天皇の時代に楠の大木と雁が卵を産んだ瑞祥のエピソードがあるだろう 楠から作られたのは軽船、孝徳天皇の諱は軽 またその芽が芽生えたのかもな 蘇る仁徳天皇の芽が生まれたのか 皇極天皇と孝徳天皇の父の茅渟王の事績は謎だな 殺されたのか?孝徳天皇の母は吉備姫王とされているが、もしかしたら聖徳太子と縁故のある楠の娘か? アマのようであってアマではない、アマタラシヒコ 豊日の子聖徳太子 日が照っているのに雨が降る 花札のアメの図柄は柳に小野道風だが元々は柳に斧定九郎だったらしい 斧定九郎は歌舞伎のキャラクターで、軽の父を殺して大金を奪ったが猪に間違われて殺された人物 諱が軽なのは孝徳天皇でその父は茅渟王 第一回遣隋使の時代は茅渟王が生きた時代と重なる 猪に準えられた逸話が残るのは蘇我馬子で、馬子の母は葛城氏の娘と言われている 葛城にかかる枕詞は春【柳】 葛城天狗の伝承も残っていて葛城は天狗と関係が深い地である 天狗はアマツキツネ、元々は流星を指した言葉 蘇我馬子の墓と言われている石舞台に、月夜に石舞台の上で狐が女に化けて舞を踊ったという伝承が残っている アマタラシヒコは蘇我馬子かもねえ



157:日本@名無史さん
22/03/05 17:04:46.30 .net
足(たらし)は垂らしとも表される

158:日本@名無史さん
22/03/05 17:18:44.18 .net
皇太子である聖徳太子がタリシヒコを名乗ることもあり得ない。
では隋に国書を送ったタリシヒコとはどのような天皇だったのか。
記紀に名前がない天皇がいたはず。
今の皇統譜に息長タラシ姫の名がないように。
上宮法王のことだとする説もある。
それはそれでいい。
しかし釈迦三尊像の後背銘には上宮法王の没年が法興三十二(622)年二月二十二日とある。
ところが『日本書紀』には聖徳太子の没年は、推古二十九(621)年二月五日なのである。
上宮法王と聖徳太子は別人である。
法興年号から考えると、その在位は少なくとも32年に及んだだろう。
推古天皇の時代に重なるように、上宮法王タリシヒコが天皇として君臨していた。

159:日本@名無史さん
22/03/05 17:20:13.70 .net
隋書には、タリシヒコの倭国には阿蘇山という山があり、時おり火を吹くとある。
その他のタラシ彦の名を持つ景行天皇や仲哀天皇、タラシ姫の名を持つ神功皇后など、なぜか九州にゆかりのある天皇が多い。

160:日本@名無史さん
22/03/05 17:22:26.25 .net
孝徳天皇の子有間皇子は紀伊に逃れた後殺された
紀橡姫の謎、紀橡姫の子志貴皇子
ひょっとしたら有間皇子の子の可能性もあるねえ
紀氏や安倍氏が何か知っているかもしれん

161:日本@名無史さん
22/03/05 17:25:25.24 .net
焦ってあからさまに話をはぐらかすキナイコシ

162:日本@名無史さん
22/03/05 17:41:01.80 .net
>>150
訂正、紀橡姫と志貴皇子の子とされる光仁天皇は、有間皇子の子孫

163:日本@名無史さん
22/03/05 17:47:45.58 .net
148
いやそれを断定できるだけの証拠なんぞ上がってないって話だが
蘇我が自称しただけかもしれんからな

164:日本@名無史さん
22/03/05 17:52:04.12 .net
>>139
女帝だったけど、男子の振りをしたのか、摂政が実は支配者だったか。
色々想像できる。
そもそもなんで甥っ子が摂政になるのやら?
いろいろあの時期の皇族の関係には?がつく。

165:日本@名無史さん
22/03/05 17:53:55.20 .net
>>150
”天と赤兄のみぞ知る 我もっぱら知らず!”

166:日本@名無史さん
22/03/05 17:57:47.51 .net
>>142
天垂らし → 天から遣わされた
日子 → 太陽の


167:子(そのまま) 日本の神のは日の神、要は太陽信仰だからな。 鏡も太陽の象徴だろ。



168:日本@名無史さん
22/03/05 18:15:54.71 .net
>>135
平安京の内裏にも後宮はあったが摂政のものではない。

169:日本@名無史さん
22/03/05 18:22:12.78 .net
>>148
>しかし釈迦三尊像の後背銘には上宮法王の没年が法興三十二(622)年二月二十二日とある。
ところが『日本書紀』には聖徳太子の没年は、推古二十九(621)年二月五日なのである。
上宮法王と聖徳太子は別人である。
法興年号から考えると、その在位は少なくとも32年に及んだだろう。
推古天皇の時代に重なるように、上宮法王タリシヒコが天皇として君臨していた。
聖徳太子が実在すれば上宮法皇とは別人。
推古が実在していれば上宮法王タリシヒコと重なっていた。
この時代天皇称号はない。アマタリシヒコ(=上宮法皇)は大王(オオキミ)である。

170:日本@名無史さん
22/03/05 19:47:15.49 .net
天智天皇は父の母が伊勢、母の母が吉備、大友皇子の母が伊賀
色々興味深い
邪馬台国にしか見えん

171:日本@名無史さん
22/03/05 19:47:54.82 .net
>>154
お前は何も断定出来ない統失w

172:日本@名無史さん
22/03/05 19:49:36.90 .net
>>159
またはぐらかし作戦の統失。断定せよw

173:日本@名無史さん
22/03/05 21:10:42.99 .net
その名前の女性人物がその国の王の娘だよ

174:日本@名無史さん
22/03/05 21:11:20.36 .net
伊勢王の娘だから伊勢姫、吉備姫なら吉備王の娘

175:日本@名無史さん
22/03/05 21:23:30.93 .net
だからはっきり言えよ、統失。
お前は負けが怖いからはっきり言えないんだろう?

176:日本@名無史さん
22/03/05 21:44:16.89 .net
>>164
なんか、追い詰められてるように見えるよ、プヨヨヨヨーンwww

177:日本@名無史さん
22/03/05 21:50:36.44 .net
何か断定を!www

178:日本@名無史さん
22/03/05 21:55:03.43 .net
>>146
これも自称中道左派w
かもの連続で統失w

179:日本@名無史さん
22/03/05 21:56:06.75 .net
聖徳太子って、Wikipediaで読むと、妃が4人、子女が14人もいたんだね。
ちょっとしたハーレム(後宮)だな。

180:日本@名無史さん
22/03/05 21:56:29.73 .net
>>149
いま、場所のはなしをすると、焦点がぼける。

181:日本@名無史さん
22/03/05 23:04:46.78 .net
天智天皇から奈良時代半ばまで宝、皇極天皇の血の力が強かったんだよな
この時代は正に女の戦いの時代
女たちが宝を追い詰めていく展開だったようだな
光明皇后の働きと権威も大きかったようだ
勝宝感神聖武皇帝 宝に勝ち神に心を動かした聖武皇帝
光明皇后の娘で安倍氏に養育された称徳、孝謙天皇
徳を称え孝をうやまう天皇
孝徳天皇の妻は安倍氏の娘
偶然か

182:日本@名無史さん
22/03/05 23:45:33.14 .net
「ようだな」は断定でないぞ、統失野郎!ww
「よな」は同意を求めているぞ、統失野郎!ww
「体言止め」はエッセイや小説に用いられ、ビジネスですら相性が悪い(相手に判断をゆだねているから)。
統失は断定できないんだよな、いくら頑張っても、知らず知らずに断定に見える体言止めを使ってしまうwwwwwwwwwww
心理分析は実に愉快だ。

183:日本@名無史さん
22/03/05 23:46:55.08 .net
統失には敗北する恐怖が根付いてしまったwwwwwww

184:日本@名無史さん
22/03/06 00:11:58.01 .net
>>172
こういうことなんだろう
論理に自信がない→断定すると反論されるのが怖い→反論されても自責でないようにしたい→大勢の意見や権威にすがる→自信を持っているやつが疎ましい→ケチをつけるだけに終わるwwww

185:日本@名無史さん
22/03/06 06:06:29.51 .net
168
アメタリシヒコの後宮にいたとされてるのは数百人だぞ

186:日本@名無史さん
22/03/06 10:36:43.30 .net
少なくとも、斑鳩にそんな大きな宮はあった痕跡がない。
タリシヒコと聖徳太子は別人。
平安京の内裏だとそれくらい女性がいたらしい。

187:日本@名無史さん
22/03/06 12:16:21.63 .net
>>174
嘘だろ。
日本でそんな大きな後宮が作れないだろ。
中国に報告するのに大げさに言ったんだろう。
中国人は大げさが好きだからw

188:日本@名無史さん
22/03/06 12:48:37.16 .net
阿毎多利思北孤にあたるのは聖徳太子に当たる人だろ。
場合によっちゃ推古帝も聖徳太子の妻だったとかw

189:日本@名無史さん
22/03/06 13:17:10.39 .net
昔の皇族の結婚て地方の領主みたいなんの娘との政略結婚だからそんな大勢の妻がいた事例はあまり見ないけどな

190:日本@名無史さん
22/03/06 13:19:59.80 .net
妻の地位が低いと生まれた子は後継者候補にすらなれない
下手すりゃ子供が産まれても引き取り拒否だからな
そおすると他家に養子に出されたりする

191:日本@名無史さん
22/03/06 14:34:11.98 .net
>>176
>日本でそんな大きな後宮が作れないだろ。
こういうバカのために、ちゃんと平安京の御所の規模はそれくらいと書いてやったのに。

192:日本@名無史さん
22/03/06 14:35:35.63 .net
>>178
だから、畿内の貧弱な政権だと話が通じなくなるんだよ。
都もしょぼいし権力も小さい。

193:日本@名無史さん
22/03/06 14:46:19.46 .net
>>181
だから見栄で大げさに言ってるんだろ。
中国相手にそういうのはままあるからね。
日本では後代になってもそんな大規模な後宮は作られてないわけで。
せいぜい数十人程度。

194:日本@名無史さん
22/03/06 15:20:06.72 .net
>>182
>せいぜい数十人程度。
根拠を示せ。
思い込みか?

195:日本@名無史さん
22/03/06 19:45:55.57 .net
有間皇子の歌
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
和歌山で松と結ばれて子ができたのか?運良く生きて戻り見たかったのは何だったんだろう
家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
椎の樹皮にはタンニンが多く、布を黒く染める染料になる
黒に世話になったのか?

196:日本@名無史さん
22/03/06 20:11:57.96 .net
天智天皇の系譜は近親婚過ぎるんだよな
皇極天皇の父、茅渟王は押坂彦人大兄皇子の子ではないかもねえ
敏達天皇と広姫の娘、逆登皇女が謎だわ
敏達、素早くかしこく道を通じさせるの意

197:日本@名無史さん
22/03/06 20:39:00.51 .net
こういうのをホルってるというのだなw

198:日本@名無史さん
22/03/06 20:39:16.24 .net
こういうのをホルってるというのだなw

199:日本@名無史さん
22/03/06 21:59:32.05 .net
>>183
大奥とか
どう考えても妾700人800人なんていないw
女中などを含めたって100人いないだろw
だいたい700~800人なんて女、
食費(維持費)考えたって抱えられるわけがなかろうがwww
そのままの数字を信じるとかバカだなwww
古代中国の史書がどんだけ正しいと思っているのやら…w

200:日本@名無史さん
22/03/06 22:05:35.06 .net
お前の個人的な考えなど誰も聞いていない。
幕末の江戸城大奥など、女性だけで1000人を超えていたそうだ。
京都御所だって数百人はいた。
日本国内の記録でもそうなのに、お前は何を根拠にそんなことを呟いているんだ?

201:日本@名無史さん
22/03/06 22:14:42.94 .net
>>189
>幕末の江戸城大奥など、女性だけで1000人を超えていたそうだ。
ほれ
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。
そしてそれ最盛期の話なあw
>女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる
あのさあ、あんな”狭い

202:日本@名無史さん
22/03/06 22:18:41.86 .net
>>189
あのさあ、 ”狭い” 場所に1000人近くの妾なんて住めるわけないだろうが、
普通に考えて。
そして中国の史書には”妾”と書いてあるわけで。

203:日本@名無史さん
22/03/06 22:24:45.08 .net
>>189
そして 江戸時代の ”側室” はこんなもん。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
女好きと言われている初代の家康が20人いないわけで。
後宮に700人800人の妾とかまともに数字を信じられるはずがないw

204:日本@名無史さん
22/03/06 22:51:40.81 .net
まあ、生涯に800人くらいレイプしまくったというのならありうるけど、
人権の薄い、中東のハーレムや中華帝国でもない限り、
狭い箇所に1000人近くの妾を押し


205:込めておくなんてやらないわなwww



206:日本@名無史さん
22/03/07 08:25:45.20 .net
>>191
妾の部分だけ信じるんだw
アホだなw
普通に考えて、身の回りの世話をする女中らが数字に入っているだろ
それでも後宮または大奥にいる限りはお手つきとなる可能性はあるから、妾も間違いではない
つまりは隋書の記事を否定する根拠はなく、お前が日本の内裏や大奥の規模を知らなかっただけw

207:日本@名無史さん
22/03/07 09:24:52.70 .net
>>194
だから、当時の倭のどこにそんな大規模な遺構が残ってるよ?w
難波宮が当時あったとしても、そこまで大規模な後宮が収まるような宮殿だったのか

208:日本@名無史さん
22/03/07 09:26:24.22 .net
宮殿ってさ、後宮だけだったわけじゃないからね。
もちろん表側だってあるわけで。

209:日本@名無史さん
22/03/07 09:34:42.18 .net
>>194
>日本の内裏や大奥の規模を知らなかっただけw
おまえこそわかってなかっただろがw
最盛期1000~3000人という数字だけを語ってるけど、
それは他藩に嫁いだり、養子にいったりして従った者も入れての数だと言う話だろうし、
城の規模・面積・空間を考えても、
一挙に千人くらい同じところに詰めてればどんな状態になるかなんて
容易に想像つくのに、全く考慮してないw
おまえの脳内は完全机上の空論w

210:日本@名無史さん
22/03/07 09:43:38.23 .net
要は おまえは数字や文章ばかり追っかけてないで、
右脳を使って 空間や様子を想像しろよw
頭に描かれる映像をさあw

211:日本@名無史さん
22/03/07 11:30:49.62 .net
結局托卵なんだよな
志貴皇子だけでなく大津皇子にも預けてかもな
悲しい結末になったが
和歌、枕詞、言霊の力は凄いね 

志貴皇子は自分のことをムササビと詠んだんじゃないかな?
ササのビ、鳥のようで鳥ではないムササビ
モモのこと
牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨

212:日本@名無史さん
22/03/07 11:36:14.57 .net
記紀で何度でも蘇るキャラクターがいたよね
芦原醜男

213:日本@名無史さん
22/03/07 14:06:41.16 .net
>>197
>最盛期1000~3000人という数字だけを語ってるけど、
自分で勝手に600を3000に水増しして否定か。
ひどい詐欺だな。
>一挙に千人くらい同じところに詰めてればどんな状態になるかなんて
日本の宮廷は、同じところに詰め込むのではなく、複数の建物や部屋に分かれているんだよ。
知らないのか?

214:日本@名無史さん
22/03/07 15:01:55.21 .net
そおいや昔は天皇の皇后出せる氏族って決まってたんやの
葛木氏とかがそれに当たるわけで

215:日本@名無史さん
22/03/07 15:04:03.81 .net
崇神天皇の時代あたりは物部氏あたりの一族との婚姻が多かったの

216:日本@名無史さん
22/03/07 16:11:37.99 .net
【ナマポ】 あの上から目線、腹立つわ 【福祉課】
スレリンク(okiraku板)
URLリンク(o.5ch.net)

217:日本@名無史さん
22/03/07 22:38:25.33 .net
>>201
出所はWIKIだけど。
前出のWIKIの記事読んでくださいな。

218:日本@名無史さん
22/03/08 11:08:26.00 .net
聖徳太子で興味深いのは片岡の飢人、聖伝説
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
旅人の親は亡くなっていない
旅人の親のことを刺竹の君と言い直している
かなり興味深い歌
ちなみにしなてるは坂照るの字を当てられることもある、片岡やにほ鳥にかかる枕詞
片丘に埋葬されたのは孝徳天皇の父の茅渟王である
天皇の父なのに�


219:サの事績は全く残っていない 記紀を編纂した勢力がとても書けない、嘘にもできない内容だったんだろうね 個人的には親なき軽(孝徳天皇)を重ねて詠んだ歌じゃないかと思っている そして聖帝、仁徳天皇にも思いを馳せていのかもねえ 聖は神意によく耳を傾ける立派な人物の意 聖徳太子も神意によく耳を傾けて、軽を守り抜いたのだろうか?



220:日本@名無史さん
22/03/08 11:38:01.86 .net
茅渟王と吉備姫王の子が宝(皇極天皇)と軽(孝徳天皇)とされている
吉備姫王は643年まで生きた人物
軽の母が吉備姫王なら軽の親が少なくとも片方は生きていたことになる
あるいは茅渟王の事績と共に消された本当の母がいたという仮定も考えられる
仁徳天皇の瑞祥は楠木の大木から作られた琴と雁が卵を生んだという話
雁と琴が仁徳天皇の実体じゃなかろうか?
面白いことに聖徳太子の母は楠であった伝承が残っている
徳の字は楠の母を暗示するかもしれない
楠の大木から軽船が作られて最後に琴が残った
孝徳天皇の諱は軽である

221:日本@名無史さん
22/03/08 11:48:56.06 .net
茅渟王と軽の母は6世紀末、軽を生んだ直後くらいに殺されたんじゃないか?
そして吉備と蘇我氏の血を引く吉備姫王は生き延びた
吉備姫王は643年まで生きたので、その後誰かに嫁いだ可能性がある
吉備姫王→皇極天皇の流れを汲む、天智天皇天武天皇が天
天智天皇は天命開別天皇という名でもある
アマと吉備姫王はかなり関係があるんじゃないかな?

222:日本@名無史さん
22/03/08 14:19:01.05 .net
聖徳太子の歌に出てくる刺竹のという言葉は、大宮や君にかかる枕詞
大宮地の霊言えば座摩神のことで、平安時代、神祇官西院において「御巫」称される女性神職、座摩巫により奉斎されていた神さま
上町台地の座摩神社に祀られている
「いかすり」は「居処領(いかしり)」、「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる
生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神
波比祇神・阿須波神は大年神と天和迦流美豆比売の間に生まれた神
地主の水神、山の神、里の神さまやね
延喜式祝詞に天御蔭・日御蔭と隠り坐しとあるのは興味深い
座摩の御巫の称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、生井・栄井・津長井・阿須波・婆比支と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す下都磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御舎を仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して、

223:日本@名無史さん
22/03/08 14:35:06.67 .net
天和迦流美豆比売
天+和+軽+ミズヒメ
孝徳天皇の諱は軽で和風諡号は天万
万は卍のことで和を意味する
偶然か?

224:日本@名無史さん
22/03/08 14:37:15.89 .net
聖徳太子は虚像で実像は阿毎多利思比孤
阿毎多利思比孤は法隆寺釈迦三尊像光背に出る上宮法皇
阿毎多利思比孤は百済昆支王の子孫
阿毎多利思比孤の死の原因は倭国の百済からの独立表明で百済に暗殺された
上宮法皇は厩戸皇子ではなく、上宮法王帝説の意図は崩された
サイト「国際的視点からの古代史考」を参照のこと

225:日本@名無史さん
22/03/08 15:22:21.68 .net
吉備姫王の墓の周辺から猿石が見つかっている
女、山王権現、僧(法師)、烏帽子の男の像である
猿石女の背面には、インド神話に伝わる神鳥・ガルダにそっくりな像が彫られている
ガルダは、仏教の守護神・迦楼羅天(かるらてん)にもつながる異国の神様
山王権現は山の神、里の神
天和迦流美豆比売も同じ系統やね
吉備姫王の嫁ぎ先、茅渟王の周辺にいた人々はこのような集団だったかも�


226:ニ想像が膨らむよね



227:日本@名無史さん
22/03/08 15:45:23.91 .net
崇峻天皇の崇峻はどう見ても山に纏わるネーミング
秀でた山を崇めるという意味だろうか?
次は山の勢力に皇位を譲ろうとしたのかな?
殺された理由は何だったのだろうか?

228:日本@名無史さん
22/03/08 16:03:56.19 .net
上宮法皇=厩戸皇子は死亡日の違いと母親が一致しないので否定される。

229:日本@名無史さん
22/03/08 16:17:48.97 .net
片岡にかかる枕詞のしなてるは、またにほ鳥にかかる枕詞でもある
しなてるは坂照るの字を当てられることもある
にほ鳥のは息長川やカツシカにかかる枕詞である
にほ鳥は牛留鳥の字を当てられることもある
息長真手王の娘、広姫は敏達天皇の皇后
子は押坂彦人大兄皇子、斎宮になった菟道磯津貝皇女、事績が不明な坂登皇女
息長氏が守ってきたのは牛の姫ではなかろうか?
広姫から続く母系が大切な意味を持つかもしれない
敏達天皇は名前の通り素早く、広姫の娘、坂登皇女を嫁がせたのではないか?
名前の通り坂登皇女はサカの妃になっていたのかもと想像が膨らむ
押坂彦人大兄皇子の子とされる茅渟王は実は坂登皇女の子だった可能性はないだろうか?
坂照る片岡、片岡に眠る茅渟王
茅は萱やススキ、芦のこと、茅の輪の茅やね
渟は留めるという意
茅渟は和泉摂津の海のことだが当てられた文字にも意味が込められているかもね

230:日本@名無史さん
22/03/08 17:33:30.25 .net


231:日本@名無史さん
22/03/08 19:05:55.77 .net
田目皇子の経歴が謎なんだよな
聖徳太子の異母兄
子に高向王、宝女王の最初の夫
高向王の子が漢皇子で天武天皇と同一人物じゃないかという説がある
第一回遣隋使のアマタラシヒコの候補だな

232:日本@名無史さん
22/03/08 19:21:59.14 .net
崇峻天皇の猪の話 
崇峻天皇にとって1番の脅威は、先代の用明天皇の第一皇子で用明天皇の皇后を娶った田目(豊浦)皇子だったんじゃないか?

233:日本@名無史さん
22/03/08 19:40:53.96 .net


234:日本@名無史さん
22/03/09 18:13:40.87 .net
理屈に耐えられず逃げる哀れな奴らw

235:日本@名無史さん
22/03/10 00:27:40.53 .net
推古天皇聖徳太子とアマタラシヒコ
その謎は皇極天皇の極、それと第一回遣隋使の記録を素直に読めば解決する

236:日本@名無史さん
22/03/10 16:12:37.62 .net
天王になれるのは限られるからな

237:日本@名無史さん
22/03/10 19:37:57.87 .net
鬼前大后は百済人の娘だったのかもね。百済人の姓に鬼室があるからね。

238:日本@名無史さん
22/03/10 21:56:30.24 .net
伏見稲荷と秦氏と目にも関係してそうなんだが

239:日本@名無史さん
22/03/10 22:13:59.08 .net
鬼前大后が百済人の娘だったら、干食王后も百済人かもしれないね。

240:日本@名無史さん
22/03/11 11:58:15.69 .net
相変わらず独り言スレシリーズw
日本において自分の民族アイデンティティを見失い
妄想にひたり終始するスレ主w

241:日本@名無史さん
22/03/11 12:59:25.43 .net
負け犬は独り言を呟き自分どけの世界で勝った夢を見るのだろうか。

242:日本@名無史さん
22/03/11 13:06:52.00 .net
帝説が鬼前=穴穂、干食=膳として上宮法皇=厩戸とし
法興は元号でないとまで言い切ったのは犯罪行為であろう。
現代においてもそれを支持する人がいるとすれば、同罪だろう。

243:日本@名無史さん
22/03/11 13:19:55.69 .net
天王は僧などやっとれんだろ

244:日本@名無史さん
22/03/11 16:24:50.13 .net
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委�


245:苒� 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之 兄が西の国、弟が東の国という感じで分かれたのかもねえ 東の国が朝の時は西の国はまだ日が登ってないからねえ 兄がアマの田目皇子、弟が日の聖徳太子という兄弟の話かな 南北朝ならぬ東西朝時代か 田目皇子は豊国辺りにいたのかもね 豊前は吉備の痕跡がちらほら見られる 茅渟王の妻、吉備姫王を娶ったのかと想像が膨らむね 田目皇子の子、高向王の妻は宝、後の皇極天皇 豊、秦氏、伏見稲荷、眼力社、この辺りの話が関係してそうなんだがなんせ田目皇子の痕跡がかなり消されている



246:日本@名無史さん
22/03/11 18:17:00.85 .net
聖徳太子はいなかった新説は「聖徳太子と言われる人物は厩戸だった」というのであるから驚きだ。
この説の中に、金石文の上宮法皇も出てこなければ、隋書のアマタリシヒコ大王も出てこない。
こんなことが日本史の中で平然と行われている。国家ぐるみに犯罪だ。

247:日本@名無史さん
22/03/11 18:46:49.08 .net
アマタリシヒコを見ても無視されている。
だから言うんだよ、敗戦も占領もなかったことになると、この国では。
日本国王府も院政でごまかしてるんだよwwwww。

248:日本@名無史さん
22/03/11 19:30:12.84 .net
嘘を駆使して統治してきた結果、武士社会になって、権力を失った。
そこに西欧の圧力で復権を果たしたが、相変わらず、外国には侵されなかったとの主張を繰り返すなら、
いずれ、契丹人社会が到来したように、外国勢力に圧倒され、立場を失うであろう。
今度は、東に逃げる先と逃げる交通手段があるのう。命がけの残留を選ぶか逃亡を選ぶかw
嘘は支配のための自己満足にすぎない、嘘をついてもつかなくっても結果は同じwwww。

249:日本@名無史さん
22/03/11 19:46:13.26 .net
書紀という政敵が記した歴史を自分の歴史にする
アマタリシヒコ大王を認めない
法興元号を認めない
聖徳太子(=アマタリシヒコ)を厩戸とする
帝説を書かせる
神皇正統記を書かせる
etc
支配の正当性を誇りたいというささやかな願望www
いずれ潰えるwwwwwwwwww

250:日本@名無史さん
22/03/11 20:16:16.89 .net
茅渟王を殺し吉備姫王を奪い娶ったのが田目皇子でアマタラシヒコでしょ
推古天皇と聖徳太子は古のありようを推し茅渟王の子軽を守ったんじゃないの
九州のアマタラシヒコ、畿内の聖徳太子

251:日本@名無史さん
22/03/11 20:40:33.95 .net
国王府ってそこの属国って意味ではないがよ

252:日本@名無史さん
22/03/11 20:49:12.11 .net
>>235
タラシヒコは天下を統べる意味なので、大王に即位していなければいけないのだが。

253:日本@名無史さん
22/03/11 21:13:08.79 .net
>>233
嘘の歴史は国民統治のためであって、
外国から見れば「ああ、そんなことしてるのね」って感じでしょwww

254:日本@名無史さん
22/03/11 21:13:51.29 .net
要は日本国民はバカにされんだよwww

255:日本@名無史さん
22/03/11 21:47:32.45 .net
要は日本国民はバカにされてんだよwww

256:日本@名無史さん
22/03/11 22:04:35.29 .net
>>227
あなたこそ負け犬だから、独り言レスでスレ埋めてるんだろw
誰も読まないことわかってる長文レスでw
で、あなたの お国はキチガイサヨ政権倒れたねw

257:日本@名無史さん
22/03/11 22:28:07.98 .net
>>230
西知家とはそういう意味があるんだろうか?
人民としての西知家ではなくて、
リアル西知ろしめす家
ただの夢幻思考ですがね。

258:日本@名無史さん
22/03/11 22:30:12.74 .net
人民西知家が京都市右京にあるから、
皇室西知家はもしかしたら京都市左京にあったのかもしれん・・・

259:日本@名無史さん
22/03/11 22:33:59.04 .net
私が日本書記を編纂しました。

260:日本@名無史さん
22/03/11 22:35:42.43 .net
私は霊体だけど人の身体を借りています。

261:日本@名無史さん
22/03/11 22:39:52.75 .net
左右大臣を理解できれば、この話の意味がわかるよ。
我々から観て�


262:Eということは、 天皇から見れば、左。 我々から観て左ということは、 天皇から観て右。 唐名は、京兆府、扶風、馮翊など。 京識(きょうしき、みさとづかさ)。 唐名は、京兆府、扶風、馮翊など。 京都所司代は、京職(きょうしょく)。 天子南面ス。



263:日本@名無史さん
22/03/11 22:44:17.45 .net
左利きが左でやるというのは、
無理ですが理にかなっています。

264:日本@名無史さん
22/03/11 22:45:20.56 .net
理にかなうではなくて、
利き器官の場合は、
利きに適っているというのだろうか?

265:日本@名無史さん
22/03/12 00:24:44.69 .net
嘘で歴史を固める目的は唯一国民の離反を恐れてのことだね
他国はお構いなしに攻めてくる
このとき神聖にしておけば国民は擁護してくれる
まあ、そういう仕掛けだ。国民がいろいろ歴史関連を真に受けて掘り返してくれるのは頼もしいわけだw

266:日本@名無史さん
22/03/12 01:07:24.59 .net
日本書記に嘘は書いてないよ
20年後に過去観測機が完成して実際に過去を観測することで証明されるから安心しろ

267:日本@名無史さん
22/03/12 05:29:21.94 .net
>>250
佳子観測機と言えば、過去だよばーか、
超スーパーコンピューターで、
恐らく消滅した星の位置とか、
全星の宇宙古代、中世の様子とか、
計算して出せるんじゃないの?
そのデータを持っている、
宇宙人宇宙科学
宇宙人は殺されたくないから、
日本国民と世界国民は、
抹殺されない。
宇宙人を敵に回すか。

268:日本@名無史さん
22/03/12 06:36:58.95 .net
完全敗北感に狂い続けている独り言朝鮮人おじさんw

269:日本@名無史さん
22/03/12 09:24:59.51 .net
法皇は最高位の者が出家して成るもの
厩戸は皇子で摂政だそうだ。出家したって上宮法皇にはなりえんのだよ、のう帝説くーんwwwww

270:日本@名無史さん
22/03/12 09:30:39.98 .net
皇族で僧になれるのは天皇を引退した者だけだよ

271:日本@名無史さん
22/03/12 09:31:37.87 .net
あるいは皇籍にあり出家したとかなら皇位継承権はない

272:日本@名無史さん
22/03/12 09:34:57.02 .net
仏教における天王号はほとんど仏教における神号と同じこと
その代理者である天皇が僧になれるわけないだろ

273:日本@名無史さん
22/03/12 09:35:44.74 .net
天皇を神と記載してるのは日本書ではない
仏教に書かれておること

274:日本@名無史さん
22/03/12 10:37:22.44 .net
隋書では、王タリシヒコは仏法を重んじているとあるから、その文脈で読まなくては。

275:日本@名無史さん
22/03/12 12:10:56.00 .net
隋書ではハイセイはタリシヒコに「戒塗」を請うた。
それに対してタリシヒコは宴を開いたのは受け入れたということだ。
「戒塗」は受戒と塗香のこと。戒を受け入れ、体に香を塗り戒を逃さない意味。仏教の作法だ。(出発の意味ではないwww)
すなわち、アマタリシヒコ大王は受戒して出家した。大王が出家すれば法皇だ。

276:日本@名無史さん
22/03/12 13:11:36.62 .net
>>259
どうしてこれくらいの事を誰も言わないのか?塗香もインド仏教を勉強すれば出てきますよ。
九州説の「出発を請うた」は名前と共に恥を出版したなwwwwww

277:日本@名無史さん
22/03/13 09:34:44.89 .net
上宮聖徳法王帝説では法隆寺釈迦三尊像光背を全文引用し、
「法興元丗一年」を「法興元世一年」とコピーし、「後の人は(法興を)年号と思うかもしれないけれどそれは間違い」言い切っている。
「丗」は「世」ではない。この拓本中の他の場所に「世」がでており、はっきり異なるからだ。
これも作為だとの指摘がなく、法興が忘れ去られ元号である認識がなかったと解説されたりする。
なお現在でも「この銘文を後世の追刻とする見方もある」との議論を犯罪的に誘発し、
「法興元世一年」説を完全には否定させないようにしている。
こんなことがパワハラでまかり通っている�


278:翌翌�



279:日本@名無史さん
22/03/13 11:42:42.76 .net
な、まれにみる頭脳だと感じたかな?wwwwww

280:日本@名無史さん
22/03/13 11:57:40.60 .net
4か月ほどの命だったなw

281:日本@名無史さん
22/03/13 23:02:20.97 .net
大王ってのはその時代においては大連、大臣の上に立ち統括する者でしょ
大連てのがもともとは旧国主みたいな連中らを取り仕切り軍事的活動を行う長官みたいなもんやからね

282:日本@名無史さん
22/03/13 23:03:33.99 .net
連(旧国主層)は自分らのとこに兵を抱えておるから軍団を形成できたわけだしの

283:日本@名無史さん
22/03/13 23:04:52.94 .net
臣ってのはつまり家臣上がりみたいな連中らのこと
自分では兵力持ってねえの

284:日本@名無史さん
22/03/13 23:16:14.30 .net
書紀には大王位はない。
氏姓の連や臣の記述が書紀以外でどこにあるか教えて下さいな。

285:日本@名無史さん
22/03/13 23:18:02.20 .net
>>267
記紀より古いやつをね

286:日本@名無史さん
22/03/13 23:49:09.15 .net
家系図

287:日本@名無史さん
22/03/13 23:50:04.98 .net
各氏族で所有しとる記録などもあるしな
書紀しか知らんのか

288:日本@名無史さん
22/03/13 23:52:48.40 .net
その家系図は記紀より古い代物か?

289:日本@名無史さん
22/03/14 00:08:11.58 .net
氏姓に連や臣がついた金石文を知りたい。
大王は金石文にあったな。
ヤマト政権そのものが架空で、はっきり大王政権であった。大王が後に天皇と呼ばれるようになったならなぜ、日十大王やアマ多利思比孤大王を隠すのか?

290:日本@名無史さん
22/03/14 04:59:54.91 .net
稲荷山鉄剣の金錯銘に「大王」の文字があるね。
ワカタケルという読み下しは合ってるのかちょっとなんともね

291:日本@名無史さん
22/03/14 07:51:58.21 .net
百済から出土した木簡に「ナニワ連公」があった。
7世紀中半のものらしい。

292:日本@名無史さん
22/03/14 09:26:49.53 .net
隠すって?
隠してないから連だの臣が伝わってるんだろ
大丈夫か?

293:日本@名無史さん
22/03/14 10:01:31.22 .net
百済出土木簡「那尓波連公」
石神遺跡木簡「石上大連公」
法隆寺命過幡「山ア名嶋弖古連公過命時幡」
いずれも7世紀半ばのものらしい。それ以前に遡れる例はありますか?

294:日本@名無史さん
22/03/14 11:00:35.49 .net
つまり6世紀における「連」の痕跡は見つかっていない。
なお、法隆寺命過幡「山ア名嶋弖古連公過命時幡」は東野氏は干支が+60年ずれるとしている。

295:日本@名無史さん
22/03/14 14:55:21.89 .net
謎の7世紀の壁。
それより古い国内の資料が見つからない。

296:日本@名無史さん
22/03/14 15:16:58.63 .net
古墳があるじゃん

297:日本@名無史さん
22/03/14 15:18:07.63 .net
王は剣を握ったまま埋葬されるからそれで分かるだろ

298:日本@名無史さん
22/03/14 15:29:10.74 .net
>>280
掘り返して見せてくれや
書紀以前の書物は破棄したらしいから、残るは金石文や海外資料しか証拠品がない。
氏姓なんたら言ったって証拠品がなけりゃ「書紀から想像すれば」ってことに過ぎない。
いい例が大王さ。書紀では大王は位ではなく敬称として使われている。金石文では位だ。

299:日本@名無史さん
22/03/14 16:15:01.48 .net
>>281
大王
オオキミ → 敬称
ダイオウ → 位
意味合いが違う

300:日本@名無史さん
22/03/14 17:02:05.05 .net
根拠は?

301:日本@名無史さん
22/03/14 20:12:54.44 .net
権力が掘っても結果が正確に残されていなければ盗掘。
この意味で日本では古墳はほぼ盗掘されているだろう。

302:日本@名無史さん
22/03/14 20:53:12.57 .net
動かしたら証拠も消えるわな

303:日本@名無史さん
22/03/14 21:12:05.47 .net
そんなわけで江戸時代以前に発掘された古墳は全て盗掘扱い。
まあ実際に出土品なども散逸している。
出土品が残っていても、伝~出土みたいな扱い。

304:日本@名無史さん
22/03/14 21:12:21.56 .net
>>282
こいつバカ?

305:日本@名無史さん
22/03/15 00:40:22.81 .net
漢語とやまとことば
使い分けがわからないチョーセン人w

306:日本@名無史さん
22/03/15 09:01:3


307:5.51 .net



308:日本@名無史さん
22/03/15 09:49:02.49 .net
泡が珍しくいいことを言っている。

309:日本@名無史さん
22/03/15 10:08:26.64 .net
孝徳天皇軽の父、茅渟王の事績が丸々ないだろう
アマタラシヒコが殺したんじゃないか?
崇峻天皇の次は皆が古のありようを推し、茅渟王になる予定だったんじゃないの
アマタラシヒコは畿内に居れなくなり本拠地の豊前辺りに移ったんでしょうね

310:日本@名無史さん
22/03/15 10:20:27.37 .net
アマになる為に吉備姫王とその娘宝も奪って連れていったのかもね
古を推した推古天皇と聖徳太子、それを阻止したアマタラシヒコ
この因縁が乙巳の変に繋がっていくんでしょう

311:日本@名無史さん
22/03/15 13:12:39.39 .net
大王を名乗るってのはその政権に参加していないなら誰でも名乗れるよ

312:日本@名無史さん
22/03/15 13:14:33.16 .net
ヤマトからは関東惣領と呼ばれた毛野氏だの吉備も吉備惣領だからな
自分らでは大王を名乗っておっても不思議ではない
ヤマト側から見た呼称やからな

313:日本@名無史さん
22/03/15 13:16:29.75 .net
吉備や筑紫の場合は討伐軍が送られたあと独立勢力としては存在できなくなった
官衙が置かれてヤマトから役人らが送り込まれるようになったからな

314:日本@名無史さん
22/03/15 14:21:26.01 .net
>>293
大王の意味を理解していないアホ

315:日本@名無史さん
22/03/15 17:11:11.65 .net
法隆寺釈迦三尊像光背は623年頃に完成され現存する。
法興元卅一年が基準年として使われている。歳次辛巳は621年である。
丈六光銘の原典はなく元興寺伽藍縁起並流記資財帳(747年作) にそのコピーが残っている。裴世清来訪の翌年に記述したとあるので609年に原典は作成された。
疑問(1)「天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時・・・」「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇 在揩井等由羅宮」など天皇名で時代を表わしているなら、それより後の法隆寺釈迦三尊像光背にはなぜ天皇名がないのか?
疑問(2)621年が法興31年に当たるなら、丈六光銘が造られた609年は法興年代だが、なぜ丈六光銘には年号が記されていないのか。

316:日本@名無史さん
22/03/15 19:49:03.92 .net
疑問(3)丈六光銘中にある「池邊天皇之子名等與刀禰ゝ大王」は等與刀禰ゝ(豊聡耳)をのことである。
丈六光銘中の人名は天皇・王・大臣など位で装飾されているのに、天皇筋にない大王を使うのは変である。
アマタリシヒコ大王が法皇になり空位になった大王を厩戸が埋めたとすると、天皇と大王の関係が釈然としない。

317:日本@名無史さん
22/03/15 20:05:08.70 .net
法隆寺釈迦三尊像光背
法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟乗斯微福信道知識現在安隠出生入死随奉三主紹隆三寳遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師


318:造 丈六光銘 天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時 百濟明王上啓 臣聞 所謂佛法既是世間無上之法 天皇亦應修行 擎奉佛像經教法師 天皇詔巷哥名伊奈米大臣 修行茲法 故佛法始建大倭 廣庭天皇之子多知波奈土與比天皇在夷波禮?邊宮 任性廣慈 信重三寶 損棄魔眼 紹興佛法 而妹公主名止與彌擧哥斯岐移比彌天皇 在揩井等由羅宮 追盛?邊天皇之志 亦重三寶之理 揖命?邊天皇之子名等與刀禰ゝ大王 及巷哥伊奈米大臣之子名有明子大臣 聞道諸王子教緇素 而百濟惠聰法師 高麗惠慈法師 巷哥有明子大臣長子名善德爲領 以建元興寺 十三年歳次乙丑四月八日戊辰 以銅二萬三千斤 金七百五十九兩 敬造尺迦丈六像 銅繍二?并挾侍 高麗大興王方睦大倭 尊重三寳 遙以隨喜 黄金三百廿兩助成大福 同心結縁 願以茲福力 登遐諸皇遍及含識 有信心不絶 面奉諸佛 共登菩提之岸 速成正覺 歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之 明年己巳四月八日甲辰 畢竟坐於元興寺



319:日本@名無史さん
22/03/15 21:44:46.62 .net
天皇諡号は和風であれ漢風であれ、崩御後に送られるものであるから、
747年に609年作の丈六光銘をコピーした時に、推古は生きているから
止與彌擧哥斯岐移比彌天皇の名称はあるわけない。
したがって、丈六光銘は正確にコピーされていない。
疑問(1)(2)(3)は丈六光銘が正しいと思ってみるから起る。
疑問(1)については原典に天皇名はなかった。
疑問(2)法興年号は書かれていたがコピーで消された。
疑問(3)等與刀禰ゝは大王ではなかった。
すなわち、法興年号の代わりに天皇名で時代を示すように改竄した。「大王」を大王でないものに付け、混乱することを図った。丈六光銘コピーは犯罪である。

320:日本@名無史さん
22/03/15 23:21:51.98 .net
丈六光銘は正確にコピーされていないとなると、上記3点以外も疑うべきである。
疑問(1)により609年には「天皇位」はなかった。
「百濟明王上啓 臣聞 所謂佛法既是世間無上之法 天皇亦應修行 擎奉佛像經教法師」は上下関係が逆転しているとみてよい。
天皇位がなければ「天皇詔巷哥名伊奈米大臣」は誰が詔したのか、大王でしかない。
原典は「大王詔巷哥名伊奈米大臣」となっていたのだ。
すると、巷哥名伊奈米(蘇我稲目)は大王の大臣であったことになる。大王政権の大臣である。アマタリシヒコ大王の大臣である。
書紀はアマタリシヒコを聖徳太子=厩戸としてに潜らせたが、聖徳太子の擁立者が蘇我であったことが理解できるであろう。

321:日本@名無史さん
22/03/16 00:41:13.27 .net
第一回遣隋使のアマタラシヒコは田目皇子だよ
その後亡くなったんでしょうね
アマタラシヒコが勝手に大王を名乗ったんでしょう
東西王朝みたいなもの

322:日本@名無史さん
22/03/16 04:11:49.66 .net
聖徳太子=蘇我馬子=阿毎多利思比孤  である
阿毎多利思比孤は九州王であり、倭国は九州と畿内の二朝併存だった
阿毎多利思比孤が大和にも覇を唱え、統一倭国王になったのだが、
その本来的称号は天王である
天を兄とし日を弟とし、つまりは九州王が畿内王を従えている
日本とは畿内のことである
法隆寺と四天王寺が聖徳太子により建立されたが、
四が欠落したものと説明される天王寺の地名の本来こそが天王寺であり、
それはすなわち天王の寺という意味になる
天王とは九州王を指している
一方、紀記編纂時に天皇の称号が生じたが、
元来、皇の字は皇帝すなわち帝国の王=諸国の王を意味するのであり、
名目において二朝の王を意味して初めて天皇が成立したわけである
蘇我氏を滅ぼした大化の改新の頃、法隆寺が焼失しているが、
王位を簒奪した天智天皇によって焼き払われたと


323:考えられる その再建が太子の怨霊を封印する目的でなされたとの仮説には蓋然性があろう 壬申の乱で王位を得た天武天皇は蘇我系だと考えられるが、 そこに連なる橘三千代の系譜により法隆寺が篤く信仰された背景にはそのような事情が隠されている https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533027941/534-541 //lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542085302/482,488,491,496,498,767,779,781,787 //lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542563254/168,170,177,180



324:日本@名無史さん
22/03/16 08:10:45.35 .net
史料的根拠とその考察が示されなければレスしようがない

325:日本@名無史さん
22/03/16 10:53:52.00 .net
>>301
「巷哥名伊奈米大臣」の大臣は創作で「臣」の可能性は否定できない。
法興6年現在風土記によれば葛城は臣であり、「大臣」の信頼できる記録を求む。
釈迦三尊でも「臣」が使われ「大臣」が区別されていない。

326:日本@名無史さん
22/03/16 12:40:26.99 .net
なんでも創作と呼べばいいのだから楽なものだな。

327:日本@名無史さん
22/03/16 12:55:41.52 .net
コピーと称して歴史を創作するは楽だ。

328:日本@名無史さん
22/03/16 13:47:49.70 .net
バカの創作歴史はつじつまが合わず、バレる。

329:日本@名無史さん
22/03/16 14:08:13.04 .net
いずれにしろ
後宮700人は日本では無かったろう。
間違いなく誇張だな。
別なとこに住んでたと言ってたバカがいたが、
それは後宮とは言わないし、700人ものそういうとこにどうやったら通えるんだよ?w
もう少し現実を考えて想像してから ものを言えよw
あほあほあほwww

330:日本@名無史さん
22/03/16 14:09:19.41 .net
だから天皇号は贈号なんだが

331:日本@名無史さん
22/03/16 14:09:57.54 .net
天皇認定作業は680年~800年にかけて行われたんだぞ

332:日本@名無史さん
22/03/16 15:25:42.30 .net
>>311
根拠は?

333:日本@名無史さん
22/03/16 15:56:29.29 .net
680年より前の資料に天皇の称号が出てくるから問題なんだよなあ。
諡号だって、和風諡号のいくつかは、実は生前から使われていた称号の可能性があるとも言われているし。
景行天皇のオオタラシヒコなんてその例だしね。

334:日本@名無史さん
22/03/16 16:12:30.10 .net
>>313
史料は?

335:日本@名無史さん
22/03/16 17:24:22.41 .net
法隆寺釈迦三尊像光背にでる人物は法皇・太后・王后と王子で、書紀で使われるスメラミコト・ミコト・ミコ・ヒメミコ・キサキは出てこず。

336:日本@名無史さん
22/03/16 17:34:09.47 .net
アマタリシヒコの居所は畿内
裴清の来訪経路は「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。又經十余國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。」。
「至」の最後が秦王国であるから、秦王国に大王がいた。秦王国から十餘國を経て海岸に達する。筑紫より東で、十餘國を経て海岸(絶海を意味)に達する国といえば、畿内となる。

337:日本@名無史さん
22/03/16 17:54:39.19 .net
>>315
法隆寺釈迦三尊像光背に書かれた世界は書紀が全く触れなかった世界というより、
書紀が描いた歴史世界は法隆寺釈迦三尊像光背銘によって作り物だと否定されている。

338:日本@名無史さん
22/03/16 19:45:33.62 .net
>>304
資料的根拠が無くても仮説は提起し得る仮説上の論理的瑕疵や資料的反論を求めたい
未だこの仮説には効果的反論をもらえていない
スレリンク(history板:233番)-237

339:日本@名無史さん
22/03/16 19:52:34.50 .net
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
「池邊大宮天皇」は用明天皇(~587)のことで、用明天皇が病気のときには、推古はまだ天皇ではないので、推古天皇を大王天皇と書くこの銘文はすくなくとも推古天皇即位後に書かれた。大王天皇の呼称は「大王」がアマタリシヒコの称号であるから、さらにアマタリシヒコの没後に製作年はずれ込む。福山敏男の「623年以降の作」説は妥当である。
塔露盤銘
元興寺伽藍縁起并流記資財帳(747)に「難波天皇之世辛亥正月五日 授塔露盤銘」と題し、紹介されている。コピーである
上記は丈六に年代的に近い「天皇」記載の銘文であるが丈六に「天皇」が記載されていた傍証にはならない。

340:日本@名無史さん
22/03/16 19:56:50.78 .net
>>318
史料的根拠のない仮説ならいくらでも提起できる。
押し売りを追い返すのにこの国では論理が必要なのか?

341:日本@名無史さん
22/03/17 03:52:38.01 .net
>>320
試しに

342:日本@名無史さん
22/03/17 07:56:52.86 .net
日本の古語もよくわかってない
朝鮮人の悔しがり妄想スレw

343:日本@名無史さん
22/03/17 08:15:33.52 .net
阿毎多利思北孤という言葉が人名だと知って、
日本人なら真っ先に思い浮かぶのは アマテラスとかタラシヒコとかいう人名だろう、
感覚として。
このことが勘として働かずにわけのわからない説を唱えているのは、
日本人の教育をまともに受けてない人だからだろう。
”阿毎” → 天
”多利思” → 照らす or 垂らし 
”北孤” → 比孤と修正して 彦 や 日子
などと簡単に予想が付き、これは固有名詞ではなく、
やまとことばによる尊い現人神への尊称であるとすぐに思いつくものだ。
これがすぐに思いつかないのは日本人ではない可能性が高い。

344:日本@名無史さん
22/03/17 08:55:48.52 .net
>>313
680年以前に「天皇」称号が使われていたと主張したが、その証拠を示さなかった。
>>319でその資料と思われるものをしめした。
一つは作成年代が特定できずとも丈六光銘作成時点より古いことがわかった。
一つは、丈六をコピーした同じ資材帳の中の物でコピーであり、信憑性かくものであった。
また、>>313は和風諡号が存命中に使われた例があると主張したがいまだ証拠を示していない。

345:日本@名無史さん
22/03/17 09:31:34.26 .net
証拠とかなんとかそんなこと言ってるんじゃないのよ。
書紀や古事記や万葉集を、そして平安時代などの書物を知っていれば
当時使われた大和言葉がどんなものか
おおよそ見当がつくわけよ。
人の名前にも ”~の~しヒメ”(姫) だの ”~の~しヒコ”(彦) というように
形容詞や助詞をつけて個人を特定したわけね。
だから
阿毎多利思北孤
  →  アメノタリシヒコ とか アメテラスヒコ とか アマタラシヒコ
 のように解釈できるわけ

346:日本@名無史さん
22/03/17 09:32:29.46 .net
武寧王は、墓誌には斯麻王、『三国史記』に諱を斯摩、『梁書』では隆。対応が付いている。
隋書にアマ、タリシヒコ、オオキミと記された人物を書紀中の人物と対応させようとするが成功例がない。
「アマタリシヒコ」が実名であろうが、一般名であろうが、オオキミと名乗っている人物がおり、600年、608年には実在した男性王である。
隋はハイセイを派遣して確認しており、倭国最高位の人物である。
受戒した模様で上宮法皇が実在するので、上宮法皇=アマタリシヒコである。
書紀中に該当する男性天皇がなく、皇子が出家して法皇になるわけもなく、書紀はアマタリシヒコを倭国王として認定していないと結論できる。
この不認定は作為的であるがゆえに、
丈六等の書き換えが行われ、失敗したが帝説で上宮法皇=厩戸として強引な同定を行おうとした。
この行為は、大王政権の歴史上からの抹殺を図っているのである。が、風土記や金石文にその片鱗が残っている状態である。

347:日本@名無史さん
22/03/17 09:45:50.89 .net
>>326
>失敗したが
あのさあ、簡単に失敗するような書き方


348:すると思う?w 外国人が見るかもしれない国書作るのに、 そんな浅はかな書き方するとは思えないのだが。 どうしてそうキミはそう隠そうとしたとかそういう発想になるわけ?w



349:日本@名無史さん
22/03/17 09:50:25.81 .net
隋書でハイセイは608年に男性王に会っている。
書紀では推古天皇(女性、554年生)がハイセイに会っている。書紀はここでも嘘を書いている。
後に、東大寺僧がアマタリシヒコはどの天皇かと問われ、用明と答え、用明は600年には既に亡くなっていたという失態を冒している。

350:日本@名無史さん
22/03/17 11:51:29.82 .net
新唐書「次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。」
は訪中した東大寺僧奝然(938ー1016)の発言をもとにしたものと思われる。
奝然の俗姓は藤原氏。藤原真連の子であるから、日本書紀は読んでいる。
だから、天皇の順序が伝えられた。推古がハイセイと会っていることも知っている筈だ。
さらに、タリシヒコを知っているのだから隋書も知っていたことになる。
用明と答えたのは男性で、もっとも多利思比孤の時期に近かったからだろう。
彼には多利思比孤は天皇であるべきだとの認識があり、皇太子の認識はなかったということだ。
間違ったのは天皇の中に答えがなかったからだ。

351:日本@名無史さん
22/03/17 12:19:09.22 .net
不快感ではね

352:日本@名無史さん
22/03/17 12:29:41.49 .net
>>328 >>329
「日本書紀」編者が遣唐使を聖徳太子の功績にしたくて
推古天皇の御代に実際にはまだなかった摂政制度が始まって
天皇の業務をすべて代行する大権力を握った聖徳太子の命令で開始されたことにした説
実際には最初の遣唐使を行ったのは用明天皇であったにもかかわらず
それが聖徳太子の功績にされたために
当時の天皇は女帝の持統天皇ということになってしまった

353:日本@名無史さん
22/03/17 13:05:46.85 .net
用明天皇 587年頃没 

354:日本@名無史さん
22/03/17 13:26:55.61 .net
>>332
それは記紀の記述だからね
暗殺でもないのに30代ぐらいで在位2年で急死ってあまりない

355:日本@名無史さん
22/03/17 13:30:52.96 .net
何時頃没した?

356:日本@名無史さん
22/03/17 13:31:39.49 .net
331訂正
持統天皇→推古天皇

357:日本@名無史さん
22/03/17 14:10:06.05 .net
お前達の話(書き込み)など何も関係ない、
ちなみに家は『』こういう家なんだけど、どういう事だと思う?
低脳「?????」

358:日本@名無史さん
22/03/17 15:14:28.02 .net
アマ多利思比孤は仏教治国を目指し仏教を広め寺院を建立した。また、12位階も隋書に出る。これと同等のことが推古紀にあり、厩戸皇子摂政の事績とされ、憲法のことも詳しく書かれている。すでに指摘したように、アマ多利思比孤は国王であり摂政ではない。書紀はアマ多利思比孤大王を摂政として挿入したのである。したがって、逆に厩戸の事績はアマ多利思比孤の事績と認定できうる。
何故書紀はこのようなことをしたのか、すなわち、倭国王を天皇と認めなかったかの問題が提起される。アマ多利思比孤オオキミ(大王)政権をポイント的に認めなかったのか、系列的に認めなかったかの問題も生じる。
大王位そのものを表さない書紀であるから、大王政権を系列的に認めていないとできよう。大王政権が倭国を統治していたのであるが、その個々の政権が、名前、姻戚、性別、位を変えて、あるいは別人物として、あるいは抹消されたりしていると考えるべきなのである。
従って言いたいことは、書紀は歴史書として核になる代物ではなく、読み物として参考にされるべきものだと言うこと。

359:日本@名無史さん
22/03/17 17:38:30.05 .net
>>323
>日本人なら真っ先に思い浮かぶのは アマテラスとかタラシヒコとかいう人名だろう、
>などと簡単に予想が付き、これは固有名詞ではなく、
>やまとことばによる尊い現人神への尊称であるとすぐに思いつくものだ。
矛盾しているじゃん。
アマテラスもタラシヒコも人名だよ。

360:日本@名無史さん
22/03/17 17:42:11.88 .net
要するに、隋書にある倭国政権と、日本書紀にある畿内日本国は別の国なんだよ。
ならば倭国と呼び得る国は、後漢書以来、一貫して九州北部しかない。

361:日本@名無史さん
22/03/17 18:03:59.44 .net
>>316にタリシヒコ政権が畿内である推定を行ったが、何か?

362:日本@名無史さん
22/03/17 19:32:41.59 .net
アマタラシヒコは豊旗ですね
豊前だね
オオタラシヒコが拠点にした辺り
4世紀のオオタラシヒコを支えた勢力がまた同じようなことをしたんじゃないか?

363:日本@名無史さん
22/03/17 20:37:00.86 .net
「ですね」「だね」「体言止め」「じゃないか?」は反撃を恐れている表現だ。
反撃を恐れず自信を持った発言でなければ、レスはない。

364:日本@名無史さん
22/03/18 10:57:43.23 .net
>>342
負けてるから、そうやって自分だけにわかる理屈をこねて自分を励ましてるんだねw
わかるよ、よくわかるよ、キミの焦燥感ww
はたから見てるとバカにしか見えないんだけどwww

365:日本@名無史さん
22/03/18 13:18:30.55 .net
「~るんだね」「体言止め」「~だけど」
反撃を恐れるあまり、不快感すら詠嘆口調になる統失。

366:日本@名無史さん
22/03/18 13:24:51.91 .net
タラシヒコの諡号が、九州にゆかりのある天皇にしばしば使われていることは確かだ。

367:日本@名無史さん
22/03/18 17:22:33.34 .net
「ゆかり」「しばしば」が既にあいまい。
あいまい表現を「確かだ」と断定口調で言ってもあいまい。
それよりも、アマタリシヒコ時代の遺跡とか金石文とかないのかね。
根拠があるから、九州説なんだろう。教祖様は何ておっしゃってるんだ?

368:日本@名無史さん
22/03/18 20:10:29.22 .net
九州説の根拠となる遺跡や金石文が無いのなら、
九州説が起きたきっかけでもいいんだが。

369:日本@名無史さん
22/03/18 20:49:17.83 .net
筑紫、吉備、葛城の三国があって、一世紀中期まで独自外交して力があったのが筑紫ってことだろ。

370:日本@名無史さん
22/03/18 21:18:16.75 .net
継体天皇の時代ですら、筑紫を下せていない。
倭国の名は白村江まで使われている。

371:日本@名無史さん
22/03/18 21:40:01.04 .net
大宰府を囲む羅城は総延長50キロメートルを超える。
歴史学者は白村江の敗戦を受けて防衛のために建設したと主張するが、敗戦後に大宰府は唐に占領されているのだから、そんなものを建設する意味がない。
敗戦国に許されたのは、平城京のような城郭を持たない首都だけだった。
それは中国文化を取り入れているはずの当時の東アジアの都市のあり方としてはひどく不完全だ。
本来なら、東アジアの国の首都は大宰府のように羅城があるのが普通なのである。
大宰府羅城の正確な年代は不明だが、羅城の一部である水城の最下層の木材の炭素年代測定の結果は、卑弥呼の時代のものであった。
大宰府のような大規模な王都であれば、後宮に女性が数百人いてもおかしくない(後の京都御所と同じくらい、江戸城大奥よりは小さい)。

372:日本@名無史さん
22/03/18 21:45:18.56 .net
継体紀では最終的に筑紫を下している。
それ以前に、九州と関東で同じ大王名の鉄剣が出ているのは統一の証拠だろ。
磐井の件は一時的な反乱だったろう。
白村江で「倭国」が使われていることと九州説と何の関係がある?

373:日本@名無史さん
22/03/18 21:49:47.96 .net
継体天皇と戦ったのは筑紫の君イワイであった。
(イワイは亡くなったが、筑紫の君の座は息子が継承している)
白村江で負けて捕虜になった倭国の指揮官は筑紫の君サチヤマであった。
遣隋使の年代は間に位置しており、筑紫の君が大宰府の主であり、倭王タリシヒコの一族であると考えるのは不自然ではない。
隋書には、倭には阿蘇山という山があり、時折火を吹くという。
旧唐書には、日本は倭の小国であったが、やかて倭を併合したある。

374:日本@名無史さん
22/03/18 21:51:15.40 .net
>>351
>継体紀では最終的に筑紫を下している。
下していない。
屯倉一つを獲得しただけだ。
筑紫の君の称号はイワイの息子が継承したので、倭の国体は維持されている。
これでは下したことにはならない。

375:日本@名無史さん
22/03/18 21:53:34.74 .net
>>351
>白村江で「倭国」が使われていることと九州説と何の関係がある?
後漢書によると、倭とは朝鮮半島南岸の狗邪韓国を西北の境とし、九州北岸の倭奴国を南限とする。
そしてその代表は倭奴国王であった。
つまり倭とは九州北部にあった国というのが中国がわの認識だということになる。

376:日本@名無史さん
22/03/18 22:03:50.10 .net
>大宰府を囲む羅城は総延長50キロメートルを超える。
歴史学者は白村江の敗戦を受けて防衛のために建設したと主張するが、敗戦後に大宰府は唐に占領されているのだから、そんなものを建設する意味がない。
百済王族扶余勇が倭国にいることが唐書にある。彼は白村江の敗戦で倭国に走った。
彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
朝鮮山城といい、50㎞の羅城は扶余の都のものに同類とされている。
>敗戦国に許されたのは、平城京のような城郭を持たない首都だけだった。
それは中国文化を取り入れているはずの当時の東アジアの都市のあり方としてはひどく不完全だ。
本来なら、東アジアの国の首都は大宰府のように羅城があるのが普通なのである。
隋書では無城郭と記されているが。
>大宰府羅城の正確な年代は不明だが、羅城の一部である水城の最下層の木材の炭素年代測定の結果は、卑弥呼の時代のものであった。
大宰府のような大規模な王都であれば、後宮に女性が数百人いてもおかしくない(後の京都御所と同じくらい、江戸城大奥よりは小さい)。
炭素年代測定が正しければ、材料がその当時の物だったということで、建造された時期がそうだともいえまい。
朝鮮山城は天智が百済将軍に命じて造らしめ水城もつくらしめたとの天智紀を信じれば、
天智=扶余勇であり、時代背景などすべてつじつまが合う。

377:日本@名無史さん
22/03/18 22:11:46.35 .net
>>355
>彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
大宰府が占領されてから作ったのか?
>隋書では無城郭と記されているが。
なるほど。
そこは考慮しなくてはいけないね。
>炭素年代測定が正しければ、材料がその当時の物だったということで、建造された時期がそうだともいえまい。
それは詭弁だ。
普通は、伐採した年代と建物を建造した年代が違うなどという想定はしない。
大宰府だけ何百年も前の建材を再利用したというのか?
少なくとも水城の建設は卑弥呼の時代にまで遡るというのが科学的な考え方になるはず。
>天智=扶余勇であり、時代背景などすべてつじつまが合う。
時代が近いだけで、同じ人物だとする確証はない。
当時の倭と百済の親密な関係を鑑みれば、羅城の様式が同じなのは当然だし。

378:日本@名無史さん
22/03/18 22:11:50.82 .net
>遣隋使の年代は間に位置しており、筑紫の君が大宰府の主であり、倭王タリシヒコの一族であると考えるのは不自然ではない。
大宰府が磐井の時代にあれば、隋書に無城郭とは書かれない。
>隋書には、倭には阿蘇山という山があり、時折火を吹くという。
畿内へ行く途中に見に寄ったのかもしれん。
>旧唐書には、日本は倭の小国であったが、やかて倭を併合したある。
それは天智=扶余勇政権が南遷した百済を日本と名付け、旧倭国を併呑したという意味。
旧唐序から670~672年と見受けられる。その後壬申の乱で倭国が復活するが国名は日本を踏襲した。

379:日本@名無史さん
22/03/18 22:22:12.64 .net
>普通は、伐採した年代と建物を建造した年代が違うなどという想定はしない。
大宰府だけ何百年も前の建材を再利用したというのか?
少なくとも水城の建設は卑弥呼の時代にまで遡るというのが科学的な考え方になるはず。
天智紀に朝鮮山城は天智が百済将軍に命じて造らしめ、水城もつくらしめたと記述されている。
天智紀の他の事項については年代、人名が克明であり、
朝鮮山城・水城は天智=扶余勇が造ったとするのがぴったりだと思う。
朝鮮山城の分布は、扶余勇が最初に移った北九州あたりに多く、最後に遷った近江が東限だ。
だんだん必要性を感じなくなったのと、朝鮮山城支配様式が倭国には合わないと解ってきたのだろう。

380:日本@名無史さん
22/03/18 22:31:23.09 .net
>>彼が防衛システムを作った。言い換えれば百済国を南遷させた。
>大宰府が占領されてから作ったのか?
扶余勇が百済国を南遷させるまえに大宰府あたりに何があったかは不明だが、倭国王のもとに支配されていた。
倭国王が扶余勇に百済国南遷を許したので大宰府等防衛システムが簡単に作れた。
こういうことが行われたのは倭国王自身が百済出身だからだと別の考察で帰結された。

381:日本@名無史さん
22/03/18 22:49:43.92 .net
>>357
>畿内へ行く途中に見に寄ったのかもしれん。
畿内へ向かう途中でどのような�


382:求[トを通ったら阿蘇山の近くに行くというのか。



383:日本@名無史さん
22/03/18 22:50:38.12 .net
>>357
>それは天智=扶余勇政権が南遷した百済を日本と名付け、旧倭国を併呑したという意味。
それなら日本国はかつての百済と記載されたはずだ。

384:日本@名無史さん
22/03/18 22:53:43.39 .net
>>359
>倭国王が扶余勇に百済国南遷を許したので大宰府等防衛システムが簡単に作れた。
なぜ倭が筑紫大宰府を百済に明け渡すというこか。
倭も百済も敗戦国になったら、何から何を防衛するなか。
壮大な大宰府羅城の建設には何年もかかっただろう。
白村江より前から作っていたはずだ。

385:日本@名無史さん
22/03/18 23:04:33.31 .net
>それなら日本国はかつての百済と記載されたはずだ。
いろいろ、中国にも事情があるんじゃないか。禰軍は百済佐平であったが、百済崩壊時に寝返って唐の将軍になった。かれは、恩義ある扶余家百済をなんとか生き延びさせたい気持ちがあったように思う。禰軍は天智紀に倭国を訪れたとある。扶余勇に会ったと思う。禰軍墓誌に扶余勇を指してだと思うが「日本ヨショウが罪を逃れんとし」とあるのは、白村江の戦の罪を言っているのだろう。実際、扶余勇は罪にはならなかった。しかし、天智紀に「筑紫都督府」が残されている。扶余勇は唐の都督を承諾して罪を免れたのだと思う。一旦唐の都督となり配下に下ったのだから、日本が百済の生き残りだと言えば、後の政権に攻撃材料を与えるではないか。慈悲ということだろう。そういう胸の内が禰軍にあったように思う。

386:日本@名無史さん
22/03/18 23:11:56.37 .net
>なぜ倭が筑紫大宰府を百済に明け渡すというこか。
この時の倭国王は百済国生まれで、扶余家百済を助ける義務のようなものがあった。
>倭も百済も敗戦国になったら、何から何を防衛するなか。
基本的に唐は海の向こうまでは攻める気はないように思う。ただ、罪にする。
倭国王は封禅の儀に出席することを約束し、唐の配下に下ったことを認めた。
>壮大な大宰府羅城の建設には何年もかかっただろう。
白村江より前から作っていたはずだ。
土饅頭だ。百済は南遷を繰り返しているから、都を作るくらい平気じゃないか?
人力は倭国王にかき集めさせればいいのだから。

387:日本@名無史さん
22/03/18 23:28:45.02 .net
>畿内へ向かう途中でどのようなルートを通ったら阿蘇山の近くに行くというのか。
中国人は火山を見たことがない。是非とも見ておきたいだろう(見たとすれば)。
倭の五王が統一しているから、既に道はあっただろう。途中とは、わざわざ立ち寄るという意味。
火山は聞いた話かもしれないし、あまりタリシヒコの居所と直接関係ないと思うが。

388:日本@名無史さん
22/03/19 00:33:44.89 .net
九州もまた特別な地域だね。
各種神宮神社、志賀島、長崎、南方列島、高千穂、
筑紫の日向の小戸の阿波岐原、阿蘇雲仙島原各種国立国定公園・・・
印象的で歴史的な地方だね。

389:日本@名無史さん
22/03/19 00:38:04.71 .net
厩戸皇子は、蘇我馬子が最大の敵だったみたいだね。
奥さんが蘇我馬子の娘だったんだっけ?

390:日本@名無史さん
22/03/19 08:56:47.81 .net
バカなのかてめえは

391:日本@名無史さん
22/03/19 09:59:49.61 .net
扶余勇に北九州を譲った倭国王に就いての補足
書紀では天智称制となっていて倭国王が不存在だが、旧唐書に「倭国酋長」がいる。
これが倭国王だが、誰かという問題が生じる。
すこし込み入って来るが、皇極紀のギョウキ王まで遡らねばならない。
書紀は百済王族ギョウキ王を人質としていない。
かつ40名あまりの高名な人々が同伴している政治集団。
細かいことを省くが、彼が孝徳天皇となり、新たな宮殿様式(百済武王のものと類似)で難波に宮を作り、律令政治を始めた。
ギョウキ王は子をなくすが、もう一人いたことが書紀を読めばわかる。
この人物が孝徳の皇太子になるべきだが、書紀は正直に書いていない。
斉明に重ソさせたり、天智(=扶余勇)を持ってきたりしている。
実際はこの百済生まれの皇太子が孝徳の後を継いだ倭国王だと思う。
かれこそ、大海人皇子。
大海人皇子が倭国王で、百済崩壊が起り、白村江の戦で援軍を送り、百済を再興するのに助力した。
扶余勇と大海は従兄で扶余家では勇が本家筋にあたり格上。
百済はつねに、南遷先を準備していたんではないかな。
倭国には人質と呼ばれる百済王族が何人も来ているのは、支配地域を南に求めていたんだろう。

392:日本@名無史さん
22/03/19 12:50:31.38 .net
>>368
いやねえ
音楽アプリAWAにある、
深見東州「厩戸皇子のアリア第1楽章、第3楽章」のなかに、
「愛する妃とじこは、馬子の娘」というフレーズがでてくる。
一度だけ、そのとじこさんは、馬子側についてしまったらしい。
だからもう、実際の日本史は、現代人には想像がつかない。

393:日本@名無史さん
22/03/19 13:18:5


394:9.31 .net



395:日本@名無史さん
22/03/19 13:19:32.78 .net
>>367
>奥さんが蘇我馬子の娘だったんだっけ?
蘇我馬子は厩戸王の最大の後見人だよ。

396:日本@名無史さん
22/03/19 13:27:06.69 .net
>>364
>土饅頭だ。百済は南遷を繰り返しているから、都を作るくらい平気じゃないか?
おいおい。
山々の峰をめぐる山城だよ。
大野城や基肄城もその一部だ。
とてつもなく大きな城郭だぞ。
山手線一周が約35キロだそうだが、大宰府羅城は一周50キロを超える。
すぐに作れるものではない。
白村江より前から、倭国の王都であった大宰府の守りとして建設されていたと考えるべきだ。
余豊は関係ないだろう。

397:日本@名無史さん
22/03/19 13:32:50.30 .net
>>372
馬子の娘、蘇我刀自古郎女は早くに亡くなったか何かで
厩戸王が生涯添い遂げ一緒に葬られた妻は膳部菩岐々美郎女だった
蘇我氏との縁が薄くなったので最後のほうは
飛鳥から遠い斑鳩隠居で干されていたともいう

398:日本@名無史さん
22/03/19 13:41:10.12 .net
都を作るには道がある。その総延長は一本7㎞として南北10本東西10本として140㎞。
大宰府羅城は朝鮮山城や水城を結んでいると考えられている。
水城・朝鮮山城と同時に計画されたと見るべき。

399:日本@名無史さん
22/03/19 14:39:22.55 .net
50kmの羅城は土
部分的に石を使う朝鮮山城は周囲6km くらい。

400:日本@名無史さん
22/03/19 14:54:20.77 .net
その水城の最下層が3世紀だからなあ。

401:日本@名無史さん
22/03/19 16:44:02.85 .net
京の都を造築したのは秦氏やど
秦氏らは日本において大工の起源となっておるからのお

402:日本@名無史さん
22/03/19 16:47:33.18 .net
聖徳太子の法隆寺だのも造営したのは秦氏と言われる
聖徳太子に仕えた部下だったからね
その秦氏が自分が作った寺にユダヤと関係ある文字だかなんだか刻んだってんで話が出てきたんやん

403:日本@名無史さん
22/03/19 16:51:44.22 .net
最下層が3世紀は木の炭素年代測定だろうが、その木は掘り返して取り出したのだね。
構造的なことが全部わかったはずだな。長い樋の年代はどうでした?

404:日本@名無史さん
22/03/19 18:39:56.82 .net
水城の最下層部は粗朶と粘土が何層にもなっており、
最上部の粗朶層はAD660年が測定の中央値。
最下層の粗朶層が3世紀と測定されるものの、一点のみの測定であるので、測定を増やして確定したいとしている。
よって、木樋はAD660の粗朶層の上にあるので、水城は天智紀にあるとおり、天智が造らしめたと言ってよいだろう。
最下層の部分は別途研究されればよいだろう。

405:日本@名無史さん
22/03/19 19:58


406::33.69 .net



407:日本@名無史さん
22/03/19 20:08:50.18 .net
他人が言い出した九州説に相当人生を費やしたようだなw
全くバカだ。邪馬台国も磐井もたった24時間で落城w
これまでの統失演技は負けた時の準備wwwww

408:日本@名無史さん
22/03/19 20:19:53.97 .net
>>382
>思い付き仮説を立てて立証する場合、諦めも必要。
思いつきというのは的確ではないな。
大宰府の巨大遺構は事実だし、水城の最下層が非常に古いのも事実だ。
私は九州説だが、扶余勇の話には批判的だし、それではむしろ新しくなってしまう。
あなたは自分が好きな何人とやり取りしているのか理解していないのではないか。

409:日本@名無史さん
22/03/19 20:26:57.40 .net
九州説の立証をライフワークにしたとすれば、扶余勇=天智説の登場は青天の霹靂だな。
それで、執拗な付きまといをしたのだな。まあそれほどの衝撃だったろうことは理解してやる。
しかし、それは突飛な考えに飛びついた君が悪いんだよ。教祖が馬鹿だと見抜けなかったこともなwww

410:日本@名無史さん
22/03/19 20:32:55.07 .net
>水城の最下層が非常に古いのも事実だ。
なら、粗朶の最上層部がAD660も認めるわけだ。水城はその上に立ってるんだよ。
まあ、残る人生を九州説に賭けざるをえまい。無駄だと思うが、やってきたんだから続けりゃいい。
べつに、日本人全員が幸福でなくちゃあならんということもないからな。

411:日本@名無史さん
22/03/19 20:51:03.68 .net
>何人とやり取りしているのか理解していないのではないか。
統失一人だろう? 複数人演技は負けの準備とは既に言っておいた。
君が何様か知らないが、人生を棒に振ったようだ。南無阿弥陀仏。w

412:日本@名無史さん
22/03/19 20:56:31.92 .net
前にも言ったな「俺は負けたことがない」とw
おれは誰にも負けない知能を持ち、全知全能なんだよwww

413:日本@名無史さん
22/03/19 21:07:51.54 .net
大宰府は内裏から南に伸びる朱雀大路を中心に整備された都市だったが、
さらにその周囲に東アジア最大級の羅城があったことになる。
これが白村江より前の7世紀以前に遡るものだとしたら、それを一地方行政機関とすることは無理があるのではないか。
日本で最初の条坊制の都市は藤原京とされるが、なぜか日本書紀などでは新益京と呼ばれる。
それ以前に倭京(または単に京)と呼ばれる都市の存在が日本書紀から窺えるのだが、その場所や実態については謎とされる。
これはいったいどうしたことなのか。
日本の首都がわからないと言っているのも同然なのだが、それは倭京が機内にあると思い込んでいるからではないのか。
後漢書では、そもそも倭とは九州北部を指す言葉なのだから。
日本書紀では645年の大化が日本で最初の年号とされているが、それに先立つ618年(まては620年)には倭京年号が存在していたという説がある。
それなら倭京とはどこにあったのか。
後の藤原京や平城京に先行する条坊制の都市であった大宰府こそ、筑紫を中心とした倭の王都、倭京だったのではないか。

414:日本@名無史さん
22/03/19 21:20:04.99 .net
それでは倭国の王都がなぜ藤原京に移ったのか。
なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
それは白村江における敗戦しかないではないか。
戦勝国であった唐は、大宰府を占領して筑紫都督府を置いた。
倭と同じ敗戦国である百済には熊津都督府を置いた。
(熊津は百済の古都)
筑紫の君サチヤマは唐の捕虜となり、倭国は滅亡したのだろう。
日本国は唐の傀儡政権であり、遣唐使をせっせと派遣して朝貢するようになった。
すべて辻褄が合う。

415:日本@名無史さん
22/03/19 21:24:46.80 .net
天智天皇の子志貴皇子は自身のことを
牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨
と読んでいる
天智天皇の系譜はササの婢なのかもね
ムササビはモモのこと
天武天皇も天智天皇もミミでありモモなんだろうね

416:日本@名無史さん
22/03/19 21:29:01.19 .net
おまえらの考えって日本を滅亡に導こうって誘導してるだけなんだよ
乞食?

417:日本@名無史さん
22/03/19 21:32:43.23 .net
多利思比孤は九州王朝の王
当時中国と交流していたのは九州王朝だから
そもそも聖徳太子は王ではないから

418:日本@名無史さん
22/03/19 21:43:14.21 .net
天武天皇はマジでアマタラシヒコ、田目皇子の子孫の可能性がある
豊前を中心にしたミミ、大タラシ、吉備のアマタラシの勢力
田目皇子→高向王、宝→天武天皇

419:日本@名無史さん
22/03/19 21:50:45.86 .net
扶余勇の大宰府の下敷きになってしまった都市はあるだろうか。
それが消されるまで、倭国の中心だったと立証すればいい。私はそんな昔を調べていないので否定も肯定もしない。
あったとしても、隋書にある通り無城郭だから、城郭や朝鮮山城のない大宰府だ。
しかし、タリシヒコがそこの大王だったとは思えない。なぜなら、
北九州には邪馬台国があっただろうが、その後、五王に見るように古墳は4~5世紀に低地化している事実がある。
低地化したのは低湿地開発のおかげで耕地面積が飛躍的に伸び経済的に低地族が優位になったからだろう。
低地の規模から言って経済的に畿内が倭国の中心になっただろう。北九州では狭すぎる。
そういう状況が起きて都の残骸が大宰府にはあったかもしれないけれど、
タリシヒコの時代は古墳低地化が起きて100年以上経つので、この事実からも北九州ではないと思う。
日本書紀にある倭京とか新益京とかは新たな都藤原京と比べての話とすれば難波だろうと思う、難波も条坊制だから。
これは思い付きだから、立証するには、大宰府や大阪上町台地を掘り返すことだろう。
まぁ、扶余勇の大宰府の前になにかあった?あれば、簡単には扶余勇は移れるだろうか?遠い話だわ。

420:日本@名無史さん
22/03/19 21:59:52.56 .net
>大宰府は内裏から南に伸びる朱雀大路を中心に整備された都市だったが、
さらにその周囲に東アジア最大級の羅城があったことになる。
これが白村江より前の7世紀以前に遡るものだとしたら、それを一地方行政機関とすることは無理があるのではないか。
隋書に無城郭と書かれているのだから、羅城も大野城もない。前提が崩れた。
都があった論証にはならない。やりなおしだ。
仮説を立証するために仮説を積み上げている統失w

421:日本@名無史さん
22/03/19 22:03:19.37 .net
>それでは倭国の王都がなぜ藤原京に移ったのか。
なぜ大宰府は王都ではなくなったのか。
それは白村江における敗戦しかないではないか。
戦勝国であった唐は、大宰府を占領して筑紫都督府を置いた。
倭と同じ敗戦国である百済には熊津都督府を置いた。
(熊津は百済の古都)
筑紫の君サチヤマは唐の捕虜となり、倭国は滅亡したのだろう。
日本国は唐の傀儡政権であり、遣唐使をせっせと派遣して朝貢するようになった。
すべて辻褄が合う。
なるほどね、辻褄がね。で、どんな事実を踏まえて?

422:日本@名無史さん
22/03/19 22:06:10.69 .net
統失は整理して1ケ月後にでも。この調子じゃかみ合わないからね。敗北宣言か?wwww

423:日本@名無史さん
22/03/19 22:13:34.56 .net
>>397
事実
唐は畿内ではなく筑紫に都督府を置いた
倭は国号を日本に変更した
筑紫の君が捕虜になった
遣唐使が派遣された

424:日本@名無史さん
22/03/19 22:49:05.67 .net
>唐は畿内ではなく筑紫に都督府を置いた
で、都督は誰だったの?
扶余勇を都督にして罪を逃れさせる禰軍の計らいだろうと説明したが・・・。
>倭は国号を日本に変更した
年次的に扶余勇が倭国号を変更したかったが百済ではまずいので日本に変更したと説明した。
>筑紫の君が捕虜になった
筑紫君は大海人に命じられた総大将だったかもしれないな。
>遣唐使が派遣された
扶余勇都督が半島に報告連絡相談に遣いを出したのを遣唐使と言っている。
お前が挙げた事実は扶余勇で解決している。九州説を必要としない。

425:日本@名無史さん
22/03/20 08:31:25.87 .net
扶余勇って人物しかおらんの?


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