21/11/25 22:59:18.58 .net
古田?
3:日本@名無史さん
21/11/25 23:07:18.30 .net
古田?そんなのと違います。
独自研究から帰結された。
最初から筋書きを持っていたわけではありません。
書紀の癖が解ってきたのです、扶余勇を天智として隠した書紀の癖からね。
4:日本@名無史さん
21/11/26 06:09:42.32 .net
電波か、つまらん
5:日本@名無史さん
21/11/26 06:36:18.54 .net
電波? 真実だよ
6:日本@名無史さん
21/11/27 10:08:22.04 .net
律令制は中国からもたらされたなんて言いますがね、
孝徳の前期難波宮は律令制を体現していますが、
丘陵を立地としていることやサイズの上で百済武王の宮殿と酷似してます。
やはり、孝徳は武王の子(ギョウキ)で百済から律令制をもたらしたんじゃないですか。
高名な人々40人以上でしたっけ、引き連れていますからね。
7:日本@名無史さん
21/11/27 17:49:40.99 .net
>孝徳の前期難波宮は律令制を体現しています
体現とはどういう風に?
8:日本@名無史さん
21/11/27 20:21:09.10 .net
前期難波宮をみていますか?
中央(前殿)があり、その左右に多くの庁が控えている。これを体現というのは常識です。
それまでの明日香の宮殿とされるものは庁に相当するものが申し訳程度でしかありません。
王の私生活の場は明日香では宮殿とは別ですが、難波では統合されています。
9:日本@名無史さん
21/11/28 13:32:13.59 .net
翹岐王は百済から家族と高名な人々40名以上と来邦しました。
帰った記述はありません。書紀は島流しという表現で彼を迎えています。
10:日本@名無史さん
21/11/28 14:45:22.91 .net
>>8
別に難波宮自体は少なくとも6cからあったわけで、
それがギョウキやプヨヨンの行動の証拠にならんと思うけど。
まだ妄想レベルw
11:日本@名無史さん
21/11/28 14:50:10.74 .net
>>9
もし彼らが高名でその後も大和で特別扱いされたら記録に残ってるし、
子孫も公に名乗ってるだろ。
あなたの説は彼らが隠してることが前提になってる。
その当時の事情として、百済王族だったら記録に残ってる筈なわけで。
隠されるというのは悪人だったと考えなくてはいけないねwww
12:日本@名無史さん
21/11/28 15:22:28.58 .net
>>10
いいところに気づきましたね。
前期難波宮は孝徳が建てたのですが、その場所が問題で、堀江の南にあたります。
仁徳の宮もそのへんにあり、はっきりしませんが、難波にあった大王政権の宮を潰して前期難波宮は建てられたと想像します。
13:日本@名無史さん
21/11/28 15:29:38.73 .net
>>11
記録とおっしゃいますがね、
古事記の序文にあるとおり、
天武は王統を正しましたので
ふるい記録を廃棄した可能性があります。
ですから記録がないのは証拠になりません。
14:日本@名無史さん
21/11/28 15:41:39.18 .net
天神夷とか月光太子とか論じてない時点で何の意味も無い
15:日本@名無史さん
21/11/28 17:49:52.61 .net
ねえねえw、ぷよよん?
ぷよよんって、日本神道信者で記紀がバイブルなのwww
そこって、藤原朝に移行の鎌足の傀儡修正で、
記紀のご都合ストーリーなだけで、
女帝が実在しないでも良い処だろ?
皇統は
タリシヒコ(上宮法皇並立)-舒明-天智
で、男子直系だよ。
先王の崩御で皇太子が襲名って制度でもなかった感じだろ?
そのせいで、豪族の紛争になって尊属暗殺だらけなんだぞ?
世継ぎ紛争の最中に背乗りで
暗殺されてたら、まぬけ杉だろwww
てか、架空の在位に背乗りするかよ?
記紀は、焼失した歴史の発掘と共に、
修正されなければならない歴史文献なのである。
が、プヨヨン、みたいな、日本神道の信者だと、
邪馬台国が東遷したりw 白石や宣長のように、
日本の統一が無かった時代なだけなのに
卑弥呼は王を騙った詐欺師になっちゃったりするのである。
プヨヨンって、もしかしてだけどw
金石文や、日本王府の話とかだと、
漢文とか漢字? が読めないんじゃないの?
16:日本@名無史さん
21/11/28 18:59:11.71 .net
船王後の墓誌
(表)
惟 船氏 故 王後首 者 是 船氏 中租 王智仁首 児 那沛故首 之子也
生 於 乎婆陁宮 治天下 天皇之世
奉仕於 等由羅宮 治天下 天皇之朝
至 於 阿須迦宮 治天下 天皇之朝
天皇 照見 知其才異 仕有功勲 勅賜 官位 大仁品 為第
(裏)
三
殞亡 於 阿須迦天皇之末 歳次辛丑十二月三日 庚寅
故 戊辰年十二月 殯葬 於 松岳山上 共婦 安理故能刀自
同墓 其 大兄刀羅古首 之墓 並作 墓也
即為 安保万代之霊 其 牢固 永劫 之寶地也
この墓誌の船王後 は、
乎婆陁宮の天皇、紀、敏達572~585
等由羅宮の天皇、紀、上宮法皇、押坂彦人大兄591?~622
阿須迦宮の天皇、紀、舒明629~641
の三代の間に文官として仕えています。
船王後も文人、文官ですから、
この墓誌の天皇順は正しいはずで、
阿毎多利思比孤は
上宮法皇、押坂彦人大兄 591?~622
隋書にある、兄弟二人でで執政をとっていた
期間にあった、日本の王です。
17:日本@名無史さん
21/11/29 00:33:16.79 .net
船王後の墓誌はあとから入れられている。
アマタリシヒコは弟(=日?)に委ねたのであり、トップはアマタリシヒコ。
18:日本@名無史さん
21/11/29 22:58:30.06 .net
統失は邪魔