源義経at HISTORY源義経 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト150:日本@名無史さん 22/04/09 22:31:49.45 .net 未だに漕ぎ手狙いを信じてる奴がいるのが笑えるわ 151:日本@名無史さん 22/04/10 11:14:04.27 .net 「決戦!源平の戦い」で紹介されていた海上保安庁の解析によると、当日の潮流の流れは合戦の間ずっと九州から瀬戸内海側に向かって流れていたとのこと。 従って九州から外海に流れることはないが、還流が門司港IC近くの田野浦に向かって流れていたので、それに乗って流された可能性はあったそうです。 源範頼らが壇ノ浦の九州側にいたとのことなので、範頼らが田野浦に向かえば、平家方は海の義経方と陸の範頼方から挟み撃ちにあうことになったかも知れません。 152:日本@名無史さん 22/04/11 15:07:26 .net 『金史別本』という書物に、中国の金朝(1115年~1234年)の頃に「源義経」という名の大将が存在したことが記されている。また、清朝(1644年~1911年)はまさに金朝の政治遺産を直接受け継いでおり、満州の貴族も自らを源義経の後代と認めている。たとえば、乾隆帝は『古今図書集成』中の『図書輯勘録』の自序において 「朕の姓は源なり、義経の後裔なり。源義経の出自は清和(天皇)なり、故に国号は清なり」と記している。しかし実際は、『金史別本』は偽書であり、まったく信用できない。それに、清代の文献には乾隆帝によるこのような話は残されていない。清朝史研究者の研究によれば、「大清」という国号の由来は 中国語の「清潔」や「清浄」といった概念とはまったく関係がなく、満州語のDaicing(Daicin)という言葉が重訳されたもので、「勇士」を意味する[7]。 『成吉思汗ハ源義経也』に集められたこれらの音声学や民俗学に基づく根拠の信頼性に議論の余地があることは、現在のわれわれには想像に難くない。しかし、このような推敲に耐えられないような説が広く言い伝えられたばかりでなく、繰り返し引用され、転載されたのはなぜだろうか。出版された年代から見れば、 1920年代は日本が海外に領土を積極的に拡張した時期で、モンゴル―満州の貴族は日本の武士と祖先を同じくしたという「東亜同源」に基づく学術的見解は、「満蒙の征服」を目指す当時の政治情勢や国家政策に迎合したものであり、出版されるやいなやベストセラーになったことは疑いがない。しかしながら、当時の学界の主流はこの見解に大反対であった 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch