初心に戻り坦懐に魏志倭人伝を読むat HISTORY
初心に戻り坦懐に魏志倭人伝を読む - 暇つぶし2ch55:日本@名無史さん
21/06/04 17:14:34.00 .net
>>29
西晋の陳寿が100年前の後漢時代(2021年現在の日本で言うと大正時代)のことを書いているわけで、57年の漢委奴国王(後漢光武帝へ)と107年朝貢の帥升(後漢安帝へ)を、まとめて指している可能性が高い。
その時(後漢=2世紀初頭)100国で、倭国大乱(2世紀後半)を経て国の統廃合が進み、今(西晋の時代=3世紀末)30国ということ。
倭人在帶方東南大海之中(循海岸水行 乍南乍東) 依山嶋為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

56:日本@名無史さん
21/06/04 17:22:50.58 .net
訂正
西晋の陳寿(280頃)が180年前の後漢時代(2021年現在の日本で言うと幕末天保年間)のことを書いているわけで、57年の漢委奴国王(後漢光武帝へ)と107年朝貢の帥升(後漢安帝へ)を、まとめて指している可能性が高い。
その時(後漢=2世紀初頭)100国で、倭国大乱(2世紀後半)を経て国の統廃合が進み、今(西晋の時代=3世紀末)30国ということ。
帯方郡については、北方説と南方説があるが、百済との関係を考えると、時代や状勢によって移動していたというのが真相ではないか。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

57:日本@名無史さん
21/06/04 17:38:52.13 .net
後漢(魏)時代の帯方郡と今(西晋時代)の帯方郡が、百済建国の前夜にその勢いに押されて、南から北へ移動したのじゃないだろうか?
肥前名護屋城が秀吉の死後、唐津城に移ったり、清洲城が名古屋城に移ったり、って感じじゃないの?

58:蛸卵形
21/06/04 18:01:30.46 .net
>>52
なるほど 水行は陸地に沿って航行するという説はあるようです
>>55
これもおっしゃるとおり、漢代の2つの倭人の事例をまとめて指していると
見るのがよいのでしょう
>>56
帯方郡治の位置は今後の課題になりますね

59:蛸卵形
21/06/04 18:04:24.11 .net
短里について意見、論説のある方はいませんか

60:蛸卵形
21/06/04 18:29:39.67 .net
>>55
「今」が西晋の3世紀末を指しているというのは同意です
国の統廃合には卑弥呼の魏への遣使も影響を与えたかもしれません
おそらく台与の朝貢後、使役通ずるところが30国ということかと思います

61:日本@名無史さん
21/06/04 18:31:20.43 .net
後漢の時代は長里、その後追加された情報=今(西晋時代)は短里、でそのまま書かれたため、2つの時代の「里」が混同されている可能性もある。

62:蛸卵形
21/06/04 18:34:55.57 .net
もし長里と短里がまじっているとすれば
陳寿が知っていれば統一するでしょうから
気づかないまま資料を引き写したということでしょうか

63:日本@名無史さん
21/06/04 18:37:50.72 .net
>>60
100→30という1/3の劇的な国の統廃合は、倭国大乱以外に考えられない。
それを邪馬台国が成し遂げ、卑弥呼が女王に共立されたということ。
>>61
後漢の長里と西晋の短里は、畳で言うと京間(6.5尺)と江戸間(6尺)の違いみたいなもんかも。

64:蛸卵形
21/06/04 18:40:19.73 .net
>>63
なるほど
しかし邪馬台国と狗奴国の戦争でも互いに同盟した国があり
統廃合もあったかもしれません

65:日本@名無史さん
21/06/04 18:45:13.13 .net
>>62
>>25 「東冶の東→邪馬台国女王之所都」という結論ありきで陳寿は書いたわけだから、長里か短里かなんてどうでもいいの。

66:蛸卵形
21/06/04 18:49:25.31 .net
>>65
それについては「東冶の東」が出てくる部分での論議としたいと思います

67:蛸卵形
21/06/04 18:52:14.67 .net
第3節にいきます 文字化けはご容赦ください
本日はこれを最後にします

68:蛸卵形
21/06/04 18:54:31.14 .net
・始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶? 
 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 
 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
・始めて一海を度る 千余里 対海国に至る その大官は卑狗と曰い
 副は卑奴母離と曰う 居する所絶島、方四百余里ばかり
 土地は山険しく深林多し 道路は禽鹿の径の如し
 千余戸有り 良田無く、海物を食し自活す 船に乗り南北に市糴す

疑問① 「對海國」は對馬國の誤記なのか (魏略逸文では對馬國)
疑問② 「其大官」とあるが、これは邪馬台国から任命された官なのか
     それとも現地の王のことか
疑問③ 「卑狗」は「比古(彦)」、「卑奴母離」は「夷守」という説があるがどうか
疑問④ 「方可四百餘里」は島を正方形に見立てた一辺のことか
疑問⑤ この里程は目視による概算なのか、それとも実測したものか
疑問⑥ 「乗船南北市糴」とは、倭と韓の両方に通商していたということか

69:日本@名無史さん
21/06/04 19:05:41.94 .net
対馬は現地の首長を邪馬台国が追認した「大(代)官」という理解で良いだろう。

70:日本@名無史さん
21/06/04 19:11:34.02 .net
「卑狗」は「彦」だから現地の首長、「卑奴母離」は「夷守」で邪馬台国から派遣された補佐官(目付)だった可能性もあるよ。

71:日本@名無史さん
21/06/04 19:51:38.14 .net
「さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち」の監視艦隊司令ミル(見る)みたいな?w

72:蛸卵形
21/06/04 20:18:49.25 .net
>>70
そうですね、その可能性はあると思います
3世紀ということを考えれば、そこまで集権化は進んでおらず
邪馬台国からすべての国に官を派遣していたとは考えにくい
しかし現地首長と邪馬台国からの副官という組み合わせはありえるかもしれません

73:日本@名無史さん
21/06/04 20:26:07.36 .net
>>47
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
URLリンク(ja.wikipedia.org)
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

74:蛸卵形
21/06/04 20:33:28.80 .net
あと自分が 疑問⑥「乗船南北市糴」とは、倭と韓の両方に通商していたということか
を置いたのは、倭の九州北部と朝鮮半島南部ではどの程度言語が共通していたかに
興味があるからです

75:日本@名無史さん
21/06/04 20:34:52.18 .net
>>73
ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、国民の無知に付け込み、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。

76:日本@名無史さん
21/06/05 01:08:37.01 .net
>>49
三国志魏書明帝記では司馬懿の公孫淵討伐を四千里としているので①は無い
一方で、倭人条と同じ東夷伝の文中では全て短里で記されている

505 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:11:52.51 ID:V7dsXfha0
>>102
夫余や高句麗の方可二千里、東沃沮の可千里は短里じゃないとその場所に収まらないよ
長里だと夫余や高句麗は約900km四方になって朝鮮半島の数倍、黒龍江省と吉林省がまるごと入るくらいの巨大国家になってしまう
朝鮮半島の付け根にそんな巨大国家を設定すると遼東まで飲み込まれて公孫淵は一体どこを支配していたのかということになる
URLリンク(i.imgur.com)
522 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:39:48.29 ID:V7dsXfha0
>>505のついでに言うと900kmって魏の都・洛陽から蜀の都・成都までの距離に等しい
魏の都・洛陽から呉の都・建業(今の南京)までは650kmに過ぎない
夫余や高句麗の方可二千里が長里ではあり得ないことが理解できるだろう

77:日本@名無史さん
21/06/05 01:16:02.61 .net
魏志韓伝に韓の大きさが方四千里と書かれているが、
三国のほぼ中央に位置する荊州・襄陽を中心に方四千里の範囲を地図に描くとこんな感じ
URLリンク(i.imgur.com)
ほぼ中華全土に匹敵する
当然魏国よりもはるかに大きくなってしまう
魏の国の人間が韓が自国より大きいと誤認することなどあるわけがない
東夷伝が短里であることに疑いの余地は一片も無い

78:日本@名無史さん
21/06/05 06:44:38.76 .net
>>75
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子(以和為貴)」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
URLリンク(www.furutasigaku.jp)
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

79:日本@名無史さん
21/06/05 08:40:30.78 .net
今城塚古墳に眠る治天下大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

80:蛸卵形
21/06/05 09:21:46.54 .net
では第4節にいきます
ちなみに、ここは文献を重視したスレですが、考古学的知見も適宜用いていきます

81:蛸卵形
21/06/05 09:34:35.00 .net
・又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 
 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
・また南 一海を渡る 千余里 名は瀚海と曰う 一大国に至る
 官はまた卑狗と曰い 副は卑奴母離と曰う 方三百里ばかり
 竹木叢林多し 三千ばかりの家有り やや田地有り 田を耕すも
 なお食するに足らず また南北に市糴す
疑問① 「一大國」は「一支國」の誤記か (魏略逸文では一支國)
疑問② 「千餘里」の部分で海上の里程はどうやって測ったのか 所要時間からか
疑問③ 官名が対海國と同じなのはなぜか
疑問④ 「瀚海」とは倭人の呼び名か、それとも中国からのものか
疑問⑤ 原の辻遺跡(長崎県壱岐市芦辺町・石田町)が一大國の国都か
疑問⑥ 原の辻では三韓土器・楽浪土器が出土するが、どのような交易が行われていたか

82:日本@名無史さん
21/06/05 09:42:59.79 .net
現地の王(邪馬台国によって追認された「官」)を、「殿(彦)!」とか「姫!」って一般名詞で呼んでたから、それがそのまま「倭では王(女王卑弥呼の官)を彦と呼ぶ」っていう意味合いで、官名として記載されたと思われ。

83:蛸卵形
21/06/05 09:56:00.20 .net
>>82
それは十分考えられることですが、後述する伊都国などは官名が違ってますね

84:日本@名無史さん
21/06/05 09:59:31.42 .net
↓伽耶
対馬・壱岐
倭国↑
三角貿易やってたんじゃね? 
帯方郡使常駐(魏帝国大使館)&一大率が置かれていた伊都国は特別な希ガス

85:蛸卵形
21/06/05 10:05:53.93 .net
弥生後期に入ると原の辻遺跡から三韓土器のみならず楽浪土器が増えてくるんですよね

86:日本@名無史さん
21/06/05 10:08:15.44 .net
>>56
>>57 
馬韓(三韓時代)が百済(西晋時代)になってから南から北に移動し(押し返された)たんジャマイカ?
URLリンク(himiko-y.com)

87:蛸卵形
21/06/05 10:24:13.71 .net
私見ですが、卑弥呼の魏への遣使以後、対馬、壱岐を経由して楽浪人
つまり中国人が入ってくるようになった
その過程で原の辻が交易の拠点化した
倭人は鉄や鏡などの威信財と食料その他を
物々交換していたのではないでしょうか

88:日本@名無史さん
21/06/05 10:41:44.86 .net
それでいいと思うよ。スレ主さんは、もっと自説をどんどん出してくれ。断定口調で桶。

89:日本@名無史さん
21/06/05 10:59:32.64 .net
>>87
世界各国の特産品売り場(アンテナショップ)を集めた、WTCビルみたいな感じだったんじゃね?

90:蛸卵形
21/06/05 11:01:01.39 .net
>>89
うーん、なんとも言い難いですが、中国人は少しの鉄や粗悪な鏡で
多くの海産物などを手に入れることができて大儲けだったんじゃないかと思います

91:日本@名無史さん
21/06/05 13:15:58.32 .net
アリかナシかで言えば、アリやな。どんどん自説お願い。

92:蛸卵形
21/06/05 13:25:25.51 .net
そもそも卑弥呼の遣使以前は公孫氏がいたために
倭人は中国(魏)と通行することができなかったのが
公孫氏の討伐、卑弥呼の遣使により楽浪・帯方から倭に来るルートが開けた
それにより交易の中心地が朝鮮半島南岸から壱岐・原の辻に移ったと考えます

93:蛸卵形
21/06/05 13:30:52.59 .net
238年、司馬懿の討伐により公孫氏が滅亡し
その直後に卑弥呼が魏に遣使したのは非常にタイムリーであり
邪馬台国は何らかの形で大陸の情報を得ていたものと思われます
邪馬台国は魏以前は公孫氏に朝貢していたとする研究者もいます

94:蛸卵形
21/06/05 13:49:32.15 .net
やや考古学的なレスが多くなってしまいました
第5節にいきます

95:蛸卵形
21/06/05 13:50:41.95 .net
・又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 
 好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
・また一海を渡る 千余里 末盧国に至る 四千余戸有り 山海に浜して居す
 草木茂盛し 行くに前人を見ず 魚鰒を捕るを好み 水の深浅なく
 皆 沈没してこれを取る
疑問① 末盧國とは松浦半島のことか
疑問② 松浦半島だとしたらその中心地は
疑問③ なぜ官名が記されてないのか
疑問④ この記述は一大國から末盧國に渡ったということか
    もしそうだとしたら直接伊都国に行かない理由は何か
    それとも、たんに地誌的に九州北部沿岸を西から東に紹介しているのか

96:蛸卵形
21/06/05 14:35:21.66 .net
補足 邪馬台国研究家の中には、帯方郡から邪馬台国までの行程記事を
建中校尉 梯儁等のたどった道筋であると理解している方が多いようです
まあそうなのかもしれませんが、梯儁らの旅は240年のことであり
いっぽう『三国志』が書かれたのが280年あたり
倭に関する情報は大きく増えていたと考えられます
そのあたりをどう解釈するか

97:蛸卵形
21/06/05 14:51:24.21 .net
第6節 ひじょうに問題の多い部分です
・東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 
 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
・東南陸行 五百里 伊都国に到る 官は爾支といい、副は泄謨觚 柄渠觚という
千余戸有り 世々 王有り 皆 女王国に統属す 郡使往来し常に駐する所
疑問① 伊都國は糸島半島なのか
疑問② 糸島半島だとしたら国都はどこか
疑問③ 官の「爾支・泄謨觚・柄渠觚」とはどのようなものか
疑問④ 「丗有王」とあるが、上記の官と王の関係は
疑問⑤ 「皆統屬女王國」は「女王国の支配下にあった」と解釈するのが定説であるが
    伊都国が女王国を支配していたとする見解も一部にはあります
疑問⑥ 「郡使往來常所駐」は福岡県糸島郡前原町の三雲遺跡群か
疑問⑦ なぜ末廬國から伊都國まで陸行したのか 水行のほうが楽ではないのか
疑問⑧ 「有千餘戸」は正しいのか (魏略逸文では戸万余)
疑問⑨ 伊都國と平原遺跡との関係は

まだまだあるんですが、これくらいで

98:蛸卵形
21/06/05 14:52:36.10 .net
たくさんのレスを期待します

99:日本@名無史さん
21/06/05 15:06:49.41 .net
>>97
日本側地名で怡土郡は半島部ではなく内陸側で半島部は志摩郡
出土品の分布からは怡土郡も志摩郡も伊都国っぽいけどね
都は三雲・井原遺跡のあたりでしょう

100:蛸卵形
21/06/05 15:22:44.48 .net
>>99
そうですね 半島と書かず怡土志摩郡にすればよかったか

101:日本@名無史さん
21/06/05 16:08:53.12 .net
一支が壱岐なら爾支はネギ(禰宜)ではないのか
(「支」:客家語 ki、呉語 tsy)
神にねぐ者、ねがふ者、祭祀をおこなう者
松浦半島といえばもう唐津の近くなので、そこから糸島ならば陸路でも遠くない
実際歩いてみたら草木茂って前を行く人が見えない状況だったんだろうけど

102:蛸卵形
21/06/05 16:12:49.59 .net
>>101
たしかに現在の地図で見ればそう遠くはないですよね
もう一つ疑問として、倭の国名は邪馬台を始めとし卑字が使われていると
言われることが多いですが、「伊都」はそうではないようです
これも疑問といえば疑問

103:蛸卵形
21/06/05 16:25:24.84 .net
>>101
支が「キ」なのはたぶんそうじゃないかと思います
あと私見として、伊都国にはもともと王がいたのが、卑弥呼が魏に遣使して
郡使が常駐するようになってから置かれた倭側の官が
「爾支・泄謨觚・柄渠觚」なのかなと思ったりします
根拠のない思いつきレベルですが

104:日本@名無史さん
21/06/05 20:02:39.51 .net
泄謨觚でぇす、柄渠觚でぇす 爾支 爾支 ニキ ニキ

105:本田
21/06/05 21:43:56.28 .net
日本地理学会発表要旨集
2015年度日本地理学会春季学術大会
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)
魏志倭人伝における倭の地理的定位
*野上 道男
抄録
対馬海峡の流速は0.5m/sec程度であり(九州大応用力学研WEB公開データ)、
速さがその4倍以下の人力船は大きく流される.
海図も羅針盤もなく航路距離は測定不可能な値である.
そこで倭人伝に記述されている里数は測量による直線距離であると判断される.
つまり天文測量である1寸千里法(周髀算経)で得られた短里による数値である.
帯方郡(沙里院)から狗邪韓国(巨済島)まで七千余里、
女王国(邪馬台国)まで万二千余里、
倭地(狗邪韓国と邪馬台国の間)は(周旋)五千里と記述されている.
これらの3点はほぼN143E線上にある.
この方位線は子午線と、辺長比3:4:5のピタゴラス三角形を作る(周髀算経と九章算術
で頻繁に使われている) .
帯方郡での内角は36.78度であり(N143.22E)、東南(N135E)
あるいは夏至の日出方向を東とする方位系での南(N150E)の近似である可能性が高い.
1.2万里は斜め距離であり、南北成分距離は、1.2万里x4/5=9600里である.
1寸千里によると日影長の差は9.6寸となる.帯方郡は中国の行政内であるので、
日影長による定位が行われていたはずである.
現在の知識では郡(沙里院)の緯度は38.5Nであり、日影長は21.53寸と計算できる.
それより9.6寸短い11.93寸という値が得られる緯度は31.92Nである.
方位N143E線と合わせると郡から1.2万里の点は宮崎平野南部となる.
測定誤差に配慮すれば、倭人伝では邪馬台国は九州南部にあったと認識されていたといえる.
それより詳しい比定は考古学の問題である.

106:日本@名無史さん
21/06/05 22:30:15.71 .net
倭国へ上陸して邪馬台国へたどり着くには南へ進んでゆくことになっている
列島は南へ伸びていると、故意か過失かそう思われていたのであって、実際の地理では東へ進んでいったのだとも考えられる

107:蛸卵形
21/06/05 22:42:05.33 .net
>>106
中国社会科学院日本研究所の高洪という人物が
「邪馬台国位置めぐる問題」という論文で、当時の中国人の「天円方地」の世界観が
方角を誤らせたという内容を書いています

108:日本@名無史さん
21/06/06 05:31:22.73 .net
>>106
空に太陽がある限りそんなことは起こり得ない
敗北した畿内説は見苦しいマネをやめるべきだ

109:蛸卵形
21/06/06 09:18:53.93 .net
補足 伊都國が怡土志摩郡であるのは通説と言ってよいと思いますが
研究家の中には、末廬國から東南という方角を重視して
伊都國をもっと内陸部に置く方がいますね
以前邪馬台国関連スレにいた伊作という方がそうでした

110:日本@名無史さん
21/06/06 09:21:24.28 .net
>>26
魏志倭人伝って、案外こういうことかもな…orz

111:日本@名無史さん
21/06/06 14:01:42.64 .net
>>26
誰かこれ画像にして

112:日本@名無史さん
21/06/06 14:08:34.51 .net
烏丸鮮卑東夷の定義から始めないとな

113:蛸卵形
21/06/06 14:39:33.23 .net
第7節にいきます
・東南至奴國 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
・東南 奴国に至る 百里 官は?馬觚と曰い 副は卑奴母離と曰う 二万余戸有り
疑問① 邪馬台国位置問題には「放射説」というのがあります
     伊都國以後の行程は伊都國を起点とした放射状に読むというものですが
     はたしてこれは成り立つのか
疑問② 官名の「?馬觚 副日卑奴母離」で卑奴母離の登場はこれで3度めです
     
疑問③ 奴國は現在の福岡市や春日市などか その国都はどこか
疑問④ 57年、後漢光武帝から印綬を与えられた倭奴国との関係は
疑問⑤ 「二萬餘戸」はかなりの数ですが、人口とすればどのくらいか
     またこれらの戸数は正しいのか



 

114:日本@名無史さん
21/06/06 14:42:37.75 .net
だいたい金印が田んぼからみつかったとか
袁術的な手法で恐らく間違いなんです()

115:蛸卵形
21/06/06 14:43:10.86 .net
補足 「到伊都國」、「至奴国」という記述がありますが
    到と至で意味の違いがあるのか

116:蛸卵形
21/06/06 14:45:14.90 .net
>>114
袁術の伝国璽の逸話と同関連があるのでしょうか

117:蛸卵形
21/06/06 14:45:54.18 .net
あ、「どう関連」

118:日本@名無史さん
21/06/07 22:11:02.27 .net
>>113
①については書き方の違いを指摘するレスを見たな
URLリンク(i.imgur.com)

119:日本@名無史さん
21/06/07 22:19:56.79 .net
>>113
②について、卑奴母離は伊都国の一大率が監督する北方諸国へ送り込んだ目付役なのではないかな
だから派遣元の伊都国には卑奴母離がいないし、南方の投馬国や主家である邪馬台国にもいない
長官名はバラバラなのに副官名が統一されているという奇妙な現象もこれで矛盾なく説明がつく

120:蛸卵形
21/06/08 01:26:57.81 .net
補足 説明するまでもないでしょうが、「放射説」は、戦後まもなく榎一雄氏が発表された説で
伊都国から以降の方角・距離は、伊都国を起点として記述されていると考えるものです
主に九州説で採用されることが多いようです
放射説の根拠としては、伊都国までの記述は「方角、距離、国名」の順だが、
伊都国以降は「方角、国名、距離(または日数)」の順に変わっていること
批判としては、行程の説明としてわかりにくいと言われることがあります

121:蛸卵形
21/06/08 01:30:26.66 .net
>>119
そうですね、卑奴母離を夷守とすれば、辺境を守る軍事的な官という
意味があるのかもしれません
一大率の配下である可能性ももちろんあります

122:蛸卵形
21/06/08 01:33:35.78 .net
補足 「到」と「至」については、魏略逸文でも「至末盧国」、「到伊都国」になっています

123:蛸卵形
21/06/08 01:36:38.36 .net
補足 卑奴母離を夷守とすれば、これらが副官の国
奴國や不彌國は邪馬台国から距離が離れているのかもしれません
 

124:蛸卵形
21/06/08 01:43:06.61 .net
補足 戸数については、一戸を4~5人とみる説があります
それだと2万戸は8~10万人ということになります
ちなみに、吉野ヶ里遺跡で環濠内の人口が千数百人、周辺部合わせて
5000人程度とみられているようです

125:蛸卵形
21/06/08 01:58:54.93 .net
第8節にいきます
・東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
・東行 不弥国に至る 百里 官は多摸と曰い 副は卑奴母離と曰う 千余家有り
疑問① 不彌國はどこか 對海國が対馬 一大國が壱岐 末盧國が松浦 伊都國が怡土志摩郡
      奴國が後代の儺県・・・まではだいたい定説と言ってよいと思いますが
      不彌國については、宇美(福岡県糟屋郡宇美町)、穂波(同県飯塚市)、大宰府(太宰府市)付近
      宗像郡津屋崎(現・福津市)、箱崎(福岡市東区)、糟屋郡新宮町 
などと研究者によって意見が分かれます
疑問② 邪馬台国の行程記事において、對海國について説明した字数が最も多く
      以下順次少なくなっていきます これには意味があるのか

126:日本@名無史さん
21/06/08 02:18:28.34 .net
狗奴国の北が邪馬台国だろ。
狗奴国はどこかもうわかってんだからさ。ね?
で女王が狗奴国に近いとこにいたらまずいから伊都にいたんでしょ。
で伊都国は千戸
女王の侍女は千人。
間違ってるとこや意味ないとこを読んであれこれ考えても何にもならんだろ。

127:蛸卵形
21/06/08 03:10:27.14 .net
>>126
もっと皆にわかりやすい形で説明してください
それと、これは誤解があるようですが、このスレの目的は
邪馬台国の所在地を突き止めることではなく、魏志倭人伝を読むことです

128:蛸卵形
21/06/08 07:05:13.96 .net
補足 倭の人口に関しては、わざと数を増やして誇大に書かれているとする説が
あります その理由としては、まず「呉牽制説」というのがありますね
魏と対立していた呉の海をはさんだ背後に邪馬台国という魏の同盟国がある
倭地が南に伸びているような記述も呉を牽制するため
しかし、陳寿が『三国志』を完成させたのは呉が滅亡した後のことです
陳寿にはその意図はなかった では、陳寿が参考にした文献が
呉牽制のために書かれていたのか
それだと仮定に仮定を重ねるような話になります

129:蛸卵形
21/06/08 07:09:50.05 .net
補足 もう一つ「司馬懿顕彰説」もあります 陳寿は西晋に仕えており
西晋の高祖宣帝である司馬懿が公孫氏を討伐した功により
邪馬台国が魏に朝貢できるようになったことを強調するためとういうもの

130:日本@名無史さん
21/06/08 15:39:26.83 .net
>>128
呉の牽制は考えにくいですね
それが成り立つためには、陳寿が参考にした文献が呉にも伝わらなければなりませんから
文献はおそらく帯方郡の役人が書いた報告書でしょうから、帯方郡が魏に属している以上
その報告書を呉の人間が目にすることはありません
呉に伝えられない情報が呉の牽制のためというのは成立しません

131:蛸卵形
21/06/08 16:08:17.92 .net
>>130
まあ常識的に考えればそうですよね

132:蛸卵形
21/06/08 16:14:14.73 .net
補足 あと人口に関しては松本清張氏の「陰陽五行説」というのもありますか
対海國~不彌國までの戸数を合計すると3万戸となり
対馬國、邪馬台国の戸数と比較して3:5:7の割合になっていて
陰陽五行説に基づいて作られた架空の数値であるとするものですが
これを支持する研究家は多くないようです

133:蛸卵形
21/06/08 18:59:31.52 .net
補足 弥生時代の人口は経済学者の鬼頭宏氏による概算60万が有名であるが
この元になったのが国立民族学博物館小山修三氏による推計である
これは全国の遺跡数から計算したものであるが
そもそもすべての遺跡が網羅できているわけでもなく
あくまで大雑把な数と見るしかない
実際、小山氏は講演で「その後の発掘によってわかった、
吉野ヶ里遺跡をはじめとする西日本における弥生集落の大きさを考えると、
弥生末期には100万を越えていたのではないか」と述べている

134:蛸卵形
21/06/08 19:20:02.77 .net
補足
URLリンク(iup.2ch-library.com)
上図は吉野ケ里遺跡を含む佐賀平野周辺の遺跡図ですが
私見ではこの全体で人口2万を見てもおかしくないかなと考えています

135:蛸卵形
21/06/09 23:36:58.65 .net
うーん、レスがないですね

136:蛸卵形
21/06/09 23:39:20.50 .net
人口問題は難しいです そもそも戸とは何かもよくわからない
中国では戸は門のことですが、では竪穴式住居一つが一戸にあたるのか
そのあたりもよくわかりません
また、これらの戸数が中国人が調査したものなのか
倭人からの伝聞なのかもわからないですね

137:日本@名無史さん
21/06/10 11:46:48.86 .net
>>134
Not Found

138:蛸卵形
21/06/10 11:52:13.15 .net
>>137
あ、すみません
URLリンク(imgur.com)

139:蛸卵形
21/06/10 20:45:31.76 .net
第9節
・南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
・南 投馬国に至る 水行二十日 官は弥弥と曰い 副は弥弥那利と曰う 五万余戸ばかり
疑問① 投馬國とはどこか 日向国都萬、薩摩国説、備後国鞆、出雲国など諸説あります
疑問② 水行はどういった形だったか これは九州説内でも九州島西廻り、東廻り、河川航行説があり
      近畿説でも瀬戸内通行説と日本海通行説があります
疑問③  投馬國への出発地は不弥国(連続説)か、伊都国(放射説)か
疑問④  水行二十日はどの程度の距離か、また、なぜ日数表記になったのか
疑問⑤  官の「弥弥、弥弥那利」とは
疑問⑥  五万余戸は奴国の2倍以上であるが、どのていどの広さの国か

140:日本@名無史さん
21/06/10 22:27:17.93 .net
>>139
方角は南なので備後国鞆、出雲国は論外ですね

141:蛸卵形
21/06/11 01:42:31.87 .net
>>140
ここが九州説と近畿説の分かれ目になります
明治期の論争では近畿説は南は東の誤記
あるいは誤解であるとする説を主張しました
誤解とする場合は、当時の中国人は日本列島が九州島を北にして
南に伸びているように認識していたとする説が出てきました

142:蛸卵形
21/06/11 01:46:46.61 .net
補足 官名の「弥弥」は記紀に人名の一部として出てくる「耳 ミミ」では
ないかとする説があります
陶津耳(スエツミミ)、多芸志美美命(タギシミミ)などです
「ミミ」は地方の首長の尊称だったかもしれません

143:蛸卵形
21/06/11 01:51:40.15 .net
補足 九州説の場合は、西廻り説と東廻り説では大きく考え方が異なっており
西廻り説の場合は邪馬台国を熊本・鹿児島、東廻り説の場合は大分・宮崎に
あてることが多いようです
また、河川航行説は特異で、支持者は多くはありません

144:蛸卵形
21/06/11 01:54:26.23 .net
補足 「五万余戸」が正しいとすると、投馬国は奴国とされる福岡市の
数倍の領域があったかもしれません

145:蛸卵形
21/06/11 02:12:10.82 .net
補足 レス141の「日本列島が九州を北に南に伸びているように中国人が認識していた」説では
地理学者の室賀信夫氏の研究が有名です
URLリンク(imgur.com)

146:日本@名無史さん
21/06/11 07:41:06.71 .net
>>141
それ明治期の論争での話ですね
現代の畿内説の主流では、方角が正しいのか日数が正しいのか不明だが
考古学的に畿内説が正しいので、結果的に方角の南は東になるというもの

147:日本@名無史さん
21/06/11 07:47:02.15 .net
>>146
畿内説がいかに誤った謬論であるかがよく分かりますね

148:蛸卵形
21/06/11 07:52:43.56 .net
>>146
考古学は重要です 自分は大学で考古学を学びました(専門は近世)ので
古代についてもそれなりに理解はしています
ただ、このスレは邪馬台国の所在地をつきとめることが目的ではなく
あくまで倭人伝を読んでいくことなのです
ですから、これまでに出てきた説はできるだけ網羅していきたいと考えています

149:蛸卵形
21/06/11 08:04:55.27 .net
補足 「水行二十日」の部分は、『唐六典』に
「重い荷を積んで川を遡上する場合は1日に三十~四十五里
空船で川を下るには1日に七十~百五十里」といった記述が出てきますが
これは黄河や長江などの大きな河川についての話で
参考になるかはわかりません

150:蛸卵形
21/06/11 08:13:56.96 .net
最近「畿内説スレ」でやっていたホケノ山古墳の年代観、年輪年代法
三角縁神獣鏡の成分分析などについても理解していますが
それは後に関連した記述が出てきたときに取り上げることになります

151:蛸卵形
21/06/11 08:26:45.04 .net
私見を言えば、文献とは誤りのあるものです
例えばですが、『明史』日本伝豊臣秀吉の条などを見れば
内容は滅茶苦茶の噴飯ものです
また、日本の江戸時代に目の前で起きた事件をその日のうちに
記した文献でさえ誤りがあります
文献とはそういったものなのですが
「魏志倭人伝」の場合、比較検討して批判する文献資料がありません
ですから考古学の比重が大きくなってくるのは間違いないでしょう

152:蛸卵形
21/06/11 11:22:18.24 .net
補足 ちなみに中国の文献資料は前代の書の影響を強く受けています
特に正史と呼ばれるものに関しては、前代の書の記述が間違っていると考えても
あえて訂正せず内容を踏襲する場合が多いのです
ですから「魏志倭人伝」以後の倭国、日本に関する記述も
魏志の内容を踏襲して書かれています

153:蛸卵形
21/06/11 12:48:49.60 .net
補足 ところで水行に関して九州説では東廻りと西廻りと
どっちが優勢なんですかね
以前は邪馬台国を筑後山門や熊本平野に置く説が多かったんですが
最近は地域おこしなのか宇佐説などを強力に推している方もいますし

154:蛸卵形
21/06/11 16:00:35.18 .net
では第10節 いよいよ邪馬台国に到着します
・南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 
次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七萬餘戸
・南 邪馬壱国に至る 女王の都とする所 水行十日陸行一月 官は伊支馬有り 次は弥馬升と曰う
 次は弥馬獲支と曰う 次は奴佳?と曰う 七万余戸ばかり
疑問① 邪馬台国はどこか 九州各地、近畿、四国、近江、吉備など諸説あります
疑問② 「女王之所都」という記述には違和感があります 魏からすれば卑弥呼は倭王であり
      その都地が邪馬台国であるという意味なのでしょうか
疑問③ 「水行十日陸行一月」は「水行十日+陸行一月」でよいのか
      そう読むのが自然だと思いますが「水行すれば十日、陸行すれば一月」
      という説があります
      また、「水行十日陸行一月」は帯方郡からの総日数という説もありますね
疑問④ 「七万余戸」はかなり広大な領域が想定できますが
疑問⑤ 官は「伊支馬有、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?」と四種が登場し
      政治機構が整っているようですが

155:蛸卵形
21/06/11 16:04:12.97 .net
補足 邪馬台国の官名は「いくめいりびこ=景行天皇」 「みまきいりびこ=崇神天皇」
などを表しているという説があります まあ語呂合わせの域を出ないと思いますが
倭語としての語感が似ているようでもあります

156:蛸卵形
21/06/11 16:19:28.62 .net
補足 この当時、中国の魏呉蜀はいちおう中央集権国家でしたが
倭国は邪馬台国を中心とした連合国家であったとする説があります

157:日本@名無史さん
21/06/11 19:48:09.88 .net
>>154
>「水行すれば十日、陸行すれば一月」
陸行だと3倍も日数がかかるのなら、陸行は書かないでしょう
また投馬国の陸行がないのも変です
投馬国は陸行では何倍も日数をかけても行けない場所ということになります

158:蛸卵形
21/06/11 20:30:26.37 .net
>>157
はい、自分もこの読みはいろいろな点で無理があると思います

159:蛸卵形
21/06/12 11:53:21.97 .net
補足 歴史的に大和朝廷は、裁判権、警察権を持った地方豪族である国造を
中央派遣の官である国司に代えるのに長い時間かかりました
この3世紀の時代に、倭地に中央集権国家があるとは思えず
倭は邪馬台国を中心とした連合だったのは間違いないでしょう

160:蛸卵形
21/06/12 15:41:49.68 .net
補足 で、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州島内の比較的狭い範囲
畿内説だと西日本一帯ということになり、3世紀の列島の社会の発展状況、
政治状況を考える上で邪馬台国の位置問題は重要だと言われてきました

161:蛸卵形
21/06/12 16:23:57.49 .net
補足 通常は邪馬臺(邪馬台)国とされる国名ですが、テキストどおり「邪馬壹(邪馬一)国」
ではないかとする議論があります

162:日本@名無史さん
21/06/12 18:45:09.27 .net
壹(一)はyit、itのような入声音(子音終わりの音)だったので母音終わりの日本語を写すのに適さず
隋書俀国伝に邪靡堆(ヤバタイ)国とあるようにやはり元々は臺(台)だったのではないかとの説もある

163:蛸卵形
21/06/12 22:18:17.04 .net
>>162
現存の宋代の『三国志』より古い書には「臺」で」出てくる場合が多く
「壹」とするのは難しいかもしれません

164:日本@名無史さん
21/06/12 22:34:22.81 .net
>>154
水行陸行は他の歴史書で用例が見つかったのでもう結論出てる

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
URLリンク(www.kanripo.org)
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
URLリンク(wenku.baidu.com)
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

165:日本@名無史さん
21/06/12 22:39:08.55 .net
ついでに
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

166:日本@名無史さん
21/06/12 22:52:32.03 .net
>>163
臺の音は現代ではtaiであるが中古音はdoj、古い音をよく残す客家語でthoi、広東語では今でもtoiである
タイというよりトイ
日本語のトを写すぴったりの漢字がないのならヤマトを写すのにヤマトイとしたのであろうか
(土の音も今も昔もthu、tuのような音であり、トではない)

167:蛸卵形
21/06/13 00:26:38.14 .net
第11節
・自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
・女王国より以北 その戸数道里は略載を得べきも その余の旁国は遠絶にして 詳を得べからず
疑問① 「女王國以北」とは対海國~不彌國までのことか 投馬國も入るのか

168:蛸卵形
21/06/13 00:34:04.99 .net
補足 連続読みにすれば不弥国より水行二十日で投馬国
そのさらに南に女王国があるということになり
解釈が難しいところです

169:蛸卵形
21/06/13 00:39:50.22 .net
第12節
・次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 
次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
・次に斯馬国有り 次に巳百支国有り 次に伊邪国有り 次都支国有り 次に弥奴国有り 次に好古都国有り 
次に不呼国有り 次に姐奴国有り 次に対蘇国有り 次に蘇奴国有り 次に呼邑国有り 次に華奴蘇奴国有り
次に鬼国有り 次に為吾国有り 次に鬼奴国有り 次に邪馬国有り 次に躬臣国有り 次に巴利国有り 
次に支惟国有り 次に烏奴国有り 次に奴国有り ここに女王の境界尽きる所
疑問① これらの国々は冒頭で出てきた「今使譯所通三十國」なのか
疑問② 最後の「奴國」は前に出てきた国と同一か

170:蛸卵形
21/06/15 10:29:24.17 .net
うーん どうも需要がないようですね

171:日本@名無史さん
21/06/15 20:14:43.07 .net
続けたまえ

172:日本@名無史さん
21/06/16 14:17:29.01 .net
な~にかネタみたいな国名羅列だな


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