大和から伊勢へ―春分線の謎at HISTORY
大和から伊勢へ―春分線の謎 - 暇つぶし2ch552:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/09/14 21:20:26.47 ztVoLUI/g
仁徳の代までほとんどが3倍暦が継続してたのは武内宿禰の超長寿の不審
を払拭できる暦法が同暦であるから、この暦を継続してたといえるのだ。
ところが履中反正と允恭即位まで在位期間が非常に短いわけで、どうやら
3倍暦行使では三帝即位年代の間隔が詰まりすぎだとのの感が否めない。
ということは、履中から3倍暦を廃し別暦に変更したのだと想定するのが
合理的である。履中は磐余宮にて政治を行なったことで磐余彦命の神武
の3倍暦を再開したのかと思っても上述のとおり短期在位のすし詰め感
から肯定できない。これは神武から仁徳での16代が十六菊として代数が
充足したことのためで、32弁の菊花にするための二回目の16数への基点
の天皇を履中と為すのだ。各天皇が16弁の菊花座を司ってきたことで、
履中は十六菊花弁の真中の小円を司る点が他の天皇を異なるのである。
この中央の小円を踏んで座と為す天皇なので、号を履中と申すのである。

古事記は33代推古で代数が終焉してるのは17代履中の反正以後が残り16代分
で足して33代となるから古事記は推古で記録を分断してるのである。

それで宮名ではなく、履中のイザホワケ命の御名は開化のイザカワ宮
と名の共通性が認められ、イザは十六夜のイザで上述の16数を示唆し
開化の代は2倍暦の行使だったことから、履中から再び2倍暦を
採用したのだと見えて来るのだ。

仁徳没年=419年(実年代) が倍暦計算で確定し、履中元年=420年
と決まることになる。皇紀1060年に履中即位で見かけの即位が400年
だから、この年代は実年代で20年差だと確認できる。


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