大和から伊勢へ―春分線の謎at HISTORY
大和から伊勢へ―春分線の謎 - 暇つぶし2ch2:畝火山の神主
21/04/19 05:19:44.95 BiIi0Qy/E
小川光三氏の「太陽の道」は、以下のような説だ。

URLリンク(www.nikkei.com)

興味のある人は、本買って読んでちょ。

3:畝火山の神主
21/04/19 15:41:03.53 BiIi0Qy/E
大和から伊勢へ引かれた「春分線の謎」について理解を進めるためには、まず次の事例を挙げるのがよいだろう。
それは、6世紀後半から7世紀前半に在位した敏達天皇と推古天皇のそれぞれの陵墓の立地点だ。
大阪府南河内郡太子町にその陵墓はあり、位置情報は敏達天皇陵の前方後円墳の後円部中央点は北緯34度30分42秒だ。
そして、推古天皇の陵墓の方墳中央点の位置は北緯34度30分42秒となっている。
この両天皇の陵墓は西に敏達天皇陵、その東1.4kmに推古天皇陵が立地している。
ということは、敏達天皇陵と推古天皇陵は、1.4kmを隔てて東西方向の真横の一直線上に寸分の狂いなくぴったりと並んで造られているということだ。

この一直線上の二つの陵墓の立地を無理なく理解しようとすれば、敏達天皇と推古天皇は天皇と皇后の夫婦であったことが分かれば十分だろう。
そして、推古天皇は敏達天皇よりあとに崩御しているのだから、推古天皇陵は敏達天皇陵に合わせて東の一直線上に造られ、その位置への造営意思は推古天皇自身のものだったことは明らかだ。
ではなぜ、敏達天皇の皇后であった推古天皇は、自らの陵墓を敏達天皇陵の真東の線上に造ったのだろうか。
この一点こそが、大和から伊勢への「春分線の謎」を解く鍵なのだ。
推古天皇が自らの陵墓を敏達天皇陵の真東の線上に造ったのは、夫であった敏達天皇と死後に一体であることを願ったためだと容易に理解できる。
皇后であった生前に夫の敏達天皇と並んで朝廷に臨んだその一体性を願ったということが推測されるのである。
このように考えた場合、では、東西の一直線上につながることがなぜ一体性を保障すると考えられたのか、という謎が出現してくるのである。
そしてこの謎は、大和と伊勢の関係の核心に潜む事柄なのである。
これから、その謎の探検に出かけることにしよう。

4:畝火山の神主
21/04/21 03:10:51.50 qnY5BsNql
さて、大和から伊勢へ引かれた東西線の最も有名なものは、小川光三氏の「太陽の道」で取りあげられている「檜原神社-伊勢斎宮」の東西線だ。
檜原神社の祭神は天照大神であり、檜原神社の地は日本書紀の崇神天皇紀に記されている笠縫邑の神籬が立てられたところだとされている。
この檜原神社の地で祀られた天照大神の御杖となって伊勢まで付き従い、その伊勢で天照大神を祀ったのが垂仁天皇の皇女倭姫だ。
したがって、大和の檜原神社と伊勢の斎宮寮を「太陽の道」の東西線で結ぶことは、最初檜原神社の地にいた皇女倭姫と伊勢の斎宮寮に住んで渡会の天照大神を祀った奈良時代や平安時代の皇女を一心同体とみなす考えがあったと想定していることになる。
しかしながら、果たして、檜原神社の地と奈良時代や平安時代に皇女が住むために設けられた伊勢の多気斎宮寮は東西一直線の線上にあるのだろうか。
まず、それを見てみよう。(続く)

5:畝火山の神主
21/04/21 03:46:13.79 qnY5BsNql
大和の檜原神社と伊勢多気斎宮寮のそれぞれの緯度(「ウェブ地図で緯度・経度を求める(Leaflet版)」による)を見てみると、次の値が出る。

檜原神社-北緯34度32分18秒
斎宮寮跡-北緯34度32分21秒

これを見ると、檜原神社の地と多気斎宮寮跡の地はわずかにずれているのが分かる。
3秒のずれがみられるのである。
緯度の1秒は30.86mなので、3秒のずれは92.58mの距離になる。
ということは、檜原神社の地と多気斎宮跡はかならずしも東西線上にぴったり並んでいるとはみなしにくいことになるのだ。
最初に述べたように、敏達天皇陵と推古天皇陵が誤差なく東西線上にぴったり並ぶ立地になっている当時の測量技術からすると、
「太陽の道」の上にある檜原神社と斎宮寮は東西一直線上に造られた建物ではないのではないかと見ることが可能になるのである。
では、大和と伊勢をつなぐ東西一直線の思想はなかったのかということになってくるが、しかし、実はそうではなかったのだ。
その大和と伊勢をつなぐ東西一直線の実例を、これから見てみることにしよう。(続く)

6:畝火山の神主
21/04/21 04:19:32.60 qnY5BsNql
その大和と伊勢をつなぐ東西一直線の実例を見てみよう。

大和の箸墓古墳後円部中央-北緯34度32分21秒
伊勢の多気斎宮寮跡-北緯34度32分21秒

これを見ると、伊勢の斎宮寮は檜原神社の地ではなく、実は大和の箸墓古墳とぴったり東西一直線上に建てられていることが分かるのである。
そこで、箸墓古墳の被葬者は誰であるのかというと、日本書紀では倭迹迹日百襲姫の墓だと書いてあり、
百襲姫は孝霊天皇の皇女で、霊能的才能に恵まれて三輪山の神大物主神の妻とされる女性だ。
この百襲姫の属性は、天照大神を祀った皇女倭姫や奈良時代、平安時代の斎王皇女とみごとに重なるのである。
つまり、伊勢の多気斎宮寮の地は大和の箸墓古墳から真東一直線上に立地しており、この一直線上に斎宮寮が立てられたのは斎宮に住む皇女たちと倭迹迹日百襲姫を一心同体にみなすためだったと考えることを可能にしているのだ。

大和から伊勢へつながる東西一直線の最初の実例が、この箸墓古墳と伊勢斎宮寮を結ぶ東西線なのである。
次に、いよいよ本命の大和と伊勢を結ぶ東西一直線の探検に突き進んで行こう。

7:畝火山の神主
21/04/24 02:35:51.60 luNej/7dT
さて、大和から伊勢へつながる東西一直線の本命とは、どのような実例なのか。
とにかく、その一直線の起点と着点、その位置情報を挙げてみよう。

大和の起点-畝傍山南側麓の深田池の北の長山稲荷社祭殿 北緯34度29分14秒
伊勢の着点-伊勢の外宮祭殿 北緯34度29分14秒

URLリンク(kashiharajingu.or.jp)(長山稲荷社)

これまで、南河内の敏達天皇陵-推古天皇陵が東西一直線上に造営されていて、また大和の箸墓古墳-伊勢の多気斎宮寮も東西一直線上に立地している実例をみてきたことからすると、
上の大和畝傍山南麓の長山稲荷社祭殿-伊勢外宮祭殿がぴったりと東西一直線上に建てられていることは、もはや偶然とは言えなくなってくるのである。
実際、橿原神宮境内にあるこの長山稲荷社の祭神は宇迦能御魂神、豊受気神などであることからすると、長山稲荷社と豊受大神を祀る伊勢外宮が東西線上でぴったりつながっていることは、ちゃんと認識されていたことが分かるのだ。
そして、この東西一直線は長山稲荷社と伊勢外宮をつないでいるだけではなく、さらにもう一つ別の東西一直線が近くに存在しているのである。
それを見てみよう。

大和橿原の畝傍山山頂北側平坦地 北緯34度29分35秒
伊勢の外宮北約700mの月夜見宮祭殿 北緯34度29分35秒

この畝傍山山頂付近の平坦地とイザナギ尊の禊で生まれた月神を祀る宮の祭殿が東西一直線上にぴったりつながっていることは、
畝傍山南麓の長山稲荷社と伊勢の外宮が東西一直線につながっていることと合わせて、大和と伊勢の間には意図的に計画された祭祀のための宮の配置があったと考えることを可能にしている。
そして、この大和と伊勢の間に見られる東西一直線の実例の存在は、当時のヤマト政権が伊勢に重大な何事かを実現しようとした痕跡であるとみなすことができるのである。
そのヤマト政権の意図とは何であったのか、古代史の壮大な大探検がいよいよここから始まるのである。(続く)

 

  

8:畝火山の神主
21/04/28 02:34:13.10 bodxWMF9Z
さて、大和から伊勢へつながる東西一直線が三つあることが分かったのであるが、この三つの東西一直線がいずれも伊勢神宮に関連していることが重要だ。
しかし、大和から伊勢までの距離は地図上でおよそ90kmあり、この長大な距離を大和から伊勢へ真東にぴったり寸分狂いなく位置取りすることは可能であったのだろうか。
南河内の推古天皇陵は敏達天皇陵から東西一直線上に1.4km隔たっているだけであり、敏達天皇陵に観測棒を立てて太陽による地上の影の2点を結ぶ方法によって東西線を求め、
その東西線を地上で延長して行く方法によって敏達天皇陵から真東一直線上に推古天皇陵を造ることは可能だろう。
しかし、大和から伊勢への90kmの距離では、この方法は無理である。
では、大和から伊勢へつながる東西一直線上の位置取りはどのようにして行われたのだろうか。
この問題を解決しておかないことには、謎の東西一直線の正体を解明することはできない。

そこで、現在の六分儀を使う位置測定をみると、太陽や月、惑星、恒星と水平線との仰角を求め、緯度・経度にして地図上に今いる地点を表す方法があるようだ。
これは天測航法と呼ばれている。
自分のいる場所から見た特定の天体の仰角によって今いる位置を調べるわけである。
このような方法によって、同じ仰角を得られる遠隔地と基の地点を結ぶと、その2地点は東西一直線上にあることになる。
そうなると、動かない天体に対して夜に地上からの仰角を求めることができれば、遠隔地であってもそれと同じ仰角が得られる地点を探せば、
その2地点はぴったり東西線上にあることになるのである。
その動かない天体こそ、まさに北極星と呼ばれる星だ。

このような観測技術があったのであれば、大和と伊勢の90kmの隔たりはまったく問題がなくなる。
そして、古墳時代に北極星に相当する星は実際にあったのかということが、大問題になる。
しかし、その北極点(真北)の近くに位置して動かない北極星が400年頃にはちゃんとあって、
その星は現在HR4852と名付けられている星だとする研究がある。

URLリンク(www.kotenmon.com)

このHR4852は時間とともに移動して北極星ではなくなり、隋唐の時代からはキリン座のHR4893が北極星となったそうだ。(続く)

9:畝火山の神主
21/04/30 02:08:42.28 uEzWt+Ujj
このように、特定の地上の位置から見た北極星の仰角を確定し、別の場所に移動してその仰角に等しくなる地点を探し出せば、
最初の地点と次の地点を結ぶ直線はぴったり東西線になるわけだが、ではそのような観測機器は実際にあっただろうか。
そもそも、仰角という角度の概念自体があったのだろうか。
当然、こうした疑問が浮かぶことになる。
そこで、古代中国の距離などを求めるための観測機器を探してみると、前1世紀~後2世紀ころに成立した数学書「九章算術」には山の高さを求めるための方法が書かれていて、
その際の機器についても書かれていることが分かった。

URLリンク(www.ndl.go.jp)
URLリンク(dl.ndl.go.jp)

この図にある「四方の矩」の場合は、四角形の板の一つの角に取り付けて垂らした目盛りの付いた紐のその目盛りの値によって、山の高さを計算するようだ。
この観測方法の説明にある山の頂を北極星に置き換えれば、特定の位置で北極星に焦点を当てて目盛りのついた紐の目盛りの値を記録し、
別の場所に移動してその目盛りの値と同じ値になる地点を探せば、その2地点は東西一直線上でつながることになる。
奈良盆地は伊勢の平野よりも40m~80m高い標高にあるが、北極星を対象とした場合は、その標高差は無視できるものであるので、標高差は問題にならない。

この古代中国の観測機器の場合は、地上と北極星の間の仰角という角度を求めるものではないが、
観測機器上で地上と北極星の間の長さの値は得られるので、その長さの値さえ正確に求めておけば、別の場所で同じ長さの値になる場所を探し出せばよいだけになる。
大和から伊勢へ90㎞離れていても、大和から東西一直線上の地点を割り出すのは複雑な方法ではなく、割合簡単であることが分かる。
この方法を用いれば、南河内の敏達天皇陵から真東に一直線上の地点を求めて、推古天皇陵を造ることも容易だということになるのである。(続く)
こうして、大和の箸墓古墳の後円部中央と伊勢の多気斎宮寮が東西一直線上に立地している謎は、謎ではなくなったと言うことができそうだ。
そして、大和の畝傍山南麓の長山稲荷社と伊勢の外宮祭殿がぴったり東西一直線上に造られていることも、ちゃんと計画された祭祀の宮の配置であったことが分かるのだ。(続く)

10:畝火山の神主
21/04/30 02:32:43.49 uEzWt+Ujj
このように考えると、では、大和政権は大和から伊勢につながる東西一直線上に祭祀のための宮ををなぜ配置したのか、という大問題が現われてくるのである。
これこそが、古代史の最大の謎の一つであろう。
まず、大和の畝傍山南麓の長山稲荷社から延びる東西一直線上に伊勢の外宮祭殿が造られているその謎について、深く考えて行くことにしよう。(続く)

11:畝火山の神主
21/05/05 01:07:32.62 379Jo+CPr
奈良時代に造られた伊勢の多気斎宮寮の地が、大和の箸墓古墳後円部中央から真東の一直線上に立地していることは、先に述べた。
そして、箸墓古墳のその後円部の被葬者は、日本書紀において孝霊天皇の皇女で霊能的な才能に恵まれ三輪山の神の妻となった倭迹迹日百襲姫とされる。
天照大神を祀るために伊勢の斎宮寮に住んだ天皇の皇女と、その倭迹迹日百襲姫の属性がほとんど同じであることからすると、
伊勢の斎宮に住んだ皇女は大和の倭迹迹日百襲姫と真東一直線で結ばれて、二人が一心同体であることが願われたと推定することができる。
つまり、斎宮皇女が倭迹迹日百襲姫と一心同体となるために、伊勢の多気斎宮寮は箸墓古墳の後円部中央から真東一直線の位置に建てられた、とすることができるわけだ。
このことは、斎宮皇女の立場に対する正統的な根拠付けとして、箸墓古墳に眠る倭迹迹日百襲姫が当てられているということを示している。

そこで、この奈良時代の考え方を同じ東西一直線上に立地している畝傍山南麓の長山稲荷社と伊勢の外宮に当てはめて考えてみると、
畝傍山南麓の長山稲荷社が伊勢外宮の立地の根拠付けになっているということになる。
外宮の立地の根拠付けとなるような何が長山稲荷社にあるのだろうか。
ここで、畝傍山南麓の長山稲荷社の由来をみてみることが、ぜひ必要になってくる。
伊勢の外宮と関連する属性が、長山稲荷社にはあるのだろうか。(続く)

12:畝火山の神主
21/05/05 21:10:14.22 379Jo+CPr
ここで、伊勢外宮の立地の根拠付けと目される大和の畝傍山南麓の長山稲荷社を、とにかく見てみることにしよう。
まず、長山稲荷社の長山は、土地名に由来するそうだ。
長山稲荷社の立地するあたりが畝傍山につながる南北に細長い丘陵であることから、普通に付けられた地名が長山ということだと思われる。
そうなると、神社自体は稲荷社だということになる。
祭神は、宇迦能御魂神、豊宇気神、大宮能売神の三座となっている。

URLリンク(ameblo.jp)

そこで、稲荷社の総本宮である京都深草の伏見稲荷大社を見てみよう。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神、大宮能売大神、佐田彦大神ほかとなっていて、長山稲荷社の祭神のうち宇迦能御魂神、大宮能売神が長山稲荷社の本来の祭神であることが分かる。
そして、この宇迦能御魂神は稲作や穀物の神であり、大宮能売神はその宇迦之御魂神に仕える巫女神とされている。
長山稲荷社は、橿原神宮が明治23年に創建される以前からこの地に立地していたそうだ。
こうしたことを見ると、長山稲荷社は伏見稲荷大社から勧請されて建立された神社であることがうかがえる。
そして、この長山稲荷社のすぐ南に広がるのが深田池で、推古天皇の時代に造られた用水池とされている。

URLリンク(blog.goo.ne.jp)

長山稲荷社は、この深田池に関連した神社であるように見える。
畝傍山に降った雨水が深田池に流れ入り、その雨水が下流の田畑に供給されることを考えると、
宇迦能御魂神をここに祀るのは畝傍山からの雨水に穀物神の恵みを付加する願いがあったということだろう。
このように考えると、長山稲荷社の建立自体は、伊勢の外宮の豊受大神とは無関係であるとみなすことが可能だ。
では、長山稲荷社で豊宇気神を祭神として祀っているのは、どういうことなのだろうか。
この点を、次に考えてみよう。(続く)

13:畝火山の神主
21/05/06 16:59:19.03 2YsI3rY4h
さて、畝傍山の南麓にある長山稲荷社の祭神と京都深草の伏見稲荷大社の祭神が同じであることから、
長山稲荷社は、畝傍山から深田池に流れ入って下流の田畑を潤すその雨水に、
穀物神の神霊を付加する目的で伏見稲荷大社から勧請された神社であるとみなすことができる。
それでは、このような神の分霊を祀る勧請神社が成立したのは、いつ頃なのかが問題となってくる。
これまでの研究では、その時期は平安時代中頃とされるようだ。

URLリンク(www.tokyo-jinjacho.or.jp)

そして、伊勢の外宮は持統天皇のときに第一回遷宮が行われていることから、平安時代中頃以降に建立された勧請神社である長山稲荷社は外宮の創始よりもずっとあとの神社であり、
長山稲荷社自体と伊勢の外宮は無関係だとすることができる。
では、長山稲荷社の祭神の一座である豊宇気神については、どのように考えればよいだろうか。
一つは、長山稲荷社や伏見稲荷大社の祭神宇迦能御魂神と豊受神は平安時代中期頃には習合して、同じ神だとされていることだ。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

なので、この場合は、長山稲荷社の祭神豊宇気神と伊勢の外宮に祀られる豊受大神は別と考えるのがよいようだ。
宇迦能御魂神と同一視されるようになったことから、長山稲荷社に新たに豊宇気神も祀られるようになったとみなすことが可能である。

そして、また一つは、畝傍山の西麓にある畝火山口神社の祭神が豊受比売命であることだ。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

畝火山口神社の祭神は、気長足姫命、豊受比売命、表筒男命の三座となっている。
気長足姫命と表筒男命は住吉大社の祭神でもあり、住吉大社では祭祀に用いる土器を造る際の埴土に混ぜる目的のために畝傍山の埴土を別途採取していることから、
その埴土取りの儀式に関わっている畝火山口神社の祭神が住吉大社の祭神と同じであることは、まったく不思議ではない。(続く)

14:畝火山の神主
21/05/06 17:25:49.38 2YsI3rY4h
畝傍山西麓にある畝火山口神社の祭神である気長足姫命と表筒男命は住吉大社の祭神でもあり、畝火山口神社と住吉大社との関係から、
この二座の神が畝火山口神社で祀られていることは、まったく不思議ではない。
しかし、もう一座の豊受比売命については住吉大社とは関係がなく、別に祀られるようになった神だとみなすことが可能である。

この畝火山口神社に豊受比売命が祀られていることと、長山稲荷社で豊宇気神が祀られていることは、パターンがまったく同じであることが注目される。
つまり、畝火山口神社の豊受比売命の祭祀と合わせて考えると、長山稲荷社の豊宇気姫は他の祭神とは別の目的で祀られるようになった可能性が高いと言えるのではないか。
豊宇気神は深田池に流れ入る雨水に穀物神の恵みが付加されるように祈る目的で祭祀されるようになったのではない、と考えるほうが妥当なように見えるのである。

そうなると、豊宇気神はどのような理由で長山稲荷社で祀られるようになったのか、その理由が解明されなければならないのだ。(続く)

15:畝火山の神主
21/05/08 01:59:41.78 nyv6MQJIx
この畝傍山南麓の長山稲荷社も、畝傍山西麓の畝火山口神社も現在の祭神からみると平安時代中期頃以降に建立された勧請神社ではないかとみられるが、
しかし、畝火山口神社については延喜式祝詞に「山神を祀る」と書かれていて、この山神は大山祇神ではないかとみられているようだ。

URLリンク(www.komainu.org)

ということは、畝火山口神社では元々は大山祇神を祀っていたが、その後に住吉大社から気長足姫命と表筒男命の祭神を勧請したとみるのが妥当なようだ。
そうすると、今の祭神の一座である豊受比売命もその後の祭祀であることになる。
そして、この三座の神の配置をみると、中央に豊受比売命を置き、左右に住吉大社の祭神が置かれていることからして、
畝火山口神社の豊受比売命は明らかに伊勢外宮に祀られる豊受大神が意識されているのが分かる。

このことは、長山稲荷社の祭神である豊宇気神についてもまったく同じ形であり、祭神の配置は豊宇気神が中央に置かれ、
伏見稲荷大社の宇迦能御魂神と大宮能売神は左右に置かれていて、豊宇気神は伊勢外宮の豊受大神が意識されているのが分かるのである。
つまり、長山稲荷社の豊宇気神も畝火山口神社の豊受比売命も、やはり平安時代中期以降に祀られるようになったとみるのがよいように思われる。

そして、豊宇気神が祀られるようになったことについては、畝傍山の真東の方向に外宮の祭殿があることが意識されていて、
その祭殿に祀られる豊受大神が霊威の高い神であることが契機となったのではないだろうか。
いずれにしても、長山稲荷社で三座の神が祀られるようになる以前に、すでに伊勢外宮では豊受大神が祀られているわけであるので、
長山稲荷社自体は伊勢外宮の創始とは無関係とするのがよいことになる。

このように考えると、では長山稲荷社が建立される以前、この神社が立地している場所はいったいどのような場所であったのかということが大問題になってくるのである。
この長山稲荷社が建てられた場所と伊勢の外宮の間には、重大な関連があるのだろうか。(続く)

16:日本@名無史さん
21/05/12 02:20:38.22 NW8sI+3hd
                               長山稲荷社建立以前にそこで祀られていた神とは?

畝傍山南麓の長山稲荷社で伊勢に祀られる豊受大神を意識した豊宇気神と京都の伏見稲荷大社の神を勧請した宇迦能御魂神、大宮能売神を祀るのは、
そのすぐ南にある深田池と関係があると考えるのが合理的だ。
深田池は推古天皇のときに造られたとされる広大な用水池であり、
その池に流れ込む畝傍山からの雨水に穀物神の神霊を付加する目的で勧請されたのではないか。
その時代は平安時代中期以降とみるのが妥当だろう。

そうすると、この長山稲荷社の真東一直線上に伊勢の外宮祭殿が立地していることについては、長山稲荷社がその伊勢外宮創始の基点となったのではなく、
長山稲荷社はその基点の上に後代になって建立された神社だと考えるのがよいことになる。
つまり、畝傍山の西麓にある畝火山口神社に今の祭神が祀られるようになる以前には大山祇神が祀られていたとする研究があり、
そのパターンを敷衍すれば、畝傍山の南麓にある長山稲荷社が今の祭神を祀るようになる以前には別の神が祀られていて、
その神社は長山稲荷社の名ではなく別の名の神社、あるいは別の名の祠だった可能性が出てくるのだ。

ただ、その神は、畝傍山西麓にある畝火山口神社が今の祭神の以前に祀っていたとされる大山祇神と同じではなかっただろう。
ごく近くに、同じ山の神をあえて祀る必要はなかったと考えられるからである。
では、伊勢の外宮祭殿創始の基点となったと考えられるその場所で祀られていた可能性の高い神は、いったいどのような神であったのだろうか。(続く)

17:畝火山の神主
21/05/12 21:18:50.48 NW8sI+3hd
                              ☆
                          古い時代の祭祀の形

神社が建立される地はまったく新しい場所が選ばれることもあるはずだが、多くの場合、
神社建立の地には建立に関わる何かの根拠があるようにみえる。
例えば、埼玉の稲荷山古墳の後円部には稲荷社が建立されていたし、大阪の住吉大社の社殿は古墳の後円部の上に建てられていて、
しかもその後円部の中央には住吉大社の摂社である大海神社が設けられているといったような事例がみられる。

URLリンク(sakitama-muse.spec.ed.jp)

こうしたケースは、その被葬者を神霊として祀る考え方があったことを示すものだ。
また、神体山の神を麓から遥拝していた場所に、社殿が建てられたケースもあるようだ。
この場合は、山上の神の神霊がその麓の遥拝所にも移され、祭りの期間は神がそこにいたということなのだろう。
その祭りの期間、遥拝所に設けられる祭祀所に、後代になって祭殿が設けられたと考えると分かりやすい。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

いずれにしても、神社が建立される場所では、その建立の根拠となる何らかの神霊が祀られていたことが推測されるのである。
畝傍山南麓の長山稲荷社でも、それ以前には何らかの神がその地で祀られていた可能性があると考えるのが自然だ。
そして、その祭祀所を基点として、真東一直線上に伊勢の外宮の祭殿の位置が決められたとするわけである。

そこで、その祭祀所に祀られたのは、地勢から考えて畝傍山自体であることは、おそらく間違いないだろう。
畝傍山の支脈が長く南に延びた丘陵上の先端の麓に長山稲荷社があるからである。
こうした山頂から麓へのパターンは各地にみられ、その一つは近江の銅鐸出土地の大岩山でもみられる。

URLリンク(shiga-bunkazai.jp)

山頂の神が宿るその麓の丘陵地に銅鐸が埋納され、神が感応して恵みを現わしてくれるとする観念があったということが考えられるのだ。(続く)

18:畝火山の神主
21/05/13 00:05:52.61 okGBe4i4Z
                ☆
         畝火山口神社の元の祭神とされる大山祇は古い神か

このように、長山稲荷社が立地する地勢は近江の大岩山の銅鐸埋納地の地勢とよく似ており、
長山稲荷社の地に元々祀られていたと仮定する畝傍山の神はかなり古い時期からの神であった可能性がある。
一方、畝傍山の西麓の畝火山口神社の元の祭神とされる大山祇の神はどうだろうか。
延喜式祝詞にみられ、祈雨の目的で祀られたようだ。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

畝火山口神社の元の祭神大山祇神は雨乞いのための祭祀の目的で祀られたとされているわけであるが、
そもそも雨水は山の中に溜められてそれが地表に給されてくると考えられ、そのために山の神が水神とみなされていたようなのだ。
そして、各地各所にそうした山神がいたが、その水神である山神の総称として大山祇神の神格ができてくるのは、
かなり新しい時代になってからなのではないだろうか。
そのように考えると、畝火山口神社の元の祭神とみられている大山祇神が畝火山口神社に祀られるようになったのも、それほど古い時代のことではないのかも知れない。

URLリンク(www.buccyake-kojiki.com)

このようにみると、では畝傍山自体の地主神はそもそもどのような神だったのか、ということになってくるのである。(続く)

19:畝火山の神主
21/05/13 01:08:56.84 okGBe4i4Z
                ☆
          畝傍山の地主神は火の神だったか

そこで、畝傍山の地主神がどのような神だったかを知る手懸かりになるのが、畝火山口神社の社名なのだ。
畝傍山は、現在は畝傍と書かれているが、元々は畝火が主な表記だったようだ。

URLリンク(www.city.kashihara.nara.jp)
URLリンク(ja.wikipedia.org)

このように、畝傍山は元々は火山であり、その痕跡は畝傍山山頂付近の平坦地の溶岩にみられるという。
そして、この山が畝火山と名付けれられていることから、火山だったことが古代には認識されていた可能性があるというのである。
畝火山口神社の畝火の社名が、その証拠ということになってくるのだ。

そうすると、畝傍山南麓の丘陵の長山稲荷社のその場所で元々祭祀されていた可能性が高いのは、
畝傍山の地主神の火の神であったと想定することが可能になってくる。
畝傍山が元は火山であり、そのことが大和では十分認識されていて、日本書紀や古事記にも畝火と表記されていたとすれば、
畝傍山の山神は元々は火の神であったとする想定も、一概に否定できないということになるのである。

このような可能性が出てくると、古代においてこの畝傍山の周辺の社会的環境がどのようなものであったのか、見てみる必要が出て来る。
畝傍山の地主神として火の神を祀るような人的、社会的環境が十分あったのだろうか。
次に、その点を確かめてみよう。(続く)

20:畝火山の神主
21/05/13 21:51:56.05 okGBe4i4Z
                  ☆
         畝傍山周辺はどのような社会環境だったのか

まず、畝傍山の東南麓には縄文時代後期後半~晩期後半の橿原遺跡があり、吉野川方面から縄文人が移動してきて住んだようだ。
URLリンク(www.yayoi.sakuraweb.com)

畝傍山東麓の今の飛騨町あたりには四分遺跡があり、この遺跡は弥生時代全期を通じて継続した集落遺跡である。
URLリンク(www.yayoi.sakuraweb.com)

畝傍山の東北麓には四条古墳群があり、5世紀前半~6世紀中頃とされている。
この古墳群を含めて畝傍山東麓一帯は、大伴氏の拠点だったとされている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

畝傍山西麓にある忌部山遺跡は高地性集落跡で、弥生中~後期の遺跡とされる。
URLリンク(www.yayoi.sakuraweb.com)

そして、南西麓などには主に孝元天皇陵や宣化天皇陵に比定されている古墳のほか、天武持統天皇陵、、束明神古墳、岡宮天皇陵に比定されている古墳、倭彦命墓、新沢千塚古墳群などが集中して造営されている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

これらをみると、畝傍山周辺は縄文時代から弥生時代、古墳時代、飛鳥時代まで一貫して「繁華街」であったということのようだ。
畝傍山南麓の長山稲荷社の場所に元々火の神を祀る祭祀場があったと仮定して、その神を祀る人員には不足することはなかったとみることができそうだ。(続く)

21:畝火山の神主
21/05/16 01:27:05.28 7eO3BOGS0
                      ☆
              火山の火の神を祀ったその理由は何か

上のように、数々の遺跡によって、畝傍山の周りでは常に人の活動があったことが知られている。
縄文時代から一貫して人が住んでいたということだ。
そして、その畝傍山の頂上付近の平坦地では火山由来の流紋岩が露出していることから、
古代には畝傍山が火山であったことが知られていたと推測されている。
畝傍山は日本書紀や古事記には畝火と書かれていて、今も畝火山口神社に畝火の社名がみられるのは、その証だというわけだ。

こうしたことから、畝傍山南麓の長山稲荷社のある場所では、元々は火山の火の神が祀られていたと想定したのだが、
その祀りの具体的な由来については石材採取にあったとみなすことが可能だ。
というのも、ごく最近、畝傍山の北500mにある慈明寺遺跡で、弥生時代前期(前5世紀頃)の土坑の中から約200個の石材が出土した。
その石材は畝傍山で採取された流紋岩から造られたものとみなされている。
石包丁などの石器を造るための元になる石材というわけだ。

URLリンク(www.yomiuri.co.jp)
URLリンク(www.nara-np.co.jp)

この石材の元の流紋岩を採取するためには、畝傍山の東西北麓の急な斜面よりも傾斜が緩やかな南麓から山に入るのが普通だろう。
そして、その登り口の長山稲荷社のある場所に、畝傍山の火山の火の神を祀って流紋岩採取の祈りを行ったと考えるのが自然だ。
畝傍山が畝火と書かれたことのそもそもの具体的な理由は、弥生時代前期以来の畝傍山の火山性流紋岩の採取にあったとみなすことが可能であり、
その畝傍山への登り口には畝傍山の火山の火の神を祀る祭祀の場があったと考えることが合理的だといえる。

このように想定した場合、その畝傍山の火山の火の神を祀る場所に長山稲荷社が建立されるようになる経緯は、どのように考えるのがよいだろうか。(続く)

22:畝火山の神主
21/05/16 19:07:07.72 7eO3BOGS0
                      ☆
             畝傍山の火山の火の神が今祀られていない理由

畝傍山の火山性流紋岩を採取して石包丁などの原石としたことは、これまでの研究で既に分かっていることのようだ。
前項で挙げた慈明寺遺跡の記事に、そのことは明確に述べられている。
そして、弥生人のこの畝傍山での流紋岩採取活動の際に、長山稲荷社のあるその場所に設けられたのが畝傍山の火山の火の神の祭祀場だったというのが、本稿の仮説なのである。

では、その火山の火の神と祭祀場の痕跡が跡形もなくなって、穀物神を祀る神社がそこに建立されているのはなぜなのだろうか。
石包丁が造られなくなったのは弥生時代の後期後半頃であり、原石の需要がなくなって流紋岩の採取が行われなくなったのがその理由なのだろうか。
しかし、日本書紀が編纂された奈良時代にも火山としての「畝火」の山の名は引き継がれてきているのであり、
その「畝火」を神体とする祭祀の場が引き継がれて来ていたと考えてもおかしくはない。

そこで、畝傍山の火山の火の神を祀る祭祀場がない理由について、第二の仮説として考えることができるのが深田池の開削なのだ。
深田池は、推古天皇のときに用水池、遊水池の目的で、長山稲荷社のある場所のすぐ南に造られたとされる広大な池だ。

URLリンク(asuka-japan-heritage.jp)

深田池は、畝傍山の南側斜面に降った雨水とその湧水を水源としたものだろう。
しかし、火と水は相反する性質のものであり、広大な池の手前に畝傍山の火山の火の神を祀る祭祀場があるのは不都合なこととなる。
畝傍山は水源でなければならず、地主神が火山の火の神であっては困るわけだ。
畝傍山を水源とする深田池の開削の結果、畝傍山の火山の火の神を祀る祭祀場は廃絶となったのではないか。
そして、その火山の火の神の痕跡は、畝火の表記にのみ残ることとなった。

要するに、深田池が開削される以前には、畝傍山南麓には地主神である火山の火の神を祀る祭祀場があったとみなすのが、本稿の仮説なのである。
長山稲荷社の祭殿の真東一直線上に伊勢の外宮の祭殿が計画的に建立されたとする本説は、
長山稲荷社の場所は元々この火山の火の神の祭祀場であったとする仮説の上に成り立っているのである。(続く)

23:畝火山の神主
21/05/17 02:44:41.92 fUZPGrhgL
                      ☆
            畝傍山の火山の火の神と皇粗の神々の神名との符牒

さて、畝傍山南麓の長山稲荷社が立地する場所は、元々は畝傍山の地主神である火山の火の神が祀られた所であったとの仮説を述べた。
そして、この火山の火の神を祀る祭祀の場所を根拠として、その真東一直線上に伊勢の外宮の祭殿が計画的に配置されたとするのが本説である。
引き続き、畝傍山の地主神である火山の火の神に関連する事柄を見て行こう。

このように、畝傍山の南麓に畝傍山の火山の火の神を祀る祭祀の場があったと仮定した場合、
記紀に記されるヤマト王権初代の天皇である神武天皇が宮を畝傍山東南麓の地に置くその理由や、
その神武天皇の祖神の神々の神名がなぜ記紀に記されるような名となっているのかについて、
リアルな姿で再現できることに注目したい。

まず、神武天皇の宮が畝傍山の南東麓の地に置かれたその理由について見てみよう。
記紀では、畝傍山南東麓の地が天下の中心の地としてふさわしいとしており、
日本書紀では、その根拠として「墺区(オウク=もなかのくしら)」であることを挙げている。

「墺区(オウク=もなかのくしら)」の「墺(おう)」は「山の麓に入り込んで、住むのに適した所」の意であり、
「区(ク)」は「仕切る、区切る」意であるので、「墺区(オウク=もなかのくしら)」とは山の麓の住むのに適した区域の意味である。
この「墺区(オウク=もなかのくしら)」の言葉の意味からすると、日本書紀の根拠説明は畝傍山の東南麓の地が天下の中心地にふさわしいことの説明になっていないのは明らかだ。
しかし、神武天皇が難波の白肩津に着いてすぐに大和川の中流の龍田へ向かったことからして、
神武天皇が天下の中心地として畝傍山の東南麓の地を最初から目指していたストーリーとなっているのは明白である。
龍田からそのまま東南へ進めば畝傍山に達するのであるし、紀伊半島迂回と長脛彦との戦いは神武天皇を英雄にするための脚色であり、宮を畝傍山東南麓に置いた根拠を説明するものではない。
こうしたことからすると、その畝傍山の東南麓の地が天下の中心地としてふさわしいことの根拠が、日本書紀では隠されているとみなすのが自然だと言えそうだ。
ではなぜ、神武天皇が畝傍山東南麓へ向かうその根拠が隠されているのであろうか。(続く)

24:畝火山の神主
21/05/17 04:04:32.58 fUZPGrhgL
>>23の見出しの「皇粗」は「皇祖」のミスな。

25:畝火山の神主
21/05/17 17:35:45.46 fUZPGrhgL
                           ☆
              記紀の忍穂耳、番瓊瓊杵の穂、番は間違いなく穂、番なのか

前項の見出しは「畝傍山の火山の火の神と皇祖神の神々の神名との符牒」であったが、ここからそのテーマに入ることにしよう。

まず神武天皇の名であるが、日本書紀は、諱(いみな)は彦火火出見(ひこほほでみ)だと記している。
古事記は、若御毛沼(わかみけぬ)としている。

そして、日向神話においては、神武天皇の父の名は鵜草葺不合(うがやふきあへず)とだけ記されていて、
諱のような名はみられない。記紀ともに同じである。

神武天皇の祖父の名は、日本書紀では火折(ほおり)で、号(みな)は彦火火出見である。
古事記では、火遠理(ほおり)としているが、またの名を天津日高日子穂穂手見(あまつひだかひこほほでみ)としている。
これらを見ると、日本書紀においては、神武天皇の諱が彦火火出見なので、神武は祖父の号を引き継いでいることになり、
神武と祖父はともに火のつく名を持っていることが分かる。
一方、古事記では、火ではなく穂の字が用いられている。

では、神武の曾祖父の名は何かというと、日本書紀では天津彦火瓊瓊杵(あまつひこほのににぎ)と書かれている。
やはり火の字がついていて、日本書紀においては、神武の皇統には火の字を用いていることが分かる。

一方、古事記ではどうか。
古事記では、神武の曾祖父の名は、天津日高日子番能邇邇芸(あまつひだかひこほのににぎ)となっていて、番(ほ)の字が書かれている。
日本書紀が火の字を用いているのに対して、古事記では番(ほ)の字が使われている。
そして、神武の高祖父は、記紀ともに天忍穂耳(あまのおしほみみ)となっている。

古事記は、神武の曾祖父の名を番能邇邇芸(ほのににぎ)として番(ほ)の字を用いているが、
番は播(ハン=播く)意を表す字なので、古事記は神武の高祖父の忍穂耳の名の穂の字を受けて、
瓊瓊芸を「稲穂から採れた種を播く者」という解釈をしたことが分かるのである。

いずれにしても、日本書紀は神武の皇統の名を火で表し、一方古事記は神武の皇統を穂で表しているのが分かるのである。(続く)

26:畝火山の神主
21/05/17 18:56:53.86 fUZPGrhgL
                   ☆
                忍穂耳の穂の謎

日本書紀においては天照大神の子の忍穂耳だけが穂の字が用いられており、神武天皇から祖先たちへ遡ると皆火の字が用いられている。
日本書紀の神武の皇統の伝承においては、火が皇統の証となっているのが分かる。
一方、古事記では忍穂耳から神武までの子孫に穂や番の字が使われていて、忍穂耳の稲穂の穂が皇統を表す字とされているようだ。

しかし、古事記では神武の祖父の穂穂手見(ほほでみ)の名を火遠理(ほおり)としていて、この火遠理は日本書紀の一書に書かれている火折(ほおり)と同じであり、
火折(ほおり)は彦火火出見の名であるので、古事記が皇統の証とする穂の字は日本書紀が記す火の皇統を書き改めたものであることが分かるのである。
つまり、日本書紀の皇統を示す火の字を、古事記は穂の字に書き改めたということなのだ。

そうなると、日本書紀も古事記も記している天照大神の子の忍穂耳の穂は、原資料ではどのような字になっていたのかということが、大問題となってくるのである。
忍穂耳の穂は、これまで見て来たように、日本書紀では神武から遡る祖神はその名に火を負っていることからすると、忍穂耳の穂は原資料では火であった可能性が極めて高くなる。
そして、忍穂耳が原資料で忍火耳であったとすれば、古事記の忍穂耳の子の番能邇邇芸の番(ほ)はまったくの茶番ということになってくるのだ。

このように、忍穂耳は原資料では忍火耳であった可能性が非常に高いとすれば、
それを忍穂耳と記紀ともに記しているのはどういうことなのかということになる。
しかし、答えは、そう複雑ではなく簡単なのであろう。

つまり、忍火耳を忍穂耳に改めたのは、正史編纂当時の大和政権のプロパガンダだったとみなすべきなのだ。
そして、古事記はそのプロパガンダに正直に従って忍穂耳の子孫にまで穂の字を付け、
一方、日本書紀はさすがに原資料の火瓊瓊杵以下の子孫の火の字は書き改めなかったということになる。

このように見ると、神武天皇の皇統は火にちなむ名を持っていたことになるのだ。
そうなると、この神武天皇の皇統の火は何に由来する火なのか、それを解明することが極めて重要だ。(続く)

27:畝火山の神主
21/05/18 03:48:58.82 faVmuCMZZ
                   ☆
        神武天皇の皇統の火の名は霧島連山の火山の火に由来か

前項で、天照大神の子の名を記紀ともに忍穂耳と記していることについて、元々は忍火耳であった可能性が高く、
それを忍穂耳と稲穂の穂の字に変えたのは、当時の大和政権のプロパガンダだったとみなした。
その根拠については、次のことを挙げることができる。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

この記事によると、大化の改新後、当時の大和政権は王土王民の理念のもとに改新の政策を進めていたとされている。
そして、大化の改新直後の「改新の詔」の内容は、記紀の編纂時に書き換えられ、記紀によって公地公民制が行われたと唱えられたというものである。

こうしたことからすると、天照大神の子とその子孫の名が火から稲穂の穂の字に書き改められたのは、
稲穂に代表される国土の農産物などは天照大神の子孫である天皇に帰するべきものとする政治的思想が反映された結果であり、
それはまさに政権によるプロパガンダだったとみなすことができるのだ。
そうなると、神武天皇の皇統の祖神が火の神名を持つとする日本書紀の記述のほうが、穂の名を持つとする古事記より信頼できることになる。

では、その日本書紀は神武天皇の祖神の由来をどのように書いているか見ると、
まず、天照大神の皇孫彦火瓊瓊杵は「日向の襲の高千穂峯に天降ります」と記されている。
南九州の襲於地方(霧島市、曽於市、都城市辺り)にある霧島連山の高千穂峰がそれに比定されることが多い。

この霧島連山は、複数の活火山が集中していることで有名だ。
そして、この霧島連山の高千穂峰から産物のない痩せこけた地を通って「吾田の長屋の笠狭碕に到ります」と記される。
霧島連山から南西へ山地の尾根が長く伸びていて、痩せこけた地という表現がぴったりする地形となっている。
「吾田の長屋の笠狭碕」は、今の南さつま市阿多地方にある野間岬に比定されることが多い。
この吾田に彦火瓊瓊杵、彦火火出見、鵜草葺不合、神武天皇(彦火火出見)の四代が住み続けるのである。

この神話から火に関連する場面を抜き出してみることにしよう。(続く)

28:畝火山の神主
21/05/18 21:41:14.28 0U1FMpdou
                     ☆
           日向神話のコア伝承は阿多族の起源神話だったか

ここで、日本書紀の日向神話から火に関連する場面を抜き出して、その火の名の由来を考えてみることにしよう。

まず、天彦火瓊瓊杵の場合は、高千穂峯に降り立った場面が挙げられる。
高千穂峯は霧島連山の中の一峰であるが、そのすぐ西側には「御釜」と呼ばれる巨大噴火口を望む立地となっている。
霧島連山には多数の噴火口がみられるが、現在活発な活動を続けているのはこの御釜と御釜の北西方向にある新燃岳だ。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

日本書紀では、天照大神の孫の彦火瓊瓊杵の名は高千穂峰に降臨する前からある名として設定されているが、
降臨した高千穂峯が御釜の巨大な噴火口のすぐ傍であることから、この巨大な御釜の火にちなんで高千穂峯に降臨したとする設定が考えられる。
このことは、彦火瓊瓊杵の火は元から火山の火を表すものであり、
そのためにこそ巨大な噴火口の御釜のすぐ傍の高千穂に降臨する場面設定がなされたと考えることができるのだ。

次に火の場面が描かれるのは、彦火瓊瓊杵の子の彦火火出見の誕生においてである。
母親の神が産屋を燃やしたので、彦火火出見の火はその産屋の燃える火にちなむ名だとして描かれているが、
それは父親の彦火瓊瓊杵の名の火を受け継ぐための場面設定に過ぎず、
この場面の本質は火山の火を表した彦火瓊瓊杵のその火の名を受け継ぐことにある。
そして、この彦火火出見の火山の火の名を冠した名前をそっくり受け継いだのが、孫の神武天皇ということである。

このように見ると、この神話の核心であるコアの部分は、神武天皇の皇統は火山の火の名を持つことにあるということになるのだ。
そして、高千穂峯に降臨した彦火瓊瓊杵から神武天皇までの四代が吾田(今の南さつま市阿多)に住んだとする神話と合わせて考えると、
この日向神話の元になったコアの伝承については「阿多族は霧島連山の火山の火を起源神とする部族だった」と想定することが可能になる。
つまり、霧島連山の火山の火の神が麓の阿多に現れ、その火山の火の神が阿多族の起源神となった、ということである。(続く)

29:畝火山の神主
21/05/20 16:29:22.23 L9gLCSoAj
                       ☆
               神武天皇のモデルとなったのは崇神天皇か

前項から分かるように、日本書紀の神武天皇の皇祖神たちは霧島連山の火山の火を名に冠する神であったとすることができる。
この日向神話のコア部分は、霧島連山の火山の火の神を起源神とする阿多族の部族神話だったと考えるのが妥当だ。
そして、その阿多族の部族起源神話を基にして脚色したのが日本書紀の日向神話であり、
日本書紀はその神話を神武天皇という皇統始祖の英雄創出につなげていると考えることができる。

こうした阿多族の部族神話を大和にもたらし、神武天皇という皇統始祖のモデルとなったのは日本書紀の崇神天皇とされる人物だったと思われる。
崇神天皇の即位前期の部分が日本書紀では欠落していて、この崇神天皇の即位前期の事績として神武天皇の事績を当てはめれば、
崇神天皇紀はちゃんと一貫するものになるとする研究がすでにあるようだ。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

そして、この記事の中でも言及されているが、崇神天皇の贈り名の御間城入彦、御真木入日子も崇神天皇が大和の外から来た人物であることをうかがわせるものだ。
間城(まき)、真木(まき)の解釈はいろいろなされているが、マキは「任き(まき)」とするのが適切だろう。
万葉集4113の歌に「遠の御門に任き給ふ」とあり、「任き」は任命されて遣わされる意である。また「任く(まく)」とも表現される。
この「任き(まき)」は「任かす(まかす)」の元になる語彙であり、「任命して遣わす」意が「委任する」の意に変化したのが「任す(まかす)」の言葉だ。

このことからすると、崇神天皇の贈り名の御間城入彦(みまきいりひこ)は、「任命されて遣わされ(大和に)やってきた尊いお方」の意味になる。
どこからやってきたかというと、神武天皇がいた南九州の吾田(阿多)からであり、任命したのは阿多部族の大シャーマンということになる。
崇神天皇は、阿多部族の次期大シャーマンと目されていたシャーマンであった可能性が高いのではないか。(続く)



30:畝火山の神主
21/05/22 02:08:09.79 JotpOnhec
                        ☆
               神武天皇が畝傍山東南麓を目指した理由

ここで、神武天皇が難波の白肩津に到着したときから、大和の畝傍山東南麓の地を天下の中心地にふさわしい所として目指していた、その理由に戻ることにしよう。
日本書紀は、畝傍山の東南麓の地がなぜ天下の中心地にふさわしい所なのか肯首できるその根拠を示していず、
そのまま神武天皇をその地へ向かわせているのである。
どのような理由があったのだろうか。

これまで、日本書紀にみえる神武天皇の皇統の祖神の名に冠された火の字が、南九州の霧島連山の火山の火にちなむものであることを考えて来た。
そして、日向神話の神武天皇の皇統の祖神の神話は、今の南さつま市の阿多の地にいた阿多族の起源神神話が元になっているものと考えた。
その部族起源神話とは、阿多族は霧島連山の火山の火から生まれた部族だとする神話だったとみなすことが可能である。

このように考えた場合、神武天皇が天下の中心にふさわしい地として目指すように描かれた畝傍山が元々は火山であったことは、簡単に無視できないことだ。
その山頂付近には火山性の流紋岩が露出していて、
弥生時代前期からその畝傍山から採取した流紋岩が石包丁などの石器の原石として利用され続けてきており、
しかもその畝傍山が火山であったことが住民に理解されていたとすれば、
日本書紀の編纂者が火山の火の神の子孫である阿多族のシャーマン神武天皇に火山だった畝傍山へ向かわせ、
その畝傍山の東南麓の地が天下の中心地であると宣言させたのは、火山の火の神の子孫にはその地を占拠する正当な根拠、理由があるのだとしたということであろう。

では、日本書紀の編纂者は、そのことをなぜ明らかに示さなかったのかという疑問が湧く。
その回答としては、畝傍山が火山であり、その火山の火の神を長山稲荷社のあるその場所で祀ることが、深田池を造った推古天皇の政権によって廃絶され、
畝傍山は水源の山とされたためだと考えれば、理解しやすいのではないか。
実際に、水の神である大山祇神が畝火山口神社の祭神として祀られていたとする説が有力となっている。
元々の畝傍山南麓の火山の火の神を祀る祭祀場が廃絶され、水神である大山祇神を祀る西麓の畝火山口神社に振り替わったということではないだろうか。(続く)

31:畝火山の神主
21/05/23 01:52:22.67 3qEaOi1Nl
                      ☆
       伊勢外宮への基点長山稲荷社は元は火山の火を祀る場所だった可能性

このように、畝傍山は元々は火山であり、その火山の火の神を祀る場所が長山稲荷社のある場所だったと仮定すると、
皇統の始祖である神武天皇が天下の中心地にふさわしいとして畝傍山の東南麓に宮を置いたとする日本書紀の記述のその根拠も理解しやすいものとなる。
つまり、火山の火の神の子孫である神武天皇が、火山の火の神が祀られる畝傍山の麓のすぐ近くに宮を置いたということは、
その畝傍山の火山の火の神の存在が大和に入るための神武天皇の正当な根拠となったということを意味している。
このように、畝傍山南麓の長山稲荷社の地では、推古天皇以前は畝傍山の火山の火の神が祀られていたと考えることは、妥当ではないだろうか。
そして、この畝傍山の火山の火の神が祀られた場所の真東一直線上に伊勢の外宮祭殿が計画的に配置された、とするのが本説である。

さて、ここで、新たな疑問を提示することにしよう。
伊勢の外宮祭殿が設けられる基点となったのが畝傍山南麓の長山稲荷社の祭殿の場所であり、
ここに畝傍山の火山の火の神が祀られていたとした場合、伊勢外宮の祭殿に祀られる神は穀物神の豊受大神なので、
火山の火の神が穀物神である豊受大神を祀るための根拠になるであろうかという疑問である。

最初にも記したように、伊勢の斎宮寮の地の基点は大和の箸墓古墳の後円部中央であり、
伊勢の斎宮寮に住む天皇の皇女の根拠として箸墓古墳の被葬者である孝霊天皇の皇女で霊能豊かな倭迹迹日百襲姫を設定したのは、まったく道理にかなうことだと言える。
また、南河内の推古天皇陵の立地の基点となったのが敏達天皇陵であり、その敏達天皇は推古天皇の夫であったことは、
この二つの陵墓を真東一直線上に設ける根拠としてまったく道理にかなうものである。

そこで、伊勢外宮の豊受大神をみると、公式的には元々は丹後在地の穀物神とされ、豊受比売がその神名である。
この穀物神を伊勢に遷して祀るに際して畝傍山の火山の火の神を根拠としたとするのは、ほとんど理を欠くものと言えるのではないか。(続く)

32:畝火山の神主
21/05/27 16:04:07.77 +X2TvUKrj
                     ☆
          外宮の社は豊受大神のためのものではなかった可能性が

さて、畝傍山南麓の長山稲荷社の祭殿から真東一直線上に伊勢の外宮祭殿が立地していて、
長山稲荷社の位置が伊勢の外宮祭殿建立の基点となっている可能性について述べ、
そして、その長山稲荷社のある場所では元々は畝傍山の地主神である火山の火の神が祀られていたと仮定した。

そこで、伊勢外宮の祭神を見ると豊受大神であり、豊受大神は元々は丹後で祀られていた穀物神の豊受比売とされている。
そうなると、畝傍山南麓の火山の火の神が穀物神の豊受比売を祀るための根拠になったということになるが、
しかし、地主神である火山の火の神と穀物神との間にはそうした相関関係はみられず、畝傍山南麓の火山の火の神は伊勢に穀物神を祀るための根拠とはなりにくく、
根拠としての道理はみつからないということなのである。

前項までの論旨は、こういうことであった。
東西一直線上に立地している事例としては、大和の箸墓古墳と伊勢の斎宮寮、南河内の敏達天皇陵と推古天皇陵がみられ、
いずれも根拠としての道理が成り立つものであったことからすると、
畝傍山南麓の火山の火の神と伊勢外宮の豊受大神の間にはそうした相関する道理が欠けているとすることが可能なのだ。

そうなつてくると、このことから導くことができる仮説は、
伊勢の外宮の祭殿の場所で最初に祀られていたのは現在の祭神である豊受比売ではなかったとすることである。
しかし、こうした仮説は別段驚くべきことではなく、ウェブサイト上では、これまでにもその可能性に関する論はいくつも出されて来ている。
本論では、その仮説の根拠として、大和の基点から伊勢に延びる真東一直線上にそうした祭神を祀る場所が計画的に設置されたとする仮説を挙げており、
その点が新しいと言えるだけである。

こうして、いよいよ本論に入る段階となったわけだが、
基点となった畝傍山南麓の火山の火の神との間に相関関係が認められる神とはどのような神だったか。
ウェブサイト上にみられる論を挙げて、その神の姿に迫ってみよう。(続く)

33:畝火山の神主
21/05/27 18:11:17.25 +X2TvUKrj
                      ☆
             外宮の場所に最初に祀られた神についての謎

外宮祭殿の場所に最初祀られた神は豊受比売神ではなかった可能性が高いとする論は、ウェブサイトでも少なからず見られる。
その内のいくつかを挙げてみよう。

URLリンク(www.yakuji.co.jp)
URLリンク(www.kinoie-niigata.com)
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
URLリンク(ja.wikipedia.org)

これらの論を見ると、豊受比売神が祀られる以前は現在の外宮の地では男神が祀られていたのではないかとし、
内宮の祭殿で祀られている天照大神は元々は男神であったのではないかと疑問を呈するもののように見える。
ただ、日本書紀などでは、その天照大神が祀られたのは最初から現在の内宮の場所であるとしていることから、
外宮の場所から現在の内宮の場所にその男神が遷された可能性について具体的な根拠を示せないことや、
また男神から女神への神格の転化についても明確な根拠が示せないことが、多くの論が「可能性の指摘」にとどまっている理由だと言えそうだ。

この迷宮の謎へ果敢に切り込んで行こうとするのが、これから述べる本論である。
古代における「東西一直線の思想」がいかなるものであったか、初めて知られることとなるのである。(続く)

34:畝火山の神主
21/05/29 17:23:10.07 vJ7/7H+xI
                       ☆
               最初に祀られた神の最有力候補の絞り込み

畝傍山南麓の長山稲荷社祭殿の場所の真東一直線上に計画的に設置された外宮祭殿に最初祀られた神は豊受比売神ではなかったのではないか、とするのが本論の核心部分である。
畝傍山南麓の長山稲荷社の地で元々祀られていたのは畝傍山の地主神の火山の火の神であったと仮定した場合、
その真東一直線上に立地する外宮祭殿に祀られている穀物神の豊受比売神との間には相関する根拠がまったく見られないというのがその理由であった。
そこで、最初に外宮の場所で祀られた神がいかなる神であったか、その要件を絞り込んで行くことにしよう。

その神が男神であった可能性については、外宮祭殿の千木が外削ぎであり、鰹木が奇数であることが挙げられており(サイト「伊勢の遷宮と御造営工事(PDF版)」にその平面図が見られる)、
また、伊勢神宮に奉納される内宮の天照大神の御装束が男性用であるとする記事は既に33で見た通りである。
そして、基点から真東一直線上の地に設けられる古墳や施設などは、皇祖神の天照大神の兄弟神である月夜見神(7に掲載)、天皇自身、天皇の皇女などに関わるものであることが挙げられる。
これに、真東一直線の基点となる火山の火の神と相関関係が認められる神を加えることができる。

このように、まず、神話上の皇祖神関連の神や天皇、皇女がそれぞれ真東一直線上に置かれていいて、
真東一直線上の配置の要件としては皇統に相関していることが挙げられる。
そして、外宮の神の場合は男性であることが要件として加わり、
長山稲荷社の祭殿を基点とする真東一直線上に配置された外宮の場合は火山の火の神と相関関係が認められる神であることが要件となる。

これらの要件を満たす神としては、丹後の在地の穀物神であり皇統とは無関係であった豊受比売神が該当しないことは明白である。
そして、月夜見神が外宮祭殿の傍らに配置されていることを重視し、火山の火の神との相関を考えた場合、これらの要件を満たす神は、
日向神話でイザナギ神の禊で生まれた神として描かれている日神が最も該当する神ではないだろうか。(続く)

35:畝火山の神主
21/05/30 01:12:28.78 6Rqfr8ibV
                     ☆
             日本書紀の日神は元から女神だったか

そして、ここで問題になるのが、イザナギ神が生んだ日神(ひのかみ)についての日本書紀の記述が、「…日の神を生みまつります。大日?貴(おおひるめのむち)と号す」となっていることだ。
日の神の名は大日?貴(おおひるめのむち)である、というもの。
注目されるのは「?」の字である。

この?の元字は靈(この字の略字は霊)で、「連なった清らかな水玉」と「巫=みこ」の会意文字であり、「神や魂に接する清らかな巫女」の意味とされ、
これが転じて「水たまのように冷たく清らかな神の力や魂」を言うとされる。(学研漢和大字典)
靈の巫の部分を王の字に置き換えた字(説文)もあり、これも巫女の意味で用いられているとされる。

この日本書紀の?(め)も巫女の意味で用いられているとみなされている。(日本古典文学大系「日本書紀」の解説)
そうすると、大日?貴(おおひるめのむち)とは「日を祀る大いなる尊い巫女」の意味になる。
しかし、日本書紀の文脈では、「日の神の名は、大日?貴(おおひるめのむち=日を祀る大いなる尊い巫女)という」ということになり、これは文意としては明らかに混乱している。

この?の字を「め」と読むのは?の字の「女(め)」の部分に拠るのであるから、
日の神が女神であることを表すための日本書紀の文脈としては「大日女貴」か「大日売貴」の表記でも良かったはずである。
ではなぜ巫女の意味を持つ?という造語を用いたのかということになるが、
その解答としては、原資料では「靈(ち)」の字となっていたのではないのかという可能性も考えられるのである。

大日靈(おおひるち)であれば「大いなる日の神」の意味になり、文脈は自然なものとなる。
霊(ち)の用い方では、「いかづ霊=雷」「おろ霊=大蛇」「みず霊=水神」などがあるとされるので、大日靈(おおひるち)とする用法には問題がない。
そして、大日靈(おおひるち)の読み方であれば?(め)のように指定的な女神の意ではないのであるから、
靈の字自体に巫女の意味があるにしても、「ち」と読む限りは普通には男神であることになる。(続く)



このように元々

36:畝火山の神主
21/05/30 05:57:50.93 GxMP6ssuJ
                      ☆
            日本語としての靈(ち)はどのような神を指したか

日本書紀の大日?貴(おおひるめのむち)の名は原資料では大日靈(おおひるち)だったのではないかと推測したが、
仮に大日靈が元々の表記だったとすれば、その神の神性はどのようなものだったかと考えてみることは、決して無意味ではない。
靈(ち)のつく神の例は前項で挙げたが、その「いかづ靈」「おろ靈」「みず靈」には雷神、大蛇、水神の字が当てられている。

雷神を表す「いかづ靈」の「いか」は「厳めしい」「厳つい」の「厳(いか)」であり、厳の字は「きびしい」の意味であるので、「いかづ靈」は厳しい神を意味していることが分かる。
大蛇の字が当てられている「おろ靈」は恐ろしい蛇ということになるが、満州語(女真語)のgolombi(ゴロムビ)、olhombi(オルホムビ)は恐れる意であり、
語頭のgolo(ゴロ)、olho(オルホ)が恐れる意を表していると考えられることから、
大蛇を意味する「おろ靈」の「おろ」と女真語の恐れる意のgolo(ゴロ)、olho(オルホ)とは関連があると考えられる。
女真人は5世紀中頃から倭の王権のもと摂津の四条畷で馬飼いを始めていて、ムチ(鞭)の言葉やヒヅメ(蹄)のヒは女真語由来とみることができ、
「おろ靈」の「おろ」はその女真語由来の言葉である可能性がある。「おろ靈」とは恐ろしい神の意味だと考えられる。
水神を表す「みず靈」の場合は河に住んで害をなす龍類や蛇類と考えられた水神であり、退治されるべき怖い生き物として描かれている。

これらの「靈(ち)」のつく神は怖く厳しい神であることが共通しており、大日靈(おおひるち)とした場合の日の神も決して恵み豊かな神というわけではなく、
畏れられ厳しい日の神と考えることができる。
これは男性原理であり、外宮の祭殿に祀られた神が男性であったとする考えとまったく符号することである。(続く)





??????

37:畝火山の神主
21/05/31 00:46:26.20 J902dmoVb
                       ☆
            やはり、外宮の神は千木外削ぎの通りに男神だったか

前項のように考えた場合、伊勢の外宮祭殿の地に最初祀られた神は日本書紀で皇統の始祖神とされる日の神であり、
その日の神は日本書紀が記す女神ではなく、畏れられ厳しい神格の男神であったとするのが妥当であるとみなすことができそうだ。
そうすると、大和の畝傍山の地主神と仮定した火山の火の神と伊勢の畏れられ厳しい神格の男神である日の神を、
一心同体的な相関関係でつなぐことができるだろうか。
伊勢外宮祭殿のある場所で最初祀られた神については、畏れられ厳しい男神の日の神であったと想定した。
では、畝傍山の火山の火の神はどうか。

まず、日本書紀では、火の神の名は軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほのむすび)である。
古事記では、火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)となっている。
このうち、イザナミ神が亡くなる原因となった火の神の名は、日本書紀、古事記ともに「かぐつち(軻遇突智、迦具土)」としているので、
火の神の名は「かぐつち」で統一することにしたい。

さて、火の神の「かぐつち」は、前項の「いかづ靈」「おろ靈」「みづ靈」と同じように「かぐつ靈」とするのが良いだろう。
そして、「かぐ」は「かがよふ(耀ふ)」に由来し、「かがよふ(耀ふ)」は「きらきら光って揺れる、きらめく」意とされる。
この「かがやく」の「かが」の言葉は、パンジャブ語の aga(アガ=火、燃焼)、サンスクリットの agni(アグ二=火、燃焼)と同系の言葉とみられる。
したがって、「かがよふ(燿ふ)」の「かがやく」は、単に輝くというだけではなく「火のように赤く輝く」の意味を持つと考えることができそうだ。
そうなると、火の神の名の「かぐつ靈」に「かぐ」の言葉が使われている理由が明確になる。
「かぐ」の言葉自体が火や燃焼の意味を持っていたというわけである。

このようにみると、火の神「かぐつ靈」は、火、燃焼そのものを指す言葉が元になっていて、
その「かぐ(火、燃焼)」に神を意味する「靈(ち)」を付けた言葉だということになる。
そして、「靈(ち)」は畏れられ厳しい男性原理の神を表す言葉なので、「かぐつ靈(火の神)」は男神を意味しているとみて間違いないだろう。(続く)

38:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 07:53:24.03 EP59l7sfL
内外宮の二神は女神です。男神ではないですね。

秀真の男神記述に騙されないように。

39:畝火山の神主
21/05/31 18:26:41.35 BvZO90QWD
日本書紀が編纂されたときの原資料段階では、伊勢の日の神は男神だったでしょう。
その男神が女神に転換されたのは推古天皇から持統天皇の頃でしょうね。
その時代以降については、確かに伊勢の内宮外宮の二神は女神で祀られています。

40:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 20:09:03.75 /CXVn3czW
その段階とやらで男神の記録なんかないだろう。あんのかい?

性転なんかしてないぜ。

アマテラスは絶世の美女で、原節子さんにも似てないな。
しいて似てるといえるのはスカーレット・オハラ役の彼女だな。
彼女に正面に鏡のある宝冠をかぶらせれば大分似て来るね。
日本の神であって世界での神であり、彼女のはいてるふわっとしたドレスを
本もののアマテラスは着ている。断じて男ではない。

URLリンク(www.youtube.com)

41:畝火山の神主
21/05/31 20:34:43.11 BvZO90QWD
                        ☆
               火と日は同質的につながる概念であったか

日本書紀では、イザナギ神によって生まれた日の神の名は大日?貴(おおひるめのむち)と記されている。
その?(め)の元字は靈であり、巫の部分を女に置き換えた造字だ。
この?(め)の字によって、日の神は女神であると示したわけである。

しかし、日の神が女神であることを示すためであれば、大日女、あるいは大日売と表記してもよかったはずであるが、
それをわざわざ?(め)の字を用いているところを見ると、日本書紀の原資料では大日靈と靈の字が使われていて、
日本書紀では日の神が女神であることを示すためにその靈の字の巫の部分を女に置き換えたということが考えられるのだ。

そうすると、原資料では日の神の名は大日靈と書かれていた可能性が出てくるのであり、
靈の字は(ち)と読み、靈(ち)は畏れられ厳しい神である男神に用いる字と考えられるので、
日の神は元は畏れられ厳しい男神とされていた可能性が極めて高くなってくる。
そして、靈(ち)の字が当てられるのは、火の神である「かぐつ靈」も同じであって、火の神も男神であったとすることができるのである。

このようにみると、大和の畝傍山南麓の長山稲荷社の祭殿の場所で祀られていたと仮定する火山の火の神は男神であり、
この長山稲荷社の祭殿の場所の真東一直線上に計画的に配置された外宮祭殿の場所に最初祀られた日の神大日靈(おおひるち)も男神であることから、
この火の神と日の神の二神をつなぐ基礎的な要件の一つは満たされているとすることができる。

さて、では、火(ヒ)と日(ヒ)は、同質的につながる概念であるだろうか。
例えば、オリンピックでは、聖火を採取するために太陽の光を反射鏡に集中させてその熱で採火柄に火を点け、この火を聖火とする。
この場合は、火と日は明らかに一つの同質のものと理解することができる。

古代日本では、火と日の関係は、いったいどのように考えられただろうか。
まず、火(ヒ)と日(ヒ)の音の語源を見てみることにしよう。(続く)

42:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 20:52:34.45 TmGdR1WeC
男神っていうのはスサノオ命のほうだよ。

43:畝火山の神主
21/05/31 20:52:36.27 BvZO90QWD
>>40
奈良時代に成立した日本書紀では、日の神の名は大日?貴(おおひるめのむち)と書いており、
その?(め、?の下に女)は造字であって、元の字は靈だ。
これは(ち)と読んでいる。
日本書紀の原資料では、大日?(おおひるめ)は大日靈(おおひるち)となっていた可能性は高いな。
そうすると、外宮祭殿の千木が男神の外削ぎになっていることと符号する。

44:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 21:01:06.08 TmGdR1WeC
それは内外宮を特性を変えて本数をも別にしたもので、男女の差に
したのではない。二神とも女性だよ。、

45:畝火山の神主
21/05/31 21:17:07.09 BvZO90QWD
>>42
素戔嗚が天照大神を姉と呼んでいるのは、天照大神が女神だからだが、
日の神は女神天照大神であるとするのは、水稲などの産物は天皇に帰属するとする王土王民の理念に沿って作り上げた話だよ。
その水稲などを育てる太陽の光の神が女神天照大神だというわけだ。
その天照大神の子の名に穂の字がついていて、孫には番(播く)の字がついているのは、皇統に水稲収穫の全権利があるとするプロパガンダだといえる。

だから、古事記は信用ならんのだな。

46:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 21:23:06.94 TmGdR1WeC
造りあげたなら、あくせく今での数十億相当のカネと人民と使って
伊勢神宮を建てる間抜けはいないね。w

日本の神は他国の神と違い本ものなんだよ。
だから国号の日本に『本』の字がつくのだ。他国の神もいいが仮のもの。

あんたの主張じゃ伊勢参宮はばからしいだろ。創作架空の神インチキじゃな。

47:畝火山の神主
21/05/31 21:26:20.31 BvZO90QWD
>>44
祭殿の棟の檜皮を押さえるための鰹木の数ではなく、
千木は棟の先端で上へ付き出した兜の角のような木だよ。
その角木の先の切り口が縦になっているのが男神の印、横に切ってあるのが女神の印とされている。
出雲大社の千木は切り口が縦になっていて、祭神の大国主が男神であることを表している。

48:畝火山の神主
21/05/31 21:32:23.09 BvZO90QWD
>>46
伊勢の神さんが女神でもかまわんよ。
それなりに祀ればいいのよ。
今は男神日の神は祀られていないだけ。
飛鳥時代の政権がそのような選択をして祭り始めたのだから、それはそれとして尊重すればいいの。

49:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 21:43:43.74 TmGdR1WeC
もともとアマテラスは女神だよ。盲象を頑張ってはあの世で恥かくだけ。
男神が先述のとおり須佐之男命なのさ。w

50:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 21:51:13.13 TmGdR1WeC
千木の数が必ずしも男女神を決めるんじゃないの。
日の神はヒの神で、数読みでは一二三四たるヒフミヨから奇数の1だよ。
奇数が男で偶数が女だと決めてはうまくない。先頭数の奇数たる数字の1
でも日神は女性なのさ。邪馬1国の卑弥呼も奇数の数字の1でも女性だし、
1與も奇数の1で女性なんだよ。

51:畝火山の神主
21/05/31 22:46:34.77 BvZO90QWD
>>46
伊勢神宮の内宮外宮の正殿の由来は実に古いものらしい。
所功という人の本によると、正殿の妻部分の「鏡形木(かがみかたぎ)」の模様は、
弥生時代第一様式(弥生前期=前800年~前400年頃)の土器の模様に見ることができるものであり、
正殿の原型が成立したのは二千数百年も前のことだと見ている。

さらに、この模様は台湾やボルネオなどの古い装飾にも見られることから、
伊勢神宮の正殿の起源は悠久の広がりを背景にもつものだとしている。

このような深い伝統を持つ正殿の宗教思想のもとに神様が祀られているのであるから、
その神様が男神か女神かという問題は、日本の民族の流れ自体からすると、
実に新しい事柄だということになってくる。

あまり神経質にならなくてもいいのではないか。

52:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/05/31 22:59:00.53 TmGdR1WeC
偽り説は神道をダメにする根源。

アマテラスは女神でスサノオが男神。秀真のインチキ接は葬って然り。

なお金井南龍っていう男は、なんでも朝敵神道をやってたようで、
そうならばこいつの神道思想も葬らねばならんのだよ。
こういうやつとか、いろいろまずい説の輩が多くいるようで、
しっかり孤塁を死守し、古神道を守らねばならないのだ。

 神州ハ不滅ナリ

53:畝火山の神主
21/06/01 15:39:33.18 V0QotUq9g
伊勢の外宮祭殿の場所に最初祀られた神は、ヤマト政権の守り神の日の神だろう。
この神は元々は南九州阿多族の航海神で、月神、風神の三神のうちの一柱だったと想定するのがよい。
3世紀中頃に纏向の連合政権が阿多族から大シャーマンとして招いた人物(崇神天皇)がもたらした神とみることができる。
一方、アマテラス神は飛鳥時代頃に新たに農耕に恵みをもたらす日の光の皇祖神として祀られるようになった別の女神で、
このアマテラス神はヤマト政権の守り神の航海神であった日の神と習合し、古くから祀られてきた神とみなされることとなった。
まあ、そういうことだよ。
民族信仰だから、そういうことでいいの。

54:畝火山の神主
21/06/01 17:49:33.67 V0QotUq9g
>>41
                        ☆
                                     火(ヒ)と日(ヒ)は同じか
日本語の火(ヒ)と日(ヒ)は、奈良時代頃には異なる発音だったとする研究があり、別々の言葉だったとする見解と、
発音は異なるにしても同源の言葉だとする見解がみられるようだ。
そこで、外国語なども加えて火と日の関係を見てみることにしよう。

アイヌ語で火を表す言葉は ape(アぺ)
マレー語の火は api(アピ)
タガログ語の火は apoy(アポイ)

これをみると、アイヌ語のape(アぺ=火)は、オーストロネシア語群のマレー語のapi(アピ=火)に最も近い。
アイヌ語にマレー語の api(アピ=火)と同系とみられる言葉があるということは、
和語にもアイヌ語のape(アぺ=火)と類似の言葉があったはずである。
そして、アイヌ語のape(アぺ=火)と同系のその和語はヒ(火)であるとすることが可能であるので、
和語のヒ(火)はアイヌ語のape(アぺ=火)やマレー語のapi(アピ=火)と同系の言葉の語頭のア音が脱落した言葉であるとみなすことができる。

そこで、日(ヒ)の問題に移ると、アイヌ語で日(ヒ)は to(ト)、太陽は cup(クプ)、マレー語は日は hari(ハリ)、太陽は matahari(マタハリ)がある。
一方、和語には太陽を表す個別の言葉はみられず、日(ヒ)の発音の言葉が太陽を表している。
このことは、アイヌ語の to(ト=日)、cup(クプ=太陽)のような太陽を表す個別の言葉は駆逐され、
ヒ(火)の言葉が日(太陽)を表す言葉として代用されたと考えるのが妥当だ。
そして、ヒ(火)と日(ヒ)を区別するために、発音に変化を持たせたということであろう。

そうすると、ヒ(日)はヒ(火)に由来する言葉であり、語彙としては同系の言葉であるとすることができそうだ。
そして、そのような言葉の上での代用関係が成り立ったのであれば、火と日(太陽)は同質のものであるとする観念があったことになる。
同質であるとする感じ方があったのであれば、その同質性は何によるものであるのか見極めなければならない。(続く)

55:畝傍山の神主
21/06/04 20:13:13.39 bWHDPgHvx
                          ☆
                   火と日はどのようにつながったか

ヒ(火)とヒ(日)については、語源や発音からして、ヒ(日)はヒ(火)に由来する言葉だと考えることが可能なことからすると、
日は火と同質の物と考えられたことを示しているとみることができる。
そうなると、日と火はどのような性質において同質的だと考えられたのかということになるのである。

そこで、火を得る方法としてどのようなものがあったのか見てみると、
弥生時代には「舞切り式火起こし器」があったそうだ。
神社などで儀式の火を得るために用いるあの器具である。

URLリンク(tanoden.fun)

この「舞切り式火起こし器」では、火壺が熱くなり、その火壺に入れた火種となる木屑に熱が伝わって木屑が赤く燃え、
この火の赤く燃える木屑をよく乾いた藁などの中に入れてその藁を燃やし火を得ることになる。
そうすると、火壺の熱と火種の木屑の赤い火と藁の火炎は同じだと認識されることとなる。

つまり、火の源は熱だと認識されるわけである。
これを火山の火に当てはめると、噴出する溶岩が火(ヒ)だと呼ばれるのは、
溶岩には火炎はないものの極めて高温で熱いからであることが分かる。
火起し器の火壺の熱や木屑の赤い火と同じだから、火山の噴出する溶岩もヒ(火)と呼んだわけである。

そこで、太陽を日(ヒ)と呼んだ理由を考えると、太陽がその光によって物を熱く熱する熱源であり、
火壺の熱と同質の熱を与える物だからだということが分かる。
夏場に太陽の下の川原石を手に取ると、火傷するくらいに熱せられていることで、太陽が熱源であることが認識される。
このようにして、太陽の熱と火山の火の熱と舞切り式火起し器の熱と火炎の熱がまったく同質のものだとの認識が得られるのである。

つまり、火(ヒ)と日(ヒ)は熱において同質のものであると認識されたのは、このような理由によることは明らかだろう。(続く)

56:畝傍山の神主
21/06/08 22:12:31.20 aWk2E+SSh
                           ☆
            伊勢外宮祭殿の場所への日神配置の根拠は畝傍山南麓の火の神だった

このように、火(ヒ)と日(ヒ)は語源的にも物質的にも同質の存在であるとする観念があったことは、まず間違いないと言えそうだ。
そうすると、畝傍山南麓の長山稲荷社祭殿の場所にあったと仮定する男神の火山の火の神と、
そこから真東一直線上の伊勢外宮祭殿のある場所に計画的に配置されたと仮定する男神の日の神との間には、同質同体的な相関関係を見ることが可能になる。

これは、被葬者を倭迹迹日百襲姫とする箸墓古墳後円部中央から真東一直線上の伊勢斎宮寮に住む天皇皇女との間に一心同体的相関関係が認められることと、まったく同じだと言えるのだ。
つまり、畝傍山長山稲荷社の場所で祀られていた火山の火の神を根拠基点として、その真東一直線上の伊勢の外宮祭殿の場所を祭り場として計画的に選定し、
その場所を火山の火の神と同体である日の神を祀る祀りの場としたということである。
日の神を祀るための根拠として、真東一直線の方位の観念とその方位の基点に存在する同質的相関関係の火山の火の神を用いた、というわけである。

そして、この火山の火の神と日の神の同質性と、真東一直線の方位の観念のパターンがそっくりそのまま用できるのが、
畝傍山山頂北側の平坦地と伊勢外宮の東北方向にある月夜見宮なのである。
月夜見神は、日本書紀で日の神とともに生まれ、ともに天空に上げられた神として記されている。
その月夜見神を祀る宮が、日の神を祀ったと仮定する外宮祭殿の場所の東北方向約700mの場所に設けられているのである。
最初にも挙げたが、もう一度、その位置関係見た上で、同質的相関関係について見てみることにしよう。(続く)

57:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/08 22:38:02.22 vNQUjOz0P
内宮のほうが日神だろ。

58:畝傍山の神主
21/06/09 00:21:28.43 nMHz289i8
外宮の場所から内宮の場所へ日の神が遷されたは、6世紀後半頃だろうね。

59:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/09 07:50:00.83 DBWjq2Gfp
だろうじゃ勝手な取り換えになる。何か根拠があるのかな?

60:畝傍山の神主
21/06/09 13:22:05.47 nMHz289i8
ヤマト政権の守り神だった日の神を伊勢で祀るようになった理由は、多くの学者が指摘するように、東国経営を円滑に推進することを目的とした祭祀のためだったと思う。
この大和政権の東国経営が終幕の段階に入ったことを示しているのが安閑天皇元年(534年頃)の武蔵国造の乱。
そして、房総半島にヤマト政権の東北経営のための拠点である武射国(むさのくに)が設けられ活況を呈するのが6世紀後半頃。
また、この武射国から東北方面へ物資などを運ぶための港として鹿島が開かれた。

つまり、尾張や三河あたりから東方の関東地方にヤマト政権が進出を始めた5世紀中頃に伊勢の外宮のある場所に置かれたのがヤマト政権の守り神の日の神で、
そのヤマト政権の東方進出が6世紀後半までには完了して伊勢の日の神の役割が終わり、
そのために今の内宮の地に日の神が遷されて、別の役割を担うようになった。

この内宮の場所への再遷座には、どうも膳氏(かしわでのうじ)が関わっているフシがみられる。
日の神が女神として神性を変えたのは、この時ではないか。
内宮の地は志摩の入り口に当たる地理環境にあり、日の神は御食の国の志摩の海産物生育を支援するための神になったと思う。
その後、持統天皇の頃に、その日の神は全国の水稲などの生産を司る神として天照大神に変性されたと考えるよ。

61:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/09 13:47:14.25 2wr0l7o/V
根拠が薄弱じゃあ、ダメだな。
邪馬1国を邪馬台国、1與をトヨに変えたり、南女王国に至るが東方の畿内
に至るに変更したり、日神が女神だと記紀にあるのに男神だとかの類で
説得力はないに近い。

62:畝傍山の神主
21/06/09 18:35:45.68 nMHz289i8
日の神を祀る祭殿の様式が男神用のものであったり神装束が男性用だったりと、解せんことが実際にあるし、
日本書紀や古事記が書いている日の神の名のオオヒルメノムチについても、そのメの字の語義と文脈の文意が合わないなど奇妙なことが少なくない。
伊勢に最初祀られた神は男神だったとすれば、矛盾も難なく氷解するよ。

外宮の地から内宮の地へ日の神が遷座された時期が6世紀後半だとするその根拠が薄弱だと言っても、
学者ですらはっきりした根拠が示せない現状なんだから、無理言うなだね。
どこかの時点で、神格が変わったか、神が入れ替わったか、どちらかだろう。

63:畝傍山の神主
21/06/09 20:01:06.83 nMHz289i8
続日本紀の文武天皇二年に「多気の大神を渡会に遷す」と書かれていて、この大神は豊受比売神のことである公算が高い。
松阪の南に接する地域が多気だが、豊受神は最初にはこの多気に祀られていて、
文武二年(698年)に今の外宮の祭殿に遷座されたということになってくる。
この前年に持統天皇が崩御していることからすると、外宮の場所では持統天皇在位中に豊受神のための祭殿が新たに建てられたものの、
なぜか豊受神自体は多気から遷座されずにいて、持統天皇が亡くなるとともに外宮に遷座されたと読める。

このように神を遷して祀るということは、普通に行われていたようだから、
今の内宮に祀られている天照大神にしても、元からそこで祀られていたとは限らない。
日本書紀は天照大神は最初から今の内宮の場所で祀られたと記しているが、少々信じがたい。

日神は元々は外宮の場所で祀られていたが、後に今の内宮の場所に遷座されて祀られ、
その元の場所には多気で祀られていた豊受神が遷って祀られるようになったとするのが合理的だ。
天照大神が各地を巡って最後に伊勢に落ち着いたとする丹後系の漂泊伝承は、それをカモフラージュするためのエピソードだろう。

とにかく、神が別の場所に遷されて鎮座するということは、この頃にはごく普通のことだったようだ。

64:畝傍山の神主
21/06/09 20:10:03.97 nMHz289i8
>>63
訂正
1行目の「多気の大神を渡会に遷す」は「多気の大神の宮を渡会に遷す」が正しい。

65:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/09 20:13:13.19 zGPG+rVpw
いやいや男神ではないですね。
アマテラスは女神です。秀真のイカサマにだまされてはいけません。
ただこの古文書も全部偽書とはいえない。要するに古代の情報をいれながら、
秀真の編者が自己の考えの男神設を勝手に決め込んで入れ込んだもので、
断じて男神ではない。
アマテラスは超ミス・ユニバース級の美女であって、この神が内宮に祭祀
されてるんですよ。

日本の最高神だが世界の最高神であって、だからこの女神は
マリー・アントワネットの来てるような洋装でフワっとしたドレスを着てて、
鏡が正面についてる冠をかぶってます。女優でアマテラスを演じさせるなら、
同様のドレスを着ているスカーレット・オハラを演じたあの女優ならかなり
本者のアマテラスに近いと想いますね。原節子嬢はアマテラスに似てないな。

66:畝傍山の神主
21/06/09 21:20:26.59 nMHz289i8
天照大神が最高神だとするのはそれでいいけれど、天照大神が歴史に登場するのは推古天皇から持統天皇の頃だろう。
畝傍山の南の深田池は推古天皇の時に開削されたとされるが、
その池に雨水を供給するのは畝傍山で、その畝傍山の神は雨水を溜める大山祇とされたようだ。
新たな神が畝傍山に祀られるようになったわけだ。
それと同じで、天照大神が水稲などの農産物を主宰する最高神として歴史に登場するのも、そのの頃からとみるのがよい。
王土王民の理念が出てくるのもこの頃からで、ちょうど符号する。
それを日の神に習合させて古くからある神だとし、また皇祖神であるとしたのが記紀の天照大神だよ。
それはそれでいいのだけどね。

67:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/09 21:27:57.88 1nJ6OOFyn
神武以前の神が推古の御世あたりに生まれるわけないよ。
いいかい、皇祖皇宗っていうんだよ。
皇祖がアマテラスさ。皇宗が神武天皇だよ。それが後代に日神が生まれ
るような主張じゃあダメ。

68:畝傍山の神主
21/06/09 21:43:49.72 nMHz289i8
秀真伝では天照大神は男神であったとするらしいが、それは間違いだろうな。
天照大神はあくまで女神で、男神だったのは日の神だよ。
天照大神はその日の神と習合することによって、初めて皇祖の神となることができた。
このあたりを明確にしておかないと、大筋を間違う。
秀真伝は、肝心のそこのところを誤っている。

69:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/09 22:51:36.44 1nJ6OOFyn
男神は須神だよ。
女神の日神と男神の須神の靈交で五男三女神が出現されたのだよ。
日神と須神とでのホモをやってるんでないの。

70:畝傍山の神主
21/06/10 15:51:52.41 x4qLPwW00
天照大神は女神、月読神は男神、素戔嗚神は男神→記紀。
日神、月神、風神すべて男神→原資料。

このように考えるのがよい。

71:畝傍山の神主
21/06/10 16:13:44.13 x4qLPwW00
男神日の神は推古天皇の頃に外宮の場所から内宮の場所へ遷座して女神日の神(おおひるめ)となり、
その後、女神日の神(おおひるめ)は持統天皇の頃に天照大神と名を変えて皇祖神となった。

だから、根本的な問題は、男神日の神がなぜ女神日の神に変わったのかという点なのよ。

72:畝傍山の神主
21/06/10 17:54:52.06 x4qLPwW00
>>56
                           ☆
                 畝傍山山頂北側平坦地は日読みの祭祀場だったか

畝傍山南麓の長山稲荷社祭殿の場所に祀られていた火山の火の神がその真東一直線上の伊勢外宮の場所に日の神を祀るための根拠となった、と考えた。
このことは、大和の箸墓古墳後円部中央と伊勢多気の斎宮寮跡でも見られることであるが、
この真東一直線という方位の観念とその方位上に神を祀る際の根拠とする基点の神の同質性のパターンはこのほかにも見られ、
畝傍山山頂北側平坦地と伊勢外宮祭殿東北約700mの月夜見宮がそれである。

畝傍山山頂北側平坦地と伊勢の月夜見宮が北緯34度9分35秒で真東一直線上につながっていることは最初に述べたが、
その基点と着点が同体的同質性によって相関関係が形作られていることを具体的に見てみよう。
まず、伊勢外宮北東700mに立地する月夜見宮は、どのような宮であるか。

月夜見宮の祭神月夜見尊は内宮の北にある月読宮の祭神月読尊と同じで、表記が異なるだけである。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

日本書紀でイザナギが生んだ日神、素戔嗚尊と兄弟神であり、日神とともに天上に上げられた神である。
したがって、日神とこの月神が伊勢でパートナーのようにごく近くに祀られていることは、なんら不思議ではないと言える。
むしろ、そのような関係性のもとに宮が配置されて造られていたと見るのがよいのではないか。

では月夜見神(月読神)の読み方であるツクヨミ(ツキヨミ)とは、どのような意味なのか。
これは明らかに月の満ち欠けを司る神であり、闇夜から満月、満月から闇夜までの月の満ち欠けの進行を夜の回数で数えることを表している。
つまり、単に月の神を表しているということではないようだ。

では、伊勢外宮東北700mの位置に設けられたこの月夜見宮と大和の畝傍山山頂北側の平坦地は、どのような相関関係を形作っているだろうか。
いったい、畝傍山山頂北側平坦地はどのような場所であったのか。
ある意味、この畝傍山山頂北側平坦地こそが、日の神と月読みの神を祀る神宮が伊勢に設けられた核心の理由を秘める場所だと言えそうなのだ。(続く)

73:畝傍山の神主
21/06/10 18:01:10.45 x4qLPwW00
>>72
訂正
上から6行目の「北緯34度9分35秒」は、「北緯34度29分35秒」が正しい。

74:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/10 21:54:33.17 VDK8mMoN0
日神と須神はホモじゃねえのよ。pp
女神日の神(おおひるめ)は持統天皇の頃に天照大神と名を変えておらず、
持統は高天原広野姫と申しても皇祖神となっていない。

75:畝傍山の神主
21/06/12 22:28:58.32 JXHUaHdfy
                         ☆
                畝傍山山頂北側平坦地は日読みの祭祀場だったか

伊勢外宮祭殿の場所に最初祀られたのは天皇の守り神の日神であったとすると、
日本書紀で日神の兄弟神とされる月夜見尊の祭殿がその外宮祭殿から東北約700mの場所に配置されていることは、至極当然のことのように見える。
後になって、日神を祀る祭殿が現在の内宮の祭殿の場所に遷されたときに、その日神のパートナーとしての月読神がやはり近くの場所に遷されたのは、
元々計画的に月夜見宮が外宮祭殿の近くに日神とともに配置されていたからであろう。

そして、その日神が外宮の場所から内宮の場所へ遷座されたときに、月夜見宮は廃絶されずにそのまま存立したということだと思える。
なぜ廃絶されずに存立されたのかその理由を考えると、内宮の近くに遷座された月読宮の基点根拠としてその祭祀が存立されたと考えれば理解しやすい。
このようにれば、内宮の日神の祭殿の場所の基点根拠は外宮の祭殿位置だということになってくるが、
この点については後に述べることにしたい。

さて、この日神のパートナーとしての月夜見神の祭殿位置選定の基点根拠が大和の畝傍山山頂北側平坦地であることは、
その平坦地の緯度が月夜見宮と同じであることや、畝傍山南麓の長山稲荷社と伊勢外宮祭殿の緯度が同じであること、
箸墓古墳後円部中央と伊勢斎宮寮跡の緯度が同じであることなどから、まず間違いないことだと考えることができる。

そうなると、畝傍山山頂北側平坦地は果たして伊勢の月夜見神と同体同質である何らかの意味のある場所であったかどうかが問題となり、
そのことを確かめることが必要であろう。
この畝傍山山頂北側平坦地は、いったいどのような場所であったのか。
ズバリ一言で言えば、この場所は応神政権の日読みの祭祀場であった可能性が極めて高いと考えられるのである。(続く)

76:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/13 08:13:37.78 vkQ4bS4rQ
日神が外宮のほうだったという根拠が薄弱で、仮定は仮定でオシマイ。

77:畝傍山の神主
21/06/13 22:55:58.37 cmRGu7w9Z
伊勢神宮神域で祀られた皇統に関わる神は、日神と月読神の二柱だけ。
豊受比売神は、皇統とは関係ない神。
そして、月読神には月読宮があるし、豊受比売神は皇統とは関係ないので除外できる。
とすれば、残るのは日神だけ。
仮定とはいえ、最も整合性のあるのが日神よ。
その日神は今の内宮の場所に遷され、豊受比売神は日神が祀られていた元の場所へ多気から遷された、と考えるのがよい。

78:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/14 07:30:07.56 cFdoDIgw4
自分のご都合の盲象の結果がおかしいと思わぬ脳内麻痺のその
主張を、変えずに頑張ってるだけ。w 根拠がないんじゃ説得力は0.

79:畝傍山の神主
21/06/14 13:51:22.22 6kKpS9uFX
この真東一直線による位置選定と根拠付けは、天皇など皇統に関係するものに限っている。
真東一直線はその他のものには用いられていない以上、外宮の祭殿の場所に最初祀られたのは日神以外にはあり得ない。
豊受神は外宮の祭殿に遷される前は多気に祀られていて、のちに渡会の外宮の祭殿へ移されたのだから、
外宮祭殿の場所に最初から祀られていたわけではない。
いずれにしても、外宮の祭殿の場所に最初に祀られたのは日神ではない、と証明しないとダメ。

80:畝傍山の神主
21/06/14 14:04:27.98 6kKpS9uFX
内宮の天照大神と月読神はパッケージとしてお祀りされているのだから、
月読神と同じ神である月夜見神とパッケージとして外宮の祭殿の場所に最初にお祀りされていたのは日神だった、と考えるのが普通の脳内活動。
のちになって、そのパッケージの二神を内宮の場所に遷し、またその後に日神を天照大神に置き換えて習合させたのが現在の姿なのよ。
分かるかな~、いや、分かんないだろうな~♪

81:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/14 16:13:08.35 4k+ZP+TgA
月神は皇統でないだろう。
日神も月神も遊び人ではない。

82:畝傍山の神主
21/06/14 21:13:19.81 6kKpS9uFX
日神も月神も皇統の守り神だから、皇統の関係筋。

83:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/14 22:37:52.35 DtV9tOp0p
関係はあるよ、そりゃ。w
月と太陽との置換は出来っこないだろ。

この前の5/26の日食の見過ぎで目と脳内が眩んだのか?p

84:畝傍山の神主
21/06/15 13:38:25.94 YYWAMuWF1
月と太陽は別々だから、同列には置けない。
しかし、内宮の天照大神と月読神の配置をみれば、天照大神と月読神がパッケージとして伊勢に祀られたことは明らか。
一方、外宮では月夜見神が外宮祭殿の東北方向約700mの所に祀られているのだから、外宮祭殿の場所に最初祀られていたのは日神である可能性は極めて大きい。
この外宮の場所にパッケージとして祀られていた日神と月神が、その後、内宮の場所へそっくり遷座されたと考えるのが妥当。
その遷座のときに、多気で祀られていた豊受神が外宮祭殿の場所へ遷座され、また月夜見神の祭祀も存立され、今の神宮全体の配置の基本ができあがったということになる。
外宮祭殿の場所が豊受神を祀るようになってからも位置を変えずそのまま継続され、月夜見神の祭祀もそのまま存立したのは、内宮の天照大神の祭殿や月読宮の根拠の場所を明確にしておくためだったと思われる。

85:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/15 19:48:54.19 q9M7mSSgh
月神っていうのは日本の神だが、同時にイスラム関係の神だよ。
豊受大御神はこの方も日本の神だが、地球というか外国全体の関係神だな。

アマテラスは外国の神なんだが、皇祖で特に日本の神として鎮まってる。

月神はまた忍びの神で、これでイラクかイランだったか忍者があちらで
流行している。くノ一的だからあそこの夫人らは黒マスク的ベールを
かぶっている。忍びの世界の外国版だな、

葦原の中国っていうのは現今の中国のことさ。
今日バットマンを放送してたが、この国はジョーカー国家そのもの。w

86:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/15 20:00:43.57 q9M7mSSgh
はは~~ん、日食でなく月食だったな。訂正。
イスラム圏が夜の食国だよ。

中国はバット・ウーマンの研究所のウイルスが今回の病気の起源か論議
されてるな。バット・ウーマンが活躍できればジョーカーを
組み伏せられる。w

87:畝傍山の神主
21/06/16 14:25:25.76 PifcbITbj
>>75
さて、畝傍山山頂北側平坦地から真東一直線上に日神の兄弟神である月夜見神の祭殿が立地しているが、
この真東一直線上に祭神の宮を置くパターンは、外宮祭殿の日神の場合や天皇の皇女の斎宮寮の場合とまったく同じであることから、
月夜見宮の設置の根拠となったのが畝傍山山頂北側平坦地であることは、まず間違いないであろう。

そうなると、畝傍山山頂北側平坦地は、いったいどのような場所であったのかが、肝心の事柄となる。
その場所に月夜見神と同体同質性的な事象が認められるだろうか。
前項では、この場所が応神政権の日読みの祭事が行われた所だと推定を述べたが、その具体的な事柄を見て行くことにしよう。

畝傍山山頂北側の平坦地では、東の方に向かって立つと、真東線から30度南の方位に竜門岳の山頂が見える。
また、真東線から30度北の方位に三輪山の山頂が見える。
「太陽の道」を唱えた小川光三氏の指摘では、竜門岳山頂には最も南下した太陽の朝日が昇り、三輪山山頂には最も北上した太陽の朝日が昇るのが見えるそうだ。
小川氏は、竜門岳山頂の最も南下した太陽の朝日を冬至の朝日と表現し、三輪山山頂の最も北上した太陽の朝日を夏至の朝日と表現しているようだ。
冬至や夏至は、二十四節気暦の中の特定の節気の呼び名である。

つまり、畝傍山山頂北側平坦地は、冬至と夏至の太陽の朝日を竜門岳と三輪山のそれぞれの山頂に認めることができる稀有な場所だと言うことができるのである。
では、この冬至と夏至の太陽(最も南下した太陽と最も北上した太陽)が、それぞれの時代の人々にとってどのような意味を持つものであったか、見てみることにしよう。(続く)

88:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/16 15:20:15.34 7QpqDstXs
以前伊勢参宮したき、月神のお宮も参詣したよ。
一直線上にあるとか北斗七星のかっこうに線がつながるとか、こういうのは
ムー誌で載せる古代史研究著者の常套手段で、そういうのは本音をいえば
もう飽きた論。
数日前のタモリさんの伊勢の番組は見たのか?w
こちらは録画で後で見る。
エジプトとかマヤ、インカも夏至の太陽の線で石造物を作ったとか、これも
世界共通みたい。

89:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/16 19:52:34.45 rV/DlvoCE
タモリさんのはコロナ・ウイルスのための再放送だったな。
以前見た。

90:畝傍山の神主
21/06/16 23:41:18.87 PifcbITbj
大和の特定の場所から真東一直線上の伊勢に施設を造るケースについて、古代史研究家が言及しているのを見たことがない。
ワイが最初で唯一の言及者だね。
ムーも発見できなかった古代史の謎の一つだ。
しかし、その謎もワイが解明してしまったからな。

91:畝傍山の神主
21/06/17 02:39:59.83 V4/ddUEg3
伊勢の内宮に向かう宇治橋の両端に設けられた鳥居の中に、山の頂上に昇ってくる冬至の朝日が見えることは、最近まで知られていなかったらしい。
そもそもが鳥居は宇治橋の両端に設けられているのだから、宇治橋が造られた結果のもの。
冬至の朝日と宇治橋の方向が一致しているということになる。
で、宇治橋を造る時に、冬至の朝日が意識されたかどうかが問題。
宇治橋が室町時代後期にあったことは絵図で確認できるそうだ。
しかし、いつからその橋があるかだよな。
元々は川を歩いて渡ったのだろうし。

92:畝傍山の神主
21/06/17 04:34:26.96 ABhk86b3T
>>87
                           ☆
             畝傍山山頂北側の平坦地は冬至~夏至の日読みの祭祀場だったか

秋田県鹿角市にある縄文後期の墓地とみられる大湯環状列石では環状列石が二重になっていて、その内側と外側の列石の間には立石みられる。
列石の中心部とこの立石を結ぶ軸線の延長線上には夏至の夕日が懸かる構図になっているという。
そして、付近には火を焚いた跡があるそうだ。
縄文人が夏至の夕日に合わせて、その墓地で火を焚いて何らかの祭りを行ったと考えられている。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

夏至の火祭りについては、北欧では夏至の日に火を焚いて悪霊を追い払う祭りを行うそうだ。
太陽が北に北上する間は太陽の活動に勢いがあり、そのため悪霊はあたりを徘徊しなかったが、
夏至を過ぎて太陽が南下を始めて勢いを失ってくると、あたりには悪霊が徘徊し始めるため、
火を焚いて悪霊払いの祭りを行うのである。

秋田の環状列石が墓地であり、夏至の夕日が確認されると人々は墓地で火を焚いて祭りを行ったわけだから、
これに北欧の例を当てはめると、夏至が過ぎるとあたりには悪霊が徘徊し始めるため、悪霊が墓地に眠るご先祖たちに悪さをしないように、
悪霊払いの祭りを行ったと考えることができる。
太陽の勢いがピークを迎える夏至の日は、そのような意味合いがあったとみなすことができるわけだ。

太陽が勢いを増す冬至から夏至に向かう北上の時間帯は災いが追い払われ、
逆に太陽が勢いを失う夏至から冬至に向かう時間帯は災いが現われるとする考えがあったとするのが妥当だ。
これが縄文時代の冬至と夏至の太陽、また夏至と冬至の太陽に関する観念の一つだったと思われる。(続く)

93:畝傍山の神主
21/06/17 05:13:20.45 ABhk86b3T
                          ☆
                     昼の長さと夜の長さの変化

冬至から夏至、夏至から冬至の間の現象で顕著なものは、昼と夜の時間の差だ。
冬至から夏至までは昼の時間が段々と長くなり、夜の時間が短くなる。
勢いがある太陽は昼を長くし、夜を短くするわけだ。

一方、夏至から冬至までは太陽が勢いを失うために、昼の時間が短くなって夜の時間が長くなる。
この太陽の勢いの変化が、昼と夜の時間の変化を生み、災いの消長に関わることになると考えられたのは明らかだ。
したがって、冬至から日数を数えて夏至に至り、また夏至から日数を数えて冬至に至ることは、縄文人には重要なことだったと思われる。

94:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/17 08:12:43.43 oikSc9S2M
一直線ばかり研究してるのか。w
この前のだが、一直線を二つ発見し交差しててX形になったので、
交点に何らかのものがあるかと目的地に行ったとかは、なんとこの前と今
言った数日前放送されてた「ゴースト・バスターズ」p

やることはどこも似た者だ。w

カムイ伝にもあったな。ww
しかこの作者はまだ三作目を書いてないようだ。老齢だろう。
早々に始めればいいのに。

95:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/17 08:23:14.48 oikSc9S2M
>ワイが最初で唯一の言及者だね。
 ムーも発見できなかった古代史の謎の一つだ

じゃあムー誌で紹介すればいいだろ。
学研からもう載せてましたと言われるなよ。w

96:畝傍山の神主
21/06/17 09:56:49.89 ABhk86b3T
>>94
レイラインというのは、何か根拠があるのかも知れんが、まだ誰も明確に解明した者はいない。
そして、地図上にめったやたらと線を引っ張って、ホットスポットなどと楽しむ者らも少なくないが、
やはりその根拠を具体的に説明できる論を見たことがない。
脳内劇場の一種かも知れん。

ムーが載せさせてくれと言ってきたら、この2ちゃん日本史のサイトから自由に引用して、
好きなように書いたらいいよと言ってやるよ。
ただし「太国」という者の発言は、内容があてにならんから触らんほうがいいと忠告してあげることにする。^^

97:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/17 10:12:14.38 NO5Ju95gP
オマエのような日神が月神の住居で月神が日神だとかぬかすいかれた脳内
ではまずい月見そばを喰うよりまずい。pp

98:日本@名無史さん
21/06/17 11:59:10.88 NqlOUpgs/
では、大阪のケツネうどんにしなさい。
名古屋の味噌煮込みうどんもあるでよ。^^

99:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/17 13:08:58.90 W5t7RHRIq
思い出したが、ムーの最新号も北斗七星の地形があるらしい将門の
記事がある。これはつまんないが、他の記事は結構面白い。
だいたい将門のころに畿内あたりで別の王朝などありっこねえだろ。

オマエも赤福を喰って、オマエの飛躍しすぎの脳内盲象ダンボに
気づくんだな。pp

100:畝傍山の神主
21/06/17 13:42:45.89 ABhk86b3T
ワイの論説を飛躍しすぎと思うのは、おぬしの脳内のニューロン配線が粗雑なため。
オケラの糞を煎じて飲むと、ニューロンが増えるらしいぞ。
試してみたまえ。

101:太国 ◆yVAs7uaYlY
21/06/17 14:46:30.08 j9mu84ou9
オマエが住んでる片田舎居住でねえので、入手困難だ。
無駄な詮索するのは詮無い。

真性にならねえ前にそろそろオマエも松沢病院に行く支度でもせい。pp

102:畝傍山の神主
21/06/18 05:01:43.18 UehP5YAv4
>>93
                           ☆
                     縄文の夏至観と弥生の夏至観

秋田の縄文後期の墓地である大湯環状列石にみられる夏至観については、夏至を境に昼の時間が短くなって夜が長くなることから悪霊がはびこるようになり、
これを先祖たちが眠る墓地から追い払うために火祭りを盛大に行うという避邪の観念と密接に結びつくものだったと仮定した。
では、弥生時代には、夏至はどのようにとらえられただろうか。

弥生時代の太陽の移動による夏至観も、悪霊がはびこるようになる時期の始まりとする観念は継続したようだ。
弥生後期になると中国発祥の農耕のための季節暦である二十四節気暦がもたらされたようで、
農耕と結び付く夏至の考えが新たに加わったようだ。

その具体的な例は、近江の伊勢遺跡にみられる。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

この伊勢遺跡の中心区画の建物群を取り巻くように造られた楕円形の円周上の建物群は、
二十四節気の特定の節気の太陽の光を収納するための祭殿だと考えると理解しやすい。
二十四節気では、夏至は梅雨真っ盛りで田植えに忙しい時期に当たる。

URLリンク(agripick.com)

つまり、夏至は田植えの時期を意味するとともに、悪霊が徘徊を始める境目でもあったということになる。
その夏至の日は冬至の日から180日目とされ、祭祀的には重要な節目となっていたと考えられる。
このように、冬至から夏至に至る日数を読み、また夏至から冬至にいたる日数を読んで、各種の祭祀を行うことが非常に重要だったということである。
その冬至の太陽を竜門岳の山頂に、夏至の太陽を三輪山の山頂に見ることができるのが、畝傍山山頂北側の平坦地だったということであり、
太陽の冬至から夏至までの移動を的確に日読みすることができた場所だったということなのである。(続く)

103:畝傍山の神主
21/06/20 14:08:54.71 E0gfyWi2Y
                           ☆
               応神王権の祭祀の中枢は畝傍山山頂北側平坦地だった

畝傍山山頂北側の平坦地では、東南の竜門岳山頂に冬至の朝日が昇り、また東北の三輪山山頂には夏至の朝日が昇るのが見え、
そこは二十四節気の一年の太陽の運行を的確に日読みすることができる場所だった。
そして、この日読みの場所を基点として応神王権は大王の陵墓を置く墓域のエリアを決め、
応神天皇の陵墓の位置を定めたようだ。

それ以前の初期ヤマト王権の祭祀場は纏向の大型建物群の場所であり、初期ヤマト王権はこの大型建物群の場所を基点として大王の墓域を周囲の3エリアに決め、
その各エリア内にそれぞれの大王の陵墓の位置を定めていたようだ。
一方、応神王権はその基点となる祭祀場を纏向の大型建物の場所から畝傍山山頂北側平坦地に遷したということのようだ。

そして、応神王権が初期ヤマト王権と異なっているのは、大王の陵墓の位置を決める基点の場所が大王ごとに異なっていることである。
応神天皇の陵墓の位置決定の基点は畝傍山山頂北側平坦地であるが、仁徳天皇陵の基点は天香具山となっており、履中天皇陵の基点は耳成山となっている。
応神、仁徳、履中の三人の大王は自分の陵墓の位置決定の根拠をそれぞれ別々に大和三山に求めたようのだ。

もっとも、それらの大王の陵墓が置かれた墓域のエリア自体は、畝傍山山頂北側平坦地から西方を見て冬至から夏至までの範囲となっていて、墓域は一つである。
初期ヤマト王権の墓域が3か所に分散しているのと異なる点である。
そういうわけで、畝傍山山頂北側平坦地から見る夏至線を北に越えて造られた応神王権の大王などの古墳は、継体天皇の今城塚古墳などを除くと、まったく一つも存在しないのである。

このように、畝傍山山頂北側平坦地は、応神王権の二十四節気暦の日読みの祭祀場だった可能性は極めて高いと言える。
そして、応神王権の守り神である住吉大社の筒男神の祭祀を行うときに、住吉大社が祭祀用の土器を造るための埴土を採取する場所が畝傍山山頂付近であることは、
畝傍山山頂北側平坦地あたりが応神王権と深いつながりのある場所だったことを示唆しているのである。(続く)

104:畝傍山の神主
21/06/21 12:42:50.12 4uP4Wkdqt
                               ☆
          畝傍山山頂北側平坦地は応神王権の二十四節気の日読みの祭祀場で、伊勢外宮近くの月夜見宮設置の根拠だった

このように考えた場合、畝傍山山頂北側平坦地の真東一直線上の伊勢外宮東北約700mに設けられている月夜見宮の設置根拠が、
畝傍山山頂北側平坦地に設けられた応神王権の二十四節気暦の日読みの祭祀場にあったことが推定できるのである。
太陽の南北移動の日数を読んで行う太陽祭祀と月の満ち欠けの夜の日数を読んで行う農耕祭祀は、二人三脚の同体同質性の相関関係にあることが分かり、
畝傍山山頂北側平坦地が伊勢外宮東北700mの位置に月夜見宮を置くための根拠となった理由が分かるのである。

例えば、「夏も近づく八十八夜」と歌われる八十八夜は、二十四節気の立春から数えて88日目の5月2日頃に当たる。
農家では、この時期に茶摘みや籾まきを始めるそうだ。
この八十八日を日ではなく八十八夜と夜数で読んでいるのは、日数は昼間の日の数ではなく、月の満ち欠けによる夜の数で読んだことを示している。

つまり、二十四節気の日読みとその二十四節気の特定の節気までの月読みは同体同質と言え、
畝傍山山頂北側平坦地は応神王権の日読みの祭祀場だったと仮定すれば、
畝傍山山頂北側平坦地の真東一直線上の伊勢に月夜見宮を計画的に配置したその根拠としての意味が難なく理解できるのである。

このようにして、箸墓古墳後円部中央から斎宮寮跡、畝傍山山頂北側平坦地から月夜見宮、畝傍山南麓の長山稲荷社祭殿から外宮祭殿が、
それぞれいずれも同一緯度の真東一直線上にあることの理由を説明することができた。
そして、これに敏達天皇陵と推古天皇陵がやはり真東一直線上に設けられていることを加えると、
古代には特定の事象とそれと同質的な事象を真東一直線上に置くことでその二つの事象の間に調和ある同体性を実現することができるとする思想があったとみなすことが可能だと言える。

この思想の起源は、弥生時代後半頃に中国からもたらされた農耕の季節を定めた二十四節気暦の方位観と縄文以来の太陽に対する呪術的方位観の習合にあるのではないだろうか。
それが成立した時期は、弥生時代終末期頃だと思われる。(続く)


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