22/03/02 08:17:21.41 .net
>>367
足利出身の自民党幹事長まで来たからな
総理まで行ければ大画期になりそう
375:日本@名無史さん
22/03/05 08:11:07.40 .net
陰謀だ。
376:日本@名無史さん
22/03/09 16:23:10.04 .net
>>374
代官派遣してるだけの所領が足利にあったってだけで
足利氏自体は平安時代は京都、鎌倉時代は鎌倉、室町時代はまた京都に住んで
足利出身という意識は一切ないのでは
377:日本@名無史さん
22/03/09 19:23:08.92 .net
足利庄の代官を鎌倉公方足利家が派遣するのか足利将軍家が派遣するのかで争っているから、足利庄が足利発祥の地という思い入れはあったのだろう
378:日本@名無史さん
22/03/10 09:37:30.12 .net
上の方で宝塚の話が出てるが先月それをNHKがBSで流したのを今頃見た。
内容はおいといて「花一揆」ってひょっとしたらパタリロのところの「タマネギ部隊」の元ネタ?
「タマネギ」は普段は美少年ぶりを隠してはいるが。まあ男色で結ばれた部隊は
昔から世界各地にあるけれど、宝塚の花一揆なら俺も男に溺れられそうだった。
宝塚だから女性が男装して演ってるわけだが。
379:日本@名無史さん
22/03/11 15:59:41.94 .net
>>377
代々の領地だから俺が領有したいというのはあっただろうが
それ以上の愛着はないだろ
380:日本@名無史さん
22/03/14 17:18:35.30 .net
そうですね。
381:日本@名無史さん
22/03/15 12:01:26.39 .net
余談だが、
常陸国茨城県城一覧
URLリンク(www.hb.pei.jp)
すげえんだな茨城県って。
もろに県名のとおりだなしかし・・・
再度言うが、
東海道の道のはて
蝦夷討伐最前線
神界元帥鹿島神宮お膝元
御三家副将軍家
・・・
382:日本@名無史さん
22/03/15 12:12:45.91 .net
御三家と副将軍の間に「筆頭」の語が抜けた・・・
江戸の鬼門。
最重要地。
383:日本@名無史さん
22/03/15 12:45:59.97 .net
おそらく、紀伊国の軍事的価値が高いんじゃないかな?
海外勢力に紀伊上陸を許せば、
邪馬台国阿波徳島、京都大坂神戸名古屋、
イエス・キリスト主祭神社、熊野神社、
そしてなんといっても、
京都御所及び伊勢神宮を攻められてしまいますからね。
国内事情では、
紀州の軍事的価値は、地政学上低いでしょうし。
384:日本@名無史さん
22/03/19 04:21:58.69 .net
大坊聡
門絶少年
清野大地
忠野数人
385:日本@名無史さん
22/04/07 06:26:11.53 .net
>>305
やはり血統的な正統性の弱さもあったんじゃないかな
権力も握ってないと安心できないって
386:日本@名無史さん
22/04/09 12:47:25.44 .net
北条時行はかつての仇の一方である南朝に組したのは何故だろう
387:日本@名無史さん
22/04/09 15:19:51.74 .net
寝返った足利がより憎かったのと北朝がその足利と組んだから
388:日本@名無史さん
22/04/09 20:27:20 .net
>>385
後醍醐天皇は西園寺家の姫(西園寺禧子)を奪って中宮に立てたり
禧子が亡くなった後は光厳上皇の姉?子内親王を中宮に立てたり
正后を名家から迎えることで血筋を補おうとしてるよね
?子内親王との間に皇子誕生なら南北朝両方の血を引く子となるはずだったが
2人の中宮との間にいずれも男子は誕生しなかった
阿野廉子との皇子が最初の本命ではなかったっぽい
389:日本@名無史さん
22/04/10 01:15:47 .net
阿野との皇子だって二人も使い捨てにしてるからな
後村上だってどうなっていたか分からない
390:日本@名無史さん
22/04/16 09:13:57.00 .net
なるほど。
391:日本@名無史さん
22/04/21 05:08:52.10 .net
吉野に脱出後の後醍醐が主張した自らの正統性の証はあくまで神器の保持だからな
逆を言えばそれしか無かったとも言える
392:日本@名無史さん
22/04/22 09:55:12.37 .net
大覚寺統の出発点である亀山が後深草に優位立てていたのも
後深草と違って正妃所生の皇子がいたのも大きかったし
393:日本@名無史さん
22/04/23 14:18:45.25 .net
だからその皇子である後宇多を皇太子に立ててもう文句が言い難かったわけか
394:日本@名無史さん
22/04/23 16:55:25.56 .net
南朝贔屓の読み物でも後醍醐の正統性については開始時点の現職天皇だったからくらいしかないからな
いわばそれ以前に触れたら都合が悪いって
395:日本@名無史さん
22/04/23 17:56:06.46 .net
>>393
後嵯峨上皇と大宮院がそれを追認していた
後嵯峨の死後、西園寺実兼が後深草上皇と結んで
入れ知恵された北条時宗が両統迭立を言い出さなければ
後宇多の皇統になっていた
396:日本@名無史さん
22/04/23 18:56:20.87 .net
亀山が調子に乗って西園寺を軽んじたのが一因かな
後には伏見も同じ事をやって後宇多の巻き返しを許してしまうが
397:日本@名無史さん
22/04/24 12:00:53.49 .net
両統迭立ってのはあくまで結果的で一統に絞られる可能性もあったんだよな
それに後宇多が中継名目で後醍醐を立てたのには二代続けて大覚寺統が立てる事でそのまま行ってしまおうという意図もあったというんだよな
そのまま邦良を立てれば次は持明院統の皇太子を立てねばならなくなるから
398:日本@名無史さん
22/04/24 12:16:57.66 .net
そして後宇多の最大の誤算はむしろ後醍醐の執着を甘く見ていたという事にあったわけだがそれも途中から諦めたっぽい
どっちにしろ自分の子孫で続くならそれでいいって
399:日本@名無史さん
22/04/24 15:35:43.48 .net
亀山の皇太子だった後宇多は自分の皇統でいくはずだったのに
鎌倉幕府に茶々入れられたせいで伏見に皇位を譲らねばならず
息子の後二条に皇位が戻ってきたと思ったら後二条早世でその息子は幼いという理由で後伏見・花園と持明院兄弟が立て続けに即位
後宇多は煮え湯を飲まされ高野山に参籠して悶々とした
そしてやっと回ってきた後醍醐の即位
後宇多は後醍醐の聡明さを愛でて3年後には院政を停止して後醍醐親政を許す
皇太子は後二条の子だったが正后の子ではなく女官腹
後醍醐に西園寺や内親王といった正后の皇子があれば
後宇多はそこまで後二条の子にこだわらなかっただろう
400:日本@名無史さん
22/04/24 18:27:22.86 .net
更には晩年の亀山と西園寺の横車で恒明に大覚寺統の正嫡まで脅かされる始末だからな
最後はもう後醍醐でも構わないになっていても不思議でない