【大覚寺統】南朝vs北朝_3【持明院統】(南北朝)at HISTORY
【大覚寺統】南朝vs北朝_3【持明院統】(南北朝) - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
21/04/01 08:45:14.45 .net
>>999
新田氏っていつから足利一門の庶流なのだろうか?
普通に考えたら、庶兄?の新田義重が嫡男?の足利義康の支配下だったとしか思えんが
ていうか、なんで新田義重が庶子なんだろうか?

3:日本@名無史さん
21/04/01 08:57:01.42 .net
>>1000
興味あるな なんでセーマンドーマンなんだろうな?
ただし、五芒星と九字紋では?
URLリンク(stat.ameba.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)
URLリンク(okageshop.jp)
URLリンク(kamonmuso.com)

4:日本@名無史さん
21/04/01 14:15:03.06 .net
前スレに書いたかどうか、
明治天皇以下は、
南朝だって

5:日本@名無史さん
21/04/01 18:33:07.91 .net
南朝滅んだよ

6:日本@名無史さん
21/04/01 21:45:55.03 .net
>>4
例え本当に末裔を摩り替えたとしても公に出来なければ全くの同じ

7:日本@名無史さん
21/04/04 21:40:04.38 .net
>>2
義重が本当に庶子ならその母が上野介藤原敦基の娘という通説も
疑わしいね
雑説の藤姓足利氏の娘の方が案外正しいかも
義重の在地性から見ても
兄弟で母の父の身分がほぼ変わりなく、しかし兄の方が圧倒的に昇進が
遅れるなんて少々奇異な感じがする

8:日本@名無史さん
21/04/04 21:48:42.68 .net
あと新田氏が足利氏の風下に立ったのは
政義が「幕府宿老」足利義氏の婿になりその子が
烏帽子子になった時からと思う
新田「政」義にしろ岩松「時」兼にしろ無位無官に
終わったのは北条時政の失脚と無関係でない
と思う
彼らの親の死もね

9:日本@名無史さん
21/04/06 17:49:19.35 .net
>>3
セーマンが清明
ドーマンが道満
五芒星と六芒星がともに必要ってことだな
ちな銅鐸も使ってたんだわあの神社で祈る時

10:日本@名無史さん
21/04/24 06:38:30.73 .net
南朝正統論ってのは要するにまず後醍醐が正統という決め付けが最初にあって後から適当な理屈をくっ付けた感じ
後醍醐の即位までの経緯が省かれる事が多いのもそこに触れられると弱いという感じだし

11:日本@名無史さん
21/04/27 15:19:31.58 .net
後二条が短命じゃなければ後醍醐の出番はなかっただろうしね

12:日本@名無史さん
21/04/28 08:22:48.80 .net
後二条の系統でも邦良系と邦省系で分裂してるんだよな
とにかく元々が弟系なためその辺の歯止めが掛けにくい大覚寺統って

13:日本@名無史さん
21/04/28 21:25:46.75 .net
その中でも後宇多はなんとか嫡系を確立しようとしたが親父と息子に邪魔された

14:日本@名無史さん
21/04/29 07:53:52.81 .net
持明院統と大覚寺統の究極的な勝敗の因はそれぞれにおける求心力の差なんだよな
現在の選挙でもよりまとまれた方が勝つのと同じに

15:日本@名無史さん
21/04/29 08:09:57.98 .net
先例主義と聖断主義
あるいは法治と人治
もちろん後者の最大典型が後醍醐なのは言うまでもない

16:日本@名無史さん
21/04/29 20:28:53.23 .net
朝廷の収入と、あと文武百官のどれほどが機能していたのかわからんので
当時の朝廷がどんな感じだったのかまったく想像できない

17:日本@名無史さん
21/04/30 07:53:30.20 .net
院政期から既に国家予算体制はは事実上崩壊して皇室料を含めた荘園を基盤とする利権集団の集まりになっていたのだけは間違いないが

18:日本@名無史さん
21/05/25 08:49:41.36 .net
弟への継承を美化させたのは嵯峨帝。後嵯峨帝にハブられた後深草帝は加後号に由来する父に嫡流を阻まれた仁明帝の境遇😭

19:日本@名無史さん
21/05/25 20:32:49.98 .net
勝てば官軍、負ければ賊軍は常識だが
負けて官軍になってしまう南朝の執念最強
明治天皇まで南朝マニアにさせてしまうw

20:日本@名無史さん
21/05/28 21:51:13.85 .net
>>19
実際は山県に強迫されたらしいが

21:日本@名無史さん
21/05/28 23:10:02.88 .net
そもそもあの辺りの時代で南朝嫌いなんて中々いないからな

22:日本@名無史さん
21/05/29 15:01:54.17 .net
>>21
南朝正統と言ってもあくまで合体までの限定だけどな
だから合体後の後南朝は徹底無視された

23:日本@名無史さん
21/05/30 18:24:33.48 .net
>>11
鎌倉幕府を滅ぼしたのが後醍醐天皇だから
そこから歴史は始まった、という感じなんじゃね(南朝正統論)
そもそも天皇家なんて初期から
必ずしも長子・嫡子相続ではなかったわけで

24:日本@名無史さん
21/05/31 21:57:07.44 .net
南朝の子孫ってマジで残ってないの?

25:日本@名無史さん
21/05/31 22:02:50.59 .net
残ってるだろうけど確認できてない

26:日本@名無史さん
21/06/03 20:32:21.38 .net
>>25
熊沢一族は?

27:日本@名無史さん
21/06/04 20:32:30.64 .net
>>24
後醍院さんが残ってる
名前の通り後醍醐天皇の子孫

28:日本@名無史さん
21/06/04 21:31:04.89 .net
>>19
明治天皇は御霊信仰あったからな
好き・嫌いじゃなくて畏敬の念だろうね
南朝を正統としただけじゃなく
史上最恐の怨霊とされる崇徳天皇を京都に戻したのも明治天皇だし
間違いなく太平記の怨霊オカルト編とか読んでたっしょw

29:日本@名無史さん
21/06/05 17:19:58.28 .net
>>28
明治時代に南朝の天皇を歴代天皇に入れ北朝を外したのは
江戸時代の水戸史観に影響された学者たちと
楠木正成を国民の鏡と持ち上げる軍閥の意見で
明治天皇の意見は入ってないだろ
怨霊信仰があるから自分の直系先祖を皇統から外すとか意味不明

30:日本@名無史さん
21/06/05 19:44:35.51 .net
明治天皇は楠木正成伝来とされている刀を佩刀するほどの南朝ファン

31:日本@名無史さん
21/06/07 07:05:56.13 .net
>>30
楠木は忠臣の理想像だからな
だから楠木を贔屓しても南朝肯定とは限らない

32:日本@名無史さん
21/06/08 06:35:13.50 .net
本心としては楠木を無駄死にさせた南朝への揶揄もあったりして

33:日本@名無史さん
21/06/08 16:10:20.30 .net
戦国時代の正親町天皇が楠木正成を賊軍から赦免したのはなんでだろう?
それを嘆願した正成の子孫を称す楠木正虎がすごい
まず北朝を立てた足利家を主君にし、松永久秀に介し、足利義輝も同意して北朝の正親町天皇に赦免してもらった
ここから南朝正当論の再興が図られ、水戸黄門に続く
もう結構な年月が経っていたからええかなって思ったのかな?
でも後南朝は応仁の乱くらいまで抵抗してんだよな

34:日本@名無史さん
21/06/09 07:05:50.78 .net
南朝正統論の一番の問題な点は合体後は現皇室につながる皇統が正統なのかそれとも南朝の血統がそのまま正統なのかが今一つ曖昧な点
血統主義的な日本人の感覚からすればどうしても後者のイメージが強くなってしまうだけに

35:日本@名無史さん
21/06/09 12:22:01.31 .net
いずれにしても南北朝正閏論は日本史上最大のイデオロギー闘争、ポリコレであった、である

36:日本@名無史さん
21/06/10 07:00:32.33 .net
江戸期に勃興した国体論もむしろ本来は南朝正統論の矛盾をクリアするための物なんだよな

37:日本@名無史さん
21/06/10 07:28:40.02 .net
>>34
>素直に北朝正統論に立ち戻ればいいのではないかな

38:日本@名無史さん
21/06/10 08:36:06.47 .net
血統主義から言っても兄系である北朝が本来の嫡流なのは明白だしな

39:日本@名無史さん
21/06/10 12:48:44.42 .net
どっちにしても血統は申し分ないだろうに

40:日本@名無史さん
21/06/10 13:00:35.13 .net
>>39
母が同じとなれば長幼の序しか客観基準は無い
子供だっていたわけだし

41:日本@名無史さん
21/06/10 23:32:42.09 .net
そこ絶対視することでもないし

42:日本@名無史さん
21/06/10 23:51:27.77 .net
>>41
せめて後嵯峨が明白な遺言書でも残していれば違ったんだろうが
あるいはどっちも自分の子だからどっちでもいいくらいの感覚だったか

43:日本@名無史さん
21/06/11 07:29:30.30 .net
>>41
絶対的でなくとも相対的に優位なのは間違いない

44:日本@名無史さん
21/06/11 12:20:02.43 .net
彦仁王が勝ち

45:日本@名無史さん
21/06/12 05:56:15.37 .net
>>43
優位なのは間違いないね
三種の神器もあったほうが優位だけど絶対視するものでもない
北朝は三種の神器なしで即位しているし

46:日本@名無史さん
21/06/12 07:31:36.74 .net
>>45
そもそも本物の神器は正平の一統までは北朝が持ってたわけだし
そもそも一番の説得力は平安京を押さえていた点
だからこそ一貫しての神器の保有を主張する南朝も京の奪還に執拗となったわけだし後醍醐が湊川前に一時ですら避難を渋ったのもそれ

47:日本@名無史さん
21/06/12 07:36:22.46 .net
あの時の軍儀で坊門が都を離れたら天皇の権威が無くなると主張した場面に京の重要性が示されている
それは後醍醐とて例外ではないと

48:日本@名無史さん
21/06/14 02:43:56.79 .net
朝廷の構成員がよくわからない
どういう人たちがおったんやろか

49:日本@名無史さん
21/06/14 16:53:55.96 .net
明治から戦前まで楠木正成が人気あったのは国策だから当然として
江戸時代でも人気あったのが正直意外だわ
現代じゃ少なくとも知名度では足利尊氏の方が楠木正成よりダントツで上だろ

50:日本@名無史さん
21/06/14 17:58:17.14 .net
江戸の素地があったからな
江戸時代中にはすでに町民、武士に関わらず正成はスーパーヒーローだった
幕末でも佐幕だろうが倒幕だろうがヒーローだったからな
というか日本ナショナリズムの原点って南朝だからな
知名度は今でも同じくらいじゃないか
皇居前のよくわからんおじさんとして有名だし
戦前でも尊氏は国賊として有名だから知名度すごい高いぞw

51:日本@名無史さん
21/06/14 19:04:05.37 .net
室町幕府初代将軍と南朝の一将が同じ知名度のわけなかろう
尊氏は小学校の歴史教科書にも必ずのるが正成はたぶんのってない

52:日本@名無史さん
21/06/14 19:25:30.76 .net
日本人の平均年齢って48歳だぞ
多くが中年すぎてるのが日本人
南北朝になれば尊氏と正成はセットで出てきた
おれはゆとり世代だったけど普通に正成と正成像の写真載ってたぞ
その時は南北朝のことまったくと言っていいほど理解できなかったけどなw
今は正成が消えた教科書あんだっけ

53:日本@名無史さん
21/06/16 04:50:11.32 .net
大昔、一般教養で森茂暁という人から習っとったんやけど、もっと真剣に授業聞いときゃよかったなあ
当時は男前の中年という感じでモテそうやったけど、もう70歳か

54:日本@名無史さん
21/06/16 08:59:48.18 .net
超有名の二人に挟まれてるが一応は関連的にも有名なのが新田義貞

55:日本@名無史さん
21/06/16 19:13:17.57 .net
参考になるかわからんが↓
Google検索ヒット数
後醍醐天皇  約 1,730,000 件
楠木正成   約 1,100,000 件
足利尊氏   約 1,040,000 件
新田義貞   約 303,000 件
尊氏と対になる武将であり鎌倉幕府を滅ぼしたのにw
戦国時代
織田信長   約 23,800,000 件
徳川家康   約 13,300,000 件
豊臣秀吉   約 12,700,000 件
やっぱ現代は南北朝は不人気だし信様圧倒的だな

56:日本@名無史さん
21/06/16 19:18:57.57 .net
義貞も戦前なら戦国三英傑に並ぶくらいの有名人だったと思う

57:日本@名無史さん
21/06/16 20:07:53.89 .net
三英傑も戦前なら絶対に秀吉

58:日本@名無史さん
21/06/18 13:10:28.87 .net
うちの地元でも大楠公は大人気だな
湊川神社のことを親しみを込めて「楠公さん」というし、湊川公園に銅像もある
市電が湊川神社の前を通るときは一時停車して乗客は最敬礼していた

59:日本@名無史さん
21/06/18 14:16:02.09 .net
>>55
大河ドラマの影響もあるだろうな
去年の「麒麟がくる」である意味主人公より目立っていた織田信長は探索が増える
再来年大河「どうする家康」で主役に決まった徳川家康も探索が増える
秀吉は最近悪役ばかりで可哀想

60:日本@名無史さん
21/06/19 10:27:38.94 .net
織田信長はだいたいイケメンの役者が演じるし、楽しいエピソードが多い。
劇的な最期だったのも、ドラマの最終回としては絶好の終わり方だった。
49歳という年齢も、ドラマで描く年数として丁度いい。
南北朝時代は登場人物のキャラクター設定が難しい。
楠木正成にイケメンの役者というのも違うしね。

61:日本@名無史さん
21/06/19 12:17:57.51 .net
>>60
楠木正成もかつてはイケメン俳優が演じることが多かった
忠君愛国で戦前は英雄だし
「太平記」で武田鉄矢が演じると決まったときには
「イメージが違う」とみんな思ったんだよね
しかしあれ以降、大河で南北朝時代が扱われないこともあり
今となっては楠木正成のイメージが武田鉄矢になっている

62:日本@名無史さん
21/06/19 12:20:10.93 .net
あと楠木正成の没年齢は諸説あるけど
概ね40代前半だったと考えられており信長の没年齢よりも若い
加齢臭のおっさんイメージがついてるのが不思議

63:日本@名無史さん
21/06/19 13:16:07.14 .net
なんで特定の武将の話になってんの?
知識がないなら黙ってろよ

64:日本@名無史さん
21/06/19 13:57:32.76 .net
>>63
特定武将の話が禁止といつ決まった?
不満があるならお前が話題を変えればいいだけ
知識もないくせに文句言うだけの奴は黙ってろ

65:日本@名無史さん
21/06/19 14:15:51.24 .net
今度はスレタイが理解できないバカ自慢かよ

66:日本@名無史さん
21/06/19 14:22:54.63 .net
>>61
唯の田舎の親しみのある土豪のオッサンが後世の政治で祭り上げられてしまったという意味ではむしろ的確なキャスティングだったと思う

67:日本@名無史さん
21/06/19 16:05:32.55 .net
>>64
いやいや、ここは特定の武将を話すところじゃないから。
持明院統と大覚寺統の特定の天皇の話しならわかるが。

68:日本@名無史さん
21/06/19 17:27:48.31 .net
南朝精神 諦めない
鎌倉幕府に勝つまで諦めない!日本中と世界中を敵に回しても勝つ明治維新!
500年の時を越え正統!
北朝精神 一歩引ける勇気
南朝優位でも足利使って、維新志士使って勝ちゃいい
一歩引いてあいつらにやらせるんじゃ
という世俗の輩にまかせる世俗主義への理解、国民への信任
南朝精神!一億総湊川の戦い!「はいはい、戦争終わり。そういうのはやめるんじゃ。」
昭和天皇まで繋がるな
前者は革命・改革の時代に向いている
後者は日本という国を残すために向いてる
もちろん後者のほうが相対的な皇室の伝統だろうが

69:日本@名無史さん
21/06/19 18:45:02.35 .net
>>68
南朝精神ってのは天皇親政なんだけどな

70:日本@名無史さん
21/06/19 19:42:21.05 .net
>>69
うんだから革命・改革に向いてるって書いてるじゃん

71:日本@名無史さん
21/06/19 19:54:30.41 .net
>>70
天皇自身の意思の無い親政

72:日本@名無史さん
21/06/19 20:14:46.23 .net
現代人で南朝が正統と考えている人は少ない
どうみても北朝の方が正統

73:日本@名無史さん
21/06/19 20:32:40.20 .net
>>72
そりゃ長子相続の原則からすればどう見たって北朝

74:日本@名無史さん
21/06/19 21:30:42.70 .net
昭和版建武政権(本音はおれたちにとって都合のいい天皇、日本)を目指した2.26事件見ても
昭和天皇は激怒して自ら潰してもええって北朝精神あったわ
北朝精神と言っていいかわからん
これもし後醍醐天皇があの時の天皇だったら将校らの行動と精神に感激してると思うw

75:日本@名無史さん
21/06/19 22:38:44.14 .net
んじゃあの226を大絶賛してた三島由紀夫は南朝精神って奴なんか

76:日本@名無史さん
21/06/20 08:19:38.97 .net
後醍醐死んでからの南朝は関白常任だったみたいだし
南朝の朝廷ってあまり目新しさが見えない

77:日本@名無史さん
21/06/20 10:40:23.77 .net
南朝・後南朝で天皇親政だったのは後醍醐天皇の御代だけってことか
その後は伝統的なしくみに戻り、関白や院が実権を握った

78:日本@名無史さん
21/06/20 11:29:32.03 .net
唯一残ったのは幕府を否定し武家を朝廷が直轄するという部分か

79:日本@名無史さん
21/06/25 16:41:08.77 .net
楠木正儀ってなにげに名将だよね
彼がいなければ南北朝合体ももう少し時間がかかったかも?

80:日本@名無史さん
21/06/25 23:18:14.71 .net
楠木正成は南北朝合一後も朝敵だったけど、
このことについて戦前の政府はどう評価してたんだろ
室町時代の天皇が間違った裁定をしていたという評価なのか
それともやっぱり全部足利が悪いでおしまいなんだろか

81:日本@名無史さん
21/06/26 09:55:34.71 .net
>>80
その辺りは当たらず触らずじゃないかな
尊氏に吹いた神風と同じに

82:日本@名無史さん
21/06/26 12:46:14.73 .net
>>80
楠木正成は1559年に正親町天皇によって朝敵を取り消されたがな。
ちょっとは自分で調べれよ

83:日本@名無史さん
21/06/26 13:35:27.92 .net
>>82
日本語読めない馬鹿w

84:日本@名無史さん
21/06/26 15:53:16.79 .net
戦前の政府なんかご都合主義だからな
攘夷攘夷と叫びながら政権を取ったらすぐに開国しやがった

85:日本@名無史さん
21/06/26 16:47:22.88 .net
逆に足利尊氏は室町時代は忠臣として顕彰されていた

86:日本@名無史さん
21/06/26 18:40:22.20 .net
>>84
戦前の青年将校はまさに攘夷志士の生まれ変わりだったな

87:日本@名無史さん
21/06/27 04:04:17.16 .net
伊勢国司北畠家というが、国府・郡衙・公領はあったのかな?
あと他の国はどうなってる?

88:日本@名無史さん
21/06/27 09:24:16.91 .net
わざわざ「伊勢国司」を称するのは、室町幕府の守護大名ではなく、律令における国司任官
によって伊勢を統治しているという正統性を主張しているからだよね?
ならば、国府や公領の運営も旧来のしきたり通りにやってそう
国府には在庁官人もいたのだろうか?

89:日本@名無史さん
21/06/28 08:27:05.60 .net
古代・中世に貴人が地方に下ると現地の有力者が被官化してしまう現象を日本史用語でなんと
言うのだろうか?
現代風に言うと「落下傘候補」だな
落下傘候補
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>落下傘候補(らっかさんこうほ)とは、主に地方区制の国政選挙や都道府県知事選挙で、その土地に
>地縁・血縁の無い人が立候補すること。または立候補したその人本人を指す言葉
>元中央官庁の上級官僚、各政党の公認を得た党の有力幹部、知名度のあるタレントらの擁立など当該
>選挙区(または当該選挙)の梃入れケースと、選挙区の候補者一本化の調節のための配置換えなどが多い。

現地の有力者が喜んで被官になって命も金も財産も人も差し出してくれるって非常においしい状態
なんじゃないのか
南朝側は日本全国68カ国に皇族・貴族を国司等に任命してどんどん送り込めばよかったんじゃないのか

90:89
21/06/28 23:25:15.03 .net
おい 止まっとるやんけ
俺の書き込み、ユニークすぎる?

91:日本@名無史さん
21/06/29 12:50:20.81 .net
>>89
国司任官時代に貯めた財産、人脈、官位、都の情報や知識といった資本があったからでは?
地盤や資本なしに行ってもうまくいかない

92:日本@名無史さん
21/06/29 12:56:48.82 .net
あら、相手しちゃったのか

93:南朝軍国陸賊軍團隊オホーツク市民
21/07/08 01:08:15.45 .net
【 『南朝』に付いて 】
:
※『延元元年(1336年)12月28日』に、
『後醍醐帝王(帥宮尊治親王)』が『南朝』を『建國されました』。
※『延元4年(1339年)8月16日』に、
『後醍醐帝王(帥宮尊治親王)』が『死亡されました』。
※『延元57年(1392年)閏10月5日』に、
『後亀山帝王(小倉宮熙成親王)』が『降伏』して『南朝』は『滅亡しました』。
※『延元75年(1410年)11月27日』に、
『後亀山帝王(小倉宮熙成親王)』が『南朝』を『復活されました』。
:
【 延元686年(2021年)7月8日 】
【 神奈川闍鬼男高知(カミナガワ・ジャギオ・タカトモ) 】

94:日本@名無史さん
21/07/09 14:45:32.52 .net
URLリンク(kageki.hankyu.co.jp)
忘れてた。宝塚で楠正行扱ってるぞ。本拠地の宝塚大劇場は先月だったが、
明日から日比谷の東京宝塚でやる。結構面白かった。

95:日本@名無史さん
21/07/10 09:58:08.91 .net
>>94
正行格好いいな
宝塚の化粧に気持ち悪さを感じてたけど案外スッキリしてて綺麗だ

96:日本@名無史さん
21/07/11 03:08:51.71 .net
ぶっちゃけ後醍醐天皇が今の天皇なら日本国政府倒幕してるね
倒幕の理由は「気に食わない」
倒幕失敗してもゴーンの脱獄が大したことないくらいの脱獄の名人だしな
今上陛下がなんかちょろっとしただけであの騒ぎになるくらいだから
やっぱ天皇ってすごいよね

97:日本@名無史さん
21/07/11 16:02:21.16 .net
そもそも後醍醐史観から見ると自身の建武政権を除いて
中世~現代はすべて黒歴史でしょう
なので打倒を目指すのーみ!

98:日本@名無史さん
21/07/16 06:42:30.25 .net
>>97
後醍醐帝が悪いのではない
悪いのは理解出来ない愚民連中
まさに古今東西の政治家や権力者の全てが飛び付きたくなるような理屈だよな

99:日本@名無史さん
21/07/16 18:54:51.56 .net
恒明親王に触れてるかどうかで研究書のレベルが分かる

100:日本@名無史さん
21/07/17 03:59:06.10 .net
後醍醐と恒明って一緒に遊んだり祖父と父である亀山のところで共に勉強してたりしたんだよな
建武政権後も仲良かったのかな?

101:日本@名無史さん
21/07/17 08:59:25.78 .net
最大のバックの西園寺家が鎌倉幕府の崩壊で力を失った以上は不満があっても恒明としては従うしかない

102:日本@名無史さん
21/07/17 15:39:00.41 .net
恒明は北条泰家の後醍醐暗殺に加担しなかったのか?あれは西園寺も首謀者だったが

103:日本@名無史さん
21/07/17 15:52:14.36 .net
>>102
あれは持明院統が絡んでるからな
まあ実態としてはむしろ自分に散々屈辱を与えてくれた西園寺家への報復なんだろうが

104:日本@名無史さん
21/07/17 21:18:12.99 .net
後醍醐は一番天皇になってはいけない人

105:日本@名無史さん
21/07/18 07:21:18.06 .net
>>104
この時が天皇制の一番の危機だったんだよな
後醍醐としては自分の血統が皇位を独占出来なければ天皇など無くなっても構わないくらいの腹だったろうし

106:日本@名無史さん
21/07/18 13:44:33.19 .net
元寇や幕末の時に後醍醐が天皇だったら日本終わってたなw

107:日本@名無史さん
21/07/18 18:59:05.93 .net
>>102
後醍醐の新しい后になった珣子内親王(光厳の姉)が
懐妊してそこに皇子が生まれるのを西園寺は期待してが結果は皇女で後醍醐暗殺に流れたという説が今あるみたいだね

108:日本@名無史さん
21/07/18 21:14:05.26 .net
光厳と後醍醐は婿舅の間柄だけではなく義理の兄弟でもあったのか

109:日本@名無史さん
21/07/19 00:18:39.30 .net
>>108
何とか持明院統を血統的にも取り込もうとする後醍醐の執念だな

110:日本@名無史さん
21/07/19 00:53:17.77 .net
後醍醐は持明院統には優しい印象だな
逆に兄の系統の後二条流には容赦しない

111:日本@名無史さん
21/07/19 06:42:46.25 .net
>>110
兄貴の方が大覚寺統の嫡流だからな
それに持明院統を攻略出来れば他の流派も押さえ込む事が出来るし

112:日本@名無史さん
21/07/19 07:17:29.03 .net
>>110
後二条嫡流で春宮にもなっていた康仁親王の後見人、崇明門院の女院号をわざわざ廃止して
内親王に戻したぐらい容赦ないな

113:日本@名無史さん
21/07/19 19:20:18.82 .net
>>112
一番の抗争相手は後二条系だからな
しかもこの時点では後二条系も分裂状態

114:日本@名無史さん
21/07/19 22:56:08.07 .net
持明院統はほくそ笑んでただろうな

115:日本@名無史さん
21/07/20 00:31:15.76 .net
後醍醐は中宮の西園寺女をかなり大切にしているよね。間に皇子が生まれなかっただけで

116:日本@名無史さん
21/07/20 07:11:57.11 .net
西園寺嬉子から皇子が生まれたら後二条系から嫡流奪える可能性あるからね
同じ西園寺一族の娘が産んだ世良親王がバックアップだったのに早世したのが後醍醐にとって不運だった

117:日本@名無史さん
21/07/20 08:05:43.19 .net
>>116
いくら皇子が多くても決定打が無かったのが皮肉なんだよな
そして結局は彼らを消耗品にしていくわけで

118:日本@名無史さん
21/07/20 08:17:58.03 .net
崇光の子孫が数名かわいそうだが
見事に嫡流へ

119:日本@名無史さん
21/07/20 08:42:57.80 .net
>>118
やはり最後は兄系の強味って感じなんだよな
腐らず存続していけばいつか必ずって

120:日本@名無史さん
21/07/20 09:38:52.16 .net
>>53
森は恒明の存在を無視している

121:日本@名無史さん
21/07/20 10:01:32.98 .net
大覚寺統の最大の敗因は究極的には弟系だった事
だから嫡流が確立出来ず再分派と内部抗争を繰り返した

122:日本@名無史さん
21/07/20 11:11:07.17 .net
そう?亀山が伏見くらい謙虚なら情勢は変わってたと思うけど

123:日本@名無史さん
21/07/20 11:26:22.75 .net
>>122
亀山自身が自流の分裂を進めた張本人

124:日本@名無史さん
21/07/20 17:49:36.93 .net
>>121
違う違う。後醍醐や後村上がプライドが高すぎて読み違えたからだよ。
特に後村上は、幕府がに恭順してきた時にそのまま受け入れていれば皇統は大覚寺統の物になっていた。
後村上が武士の力を侮って幕府降伏を絶対条件にして足利義詮の怒りをかって、南朝は自滅しただけの話。
本当に楠木一族を初めとする南朝方の武士たちは暗愚な君主に利用されるだけ利用され、気の毒としか言いようがない。

125:日本@名無史さん
21/07/20 18:09:19.32 .net
>>124
君主が暗愚でも忠義を尽くすから忠臣

126:日本@名無史さん
21/07/20 19:11:31.68 .net
>>122
むしろ伏見は為兼と共に幕府から警戒されてた
鎌倉幕府が信頼してたのは後宇多の方だった

127:日本@名無史さん
21/07/20 19:34:00.16 .net
後村上つーか北畠親房じゃないの?

128:日本@名無史さん
21/07/20 22:23:32.45 .net
>>126
伏見じゃなくて後深草だ、間違えたw
伏見は当代随一の策士だったな

129:日本@名無史さん
21/07/20 23:06:53.11 .net
>>128
伏見の最大の謀略は亀山の恒明推しに同調して大覚寺統を分裂させた事だろう

130:日本@名無史さん
21/07/21 13:06:34.75 .net
後宇多は賢帝とか呼ばれてるけど大覚寺統の統制や後継者選びで下手打ってんな。亀山と後醍醐で板挟みになってたのかな?

131:日本@名無史さん
21/07/22 02:52:04.07 .net
>>130
やはり嫡流の確立が困難という印象
兄を立てろとなればそれこそ持明院統に譲らねばならなくなってしまうし

132:日本@名無史さん
21/07/22 13:08:52.20 .net
大覚寺統の正統性の根源はいささかな曖昧な後嵯峨の素意だからな
だから後継はあくまで統内の家長の恣意で決められてしまうわけでどうしても不安定かつ流動的な物にならざるを得ない

133:日本@名無史さん
21/07/22 13:37:26.73 .net
持明院統は伏見が息子の後伏見花園を親子関係結ばせてかつ花園を光厳の教育係にして団結を図っていたな
それでも花園は余裕ないから山里に引きこもると言って後伏見から止められたり苦労はあったが

134:日本@名無史さん
21/07/22 14:18:15.01 .net
>>133
そして花園に預けられた光厳が花園の后との間にというのがまた別のトラブルになる

135:日本@名無史さん
21/07/22 14:40:08.83 .net
後宇多としても花園の先例に倣ったんでしょ後醍醐の立太子は
ところがどっこい、後醍醐は全てを破壊する化け物だったと

136:日本@名無史さん
21/07/22 15:48:36.95 .net
>>135
後宇多としては危険性を承知しつつも恒明に大覚寺統の嫡流が行くよりはまだマシだというつもりだったのかも

137:日本@名無史さん
21/07/22 16:14:36.08 .net
先例主義と聖断主義と言えばなんとなく後者が正しく思えてくるが法治主義と人治主義と言い換える事も出来るんだよな
いわば後醍醐の例の発言は俺は先例に縛られないが後の連中は俺の先例に従えって意味

138:日本@名無史さん
21/07/22 22:19:30.61 .net
後醍醐さんは皇統を自流にするだけでは飽き足らず全ての権限を自分のものにしないと気がすまないご気性
権威と権力が合体した中国の皇帝を目指していた

139:日本@名無史さん
21/07/22 23:00:48.84 .net
>>138
逆を言えば傍流の出身だったがためにそこまでしないと安心出来なかったとも言えそう

140:日本@名無史さん
21/07/22 23:38:29.28 .net
終身天皇だったのもそのためかな?
本来なら上皇のほうがある程度フリーに動けるのにね

141:日本@名無史さん
21/07/22 23:46:00.46 .net
>>140
血統的に大覚寺統の治天になる資格すら無かったからな
だから天皇位にしがみつかざるを得なかったって感じも

142:日本@名無史さん
21/07/26 12:13:34.99 .net
正平の一統での持明院統首脳部の拉致だけど、あれは義詮の謀の線はないかな?直義と親密な光厳系を廃して南朝を皇統にと。結局は破談になって後光厳系になったけれども

143:日本@名無史さん
21/07/26 15:04:39.21 .net
義詮は直義に神号を与えてるくらいだから
そんなに仲は悪くないからそれはないと思う

144:日本@名無史さん
21/07/26 20:09:13.69 .net
>>120
それってどの書籍?
森著書の「南朝全史」って本では恒明の子孫まで載せてるんだけど

145:日本@名無史さん
21/07/27 06:37:12.16 .net
>>144
角川ソフィア文庫の太平記の群像

146:日本@名無史さん
21/07/27 16:04:09.10 .net
持明院統
崇光流 後光厳流 直仁流
大覚寺統
後二条流 後醍醐流 恒明流

あとはわかるな?

147:日本@名無史さん
21/07/27 21:19:03.61 .net
>>146
後二条系も邦良流と邦省流に分裂

148:日本@名無史さん
21/07/28 01:37:14.98 .net
後円融や後小松も弟系ってのの後ろめたさがあったのだろうか?践祚もしてないし

149:日本@名無史さん
21/07/28 05:51:19.99 .net
ゴリゴリの南朝派貴族だったのに上手く北朝に復帰出来た阿野家

150:日本@名無史さん
21/07/28 08:15:51.37 .net
>>149
阿野家の帰順で勝負あったって印象

151:日本@名無史さん
21/07/28 19:49:10.52 .net
阿野は元を辿れば頼朝の弟の家だからね

152:日本@名無史さん
21/07/29 00:17:32.25 .net
中公新書に中先代の乱

153:日本@名無史さん
21/07/29 02:23:19.50 .net
嫁の実家の資産をそのまま貰い受けて、その後、代々受け継いでいくってたまにあるんですなあ

154:日本@名無史さん
21/08/04 17:27:53.92 .net
ちょっと前から室町ブームだねえ出版界は

155:日本@名無史さん
21/08/06 08:24:33.55 .net
そもそも既に亀山の子の後宇多が皇太子にまでなっているのに何で改めて後深草とどっちが治天になるのか決めなきゃならないってのが分からない
あるいは幕府の御墨付を改めて取らねばならないくらい亀山の力は弱かったのかって

156:日本@名無史さん
21/08/06 10:05:03.72 .net
貴種至上主義の日本は北魏そのもの。だから正閏を争う南北朝時代があって当然だね。

157:日本@名無史さん
21/08/06 10:39:43.06 .net
>>155
平安時代末期以降、朝廷は家父長である上皇が院政を執るのが定番
院政を行っていた後嵯峨上皇が死んだ後
その子の後深草と亀山の上皇が2人いたので
どちらが天皇家の家父長でどちらが院政を執るのかという話だったと思う

158:日本@名無史さん
21/08/06 12:32:19.17 .net
>>157
亀山の皇子が既に立てられていたわけだからその時点で既に治天の後継者は亀山と決まったのも同じ気がするんだけどな
後嵯峨の叔父である順徳も皇子の仲恭が天皇になった事で後鳥羽の正嫡となった感じもするだけに

159:日本@名無史さん
21/08/06 16:38:28.87 .net
後深草が太上天皇辞退すると駄々こねて、幕府が後深草に配慮して両統迭立になったが、なんで幕府は後深草に配慮したのだろうか?「勝手に上皇辞めれば?」で良かっただろうに。太上天皇辞退するって当時は幕府も見逃せない、由々しき事態なのか?

160:日本@名無史さん
21/08/06 18:55:02.36 .net
ヒント:蒙古襲来

161:日本@名無史さん
21/08/07 10:26:57.82 .net
当時の幕府として朝廷を分断統治するという意図も無くは無かったんだろうな
但しそれが次第に激化して幕府の方が振り回される結果になってしまった

162:日本@名無史さん
21/08/07 11:47:53.91 .net
北条時宗と関東申次の西園寺公実の利害が一致した結果

163:日本@名無史さん
21/08/09 18:23:29.39 .net
>>149
ところがゴリゴリの南朝派でもないんだな。>阿野家
むしろ京都と独自のパイプを持っていた節がある。

164:日本@名無史さん
21/08/10 14:15:20.45 .net
公家はちゃんと南北朝を両天秤にかけてる

165:日本@名無史さん
21/08/13 12:54:27.25 .net
>>158
後深草はその決定納得していなかった上に
関東申次西園寺実兼が後深草と亀山を天秤にかけて
都合のよい方を幕府に推薦していたからな
幕府は関東にあったため都の情勢にそこまで詳しくない
そのため幕府に口利きができる関東申次の権力は絶大で
朝廷においては摂関家も凌ぐ権勢だった

166:日本@名無史さん
21/08/13 14:22:37.79 .net
>>163
阿野家は本家筋にあたる滋野井家とパイプあったみたいだね
滋野井家はほぼ北朝から動いてない

167:日本@名無史さん
21/08/13 22:27:04.79 .net
>>165
西園寺家から見た鎌倉時代なんて面白そうだよな
特に伏見・亀山・後醍醐それぞれに通じた三姉妹とか

168:日本@名無史さん
21/08/14 00:11:35.94 .net
西園寺が関東申次の職を得たきっかけは?

169:日本@名無史さん
21/08/14 00:32:01.81 .net
>>168
承久の乱で幕府に与した

170:日本@名無史さん
21/08/14 11:37:44.99 .net
西園寺公経は源頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を
妻としており、鎌倉幕府とは親しく、
承久元年(1219年)に3代将軍・実朝が暗殺された後は、
九条頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。
承久の乱の際には後鳥羽上皇の命令で幽閉されるが、
事前に乱の情報を幕府に知らせ幕府の勝利に貢献した。
乱後は幕府との結びつきを強め、承久の乱の翌年には太政大臣となった。

171:日本@名無史さん
21/08/14 11:43:49.42 .net
九条家の没落も大きい>西園寺の栄華

172:日本@名無史さん
21/08/14 12:12:25.04 .net
九条道家「…」
あいつは天皇の外戚かつ鎌倉将軍の実父で権勢絶大のはずなのに何をやってたんだ

173:日本@名無史さん
21/08/14 13:21:03.28 .net
得宗家と上手く関係を築けなかったんだろう

174:日本@名無史さん
21/08/14 18:17:54.64 .net
北条時頼と仲悪かったイメージ

175:日本@名無史さん
21/08/14 19:29:55.03 .net
>>174
時頼を舐めてたって感じかな
だから名越や三浦と組んで奪権のチャンスと見たか

176:日本@名無史さん
21/08/17 16:32:34.29 .net
摂家将軍父子の死について大河の時宗では暗殺説を採ってたな

177:日本@名無史さん
21/08/18 13:18:50.71 .net
ドラマの話をされてもな

178:日本@名無史さん
21/08/18 22:51:02.65 .net
>>170
西園寺は坊門姫の子孫だったか。
西園寺って幕府や京に伝言する時に自分の利益になるように改ざんして伝えてるよね絶対

179:日本@名無史さん
21/08/19 09:23:04.61 .net
あんまりやり過ぎると公衡のように後宇多から勅勘喰らうけどね

180:日本@名無史さん
21/08/20 22:49:41.57 .net
宝塚歌劇の「影響はあると思います」 企画出版社も驚いた!南北朝武将総選挙「楠木正行」なぜ1位
2021年06月19日
URLリンク(www.j-cast.com)
『桜嵐記』
南北朝の動乱期を舞台に、南朝の武将・楠木正行の、儚くも鮮烈な命の軌跡を、一閃の光のような弁内侍との恋と共に描く。
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)
URLリンク(www.tca-pictures.net)

181:日本@名無史さん
21/08/21 09:49:09.93 .net
>>180
四条畷神社と湊川神社のツイッターが何度かその芝居に言及してる。
四条畷の方は「おかげで参拝者が増えてありがたい、見てきたけど
良い芝居だった」みたいな内容だが、湊川の方は「尊氏憎し!」の
スタンスのせいかちょっと文章がおかしい。

182:日本@名無史さん
21/08/21 14:28:49.58 .net
実際、その宝塚歌劇を観劇したけど尊氏はどちらかと言うと正行に同情してそんなに悪くされてなかった。
むしろ後醍醐天皇がクソ、後村上天皇が能無しに描かれていた。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

183:日本@名無史さん
21/08/21 18:11:47.78 .net
>>182
宝塚歌劇って女の客が多いのに誰と見に行ったんや
どの席?

184:日本@名無史さん
21/08/21 18:30:32.36 .net
確かに宝塚歌劇は女性客が多いが男性客もそこそこいるぞ。過去にはルパン三世や銀河英雄伝説、るろうに剣心をやっているし、今宝塚大劇場ではシティーハンターをやっている。次回は柳生忍法帖と男性向けの演目も頻繁にやっているぞ

185:日本@名無史さん
21/08/21 19:04:12.77 .net
>>184
俺ルパン三世とるろうに剣心は見に行ったんや

186:日本@名無史さん
21/08/21 22:32:12.24 .net
>>180
珠城りょう綺麗だな
DVDとか出てたらちょっと見てみたい

187:日本@名無史さん
21/08/22 10:31:41.76 .net
>>184
今まさにシティハンター見るために宝塚に向かってる。もちろん桜嵐記も見た。良かったぞ。
俺は嫁に引っ張られて最初は嫌々だったが、数回目から突然はまった。
歌舞伎やプロレスの「型を守りつつ無茶をする」のが好きな人は、宝塚も許せると思う。

188:日本@名無史さん
21/08/24 00:04:38.52 .net
>>178
そもそも事の発端の大宮院が西園寺家の出身なんだよな

189:日本@名無史さん
21/08/24 08:42:10.53 .net
>>187
嫁に連れて行ってもらったのか
それええなあ
俺は宝塚歌劇に興味ない女友達を誘って行った。
さすがにオッサンの一人宝塚観劇はハードルが高いので。
休み合わすんも面倒やしなかなか行けんわ

190:日本@名無史さん
21/08/24 13:06:45.12 .net
大宮院も幕府から後嵯峨の考えはどうだったのと聞かれたんだから答えるしかあるまいよ。西園寺実兼の意向は反映してると思うけど

191:日本@名無史さん
21/08/24 15:54:48.82 .net
>>190
既に後宇多を皇太子に立ててたんだから状況的にはやはり亀山と解釈するのが普通だろう

192:日本@名無史さん
21/08/27 16:47:12.57 .net
某本に光厳は持明院統の後醍醐とあったw

193:日本@名無史さん
21/08/28 01:04:03.91 .net
三度地獄を見た男

194:日本@名無史さん
21/08/31 08:14:26.40 .net
>>162
後嵯峨の死の直前に二月騒動が起きているのもポイント
これに亀山が絡んでいたらしい事も譲位と伏見の立太子に影響したとの説も

195:日本@名無史さん
21/09/13 16:52:25.32 .net
光厳で打順組めそうだなw
とりあえず、クリーンナップは

3.土岐頼遠に射掛けられる
4.六波羅滅亡の際、北条仲時ら一族の自決を見届ける
5.観応の擾乱で賀名生に拉致され事実上の持明院統の治天の権限を剥奪される

あとは任せた

196:日本@名無史さん
21/09/13 22:58:26.46 .net
>>195
いや
4 自分の妃の母でもある花園の妃に直仁を孕ませる

197:日本@名無史さん
21/09/14 13:31:13.35 .net
こう見ると、光厳は後醍醐というよりは亀山に似てるな。西園寺の血がそうさせるのかな?

198:日本@名無史さん
21/09/14 20:36:04.16 .net
>>197
亀山こそ大覚寺統を滅ぼした張本人

199:日本@名無史さん
21/09/14 21:27:08.39 .net
大覚寺統を滅ぼしたのは後醍醐なんだよな

200:日本@名無史さん
21/09/14 23:20:39.42 .net
>>199
そもそも亀山が大覚寺統の正統を乱したからこそ後醍醐が浮上出来た

201:日本@名無史さん
21/09/14 23:27:14.44 .net
それ言ったら立太子した後宇多の責任だろ

202:日本@名無史さん
21/09/14 23:46:41.66 .net
>>201
恒明を阻止するためには後醍醐を立てるしかなかったから

203:日本@名無史さん
21/09/15 05:58:23.85 .net
すみません、スレ順は何順で見ればいいんですか?
有能スレが下にあることも多くて困ってます

204:日本@名無史さん
21/09/15 07:50:16.66 .net
普通に後二条の息子じゃダメだったのか?>立太子
直近の前例でかぞえ2歳で後伏見が立太子してたのに

205:日本@名無史さん
21/09/15 12:44:05.13 .net
>>204
恒明派の力が強くてあの時点では推し切る事が出来ず亀山との関係が近かった後醍醐が折衷案として浮上した

206:日本@名無史さん
21/09/15 15:38:04.31 .net
これ後醍醐の深謀だよね
実母を祖父亀山の側室にして親王宣下をゲット、皇太子の準備万端スタンバってる状態

207:日本@名無史さん
21/09/15 16:15:29.98 .net
>>206
まあむしろ実母の深謀なんだろうが
そして祖父の女の一人に産ませたのがあの護良

208:日本@名無史さん
21/09/15 16:27:13.91 .net
後醍醐の周囲には花山院師信という大覚寺統持明院統問わず有能な官吏として認められてた人がいたのも
大きかったんじゃないかな
確か師信の父親が後醍醐母の養父になってた
そして師信の息子が師賢

209:日本@名無史さん
21/09/15 17:25:28.93 .net
湊川の合戦後に後醍醐が幽閉されてた場所が花山院だったのはその縁か?

210:日本@名無史さん
21/09/15 18:50:20.25 .net
>>208
だとしてもあくまで一代の主としての妥協だからな
即位の時点では大覚寺統内部の後宇多の指導性も確立していてその本命である邦良の立太子を阻止出来なかったわけだし

211:日本@名無史さん
21/09/15 19:16:38.67 .net
後醍醐が最終的に倒幕を決したのは光厳の皇太子に自分の皇子を立てる事は出来ないと見たからかな
その場合では恒明になる可能性の方が高いとか

212:日本@名無史さん
21/09/15 21:03:44.50 .net
邦良が亡くなってその子どもか弟が立太子されようとしたからじゃない?
花園みたいに後二条の猶子扱いにしていればあるいは?

213:日本@名無史さん
21/09/15 21:12:40.90 .net
>>212
実際はその二派がまた分立してしまったんだよな
それで以後の後二条流は一気に衰退してしまう

214:日本@名無史さん
21/09/15 22:36:58.47 .net
>>204
ちゃんと伏見が楔を打ち込んでいる
恒明を立太子しないのは亀山の遺言に背くで!とな
後宇多は窮して、もう後醍醐でええわ、となった

215:日本@名無史さん
21/09/15 22:39:35.11 .net
>>203
もとはどちらの統が正統かを議論するスレだったのだが
>>1のテンプレから消されてる
まあだいたい同じ議論が巡り巡って結論が出ない感じ
どちらも正統でいいのにね

216:日本@名無史さん
21/09/15 23:37:05.00 .net
>>214
亀山の遺命に伏見が加勢したんだよな
そうなれば後宇多も参加しないわけにはいかないが亀山が死んだ後はなんとか反古にしようとする
そして父の遺命の反古は後醍醐が後宇多の遺命を反古にする先例にもなるわけで

217:日本@名無史さん
21/09/16 03:24:21.31 .net
後宇多かわいそw
だいたい後二条の早世で全てが狂っていったんだよな
天皇在位中に崩御して治天として院政も執っていないし後二条流は後宇多の後見がないと脆く弱い
そりゃあ持明院統や恒明、後醍醐は鼻息が荒くなりますわな

218:日本@名無史さん
21/09/16 06:40:20.26 .net
>>217
一番の正嫡格であった後二条流が衰退した事で大覚寺統も事実上終わったんだよな
持明院統が後伏見から光厳にと正嫡ラインの主導性が揺るがなかったのと対照的に

219:日本@名無史さん
21/09/16 07:26:31.11 .net
光厳が正真正銘の正妃所生なのもあの時代には強いんだよな

220:日本@名無史さん
21/09/16 08:18:46.24 .net
>>219
その磐石のはずの光厳が直仁の立太子で持明院統をあわやにしてしまいかける皮肉さ

221:日本@名無史さん
21/09/16 12:42:05.85 .net
直仁に譲って以後は直仁の系統を皇嗣になんていわれても崇光にとったらたまったもんじゃないよな
亀山は恒明に譲位しろとはいったが後宇多の子孫の皇位継承を否定してはないはず
花園は光厳を止めなかったのかね?

222:日本@名無史さん
21/09/16 13:14:16.46 .net
>>221
直仁の立太子は光厳と花園と直義による決定
ここに尊氏が関与していない事がその後に影響した可能性も高い

223:日本@名無史さん
21/09/16 13:19:09.26 .net
直仁の母親と尊氏直義が縁戚で崇光より後見が磐石そうだったからという説もあるんだっけ

224:日本@名無史さん
21/09/16 13:20:23.81 .net
>>223
違った
縁戚なのは赤橋登子だった

225:日本@名無史さん
21/09/16 16:16:24.21 .net
幕府が関与してたら崇光は何もできないな

226:日本@名無史さん
21/09/16 19:21:40.51 .net
>>223
その結果が正平の一統か
少なくとも尊氏には効果が無かったらしい
そのせいか戻ってからはもはや直仁の事など問題にもならなかった

227:日本@名無史さん
21/09/16 22:25:44.23 .net
幕府は後光厳を推していく方針だったから

228:日本@名無史さん
21/09/17 07:56:33.29 .net
>>227
これ以上のゴタゴタはもう御免だって感じだよな
だから断絶するまで後光厳流一本槍

229:日本@名無史さん
21/09/17 13:41:50.38 .net
三上皇拉致で1番最初に光明が返されたのは何も権限が無いからかね?
ちなみに最後が光厳w

230:日本@名無史さん
21/09/17 15:29:13.99 .net
光厳は後光厳の治天の君要件満たすから

231:日本@名無史さん
21/09/17 23:43:41.83 .net
今でも広義門院の治天は無理があるw

232:日本@名無史さん
21/09/18 00:04:42.59 .net
現代ではそもそも治天の概念は必要ない

233:日本@名無史さん
21/09/18 01:02:48.43 .net
>>232
そもそも治天とは天皇家家長の意味

234:日本@名無史さん
21/09/18 02:23:33.16 .net
現代の知識でも広義門院の治天は無理があるって意味だよ

235:日本@名無史さん
21/09/18 08:32:38.45 .net
>>234
それでも院政の形を取らねばならなかったのが当時なんだよな

236:日本@名無史さん
21/09/18 11:02:44.92 .net
花園はもう崩御してたのか当時は?

237:日本@名無史さん
21/09/18 17:19:50.15 .net
>>235
だから神器もなし、上皇の院宣もなし、で即位した後光厳天皇の正統性が薄いんだよ。それ以降、女院の令旨の皇位継承が先例にならなかったことから見て、当時も反則技とみんな認識していたんだろう。

238:日本@名無史さん
21/09/18 18:37:47.64 .net
>>237
ある意味ではまさに緊急避難なんだよな
先例にならなかったのはその後に同様の事態が起きなかったからでもあるし

239:日本@名無史さん
21/09/18 20:10:52.87 .net
これ、義詮には痛恨の失態だろ

240:日本@名無史さん
21/09/18 20:26:44.99 .net
>>236
運良く1348年に亡くなってる

241:日本@名無史さん
21/09/18 21:04:16.79 .net
>>239
正平一統の約束からすれば仕方がない面もある
何故か後光厳の身柄だけはしっかり確保していたという点もなかなか意味ありげなんだよな

242:日本@名無史さん
21/09/18 21:41:19.85 .net
光厳は直義に近付きすぎたな

243:日本@名無史さん
21/09/19 13:55:26.52 .net
>>242
尊氏よりも義詮の不興を買った感じだな

244:日本@名無史さん
21/09/19 22:23:31.29 .net
南朝はビッグチャンスだったのにねえ

245:日本@名無史さん
21/09/20 10:16:24.50 .net
>>244
完全な物にしようとしてポシャった印象だな

246:日本@名無史さん
21/09/20 20:27:18.67 .net
北畠親房が完璧主義なのか。神皇正統記を見てるとそうでもなさそうだが。結城親朝に愛想つかされた件もあるしな

247:日本@名無史さん
21/09/21 00:49:04.38 .net
>>246
このまま一気に幕府を潰すあるいは潰せると思った点ではそうだよな

248:日本@名無史さん
21/09/21 23:57:38.19 .net
後醍醐は建武新政で持明院統の長講堂領を削っておくべきだったな

249:日本@名無史さん
21/09/22 07:08:31.14 .net
>>248
後醍醐は最終的に持明院統全体を吸収するつもりだったからな
ある意味では光厳を舐めていた

250:日本@名無史さん
21/10/08 20:05:36.24 .net
後醍醐は建武の新政時に自身の皇子女の中で最も身分の高い
中宮腹の内親王を後光厳に嫁がせたから舐めていたわけではないだろう
むしろこれだけ厚遇しているのだから言うこと聞けという感じ

251:日本@名無史さん
21/10/09 06:36:48.23 .net
>>250
そして自分自身は光厳の姉を中宮に迎えていたし
御都合主義の後醍醐だからもしそっちに皇子が出来ていたら皇太子を差し替えるのも平気でやったかもしれない

252:日本@名無史さん
21/10/09 06:46:35.57 .net
後醍醐の直接的な敵はむしろ同じ大覚寺統内の後二条流や恒明流だからな
だから持明院統を引き入れてしまえばそうした連中を一気に無力化出来る
いわば政治的な遠交近攻

253:日本@名無史さん
21/10/09 08:19:36.30 .net
後醍醐にとって肝心なのは死ぬまで自分が絶対権力を握る事と自分の血統で皇位を独占する事だからな
だから将来的に自分の子孫同士で殺し合う事になったとしても一向に構わない

254:日本@名無史さん
21/10/10 19:14:21.59 .net
後醍醐は阿野廉子腹の皇子と皇位継承争いすることがないよう
護良親王に延暦寺に戻り出家するように言いいうこと聞かないと見捨てた
子孫同士の殺し合いを望んでないだろ
光厳の姉珣子内親王に皇子を産ませて立太子させようとしていたというのはどうだろうね
珣子内親王との結婚のわずか1か月後に後醍醐は阿野廉子腹の皇子を立太子させている
新婚で20代前半の珣子内親王との間にこれから皇子が生まれる可能性もあったのに急ぎすぎだ
持明院統の不満を和らげるために光厳の正妃に後醍醐の皇女
後醍醐の中宮に光厳の姉という政略結婚が組まれたがあくまでも形式的なもの
珣子内親王は一児を産んだが女児であったためほっとしたかも

255:日本@名無史さん
21/10/10 21:19:25.98 .net
珣子内親王への御産祈祷の凄まじい回数見る限り
普通に皇子を希望してたと思うけどな

256:日本@名無史さん
21/10/11 14:19:18.10 .net
>>255
安産祈願の回数としてはおかしくない
持明院統は上皇たちが大勢生きていて伏見・後伏見・花園・光厳といたから
そのあたりを黙らせるためにも大事にしているアピは必要だっただろう
一度立太子させた廉子腹の恒良親王を廃太子に追い込むには政変でも起こすしかなく
後醍醐にとって不本意だろう
しかも同じ廉子腹の成良親王は鎌倉府将軍、義良親王(後の後村上天皇)は陸奥太守と
後醍醐政権で重要な地位についており
恒良に連座して同母弟たちも失脚させるのは大きな痛手だ
新婚の珣子内親王に子が生まれるのを待たずに
廉子腹の皇子たちを最重要な地位に付けたのが後醍醐の意思の表れ

257:日本@名無史さん
21/10/12 00:23:13.57 .net
後醍醐は恒良も成良もあっさり捨ててるからな
後村上だって状況次第ではどうだったか分からない

258:日本@名無史さん
21/10/12 00:25:43.49 .net
後醍醐にとっては継承争いが自分の血統の中だけならどっちでも構わなかったろう

259:日本@名無史さん
21/10/12 07:22:16.87 .net
それで結局は女系も含めて血筋その物が全く残らなかったのは因果応報か

260:日本@名無史さん
21/10/12 07:26:23.50 .net
廉子を重要視するのは太平記観に囚われてる気もする
太平記では悪役するべく目立つ描写されてるが
後醍醐が一番重要視してたのは嬉子
既に出家してた嬉子を中宮位に戻してるぐらい

261:日本@名無史さん
21/10/12 10:19:59.13 .net
>>260
後醍醐が自分の帝位を守るため西園寺家からわざわざ奪ってきた禧子を重んじるのは当然
もともと禧子に仕える女房だった廉子が後醍醐の寵愛を受けて5人も皇子女を産んだのを
禧子はどういう目で見ていたのだろう?
もともとの家柄がそれほどではないのに(何なら二条為子や遊義門院一条のほうが
廉子よりも出自が良い)後醍醐が廉子を特別扱いしていたことは明らか
後醍醐が吉野に南朝を開いた時も後醍醐とともに同行したことが確実な妃は阿野廉子ぐらい
何が何でも連れて行かなければならなかったであろう中宮珣子内親王は都にとどまっている

262:日本@名無史さん
21/10/12 16:09:21.87 .net
為子や遊義門院一条は早死にして廉子は後醍醐より長く生きたから
実際当初の後醍醐の後継者の最有力候補は一条の生んだ世良親王
世良親王が生きてたら廉子の所生皇子は出番なかったでしょう

263:日本@名無史さん
21/10/12 16:17:21.70 .net
>>258
まあこれだと思う
即位出来れば誰でも良かったんだと思う
こういう性急さが結局天皇として子孫が残らなかった原因なのだろうが

264:日本@名無史さん
21/10/13 10:57:57.48 .net
>>255 >>260
自分で史料に当たらずwikiそのままの記述が多すぎるな

265:日本@名無史さん
21/10/13 11:06:21.36 .net
>>262
世良親王には同母兄に尊良親王がおり建武親政時にも生きていたが
尊良親王は皇太子になっていないため後醍醐が遊義門院一条を重視したというのは当たらない
後醍醐がまだ廉子を寵愛する以前、世良親王は昭慶門院の猶子になった
昭慶門院は父亀山法皇から貰った荘園を有していたが生涯未婚であったため相続人になる意味があったと思われるが
そもそも当時の後醍醐皇太子は光厳であり世良を皇太子に立てた事実はなく
世良が建武の新政まで生きていたところで
同母兄の尊良すら廉子腹の皇子に待遇を超えられているのに
世良がそれ以上の待遇を得ていたとは思えんな

266:日本@名無史さん
21/10/15 06:01:31.28 .net
>>265
尊良と同母は宗良

267:日本@名無史さん
21/10/15 13:09:05.84 .net
もし正平一統が確定し北朝廃止、南朝が現在まで皇室として存続すると、男子皇族の名前に「仁」が使われなくなっていたんだろうな。

268:日本@名無史さん
21/10/15 15:35:16.57 .net
>>267
それはどうだか分からないけど大覚寺系って通字が親子継承より兄弟継承なんだよな
この辺とかはむしろ1000年期以前の平安初期の感覚に近い
亀山は息子の通字に余り拘ってないっつうかバラバラで
後宇多は息子には治の字が通字
後醍醐は息子には良の字が通字
後村上は息子には成の字が通字
長慶か後亀山については不明で一説には泰の字が通字と言われるがこれは疑わしい
この大覚寺系の人達の通字の感覚は昔の方式に戻そうとしたのだろうか

269:日本@名無史さん
21/10/16 09:23:17.86 .net
>>268
復古主義を掲げる事で弟系としてのハンデを克服しようとしたとも取れるな
後醍醐なんか更に弟系だからますます過激化するって

270:日本@名無史さん
21/10/18 21:33:48.10 .net
>>269
亀山が有る程度後深草に対して優位だったとはいえ、兄弟順の年齢の先後だけはひっくり返せない。
そこで通字の古来且つ本来の方式を採る事で、更に先祖代々に対する伝統主義としての正統性を主張してた可能性は有るかもしれない。

271:日本@名無史さん
21/10/18 23:16:59.55 .net
>>270
同母だから尚更だよな
また本来が弟系であるためその内部での嫡流をなかなか確立出来ないのも弱点だった

272:日本@名無史さん
21/10/24 04:37:43.59 .net
今も末裔の主張してる人っている?

273:日本@名無史さん
21/10/26 13:28:10.34 .net
>>267
皇統が南朝だけになったら仁を使いそう

274:日本@名無史さん
21/11/03 16:41:09.98 .net
選挙のたびに南北朝時代を連想するよ
自民公明=幕府と北朝
立憲民主=南朝
国民民主=藤氏一揆
維新の会=直冬派

275:日本@名無史さん
21/12/01 20:57:58.44 .net
質問なのですが、戦前までは
楠木正成、平重盛、万里小路藤房
が日本三忠臣として教えられていたそうです。
楠木正成はもちろん平重盛も清盛と後白河法皇の間で苦慮した人物なので
分かるといえばわかるのですが、万里小路藤房という人が何で三忠臣に入るのかがよくわかりません。
wikipediaによると後醍醐に仕えて建武政権を批判して出家下らしいですが、
「三忠臣」に数えられるほど忠臣らしいことしているのか?と思ってしまいます。
藤房が三忠臣に数えられている理由を知っている人がいたら教えてください。

276:日本@名無史さん
21/12/05 18:11:10.50 .net
「オレが天皇」「いやワシが…」続々現れた“自称天皇”…“南朝最後の天皇の系譜を継ぐ男”とは何だったのか(文春オンライン) URLリンク(news.yahoo.co.jp)

277:日本@名無史さん
21/12/07 08:01:57.95 WO3CI+jDt
URLリンク(twitter.com)
まつやま@旅人さんがリツイート
石田三成
@zibumitunari
Q.クリスマスに仕事行こうとする恋人を止める方法を教えてください

A.儂は西軍挙兵と同時に、関東に通じる各所に関所を設置。
 家康に味方しようとする諸大名をなんとか引き止めることに成功しました。
 結果、内通者が多数出て大変なことになったのでこのやり方はオススメできません。
 頑張ってください

278:日本@名無史さん
21/12/10 01:39:42.29 07yuY7C+D
URLリンク(item.rakuten.co.jp)
(記念金貨)【東京五輪】東京2020 オリンピック 1万円プルーフ金貨「流鏑馬」 1次単体セット 平成30年(2018年) 【 記念貨 】

流鏑馬を、スポーツ理念として日本人に親しまれている「心技体」とともに構成し、デザインしています。

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242,000円 (税込)

279:日本@名無史さん
21/12/14 12:51:30.64 .net
数年前に清水克行の本で奥琵琶湖の大浦・菅浦の集落が中世に200年に渡って境界争いを続けていたことを知った。
それで現地を見に行きたいんだが、車を持ってないので公共交通機関で行くしかない。しかしながらバスはどうせ
あんまり便がないだろうし、徒歩かレンタル自転車しかないと思ってるんだが、どうもこういう車道を徒歩・自転車で
通るのは危険な気がするなあ。命がけっぽい。
URLリンク(i.imgur.com)

それはさておき、「菅浦の湖岸集落景観」のサイト(pdf)見ると・・・・
URLリンク(www.city.nagahama.lg.jp)
闘争の手段の一つとして訴訟を起こすこともやってるんだが、訴訟を起こす先が太政官?→六波羅探題・院の
法廷(って何?)→雑訴決断所→北朝の院庁・・・・と変遷している
院に訴えたときは後宇多院・伏見院の院宣という形で裁定を下している。雑訴決断所に訴えたときは後醍醐天皇の
綸旨という形で裁定が下されている。北朝の院庁では光厳院の裁定。寒村(であるのか?)同士の境界争いを天皇・
院が直接裁定を下す形にしているって意外な感じがしたな。裁定の根拠は平安時代に出された太政官符であるようだ
(つまり平安時代から境界争いが続いている?)
その後は過去の勅令に対する違勅を追及する武家御教書が下されたと書いてあるので、室町幕府のどこかに
訴えたようだな? その後は近江守護佐々木氏が出てきたようだが、ここでも裁定の根拠は平安時代の太政官符で
あるようだ
そしてその後は室町幕府内部の争い、半済令とかが絡んできてさらにややこしくなるが、一旦収まったようだ

280:日本@名無史さん
21/12/14 13:14:06.22 .net
>>279
さらにその後は合戦をして、その後は室町幕府相手に訴訟を起こして奉行人奉書という形で裁定が
下されたようだな これはつまり引付衆か?
その後は菅浦方の人間が殺害されたことに対する湯起請を経て菅浦に対する総攻撃が行われかけたが
菅浦が謝罪して紛争は終わったようだな
その後、争いの元となった日指・諸河16ヘクタールの土地がどちらに帰属したのかよくわからんのであるが、
豊臣政権のときには菅浦に帰属したようだ
しかし、俺がよくわからんのは
・寒村同士(?)の境界争い
・16ヘクタールの耕地(太閤検地で473石)
・10~20貫文程度の税
・奪い合ったり破壊したりものが穀物野菜だの鍋だの釜だの牛だの馬だのそんなもの
・・・のレベルであるのに、裁判の裁定者が天皇・院・征夷大将軍であるというのが意外だな。
これらの人たちが直接裁定してるのかどうか知らんけど、判決文はこれらの人たちの名前で出されているのは
事実だ
あと、近江一国の武士や惣が紛争に巻き込まれたのも意外だな まあけど、30年前のイラクvsクウェートの
湾岸戦争のとき、日本も巻き込まれたから珍しくはないのかもしれない

281:277
21/12/14 13:42:00.31 .net
個人的に面白いと思ったのは
・大昔に出された太政官符が生き続ける
・現業官庁の内蔵寮がまだ生きている 所領があって自活できている
・天皇の勅に逆らう「違勅」という観念があった
・武家が組織化(大名化)したら天皇、公家、寺社、惣も太刀打ちできなくなった
・・・というあたりかな
それと息子を殺された老母を法廷に引っ張り出して手を熱湯に突っ込ませて
大やけどをさせる(湯起請)というあたりは実に胸くそ悪いと思った
それはさておき、現代の菅浦って急速に過疎化してるんですなあ
今行っても廃屋が目立ってるかもしれない。
てうか、行くのは今が最後のチャンスかもしれない。もうちょっとしたら廃集落に
なってるかもしれん

282:277
21/12/14 23:47:38.28 .net
>>279
菅浦集落のトリップアドバイザーを見たら「近寄りがたい雰囲気」「宿がやってるツアーでガイドに
案内してもらわないと何が何だか分からない」って書いてあるなあ
菅浦に行くのはやめよかな
URLリンク(www.tripadvisor.jp)

行くんならこっちのほうがええかな
中世の日根荘景観が残る泉佐野
URLリンク(prtimes.jp)
実は、歴史館いずみさのに行って下調べはもうしてある。
ここで映像資料を見たら「荘官・武士に無理難題を押し付けられるかわいそうな農民」みたいな
映像が多くて萎えた。実際どうだったんでしょうなあ?
無理難題というのは「不作でも一定額の税の納付」「農地開発のための人手を拠出」「兵を拠出」と
いったあたり
こっちだとレンタル自転車で周れそう?

283:277
21/12/19 00:22:51.94 .net
日根荘は「日本遺産」に認定されているし、大木地区は「重要文化的景観」に認定されている
URLリンク(hinenosho.jp)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
菅浦の湖岸集落も同様に「日本遺産」「重要文化的景観」に認定されている
URLリンク(ja.wikipedia.org)
そういった意味でこれらを探訪する価値はある
個人的に他にも気になってる場所がある
一つは「丹生官省符神社」。ネーミングが素晴らしい(笑) 世界遺産になってるらしい。
「官省符荘」(固有名詞)があったそうだが、残念ながらここの集落の景観がどうとか話題になってないな。
神社だけ立派で他は普通の町だったら探訪する価値が減るな

284:277
21/12/19 00:47:31.41 .net
あと、もう一箇所気になってる場所がある。
それは丹波・山国
URLリンク(ja.wikipedia.org)
禁裏領があった場所だそうだ。
そして光厳院が出家して隠棲した場所でもある。
ただ、ここも光厳院が創建した常照皇寺(及び山国神社)だけが有名で他はあまり話題に上らんな。
しかし、光厳院も親戚の嫁を犯して孕ませたり、大和賀名生に拉致・軟禁されたり、山国に行って
出家したり忙しいですなあ
光厳院が行った場所を全部探訪するのも面白いかもしれない

285:日本@名無史さん
21/12/25 21:38:44.79 .net
>>268
諡名が後宇多、後醍醐、後村上なんで復古主義なんでしょうね

286:日本@名無史さん
22/01/05 21:22:01.54 .net
>>285
北朝で後光厳の次が後円融なのって
南朝に対してこっちが復古でも正統だって言う主張みたいなものかね

287:日本@名無史さん
22/01/06 18:59:52.04 .net
何で南北朝期の北朝って「光」を名前に付ける天皇が多いんだろ

288:日本@名無史さん
22/01/07 11:35:19.34 .net
よくわからん。そもそも「天皇」という言葉自体が諡号の一部であったらしい(?)
しかも、律令制が崩壊してからの天皇は「○○天皇」じゃなくて「○○院」だったらしい
これを専門用語で「諡号を贈るのをやめて、追号・院号を贈るようになった」と言うらしい。
追号・院号はニックネームであるらしい。
その後、院号は庶民でも名乗れるようになった。戒名に「○○院」って付けられるしな
それはともかく、「天皇」という呼び名自体が諡であり、なおかつ、日本史上のかなりの
長期間、ほぼ使われなくなったそうだが、じゃあ、この地位のことを当時なんと呼んで
いたのかと思う。

289:日本@名無史さん
22/01/07 14:50:01.44 .net
おかみ、みかど、親王の名前か?

290:286
22/01/07 17:48:27.51 .net
平城天皇 嵯峨天皇 淳和天皇 清和天皇 などは地名や建物の名前だそうなので
これは「追号」になるわけだが、 この時代は「追号+天皇号」なんだろうな?
もうちょっと時代が下ると「平城院」「嵯峨院」になったんだろうな?
あと、
・在位中に薨去した天皇
・譲位後に薨去した天皇
・・・でも諡の付け方は違ったんかな? 知らんけど

291:日本@名無史さん
22/01/07 21:29:46.64 .net
>>287
秦野裕介のブログの「称光天皇の追号の由来」のページだと、端的に言うと光厳の後任を自認した名称として付けてるとの事。
つまり光厳を祖として光明はその弟としての正統性、崇光は光(厳)を崇める事による正統性、後光厳は名前通り自分こそ光厳の後継者としての自認
少し下がって称光は光(厳)を称する事による正統性…と言う事だそうな。
あと後円融は上で出てる南朝後村上に対する自分達への正統性、後小松は光孝天皇の別名が小松帝で
後宇多の前の帝とすると別に後光孝とも言える名前にする事でやはり南朝に対する正当性を主張してるのか
と言う考察も有るかもしれない。

292:日本@名無史さん
22/01/07 23:38:53.58 .net
なんで光厳だけw母が西園寺だからか?

293:日本@名無史さん
22/01/08 02:49:32.48 .net
傍系から即位した天皇って後花園天皇もそうちゃうんか。
けど、贈られたのは「光○天皇」という諡号+天皇号ではなく、「後花園院」という追号+院号だな

「光厳」も追号で由来は光厳院という寺院名らしいけど。
西福寺
URLリンク(otera.jodo.or.jp)
URLリンク(www.uwotomo.co.jp)
URLリンク(www.uwotomo.co.jp)
山号 如意山
院号 光厳院
寺号 西福寺
「光明」も寺名らしいけど検索しても見つからん。
これかな?
大光明寺
URLリンク(ja.wikipedia.org)

294:291
22/01/09 08:23:12.22 .net
全員「光」の字=偶然と思ったけど、そんなわけないか
全員「光」の字で通すことで誰かに何かのメッセージを発しているのか・・・・??

295:日本@名無史さん
22/01/09 14:19:51.82 .net
本屋で中公新書の「南北朝時代」という本が平積みされてるけど、
中国の本なんだよな

296:日本@名無史さん
22/01/11 00:31:26.71 .net
後深草って御陵の名前だっけ?
深草天皇っていなかったのよね?

297:日本@名無史さん
22/01/11 02:30:41.13 .net
話は脱線するが、「清和天皇」について検索してたら「清和」を「諡号」としている
サイトと「追号」としているサイトにわかれてるな
清和天皇は「清和院」という御所に住んでいてここから名付けたのであれば
追号ではないのか。
淳和天皇、陽成天皇なども同じ。「淳和院」「陽成院」から
しかし、「後陽成院」はおるけど、「後清和院」「後淳和院」はおらんな。
この場合は地名から付けたニックネームである「後水尾院」「後西院」になったな。
あと、清和天皇は出家してるんだから「清和法皇」のはずなのにそう呼ばれることはないな
それと「文徳天皇」は徳の字が付いてるから非業の死を遂げた天皇・・・とかそんな意味合い
はなさそう
天皇の諡って歴史が長いせいか一貫してないところもあるな

298:日本@名無史さん
22/01/11 02:40:43.44 .net
>>296
深草帝は仁明天皇。御陵だな
コウニンとかカンムとかニンミョウとか名付けても当時の人たちは馴染めなかったんとちゃうかなあ 知らんけど
だから「かしわばらのみかど」「ふかくさのみかど」って呼んだんとちゃうかなあ

299:日本@名無史さん
22/01/11 23:16:49.96 .net
淳和院の別当って源氏長者であったような

300:日本@名無史さん
22/01/15 13:31:48.19 .net
もし南北朝の動乱がない。つまり後醍醐天皇が「ほな政治は尊氏に任せた」となったら
足利は両統の対立にどう対応したか?
「天皇さん家のお家騒動ですので」であまり触れなかったかな?

301:日本@名無史さん
22/01/15 16:47:38.44 .net
そのifは成立しない
なぜなら後醍醐は他人に政治を任せるという概念がないからだ
ちなみに尊氏は湊川合戦後に光厳の皇太子に後醍醐の子どもを据えている

302:日本@名無史さん
22/01/15 17:25:29.04 .net
つまり鎌倉時代と変わらず交代制を模索したということだな

303:日本@名無史さん
22/01/15 21:13:35.05 .net
足利義教まではそうだったでしょ

304:日本@名無史さん
22/01/15 22:44:23.72 .net
ほな政治は尊氏に任せた
そんなの俺たちの後醍醐天皇じゃなーい!
そんな保守的じゃないよ!

305:日本@名無史さん
22/01/16 23:16:27.19 .net
後醍醐天皇の目的は自分の子孫に皇統を継がせる事だった筈なのに、自身の統治権の絶対も諦めなかったからね。前者だけで妥協出来てれば今でも後醍醐流で続いてるんじゃないの。

306:日本@名無史さん
22/01/16 23:57:50.68 .net
朱子学が悪影響を与えたんだろうな

307:日本@名無史さん
22/01/18 11:41:42.72 .net
>>305
どっちも目的
だから後・醍醐って名乗ったんでしょう

308:カトリックはカルト教団
22/01/20 11:10:19.19 .net
反社カルトのカトリック教会が誼(コンコルダート)を交わした反米・極右の主な例は以下の通り。
.
1.ドイツ・オーストリアの狂人ヒットラー
2.イタリアの変人ムッソリーニ
3.スペインの独善フランコ
4.天照皇大神を軽んじたために神風を蒙り衰勢を辿った大覚寺統とは対照的に天照信仰を貫いた持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代天皇から排除した逆賊 水戸光圀の反米・極右(尊攘・質素倹約・緊縮財政)思想を引き継ぎ、核武装したロシアと手を結んで在日米軍を追い出そうと企んだ逆賊 日本会議
.
縁談を餌に カトリックに入信させる気 満々で40年近くカトリックでない異教徒の上智大卒業生や栄光学園卒業生に 独善的パターナリズムを強要しようと付き纏うカルト教団、イエズス会。
.
カルト教団、イエズス会が御膳立てした胡散臭い縁談を拒絶し、オンライン・ゲームなどを利用して他の方と繋がろうとすると、大叶鉱山で大発破を轟かせて威嚇したり、人工地震で驚かせたり、爆音バイクで周囲を徘徊したり、au PAY マーケットやマカフィー・モバイル・セキュリティー、Google Japan、Twitter、d払い、TVerなどに潜伏するカトリック秘密工作員を動員してジャンク通知をプッシュして妨害を繰り返したり、遠隔操作でYouTubeやTVerの音量を頻繁にゼロ(ミュート化)したり、陸自ヘリで徘徊して爆音を撒き散らしたり、公道にゴミを散乱しに来る…
.
反社カルトのカトリックが押し付けがましい振る舞いを自重しないと 中間選挙を控えたカトリックのジョー・バイデンに迷惑が掛かることになるぞw

309:日本@名無史さん
22/01/21 23:44:33.90 .net
二条良基と洞院実世も面白いですよね〜南北朝時代は

310:日本@名無史さん
22/01/21 23:49:35.30 .net
後醍醐は西園寺禧子よりも阿野廉子とお盛んだったそうね♡
あとこの時代は光厳天皇の母西園寺寧子が治天の君になったりと面白い

311:日本@名無史さん
22/01/21 23:50:10.04 .net
二条良基と洞院実世も面白いですよね〜南北朝時代は

312:日本@名無史さん
22/01/22 11:09:28.04 .net
>>305
むしろ絶対権力を握り続けなければ引き下ろされるという恐怖があった

313:日本@名無史さん
22/01/22 11:14:56.51 .net
>>302
本郷和人の北条の時代の説明によると後深草系の復権を後押ししたのは平頼綱らの勢力
対立する安達泰盛らの勢力が亀山系に近かったというのもあったらしい

314:日本@名無史さん
22/01/22 12:08:28.77 .net
なるほど幕府内の政争にも絡んでたのか
なんで安達泰盛は亀山に近かったの?

315:日本@名無史さん
22/01/22 13:00:17.90 .net
人脈もあるが一番の理由はそれぞれ当時の主流派だったからだろう

316:日本@名無史さん
22/01/22 13:03:45.20 .net
そりゃ同腹の長男が何の落ち度も無く家督を奪われて出家するなんて言われたら、介入しようと思う勢力が出て当然だよね。

317:日本@名無史さん
22/01/22 17:09:59.27 .net
当時の権力者北条時宗にとっては元寇が迫るなか内輪で揉めてる場合じゃないってことかな

318:日本@名無史さん
22/01/22 19:07:59.72 .net
裏切り者を粛清していくのが時宗

319:日本@名無史さん
22/01/22 19:29:34.23 .net
二月騒動の真意は元寇に向けて国内的な示威を行うのが目的だったとも言われるな

320:日本@名無史さん
22/01/22 21:40:03.06 .net
国内を引き締めるデモンストレーションか

321:日本@名無史さん
22/01/23 12:20:47.69 .net
これが末期の嘉元の乱になると一体誰が何を巡る争いなのか全くわけがわからなくなるんだよな
まさに末期状態

322:日本@名無史さん
22/01/23 16:44:46.34 .net
元寇の時は治天が亀山で天皇が後宇多?

323:陸自爆音ヘリで跳梁跋扈する反米・極右の逆賊日本会議
22/01/25 09:57:45.15 .net
反社カルトのカトリック教会が誼(コンコルダート)を交わした反米・極右の主な例は以下の通り。
.
1.ドイツ・オーストリアの狂人ヒットラー
2.イタリアの変人ムッソリーニ
3.スペインの独善フランコ
4.逆賊 日本会議
逆賊 日本会議は (1)天照皇大神を軽んじる度会神道を妄信したため 遠州灘で神風を蒙り衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 逆に天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代天皇から排除した逆賊 水戸光圀の反米・極右(尊攘・質素倹約・緊縮財政)思想を引き継ぎ、(2)日米修好通商条約を結び開国した大老 井伊直弼を暗殺した (水戸光圀の反米・極右の尊攘思想にかぶれた)逆賊 水戸浪士や浅墓な吉田松陰を神格化し、あまつさえ(3)核武装したロシアと手を結んで 返還される北方領土などから在日米軍を追い出そうと企んだ。
.

324:日本@名無史さん
22/01/28 06:03:11.68 .net
>>322
敵国降伏の願文を亀山が筥崎に納めてたんだよな
だから当然に神風の功績者だと喧伝しただろうし

325:日本@名無史さん
22/01/29 14:07:11.85 .net
持明院統「我々も祈ってたぞえ」

326:日本@名無史さん
22/01/29 16:36:20.61 .net
亀山「治天が祈ったからだ」

327:超名門K大卒の美女
22/02/01 08:48:46.32 .net
キミ達に相応しい超名門K大卒の美女を紹介する。
.
>相手は都内在住、30歳前後の超名門K大卒の美女。 佐野商工会議所(TEL0283-22-5511)の吉沢慎太郎まで問い合わせ。 但しカトリックに入信するというのが縁談の条件。

328:日本@名無史さん
22/02/01 18:30:32.76 .net
いくら美女でもうちのかみさんほどじゃあるめえ

329:日本@名無史さん
22/02/02 21:38:51.39 .net
>>326
神々「治天の君の祈りとして特別に叶えよう、代償として皇孫の権を全て頂く事にしよう。」
こうして大覚寺は祈祷の捧げとし皇胤が絶える事となったとさ

330:日本@名無史さん
22/02/03 06:02:19.62 .net
>>329
増鏡でも後宇多が生まれる時
後宇多の母の父の洞院実雄が跡が続かなくていいから
皇子生まれてくれと思うシーンあったな
結局別の娘が生んだ伏見の系統が続くが

331:日本@名無史さん
22/02/03 07:03:56.21 .net
神の意思と言えば安徳の後釜を決める時の御籤に当たったのは実は後高倉の方だったんだよな
結局は後白河のゴリ押しで後鳥羽になったがもしそのままだったらその後の歴史はどうなっていたのか

332:日本@名無史さん
22/02/03 15:04:39.12 .net
後高倉って平家に拉致されてなかった?

333:日本@名無史さん
22/02/03 22:12:47.77 .net
>>331
もしかして後鳥羽のコンプって三種神器無しの践祚とか同時代に安徳が居たとかじゃなくて
神意の籤の後高倉を無効にした後白河のゴリ押しによる件が一番デカいのでは…

334:日本@名無史さん
22/02/03 23:19:36.33 .net
おみくじ将軍の足利義教も暗殺されたし

335:日本@名無史さん
22/02/04 06:48:57.33 .net
承久の乱は後鳥羽という極めて特異な個性なくしては絶対にありえないからな
後鳥羽以外なら間違いなく起きていない

336:日本@名無史さん
22/02/04 08:16:17.59 .net
兵を動員すればするほど武家の力が増して、相対的に朝廷の力はどんどん衰えていくのに。
まあけど何もしなくてもジリ貧か。どうせ

337:日本@名無史さん
22/02/04 16:55:58.81 .net
後醍醐は成功したんだよなあ

338:日本@名無史さん
22/02/04 20:54:59.79 .net
後醍醐は根性だけは化け物だから

339:日本@名無史さん
22/02/04 22:22:04.88 .net
>>336
なし崩しだったらあそこまで明白な武家優位にはならなかったろうな

340:日本@名無史さん
22/02/04 22:22:18.81 .net
そもそも後醍醐天皇は武家を否定していたわけではない

341:日本@名無史さん
22/02/04 23:20:16.44 .net
最新の研究では後醍醐はかなり武家にも配慮してたらしいな

342:日本@名無史さん
22/02/04 23:29:59.40 .net
北畠親房も武家を軽く見てたという評価があるけど、それも間違いなんだよね。
もし親房がそんな人間なら常陸で五年も幕府相手に戦えるはずがないし、
その後の吉野でも反幕府軍を組織できたはずがないんだわ。

343:日本@名無史さん
22/02/05 01:40:22.89 .net
さすがに後鳥羽と後醍醐の時代じゃ武家の存在違いすぎるから
そこは考慮すべし

344:日本@名無史さん
22/02/05 02:32:32.38 .net
鎌倉幕府滅亡の遠因は元寇の戦後処理ですからね

345:日本@名無史さん
22/02/05 09:54:29.00 .net
なまじ権限を増やしたから責任も増したんだよな

346:日本@名無史さん
22/02/06 14:52:51.55 .net
>>341
あくまで自派の武士には
赤松への冷遇は護良派だったから

347:日本@名無史さん
22/02/06 16:59:00.91 .net
三木一草や廉子派ばかりだな

348:日本@名無史さん
22/02/08 08:27:46.50 .net
武士A武士B武士C武士D武士E武士F・・・・・っていても
戦争が起こったらこれらが同盟したり組織化したりしてしまう。
武士A-被官である武士B-被官である武士C
-被官である武士D
-被官である武士E-被官である武士F
・・・という感じで
こうなると組織の上位にいる武士はかなりの力を持ってくる

349:日本@名無史さん
22/02/14 14:46:46.89 .net
茨城出身だけど、
北畠親房の名前地元で聞いたな
なんか近畿中部方面の人っていう感じしかしないけど

350:日本@名無史さん
22/02/14 18:06:41.36 .net
茨城なら結城だろ。結城さんは親房の下で奥州の仕置きをしてたんだぜ
その息子からは見限られたけどなw
親房は東北にも関東にもいたから南朝の東国の差配をしてたんだろうな

351:日本@名無史さん
22/02/14 21:42:44.05 .net
北畠は伊勢の人だから近畿中部で間違いない
常陸で活躍していたのは五年ほど
つくばの小田城には立派な資料館があるよね
>>350
結城は福島県白河だぞ

352:日本@名無史さん
22/02/15 00:05:33.63 .net
白河結城のほうだったか

353:日本@名無史さん
22/02/15 14:06:12.91 .net
茨城県は、東海道の道の果て
蝦夷討伐最前線。
小田城はそんな由来があるんだ。
確かに茨城県には城址が確かにいっぱいあるな。
北茨城城なんて、名前からロマン感じない?
近くに大津港というのもある。
歴史を感じるわあ

354:日本@名無史さん
22/02/15 21:23:47.64 .net
佐竹って室町初期は何してたの?

355:日本@名無史さん
22/02/15 22:32:15.59 .net
阿波崎とか神宮寺とか
小田城の前に北畠が身を寄せた城もきちんと保存されているんだな

356:日本@名無史さん
22/02/15 23:50:13.82 .net
神宮寺って楠木の家人にいたよね

357:日本@名無史さん
22/02/16 05:09:47.41 .net
書くまでもないけども、
常陸国は、
神界元帥、剣神鹿島大神のお膝元だからね。
善人悪人男女含めて、
勝ち気で強い人多かった。

358:日本@名無史さん
22/02/16 05:12:29.09 .net
福島県いわき市平は、恐らく平家の牙城だろうか。
何故小名浜原発がやられたかは、知らないが、とかげの尻尾切りか、
平なんて地名、おかしいよ。

359:日本@名無史さん
22/02/19 07:00:04.51 .net
まあね。

360:日本@名無史さん
22/02/20 02:12:18.04 .net
>>357
まさに幕末内ゲバのメッカ水戸藩だな

361:日本@名無史さん
22/02/20 02:18:49.53 .net
戦国江戸初期、
常陸国はどうだったんだろうな・・・

362:日本@名無史さん
22/02/20 02:21:03.76 .net
磐高磐女にあらずんば、人にあらず
此れ意味深いよ
色んな意味に捉えられる


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