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一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できる。
「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」
このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されている。
従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのである。
日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はない。
よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説のある学説に値する。
筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土している。
潤地頭給遺跡、唐津中原遺跡、東小田峯遺跡の硯(BC100)
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊レキ 延光四年五」(125年)、
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数(1~2世紀)
これらの客観的歴史事実を鑑みれば、いかに半島起源説が民族願望に根ざした愚説であるかが充分に理解できるはずだ。