21/02/27 18:04:07.18 .net
>>53-72
前スレ消化してから書き込もぜ
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾捌
スレリンク(history板)
74:日本@名無史さん
21/02/27 21:02:30.44 .net
しらぬいのコピペで埋まる旧スレかな
75:日本@名無史さん
21/02/27 21:36:55.79 .net
>安本美典氏は『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』と推計しています。
魏志倭人伝や、魏略や、廣志の、「上陸したら東南へ行け」を無視しての99.9%なんだろう、、。
つまり、中国王朝の三大史書を無視してよいのなら、全国どんな所でも99.9%の確率になるよ。
76:日本@名無史さん
21/02/27 21:40:28.05 .net
福岡県の北西部に上陸するのだから、南東に進んでも福岡県だよ。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里。
そのうち九州北岸までで一万里。
残り二千里しかないが、これは対馬海峡の三千里より短いのである。
77:日本@名無史さん
21/02/27 21:51:46.34 .net
福岡県の北西部ってどのあたりだい?
それで、そこから東南500里はどこになるか、よーく地図を眺めてから言ってくれよな。
78:日本@名無史さん
21/02/27 23:52:53.15 .net
.
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
.
79:日本@名無史さん
21/02/28 01:35:19.28 .net
>>78
在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
URLリンク(library.knou.ac)<)
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。
80:日本@名無史さん
21/02/28 18:11:20.08 .net
諸説ありといえど、殆どが『邪馬台国は99.9%の確率で、我が故郷の○○県○○地方にあった』と論じています。
しかしそれは、魏志倭人伝の「東南」や、魏略の「東南」や、廣志の「東南」を、
つまり、「倭国に上陸したら、東南へ進め」という共通の指示を無視しての99.9%なのではないでしょうか。
中国王朝の三大史書が語る「東南へ進め・・」を無視してよいのであれば、
「邪馬台国女王之都」の所在地は、日本全国どんな所でも99.9%の確率になってしまいます。
三太史書に共通する明確な行程記述は、何にもまして尊重さるべきでありましょう。
81:日本@名無史さん
21/02/28 20:07:04.75 .net
.
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
.
82:日本@名無史さん
21/02/28 22:04:37.84 .net
>>81
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) /
83:日本@名無史さん
21/03/01 20:42:25.49 .net
参問 倭地 絶在 海中 洲㠀之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
つまり、邪馬台国には、壱岐、対馬は含まれない。
そのうえで、
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
の行程で、参問した邪馬台国の7万戸は、九州上陸後、南北2千里の中の
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
の 21国であって、これは、5千里で周旋可
22 自郡 至 女王國(240年梯儁の行程で女王宮までは) 萬二千餘里
で、あった。
84:日本@名無史さん
21/03/01 22:26:59.54 .net
もう俺が結論づけてるはずだぞ、前スレで
卑弥呼は九州、トヨは畿内って
投馬国は宮崎、邪馬台国は畿内だよ
ただし卑弥呼時代は北九州が女王国の本拠地
トヨ時代を前後に畿内へ遷都
85:日本@名無史さん
21/03/02 01:36:41.89 .net
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
O
ZZZzzz 。 という民族願望の夢を見てるニダ
_∧_∧_____,,
/( <`∀´ > (() /
/ ⊂ つ ./
/ ̄⌒(ヘヽ (へ) /
/ ※※\ ⌒⌒く
(_____(___,,ノ
86:日本@名無史さん
21/03/02 14:24:11.39 .net
倭人伝が説明しているのは
今 使 譯 所通 三十國
この使の説明に從って、 郡至倭であって、
魏時に知り得た倭の国は30国、
帯方郡から七千餘里で其北岸の狗邪韓國、島で対馬、壱岐、
経過地名で末盧國、伊都國、不彌國、奴国(重複)
邪馬台国卑弥呼女王所属、参問の21国、
これらは、九州島の中で、周旋可 五千餘里
馬韓弁辰韓のような国体の国で、邪馬壹國、狗奴國
これらが30国。
女王国の東の倭種や、使が行っていない、それ以遠は
自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
であって、倭人伝では、説明し得ていない。
また、247年以降のトヨが機内に嫁に行ったか?
なんて妄想話は魏史国交断絶後の事。
87:日本@名無史さん
21/03/02 14:57:54.17 .net
↑
邪馬台国ボーイング説w
88:日本@名無史さん
21/03/02 15:22:56.81 .net
壹與(イチヨ)や臺與(ダイヨ)じゃなくてトヨってどこに登場するん?
89:日本@名無史さん
21/03/02 15:32:12.38 .net
中国三大史書の、魏志倭人伝、魏略、廣志は、
「倭国に上陸したら東南へ進め」と記している。
どう見ても、吉野ヶ里を通過することになる・・。
90:日本@名無史さん
21/03/02 16:35:07.63 .net
「倭国に上陸したら東南へ進め」
じゃあなくて、
末盧國で上陸した場合は、東南 陸行 五百里 到 伊都國
考古学で伊都国が、今宿から吉武高木を想定するなら末盧國は糸島半島北西岸
末盧國に上陸したのは、247年の張政で、
遣 倭 載斯烏越 等 詣郡 説相攻撃状 の船での 帰国便便乗。
この時の伊都には、一大卒が有り、丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐
で、張政は、帰国便が有る迄、検閲の上、伊都に常駐させられている。
240年の梯儁は、皇帝の使者としての来訪であり、魏の軍船で
奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物
女王宮まで出向き、
南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
の 萬二千餘里を行軍し、女王に奉書、拝仮、詔賜している。
梯儁は、伊都国や一大卒の存在は確認していないし、皇帝の軍船は、
風向きで呼子や糸島を経由したとしても、当然、直近の博多湾で上陸する。
末盧國の松浦説は大和同様のミスリードだ。
91:日本@名無史さん
21/03/02 19:25:52.18 .net
>>88
細かいことは気にするな
それを言ったら卑弥呼もヒミコ?ってなる
92:日本@名無史さん
21/03/02 19:40:37.89 .net
724 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 23:35:24.72 ID:GVm4dqYs0
どこが上陸地だったかは揺るぎがないな
263 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 13:19:04.38 ID:GVm4dqYs0
五畿七道
URLリンク(i.imgur.com)
これを見ると上陸地がわかる?w
参考、国交省マップ
URLリンク(i.imgur.com)
93:日本@名無史さん
21/03/02 19:48:28.55 .net
300 日本@名無史さん 2021/02/08(月) 17:26:11.78
洛陽→大月氏の首都だった現ペシャワール 約5000キロ
URLリンク(i.imgur.com)
同じくらいの距離である邪馬台国
洛陽→邪馬台国 日本に上陸して約2000キロ
URLリンク(i.imgur.com)
そこから畿内に向かっても5000キロも無い
実質、大月氏の半分の距離である
台湾を投馬国に比定すれば
邪馬台国フィリピン説の爆誕になる
304 日本@名無史さん 2021/02/08(月) 17:36:39.71
畿内だと、洛陽から日本海ルート経由で
約3000キロってとこか
URLリンク(i.imgur.com)
大月氏の約5000キロには程遠い事実
94:日本@名無史さん
21/03/02 19:55:08.05 .net
当時の中国は、地球平面説
太陽が昇る方角は「東」と決まっていた
どの季節月日であろうと
977 日本@名無史さん 2020/12/08(火) 15:19:03.91
45度、東へ傾けるだけですべて解決する
URLリンク(i.imgur.com)
行程の方角も一致
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
95:日本@名無史さん
21/03/02 20:01:26.86 .net
409 日本@名無史さん 2021/01/21(木) 20:38:31.32
そもそも地軸で洛陽中心だと
↓こうなるんだよw
URLリンク(i.imgur.com)
しかも当時の中華は地球平面説なので
地上は平面、天はアンダーザドームな半球w
太陽の出る方角は「常に東」と言う認識だ
またまた俺は謎が解けてしまったw
96:日本@名無史さん
21/03/02 20:03:07.15 .net
574 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/30(月) 07:50:24.56 ID:h/pX76tQ0
末盧国の上陸地を中心に
橙円=半径1500里範囲
赤円=半径2000里範囲
URLリンク(i.imgur.com)
卑弥呼が居たのは八女
(卑弥弓呼とは名が似てるので近親者同族。磐井)
壹與が居たのは遷都して日田
(豊国。鉄鏡。日田から四方の川へ流れ出る瀬織津姫)
と俺予想
97:日本@名無史さん
21/03/02 20:12:46.03 .net
.
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)
.
98:日本@名無史さん
21/03/02 20:25:23.90 .net
135 日本@名無史さん 2020/12/31(木) 09:41:51.06
卑弥呼の墓などそもそもあるわけないだろw
卑弥呼は突然死んだんだよ
後継者候補も言わずに
死んだあとにバカデカイあの箸墓つくんの?w
何年かかんだよw
質素な墓に決まってるだろ、あっても
常識的に考えたらわかるだろw
↓だいいち
887 日本@名無史さん 2020/12/21(月) 23:02:55.73
曹操も曹丕も司馬懿すらも「不封不樹」の薄葬
卑弥呼の墓が到底デカイとは考えにくい
99:日本@名無史さん
21/03/02 20:25:38.19 .net
↓さらに
190 日本@名無史さん 2020/12/31(木) 14:48:21.79
徑とは、みち/小道/近道などの意味をもつ漢字。 10画の画数をもち、彳部に分類される。 日本では大学もしくは一般レベルの漢字とされる。
三国志全体を読んでも徑は徑路的な意味合いw
円のケイで有らずんばw
>>168 ←このレスの意味が近い
>参考
渙曰「那可爾」曄卽入室殺侍者、徑出拜墓。
168 日本@名無史さん 2020/12/31(木) 13:30:55.96
>>100
大いに塚を作る。参道100歩に、殉じて葬られるは、奴隷100人。
の方が良いよ。
100:日本@名無史さん
21/03/02 23:09:43.26 .net
>>87
エアバス説かもしれんぞ(笑)
101:日本@名無史さん
21/03/03 07:55:06.03 .net
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
URLリンク(i.imgur.com)
102:日本@名無史さん
21/03/03 08:13:18.73 .net
中国三大史書の、魏志、魏略、廣志が云う「倭国に上陸したら東南へ・・」の通りに進めば、
邪馬台国へのメインルートは、必ずや吉野ヶ里を通る。そしてこの吉野ヶ里(不彌国)の南1400里(105㎞)に女王の所都はあった。
103:日本@名無史さん
21/03/03 19:50:49.73 .net
>>96
帯方郡から1万2千里とみると、松浦から2千里。直線だと熊本から北九州あたり
までですね。
途中で曲がっていたら、もっと近いところですよね。
魏志倭人伝のこの記事を書いた人は嬉野あたりまで来て、その先には行っていない
と思います。
(理由)
実際に邪馬壹国まで行ったなら、日数ではなく里数で記述するはず。
”その山に丹あり”として、実際に丹があるのを確認しているように書いている。佐賀
県では嬉野から鹿島の塩田川沿いに丹生神社が点在し、このあたりで丹が産出していた
ので嬉野あたりまでは確かに行った。
有明海は干満の差が激しく、引き潮のときはずっと沖まで干潟になるなるので海に
潜らなくても獲物が手に入る。大魚をよけるために入れ墨などしなくてもいい。
だから、佐賀平野に入っていない。
ちなみに、松浦(名護屋あたり)から嬉野→鳥栖→大宰府で大体150kmになります。
104:日本@名無史さん
21/03/03 20:32:29.95 .net
.
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)
.
105:日本@名無史さん
21/03/03 20:35:07.33 .net
.
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
URLリンク(inoues.net)
.
106:日本@名無史さん
21/03/03 23:55:41.48 .net
>>104-105
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
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/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
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(___) /
107:日本@名無史さん
21/03/05 00:21:26.78 .net
>>61
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
108:日本@名無史さん
21/03/05 00:21:55.54 .net
>>62
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
109:日本@名無史さん
21/03/05 00:22:17.54 .net
>>63
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
URLリンク(i.imgur.com)
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> URLリンク(i.imgur.com)
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
110:日本@名無史さん
21/03/05 00:22:47.61 .net
>>64
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
111:日本@名無史さん
21/03/05 00:23:14.11 .net
>>65
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw
112:日本@名無史さん
21/03/05 00:23:39.24 .net
>>66
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
113:日本@名無史さん
21/03/05 00:24:34.13 .net
結局、今日も>>19の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw
114:日本@名無史さん
21/03/05 00:31:04.70 .net
>>75
魏の使者は磁石(指南魚)を使って方位を測ったはずだから、磁北基準での東南だよ
当時の磁北は地軸から約15°ほど西にずれていた
このため磁石で方位を測ると真北(地軸方向)は東北東15°となり、方位は東寄りにずれが生じる
魏の使者は磁石で方位を測ったため、方位の表記は全体的に東寄りにずれている
これを補正すれば上陸地の呼子から東南で方位は合致する
古代の方位測定法
URLリンク(www.nabunken.go.jp)
>いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
>奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10~15度も西へずれていました。
>したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>
>ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
>午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
>この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
この周礼の方法は高精度だが午前と午後の2回、同地点での測定を行わなければならないので、魏の使者のように旅をして移動している人間には使用できない
都市計画などには良いが、移動する人間は磁石を使うしかなかった
当時まだ羅針盤は無いが、指南魚という永久磁石を用いて方位を知る道具が既に存在している
ちなみにこの15°補正により別の方位問題も解決する
会稽東治(江蘇省蘇州市)からの方位に15°の補正を加えると筑後山門はほぼ真東となる
URLリンク(i.imgur.com)
115:日本@名無史さん
21/03/05 03:31:48.49 .net
>>107
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
URLリンク(i.imgur.com)
116:日本@名無史さん
21/03/05 03:32:01.19 .net
>>108
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)
117:日本@名無史さん
21/03/05 03:32:14.75 .net
>>109
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
~糸島朝鮮人特有の三種の珍技~
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
URLリンク(i.imgur.com)
118:日本@名無史さん
21/03/05 03:32:28.59 .net
>>110
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)
119:日本@名無史さん
21/03/05 03:32:54.30 .net
>>111
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
~仲哀天皇八年一月~
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ~
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
~現代~
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
現実はコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
120:日本@名無史さん
21/03/05 03:33:10.98 .net
>>112
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
URLリンク(i.imgur.com)
121:日本@名無史さん
21/03/05 03:33:32.70 .net
>>113
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼
122:日本@名無史さん
21/03/05 03:33:50.14 .net
>>114
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている
123:日本@名無史さん
21/03/05 03:34:07.47 .net
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
__
/ ../)
三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ~
__ 三三)/ __
/ ../) ウリたちが安曇ニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/)
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
∥ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/ ../) __ 受け入れられないニダ!
三三)/) / ../)
三三)/) 三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/ 三三)/ ⊂⌒< `∀´>
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒⌒
124:日本@名無史さん
21/03/05 03:34:57.40 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>107-114のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>107-114のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ~!確定ニダ~!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
URLリンク(i.imgur.com)
125:日本@名無史さん
21/03/05 03:35:10.83 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
スレリンク(history板)
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
スレリンク(sf板)
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
URLリンク(i.imgur.com)
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
126:日本@名無史さん
21/03/05 03:35:22.17 .net
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww
127:日本@名無史さん
21/03/05 14:54:28.26 .net
伊都は240年の邪馬台国21王国には無い。
つまり、伊都国には漢代など古くからや卑弥呼を共立した世襲王は無い。
一大卒(進駐軍)が置かれた21国いずれか内の地名、または、軍の租借地名。
奴国南東至100里であるから卑弥呼所属の主要国である2万戸の奴国内でもない。
奴国は糸島以東、広域で福岡平野を想定可能であるから
伊都は、この西麓、今宿~吉武高木間の峠付近、東面の山城が妥当。
北西500里末盧國を糸島半島北西岸以外を想定するなら
倭人伝の文献価値を、畿内説同様はじめから無視している。
128:日本@名無史さん
21/03/05 17:14:35.62 .net
>>103
クシャーナ朝の首都まで約5000キロだから
本来、邪馬台国(12000里)は
そのクシャーナ朝(11370里)より
ちょっと遠くにないと里数的におかしいんだよね
ちなみに
魏長里435m×11370里=約5000キロ
でクシャーナ朝までのキロ数は合ってる
そもそもの12000里じたい(周旋5000里じたい)が
短里であったと考えるべきだし
投馬国と邪馬台国も口伝であることは事実だし
陳寿は魏長里と言う感覚で参問倭地したが
実際は短里であり、九州内に収まる位置に邪馬台国があったことは明白
129:日本@名無史さん
21/03/05 21:06:50.71 .net
長里と短里の問題ですが、
中国の高級役人が自分で歩くことはないでしょう。長里は馬車、短里は輿なのでは
ないかと思うのですが、どうでしょうか?
130:日本@名無史さん
21/03/06 00:57:03.07 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
URLリンク(www.yoshinogari.jp)
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろよ
131:日本@名無史さん
21/03/06 00:57:39.87 .net
>>127
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
132:日本@名無史さん
21/03/06 14:00:06.89 .net
>>130
猿でもわかることは
12000里のウチ
その不弥国から、残り何里?
133:日本@名無史さん
21/03/07 15:21:16.74 .net
「水行十日陸行一月」の距離も解決済み
三国志時代、使者は1日50里ほど歩いた
50里は、箱根駅伝のヒト区間=20キロちょい、いわゆる長里だ
陸行一月 = 30日×50里 = 1500里
自郡至女王國 萬二千餘里= 水行10000里+陸行1500里+余里
(本来は11500里だが、大月氏よりちょい長めの萬二千餘里に)
帯方郡から
狗邪韓国←7000里 水7日
對海国 ←1000里 水1日
一大国 ←1000里 水1日
末盧国 ←1000里 水1日
計 10000里 ◆水行十日
伊都国 ← 500里 歩10日
奴国 ← 100里 歩2日
不彌国 ← 100里 歩2日
残り 800里 歩16日
計 1500里 ◆陸行一月
よく残りの距離は1300里と言われるが、それだと陸行40日になってしまう
陸行一月その逆算から、残り800里と計算が出る(ただし、放射説であれば残り里は増える)
つまり、「水行十日陸行一月」は解釈としては合ってる
陳寿は長里と言う認識で書いたが、実際の距離は短里(約75メートル)だったと言うだけだ
参考 短里 約1500里 = 約112・5キロ
URLリンク(i.imgur.com)
134:日本@名無史さん
21/03/07 19:20:07.46 .net
裴秀の道里は1里が76.5m程度の短里で周代に倣ったものなのだろう
135:日本@名無史さん
21/03/07 19:50:10.23 .net
中国三大史書の、魏志、魏略、廣志、が云う「倭国に上陸したら東南へ・・」の通り進めば、
邪馬台国へのメインルートは、必ず佐賀平野の吉野ヶ里を通る。
そしてこの吉野ヶ里(=不彌国)から南へ1400里(約105㎞)、九州島のど真ん中に位置する阿蘇地方に、共立女王卑弥呼の所都はあった。
136:日本@名無史さん
21/03/07 20:37:01.41 .net
軍から万里の、末盧國は、女王国内にある。
末盧國は、邪馬台国女王卑弥呼共立21王国には無い。 王は無い。
対馬、壱岐は、
邪馬台国女王卑弥呼共立21王国には無い。
女王国は
参問 倭地 絶在 海中 洲㠀之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
の 21国である。
其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
邪馬台国は、21王国が共立した卑弥呼の国である。
女王の処都は、郡から12000里であり、
邪馬台国入国までは、1万里である。
九州上陸=女王国入国である。
伊都国は、女王国内にある。
邪馬台国共立21王国には無い。 王は無い。
一大率 檢察 諸國 畏憚之 常治 伊都國 於國中有 如刺史 が、ある。
倭人伝の女王国は、倭人伝247年当時に畿内王朝と統合した、筑紫だろ?
137:日本@名無史さん
21/03/07 20:56:41.06 .net
>>135 の続き
つまり、佐賀~熊本平野を舞台に繰り広げられた、生々しい倭人伝物語を第1幕とすれば、
次の第2幕の日本神話では、同じ面々が、天上の神々に名前と姿をかえて登場し、高天原・高千穂劇場で、うやうやしく神の舞を舞って見せたというわけだ。
何も難しく考えることはない、皇祖は、共立されて九州島を治めた親魏倭王だった・・。ただそれだけのこと。
138:日本@名無史さん
21/03/13 07:26:56.12 .net
生姜
139:日本@名無史さん
21/03/13 08:46:34.21 .net
崑崙元初
140:日本@名無史さん
21/03/13 14:32:37.95 .net
>>116
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
141:日本@名無史さん
21/03/13 14:33:09.57 .net
>>118
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
142:日本@名無史さん
21/03/13 14:33:47.72 .net
>>119
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
URLリンク(i.imgur.com)
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> URLリンク(i.imgur.com)
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
143:日本@名無史さん
21/03/13 14:34:14.52 .net
>>120
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
144:日本@名無史さん
21/03/13 14:35:28.03 .net
>>121
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw
145:日本@名無史さん
21/03/13 14:35:49.07 .net
>>122
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
146:日本@名無史さん
21/03/13 14:36:18.99 .net
結局、今日も>>19の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw
147:日本@名無史さん
21/03/13 14:39:30.78 .net
>>127
>伊都は240年の邪馬台国21王国には無い。
名前だけ列挙されてる国々は遠絶で詳細が分からなかった国だぞ
伊都国は実際に訪れて詳細が分かってるんだからそこに無いのは当たり前
君はまず魏志倭人伝をきちんと読みなさい
話はそれからだ
148:日本@名無史さん
21/03/13 14:41:14.07 .net
>>130
>>2-3でとっくに論破されてるぞw
テンプレで論破されてることを何回繰り返す気だこの馬鹿w
149:日本@名無史さん
21/03/13 14:41:34.18 .net
>>131
>>140
150:日本@名無史さん
21/03/13 14:43:25.04 .net
>>133
>三国志時代、使者は1日50里ほど歩いた
ソースは?
まあそれ以前に水行陸行の解釈が間違ってて話にならないわけだが
>>2を100回読んで出直しなさい
151:日本@名無史さん
21/03/13 14:45:54.92 .net
>>137
そこには同意するけど、都を阿蘇に想定するのは>>4の考古学的事実に反するから難しいと思うな
やはり>>5のように筑後山門と考えるのが妥当な線だろう
152:日本@名無史さん
21/03/13 15:26:30.64 .net
>>150
ソースは三国志時代に精通している専門家の話だが?
水行陸行は帯方郡からの日程と考えのが妥当
仮に帯方郡から狗邪韓国までの
半島内での水行経由と陸行経由となった場合
投馬国の日程の説明がおかしくなる
153:日本@名無史さん
21/03/13 15:28:28.42 .net
>>152
>ソースは三国志時代に精通している専門家の話だが?
そんな架空の人物はソースになりませんw
ちゃんと人名といつどこで何と発言したかが分からないものはソースたり得ない
>ソースは三国志時代に精通している専門家の話だが?
根拠は何?
154:日本@名無史さん
21/03/13 15:31:41.96 .net
この写真の人だけど?
あとはググレ
URLリンク(i.imgur.com)
155:日本@名無史さん
21/03/13 15:32:57.62 .net
>>154
つまりソースはありません、と
ソースってのは主張する側が自分で用意するものだぞw
156:日本@名無史さん
21/03/13 15:33:57.98 .net
このYouTube動画で語ってんだよチミ
あとはググレ
157:日本@名無史さん
21/03/13 15:37:39.57 .net
天才的な俺の邪馬台国研究
凄いよね、たかだか半年でここまで読めてしまってる
水行陸行ですら解決
まさに天才の俺w
158:日本@名無史さん
21/03/13 15:48:10.39 .net
とっくに伊都国で決着しているよ。
三種の神器を保有する倭国女王の墓が糸島平野で発見されたときに決着していたはず。
認めたくないと駄々をこねるキナイコシみたいなのが学会にたくさん寄生しているだけ。
159:日本@名無史さん
21/03/13 16:07:04.68 .net
>>151
>>137 の前提として、>>135 が有る。
つまり、中国三大史書の、魏志、魏略、廣志、が云う「倭国に上陸したら東南へ・・」の通り進めば、
邪馬台国へのメインルートは、必ず佐賀平野の吉野ヶ里を通る。するとその後の方角里数からして、筑後山門では近過ぎる。
なお、九州中部の阿蘇~~大分間の鉄鏃の集中出土だが、この調査報告書の出典を見たことがない。
此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
160:日本@名無史さん
21/03/13 19:12:27.59 .net
倭人伝を、ちゃんと読んでないだろ?
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
これは、帯方郡から、南に四千里、東に三千里だよ。
04 始度 一海 千餘里 至 對海國
これは、半島南岸東三千里から渡海で、南北市糴だし、対馬以外無いから南のはず。
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國
これは、対馬は南北400里の西岸しか見てないとして、
若干南東向きだが南北市糴だし、壱岐しかない。
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
末盧國は壱岐の南とは書いてない。
距離的には松浦半島よりは、糸島半島が近い。
考古学データで、伊都は今宿~吉武高木が有力。
伊都から、北西に5百里必要なら、糸島半島北岸が末盧の港というのが妥当。
まあ、全行程で、女王の処都は、帯方郡から南で里程は一万二千里。
これが、水行三十日で女王国入国からプラス陸行一月で女王の王宮だったということ。
末盧國の松浦半島説は、大和=邪馬台並で、完全にミスリード。
161:日本@名無史さん
21/03/13 19:58:02.50 .net
>>160
>若干南東向きだが南北市糴だし、壱岐しかない。
>又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
「又 渡 一海 千餘里」は、その前の「南北市糴」を受けてのことだ。
地元民でさえ南北しか行き来しないかのごとく書いているのは、次の航路も南だという暗示。陳寿は「又、言わせるな」と言っているのだ。、
162:日本@名無史さん
21/03/13 20:10:21.57 .net
.
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
163:日本@名無史さん
21/03/14 05:18:27.24 .net
>>140
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)
164:日本@名無史さん
21/03/14 05:19:05.79 .net
>>141
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)
165:日本@名無史さん
21/03/14 05:22:38.34 .net
>>142
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、
民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてる
んだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の
妄想は不要です!
~仲哀天皇八年一月~
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ~
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
~現代~
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
現実はコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
166:日本@名無史さん
21/03/14 05:23:22.34 .net
>>143
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
URLリンク(i.imgur.com)
167:日本@名無史さん
21/03/14 05:24:04.03 .net
>>144
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼
168:日本@名無史さん
21/03/14 05:24:42.99 .net
>>145
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている
169:日本@名無史さん
21/03/14 05:26:02.20 .net
>>146
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww
170:日本@名無史さん
21/03/14 05:29:42.79 .net
>>147
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
URLリンク(i.imgur.com)
171:日本@名無史さん
21/03/14 05:30:47.69 .net
>>148-149
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
~糸島朝鮮人特有の三種の珍技~
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
URLリンク(i.imgur.com)
172:日本@名無史さん
21/03/14 05:32:09.13 .net
>>150
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)
173:日本@名無史さん
21/03/14 12:45:16.51 .net
>>151
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼
174:日本@名無史さん
21/03/14 12:45:59.52 .net
>>153
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
__
/ ../)
三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ~
__ 三三)/ __
/ ../) ウリたちが安曇ニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/)
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
∥ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/ ../) __ 受け入れられないニダ!
三三)/) / ../)
三三)/) 三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/ 三三)/ ⊂⌒< `∀´>
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒⌒
175:日本@名無史さん
21/03/14 12:47:33.88 .net
>>155
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>140-151,153,155のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>140-151,153,155のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ~!確定ニダ~!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
URLリンク(i.imgur.com)
176:日本@名無史さん
21/03/14 12:47:55.95 .net
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww
177:日本@名無史さん
21/03/16 19:39:09.77 .net
>>170
>【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は
前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。
?何を言っているのか、全く判らない。
東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
伊都の説明が、
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐
伊都国には、女王に属するすべて21国の王は皆、往来していた。
247年の郡使政帳は、伊都国(の一大卒)に常駐させられた。
だから、到、伊都までで、
檄告喩 壹與と齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
で、この247年の張政の行程が終わってる。
と、書いてあります。
178:日本@名無史さん
21/03/16 19:42:21.50 .net
>>173
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ
179:日本@名無史さん
21/03/16 19:48:19.89 .net
↑これって、広鼻ブラックレイシストの
歴史板最悪アラシのチョン認定の土器厨、京大キッド先生なのかな?
改行は、それっぽいw
180:日本@名無史さん
21/03/16 20:09:52.82 .net
.
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
.
181:日本@名無史さん
21/03/16 21:17:59.94 .net
>>173
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ
182:日本@名無史さん
21/03/16 21:45:16.21 .net
>>178,180-181の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
URLリンク(library.knou.ac)<)
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。
183:日本@名無史さん
21/03/16 23:50:25.62 .net
>>156
imgurしか貼られてないわけだがw
つまりソースはありません、と
184:日本@名無史さん
21/03/16 23:57:12.76 .net
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう
>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう
と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
URLリンク(pds.exblog.jp)
185:日本@名無史さん
21/03/16 23:57:47.22 .net
>>163
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
186:日本@名無史さん
21/03/16 23:58:08.58 .net
>>164
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
187:日本@名無史さん
21/03/16 23:58:27.74 .net
>>165
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
URLリンク(i.imgur.com)
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> URLリンク(i.imgur.com)
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
188:日本@名無史さん
21/03/16 23:58:52.10 .net
>>166
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
189:日本@名無史さん
21/03/16 23:59:14.47 .net
>>167
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw
190:日本@名無史さん
21/03/16 23:59:28.70 .net
>>168
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
191:日本@名無史さん
21/03/17 00:00:23.51 .net
結局、今日も>>19の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw
192:日本@名無史さん
21/03/17 00:01:44.85 .net
>>185
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
193:日本@名無史さん
21/03/17 00:02:23.39 .net
>>186
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
194:日本@名無史さん
21/03/17 00:03:05.09 .net
>>187糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、
民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
~仲哀天皇八年一月~
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ~
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
~現代~
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
現実はコチラ
URLリンク(i.imgur.com)