【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾玖at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾玖 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
21/02/23 23:24:15.78 .net
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
URLリンク(www.kanripo.org)
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
URLリンク(wenku.baidu.com)
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

3:日本@名無史さん
21/02/23 23:24:29.01 .net
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

4:日本@名無史さん
21/02/23 23:24:41.00 .net
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
URLリンク(i.imgur.com)
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

5:日本@名無史さん
21/02/23 23:24:55.57 .net
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう

6:日本@名無史さん
21/02/23 23:25:11.79 .net
キナイコシの発言には考古学的裏付けが全くありません、ただの嘘です
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)

7:日本@名無史さん
21/02/23 23:25:40.23 .net
570 :日本@名無史さん :2020/11/28(土) 01:54:13.64
>>550
そう考えたい気持ちも分からないではないけど、それだと魏志倭人伝を無視しすぎになってしまうと思う
伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう
では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
URLリンク(inoues.net)
博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区~南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう
春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる
奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう

8:日本@名無史さん
21/02/23 23:26:10.90 .net
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ
福岡、国内最古級の「すずり」か 糸島市の御床松原遺跡
URLリンク(www.tokyo-np.co.jp)
> 福岡県糸島市の御床松原遺跡で出土していた板状石製品は弥生時代中期前半(紀元前150年ごろ)で、国内最古級のすずりとみられることが分かったと
> 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が28日、九州考古学会総会で発表した。
> 柳田氏は御床松原遺跡の発掘報告書で「くわ」とされた石製品(長さ18・6センチ、幅6・8センチ、厚さ1・2センチ)を鑑定。
> 柳田氏が2017年に墨の付着跡などから完形品のすずりと発表した薬師ノ上遺跡(同県筑前町)の石製品(長さ15・3センチ、最大幅6・3センチ、厚さ0・7センチ)と同じ形状と分かり、
> 御床松原の石製品は製作途中のすずりと判断した。
キナイコシの発言には考古学的裏付けが全くありません、ただの嘘です

9:日本@名無史さん
21/02/23 23:26:46.13 .net
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ
298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ
URLリンク(www.hitachi-metals.co.jp)
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ

キナイコシの発言には考古学的裏付けが全くありません、ただの嘘です

10:日本@名無史さん
21/02/23 23:27:00.68 .net
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

11:日本@名無史さん
21/02/23 23:27:13.44 .net
対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄
URLリンク(genbu.net)
> 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』

12:日本@名無史さん
21/02/23 23:27:27.31 .net
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
URLリンク(i.imgur.com)
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> URLリンク(i.imgur.com)
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない

13:日本@名無史さん
21/02/23 23:27:42.68 .net
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
URLリンク(ja.wikipedia.org)
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)

包囲される奈良盆地の図
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

14:日本@名無史さん
21/02/23 23:28:11.78 .net
854 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/25(日) 16:41:20.86 ID:LE6hm1QV0
>>799>>832のように、九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない
九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する
その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期~終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より
弥生時代後期~終末期
URLリンク(i.imgur.com)
古墳時代前期
URLリンク(i.imgur.com)
弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している
破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末~4世紀初頭頃

15:日本@名無史さん
21/02/23 23:28:28.97 .net
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> URLリンク(inoues.net)
> URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ

16:日本@名無史さん
21/02/23 23:28:41.97 .net
淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡
弥生時代の海の勢力図
URLリンク(www.gondo.com)
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下

弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
URLリンク(www.infokkkna.com)
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
URLリンク(sun-tv.co.jp)
> 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ

17:日本@名無史さん
21/02/23 23:30:10.84 .net
136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70
そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)
> (iv)九州から本州への養蚕伝播―
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。
つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう

18:日本@名無史さん
21/02/23 23:32:37.38 .net
鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系
URLリンク(ja.wikipedia.org)
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)
URLリンク(www.genbu.net)
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。

古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ
URLリンク(miyagitabi.com)
<磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。

19:日本@名無史さん
21/02/23 23:33:30.18 .net
576 :日本@名無史さん :2021/01/23(土) 19:31:56.74
さて、どうやらこれに対する反論は無いようだな
では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう
URLリンク(i.imgur.com)

20:日本@名無史さん
21/02/23 23:37:35.97 .net
>>10-11関連
磯武良について貝原好古がどうのとデマを飛ばす奴がいるが、対馬の式内社に祀られているので福岡藩の貝原好古は全く関係ありません
それを言っているのはキナイコシと呼ばれる頭のおかしい人なので無視しましょう
彼はとっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードですから
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

21:日本@名無史さん
21/02/23 23:38:22.64 .net
キナイコシ君の得意技・声闘(ソント)とは

821 :日本@名無史さん :2020/11/18(水) 04:59:39.47
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
>  朝鮮半島には、声闘(ソント)とという朝鮮人の古くからの伝統があり、現在でも彼らのお家芸である
>
> 声闘を平たく説明するなら。声の大きさで相手の言論を封じること。
> 人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、 相手が何も言い返せなくなれば勝ち、という思考形態であり、そこには道理も真実もない。。
> 古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である
>
> 相手が論理的に反論しても、聞こえないか 聞こえないふりをして大きな声で意味不明な反論を威圧的に繰り返す。
> そして相手を加害者に仕立て上げ自分を被害者にする。自分に非があっても決して認めず、大声で反論を繰り返して相手が、疲れ呆れて黙り込んだら勝利宣言をする。
ビックリするくらいキナイコシ君の行動パターンそのままで笑う
キナイコシ君はチョンチョンうるさいけど彼自身の行動が一番朝鮮人的なんだなw
彼が朝鮮人を嫌うのは同族嫌悪でしかないわけだ

22:日本@名無史さん
21/02/24 00:04:49.88 .net
URLリンク(konspekta.net)
ヒゲタイプ1・2が弥生人 3は半チョッパリ 4・5が縄文人

23:日本@名無史さん
21/02/24 00:06:07.50 .net
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

.

24:日本@名無史さん
21/02/24 00:11:17.32 .net
.


7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑

URLリンク(inoues.net)

.

25:日本@名無史さん
21/02/24 00:43:13.08 .net
前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
伊都国王=海人族だと言い張る猿はコチラ↓に移動
伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
スレリンク(history板)
伊都国=邪馬台国だと言い張る無能はコチラ↓に移動
女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
スレリンク(history板)
or
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
スレリンク(history板)
倭国=阿波だと言い張る阿呆はコチラ↓に移動
「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
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日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
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26:日本@名無史さん
21/02/24 00:43:29.33 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
URLリンク(i.imgur.com)

27:日本@名無史さん
21/02/24 00:43:43.27 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)

28:日本@名無史さん
21/02/24 00:43:56.66 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
~糸島朝鮮人特有の三種の珍技~
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
URLリンク(i.imgur.com)

29:日本@名無史さん
21/02/24 00:44:09.75 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)

30:日本@名無史さん
21/02/24 00:44:24.68 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
~仲哀天皇八年一月~
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ~
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!
~現代~
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
現実はコチラ
URLリンク(i.imgur.com)

31:日本@名無史さん
21/02/24 00:44:39.24 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました
URLリンク(i.imgur.com)

32:日本@名無史さん
21/02/24 00:44:54.27 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ~
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ∥ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

33:日本@名無史さん
21/02/24 00:45:07.04 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼

34:日本@名無史さん
21/02/24 00:45:21.48 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている

35:日本@名無史さん
21/02/24 00:47:01.56 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>1-22のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>1-22のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ~!確定ニダ~!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
URLリンク(i.imgur.com)

36:日本@名無史さん
21/02/24 00:47:35.22 .net
>>1-22
結局、今日もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
しつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

37:日本@名無史さん
21/02/24 00:47:58.80 .net
>>23-24
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

38:日本@名無史さん
21/02/24 00:48:17.77 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
スレリンク(history板)
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
スレリンク(sf板)
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
URLリンク(i.imgur.com)
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

39:日本@名無史さん
21/02/24 00:49:49.61 .net
当スレのテンプレは>>25-38となります。
>>1-22は糸島朝鮮人のお里自慢と願望から派生した荒唐無稽なトンスルファンタジーですのでご注意ください。

40:日本@名無史さん
21/02/25 18:39:46.94 .net
考古学はわきにおいて、魏志倭人伝を正しく読むとすると、邪馬壹國は大宰府にあった
としてほとんど矛盾はありません。
今まで幾多の人が惑わされてきたのは、「邪」を「や」と読んできたことにあるのです。
漢字はその構成上から<象形><指事><会意>そして<形声>の4種の原理によって
成り立っています。邪は牙と邑の字から作られた形声文字で、文字の意味を表す邑
(意符)と発音を表す牙(音符)とが結合してできています。形声文字で牙を音符と
する漢字を見ると、牙・雅・訝・芽・呀は漢音で(が)、蚜・谺は漢音で(か)と読んでいます。
邪を漢字の原則に従って読むと、(が)または(か)と読むことになります。日本の地名
では濁音が先頭に来ることは少ないですから、邪は(か)と読むのです。
<途中、「馬」と「壹」は省略しますけど>
「邪馬壹」は「かまど」と読むと考えることができます。「かまど」というと大宰府の
守護神である竈門神社となるのです。

41:日本@名無史さん
21/02/25 20:25:25.71 .net
.

日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》

クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

42:日本@名無史さん
21/02/25 21:01:39.53 .net
40の続き
安本美典氏は『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』で、魏志倭人伝に登場する鉄、絹
そのほかの3世紀の出土状況から邪馬台国は福岡県に存在したと推計しています。
また、井沢元彦氏は、『逆説の日本史1』で「ヒミコという女性の日本宗教史に占める
大きさというものを考えると、日本の宗教的な伝統を考えると」、「何らかの形で
「宗教的聖地」であり、「女神」が祀られているところでなければ邪馬台国の候補地とは
なりえないと思う。」としています。
では、福岡県で女神を祀る最も位階の高い神社とはどこかというと、それは、大宰府の
守護神とされる竈門神社なのです。

43:日本@名無史さん
21/02/26 01:54:49.35 .net
名神大社である宗像大社や箱崎宮は無視ですかそうですか。

44:日本@名無史さん
21/02/26 02:58:11.24 .net
前スレ消化してから書き込もぜ
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾捌
スレリンク(history板)

45:日本@名無史さん
21/02/26 08:34:27.15 .net
>>43
魏志倭人伝や安本さんや井沢さんの考えと、邪馬壹国が大宰府にあったという仮説との
間に問題がないということを言っているのですが。

46:日本@名無史さん
21/02/26 09:45:34.67 .net
倭人伝や魏略や廣志の「上陸したら東南へ行け」を無視しての99.9%なんだろうな、、。
つまり中国の史書を無視するんなら、全国どんな所でも99.9%の確率になる。

47:日本@名無史さん
21/02/26 10:09:29.26 .net
>>46
前スレ消化してから書き込もぜ
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾捌
スレリンク(history板)

48:日本@名無史さん
21/02/26 10:09:39.63 .net
前スレ消化してから書き込もぜ
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾捌
スレリンク(history板)

49:日本@名無史さん
21/02/26 13:50:41.19 .net
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

50:日本@名無史さん
21/02/26 14:56:34.19 .net
>>49
前スレ消化してから書き込もぜ
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾捌
スレリンク(history板)

51:日本@名無史さん
21/02/26 16:57:11.19 .net
>>45
「最も位階が高い」が根拠だとするなら、事実誤認が根拠になってるじゃん。

52:日本@名無史さん
21/02/27 11:12:23.01 .net
>>51
前スレ消化してから書き込もぜ
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾捌
スレリンク(history板)

53:日本@名無史さん
21/02/27 15:11:54.02 .net
>>27
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

54:日本@名無史さん
21/02/27 15:12:32.55 .net
>>29
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

55:日本@名無史さん
21/02/27 15:13:08.40 .net
>>30
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
URLリンク(i.imgur.com)
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> URLリンク(i.imgur.com)
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない

56:日本@名無史さん
21/02/27 15:13:28.90 .net
>>31
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

57:日本@名無史さん
21/02/27 15:13:50.91 .net
>>33
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

58:日本@名無史さん
21/02/27 15:14:41.25 .net
>>34
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

59:日本@名無史さん
21/02/27 15:15:11.44 .net
>>35
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルはこれ
4 :日本@名無史さん :2020/12/02(水) 02:16:27.08
キナイコシ君の得意技・声闘(ソント)とは

821 :日本@名無史さん :2020/11/18(水) 04:59:39.47
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
>  朝鮮半島には、声闘(ソント)とという朝鮮人の古くからの伝統があり、現在でも彼らのお家芸である
>
> 声闘を平たく説明するなら。声の大きさで相手の言論を封じること。
> 人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、 相手が何も言い返せなくなれば勝ち、という思考形態であり、そこには道理も真実もない。。
> 古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である
>
> 相手が論理的に反論しても、聞こえないか 聞こえないふりをして大きな声で意味不明な反論を威圧的に繰り返す。
> そして相手を加害者に仕立て上げ自分を被害者にする。自分に非があっても決して認めず、大声で反論を繰り返して相手が、疲れ呆れて黙り込んだら勝利宣言をする。
ビックリするくらいキナイコシ君の行動パターンそのままで笑う
キナイコシ君はチョンチョンうるさいけど彼自身の行動が一番朝鮮人的なんだなw
彼が朝鮮人を嫌うのは同族嫌悪でしかないわけだ

60:日本@名無史さん
21/02/27 15:16:40.45 .net
結局、今日も>>19の事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

61:日本@名無史さん
21/02/27 17:59:16.66 .net
>>53
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)

62:日本@名無史さん
21/02/27 17:59:35.03 .net
>>54
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)

63:日本@名無史さん
21/02/27 18:00:11.63 .net
>>55
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
~仲哀天皇八年一月~
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ~
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!
~現代~
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
現実はコチラ
URLリンク(i.imgur.com)

64:日本@名無史さん
21/02/27 18:00:24.80 .net
>>56
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました
URLリンク(i.imgur.com)

65:日本@名無史さん
21/02/27 18:00:41.69 .net
>>57
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼

66:日本@名無史さん
21/02/27 18:00:52.14 .net
>>58
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている

67:日本@名無史さん
21/02/27 18:01:58.93 .net
>>59
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>53-60のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>53-60のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ~!確定ニダ~!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
URLリンク(i.imgur.com)

68:日本@名無史さん
21/02/27 18:02:20.77 .net
>>60
結局、今日もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
しつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

69:日本@名無史さん
21/02/27 18:02:42.53 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
URLリンク(i.imgur.com)

70:日本@名無史さん
21/02/27 18:02:57.79 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
~糸島朝鮮人特有の三種の珍技~
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
URLリンク(i.imgur.com)

71:日本@名無史さん
21/02/27 18:03:22.34 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ~
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ∥ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

72:日本@名無史さん
21/02/27 18:03:36.96 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
スレリンク(history板)
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
スレリンク(sf板)
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
URLリンク(i.imgur.com)
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

73:日本@名無史さん
21/02/27 18:04:07.18 .net
>>53-72
前スレ消化してから書き込もぜ
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾捌
スレリンク(history板)

74:日本@名無史さん
21/02/27 21:02:30.44 .net
しらぬいのコピペで埋まる旧スレかな

75:日本@名無史さん
21/02/27 21:36:55.79 .net
>安本美典氏は『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』と推計しています。
魏志倭人伝や、魏略や、廣志の、「上陸したら東南へ行け」を無視しての99.9%なんだろう、、。
つまり、中国王朝の三大史書を無視してよいのなら、全国どんな所でも99.9%の確率になるよ。

76:日本@名無史さん
21/02/27 21:40:28.05 .net
福岡県の北西部に上陸するのだから、南東に進んでも福岡県だよ。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里。
そのうち九州北岸までで一万里。
残り二千里しかないが、これは対馬海峡の三千里より短いのである。

77:日本@名無史さん
21/02/27 21:51:46.34 .net
福岡県の北西部ってどのあたりだい?
それで、そこから東南500里はどこになるか、よーく地図を眺めてから言ってくれよな。

78:日本@名無史さん
21/02/27 23:52:53.15 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず


.

79:日本@名無史さん
21/02/28 01:35:19.28 .net
>>78
在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
URLリンク(library.knou.ac)<)
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。

80:日本@名無史さん
21/02/28 18:11:20.08 .net
諸説ありといえど、殆どが『邪馬台国は99.9%の確率で、我が故郷の○○県○○地方にあった』と論じています。
しかしそれは、魏志倭人伝の「東南」や、魏略の「東南」や、廣志の「東南」を、
つまり、「倭国に上陸したら、東南へ進め」という共通の指示を無視しての99.9%なのではないでしょうか。
中国王朝の三大史書が語る「東南へ進め・・」を無視してよいのであれば、
「邪馬台国女王之都」の所在地は、日本全国どんな所でも99.9%の確率になってしまいます。
三太史書に共通する明確な行程記述は、何にもまして尊重さるべきでありましょう。

81:日本@名無史さん
21/02/28 20:07:04.75 .net
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


.

82:日本@名無史さん
21/02/28 22:04:37.84 .net
>>81
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

83:日本@名無史さん
21/03/01 20:42:25.49 .net
参問 倭地 絶在 海中 洲㠀之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
つまり、邪馬台国には、壱岐、対馬は含まれない。
そのうえで、
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
の行程で、参問した邪馬台国の7万戸は、九州上陸後、南北2千里の中の
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
の 21国であって、これは、5千里で周旋可
22 自郡 至 女王國(240年梯儁の行程で女王宮までは) 萬二千餘里
で、あった。

84:日本@名無史さん
21/03/01 22:26:59.54 .net
もう俺が結論づけてるはずだぞ、前スレで
卑弥呼は九州、トヨは畿内って
投馬国は宮崎、邪馬台国は畿内だよ
ただし卑弥呼時代は北九州が女王国の本拠地
トヨ時代を前後に畿内へ遷都

85:日本@名無史さん
21/03/02 01:36:41.89 .net
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O
 ZZZzzz 。 という民族願望の夢を見てるニダ
        _∧_∧_____,,
      /( <`∀´ > (() /
     /  ⊂    つ ./
   / ̄⌒(ヘヽ (へ) /
  / ※※\  ⌒⌒く
 (_____(___,,ノ

86:日本@名無史さん
21/03/02 14:24:11.39 .net
倭人伝が説明しているのは
今 使 譯 所通 三十國
この使の説明に從って、 郡至倭であって、
魏時に知り得た倭の国は30国、
帯方郡から七千餘里で其北岸の狗邪韓國、島で対馬、壱岐、
経過地名で末盧國、伊都國、不彌國、奴国(重複)
邪馬台国卑弥呼女王所属、参問の21国、
これらは、九州島の中で、周旋可 五千餘里
馬韓弁辰韓のような国体の国で、邪馬壹國、狗奴國
これらが30国。
女王国の東の倭種や、使が行っていない、それ以遠は
自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
であって、倭人伝では、説明し得ていない。
また、247年以降のトヨが機内に嫁に行ったか?
なんて妄想話は魏史国交断絶後の事。

87:日本@名無史さん
21/03/02 14:57:54.17 .net

邪馬台国ボーイング説w

88:日本@名無史さん
21/03/02 15:22:56.81 .net
壹與(イチヨ)や臺與(ダイヨ)じゃなくてトヨってどこに登場するん?

89:日本@名無史さん
21/03/02 15:32:12.38 .net
中国三大史書の、魏志倭人伝、魏略、廣志は、
「倭国に上陸したら東南へ進め」と記している。
どう見ても、吉野ヶ里を通過することになる・・。

90:日本@名無史さん
21/03/02 16:35:07.63 .net
「倭国に上陸したら東南へ進め」
じゃあなくて、
末盧國で上陸した場合は、東南 陸行 五百里 到 伊都國
考古学で伊都国が、今宿から吉武高木を想定するなら末盧國は糸島半島北西岸
末盧國に上陸したのは、247年の張政で、
遣 倭 載斯烏越 等 詣郡 説相攻撃状 の船での 帰国便便乗。
この時の伊都には、一大卒が有り、丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐
で、張政は、帰国便が有る迄、検閲の上、伊都に常駐させられている。
240年の梯儁は、皇帝の使者としての来訪であり、魏の軍船で
奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物
女王宮まで出向き、
南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
の 萬二千餘里を行軍し、女王に奉書、拝仮、詔賜している。
梯儁は、伊都国や一大卒の存在は確認していないし、皇帝の軍船は、
風向きで呼子や糸島を経由したとしても、当然、直近の博多湾で上陸する。
末盧國の松浦説は大和同様のミスリードだ。

91:日本@名無史さん
21/03/02 19:25:52.18 .net
>>88
細かいことは気にするな
それを言ったら卑弥呼もヒミコ?ってなる

92:日本@名無史さん
21/03/02 19:40:37.89 .net
724 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 23:35:24.72 ID:GVm4dqYs0
どこが上陸地だったかは揺るぎがないな
263 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 13:19:04.38 ID:GVm4dqYs0
五畿七道
URLリンク(i.imgur.com)
これを見ると上陸地がわかる?w
参考、国交省マップ
URLリンク(i.imgur.com)

93:日本@名無史さん
21/03/02 19:48:28.55 .net
300 日本@名無史さん 2021/02/08(月) 17:26:11.78
洛陽→大月氏の首都だった現ペシャワール 約5000キロ
URLリンク(i.imgur.com)
同じくらいの距離である邪馬台国
洛陽→邪馬台国 日本に上陸して約2000キロ
URLリンク(i.imgur.com)
そこから畿内に向かっても5000キロも無い
実質、大月氏の半分の距離である
台湾を投馬国に比定すれば
邪馬台国フィリピン説の爆誕になる
304 日本@名無史さん 2021/02/08(月) 17:36:39.71
畿内だと、洛陽から日本海ルート経由で
約3000キロってとこか
URLリンク(i.imgur.com)
大月氏の約5000キロには程遠い事実

94:日本@名無史さん
21/03/02 19:55:08.05 .net
当時の中国は、地球平面説
太陽が昇る方角は「東」と決まっていた
どの季節月日であろうと
977 日本@名無史さん 2020/12/08(火) 15:19:03.91
45度、東へ傾けるだけですべて解決する
URLリンク(i.imgur.com)
行程の方角も一致
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

95:日本@名無史さん
21/03/02 20:01:26.86 .net
409 日本@名無史さん 2021/01/21(木) 20:38:31.32
そもそも地軸で洛陽中心だと
↓こうなるんだよw
URLリンク(i.imgur.com)
しかも当時の中華は地球平面説なので
地上は平面、天はアンダーザドームな半球w
太陽の出る方角は「常に東」と言う認識だ
またまた俺は謎が解けてしまったw

96:日本@名無史さん
21/03/02 20:03:07.15 .net
574 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/30(月) 07:50:24.56 ID:h/pX76tQ0
末盧国の上陸地を中心に
橙円=半径1500里範囲
赤円=半径2000里範囲
URLリンク(i.imgur.com)
卑弥呼が居たのは八女
(卑弥弓呼とは名が似てるので近親者同族。磐井)
壹與が居たのは遷都して日田
(豊国。鉄鏡。日田から四方の川へ流れ出る瀬織津姫)
と俺予想

97:日本@名無史さん
21/03/02 20:12:46.03 .net
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

.

98:日本@名無史さん
21/03/02 20:25:23.90 .net
135 日本@名無史さん 2020/12/31(木) 09:41:51.06
卑弥呼の墓などそもそもあるわけないだろw
卑弥呼は突然死んだんだよ
後継者候補も言わずに
死んだあとにバカデカイあの箸墓つくんの?w
何年かかんだよw
質素な墓に決まってるだろ、あっても
常識的に考えたらわかるだろw
↓だいいち
887 日本@名無史さん 2020/12/21(月) 23:02:55.73
曹操も曹丕も司馬懿すらも「不封不樹」の薄葬
卑弥呼の墓が到底デカイとは考えにくい

99:日本@名無史さん
21/03/02 20:25:38.19 .net
↓さらに
190 日本@名無史さん 2020/12/31(木) 14:48:21.79
徑とは、みち/小道/近道などの意味をもつ漢字。 10画の画数をもち、彳部に分類される。 日本では大学もしくは一般レベルの漢字とされる。
三国志全体を読んでも徑は徑路的な意味合いw
円のケイで有らずんばw
>>168 ←このレスの意味が近い
>参考
渙曰「那可爾」曄卽入室殺侍者、徑出拜墓。
168 日本@名無史さん 2020/12/31(木) 13:30:55.96
>>100
大いに塚を作る。参道100歩に、殉じて葬られるは、奴隷100人。
の方が良いよ。

100:日本@名無史さん
21/03/02 23:09:43.26 .net
>>87
エアバス説かもしれんぞ(笑)

101:日本@名無史さん
21/03/03 07:55:06.03 .net
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
URLリンク(i.imgur.com)

102:日本@名無史さん
21/03/03 08:13:18.73 .net
中国三大史書の、魏志、魏略、廣志が云う「倭国に上陸したら東南へ・・」の通りに進めば、
邪馬台国へのメインルートは、必ずや吉野ヶ里を通る。そしてこの吉野ヶ里(不彌国)の南1400里(105㎞)に女王の所都はあった。

103:日本@名無史さん
21/03/03 19:50:49.73 .net
>>96
帯方郡から1万2千里とみると、松浦から2千里。直線だと熊本から北九州あたり
までですね。
途中で曲がっていたら、もっと近いところですよね。
魏志倭人伝のこの記事を書いた人は嬉野あたりまで来て、その先には行っていない
と思います。
(理由)
実際に邪馬壹国まで行ったなら、日数ではなく里数で記述するはず。
”その山に丹あり”として、実際に丹があるのを確認しているように書いている。佐賀
県では嬉野から鹿島の塩田川沿いに丹生神社が点在し、このあたりで丹が産出していた
ので嬉野あたりまでは確かに行った。
有明海は干満の差が激しく、引き潮のときはずっと沖まで干潟になるなるので海に
潜らなくても獲物が手に入る。大魚をよけるために入れ墨などしなくてもいい。
だから、佐賀平野に入っていない。
ちなみに、松浦(名護屋あたり)から嬉野→鳥栖→大宰府で大体150kmになります。

104:日本@名無史さん
21/03/03 20:32:29.95 .net
.


(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

.

105:日本@名無史さん
21/03/03 20:35:07.33 .net
.


7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑

URLリンク(inoues.net)

.

106:日本@名無史さん
21/03/03 23:55:41.48 .net
>>104-105
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

107:日本@名無史さん
21/03/05 00:21:26.78 .net
>>61
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

108:日本@名無史さん
21/03/05 00:21:55.54 .net
>>62
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

109:日本@名無史さん
21/03/05 00:22:17.54 .net
>>63
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
URLリンク(i.imgur.com)
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> URLリンク(i.imgur.com)
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない

110:日本@名無史さん
21/03/05 00:22:47.61 .net
>>64
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

111:日本@名無史さん
21/03/05 00:23:14.11 .net
>>65
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

112:日本@名無史さん
21/03/05 00:23:39.24 .net
>>66
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

113:日本@名無史さん
21/03/05 00:24:34.13 .net
結局、今日も>>19の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

114:日本@名無史さん
21/03/05 00:31:04.70 .net
>>75
魏の使者は磁石(指南魚)を使って方位を測ったはずだから、磁北基準での東南だよ
当時の磁北は地軸から約15°ほど西にずれていた
このため磁石で方位を測ると真北(地軸方向)は東北東15°となり、方位は東寄りにずれが生じる
魏の使者は磁石で方位を測ったため、方位の表記は全体的に東寄りにずれている
これを補正すれば上陸地の呼子から東南で方位は合致する
古代の方位測定法
URLリンク(www.nabunken.go.jp)
>いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
>奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10~15度も西へずれていました。
>したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>
>ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
>午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
>この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
この周礼の方法は高精度だが午前と午後の2回、同地点での測定を行わなければならないので、魏の使者のように旅をして移動している人間には使用できない
都市計画などには良いが、移動する人間は磁石を使うしかなかった
当時まだ羅針盤は無いが、指南魚という永久磁石を用いて方位を知る道具が既に存在している
ちなみにこの15°補正により別の方位問題も解決する
会稽東治(江蘇省蘇州市)からの方位に15°の補正を加えると筑後山門はほぼ真東となる
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