20/10/31 20:26:20.08 .net
前スレが埋まったのでこのスレの趣旨>>1のおさらい
北部九州説論を語り合いましょう。
※他説を貶したり、貶めることは九州説の裏付けにはならないのでやめましょう。
※しかし、前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
必須NGワード:@阿波、オクキョン、五十迹手、伊都
伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
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女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
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or
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
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「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
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オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張る人はコチラ↓に移動
日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
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152:日本@名無史さん
20/10/31 20:32:23.36 .net
>>151
ところで、君の北部九州説では、「卑彌呼」の王都遺跡って示しているのかね? @阿波
153:日本@名無史さん
20/10/31 20:37:28.49 .net
>>148
衝撃的。
実は登美の長髄彦は出雲王家の富家の流れだったということですか。
154:日本@名無史さん
20/10/31 20:50:47.26 .net
>>153
あくまで妄想という事でお願いいたします。
最近その手の本も出版され、影響は広がっており、方々でHPを開設される方も多いです。
要所で出てくる言葉を使って検索すれば容易にその手のHPにはたどり着けます。
記紀に比定される神武は、各系図から導き出せるのは海幸彦の天村雲になります
大国主と、事代主は、出雲の国の八千鉾(西)、八重波津身(東)になります。
事代主さんは、第八代での国譲り事件で八千鉾さんと同時にお隠れになります。
事代主の息子の天クシヒカタは、摂津の三島家の姫の子供だったので、彼の死後、実家に帰る母上に一緒に摂津についていきました。
故に、その子孫の加茂氏の祖である八咫烏には、二つ名で三島や、ミソグイ的な名前になっているのです。
古事記に出るように神武さん(尾張家)は事代主とクシヒカタさんから実際にはお嫁さんを貰うのです。
この家が磯城家。登美家と呼ばれ、後に加茂氏と加茂氏の分家、太田氏を輩出します。
神武さんは大王となり、葛城国と呼ばれるようになります。
三代も出雲系からお嫁さん貰ったので出雲の血が濃くなり、磯城王朝ともカテゴライズされています。
大彦は、第八代クニクルこと孝元天皇の皇子で、この時代に磐余彦(五瀬の九州物部勢)
五瀬が物部であるという点が超妄想部分だとご理解ください。
系図は日向神話の日向三代に出ております。五瀬以外の兄弟の誰かが磐余彦になります。
155:日本@名無史さん
20/10/31 20:59:27.06 .net
>>151
これ↓ 北部九州ネタだよ。
ところで、君の北部九州説では、「卑彌呼」の王都遺跡って示しているのかね? 阿波
156:日本@名無史さん
20/10/31 21:00:37.60 .net
この五瀬が熊野から入ってきた時期で、魏書の倭国大乱期にあたります。景初の少し前です。
記紀はすべてのもめごとを一つの事件にしてまとめてBC660にもってきています
なので、景初の年数なのかな?というところに神功皇后が来ているはずです。
157:日本@名無史さん
20/10/31 21:02:33.11 .net
>>153
杵築大社(今の出雲大社)は、やられちゃった側が自分たちで作った神社という事になります。
神話とだいぶ違っております。
158:日本@名無史さん
20/10/31 21:05:16.66 .net
.
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
.
159:日本@名無史さん
20/10/31 21:09:23.55 .net
>>125
>「賀茂氏の系譜はもう一つある。
大己貴神と宗像の田心姫の間に生まれた味耜高彦根命と下照姫を祖とする賀茂氏である。大和葛城を拠点としていたが、新撰姓氏録では大和国の神別、地祇とされている。」
こちらが遅れてきて奈良入りした西の神門臣家ですね。こちらは正確には「高鴨氏」になります。
鴨氏と、加茂氏は若干違うわけです(婚姻関係を結ぶのと、王家や「東征」を論じるのにあまり影響がない)
124と125は大変勉強になりました。八咫烏の二つ名に父方のクシヒカタまで出ていたんですね。驚きました。
160:日本@名無史さん
20/10/31 21:29:27.85 .net
>>122
妄想でございます。
神武さんの奥さん(家によって名前が変わります)タタライスズヒメ。クシヒカタの妹
子供の二番目の大王、沼川耳が、タタライスズヒメの妹、五十鈴依姫を奥さんにします。
子供の三番目の大王、玉手看が、クシヒカタと、アジスキタカヒコの妹、高鴨家のミラ姫の間の子であるヌナゾコ姫を貰います。
玉手看のもう一人の子供が八井耳て、多氏になり、太安万侶に繋がる家になります。
沼川耳の兄弟が、天御蔭で、海氏「海部氏」になっていきます。
ヌナゾコ姫の兄弟、クシヒカタの子供が、建飯勝で、この家が磯城登美家の祖になります。
大王家が「尾張氏」
クシヒカタの家系が「登美家」や「加茂氏」になります。
クシヒカタの代で高鴨家と習合しているので区別が曖昧になるのです。
センダイクジホンギでは、五十猛(天香具山)→天村雲を海幸彦としています。
物部氏でありながらセンダイクジホンギに尾張家系譜がでるのはこういう事情
それと、山幸彦の先祖が一人になって書かれているところが重要でございます。
アメノホアカリニギハヤヒ。これがゲフンゲフンシークレットなのです。
161:日本@名無史さん
20/10/31 21:36:20.51 .net
記紀では登美家を隠すために、三代の出雲の姫を合体したような変な名前になっているはずです。
所謂、九州物部氏は一般にも知られていますが、記紀の神代の部分の物部氏の系譜が、九州の各士族、神社などが秘密にしてきた部分になります。
この部分が邪馬台国と景初の危機に登場した人物になります。
朝貢の歴史を隠すために秘密にされました。
高良大社文書の『高良記』
「玉垂命が物部であることは「秘すべし」とあり、もし外部に知れたなら「全山滅亡」」とまで記されていました。
妄想にするしかないのでございます。
162:日本@名無史さん
20/10/31 21:41:10.05 .net
「耳」という字が王族関係の字だと書かれているのをみて驚いたのはこういう事情でございました。
163:日本@名無史さん
20/10/31 21:54:49.17 .net
神功皇后と行動を共にした、武内ソツ彦が、後に葛城の長江に住んだので、葛城氏になりましたが実際には「尾張氏の葛城国」とは時代が違います。
神功皇后が景初の卑弥呼っぽく書かれた時期。同じ時期の人物ソツ彦はとても記紀から見れば都合がよく、葛城氏の祖に彼が収まった事で
上手いこと葛城国(磯城王朝、尾張家)が隠されることになりました。
なので登美家も3人の姫様の名前が圧縮されたような感じになったのです。
記紀の神代に何があったかは、順番が消されていない、尾張、海部、登家(加茂家)の家系図でバッチリ記紀の作為の年号が分かってしまうのです。
164:日本@名無史さん
20/10/31 22:26:31.39 .net
ありがとうございました。
情報量が膨大なのでじっくり読ませていただきます。
登美家や物部氏など、いくつかの氏族は記紀だけでは系譜が追えないように隠されているようですね。
特に神武と敵対した登美家が只者ではないと思っていましたが、正体が見えたようで納得です。
ただ、それが邪馬台国と関係するかと言えば、個人的には難しいようにも思います。
耳の話はこのジャンルを関わっていると、半ば共通認識かと思っておりました。
165:日本@名無史さん
20/10/31 22:28:40.09 .net
そういうわけで、伊都国の話ばかりをしているわけではないのです。
他の話をしている時は気がつかないだけ。
アレルギーを起こす方がどうかしている。
166:日本@名無史さん
20/10/31 23:00:48.25 .net
>>164
はい、切り込む前に妄想の序章をご説明いたしました。
海部氏側の「勘注系図」
「豊玉姫は火明命に妹の玉依姫をつかわし助け、武位起命が生まれた。その児、宇豆彦命、云々」とあります。
これを記紀にすり合わせると、武位起命は彦渚武ウガヤフキアエズノ命となります。その子が神武ですので、
「海部氏系図」では天村雲となります。つまり海部氏は記紀における初代天皇神武を、本来は天村雲であると示している訳です。
旧事本紀。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
この中で豊玉姫側を省けば、海部氏のいうところと全く同じになりなす。
さらっと、ゲフンゲフンさんの息子が五十猛(天香具山)と妄想を書きましたが
旧事本紀では村雲の亦の名を天五多手イタテとしています。他より一世代ずれています。
勘注系図にも村雲の亦の名を「天五十楯天香語山命」とうまいこと隠して書いています。
各書物や家系図が、単独では分からないように書いてるんですね。
故に、尾張氏系譜、海部氏の国宝家系、登美家の家系が必要になります。
登美家の家系が最後のピース、最近の一部で盛り上がってる書籍の情報になります。
アタカタスまでは書いてある情報がある筈ですが、これは「宗像三女神」の奸計を暗示する細工で、アタカタスは宗像三女神のお父さんになります。
さて、一番関係なさそうが豊玉姫がまずいところになります。
167:日本@名無史さん
20/10/31 23:24:20.67 .net
物部氏の古い系譜は
ゲフンゲフン(アメノホアカギニギハヤヒ)さんの子供、彦ホホデミ→→彦渚武→(シークレットA)
旧事本紀に出てくる豊玉姫は山幸彦と結婚して、子供を産みますが、実際の子供の名前はトヨ彦と、トヨ姫で系図には出てません。
彼ら兄妹は、後にヤマトで豊来入彦、豊来入姫と呼ばれ、最終的に豊鍬入彦、豊鍬入姫に変えられます。豊姫は更に天鈿女にされます。
豊玉姫がさらっと出てきますが、記紀では日向神話のお姫様です。
日向三代の家系図
URLリンク(ja.wikipedia.org)
この日向三代の系図は、「豊玉姫の実家の家系図」と、物部氏の家系図を合わせたごまかしの家系図です。
豊玉姫を固定します(旦那さんは魏書にも書かれた人でシークレット)
そうすると息子の豊彦がウガヤフキアエズに変えられていることが分かります
今度は物部側を固定します。火折尊は彦ホホデミ。子供が彦渚武
つまり、息子の彦渚武がウガヤフキアエズに変えられている事になります。
ウガヤフキアエズの名前は、ヒコナギサタケウガヤフキアエズ。
何が言いたいかというと、日向神話は熊野入りした人シークレットA五瀬兄弟が物部氏であるという事が分かっちゃう仕組みになっているのです。
豊玉姫は景初の朝貢した姫様です。やっと妄想が、お題に追いつきました。
168:日本@名無史さん
20/10/31 23:27:35.55 .net
>>164
>「特に神武と敵対した登美家が只者ではないと思っていましたが、正体が見えたようで納得です。」
はい、登美家と敵対した神武は、物部五瀬、磐余彦になるという事です。
初代神武家、村雲家(尾張家)とは親戚でした。
169:日本@名無史さん
20/10/31 23:40:46.41 .net
歴史とは、考古学だけではわからない部分が多い。
婚姻関係による王朝のパワーバランスなどは特にそうです。
古代の日本列島には、各地に王族がいたわけです(倭人の国は100ほどあり、皆が大夫を自称したと)。
しかし歴史に名がかろうじて残るのは、いずれも博多湾沿岸から播種した氏族ばかりのようです。
物部氏や賀茂氏、尾張氏など。
しかし中国の立場からはそれらを王とは呼ばず、常に博多湾沿岸にいた首長だけを倭王と冊封したわけです。
では博多湾沿岸にいたのは誰か。
安曇や住吉や宗像などになるが、時代により王座は入れ替わっていた。
その中でも、魏志倭人伝や後漢書に書かれている時代は、志賀島の海神と伊都の天孫族(当時の実名が伝えられていない、または彦火々出見、日向王家とも)がそれぞれ女系相続と男系相続でペアを組んでいた。
同じことは奈良盆地でも、天皇家と鴨氏や三輪氏、物部氏などの間でも繰り返され、さらには蘇我氏や藤原氏、平氏らも同じことを繰り返していた。
これが日本史の基本フォーマットなのです。
それなのに、伊奘諾、天照、邇邇芸、神武、神功皇后、崇神、応神、天智、蘇我、物部、饒速日、尾張、中臣らの間に勝手に境界線を引いて、やれファンタジーだ創作だと非難する。
そんな輩には日本史は理解できないでしょうね。
170:日本@名無史さん
20/10/31 23:41:05.26 .net
しかも卑弥呼のように、明らかに歴史上長期間にわたって君臨していたのに省略されている「倭王」までいる。
記紀の編纂者は、神世の話も創作だとは思っていない。
年代はいじっているし、都合の悪いことは書かない。
では記紀の編纂者にとって都合が悪いこととは何か。
それは物部や尾張や登美、鴨、安曇など、天皇家の直系でないのに天皇家と並ぶ勢力が多数存在していたこと。
特に、倭王に冊封された博多湾沿岸勢力の中にも天皇家と直結していない倭王がいたことでしょう。
その多くは、大国主や長髄彦、後の物部氏のように、歴史上の敗者となった者かもしれない。
それらの実在を否定することは、天皇家の万世一系にとってはますます都合が良い。
物部氏の実在を認めながらその祖である饒速日を否定したり、蘇我氏の実在を認めながらその祖である武内宿禰を否定するのに至っては、ヒトが木の股から自然発生するのかと噴飯ものです。
志賀島の安曇や伊都の天孫族、出雲の登美、関西の三輪物部尾張海部などをファンタジーとして顧みないのは、天皇家の万世一系というファンタジーに無意識に加担していることと同じです。
まして、伊都に三種の神器を保有する古代氏族がいたことは考古学的な事実なのですから、あなた方はそれらの氏族をなんと呼ぶつもりなのか?
さて、そうすると卑弥呼が記紀に登場しないのも、おそらくは後に敗者となる氏族だったからではないかと考えるのは、自然なことです。
北部九州説に立てば、北部九州にあって歴史的敗者となった重要な氏族がありますね?
そう、熊襲です(熊襲タケルの屋敷は肥前佐賀川上にあった)。
卑弥呼は肥国熊襲から倭王に共立されて、倭王である条件として博多湾沿岸にいて筑紫の天孫族(当時は伊都の官)のさらに上位に君臨したわけです。
171:日本@名無史さん
20/10/31 23:44:17.99 .net
>>168
訂正します
はい、尾張氏と敵対した神武は、物部五瀬、磐余彦になるという事です。
初代神武家、村雲家(尾張家)と登美家は親戚でした。
登美家は尾張家の連立相手で、うまいこと立ち回って磐余彦が来た後も奈良で生き残ります。
大彦は尾張家(磯城王朝の家)ですが、出雲をとても尊敬してたようでその名前を名乗ったとされています。
彼は後に阿部に名前を変えてヤマトから去ることになります。これが狗奴クナト国(クナ国)になります(九州説の方ごめんなさい)。
172:日本@名無史さん
20/10/31 23:50:02.50 .net
>>168
途中経過まではいいのですが、結論はやはり納得がいかない部分がある。
大和に入った磐余彦は饒速日と対峙しているからです。
その饒速日は村雲だったということ?
しかもそれが五十猛なりイタテであれば、この人物はやはり福岡にいなければいけないのではないか?
173:日本@名無史さん
20/10/31 23:50:24.12 .net
>>169
>「それぞれ女系相続と男系相続でペアを組んでいた。」
さらっと重要な事をwww
では私も妄想の続きを
豊玉姫は、宇佐の八幡宮に秘密として伝わっていた、宇佐津姫です。
彼女は物部側に差し出され、魏書に載った物部の王の後妻になりました。
昔は争いごとの解決方法の一つに「習合」がありました。
最高の恭順を表す行為の様ですね。
宇佐出身の彼女は、政治のシンボル、男王のペア、魏書の景初の卑弥呼であります。
ああ・・やっちまった・・
174:日本@名無史さん
20/10/31 23:52:15.44 .net
>>170
記紀の最大の目的は万世一系ですが、現在考えられているような「おっかない」目的ではありませんでした。
記紀は漢文で書かれました。つまり大陸に我が国の歴史を示すためのモノだったのです。
175:日本@名無史さん
20/10/31 23:55:39.67 .net
>>172
面白くなってきてるんだからNGワード使って口を挟むな
176:日本@名無史さん
20/11/01 00:01:02.86 .net
>>166
>登美家の家系が最後のピース、最近の一部で盛り上がってる書籍の情報になります。
そうですよね。
ここに畿内で登美家とほぼ同じ領域を支配していたことになる三島鴨族が気になるのです。
同じ時代に重複して支配していたとは考えにくい。
饒速日というスーパースターの下で実質的に畿内を開拓した氏族なわけですから。
すると鴨族の系譜が最後のピースそのものなのではないか?
それが高天原に降伏した出雲の末裔なら納得がいきます。
大国主を下して最初に即位したのが天照国照天孫饒速日な訳ですから、主従関係が畿内にまで持ち込まれただけということになる。
そして、筑紫に降臨したもう1人の天孫が邇邇芸になるわけです。
三輪山の饒速日は登美一族と、高祖山の邇邇芸は安曇一族と婚姻するわけですが、両者が混同されたか、実は同じ話なのか、よくわからないけれども、相似形で話が進んでいく。
177:日本@名無史さん
20/11/01 00:03:38.63 .net
>>172
倭に入った磐余彦さんは、饒速日とか、ニニギさんとは戦っておりません。
しかし「海幸彦、山幸彦の共通の先祖の子孫」なので、その投影と思われます。
和名ホアカリは、出雲に現在の出雲大社宮司、千家の手引きで出雲に上陸(今の五十猛海岸)高照姫を貰います。そして一時帰国。大陸の皇帝に言い訳をします。
和名ニギハヤヒは、帰ってきたゲフンゲフンさんで、事代主のお父さんからお嫁さん、イチキシマヒメを貰います。
福岡に居た人は帰国後のゲフンゲフンさんです。
なので、物部氏が作ったクジホンギに、繋がった名前の一人の人物で書かれている訳です。
そんな事と、五瀬が物部氏である事は絶対に記紀には書けません。妄想中の妄想でございます。
五十猛、イタテなどが海幸彦→初代神武さん
ホホデミ(ホオリ)が九州物部氏で山幸彦→五瀬兄弟
178:日本@名無史さん
20/11/01 00:05:47.17 .net
>>171
>彼は後に阿部に名前を変えてヤマトから去ることになります。これが狗奴クナト国(クナ国)になります(九州説の方ごめんなさい)。
いえいえ、構いませんよ。
狗奴国というか、肥国王家(卑弥呼の出身?)の出自はまだ謎なんです。
九州説の中ではやはり海神の一派だとか、大陸から来たゲフンゲフンの末裔だとか呉のゲフンゲフンの末裔だとかいう論者もいるけれども、決め手に欠ける(否定しているわけではない)。
ただ大彦では若干時代が後すぎるような気がしますね。
179:日本@名無史さん
20/11/01 00:06:42.60 .net
以上の事から、ヤマトと九州には、大きな勢力、政治的なニュアンスの王国が同時にあったという事ですね。
お父さん一緒だから仕方がないのです。
180:日本@名無史さん
20/11/01 00:08:17.49 .net
>>175
本質に迫る単語をNGワードにしているのはあなたの勝手です。
口を挟んでいるのはそっちですよ。
181:日本@名無史さん
20/11/01 00:10:56.80 .net
>>173
>豊玉姫は、宇佐の八幡宮に秘密として伝わっていた、宇佐津姫です。
まあ、豊玉姫は志賀島の海神の姫ですが、豊国王家は志賀島を離れて東へ移動し、宇佐に鎮座したので、間違いではないでしょう。
宇佐津姫は代々の名前でしょうけど。
>宇佐出身の彼女は、政治のシンボル、男王のペア、魏書の景初の卑弥呼であります。
うーん、そこに落ち着きましたか。
182:日本@名無史さん
20/11/01 00:17:48.79 .net
>>177
>倭に入った磐余彦さんは、饒速日とか、ニニギさんとは戦っておりません。
いや、そこは古事記上巻のまさにクライマックスなのに、なかったことにするのはいけないのでは?
磐余彦と饒速日は、矢を見せ合って同族であることを確かめたと書かれています。
考古学的にも、鏃は地域や部族により明確に様式の違いがあるとされており、記紀の記述を裏付けることができます。
その戦いや会談がなかったというのは無理がある。
183:日本@名無史さん
20/11/01 00:18:01.92 .net
>>178
>ただ大彦では若干時代が後すぎるような気がしますね。
はい、大彦さんは、実は、八咫烏の時に磐余彦と戦った人で、和国大乱(147~188)時期の人です。
記紀の時代より大幅に後の方です。
クニクル大王こと孝元天皇はこの頃の人なので、記紀の作為がここである程度補正できます。
記紀は物部勢の攻撃の歴史を消していますので、BC2~BC1に最初から居た神武さんと、大乱期の磐余彦さんを同一人物にしています。
なので、冒頭の方で、磐余彦(物部五瀬)より前の少なくとも7代が九州に居たことにしないとまずいのでは?と申し上げました。
第八代クニクルとその息子である大彦と、磯城家第八代八咫烏は同時期の人たちです。
ヤマトと九州の争いがあったので、九州説の方の中で、ヤマト侵攻が無かった派の方々には影響が大きいと判断しました。
184:日本@名無史さん
20/11/01 00:22:39.22 .net
>>182
>「磐余彦と饒速日は、矢を見せ合って同族であることを確かめたと書かれています。」
はい、そこがとても重要な事なのであります。
物部を隠したい記紀なので実際にはこうなります。
「磐余彦(山幸彦)と、ホアカリ(海幸彦)矢を見せ合って同族であることを云々」
185:日本@名無史さん
20/11/01 00:26:37.62 .net
>>177
>五十猛、イタテなどが海幸彦→初代神武さん
海幸は海の向こうに去ってしまったわけですが、それを神武が投影されていると?
ただ、筑紫と大和だけでなく、九州の中にも相似がありますよね。
筑紫の日向と日向国です。
海幸は隼人の祖ということなので、この人物は東征していない。
南九州にとどまっている。
これが魏志倭人伝の邪馬台国(北部九州、こう書かないと怒られるw)と投馬国(南部九州)にするしかない。
まして五十猛は天孫より前の時代、おそらく志賀島が倭王だった時代です。
神武に絡めるのは無理がある。
186:日本@名無史さん
20/11/01 00:30:10.67 .net
一度神武さんに戻ります。
神武さんはゲフンゲフン→父親の名前一文字を取って五十猛→天村雲
実は、五十猛の奥さんが問題です。
ゲフンゲフンさんには二人の奥さんが居ました。高照姫とイチキシマヒメ。
ゲフンゲフン+高照姫→五十猛(天香具山)
ゲフンゲフン+イチキシマヒメ→物部氏祖と、穂屋姫
五十猛と穂屋姫が結婚して天村雲wwwwwwww腹違いの御兄妹。
たしか、似たような話が記紀かクジホンギに書いてあったと思われます。
九州勢と、物部勢は、お互いが親戚であることを認識していました。wwww
もうみなさん御免なさい、本に書いてある事のご紹介で本当に妄想扱いしてくださいwww
187:日本@名無史さん
20/11/01 00:32:57.93 .net
記紀は、本来の目的が大陸に対する独立性、日本の歴史を示すためのモノだったので、国内の分かる人には分かるように復元が出来るよう、たとえ話などを多く取り込んでいます。
188:日本@名無史さん
20/11/01 00:35:08.25 .net
>>180
このスレ使うなら>>1のテンプレくらい目を通そうね。
189:日本@名無史さん
20/11/01 00:38:15.86 .net
ごめんなさい訂正です
九州勢と、物部勢は、お互いが親戚であることを認識していました。
↓
九州勢と大和勢はお互いが親戚であることを認識していました。
これが記紀の記述の暗喩している事なのだと個人的に解釈しております。
190:日本@名無史さん
20/11/01 00:39:05.38 .net
>>186
いろいろ誤って習合してしまった部分があるのではないでしょうか?
年代補正は必要だとしても、世代関係が大きく前後するのは問題があります。
とは言え、いろいろ面白い話をどうもありがとうございました。
191:日本@名無史さん
20/11/01 00:40:35.18 .net
記紀は奈良でまとめられましたので何となくメジャーになり情報量に偏りがありますが
九州王(朝)説は本物です。
同じ人が始祖でありましたので。
192:日本@名無史さん
20/11/01 00:41:13.21 .net
>>190
おやすみなさい。
193:日本@名無史さん
20/11/01 03:24:38.87 .net
>>162
邪馬台国以外の官名は全て記紀の神に付いてたと思うよ、耳だけじゃなくて
194:日本@名無史さん
20/11/01 10:22:20.46 .net
北海道は明治以降に日本人が入植したので日本固有の領土ではない。日本人が戦前に入植した場所も日本固有の領土だと主張するならボリビアやペルーも日本固有の領土になる。
195:日本@名無史さん
20/11/01 13:47:47.63 .net
.
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
196:日本@名無史さん
20/11/01 14:09:10.39 .net
発作か?スレチなんだが
197:日本@名無史さん
20/11/01 14:09:18.89 .net
>>194
ポツダム宣言受諾で戦前に獲得した新しい領土すなわち外地は放棄しなくてはいけなかったはずなのにね。
198:日本@名無史さん
20/11/01 14:42:46.17 .net
(帯方)郡より女王国に至る。万二千余里。
(帯方)郡から倭に至るには、北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
狗邪韓国より末盧国に至る。三千余里。
(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。
(伊都国から)東南、奴国に至る。百里。
(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。
(不弥国から)女王国まで、一千三百余里。つまり九州の外はあり得ない。
199:日本@名無史さん
20/11/01 15:28:32.66 .net
>>195
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) /
200:日本@名無史さん
20/11/01 16:36:29.53 .net
【山門(やまと)の地名の由来】
みやま市瀬高町、山門と邪馬台は「ヤマト」として古代からの地名として呼ばれ同一性がある。
山門やまとという地名を探ってみる。
710年に出来た『日本書記』神功記には「轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛」とあり、
(神功皇后が)山門県に転至ましして、即ち土蜘蛛田油津媛たぶらつひめを誅殺したとある。
ほかにもある。.藤原忠平、紀長谷雄たちが勅命によって、927年(延長5)にまとめあげた
『延喜式えんぎしき』という古文書がある。
宮中の年中儀式、百官の儀、作法から諸国のことなど記した書に
「山門五郷、大江、鷹尾、山門、草壁、大神」となっている。
草壁が大草に変わったが他の4地名は今も残っている。
では山門をヤマトと呼んでいいのだろうか。
931年~939年に日本最初の漢和辞典『倭名類聚妙わみょうるいじゅしょう』の中に、
つぎの注釈がある。「山門郷 夜万止(やまと)と訓む、草壁 久佐加部(くさかべ)と訓む、
大神 於保美和(おおみわ)と訓む、、、、」
つまり、.『日本書記』『延喜式』『倭名類聚妙』の三古文書をつなげば、.神功皇后のころから、
山門の地名はあり、夜万止(やまと)と呼ばれたことになる。
つまり卑弥呼から百年位のちの時代、.すでに「やまと」と呼ばれていたことになる。
山門郡は弥生時代の後期、「やまと」と呼ばれいたのだ。
.この点でも、邪馬台国は、このあたりにあり山門郡に位置していたことになる。
201:日本@名無史さん
20/11/01 16:41:52.96 .net
>>194
そんなこと言ったら日本は渡来人のものですらない事になるな
202:日本@名無史さん
20/11/01 16:42:43.73 .net
【卑弥呼の死】
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 [扁犬旁旬]葬者奴婢百餘 人
(現代文解釈)卑弥呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。
(解説) 卑弥呼の死亡年は通説では正始9年(248)またはその前後とされている。
仮に卑弥呼が184年に20歳で倭王に共立されたとするならば、
64年間248-184=64)も在位したことになる。.20歳で倭王に推戴されたとしても
84歳まで生きたことになり、当時としては考えられないほど長寿だったことになる。
死亡原因は老衰や卑弥呼の霊力が衰えたため殺されたと推察する。.
卑弥呼の墓は筑後・山門の地の女山の麓に展開する権現塚ごんげんつかや
堤集落の10ヶ所もある巨石(支石墓)群や神籠石(山城)内の古墳群が点在するが、
いまだ考古学的調査が行き届いていない。
203:日本@名無史さん
20/11/01 16:46:39.41 .net
>>202
つまり景初の年号が割り当てられた卑弥呼が死んだ後に張政が来た事になるんだな。
204:日本@名無史さん
20/11/01 16:46:54.21 .net
【卑弥呼の墓】
紀元248年頃の邪馬台国と狗奴国の戦乱時に卑弥呼は死んだ。.
魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径は百余歩、徇葬せし者奴婢百余人。」とある。
山門郡には多くの塚があるが、女山から程近い田んぼに囲まれた山門の堤集落には、
径が200mの小高い塚の上に50戸ほどの民家が移り住んでいる。
ここには謎の巨石をもつ古墳が12基ある。
10号墳の巨石は径3m程が埋まり地下4,5mまで掘り下げても石の根に届かないほどの
大きさである。
この何㌧もある重さの石を神籠石同様どんな手段で持ち込んだか謎の巨石群である。.
また近年、堤集落人により金環やなど発見されているが病人が絶ゆることなく、
掘り起こせば「タタリ」があるとして戻され巨石は代々祀られている。
205:日本@名無史さん
20/11/01 16:50:16.03 .net
>>202
ちょうど倭国大乱の終結期、180年代であれば、クニクル事孝元天皇の治世。
この時は磐余彦のイツセの軍が来た時のお話になりますね。
そうするとモモソヒメ説になってくるんですよね。
つまりは景初の年号が割り当てられる以前の記述の卑弥呼が別人の卑弥呼ではないかとする説です。
206:日本@名無史さん
20/11/01 16:50:29.59 .net
私はここを邪馬台国式の王家の巨石墓と推測し、卑弥呼もここに眠っていると確信する。
隣に接する山川町にも同様の邪馬台国式の大古墳が34箇所ある。
卑弥呼らの王に従った最高の有力者的首長、あるいは豪族の大古墳とみられ
地方を固めていたことが窺われる。
堤の巨石群はまだ発掘調査が行われていないが昭和40年頃に訪れた松本清張は
巨石をドルメン(支石墓群)ではないか書いている。
ドルメンとはヨーロッパや韓国の紀元前の遺跡に数多く分布しており、
墓あるいは祭事を司る場所と推測されている。
よって堤の巨石は国の祀りごとをやる神霊的存在を予感させる聖地で王達の霊を慰めたであろう。
東に位置する所には東山連山を眺めれる古代からの宮(堤大国玉神)がある。
古代から部落の周りには湧き水が出でて小川ではホタルの乱舞が見れる精霊的古里であった。
207:日本@名無史さん
20/11/01 16:59:16.59 .net
【邪馬台国の女王たち】
卑弥呼の死後のことを魏志倭人伝には「さらに男王を立てしも国中服せず。
さらに相誅殺せり。また卑弥呼の宗女壱与、年13なるを立てて王と為し、国中遂に定まれり。」とある。
卑弥呼のあと壱与(台与?)、−田油津姫、−玖津目、−白熊鷹、たちの女王国が
続いたであろう。 紀元413年までの倭(やまと)のことは中国の文献に姿を見せない。
その後邪馬台国は北九州を治めさらに東征して大和連合政権の時代を迎える。
九州では矢部川上流の八女に本拠地をもつ磐井が勢力をもち九州を治めていた。
西暦527年に、大和政権に不満を持った磐井がふたたび九州王朝をねらったことも、
この地が国の発祥地で在るがゆえの「磐井の乱」であったかも、
この時代建造された女山の神籠石は語らない。 神籠石の謎
208:日本@名無史さん
20/11/01 17:16:51.37 .net
ドルメンと言ったら志賀島にもあった
江戸時代に島の南西で小さな箱型ドルメンが発掘され、頂部の大石を取り除いたところ金印が出土した
209:日本@名無史さん
20/11/01 17:45:27.47 .net
福岡県みやま市山川町清水面の上
古代の清水集落は、有明海の海岸線が深く入り込んだ海岸であったろう。
ここに住んでいた古代人は、樹木に覆われた山川町の台地を「面」と呼んでいたであろう。
清水から竹林が覆いる切通しの坂道がある。
今でも地元では台地に上がる坂道の麓ふもと付近を「面の口」、
長い坂道を「面の坂」坂の頂上を「面の上」と呼ぶ。
坂の途中にはクスワン塚古墳、面の上古墳、などがあり、
東側には河原内かわはらうちの九折つづら大塚古墳が存在している。
『後漢書』東夷伝に「安帝あんていの時代である永初元年(紀元107年)、
倭の国王帥升すいしょう等、生口せいこう(奴隷の意)百六十人を献上し、
安帝に謁見えっけん(目上の人にお目にかかる)をお願いした。
桓帝、霊帝の時代(146〜189年)の間、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、,
何年も王がいなかった。」とある。
薩摩街道沿いには、古代遺跡の多い現在の河原内・清水・尾野地区一帯に
邪馬台国成立以前の「倭の面上国」の所在地ではと、郷土史家の村山健治氏らは推理している。,
面上国とは邪馬台国の卑弥呼の時代より130年程さかのぼる時代に存在した国である。
210:日本@名無史さん
20/11/01 17:55:20.37 .net
> 邪馬台国の可能性がある、みやま市山川町の字に「面の上」「面上国」があった。
> 倭の国王帥升すいしょう等、生口せいこう(奴隷の意)百六十人を献上した
> 薩摩街道沿いには、古代遺跡の多い現在の河原内・清水・尾野地区一帯に
> 邪馬台国成立以前の「倭の面上国」の所在地ではと、
> 面上国とは邪馬台国の卑弥呼の時代より130年程さかのぼる時代に存在した国である。
面の坂古墳群 - 山歩き 古墳巡り
riki82.blog78.fc2.com › blog-entry-447
2012/12/15 — みやま市山川町清水 面の坂古墳群 面の上古墳群の
西側の竹林の中に5基の古墳がありました。 面の坂1号墳 西側はずれにあり、
面の坂古墳群中では最大ですが、一部削平されています。
面の坂1号墳 (2) 墳頂 面の坂1号墳 ...
211:日本@名無史さん
20/11/01 18:25:29.02 .net
面の上古墳 *古墳時代前期
URLリンク(geo.d51498.com)
旧道(太閣道)と国道443号が交差する地点にあります。
洪積期こうせききに形成された扇状地せんじょうちの台地上にあり、
まわりには20〜30基ぐらいの古墳があったと想定される場所です。
これまで三基が確認されており2号墳からは、石棺、人骨、鉄剣、鏡かがみ、
釧くし(首や臂(ひじ)につける輪状のかざり)などが発見され、
特に人骨の左手に長さ61.8cmの両刃の剣が副えられており、
その柄の部分は、貴人しか持つことができない“鹿角装ろうがくせいの剣”の特徴があり、
身分の高い人の墳墓ではないかといわれています。
また1号墳は四匹の獣じゅうの形を肉彫りにした、
古い時代の銅鏡(直径12cm)が人骨の手の間に伏せてありました。
これは“四獣鏡しじゅうきょう”と呼ばれ、
よく知られている“三角縁神獣鏡ぶちしんじゅうきょう”よりも古い時代のもので、
船山や沖ノ島から出土した鏡と同じ貴重なものです。.
この古墳は副葬品などから、古墳時代の前期のもので、
山門郡のなかでも古いものと考えられます。
だが現在1、3号墳は消滅しており唯一、2号.だけが跡を残して公園整備化された。
そのほか付近には古墳の積み土が観察できる面の口古墳、蛇谷古墳、
竪穴系横口式石室の裏山古墳などがある。. (山川町教育委員会資料参考)
212:日本@名無史さん
20/11/01 18:33:39.80 .net
永初元年(紀元107年)、倭の国王帥升すいしょう
「倭の面上国王」の孫世代が邪馬台国、山門郡、の「卑弥呼」だったと成るな。
213:日本@名無史さん
20/11/01 20:02:39.31 .net
やはり、みやま市
でも卑弥呼より古い時代だろうな
214:日本@名無史さん
20/11/01 20:08:43.88 .net
だから山門は卑弥呼の故郷(本拠地)だけど、倭王即位後の卑弥呼は博多湾沿岸にいたんだよ。
215:日本@名無史さん
20/11/01 20:11:49.43 .net
>>214
当時の大宰府は海が見えたらしいな
216:日本@名無史さん
20/11/01 20:25:13.49 .net
>>5現在より海抜5Mも上げたら九州福岡は、ほとんど海や入り江だらけ
見渡し良いのは直方か川崎か苅田
217:日本@名無史さん
20/11/01 20:42:18.69 .net
たった800年前でさえ福岡市の中央区や博多区の北半分が海の底だから1,600年前の海岸線はもっともっと内陸側
URLリンク(i.imgur.com)
さらに遡って3500年前は大宰府あたりで有明海と博多湾が繋がってた
URLリンク(i.imgur.com)
218:日本@名無史さん
20/11/01 21:22:59.79 .net
.
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
219:日本@名無史さん
20/11/01 21:52:30.79 .net
柳川・西蒲池池淵遺跡、ト骨県内初の出土
URLリンク(mytown.asahi.com)
柳川市西蒲池の西蒲池池淵(にし・かま・ち・いけ・ぶち)遺跡で、
弥生時代終末~古墳時代初め(3世紀ごろ)の占いに使った骨「卜骨(ぼっ・こつ)」が、
県内で初めて見つかった。九州歴史資料館(九歴、小郡市三沢)が29日、
調査報告会で明らかにした。
卜骨は当時の日本の様子を記す中国の史書「魏志倭人伝」にも記録されており、
邪馬台国時代の県内でもこの風習が行われていたことを裏付ける。
見つかった卜骨はシカ3点、イノシシ1点の計4点。いずれも肩甲骨で、
最大のものは長さ17センチ、幅8センチ。
表面に複数の焼けた穴が並んでいる。集落跡の穴から土器と一緒に出土した。
卜骨は、獣の骨に火のついた棒を押し当て、そこにできたひびの形で吉凶を占う
中国由来の占いに用いられ、 倭人伝には「骨を灼(や)いて卜し、吉凶を占い」などとある。
全国では鳥取県の青谷上寺地(あお・や・かみ・じ・ち)遺跡など約40遺跡での発見例があり、
九州では倭人伝記載のクニ「一支(い・き)国」があった壱岐の原の辻遺跡など長崎県や
佐賀県で見つかっている。しかし、「奴(な)国」や 「伊都(い・と)国」などの有力な
クニグニがあったとされる福岡県内ではこれまで確認されていなかった。
西谷正・九歴館長は「卜骨の占いは特定のクニだけではなく、
当時のクニグニで広く一般的に行われていたことがわかる」 と話している。
220:日本@名無史さん
20/11/01 21:54:19.55 .net
>>209
確か明治の頃から、古事記が一般化して研究が始まった頃は、孝安天皇(記紀が後でつけた名前)が朝貢したのではないかと言われていた時期がありますね。だから大陸の皇帝と同じ様な名前になったとも。
彼の諡号がクニオシヒト
倭の国クニ王オ帥シ升ヒ等ト
漢から奴国が金印をもらったのが約五十年前。
卑弥呼の数倍の生口を献上して、大王自ら朝貢してる大事件のに、なーんにも貰った形跡はなく、実に冷たい内容になっている。
ヤマトが既に朝貢してる九州の国を滅ぼしたとか、そんな事情を想像する人たちもいますね。
221:日本@名無史さん
20/11/01 22:14:26.21 .net
>>214
そう、これは今の筑紫平野に確実に山門郡 夜万止(やまと)なる地名があって
永初元年(紀元107年)、倭国王、帥升の「倭面上国」がみやま市山川町にあり、
卑弥呼伝承地のみやま市界隈には巨大な塚(支石墓)も多く出身地ではと言う事で、
共立されてからは姿を見なかったと言うから別の場所に移った可能性がある。
931年~939年に日本最初の漢和辞典『倭名類聚妙わみょうるいじゅしょう』の中に、
つぎの注釈がある。「山門郷 夜万止(やまと)と訓む、草壁 久佐加部(くさかべ)と訓む、
大神 於保美和(おおみわ)と訓む、、、、」
222:日本@名無史さん
20/11/01 22:20:08.20 .net
>>221
それ何気に凄そうなお話ですね。
ヤマトとオオミワ呼称なら実にポイントを抑えている
223:日本@名無史さん
20/11/01 22:29:43.92 .net
クニオシヒトが朝貢したとする論者が注目してるのは正に面上国の記述
「安帝の永初元年、倭の国王帥升等」の部分が、『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とある。
面土になると、蝦夷とかと同じで蔑称になり、ベトナムとかあの辺りを指す言葉になるそうです。
金印まで授けて大陸が承認した国にちょっかいを出して、慌てて釈明に行ったのではという説ですね。
224:日本@名無史さん
20/11/01 22:33:53.28 .net
>>221
>共立されてからは姿を見なかったと言うから別の場所に移った可能性がある。
年代的には平原遺跡が一番近い王墓になるわけで...
225:日本@名無史さん
20/11/01 23:16:05.39 .net
ここに、何か色々と謂れが調査されてますね。
URLリンク(ameblo.jp)
福岡県みやま市瀬高町山門堤集落に
堤大国玉神=大国主が「大国魂神」として祀られているのです。
『筑後国高良神名帳』の山門郡二十六前の神々に、「堤大国玉神」が記載されている。
「大国玉神」とは「大国魂神」のことであり、
国家に寄与した古代の神に付けられる名前です。今までに3例見かけています。
倭大国魂神:大幡主、第7代孝霊天皇 (孝安天皇が第6代で倭面土王帥升の説あり)
武蔵大国魂神:大国主
226:日本@名無史さん
20/11/01 23:28:42.90 .net
このみやま市瀬高町辺りは大国主との関わりが深そうで、
瀬高の地名に因幡地区もあり
鳥取県楽楽福(ささふく)神社の由緒にあり、孝霊天皇が伊豫皇子、
家臣(大矢口、大水口)、の大矢口・大水口などの地名もある。
物部一族も良く出てくる、吉野ヶ里も側に物部関連の遺跡があったはず。
227:日本@名無史さん
20/11/01 23:32:29.75 .net
>>172
天村雲命の別名に天五多底(アメノイタテ)があるね
射楯神こと五十猛と同一の可能性はある
八岐大蛇から天叢雲剣を入手したのが五十猛の父である素戔嗚命なのも関係を匂わせるね
URLリンク(jinja.nagoya)
アメノムラクモ《天村雲命》
別名 天五多底/天五多手(アメノイタテ)、天五田根(アメノイタネ)(ともに『先代旧事本紀』)
228:日本@名無史さん
20/11/01 23:34:26.48 .net
>>1
> 北部九州説論を語り合いましょう。
>
> ※他説を貶したり、貶めることは九州説の裏付けにはならないのでやめましょう。
> ※しかし、前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> ※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
> ※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
>
> 必須NGワード:@阿波、オクキョン、五十迹手、伊都
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> スレリンク(history板)
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> スレリンク(history板)
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> スレリンク(history板)
>
> 倭国=阿波だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
> スレリンク(history板)
>
> オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張る人はコチラ↓に移動
> 日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
> スレリンク(history板)
229:日本@名無史さん
20/11/01 23:39:46.84 .net
『倭國王帥升等』を、倭国王の帥升【すいしょう】等【ら】と読むのではなく、
謁見を願った中国後漢、孝安皇帝と同じ諡号「孝安」を追贈した??
クニオシヒト大王(第6代孝安天皇)ではないかと??
倭の国【クニ】王【オ】帥【シ】升【ヒ】等【ト】と読む(升は飛の略字とする)
奈良時代の淡海三船らは物部系の人物だから知ってたのかも、先代旧事記などで。
230:日本@名無史さん
20/11/01 23:44:11.27 .net
>>227
妄想であります。
草薙の剣は叢雲王が大王就任の時に、出雲王家から贈られたものらしいです。
尾張氏が所有してました。
尾張家政権の第三代、磯城津彦の代で出雲の分家の磯城家の力が強くなりすぎてしまい、それ以降は尾張家は剣を渡さなくなってしまったそうです。
最終的に東征の際に初代神武の系譜の尾張家と海家は奈良から追い出されてしまいますが、尾張家はその後も剣を守り続け、熱田神宮社家になったそう。
本来は現皇室の物ではないから別々になっているとの事です。
飛騨王家伝説のある水無神社は、戦争中は草薙の剣の疎開先でした。狛犬は狼になっており、ヤマトタケル伝承のある秩父地方の投影が感じられます。
231:日本@名無史さん
20/11/01 23:56:07.90 .net
>>229
淡海三船さんが物部系の人だったのですか。これ半日のお勉強のネタにしますw
諡号に関しては、後付けのものですが、神功皇后系を彷彿とさせる様なタラシ彦とか色々考えがまとまりやすいつけ方があったり面白いですね。
ミマキイリヒコイニエ
イクメイリヒコイサチ
これらは物部系の人で、魏書にもバッチリ出ている人たちなので、ここからも政権の時系列の整理がある程度出来ます。
イクメはイサチとして朝貢メンバーに出ています。
初代武内宿禰、武内太田根や、弟の額田宿禰もたけしうえつや、ぬかだいみたいな名前で載ってます。
魏書の邪馬台国時代は欠史ではありませんではありません
232:日本@名無史さん
20/11/02 00:05:57.83 .net
>>229
おお、元三船王。バッチリ物部の系譜でしたね。
【生没】 養老6年(722年)~延暦4年(785年)
【父】 開花天皇(第2子)
【母】 伊香色謎命(大綜麻杵の娘)
妄想ですがw
開化天皇は、先代クニクルの時の東征で物部側と妥協して、物部の姫様を貰ったとされます。
それがしこめさん。
開化天皇は物部の後妻さんとの子供なので、イニエとは親戚筋。
景初以降の東征でも生き残る訳ですね。
歴史を知っているというよりはほぼ当事者に近い。
うむ、お陰様で大変勉強になりました。
233:日本@名無史さん
20/11/02 00:08:38.92 .net
帥升は第二代天皇の綏靖天皇のような気がする
綏靖(スイゼイ)も帥升(スイシェン)と同じく、元となった名前や幼名から
来ているのではないか?
綏靖天皇が帥升と知っていたから、のちに帥升から綏靖と諡号を決めたのではないか?
234:日本@名無史さん
20/11/02 00:11:38.72 .net
>>229 これな、後漢の恭宗孝安皇帝 (劉祜、在位106年 - 125年)
欠史八代って、もしかして物部王朝だった???
奈良ヤマトに移転したあと筑紫を岩井一族に横取りされ
物部麁鹿火によって制圧鎮圧された。
山門みやま、は物部の祖、「大国魂神」大国主の本拠地で
島根出雲大社、大神神社の三輪氏、石上神宮の物部氏はここから移転した?
235:日本@名無史さん
20/11/02 00:19:15.19 .net
>>229
更に同時期の人で
石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)が居るんですね。
神功皇后時代には物部氏は結構虐められたらしいですが、その後も生き残り、復権もしたんですかね。
記紀の編纂者の黒幕、太安万侶と、藤原不比等が実は多氏系の親戚だったみたいにもしかしたら諡号でも記紀の様に彼らも色々絡んでるかもしれない。
物部系の歴史を残せるのは物部の文化人しかない気がします
236:日本@名無史さん
20/11/02 00:34:54.32 .net
妄想の帝紀
天武天皇が国の歴史を記す作業を始めた際に、各地から有力な豪族出身のメンバーを集めたとされます。
その先のメンバーからは物部氏が排除されていました。
結局そういう危機感が後の先代旧事本紀とか編纂に繋がったのかもしれません。
揉めに揉めた結果、レポートの様なものをまとめただけで天皇は亡くなりました。
これがのちの古事記の編纂の時の秘密主義に繋がったともされます。
いちいち聞いてたら纏まるものも纏まらないと考えたのかもしれません
237:日本@名無史さん
20/11/02 00:36:51.75 .net
物部一族、八尾の奈良時代の僧侶、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が
孝謙(称徳)女帝の寵愛をよいことに僧侶の身でありながら
皇位を譲れと迫ったのも、あながち出鱈目でもないのかもな。
238:日本@名無史さん
20/11/02 00:41:09.46 .net
考古学的な木簡の地名、品物などの文字が記紀より
先代旧事本紀の方が正確に記録された物が多い。
239:日本@名無史さん
20/11/02 00:42:09.42 .net
>>229
そんな感じ
240:日本@名無史さん
20/11/02 00:49:31.84 .net
妄想の中の日向神話
ミマキイリヒコイニエ は、最初はアタ地方のお嫁さんをもらっており、息子にイクメイリヒコイサチをもうけたとされます。
先述の豊玉姫のシークレットに入るのがイニエです。
後妻さんの豊玉姫との間には豊彦と、豊姫を設けます。
これで
魏書に出ている年号が割り振られる前の卑弥呼と、景初年号の振られた卑弥呼が別人じゃないかという説は、宗女トヨ(イヨ)の記述ですね。
最初の卑弥呼は結婚してないのに、後の方はこれ結婚してね?娘じゃね?というのが根拠の様です。
別人なら魏書の書き方が矛盾しないし、東征について行った張政の視点も無理なく説明できるのかもしれません。
何にせよ、大陸の役人が蝦夷東夷を征伐するのに随伴するのは異例の待遇ですよね。
241:日本@名無史さん
20/11/02 01:19:34.56 .net
>>235
>神功皇后時代には物部氏は結構虐められたらしい
くわしく
242:日本@名無史さん
20/11/02 01:24:40.23 .net
>>238
例えば?
243:日本@名無史さん
20/11/02 01:26:18.94 .net
あれ?特徴的な文体の人同士がレスしあってる…?
244:日本@名無史さん
20/11/02 02:31:55.36 .net
>>242
「珠流河」(するが、駿河)や「伊委之」(いわし、魚のイワシ)と読める荷札木簡が見つかっ...
スルガ木簡は、あらかた記紀などで「駿河」の表記です。
石神遺跡から出土した「素留宜矢田部調各長四段四布□□
この「素留宜」は国名なのか氏族名なのかいまいちはっきりしません。
国造本紀(『先代旧事本紀』の第10巻)に「珠流河國造」とあります。
国造本紀の「珠流河國造」と今度見つかった木簡の「珠流河」、同じ表記ですね。極めて興味深いです。
245:日本@名無史さん
20/11/02 02:37:38.56 .net
文武天皇二年(六九八)。「波伯吉国川村評久豆賀里」木簡は、
『和名抄』には伯耆国河村郡笏賀郷にあたると記録されてるが、
「波伯吉国」は伯耆国の古表記で、類似の表記として「波伯国造」(『先代旧事本紀』国造本紀)、
川村郡の「波々伎神社」(『延喜神名式』)が知られる。
『先代旧事本紀』の文字の方が木簡と全く同じ文字で記録されてる。
246:日本@名無史さん
20/11/02 02:50:12.39 .net
『日本書紀』では元明天皇の勅語に従って国名を二字にそろえている。
しかし、 『先代旧事本紀』の国造本紀には、一文字や三文字などの国名が多数見られる。
先代旧事本紀の方が、この部分は少なくとも713年の勅が出される以前の姿を残している。
『先代旧事本紀』 『日本書紀』以後
穂国(ほのくに) 宝飫郡(ほお:参河の国。天平18年[746]平城宮木簡)
遠淡海国(とほつあふみのくに) 遠江国(とほつあふみのくに :『日本書紀』)
珠流河国(するがのくに) 駿河国(するがのくに:『日本書紀』)
无耶志国(むざしのくに) 武蔵国(むさしのくに:『日本書紀』)
知々夫国(ちちぶのくに) 秩父郡(ちちぶ:武蔵の国。天平17年[745年]平城宮木簡)
馬来田国(むまくだのくに) 望陀郡(もうた:上総の国。『延喜式』)
仲国(なかのくに) 那賀郡(なか:常陸国。天平15年[743年]正倉院銘文)
高国(たかのくに) 多珂郡(たか:常陸国。天平勝宝4年[752年]正倉院銘文)
伊弥頭国(いみずのくに) 射水郡(いみず:越中国。天平勝宝6年[754年]正倉院文書)
久比岐国(くびきのくに) 頸城郡(くびき:越後国。天平勝宝4年[752年]正倉院文書)
但遅麻国(たぢまのくに) 但馬国(たじまのくに:『日本書紀』)
鴨国(かものくに) 賀茂郡(かも:播磨国。『続日本紀』)
穴国(あなのくに) 婀娜国(あな:『日本書紀』)
粟国(あはのくに) 阿波国(あは:『日本書紀』)
長国(ながのくに) 那珂郡(阿波国:平城宮木簡)
247:日本@名無史さん
20/11/02 03:48:23.65 .net
>>244
どういうこと?単に漢字を取り込んだ歴史に関係があるんじゃないの?
昔は文字が無いから話し言葉を文字に起こすことができず、書き言葉にするときは中国語にして漢文で書かなきゃいけなくて面倒だったのよ
それを
1.音として漢字を利用し、当て字で一音ずつ日本語を表す→也ヤ麻マ ※非効率で面倒
2.意味として漢字を利用し、日本語読みしてしまう→山(サンと書いて)ヤマ ※万葉仮名
などという試行錯誤で国の名前も漢字が変わってきてるのよ
その木簡の珠流河は1の時代もしくは1の表現法しか知らなかった者によるもので、駿河という表記は2の時代もしくは2の表現法を知っていた権力側の人間によるものと言えると思うけど
どちらも正確だし、単に表現法の時代が違うだけということかと思うけど、違うの?
248:日本@名無史さん
20/11/02 03:53:21.10 .net
そもそも旧事本紀は多くの著名人物によって偽書とされてるのに何を言ってるんだろうか
249:日本@名無史さん
20/11/02 04:07:55.10 .net
>>248
そんな事ないよ
阿部武彦、伊藤剣、 上田正昭; 鎌田純一、工藤浩、古相正美、松本弘毅、渡邉 卓らによって序文以外は研究資料とpしての価値は十分にあると認定されているよ
250:日本@名無史さん
20/11/02 06:48:31.28 .net
>>248
古事記だって正式に採用されなかったから、一般に公開されて研究が進んだ時には偽書と言われてた。
251:日本@名無史さん
20/11/02 07:24:44.10 .net
>>243
日本語が不自由な人ですか?
252:日本@名無史さん
20/11/02 07:45:00.25 .net
メモ
卑弥呼、共立 168年12月17日以降
死亡 247年
新羅本記 173年5月 卑弥呼使者あり
253:日本@名無史さん
20/11/02 08:22:06.85 .net
>>209
>福岡県みやま市山川町清水面の上
この「面、面の上、面の口」という使い方は、肥国の長崎~熊本に共通して用いられた集落・大字・ムラを意味する「免」に通じる気がする。
長崎県には、今も○○免が各所に残る。
かってそれは肥後熊本まで連なっていたらしく、菊池市大津町には鉄鍛冶遺跡で有名な西弥護免という地区もあった。
その両者の中間の清水面であるから、面=免ということではないか???
254:日本@名無史さん
20/11/02 08:37:43.05 .net
>>241
神功皇后の前が物部政権だったからです。
ミマキイリヒコイニエ→物部イニエ
イクメイリヒコイサチ→物部イクメ
最後の物部政権は物部オオタラシ彦
王朝が交代する時、それまでの権力者は力を奪われます。新しい支配者に服従を誓うのです。
神功皇后の養子に入った竹葉瀬君が豊彦、イニエ王と豊玉姫の血筋だとはいえ、その時代はすでに辰韓系のヒボコの子孫神功皇后が成功をおさめた時代になっていました。
私の妄想参考する本にはw
「物部東征が宇佐の月神を旗ジルシとして磯城王朝を滅ぼし、神功皇后が月神を旗ジルシにして、物部の残党を追討したので、大和の王朝では月神を毛嫌いする風潮ができた」とあります。神功皇后は物部を排除しようとしたようです。
神功皇后が物部の王の妃でありながら物部を排除しようと動いたのは彼女の出自と、朝鮮半島の鉄が入る様になった事による政治経済の変化もあると思われます。
安曇も物部とともに力を失っていった時代に入ります。
物部氏は秩父国造達が弾圧をかわすために家系図に手を入れてヒボコ系の名前を書き込んだ様に、ヒボコの名前を家系図に入れる動きが出てきます。
名草の毒矢にやられて亡くなった物部イツセの子孫の和歌山の神社の社宝は、ヒボコの鏡です。
255:日本@名無史さん
20/11/02 08:39:26.98 .net
>>254
訂正
物部氏は秩父国造達が弾圧をかわすために家系図に手を入れてアメノホヒ系の名前を書き込んだ
256:日本@名無史さん
20/11/02 08:43:37.16 .net
ライトノベルスレッド
257:日本@名無史さん
20/11/02 08:53:07.10 .net
>>254
訂正
物部政権は次のワカタラシまででした。
イクメを入れて三代で潰えます
258:日本@名無史さん
20/11/02 08:57:04.30 .net
>>1
>北部九州説論を語り合いましょう。
熊本狗奴国説を前提に語り合いましょう、・・といっているようなものだ。
つまり糸チョンと変わりはない。
259:日本@名無史さん
20/11/02 09:01:20.72 .net
>>256
そうそう、そんな感じでお願いしますw
260:日本@名無史さん
20/11/02 09:07:39.77 .net
オオタラシ
ワカタラシ
ナカツヒコ(仲哀)
諡号の付け方は怖いくらい人物や血筋、人名に肉薄していると思います。
261:日本@名無史さん
20/11/02 09:10:03.73 .net
>>256
まあ、拡大解釈すれば記紀なんて公式のライトノベルですわね
262:日本@名無史さん
20/11/02 09:14:06.80 .net
西日本新聞 2020・11・02
>田川古代史フォーラム「卑弥呼への想い 九州説の夜明け」(田川広域観光協会主催)が1日、
>田川市の田川文化センターであった。
>田川8市町村の首長らも出席し、古代史を観光資源として地域振興に生かす
「卑弥呼連邦」の樹立を宣言した。
>記念講演では、吉野ケ里遺跡の発掘を指揮した考古学者の高島忠平氏ら3人が登壇。
>高島氏は「遠賀川中流域は古代、海が深く進入した入り江で、北部九州にあった邪馬台国の交通、交易の結節点だった」と述べた。
どのみち、箸墓マケムク・阿波とくしまの二の舞だな、ゴクローサン。
263:日本@名無史さん
20/11/02 09:21:32.02 .net
「卑弥呼連邦樹立」 邪馬台国は筑豊にあった? 古代史ロマンで地域振興
西日本新聞 2020/11/2 社会面 吉川 文敬
>邪馬台国は福岡・筑豊の田川地域にあった-。福岡県田川市など地元8市町村の首長が1日、
>同国の女王卑弥呼を地域共通のシンボルにする「卑弥呼連邦」の樹立を宣言した。
>卑弥呼をキーワードに広域観光ルートの開拓やガイドの育成などを進めるという。
>きっかけは、同県赤村で見つかった全長約450メートルの前方後円墳に見える地形。
>日本最大級の古墳「大山(だいせん)古墳」に匹敵する規模から「卑弥呼の墓では」との声が地元から上がった。
>この古墳説に地元の文化財担当者は厳しい見方を示すが、
>「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と連邦関係者。
264:日本@名無史さん
20/11/02 09:35:19.49 .net
田川も阿波も、似たり寄ったりか、、。
265:日本@名無史さん
20/11/02 10:38:42.10 .net
>>262
>高島氏は「遠賀川中流域は古代、海が深く進入した入り江で、北部九州にあった邪馬台国の交通、交易の結節点だった」と述べた。
「北部九州」
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り) @阿波
266:日本@名無史さん
20/11/02 12:52:58.48 .net
良かったねえ
阿波に高島易団の応援が付いて、よく当たるらしいぞえ・・。
267:日本@名無史さん
20/11/02 13:04:25.83 .net
>>266
>阿波に高島易団の応援が付いて、よく当たるらしいぞえ・・。
「阿波」の言う通りにすれば、すべて正解となる。 わははははは @阿波
268:日本@名無史さん
20/11/02 13:38:22.31 .net
>>258
スレタイは福岡・大分、佐賀・長崎と北部九州前提だから本来は熊本がスレチなんだよな
269:日本@名無史さん
20/11/02 13:42:37.21 .net
>>265
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧倭∧ パカッ
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨泡∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( >265O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧倭∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( >265O
し' と_)_) ∧泡∧
なっ、本当だろ!
∧倭∧ ∧倭∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( >265O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧泡∧
270:日本@名無史さん
20/11/02 13:43:20.42 .net
┌────────
│ みっともないからホラ吹きの戯言は終わりにしろよ。
│ ギャハハハハ
└─V ───────
∧倭∧
(#.・∀・)
( ヽ_ ⌒,ヽ、
lヽ_ ソ  ̄_/
l ' ~l
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ヽ y l
ヽ ヽl
ヽ )
l ll ミ⊂⊃彡
l l.l ∫
∩ ∩ l ll ∫
)`i_ )`i l l _____ スミマセンジョ
(  ̄ ̄⌒ ̄ ̄ >>267 ̄ ― _ __ _ _ _
 ̄ ̄ ̄ ⌒─‐___/ _ノ`< ;、Д, >_  ̄ 二、`っ^つ)
/ / ∨泡∨  ̄  ̄
/ / 許シテクダサイニダジョ・・・
( __( J
l,jj,jl,j
271:日本@名無史さん
20/11/02 15:12:53.39 .net
>>1スレタイ拡大してるけど
前にあった福岡説とは同じか、別のスレなのか?
別のを立てるか?
272:日本@名無史さん
20/11/02 15:18:42.83 .net
初代スレは(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
273:日本@名無史さん
20/11/02 15:24:21.13 .net
まぁ徐福ネタの人が某書のコピペ連投始めてから空気変わったもんな
まぁそれでも糸チョンの粘着連投より全然良いんだが・・・
むしろ徐福ネタの人を徐福スレに誘導したほうが良いんじゃないか?
徐福=神武天皇
スレリンク(history板)
高皇産霊尊(タカミムスビ)=徐福
スレリンク(history板)
274:日本@名無史さん
20/11/02 15:25:00.61 .net
つまり、以下を前提というわけだな。
・伊都国は糸島
・奴国は博多
・狗奴国は熊本
275:日本@名無史さん
20/11/02 15:30:31.64 .net
>>260
>諡号の付け方は怖いくらい人物や血筋、人名に肉薄していると思います。
和風諡号は生前の呼称そのままだったのでは?
>>261
>まあ、拡大解釈すれば記紀なんて公式のライトノベルですわね
書いた本人たちは歴史としてまとめていたはず。
特に日本書紀は複数の史書からの引用があることを明記している。
必ずしも創作しているわけではない。
276:日本@名無史さん
20/11/02 15:32:17.70 .net
>>273
スレタイに合致しているのに、自説と相容れないからといって排除し続けると、誰も残らない。
それなら自説のスレでも立てて勝手にやれば?
277:日本@名無史さん
20/11/02 15:37:47.48 .net
>>263
とっとと発掘しろよ。
私見だが奈良に卑弥呼、台与ご遺体は、移動しているよ。殉教者のみ、九州に残る。埋葬者と官職者碑、埋葬物は、奈良に移動している。
278:日本@名無史さん
20/11/02 15:43:08.36 .net
宝来山古墳(奈良市尼辻西町)の陵前碑等
279:日本@名無史さん
20/11/02 15:48:31.74 .net
.
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)
.
280:日本@名無史さん
20/11/02 16:13:57.23 .net
徐福(長崎?)だって伊都(福岡)だって、福岡大分佐賀長崎のスレタイに沿っている。
反論したければすればいい。
できないのはただの勉強不足。
281:日本@名無史さん
20/11/02 16:44:50.08 .net
>>279
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) /
282:日本@名無史さん
20/11/02 16:54:31.17 .net
>>1
> 北部九州説論を語り合いましょう。
>
> ※他説を貶したり、貶めることは九州説の裏付けにはならないのでやめましょう。
> ※しかし、前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> ※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
> ※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
>
> 必須NGワード:@阿波、オクキョン、五十迹手、伊都
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> スレリンク(history板)
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> スレリンク(history板)
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> スレリンク(history板)
>
> 倭国=阿波だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
> スレリンク(history板)
>
> オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張る人はコチラ↓に移動
> 日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
> スレリンク(history板)
>
283:日本@名無史さん
20/11/02 17:01:58.33 .net
> ※他説を貶したり、貶めることは九州説の裏付けにはならないのでやめましょう。
大事なことなので2度言いました。
284:日本@名無史さん
20/11/02 17:43:24.86 .net
けなしたり、おとしめたり
やね
285:日本@名無史さん
20/11/02 18:16:44.14 .net
>>277
>埋葬者と官職者碑、埋葬物は、奈良に移動している。
山奥で、じめじめした奈良盆地のどこがいいんだい? わははははは @阿波
286:日本@名無史さん
20/11/02 18:23:36.27 .net
┌────────
│ みっともないからホラ吹きの戯言は終わりにしろよ。
│ ギャハハハハ
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 ̄ ̄ ̄ ⌒─‐___/ _ノ`< ;、Д, >_  ̄ 二、`っ^つ)
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287:日本@名無史さん
20/11/02 18:28:07.28 .net
>>275
記紀は意図的な作為ですから小説。作家ですよ。
その意味じゃ竹取物語なんて実在の人物がモデルですからよっぽど歴史に近い。
記紀の日向神話なんて本来は歴史書に載ってはならない部分。
神話と歴史を混同してはならないと考えております。
和風諡号に関しては後に付けられたものが多いです。
本人がイクメイリヒコイサチと、外部から入ったことを指すイリを入れるとは思えません
288:日本@名無史さん
20/11/02 18:32:18.71 .net
>>287
>記紀の日向神話なんて本来は歴史書に載ってはならない部分。
宮崎県神話だと馬鹿な勘違いをしているからだよ。 わははははは @阿波
289:日本@名無史さん
20/11/02 18:32:24.56 .net
>>277
妄想本によれば、ウサ八幡は卑弥呼の墓のありかを知っています。
厳島で仮埋葬されて、そのあとは骨を分割して八幡の本殿下にウサ家の先祖とともに祀られています。
本体の墓は八幡ゆかりの山の禁足地らしいです。
290:日本@名無史さん
20/11/02 18:35:16.59 .net
豊玉姫の実家がウサ家。
ウサ八幡宮は卑弥呼で町おこしなんて一度もやってこなかったのにね。
なんだか残念な気がする。
291:日本@名無史さん
20/11/02 18:36:11.06 .net
>>288
阿波さんは邪馬台国畿内説スレに戻りなさいな
292:日本@名無史さん
20/11/02 18:39:25.42 .net
>>290
>豊玉姫の実家がウサ家。
「豊玉比売命」 を祀りもしない所の分際で、頭が高い! @阿波
293:日本@名無史さん
20/11/02 18:54:45.18 .net
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧倭∧ パカッ
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨泡∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( >288O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧倭∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( >288O
し' と_)_) ∧泡∧
なっ、本当だろ!
∧倭∧ ∧倭∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( >288O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧泡∧
294:日本@名無史さん
20/11/02 18:55:10.73 .net
>>287
個人的な思い込みしか書いてないなw
295:日本@名無史さん
20/11/02 18:56:15.26 .net
>>292
人人人人人人人人人人人
< アワばっか吹いてんじゃ >
< ねーよ!徳島朝鮮人 >
Y`Y`Y`Y`Y`Y`Y`Y`Y`Y`
___
,:::::':::::::::::::::::::::':::::,
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
/::::::::」L ̄ ̄ ̄ ̄,__/ ゙̄|::::::ヽ
. |:::::::::|7「\__, l l |:::::::::|
|::::::::::| メ从ュ t'从メ .|::::::::::|
~~~~Y { @ } _ { @ } Y~~~~
(cっ⌒ /:::::V:ヽ ⌒cっ)
`- _(::(:_:_:_:_:)::)_ -´
/、|:.:`:´:.:|,ヽ
296:日本@名無史さん
20/11/02 19:00:34.91 .net
竈家に代々伝わる火の神神楽は日輪刀と同じくヒの効力で鬼を滅する事ができる
卑弥呼は日巫女でもあり、火巫女でもある
297:日本@名無史さん
20/11/02 19:21:25.74 .net
>>294
そうでないと困ることでもおありなのですか?w
298:日本@名無史さん
20/11/02 21:56:58.92 .net
.
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)
.
299:日本@名無史さん
20/11/02 22:18:41.22 .net
>>249
研究資料としてはだよね
正確とは言えないことに変わりない訳で
300:日本@名無史さん
20/11/02 22:19:21.05 .net
>>243
改行おかしくて半角数字も半角カッコも三点リーダも出せないあたり、高齢ブロガーが遊びに来てるのかなって感じ
301:日本@名無史さん
20/11/02 23:16:02.94 .net
>>261
倭国志演義くらいでは
302:日本@名無史さん
20/11/02 23:39:34.51 .net
>>301
高天原は天界ってことになってるから三国志演義よりもっとファンタジー寄り
倭国志無双くらいかな
孔明がビーム撃ってたってのと同レベル
303:日本@名無史さん
20/11/03 00:37:17.50 .net
記紀がライトノベルって
比喩というかダブルミーニング多くて関心したもんだけど
まともに読んだことあんのか
304:日本@名無史さん
20/11/03 09:13:46.62 .net
奴国(博多)から百里で不弥国(宇美町)、水行二十日で投馬国(三輪、甘木、朝倉)へ、投馬国へは
宇美川を経由した、 宇美川は水量の多い河川ではなく、100m程度で堰を設け、平底の舟が航行できる
程度に水を貯水しながら数回この作業を行い、時には湿地を舟を押したり引きながらして投馬国へと
向かったので、二十日を要した、邪馬台国に向かう際も水量の少ない河川を同様な方法で進んだ、暫く
進み、下流は川幅も広く十日で水行を終えて陸行となる、この地帯は小川が多くしかも山間地に向かうため簡単
に目的地に向かうことができず、一月を要した。このように考察すると初期弥馬台国は福岡八女か熊本に隣接する
山間部にあった、と推定される。
305:日本@名無史さん
20/11/03 09:53:30.71 .net
>>304
>このように考察すると初期弥馬台国は福岡八女か熊本に隣接する山間部にあった、と推定される。
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
306:日本@名無史さん
20/11/03 10:02:41.79 .net
>>305
>>78
泡チョンコの分際で
九州への嫉妬に狂いすぎwww
____
/_ノ ヽ、_\. ━┓┃┃
,. -- 、, o゚((●)) ((●))゚o ┃ ━━━━
,―<,__ ヽ::::⌒(__人__)⌒::::: \ ┃ ┃┃┃
/ ヽ ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚ ┛
__| }。≧ 三 ==-
/ ヽ, / { -ァ, ≧=- 。
{ Y----‐┬´ 、レ,、 >三 。゚ ・ ゚
/'、 ヽ |ー´ ヽ`Vヾ ヾ ≧
.{ ヽ ヽ lヽ_!´ ヽ。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
', ヽ ヽ ,/ }
ヽ ヽ 、,__./ __/
\ ヽ__/,' _ /
\__.'! 〈 _, '
 ̄
307:日本@名無史さん
20/11/03 10:07:22.40 .net
>>305
このスレ使うならテンプレくらい目を通してくれよ…
>>1
> 北部九州説論を語り合いましょう。
>
> ※他説を貶したり、貶めることは九州説の裏付けにはならないのでやめましょう。
> ※しかし、前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> ※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
> ※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
>
> 倭国=阿波だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
> スレリンク(history板)
>
308:日本@名無史さん
20/11/03 10:18:01.41 .net
>>307
> 倭国=阿波だと言い張る
言い張っていない。
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! と言ってるだけ。 @阿波
309:日本@名無史さん
20/11/03 10:20:18.01 .net
>>307
> 倭国=阿波だと言い張る
言い張っていない。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と言ってるだけ。 @阿波
310:日本@名無史さん
20/11/03 10:21:25.92 .net
>>308
にほんごよめないのかな?
>
>>1
> ※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
> ※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
>
>
>>1
> ※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
> ※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
>
大切なことなので2回コピペしてあげました
311:日本@名無史さん
20/11/03 10:22:29.40 .net
>>309
にほんごよめないのかな?
>
>>1
> ※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
> ※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
>
>
>>1
> ※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタを禁じます。
> ※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ は 禁 止 で す !
>
たいせつなことなので2かいコピペしてあげました
312:日本@名無史さん
20/11/03 10:24:44.74 .net
>>310
にほんごよめないのかな?
阿 波 ネ タ なんて一言も言っていない。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と言ってるだけ。 @阿波
313:日本@名無史さん
20/11/03 10:25:40.78 .net
>>311
にほんごよめないのかな?
阿 波 ネ タ なんて一言も言っていない。
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! と言ってるだけ。 @阿波
314:日本@名無史さん
20/11/03 10:38:23.30 .net
まぁ21世紀になって初のセルフ河豚中毒死が出るようなバカ県の奴なんて相手するだけ無駄
315:日本@名無史さん
20/11/03 11:18:36.69 .net
台与の正式名称について
古事記には萬幡豊秋津師比売命の記述あり。
天照大御神が、神聖な機屋にて、神に献上する御衣を機織女に織らせていたとき
速須佐之男命がその機屋の棟に穴をあけて、斑ぶち入りの馬を逆剥ぎにして落とし入れた
機織り女はこれを見て驚き、梭ひで女陰を突いて死んでしまった。
そして、天照大御神はそれを見て恐れて、天の石屋の戸を閉じて中にこもった。
この機織女こそ萬幡豊秋津師比売命で天照大御神の後継者であったかも。
だが伊勢神宮外宮に祀られる豊受大神は炊事にまつわる女神である。
萬幡豊秋津師比売命が素戔嗚尊に殺され卑弥呼も亡くなって葬られた。
新たに卑弥呼の宗女が選ばれた。それらしい名前が豊御食炊屋姫尊である。
ご存知のように推古天皇の諡号である。台与の正式名称である豊御食炊屋姫が
日本初の女性天皇の諡号として古事記に採用された可能性は無いだろうか…
316:日本@名無史さん
20/11/03 11:19:16.10 .net
>>314
※ 阿 波 ネ タ は 禁 止 で す ! わははははは @阿波
317:日本@名無史さん
20/11/03 11:23:47.35 .net
>>311
これのお返事は出来ないのかな?
↓
にほんごよめないのかな?
阿 波 ネ タ なんて一言も言っていない。
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! と言ってるだけ。 @阿波
318:日本@名無史さん
20/11/03 11:25:04.41 .net
このスレ、弱すぎ! @阿波
319:日本@名無史さん
20/11/03 11:30:43.44 .net
邪馬台国は巫女の出身によって移転したような気がします。
卑弥呼=ヒミコ=火の国、日の国の巫女 肥後か日向かな?
台与=トヨ=豊(トヨ)の国 豊前の中津か宇佐か?
320:日本@名無史さん
20/11/03 11:38:01.62 .net
>>319
>邪馬台国は巫女の出身によって移転したような気がします。
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
321:日本@名無史さん
20/11/03 11:45:56.53 .net
万幡豊秋津師比売命= 葦原中津国へ降臨した邇邇芸命の母
葦原中津国=大分県中津市
宇佐八幡宮=比売大神=台与 宇佐八幡宮が台与の墳墓?
322:日本@名無史さん
20/11/03 11:51:42.55 .net
>>321
>宇佐八幡宮=比売大神=台与 宇佐八幡宮が台与の墳墓?
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
323:日本@名無史さん
20/11/03 11:53:13.60 .net
斑ぶち入りの馬を逆剥ぎにして落とし入れた
牛馬虎豹羊鵲はいない(魏志倭人伝)
北方騎馬民族と長江下流域より渡来した南方海洋民族の争い?
324:日本@名無史さん
20/11/03 11:57:29.01 .net
>王都たる集落遺跡
まぁ吉野ケ里遺跡のように、そのうち出てくるw 単なる考古学者の怠慢w
それと地名として残る土地の記憶のようなものは大いに参考になる。
325:日本@名無史さん
20/11/03 12:04:41.08 .net
それで、11月1日の田川文化センターはどうなったのか?
偉大なる3名の講師先生方は、とうとうと北部九州説をぶち上げたんだろ~な
326:日本@名無史さん
20/11/03 12:44:59.04 .net
またレス番飛んでるな
327:日本@名無史さん
20/11/03 12:47:23.10 .net
>>321
トヨは魏書にもある様に奈良入りしています。
一説にはホケノ山古墳に葬られたと伝えられます。
あの古墳と箸墓の古墳の関係が面白くて、箸墓のほうが新しいとか、逆に古いとか説が二転三転しています。
ホケノ山からは3世紀以降にならないと滅多に出土しない農機具の刃先鉄器が出ています。、更に、三角縁神獣鏡が出ていないちょっと変わった古墳がホケノ山です。
邪馬台国は、実質は物部と豊国の東征でした。
故にトヨは奈良、卑弥呼は途中で没したので宇佐八幡宮が墓所になりました
328:日本@名無史さん
20/11/03 12:55:43.45 .net
>>326
今日は糸チョンじゃなくて泡チョンがウザ絡みしに来てるんだよ
329:日本@名無史さん
20/11/03 13:49:18.33 .net
.
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)
.
330:日本@名無史さん
20/11/03 13:57:59.90 .net
.
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
URLリンク(inoues.net)
.