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一方、瀬高町坂田の権現塚は広い周濠を持っており、福岡県屈指の円墳とされている。
このあたりは、日本書紀の神功皇后紀で田油津媛という首長がいた山門郷と同一の場所とみられており、
この田油津媛は魏志倭人伝の卑弥呼と非常に似た背景に描かれている。
この山門を倭人伝の卑弥呼の祭祀所のあった所とした場合、この権現塚は卑弥呼の寿陵であった可能性が出てくる。
瀬高町教育委員会は権現塚を5世紀の築造と推定されているとしているが、
墳丘などの調査はされていず、あくまで推測であり、確定したものではないようだ。
卑弥呼の寿陵であった可能性は残っているのである。
そして、権現山の周濠と円墳のサイズは、久留米の祇園山の墳裾下裾と上裾のサイズがほぼぴったり合うことから、
山門から避難して御井の地で急死した卑弥呼の墓として、寿陵の権現塚と同サイズに急遽造られたが祇園山だったという構図を描くことができるのである。
おそらく、間違いないだろう。