邪馬台国畿内説 Part648at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part648 - 暇つぶし2ch950:日本@名無史さん
20/10/17 19:36:01.62 .net
>>901
この板は、それくらいでOK。
少々データ不足でも、確定事項として押し出さないと、迫力に欠ける。
学者の論文じゃないんだし。

951:日本@名無史さん
20/10/17 19:36:23.53 .net
>>910
脳内劇場はお前だろ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津       (250年頃) ④懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 

952:日本@名無史さん
20/10/17 19:46:34.01 .net
>>908
おお、その情報凄いですね。

953:日本@名無史さん
20/10/17 19:49:23.94 .net
>>906
>この時期に半島にいたのは九州縄文系の種族だけであり
根拠は?

954:日本@名無史さん
20/10/17 19:51:10.73 .net
>>913
お前のは全てが作り話

955:日本@名無史さん
20/10/17 19:51:55.07 .net
>>896
宇佐族は南方系なん?

956:日本@名無史さん
20/10/17 19:52:52.59 .net
>>917
いや、歴史事実だ。

957:日本@名無史さん
20/10/17 19:57:59.31 .net
>>919
ホラ爺アッシーだろw

958:日本@名無史さん
20/10/17 19:59:25.58 .net
>>897
ブーメラン刺さってますよ😅

959:日本@名無史さん
20/10/17 19:59:37.00 .net
>>916
韓国の国立博物館は、1万2000年間から6000年前まで半島には人が住んだ遺跡がみあたらんといておるそうや。
ということは無人やったということ。
しかし、考古学的には半島南岸域や島で遺跡がみつかつている。
その時期は1万年前~6000年前頃やな。
ということは、その時期に半島に居たのはその種族だけということになる。
その種族の土器などは九州縄文人の土器などと実によく似ているそうや。
これ、常識やぞ。

960:日本@名無史さん
20/10/17 20:02:51.11 .net
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)

961:日本@名無史さん
20/10/17 20:03:44.59 .net
>>912
崇神が担いできたのは日神だろうな。
天照�


962:蜷_は後の創作じゃないの?



963:日本@名無史さん
20/10/17 20:07:54.00 .net
>>920
吉井信号は、もう掘ったのか。

964:日本@名無史さん
20/10/17 20:20:49.02 .net
>>901
>>この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、
日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
>自分の妄想を断定調で書くな。それは典型的な詐欺師の手法だ。
賛成です。
自分が論拠にした文献考古の史料事実や、
それに関する信頼性や確率的な史料批判という史料実態の推論、
が必要です。

965:日本@名無史さん
20/10/17 20:26:10.53 .net
>>922
それが鬼界カルデラの大噴火後の轟B式土器だろ

966:日本@名無史さん
20/10/17 20:27:29.84 .net
>>905
>・・・ま、もちろん私の創作で妄想ですが。
勿論、根拠の史料事実や、それからの帰納的確率的な史料実態の推論、
などが書かれていないから、
始めから、信頼性がありません。

967:日本@名無史さん
20/10/17 20:35:55.72 .net
>>910
>倭人伝には名前が書かれてないんだから、その卑弥呼の名前が分かるわけないわ。
分かるというやつは、脳内劇場の持ち主以外にない。
松野氏姫氏系図には、卑弥呼は「刀良」という名前であった、と書かれている。

968:日本@名無史さん
20/10/17 20:42:39.97 .net
>>929
それ、古文書ですらねえし

969:日本@名無史さん
20/10/17 20:43:00.48 .net
>松野氏姫氏系図に
倭の五王を強引に継ぎ足したり、いいかげんな代物www
しかも五王の名前を中国史書そのままにしてやんのwww

970:日本@名無史さん
20/10/17 20:45:17.91 .net
>>912
>それ間違い。
崇神は4世紀初頭の行灯山、神武は纏向石塚の時代。
纏向石塚が神武の墓ということじゃなく、あくまで時代が同じということね。
それ間違い。
神武即位元年は、二中歴などに拠って、紀元前91年頃。
石塚は、卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、
最初期の前方後円墳の那珂八幡などが3世紀後半半ば過ぎ頃になるから、
それの「進化型」である庄内は、3世紀末以後。
>それ(=纏向石塚)は卑弥呼の時代でもある。
バツ。

971:日本@名無史さん
20/10/17 20:50:49.07 .net
>>923
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
バツですね。

972:日本@名無史さん
20/10/17 20:55:25.38 .net
半島には縄文人が住んでいたんだろ
鬼界カルデラの活動により滅んだと

973:日本@名無史さん
20/10/17 20:56:04.87 .net
滅亡の時期の特定によりかなり歴史資料変わるね

974:日本@名無史さん
20/10/17 20:57:41.11 .net
そのあとに色んなのが流入したんやろ

975:日本@名無史さん
20/10/17 21:04:21.16 .net
>>934
滅んでねえ~つうの。
火砕流が来たのは鹿児島市付近まで。
その北のほうは、みんな避難したのよ。
だから、轟Bが轟Aにつながってるわけ。
勝手に滅ぼすなヨ。

976:日本@名無史さん
20/10/17 21:11:04.02 .net
>>928
まさかのマジレスが付くとはww

977:日本@名無史さん
20/10/17 21:11:49.77 .net
>>913
それをホラという

978:日本@名無史さん
20/10/17 21:16:13.52 .net
>>899
そのシャーマンは途中で死ぬじゃん。
3分の一行く前に魏書と合わない

979:日本@名無史さん
20/10/17 21:19:08.30 .net
>>926
そうした推論を経た結果が、葛城王朝、三輪王朝=崇神王朝論だよ。
君らとなんら変わらん。
確かな根拠がある。

980:日本@名無史さん
20/10/17 21:20:44.70 .net
>>890
倭迹迹日百襲姫
との字は、後という意味の漢字。意味のある当て字だとしたらと考えちゃいますね。

981:日本@名無史さん
20/10/17 21:25:05.34 .net
徐福の布教活動はかまわんがほどほどにするのと規制はすんなよ。

982:日本@名無史さん
20/10/17 21:26:29.73 .net
>>940
魏書と合わなくて当然。
日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。
だから、この王朝のもとに造営されたホケノ山や黒塚からは鉄器がざくざくと出る。
それ以前の墳墓から何も出ないのに、どうよ、この変化は。
輸入鉄器などを大和が独り占めした結果だ。
崇神王朝は、そういう体制だったつ~こと。

983:日本@名無史さん
20/10/17 21:29:51.12 .net
>>944
>日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。

よくもまあ、そんな大言壮語を吐けるもんだ。  常識と言うものが無いのだろうか?   
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波  

984:日本@名無史さん
20/10/17 21:32:40.29 .net
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

.

985:日本@名無史さん
20/10/17 21:38:32.83 .net
>>942
迹の漢音はセキ、シャクなので、この字をトと発音しているのは、この字の日本語の読みであるアトのト音を取っているように見える。
何か意味付けがあるのか、単に数字の十(ト)の音を表すのにこの字を用いたのか。
後者であれば、十十日とすれば九九であることがもろ分かりなので、別の字を用いたということかもね。

986:日本@名無史さん
20/10/17 21:45:14.50 .net
>>945
フフ、効いてる効いてるw

987:日本@名無史さん
20/10/17 21:46:36.70 .net
>>945
畿内には唐古鍵遺跡と言う大きな集落跡があるよ

988:日本@名無史さん
20/10/17 21:47:19.11 .net
>>945
神武が宮を置いた畝傍山東南麓の北東すぐのところに瀬田遺跡がある。
たくさんの遺物が出ている。
ここに東瀬戸内系の前方後円型墳墓がみられる。
2世紀末頃の築造だとされるものの、その形状からすれば纏向遺跡の東田大塚古墳を真似たもののようにみえる。
時期は3世紀後半ではないか。
つまり、崇神(神武)の宮の近くには、こうした集落がたくさんあって、賑わっていたのではないか。

989:日本@名無史さん
20/10/17 21:49:03.44 .net
>>944
そもそもが、紀元前から尾張氏と磯城登美家は奈良で製鉄やってましたよ。
出雲系の国で製鉄や出てないはずないでしょ
トヨは物部連合の重要な要。卑弥呼だからね。
大和の制服には絶対に欠かせない要素だった。
東征なのに逆になんで呑まれちゃうのさ

990:日本@名無史さん
20/10/17 21:51:00.22 .net
>>941
ミマキイリヒコなのに、葛城や三輪山祭祀がイコールなんてあり得ませんよ。
根拠どころか、時系列がおかしい。

991:日本@名無史さん
20/10/17 21:51:49.62 .net
>>949
>畿内には唐古鍵遺跡と言う大きな集落跡があるよ
その唐古鍵遺跡が、「王都たる集落遺跡」でいいのかい?   @阿波

992:日本@名無史さん
20/10/17 21:54:18.04 .net
>>922
そもそもが、旧石器時代の遺跡なんて圧倒的に日本の方が多いですよね。
地続きだった頃にあんな寒い朝鮮に住む人はいない。

993:日本@名無史さん
20/10/17 21:56:37.46 .net
>>947
後と言う字がまさかのビンゴなら
ヤマト、後、登美モモソ姫と言うことになるかもで、なんらかの示唆の様な気がする

994:日本@名無史さん
20/10/17 22:11:32.35 .net
>>953
>その唐古鍵遺跡が、「王都たる集落遺跡」でいいのかい?
全然ダメ、王都であるわけがない。
崇神の宮は磯城瑞籬宮と言われてるが驚くほど小さい敷地。
王宮が神社として残ってるという事実が大事。
卑弥呼やトヨの宮も今では神社として残ってるのであろう。
もちろん式内名神大社。

995:日本@名無史さん
20/10/17 22:14:01.05 .net
>>953
まあ当時の国内最大規模の集落らしいしな
王都の集落遺跡でもおかしくないね

996:日本@名無史さん
20/10/17 22:16:47.75 .net
>>950
>崇神(神武)の宮の近くには
簡単に同一人物にするな、50年くらい前の古い説。
崇神と神武では后の名前も違えば宮の場所も違う。
神武は日向から来たが崇神はずっと磯城。
なんで同一人物になるんだ。

997:日本@名無史さん
20/10/17 22:18:53.79 .net
>>957
>(唐古鍵を)王都の集落遺跡でもおかしくないね
へぇ、じゃその時代の王墓は?

998:日本@名無史さん
20/10/17 22:22:46.81 .net
>>959
そりゃあ前方後円墳だな

999:日本@名無史さん
20/10/17 22:26:21.13 .net
>>958
>神武は日向から来たが崇神はずっと磯城
逆で、神武はずっと磯城で、崇神は日向から来た、じゃないの?

1000:日本@名無史さん
20/10/17 22:26:47.55 .net
>>960
唐古鍵時代の王墓がなんで前方後円墳なんだよ。
時代が全然違うだろ。

1001:日本@名無史さん
20/10/17 22:28:45.06 .net
>>961
>神武はずっと磯城で、崇神は日向から来た、じゃないの?
おまえウザいから消えろ。
歴史を好きに作り替えて良いならなんだってできる

1002:日本@名無史さん
20/10/17 22:33:05.01 .net
>>962
唐古鍵は古墳時代も存続してたしいいだろ

1003:日本@名無史さん
20/10/17 22:37:21.20 .net
>>956
トヨの宮は確かに今でも残ってますね。
椿大社から招かれたトヨ来入姫は、島子に連れられてそこに落ち延びます。
椿大社の奥に、豊玉姫のための別宮を立て、椿岸神社が建てられます。
そこではツクヨミも一緒に祭られ、細女(うずめ)本宮と呼ばれています。
後に彼女はイクメの放った刺客により暗殺され、後世にホケノ山古墳に埋葬されたと伝承されます。
あの古墳からは三角縁神獣鏡はでず、後漢鏡が出土しています。
しかし、放射性炭素分析により、2018年度の再度の検討により年代が50-100年ほど新しくなってしまい。4世紀の判定。
若干トヨの時代と合わないのではないかと言われ始めています。

1004:日本@名無史さん
20/10/17 22:49:14.51 .net
>>964
>唐古鍵は古墳時代も存続してたしいいだろ
いいわけないだろ、たとえば2世紀前半頃、
魏志に書かれた其国の男王の墓はどう説明するの?

1005:日本@名無史さん
20/10/17 22:50:45.56 .net
>>954

寒いときの方が食料の大型獣がいたんだよ
温暖化が始まって半島の大型獣が北上してしまったから半島の旧石器人たちは
それを追ってみんな北上してしまった
だから半島からほとんど人が消えてしまった訳だ
日本列島の場合はそうする訳にはいかなかったから代替食料に捕鯨や
サケ、マス、マグロなど、漁労に移行していった
元は同じ朝鮮半島から入ってきた旧石器人なんだがな
ただ日本列島の場合は樺太からも違った旧石器人が後から入ってきて、
朝鮮半島にはない技術や文化をもたらした
縄文土器は樺太経由の旧石器人がもたらした技術の内の一つ
それから何千年も後の3500年くらい前に沿海州と海を越えての黒曜石交易が
たびたびあった
黒曜石を求めて山陰地方に渡来していた沿海州ツングースの一部が山陰地方に定着した
これが弥生人の祖先になっていったのである

1006:日本@名無史さん
20/10/17 22:52:23.21 .net
>>965
>後に彼女はイクメの放った刺客により暗殺され、後世にホケノ山古墳に埋葬されたと伝承されます。
いつ、どこで、誰によって伝承されてきたんだよ、ボケナス。

1007:日本@名無史さん
20/10/17 22:55:30.07 .net
>>963
口から出まかせ言ってると周囲と調和がとれなくなるよ?w
崇神は物部イニエで大和入りしていない。
そもそもが、息子のイクメがイサチとして魏書に書かれてるだろ。その時点で察しろw
万世一系のために、磯城王朝の大日日(開化天皇)だが、ミマキイリヒコをオオヒビの皇子に偽装して磯城王朝の系譜に入れ込んだのが記紀の作為
そうするとミマキイリヒコの母親をでっち上げないといけないことになる。
なんと先代の磯城クニクルの奥さんをあててしまう。
そうすると、開化は地位の配偶者を嫁さんに迎えたことになってしまう
古事記に登場するミマツヒメは、開化記では崇神の妹にされている
しかし、崇神記ではイクメの母はアタツ姫の処をミマツヒメに替えられてる
万世一系、二つの王朝を一つにまとめる作為の結果、オオヒビのあとにいろんな人を詰め込んで書かざるを得なくなった。

1008:日本@名無史さん
20/10/17 22:56:58.14 .net
>>968
さあ?地球が何回廻ったころでしょうね?w

1009:日本@名無史さん
20/10/17 23:14:55.34 .net
>>967
ツングースに環濠集落は無い

1010:日本@名無史さん
20/10/17 23:15:08.57 .net
宇佐家極秘口伝書
大分県の宇佐神宮宮司であった故宇佐公康氏(宇佐国造池守公より57世)が、宇佐家に代々伝わる極秘口伝書の内容を1990年に著書「古伝が語る古代史」にて公開。
次世代に受け継ぐ者がいないため、一子相伝の「口伝書」と「忘備録」を世に公表して残そうと決意した。この辺は諏�


1011:Kの神長官と同じだね。 この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、高良神社が氏神であり、神武東征以前にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとある。 そして崇神天皇は物部氏の首長であったと。 五瀬の東征なのか、イクメの東征なのかは判然としない書き方だが、物部の血は何しろ隠さねばならぬ秘密だった



1012:日本@名無史さん
20/10/17 23:20:45.84 .net
>>967
>これが弥生人の祖先になっていったのである
惜しい。弥生人じゃなくて、縄文人の祖先
縄文人の母系のハプロタイプDは、北海道、沖縄、そして本州では出雲にのみ分布する。
紀元前200年代では出雲王朝は第八代。
その前のクナト王の系譜は50代ほど遡れるらしい。
出雲伝承では渡来が3500年ほど前とされており、ロシア経由での渡来と伝承される。
彼らは最初からインドの製鉄を持ってた。だから、日本最古の鉄の出土は中国より古い物が出ている。
ロシアの「ブリヤート人 日本人」で検索。日本人激似。

1013:日本@名無史さん
20/10/17 23:25:55.79 .net
>>967
遮光土偶で有名な亀ヶ岡式土器は、後に九州にまで影響を及ぼし、その後、水稲伝播と同じくして次第に逆方向に押し返されていく。
一説には銅鐸の模様の原型ではという説もある
亀ヶ岡式土器の影響は沖縄にまで及んでおり、九州は青森よりも遅い時期の出土となっている
出雲族渡来、縄文人の母系DNA、土器から見ても朝鮮半島は日本に影響はしてないと考えるのが一般的

1014:日本@名無史さん
20/10/17 23:30:43.44 .net
>>962
あの遺跡、埋没古墳が発見されてて前方後円墳だよね。

1015:日本@名無史さん
20/10/17 23:42:55.26 .net
>>971
それはずっと後になってから半島からパクっただけの話
稲作や金属器もな

>>973
頭の中が隅田川花火大会のひと乙

1016:日本@名無史さん
20/10/18 00:00:48.06 .net
>>918
宇佐氏の伝承では、
宇佐族は、9000年前の早期縄文時代には山城国の稲荷山を根拠地として狩猟・採取の生活をしていた(宇佐家伝承)p36
続く出雲族が、8500年前にシベリアから来た、と本には書かれていますが、
宇佐族が来て過ごしていた時代、日本列島は定住していない(稲作のない)縄文時代でありました。
宇佐氏の縄文時代については、宇佐族はどこから来て、という内容は伝承にはないようでした。
そして、やはり水稲耕作はしていなかったようです(縄文土器は使っていた)。宇佐家伝承1巻p106<日本最古の先住民族イザナギ族は、先妻の子がアイヌで東日本に展開、後妻の子が西日本で宇佐族になった、という伝承があるようです)

1017:日本@名無史さん
20/10/18 00:02:16.67 .net
>>976
それはお前が言ってるだけの話

1018:日本@名無史さん
20/10/18 00:03:03.82 .net
>>976
何でもかんでも朝鮮半島の、昔の先生みたいな人、久々に見たわw

1019:日本@名無史さん
20/10/18 00:10:10.77 .net
>>976
水稲に関しては日本最古の佐賀の遺跡と同時期の物が朝鮮半島にはあるけど
その時代、朝鮮半島には鉄器の出土がない状態になってる

1020:日本@名無史さん
20/10/18 00:14:12.37 .net
環濠と環壕
URLリンク(31562jp.files.wordpress.com)

1021:日本@名無史さん
20/10/18 00:15:21.58 .net
>>96


1022:6 そこらの円墳じゃないかな



1023:日本@名無史さん
20/10/18 00:16:03.13 .net
>>979
弥生人自体は朝鮮半島じゃないぞ
弥生人が朝鮮半島から渡来したなら、朝鮮土器から弥生土器が始まっている
はずだろうが
ところが弥生土器は沿海州南部と特徴が一致する土器から始まっている
ちなみに弥生土器が始まったときの朝鮮土器は孔列文土器だ
弥生人が朝鮮半島から渡来したなら、孔列文土器から弥生土器が始まってないと
話がおかしいね

1024:1
20/10/18 00:19:01.74 .net
新スレ立てました。
スレリンク(history板)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

1025:日本@名無史さん
20/10/18 00:25:18.94 .net
>>958
学者の説では、神武=崇神説が根強い。
神武が南九州阿多から大和入りするまでを表し、
連合の大シャーマンに就任したあとは崇神で表しているとする。
この説に従えば、生身の人物としては崇神と諱を贈られた人物が南九州阿多からやってきた人物であるとするのが妥当。
で、橿原にいた崇神(神武)が皇后としたのが媛蹈鞴五十鈴媛で、崇神(神武)が纏向での祭祀のために逗留した磯城の仮宮での妻が御真城姫。
橿原の媛蹈鞴五十鈴媛の名に比べて、磯城での御間城姫の名は皇后としては軽い。
その違いは皇后と妃の違いといえる。
崇神(神武)の本拠地は橿原だったつ~ことだよ。

1026:日本@名無史さん
20/10/18 00:34:34.41 .net
>>977
宇佐八幡宮の大スポンサーは秦氏だったから、宇佐族渡来後の本拠地が山城の稲荷山だったとする伝承は、正直でよいと思います。

1027:日本@名無史さん
20/10/18 00:43:23.68 .net
卑弥呼 ← 宇那比姫
相誅殺男王 ← 侵略王フトニ
臺与 ← 百襲姫(フトニの娘)
次の男王 ← ミマキ

1028:日本@名無史さん
20/10/18 00:59:31.15 .net
>>955
まあ、そのまま考え続けていたまえ。

1029:日本@名無史さん
20/10/18 01:21:39.87 .net
物部氏が、その後のヒボコ勢力に対する姿勢に大きな変化が現れ、
物部何某が、我はヒボコの子孫であると天皇だか役人に発言した逸話
五瀬家の作った神社の社宝が日鉾の鏡と名付けられている
などをもう一度探していたらこんなものが
URLリンク(snk.or.jp)
旧家の伝承の影響を受けてないのにここまで徐福に肉薄する人もいるんだな。さすがに驚いた

1030:日本@名無史さん
20/10/18 01:22:49.09 .net
>>989
筑後デジタルアーカイブ研究会---シニアネット久留米
いったどんな集団なのだ・・

1031:日本@名無史さん
20/10/18 01:51:20.60 .net
兵頭神社に関してはヒボコが祀られているという話は聞いたことがあり訪れたこともある。
神紋はミカン(橘)。タジマノモリの憲章なのか、今でも神社周辺には橘が植えられている
通常であれば祭神はタジマノモリである。
しかし、吉田太洋の、謎の出雲帝国においては、著者がヒボコを狙い撃ちして宮司さんに切り込んでいる。
野美の宿祢とタジマノモリの古事が相撲の逸話につながる現場で何故ヒボコなのか・・。
元は尾張氏が作った神社で、中国の蚩尤を祭り、渡来勢力を見張る拠点としていたところで、五十猛の字が入った神社で会った。
イタテヒョウズ神社。いつヒボコが合祀されたのかずっと謎であった。
そしたらこんなものを見つけた。本スレにも関係しそうなので載せる
つづく

1032:日本@名無史さん
20/10/18 01:51:36.97 .net
 >銅鐸の時代から銅鏡の時代へ、倭国大乱の後、邪馬台国が倭国を代表する時代が到来した。
 地霊信仰から天神信仰への変化でもあった。大国主の時代から天日槍の時代への変遷であった。
 
 『播磨国風土記』、記紀が伝える葦原志挙乎命・伊和大神と天日槍との戦いは、魏志倭人伝に伝えられる倭国大乱を思わせる。
 石窟に隠れた天照大神を誘い出すべく作った「日矛」は紀の国の日前国懸神宮に祀られていると言う。近くの太田黒田遺跡は銅鐸から銅鏡への祭祀の変遷を語る。また日前国懸神宮の地にはかっては素盞嗚尊の御子神を祀る伊太祁曽神社が鎮座しており、社地交代があったと言う。国譲りである。
 『大倭本紀』には、天皇始めて天降り来ましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう。鏡の一つは伊勢神宮に、一つは紀の国の国懸神宮に、残る一つの鏡と子鈴は穴師社におさめたたとある。穴師社とは大和国城上郡に鎮座する穴師坐兵主神社である。ここは纏向遺跡を見おろす位置である。
 穴師坐兵主神社の神体は日矛とされる。天日槍である。兵主神とは日本では日矛が神体であり、人格神としては天日槍命である。この神社は、国津神の頂点である三輪山の大神神社と、物部氏の斎祀る石上神宮の間を割くように鎮座する。それぞれの年代の大和の支配者の斎き祀る神であった。
 邪馬台国の一大率の駐在地であった伊都国の県主に末裔に五十跡がおり、天日槍の末裔と名乗っている。ここには天日槍の妻を祀る高磯神社が鎮座している。
URLリンク(kamnavi.jp)
物部の拠点や伊都国にヒボコの痕跡があるとは思わなかった。
これなら、五瀬家の口伝や、名草の子孫の小野田さんの口伝と整合する
伊太祁曽神社は元はスサノオをまつる神社だったらしい

1033:日本@名無史さん
20/10/18 01:56:32.09 .net
>>985
この皇后のパターンは、次の垂仁天皇でも同じである。
2代綏靖天皇は葛城高丘宮に住み、皇后は五十鈴依媛。
一方、崇神天皇の次の垂仁天皇は纏向珠城宮に住み、皇后は狭穂姫、日葉酢媛。
垂仁天皇の皇后とされる狭穂姫の名は軽い。日葉酢媛も五十鈴依媛に比べると軽い。
実際には、垂仁天皇も橿原・葛城地域に宮を置いて住み、纏向での祭祀のために磯城・纏向地域に仮宮を置いて斎戒沐浴精進したとすれば、
葛城の五十鈴依媛が皇后で、纏向の仮宮の狭穂姫は妃ということになる。
このように、崇神王朝は、橿原・葛城地域と磯城・纏向地域にまたがるエリアをカバーしていたとみるのが正しいだろう。
つまり、葛城王朝と三輪王朝とは、実は崇神天皇を始祖とする一つの王朝だったということになる。

1034:日本@名無史さん
20/10/18 02:10:38.96 .net
>>993
垂仁天皇じゃなくて、畿内ヤマトと九州物部を曲がりなりにも統一した王はイクメ垂仁だよ。
事実上の日本史上、初の日本統一をしたのがイクメ。
記紀ではイクメの業績を崇神にしている。
イクメは前政権の娘であるヒバス姫、卑弥呼職のサホ姫の両方を手に入れた。
卑弥呼候補の豊国の連中の大和入りが遅れちゃったからね。
垂仁王朝は、橿原・葛城地域と磯城・纏向地域にまたがるエリアをカバーしていた
都は旧王朝の和邇。そこで政治をやった。今は石上神宮になってる。
先に入ってたタジマのモリは、魏からすれば同じ位を与えた人物なのでタジマノモリとすれば対等の相手という認識しかなかった
遅れてきた豊国兄妹は少なくともサホ姫とは縁を切れと詰め寄った。
そんな折に張政が、トヨを次の卑弥呼に指定しちゃうも


1035:んだからイクメも逆らえなかった。 未だ生駒山地に陣取るサホ彦も健在だったし、イクメは悩める王だった



1036:日本@名無史さん
20/10/18 04:59:33.23 .net
>>933
>(松野氏姫氏系図)それ、古文書ですらねえしそれ、古文書ですらねえし
勿論、史料批判をすれば、
魏使や張政や裴清や郭務ソウらのような、同時代の実地の見聞記録ではなく、
普通に旧家にある自家系図文書であり、
記紀や風土記や、東日流などの和田家文書や、
このサイトに投稿された出雲などの旧家の自家伝承文書などと同じように、
はるか後代の自己解釈による文書であるから、信頼性や確率は低く、
半分偽書であり、史料批判無しには採用困難であるが、
真実性部分もある程度あり得る情報。」

1037:日本@名無史さん
20/10/18 05:03:05.39 .net
>>931
>>松野氏姫氏系図に
>倭の五王を強引に継ぎ足したり、いいかげんな代物www
しかも五王の名前を中国史書そのままにしてやんのwww
卑弥呼の本名の「刀良」などの、他では全く出て来なかった呼称が書かれるなど、
一定の価値がある古系図。

1038:日本@名無史さん
20/10/18 05:24:47.58 .net
>>996
おい、九州説また史料批判しないのか

1039:日本@名無史さん
20/10/18 06:22:03.88 .net
徐福だの呉王夫差だの偽書松野だのが出たトタン、ただの中卒のスレ

1040:日本@名無史さん
20/10/18 06:41:24.39 .net
;lk

1041:日本@名無史さん
20/10/18 07:18:49.48 .net
>>996
>卑弥呼の本名の「刀良」などの、他では全く出て来なかった呼称が書かれるな
「刀良」ってヒミコと読めないのだが。

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