邪馬台国畿内説 Part648at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part648 - 暇つぶし2ch900:日本@名無史さん
20/10/17 12:32:47.27 .net
尾張氏と海部氏
大和の高尾張村にいた尾張一族は、イツセの物部勢力に圧され、一部は紀伊国の高倉下の子孫と合流、残りは摂津三島へ。
そこで尾張家と分かれた海家(海部氏)は先祖の地、丹波へと引きあげたとされる。
残りの尾張一族は伊勢湾岸へと移住し、熱田神宮を建て勢力を伸ばし、のちに尾張国と呼ばれるようになりました。
その時に草薙の剣も持って行ったのでしょうね。

901:日本@名無史さん
20/10/17 13:00:26.13 .net
>>1こと奥山君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからこそ、その時代がとんでもない時代=BC660年に設定されてるのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼より100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津       (250年頃) ④懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
URLリンク(bbs10.aimix-z.com)




径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ~~!

902:日本@名無史さん
20/10/17 13:04:44.39 .net
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

.

903:日本@名無史さん
20/10/17 13:17:50.63 .net
175年から183年の間が倭国大乱。
先王家の二大勢力の尾張家と海部家は大和を去った。
残るは王家と連立相手の登美家。
クニクル大王はまずクニアレ姫との間に大彦とモモソ姫をもうけ、その後
物部東征の影響で、物部の2人の姫君を后とし、そのうちのひとりとの間にオオヒビをもうけ、他方の姫君との間に彦フツオシノマコトをもうけているようだ。
この彦フツオシノマコトが紀伊の高倉下の子孫である山下陰姫との間に武内大田根、いわゆる武内宿祢をもうける。
その息子たちがこの後大和を大きく動かしていく。
武内宿禰が長命になる理由。物部、出雲、磯城家のすべての血が入った蘇我氏の祖はこうして生まれた。
最初の物部東征は、物部の姫が三輪山祭祀の卑弥呼を継げなかったのでグダグダで終わる。
物部氏は銅鐸を壊して回って銅鏡を強要したようだ。当然うまくいかない。紀州の名草の様な反骨気質の人だって沢山いただろう。
登美家のモモソ姫はこの時に、落とし所として物部の銅鏡祭祀を取り入れたらしい。
だから出雲屋敷後からも銅鏡が出ている。

904:日本@名無史さん
20/10/17 13:19:05.46 .net
クニクルとモモソヒメの妥協に反発したのは物部嫌いの大彦。
彼は家出したww

905:日本@名無史さん
20/10/17 13:22:46.25 .net
2回目の東征は、一回目と同じく、倭国の分裂が起きたタイミングで仕掛けられている。
オオヒビ、開化天皇の時に家督争いが起きて分裂状態になった段階で2回目の東征が始まった。
サホヒコと、ヒコイマスと大彦だったけっかなー、三つの勢力で争っていたらしい

906:日本@名無史さん
20/10/17 15:35:14.15 .net
第一次物部東征と磐余彦
神武がどこに向かったか
前に、磐余彦は通過した地名と書きましたが、東征のお話でポコポコ出てくる敵役や、呑気な磐余彦の歌は、殆どが通過した地名になっています。
実は磐余までは殆ど戦闘がなかったらしいです。
じゃあ、クジラが出てくるじゃん?という話になりますが
「葛城山の麓、御所市に櫛羅くじらという地名がある」
それから北西に向かえば高尾張村。
記紀は分かる人には分かる様に上手いこと例え話を書いています。

907:日本@名無史さん
20/10/17 15:44:31.29 .net
>>865
正直、散々書きてきたけど徐福は相当ヤバいと思う。
私が研究者や、国の威信を意識する立場の人間ならどんな証拠を積み上げられても絶対に認められないと思う。
無理だ、影響が大きすぎる。

908:日本@名無史さん
20/10/17 15:50:23.59 .net
>>845
ところがどっこい、滅亡していなかったという研究がある。
火山灰下の轟A式と火山灰上の轟B式は連続していて、火山灰の降下が終わって植生が回復するや避難していた阿多族が帰還して、南九州の文化が復活したというもの。
なので、縄文草創期以来の貝殻文文化は鬼界カルデラ大噴火によって壊滅的被害を受けたものの、前期に入ってその文化は回復し継承されたとみなされている。

909:日本@名無史さん
20/10/17 16:05:10.02 .net
>>872
火山の噴火で


910:住んでた人たちは四国とか色々移住したらしいね。 その辺の昔になると、宇佐族しか伝承がない。 その頃は出雲も物部も九州には居なかったから。



911:日本@名無史さん
20/10/17 16:05:18.26 .net
当たり前だよ
徐福徐福言っていたキチガイはてめえで何言ってるか分かってねえんだもんよ

912:日本@名無史さん
20/10/17 16:17:58.30 .net
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をする大和説者は、
嘘吐き騙しです。

913:日本@名無史さん
20/10/17 16:23:07.27 .net
>>872
南九州のアカホヤ火山灰以前と後では遺跡数が激減し
轟B式土器自体は 1 つの遺跡から少ししか見つかっていない
滑石を混入した曽畑式土器から遺構が少しずつ増えるから
西北九州から移動している

914:日本@名無史さん
20/10/17 16:38:11.07 .net
>>875
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
それ、史料事実や史料実態じゃなくて
あんた独特の政治思想だから

915:日本@名無史さん
20/10/17 16:39:30.40 .net
>>856
中国側の使節が何度も大和に行っているのに、魏志などが記す北部九州の倭国と隋などと関係が生じた大和との関係を解明できていないのは、大和側がちゃんと説明しなかったことに原因がある。
この不審な大和側の態度は、後漢書のハンヨウが宋の都で讃の使節に対して言を左右にして卑弥呼の倭国と大和との関係を知らせなかったこととおんなじであり、唐はこうした大和の態度に不信感を抱いていて、信用できないと不満をあらわにしている。
おそらく、大和側は卑弥呼の倭国を攻略したことを中国の王朝に知られたくなかったのだろう。
魏の家来となった卑弥呼の倭国を攻略したことが知れると、外交や通商で制裁をくらうと考えたからではないか。
そうしたことから、日本書紀の編纂では、卑弥呼の倭国と大和が一貫した国であると臭わせる操作を行ったのだろう。

916:日本@名無史さん
20/10/17 16:43:04.08 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

917:日本@名無史さん
20/10/17 16:45:34.53 .net
>>876
第一陣が現地に帰還して、見た状況を博多などにいた仲間に知らせたのだろう。
そうした状況がわかるにつれて、徐々に帰還する者たちが出てきたということだろう。
轟B式がアカホヤ直下の轟A式とつながるという研究成果であるから、壊滅前の文化が生き延びていたことを証明していることになる。

918:日本@名無史さん
20/10/17 16:47:24.71 .net
>>873
宇佐族のその伝承は、どんなものなの?

919:日本@名無史さん
20/10/17 16:47:32.40 .net
大和国に始まり近畿全域は『狗奴国』の勢力圏だと確信してるけどね
東海もかな

920:日本@名無史さん
20/10/17 16:53:15.15 .net
>>859
結局、二つの投稿が5chにより拒否されて、掲載不能になった。
いずれも、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の論であったが、
またいずれ説明出来る事もあろうから、
それらは、一旦投稿断念。

921:日本@名無史さん
20/10/17 16:54:15.78 .net
>>849
北部九州の倭国が魏に朝貢する前に、すでに大和が朝貢していたとする根拠が示されていませんね。

922:日本@名無史さん
20/10/17 16:56:57.96 .net
>>844
吉野川の河口かな。

923:日本@名無史さん
20/10/17 17:01:15.46 .net
狗奴国=邪馬台国…?

924:日本@名無史さん
20/10/17 17:06:11.00 .net
>>843
芝遺跡付近だろうな。
連合事務所はここにあった可能性が高い。

925:日本@名無史さん
20/10/17 17:14:12.55 .net
>>887
>芝遺跡付近だろうな。
それが卑彌呼がいた王都遺跡だと言うのかね? 矜持はないのかね、畿内信者には。  わははははは   @阿波

926:日本@名無史さん
20/10/17 17:38:07.83 .net
>>874
九州と大和には同時に文化の進んだ時期があり、先代旧事本紀や、海部氏家系図からも、同一人物が大和と九州の祖になってることは明らか。
おっさんが何を言おうがねw
徐福じゃなきゃいいんだろ?
じゃ、アメノホアカリニギハヤヒだな。
あなた解散w

927:日本@名無史さん
20/10/17 17:39:05.71 .net
>>837
ヤマトトトヒモモソヒメと似た名前では、ヤマトトトワカヤヒメ、ヤマトトハヤワカヤヒメがみられますが、
ヤマトトビモモソヒメの名はみかけませんけどね。
ただ、ウィキでは、トトヒを鳥飛とし、脱魂型巫女を指しているとする説があると言っています。
ヤマトトビモモソ姫は、このトトヒ(=鳥飛)説なのでしょうか。

928:日本@名無史さん
20/10/17 17:43:07.27 .net
>>888
卑弥呼は北部九州。
この大和の芝遺跡あたりが、広域大連合の事務所のあったところじゃないかと思うんだけどね。

929:日本@名無史さん
20/10/17 17:45:40.87 .net
>>891
>卑弥呼は北部九州。

妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 

930:日本@名無史さん
20/10/17 17:49:29.80 .net
>>878
例えば、景初三年と、二年の問題がありますよね。
魏国は前の年まで揉めてたから、二年の朝貢はあり得ないと。ここ重要。
さて、本土防衛のために大和出先機関、伊都は、基本的に朝貢団の出発地点であると同時に、外国人が一度そこで足止めになってた場所。
つまり本国が分裂すると、その時に朝貢は出来るのか、出来ないのか。
景初三年近辺の伊都の長官は物部氏。
誰が朝貢してもバレない。
そもそも九州物部は、伊都とは敵対しておらず、魏から見れば大和の支配体制に反対していない勢力に見えるだろうね。
誰でも朝貢団なんて偽装できるんだよね。
長官ならすぐに本国の揉め事が伝わるだろうから。

931:日本@名無史さん
20/10/17 17:51:48.50 .net
>>884
元々畿内の大和しか朝貢してなかった。
混乱の隙をついて都万国が朝貢した。
その時に機能不全に陥ってた伊都の出先機関を利用した。
長官は当時は物部氏。

932:日本@名無史さん
20/10/17 17:53:11.20 .net
おう😃
徐福なんて嘘吐きだましのインチキだからな🤪

933:日本@名無史さん
20/10/17 17:55:04.55 .net
>>881
宇佐族は9000年前に渡来し、出雲族は6000年前に来たという内容だったかと。
ただ、出雲伝承では3500年前らしい。
噴火の時の話を口伝にきて残してる

934:日本@名無史さん
20/10/17 17:57:25.92 .net
>>891
>広域大連合
よくもまあ、そんな大言壮語を吐けるもんだ。  常識と言うものが無いのだろうか?   @阿波

935:日本@名無史さん
20/10/17 18:09:00.68 .net
>>880
鬼界カルデラ噴火は九州編年の轟A式古段階から新段階の間で
森林植生の回復がうかがわれる時期は,南九州の中部以北では遅くとも轟B式中段階以降であり,
南部においては轟B式新段階から曽畑式期以降だから
壊滅した南九州の森林が少しずつ回復するにしたがって
西北九州人や半島人と交配した人たちの南下が後続したんだろう

936:日本@名無史さん
20/10/17 18:21:50.37 .net
南九州から大和に招かれた阿多族の大シャーマン(のちに崇神と諱を贈られた)が宮を置いて住んだのは畝傍山の東南麓の橿原の地。
その大シャーマンを世話するために従ってきた阿多族の隼人集団は、その橿原の南の吉野川沿いの大阿太に住んだ。
この大阿太の地は縄文時代から南九州系の隼人が住んでいたところであり、大シャーマンに従ってきた隼人集団にとっては縁故の地ということであった。
そして、この大阿太に住んだ隼人集団から、大シャーマンの世話をする者たちが送られていたということになる。
大シャーマンは、纏向の大型建物跡の祭祀所で各種の祭祀を行ったが、そのために橿原から磯城へ行ってまず仮宮で斎戒沐浴精進し、それから纏向の祭祀所に赴いたのだろう。
この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
それで、日本書紀では大シャーマン(神武)の宮は橿原にあったとし、一方では崇神天皇の宮は磯城にあったともしている。
この磯城の宮は、先に記したように、大シャーマンが纏向での祭祀のためにまず磯城に行き、そこで斎戒沐浴のために仮宮を置いたことにちなんだものだ。
つまり、日本書紀のカラクリは、連合政権の大シャーマンとして大和にやってきた人物を神武天皇と崇神天皇に描き分けたということにあるのだ。
こうした観点からすると、いわゆる葛城王朝は実在したのであり、その葛城王朝は磯城や纏向も含むエリアで活動し、三輪山の麓の芝遺跡の地に置かれていた連合政権の事務所がその大シャーマンを南九州阿多から招き、活動を支援したということになる。
葛城王朝も三輪王朝もその実態は一つであり、それは崇神王朝のことなのである。

937:日本@名無史さん
20/10/17 18:22:54.11 .net
実際に、本国が分裂して揉め事が起きると、自分の立場を保証する国が無くなるかもしれないし、場合によっては攻め込まれるかもしれないから逃げたり、実家に戻って戦うかもしれない
表向き上は、本国大和の名代として、魏から錦の御旗を貰ってくるから、大和さん待っててねと言えば残留した小役人も誰も疑わない
実際に卑弥呼は狗奴国をブチ倒すから旗をくれと言ってる訳だしね

938:日本@名無史さん
20/10/17 18:39:36.68 .net
>>899
>この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
自分の妄想を断定調で書くな。
それは典型的な詐欺師の手法だ。

939:日本@名無史さん
20/10/17 18:41:23.89 .net
>>899
能書きはいいからヒミコは誰なのかスカッと言えやボンクラ。

940:日本@名無史さん
20/10/17 18:44:15.98 .net
当時の長官はニギさんと言ってモロに物部の名前。
お前らうろたえるな、私は地元出身だ、最後までここに居るからと言えば、キャー所長ステキーとなるに違いない

941:日本@名無史さん
20/10/17 18:56:40.12 .net
そしてニギさんは部下を鼓舞する。
いいかお前ら、弱みを見せるな、大和が危機にあると言えば、義 魏は我々を軽んじて何もしない可能性がある。決して弱みを見せるな。
本国に帰った何某のためにも立派に勤めを果たせた鼓舞する。
みんな涙ウルウルで社長の話を聞く

942:日本@名無史さん
20/10/17 19:02:21.39 .net
最大の危険ポイントは、魏からの下賜されたものが届く時。
朝貢の返礼品だけは絶対に本人が受け取りに来なければならなかった。
豊玉姫は嫌がったらしいが決まりなので仕方がない。
なんでか知らないが、黄色の属国旗以外に金のハンコと銀のハンコ、大量の鏡があるが、アレ?チョコボールのオマケ?くらいでおかしいと思っても誰も何も気にしない。
つーか、張政まで来ちゃってすごくね?と、伊都の人たちは喜んでしまう。
意外にさ、出雲本に出てる、北九州が大和を偽装したって簡単に出来そうなんだけど。
そもそも物部は長官に任命されるほど信用されてた訳だし。
ま、もちろん私の創作で妄想ですが。

943:日本@名無史さん
20/10/17 19:24:06.22 .net
>>898
この半島人とはどのような種族であったかということは非常に重要な問題となっており、相当に興味を引く問題だ。
半島における櫛目文土器が曽畑式に影響を与えたとされるが、その櫛目文土器の最古のものはソウルで出土したものであり、6000年前とされる。
櫛目文土器は8000年前の遼河地方に発祥したものであるので、その2000年後にソウルで造られたことになる。
この時期に半島にいたのは九州縄文系の種族だけであり、ソウルの櫛目文土器を造った種族はその縄文系種族であるとみることが可能だ。
その後4500年前頃からの気候変動で遼河文明は四散し、そのあとにY-O2、C2系種族が進出したとされている。
したがつて、6000年前頃に曽畑式土器を半島南岸付近までもたらしたのは半島を北上していた縄文系種族であることが推測されるものであり、
この時期の半島人とは九州系縄文人であったとすることが可能である。
曽畑式土器に影響を与えた櫛目文土器を半島南岸にもたらしたのは、縄文同族だったとする構図を描くことが可能だ。

944:日本@名無史さん
20/10/17 19:27:05.32 .net
縄文時代の阿蘇の噴火で西日本から半島に住んでいたやつらみな死に絶えたんだっけ?

945:日本@名無史さん
20/10/17 19:27:52.26 .net
確かそんな資料みたいなもんあったはず
つまり無人の空白時代ができたはすなんだわな

946:日本@名無史さん
20/10/17 19:29:51.85 .net
そのあと東日本しか縄文人らは生き残らず沖縄あたりもそこまでは被害が及ばなかったから生き残ったと
どっちにしろ東日本からの流入か沖縄からの北上しかそのあと広がるならそれしかありえないんだわ

947:日本@名無史さん
20/10/17 19:30:21.95 .net
>>902
アホォォォォォ。
卑弥呼は女シャーマンに決まっとるやろ。
倭人伝には名前が書かれてないんだから、その卑弥呼の名前が分かるわけないわ。
分かるというやつは、脳内劇場の持ち主以外にない。

948:日本@名無史さん
20/10/17 19:30:55.67 .net
これにより大陸までのルートはあったが絶滅により遅れたって話なんかのお

949:日本@名無史さん
20/10/17 19:33:46.69 .net
だいたい崇神と神武を同一人物にしようというやつはアマテラスを卑弥呼に持ってこようとしてるやつね。
それ間違い。
崇神は4世紀初頭の行灯山、神武は纏向石塚の時代。
纏向石塚が神武の墓ということじゃなく、あくまで時代が同じということね。
それ(=纏向石塚)は卑弥呼の時代でもある。

950:日本@名無史さん
20/10/17 19:36:01.62 .net
>>901
この板は、それくらいでOK。
少々データ不足でも、確定事項として押し出さないと、迫力に欠ける。
学者の論文じゃないんだし。

951:日本@名無史さん
20/10/17 19:36:23.53 .net
>>910
脳内劇場はお前だろ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津       (250年頃) ④懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 

952:日本@名無史さん
20/10/17 19:46:34.01 .net
>>908
おお、その情報凄いですね。

953:日本@名無史さん
20/10/17 19:49:23.94 .net
>>906
>この時期に半島にいたのは九州縄文系の種族だけであり
根拠は?

954:日本@名無史さん
20/10/17 19:51:10.73 .net
>>913
お前のは全てが作り話

955:日本@名無史さん
20/10/17 19:51:55.07 .net
>>896
宇佐族は南方系なん?

956:日本@名無史さん
20/10/17 19:52:52.59 .net
>>917
いや、歴史事実だ。

957:日本@名無史さん
20/10/17 19:57:59.31 .net
>>919
ホラ爺アッシーだろw

958:日本@名無史さん
20/10/17 19:59:25.58 .net
>>897
ブーメラン刺さってますよ😅

959:日本@名無史さん
20/10/17 19:59:37.00 .net
>>916
韓国の国立博物館は、1万2000年間から6000年前まで半島には人が住んだ遺跡がみあたらんといておるそうや。
ということは無人やったということ。
しかし、考古学的には半島南岸域や島で遺跡がみつかつている。
その時期は1万年前~6000年前頃やな。
ということは、その時期に半島に居たのはその種族だけということになる。
その種族の土器などは九州縄文人の土器などと実によく似ているそうや。
これ、常識やぞ。

960:日本@名無史さん
20/10/17 20:02:51.11 .net
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)

961:日本@名無史さん
20/10/17 20:03:44.59 .net
>>912
崇神が担いできたのは日神だろうな。
天照�


962:蜷_は後の創作じゃないの?



963:日本@名無史さん
20/10/17 20:07:54.00 .net
>>920
吉井信号は、もう掘ったのか。

964:日本@名無史さん
20/10/17 20:20:49.02 .net
>>901
>>この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、
日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
>自分の妄想を断定調で書くな。それは典型的な詐欺師の手法だ。
賛成です。
自分が論拠にした文献考古の史料事実や、
それに関する信頼性や確率的な史料批判という史料実態の推論、
が必要です。

965:日本@名無史さん
20/10/17 20:26:10.53 .net
>>922
それが鬼界カルデラの大噴火後の轟B式土器だろ

966:日本@名無史さん
20/10/17 20:27:29.84 .net
>>905
>・・・ま、もちろん私の創作で妄想ですが。
勿論、根拠の史料事実や、それからの帰納的確率的な史料実態の推論、
などが書かれていないから、
始めから、信頼性がありません。

967:日本@名無史さん
20/10/17 20:35:55.72 .net
>>910
>倭人伝には名前が書かれてないんだから、その卑弥呼の名前が分かるわけないわ。
分かるというやつは、脳内劇場の持ち主以外にない。
松野氏姫氏系図には、卑弥呼は「刀良」という名前であった、と書かれている。

968:日本@名無史さん
20/10/17 20:42:39.97 .net
>>929
それ、古文書ですらねえし

969:日本@名無史さん
20/10/17 20:43:00.48 .net
>松野氏姫氏系図に
倭の五王を強引に継ぎ足したり、いいかげんな代物www
しかも五王の名前を中国史書そのままにしてやんのwww

970:日本@名無史さん
20/10/17 20:45:17.91 .net
>>912
>それ間違い。
崇神は4世紀初頭の行灯山、神武は纏向石塚の時代。
纏向石塚が神武の墓ということじゃなく、あくまで時代が同じということね。
それ間違い。
神武即位元年は、二中歴などに拠って、紀元前91年頃。
石塚は、卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、
最初期の前方後円墳の那珂八幡などが3世紀後半半ば過ぎ頃になるから、
それの「進化型」である庄内は、3世紀末以後。
>それ(=纏向石塚)は卑弥呼の時代でもある。
バツ。

971:日本@名無史さん
20/10/17 20:50:49.07 .net
>>923
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
バツですね。

972:日本@名無史さん
20/10/17 20:55:25.38 .net
半島には縄文人が住んでいたんだろ
鬼界カルデラの活動により滅んだと

973:日本@名無史さん
20/10/17 20:56:04.87 .net
滅亡の時期の特定によりかなり歴史資料変わるね

974:日本@名無史さん
20/10/17 20:57:41.11 .net
そのあとに色んなのが流入したんやろ

975:日本@名無史さん
20/10/17 21:04:21.16 .net
>>934
滅んでねえ~つうの。
火砕流が来たのは鹿児島市付近まで。
その北のほうは、みんな避難したのよ。
だから、轟Bが轟Aにつながってるわけ。
勝手に滅ぼすなヨ。

976:日本@名無史さん
20/10/17 21:11:04.02 .net
>>928
まさかのマジレスが付くとはww

977:日本@名無史さん
20/10/17 21:11:49.77 .net
>>913
それをホラという

978:日本@名無史さん
20/10/17 21:16:13.52 .net
>>899
そのシャーマンは途中で死ぬじゃん。
3分の一行く前に魏書と合わない

979:日本@名無史さん
20/10/17 21:19:08.30 .net
>>926
そうした推論を経た結果が、葛城王朝、三輪王朝=崇神王朝論だよ。
君らとなんら変わらん。
確かな根拠がある。

980:日本@名無史さん
20/10/17 21:20:44.70 .net
>>890
倭迹迹日百襲姫
との字は、後という意味の漢字。意味のある当て字だとしたらと考えちゃいますね。

981:日本@名無史さん
20/10/17 21:25:05.34 .net
徐福の布教活動はかまわんがほどほどにするのと規制はすんなよ。

982:日本@名無史さん
20/10/17 21:26:29.73 .net
>>940
魏書と合わなくて当然。
日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。
だから、この王朝のもとに造営されたホケノ山や黒塚からは鉄器がざくざくと出る。
それ以前の墳墓から何も出ないのに、どうよ、この変化は。
輸入鉄器などを大和が独り占めした結果だ。
崇神王朝は、そういう体制だったつ~こと。

983:日本@名無史さん
20/10/17 21:29:51.12 .net
>>944
>日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。

よくもまあ、そんな大言壮語を吐けるもんだ。  常識と言うものが無いのだろうか?   
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波  

984:日本@名無史さん
20/10/17 21:32:40.29 .net
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

.

985:日本@名無史さん
20/10/17 21:38:32.83 .net
>>942
迹の漢音はセキ、シャクなので、この字をトと発音しているのは、この字の日本語の読みであるアトのト音を取っているように見える。
何か意味付けがあるのか、単に数字の十(ト)の音を表すのにこの字を用いたのか。
後者であれば、十十日とすれば九九であることがもろ分かりなので、別の字を用いたということかもね。

986:日本@名無史さん
20/10/17 21:45:14.50 .net
>>945
フフ、効いてる効いてるw

987:日本@名無史さん
20/10/17 21:46:36.70 .net
>>945
畿内には唐古鍵遺跡と言う大きな集落跡があるよ

988:日本@名無史さん
20/10/17 21:47:19.11 .net
>>945
神武が宮を置いた畝傍山東南麓の北東すぐのところに瀬田遺跡がある。
たくさんの遺物が出ている。
ここに東瀬戸内系の前方後円型墳墓がみられる。
2世紀末頃の築造だとされるものの、その形状からすれば纏向遺跡の東田大塚古墳を真似たもののようにみえる。
時期は3世紀後半ではないか。
つまり、崇神(神武)の宮の近くには、こうした集落がたくさんあって、賑わっていたのではないか。

989:日本@名無史さん
20/10/17 21:49:03.44 .net
>>944
そもそもが、紀元前から尾張氏と磯城登美家は奈良で製鉄やってましたよ。
出雲系の国で製鉄や出てないはずないでしょ
トヨは物部連合の重要な要。卑弥呼だからね。
大和の制服には絶対に欠かせない要素だった。
東征なのに逆になんで呑まれちゃうのさ

990:日本@名無史さん
20/10/17 21:51:00.22 .net
>>941
ミマキイリヒコなのに、葛城や三輪山祭祀がイコールなんてあり得ませんよ。
根拠どころか、時系列がおかしい。

991:日本@名無史さん
20/10/17 21:51:49.62 .net
>>949
>畿内には唐古鍵遺跡と言う大きな集落跡があるよ
その唐古鍵遺跡が、「王都たる集落遺跡」でいいのかい?   @阿波

992:日本@名無史さん
20/10/17 21:54:18.04 .net
>>922
そもそもが、旧石器時代の遺跡なんて圧倒的に日本の方が多いですよね。
地続きだった頃にあんな寒い朝鮮に住む人はいない。

993:日本@名無史さん
20/10/17 21:56:37.46 .net
>>947
後と言う字がまさかのビンゴなら
ヤマト、後、登美モモソ姫と言うことになるかもで、なんらかの示唆の様な気がする

994:日本@名無史さん
20/10/17 22:11:32.35 .net
>>953
>その唐古鍵遺跡が、「王都たる集落遺跡」でいいのかい?
全然ダメ、王都であるわけがない。
崇神の宮は磯城瑞籬宮と言われてるが驚くほど小さい敷地。
王宮が神社として残ってるという事実が大事。
卑弥呼やトヨの宮も今では神社として残ってるのであろう。
もちろん式内名神大社。

995:日本@名無史さん
20/10/17 22:14:01.05 .net
>>953
まあ当時の国内最大規模の集落らしいしな
王都の集落遺跡でもおかしくないね

996:日本@名無史さん
20/10/17 22:16:47.75 .net
>>950
>崇神(神武)の宮の近くには
簡単に同一人物にするな、50年くらい前の古い説。
崇神と神武では后の名前も違えば宮の場所も違う。
神武は日向から来たが崇神はずっと磯城。
なんで同一人物になるんだ。

997:日本@名無史さん
20/10/17 22:18:53.79 .net
>>957
>(唐古鍵を)王都の集落遺跡でもおかしくないね
へぇ、じゃその時代の王墓は?

998:日本@名無史さん
20/10/17 22:22:46.81 .net
>>959
そりゃあ前方後円墳だな

999:日本@名無史さん
20/10/17 22:26:21.13 .net
>>958
>神武は日向から来たが崇神はずっと磯城
逆で、神武はずっと磯城で、崇神は日向から来た、じゃないの?

1000:日本@名無史さん
20/10/17 22:26:47.55 .net
>>960
唐古鍵時代の王墓がなんで前方後円墳なんだよ。
時代が全然違うだろ。

1001:日本@名無史さん
20/10/17 22:28:45.06 .net
>>961
>神武はずっと磯城で、崇神は日向から来た、じゃないの?
おまえウザいから消えろ。
歴史を好きに作り替えて良いならなんだってできる

1002:日本@名無史さん
20/10/17 22:33:05.01 .net
>>962
唐古鍵は古墳時代も存続してたしいいだろ

1003:日本@名無史さん
20/10/17 22:37:21.20 .net
>>956
トヨの宮は確かに今でも残ってますね。
椿大社から招かれたトヨ来入姫は、島子に連れられてそこに落ち延びます。
椿大社の奥に、豊玉姫のための別宮を立て、椿岸神社が建てられます。
そこではツクヨミも一緒に祭られ、細女(うずめ)本宮と呼ばれています。
後に彼女はイクメの放った刺客により暗殺され、後世にホケノ山古墳に埋葬されたと伝承されます。
あの古墳からは三角縁神獣鏡はでず、後漢鏡が出土しています。
しかし、放射性炭素分析により、2018年度の再度の検討により年代が50-100年ほど新しくなってしまい。4世紀の判定。
若干トヨの時代と合わないのではないかと言われ始めています。

1004:日本@名無史さん
20/10/17 22:49:14.51 .net
>>964
>唐古鍵は古墳時代も存続してたしいいだろ
いいわけないだろ、たとえば2世紀前半頃、
魏志に書かれた其国の男王の墓はどう説明するの?

1005:日本@名無史さん
20/10/17 22:50:45.56 .net
>>954

寒いときの方が食料の大型獣がいたんだよ
温暖化が始まって半島の大型獣が北上してしまったから半島の旧石器人たちは
それを追ってみんな北上してしまった
だから半島からほとんど人が消えてしまった訳だ
日本列島の場合はそうする訳にはいかなかったから代替食料に捕鯨や
サケ、マス、マグロなど、漁労に移行していった
元は同じ朝鮮半島から入ってきた旧石器人なんだがな
ただ日本列島の場合は樺太からも違った旧石器人が後から入ってきて、
朝鮮半島にはない技術や文化をもたらした
縄文土器は樺太経由の旧石器人がもたらした技術の内の一つ
それから何千年も後の3500年くらい前に沿海州と海を越えての黒曜石交易が
たびたびあった
黒曜石を求めて山陰地方に渡来していた沿海州ツングースの一部が山陰地方に定着した
これが弥生人の祖先になっていったのである

1006:日本@名無史さん
20/10/17 22:52:23.21 .net
>>965
>後に彼女はイクメの放った刺客により暗殺され、後世にホケノ山古墳に埋葬されたと伝承されます。
いつ、どこで、誰によって伝承されてきたんだよ、ボケナス。

1007:日本@名無史さん
20/10/17 22:55:30.07 .net
>>963
口から出まかせ言ってると周囲と調和がとれなくなるよ?w
崇神は物部イニエで大和入りしていない。
そもそもが、息子のイクメがイサチとして魏書に書かれてるだろ。その時点で察しろw
万世一系のために、磯城王朝の大日日(開化天皇)だが、ミマキイリヒコをオオヒビの皇子に偽装して磯城王朝の系譜に入れ込んだのが記紀の作為
そうするとミマキイリヒコの母親をでっち上げないといけないことになる。
なんと先代の磯城クニクルの奥さんをあててしまう。
そうすると、開化は地位の配偶者を嫁さんに迎えたことになってしまう
古事記に登場するミマツヒメは、開化記では崇神の妹にされている
しかし、崇神記ではイクメの母はアタツ姫の処をミマツヒメに替えられてる
万世一系、二つの王朝を一つにまとめる作為の結果、オオヒビのあとにいろんな人を詰め込んで書かざるを得なくなった。

1008:日本@名無史さん
20/10/17 22:56:58.14 .net
>>968
さあ?地球が何回廻ったころでしょうね?w

1009:日本@名無史さん
20/10/17 23:14:55.34 .net
>>967
ツングースに環濠集落は無い

1010:日本@名無史さん
20/10/17 23:15:08.57 .net
宇佐家極秘口伝書
大分県の宇佐神宮宮司であった故宇佐公康氏(宇佐国造池守公より57世)が、宇佐家に代々伝わる極秘口伝書の内容を1990年に著書「古伝が語る古代史」にて公開。
次世代に受け継ぐ者がいないため、一子相伝の「口伝書」と「忘備録」を世に公表して残そうと決意した。この辺は諏�


1011:Kの神長官と同じだね。 この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、高良神社が氏神であり、神武東征以前にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとある。 そして崇神天皇は物部氏の首長であったと。 五瀬の東征なのか、イクメの東征なのかは判然としない書き方だが、物部の血は何しろ隠さねばならぬ秘密だった



1012:日本@名無史さん
20/10/17 23:20:45.84 .net
>>967
>これが弥生人の祖先になっていったのである
惜しい。弥生人じゃなくて、縄文人の祖先
縄文人の母系のハプロタイプDは、北海道、沖縄、そして本州では出雲にのみ分布する。
紀元前200年代では出雲王朝は第八代。
その前のクナト王の系譜は50代ほど遡れるらしい。
出雲伝承では渡来が3500年ほど前とされており、ロシア経由での渡来と伝承される。
彼らは最初からインドの製鉄を持ってた。だから、日本最古の鉄の出土は中国より古い物が出ている。
ロシアの「ブリヤート人 日本人」で検索。日本人激似。

1013:日本@名無史さん
20/10/17 23:25:55.79 .net
>>967
遮光土偶で有名な亀ヶ岡式土器は、後に九州にまで影響を及ぼし、その後、水稲伝播と同じくして次第に逆方向に押し返されていく。
一説には銅鐸の模様の原型ではという説もある
亀ヶ岡式土器の影響は沖縄にまで及んでおり、九州は青森よりも遅い時期の出土となっている
出雲族渡来、縄文人の母系DNA、土器から見ても朝鮮半島は日本に影響はしてないと考えるのが一般的

1014:日本@名無史さん
20/10/17 23:30:43.44 .net
>>962
あの遺跡、埋没古墳が発見されてて前方後円墳だよね。

1015:日本@名無史さん
20/10/17 23:42:55.26 .net
>>971
それはずっと後になってから半島からパクっただけの話
稲作や金属器もな

>>973
頭の中が隅田川花火大会のひと乙

1016:日本@名無史さん
20/10/18 00:00:48.06 .net
>>918
宇佐氏の伝承では、
宇佐族は、9000年前の早期縄文時代には山城国の稲荷山を根拠地として狩猟・採取の生活をしていた(宇佐家伝承)p36
続く出雲族が、8500年前にシベリアから来た、と本には書かれていますが、
宇佐族が来て過ごしていた時代、日本列島は定住していない(稲作のない)縄文時代でありました。
宇佐氏の縄文時代については、宇佐族はどこから来て、という内容は伝承にはないようでした。
そして、やはり水稲耕作はしていなかったようです(縄文土器は使っていた)。宇佐家伝承1巻p106<日本最古の先住民族イザナギ族は、先妻の子がアイヌで東日本に展開、後妻の子が西日本で宇佐族になった、という伝承があるようです)

1017:日本@名無史さん
20/10/18 00:02:16.67 .net
>>976
それはお前が言ってるだけの話

1018:日本@名無史さん
20/10/18 00:03:03.82 .net
>>976
何でもかんでも朝鮮半島の、昔の先生みたいな人、久々に見たわw

1019:日本@名無史さん
20/10/18 00:10:10.77 .net
>>976
水稲に関しては日本最古の佐賀の遺跡と同時期の物が朝鮮半島にはあるけど
その時代、朝鮮半島には鉄器の出土がない状態になってる

1020:日本@名無史さん
20/10/18 00:14:12.37 .net
環濠と環壕
URLリンク(31562jp.files.wordpress.com)

1021:日本@名無史さん
20/10/18 00:15:21.58 .net
>>96


1022:6 そこらの円墳じゃないかな



1023:日本@名無史さん
20/10/18 00:16:03.13 .net
>>979
弥生人自体は朝鮮半島じゃないぞ
弥生人が朝鮮半島から渡来したなら、朝鮮土器から弥生土器が始まっている
はずだろうが
ところが弥生土器は沿海州南部と特徴が一致する土器から始まっている
ちなみに弥生土器が始まったときの朝鮮土器は孔列文土器だ
弥生人が朝鮮半島から渡来したなら、孔列文土器から弥生土器が始まってないと
話がおかしいね

1024:1
20/10/18 00:19:01.74 .net
新スレ立てました。
スレリンク(history板)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

1025:日本@名無史さん
20/10/18 00:25:18.94 .net
>>958
学者の説では、神武=崇神説が根強い。
神武が南九州阿多から大和入りするまでを表し、
連合の大シャーマンに就任したあとは崇神で表しているとする。
この説に従えば、生身の人物としては崇神と諱を贈られた人物が南九州阿多からやってきた人物であるとするのが妥当。
で、橿原にいた崇神(神武)が皇后としたのが媛蹈鞴五十鈴媛で、崇神(神武)が纏向での祭祀のために逗留した磯城の仮宮での妻が御真城姫。
橿原の媛蹈鞴五十鈴媛の名に比べて、磯城での御間城姫の名は皇后としては軽い。
その違いは皇后と妃の違いといえる。
崇神(神武)の本拠地は橿原だったつ~ことだよ。

1026:日本@名無史さん
20/10/18 00:34:34.41 .net
>>977
宇佐八幡宮の大スポンサーは秦氏だったから、宇佐族渡来後の本拠地が山城の稲荷山だったとする伝承は、正直でよいと思います。

1027:日本@名無史さん
20/10/18 00:43:23.68 .net
卑弥呼 ← 宇那比姫
相誅殺男王 ← 侵略王フトニ
臺与 ← 百襲姫(フトニの娘)
次の男王 ← ミマキ

1028:日本@名無史さん
20/10/18 00:59:31.15 .net
>>955
まあ、そのまま考え続けていたまえ。

1029:日本@名無史さん
20/10/18 01:21:39.87 .net
物部氏が、その後のヒボコ勢力に対する姿勢に大きな変化が現れ、
物部何某が、我はヒボコの子孫であると天皇だか役人に発言した逸話
五瀬家の作った神社の社宝が日鉾の鏡と名付けられている
などをもう一度探していたらこんなものが
URLリンク(snk.or.jp)
旧家の伝承の影響を受けてないのにここまで徐福に肉薄する人もいるんだな。さすがに驚いた

1030:日本@名無史さん
20/10/18 01:22:49.09 .net
>>989
筑後デジタルアーカイブ研究会---シニアネット久留米
いったどんな集団なのだ・・

1031:日本@名無史さん
20/10/18 01:51:20.60 .net
兵頭神社に関してはヒボコが祀られているという話は聞いたことがあり訪れたこともある。
神紋はミカン(橘)。タジマノモリの憲章なのか、今でも神社周辺には橘が植えられている
通常であれば祭神はタジマノモリである。
しかし、吉田太洋の、謎の出雲帝国においては、著者がヒボコを狙い撃ちして宮司さんに切り込んでいる。
野美の宿祢とタジマノモリの古事が相撲の逸話につながる現場で何故ヒボコなのか・・。
元は尾張氏が作った神社で、中国の蚩尤を祭り、渡来勢力を見張る拠点としていたところで、五十猛の字が入った神社で会った。
イタテヒョウズ神社。いつヒボコが合祀されたのかずっと謎であった。
そしたらこんなものを見つけた。本スレにも関係しそうなので載せる
つづく

1032:日本@名無史さん
20/10/18 01:51:36.97 .net
 >銅鐸の時代から銅鏡の時代へ、倭国大乱の後、邪馬台国が倭国を代表する時代が到来した。
 地霊信仰から天神信仰への変化でもあった。大国主の時代から天日槍の時代への変遷であった。
 
 『播磨国風土記』、記紀が伝える葦原志挙乎命・伊和大神と天日槍との戦いは、魏志倭人伝に伝えられる倭国大乱を思わせる。
 石窟に隠れた天照大神を誘い出すべく作った「日矛」は紀の国の日前国懸神宮に祀られていると言う。近くの太田黒田遺跡は銅鐸から銅鏡への祭祀の変遷を語る。また日前国懸神宮の地にはかっては素盞嗚尊の御子神を祀る伊太祁曽神社が鎮座しており、社地交代があったと言う。国譲りである。
 『大倭本紀』には、天皇始めて天降り来ましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう。鏡の一つは伊勢神宮に、一つは紀の国の国懸神宮に、残る一つの鏡と子鈴は穴師社におさめたたとある。穴師社とは大和国城上郡に鎮座する穴師坐兵主神社である。ここは纏向遺跡を見おろす位置である。
 穴師坐兵主神社の神体は日矛とされる。天日槍である。兵主神とは日本では日矛が神体であり、人格神としては天日槍命である。この神社は、国津神の頂点である三輪山の大神神社と、物部氏の斎祀る石上神宮の間を割くように鎮座する。それぞれの年代の大和の支配者の斎き祀る神であった。
 邪馬台国の一大率の駐在地であった伊都国の県主に末裔に五十跡がおり、天日槍の末裔と名乗っている。ここには天日槍の妻を祀る高磯神社が鎮座している。
URLリンク(kamnavi.jp)
物部の拠点や伊都国にヒボコの痕跡があるとは思わなかった。
これなら、五瀬家の口伝や、名草の子孫の小野田さんの口伝と整合する
伊太祁曽神社は元はスサノオをまつる神社だったらしい

1033:日本@名無史さん
20/10/18 01:56:32.09 .net
>>985
この皇后のパターンは、次の垂仁天皇でも同じである。
2代綏靖天皇は葛城高丘宮に住み、皇后は五十鈴依媛。
一方、崇神天皇の次の垂仁天皇は纏向珠城宮に住み、皇后は狭穂姫、日葉酢媛。
垂仁天皇の皇后とされる狭穂姫の名は軽い。日葉酢媛も五十鈴依媛に比べると軽い。
実際には、垂仁天皇も橿原・葛城地域に宮を置いて住み、纏向での祭祀のために磯城・纏向地域に仮宮を置いて斎戒沐浴精進したとすれば、
葛城の五十鈴依媛が皇后で、纏向の仮宮の狭穂姫は妃ということになる。
このように、崇神王朝は、橿原・葛城地域と磯城・纏向地域にまたがるエリアをカバーしていたとみるのが正しいだろう。
つまり、葛城王朝と三輪王朝とは、実は崇神天皇を始祖とする一つの王朝だったということになる。

1034:日本@名無史さん
20/10/18 02:10:38.96 .net
>>993
垂仁天皇じゃなくて、畿内ヤマトと九州物部を曲がりなりにも統一した王はイクメ垂仁だよ。
事実上の日本史上、初の日本統一をしたのがイクメ。
記紀ではイクメの業績を崇神にしている。
イクメは前政権の娘であるヒバス姫、卑弥呼職のサホ姫の両方を手に入れた。
卑弥呼候補の豊国の連中の大和入りが遅れちゃったからね。
垂仁王朝は、橿原・葛城地域と磯城・纏向地域にまたがるエリアをカバーしていた
都は旧王朝の和邇。そこで政治をやった。今は石上神宮になってる。
先に入ってたタジマのモリは、魏からすれば同じ位を与えた人物なのでタジマノモリとすれば対等の相手という認識しかなかった
遅れてきた豊国兄妹は少なくともサホ姫とは縁を切れと詰め寄った。
そんな折に張政が、トヨを次の卑弥呼に指定しちゃうも


1035:んだからイクメも逆らえなかった。 未だ生駒山地に陣取るサホ彦も健在だったし、イクメは悩める王だった



1036:日本@名無史さん
20/10/18 04:59:33.23 .net
>>933
>(松野氏姫氏系図)それ、古文書ですらねえしそれ、古文書ですらねえし
勿論、史料批判をすれば、
魏使や張政や裴清や郭務ソウらのような、同時代の実地の見聞記録ではなく、
普通に旧家にある自家系図文書であり、
記紀や風土記や、東日流などの和田家文書や、
このサイトに投稿された出雲などの旧家の自家伝承文書などと同じように、
はるか後代の自己解釈による文書であるから、信頼性や確率は低く、
半分偽書であり、史料批判無しには採用困難であるが、
真実性部分もある程度あり得る情報。」

1037:日本@名無史さん
20/10/18 05:03:05.39 .net
>>931
>>松野氏姫氏系図に
>倭の五王を強引に継ぎ足したり、いいかげんな代物www
しかも五王の名前を中国史書そのままにしてやんのwww
卑弥呼の本名の「刀良」などの、他では全く出て来なかった呼称が書かれるなど、
一定の価値がある古系図。

1038:日本@名無史さん
20/10/18 05:24:47.58 .net
>>996
おい、九州説また史料批判しないのか

1039:日本@名無史さん
20/10/18 06:22:03.88 .net
徐福だの呉王夫差だの偽書松野だのが出たトタン、ただの中卒のスレ

1040:日本@名無史さん
20/10/18 06:41:24.39 .net
;lk

1041:日本@名無史さん
20/10/18 07:18:49.48 .net
>>996
>卑弥呼の本名の「刀良」などの、他では全く出て来なかった呼称が書かれるな
「刀良」ってヒミコと読めないのだが。

1042:1001
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