邪馬台国畿内説 Part648at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part648 - 暇つぶし2ch700:日本@名無史さん
20/10/15 22:10:39.31 .net
呉の太白ってな周王家から分岐した子孫のことやろ
丸っ切りでたらめじゃん😬
向こうから来た連中らしかその可能性は存在せん🤪

701:日本@名無史さん
20/10/15 22:12:15.97 .net
>>642
>2世紀末葉になると近畿式のみとなる。(銅鐸が統一される)
3世紀になると突然造られなくなる。
シレッとごまかすな。
銅鐸(三遠式)の最終集積地は静岡。
狗奴国のあった所だ。

702:日本@名無史さん
20/10/15 22:13:03.92 .net
卑弥呼やトヨにしろ朝貢とやらしてたんは魏や晋だろ、その晋の後継国が宋やぞ

703:日本@名無史さん
20/10/15 22:14:38.07 .net
ここをおかしいと認めないならそいつの出どこおかしいでよ😬

704:日本@名無史さん
20/10/15 22:15:46.45 .net
>>556
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などのように、
のように決して具体的な内容を言わず
出典も示さず
風評の流布に終始する
それが大和説

705:日本@名無史さん
20/10/15 22:17:17.35 .net
魏の後継国自体が中国南朝なんだよ😃

706:日本@名無史さん
20/10/15 22:19:01.17 .net
晋が中国統一したあと宋に変わるわな
そのあと北部を失陥してんだよ
そんで南宋のみが残った
これが南朝の始まり

707:日本@名無史さん
20/10/15 22:19:15.91 .net
>>671
>銅鐸(三遠式)の最終集積地は静岡。
>狗奴国のあった所だ。
シレッとごまかすな。
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。   
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。  何を考えているんだかwww  @阿波

708:日本@名無史さん
20/10/15 22:19:54.75 .net
さてスレ主の纒向遺跡に移ろうか。
南北1.5㎞、東西2㎞の広大な面積をもつ大規模遺跡である。
1971年より発掘調査が始まったにもかかわらず、住宅地ゆえまだ2%ほどしか調査されていない。
出雲伝承ではここは暮らすための場所ではなく、祭祀を行うために全国から豪族が集まった場所との事であるが
確かに出土品がおかしく、全国各地の土器と、造成とかそういった意味合いの農?機具が多い。
現在の纏向駅駅近くになるが、真南に数百メートル行くと箸墓古墳、西側に行くと纏向古墳群がある。
現在の発掘地の近くには、磯城登美家の分家、太田家がかつて住んだと思われる「太田村」があり、現在でも太田地籍が残る
この遺跡は「2世紀末から3世紀の初頭頃」に「誕生」したとされている。通常の集落の様子はなく、初の都市、または首都として造られたのではないかとも言われている。
巻向駅の近くには大型の建物群跡も発掘されており、3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて、中心となる建物は現代の3階建ての高さをもち、南北約20m×東西約12mもある高床式神殿。
「すでに大陸の宮殿文化を取り入れていると言われている」
柱穴も丸ではなく四角であったりと、日本でも現在確認されている限りは、非常に高度な技術を持った規格の高い建造物である。
「もちろんそんなものは阿波にはありませんw」
弥生から古墳時代にかけてもこのような遺跡は他に発見されていないのが現状。

709:日本@名無史さん
20/10/15 22:21:28.70 .net
>>677
アホかw
信濃の安曇族だって元海童ではないか。
頭おかしいのか?
内陸に住んでたかどうかなんて関係ないし、そもそも大彦狗奴国は海幸彦系の海童

710:日本@名無史さん
20/10/15 22:26:16.33 .net
>>678
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」 徳島県阿波市阿波町
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)。
西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、纏向遺跡より遥かに企画性を持つ。   @阿波
西長峰遺跡の建物は、弥生中期後半から後期初頭にかけての遺跡。
URLリンク(www.pref.tokushima.lg.jp)

711:日本@名無史さん
20/10/15 22:27:46.91 .net
>>680
掘立柱建物跡
掘立柱建物跡
掘立柱建物跡
wwwwwww

712:日本@名無史さん
20/10/15 22:28:55.86 .net
>>604
大和説学者ってダメでしょう
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」は「正北抵新羅の否定」など、
史料事実や史料実態の嘘吐き騙しで、
大和説が死亡してます

713:日本@名無史さん
20/10/15 22:50:12.02 .net
>>679
その通り、海人だからといって内陸部にいないわけではない。
安曇もそう、川を遡上して内陸に入ったのは良質の木材を伐採するためではないかという説を読んだことがある。
物部も遠賀川の上流に根拠があるね。
鞍手だったか、物部の根拠があるね。

714:日本@名無史さん
20/10/15 22:56:16.31 .net
>>606
>卑弥呼←宇那比姫
国中不服男王←侵略王フトニ
臺与←百襲姫
臺与なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
卑弥呼は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、
×。

715:日本@名無史さん
20/10/15 22:57:02.44 .net
>>678
>弥生から古墳時代にかけてもこのような遺跡は他に発見されていないのが現状。
そう、3世紀前半の大型建物は他にないね。
しかし、それが卑弥呼の館だとして、なんでその謂れがすっかりなくなり、地下から遺跡として発掘されたのかが問題。
卑弥呼の王宮ならなにかしら聖域化され、今では神社として存在してる可能性の方が高いと俺は思う。
崇神を4世紀前半として、それ以前の神社が葛城にしか存在しない。
たとえば高鴨神社は孝昭天皇の時代に創建。
この時点で日本一古いのだ。
それは卑弥呼の時代、3世紀にまでさかのぼるのだ。

716:日本@名無史さん
20/10/15 22:57:33.78 .net
>>683
ここで紀伊の国の、名草の伝承。
次は名草地方の伝承。名草のトベのほぼ唯一の本
なかひらまい著「名草戸畔、古代紀国の女王伝説」
その中心となるのは小野田口伝
あのルパング島から戦後30年たって帰還した小野田寛郎氏の家に伝わる口伝。
小野田氏の実家は名草戸畔の遺体の一部(頭部)を祀る宇賀部おこべ神社で、小野田家は名草戸畔の子孫らしい。
小野田口伝の抜粋。
名草の祖先は何千年も前、宮崎から大分のリアス式海岸に住んで半農半漁の暮らしをしていたが、やがて人口が増えたため、
よく似た地形(前の海で魚が捕れ、後ろの田で米が採れるところ)の和歌山に移住した。神武がやって来るよりずっと前のこと。
紀ノ川流域にキビが生えていたのを全部田んぼになおした。
神武軍との戦いについては、ニギハヤヒがナガスネヒコを斬って降伏したからこちらも降伏したことになった。
五瀬はナガスネヒコ軍の毒矢に当たって亡くなり竃山に葬られたが、名草戸畔も戦死した。けれど神武軍は名草軍に撃退されて
紀ノ川を上れずに仕方なく海路で熊野へ行った。その後はヤタガラスが案内した。名草の人たちは負けたつもりはない。降伏したのはナガスネヒコだ。
戦の後、国懸クニカカスと日前ニチゼンが統治しにきたが、名草は負けた意識がなかったので反抗し、うまく治まらなかった。国懸はヤマトへ帰り、紀氏である日前が残ってまとめた。
権威を振り回さないから土地の人とうまくやっていけた。
伊太祁曽いたきそ神社は植林を教えた神様。大きい太い木を増やした初めの人、という意味がある。「木曽の国はここから植林技術を移した。」

717:日本@名無史さん
20/10/15 23:05:42.34 .net
>>686
この口伝はある程度記紀を意識しているが、出雲伝承とほぼ一致。
五瀬の兄弟が神武って事だけがミソ。
五瀬の兄弟は三人ほどいたっけか。五瀬の死後、磐余という地名を通ったため、磐余彦になったが、記紀の製作者も五瀬のどの兄弟が大和入りしたか分からなかったらしい。
故に、属国の歴史を消すために、物部東征を一つにまとめ、架空の磐余彦を神武にした。

718:日本@名無史さん
20/10/15 23:09:58.12 .net
そんな話を認めたことはないぞ

719:日本@名無史さん
20/10/15 23:10:49.69 .net
それを自称してる連中らがおるってことやろ😃
ならやることは一つよな😬

720:日本@名無史さん
20/10/15 23:11:13.66 .net
皆殺しだ🤪

721:日本@名無史さん
20/10/15 23:14:00.97 .net
>>656
租税を納めた倉や市場の交易を管理する者として「大倭」の字が用いられているので、
その大の字を「拡大した」の意味とすると、「租賦の拡大した管理者」ということになり、意味不明となる。

722:日本@名無史さん
20/10/15 23:24:33.69 .net
>>691
大=長。
大委=租税管理の長官。

723:日本@名無史さん
20/10/15 23:27:30.97 .net
奈良の邪馬台国、河内の狗奴国

724:日本@名無史さん
20/10/15 23:32:16.05 .net
>>685
これには683さんの家系図が宜しくてですね。
出雲王家第八代の副王スクナ彦である、事代主こと八重波津身は国譲り事件で死んじゃいますが
息子の天日方奇日方(鴨王)は、母親の実家に一緒についていきます。摂津の三島家。
そこから奈良の発展性を見出し、湿地を開拓し、摂津から移住をします。
人の住めない奈良盆地の中央を開拓するのに葛城が一番楽だったらしい。
最初に出来たのが鴨都波神社。八重波津身の名前が入っています。
その次に来たのが西出雲王家の神門臣家がやってきました。彼らの住んでたところに出来たのが高鴨神社
そこに後から入ってきたのが丹波の五十猛(天香具山)と息子の天村雲。国譲り事件の犯人たちがwww
そこに笛吹神社を建てます。
結局数の上で勝る村雲一派が事実上の奈良の政治を掌握します。
三輪山祭祀の東出雲王家の娘を娶り、初代大王に。(後に記紀に勝手に神武にされる)
権力の証の村雲の剣は、登美家から贈られました。
高尾張村に居たことから、神武さんの実家は尾張家と言われるようになります。
そこから海部家などが分かれます。
出雲から娘さんを3代続けてもらったことにより圧倒的に出雲の血が濃くなってしまい、出雲系の磯城王朝になってしまいますが、これが初代神武朝、葛城国になります。
BC2~BC1です。
つまり、北九州の物部氏と同時期に大王が奈良に出現したわけです。
海幸彦、山幸彦、海童。鈴の輸入。こういう事です。

725:日本@名無史さん
20/10/15 23:37:13.02 .net
>>694
記紀でも、神武から三代目までは出雲の姫を貰った系図になっていますよね。
神武は存在しました。
しかし、記紀により東征が紀元前になった事と、二度にわたる物部の東征が一つにされたことにより
160年代の熊野勢のはずの磐余彦が神武にされました
そのあとの物部イクメもおかしなことになってしまい、イクメ=垂仁天皇が神武なのではないか、神武は架空なのではないかという学説が出されるようになってしまいます。

726:日本@名無史さん
20/10/15 23:41:38.93 .net
結局、いちば~ん揉めるのがいつの時代も親族同士の争いなんです。
神功皇后なんて何百年も昔の話を持ち出して、ヒボコ(王権の長男だった)の故郷の国が王様から部下が国を掌握した途端に
「相続権」を持ち出して、朝鮮半島に三韓征伐で納税させてましたからね。
昔は家督や相続、血筋、祖神である神様って命がけで奪ったりしたものなんですよ。
だから兄弟の海幸彦、山幸彦って書いてあるんですよ

727:日本@名無史さん
20/10/15 23:50:08.86 .net
>>685
葛城と神武を関連させるなら、御所市の中西遺跡から順を追って地域の発展を述べて行くのが効果があるよ。
そもそもの弥生前期から、列島随一の規模の水田が開発されていたのだからね。
神武が最初から畝傍山の東南へ向かったのは明らかなんだから、秋津あたりから畝傍山あたりまでが何らかの拠点だった可能性はある。
その拠点の上に葛城氏が現われてくる。

728:日本@名無史さん
20/10/15 23:55:04.73 .net
>>697
オウフ。
鴨都波(かもつば)神社と近鉄五所駅めっさ近いw

729:日本@名無史さん
20/10/15 23:57:13.36 .net
>>697
阿波さんが、一生懸命、奈良は人が住めない住めない~って言ってたので
ようやく時間をかけてココまでこぎつけましたよwww

730:日本@名無史さん
20/10/16 00:09:14.31 .net
>>697
葛木坐火雷神社から畝傍山をまっすぐ行くと天香山神社
その先がもう大神神社ww

731:日本@名無史さん
20/10/16 00:16:20.75 .net
出雲大神宮の宮司さんと、コノ神社(海部家)の宮司さんの内緒話を書きましたが
コノ神社の空位の神様が、出雲の大神様って言う話は、出雲の血が濃くなった磯城王朝(葛城王朝)を考えれば無理もないことと思います。
普通は神武さんとか天香具山(徐福の息子の五十猛)のはずですよね、海部氏なら。
海部氏は、二代目の天皇の兄弟の、天御陰の家系。

732:日本@名無史さん
20/10/16 02:09:41.43 .net
>>683
大分の宇佐国造家に伝わる口伝を宇佐公康氏が「宇佐家伝承、古伝が語る古代史」として出版されていて、その中で、
「宇佐国造家の口伝によると、木造建築の文化は、古の日子国(日向王朝)から国東半島におよんで木国の文化となり、さらに、その文化は近畿地方に移入されて紀国となったといわれている。」
どれも名草の人たちと関係があるかどうかは推測でしかありませんが、九州の東岸から和歌山への人や文化の流れはあったようですね。

733:日本@名無史さん
20/10/16 05:53:04.11 .net
>>691
>租税を納めた倉や市場の交易を管理する者として「大倭」の字が用いられているので、
その大の字を「拡大した」の意味とすると、「租賦の拡大した管理者」ということになり、意味不明となる。
それほど詳細な意味はない、と思う。
単に「倭の支配地が大きくなった地」という程度の意味なんだろう。

734:日本@名無史さん
20/10/16 05:56:35.96 .net
>>693
>奈良の邪馬台国、河内の狗奴国
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
両方とも、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。

735:日本@名無史さん
20/10/16 06:34:46.25 .net
>>697
>神武が最初から畝傍山の東南へ向かったのは明らかなんだから
神武天皇を冒とくするな。 神武天皇がそんな糞田舎へ攻め込む訳ないだろ!   @阿波

736:日本@名無史さん
20/10/16 07:00:12.76 .net
神武なぞ、500年後に勝手につけたいもしないフィクション

737:日本@名無史さん
20/10/16 07:12:38.39 .net
>>706
>神武なぞ、500年後に勝手につけたいもしないフィクション
そう思いたいのは、トンデモ説だから。   @阿波

738:日本@名無史さん
20/10/16 07:59:15.44 .net
バカやろ🤪
都合よくなきゃ全否定か?
キチガイ


739:が😬



740:日本@名無史さん
20/10/16 08:12:16.50 .net
>>706
神武という人物を創作しなければいけない理由がない。
とはいえ、神武東征紀はさすがに大げさすぎる。
ニギハヤヒが神武に屈する金鵄伝説の場面など、北朝鮮の金正恩礼賛みたいだ。
なんでこんなに大げさなのか。
神武の時代が魏志倭人伝に書かれた女王国だったからだ。
だから大げさな武勇伝でこの時代は女王国ではありません、男王国でしたと編纂したのだ。

741:日本@名無史さん
20/10/16 08:19:31.84 .net
>>705
糞田舎は徳島定期

742:日本@名無史さん
20/10/16 08:20:08.88 .net
桃の種をネタにしたこじつけ論を発表したが為にココ数年で信者が激減してしまった畿内説あわれ

743:日本@名無史さん
20/10/16 08:46:46.36 .net
九州説ってもしかしたら詐欺説か?

744:日本@名無史さん
20/10/16 09:00:24.53 .net
>>712
もしかしなくても、そうだが

745:日本@名無史さん
20/10/16 09:05:04.06 .net
>>704
そうすると海幸彦、山幸彦が居なくなるので✖

746:日本@名無史さん
20/10/16 09:11:38.86 .net
>>706
BC1年頃からすれば記紀は900年経ってから。
さらに諡が付けられたのはさらに後年。
確かに神武という名前そのものは適当ではあるが、それは神武に限ったことでは無い

747:日本@名無史さん
20/10/16 09:45:36.12 .net
>>712
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説って、
もしかしたら詐欺説か?
もしかしなくても、そうだろうが

748:日本@名無史さん
20/10/16 10:06:15.30 .net
>>690
昔はマジで皆殺しだったから命がけで隠した。
小野田口伝には物部のもの字も出てこない。
小野田口伝なら熊野勢の磐余彦の本当の名前を知ってるかもしれないね

749:日本@名無史さん
20/10/16 10:18:12.47 .net
勝手に記紀を頼りに否定してるだけで絶対的な物的証拠、何故突然今まで居た倭人では造れない前方後円墳が現れたのか?の答えにはならない。

750:日本@名無史さん
20/10/16 10:38:36.63 .net
>>718
田んぼを開梱するのとさして変わらんだろ。
何故日本人が作ったとは思わないw

751:日本@名無史さん
20/10/16 10:40:56.68 .net
>>709
記紀の制作の時に一番隠したかった物が一番か描かれいるとも取れる。
別にもっと古くから居るウサ家を書いてもよかったのだが、面倒だっただけでは?
だから適当に昔の一族をお隠れになった神様で省略した。

752:日本@名無史さん
20/10/16 10:54:52.05 .net
>>521
>いずれにしても、物部氏が大和に現れるのは5世紀後半頃。
4世紀初頭の崇神のお母さん(イカガノシコメ)や叔父さん(イカガノシコオ)は
確実に纏向にいたのだから3世紀後半に物部は纏向にいた。
ならばその古墳群=纏向古墳群は2世紀末にさかのぼる。
物部氏が大和に現れるのは5世紀後半頃などと、
津田史学のげっぷのようなクソ説者は失せてくれ。

753:日本@名無史さん
20/10/16 11:05:07.63 .net
宇佐家ってなんや?

754:日本@名無史さん
20/10/16 11:06:28.52 .net
>>722
宇佐八幡宮の元社家の古いお宅。
出雲族より古くから日本に土着したらしい。

755:日本@名無史さん
20/10/16 11:26:24.58 .net
754年の厭魅事件で大神氏が大宮司を外されてからだな

756:日本@名無史さん
20/10/16 11:29:31.88 .net
>>702
>「宇佐国造家の口伝によると、木造建築の文化は、古の日子国(日向王朝)から国東半島におよんで木国の文化となり、
さらに、その文化は近畿地方に移入されて紀国となったといわれている。」
宇佐家の祖(男系の祖)は、日向の祖母山の大蛇であり夜な夜な宇佐に通い、子をもうけて栄えたという(伝・平家物語)。
その大蛇の巣窟の祖母山の東南の麓には、日本神話の天孫降臨の日向高千穂がある。
しかしのちにその地が荒れ果てていたので、大蛇の孫の宇佐の大神の嫡男が高千穂に入り、
三田井( ≒マタイ ≒馬臺)に居を定めて一帯を再興したのが今の高千穂地方の姿と伝わる。

757:日本@名無史さん
20/10/16 11:38:17.78 .net
>>712奥山
>>713キナイコシ

758:日本@名無史さん
20/10/16 11:56:50.91 .net
>>725 修正
>宇佐家の祖(男系の祖)は、→ 宇佐地方の祖(男系の祖)は

759:日本@名無史さん
20/10/16 12:17:10.81 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

760:日本@名無史さん
20/10/16 12:24:33.21 .net
倭人が造ったんなら東征毛人五十五…にならないでしょう、列島民族を蔑視してる連中でしょう、何故日本人が造ったと言える?

761:日本@名無史さん
20/10/16 12:29:31.39 .net
所有権主張してるんか?
バカなら死ねばよいやね😃
なんでそんなドロボー思考になったんだ?

762:日本@名無史さん
20/10/16 12:29:52.99 .net
おまえらの行き先は五体バラバラ
それしかないぞ😃

763:日本@名無史さん
20/10/16 12:42:55.76 .net
ならキチンと説明することだね、誰が企画し測量し漢尺を使えるようになったのか?何故毛人と周夷なのか?日本人である筈なのに中国に対して。是非聴きたい

764:日本@名無史さん
20/10/16 12:52:30.05 .net
中国人による解釈
URLリンク(www.youtube.com)

765:日本@名無史さん
20/10/16 12:53:12.14 .net
口伝とか伝承とか、歴史学の根拠にはなりえない
「ドゴン族の神話」の教訓を学ぼう

766:日本@名無史さん
20/10/16 13:00:19.23 .net
>>724
お勉強になります。

767:日本@名無史さん
20/10/16 13:01:54.63 .net
>>729
前方後円墳より古い形態のお墓なんていくらでもあるし、普通は余程のことがなければ外来の祭祀を突然受け入れるような子孫はいない

768:日本@名無史さん
20/10/16 13:04:42.44 .net
>>732
聖徳太子は差し金を持ち込んだと逸話があるが、使いこなしたのは日本人だろ。
それと同じだろ

769:日本@名無史さん
20/10/16 13:06:48.80 .net
>>734
ばっかじゃねぇの?
記紀を作る前に風土記が集められたが、文字にしたのは口伝ではなくなるのか?
少しは考えてものを言ったら?
逆に言えば口伝の集まりでしか無いだろ、記紀なんて。

770:日本@名無史さん
20/10/16 13:17:22.18 .net
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

771:日本@名無史さん
20/10/16 13:54:37.38 .net
忌部の研究必要だな~

772:日本@名無史さん
20/10/16 13:55:05.79 .net
738
それを調べとるわけだろ😃

773:日本@名無史さん
20/10/16 14:10:17.81 .net
>>734
>「ドゴン族の神話」の教訓を学ぼう
「黒い瞳の伝説」もおもろいな

774:日本@名無史さん
20/10/16 15:11:08.51 .net
そう銅鐸祭祀消滅は受け入れて無いの?より良き原始道教に信者が増えたように見えるけどねぇ、五斗米道 らは100万の信者がおったがなあ

775:日本@名無史さん
20/10/16 15:22:51.14 .net
>>740
イラネw
少なくとも邪馬台国にはカスりもしない

776:日本@名無史さん
20/10/16 15:49:49.90 .net
>>743
呉が滅んだ後は道教の信徒はどうなったんだろ
鏡職人は相当こっちに来たらしいけど

777:日本@名無史さん
20/10/16 15:51:56.60 .net
>>721
>纏向古墳群は2世紀末にさかのぼる。
石塚は200年前後の築造とされるので、上はOK。
しかし、そのあとだよ。
3世紀~4世紀の間の200年間に、物部が大和のどこにいたのか、ちゃあ~ンと証拠ださんことにはな。
物部は


778:倭系の刀鍛冶なんだから、工房あとなんかを示さんことには、物部大和在住説は脳内劇場になるぞ。 イカガは単なる交野の地域名。 物部が系図に取り込んで、十千根の親に仕立て上げただけ。 交野に物部の鍛冶工房ができるのも5世紀後半だから、物部はその頃にやってきたのよ。



779:日本@名無史さん
20/10/16 16:04:58.12 .net
>>705
>神武天皇がそんな糞田舎へ攻め込む訳ないだろ !
神武は阿波のどから上陸したのよ。
室戸回って小松島ありから上陸したとしても、生駒に当たる山に登るのは西向きになる。
西向きに山に登るなら、朝に日神に向かって攻めることにならんからな。
生駒に当たるのはどこよ。

780:日本@名無史さん
20/10/16 16:10:07.69 .net
>>703
その大倭の読みはダイイだよ。
意味は、租賦を納めた倉や市場の交易を管理する役職の長官のことだ。
大倭の倭をワと読んでいるうちは、まともな解釈に行き着かん。

781:日本@名無史さん
20/10/16 16:13:27.45 .net
>>748
大倭はダーワと読むんだよ池沼

782:日本@名無史さん
20/10/16 16:18:23.21 .net
>>748
3世紀頃は大和(大倭)という国では無く、そういうグループ組織が居たんだよ
卑弥呼の死後、その組織が狗奴国派に寝返ったという事だろう
物資供給が止まった邪馬台国は衰退し消滅
その名残りが任那かもしれん

783:日本@名無史さん
20/10/16 16:25:17.08 .net
>>700
畝傍山と天香具山を結ぶ線を西に伸ばすと岩橋山に届く。
この三つの山は、竹内街道の竹内~平石峠~加納のルートの目印だろう。
つまり、葛城は和歌山ともつながっていたが、平石峠から富田林、佐山、和泉ともつながっていて、
池上・曽根遺跡のあるあのあたりとも交易していたのよ。
その両地域との交易が、葛城の力の源泉だな。
弥生中期の鴨都波遺跡から紀伊系の土器が出ているが、塩などは和泉から仕入れたのだろ。

784:日本@名無史さん
20/10/16 16:26:36.28 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)

馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

785:日本@名無史さん
20/10/16 16:31:02.19 .net
>>750
話としては、その大倭が内乱のどさくさに紛れて伊都国を乗っ取って、対馬海峡の交易路を牛耳り、任那にも出張って両方から海峡国家を作り上げた、とするほうが三国志的で面白い。

786:日本@名無史さん
20/10/16 16:32:17.51 .net
745
道教真っ盛りやん!😃
あれ確か国教としては最初は仏教が優勢で漢だの魏あたりでもまったく認められてなかったと思ったが
だからどっちかっちゃかなり民間における信仰が強かったろ
そんで中国の国は王朝が何回も変わるからどの宗教を国教にするか争ってるんだい
中国は儒教のあとに来たのは仏教、そんで唐代あたりになって道教にのめり込む皇帝とか現れだして国教になった

787:日本@名無史さん
20/10/16 16:34:33.23 .net
漢の国までは儒教だからなあれ
そのあと魏あたりが各地の宗教の状況などを調べてその役人らが研究して中国の仏教を制度化したんだわ
これが中国仏教
唐代にはいり道教が盛りだすのが900年ころから

788:日本@名無史さん
20/10/16 16:35:00.71 .net
>>749
大倭は、ダイイだよ。
中国の知識人なら、粗賦の管理や市場の交易の管理に関した倭の字なら、普通にイ(


789:倭=委)と読んだのよ。 それが静岡の川勝のアホのいう教養だな。



790:日本@名無史さん
20/10/16 16:38:51.37 .net
なんでトンデモ説の皆さんは
意見を言うとき
理由をまったく言わないのだろうね

791:日本@名無史さん
20/10/16 16:39:40.29 .net
魏って国は滅んでもその役人らの中身はあまり変わらないのよ
これが始まったのが魏の時代ってだけなん

792:日本@名無史さん
20/10/16 16:44:40.19 .net
この頭の悪い新人はだれだよ?

756日本@名無史さん2020/10/16(金) 16:35:00.71
>>749
大倭は、ダイイだよ。
中国の知識人なら、粗賦の管理や市場の交易の管理に関した倭の字なら、普通にイ(倭=委)と読んだのよ。
それが静岡の川勝のアホのいう教養だな。

793:日本@名無史さん
20/10/16 16:49:45.98 .net
あれ隋も仏教国だからね
そのあと唐のときに道教となったが宋なんかは変わらず仏教国なのよ
そのあと中国においては仏教が廃止になってその連中らが周りに散ったんだね
そんでチベット方面に仏教の本場を移して滅亡から逃れた
こんときからチベット密教の始まり

794:日本@名無史さん
20/10/16 16:50:08.42 .net
>>709
神武紀からナガスネヒコとの交戦を取り除けば、神武紀には神武が南九州から大和にやってきたということしかないことになる。
神武のモデルは崇神と名付けられた人物だが、この人物を英雄に仕立て上げるには、長い苦難の旅路とナガスネヒコとの交戦のエピソードが必要だったということ。
なので、大和の政権の始祖は崇神という人物であったのは明らか。
次期は3世紀中頃だよ。

795:日本@名無史さん
20/10/16 17:04:22.71 .net
>>718
前方後円墳のルーツは尾張の前方後方型の墳丘墓。
この尾張と円墳の吉備が張り合って、妥協的にできたのが前方後円型の墳丘墓。
なので、前方後円墳は普通に倭人が造ったのよ。

796:日本@名無史さん
20/10/16 17:05:34.20 .net
>>755
おいおい
北朝あたりだと道教に手厚く仏教弾圧とか有るぞ

797:日本@名無史さん
20/10/16 17:19:46.36 .net
763
だから魏の後継国が中国南朝なんだよ

798:日本@名無史さん
20/10/16 17:21:19.17 .net
中国を統一したあとに北部で反乱が起こり中国北部を失陥してるの
そんときに都を中国南部に移動したの
そらが中国南朝の始まり

799:日本@名無史さん
20/10/16 17:21:48.22 .net
>>761
>神武のモデルは崇神と名付けられた人物だが
そんなの古いよ。
黙っててくれ。

800:日本@名無史さん
20/10/16 17:26:45.20 .net
>>746
>3世紀~4世紀の間の200年間に、物部が大和のどこにいたのか、ちゃあ~ンと証拠ださんことにはな。
崇神は古事記の記述からも、応神仁徳からさかのぼった時代を考慮しても4世紀初頭の行灯山古墳。
ならば2世紀末まで前方後円墳がさかのぼれるので、崇神の母方物部のウマシマジあたりと符合する。
お前の妄想はもういいから消えろ。

801:日本@名無史さん
20/10/16 17:31:09.06 .net
>>746
>交野に物部の鍛冶工房ができるのも5世紀後半だから、物部はその頃にやってきたのよ。
馬鹿か、交野の森古墳群は3世紀後半からだ。
先代旧事本紀に交野連と明記されてるイカガノシコオの子タベノスクネの時代から。
おまえすこし黙れ、この糞が。

802:日本@名無史さん
20/10/16 17:38:26.88 .net
>>747
>神武は阿波のどから上陸したのよ。
神武東征は「阿波」の大吉野川北岸での戦闘譚 だと、何度言えばw   @阿波

803:日本@名無史さん
20/10/16 17:39:52.61 .net
>>762
>前方後円墳のルーツは尾張の前方後方型の墳丘墓。
嘘を言うな、東瀬戸内だ。
円形に突起が付いた周溝墓なら讃岐あたり。
後円墳のルーツが後方墳にはならない、適当な嘘を言うな、失せろボンクラ。

804:日本@名無史さん
20/10/16 17:40:02.27 .net
>>726
>>厚葬墓や前方後円墳に出来るのは、
西晋武帝の天円地方を教わって、壹與も亡くなって、影響が無くなってから。
>まったく九州説は妄想ばっかりだな
魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる事をまったく知らないとか
九州説ってホント、ばかだよね
まったく大和説や東大理系博士号らは妄想ばっかりだな
西晋武帝が(倭の遣使らに)天円地方墓を教えた、という事は、
西晋は、魏の薄葬指示から、倭に対しては厚葬許可に転向し、
だから、前方後円墳も許容した、という事なるではないか。
大和説者は、自分らの3世紀後半の厚葬の前方後円墳まで、否定するんか


805:い?。 大和説ってホント、ばかだよね



806:日本@名無史さん
20/10/16 17:51:56.84 .net
>>767
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
1里≒75m
1万2千里じゃ畿内まで届かないな
よって畿内は東の倭種の国確定

807:日本@名無史さん
20/10/16 17:53:38.26 .net
そもそも3世紀時点で大阪平野はない
7万戸の所在は?w
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
URLリンク(www.suito-osaka.jp)

808:日本@名無史さん
20/10/16 18:03:56.88 .net
>>761
五條の吉野川沿いにある阿太(阿田)には、古くから鵜飼や簗などがみられ、薩摩阿多との関連が考えられている。
神武紀ではこの阿田の贄持の子が登場している。
また、この地では縄文早期の遺跡があり、吉野川を少し遡ると宮滝遺跡があって、ここでも縄文早期の遺物がみられ、縄文後期にも巻貝で模様を付けた貝殻文土器が出土する。
この宮滝土器と愛知県渥美半島の遺跡の土器が貝殻文でつながっていることが分かっている。
貝殻文土器は縄文草創期からの南九州の伝統的な施文方法だ。
この阿太と日本書紀のニニギが住んだ吾田は地名として関連があるのではないかとされる。
そして、五條の阿太には隼人が住んだとする説もみられるようだ。
おそらく、崇神が南九州からきたときに従った吾田族が土地を与えられて住んだところだろう。
書紀で神武がめざした畝傍山の麓が崇神の住んだところであり、五條阿太にはその隼人集団が住んで、崇神の世話のために人を出したことが考えられる。
書紀の編纂者は、そうした歴史をよく知っていたということだろう。

809:日本@名無史さん
20/10/16 18:13:07.96 .net
>>770
盆暗はオメだ。
東瀬戸の円墳の突起は、それで完成型だ。
その突起は撥型に開かない。
前方部が撥型に開く墓形は尾張の前方後方型墳墓以外にない。
その尾張の前方後方型墳墓の後方部を吉備の円墳に置き換えたのが石塚などの前方後円型墳墓だ。
オメは盆の暗がりで踊ってろ。

810:日本@名無史さん
20/10/16 18:16:16.61 .net
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)

811:日本@名無史さん
20/10/16 18:19:06.79 .net
>>769
>大吉野川北岸での戦闘譚だと、
北側に向かって攻めたら、東に向かって日の神を攻めることにはならん。
阿波日本書紀を大和日本書紀が改竄したというのか、ヨ。

812:日本@名無史さん
20/10/16 18:41:44.32 .net
>>768
森古墳群を造った在地勢力の田んぼを突然埋め立てて鍛冶工房が造られている。
その時期は5世紀後半。
この5世紀後半からの鍛冶集団が物部だとみられ、在来の稲作をやっていた在地勢力は物部とは別だというのが通説よ。
アホォォォォォ !

813:日本@名無史さん
20/10/16 18:41:52.06 .net
>>736への返事を書きましたが、
「ERROR: 当分お断りしております。🤮・・・」
だそうです。

814:日本@名無史さん
20/10/16 19:03:22.72 .net
>>766
神武のモデルは崇神以外にあるかよ。
古いも新しいもない。

815:日本@名無史さん
20/10/16 19:53:00.58 .net
>>780
畝傍山の東南麓に宮を作った神武(崇神)は、纏向での祭祀のためにまず磯城に設けた仮宮に行って斎戒沐浴精進し、そのあとに纏向大型建物跡で祭祀を行ったということだろう。
そのため、磯城の仮宮を後世に崇神の宮の所在地としたのではないか。
このパターンは、景行天皇まで続くようだ。
したがって、いわゆる葛城王朝は存在したが、それは磯城の地域も含めたものであり、むしろ行政的には磯城の地域に政権が所在したのではないか。

816:日本@名無史さん
20/10/16 19:56:38.00 .net
日本(東夷)やしな

817:日本@名無史さん
20/10/16 20:03:52.13 .net
>>774
宮滝式土器に見られるヘナタリ属の小巻貝を回転押捺させた文様は擬似縄文で
瀬戸内海周辺に特徴的な文様

818:日本@名無史さん
20/10/16 20:08:36.64 .net
>>781
磯城の地域に政権が所在したというのは、合理的だ。
纏向遺跡のある地域の開発は2世紀末頃から広域連合政権によって進められていたのであり、
その開発事務所は人の住んでいた磯城地域に所在したと考えるのが妥当。
そして、それまでの開発事務所から連合政権庁への衣替え後も所在地は変わらなかったとした場合、
南九州からやって来た大シャーマンは喧騒をさけて樫原に宮を建て、そこに住んだとするのは、むしろ合理的といえる。
日本書紀はその大シャーマンを英雄イワレヒコとして描いたものの、宮の所在地は変えなかったということが正しい見かただろう。
したがって、書紀が崇神の宮の所在地を磯城とするのは、纏向で祭祀を行うときの仮宮のことであると考えることができるのである。

819:日本@名無史さん
20/10/16 20:13:04.98 .net
>>783
南九州に発祥した貝殻文土器は明石付近までの西日本に全般的にみられるので、
その瀬戸内海周辺に特徴的な模様は、南九州に起源を持つ様式であるのは言を待たない。
なので、宮滝や渥美半島へと続く縄文後期の貝殻文は、南九州に起源を持つものであることは動かせない。

820:日本@名無史さん
20/10/16 20:15:11.37 .net
>>785
擬似縄文は縄文に似せた文様

821:日本@名無史さん
20/10/16 20:37:17.11 .net
>>785
吉野川沿いの縄文早期の五條阿太や宮滝の縄文人は、瀬戸内海から南下したのか、四国南岸を経て紀伊水道を北上し、
徳島あたりから和歌山の紀の川河口に入ったのかは、興味深い問題であるが、四国南岸からのルートが正しいようにみえる。

822:日本@名無史さん
20/10/16 20:44:56.94 .net
>>786
五條阿太や宮滝、渥美半島の貝殻文は疑似縄文という判定はないように思うが。
とすれば、この縄文人たちは四国南岸を経て、紀の川河口を登った可能性が高い。

823:日本@名無史さん
20/10/16 21:02:27.66 .net
縄文早期と後期でどんだけ年代差があると思ってんねん

824:日本@名無史さん
20/10/16 21:04:30.49 .net
>>788
コトバンク「貝殻文」によると、ヘナタリの貝殻文は縄文早期後半に東日本や南九州でみられるもので、
その後も地域的に継続的にみられるとしている。
五條阿太や宮滝のヘタナリ貝殻文は、南九州系ではないか。
この時期には太平洋岸に沿って、南九州系の縄文人の移動が東海、関東に向かってみられるようだ。
そうした南九州系の縄文人の移動の跡の一つが五條阿太や宮滝のヘナタリ貝殻文だろう。

825:日本@名無史さん
20/10/16 21:05:33.71 .net
>>789
その長い年月の間も、その伝統様式が変わらなんだというこだな。

826:日本@名無史さん
20/10/16 21:10:16.88 .net
>>788
阿太や宮滝の貝殻文については、ヘナタリ貝殻文であるとコトバンクに出ているので、ヘナタリでないとしたのは誤りだ。
「疑似縄文」という言葉は誤解を生みやすい。
疑似縄文とは、縄目に似せた模様という意味であるが、縄文時代の模様に似せた模様という意味にとらえられる可能性がある。
別の用語にしたほうがよい。

827:日本@名無史さん
20/10/16 21:10:25.56 .net
>>787
南九州にも瀬戸内地方の影響を受けた貝殻を使った疑似縄文の土器が在地化している

828:日本@名無史さん
20/10/16 21:14:43.31 .net
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

829:日本@名無史さん
20/10/16 21:15:00.12 .net
時空を歪めるのはトンデモの証左

830:日本@名無史さん
20/10/16 21:21:46.82 .net
土器に貝殻で模様をつける様式は、縄文草創期から南九州でみられる。
貝殻を土器の模様として用いる方式は南九州発祥で、これが西日本一帯に広がった。
模様をつけるのにどの貝を用いるかは、それぞれだ。
この貝殻文の西日本の範囲と南九州が発祥のゴホウラ貝腕輪の出土範囲は、完全に一致している。
南九州縄文人の文化がその範囲まで広がったということだと思うよ。

831:日本@名無史さん
20/10/16 21:24:25.22 .net
>>793
貝殻文を土器にほどこす方法は、南九州では縄文草創期からある。
南九州でヘナタリを用いることがあってもおかしくない。

832:日本@名無史さん
20/10/16 21:25:54.02 .net
邪馬台国畿内説は、なぜ、完全に、破綻してしまったのだろうか、、、

833:日本@名無史さん
20/10/16 21:35:49.92 .net
>>797
ヘナタリを土器の模様に用いるのは中国・四国に多くみられるというから、
五條阿太や宮滝のヘナタリ文も四国あたりからの影響かもしれんな。
しかし、この阿太や宮滝の縄文人の系譜は南九州から移動してきた縄文人だろう。
もとから貝殻文を使っていた者たちだな。

834:日本@名無史さん
20/10/16 21:43:34.22 .net
>>798
そういった中身のない悪口は
九州説がとっくに滅んだ証拠だな

835:日本@名無史さん
20/10/16 21:53:06.32 .net
>>775
>東瀬戸の円墳の突起は、それで完成型だ。
盆暗はオメだ。
「突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳」
前代にいったん登場した突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳の墳丘形態は以後しばらくの間、
吉野川下流域北岸地域で再現されつづけ、ある種の地域的規範が形成されている。   @阿波
URLリンク(ameblo.jp)

836:日本@名無史さん
20/10/16 21:54:46.86 .net
>>799
石棒が出てるから東日本からだろう

837:日本@名無史さん
20/10/16 21:58:32.64 .net
>>777
>北側に向かって攻めたら
だれが北へ向かうと言った! アンポンタン
大吉野川の北岸の阿波市(西)→鳴門市(東)への東征だ。   @阿波

838:日本@名無史さん
20/10/16 22:05:36.65 .net
>>802
>石棒が出てるから東日本からだろう
縄文晩期末からは、「阿波」(徳島市三谷遺跡)からだよ。   @阿波

839:日本@名無史さん
20/10/16 22:09:11.73 .net
>>775
>東瀬戸の円墳の突起は、それで完成型だ。

「前代にいったん登場した突出部をもつ墳丘墓」
萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳・寺山3号墳   @阿波

840:日本@名無史さん
20/10/16 22:11:37.37 .net
>>805
格上は突起付き
丸だけは下っ端

841:日本@名無史さん
20/10/16 22:16:46.86 .net
>>806
>格上は突起付き
突起付きしか無いからね。 それ以降の変遷した墓がない地方は。  無知の井戸かわず(蛙)  わははははは   @阿波

842:日本@名無史さん
20/10/16 22:36:48.29 .net
テスト投稿

843:日本@名無史さん
20/10/16 22:38:53.59 .net
>>776
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、、
史料事実や史料実態に拠って、×。

844:日本@名無史さん
20/10/16 22:39:47.92 .net
テスト投稿

845:日本@名無史さん
20/10/16 22:40:06.47 .net
>>747
神武をどの時代の神武にするかですが。
①天村雲  伝承
②磐余彦  学説
③崇神天皇 学説
④垂仁天皇 学説
②なら土佐の物部側あたりに寄港して「阿波を素通り」して和歌山の紀川あたりで名草のトベにやられて熊野川から吉野を通って、磐余の地を経て大和入り
③なら大和入りしていません。邪馬台国事件の二回目の物部東征前に都万で無くなります。記紀によって便宜上天皇にされたハツクニシラス
④は実際にヤマトで政権を取ったイクメ王。かれは瀬戸内海ルートで大和入り

846:日本@名無史さん
20/10/16 22:42:43.00 .net
>>697
>神武が最初から畝傍山の東南へ向かったのは明らかなんだから
神武天皇を冒とくするな。 神武天皇がそんな糞田舎へ攻め込む訳ないだろ!   @阿波

847:日本@名無史さん
20/10/16 22:45:04.67 .net
>>784
>磯城の地域に政権が所在したというのは、合理的だ。
大和政権があってもよいが、
それは、「(大和)日本國者(九州)倭國之別種也」のに国であり、
「倭國から別れた旧小国」の国だ。

848:日本@名無史さん
20/10/16 22:51:45.80 .net
>>813
そういった中身のない悪口は
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、
大和説がとっくに滅んだ証拠だな

849:日本@名無史さん
20/10/16 23:23:37.63 .net
>>813
卑弥呼の倭国は北部九州。
大和の広域連合は卑弥呼の倭国とは別で、魏略や倭人伝にいう倭種の国などに当たる。
吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。
「倭国から分かれた旧小国」というのは旧唐書などの誤解。
むしろ、この連合が北部九州の倭国を飲み込んだというのが正解。

850:日本@名無史さん
20/10/16 23:34:03.84 .net
>>815
3世紀の筑前は畿内や山陰との交流が密
南側との交流はほ無い

851:日本@名無史さん
20/10/16 23:41:33.79 .net
>>811
神武のモデルは崇神と応神なので、時代を設定するのはむずかしい。
しかしながら、畝傍山の東南麓に宮を置いて、そのあと桜井の外山で天神を祀るなどしたことなどからすると、崇神の時代とするのがよいのではないか。
③の説明の意味がよく分からんな。

852:日本@名無史さん
20/10/16 23:50:36.57 .net
>>774
物部イニエ(崇神天皇)の最初の奥さんは、アタツ姫(後に記紀に此花サクヤヒメに比定される)です。
薩摩隼人は最初の五瀬の東征で物部軍に味方したとされます

853:日本@名無史さん
20/10/16 23:53:26.72 .net
全然四隅突出古墳でも何でもないじゃん
よくもまあポンポンと嘘が出てくるものだ。
この前の自称大規模集落も自分で勝手にナレーション付けたり。もう異常だな

854:日本@名無史さん
20/10/16 23:56:06.39 .net
>>781
奈良の政治は、男の王様と姫巫女のセットになっていました。
大王、姫巫女制ですね。
だから卑弥呼は役職名で、何人も存在ます。
卑弥呼は磯城登美家の世襲でした

855:日本@名無史さん
20/10/17 00:00:04.82 .net
>>812
神武天皇が小松原あたりに上陸して進軍したとすれば、方向は西か北しかない。
しかし、その場合は西か北に向かって山に進むのだから、
そこでナガスネヒコの攻撃うけて戦えば日神に攻撃しかける態勢とはならないので、
戦いが不利になって引き返すことにはならない。
神武は、阿波のナガスネヒコを簡単に打倒して勝利できたはず。
どうすんの、これ。

856:日本@名無史さん
20/10/17 00:04:42.30 .net
>>817
応神天皇は神功皇后の時代なので後世の人です。
豊来入彦の子孫で、上州から密かに呼び寄せられた人。
あまり神武の投影は感じませんが・・
③はイクメの父親。④はイニエの息子でイクメ。魏の朝貢した人物で、名前がバッチリ載っています。故に③④の時代が邪馬台国事件、物部東征の時代、魏志倭人伝の時代です。
記紀は、二回にわたる物部東征を神武がやったことにして①の前にもってきています。
天村雲は、BC2~BC1の人物です。

857:日本@名無史さん
20/10/17 00:20:10.00 .net
>>820
書紀の編纂者は、大和を卑弥呼の倭国にダブらせようと必死だが、卑弥呼の時代の大和に大王、姫巫女制があったフシはない。
纏向の祭祀所で祀りを行ったシャーマンが男だったか、女だったかを示す物証はないが、
そのシャーマンが男だったとしたら、ホケノ山古墳の副葬品の種類と合う。
卑弥呼の時代が終わったあとに造られたとされる箸墓古墳は崇神の時代と合うので、南九州から来た男の大シャーマンである崇神の墓だろう。

858:日本@名無史さん
20/10/17 00:21:21.78 .net
>>821
ナガスネヒコは孝元天皇クニクルの息子で、邪馬台国、崇神や垂仁の時代とは合いません。戦ったのは熊野から入った物部勢です。
名草のトベに毒矢で射抜かれた方の物部氏。
熊野本宮大社が陣地になっていました。旧跡地の中州、オオユノハラと呼ばれるところです。
後白河院は歌います。
熊野の権現は 名草の浜にこそ 降り給へ~
若王子社は、五瀬を祭る場所になります。
熊野川支流の北山川(大峰奥駆道方面)に向かって北進
大峰山脈の東を抜け、井光近くの吉野川から国栖から高見川に沿って上流へ
宇賀志を過ぎて宇陀に到着。ここで一度終結を待ったとされる
墨坂のあとは、「磐余」に
物部軍が大和入りしたことによって、葛城国フトニは出雲への攻撃を中止する。
熊野物部氏のせいでフトニはヤマトには帰還できず、吉備国で無くなることになる

859:日本@名無史さん
20/10/17 00:31:20.79 .net
>>823
>「書紀の編纂者は、大和を卑弥呼の倭国にダブらせようと必死だが、卑弥呼の時代の大和に大王、姫巫女制があったフシはない。」
逆です。危機の編纂者の目的は、徐福と絶対的禁忌の徐福を徹底的に隠す事と、天皇の系譜が万世一系でつながる事、朝貢の事実を消す事を目的としています。
大陸に見せることを前提として作られ、それで漢文で作られています。
記紀の編纂者は魏書の内容を知っていたとされています。
だから魏書に載った人物は渋々登場させ時系列や血縁を偽って繋げています。
初代神武の政権(三代までは尾張家、それ以降は海部家)は三代まで登美家から奥さんを貰いますが
三輪山の祭祀が始まった時点で、登美家の姫巫女は、いわゆる卑弥呼職を担当します
箸墓古墳は180年代に生きてたモモソ姫の墓ではないかと言われています(時代は合わないが垂仁天皇の娘のヤマト姫の可能性もありとされる)
原則今のところ箸墓古墳は放射瀬炭素分析で50年ほど古くなったので、モモソ姫の時代の墓の可能性が高くなっています
王様はシャーマニズムの省庁にはなれません。だから、東征の時に豊玉姫、月の女神を奉じる卑弥呼を連れてきたのです。

860:日本@名無史さん
20/10/17 00:34:14.49 .net
神武は記紀に磐余彦と書かれているのに、崇神、垂仁のように「入」り彦のように、入が付いていません。
最初の東征と後の東征が区別できるようにわざと入が付いてないように思えます。

861:日本@名無史さん
20/10/17 00:37:04.00 .net
>>825
訂正
徐福と絶対的禁忌の徐福を徹底的に隠す事と
物部と絶対的禁忌の徐福を徹底的に隠す事と
徐福はスサノオにされ、出雲の初代大国主の伝承と合わせて誤魔化しています。
出雲とスサノオに舅の血縁はありません。

862:日本@名無史さん
20/10/17 00:52:18.28 .net
>>823
三輪山祭祀がいつ始まったかは判然としませんが
狭井川の上流付近にむかし、出雲屋敷と呼ばれた場所があり、そこに斎宮が出来て
クシヒカタの妹君が住んだとされるので初期の段階から祭祀はあったと思われます。
登美家の世襲と書きましたが、実際には磯城王家と登美家の女性が卑弥呼職になっていました。
三輪山登山口のある「狭井神社」を通り過ぎ、山ノ神遺跡に向かう。
「辰五郎大明神」が途中の目印
辰五郎大明神の手前を左に折れて山中に入る。
「山ノ神遺跡」
そこが出雲屋敷跡。

863:日本@名無史さん
20/10/17 01:01:50.65 .net
カモス神社の西側に、忌部の里がある。
忌部川のほとりに忌部神社もある。
フト玉の命は東出雲王家の分家で、クシヒカタが奈良に行ったときに一緒に葛城に行っている。
本当の忌部は阿波を発祥としない。
渡来の忌部がフト玉を神様として担いでいるだけ

864:日本@名無史さん
20/10/17 02:02:44.38 .net
奈良県五條市の吉野川沿いにある阿太は、隼人とつながりのある地域のようだ。
律令の時代には阿太の近くの原町に境合部(土地の境目を確定する役職)があり、この境合部は隼人系だったとされている。
またこの地域で竹細工に用いる竹は、九州からもたらされたとされているようだ。
万葉集の歌では、この地の鵜飼のことが詠われており、古事記では鵜飼は隼人の文化だとする記事がみえるそうだ。
また、書紀では、神武天皇がこの地で出会った贄持の子という人物は鵜飼を行っていた。
書紀の履中天皇紀や雄略天皇紀では、皇族の近習や天皇の宮の警護人として隼人が記述されている。
どうも、この五條の阿太は南九州由来の隼人が多く暮らしていたようなのだ。
そして、縄文時代には、この地では南九州系の縄文人が住んでいたことが分かっている。
崇神天皇をモデルにしたとみられる神武天皇は、南九州の吾田からやってきたことになっており、
崇神天皇は南九州から一人でやってくるわけがないので、崇神天皇を支える集団一式が一緒にやってきたと考えれば、
神武天皇が宮を置いた畝傍山の東南麓の地から真南に当たる阿太は、その崇神天皇の隼人集団が入植した土地だった可能性を考えることができるのではないか。
その入植地の選定に当たっては、縄文時代や弥生時代を通じてずっとそこに南九州系の者たちが暮らしていたことが考慮されたとすれば、納得しやすい。
つまり、縁故の地というわけだ。
そういうわけで、崇神天皇(神武天皇)の生活を支えた集団が、その五條の大阿太の隼人集団だったと考えれば、そこから真北に位置する橿原の崇神天皇(神武天皇)の宮の位置選択の理由も分かりやすいということになるのである。

865:日本@名無史さん
20/10/17 02:10:41.42 .net
>>826
神武は南九州の吾田を出発して大和に来たわけですから、その物語で「入り」の人物であることは明らかな事であるので、「入り」を贈り名に付ける必要がなかったということではないでしょうか。

866:日本@名無史さん
20/10/17 02:18:42.52 .net
>>830
崇神天皇を神武とする学説とすれば、宮は石上です。
後に石上神宮になりました。3世紀
出雲伝承の神武、BC2~BC1の村雲王の宮は、クシヒカタの住んだ地域、鴨都波(かもつば)神社(下鴨社)の北西、葛木坐火雷神社(笛吹神社)のあたりとのです。
確かその後、二上山方面にも勢力を伸ばしたんじゃなかったかと

867:日本@名無史さん
20/10/17 02:28:14.40 .net
>>831
豊国、物部の連合国の都は都万との事です。
ヤマトに行く前に死んだイニエ(崇神天皇)は記紀によって大和入りしたことにされたので入を付けたのではないでしょうか
腹違いの兄弟、八坂入彦
息子のイクメの偽名、イサチの前にも入
豊玉姫は途中で死んだので、入無し
息子と娘は、豊来入姫と、豊来入彦
熊野勢第一次物部東征は、磐余彦とウマシマジ
これらが全部同時期のように書かれたので、当然に邪馬台国も消滅
モモソ姫も、大彦、タジマノモリまで同時に参加せざるを得ない状況になったと言えます。
それなら160年代の磐余彦を神武にしてそこから始めればいいじゃんという事になりますが
それだと草薙の剣の尾張家が繋がらなくなるのでと、神武東征を紀元前に持っていった。
最終的に三人の神武候補が一度の事件で登場するという事態にw
しかし、後世の人たちは魏書に3世紀とバッチリ書かれちゃってるのを誰でも目にすることができます
これだけ大勢の人が魏書を目にする事などは記紀は想定してなかったでしょうね。
基本、古事記は一


868:般から隠され、一般には日本書紀。 これだけ古事記がみんなに見れるようになったのは実は明治から。明治政府の政策で見れるようになった だから、記紀と違う内容の伝承や神社はかなり圧迫された様です。



869:日本@名無史さん
20/10/17 02:37:24.17 .net
>>831
物部軍は西都原に集結したという事なのでもうちょっと北の方面ですかね

870:日本@名無史さん
20/10/17 02:39:20.47 .net
たぶん、邪馬台国事件の関係者を中心に「入」なんじゃないかと
奈良に残らなかったタジマノモリや、野美宿祢も武内宿祢も、額田宿祢も入は無し。

871:日本@名無史さん
20/10/17 02:47:55.63 .net
>>825
>箸墓古墳は180年代に生きていたモモソ姫の墓ではないかと言われています。
トトヒモモソ姫は、十日×十日=百という九九をもじった名前ですので、
九九がもたらされたあとの創作でしょう。
この創作モモソ姫をもって卑弥呼に当てることは、無理です。
そして、モモソ姫が創作された人物であったとすれば、ヒコヒメ制のような統治体制の証拠がなくなります。
書紀の編纂者が必死になって卑弥呼とその弟の二人三脚を演出していると考えるのは、そのためです。
書紀の編纂者がなぜ大和に卑弥呼がいたと臭わせなければならないかのかというと、後漢書の記述から奈良の地をヤマトと名付けてしまったからです。
奈良がヤマトである以上、そこに卑弥呼がいなければ筋が通らないからですね。
そういうことなのでしょう。

872:日本@名無史さん
20/10/17 03:00:42.32 .net
>>836
ヤマトトビモモソ姫ではなかったかと。
事件が一緒にされてしまったので、この名前は二人の名前が一つになったという事です。
ヤマト姫(伊勢の初の巫女様)イクメの娘
モモソ姫 登美家の分家、太田氏の出。弟が大田田根子とされています。
なので、間にトビが入ってるという事でした。
ヤマトは元々昔からありましたよ。村雲の神武の頃から。紀元前からです。
北九州より先に朝貢してたから魏書にも書かれたのです。
日本に同時発生した二大勢力、ヤマトと九州。
九州勢がヤマトを乗っ取るのに、張政を騙して、自分たちがヤマトの人間で、狗奴国をぶっ倒したいと朝貢したわけです。
これが魏書の邪馬台国。
張政は最後まで豊国物部連合軍が戦ってるのは狗奴国勢と思い込んでました
東軍も連合軍だったのでバレなかったのでしょうね

873:日本@名無史さん
20/10/17 03:25:09.02 .net
>>793
かりにそうであっても、縄文後期であるので、問題ない。
南九州に始まった貝殻文が、中国・四国あたりで縄文後期になってヘナタリ貝が用いられたということ。
その影響が吉野川の宮滝にも波及したとするもOK。
一方、南九州では、後期の市来土器にも二枚貝の貝殻文が施されていて、これは薩南諸島にも及んでいるそうだ。
こうした貝殻文の発祥地は南九州であり、それが縄文早期までに西日本に広がったそうだ。
後期になって、瀬戸内でヘナタリ貝の貝殻文が施されるのも、こうした貝殻文文化のひとつということになるな。

874:日本@名無史さん
20/10/17 03:30:18.41 .net
そおいうのは飽きた

875:日本@名無史さん
20/10/17 03:36:16.58 .net
>>837
話の筋目が全然見えてませんね。
2世紀の末頃から大和に連合政権が生まれて、北部九州と大和に2大連合国があったとするのは、今は通説ですね。
で、そのあとが初耳の展開となっていますから、構図がよく呑み込めません。
書記のヤマトトトヒモモソヒメは創作された人物だと思いますが。

876:日本@名無史さん
20/10/17 04:07:55.34 .net
名誉毀損

877:日本@名無史さん
20/10/17 04:29:47.59 .net
おまえが結論を決めてよい事柄じゃねえの

878:日本@名無史さん
20/10/17 07:11:30.95 .net
>>815
>吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。

妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 

879:日本@名無史さん
20/10/17 07:24:51.95 .net
>>821
>神武天皇が小松原あたりに上陸
小松原? 小松島のことか?  いずれにせよ、そんな所に上陸などしないよ。   @阿波

880:日本@名無史さん
20/10/17 07:25:28.65 .net
>>838
南九州は約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火で滅亡した
貝殻条痕文は縄文時代早期から各地で採用されている

881:日本@名無史さん
20/10/17 08:06:19.01 .net
モモソヒメという一皇女は女王ではない。
したがって卑弥呼ではない。
時代も約100年は違う。
卑弥呼は西暦200年ごろには推定20歳くらい。
モモソヒメは西暦300年ごろに20歳。

882:日本@名無史さん
20/10/17 08:10:43.68 .net
吉備と尾張の集合でもかまわんがそれには新しい思想が収めなきゃならない、卑弥呼らが行うなら何処から得た知識なのか?という話になる。ヒメミコ制は五斗米道がこなす。

883:日本@名無史さん
20/10/17 08:20:49.96 .net
卑弥呼←宇那比姫
相誅殺男王←侵略王フトニ
臺与←百襲姫(フトニの娘)
次の男王←ミマキ 

884:日本@名無史さん
20/10/17 08:37:29.39 .net
>>840
二世紀末だと、熊野勢の物部氏が入った時で、磐余彦を神武とする場合です。そういう意味です。
もっと前から神武は居ました。
尾張家出身です。村雲の剣が草薙の剣で尾張氏所有です。
熱田神宮を作った尾張氏が居なくなったら正に記紀的状況w

885:日本@名無史さん
20/10/17 08:40:35.49 .net
テスト投稿

886:日本@名無史さん
20/10/17 08:44:10.08 .net
再テスト投稿

887:日本@名無史さん
20/10/17 08:57:27.83 .net
>>846
モモソ姫は160年頃葛城国のフトニ(孝霊天皇)が出雲に戦争を仕掛け、最終的にヤマトに帰れなくなります。この頃倭は荒れます。
175年、磯城登美家の八咫烏が物部氏を手引きし、ヤマトの戦乱終結に導きます。
183年、大彦が負けて北に逃れます。
昔の人の平均寿命は50に届かないくらい。フトニの頃からの卑弥呼であれば高齢になります。
女王と書かれただけで、女王単独だったかといえばどうなんでしょうね。女王単独で戦乱を鎮めたは思えません。
景初3年と出る以前の卑弥呼はモモソ姫の事だと出雲伝承は書いています。
年号の出たあとの卑弥呼は別人で、東征の卑弥呼としています

888:日本@名無史さん
20/10/17 09:22:36.15 .net
伊豆毛外三郡誌

889:日本@名無史さん
20/10/17 09:23:51.79 .net
>>852
なに言ってんだか要領を得ない

890:日本@名無史さん
20/10/17 09:34:31.35 .net
>>854
大和の方が先に朝貢してて、途中で死んじゃう方の卑弥呼は豊玉姫。景初三年の卑弥呼はそれより前に出てくる卑弥呼とは別人

891:日本@名無史さん
20/10/17 10:31:20.50 .net
>>815
>卑弥呼の倭国は北部九州。
大和の広域連合は卑弥呼の倭国とは別で、魏略や倭人伝にいう倭種の国などに当たる。
倭種は、九州倭國の「繰り返しの東征毛人五十五國」で得られた地域への倭人の定住民。
>吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。
当然、その連合事務所は北部九州にあり、
大和は、三道将軍に参加出来たりして生口や守墓人を獲得出来てよかった旧小国。
>「倭国から分かれた旧小国」というのは旧唐書などの誤解。
むしろ、この連合が北部九州の倭国を飲み込んだというのが正解。
魏使らや裴清や郭務ソウらのような、
倭国倭地での実地の見聞計測記で書かれた中国史書群は、
信頼性や確率が非常に高く、
8世紀になってからの大和などの史書群などの記載は、
後代の自家解釈に拠る創作話が多く、信頼性も確率も低い。

892:日本@名無史さん
20/10/17 10:50:29.00 .net
もう宗教だな

893:日本@名無史さん
20/10/17 11:32:25.33 .net
また投稿を拒否されたので、テスト投稿

894:日本@名無史さん
20/10/17 11:36:45.10 .net
テスト投稿が通ったので、元の投稿を再投稿したら、
また5chに掲載を拒否された

895:日本@名無史さん
20/10/17 11:36:56.11 .net
>>857
まあその、卑弥呼さんそのものが宗教の象徴でありますから

896:日本@名無史さん
20/10/17 11:37:51.33 .net
売り上げのための規制うぜー

897:日本@名無史さん
20/10/17 11:48:42.14 .net
>吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。
出雲の国は段々大きくなって、初めは北九州のアタカタス、宗像家が広がり、その後に�


898:レ住で大和。 その時には既に北陸から翡翠が運ばれてましたのでまさにその通り。 東海、関東は大彦の息子の軍勢が邪馬台国事件以降入り込んでますが、纏向からは元々そっち方面の土器も出ていたと思いますので、結びつきはあったと思います。 そこにヒボコが播磨侵攻を始め、領地確保のために葛城と尾張が動き、葛城のフトニが砂鉄の確保のために出雲領のの吉備まで侵攻。 そしたら熊野の物部が入ってきてしまい、フトニは大和王様ではなくなりました。 しかし物部のお陰で吉備出雲侵攻は止まりました。



899:日本@名無史さん
20/10/17 12:24:00.83 .net
大元出版の出雲伝承本は、複数の人が本を書いており、出雲王家の子孫の人と別の方では若干書いてある内容が異なる。
出雲と大和のあけぼの
親魏倭王の都
箸墓古墳の被葬者がモモソヒメとヤマトヒメで分かれている
大和姫説の人はモモソヒメの墓を
登美家が造っていた纒向の初期の古墳の中にあるだろうと推論を述べている。
有力なのは纒向石塚古墳。3世紀初頭に造られた全長100mほどの最古級の前方後円墳。
纏向遺跡の西側の太田地籍、さらにその西側ではなかったかと。
周濠からは楯築由来の弧帯文様が彫られた弧文円板という祭祀用品が出土している。

900:日本@名無史さん
20/10/17 12:32:47.27 .net
尾張氏と海部氏
大和の高尾張村にいた尾張一族は、イツセの物部勢力に圧され、一部は紀伊国の高倉下の子孫と合流、残りは摂津三島へ。
そこで尾張家と分かれた海家(海部氏)は先祖の地、丹波へと引きあげたとされる。
残りの尾張一族は伊勢湾岸へと移住し、熱田神宮を建て勢力を伸ばし、のちに尾張国と呼ばれるようになりました。
その時に草薙の剣も持って行ったのでしょうね。

901:日本@名無史さん
20/10/17 13:00:26.13 .net
>>1こと奥山君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからこそ、その時代がとんでもない時代=BC660年に設定されてるのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼より100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津       (250年頃) ④懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
URLリンク(bbs10.aimix-z.com)




径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ~~!

902:日本@名無史さん
20/10/17 13:04:44.39 .net
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

.

903:日本@名無史さん
20/10/17 13:17:50.63 .net
175年から183年の間が倭国大乱。
先王家の二大勢力の尾張家と海部家は大和を去った。
残るは王家と連立相手の登美家。
クニクル大王はまずクニアレ姫との間に大彦とモモソ姫をもうけ、その後
物部東征の影響で、物部の2人の姫君を后とし、そのうちのひとりとの間にオオヒビをもうけ、他方の姫君との間に彦フツオシノマコトをもうけているようだ。
この彦フツオシノマコトが紀伊の高倉下の子孫である山下陰姫との間に武内大田根、いわゆる武内宿祢をもうける。
その息子たちがこの後大和を大きく動かしていく。
武内宿禰が長命になる理由。物部、出雲、磯城家のすべての血が入った蘇我氏の祖はこうして生まれた。
最初の物部東征は、物部の姫が三輪山祭祀の卑弥呼を継げなかったのでグダグダで終わる。
物部氏は銅鐸を壊して回って銅鏡を強要したようだ。当然うまくいかない。紀州の名草の様な反骨気質の人だって沢山いただろう。
登美家のモモソ姫はこの時に、落とし所として物部の銅鏡祭祀を取り入れたらしい。
だから出雲屋敷後からも銅鏡が出ている。

904:日本@名無史さん
20/10/17 13:19:05.46 .net
クニクルとモモソヒメの妥協に反発したのは物部嫌いの大彦。
彼は家出したww

905:日本@名無史さん
20/10/17 13:22:46.25 .net
2回目の東征は、一回目と同じく、倭国の分裂が起きたタイミングで仕掛けられている。
オオヒビ、開化天皇の時に家督争いが起きて分裂状態になった段階で2回目の東征が始まった。
サホヒコと、ヒコイマスと大彦だったけっかなー、三つの勢力で争っていたらしい

906:日本@名無史さん
20/10/17 15:35:14.15 .net
第一次物部東征と磐余彦
神武がどこに向かったか
前に、磐余彦は通過した地名と書きましたが、東征のお話でポコポコ出てくる敵役や、呑気な磐余彦の歌は、殆どが通過した地名になっています。
実は磐余までは殆ど戦闘がなかったらしいです。
じゃあ、クジラが出てくるじゃん?という話になりますが
「葛城山の麓、御所市に櫛羅くじらという地名がある」
それから北西に向かえば高尾張村。
記紀は分かる人には分かる様に上手いこと例え話を書いています。

907:日本@名無史さん
20/10/17 15:44:31.29 .net
>>865
正直、散々書きてきたけど徐福は相当ヤバいと思う。
私が研究者や、国の威信を意識する立場の人間ならどんな証拠を積み上げられても絶対に認められないと思う。
無理だ、影響が大きすぎる。

908:日本@名無史さん
20/10/17 15:50:23.59 .net
>>845
ところがどっこい、滅亡していなかったという研究がある。
火山灰下の轟A式と火山灰上の轟B式は連続していて、火山灰の降下が終わって植生が回復するや避難していた阿多族が帰還して、南九州の文化が復活したというもの。
なので、縄文草創期以来の貝殻文文化は鬼界カルデラ大噴火によって壊滅的被害を受けたものの、前期に入ってその文化は回復し継承されたとみなされている。

909:日本@名無史さん
20/10/17 16:05:10.02 .net
>>872
火山の噴火で


910:住んでた人たちは四国とか色々移住したらしいね。 その辺の昔になると、宇佐族しか伝承がない。 その頃は出雲も物部も九州には居なかったから。



911:日本@名無史さん
20/10/17 16:05:18.26 .net
当たり前だよ
徐福徐福言っていたキチガイはてめえで何言ってるか分かってねえんだもんよ

912:日本@名無史さん
20/10/17 16:17:58.30 .net
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をする大和説者は、
嘘吐き騙しです。

913:日本@名無史さん
20/10/17 16:23:07.27 .net
>>872
南九州のアカホヤ火山灰以前と後では遺跡数が激減し
轟B式土器自体は 1 つの遺跡から少ししか見つかっていない
滑石を混入した曽畑式土器から遺構が少しずつ増えるから
西北九州から移動している

914:日本@名無史さん
20/10/17 16:38:11.07 .net
>>875
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
それ、史料事実や史料実態じゃなくて
あんた独特の政治思想だから

915:日本@名無史さん
20/10/17 16:39:30.40 .net
>>856
中国側の使節が何度も大和に行っているのに、魏志などが記す北部九州の倭国と隋などと関係が生じた大和との関係を解明できていないのは、大和側がちゃんと説明しなかったことに原因がある。
この不審な大和側の態度は、後漢書のハンヨウが宋の都で讃の使節に対して言を左右にして卑弥呼の倭国と大和との関係を知らせなかったこととおんなじであり、唐はこうした大和の態度に不信感を抱いていて、信用できないと不満をあらわにしている。
おそらく、大和側は卑弥呼の倭国を攻略したことを中国の王朝に知られたくなかったのだろう。
魏の家来となった卑弥呼の倭国を攻略したことが知れると、外交や通商で制裁をくらうと考えたからではないか。
そうしたことから、日本書紀の編纂では、卑弥呼の倭国と大和が一貫した国であると臭わせる操作を行ったのだろう。

916:日本@名無史さん
20/10/17 16:43:04.08 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

917:日本@名無史さん
20/10/17 16:45:34.53 .net
>>876
第一陣が現地に帰還して、見た状況を博多などにいた仲間に知らせたのだろう。
そうした状況がわかるにつれて、徐々に帰還する者たちが出てきたということだろう。
轟B式がアカホヤ直下の轟A式とつながるという研究成果であるから、壊滅前の文化が生き延びていたことを証明していることになる。

918:日本@名無史さん
20/10/17 16:47:24.71 .net
>>873
宇佐族のその伝承は、どんなものなの?

919:日本@名無史さん
20/10/17 16:47:32.40 .net
大和国に始まり近畿全域は『狗奴国』の勢力圏だと確信してるけどね
東海もかな

920:日本@名無史さん
20/10/17 16:53:15.15 .net
>>859
結局、二つの投稿が5chにより拒否されて、掲載不能になった。
いずれも、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の論であったが、
またいずれ説明出来る事もあろうから、
それらは、一旦投稿断念。

921:日本@名無史さん
20/10/17 16:54:15.78 .net
>>849
北部九州の倭国が魏に朝貢する前に、すでに大和が朝貢していたとする根拠が示されていませんね。

922:日本@名無史さん
20/10/17 16:56:57.96 .net
>>844
吉野川の河口かな。

923:日本@名無史さん
20/10/17 17:01:15.46 .net
狗奴国=邪馬台国…?

924:日本@名無史さん
20/10/17 17:06:11.00 .net
>>843
芝遺跡付近だろうな。
連合事務所はここにあった可能性が高い。

925:日本@名無史さん
20/10/17 17:14:12.55 .net
>>887
>芝遺跡付近だろうな。
それが卑彌呼がいた王都遺跡だと言うのかね? 矜持はないのかね、畿内信者には。  わははははは   @阿波

926:日本@名無史さん
20/10/17 17:38:07.83 .net
>>874
九州と大和には同時に文化の進んだ時期があり、先代旧事本紀や、海部氏家系図からも、同一人物が大和と九州の祖になってることは明らか。
おっさんが何を言おうがねw
徐福じゃなきゃいいんだろ?
じゃ、アメノホアカリニギハヤヒだな。
あなた解散w

927:日本@名無史さん
20/10/17 17:39:05.71 .net
>>837
ヤマトトトヒモモソヒメと似た名前では、ヤマトトトワカヤヒメ、ヤマトトハヤワカヤヒメがみられますが、
ヤマトトビモモソヒメの名はみかけませんけどね。
ただ、ウィキでは、トトヒを鳥飛とし、脱魂型巫女を指しているとする説があると言っています。
ヤマトトビモモソ姫は、このトトヒ(=鳥飛)説なのでしょうか。

928:日本@名無史さん
20/10/17 17:43:07.27 .net
>>888
卑弥呼は北部九州。
この大和の芝遺跡あたりが、広域大連合の事務所のあったところじゃないかと思うんだけどね。

929:日本@名無史さん
20/10/17 17:45:40.87 .net
>>891
>卑弥呼は北部九州。

妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 

930:日本@名無史さん
20/10/17 17:49:29.80 .net
>>878
例えば、景初三年と、二年の問題がありますよね。
魏国は前の年まで揉めてたから、二年の朝貢はあり得ないと。ここ重要。
さて、本土防衛のために大和出先機関、伊都は、基本的に朝貢団の出発地点であると同時に、外国人が一度そこで足止めになってた場所。
つまり本国が分裂すると、その時に朝貢は出来るのか、出来ないのか。
景初三年近辺の伊都の長官は物部氏。
誰が朝貢してもバレない。
そもそも九州物部は、伊都とは敵対しておらず、魏から見れば大和の支配体制に反対していない勢力に見えるだろうね。
誰でも朝貢団なんて偽装できるんだよね。
長官ならすぐに本国の揉め事が伝わるだろうから。

931:日本@名無史さん
20/10/17 17:51:48.50 .net
>>884
元々畿内の大和しか朝貢してなかった。
混乱の隙をついて都万国が朝貢した。
その時に機能不全に陥ってた伊都の出先機関を利用した。
長官は当時は物部氏。

932:日本@名無史さん
20/10/17 17:53:11.20 .net
おう😃
徐福なんて嘘吐きだましのインチキだからな🤪

933:日本@名無史さん
20/10/17 17:55:04.55 .net
>>881
宇佐族は9000年前に渡来し、出雲族は6000年前に来たという内容だったかと。
ただ、出雲伝承では3500年前らしい。
噴火の時の話を口伝にきて残してる

934:日本@名無史さん
20/10/17 17:57:25.92 .net
>>891
>広域大連合
よくもまあ、そんな大言壮語を吐けるもんだ。  常識と言うものが無いのだろうか?   @阿波

935:日本@名無史さん
20/10/17 18:09:00.68 .net
>>880
鬼界カルデラ噴火は九州編年の轟A式古段階から新段階の間で
森林植生の回復がうかがわれる時期は,南九州の中部以北では遅くとも轟B式中段階以降であり,
南部においては轟B式新段階から曽畑式期以降だから
壊滅した南九州の森林が少しずつ回復するにしたがって
西北九州人や半島人と交配した人たちの南下が後続したんだろう

936:日本@名無史さん
20/10/17 18:21:50.37 .net
南九州から大和に招かれた阿多族の大シャーマン(のちに崇神と諱を贈られた)が宮を置いて住んだのは畝傍山の東南麓の橿原の地。
その大シャーマンを世話するために従ってきた阿多族の隼人集団は、その橿原の南の吉野川沿いの大阿太に住んだ。
この大阿太の地は縄文時代から南九州系の隼人が住んでいたところであり、大シャーマンに従ってきた隼人集団にとっては縁故の地ということであった。
そして、この大阿太に住んだ隼人集団から、大シャーマンの世話をする者たちが送られていたということになる。
大シャーマンは、纏向の大型建物跡の祭祀所で各種の祭祀を行ったが、そのために橿原から磯城へ行ってまず仮宮で斎戒沐浴精進し、それから纏向の祭祀所に赴いたのだろう。
この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
それで、日本書紀では大シャーマン(神武)の宮は橿原にあったとし、一方では崇神天皇の宮は磯城にあったともしている。
この磯城の宮は、先に記したように、大シャーマンが纏向での祭祀のためにまず磯城に行き、そこで斎戒沐浴のために仮宮を置いたことにちなんだものだ。
つまり、日本書紀のカラクリは、連合政権の大シャーマンとして大和にやってきた人物を神武天皇と崇神天皇に描き分けたということにあるのだ。
こうした観点からすると、いわゆる葛城王朝は実在したのであり、その葛城王朝は磯城や纏向も含むエリアで活動し、三輪山の麓の芝遺跡の地に置かれていた連合政権の事務所がその大シャーマンを南九州阿多から招き、活動を支援したということになる。
葛城王朝も三輪王朝もその実態は一つであり、それは崇神王朝のことなのである。

937:日本@名無史さん
20/10/17 18:22:54.11 .net
実際に、本国が分裂して揉め事が起きると、自分の立場を保証する国が無くなるかもしれないし、場合によっては攻め込まれるかもしれないから逃げたり、実家に戻って戦うかもしれない
表向き上は、本国大和の名代として、魏から錦の御旗を貰ってくるから、大和さん待っててねと言えば残留した小役人も誰も疑わない
実際に卑弥呼は狗奴国をブチ倒すから旗をくれと言ってる訳だしね

938:日本@名無史さん
20/10/17 18:39:36.68 .net
>>899
>この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
自分の妄想を断定調で書くな。
それは典型的な詐欺師の手法だ。

939:日本@名無史さん
20/10/17 18:41:23.89 .net
>>899
能書きはいいからヒミコは誰なのかスカッと言えやボンクラ。

940:日本@名無史さん
20/10/17 18:44:15.98 .net
当時の長官はニギさんと言ってモロに物部の名前。
お前らうろたえるな、私は地元出身だ、最後までここに居るからと言えば、キャー所長ステキーとなるに違いない

941:日本@名無史さん
20/10/17 18:56:40.12 .net
そしてニギさんは部下を鼓舞する。
いいかお前ら、弱みを見せるな、大和が危機にあると言えば、義 魏は我々を軽んじて何もしない可能性がある。決して弱みを見せるな。
本国に帰った何某のためにも立派に勤めを果たせた鼓舞する。
みんな涙ウルウルで社長の話を聞く

942:日本@名無史さん
20/10/17 19:02:21.39 .net
最大の危険ポイントは、魏からの下賜されたものが届く時。
朝貢の返礼品だけは絶対に本人が受け取りに来なければならなかった。
豊玉姫は嫌がったらしいが決まりなので仕方がない。
なんでか知らないが、黄色の属国旗以外に金のハンコと銀のハンコ、大量の鏡があるが、アレ?チョコボールのオマケ?くらいでおかしいと思っても誰も何も気にしない。
つーか、張政まで来ちゃってすごくね?と、伊都の人たちは喜んでしまう。
意外にさ、出雲本に出てる、北九州が大和を偽装したって簡単に出来そうなんだけど。
そもそも物部は長官に任命されるほど信用されてた訳だし。
ま、もちろん私の創作で妄想ですが。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch