邪馬台国畿内説 Part648at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part648 - 暇つぶし2ch450:日本@名無史さん
20/10/14 15:38:36.89 .net
>>424
そして九州島の東の海を渡るとまた倭種の国があるんだよな

451:日本@名無史さん
20/10/14 15:41:56.18 .net
>>424
いくらなんでも、日本アルプスより東は入ってないだろ。

452:日本@名無史さん
20/10/14 16:04:24.66 .net
東夷伝で倭人特有の卜骨は本州各地からたくさん出ており
日本アルプスの東の関東からも多く出ている
九州からは2カ所だけ

453:日本@名無史さん
20/10/14 16:19:29.02 .net
>>276
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、×。

454:日本@名無史さん
20/10/14 16:39:25.46 .net
>>287
>倭地というてるのだから、倭種の人民が住んでるところの意味だ。
いや、「參問倭地」は、実際に参問出来た倭地の地域の話だ、という事だ。
>倭国はその倭種の人民の国の中の一つ。
倭國は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などによって、
その中心が北部九州であった事が確定している国だ。
>で、その倭地のぐるりが五千余里というわけだから、魏里(1里=434m)でみれば、ちょうど九州、四国と伊勢鳥羽までの紀伊半島の範囲だ。
ぴつたり五千余里となる。
魏の役人らが「參問倭地」して「周旋可五千餘里」出来たのは、
「絕在海中洲島之上,或絕或連」の陸地部分であり、
「狗邪韓國から侏儒國の近くまでの間」で、陸路里数が計測記録出来た部分の合計だ。

455:日本@名無史さん
20/10/14 16:42:52.02 .net
>>280
>所謂、邪馬台国が自分の国をヤマトと偽ることができたのか?・・・
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男が×だ。

456:日本@名無史さん
20/10/14 16:45:21.62 .net
>>283
>そう、出雲風土記にはヤマタノオロチのくだりはなかったと記憶する。
その代わり、肥後地方に同様の言い伝えがあるという。
肥後の川上のヤマタノオロチが、古事記・日本書紀では、いつの間にか
出雲の簸之川上(肥伊川→斐伊川)のヤマタノオロチにすり替えられているらしい。
ふーん。

457:日本@名無史さん
20/10/14 17:08:09.32 .net
>>434
ダメダメ。
誰かも既に書いているように、島伝いにぐるっとコンバットだから、九州だけじゃないの。
倭地、は倭国よりも広い倭種が住むエリア。

458:日本@名無史さん
20/10/14 17:16:43.04 .net
>>424
しっかり答えろよキナイコシw
430日本@名無史さん2020/10/14(水) 15:38:36.89
>>424
そして九州島の東の海を渡るとまた倭種の国があるんだよな

459:日本@名無史さん
20/10/14 18:08:44.11 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

460:日本@名無史さん
20/10/14 18:09:17.15 .net
>>316
>その後、東征毛人五十五国… 東は毛人西は衆夷、北は無し、
卑弥呼の国東渡海倭種、陳寿ですら倭人と呼ぶのに毛人、倭人が支配者では無いんだよ。
倭國は、唐代まで、「正北抵新羅」であるから、北部九州。
そして、「西服眾夷六十六國」は、
「服」が「服従している」という自動詞が本来の意味であるから、
「西は衆夷


461:66国が既に服属し終わっている」という過去形の意味になる。



462:日本@名無史さん
20/10/14 18:18:54.57 .net
纏向に卑弥呼の宮があったのなら、それは王権ということなので、
何かしらそれにふさわしい謂れ伝承があるはずだ。
しかし何もない。
箸墓がモモソヒメの墓だという日本書紀の記述があるだけ。
これはなにやら取って付けた感のある7世紀に付加された記述であろう。
崇神の宮は別として、それ以前の纏向になぜ王権の謂れがないのか。
あれは途中で滅んだ一族の遺跡だからだ。
前方後円墳の造営自体が6世紀末には途絶えるだろ。
6世紀末、それは物部守屋の死によって物部宗家が滅亡する時期だ。
つまり纏向遺跡とは物部の遺跡だ。

463:日本@名無史さん
20/10/14 18:25:36.92 .net
>>441
>箸墓がモモソヒメの墓だという日本書紀の記述があるだけ。
ない!   @阿波

464:日本@名無史さん
20/10/14 18:27:13.84 .net
>>441
まあそうだよな
畿内を中心とした痕跡なんて何も無いんだし
ところで東海と物部氏の関係は?

465:日本@名無史さん
20/10/14 18:27:41.31 .net
>>330
>倭人伝の大倭は意味不明の語彙であり、誤記の可能性もある。
「國有市,交易有無,使大倭監之」という記録は、
魏の役人らが倭人から伝聞聴取しなければ、記録出来ないもの。
また、古事記の欠史八代の中の四人の称号に「大倭」を冠せられた、という事も、
八人全部に「冠せていない」という事の説明が付かず、
8世紀の大和の史官が、
大和の欠史八代伝承の中の4人にだけ「大倭」という称号を冠せられた、
という事を知っていた、という事にしかならない。

466:日本@名無史さん
20/10/14 18:30:31.14 .net
>>443
>ところで東海と物部氏の関係は?
東海忌部だということ。   @阿波

467:日本@名無史さん
20/10/14 18:32:28.28 .net
>>445
やかましw

468:日本@名無史さん
20/10/14 18:32:53.40 .net
>>434
魏使は東千里の倭種の国には行ってないので、その倭種の国のことがつまびらかには書いてない。
ただ、その倭種の地までを含めて、周囲がざっと五千余里と言っているの。

469:日本@名無史さん
20/10/14 18:35:37.68 .net
以前誰かが言ってたな
邪馬台国で市を取り仕切る大倭が狗奴国派に付いてクーデターを起こしたって

470:日本@名無史さん
20/10/14 18:44:47.04 .net
>>444
古事記欠史八代の天皇の贈り名に倭の字が使われているのはヤマトの発音。
日本書紀ではこの部分は日本の字になっているので、倭もヤマトと読むのがよい。
し~かし、倭人伝の租税を収蔵した倉庫の管理や市場の物と物の交換を監視する役目の者を大倭としているのは誤記で、本来は大委(ダイイ)とすべきもの。
天皇の贈り名の大倭や倭と、倭人伝の大倭(委)は、別ものチャンチャンコなのよ。

471:日本@名無史さん
20/10/14 18:52:23.13 .net
>>440
>「西服眾夷六十六國」は、
>「西は衆夷66国が既に服属し終わっている」という過去形の意味になる。
漢文法がメチャクチャだな
「服」が動詞で目的語が「眾夷六十六國」なら
「服」は他動詞に読むしかない

漢文が読めない人ばかりから
九州説はいつもデタラメだ

472:日本@名無史さん
20/10/14 18:53:51.50 .net
>>446は、東海忌部に対して、何一つ論理的な反論ができないw    @阿波

473:日本@名無史さん
20/10/14 18:55:48.60 .net
>>448
中国ならありそうな話だな。

474:日本@名無史さん
20/10/14 18:55:55.38 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)

馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

475:日本@名無史さん
20/10/14 19:00:44.85 .net
>>441
物部が天理へ現れるのは5世紀後半からだし、
3世紀の纏向に物部がいたという証拠は、残念ながら~、ない。

476:日本@名無史さん
20/10/14 19:01:30.56 .net
>>452
卑弥呼の時代は大飢饉があったそうだ
そんな時代であれば国内交易と取り仕切る大倭が大きな権力を持った可能性はある
物資を狗奴国へ優先的に供給するとか

477:日本@名無史さん
20/10/14 19:02:19.15 .net
>>451
それ以前に、東海忌部の根拠が無いw

478:日本@名無史さん
20/10/14 19:10:26.57 .net
>>440
>倭國は、唐代まで、「正北抵新羅」であるから、北部九州。
平安時代にもまだ「九州倭国」なんてものがあったとか
九州説も妄想はもう病的だね
「正北抵新羅」というのは
宋の頃になってもまだ
方位を間違えて
日本列島が朝鮮半島の南、浙江省の東あたりに
北から南へ伸びていたと
中国側が間違った地理観を持っていた
ことを示す史料事実だ
こんなふうに
URLリンク(i.imgur.com)
つまり畿内説が正しいという証拠の一つだね

479:日本@名無史さん
20/10/14 19:21:22.75 .net
>>454
そもそもイクメ王=垂仁天皇が物部氏なんだけど

480:日本@名無史さん
20/10/14 19:22:24.16 .net
>>328
>西晋になれば、魏の薄葬令の制約がとれ、
>倭國も「天円地方墓」を開始出来る。
真っ赤なウソ
魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる
九州説は史料に基づかず脳内で作られたニセモノの歴史
つまり捏造
宣帝予自於首陽山為土蔵、不墳不樹、作顧命終制、斂以時服、不設明器。
景、文皆謹奉成命、無所加焉。景帝崩、喪事制度又依宣帝故事。(晋書志礼中)

481:日本@名無史さん
20/10/14 19:24:18.87 .net
>>441
物部守屋は本家筋の人ではなく、出雲に残った物部トオチネの子孫。
本家は物部イクメで、垂仁天皇ね。
物部政権が倒れた後も物部氏などの旧政権担当は、地方の豪族として政権を支えていました。

482:日本@名無史さん
20/10/14 19:25:35.44 .net
>>456
>それ以前に、東海忌部の根拠が無いw
たとえば
織田信長が「忌部一族」とか伊豆神津島の「阿波命神社」とか。
また、高尾山古墳の「水銀朱」や「勾玉」などから、一発で東海忌部のお墓だと分かる。  @阿波

483:日本@名無史さん
20/10/14 19:35:32.40 .net
>>341
>倭人伝の「大倭」は、「収租賦有邸閣。国国有市、交易有無。使大倭監之」にみえる大倭のこと。
この倭の字は、前後の文脈からみて意味不明だ
管理監督の意味においては委の字が適当であり、
委には「隅々までつまびらかにする」という意味があり、
委吏は「穀物の倉庫の管理をする役人」のことだ。・・・。
意味不明ではない。
当然魏志倭人伝の記載の「倭」であり、
「委」の文字使用は、一つもないから、混用も誤記も有り得ず、
また「壹」の文字も、「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」と「壹與」の時にしか使われておらず、
「倭≠壹」という使用であり、
だから、「使大倭監之」は、
「大倭を使して之を監す」と読むか、「使大倭が之を監す」と読むしかなく、
倭國や倭地に「大倭」という身分呼称があった事は、明らかである。

484:日本@名無史さん
20/10/14 19:52:01.26 .net
>>454
>物部が天理へ現れるのは5世紀後半からだし、
何を言ってる。
布留遺跡は物部以外にない。
和田萃さんなど講演会で物部の遺跡と思われる、などではなく、
物部の遺跡である布留遺跡とはっきり言っておられる。
また西山古墳など、4世紀の大型古墳も物部以外にあるまい。
>3世紀の纏向に物部がいたという証拠は、残念ながら~、ない。
纏向遺跡の強い瀬戸内の要素を説明できるのは物部以外にない。
また物部の謂れ痕跡ということではニギハヤヒの曾孫のイズモシコオという人物を祀る稚桜神社がある。
このようなマイナーな人物を創作して祀っても何もカッコよくはなく、箔が付かない。
これは桜井市にある稚桜神社が実在したイズモシコオと関わっていた証拠でもある。
その時期は3世紀で有り纏向古墳群の時期でもある。 <


485:日本@名無史さん
20/10/14 19:56:05.17 .net
>>443
>ところで東海と物部氏の関係は?
ニギハヤヒの子ウマシマジが東海から北陸を制圧したことが物部神社社伝に書かれている。
また名古屋の味鋺祭神がウマシマジ。
味鋺は纏向の味間という地名と通じる。
また纏向遺跡の東海土器の多さもウマシマジで説明ができる。

486:日本@名無史さん
20/10/14 20:02:22.88 .net
マスコミにとって纏向はそろそろ番茶のデガラシになってきたので、マスコミは九州に手を染め始めた印象だ。
卑弥呼の寿陵は山門権現塚、卑弥呼の墓は久留米祇園山の企画で売り込み図ると、マスコミは飛びつくかもな。
菊池狗奴国に攻め込まれて、山門の卑弥呼は邪馬台国の北部の御井まで避難して、そこで急死して祇園山に葬られた。
そして、その祇園山は卑弥呼の寿陵の山門権現塚のコピーだったと三拍子そろえば、これはもう20年は引っ張れる企画だよ。

487:日本@名無史さん
20/10/14 20:03:18.23 .net
>>464
東海忌部だよ。  わははははは   @阿波

488:日本@名無史さん
20/10/14 20:07:59.18 .net
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)

489:日本@名無史さん
20/10/14 20:27:36.09 .net
>>465
このように九州説は所詮が印象論で終わり
学問になることはない

490:日本@名無史さん
20/10/14 20:30:13.85 .net
>>468
と妄想する脳内学者ですかキナイコシw

491:日本@名無史さん
20/10/14 20:32:10.75 .net
>>464
なるほど
あとは年代が合うかだな

492:日本@名無史さん
20/10/14 20:35:38.00 .net
>>463
布留遺跡の工房跡は5世紀後半から。
そのあたりの古墳群もその時期。
西山古墳は4世紀とされるが、これは前方後方墳。
崇神朝や応神朝のもとで前方後方墳をつくったとすれば、別筋の勢力のものだろうな。
物部氏の古墳とは別だよ。
纏向の瀬戸内関連は箸墓後円部の特殊基台と、石塚古墳周濠の弧文板片だけ。
このうち石塚の弧文板は周濠に沈めており、この祭祀様式は近江・大和系のものであり、吉備ではこれらの祭祀具を水に沈める祭祀様式はない。吉備の墳墓は元々周濠を持たないので、水際祭祀は吉備のものではない。
弧文板は、吉備の手を離れて、近江・大和系の者の祭祀の道具とされたもの。
残るのは特殊器台だけであり、箸墓の特殊器台は吉備から直接搬入されてものなので、これだけでは物部の大和在住の証拠とはならない。

493:日本@名無史さん
20/10/14 21:09:04.32 .net
>>463
この曾孫のイズモシコヲは、物部氏系図では代禰(大禰)と書かれている者を指していると思われるが、
この大禰(オホネ)はオホナムチ(大国主)のオホナを採ったものだと考えられるので、物部氏系図の大禰は決して小さな人物を想定していないようだ。
稚桜神社の主祭神の出雲色男命は明らかにオホナムチ神を指しており、神社の所在地も十市郡であることからして、物部氏と関連があるのかも知れない。
いずれにしても、イズモシコヲは大物だな。

494:日本@名無史さん
20/10/14 21:20


495::23.12 .net



496:日本@名無史さん
20/10/14 21:20:35.65 .net
>>347
魏朝では文帝による度量衡の統一令があったので
明帝も「(遼東)征伐四千里」などの短里をつかったという事になる
当時の尺定規などは、魏朝は殆ど変更していなかったから、
「里歩系」の長さとは関係がなかった。

497:日本@名無史さん
20/10/14 21:25:41.59 .net
>>349
>卑弥呼が登美家のモモソ姫
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。

498:日本@名無史さん
20/10/14 21:28:24.37 .net
>>474
>魏朝では文帝による度量衡の統一令があったので
>明帝も「(遼東)征伐四千里」などの短里をつかったという事になる
度量衡の統一令なんて
史料にない妄想だから
「四千里征伐」は洛陽から遼東までの距離のこと
つまり
 1里=約400
の正常な一里だな

499:日本@名無史さん
20/10/14 21:31:18.49 .net
>>454
天孫本紀読んでみ。
物部十千根の代は既に石上神宮とかが出来てたりする。
6世の孫当たりではヤマトに居たと考えるのが妥当

500:日本@名無史さん
20/10/14 21:37:00.20 .net
>>475
「正北抵新羅の倭國は北部九州」なんて妄想を
いつまでも連呼してるだけだけだから
九州説は死んだんだよ
平安時代に九州倭国なんて無いのは誰でもわかるから
そんな九州説が妄想だと
誰にでもわかる

501:日本@名無史さん
20/10/14 21:39:13.17 .net
>>462
「使大倭監之」の読み方は、普通の漢文としては「大倭をしてこれを監せしむ」しかない。
そうすると、「大倭」の倭の字は倭人としての倭か、背の低い者という意味の倭だけなので、
それに大の字を添えた場合、「大きな背丈の倭人」か「大きな背の低い者」という内容になり、
後者は意味をなさなず、前者は管理者になぜ背の高い者を用いたのか理解しにくいということになる。
そこで、倭の字にはイの発音もあり、このイの音に委の字を当てた場合、委の字には「つまびらかにする」の意味があり、
委吏の言葉が「穀物の倉庫の管理をする役人」の意味であることから倭人伝のこの文章の文脈にぴったりだといえる。
要するに、倭人伝のこの大倭はダイワではなく、ダイイと読むのが良く、そのイ(倭)音は委(イ)に通じるので、
元々の倭人伝のダイイの発音には大委の字が書かれていたとみるのが合理的だ。

502:日本@名無史さん
20/10/14 21:40:14.86 .net
.

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません

.

503:日本@名無史さん
20/10/14 21:42:14.84 .net
>>371
>>魏使らの場合は、原則として、案内人がいて、案内してくれる。
>案内人がいるから、途中の説明や、到着の説明は要らないというのなら、
出発時の説明だっていらぬだろう。それとも、原則として案内人は途中から付いたというのか??
魏使らへの案内人は、当然、出発も途中も到着まで案内してくれるし、
しかし、魏の役人らの仕事は、「出発説明+途中説明+到着説明」の順番の記録である。

504:日本@名無史さん
20/10/14 21:48:38.28 .net
>>380
>卑弥呼がモモソ姫
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。

505:日本@名無史さん
20/10/14 21:54:33.79 .net
>>477
ざんね~ん。
十千根の前の人物の名は、みな神社の祭神から採ったものだ。
生身の者の名ではないようだ。
とすると、生身の者の名としては十千根が最初であり、十千根が物部氏の初代の人物だったとするのが妥当。
石上神社の名が出てきたりするのは、その系譜が平安時代に書かれたものだからだな。
十千根が大和にいたのは分かるとして、その時期は布留に刀鍛冶の工房や玉造りの工房ができた5世紀後半頃とするのが本来の系譜と思うね。
3世紀は無理じゃないか。

506:日本@名無史さん
20/10/14 22:11:06.68 .net
>>473
大和の忌部首の本拠地は高市郡、今の橿原市忌部町だとウィキは書いてるし。
忌部首は、タケチノシコヲじゃないの。

507:日本@名無史さん
20/10/14 22:16:30.89 .net
>>381
>日本は倭
「日本國者倭國之別種也」であり、「舊小国」。

508:日本@名無史さん
20/10/14 22:21:33.17 .net
天孫本紀
大新河命(おおにいかわのみこと)。
この命は、纏向珠城宮(まきむくのたまきみや)で天下を治められた垂仁天皇の御世、はじめに大臣となり、
ついで物部連公(もののべのむらじのきみ)の姓を賜った。そのため、改めて大連となって、神宮をお祀りした。
大連の号は、このとき初めて起こった。
弟に、十市根命
この時に既に纏向に拠点があったかどうかだよね。

509:日本@名無史さん
20/10/14 22:22:26.64 .net
>>483
魏書の登場人物~w
難升米   タジマノモリ→善中郎将
都市牛利  物部十千根「入」彦→率善校尉 都市牛利の牛は子の写し間違いで、トチネイリ→トシネリ。(都市牛利に関しては、十市瓊入姫との説もある)
伊聲耆   物部イクメ「伊声耆イセシ」は古事記の「伊佐知」であり、イクメ「イリ」ビコイサチノ命=のちの垂仁天皇→率善中郎将
掖邪狗   八坂「入」彦、イクメの異母兄弟→率善中郎将
載斯烏越  武内宿祢(イクメと豊玉姫の奸計で朝貢して無役に終わる。これが第二次物部東征時に大和側の東軍に寝返るきっかけになった)
奴佳提   額田宿祢(武内宿祢の異母兄弟)
卑弥弓呼  出雲伝承では磯城王朝の彦道主之御子ヒコミチヌシノミコとしている。このころのヤマトの都は和邇であったらしい。
「イリ」はイクメの父親、イニエ(崇神天皇)にも付く名前。何しろ後の人間に分かりやすい示唆は記紀の特徴。ミマキ「イリ」ビコ

510:日本@名無史さん
20/10/14 22:26:04.60 .net
>>483
物部トオチネは出雲の王宮を支配しましたので、島根の松江に居ましたよ
だから出雲神宝事件の当事者になるのです。
物部政権成立後、一度は出雲国造に任命されますが、千家のペテンにあってその地位を失います。
子孫は直系が現在でも生きていて、秋上氏を名乗っています。
秋上氏文書とかも出版してます。すごく難解ですが

511:日本@名無史さん
20/10/14 22:30:12.46 .net
ヒコミチヌシの時の和邇の都って、天理市の北部に和邇下神社があるが、あの辺りが当時のヤマトの都だったようだ。

512:日本@名無史さん
20/10/14 22:40:43.25 .net
>>481
>しかし、魏の役人らの仕事は、「出発説明+途中説明+到着説明」の順番の記録である。
そうなのか、案内人もきちんと仕事をするし、
魏の役人も「出発説明+途中説明+到着説明」の順番をきちんと記録していたわけだ。
つまり、「出発の方向と里数+途中の方向と里数+到着の方向と里数」の三つとも、正しく記録できていたということだな。

513:日本@名無史さん
20/10/14 22:41:38.78 .net
卑弥呼 ← 宇那比姫
相誅殺男王 ← 孝霊天皇(侵略王フトニ)
臺与 ← 百襲姫
次の男王 ← 崇神天皇(ミマキ)

514:日本@名無史さん
20/10/14 22:42:32.01 .net
>>490
倭人伝の距離の記述が途中でおかしくなったのは担当が変わったからだともいわれてるね。
出雲伝承では、伊都国で足止めされて、口で説明されたものを信じ込んだという解釈になってる。

515:日本@名無史さん
20/10/14 22:48:45.29 .net
天孫本紀を見れば、物部東征が記紀でまとめられた神武の紀元前ではないことが分かる。

516:日本@名無史さん
20/10/14 23:04:00.11 .net
あんな、突然天地水漢尺の桃が出て来ちゃう箸墓が現れたの、今まで居た倭人では造れないの、中国人に教えて貰わなければ、出雲も南九州辺りも直接は関係無いの、話繋げようが中国人が絡まなきゃ何言っても無駄。

517:日本@名無史さん
20/10/14 23:06:58.19 .net
出雲伝承とやらにほんとにそんな話あるの?

518:日本@名無史さん
20/10/14 23:07:49.42 .net
でも徐福はまったくお呼びで無い。

519:日本@名無史さん
20/10/14 23:10:42.17 .net
>>474
見つかっている当時使われていた魏の尺定規と関係ないのなら
里歩系という独立した単位が存在していた証拠は何もなくて
そして魏では度量衡の統一令があったのなら使われていた尺度は
証拠の見つかっている普通の里のみだったという事になる

520:日本@名無史さん
20/10/14 23:11:37.80 .net
>>495
30年ぶりに先代のお子さんがウサ八幡の人と同じく、伝承を公開し始めていますよ。
本にもなってる。
山幸彦物部氏、海幸彦尾張氏の祖は同じ人物で先代旧事本紀
尾張氏と海部氏は親戚で家系図が国宝。
あと、足りないのはあと出雲だけだった。

521:日本@名無史さん
20/10/14 23:12:27.36 .net
>>496
お前の都合など知った事か。さっさと宿題をやれ。ワンタン野郎w

522:日本@名無史さん
20/10/14 23:21:07.82 .net
中国の混乱と大飢饉、半島への新たな制圧等から流れて来た原始道教の教団が吉備、難波辺りに上陸して畿内に拠点を築いたっつうのが普通でしょ、その後東征毛人五十五…、毛人と衆夷を蔑視する人種が征服し、半島を平らげ、巨大王国を造ったんでしょ

523:日本@名無史さん
20/10/14 23:24:09.92 .net
>>495
代表的な伝承を受け継ぐ旧家といえば
・出雲族より古く、物部イニエに豊玉姫を差し出したウサ族。宇佐八幡の社家も宇佐氏
これは既に伝承を公開済
・東出雲王家、杵築大社上官職筆頭の向家(今回の出雲伝承)先代は司馬遼太郎の「歴史の中の日本」に出てくる
 先々代は西郷隆盛と一緒に戦った人。
・家系図が国宝になったコノ神社(眞名井神社)の海部家
・ヒボコに嫁をやった神床家(タジマノモリ、神功皇后が繋がる)出石神社社家
・160年代の第一次物部東征、熊野勢の五瀬の子孫
他にもいろいろあるけど伝承は公開していてほぼ一致。

524:日本@名無史さん
20/10/14 23:24:56.19 .net
突然現れたんで徐福なんてまったくお呼びじゃない、ワンタンは知らない人。徐福は唯の詐欺師

525:日本@名無史さん
20/10/14 23:26:02.41 .net
>>501
物部トオチネの子孫の秋上氏
徐福の部下(親戚だったらしい?)の出雲大社宮司の千家
記紀の神話の時代の主だった家ってまだ続いている。
宗像家と諏訪家は宗家は断絶。
武内宿祢の子孫の(北陸)蘇我本家はまだ続いている

526:日本@名無史さん
20/10/14 23:26:57.41 .net
>>502
あっそ、突然現れた割には・・だよなw
ま、旧家の伝承は一致しているから君が何か言っても意味はないけどね

527:日本@名無史さん
20/10/14 23:30:24.56 .net
>>501
今回の話にはあまり関係ないけど、物部守屋の子供たちも死んでない。
守屋の屋敷だけ、四天王寺に上書きされ
蘇我氏の奥さんが物部だったので、相続�


528:フ関係で石上神宮は無傷 長男は村屋神社の社家 次男は諏訪の神長官家の守矢家の三代目で養子入り。後に蚕で大設けした片倉氏を輩出。



529:日本@名無史さん
20/10/14 23:32:15.21 .net
>>504
俺ならこっちだぞニグロブタチンコロw

で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?

で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がメルヘンファンタジーな
ナンチャッテ考古学者の論文は?

早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw

530:日本@名無史さん
20/10/14 23:32:47.27 .net
>>506
くっそwwww

531:日本@名無史さん
20/10/14 23:41:42.86 .net
漢代は國皆稱王丗丗傳統であったので邪馬臺國に居すのが倭の大王(大倭王)
卑弥呼を女王に共立して租賦、交易を監察する大倭政権となったわけだな

532:日本@名無史さん
20/10/14 23:42:17.89 .net
まあまさに詐欺師だよな

533:日本@名無史さん
20/10/14 23:47:06.87 .net
豊玉姫の実家がウサ家なんだけどさ、偽書に載った人が自分の家の卑弥呼かどうか、分からん筈がないじゃんw

534:日本@名無史さん
20/10/15 00:04:38.19 .net
>>486
物部氏系図では、十千根~アラカイまでの人物は8人。
一人が当主を務める年数を平均10年とすると、十千根~アラカイの間は80年になる。
アラカイは継体天皇のときに活躍しているので、継体天皇の崩御年である531年から十千根までの80年を引くと451年となり、
この451年はほぼ5世紀半ばであり、布留に刀鍛冶工房が現われる5世紀後半と近い年数になる。
十千根が布留の工房を運営し始めたのはこの頃だ、とするのは妥当ではないだろうか。

535:日本@名無史さん
20/10/15 00:15:14.69 .net
>>511
たしか、旧都和邇は石上神宮のあたりだったかと。
どうもそこで政治をやったらしい。
石上神宮の武器庫の故事は、イクメとヒバス姫の御子である、イニシキイリ彦が
鉄剣1000本を作って石上神宮に納めた件じゃないかと。

536:日本@名無史さん
20/10/15 00:16:08.36 .net
>>468
いや、この企画が歴史の真実なのよ。
真実だからリアリティがある。
卑弥呼の骨は、祇園山の墳丘裾部の最も上の平坦地に埋納されている。
後にその上に方墳を造ったのは、卑弥呼の墓が荒らされないようにカモフラージュしたのだろうな。
方墳から出たとされる三角縁神獣鏡が、それを物語っている。
纏向に飽きたマスコミたちは、この卑弥呼のミステリーに果たしてたどり着けるだろうか。

537:日本@名無史さん
20/10/15 00:27:30.15 .net
>>513
出雲王家の最初の本が吉田さんによる「謎の出雲帝国」
その人が別に書いた本「龍神よ我に来たれ」の抜粋
 (日本の神社など、つぶされてしまうだろう。いや、明日のことさえわからないのだ)広瀬宮司は酔いにまかせて、「神社にはいろいろ秘密があるだろうが、ここまできたんだ、お互いにバラしてしまおうじゃないか」と、
宮司に言いました。「いいとも。なんでも話そう」「お前さんのところの祭神は、アマテラスだとか天のミクマリだとか言われているが、いったいどんな神さんを祭っているのかね」
「うむ……。実は、主祭神は出雲の大神さんなんだ。あんたのほうは?」「中央は空位でね、左がミホツ姫とオオクニヌシ。右は天つヒコネの命と、天のヒナドリの命となっている」。
籠神社では、祭神を知っていても公表しなかったのです。(いつ、弾圧されるかわからない)そう考えてのことでしょう。出雲大神宮の中央の空座には、クナトの大神が鎮座していたに違いありません。
何代目かの宮司が危険を感じ、どこかへ遷座するなどして、心の中では礼拝を続けていたのでしょう。しかし、数代、数十年たつうち、祭神が不明になったものと思われます。

538:日本@名無史さん
20/10/15 00:30:00.84 .net
ここに書き込んでいる九州説は邪馬台国の会から金を貰ってるバイト

539:日本@名無史さん
20/10/15 00:33:11.69 .net
>>513
出雲伝承だと豊玉姫卑弥呼はこんな感じ
248年、豊玉姫は多祁理の宮で亡くなった。遺体は厳島に仮埋葬され、その後遺骨は宇佐に戻された。
遺骨の一部は宇佐神宮の本殿の二ノ御殿の下に、ウサ王家の祖先とともに姫大神として祀られている。
此処から推
お墓は神宮の奥宮の山中に墳墓があると言われ、それではないか。

540:日本@名無史さん
20/10/15 00:33:37.70 .net
>>512
垂仁天皇のときのエピソードだね。
刀鍛冶の物部氏が、王権のもとで天皇や有力豪族などに刀を納める職務を担ったのだろう。
垂仁天皇のときに1000口の刀を石上神宮に納めたとするエピソードは、この物部氏の職務と関連があるのではないか。
また、岡山赤磐市の神社が持っていたフツ刀を布留の石上神宮へ移したとされるのも、物部氏が刀作りの総本山となっていたためだろう。

541:日本@名無史さん
20/10/15 00:39:52.49 .net
>>517
といいますか、石上神宮が東征後の奈良の物部氏の実家と言いますかw
蘇我氏の奥さんの物部氏の実家でもあるといいますかw

542:日本@名無史さん
20/10/15 00:55:03.92 .net
>>517
布留遺跡では、刀の柄とする木製柄頭が大量に出土している。
イニシキイリヒコが和泉の刀鍛冶に造らせた1000本の刀とは、まだ柄を取り付けていない刀身であった可能性もあるかも。
そうした刀身に柄を取り付けて鞘に収め、豪族などに納入したのかもしれない。

543:日本@名無史さん
20/10/15 00:56:51.90 .net
全ての旧家で文書化されてきた伝承は絶対に徐福を参照しない。
口伝で残ってきたものだけ、これは徐福なんだぞと受け継いできた。
徐福どころか、物部すら隠さなければならない時代だってあった
>「高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、玉垂命が物部であることは秘すべし、
それが洩れたら全山滅亡だと、穏やかではないことが書かれている。」
という本が今では「高良玉垂宮神秘書・同紙背」となって出ているのだw

544:日本@名無史さん
20/10/15 01:06:32.55 .net
>>519
いずれにしても、物部氏が大和に現れるのは5世紀後半頃。
蘇我氏の奥さんの実家となるのはずっとあとのことでは。

545:日本@名無史さん
20/10/15 01:12:18.43 .net
>>519
石上神宮の磐座遺跡から出た剣
神話の時代の七支刀は何とか現存
フツノミツタマノツルギはボロボロの状態だったそうですね

546:日本@名無史さん
20/10/15 01:16:15.10 .net
>>521
いえ、イクメ時代が、いわゆる邪馬台国事件のあった三世紀なんです。
だから、魏書にイクメの別名、イサチと、三角縁神獣鏡を倭国で生産して配りまくった武内宿祢が出てくるんです

547:日本@名無史さん
20/10/15 03:33:26.08 .net
Googleマップで2万年前の日本地図が見える、すごい使い方 小名木善行
URLリンク(www.youtube.com)

548:日本@名無史さん
20/10/15 07:28:52.13 .net
>>491
>卑弥呼 ← 宇那比姫
一皇女であり女王ではない。
あと勘注系図に日女命と書かれてるからヒ�


549:~コを連想すると思うけど、 日女をピンインで検索してみ。 ri nu 卑弥呼 bei mi hu とは全然違う。 つまりこれは日本語でしかヒミコの発音に近くないのせで、 日本側がわざとヒミコにイメージを連想させるように挿入した証拠になる。 そういうわけで宇那比姫説はありえない。 というか曲学さんの説をパクるな。



550:日本@名無史さん
20/10/15 07:59:54.04 .net
>>525
どうでもよい。
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   

551:日本@名無史さん
20/10/15 08:03:38.41 .net
bei mi hu
URLリンク(tokuhain.arukikata.co.jp)

552:日本@名無史さん
20/10/15 08:04:10.99 .net
>>526
>王都たる集落遺跡の筈。
おきのどくになあ、阿波徳島には集落程度の王都しかなかったのか。。。

553:日本@名無史さん
20/10/15 08:16:01.55 .net
>>382
>記紀では二回にわたる物部東征をハツクニシラスの前に合体して持ってきたので
卑弥呼もそうせざるを得ませんでした。・・・
九州倭國の卑弥呼を「半分偽書である大和の記紀」に合体させた説明になったら、
そりゃ×だな。

554:日本@名無史さん
20/10/15 08:22:16.65 .net
>>529
「半分偽書」とか言って
都合の良い個所だけ使い
都合の悪い個所は無視する
こういうのをチェリーピッキングの詐欺といいます

555:日本@名無史さん
20/10/15 08:30:53.65 .net
>>400
実際いつも具体的に
思い込みの激しさを指摘されてるのは
徐福説や大和説や阿波説の方じゃなかった?
だって今回もまた、具体的な事実の指摘や、反論ができないでいるだろ?

556:日本@名無史さん
20/10/15 08:31:47.87 .net
大和の正史である記紀とも中国の記録とも整合しない畿内説というファンタジー小説を唱えるだけの信者あわれ

557:日本@名無史さん
20/10/15 08:33:29.30 .net
>>402
ほら、また大和説者らは
具体的なら史料事実の提示や指摘ができないで
事実に反することを言ってる
どちらが思い込みか、明らかだろ?
大和説者側が思い込みオンリーだ

558:日本@名無史さん
20/10/15 08:41:09.28 .net
>>407
大和説と阿波説:史料事実や史料実態を曲解否定する嘘つき騙しの思想宗教的似非学問
九州王朝説:史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の学問や科学
その他の九州諸説:史料事実や史料実態との細かい矛盾があるが、許容範囲

559:日本@名無史さん
20/10/15 08:44:09.44 .net
>>534
でも、九州説って
史料事実や史料から何か帰納したり
確率の計算をしたりというは
絶対にしないんでしょ?
言ってることがおかしいよね

560:日本@名無史さん
20/10/15 08:45:28.46 .net
>>535
それやった結果はすべて九州という結果が出てたよな
確かAI使ってたはずだ

561:日本@名無史さん
20/10/15 08:49:42.66 .net
>>531
旧家は徐福説と九州説なんだけど、なるほどダメかぁ。
じゃ、九州説は完全に死亡という事でw

562:日本@名無史さん
20/10/15 08:50:20.77 .net
>>535
でも畿内説だと、
何度やっても絶対にあわないんでしょ。 言ってることがおかしいよね

563:日本@名無史さん
20/10/15 08:53:10.64 .net
>>418
それはお前だ
大和説は、皇国史観極右の組織の、
ヘイトスピーチ殺戮戦争狂下部組織のバイト

564:日本@名無史さん
20/10/15 09:01:16.85 .net
>>432
>東夷伝で倭人特有の卜骨は本州各地からたくさん出ており
日本アルプスの東の関東からも多く出ている
九州からは2カ所だけ
ト骨は、当然、縄文毛人蝦夷や出雲系の習俗であり、
九州にも毛人らはいたが、渡来倭人の支配下になってからは、廃れたもの。

565:日本@名無史さん
20/10/15 09:14:44.15 .net
>>536
AIで、奈良のヤマトと、九州の偽装大和である邪馬台国の存在は導き出せんだろ

566:日本@名無史さん
20/10/15 09:21:16.13 .net
ウサ家ってなんだよそれ😃?

567:日本@名無史さん
20/10/15 09:31:16.06 .net
>>541
3世紀の奈良は単なる霊園
政権なんて存在していなかった

568:日本@名無史さん
20/10/15 09:32:53.87 .net
>>534
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治
天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

569:日本@名無史さん
20/10/15 09:40:19.97 .net
>>544
九州親征の話ならあるじゃん

570:日本@名無史さん
20/10/15 09:43:00.48 .net
>>543
ぶち倒す相手もいないのに東征なんてするんかい

571:日本@名無史さん
20/10/15 09:53:03.17 .net
畿内説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
畿内には近場の有馬温泉や白浜温泉があるのに、
なんで、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、天皇行幸がずっと遅れたのだろうか?
畿内に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

572:日本@名無史さん
20/10/15 09:54:58.49 .net
夢でも見てるんじゃねえの?

573:日本@名無史さん
20/10/15 09:59:06.45 .net
>>539
竹島どろぼう反日種族

574:日本@名無史さん
20/10/15 10:02:12.24 .net
>>548
四国の方半分は出土物から見ても出雲系の支配下なんだけど、そういうの分かって無い人だから

575:日本@名無史さん
20/10/15 10:03:13.59 .net
>>540
ト骨は、弥生時代前期になってから山陰、大和、愛媛で出土する
「其辭如令龜法 視火坼占兆」

576:日本@名無史さん
20/10/15 10:07:08.36 .net
>>550
>四国の方半分は出土物から見ても出雲系の支配下
夢でも見てるんじゃねえの?   @阿波

577:日本@名無史さん
20/10/15 10:21:03.25 .net
ほう、阿波は徐福の支配下だったんですか阿波先生☺、先生の表札は秦の度量衡のサイズの板に篆書体ですか?羨ましい

578:日本@名無史さん
20/10/15 10:33:02.50 .net
播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から。
南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から。
それ以前の天皇は、四国道後温泉だけしか行幸していない。
このことから、第34代舒明天皇の御宇頃から 、倭国(阿波)から奈良大和への、王都遷都の関心が高まったとみられる。   @阿波

579:日本@名無史さん
20/10/15 10:35:21.50 .net
>>538
>でも畿内説だと、
>何度やっても絶対にあわないんでしょ。
何が「あわない」んだか
九州説の人が書く日本語はいつも意味不明

580:日本@名無史さん
20/10/15 10:39:31.99 .net
>>536
>それやった結果はすべて九州という結果が出てたよな
このように決して具体的な内容を言わず
出典も示さず
風評の流布に終始する
それが九州説

581:日本@名無史さん
20/10/15 10:43:49.45 .net
徐福が出た瞬間に中卒のスレ

582:日本@名無史さん
20/10/15 11:09:23.17 .net
日本の天皇の呼び名は東夷王(天皇)なんだが

583:日本@名無史さん
20/10/15 11:10:11.75 .net
別に倭王じゃねえよ
モンゴルのやつらは日本を攻めるときに
日本の王を東夷王と呼んどる

584:日本@名無史さん
20/10/15 11:12:34.37 .net
別に違うかもしれんがそお呼んでるわけ
そいから俺の意見も間違ってるかもしれん😃
てめえら責任なすり付ける場合だけ人の話を信じるからな

585:日本@名無史さん
20/10/15 11:21:17.45 .net
>>437
>ダメダメ。
誰かも


586:既に書いているように、島伝いにぐるっとコンバットだから、九州だけじゃないの。 倭地、は倭国よりも広い倭種が住むエリア。 ダメダメ。 既に書いているように、女王國東渡海千餘里して、其南に向かって陸行參問して、 女王國から四千余里になるような場所は、足摺付近しかないの。 だから、魏の役人らは、復有國皆倭種の中で、実地に參問倭地出来たのは、 四国の西岸地域にしかならないのであり、それ以上東へは行っていないの。 勿論、「又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可至」の情報は、 足摺岬付近からのアメリカ大陸の中南米への船行の話であり、 倭種の倭人から伝聞した事になる。 倭地、は倭国よりも広い倭種が住むエリア。



587:日本@名無史さん
20/10/15 11:35:15.15 .net
>>449
>古事記欠史八代の天皇の贈り名に倭の字が使われているのはヤマトの発音。
日本書紀ではこの部分は日本の字になっているので、倭もヤマトと読むのがよい。
古事記と書紀の記載違いに関しては、
先に書かれた古事記の方が、古伝承をそのまま記載してしまった部分がある可能性が高く、
後から書かれた書紀は、古事記に書かれた古伝承の内で、
大和政権にとっては都合の悪い伝承を抹殺改竄した可能性が非常に高くなるもの。
従って、欠史八代の内の4人の称号に関しては、「大倭」の方が古伝承であり、
日本書紀の欠史八代の中の4人の称号に関して「大倭→日本」の書き換えがあった、
という可能性の方が高い。

588:日本@名無史さん
20/10/15 11:45:32.70 .net
>>450
>>「西服眾夷六十六國」は、
「西は衆夷66国が既に服属し終わっている」という過去形の意味になる。
>漢文法がメチャクチャだな
「服」が動詞で目的語が「眾夷六十六國」なら
「服」は他動詞に読むしかない
「服」が目的語を持った他動詞的に使用していたのであれば、
漢文での動詞は、自動詞にも他動詞にも解せるものだから、
「服属せしめ終えていた」と解すれば良い事になるだけ。
大和説学者や東大理系博士号自称男らは、漢文が読めない人ばかりから
大和説はいつもデタラメだ

589:日本@名無史さん
20/10/15 11:56:40.36 .net
>>563
>「服」が目的語を持った他動詞的に使用していたのであれば、
>漢文での動詞は、自動詞にも他動詞にも解せるものだから、
>「服属せしめ終えていた」と解すれば良い事になるだけ。
「西服眾夷六十六國」に
「終えていた」と勝手に書き加えたら
それは捏造
九州説は史料を改竄捏造するインチキ説ということになるだけ

590:日本@名無史さん
20/10/15 12:04:12.28 .net
具体的な説明がないとかいう奴に限って具体的な話がない
ならと、唯一の補完として旧家の伝承ということになるが、当事者でもないのに文句を言う
天皇陛下のハンコ付きの紙切れが出てくるまでおとなしくしてたら?w

591:日本@名無史さん
20/10/15 12:08:05.28 .net
>>563
>「服」が目的語を持った他動詞的に使用していたのであれば、
>漢文での動詞は、自動詞にも他動詞にも解せるものだから、
「西服眾夷六十六國」は
動詞「服」が目的語「眾夷六十六國」をとるので他動詞にしか解せない
漢文の読めない九州説信者の言うことは
いつもデタラメだな

592:日本@名無史さん
20/10/15 12:08:34.50 .net
>>562
古事記と日本書紀の役割が違うからでしょ
大陸の朝貢には古事記を。
一般人は日本書紀。
だから神改で、日本の神社は日本書紀風の神様に書き換えられてきたんだよ。
美保関の美保神社は出雲のお姫様ミホススミだけど、ミホツ姫になるとか。
明治の時は半島の神様はかなり圧迫を受けたから、白髭神社なんてみーんなタケミナカタになってる。
ヒボコをまともに祀るなんて兵主神社と、出石神社くらいのもの。

593:日本@名無史さん
20/10/15 12:10:10.37 .net
>>565
>具体的な説明がないとかいう奴に限って具体的な話がない
それが自分自身の投稿>>565に該当している件について

594:日本@名無史さん
20/10/15 12:10:13.87 .net
>>557
徐福が出た瞬間に脊髄反射のスレ

595:日本@名無史さん
20/10/15 12:11:56.54 .net
>>552



596:剣と銅鐸の出土は、阿波さんが何を言っても変わらないよ。



597:日本@名無史さん
20/10/15 12:13:14.25 .net
>>568
資料はまさかの魏志倭人伝と記紀なのか?
せめて先代旧事本紀くらい入れてやれよw

598:日本@名無史さん
20/10/15 12:14:22.50 .net
バカやなほんと😃
支那土人ぶっ殺すか?
 
ここまで話が通じないなら殺すしかねえぞ🤪

599:日本@名無史さん
20/10/15 12:16:11.78 .net
>>570
>銅剣と銅鐸の出土は、阿波さんが何を言っても変わらないよ。

「銅剣・銅鉾文化圏」 と 「銅鐸文化圏」、さらに「銅鏡文化圏」 これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。
それらが重なる位置の倭国(阿波)が、「銅剣・銅鉾文化」および「銅鐸文化」
さらに「銅鏡文化圏」の、まさに発信地といえる。 
これは、倭の王権が「倭国(阿波)」に在ったことの明らかな証拠。  
 「銅鉾/銅鐸分布」 URLリンク(i.imgur.com)
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

600:日本@名無史さん
20/10/15 12:17:56.10 .net
>>554
古伝承とかじゃなくて史書のきちんとした記録だと、天皇行幸のあった温湯って有馬が一等古くないか?

601:日本@名無史さん
20/10/15 12:20:41.74 .net
>>570は、倭国(阿波)に対して、何一つ論理的な反論ができないw    @阿波

602:日本@名無史さん
20/10/15 12:22:26.43 .net
>>573
>「銅剣・銅鉾文化圏」 と 「銅鐸文化圏」、さらに「銅鏡文化圏」 これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。
両方の文化圏の境目なだけじゃね?
数はそんなに多くないもの

603:日本@名無史さん
20/10/15 12:23:11.28 .net
570
おめえの場合はただのバカ

604:日本@名無史さん
20/10/15 12:24:32.42 .net
>>573
四国の北側にしかほとんど出ない出雲型銅剣と、四国東にしか出ない時代の新しい機内型銅鐸
後漢時代の銅鏡だって物部東遷ルートにしか出ないでしょ。
あなた基本的なところから押さえてないじゃん

605:日本@名無史さん
20/10/15 12:28:08.94 .net
タコかこいつら
死ぬ目に合えば物分かりよくなるかな?😃

606:日本@名無史さん
20/10/15 12:38:05.99 .net
諡って和式と漢式があるが、確か確立されたのは先代旧事本紀の出来た時代だった気がする。
しかし、イクメの名前にイサチが入るなど、生前の偽名を知らなければつけれない名前が入ってたりする。
ま、今から2000年前の話よりは、記紀成立から700年なら余裕で歴史を遡れたって事だわな

607:日本@名無史さん
20/10/15 12:41:13.25 .net
>>576
>両方の文化圏の境目なだけじゃね?

これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。
それらが重なる位置の倭国(阿波)が、「銅剣・銅鉾文化」および「銅鐸文化」
さらに「銅鏡文化圏」の、まさに発信地といえる。   
この分布に外れる地域は、倭国の中心足り得ない!   @阿波 

608:日本@名無史さん
20/10/15 12:43:19.37 .net
>>581
含まれていると言うだけで、出るものは新しいし、出土する地域も偏りがあるって話でしょ。
話を聞きなよw

609:日本@名無史さん
20/10/15 12:45:58.03 .net
>>582
>出るものは新しいし
なにが?   @阿波

610:日本@名無史さん
20/10/15 12:46:35.18 .net
『市教委によると、剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろに伝来してまもなく国内生産が始まった。
一方、同遺跡の調査に携わった九州考古学会会長の武末純一・福岡大教授らによると、
鏡の鋳型は寺徳古墳(福岡県久留米市)などの紀元後1世紀ごろの出土品が最古級とされていた。
遺跡の竪穴住居では昨年、鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など青銅器の鋳型が大量に出土。』
なるほど

611:日本@名無史さん
20/10/15 12:47:06.49 .net
漢だの主張してるやつらがいるならいい目安じゃん😃
あぶり出しに使えるわ

612:日本@名無史さん
20/10/15 12:48:09.40 .net
ぶん殴ってそいつらの首を斬り落とせばよいやん😊
すっきりするぜ気分的にもよ

613:日本@名無史さん
20/10/15 12:56:24.74 .net
血の繋がりのある先祖なら、女王なのにそれを隠し、200ヵ国にも及ぶ大国の倭武


614:王すら誰だかわからんようにしてる訳がない、簒奪者の記紀の勝手な諡名を信じる訳にはいかない。



615:日本@名無史さん
20/10/15 12:56:33.01 .net
>>583
銅鐸の写真でも見てこい。
見て判断できないのなら貴方は思い込みの人間だよ。

616:日本@名無史さん
20/10/15 13:02:12.98 .net
>>587
いみなの制度で遡れるのは継体天皇位まで。
それまでは死後の名前とは限らない。
制度的に成立した年代くらい押さえておくべき

617:日本@名無史さん
20/10/15 13:03:33.07 .net
>>584
これってどこの遺跡の話ですか?

618:日本@名無史さん
20/10/15 13:11:37.52 .net
>>588
>銅鐸の写真でも見てこい。
>見て判断できないのなら貴方は思い込みの人間だよ。
これも新しいのかね?  判断できないから教えてください。   @阿波
↓ 
伝 美馬郡脇町江原 小銅鐸 6.2cm

619:日本@名無史さん
20/10/15 13:15:09.74 .net
>>591
四国の北、瀬戸内海方面だろ。
住所で一発アウト

620:日本@名無史さん
20/10/15 13:17:22.62 .net
>>591
それと、阿波には後世の大型になった後の畿内型が中心でしょ。数的に圧倒的に。

621:日本@名無史さん
20/10/15 13:22:24.07 .net
>>590  福岡市内の須玖タカウタ遺跡だろ
遺跡の竪穴住居では昨年、鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など
青銅器の鋳型が大量に出土。
多鈕鏡の鋳型は近くの墓から見つかったが、
石材が似ていることから同時期のものと判断したという。

622:日本@名無史さん
20/10/15 13:22:30.22 .net
>>592
>四国の北、瀬戸内海方面だろ。

旧美馬郡脇町が?  なに言ってんの?   @阿波

623:日本@名無史さん
20/10/15 13:26:33.27 .net
>>593
>それと、阿波には後世の大型になった後の畿内型が中心でしょ。数的に圧倒的に。
小銅鐸から中型銅鐸、大型銅鐸と、いろいろ取り揃えております。
ところで
これも新しいのかね?  判断できないから教えてください。   @阿波
↓ 
伝 美馬郡脇町江原 小銅鐸 6.2cm

624:日本@名無史さん
20/10/15 13:27:53.95 .net
>>595
物部川あたりで出たのならまだしも
あの場所じゃあね
それと、分布って話分かります?一個じゃダメなんだよ?
四国の北側は出雲型銅剣と吉備時代の両方が出る地域だったはずだぞ。

625:日本@名無史さん
20/10/15 13:29:27.40 .net
>>594
情報有難うございます。

626:日本@名無史さん
20/10/15 13:32:24.17 .net
>>597
>四国の北側は出雲型銅剣と吉備時代の両方が出る地域だったはずだぞ。
それがどうかしたかい? ぜんぶ「阿波」から伝播したものだよ、石頭君!  わははははは   @阿波

627:日本@名無史さん
20/10/15 13:34:50.10 .net
>>599
嘆かわしいw
青銅器のキモは錫。
日本ではほとんど出ない。吉野ヶ里遺跡では錫インゴットが出たけどね。
阿波が青銅器の中心になる事はあり得ない。
水銀に目をつけたのは慧眼と言えようが。

628:日本@名無史さん
20/10/15 13:44:20.54 .net
>>600
水銀は奈良や三重でも取れてるから阿波全滅

629:日本@名無史さん
20/10/15 13:47:29.23 .net
>>581
>これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。
アッチにもコッチにもペコペコしてただけかもよ

630:日本@名無史さん
20/10/15 13:58:43.57 .net
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!

.

631:日本@名無史さん
20/10/15 14:54:09.00 .net
九州説ってダメでしょう
末盧国から東南陸行
 1 ごまかさない
 2 ごまかす
1:対外交流の核、糸島や博多を通らないで女王国へ→ありえない
2:ごまかしたら学説になれない→即死
九州説が死亡してます

632:日本@名無史さん
20/10/15 15:23:55.47 .net
>>601
青銅器と錫のお話
URLリンク(doutaku.cocolog-nifty.com)
当時、鈴をを輸入できたのは九州と大和だけ。
出雲の銅鐸ですら初期以外は畿内生産。
吉備王国の祖になった葛城フトニ王は、出雲の祭祀が銅鐸から物部から影響を受けた銅剣に切り替えたことを不快に思っていたのも出雲に侵攻した理由とも言われている。
戦争終結の講和条件には、出雲青銅を寄越せと言ってきた。
故に、西出雲王家のインゴットだけ渡し、東出雲の✖の印がつく物が、銅剣と銅鐸の大量に出てきた遺跡で出土した。
後にそれがバレてもう一度出雲は吉備に攻撃されるがw

633:日本@名無史さん
20/10/15 15:46:22.45 .net
だから卑弥呼の次の国中不服男王は侵略王フトニ(孝霊天皇)だろ
で、フトニが戦死か暗殺か何らかの理由で皇位を降ろされたかで、
次の皇位に付いた臺与がフトニの娘の諡号で百襲姫と
ちゃんと整合している
卑弥呼←宇那比姫
国中不服男王←侵略王フトニ
臺与←百襲姫

634:日本@名無史さん
20/10/15 15:51:04.57 .net
>>606
フトニさん揉め事は180年代だから3世紀では無いのです

635:日本@名無史さん
20/10/15 16:19:11.61 .net
>>607
フトニの侵略が180年頃だとすると百襲姫が卑弥呼になるけど、
卑弥呼の甥の息子の崇神天皇が3C初めから前半中頃に生まれた事になってしまう
通説とぜんぜん整合しない

636:日本@名無史さん
20/10/15 16:27:32.64 .net
>>608
はい。
モモソ姫は160年代の熊野勢侵攻の時だから、フトニ王とは相当宜しい線でかすってます。
しかしトヨは、魏書の朝貢以降になるので合いません。
物部イクメイコール垂仁天皇の娘の大和姫ならあいますが、乗っ取り側のヒメなので大和姫もトヨ様ではありません。
後に天ウズメにされる豊来入姫=豊鋤入姫がトヨ様です。

637:日本@名無史さん
20/10/15 16:35:49.32 .net
>>581
という事で、青銅のそのものの生産と、極端に言えば鋳型さえあれば溶かし直していつでも作り直せる青銅器の制作とは大きく意味が違うということです。
出雲は錫はなく、銅と鉄が出ましたので、大和に交易品として出して、完成品の銅鐸を大和から交換で入手していました。
大陸からきた海童一族が構造船の技術を持っていたから、海幸彦と、山幸彦しか事実上錫は入手出来ませんでした。
そこに目をつけて怪人族と呼ばれる存在になったのが、物部氏の祖になった人物に嫁さんをやった宗方家です。
出雲の第6代王家からの分家で、九州に勢力を持ってました。

638:日本@名無史さん
20/10/15 16:38:44.10 .net
故に、戦略物資の錫は、正規ルートが伊都国の畿内大和ルート。
並行輸入や密輸ルートは九州しか無いわけです。

639:日本@名無史さん
20/10/15 16:49:25.69 .net
>>608
>通説とぜんぜん整合しない
いや、2世紀3世紀にナニ天皇が西暦何年とか
そんな通説ねえだろう

640:日本@名無史さん
20/10/15 16:58:31.25 .net
銅鐸に限らずですが、国内の青銅器は時代を追うごとに錫の含有量が少なくなり、銅の比率が高まっていきます。
もしかしたら、錫の入手は九州に山幸彦が中心で、大和の出先の伊都で、売り込んでいた可能性もあります。
3世紀の邪馬台国事件では、イクメはトヨに張政を送らせた後に裏切って大和から追い出します。
その際に魏と縁切りしてます。
それもありしばらく錫は手に入らない状態になったのかもしれません

641:日本@名無史さん
20/10/15 17:00:00.93 .net
>>593
>それと、阿波には後世の大型になった後の畿内型が中心でしょ。数的に圧倒的に。

小銅鐸から中型銅鐸、大型銅鐸と、いろいろ取り揃えております。
ところで
これも新しいのかね?  判断できないから教えてください。   @阿波
↓ 
伝 美馬郡脇町江原 小銅鐸 6.2cm

642:日本@名無史さん
20/10/15 17:00:48.21 .net
>>609
それだと崇神天皇の誕生年が3C初めから前半中頃で、即位が250年頃で、
266年頃に娘の豊鋤入姫が即位した事になるけど、崇神陵が4C前半末頃だ�


643:ゥら 整合しないな 崇神陵は須恵器が出てるから4C後半の可能性もあるんだよね



644:日本@名無史さん
20/10/15 17:11:25.11 .net
>>614
運ばれてきた銅鐸としか判断できませんが?
それでよろしいですか?w

645:日本@名無史さん
20/10/15 17:19:11.77 .net
>>616
>運ばれてきた銅鐸としか判断できませんが?

銅鐸の出土数もさることながら、 銅鐸の出土遺跡の多さに驚かされる。
まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。   @阿波
徳島県の銅鐸出土地
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
9. 星河内美田1号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
10. 星河内美田2号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
11. 星河内美田3号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
12. 星河内美田4号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
13. 星河内美田5号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
14. 星河内美田6号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
15. 星河内美田7号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
16. 源田1号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
17. 源田2号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
18. 源田3号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   52.0

646:日本@名無史さん
20/10/15 17:19:58.47 .net
19. 安都真1号銅鐸     徳島市入田町安都真     29.5
20. 安都真2号銅鐸     徳島市入田町安都真     21.7
21. 安都真3号銅鐸     徳島市入田町安都真     24.6
22. 安都真4号銅鐸     徳島市入田町安都真     21
23. 名東銅鐸        徳島市名東1丁目       40
24. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     90.9
25. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     45.4
26. 伝福万谷銅鐸      徳島市八万町福万谷     
27. 勢合銅鐸        小松島市立江町赤石     36
28. 畑田銅鐸        阿南市下大野町畑田     54.02
29. 八貫渡銅鐸       阿南市下大野町八貫渡    
30. 才見銅鐸        阿南市才見町
31. 長者原1号銅鐸     阿南市山口町長者原     64.25
32. 長者原2号銅鐸     阿南市山口町長者原     41
33. 田村谷銅鐸       阿南市山口町田村谷     62 
34. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          42.4
35. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          31
36. 伝長生銅鐸       那賀郡長生町
37. 榎名銅鐸        三好郡西祖谷山村榎名     推定55
38. 伝吉野川沿岸銅鐸   美馬郡脇町拝原        6.2
39. 伝脇町銅鐸
40. 伝阿波銅鐸
41. 江原小銅鐸
遺跡発掘後進県なのに、なぜ徳島で、このように非常に多くの場所から出土するのだろうか?  あとは推して知るべし。   @阿波

647:日本@名無史さん
20/10/15 17:22:25.29 .net
>>616
>運ばれてきた銅鐸としか判断できませんが?

無知の井戸かわず(蛙)。  わははははは   @阿波

648:日本@名無史さん
20/10/15 17:47:55.09 .net
>>615
>崇神陵は須恵器が出てるから4C後半の可能性もあるんだよね
いやそれ、池の中からだから

649:日本@名無史さん
20/10/15 17:52:54.09 .net
>>620
>いやそれ、池の中からだから
井戸じゃないの?
無知の井戸かわず(蛙)。  わははははは   @阿波

650:日本@名無史さん
20/10/15 18:16:14.65 .net
行灯山は4世紀初頭だな。

651:日本@名無史さん
20/10/15 18:23:40.24 .net
銅鐸出土地には神とか加茂、鴨という地名が多いはず。
加茂岩倉、神庭荒神谷など。
またそこには地祇、国津神系神社があるはず。
近くに前方後円墳があると銅鐸は破砕されてる場合が多いはず。
前方後円墳と銅鐸文化は相入れなかったからね。

652:日本@名無史さん
20/10/15 18:25:34.20 .net
>>622
それでもキツイな
崇神が100歳近く生きたという事になっちまう

653:日本@名無史さん
20/10/15 18:35:13.29 .net
>>624
何で?
3世紀後半に生まれ4世紀前半、おそらく古事記の没年干支を信用して318年没だろうが。
応神が390年元年、仲哀が362年没、成務


654:が355年没、景行、垂仁不明、崇神318年没。 考古学的にも整合するし何も問題がないと思われるが。



655:日本@名無史さん
20/10/15 18:36:29.45 .net
>>624
実在の人物だと決めてかかるから
いけないだけだな

656:日本@名無史さん
20/10/15 18:41:52.17 .net
>>625
フトニ侵略が180年で百襲姫誕生が160年代なんだろ?
崇神は百襲姫の甥の息子
年齢差は40年くらいだから、崇神誕生は210年頃になるぞ

657:日本@名無史さん
20/10/15 18:41:58.12 .net
崇神が318年没の時点で、その何十年か前にいる最高位のトヨは一人であって、
その住処は>>1のいう纏向ではない、葛城だ。

658:日本@名無史さん
20/10/15 18:42:40.45 .net
>>625
崇神を卑弥呼似のモモ襲姫に合わせているのだから、崇神の時代は3世紀半ば頃。

659:日本@名無史さん
20/10/15 18:43:02.10 .net
フトニ侵略って何の話だ、知らんわボケ。

660:日本@名無史さん
20/10/15 18:44:31.95 .net
>>629
モモソヒメは一皇女であり女王ではない。
またその時代は4世紀初頭。
卑弥呼であるわけがない。

661:日本@名無史さん
20/10/15 18:48:59.88 .net
>>629
それだと崇神崩御=臺与即位の266年頃だから、崇神陵の築造時代と合わないだろ

662:日本@名無史さん
20/10/15 18:53:48.85 .net
>>628
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   

663:日本@名無史さん
20/10/15 18:56:27.52 .net
>>631
やっぱ

卑弥呼←宇那比姫
国中不服男王←侵略王フトニ(孝霊天皇)
臺与←百襲姫(フトニの娘)
次の男王←崇神天皇

の方が整合してるやろ

664:日本@名無史さん
20/10/15 18:58:41.64 .net
>>634
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?  わははははは   @阿波

665:日本@名無史さん
20/10/15 19:49:41.10 .net
>>457
>>倭國は、唐代まで、「正北抵新羅」であるから、北部九州。
>平安時代にもまだ「九州倭国」なんてものがあったとか
九州説も妄想はもう病的だね
唐代まで、と言っているのに、
勝手に「平安時代」と摩り替えるこの男(おそらく東大理系大和説自称男)の詐欺性は、
最早病的だな。
>「正北抵新羅」というのは宋の頃になってもまだ方位を間違えて
日本列島が朝鮮半島の南、浙江省の東あたりに北から南へ伸びていたと
中国側が間違った地理観を持っていたことを示す史料事実だ
ダメだ。「西北接百濟」は百済のほぼ東南にある、という意味であり、
「正北抵新羅」は新羅のほぼ真南にある、という意味であり、
その両方の交点が北部九州になる事になり、
「浙江省の東あたり」なんてインチキを書いたこの男は、
嘘つき騙しの詐欺師であった、という事になるだけだ。

666:日本@名無史さん
20/10/15 19:54:24.42 .net
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)


667:4031313951122410.jpg?caw=1125



668:日本@名無史さん
20/10/15 20:02:01.60 .net
>>459
>>西晋になれば、魏の薄葬令の制約がとれ、倭國も「天円地方墓」を開始出来る。
>真っ赤なウソ 魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる
九州説は史料に基づかず脳内で作られたニセモノの歴史 つまり捏造
ダメだ。
卑弥呼は魏代の魏帝から親魏倭王を拝命しており、
壹與も、魏代である内は、薄葬令に従わなくてはならないのであるが、
266年の遣使が「天円地方」の思想を教授された時点で、
西晋からの薄葬令の制約が取れた、と当然受け止める事になる。

669:日本@名無史さん
20/10/15 20:09:00.81 .net
>>467
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。

670:日本@名無史さん
20/10/15 20:12:31.57 .net
>>468
このように「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の否定」などの、史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
所詮「口先騙しの印象論」で終わり
学問になることはない

671:日本@名無史さん
20/10/15 20:18:07.12 .net
>>606
ごめんなさい、嘘書いちゃいましたw
吉備王国の成立はヒボコ勢の播磨侵攻と関係していますので180年代だと大彦の頃まで行ってしまいます。
150年頃ヒボコ播磨侵攻→葛城国と尾張氏にボコボコにされ、淡路島に逃げる
それから葛城国のフトニが侵攻。なんと吉備まで占領します。ちょうど地理的には出雲の真南あたりまで。
160年頃フトニ(孝霊天皇)が出雲に戦争を仕掛けます。西出雲の青銅インゴットゲット。そしてヤマトに帰れなくなります。倭は荒れます。
165年頃、物部五瀬が東征開始。
175年、磯城登美家の八咫烏が物部氏を手引きし、ヤマトの戦乱終結に導きます。
183年大彦が破れ北に退く(孝元天皇・クニクルの代)
この辺は、頑張って符号させると大陸の史書に出ている年号になります。
モモソ姫は180年代ころの人で、五瀬の東征開始と同時期と思い込んで書き込みしちゃってました。
ちなみに、クニクルのお嬢さんとタカクラジの子孫が結婚します。だから、武内宿祢は磯城、物部、出雲の全ての血が入ってる名門でした。
孝元天皇は磯城登美家の卑弥呼、クニアレ姫と結婚し、その娘が卑弥呼モモソ姫になっています。
ただし、娘ではなく、磯城登家の分家、太田家の姫ではないかとも言われています。
まあ、時期的には180年代までは存命という認識で居て下さい。
フトニさんのほうがモモソ姫より前になります。
基本的に、三輪山祭祀、姫巫女職(卑弥呼)は出雲の分家、磯城登美家の世襲になっていました。

672:日本@名無史さん
20/10/15 20:40:25.56 .net
>>617
銅鐸の基本ね
1世紀末ごろを境にして急に大型化する
近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産された。
近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、
三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、
例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。
2世紀末葉になると近畿式のみとなる。(銅鐸が統一される)
3世紀になると突然造られなくなる。
青銅文化は、銅矛、銅剣、銅鐸共に3世紀(卑弥呼の時代)に無くなる感じ。
何故か同じ時代に吉野ケ里の様な大陸様式の環濠集落も突然に国を捨てたかのような感じになる。
弥生後期
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
徳島は物部系と狗奴国家の境目。
弥生中期
URLリンク(ameblo.jp)

673:日本@名無史さん
20/10/15 20:48:18.89 .net
>>642
>弥生後期
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

「四隅突出墓」も倭国(阿波)が発祥!   
萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳・寺山3号墳   @阿波

674:日本@名無史さん
20/10/15 20:52:40.14 .net
>>642
>徳島は物部系と狗奴国家の境目。
なんのこっちゃ。  訳の分からんことを言うでない、無知の井戸かわず!   @阿波

675:日本@名無史さん
20/10/15 20:53:30.46 .net
>>617
銅剣や銅鐸に比べれば新しいけど、銅鏡になるとさらに四国は蚊帳の外
とくに南部、太平洋側はほとんど出てない。

676:日本@名無史さん
20/10/15 20:56:21.87 .net
>>645
>とくに南部、太平洋側はほとんど出てない。
なにがだね? 無知の井戸かわず!   @阿波 

677:日本@名無史さん
20/10/15 20:58:47.49 .net
>>646
更に既存の青銅器を溶かして作ったともいわれ、600枚以上の数の確認のある国産の三角縁神獣鏡鏡も
東征ルートの瀬都内側に偏っており、四国の太平洋側にはほとんど出ない。
これは東軍にも西軍にも相手にされてない地域だったという事www

678:日本@名無史さん
20/10/15 20:59:07.84 .net
>>645
九州説ごときがいくらウダウダ言っても、「阿波」にとっては相手にならない戯言。   @阿波

679:日本@名無史さん
20/10/15 21:01:31.06 .net
>>647
>東征ルート

海の無い山奥で、しかもジメジメした湿地帯の奈良盆地に、わざわざ東征する九州バカが、まだいるらしい。  わははははは   @阿波

680:日本@名無史さん
20/10/15 21:04:41.59 .net
>>648
こんにゃろう、全然出雲式ではないではないかww
URLリンク(kamnavi.jp)
あ、でもここの年表記紀の年表で見やすくて使いやすいかも

681:日本@名無史さん
20/10/15 21:25:23.67 .net
三世紀に終わったものは、殉葬ではなく、青銅文化だったのかもしれない。
それが埴輪の逸話になぞらえられたのかもしれない。

682:日本@名無史さん
20/10/15 21:32:23.23 .net
という事で強引にまとめると
青銅という材料が特殊過ぎる製品の発生時期を見ると。製造という観点からは
九州と、奈良にほぼ同時に同時に大きな勢力が発生していることが分かるという事。

683:日本@名無史さん
20/10/15 21:37:54.10 .net
>>476
>>魏朝では文帝による度量衡の統一令があったので
明帝も「(遼東)征伐四千里」などの短里をつかったという事になる
>度量衡の統一令なんて史料にない妄想だから
この議論で、「度量衡の統一令」と言ったのは、大和説者。
私が言ったのは「度を同じゅうする」という文言の話。
>「四千里征伐」は洛陽から遼東までの距離のこと
つまり 1里=約400の正常な一里だな
御前会議での明帝の「四千里征伐」の発言に関する議論では、
「征伐」は「遼東での征伐戦」の話になっており、
その範囲は韓の方可四千里と大体同じであり、その「四千里」は短里。

684:日本@名無史さん
20/10/15 21:38:07.16 .net
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!

.

685:日本@名無史さん
20/10/15 21:40:41.76 .net
>>478
「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定なんて妄想を
いつまでも連呼してるだけだけだから
大和説は死んだんだよ
唐代に九州に倭国があった事は誰でもわかるから
それを否定する大和説が妄想だと
誰にでもわかる

686:日本@名無史さん
20/10/15 21:48:42.35 .net
>>479
>「使大倭監之」の読み方は、普通の漢文としては「大倭をしてこれを監せしむ」しかない。
「大倭」は、「拡大した倭」という意味の呼称。

687:日本@名無史さん
20/10/15 21:50:55.32 .net
>>652
>九州と、奈良にほぼ同時に同時に大きな勢力が発生していることが分かるという事。

妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   

688:日本@名無史さん
20/10/15 21:55:01.51 .net
そもそも倭ってな中国の連中らが呼んだ呼称なわけな
日本の連中らそれ認めたんか?
じゃなけりゃ単なる中国からみた自称でしかねえんだよ

689:日本@名無史さん
20/10/15 21:57:20.30 .net
中国のやつらがそお呼んでるだけの自称なん😃
日本の文献には日本を倭なんて呼んでる呼称はないしそれを交渉するなりして認めた記事もない

690:日本@名無史さん
20/10/15 21:58:56.14 .net
だから中国中心観は日本じゃあ通用しないって書いてるだろ
それを無理にゴリ押しするならそれはそいつが中国の手先だってことだ😃

691:日本@名無史さん
20/10/15 21:59:26.33 .net
まあそのバカにとっちゃそれが当たり前なんだろけどな

692:日本@名無史さん
20/10/15 22:02:39.22 .net
>>657
残念でしたねぇ阿波さんw
東出雲王家の分家であるフト玉の命を祖とする忌部さんですが、思いっきり大陸の職人が成りすましてますよね~
魏より道教の禁止が緩かった呉だが、国が無くなる前から少数が大和入りしてた。
本格的に職人を連れてきたのが朝貢で騙され無役に終わった武内宿祢とされる。
結局呉の職人は呉の滅亡後、日本に流れてくるが、青銅の政策は邪馬台国事件以降殆ど需要が無くなる。
同じくして水防に向かった吉野ヶ里遺跡だが、ここにも阿波の品部は居たとされるが、
剣と銅鏡の忌部は散逸してしまって現在では地名が残るのみ。
製鉄にとって代わられたんだろうな。
大陸の海童と一緒に来たとされる忌部。そして道教に通じた呉の職人。
これらが生き延びる先に忌部の祭祀があったのだろう。
フト玉の命は組合の神様で合って、忌部氏の祖神ではない。


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