邪馬台国畿内説 Part648at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part648 - 暇つぶし2ch50:。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。  景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、 従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。



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◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。
 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

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◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

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◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。

◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

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◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

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◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。

◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

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◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。

◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」
 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

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◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

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◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
URLリンク(i.imgur.com) 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

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◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300~2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562~864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
 さらに、里程1,300~2,000里を日程合計60日で除すると約22~33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭~精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

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◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

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◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

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◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

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◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
―――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

64:1
20/10/12 16:42:47.54 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以


65:周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、   古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、   古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」 とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。  ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。 この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。  この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。 秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。  秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は   古者周尺 17.3cm   今周尺  21.0cm   秦漢尺  23.1cm となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。



66:1
20/10/12 16:43:18.45 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

67:1
20/10/12 16:43:46.57 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

68:1
20/10/12 16:44:17.25 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

69:1
20/10/12 16:46:01.98 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

70:1
20/10/12 16:46:31.20 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

71:1
20/10/12 16:47:02.37 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

72:1
20/10/12 16:47:33.30 .net
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

73:1
20/10/12 16:48:01.35 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

74:1
20/10/12 16:49:31.58 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

75:1
20/10/12 16:50:01.53 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

76:1
20/10/12 16:50:32.33 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

77:1
20/10/12 16:51:02.00 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

78:1
20/10/12 16:51:32.42 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 URLリンク(i.imgur.com)
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
URLリンク(i.imgur.com)

79:1
20/10/12 16:52:03.25 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の


80:中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ! A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。 敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。 以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。 「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔) 「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具) 「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。  明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)  ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅  ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫) 「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」 「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)  ※晋元康年間:291~299 「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)  ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289 (始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽) 「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)  ※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91 Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!    10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ! A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。  実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。



81:1
20/10/12 16:52:32.67 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

82:1
20/10/12 16:53:02.08 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

83:1
20/10/12 16:54:46.40 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

84:1
20/10/12 16:55:21.41 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

85:uz
20/10/12 18:22:47.25 .net
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
  毎度の事だがね、クイズ番組じゃないんだからさ、
当たってりゃいいって訳じゃないんだよ。

86:日本@名無史さん
20/10/12 18:27:11.39 .net
>>74
>当たってりゃいいって訳じゃないんだよ
ハズレばかりだよ。
オ〆なんかの膿味噌なんかではな、何もかもが無理なんだよ、莫迦は身の程を弁えな。   @阿波

87:日本@名無史さん
20/10/12 18:30:45.50 .net
>>74 は所詮荒らしの単細胞

88:日本@名無史さん
20/10/12 18:53:31.44 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)

馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

89:日本@名無史さん
20/10/12 19:30:43.13 .net
>>1君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。

卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津       (250年頃) ④懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
URLリンク(bbs10.aimix-z.com)
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ~~!

90:日本@名無史さん
20/10/12 19:45:00.85 .net
>>798
会稽東治の東が「ほぼ九州島付近」ではないとか
大和説のひとって、どうしてそんな
露骨な詐欺ができる神経なわけ?

91:日本@名無史さん
20/10/12 19:49:04.15 .net
>>79
事実だろ
会稽郡内のどの場所だって足摺岬より南だ
九州説よ詐欺するな

92:日本@名無史さん
20/10/12 19:54:41.31 .net
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分~58分)に女王国(阿波)がある。      
URLリンク(blog-imgs-50origin.fc2.com)
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」とある。   
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に「呉」で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、文献上から「会稽の治所」があったことがわかる。   @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
URLリンク(japanese.china.org.cn)

93:日本@名無史さん
20/10/12 19:55:45.28 .net
詐欺常習者師は、自分は決して詐欺師ではないという

94:日本@名無史さん
20/10/12 20:04:52.69 .net
>>81
馬鹿まるだし
項梁が会稽太守を殺したのは呉に亡命した後だって、常識なのに

95:日本@名無史さん
20/10/12 20:16:04.01 .net
>>83
いくら駄々をこねても、「阿波」で決着済みなんだから、君が間違いだってこと!  わははははは   @阿波

96:日本@名無史さん
20/10/12 20:18:16.74 .net
>>811
>(末盧国から)東南陸行 五百里 到伊都國 北東の間違い
「東南す、陸行五百里す、伊都国へ到る」であり、
東南は末盧國からの出発時点での出発方向であるから、
出発時点や途中では伊都国が見えず、間違いではない。
>(伊都国から)東南至奴国 百里 東の間違い
伊都国と奴國の位置比定が間違い。
伊都国は「臨津搜露」が出来る国であるから、前原や糸島水道付近の千戸の国であり、
奴國は伊都國の東南百里に入り口がある二万戸の国であるから、
日向峠の西麓の平野部~早良平野の国であり、
「東の間違い」にする必要がない。
>魏志倭人伝は方角がおかしい
この大和説者?の、脳がおかしい。

97:日本@名無史さん
20/10/12 20:24:19.26 .net
>>85
>東南は末盧國からの出発時点での出発方向であるから、
>出発時点や途中では伊都国が見えず、間違いではない。
間違いなんだよ
東南に出発したって道が北へとカーブしてるのも見えてんだから
これは典型的な詐欺だ

98:日本@名無史さん
20/10/12 20:34:07.66 .net
>>85
>伊都国は「臨津搜露」が出来る国であるから、前原や糸島水道付近の千戸の国であり、
>奴國は伊都國の東南百里に入り口がある二万戸の国であるから、
>日向峠の西麓の平野部~早良平野の国であり、
糸島水道から古代の街道どおり真東の広石峠を抜けて早良だ
明らかに「東の間違い」
これも九州説の詐欺

99:日本@名無史さん
20/10/12 20:36:18.64 .net
明治天皇の詠歌は日本の歴史を教えてくれる
人もわれも 道を守りてかはらずば この敷島の国はうごかじ
葦原のみづほの國の萬代もみだれぬ道は神ぞひらきし
月見れば 雁が飛んでゐる 水の中にも映るなりけり
雁や道は源氏物語の和歌にも登場する
心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな
常世出でて旅の空なるかりがねも列に遅れぬほどぞなぐさむ
あかりなくにかりの常世を立ち別れ花の都に道やまどはむ

100:日本@名無史さん
20/10/12 20:40:28.88 .net
>魏志倭人伝は方角がおかしい
畿内説の魂の叫びwww

101:日本@名無史さん
20/10/12 20:43:06.63 .net
>>85
少しでも東南側に行けるように遺跡も何もない西唐津を末盧国にしたり、三雲の大きな遺跡を無視して糸島水道あたりを伊都国にしたり
無理を重ねる九州説は
歴史学とはまったく別物だね

102:日本@名無史さん
20/10/12 20:47:58.74 .net
>>89
ウソをつき続ける九州説の醜い姿を見ちゃったら、誰でも驚いて叫ぶさ

103:日本@名無史さん
20/10/12 20:48:11.69 .net
>>90
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波

104:日本@名無史さん
20/10/12 20:48:14.26 .net
>>815
だから
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者は・・・
そういう世間常識とかけ離れたお経を
ぶつぶつ唱えているだけでは
おかしい人にしか見えない

105:日本@名無史さん
20/10/12 20:49:38.76 .net
>>91
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波

106:日本@名無史さん
20/10/12 20:54:42.96 .net
西唐津から真東にトンボ山が見える
糸島への道はトンボ山を越えて北東へ北東へと続く
これが東南陸行というなら、倭人伝の方角は明らかにおかしい

107:日本@名無史さん
20/10/12 20:56:24.32 .net
>>95
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波

108:日本@名無史さん
20/10/12 20:59:00.14 .net
歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
千余里で、対馬国に着く。
また南に一海を渡ること千余里、一大国(一支・壱岐)に着く。
また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。
東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。
東東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里。
南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里。
南に進むと邪馬台国(邪馬壹国)に到達する。
帯方郡から女王国までは一万二千里。
不弥国から南、千三百里で邪馬壹国(邪馬台国)。
丁度その辺りにはネタ元、魏略には邪馬嘉国ヤマガ国(山鹿市)があると書かれてる。

109:日本@名無史さん
20/10/12 21:02:52.19 .net
>>819
>梁書は「卑彌呼宗女臺與」って書いてるんだけど?
後代史書の唐代の梁書は、魏志倭人伝の記載に関して、
「自己解釈に拠る書き換え」が多い半分偽書だ、となっている部分が多く、
「臺與」も魏志の「壹與」の書き換えになっており、史料価値が殆どないんだよ。
あなたは自分に都合が悪いと何でも
信頼性の史料批判もせずに、「~書は書いているんだよ」だとか、
意味不明な我流の解釈を叫んで
それで否定できた気分に浸るんだよね

110:日本@名無史さん
20/10/12 21:03:39.80 .net
>>97
これも水行十日陸行一月を隠してて詐欺
九州説って詐欺

111:日本@名無史さん
20/10/12 21:05:11.49 .net
そして、ネタ元である『広志』 『魏略』には「女国」としか書かれてない
「後漢書」「魏志」「隋書」等の参考文献として引用してるが、
『魏志倭人伝』には「倭国の女王」「女王国」と成ってるが、....引用元では「女国」
魏略では「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文.... で「女国」
広志には「百女国以北其戸数道里可得略...... でも「女国」
又、南して邪馬嘉国に至る。百女国より以北、其の戸数道里
「自帯方至女國萬二千餘里」(『太平御覧』 原文)
『御覧』での「万二千余里」も「帯方-女国」間であり。 「女王国」じゃなく「女国」。
文中の「邪馬嘉国ヤマガ山鹿」の嘉は臺と酷似しており「嘉は臺」の誤字で、
邪馬台国が定説だと考えられているが...、南には江田船山古墳そばに山鹿市などがある。
広志などは、(八.百)女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿)以北、が邪馬台国と書かれており、
手前の女国とは八女津姫、田油津媛(たぶらつひめ)伝説などがある八女市だろう、
なお、南限(八.百)女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿)のその南が敵対関係の狗奴国である。

112:日本@名無史さん
20/10/12 21:06:38.38 .net
>>99
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波

113:日本@名無史さん
20/10/12 21:07:01.22 .net
>>98
>後代史書の唐代の梁書は、魏志倭人伝の記載に関して、
>「自己解釈に拠る書き換え」が多い半分偽書だ、となっている部分が多く、
>「臺與」も魏志の「壹與」の書き換えになっており、史料価値が殆どないんだよ。
あんたが今やったこと
     ↓
>あなたは自分に都合が悪いと何でも
>信頼性の史料批判もせずに、

114:日本@名無史さん
20/10/12 21:11:16.41 .net
>>827
>百襲姫(臺与)は老いたので大王の座を若きミマキイリヒコに譲り、
自らは上皇になって巫女として神道活動や審神者(さにわ)活動=霊媒を
していたんだよ
「臺与」なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この大和説男が、×。

115:日本@名無史さん
20/10/12 21:13:13.59 .net
>>100
>そして、ネタ元である『広志』 『魏略』には「女国」としか書かれてない
それ、ネタ元じゃなくて、非常に品質が低いので有名な翰苑注の写本だから

116:日本@名無史さん
20/10/12 21:18:44.16 .net
>>833
>・・・倭国は会稽、東冶の東に在ることになったよ
魏志倭人伝の陳寿の「女王國の位置推定」は、「会稽東治之東」であるから、×。

117:日本@名無史さん
20/10/12 21:20:19.10 .net
>>105
東冶と東治は同じ場所

118:日本@名無史さん
20/10/12 22:02:04.34 .net
>>943
>会稽郡の最北端は屋久島あたり
魏志には「会稽郡」なんて書かれておらず、「会稽」であるから、×。

119:日本@名無史さん
20/10/12 22:10:25.74 .net
>>107
会稽郡でないところに会稽の名を冠する場所なんて無いんだよ
いつまでバレバレの詐欺やり続ける気だ九州説は

120:日本@名無史さん
20/10/12 22:12:12.66 .net
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分~58分)に女王国(阿波)がある。      
URLリンク(blog-imgs-50-origin.fc2.com)
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」とある。   
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に「呉」で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、文献上から「会稽の治所」があったことがわかる。   @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
URLリンク(japanese.china.org.cn)

121:日本@名無史さん
20/10/12 22:24:11.77 .net
>>962
>臺与13歳が大王に即位する事で紛争が終結になり、張政が檄飛ばしに
謁見にやって来て、張政の見送りを兼ねて晋に朝貢したのが266年だろ
やっぱ臺与の誕生年は253年だよ
臺予なんておらず、
張政が「遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢」をしたのは、正始8年か、それ過ぎになる。

122:日本@名無史さん
20/10/12 22:45:31.91 .net
>>967
>卑弥呼は247年に崩御したとは限らんし、
其八年,太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯烏越等詣郡說相攻擊狀
だから、「詣郡」したのは正始八年。
そして、「相攻擊狀」を説いて、
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢,拜假難升米為檄告喻之。
が出来たのは、準備も含めて、相攻擊狀の後、1年以内(数か月)位。
そして、卑彌呼以死大作冢徑百餘步徇葬者奴婢百餘人だから、
卑弥呼亡くなったのは、正始9年頃。
>箸墓は臺与陵だしな
臺与なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
箸墓は、「冢≠前方後円墳」や「布留い」に拠って、4世紀。

123:日本@名無史さん
20/10/12 22:45:47.33 .net
>>109
>すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、
宿遷は会稽郡じゃないよ
揚州属ですらないよ
徐州の臨淮郡だよ

124:日本@名無史さん
20/10/12 22:51:03.48 .net
>>973
>後漢書でも会稽郡東治県は
中国最南部でハワイやグアムと同じ緯度にある朱崖タンジ郡とお互いに近いと書いてある
後漢書も、
後代での「前史の魏志の自己解釈での書き換え」をやっている半分偽書であるから、
根拠にならず、×。

125:日本@名無史さん
20/10/12 22:54:39.38 .net
>>974
>日本書紀、梁書、翰苑、太平御覧には卑弥呼が魏に遣使したのは景初三年と
はっきりと書いていて
それらが当時参照した魏志倭人伝には卑弥呼の遣使が景初三年であった事を白状している
書紀や通典が、
「明帝」や「景初二年」とはっきり書いているので、「景初三年」説は×。

126:日本@名無史さん
20/10/12 22:57:41.04 .net
>>113
自分の説に都合の悪い事が書いてある史料を
罵るだけで記事を無視できると思うのは
間違い

127:日本@名無史さん
20/10/12 23:02:04.34 .net
>>975
>九州が当時から九州と呼ばれていたというなら
いや「呼ばれていた」なんて言っていない。
自分らが「中国の九州」の出身であった、という事を知っており、
「大夫」という身分を使っていた、と言っているだけ。
>ちなみに大和の旧字は倭
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍に支配され、
九州倭國から別れた「別種の旧小国の附庸國」であっただけ。

128:日本@名無史さん
20/10/12 23:05:48.39 .net
>>976
>後漢書などの史書は自己解釈に拠る三国志などの書き換えでなければ根拠になるのであり
数世紀の隔たりがあるそれぞれの史書は魏書に曰くなど魏志を書き写したものである事を書いてあり
内容も共通しているので自己解釈による書き換えはなかったと言える
半分偽書である、という事は、
偽書である部分もあるが、前史の通りである部分もある、
という意味だよ。

129:日本@名無史さん
20/10/12 23:14:32.78 .net
>>978
>現実に見つかっている魏で使われていたモノサシと
九州説の言う里歩系の尺度が関係ないというのなら
里歩系という尺度は現実には存在しなかったという事になる
ならん。
魏朝の長さの記録では、殆どが里歩系の使用である。
>いっぽう普通の里は見つかっている魏のモノサシによって
1尺が24cmで律歴志に書いてある魏で使われていた尺度1里=300歩=1800尺に当てはめて
1歩が144cmで1里は約430mだったという事が解明されている
明帝の「(遼東の)征伐四千里」や、韓の「方可四千里」や、
倭人伝の里記載や、天柱山や、如淳注など、1里≒76.5mの記録である。

130:日本@名無史さん
20/10/12 23:17:26.70 .net
>>116
>自分らが「中国の九州」の出身であった、という事を知っており、
「中国の九州」とは皇帝が支配する中国全土のことだから
「中国の九州」の出身という言葉は
意味がメチャクチャ

131:日本@名無史さん
20/10/12 23:20:09.89 .net
>>979
そうやって「南→東」とか「冢→前方後円墳」とか、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などのように、
史料事実や史料実態の曲解や否定、というワケワカラナイお手製の史料改竄を使って
恣意的にチェリーピックするのが
非学問の大和説

132:日本@名無史さん
20/10/12 23:21:44.60 .net
>>118
>明帝の「(遼東の)征伐四千里」や、韓の「方可四千里」や、
>倭人伝の里記載や、天柱山や、如淳注など、1里≒76.5mの記録である。
それが1里≒76.5mだっていう証拠、一切無いですけど

133:日本@名無史さん
20/10/12 23:24:44.96 .net
>>980
大和説者は、「南→東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」事などを無視しており、
しかし、魏志倭人伝には、
女王國のある所は会稽東治の東
つまり現在の「ほぼ九州島辺り」と、はっきり書いてある

134:日本@名無史さん
20/10/12 23:37:41.67 .net
>>982
>對海國の方四百余里や一大國の方三百里は方と書いてあるので行程ではなく面積の事で
行や至などの移動を表す文言がついてないので
魏使は對海國や一大國を移動していなかったという事になる
魏志に書かれた「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」は、
「絕在海中洲島之上での参問倭地」、
つまり、陸路で参問の里数合計が「可五千餘里」である、と言っており、
だから、狗邪韓國から侏儒國付近までの陸路部分の計算をしてみると、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)になり、
ぴったり合っており、
だから、魏の役人らは、對海國と一大國のそれぞれの二辺の陸路歩行を算定していた、
という事になる。

135:日本@名無史さん
20/10/12 23:40:54.24 .net
>>985
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者は、
幻覚が見えてるみたいだね
頭にアルミホイル巻いたら

136:日本@名無史さん
20/10/12 23:43:54.19 .net
>>986
陳寿が女王國や倭國を、
現実の日本列島の中の「ほぼ九州島付近」だと思っているのが明らかな以上
彼の書いた行程を辿ってあっちだこっちだと、曲解は否定や捏造を言っても
現実にあった女王の都に着かないのは当然の結果なんだよね

137:日本@名無史さん
20/10/12 23:48:20.55 .net
>>987
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者は、
薬とかやってて幻覚が見えてる可能性があるから
医者やおまわりさんに、調べて貰った方がいいですよ

138:日本@名無史さん
20/10/12 23:52:11.08 .net
>>988
それなら、
魏志倭人伝には、女王國や倭國の位置としては、
会稽東治の東つまり「ほぼ九州島付近」と書いてあるので
少なくとも魏使は女王國や倭國の位置について、
正しい見識を持っていたことになる

139:日本@名無史さん
20/10/12 23:54:23.27 .net
>>127
>会稽東治の東つまり「ほぼ九州島付近」と書いてあるので
それが、誰が見ても瞬時にわかる真っ赤なウソなので


140: 九州説はまた信用を失なうのだった



141:日本@名無史さん
20/10/13 00:00:42.36 .net
>>990
現在見れる魏志倭人伝は、同時代記録を元にした陳寿原本が失われているが、
「99.5%以上」の正確さで書き写しされた写本や版本群があり、
後漢書や隋書や梁書などのような後代史家の、
「自己解釈に拠る大量の書き換え」本の記載よりも
はるかに同時代の魏の役人たちの記録に近いと言える

142:日本@名無史さん
20/10/13 00:05:02.39 .net
>>992
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙し大和説は、
世紀の大不正解 !

143:日本@名無史さん
20/10/13 00:20:56.47 .net
もう気のふれた九州説の老人が
南→東とか嘘吐き騙し大和説とか同じ単語をくり返してるだけだな

144:日本@名無史さん
20/10/13 00:26:28.40 .net
>>129
>「99.5%以上」の正確さで書き写しされた写本や版本群があり、
また九州説がインチキ統計を使っているな?
史料からの帰納も確率計算も一切しないで、そんな数字が出るわけがない

145:日本@名無史さん
20/10/13 06:09:05.01 .net
>>112
>宿遷は会稽郡じゃないよ
いくら駄々をこねても、「阿波」で決着済みなんだから、君が間違いだってこと!  
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」   
異論が有ればどうぞ。  わははははは   @阿波

146:日本@名無史さん
20/10/13 07:21:32.51 .net
>>133
きも

147:日本@名無史さん
20/10/13 07:25:34.79 .net
昔話の繰り返し、新しいことは耳に入らない、もうろく老人だらけの特養スレ悲し

148:日本@名無史さん
20/10/13 07:27:22.84 .net
>>135
その通り。   @阿波

149:日本@名無史さん
20/10/13 07:54:34.96 .net
もうろく九州説に、
もうろく畿内説に、
もうろく@阿波説、上等・別格の取り合わせだ。

150:日本@名無史さん
20/10/13 07:55:16.41 .net
>>136
おい定型文はどうした?
サボってんじゃねえぞ糞ガイジ

151:日本@名無史さん
20/10/13 08:00:54.44 .net
>>1君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津       (250年頃) ④懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
URLリンク(bbs10.aimix-z.com)

径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ~~!

152:日本@名無史さん
20/10/13 08:11:57.16 .net
>>80
>事実だろ 会稽郡内のどの場所だって足摺岬より南だ
史料事実や史料実態では、陳寿は、女王國や倭地の位置推定として、
「計其道里,當在會稽東治之東」と書いたのであり、
「会稽郡」なんてどこにも書いていないし、
勿論「会稽東治」とは、「会稽郡」である事を否定して、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」のような、
会稽地域の中の海岸付近の事を意図している。
そして、それからの「之東」は、ほぼ九州島付近を相当し、
足摺岬の事など、特定していない。
大和説者や東大理系博士号自称男よ、詐欺するな

153:日本@名無史さん
20/10/13 08:15:12.46 .net
>>82
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの詐欺常習の大和説学者らは、
自分は決して詐欺師ではないという詐欺をする

154:日本@名無史さん
20/10/13 08:30:57.08 .net
>>86
>>東南は末盧國からの出発時点での出発方向であるから、
出発時点や途中では伊都国が見えず、間違いではない。
>間違いなんだよ
東南に出発したって道が北へとカーブしてるのも見えてんだから
途中までの道が見えていても、
その先のどの方向に伊都国があるのか?が見えていなければ、
伊都国の絶対方向など、判る筈がない。
そして、人類の「行程や旅程の説明法」の原則は、
「出発の説明→途中の説明→到着の説明」の順に説明するものだ、
という事であり、それは、人類に普遍的な原則であり、
だからこの行程説明の先頭の文言の「東南」は、出発時点での出発方向の説明であり、
目的地の伊都國の方向の説明ではない。
また、途中は、案内人や道標を頼りに進むものだ。
この投稿も、また、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らに、典型的な詐欺だ

155:日本@名無史さん
20/10/13 08:39:57.36 .net
また今日も1日逃げ惑うだけの奥山あわれ

156:日本@名無史さん
20/10/13 08:51:23.41 .net
>>142
>だからこの行程説明の先頭の文言の「東南」は、出発時点での出発方向の説明であり、
>目的地の伊都國の方向の説明ではない。
駅前ロータリーを東南に向けて発車し、ぐるっと回って北西方向へ向かうバスの行き先方角はどうなるのだ、
うそつき騙しのバスガイドするな!

157:日本@名無史さん
20/10/13 08:54:25.85 .net
>>87
>>伊都国は「臨津搜露」が出来る国であるから、前原や糸島水道付近の千戸の国であり、
奴國は伊都國の東南百里に入り口がある二万戸の国であるから、
日向峠の西麓の平野部~早良平野の国であり、
>糸島水道から古代の街道どおり真東の広石峠を抜けて早良だ
いや、「奴國」の説明文の「東南至奴國百里」も、(投馬國や邪馬壹國の説明と同じく)
「至の前には出発方向を示す東南しかなく、途中移動があった事を示す文言がない」から、
この場合も側副傍線の位置の説明であり、
魏氏らは、奴國へは行っておらず、
だから、伊都国の次の国は、「東行至不彌國百里」の不彌國になり、
この場合には「至」の前に「行」という途中移動を示す文言がきちんと書かれており、
だから、
「前原~糸島水道」の伊都國の出口から、
姪浜などの海岸沿いの「東行百里」をした小戸付近が、
不彌國の入り口付近になり、藤崎西新町付近が不彌國の中心部になるんだろう、
という事になる。
>明らかに「東の間違い」
間違っていない。
この大和説者らの解釈が、陳寿の説明が理解できないハクチであった、というだけ。
これも大和説学者や東大理系博士号らの詐欺

158:日本@名無史さん
20/10/13 09:10:58.34 .net
>>89
>>魏志倭人伝は方角がおかしい
>畿内説の魂の叫びwww
「畿内」なんても怪しい文言であり、
「方角がおかしい」というのも、人類の常識を否定する・・・・詐欺師の大和説者の、
狂気の魂の叫び。
・・・・は、怖い怖い。

159:日本@名無史さん
20/10/13 09:14:22.73 .net
.




五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)



.

160:日本@名無史さん
20/10/13 09:48:43.54 .net
>>90
少しでも「魏志記載の方向や距離を否定」して大和に届くようにしようとしたり、
三雲の大きな遺跡が伊都国と奴國の境界地域であり、
双方の「クシフルの西麓」の共同墓地地域になる事や、
「伊都国の臨津搜露」も無視して、「糸島水道あたりの伊都国」を否定したり
無理を重ねる大和説学者やスレ主や東大理系博士号詐欺師男らの主張は
歴史学とはまったく別物だね

161:日本@名無史さん
20/10/13 10:31:53.06 .net
夜中にコッソリ罵倒レスするしかない引きこもり奥山あわれ

162:日本@名無史さん
20/10/13 11:32:33.39 .net
>>91
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のウソをつき続ける大和説の醜い姿を見ちゃったら、
誰でも驚いて叫ぶさ

163:日本@名無史さん
20/10/13 11:38:12.05 .net
>>95
>西唐津から真東にトンボ山が見える
糸島への道はトンボ山を越えて北東へ北東へと続く
これが東南陸行というなら、倭人伝の方角は明らかにおかしい
旅程や紀行文の説明では、「出発の説明→途中の説明→到着の説明」を、
その順に記載するものである、という人類の常識が判らないらしい大和説者は、
どう見ても、明らかに脳がおかしい。

164:日本@名無史さん
20/10/13 12:02:23.37 .net
.

日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く


165:違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! .



166:日本@名無史さん
20/10/13 12:03:35.66 .net
>>151
>旅程や紀行文の説明では、「出発の説明→途中の説明→到着の説明」を、
>その順に記載するものである、
倭人伝においてもそのとおりだ。男はだまって東南へ行け。、

167:日本@名無史さん
20/10/13 12:08:14.23 .net
>>99
>これも水行十日陸行一月を隠してて詐欺
九州説って詐欺
数量説明文言は、
「千里馬」などのような流行語的な形容詞として、
対象文言の前に冠する場合以外は、原則は、
対象文言の後に付加する形での叙述をするもの。
だから、「水行十日陸行一月」という数量説明は、
その前の文言である「女王之所都」に関する説明文言であり、
(更にその前の邪馬壹國の数量説明文言ではない)事になり)
その「日数の大量さ」などに拠っても、邪馬壹國からの所要日数ではなく、
行程の出発点の「帯方郡」から女王之所都への所要日数である、
という事になる。
大和説者って、全員、・・・・アホ詐欺師。

168:日本@名無史さん
20/10/13 12:36:53.47 .net
そもそも大率というのは張政達の為にある訳でも無く半島の鉄やらの為の割には末羅は前が見えんような所で港や津とは言えんから流されたかわざと迂回してるわね。

169:日本@名無史さん
20/10/13 13:18:33.44 .net
>末盧国の港付近は、草ボウボウで前を行く人が見えなかったとある。
それは、末盧国(福津市辺り・万津浦) から 伊都国(直方辺り)へ向かう道中の峠越えの場面だよ。  
こういう詳しい説明が出来るのは、倭国(阿波)への行程だけ。 わははははは   @阿波

170:日本@名無史さん
20/10/13 13:39:52.30 .net
そうか、
まるで阿波の頭のようにボウボウぼさぼさだったのか、、、

171:日本@名無史さん
20/10/13 13:42:39.04 .net
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」~卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ~ のカラクリ
①曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
②(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
③「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が永続中!
もしも箸墓が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大】作冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w


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