20/10/02 17:35:16.78 .net
>>949
どこにもすぐ下(南)と書いてない
自女王國以北(の中)に特に一大率を置いている
985:日本@名無史さん
20/10/02 17:36:00.08 .net
大彦一御真木姫
I一一豊城入彦、豊受入姫
崇神天皇
986:日本@名無史さん
20/10/02 17:38:08.75 .net
豊城入彦→東国制圧してこ~い😃で子孫が関東入り
豊受入姫→初代伊勢神宮の斎宮と呼ばれた伝説の女性
987:日本@名無史さん
20/10/02 17:39:03.20 .net
>>950
ミマキはヤマト入りしてない物部イニエ。大陸に朝貢してるからイニエは史書に出てる。
記紀により便宜上崇神天皇にされた。
垂仁天皇である物部イクメの父親。
イクメはヤマト姫の父親。
記紀による作為の通りだよ、それじゃあ。
長髄彦は第一次物部東征の熊野からヤマト入りした五瀬の頃の人。
景初三年の邪馬台国東征はもっと後の話。
988:uz
20/10/02 17:39:49.09 .net
>>950 > 娘が御真木姫で崇神天皇の妻になってんじゃん//
うん、もう一息だね。
989:日本@名無史さん
20/10/02 17:40:39.02 .net
・女王国以北
・女王国の東の海を渡ると又倭種の国
・女王国の南には女王に属さない狗奴国
魏志倭人伝に置いて女王国の西側については一切触れられていない
これは女王国が倭の最西端である事を意味している
990:日本@名無史さん
20/10/02 17:48:33.97 .net
崇神天皇とか、なに時代錯誤してんだよ
卑弥呼は孝安天皇の時代の人だよ
卑弥呼を助けて国を治めていた弟が孝安天皇なんだよ
991:日本@名無史さん
20/10/02 17:49:56.89 .net
関東にはヤマトとはまったく別の王権うんたらって話もでてくるだろ
トヨキの子孫らの王権やぞ😃
実際に東国に勢力を伸ばしたのはトヨキのひ孫のミモロワケかららし~がな
その子供が荒田別でその子供に竹葉瀬、田道兄弟がおる
992:日本@名無史さん
20/10/02 17:49:56.96 .net
>>951
書いてなくても、そう考えるのが自然
993:日本@名無史さん
20/10/02 17:50:45.36 .net
>>956
西側は日本では異人コマビト地域
994:日本@名無史さん
20/10/02 17:51:32.26 .net
>>933
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定や、
范暢がやったような、ありもしない固有名詞の「東冶」で、
陳寿の説明文を捏造するような
995:大和説はダメだな >会稽の東は海までずっと会稽郡で、 いや、陳寿は「会稽郡」なんて書いておらず、「会稽」と書いた。 それは、「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、 「会稽郡」の事にはならない。 >他の郡治は無い 258年頃の分郡で、会稽の東方は、 江蘇省から臨海郡付近までずっと揚州の管轄下になった、という事情があったから、 所謂会稽の東方の「治」の地域、という表現になった。 >>「会稽東治之東」は、会稽の東方の揚州管轄下地域の最先端の、 揚子江河口域の上海付近の東方、という意味になり、 「ほぼ九州島の最南端の佐多岬付近だ」というに事になる。 >会稽の東に「揚子江河口域の上海付近」だなんて「北→東」の地理歪曲 歪曲にならない。 会稽の東方の揚州の管轄下の「江蘇省~臨海州」のほぼ中央部付近であり、 その地域の最も東端の海岸付近でもあり、 会稽郡治付近から見ても「東北東~東北」方向付近だ。
996:日本@名無史さん
20/10/02 17:54:35.90 .net
>>951
すぐ下でないと道里記載できないし
すごく遠いならわざわざ書かない
997:日本@名無史さん
20/10/02 17:56:34.70 .net
>>957
記紀の時系列でモノを語るのならそもそもが機内説、九州説の議論に参加する意味はない
998:日本@名無史さん
20/10/02 17:57:17.93 .net
玉は白玉か青玉、桃。×おじさんそんな所に七万戸居てどうすんのよ
999:日本@名無史さん
20/10/02 17:58:47.09 .net
>>962
北部九州の不彌國が会稽の東の九州南端あたりにあるという地理観は完全に間違っているので
行程を実際の地理には当てはめられない
1000:日本@名無史さん
20/10/02 18:03:18.92 .net
まだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
1001:日本@名無史さん
20/10/02 18:03:22.44 .net
神宮皇后が自分の子供が死んだから関東に存在する別王権の子供をすり替えて応神天皇に据えた説書いたろ😃
荒田別は大和では将軍的存在として神功皇后らに関わっとるで
替え玉説が本当なら
崇神一豊城一八綱田一彦挟島一御諸別一大荒田一応神天皇ってなるんだよ
1002:日本@名無史さん
20/10/02 18:08:14.37 .net
>>945
有明海を南に舟で行くんだから、投馬はサツマ。
投と殺の誤字。
今の南さつま市阿多の地がそれ。
1003:日本@名無史さん
20/10/02 18:08:21.80 .net
>>967
>崇神一豊城一八綱田一彦挟島一御諸別一大荒田一応神天皇ってなるんだよ
云い貼るだけじゃどうしようのないだろ。オ〆は随分とアタマ割るそうだな。 わははははは @阿波
1004:日本@名無史さん
20/10/02 18:10:36.63 .net
>>938
>>佐多岬付近だというに事になる
>つまり書いた本人の陳寿の地理観では北部九州をはるかに通り過ぎている
いや、
陳寿は(邪馬壹國女王之所都の位置推定ではなく)、
女王國の大体の位置推定であったのであり、
女王國には南九州地域の投馬國も含まれますから、
南九州の佐多岬付近が中心になる説明をした事になるんなら、
「会稽東治之東」という位置推定をした陳寿が間違っていた事にはならない。
1005:日本@名無史さん
20/10/02 18:12:31.09 .net
>>961
>258年頃の分郡で、会稽の東方は、
>江蘇省から臨海郡付近までずっと揚州の管轄下になった、という事情があったから、
真っ赤なウソ
ずっと前から南は浙江省まで揚州の管轄下
会稽の東にあるのは海だけ
1006:日本@名無史さん
20/10/02 18:12:33.09 .net
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分~58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波
URLリンク(blog-imgs-50-origin.fc2.com)
1007:日本@名無史さん
20/10/02 18:13:11.13 .net
>>968
2万戸の奴国からさらに東に陸行した後に水行するから
有明海ではないね
1008:日本@名無史さん
20/10/02 18:14:02.14 .net
>>958
関東は東国と並んで狗奴国。大彦系の子孫の国。
大彦は、出雲系の血が濃くなった磯城王朝「後期神武系」。中曽根氏や阿部氏の元になった。
物部嫌いで銅鐸祭祀にこだわった。
だから、関東や東国では前方後円墳や、銅鐸が出る。
但し、鏡は少ないよね。
偽装ヤマト国、魏書の邪馬台国は、蝦夷である狗奴国と戦うから朝貢したといい、今でいう天皇の錦の御旗に相当する、8本の旗と、鏡を貰った。
この鏡は平縁の神獣鏡が含まれていた。
後漢の鏡が景初年より前は殆ど北九州出土なのに、次第に瀬戸内海、近畿に集中するようになる。
その時代にっても東国と関東では鏡が殆どでない。出雲神、クナト王を信仰してた大彦系の国らしい。
男体山などに出た超レアな鉄鐸は、時代が少し古く、タテミナカタが諏訪の祭祀を乗っ取った頃のもので、埋められてない実物は、諏訪の神長官の守矢家系統。信濃国二宮の小野神社にも同じものがある。
諏訪から追い出されたとも言われる千鹿頭神が上州に到達し、福島、茨城あたりに落ち着くが、つつこわけ神社のあたりに落ちたいたとされる。
この神社はかつての一宮で、千鹿頭神に近い、ちかずの地名が今でも残るが、南部のそれは、祭神が豊来入彦と習合している。
その子孫が神功皇后に密かに呼ばれた竹葉瀬の君
1009:日本@名無史さん
20/10/02 18:14:40.08 .net
>>970
>女王國には南九州地域の投馬國も含まれますから、
それが追い詰められたあんたの言い訳だろ
史料的根拠はゼロだ
1010:日本@名無史さん
20/10/02 18:15:47.42 .net
関東には昔から大和とは別の王権の子孫らが潜んでいるみたいな伝承もあるだろ
御諸別王から始まる古代王朝やよ😃
半ば独立的な存在として君臨していたらし~からな
1011:日本@名無史さん
20/10/02 18:18:35.93 .net
>>961
>歪曲にならない。
>会稽の東方の揚州の管轄下の「江蘇省~臨海州」のほぼ中央部付近であり、
会稽の東に「揚子江河口域の上海付近」だなんて存在しない
本当は北なんだから
「北→東」の地理歪曲 だ
九州説は嘘つきで、いつも人を騙そうとするんだな
1012:日本@名無史さん
20/10/02 18:19:10.01 .net
>>970
投馬國は邪馬壹(臺)國よりも前に書いてあるから北側に位置する
計其道里が投馬國の最南端の位置になってしまったら、
書いた本人の地理観は間違っている
1013:日本@名無史さん
20/10/02 18:23:06.78 .net
>>965
いや、実際の地理にぴったんこ。
末盧→多久→江北→嘉瀬川河口→薩摩→屋久島→沖縄
このルートは、弥生時代に博多からゴホウラ貝を仕入れに行った行程とまったく同じ。
魏の使節団が倭国で仕入れた情報だろう。
もちろん、魏の使節団は幻の仙人郷・扶桑への行程を知るのが目的だった。
沖縄あたりにあるとする邪馬台国は、そうした古代中国人の強固な固定観念が作り出したもの。
1014:日本@名無史さん
20/10/02 18:23:08.00 .net
九州説の歴史歪曲は、ちゃんと学校に行った人間なら簡単に気付く程度の嘘だから
九州説が学問に戻れる日はもう来ない
1015:日本@名無史さん
20/10/02 18:26:16.27 .net
会稽東冶は九州説の致命傷
1016:日本@名無史さん
20/10/02 18:27:52.00 .net
>>930
ダメダメ。
佐多岬では、「陸行一か月」で着くところが説明できないよ。
1017:日本@名無史さん
20/10/02 18:27:56.51 .net
>>979
行程がゴホウラ貝仕入れルートなら国の比定には使えない
1018:日本@名無史さん
20/10/02 18:30:59.37 .net
>>982
日本には陸行1ヶ月出来る土地が無い
1019:日本@名無史さん
20/10/02 18:31:22.13 .net
>>981
邪馬台国の南に狗奴国がなけりゃならんのだし、狗奴国を吉野だとしても、吉野にそんだけの国はないし。
どうすんの、大和説は。
致命的だよね。
1020:日本@名無史さん
20/10/02 18:36:03.52 .net
古代安倍氏ってのは大彦の子供の武渟川を祖先としてるじゃん
大彦の娘の方の子孫だよ御諸別
1021:日本@名無史さん
20/10/02 18:36:57.42 .net
駿河あたりに見える安倍氏やろ
あの辺が拠点だったんか?😃
1022:日本@名無史さん
20/10/02 18:37:16.64 .net
>>984
だから、その陸行一か月の邪馬台国は幻の邪馬台国だちゅうの。
そして、古代の中国人は屋久島~沖縄あたりに大きな陸地�
1023:ェあると信じ込んでいたということなのよ。 その幻の地理観を90度北へ回して、その陸地が大和だと胸を張っているのが古代史音痴の大和説なんだけど。 勝手に90度回すなよな。
1024:日本@名無史さん
20/10/02 18:37:49.31 .net
>>984
>日本には陸行1ヶ月出来る土地が無い
有るよ。 @阿波
1025:日本@名無史さん
20/10/02 18:39:48.88 .net
>>940
>つまり「南至投馬國 水行二十日」と、
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」で
不彌國から九州島を通過するくらい南下しているという行程
いや、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている説明であり、
そして、「南至投馬國 水行二十日」は、途中移動の里数があった事の説明文言がないから、
不彌國からの側副傍線国の位置説明であり、
不彌國の次になる「南至邪馬壹國」は、
萬二千余里がほぼ終わっているし、途中移動の里数文言もないから、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國があった事になり、
また「女王之所都」の後の「水行十日陸行一月」のいう所要日数説明は、
萬二千余里は当然、その直前にある「女王之所都」という目的地に対する日数説明であるから、
出発地の「郡」からの所要日数説明であった、という事になる。
「
1026:日本@名無史さん
20/10/02 18:40:45.18 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
1027:日本@名無史さん
20/10/02 18:43:57.33 .net
>>988
紀伊半島も通り越す距離だぞ
1028:日本@名無史さん
20/10/02 18:44:35.83 .net
>>985
後漢書では「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」となっている
倭人特有の風習である卜骨は九州では北部九州の2か所で東の関東にまで濃厚に広がっているので
陳寿の南方に拡がる倭地の地理観が間違っている
1029:日本@名無史さん
20/10/02 18:45:03.19 .net
>>890 魏の1里は414m。 訂正する。
で、魏の1里は414mだと、伊勢湾から渡海千里はどこなんだい? 房総半島を越えた太平洋上になるんじゃないの? わははははは @阿波
1030:日本@名無史さん
20/10/02 18:45:32.35 .net
>>993
陳寿は記録をまとめただけ
1031:日本@名無史さん
20/10/02 18:46:40.04 .net
>>990
そこは佐多岬付近ではない
1032:日本@名無史さん
20/10/02 18:47:56.15 .net
新スレ立てました。
スレリンク(history板:1番)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
1033:日本@名無史さん
20/10/02 18:50:43.46 .net
>>945
>投馬国(ダウマコク)はやっぱ岡山の玉だろうな
「南≠東」などに拠って、×ね。
1034:日本@名無史さん
20/10/02 18:54:50.66 .net
>>981
なぜ?
九州ならどこでも東だろ
1035:日本@名無史さん
20/10/02 19:06:07.37 .net
>>973
実際の奴国から東へ百余里で不彌に着く。
この実際の不彌から「南へ水行二十日」の記述に合う地理は、しかしどこにもない。
合理的な解釈は、実際の邪馬台国へ行く道筋が末盧→伊都→奴→不彌の方向だったということ。
そして、その道筋の拠点名を幻の邪馬台国へ行く道筋に上乗せしたというだけの話。
ではなぜ、幻の邪馬台国への行程を書き、実際の邪馬台国への道筋の地名の一部は伏せたのかというと、
魏本国では、実際の邪馬台国の所在地よりも、会稽東冶の沖にある幻の邪馬台国の位置の方が重要だったということに尽きる。
そこが神仙郷であり、邪馬台国はその理想の神仙郷にあると信じる強固な固定観念のほうが大事だったということだよ。
その古代中国人の固定観念である幻の邪馬台国の地理観を、現代人が間違っている、ウソだと言っても始まらんということだな。
1036:日本@名無史さん
20/10/02 19:13:58.07 .net
邪馬台国畿内説 Part645
スレリンク(history板)
1037:日本@名無史さん
20/10/02 19:15:32.64 .net
お前らも早く邪魔しに行けよ
1038:日本@名無史さん
20/10/02 19:20:14.70 .net
>>993
後漢書の著者ハンヨウは、倭国王讃の使節団と面会できる立場にいた。
政治家であるとともに歴史家でもあったハンヨウは、倭国や邪馬台国の位置をその使節団に尋ねたはず。
その結果、大和からの使節団は自分たちの国に至る地理的ルートを教えたと考えると、ハンヨウの後漢書では倭国は大和にあたる位置にあると書かれている理由が分かる。
倭国についての地理的誤解は、このハンヨウの後漢書に始まるといえる。
1039:日本@名無史さん
20/10/02 19:20:40.35 .net
キチスレ連呼荒らししている奴のスレなんかいくら荒らしたって何の問題もないぞ
1040:1001
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