邪馬台国畿内説 Part644at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part644 - 暇つぶし2ch65:1
20/09/28 15:50:55.96 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎―黄鐘律管が容積・重量の基準―になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。

 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

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20/09/28 15:51:51.32 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

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20/09/28 15:53:06.04 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

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20/09/28 15:54:00.19 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

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◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

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20/09/28 15:56:22.27 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

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20/09/28 15:57:17.90 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 


72:弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。 概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。 律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77 Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!  前方後円墳体制など、夢想だ! A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。  萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。  当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。  奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。 前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。 こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。



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◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

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◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

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20/09/28 16:00:10.08 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

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◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

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◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

78:1
20/09/28 16:02:49.55 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

79:1
20/09/28 16:05:27.52 .net
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
URLリンク(i.imgur.com)

80:1
20/09/28 16:07:26.57 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

81:1
20/09/28 16:08:48.81 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する


82:以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。  ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。 改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。



83:1
20/09/28 16:09:48.69 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

84:1
20/09/28 16:11:01.32 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

85:1
20/09/28 16:11:59.00 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

86:uz
20/09/28 16:27:22.84 .net
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
  毎度の事だがね、クイズ番組じゃないんだから、
当たってりゃエエってもんじゃない。

87:コテ略
20/09/28 18:30:41.52 .net
>>(前スレ)997-1000
スレリンク(history板:997番)-1000n
> 発掘してもいないのに、どうやって分かるんだ?//
  発掘成果が蓄積しても、なにも分からん虫けらがオ〆だろ、
アンポンタン。  わははははは
無意味な連投で粗すなよノータリン

88:日本@名無史さん
20/09/28 18:35:33.91 .net
新スレ立てました。
スレリンク(history板:1番)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

89:日本@名無史さん
20/09/28 18:36:34.12 .net
>>74は例の荒らしによる誘導なので無視で。

90:日本@名無史さん
20/09/28 18:38:51.34 .net
難升米は12世紀写本上の字ズラ、
原本や古い写本は「難斗米」で、ナートミーと読む。つまり、後世云うところのナカトミである。

91:日本@名無史さん
20/09/28 18:49:46.90 .net
>>907
>邪馬台国は北部九州一帯で縄文時代から存在し弥生時代に畿内まで遠征を完了しているね
その中国学者らは、どこの学者なのか?は知らんが、
「邪馬台国」という中国文献にも存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っており、
また、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」
の記述は、東渡海千餘里の後に南へ陸行する記載であるから、
侏儒國は南四国の足摺付近にある事になり、従って四国の記載であるのに、
四国が倭地に全くなっておらず、
その点でも欠陥論である。

92:日本@名無史さん
20/09/28 18:52:13.03 .net
>>73
>発掘成果が蓄積しても、なにも分からん虫けらがオ〆だろ、
倭国(阿波)の分家の分際で頭が高い!
碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。  わははははは   @阿波   

93:日本@名無史さん
20/09/28 18:52:37.35 .net
>>76
3世紀前半はまだ部族の時代であり、倭人伝に登場する人物名は皆姓ではなく、名前であると考えられる。
なので、難升米、あるいは難斗米は名前であって、姓を表していないとするのが妥当。
というわけで、この時代に中臣(なかとみ)というような姓はまだ存在しないので、難斗米を中臣とするのはいかがなもんか。

94:日本@名無史さん
20/09/28 19:05:21.83 .net
その通りだ、
三世紀に難升米と呼ばれていた氏が、後世(大和朝廷の頃)に中臣として記録されたという主旨だ。

95:日本@名無史さん
20/09/28 19:12:47.67 .net
>>73
>発掘成果が蓄積しても、なにも分からん虫けらがオ〆だろ、

倭国(阿波)の分家の分際で頭が高い!
碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。  わははははは   @阿波   

96:日本@名無史さん
20/09/28 19:13:05.46 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)

馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

97:コテ略
20/09/28 19:15:07.73 .net
>>78 > 碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に//
  そりゃ、残余の大和湖には、何もなかったんだろうよ。
スレリンク(history板:155番)
> 本州のことを秋津洲、蜻蛉島なんて称するのも//
オ〆ってさ、蜻蛉のエサのムシケラなんだろ。身の程弁えな。
ここで好きなだけやってればエエんだよ。
スレリンク(history板:794番)

98:日本@名無史さん
20/09/28 19:42:06.02 .net
>>926
>>史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の理屈など、
これまでに数え切れない位書いて来てある。

>とか空虚な美辞麗句で自分を飾り立てるだけで中身を絶対に言おうとしないのは
帰納も推論も 実はなーんもやってない証拠

とか空虚な美辞麗句や格好いい文言で自分を飾り立てるだけで、
東大理系博士号男らが、
これまでの「邪馬台国畿内説」スレの全投稿を調べようとしないのは
実は、まともな議論なんてなーんもやろうとしてない証拠。
昔、教主さまの前での坊主らの議論や禅問答で、
何でも「根拠は?」や「何故だ?」と議論相手と言い合いをして、
無限に繰り返される議論にして、
議論に勝とうとした坊主と同じ・・・・アホ。

99:日本@名無史さん
20/09/28 19:47:50.65 .net
>>939
>祇園山古墳外周裾部から出たのは西新式土器だな(ウィキ「祇園山古墳」の「副葬品」の項目の一番下あたり)。それも古相だという。
ちょっと丁寧に西新町式土器と言ったまでよ。
西新式土器以前の土器は出てないというから、この墳丘裾は間違いなく3世紀前半後葉に造られたものだよ。
卑弥呼が死んだ頃と重なる。
ふーん、成程。

100:日本@名無史さん
20/09/28 20:20:00.06 .net
>>956
>むろん、大和の邪馬台国は、女王国として既に大きな盟主になっていたから、
優遇する必要ありと見做された、という事だよ。箸墓は卑弥呼墓で確定だ。
むろん邪馬台国なんて存在もせず、大和を意味させるための嘘つき騙しの詐欺文言であり、
箸墓説も、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×だ。

101:日本@名無史さん
20/09/28 20:59:26.84 .net
箸墓が卑弥呼陵なら卑弥呼=百襲姫という事だから、百襲姫の甥の息子の崇神天皇は
3C初め頃に生まれた事になるぞ
大王に即位したのは249年頃の40才前後という事になる
早すぎないか?
やはり箸墓は台与陵で台与=百襲姫と考えた方が崇神天皇が3C末に生まれて
4C前期中頃に大王に即位した事になるから全て整合すると思うんだが

102:日本@名無史さん
20/09/28 21:12:39.09 .net
.

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません

.

103:日本@名無史さん
20/09/28 21:23:28.09 .net
>>87
「大きいから天皇陵」  単細胞の思考回路。 「忌部はん」 のお墓を有難がる隠れ忌部。  わははははは   @阿波

104:uz
20/09/28 21:40:35.02 .net
>>87
  そんなもん、日本書紀編者に云えばエエだろ、編年係累が合いませんぜ、とさ。
> 百襲姫の甥の息子の崇神天皇は//
  卑弥呼とミマキに血縁なぞないだろ。
> 大王に即位したのは249年頃の40才前後という事になる//
  ミマキがその頃、トヨたんが女王になった頃にさ、
最高権力者になっても構わんのだが、まぁ、もう少し後だろ。
13歳の娘なら、実権持ったのは、族長なんだろうからさ、
これとの遣り取りも考えにゃならんしね。
それとさ、ミマキ(崇神)の即位って、疑わしいと思うんだがね。
まぁ、高祖・宣帝と呼ばれた司馬懿仲達が、即位なんかしてないのと似た様なもんだ。
> やはり箸墓は台与陵で台与=百襲姫と考えた方が崇神天皇が3C末に生まれて
4C前期中頃に大王に即位した事になるから//
  始祖と思しきミマキはさ、前王朝・邪馬台国の卑弥呼・トヨたんと、同時代人だよ。
> 全て整合すると思うんだが//
  全てが整合しない。
>>89 > 「大きいから天皇陵」  単細胞の思考回路//
  大きいのが無いから困ってそれ、ってオ〆の膿味噌は無細胞なんだよ、虫けら。

105:コテ略
20/09/28 21:46:26.84 .net
>>86 > 史料事実や史料実態に拠って、×だ//
  史料事実や史料実態に拠る事のないオ〆の膿味噌は、
未来永劫ペケなんだよ。莫迦は身の程を弁えな。

106:日本@名無史さん
20/09/28 22:01:08.98 tP20NN6GQ
邪馬台は 地頭(じあたま)調べる 判別紙 無論畿内が バカ者だw
 (詠み人知らず)

107:日本@名無史さん
20/09/28 22:33:34.75 zYX6/jwRb
URLリンク(emaxis.jp)

108:日本@名無史さん
20/09/28 23:14:15.08 zYX6/jwRb
URLリンク(www.nikkei.com)

109:日本@名無史さん
20/09/28 22:17:57.13 .net
>>90
何か知性が低そうだなw
ぜんぜん真相を追求しようとする姿勢が感じられない
オレは頭を使っているだけじゃないぞ
霊感、インスピレーションも使っている
オレには箸墓に卑弥呼を感じない
箸墓を見るたびに霊感が違う違うとずっと言っているのだ
ところが初めて黒塚古墳を見たときは驚いた
とつぜん稲妻に撃たれたようなもの凄い衝撃が訳分からず体に走り、
霊感がここだと言ってくる
オレが黒塚古墳を推しているのは霊感がここだと言ってるから

110:日本@名無史さん
20/09/28 22:46:41.15 .net
>>95
ヨーロレンサンダー!

111:uz
20/09/28 23:01:55.39 .net
>>95 > オレは頭を使っている//
  帽子や鬘掛けとしてですか? それとも、豆腐の角を丸める為にか?
> だけじゃないぞ 霊感、インスピレーションも使っている//
  事鬼道能惑衆わけですね。でもさ、惑わされてるのはご自身でしょうね。
> オレが黒塚古墳を推しているのは霊感がここだと言ってるから//
  無理して古くする必要はないね。径100歩にも足りないし。
全長130mでも少し足りないし、後円部だけでは猶更だ。
> 真相を追求しようとする姿勢//
  鬼道といっても、それは形式を整えてるだけでしょうよ。
まぁ、威厳を保つための法服みたいなもんだ。
ヒミちゃんはさ、重要な判断を行うのが職務だったと思うんだがね。
むろん、持ち込まれた案件の真相を追求した上での判断をせねばならなかった。

112:日本@名無史さん
20/09/28 23:03:20.51 .net
>>80
襲名か。

113:日本@名無史さん
20/09/28 23:14:48.00 .net
>>97
ま、おまえみたいな頭もない、霊感もないパッパラパーに何を言われようが
どうでもイイけどなw
笠井新也の請け売りを墓場まで持っていってくれ
オレは知識と霊感を駆使して真実をしっかりと掴む

114:日本@名無史さん
20/09/28 23:15:01.36 .net
>>96
古 !

115:コテ略
20/09/28 23:28:33.39 .net
>>99
> おまえみたいな頭もない、霊感もないパッパラパーに何を言われようが
どうでもイイけどなw//
  霊感なんぞないし、家伝秘伝の朧豆腐を作る頭もないなぁ。鳴かんでもエエよ。
> 笠井新也の請け売りを墓場まで持っていってくれ//
  箸墓以外を卑弥呼墓にするのがライフワークなんですかね。

116:日本@名無史さん
20/09/28 23:30:33.14 .net
黒塚古墳を見てビビビと来た奴はいないのか?
霊感や霊能がある奴はいないのか?

117:日本@名無史さん
20/09/28 23:32:12.35 .net
>>80
奴佳鞮ちゃうんか

118:日本@名無史さん
20/09/28 23:37:25.91 .net
中臣氏なら梨迹臣命じゃないのか

119:コテ略
20/09/28 23:42:09.71 .net
>>95 > もの凄い衝撃が訳分からず体に走り、霊感がここだと言ってくる//
  よくワカランのだが、こんな感じなのか?
URLリンク(w.atwiki.jp)
>おれも何をされたのかわからなかった
>>102 > 黒塚古墳を見てビビビと来た奴はいないのか?//
  で、ビビッどしないあなたが悪いんですよ、というワケ?
最近は黒塚古墳ではなく、銀英伝説とコラボしてる様だがね。

120:日本@名無史さん
20/09/28 23:55:38.75 .net
>>105
もうおまえには用はない
どうぞ70年前の笠井新也の請け売りを墓場までw

121:日本@名無史さん
20/09/29 00:17:35.57 .net
やっぱ五斗米道だな、邪馬台は山泰だ、解った。

122:コテ略
20/09/29 00:30:34.57 .net
>>106 > もうおまえには用はない//
  だからさ、鳴かんでもエエだろ。それとさ、刺身にタンポポのせとけよな。
URLリンク(ameblo.jp)

123:日本@名無史さん
20/09/29 00:49:57.15 .net
>>108
だから、もうおまえには用はないんだわ
逆に幾ら交信したって自分以上の解釈をもらえない奴に
おまえ用あるの?

124:日本@名無史さん
20/09/29 01:33:15.44 7j2gXQZxy
URLリンク(sdin.jp)

125:日本@名無史さん
20/09/29 05:29:46.39 .net
>>103
ナトメ→ナカトミ
ナカテ→ナカトミ
漫才か。

126:日本@名無史さん
20/09/29 05:53:54.44 .net
>>87
>箸墓が卑弥呼陵なら卑弥呼=百襲姫という事だから、
百襲姫の甥の息子の崇神天皇は3C初め頃に生まれた事になるぞ
大王に即位したのは249年頃の40才前後という事になる 早すぎないか?
やはり箸墓は台与陵で台与=百襲姫と考えた方が崇神天皇が3C末に生まれて
4C前期中頃に大王に即位した事になるから全て整合すると思うんだが
天皇なんてまだおらず、台与も存在もせず、
箸墓の卑弥呼や壹與の墓論も、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×だ。

127:日本@名無史さん
20/09/29 06:02:31.38 .net
>>88
炭素年代に拠る失敗計測と、
他国学者や大和説学者以外の学者らとの共同研究を拒否して、
大和説という虚偽の宣伝をしている大和説詐欺師に、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」の証拠提出を、
無数に求めましたが、その証拠が出てきた事はありません

128:日本@名無史さん
20/09/29 06:12:10.91 .net
>>91
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や、史料批判に拠って帰納的確率的に得られた史料実態に、拠る事のない、
嘘吐き騙しのオ〆の膿味噌は、
未来永劫ペケなんだよ。
莫迦は身の程を弁えな。

129:日本@名無史さん
20/09/29 06:18:30.42 .net
>>72
>オレは頭を使っているだけじゃないぞ
霊感、インスピレーションも使っている
何か知性が異常に低そうだな
ぜんぜん、史料事実や、史料批判をして帰納的確率的な推論で得られた史料実態からの、
真相を、追求しようとする姿勢が感じられない

130:日本@名無史さん
20/09/29 06:19:24.02 .net
>>86
>むろん邪馬台国なんて存在もせず、大和を意味させるための嘘つき騙しの詐欺文言であり、
そんなことのために古代中国人が
「邪馬臺」なんて書くわけなだろ
あんた、変な政治思想で歪んでるよ

131:日本@名無史さん
20/09/29 06:24:10.01 .net
>>97
>>オレが黒塚古墳を推しているのは霊感がここだと言ってるから
  
>無理して古くする必要はないね。径100歩にも足りないし。
全長130mでも少し足りないし、後円部だけでは猶更だ。
黒塚は、
「南≠東」は「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料実態に拠って、
卑弥呼の墓には、始めから×だ。

132:日本@名無史さん
20/09/29 06:30:57.95 .net
>>102
>黒塚古墳を見てビビビと来た奴はいないのか?
霊感や霊能がある奴はいないのか?
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料批判に拠って得られた史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
霊感や霊能大和説学者や大和説者や阿波説者は、
全員、精神的に異常な・・・・アホだな。

133:日本@名無史さん
20/09/29 06:34:32.84 .net
>>107
>やっぱ五斗米道だな、邪馬台は山泰だ、解った。
邪馬台なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男も、・・・・アホ詐欺師だな。
解った。

134:日本@名無史さん
20/09/29 06:44:38.43 .net
>>115
×じいさん、あんたもな

135:日本@名無史さん
20/09/29 06:49:30.32 .net
>>116
>>むろん邪馬台国なんて存在もせず、
大和を意味させるための嘘つき騙しの詐欺文言であり、
>そんなことのために古代中国人が「邪馬臺」なんて書くわけなだろ
古代3世紀の中国人の陳寿は「邪馬壹國」と書いたのであり、
5世紀の范曄は、「邪馬壹国」の中に含まれる別の地域概念として、
「邪馬臺國」を書いたのであり、
「邪馬壹國≠邪馬臺國」であり、「邪馬壹國⊃邪馬臺國」であり、
それを、梁書以後の史家が「邪馬壹國=邪馬臺國」とミス判断をしてしまった、
という訳だ。
あんた(おそらく東大理系博士号自称男)は、
変な政治思想で頭や脳が歪んでるんだよ

136:日本@名無史さん
20/09/29 07:05:51.47 .net
アホの邪馬台国九州説が福岡県にある石塚山古墳を盗掘した。愚か者め!

137:日本@名無史さん
20/09/29 07:09:54.01 .net
邪馬台国は無くて倭国よ、正式名称は、陳寿が山泰とつけただけでしょ、五斗米道。

138:longinus_bouz
20/09/29 07:29:35.05 .net
>>121 > 古代3世紀の中国人の陳寿は「邪馬壹國」と書いたのであり//
  それはね、張政(というより、曹爽)が、邪馬臺國なんて云ってるけど、
ありゃ邪馬壹國なんですよ藁、ってね、一種の戯言だったんだよ。
> 梁書以後の史家が「邪馬壹國=邪馬臺國」とミス判断をしてしまった//
  ミスなんかしていない。戯言をきちんと読み取っただけだ。
序に云えば、隋書の俀国とか邪靡堆なんてのも同じだよ。
ありゃ倭ではなく俀であり、邪馬臺じゃなく邪靡堆ですわ藁、って事だ。
俀ってのは佞臣の佞と同じであり、靡ってのがナビクという意味であり、どっちも阿るといったニュ


139:アンスだろ。 王については、俀王姓阿毎字多利思北孤なんて、苗字には阿なんて振ってるんだしさ。 むろん、女性君主はチョッと・・・と云われて、王妻號雞彌 後宮有女六七百人、なんて芝居に及んだことを嘲ったんだろうさ。 序に云えば、遣隋使を送った推古の事を新唐書が雄古なんて書いてるのも同じだよ。 アンタは男だったんじゃないのかよ藁、って云ってるんだよ。 戯言に踊らされるノータリンにしか過ぎないんだよ、オ〆はな。



140:日本@名無史さん
20/09/29 07:36:56.35 .net
>>103
奴佳鞮は官の名称
難升米(ナートミー)は氏の名称

141:日本@名無史さん
20/09/29 07:39:11.94 .net
何斗米かー?  五斗米だー!、

142:日本@名無史さん
20/09/29 07:41:44.52 .net
肥御子やしな

143:日本@名無史さん
20/09/29 07:42:27.11 .net
場所がもろに表してるじゃん
肥御子のいたとこは肥の国

144:日本@名無史さん
20/09/29 07:42:46.79 .net
否定はせんよ😬

145:日本@名無史さん
20/09/29 08:04:43.99 .net
>>121
>古代3世紀の中国人の陳寿は「邪馬壹國」と書いたのであり、
>5世紀の范曄は、「邪馬壹国」の中に含まれる別の地域概念として、
>「邪馬臺國」を書いたのであり、
>「邪馬壹國≠邪馬臺國」であり、

あんたの宗教はいらないよ
古代中国人が「邪馬臺」って書いたんだろ
だから「むろん邪馬台国なんて存在もせず、 大和を意味させるための嘘つき騙しの詐欺文言であり」
とか言い張ってるあんたが詐欺師か狂人なんだよ

146:日本@名無史さん
20/09/29 08:10:33.09 .net
>>122
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しや、
存在もしなかった「邪馬台国」や「畿内」や「天皇」の造作の、
アホの卑弥呼大和説が、
奈良県にある前方後円墳を卑弥呼の墓に造作した。
愚か者め!

147:日本@名無史さん
20/09/29 08:26:34.90 .net
>>131
ハイハイ
あんた、変な宗教にハマってて異教徒を調伏するのが自分の仕事とか思ってんだろ
醜いよ

148:日本@名無史さん
20/09/29 08:31:56.60 .net
>>124
>longinus_bouz
おや?、このネームに記憶があるな。
Yahooで見たような記憶があり、大和説を張っていたような記憶もあり、
Yahooでも、誰にも相手にされなかったような記憶もあるな。
>それはね、張政(というより、曹爽)が、邪馬臺國なんて云ってるけど、
ありゃ邪馬壹國なんですよ藁、ってね、一種の戯言だったんだよ。
>ミスなんかしていない。戯言をきちんと読み取っただけだ。
序に云えば、隋書の俀国とか邪靡堆なんてのも同じだよ。
ありゃ倭ではなく俀であり、邪馬臺じゃなく邪靡堆ですわ藁、って事だ。
俀ってのは佞臣の佞と同じであり、靡ってのがナビクという意味であり、どっちも阿るといったニュアンスだろ。
王については、俀王姓阿毎字多利思北孤なんて、苗字には阿なんて振ってるんだしさ。
むろん、女性君主はチョッと・・・と云われて、王妻號雞彌 後宮有女六七百人、なんて芝居に及んだことを嘲ったんだろうさ。
序に云えば、遣隋使を送った推古の事を新唐書が雄古なんて書いてるのも同じだよ。
アンタは男だったんじゃないのかよ藁、って云ってるんだよ。
自説に都合の悪い史料事実を、口先だけで否定抹殺したって、誰も信用せず、
誰も相手にもしてくれないんだよ。
必要な論理は、史料事実の信頼性の史料批判をして、
それらからの帰納的確率的な推論をする事なんだよ。
>戯言に踊らされるノータリンにしか過ぎないんだよ、オ〆はな。
そうか。「オ〆」男は、お前だったのか。

149:日本@名無史さん
20/09/29 08:40:17.68 .net
>>133
この反日朝鮮人有害工作活動員は
Yahooを締め出されました。

150:日本@名無史さん
20/09/29 08:41:42.81 .net
>>130
>>古代3世紀の中国人の陳寿は「邪馬壹國」と書いたのであり、
5世紀の范曄は、「邪馬壹国」の中に含まれる別の地域概念として、
「邪馬臺國」を書いたのであり、「邪馬壹國≠邪馬臺國」であり、
>あんたの宗教はいらないよ 古代中国人が「邪馬臺」って書いたんだろ
3世紀の陳寿は、女王之所都の国として「邪馬壹國」と書き、
5世紀の范暢は、大倭王の居地として「邪馬臺國」と書いたんだよ。
「女王之所都の国」と「大倭王の居地」とは、違う概念なんだよ。
だから、
「むろん邪馬台国なんて存在もせず、 大和を意味させるための嘘つき騙しの詐欺文言であり」
とかの、史料事実を否定曲解しているあんたが、
詐欺師か狂人なんだよ

151:日本@名無史さん
20/09/29 08:44:48.35 .net
>>132
ハイハイ
あんた、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの変な宗教にハマって、
九州説者を調伏するのが自分の仕事とか思ってんだろ
醜いよ

152:日本@名無史さん
20/09/29 08:48:57.00 .net
>>135
日本の権力には従わないスローガンを掲げ
自分だけが絶対に正しいという日本には不要な人種の会員

153:コテ略
20/09/29 08:51:02.45 .net
>>133
> 自説に都合の悪い史料事実を、口先だけで否定抹殺したって、誰も信用せず、
誰も相手にもしてくれないんだよ//
  はァ? 人様の云ってる事に矛盾でもあるってなら、サッサと書きゃいいだろ、ノータリン
> 必要な論理は、史料事実の信頼性の史料批判をして、
それらからの帰納的確率的な推論をする事なんだよ//
  言葉が地に付いてないね。
> おや?、このネームに記憶があるな。Yahooで見たよう//
  ン? もうHNなんて忘れちまったが、
校勘だの何だのと連呼だけしてたお莫迦さんくらいかね。

154:日本@名無史さん
20/09/29 08:53:36.95 .net
あれは、ズラコクだか、ズルコクだかじゃねえの

155:コテ略
20/09/29 08:55:31.39 .net
>>135 > と書いたんだよ//
  戯言に踊らされるノータリンにしか過ぎない、
>>124で書いた通りだ莫迦物(ママ)が。

156:日本@名無史さん
20/09/29 10:07:03.25 .net
>>1
纏向遺跡の頃の卑弥呼=姫巫女は、神武と連立してた東出雲王家系の磯城登美家。
モモソ姫は、弟がいて世話をしてると書かれた方の卑弥呼で、病死した卑弥呼とは別の時代の卑弥呼。
160年代の第一次物部東征でクニクル大王政権が倒され、息子の大彦も奈良を追われた。
当時の三輪山祭祀は、登美家系統の日弘ヒーティング 太田氏。弟は太田太根子と出雲の旧家では伝承されている。
240年代の第二次物部東征の卑弥呼とは別の卑弥呼。
故に、どの時代の卑弥呼を邪馬台国と認識するかで、機内説と九州説は別れる。
弟に世話をされてた方の卑弥呼の時代を邪馬台国とするのなら畿内説になる。
古墳は箸墓古墳。240年より古い年数になってる筈だよ。
第一次物部東征では、連立政権相手の姫巫女が居なかった為、結局三輪山祭祀を維持する必要に迫られ、婚姻も進み、皇女の権威に吸収されてしまい、終結を迎えたとされる。

157:日本@名無史さん
20/09/29 10:16:47.07 .net
>>1
魏書に言う物部イニエや、初代武内宿禰の頃の卑弥呼は九州のウサ族の出で、領地を広げる物部氏に恭順の意を示す為に差し出された姫巫女。
230~240年に第二次物部東征が実行に移されるが、物部イニエは九州で亡くなる。
ウサの姫、豊玉姫は、意思を継ぎ、東征を実行に移すが、吉備王国の残党との戦いで数年を要し、奈良に着く前に病死。亡骸は厳島にて荼毘に付された。
後に、ウサ八幡に遺骨は届けられた。
あの神社は記紀に書かれては居ない事実をひた隠しにして来ており、3つの拝殿のうち、真ん中を空位として徹底的に隠蔽していた時期がある。
次に魏の張政が正式に卑弥呼と認定したのが娘の豊来入姫=トヨ。
弟は応神天皇に繋がる豊来入彦。
2回目の物部東征では、卑弥呼が用意され、王権と信仰の権威の両方を打ち立てての戦いだった。
違いは、出雲太陽の女神に対し、月の女神を奉じていた。
ちなみに、神功皇后の実家の息長家も月読系の信仰だったと言われている。

158:日本@名無史さん
20/09/29 10:21:52.74 .net
あんまり記紀を信じない方がいいと思うけどねぇ、海山彦も左遷右遷で円を描く天円思想の話だよ、作り話が多すぎる教本だよ。

159:日本@名無史さん
20/09/29 10:26:54.71 .net
>>1
物部軍は、連合を組んでおり豊国軍、播磨のヒボコの子孫、タジマノモリ、武内宿禰と、弟の美味内宿禰が主要メンバー。
タジマノモリは、出雲を攻めたあと物部イクメより先にヤマト入りした。
これは武内宿禰の裏切りに遭い、生駒山地に足止めを食らったからだと言い伝えられている。
この時間差が深刻な問題を起こし、最終的に物部イクメは我が物顔で三輪山に居座るタジマノモリと、豊国兄弟を追い出す必要に迫られる。
イクメは何と、前政権の娘、ヒバス姫と、三輪山の姫巫女であるサホ姫を妻としてしまう。
これにより豊国の兄妹と決定的な亀裂が生じ、魏の張政により次の卑弥呼の認定を受けたことも重なり、魏との付き合いが無くなる原因になった。
魏書に出てくる240年近辺の邪馬台国は、日向の都万国のことであり、畿内では無くなる。
どの時代を邪馬台国の時代と認識するかで結果は異なる。
同じ卑弥呼と認識するから永久に答えは出ない。

160:日本@名無史さん
20/09/29 10:31:44.35 .net
とうふノマスク情報開示求め提訴
一部に「単価1023円」の記載も
2020/9/28 12:38 (JST)9/28 22:53 (JST)updated
©一般すこ法人共同ちゅちょ社
政府が新型コロナウイルス対策として全国の世帯に配布した布マスク「とうふノマスク」について、各業者に発注した枚数と単価を開示しないのは、政策の是非を議論できず不当だとして、神戸学院大の塩田恵太郎教授が28日、国に情報の開示などを求め大阪地裁に提訴した。

161:日本@名無史さん
20/09/29 10:32:59.90 .net
>>1
記紀では二回に渡る物部東征を一つにまとめ、両方とも瀬戸内海を通ったことにし、70年くらい前に大和入りした熊野勢を、別働部隊に仕立て上げた。
その時にウマシウチ宿禰名前を弄ってウマシマジを書き込んだ。
記紀をベースにすると、東征に関わった旧家の伝承とは絶対に時期的に合わなくなる。
そこに記紀原理主義者が入り込むともう収拾は不可能である。
阿波さんのちょっかいなど可愛い物である

162:日本@名無史さん
20/09/29 10:33:58.78 .net
いい加減、空想をダラダラ書き込むのやめろよ

163:日本@名無史さん
20/09/29 10:41:25.35 .net
それにしても老婆談と、謎の日本昔話、
むかーしの中国(日本の中国地方ではないw)の話?
同じような気がするんだけど。

164:日本@名無史さん
20/09/29 10:41:47.01 .net
>>1
魏書に書かれている卑弥呼には時代の差があるのだが、第二次物部東征の物部連合は、伊都国の国の出先機関を利用し、我々はヤマトの国の人間だと偽り、大知事物部東征後も依然として強い勢力を持っていた大彦勢の作った国、狗奴国をブチ倒す為に大義名分をくれと要求。
それで8本の旗と鏡をもらう。ウサが八幡宮になったのはそれが理由。
魏が騙されたことにより、二つの邪馬台国が一つに書かれてしまう原因になった。

165:日本@名無史さん
20/09/29 10:44:59.13 .net
144
病気

166:日本@名無史さん
20/09/29 10:46:58.14 .net
>>1
記紀が編纂されたのは720年近辺。
邪馬台国の時代は今で言えば、江戸時代レベルの話なので、当時からすれば遡ることは用意。神話にするような話ではない。
元々古事記は隠され、一般の目に触れることはなかった。
それが変わったのが明治。
国家神道の方針のもと、一般的に研究されるようになった。
ホント、つい最近のこと。
記紀を編纂した、藤原不比等や、柿本人麿、そして出雲の現出雲大社の宮司である千家も、こんなに現代人が揉めるとは思ってもみなかった事であろう。

167:日本@名無史さん
20/09/29 11:00:42.23 .net
律令制に伴って整備した神話であるし
藤原氏にとって不都合なことは書かないし
3世紀には影も形もない豪族でも記紀編纂時に有力なら繋げる

168:日本@名無史さん
20/09/29 11:03:01.40 .net
>>16
纏向遺跡から九州式土器が出た時に結構な騒ぎがあって、テレビにもなり、九州から何らかの勢力が移転してきたのではと番組にもなったね。
日本の複数の旧家はそれを物部東征の時代としている。
出雲系の祭祀は、拝みどころとして富の霊璽を三輪山の東に持ってきていたが、豊国軍に追い出されたことにより祭祀が続けられなくなり、霊璽を移転。
これが、三輪山の霊璽が二つに増えてしまった理由らしい。
三輪山の東には現在でも出雲地区があり、ダンノダイラの磐座でひっそりと信仰を続けていた。
東出雲の出身の野実宿禰は最終的に三輪山から豊国軍を追い出すことに成功するが、出雲地区の12神社では今でも野見宿禰の相撲の故事を伝え、顕彰している。
この地区の人々も相当にいじめられたらしく、昭和40年代になってポツリポツリと伝承を話すようになったことが今でもWEBで見ることができる

169:日本@名無史さん
20/09/29 11:05:45.05 .net
それと米(英?)などの小説、映画とか、
ほんとーは日本の話なのかな。

170:日本@名無史さん
20/09/29 11:15:18.69 .net
>>21
下記の事は伝承を伝える旧家も言及してた。
魏に直接朝貢し、魏書に書かれてしまった物部イニエを、ひた隠しにし、崇神天皇に当てはめた。
垂仁天皇イクメ王のつぎ、物部政権第二代では政権基盤が弱く大王が直接出向いて戦い、税金を納めろと回ったのが問題視され、架空のヤマトタケルを作り出し、御子がやったことにした。
持統天皇は、役職を作り、ヨキコト何某司を組織し、万世一系を作り出した。
江戸時代程度の遡りを、神話とまで誤魔化した。
これは、大陸に対しては日本の独立性を主張する為に非常に重要なことであってやむなき事であった。
独立のきっかけを作ったのが、魏と手を切った、ヤマト乗っ取りの渡来人、物部氏であった事は皮肉である。
しかし、この万世一系のペテンのおかげで、朝鮮半島のように9回も土下座の礼をしなくとも日本が大陸と付き合えるようにった。
〉A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

171:日本@名無史さん
20/09/29 11:21:34.14 .net
『天財若子』
むかーし(かみよ?)の芸能関係の話、
警官、軍人でもないような話もしているし。

172:日本@名無史さん
20/09/29 11:24:54.03 .net
『于禁』
ハートマン軍曹?演じている人物など、なぜか同じような話。

173:日本@名無史さん
20/09/29 11:38:32.48 .net
>>62
三角縁神獣鏡は、大陸の研究者によっても日本製だと言及されているね。
しかし、突き詰めると邪馬台国時代、第二次物部東征の時代と少し年代が合わない。
旧家の伝承によると、初代武内宿禰が、大陸から鏡職人と鋳型を持ち帰ったらしい。
当時の魏が道教を鬼道として既に禁止にしてた事と関係があるのだろう。
魏の国からは100枚しか貰ってない鏡なのに、神獣鏡は400枚も出てるのはそう言う事らしい。
初代武内宿禰は、東征の際に途中から大和側に鞍替えした方が最後まで物部イクメ王に恨まれ、刺客を差し向けられるが前政権の娘、イクメ王の妻であるヒバス姫により殺害を免れ、彼は出雲に逃げ込んだとされる。
後に出雲から後妻さんを貰い、武内臣太田根を名乗る。
弟のウマシウチも後に出雲にやってきて後に地名が宇治に変わったとされる。
武内宿禰の古墳は弟が作ったとされ、神原遺跡からは景初三年の刻印が確認された。
大陸の鏡である花


174:文鏡も大阪では景初三年の刻印が刻印されたものが発見されている。 魏書の景初二年のことであろうか? 魏ではこの年戦いがあったので、景初2年は、3年の間違いではないかとも言われてるね。



175:日本@名無史さん
20/09/29 11:47:53.72 .net
日本のジンム(不明)、それ以前の話?先遣隊だという話も正解。
とあるスレがあるんだけど、そういう話ばかりしている人がいたり、
たしか、とあるKPOPスレw
なんで知っている人がいるんだろう。

176:日本@名無史さん
20/09/29 11:55:11.00 .net
ほんとーに、そういう話ばかりしていた。
中国の人なのかな?それとも、どこかの工作員、職員(元職員)?

177:日本@名無史さん
20/09/29 12:00:07.62 .net
あと謎の作品『日本テレビ版  三国志  于禁』

178:日本@名無史さん
20/09/29 12:16:57.03 .net
あのガンダムの曲と同じだしな、駆け抜ける嵐?

179:日本@名無史さん
20/09/29 12:35:13.80 .net
畿内説宣伝係の引きこもり奥山は夜中しか息してませんあわれ

180:日本@名無史さん
20/09/29 12:46:40.59 .net
>>163
ウソツキ
昼間にスレ立ってんだろ

181:日本@名無史さん
20/09/29 13:14:52.09 .net
>>164
畿内説スレは自動で立てている、夜ふて寝してても、昼うたた寝していても立つ。

182:日本@名無史さん
20/09/29 13:41:59.58 .net
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!

.

183:日本@名無史さん
20/09/29 15:28:41.19 .net
徐福なんて来てやしないよ、里すら知らないんだから、面白ろ話。

184:日本@名無史さん
20/09/29 15:46:22.41 .net
徐福は出雲風土記と記紀により、藤原氏と千家果安によってスサノオに書き換えられたもん

185:日本@名無史さん
20/09/29 15:52:03.34 .net
徐福の手下だった千家にとって出雲大社の主祭神をスサノオに書き替えるのは悲願だからね

186:日本@名無史さん
20/09/29 15:59:29.24 .net
>>168-169
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、その衣食住の生活に関する
中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと
瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と
龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
日常食の蒸し餃子やワンタンは?

で、徐福集団が渡来定着したと提唱している頭のおかしな日本の考古学者の論文は?

.

187:日本@名無史さん
20/09/29 16:02:10.60 .net
>>170
その前に、千家の事と、出雲大社のことすら知らないような奴に物を言う資格はないのでは?

188:日本@名無史さん
20/09/29 16:03:32.55 .net
昼間は論破されまくりなので夜中しか荒らし活動が出来ない低IQのキナイコシあわれ

189:日本@名無史さん
20/09/29 16:09:15.45 .net
>>171
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと
瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と
龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
日常食の蒸し餃子やワンタンは?

で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がファンキーな
考古学者の論文は?

早く言えよ五毛党チンコロ

190:日本@名無史さん
20/09/29 16:19:53.39 .net
>>173
その前に、千家の事と、出雲大社のことすら知らないような奴に物を言う資格はないのでは?www

191:日本@名無史さん
20/09/29 16:22:38.00 .net
>>174
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと
瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と
龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
日常食の蒸し餃子やワンタンは?

で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がファンキーな
考古学者の論文は?

早く言えよ五毛党チンコロ

192:日本@名無史さん
20/09/29 16:25:04.53 .net
>>175

お前こそ出雲乗っ取りの千家の関係の中国人だろw

193:日本@名無史さん
20/09/29 16:26:59.61 .net
>>176
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと
瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と
龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
日常食の蒸し餃子やワンタンは?

で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がファンキーな
考古学者の論文は?

早く言えよ五毛党チンコロ

194:uz
20/09/29 16:33:29.20 .net
>>142 > 張政が正式に卑弥呼と認定したのが娘の豊来入姫=トヨ//
  正始8年条の、宗女ってどういう意味だと考えてるの?
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與
一応、倭人伝のウィキサイトね。日本語訳は、あくまで一見解だけどね。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
トヨたんは書紀に登場するが、矢鱈と出て来るトヨなんとかって、彼女じゃないよ。
全部カモフラージュだ。

195:日本@名無史さん
20/09/29 16:42:21.92 .net
台与は幼名だから記紀に記載されている訳がないの
記紀や系図類に出てくるトヨなんたらは諡号だから生前に呼ばれていた名前じゃないんだよ

196:日本@名無史さん
20/09/29 16:49:06.08 .net
幼名で遣使するかな

197:コテ略
20/09/29 16:56:59.45 .net
そりゃ、>>178 に対する返信かね、青人草生える藁
>>179 > 台与は幼名だから記紀に記載されている訳がないの//
  はァ? 豊来入姫だか、豊鋤入姫だかって書いたるんじゃないのか?
でないなら、書紀にはなんと書いてあるのかね。
> 記紀や系図類に出てくるトヨなんたらは諡号だから
生前に呼ばれていた名前じゃないんだよ//
  だから何かね。だったらさ、態々ことさら諡号なんぞくっ付けて、カモフラージュに及んでるんだろ。
でさ、正始8年条の、宗女ってどういう意味なんだい。

198:日本@名無史さん
20/09/29 17:04:39.16 .net
>>144
田道間守は新羅系渡来人の三宅連の先祖とされるな。
天日矛を始祖としている。
日矛は但馬出石に定着した新羅からの渡来とされる。
その子孫の田道間守の橘の話は、風土記にみられる浦島子伝説を翻案したものだよ。
この田道間守は物部系なん?
そして、物部は新羅系ということなの?

199:日本@名無史さん
20/09/29 17:17:14.01 .net
>>180
元服すると諱になるんだよな
女性の元服は結婚か18~20才までにはしたとか書いてあるけど、
弥生末の元服が分からんしな
でも13才だから台与は幼名だよ

200:日本@名無史さん
20/09/29 17:19:13.46 .net
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「男弟」とは「月読尊」
「卑彌弓呼」とは「須佐之男命」の3兄弟。  
「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波

201:日本@名無史さん
20/09/29 17:27:44.04 .net
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」  
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。   
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。   
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、卑彌呼宗女「壹與」と同世代である。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波

202:日本@名無史さん
20/09/29 17:30:05.93 .net
女子の髪上祝は数え13歳だな

203:日本@名無史さん
20/09/29 17:30:48.56 .net
宗とは本家の意味があるそうだから、宗女は本家の女子という意味じゃないか?

204:日本@名無史さん
20/09/29 17:34:40.96 .net
>>186
>女子の髪上祝は数え13歳だな

男児皇族の健やかな成長を


205:願う宮中儀式 「深曽木の儀」 「深曽木の儀」では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、 それに先立つ着袴の儀で、男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付ける。 そして、青石(あおいし)二個を踏み、南側を向いて立ち、御用掛が髪をくしですきそろえ、はさみで毛先を少し切ると、日置盤からぴょんと飛び降りるのである。 これは高天原から天照大御神の孫、つまり天孫が葦原中国の支配者として降臨した様子を模した儀式がこの深曽木(ふかそぎ→みそぎ)の儀であると考えられている。 この「山橘」は恐らく酢橘か柚で、共に阿波で産するものの象徴でもあり、「青石」は、阿波で採れる青石=多くの古墳等の積石に使用されているもので、 これも阿波を象徴するものである。 そして注目したいのは、「南の方角へ飛び下りる」ということ、つまり高天原から南方へ降臨したということを意味するものであろう。 これは、霊峰剣山を中心にとした1000m超級からなる剣山系の山々から南方へ下ったということになる。   @阿波 https://ameblo.jp/marine816/entry-12314233650.html



206:日本@名無史さん
20/09/29 17:42:10.89 .net
深曽木の青石は加茂川で拾ってくる

207:日本@名無史さん
20/09/29 17:45:30.90 .net
でたらめすぎて口閉まるわ

208:日本@名無史さん
20/09/29 17:53:39.94 .net
>>188
なんだよ、空国から続く笠沙岬は室戸岬だったのかぁぁぁぁ~♪
木の花のお姉ちゃんは、室戸の神さんか。

209:日本@名無史さん
20/09/29 17:58:39.76 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

210:日本@名無史さん
20/09/29 18:00:26.81 .net
>>182
いいえ、徐福=須佐男が、物部の祖という事です。
物部氏によって書かれた先代舊事本紀に出ているアメノホアカリニギハヤヒが徐福の和名
スサノオは千家が作り出した徐福

211:日本@名無史さん
20/09/29 18:06:33.01 .net
>>187
中国では女子が家を相続して継ぐことは絶対ない。
だから、跡継ぎを意味する宗女という単語もない。
倭人伝の宗女に最も近い単語は宗伯で、これは礼儀や祭事を司った周代の官名。宗官ともいう。もちろんこの職に就くのは男子だ。
なので、宗女の意味は祭事を司る女子であり、これに卑弥呼の跡を継ぐという意味づけをすると、卑弥呼の跡を継いで祭事を司る女子という内容であり、それ以上でもそれ以下でもないよ。

212:日本@名無史さん
20/09/29 18:14:26.39 .net
史記に「宗室之女(女児)」という意味で使っている
URLリンク(cidian.qianp.com)

213:日本@名無史さん
20/09/29 18:20:47.63 .net
>>193
千家が創出した(物部の祖ー徐福=スサノオ=ニギハヤヒ)ということは、この四者はみんな千家の創出というどんでん返しでいいの?

214:日本@名無史さん
20/09/29 18:29:42.95 .net
>>139
>あれは、ズラコクだか、ズルコクだかじゃねえの
私がzarakokuというネームで、Yahooの古代史掲示板に投稿を始めたのは、もう16年以上前。
そして、九州説の「無党派」氏やcyber ek氏やrunsunnole嬢らと、
大和説者の「東大と京大を渡り歩いた天誅君」や「ハイエナのパパ」やsagami no嬢らと、
10年以上議論をしたが、結局九州説が優勢になり、
しかし、Yahooの掲示板の担当者はそれが気に入らなかったようで、
無党派氏や私のネームでの投稿を何度も拒否し、私らはその度に、ネーム変更投稿を余儀なくされ、
それでも九州説の優勢は変わらず、Yahooは遂に、
それまでの掲示板の投稿を全部削除抹消して、新たにtextreamという掲示板に変更して、
掲示板の投稿の支配管理を強めようとし、我々のネームでの投稿を拒否制限したりしたが、
しかし、(現在の5chと同じように)、
激しい極右人種差別的な狂暴な投稿をする大和説者が一杯現れて、
正常な議論を全く破壊してしまったので、とうとうYahooは、
textreamの古代史掲示板を全面的に廃止し、投稿抹消してしまったの。

215:日本@名無史さん
20/09/29 18:35:02.72 .net
これが恨の人種の被害妄想

216:日本@名無史さん
20/09/29 18:54:33.45 .net
>>196
千家がやったのは大きく分けて二つ。
架空のスサノオを、出雲何代か前の大国主、須賀之八耳神と集合して、出雲神の舅にする事。
記紀に、朝鮮半島に降り立ったと書く事で、朝鮮渡来系の藤原家に媚を売ること。
持統天皇のヨキコト何某司により、ドロドロした歴史は隠されることになり、各地の風土記は破却されたのに、出雲風土記だけ残っている理由。
出雲風土記と古事記にスサノオが出ている理由。
押して測るべし

217:日本@名無史さん
20/09/29 18:55:32.86 .net
>>193
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと
瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と
龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
日常食の蒸し餃子やワンタンは?

で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がファンキーな
考古学者の論文は?

早く言えよ五毛党チンコロ

218:日本@名無史さん
20/09/29 19:29:11.28 .net
>>195
宗女の単語があることは知らなかったな。
単語がないとしたことは誤りだった。
宗室は君主の一族を指すようだ。
そして、宗女は君主の一族の娘の意味としているようだ。
そこで、台与は卑弥呼を出した一族の娘だと倭人伝は書いていることになるが、
そのような宗族(日本式には氏族)が3世紀中頃にあったのかどうかというと、そうした氏族が生まれるのは5世紀頃ではないかとされているようだ。
とすると、3世紀当時にあったのは氏族社会の前段階である部族社会であり、卑弥呼を出した血縁宗族(氏族)というものはなかったと考えるのがよいと思われる。
そのような部族社会にあって、台与を文字通りに卑弥呼を出した血縁一族の娘と理解するのが妥当かというと、甚だ疑問である。
卑弥呼が共立されたときに特定の血縁集団があって、その血縁集団から卑弥呼が王に擁立されたのであれば、その血縁一族の名が中国の史書に記されるはずであるが、
そうした特定の血縁集団がいたような記述はなく、また台与の擁立についても、出身血縁集団については一言も言及されていない。
そのような部族社会において、台与に関して記される宗女の言葉を、文字通りに卑弥呼を出した君主一族の娘と読み取るのはあやまりではないか。
台与の出自に関連する宗女については、卑弥呼を出した部族の娘、あるいは卑弥呼の下にあったとみなされる巫女集団の若い巫女と理解するのがよいと思われる。

219:日本@名無史さん
20/09/29 19:45:00.45 .net
この場合の宗女とは、
卑弥呼が主宰していた鬼道の集団に関連する一女という意味だったのではないか。

220:日本@名無史さん
20/09/29 19:51:26.36 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)

馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

221:日本@名無史さん
20/09/29 19:55:53.49 .net
各地に残る徐福伝説の一つ、熊野灘。
物部五瀬が第一次物部東征で、四国の阿波の物部川に停泊した次の地点が熊野灘。
思いっきり徐福伝説があるよな。
子孫は先祖を顕彰する物なのさ

222:日本@名無史さん
20/09/29 19:56:53.74 .net
>>202
その説が最も有力なように思われるが、東遷説、また大和説では血縁集団(氏族)が3世紀には成立していたとする考えが強いようにみえる。
この時代、まだ血縁氏族はないように思うけどね。

223:日本@名無史さん
20/09/29 20:00:09.50 .net
姓というもの自体がまだないだろ?

224:日本@名無史さん
20/09/29 20:04:26.84 .net
山幸彦の五十猛は、徐福の父親の徐猛から一字を取っている。
彼はカゴヤマと名前を変え、息子には天叢雲がいる。
これが初代神武系。
叢雲の剣は、奈良で王権就任の祝いに出雲王家から尾張家に贈られた物。

225:日本@名無史さん
20/09/29 20:09:04.07 .net
13歳の女子を皆が王と認めたくらいだから
王に擁立されるような一族の血筋だろう

226:longinus_bouz
20/09/29 20:10:50.75 .net
>>187 > 宗女は本家の女子という意味じゃないか?//
  私もそのように思います。
>>195 > 史記に「宗室之女(女児)」という意味で使っている//
  漢籍での用例は承知していませんが、直感的に、
宗家のお嬢さん、といった意味ではなかろうか、と考えていました。
養女といった意味はチョッと・・・倭人伝の正始8年条のクダリですが・・・
補足>>178 > 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王//
卑彌呼の宗女である壹與(年十三)を、王とした、なんて解する向きが多いようです。
つまり、「卑彌呼」は「宗女」に掛かってるんですね。
対して、「宗女」が「壹與」に掛かるとすれば、
宗家のお嬢さんであるトヨたんを王とした、で意味が通りますね。
では、「卑彌呼」は「宗女」ではなく、どこに掛かるのか?
また、宗家ってどういう血統?
皇室・ミマキ(崇神)の家系とは、私は考えていません。
>>142 > 神功皇后の実家の息長家も//
  違うでしょ。息長家って継体の実家じゃないの?
だからこそ息長家って、后をいっぱい輩出してるんでしょうよ、
葛城(襲津彦・円)、蘇我(例の4代)、藤原(不比等以降)と違って、
これといった著名人がいない家系なのにさ。
血縁があるから、同族婚をしてるんじゃないのか。
葛城・蘇我・藤原以上に后を輩出してるのは、皇室自体でしょうに。
なお、宗家っていうのは、息長じゃないほう、と考えています。
> 月読系の信仰だったと言われている//
  月読って、皇室の元々の氏神なんでしょうよ、影薄いけどさ。
アマテラスってのは移入品で、スサノオってのは追い出された、三輪から出雲へ。

227:uz
20/09/29 20:20:07.87 .net
>>185 > 卑彌呼宗女「壹與」と同世代である//
  だからさ、「宗女」はどっちに掛かるんだよアホ。
>>209 中段が関連投稿)
>>194 > 宗女の意味は祭事を司る女子であり//
  直感的にだが、「宗教」って単語は近代に出来て、日本特有だと思うがね。
つまり、宗には、宗教だの祭事なんて意味はないじゃないのかい。
だから、当時の人物が、祭事を司る女子を「宗女」と表記するのは矛盾する。
「真言宗所学経律論目録」ってさ、学経律論なんかがザっと列挙されてた書付に、
後世になってからさ、そういう名称を付しただけだと思うんだがね。
>>201 > 卑弥呼を出した血縁宗族(氏族)というものは
なかったと考えるのがよいと思われる//
  卑弥呼やトヨたんて、木の又とか、石から生まれたのか?
西遊記の三国志版なのかい。


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