邪馬台国畿内説 Part644at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part644 - 暇つぶし2ch530:日本@名無史さん
20/09/30 20:29:41.43 .net
>>502
>難升米は「難」というのが「姓」であった可能性が高い。
その可能性の見積もりの問題になるけど、倭人伝のその他の人物の名前に姓があるようには見えないことから、難升米の難が姓であるとする見積もりの比重は極めて低いとみえるけどね。
>博多に「都市」の苗字の方がおられ、
この都市を苗字とする人は少ないものの各地にあるようで、奈良の十市や京都の都市町(といちまち)の地名もこの系統かとされている。
そして、苗字の読みは「といち」とするようだ。
都市牛利の都市はやはり漢音で「トシ」だろうから、博多の都市(といち)さんとは別かもね。

531:日本@名無史さん
20/09/30 20:30:34.20 .net
>>507

そういう事実そのものがない。
現在でも議論は続いてるし決着もついてない

532:日本@名無史さん
20/09/30 20:50:30.06 .net
5ちゃんねるを活発化させるために、完全に破綻してしまっている邪馬台国畿内説について、嘘の意見を発表している、韓国人の奥山氏が、訳の分からないことを言い放つだけのスレッドになってしまっているな。

533:日本@名無史さん
20/09/30 20:54:32.06 .net
>>502
姫姓松野氏の系図では、先祖の順(字は去漫)が「居于委奴(委奴に居す)」と推定されていて、この委奴について「松野連氏」考の筆者が伊都のことではないかとみなしているもの。
松野氏系図に伊都と書かれているのではないようだ。
系図では「委」の字であるので、倭人伝の伊都の伊の字ではないし、委奴の委も伊都の伊も現地音のイに漢字を当てたものにすぎず、そのイが中国の姓の伊に由来するもだとするには、ある程度確実性の高い根拠を示さなければならないのではないか。

534:日本@名無史さん
20/09/30 20:55:51.95 .net
>>508
神武は山幸だろう
隼人が海幸、宮崎の伝承でもそう
山幸彦の子孫を自称する天武の時代に隼人の乱が起きたのは必然
天智系の平安時代になると隼人は皇居の守りをするくらい信任が厚かった

535:日本@名無史さん
20/09/30 20:56:34.18 .net
機内説を言うわりには、魏書には倭の地名も出てこないわけで、もともと茨の道なのだがw
九州説には、日本の旧家の複数の直系が現在まで言い伝える第二次物部東征のような動き、東遷説が出始めている始末w

536:日本@名無史さん
20/09/30 20:58:31.50 .net
>>410
>モモソ姫は磯城登美家の姫巫女で、魏書に最初に出てくる卑弥呼。熊野から物部氏が大和入りした頃の姫で160年代の卑弥呼。
この頃の邪馬台国は大和。
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和説を唱えるための造作文言であるから、×であり、
卑弥呼大和説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。

537:日本@名無史さん
20/09/30 21:03:13.39 .net
>>415
>中国の洛陽や当時魏の領地の帯方から三角縁神獣鏡が出てるよ
洛陽からは0~1枚しか出土しておらず、
楽浪や帯方の△は、当然「魏の楽浪帯方攻撃戦争の前」の鏡だよ。

538:日本@名無史さん
20/09/30 21:06:38.34 .net
>>513

海幸彦と山幸彦は兄妹な訳でございまして。
初代神武=海部氏の天叢雲の父親は、五十猛。徐福の父親、徐猛の字を取っている。これが海幸彦。
五十猛海岸にたどり着き、出雲王から嫁さんを貰った。今の出雲大社の宮司の祖である千家を使って国譲り事件を起こすが、政権奪取には至らず失敗。日本に来てからの和名はホアカリ
次に大陸に一度戻り、宗方の姫をめとり、九州物部を興す。この時はや母親も連れてきたらしく、高木の神になっている。タクハチヂヒメ。
160年台に熊野から大和を攻めた物部イツセも、第二次物部東征で勝利者となった物部イクメも、山幸彦。
二度目の来日の時はニギハヤヒを名乗った。
故に、物部氏がまとめた、先代旧事本紀には、一人の名前として書かれるに至った。
アメノホアカリニギハヤヒと、一人の名前になっている。
腹違いの兄弟ということだな。

539:日本@名無史さん
20/09/30 21:12:45.70 .net
出雲乗っ取りの千家の悲願は、出雲大社の祭神をスサノオ=徐福にすること。
一旦はそれは成功し、神仏習合の時、ガクエン寺を別棟時にしてた時にはなんと出雲大社の裁判は須佐男だったんだよ。
結局、別当寺手を切るときに、大国主に戻った。
千家はね、今でも神話の時代を地でいく恐ろしい家系。
本家の北島家すら宮司の職から追い出すほどのな。
富岡八幡宮の殺し合いなんて可愛いもの。あれを千年以上やり切る家柄。

540:日本@名無史さん
20/09/30 21:13:49.24 .net
>>505
「あ」がつく名称は、「阿波」の「「阿」に由来している。   @阿波

541:日本@名無史さん
20/09/30 21:15:32.30 .net
>>417
>三角縁神獣鏡は景初や正始など魏の年号が入っていて
列島の△の「景初三年」鏡や「正史元年」鏡の陳氏は、
「母人」や郡役人の「吏人」を伴っているから、
魏の楽浪帯方攻撃戦争で列島に避難しなければならなかった渡来の呉系楽浪鏡師だよ。
>銅出徐州 師出洛陽という銘が入っていて
鏡師は、自分が洛陽出身であれば、
魏や洛陽にいたのなら「師出洛陽」なんて文言はや全く無意味で無駄であり、
刻まないもんだよ。
つまり、その鏡師は魏や洛陽にいなかったんだよ。
>使われている銅も魏鏡と同じものという分析結果が出ていて
魏の洛陽で作られた魏鏡という結論が出てるよ
その結果は、使用した材料銅成分が近似していた、というだけであり、
「同じもの」という事にはならないんだよ。

542:日本@名無史さん
20/09/30 21:19:14.25 .net
>>513
二回に渡る物部東征は、記紀においては、一度の出来事にまとめられて、瀬戸内海を通った事にされ、神武の前に時期をずらされたから、記紀をら知ってる人が、山幸彦と表現するのは当然の事と思います

543:日本@名無史さん
20/09/30 21:25:51.26 .net
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

544:日本@名無史さん
20/09/30 21:27:39.56 .net
>>418
>晋書天文志には景初四年の出来事が書いてあるし
何だ?、この変な男は、東大理系博士号自称男本人か?その仲間だったのか。
晋書ははるか後代の唐代に書かれた書であり、当然、
「はるか後代の文書は、自己解釈に拠る史料事実の書き換えをする事が多い半分×書」
であり、根拠にならないのだよ。
>畿内からは景初四年の次の年正始元年と魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかっている
これは景初から正始と継続して畿内が魏と交流を持っていた証
畿内なんて存在もしなかった


545:嘘吐き騙し文言であるから、×であり、 明帝の詔書は景初二年12月であり、 その後、魏朝から倭國へ鏡を与えた記録がなく、 景初三年鏡も景初四年鏡も正始元年鏡もいずれも陳氏の鏡であり、 「吏人」や「母人」の記銘もあるから、渡来呉系楽浪鏡師の陳氏が造った鏡だよ。



546:日本@名無史さん
20/09/30 21:30:00.37 .net
>>522
吉野ヶ里遺跡は徐福の拠点とも言われてるよね。
防御壁の作り方が大陸そっくりなんだと。
記紀においては物部氏は隠されたから、忘れられたらしい。
しかし、記紀をまとめた持統天皇の時代に、あそこに物部ゆかりの神社が作られたそうな。
ふるの宮だか何だかの神社。

547:日本@名無史さん
20/09/30 21:30:24.97 .net
>>508
天武天皇の諱が大海人(おおあま)で、これは尾張の海部によって育てられたことに由来する名ではないかとされる。
この諱の(あま)の場合は、海の字が書かれている。
一方で、その天武天皇の贈り名は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのみこと)と天の字が用いられていて
同じ(あま)でも字が違うということは、意味が違うのだと解釈するよりない。
天(あま)は尊称、美称とするのがよい。

548:日本@名無史さん
20/09/30 21:32:17.44 .net
>>426
>まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
中卒男の・・・・的貼り付けは、読んでも無駄であり、放置ね。

549:日本@名無史さん
20/09/30 21:47:16.65 .net
>>448
>三角縁神獣鏡には景初や正始と魏の年号が入っていて
銅出徐州 師出洛陽つまり徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと彫ってあって
洛陽からも出土していて使われている銅は魏鏡と同じものという分析結果が出ている
つまり現在判明している証拠から見れば三角縁神獣鏡は魏の洛陽で作られた鏡とする以外にないよ
この大和説男は、まるで貼り付けのように、同じ事を繰り返ししゃべっているね。じゃ、私も貼り付け。
>三角縁神獣鏡は景初や正始など魏の年号が入っていて
列島の△の「景初三年」鏡や「正史元年」鏡の陳氏は、「母人」や郡役人の「吏人」を伴っているから、
魏の楽浪帯方攻撃戦争で列島に避難しなければならなかった渡来の呉系楽浪鏡師だよ。
>銅出徐州 師出洛陽という銘が入っていて
鏡師は、自分が洛陽出身であれば、魏や洛陽にいたのなら「師出洛陽」なんて文言は
全く無意味で無駄であり、刻まないもんだよ。
つまり、その鏡師は魏や洛陽にいなかったんだよ。
>使われている銅も魏鏡と同じものという分析結果が出ていて魏の洛陽で作られた魏鏡という結論が出てるよ
その結果は、使用した材料銅成分が近似していた、というだけであり、
「同じもの」という事にはならないんだよ。

550:日本@名無史さん
20/09/30 21:51:26.72 .net
東出雲王家の先代伝承者は出雲大社の上官職からは離れて、出雲大社とは決別の道を辿った。
当時はまだ、歴史を文字にすると書き換えられるとの警戒も強く、伝承は表には中々出てこなかったが、書籍、謎の出雲帝国、が徳間書店から出たのを最後に30年以上もの沈黙を破り、息子さんが出版社を立ち上げ、本を出してる。
それに呼応するように興味を持った人たちがどんどんホームページなどを作り始めている。
今じゃ普通に、第一次物部東征とかの語句でそういった検索が出来るようになったよ。
学会とか権威の裏付けはないけど、旧家の伝承は面白いよ。
出雲王家は、当然に物部氏とタジマノモリに国を滅ぼされてるから当然として、松江市の、物部軍の司令官の家系もまだ存続。
タジマノモリや神功皇后を出した総本家、天日槍に嫁をやった家も、息子さんが取材に行ってる。確か、彼の叔母にあたる人が嫁入りして居るんだよ。
徐福の子分だった千家は流石に乗っ取りの話は出してないけどね。
蘇我氏の本家も今でも続いてるし、最初の卑弥呼の世話をしてた太田太根子の子孫は今でも墨坂神社の宮司家。

551:日本@名無史さん
20/09/30 21:52:07.95 .net
>>449
>畿内説は学会での定説
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使う学会は、嘘吐き騙しの詐欺学会。
>正常な社会での公式見解=畿内説
正常な社会や人類の常識での見解は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、。
史料事実や史料実態に拠って、九州説。

552:日本@名無史さん
20/09/30 21:53:51.36 .net
>>521
>二回に渡る物部東征
海の無い山奥で、ジメジメした湿地帯の奈良盆地にわざわざ東征する九州バカがいるらしい。  わははははは   @阿波

553:日本@名無史さん
20/09/30 21:55:15.55 .net
>>530
その頃は既に沼地の水抜きが終わってて稲作やってたんだよ。
奈良が沼地で未開発だった時期があると言うことを知ってるだけでも確かに凄いとは思うが

554:日本@名無史さん
20/09/30 21:56:12.51 .net
>>452
>新聞とかに洛陽で三角縁神獣鏡発見と出てたよ
0~1枚では、列島の500枚以上の△の根拠にならない。

555:日本@名無史さん
20/09/30 21:56:13.16 .net
>>530
阿波説よりも、日本の旧家の伝承を紹介するウェブサイトの方が圧倒的に多いよ。

556:日本@名無史さん
20/09/30 21:58:25.52 .net
>>525
>天武天皇の諱が大海人(おおあま)で、これは尾張の海部によって育てられたことに由来する名ではないかとされる。
飛鳥の郷 小松島周辺の海だよ。   @阿波

557:日本@名無史さん
20/09/30 21:58:59.42 .net
>>532
そもそも日本国内であれだけ作られたんだから多少は日本から大陸に入っててもおかしくはないよね。
それを持って魏の国卑弥呼の鏡説にすがるんだか最近劣勢の機内説の哀しさがわかろうと言うものです
神獣鏡を失ったら畿内にはなーんにも残らないんでしょうから必死なんでしょうなw

558:日本@名無史さん
20/09/30 21:59:16.49 .net
>>453
>景初四年は晋書天文志に出てくる
その他の証拠から実際は使われていた可能性が高い
はるか後代の唐代の晋書の記載では、
いくらでも「自己解釈に拠る書き換えや錯誤」があり得、
確率の高い根拠にはならない。

559:日本@名無史さん
20/09/30 22:01:13.77 .net
>>519
阿蘇もあるし。

560:日本@名無史さん
20/09/30 22:02:20.62 .net
>>531
>その頃は既に沼地の水抜きが終わってて稲作やってたんだよ。

それを、「ジメジメした湿地帯」と言うんだよ。  わははははは
海の無い山奥で、ジメジメした湿地帯の奈良盆地にわざわざ東征する九州バカがいるらしい。  わははははは   @阿波

561:日本@名無史さん
20/09/30 22:02:24.63 .net
>>524
吉野ヶ里の南の有明海に近い諸冨地区には、
徐福の時代からあるという樹齢2千数百年の古木(真柏?)が生存していると聞いた。
この一帯の稲作の歴史は古いんだねえ。

562:日本@名無史さん
20/09/30 22:05:30.88 .net
>>537
>阿蘇もあるし。
これも、「阿波」関連だろう。 「阿波」のどこかの地名なんだろうね。   @阿波

563:日本@名無史さん
20/09/30 22:05:37.26 .net
>>458
>三角縁神獣鏡は洛陽だけではなくて帯方郡からも見つかっている
楽浪郡の間違いじゃないの?。
>そして全唐文には魏は昔倭国にそれまでにない形式の鏡を下賜したと出てくるので
三角縁神獣鏡は倭国への下賜用に特注されたものだったと解釈されている
500枚出てるという事の説明になる
はるか後代の「全唐文」では、「自己解釈に拠る書き換え」がいくらでも起こり得、
証拠にならない。
詔書なので魏の皇帝が招きのお触れを出したという事
景初2年12月に出したなら倭国の使者が到着するのはどうしても景初三年
それを見越して鏡に景初三年と記銘されていたとしてもおかしくはない

564:日本@名無史さん
20/09/30 22:06:07.72 .net
>>538
外国から攻められないようにわざと奥まったところを都にした可能性はあるな
邪馬台国の都かどうかは知らんが

565:日本@名無史さん
20/09/30 22:08:20.83 .net
>>542
>外国から攻められないようにわざと奥まったところを都にした可能性はあるな
だから、白村江の戦で負けたからだよ。   @阿波

566:日本@名無史さん
20/09/30 22:10:33.26 .net
>>534
阿南でしょ。

567:日本@名無史さん
20/09/30 22:14:54.53 .net
>>469
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
この「中卒」男のおかげて、大和説者の「南→東」などの史料事実の曲解否定が露わに。

568:日本@名無史さん
20/09/30 22:16:30.93 .net
>>538
奈良の開拓が始まったのは、国譲り事件の直後。
第8代出雲王朝の副王、事代主こと八重波津身のの息子、天日方奇日方。
約半数の人々が主王、副王を同時に失った国譲り事件を嫌って奈良に移住したとのことである。
ま、阿波にはそんな歴史も無いでしょうからお気になされずww

569:日本@名無史さん
20/09/30 22:18:46.28 .net
>>507
創価学会のことですか?

570:日本@名無史さん
20/09/30 22:19:48.11 .net
>.478
>三角縁神獣鏡は景初や正始と魏の年号が入っていて
銅出徐州 師出洛陽つまり徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと彫ってあって
洛陽や帯方からも出土していて使われている銅は魏鏡と同じものという分析結果が出ている
つまり現在判明している証拠から見て
三角縁神獣鏡は魏の洛陽で作られた鏡とする以外の結論はないよ
この投稿にも、反論済み。

571:日本@名無史さん
20/09/30 22:25:38.29 .net
>>544
飛鳥の郷は、小松島。   @阿波

572:日本@名無史さん
20/09/30 22:27:03.27 .net
>>546
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?  わははははは   @阿波

573:日本@名無史さん
20/09/30 22:28:42.81 .net
>>487
そして大和説には残念なお知らせだけど
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和からは、三角縁神獣鏡だけではなくて
景初三年鏡も正始元年鏡も出ていない

574:日本@名無史さん
20/09/30 22:32:31.45 .net
>>490
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和では見つからなかった景初三年や正始元年の三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡のダブルパンチで
儚くも崩れ去る大和説

575:日本@名無史さん
20/09/30 22:37:40.31 .net
>>546
東遷説も結局は、奈良盆地で野ツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ、畿内説同様にね。    @阿波

576:日本@名無史さん
20/09/30 22:38:17.39 .net
>>551
武内宿禰の墓とも言われ、景初の刻印のある鏡は、出雲神原神社の古墳からの出土。
他はほんの僅かですよね。
ヤマトから出てないと言うのも痛快な話ですw

577:日本@名無史さん
20/09/30 22:38:28.64 .net
>>503
国民の過半数や、
(日本以外の)ほぼ全ての歴史学や考古学の学者は、
大和説を、すでに、否定どころか、存在しないものとして扱ってるよ

578:日本@名無史さん
20/09/30 22:38:42.30 .net
>>530
都落ちならそこそこいただろうけどね。

579:日本@名無史さん
20/09/30 22:40:35.90 .net
>>556
東遷説も結局は、奈良盆地で野ツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ、畿内説同様にね。    @阿波

580:日本@名無史さん
20/09/30 22:44:10.93 .net
>>507
知らなかったの?
現在国民の過半数や、(日本以外の)世界の殆どの国の学会で、
大和説の学者は0

581:日本@名無史さん
20/09/30 22:56:25.27 .net
>>541の訂正
>>458
>三角縁神獣鏡は洛陽だけではなくて帯方郡からも見つかっている
楽浪郡の間違いじゃないの?。
>そして全唐文には魏は昔倭国にそれまでにない形式の鏡を下賜したと出てくるので
三角縁神獣鏡は倭国への下賜用に特注されたものだったと解釈されている
500枚出てるという事の説明になる
はるか後代の「全唐文」では、「自己解釈に拠る書き換え」がいくらでも起こり得、
証拠にならない。

582:日本@名無史さん
20/10/01 00:02:26.82 .net
>>550
ふふ。効いてる効いてるw

583:日本@名無史さん
20/10/01 00:02:58.92 .net
>>555
可哀想にw

584:日本@名無史さん
20/10/01 00:07:02.21 .net
そもそもが、景初三年の刻印だって、後からでも注文できるでしょ。
自分たちの行動を顕彰したくて象徴的に作らせたと考える方が自然。
第二次物部東征で、勝った側が刻む顕彰碑。ヤマトに大々的に存在するはずのない鏡

585:日本@名無史さん
20/10/01 00:28:04.63 .net
物部東征ってなんですか?

586:日本@名無史さん
20/10/01 00:31:02.39 .net
磯城登美家の天日方奇日方の妹がらタタラ五十鈴姫。
海村雲の奥方、三輪山の初代姫巫女以下卑弥呼となった。
神武朝廷は三代に渡り奥方を出雲の分家から貰った。これは記紀にも出てる。
海幸彦の海部氏は、銅鐸祭祀を行っていた。
山幸彦の物部氏が何故銅剣祭祀に移行したのかは不明だが、後から来た物部勢に銅鐸祭祀は攻撃されたとある。
ま、阿波さん、神武の最初からの三代の姫も阿波出身とか言い出さないよな?ww磯城登美家のことも知らないのが阿波の伝説とはねw

587:日本@名無史さん
20/10/01 00:36:55.26 .net
>>563
記紀により、神武東征と書かれた戦いの事です。
第二次物部東征は、所謂邪馬台国事件とも呼べるもので、北九州から始まりました。
戦いの前に都万国にいた魏書に書かれた卑弥呼と、物部イニエは魏に朝貢し、8本の旗と鏡100枚を貰います。
その時に、蝦夷となった前王朝の銅鐸祭祀の国、大彦の狗奴国を倒すために戦いを準備している。我々はヤマトの国の人間だと嘘をつきます。
これにより魏は騙されて、邪馬台国論争の原因になりました。
宜しければそのまま検索してみてください。一般用語ではありませんが、Webサイトが幾つかヒットしますよ

588:日本@名無史さん
20/10/01 00:58:34.65 .net
>>510
学会では畿内説でとっくに論争は終結
論文も全部邪馬台国は畿内にあった事前提で書かれる

589:日本@名無史さん
20/10/01 00:59:31.89 .net
日向神話は政府側が忌部氏に書かせたものと伝承がある。
歴史を知る忌部を顕彰したいのが、阿波さんだけだとしたら、何とも悲しいことであろうなw

590:日本@名無史さん
20/10/01 00:59:53.65 .net
>>516
三角縁神獣鏡が作られたのは景初三年以降なので
帯方は魏の領地になったあとの事

591:日本@名無史さん
20/10/01 01:01:20.17 .net
>>566
お前はさっさと帯方の三角縁神獣鏡のソースでも持ってこいよ大嘘つきがよ
こっちも探したが一切そんなことは出てこなかったわ

592:日本@名無史さん
20/10/01 01:06:30.31 .net
>>520
三角縁神獣鏡は呉での発見は0であり
中国で見つかるのは洛陽や帯方など魏に属していた地域から
外国に鏡を配る場合は製造地を表記する必要があるので
師出洛陽と表記する必要がある
そして銅出徐州とは魏の領地の徐州の銅が使われているという意味
魏鏡と三角縁神獣鏡に使われている銅は分析の結果成分が一致したので
同じ銅が使われていると判明している

593:日本@名無史さん
20/10/01 01:14:36.60 .net
>>523
唐代に書かれたからと言って内容が唐のものとは限らない
晋書天文志は晋の時代の文章を唐の時代に編集したものであって
現代でも何千年も前の時代を書いた本など出るけれど
新たな歴史的発見や科学的分析などによって
時代が新しい方が内容が正確になるのもよくある事
詔書なので倭国を招く指令を景初二年12月に出したということ
倭国が魏に到着するのはそれ以降になるので
倭国に下賜する三角縁神獣鏡が作られるならどうしても景初三年以降になる

594:日本@名無史さん
20/10/01 01:19:54.28 .net
>>571
そらそうだ。日本で作られたんだからなw
あの年号の鏡は菅原神社の一枚のみ。出雲で出ている。残念だったな、大和ではなくてw

595:日本@名無史さん
20/10/01 01:35:02.73 .net
>>527
貼り付けのように同じことを言ってるのは九州説だろ
明帝の招書が景初二年12月になっているので
魏鏡の三角縁神獣鏡が作られるのはそれ以降
景初二年8月には楽浪は魏の領土で帯方になって
呉から三角縁神獣鏡の発見は0なので
三角縁神獣鏡は呉系楽浪鏡師とやらが関与をしようがないという事になる

596:日本@名無史さん
20/10/01 01:37:58.16 .net
>>527
倭国に鏡を下賜するから製造地を記入する必要があったかも知れないだろ
鏡師が洛陽に居たなら師出洛陽と記銘する必要はないという事にはならない
三角縁神獣鏡と魏鏡に使われている銅は含まれる不純物が一致
つまり同じもの

597:日本@名無史さん
20/10/01 01:38:38.56 .net
>>529
畿内が存在しなかったなら
当時九州という呼び名も存在していない

598:日本@名無史さん
20/10/01 01:41:22.51 .net
>>532
>>535
三角縁神獣鏡は魏が倭国に下賜用に作った鏡なので出土は少ないと言われる
しかし最近は中国でも普遍的な斜縁神獣鏡の1形態として考える動きが始まっている

599:日本@名無史さん
20/10/01 01:41:42.26 .net
しかし、大和説はなんで卑弥呼の王家などということを言うのだろうね。
吉備の王家が大和へ東遷してその王家の宗女卑弥呼が大和の女王になったなんて、映画でしかテーマにならんだろう。
まあ、吉備の特殊器台ひとつから、よくまあ、こんだけ話を膨らませられるもんだと感心するよ。
弥生の2世紀末頃に、そもそも王家があったなんて、誰が言い出したのだろうね。

600:日本@名無史さん
20/10/01 01:43:19.82 .net
>>536
当時の歴史を後代に書かれたものでも
新たな歴史資料や物証の追加発見で後代に書かれた方がより詳しいというのはままあること

601:日本@名無史さん
20/10/01 01:45:48.85 .net
>>541
三角縁神獣鏡は作られたのは明帝の詔書によるなら景初二年12月以降が確実なので
景初二年8月には魏の支配地となって帯方とされた楽浪で
三角縁神獣鏡は作られようがなかった

602:日本@名無史さん
20/10/01 01:46:59.07 .net
>>541
後代に書かれた歴史書の方が
新たな資料などの発見によって正確になるというのはままあること

603:日本@名無史さん
20/10/01 01:49:05.88 .net
>>547
そこなら九州説の人がたくさん居るんじゃ

604:日本@名無史さん
20/10/01 01:50:29.37 .net
>>551
景初三年鏡も正始元年鏡も大和とされた地域から出てるよ
そもそも邪馬台国畿内説なので京都大阪奈良の前方後円墳文化のある所が対象なんだけど

605:日本@名無史さん
20/10/01 01:51:58.36 .net
>>552
オウム返しばかりのオウム人間ザラコク
それで景初三年や正始元年の記名年鏡は大和で見つかってるよ

606:日本@名無史さん
20/10/01 01:55:02.70 .net
魏書の邪馬台国の鏡は花文鏡とかの後漢鏡だろうな。
曹操は、方仙道や、黄老道の伝承者をある都市に集めて管理、利用した。
黄巾の乱以降は、禁止、弾圧された。
その都市は、後に魏の都になった。
魏は、特に民間の道教を厳しく規制。晋国もそれに倣う。呉の国は緩めだったらしい。
数ある朝貢の中で邪馬台国の何故卑弥呼が描かれたかと言うと、禁止されてる道教の鏡を面と向かって欲しいと言ったから。
三角縁神獣鏡を日本のために特別に作ったなんていうなんて言う話はとんでもない考え違い。
取り敢えず、鬼道の国との国交の是非まで問われる事態になったが、遠い島国で、魏への影響はないと言う結論になり、溶かす予定で国の倉庫に保管してあった複数の種類の鏡が100枚ほどあったので、払い下げたそうな。
花文鏡はその後、日本でも作られ大型化していくが、出土が北九州から、物部東征時期に、ヤマトの方に出土が移っていく特徴のある鏡。
これが邪馬台国東遷説の根拠の一部にもなってる
少なくとも倭国のために特別に作るような時代ではない。
まるで朝鮮人のような都合の良い考え方で。日本人的ではない。そもそもが当時の日本は魏がそこまでするほどの特別な国ではないw

607:日本@名無史さん
20/10/01 01:59:20.56 .net
>>584
魏では五斗米道や太平道などの道教が流行っていたよ

608:日本@名無史さん
20/10/01 02:08:22.82 .net
>>585
はぁ・・
その神獣鏡が、ど真ん中で魏の地雷だったってーのに。あなた本当に何も知らないんだな。
所謂神獣鏡の2神とは、西王母と、東王父。
その鏡を拝むのが五斗米道の反乱集団だったのにw
魏の国がど真ん中で嫌ってる神獣鏡をわざわざ日本のために三角縁に作り直して倭国に与えるなどどう考えてもムリポだろww
どんだけ上から目線なのかは知らんが、そんな事を魏にさせる程の権威が倭国にあろうはずもない

609:日本@名無史さん
20/10/01 02:23:15.67 .net
三角縁神獣鏡の元になった鏡は、呉国の仏教鏡だよ。これならあなたも知ってるだろう。
その三角縁を利用すると鏡を大型化出来た。
それらが合わさって三角縁神獣鏡が出来上がった。
磯城王朝のヒコミチヌシ、登美家の大賀茂津身も大量に注文し、魏の100枚に対抗したとされる。
魏から貰った鏡は、没収された平縁の神獣鏡が含まれているはずよ。

610:日本@名無史さん
20/10/01 02:25:56.15 .net
武内宿禰は、魏の年号が入った自分神獣鏡を作らせたが、全部で10枚あるらしい。
見つかってるのはまだ一枚のみだが

611:日本@名無史さん
20/10/01 02:40:13.74 .net
ちなみに今は途絶えてしまったが、九州の忌部氏は、鏡を献上する拠点がかつてあったらしい。
もしかしたら他の種類の銅鏡も一緒に作ってたかもしれないな。大陸からの渡来人同士で。

612:日本@名無史さん
20/10/01 05:12:43.93 .net
>>562
>そもそもが、景初三年の刻印だって、後からでも注文できるでしょ。
自分たちの行動を顕彰したくて象徴的に作らせたと考える方が自然。
紀銘鏡の記銘は,
好太王碑や墓碑や同時代文献記載や、起居注のような日記などと同じく、
歴史の証拠になる金石文であり、
嘘を書いてバレればその瞬間に価値が無くなってしまうもの。

613:日本@名無史さん
20/10/01 05:17:52.71 .net
>>564
>海村雲の奥方、三輪山の初代姫巫女以下卑弥呼となった。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
大和説は×。

614:日本@名無史さん
20/10/01 05:30:38.37 .net
>>566
>学会では畿内説でとっくに論争は終結
論文も全部邪馬台国は畿内にあった事前提で書かれる
それなら、
畿内や邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の否定や曲解によって、
「学会」に所属者の全員が、嘘吐き騙しの犯罪者的な詐欺師です。

615:日本@名無史さん
20/10/01 05:49:53.04 .net
>>567
>日向神話は政府側が忌部氏に書かせたものと伝承がある。
歴史を知る忌部を顕彰したいのが、阿波さんだけだとしたら、何とも悲しいことであろうなw
列島の西日本では、
縄文期から(国引き神話の)出雲が盟主であって、
毛人や越や蝦夷などに対しても支配的であったのだが、
燕の南や呉の遺民の倭人が九州に


616:渡来して来て、弥生期になり、 出雲に対して「国譲り戦争」に勝って盟主の交代があり、 更に国生み神話や「東征毛人五十五國」に拠って、東方への支配を広め、 その時に、出雲系であった阿波も、九州倭人の支配下になって、 出雲の祭祀伝統や伝承を保存する国になったらしい。



617:日本@名無史さん
20/10/01 06:04:41.09 .net
後にも先にも、全国各地に今もって忌部の地名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。
「忌部一族」は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた、
日本唯一無二の「祭祀族、海民族、産業・文化技術集団」なのである。   @阿波

618:日本@名無史さん
20/10/01 06:18:08.57 .net
>>586
魏の高祖曹操は青洲兵という太平道の兵団に大いに力を借りた
魏で太平道その流れの五斗米道が流行してても不思議じゃあないはずだよ

619:日本@名無史さん
20/10/01 07:05:30.07 .net
曹家は嫁まで貰ってるぞ、何だ?物部東征とは?そもそも徐福は一回目で始皇帝を信用させ二度目に十分出費させてトンズラを考えた典型的詐欺師だよ。金持って未開地なんて行かないし、秦の度量衡、技術者の痕跡が残って無い以上出鱈目な話。規制すんなよ。

620:日本@名無史さん
20/10/01 07:08:21.65 .net
>>587
呉で三角縁神獣鏡の出土は0
見つかるのは魏

621:日本@名無史さん
20/10/01 07:09:24.54 .net
で、卑弥呼系が五斗米道、狗奴国系が太平道、邪馬台国は山泰国、狗奴国は張角の河内。

622:日本@名無史さん
20/10/01 07:26:46.81 .net
五斗米道とか太平道とかそっちかい

623:日本@名無史さん
20/10/01 07:27:55.61 .net
なら魏は反乱軍と手を組んだって話になるんかね😃
まあ道教の始まりが黄巾の乱からだからな
いい加減にしとけ😬

624:日本@名無史さん
20/10/01 07:34:26.74 .net
移住させたんだよ

625:日本@名無史さん
20/10/01 07:38:28.71 .net
>>601
いい加減にしとけ😬   わははははは   @阿波

626:日本@名無史さん
20/10/01 07:52:09.66 .net
忌部首は蘇我氏が取り立てた祭具、葬具調達係だから
地方忌部部民は手工業者、つまり賤民

627:日本@名無史さん
20/10/01 07:53:33.86 .net
>>568
>三角縁神獣鏡が作られたのは景初三年以降なので
帯方は魏の領地になったあとの事
この大和説男は、やはり頭が変であり、狂っている。
問題にしているのは、楽浪郡の△の時期であり、
帯方郡に△が出土したのか?は知らん。
そして、景初二年6月以前に魏の楽浪帯方攻撃戦争があり、
その直前頃に楽浪の鏡師の中に△を造った呉系鏡師らがおり、
彼らは、それまでに(帯方ではなく)楽浪で△を造っていたのであり、
戦争で身に危険が迫ったので、列島へ避難して、列島で景初三年頃から△を造り始めた、
と言っている。でなければ、
楽浪の△の出土数に比べて、列島の500枚以上の△の出土数の説明が出来ない。

628:日本@名無史さん
20/10/01 07:55:54.95 .net
>>604
楽浪=帯方という事を知らない無知

629:日本@名無史さん
20/10/01 08:12:33.65 .net
>>570
>三角縁神獣鏡は呉での発見は0であり
数年前頃に、発見があった、という情報があった。
>中国で見つかるのは洛陽や帯方など魏に属していた地域から
この大和説男は、まだ(楽浪ではなく)帯方と言い続けているアホ。
>外国に鏡を配る場合は製造地を表記する必要があるので師出洛陽と表記する必要がある
必要がない。必要があるのは製作責任者名。
「師出洛陽」は、製作者が製作時には洛陽にいなかった、という事を示す文言。
>そして銅出徐州とは魏の領地の徐州の銅が使われているという意味
徐州の銅は、漢代以前からも、魏や呉の時代も、楽浪でも、材料銅として使われた。
>魏鏡と三角縁神獣鏡に使われている銅は分析の結果成分が一致したので
同じ銅が使われていると判明している
使用材料銅の微量金属成分量が(徐州銅などが使われれていて)近似していた、
というだけであり、列島の△は、
銅剣や銅矛や銅鐸や銅鏡の再溶融をして造られていた場合もあり、
近似していたデータがあって当たり前。
これらの事は、もう数え切れない位書いて来た事であるが、
この「大和説という結論先にありきの・・・・アホ狂人」は、
議論せずに知らん振りして、同じ事を書き続けて、
世間の人々を騙そう、としている。

630:日本@名無史さん
20/10/01 08:23:49.57 .net
>>571
>唐代に書かれたからと言って内容が唐のものとは限らない
晋書天文志は晋の時代の文章を唐の時代に編集したものであって
現代でも何千年も前の時代を書いた本など出るけれど
新たな歴史的発見や科学的分析などによって
時代が新しい方が内容が正確になるのもよくある事
同時代の実地に見聞計測された記録は、第1次史料であり、正しい確率が最も高く、
後代にその第1史料の記載を変更した事になる記録は、第2次資料に過ぎず、
正しい確率は極めて低くなるもの。
>詔書なので倭国を招く指令を景初二年12月に出したということ
この男の脳が狂っているんだろうな。
「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都」なのであり、
難升米らが郡に来たのが景初二年六月。
>倭国が魏に到着するのはそれ以降になるので
倭国に下賜する三角縁神獣鏡が作られるならどうしても景初三年以降になる
ね!、マスコミさん、この大和説男の脳が狂っているのが判るでしょ。

631:日本@名無史さん
20/10/01 08:25:25.38 .net
>>584
>数ある朝貢の中で邪馬台国の何故卑弥呼が描かれたかと言うと、禁止されてる道教の鏡を
道教を魏が禁止とか、なに妄想してんだ九州説は

632:日本@名無史さん
20/10/01 08:38:20.69 .net
>>573
貼り付けのように、「分裂幻覚妄想のような同じこと」を言ってるのは大和説者だろ
>明帝の招書が景初二年12月になっているので
魏鏡の三角縁神獣鏡が作られるのはそれ以降<
景初二年12月の詔書までに、銅鏡百枚は準備出来ていた。
>景初二年8月には楽浪は魏の領土で帯方になって
そんな情報は知らんな。可能性は否定しないが、明帝の詔書の内容には関係がない。
>呉から三角縁神獣鏡の発見は0なので
三角縁神獣鏡は呉系楽浪鏡師とやらが関与をしようがないという事になる
三角縁も神獣鏡も、(魏では殆ど流行らず)、呉付近で盛行した鏡であり、
呉系の楽浪鏡師らから△の製作が始まるも、
景初二年6月以前の「魏の楽浪帯方攻撃戦争」の直前に、
楽浪の「呉系鏡師」らは、列島に逃避避難した。

633:日本@名無史さん
20/10/01 08:46:19.84 .net
遺跡の年代とかある程度は専門家に頼りつつ
自分で調べて考えるようにするべきだと思うよ
魏志倭人伝の全文はがんばれば読めるでしょ
古い漢字の字体とか意味は調べよう

634:日本@名無史さん
20/10/01 08:46:56.06 .net
>>575
>畿内が存在しなかったなら
当時九州という呼び名も存在していない
何だ?、この大和説男は、東大理系博士号自称男か?、その仲間か?なのか?。
しかし、九州倭國の中心の倭人指導者らは、
自分らが「周代の中国の九州」の住民であった」、という事は知っており、
それを伝承し続けていたから、天子を称したタリシホコの頃に、
九州島付近を9国に分割して、「九州」の形にし、
阿倍仲麻呂も、阿部比羅夫から「自分らの出身地は九州である」という事を知らされていた。

635:日本@名無史さん
20/10/01 08:56:01.23 .net
>>611
そんなこといくら捏造しても
死んだ九州説は生き返らないぞ

636:日本@名無史さん
20/10/01 09:00:33.93 .net
>>603
>忌部首は蘇我氏が取り立てた祭具、葬具調達係だから

ここでいう「忌部一族」とは、衰退した平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
「忌部一族」とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。   @阿波

637:日本@名無史さん
20/10/01 09:05:01.78 .net
自分は奈良でも福岡でもないので中立的で客観的な立場だよ
最初はネットの畿内説、九州説それぞれの偏った見方を見てたけど
自分で調べていくうちにおかしいとわかってきたよ
とりあえずおかしいのは放射説と円形配置説で
そうなると九州北部に邪馬台国はない
ただ鹿児島南部説は否定しないよ

638:日本@名無史さん
20/10/01 09:16:48.41 .net
>>614
>自分で調べていくうちにおかしいとわかってきたよ
とっくに「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で決着済みだよ。   @阿波

639:日本@名無史さん
20/10/01 09:24:35.97 .net
円形配置説というのは邪馬台国から奴国までの間にある
>次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
>次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
>次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
>次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國
これらの国が円形に配置されてるので
邪馬台国と奴国が隣接しているという人を小馬鹿にしたやつ

640:日本@名無史さん
20/10/01 09:27:59.38 .net
>>613
平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏が建てたのが
坊主たちが修行したど秘境阿波の式内社(現在は小屋)
弘法大師以降だろう

641:日本@名無史さん
20/10/01 09:41:15.10 .net
>>617
>秘境阿波の式内社(現在は小屋)

その秘境阿波の式内社(現在は小屋)に、菊の十六紋だってさ。  君の小屋に「菊の十六紋」あるかい?
阿波忌部族の勢力圏となる吉野川南岸部をすべて見下ろす地に建つのが「橿原神宮」の元社と囁かれる阿波市土成町樫原の「樫原神社」であり、
祭神を神武の元名・神倭伊波礼毘古命とし、菊の十六紋を神紋とする。   @阿波
URLリンク(www.awainbe.jp)

642:日本@名無史さん
20/10/01 09:50:29.41 .net
天皇家が菊花紋を使用するようになるのは鎌倉時代
阿波小屋には神紋がなかった

643:日本@名無史さん
20/10/01 10:06:47.10 .net
>>611
>自分らが「周代の中国の九州」の住民であった」、という事は知っており、
「中国の九州」と言えば「中国全土」という意味なのだから
>阿倍仲麻呂も、阿部比羅夫から「自分らの出身地は九州である」という事を知らされていた。
「自分らの出身地は中国全土である」なんて言うのは狂人

644:日本@名無史さん
20/10/01 10:18:38.79 .net
>>614
普通の正常な思考の持ち主が魏志倭人伝だけを読んだなら宮崎など九州南部に辿り着くよ
しかし中国人は対馬海峡~北部九州一帯が邪馬台国だと言う

645:日本@名無史さん
20/10/01 10:24:31.72 .net
前方後円墳の度量衡を説明できなければどんな辻褄合わせもダメよ、だから畿内説が一歩進んでる訳よ。

646:日本@名無史さん
20/10/01 10:30:15.68 .net
>>621
>普通の正常な思考の持ち主が魏志倭人伝だけを読んだなら宮崎など九州南部に辿り着くよ
着かないよ
そこ、会稽東治の東じゃない

>しかし中国人は対馬海峡~北部九州一帯が邪馬台国だと言う

九州説は証拠も出さず、こういうウソ言うから
信用がない

647:日本@名無史さん
20/10/01 10:50:16.46 .net
>>577
>三角縁神獣鏡は魏が倭国に下賜用に作った鏡なので出土は少ないと言われる
言われない。明帝が敵国の呉系の△を、敢えて、下賜用に選択製作を命令する筈がない。
>しかし最近は中国でも普遍的な斜縁神獣鏡の1形態として考える動きが始まっている
どこのどんな「中国」学者なのか?は知らんが、
斜縁も、どちらかと言えば(魏の鏡というよりは)華中から呉付近の鏡であり、
明帝が、卑弥呼への下賜の銅鏡に選択する筈がない。

648:日本@名無史さん
20/10/01 11:02:17.85 .net
>>209
>卑彌呼の宗女である壹與(年十三)を、王とした、なんて解する向きが多いようです。
つまり、「卑彌呼」は「宗女」に掛かってるんですね。
対して、「宗女」が「壹與」に掛かるとすれば、
宗家のお嬢さんであるトヨたんを王とした、で意味が通りますね。
では、「卑彌呼」は「宗女」ではなく、どこに掛かるのか?
また、宗家ってどういう血統?
皇室・ミマキ(崇神)の家系とは、私は考えていません。<
その通り、ミマキ(崇神)の家系が王になるのは4世紀初頭から。
崇神は前王権を倒した。
だからその怨霊が恐く、大神神社や出雲大社を建て祀った。
大神神社で祀られてる怨霊の主はアタガタス命、太古から続く出雲最後の王。
畿内に移住してたイズモ王の末裔である。
出雲大社で祀られてる怨霊の主は出雲振根。
これは日本書紀にも書かれてるが、出雲振根は崇神に出雲の神宝を奪われた。
ならば崇神の末裔である現天皇家にもその神宝が伝わっているはずである。
あるじゃないか、
それが皇室に伝わる三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」である。
卑弥呼もトヨも畿内に移住してたイズモ王の宗家にいる。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(踏鞴五十鈴)后、初代皇后とされる女性だ。
邪馬台国の都は纏向でも九州でもない、ヒメ(踏鞴五十鈴)后の住んだ葛城、奈良県御所市である。

649:日本@名無史さん
20/10/01 11:25:54.97 .net
>>624
無知な反日チョンのデマ

650:日本@名無史さん
20/10/01 11:28:03.75 .net
>>624
>斜縁も、どちらかと言えば(魏の鏡というよりは)華中から呉付近の鏡であり、
九州説は、どうしてこう言うニセ情報を流すのだろう
斜縁神獣鏡は華北東部から楽浪、つまり魏領域に分布というのが常識で、呉領域では「伝」浙江省の1枚あるきりなのに

651:日本@名無史さん
20/10/01 11:31:58.96 .net
5ちゃんねるを活発化させるために、完全に破綻してしまっている邪馬台国畿内説について、嘘の意見を発表している、韓国人の奥山氏が、訳の分からないことを言い放つだけのスレッドになってしまっているな。

652:日本@名無史さん
20/10/01 11:42:33.21 .net
>>578
>当時の歴史を後代に書かれたものでも
新たな歴史資料や物証の追加発見で後代に書かれた方がより詳しいというのはままあること
「ままあること」という事は殆どない。
同時代の実地での見聞計測の記録の方が「正しい確率がはるかに高く」、
後代の文書の方がミス解釈をした、という確率の方もはるかに高い。

653:日本@名無史さん
20/10/01 11:44:58.63 .net
ミス解釈だと言い張ってるのが研究者でもない反日チョン

654:日本@名無史さん
20/10/01 11:47:50.71 .net
>>579
>三角縁神獣鏡は作られたのは明帝の詔書によるなら景初二年12月以降が確実なので
明帝が△を下賜用に選択する筈がないし、下賜の銅鏡百枚は、詔書の前に揃えられているもの。
>景初二年8月には魏の支配地となって帯方とされた楽浪で
三角縁神獣鏡は作られようがなかった
楽浪で呉系の鏡師らが△を造ったのは、
景初二年6月以前の「魏の楽浪帯方攻撃戦争」の前まで。

655:日本@名無史さん
20/10/01 12:16:04.88 .net
>>631
こういうのが鮮人自己絶対正義

656:日本@名無史さん
20/10/01 12:17:09.38 .net
>>631
>明帝が△を下賜用に選択する筈がないし、下賜の銅鏡百枚は、詔書の前に揃えられているもの。
そんなふうに自分個人の勝手な思いを
理由もなく言い張るのが
御託宣教、こと九州説

657:日本@名無史さん
20/10/01 12:19:31.66 .net
>>631 読んでてつくづく思う
九州説にとって「理由」とは
「俺が言ってんだから正しい」しか無いようだ

658:日本@名無史さん
20/10/01 12:24:00.68 .net
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。   @阿波

659:日本@名無史さん
20/10/01 12:28:07.73 .net
>>606
呉で発見されても0~1枚では呉鏡の証拠にならないのであり
列島の500枚の説明には全くならないんじゃなかったの
実際に見つかるのは洛陽や帯方など魏に属していた地域
師出洛陽は洛陽の鏡師が作ったという意味なので
鏡師は当然洛陽に居た事になるし
洛陽からも三角縁神獣鏡は見つかっている
三角縁神獣鏡の銅と魏鏡の銅の成分は一致
つまり全く同一

660:日本@名無史さん
20/10/01 12:29:13.40 .net
>>623
「道里を計算すると」会稽東冶の東
↑毎回これを無視する池沼畿内説w

661:日本@名無史さん
20/10/01 12:31:46.82 .net
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分~58分)に女王国(阿波)がある。   @阿波   
URLリンク(blog-imgs-50-origin.fc2.com)

662:日本@名無史さん
20/10/01 12:33:49.29 .net
>>607
1次資料の頃は皇帝への忖度などで正確な情報が書けなかったのが
後年になって正しい評価がされて正しい情報が書かれるなんてよくあった
むしろ後年に作られた新しい資料の方が正しいまである
景初二年六月の記事は景初三年の間違いが定説
そもそも景初二年12月に詔書が出て招かれているのに
その前の景初二年6月に倭国の使者が魏に訪れるのはおかしな事
そもそも景初二年の6月は魏は朝鮮半島の公孫氏と交戦中で倭から魏への交通は不可

663:日本@名無史さん
20/10/01 12:35:03.84 .net
だめだめ、投馬国、桃魔桃毛桃蟠?から吉備岡山。

664:日本@名無史さん
20/10/01 12:37:08.84 .net
>>638
その記述から、陳寿自身は短い里を知らなかったという事がわかるだけ。
しかしかき集めた記録自体には短い里が使われていた。
それだけの事。

665:日本@名無史さん
20/10/01 12:40:00.49 .net
>>609
呉付近で三角縁神獣鏡の出土は0
出土しているのは洛陽や帯方など魏の領土
>>611
九州が九州という呼び方がされるのは鎌倉時代
畿内という呼び方はその前から存在していた

666:日本@名無史さん
20/10/01 12:43:30.31 .net
>>642
九州の源は九洟だろ
扶桑の木はおそらくクスノキ

667:日本@名無史さん
20/10/01 12:45:09.46 .net
阿波とかいう荒らし糞ガイジしねきえろ

668:日本@名無史さん
20/10/01 12:48:33.25 .net
>>641
>しかしかき集めた記録自体には短い里が使われていた。
という根拠がまるで無い

669:日本@名無史さん
20/10/01 12:51:57.77 .net
>>637
>↑毎回これを無視する池沼畿内説w
それは事実に反するな
それは逆に畿内説が積極的に主張してることだ
それが証拠に、テンプレにも書いてある

670:日本@名無史さん
20/10/01 12:54:44.91 .net
>>644
>阿波とかいう荒らし糞ガイジしねきえろ
>>644は、倭国(阿波)に対して、何一つ論理的な反論ができないw    @阿波

671:日本@名無史さん
20/10/01 12:56:44.08 .net
>>647
ほかの人がしてるから、よくね?

672:日本@名無史さん
20/10/01 13:11:24.76 .net
>>648も、倭国(阿波)に対して、何一つ論理的な反論ができないw    @阿波

673:日本@名無史さん
20/10/01 13:12:38.48 .net
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

.

674:日本@名無史さん
20/10/01 13:15:32.83 .net
>>649
という証拠は?

675:日本@名無史さん
20/10/01 13:17:56.56 .net
>>639
>そもそも景初二年の6月は魏は朝鮮半島の公孫氏と交戦中で倭から魏への交通は不可
公孫氏は帯方郡も持っていたが、ほかに楽浪郡と遼東があり、この遼東城が主城であった。
最期の決戦は遼東で行われ、長期にわあたって城を取り囲まれ食糧も尽きた公孫氏はここで滅亡した。
この遼東城は帯方郡の北数百キロにあり、帯方郡を博多とすれば、遼東城は関ケ原といったところだ。
つまり景初二年6月に帯方郡を訪れた倭の使いは、のんびりあくびでもしながら、遼東関ヶ原での公孫氏滅亡の報を待っていたというわけだ。

676:日本@名無史さん
20/10/01 13:19:44.82 .net
畿内説もレベルが落ちてしまって、見るに堪えないわ・・、

677:日本@名無史さん
20/10/01 13:30:39.83 .net
>>653
そんな中身のない悪口しか言えない九州説が見るに耐えないよ

678:日本@名無史さん
20/10/01 13:40:22.07 .net
>>654
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。   
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。  わははははは   @阿波

679:日本@名無史さん
20/10/01 13:41:30.15 .net
>>649
宿遷は揚州でない
項梁らが会稽太守に呼ばれたのは呉移住後
だから宿遷は会稽ではあり得ない

680:日本@名無史さん
20/10/01 13:51:37.75 .net
>>656
いくら駄々をこねても、「阿波」で決着済みなんだから、君が間違いってこと!  わははははは   @阿波

681:日本@名無史さん
20/10/01 14:08:52.94 .net
卑弥呼の時にもらった100枚の鏡は漢時代の倭国連合をまとめるために贈られた
狗奴国が和平せず、卑弥呼は死に、いったん国は乱れるが
帯方郡の武官とともに弥呼の宗女、十三歳の壱与を立て、いったん和平する。
ここまでは倭人伝に書かれている。
そのころ、魏は司馬昭によって晋が設立され、司馬炎によって呉との戦闘状態の末統一される。
邪馬台国もしくは別勢力が国内の統一、併合するために、奈良に大和朝廷を建国して鏡の複製を大量に行い同盟国を増やすのに利用した。
その立役者こそが天皇だったのだろう。出生がどこなのかはいまだ不明だが。

682:日本@名無史さん
20/10/01 14:50:10.84 .net
>>657
卑弥呼と云えば亀卜・卜骨がセットだが四国では愛媛からしか出土してない。
阿波よ、何れ出るは無しだぞ。
卜骨の分布と出土数
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
URLリンク(09270927.at.webry.info)

683:日本@名無史さん
20/10/01 15:00:40.56 .net
ごめんなさい今までのは全部嘘です。
私が間違っていました。
許してください 。 わははははは。 @阿波

684:日本@名無史さん
20/10/01 15:01:41.19 .net
>>652
襄平城を包囲中に帯方太守に任じられて海路派遣されたのは劉昕なので
「難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守【劉夏】遣吏将送詣京都 其年十二月」は
景初三年だろう

685:日本@名無史さん
20/10/01 15:07:27.94 .net
>>659
亀卜は5C以降にならないと無いぞ
だから弥生の卜骨は中国大陸から入ったものではない事が分かるの

686:日本@名無史さん
20/10/01 15:10:00.39 .net
奥山というスレ主の発言
「3世紀に畿内に馬が居た」
URLリンク(i.imgur.com)

687:日本@名無史さん
20/10/01 15:12:41.18 .net
中国大陸に獣骨を用いた卜占はある

688:日本@名無史さん
20/10/01 15:14:50.54 .net
>>658
>その立役者こそが天皇だつたのだろう。
別勢力の立役者は、開化天皇とされる人物だろうな。
どの国から派遣された連合代表シャーマンだったかは不明だ。
鏡の複製を大量におこなったのは、そのあとの別の大シャーマンのときのようだ。

689:日本@名無史さん
20/10/01 15:19:15.69 .net
>>664
中国大陸は亀卜がメイン
メインの亀卜が無いから弥生の卜骨は中国大陸からではない

690:日本@名無史さん
20/10/01 15:20:37.06 .net
天皇=大シャーマンな😃ぴったり

691:日本@名無史さん
20/10/01 15:23:47.00 .net
>>662
甲骨文字
殷後期(第22代殷王武丁以降)の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。
亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。
殷の卜占(Oracle bone)では、亀の甲羅や獣の肩甲骨(甲骨)に小さな穴を穿ち、
熱した金属棒(青銅製であったといわれている)を穴に差し込む。
2017年、ユネスコが主催する「世界の記憶」にも登録された。

692:日本@名無史さん
20/10/01 15:38:38.81 .net
>>660
@阿波の投稿文とフォントが違うぞ。

693:日本@名無史さん
20/10/01 15:47:42.71 .net
>>669
最近は偽阿波という変態が出没してるな

694:日本@名無史さん
20/10/01 15:49:07.65 .net
>>663
それ、奥山の投稿じゃなくね?

695:日本@名無史さん
20/10/01 15:59:07.46 .net
>>671
奥山がトリップを晒したのは2017年12月だよw
88日本@名無史さん2018/06/18(月) 00:47:39.88
スレ主は奥山で正解
okuyamaと自分でミスってかき込んでしまった
2017/12/05(火) 18:49:51.41
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。

696:日本@名無史さん
20/10/01 16:10:04.57 .net
 日本列島での卜骨遺跡で最古最大の鳥取県・青谷上寺地遺跡は、妻木晩田遺跡と共に、
当時の港湾を持つ集落遺跡でした。
集落は弥生前期後葉 (紀元前500年頃 歴博C14年代) から始まり、
弥生後期末 (紀元200年頃)に殺戮が行われ、
しかにもかかわらず、集落は3世紀半ば(250年頃) まで続き、その頃衰退を始める。

697:日本@名無史さん
20/10/01 16:18:01.39 .net
>>672
FAQの書式と違ってるが?
番号ない

698:日本@名無史さん
20/10/01 16:19:58.99 .net
>>673
その頃、奈良は狗奴国やってました
と考えれば畿内説より圧倒的に可能性有りだぞw

699:日本@名無史さん
20/10/01 16:20:48.09 .net
>>674
知らんがなw
自分の記憶を辿れよw

700:日本@名無史さん
20/10/01 16:21:28.79 .net
殷(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。
文献には天乙(湯)が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている
中国最古の王朝である。殷代、商(しょう、拼音: Shāng)、商朝、殷商とも呼ばれる。
紀元前11世紀に帝辛(紂王)の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。
亀卜の起源は古代中国で、殷の時代に盛んに行われていた。
占いの結果などを彫り込んだのが甲骨文字である。
漢代(紀元前206年 - 220年)には衰え始め、唐代になると卜官も絶えた。

701:日本@名無史さん
20/10/01 16:25:59.46 .net
>>676
やっぱりニセモノか

702:日本@名無史さん
20/10/01 16:37:33.61 .net
>>677 続き
そして、九州北部では弥生時代早期(紀元前1000年・歴博c14年代)が始まる。

703:日本@名無史さん
20/10/01 16:41:54.29 .net
>>678 おいおい、とことん時系列に疎い畿内説かよwww 9月時点の書き込みなら奥山だ



705:日本@名無史さん
20/10/01 16:42:00.94 .net
2世紀末~3世紀前半にかけて、大和には鉄が流通してなかったから、大和邪馬台国説は無理。
それに、魏略では倭国の東千余里のとろにまた別の国があり、それらも皆倭種だと書いてあり、中国の学者も地理的に大和を邪馬台国にするのは無理と言うている。
とにかく、大和邪馬台国説は、もう無理無理。

706:日本@名無史さん
20/10/01 16:46:46.47 .net
>大和邪馬台国説
ここは邪馬台国畿内説のスレ

707:日本@名無史さん
20/10/01 16:49:38.29 .net
人が住むのに適した土地の広さという点でいくと圧倒的に九州の方が有利だな
URLリンク(i.imgur.com)

708:日本@名無史さん
20/10/01 16:59:41.43 .net
>>582
>景初三年鏡も正始元年鏡も大和とされた地域から出てるよ
URLリンク(www.ne.jp)
では、大和からは出てないよ。
>そもそも邪馬台国畿内説なので京都大阪奈良の前方後円墳文化のある所が対象なんだけど
そもそも邪馬台国も畿内も、存在もしなかった嘘つき騙し文言だよ。

709:日本@名無史さん
20/10/01 17:00:54.52 .net
>>680
>9月時点の書き込みなら奥山だ
9月時点の書き込みだって証拠は?

710:日本@名無史さん
20/10/01 17:01:59.82 .net
>>583
>オウム返しばかりのオウム人間ザラコク
それで景初三年や正始元年の記名年鏡は大和で見つかってるよ
おや?、このデタラメ大和説男は、
東大理系博士号自称男か?、その仲間であったのか?。

711:日本@名無史さん
20/10/01 17:11:19.97 .net
>>683
東日本広いなw

712:longinus_bouz
20/10/01 17:15:06.30 .net
>>637 > 「道里を計算すると」会稽東冶の東
↑毎回これを無視する池沼畿内説w//
会稽(紹興)東冶(福州)の東ってさ、沖縄諸島しかない領域だろ。無視してるのは、
畿内も九州も、それ以外の何れかを邪馬台国だと云う者も、同じだろうが。
むろん、邪馬台国は沖縄なんかである訳もない(と、魏志は云っている)。
会稽(紹興)の真東ってさ、九州最南端の佐田岬に一致するだろ。
東冶(福州)の真東ってさ、台湾最北端に一致する。
つまり、当時の中国人は、緯度という概念を知っており、
九州最南端や台湾最北端の現地にて、北極星の仰角を測定していた事になる。
まさに会稽東冶の東、と書いてあるのはね、張政が報じた出鱈目な道程記事を論った上でさ、
そんな所に邪馬台国がある訳ないだろ、九州と台湾の間の切れ目なんだしさ、
と云ってるんだよ。
なお、倭人条の出だしは、「倭人在帶方東南大海之中」だ。大海というのは太平洋を指す。
つまりこの出だしは、倭人は太平洋のド真ん中に住んでいる、という意味になる。
これはノッケから笑い処になっててさ、続いて道程記事を論って、
張政(てか、彼を差し向けた曹爽)を、小莫迦にしてるんだよ。
曹爽というのは、晋の創始者として扱われている司馬懿仲達の政敵で、
後に司馬一族に排除されている。晋代に記された三国志であるならば、当然の事だね。
「計其道里 當在會稽東冶之東」の意味する処を解する事もなく、
出鱈目な道程記事をマに受けている限り、邪馬台国の位置なぞ分かるはずもない。
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
  クイズ番組じゃないんだからさ、当ってればいい訳ではないんだよ。
なお、邪馬台国が大和である事は、当時、緯度の概念があったと弁えた上で、
道程記事とは別の記載を読み解く事により、明らかなんだよ。

713:日本@名無史さん
20/10/01 17:18:28.75 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

714:コテ略
20/10/01 17:21:05.67 .net
>>689 > 解散!//
  さっさと失せな、虫けら。

715:日本@名無史さん🐙
20/10/01 17:28:32.59 .net
>>687
後漢の時代の倭国は100国
しかし魏の時代に交流していたのは30国
残りの70国は近畿~東日本だったと考えればつじつまが合うね

716:日本@名無史さん🐙
20/10/01 17:30:56.59 .net
>>605
>楽浪=帯方という事を知らない無知
帯方郡. 後漢末に、楽浪郡の南半分を割いておかれた郡。
卑弥呼も帯方郡 を通じ魏に遣使した。
314年、楽浪郡と同じく高句麗によって滅ぼされた。
という事を知らないらしい東大理系博士号ら。
また、いくら探しても、帯方郡から△が出土した、という記録が見つからない。
という事は、楽浪郡からは△は出土しているが、
帯方郡からは△はほぼ見つからなかった、という事。

717:日本@名無史さん🐙
20/10/01 17:37:39.18 .net
>>612
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅→否定」や、
「明帝の銅鏡百枚→△」など、
そんなこといくら捏造しても
死んだ大和説は生き返らないぞ

718:日本@名無史さん🐙
20/10/01 17:41:04.81 .net
>>691
魏の時代に博多は九州西部や南九州との交流はほぼ無い

719:コテ略🐙
20/10/01 17:41:55.31 .net
>>693 > そんなこといくら捏造しても//
  そんなことを妄想捏造してるのはオ〆だろ、虫けら。

720:日本@名無史さん🐙
20/10/01 17:42:44.72 .net
>>614
>自分は奈良でも福岡でもないので中立的で客観的な立場だよ
最初はネットの畿内説、九州説それぞれの偏った見方を見てたけど
自分で調べていくうちにおかしいとわかってきたよ
とりあえずおかしいのは放射説と円形配置説で
そうなると九州北部に邪馬台国はない
ただ鹿児島南部説は否定しないよ
ダメだよ。
3世紀の卑弥呼の頃には、畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙しの文言であり、
そんな文言を使っておれば、大和説学者らに騙されている事が見え見えだよ。

721:日本@名無史さん🐙
20/10/01 17:45:11.94 .net
👊🏿👇🏿👇🏿👇🏿👇🏿👇🏿👇🏿👇🏿👇🏿👇🏿👊🏿
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722:日本@名無史さん
20/10/01 17:45:13.67 .net
>>692
楽浪も
三角縁神獣鏡の作られた景初三年には
魏の領土

723:日本@名無史さん🐙
20/10/01 17:57:49.65 .net
魏王が亡くなったのは景初2年

724:日本@名無史さん
20/10/01 18:01:30.69 .net
建安だろ

725:日本@名無史さん
20/10/01 18:05:19.15 .net
吉備国

726:日本@名無史さん
20/10/01 18:07:32.55 .net
吉備忌部   @阿波

727:日本@名無史さん
20/10/01 18:16:19.64 .net
>>697
このタコは何なの?

728:日本@名無史さん
20/10/01 18:17:06.70 .net
>>703
すこればわかる

729:日本@名無史さん
20/10/01 18:18:23.80 .net
>>704
どうやったらタコ書き込めるの?

730:日本@名無史さん
20/10/01 18:21:29.54 .net
>>705
🐙ྀིྀིればわかる

731:日本@名無史さん
20/10/01 18:23:40.86 .net
>>706
そんな絵文字無い

732:日本@名無史さん
20/10/01 18:29:15.31 .net
一定期間だけらしい

733:日本@名無史さん
20/10/01 18:33:43.48 .net
もうヤケクソか?  わははははは   @阿波

734:日本@名無史さん
20/10/01 18:34:57.31 .net
>>690
虫けら言い過ぎだろ笠井新也の請け売りオヤジw
箸墓が卑弥呼陵だという根拠は?
で、おまえの狗奴国はどこ?

735:日本@名無史さん
20/10/01 18:35:42.69 .net
ああ、、、タコ無しのまま終わった

736:日本@名無史さん
20/10/01 18:46:52.36 .net
>>683
奈良w

737:日本@名無史さん
20/10/01 18:50:37.07 .net
笠井新也先生は100年ほど早く生まれ過ぎた。 そのせいで、郷土の真実を見誤ってしまった。   @阿波

738:日本@名無史さん
20/10/01 19:02:20.65 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)

馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

739:us_bouz
20/10/01 19:11:20.20 .net
>>625
> その通り、ミマキ(崇神)の家系が王になるのは4世紀初頭から//
  ミマキ(崇神)は、卑弥呼トヨたんと同時代人でしょう。4世紀初頭は、遅すぎる。
> 崇神は前王権を倒した//
  乗っ取った、という表現が、実情に近いと思いますよ。
トヨたんは記紀に登場してるのだが、トヨという名前ではない。
記紀の矢鱈出て来るトヨなんとかってキャラは、全てカモフラージュなのだが、
これは、簒奪という誹りを免れるために、トヨたんの存在を隠した結果ですわ。
> 日本書紀にも書かれてるが、出雲振根は崇神に出雲の神宝を奪われた//
  要するにミマキ(崇神)は、宗教対策を行った、という事でしょう。
前王朝を乗っ取った彼には、排除しておかねばならない神がいますね。
云うまでもなく、卑弥呼やトヨたんが仕えたという、鬼ですね。
鬼は追い出された、出雲に。大国主の岳父のスサノオとしてね。
> 葛城、奈良県御所市である//
  葛城氏や巨勢氏の拠点であり、宗家とは関係ないね。
彼らもまた、邪馬台国に属した他の豪族同様に、古大和湖を灌漑して、
勢力を伸ばしていった、というだけだ。

740:us_bouz
20/10/01 19:12:37.75 .net
>>710 > 虫けら言い過ぎだろ//
  鳴くな、虫けら。時節柄ではあるが、無風流だな。
> 笠井新也の請け売りオヤジw//
  箸墓が卑弥呼墓であって、何ぞ矛盾でもあるのかね。
> 箸墓が卑弥呼陵だという根拠は?//
  径100歩が、全てだよ。当時は箸墓だけだ。
まぁ、何故張政がそれを記さねばならなかったのかってのと、
「当時の中国人は、緯度という概念を知っており:>>688 」、
というのが分からんと、理解できんのだろうがね。
> で、おまえの狗奴国はどこ?//
  馴れ馴れしい口を叩くな、虫けら。身の程を弁えな。
奴国で女王国が尽きて、その南ってんだから、その辺りだろ。
クコチヒコは菊池彦でも構わんよ。
ヒミクコって、自分こそが卑弥呼だ、の意味だね。女性じゃないんで、卑弥彦だ。
>>713 > 真実を見誤ってしまった。   @阿呆//
  そりゃオ〆だよ、妄想塗れの虫けら。

741:日本@名無史さん
20/10/01 19:17:30.00 .net
>>582
お前本気で出たとかいい加減やめろよ。
畿内論者のイメージがタダ下がりだわ。
平気で嘘をつくその癖、治したら?

742:日本@名無史さん
20/10/01 19:19:01.96 .net
>>621
>普通の正常な思考の持ち主が魏志倭人伝だけを読んだなら宮崎など九州南部に辿り着くよ
しかし中国人は対馬海峡~北部九州一帯が邪馬台国だと言う
ダメだ。
普通の正常な思考の持ち主が魏志倭人伝を読んだなら、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事が判り、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事が判り、
投馬國へは、「途中移動があった事を示す文言がない」から、
不彌國から南方の水行二十日の「南九州」にある事が判り、
従って、女王國の範囲は、ほぼ九州島付近及びその周辺島嶼群である事が判り、
更に、「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の參問倭地は、
侏儒國付近までの「陸路の移動の參問」の里数合計である事が判るのですよ。
>しかし中国人は対馬海峡~北部九州一帯が邪馬台国だと言う
陳寿は言っていないし、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だよ。

743:日本@名無史さん
20/10/01 19:19:09.58 .net
>>716
「大きいから天皇陵」  単細胞の思考回路。 
「忌部はん」 のお墓を有難がる隠れ忌部。  わははははは   @阿波

744:日本@名無史さん
20/10/01 19:20:44.10 .net
古田反日有害鮮人は普通の正常な思考の持ち主ではないからな

745:日本@名無史さん
20/10/01 19:22:58.22 .net
>>622
前方後円墳と冢との違いや、「径」の計測法や「百余歩」や、
「徇葬者奴婢百餘人」を説明できなければ、
どんな辻褄合わせもダメよ、
だから九州説や祇園山説が一歩進んでる訳よ

746:日本@名無史さん
20/10/01 19:24:30.42 .net
>>717
じゃあ何て言えばいいのさ

747:日本@名無史さん
20/10/01 19:26:33.80 .net
>>682
あれ、大和抜いたら、畿内はドーナツじゃん。
畿内説はドーナツ説か。
どうりで、畿内説は穴だらけなわけだ。

748:日本@名無史さん
20/10/01 19:26:59.37 .net
>>721
卑弥呼の墓は径百歩つまり直径140mくらいと魏志倭人伝に書いている
箸墓古墳の円墳部はそれに相当

749:日本@名無史さん
20/10/01 19:28:36.01 .net
>>623
>着かないよ そこ、会稽東治の東じゃない
ダメだ。
会稽東治の東は、ほぼ「南九州の佐多岬付近」だ。
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
証拠も出さず、こういうウソ言うから
信用がない

750:日本@名無史さん
20/10/01 19:31:31.26 .net
>>725
会稽東治の東は今でいうと福建省福州市の東で
沖縄や台湾のあたりを指す

751:日本@名無史さん
20/10/01 19:31:49.13 .net
要するに審神者だろ卑弥呼
殉葬だのやってたんだから生贄風習はあったんだよな

752:日本@名無史さん
20/10/01 19:34:28.19 .net
>>625
>卑弥呼もトヨも畿内に移住してたイズモ王の宗家にいる。
ダメだ。
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠っても、×だ。
>邪馬台国の都は纏向でも九州でもない、ヒメ(踏鞴五十鈴)后の住んだ葛城、奈良県御所市である。
ダメだ。邪馬台国なんても、存在もしなかった嘘つき騙し文言だから、×だ。

753:日本@名無史さん
20/10/01 19:36:25.06 .net
>>716
俺が虫けらなら、おまえは単細胞生物だがなw
箸墓の後円部の径は160mだぞ
百余歩(145~159.5m未満)に合わないんだよ
ちょっと大きすぎるの
大口叩いて狗奴国も分からないのかゴミカスw

754:日本@名無史さん
20/10/01 19:39:34.95 .net
>>682
あれ、邪馬台国畿内説は、まだ生きてたのか。
とうにお蔵入りしたものと思ってたがな。

755:日本@名無史さん
20/10/01 19:41:00.98 .net
>>627
>斜縁神獣鏡は華北東部から楽浪、つまり魏領域に分布というのが常識で、呉領域では「伝」浙江省の1枚あるきりなのに
ダメだ。
斜縁神獣鏡は、神獣鏡であり、だから華中から呉付近の鏡であり、
「華北東部から楽浪」も、魏の中心部ではなく、呉付近から楽浪への通り道沿いになる。

756:日本@名無史さん
20/10/01 19:42:16.22 .net
>>726
残念だが日本書紀でも短里が出てくる。
崇神記65年 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
任那~筑紫間が2000余里と記述されている。
陳寿は長里だと思ってたが、手にした資料で使われていたのは短里だった。
戸数や距離は倭人からの伝聞情報だったのだろう。

757:日本@名無史さん
20/10/01 19:51:52.52 .net
>>633
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州の否定」など、
そんなふうに、自分個人の勝手な思いで、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しを理由もなく言い張るのが
御託宣教、こと大和説学者や東大理系博士号自称男。

758:日本@名無史さん
20/10/01 19:54:08.36 .net
>>634
東大理系博士号自称男らの投稿を読んでて、つくづく思う
大和説にとって「理由」とは、史料事実や史料実態ではなく、
「俺が言ってんだから正しい」しか無いようだ

759:日本@名無史さん
20/10/01 20:03:42.67 .net
>>636
洛陽で発見されても、0~1枚では、
列島の500枚以上の△の証拠にならないのではなかったの?。
実際に見つかるのは楽浪や列島地域
師出洛陽は洛陽出身の鏡師が作ったという意味だけなので
鏡師は当然洛陽に居なかった事になるし
洛陽からも三角縁神獣鏡は0~1枚しか見つかっていない
三角縁神獣鏡の銅と魏鏡の銅のそれぞれの微量元素の成分比は、
近似的な範囲内にあった、というだけ。
つまり使用された材料銅の寄せ集めであったから、
「全く同一ではなかった」というだけ。

760:日本@名無史さん
20/10/01 20:20:39.54 .net
>>639
同時代の実地の見聞計測の1次資料は、間違えれば皇帝らの逆鱗に触れるなどで、
正確な情報しか書けなかったもの。
後年になって間違った解釈がされて間違った情報が書かれるなんてよくあった
つまり、後年に作られた新しい資料の方が間違いであった。
景初二年六月の記事は景初三年の間違いではない、というのが史料事実であり定説
そもそも景初二年12月に明帝から詔書が出ており、
その前の景初二年6月に倭国の使者が(帯方)郡に訪れて、
その後、郡の軍に付き添われて洛陽に着いた、というのは、全くおかしくない事
そもそも景初二年の6月には、帯方郡には魏の役人らが着任していたんだから、
魏の楽浪帯方攻撃戦争は終わっていた、という事になる。

761:日本@名無史さん
20/10/01 20:22:22.67 .net
>>640
>だめだめ、投馬国、桃魔桃毛桃蟠?から吉備岡山。
ダメダメ。投馬國は、南九州。

762:日本@名無史さん
20/10/01 20:30:30.52 .net
>>731
>ダメだ。
>斜縁神獣鏡は、神獣鏡であり、だから華中から呉付近の鏡であり、
そんなウソ、いくら連呼してゴリ押ししても
九州説の信用が落ちるだけだぞ


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