司馬遼太郎被害者の会があったらat HISTORY
司馬遼太郎被害者の会があったら - 暇つぶし2ch140:日本@名無史さん
23/02/04 08:32:37.16 .net
沈壽官窯の茶寮には、「故郷忘じがたく候」の文庫本が積まれているそうだ。
観光客に販売されているんだな。
今でもこの本は沈壽官窯(大迫さん)の稼ぎの種になっている。
「故郷忘じがたく候」の初版は昭和43年(1968)。
学生運動華やかなりし頃だ。たとえば日大紛争は昭和43年から44年。
東京大学安田講堂事件は44年1月。
社会全体がベトナム戦争反対で盛り上がっていた。
文芸春秋がこの風潮に合わせて 沈壽官 を引っ張り出し、司馬遼太郎に書かせたんだろうな。
司馬遼太郎も調子づいて中身を盛りまくった。
14世が鹿児島二中で上級生たちにリンチを受けた事件まででっち上げ、
さらにその後、リンチをした上級生たちと一人づつ対決し、自分を認めさせたというエピソードまで
創り出した。沈寿官さんの名誉のために付け足しておいたんだろう。
しかし、言うまでもないが、リンチ事件など存在しなかった。
本当にこの頃の出版界というのは出鱈目だった。
ベトナム反戦で盛り上がった社会の風潮に合わせ、例えば日本軍の中国における残虐行為などを
暴いた本なども次々に出版された。
事実ならいいが、風聞に基づいたいい加減な内容のものもあった。
司馬も目一杯出版社の依頼に応えた。
エピソードを創り出してしまうんだからすごい。
この本を読んだ鹿児島二中のOBたちは激怒し、訴訟まで考えたらしいが、そういう動きは報道される
こともなかった。司馬遼太郎は出版界にとって「金の卵を産む鶏」だった。
出版界全体で司馬に対する批判を封じた。
司馬遼太郎に対する批判が出てきたのは、最近のことだ。
すっかりその気分にさせられている読者のブログ
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
「14世の父13世は京都大学法学部卒、14世は早稲田大学政経学部卒。村の小学校から旧制鹿児島二中に
入学したとき、その姓からか呼び出しを受けいわれなき鉄拳の雨を受けますが、そのご一対一の対峙で
自分を認めさせていったそうです。薩摩人以上の薩摩人の意地を通したのです。」
だってさ


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