20/02/02 12:03:15 .net
飛鳥時代からは文字の記録が残っていて
正確な天皇の年代が推測できたが
それ以前は門司の記録がなくて
正確な推測ができなかったんだろうね。
401:日本@名無史さん
20/02/02 12:36:42 .net
なぜか7世紀から前の文字記録がほぼない日本史の謎
後漢の頃から大陸と文書をやりとりしていたはずなのに。
飛鳥時代?
寝ぼけているのか?
402:日本@名無史さん
20/02/02 12:42:49 .net
7世紀前の文字記録があやふやなのは筑紫倭国の傍流地方政権だったからだよ
東海も制圧できない大和が高句麗と戦うのオカシイだろ
403:日本@名無史さん
20/02/02 13:09:52 .net
要するに政変の後で、筑紫倭国の記録は徹底的に破壊されたんだよ。
404:日本@名無史さん
20/02/02 15:29:18 .net
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
405:日本@名無史さん
20/02/02 15:37:47 .net
文字の出土状況
3~4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していない、でたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。
406:日本@名無史さん
20/02/02 22:25:35 .net
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600~2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> ?河姆渡第3~第4期(前5000~前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> ?屈家?期(前3000~前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> ?石家河期(前2600~前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
URLリンク(www.kyoto-up.or.jp)
407:日本@名無史さん
20/02/03 06:18:06 .net
2/1(土) 17:53配信 毎日新聞
松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、
福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。
石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200~300年さかのぼって最古となる。
一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
408:日本@名無史さん
20/02/03 06:23:20 .net
文字は九州に限らずあった。
ヤマト王権が、中国の文化大革命と同じように
記紀神話を正当化するために各地の記述を葬り去った
409:日本@名無史さん
20/02/03 06:26:04 .net
北朝鮮の将軍様の神格化と同様
と記紀の神話部分は読むべきである
410:日本@名無史さん
20/02/03 06:33:53 .net
>>366
>倭国=九州島限定なのだろう<
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國
次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國
次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
この国ぐには九州のどこよ?
411:日本@名無史さん
20/02/03 06:39:26 .net
九州に鉄が多いなは当たり前
畿内勢力が九州を征服するための戦場だったのだから
これが倭国大乱
412:日本@名無史さん
20/02/03 06:44:54 .net
生活用の鉄器なのだがな
倭国乱などは前哨戦にすぎない
その後の倭国=邪馬台国=やまと国と狗奴国の戦いが国家総力戦
畿内など狗奴国の植民地でもともとわずかな鉄器をほじくり出して武器原料として供出したのだ
413:日本@名無史さん
20/02/03 11:17:08 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
414:日本@名無史さん
20/02/03 12:55:48.88 .net
畿内を中心に仙人思想がやがて生まれるんだよ、この説明をつけなきゃならない曹操に解体させられた宗教集団が流れてきたのが倭国大乱だろ。
415:日本@名無史さん
20/02/03 16:18:59.22 .net
畿内が中心になるのは白村江以降
その辺のオッさんでも知ってる事だぞい
416:日本@名無史さん
20/02/03 17:36:29 .net
>>414
中卒だろおまえ
日本には縄文弥生を通して中国大陸から渡来定着した痕跡遺構はない
日本には縄文弥生を通して中国大陸から渡来定着した痕跡遺構はない
417:日本@名無史さん
20/02/03 18:01:45 .net
有明海沿岸の6000年位前からの出土物を一度検索してみるといいよ
418:日本@名無史さん
20/02/03 18:32:49 .net
梟師って書いてスグリって読むんだろ
419:日本@名無史さん
20/02/03 18:33:43 .net
忍者だべそいつら
420:日本@名無史さん
20/02/03 18:54:54 .net
纏向遷都は、倭人伝の239年公孫氏、246年韓王朝滅亡と符牒して
250年~350年あたりまでなんじゃのいのかな?
これは、瀬戸内海ルートの成立と九州平定とも同期している。
350年以降の大王墓は大阪湾寄りに下ってるでしょ。
で、弥生鉄器の分布で、纏向以前の朝廷の基盤としては九州は、
倭人伝の筑紫卑弥呼王権の存在によって否定されているから
日本海ルート 出雲~丹後~越前ってことだよ。
どんなに遅くても、57年金印以降の九州墳墓から
壁画文字、木簡、印字土器青銅器は出るはずだけどね?
卑弥呼の墓に、文字が無かったら大笑いwww
絵の有る銅鐸から、文字が出ないってことは、
金印の漢以降から、漢四郡や公孫氏との交流が確実な九州以外の日本国には、
銅鐸終了まで、文字が普及、使用していないって可能性は高い、とは思う。
遺跡から出ても大陸との交通は青銅時代で、BC200年には確実にあるから・・・
古墳時代の終わり、ってのは完璧な盗掘時代だったんじゃないのかな?
300年代には七支刀~400年以降~五経博士、聖徳太子で古墳は終了としてもだよ?
なのになぜ、漢名の倭の五王や漢字の氏姓まである豪族の古墳からは文書が出ない?
仏教公伝、500年以前に神社があったなら
石祠や石碑に文字を彫らないなんて、そんなこと有るか?
記紀ってのは日本の古代史という発酵味噌に混ざったウンチだと思うね。
畿内説が、まじぇまじぇ、してんだろwww
421:日本@名無史さん
20/02/03 19:19:35.07 .net
韓王っていたんだ
422:日本@名無史さん
20/02/03 19:56:21.37 .net
古代韓は燕、遼東の箕氏朝鮮王が衛満に追われて半島で韓王を名乗ったことに始まる。
漢は半島に進出し、楽浪他、四郡を設置した。
しかし、南岸の韓半島は、倭人伝を残した魏の奇襲までは不可侵であった。
倭人伝と言うのは、その東夷伝序文にある
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
中華に知られていない、倭を紹介する為に記録され、この状態は、
遣隋使帰国便、600年初頭の聖徳太子時代、600年裴世清の記録迄続き、
中国史書では南朝を天帝としての朝鮮半島の領有権交渉、
倭の五王の記述以外では空白となる。
日本が漢字文化圏であるのは事実だが、中華の
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷
として、
傀儡とした半島古代諸国のように
日本が中華に、服した歴史は無い。
畿内説は、中華起源の皇国史的にも、頭がおかしい。
倭人伝は、筑紫を中華の一部と見るための記録である。
423:日本@名無史さん
20/02/03 20:16:05.23 .net
昨日のNスペ『酒』
酒に弱い、分解遺伝子の弱い人の分布を見ると稲作伝搬に一致してるという分析してて面白かった
大陸江南に次いで酒に弱いのが西日本で東日本、朝鮮はそんなでもない
南九州、東北、北陸の縄文色の強い地域はわりと酒が強いんだよね
424:日本@名無史さん
20/02/03 22:24:41 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
425:日本@名無史さん
20/02/04 00:18:04 .net
>>418
梟師は「たける」
iPhoneでも変換できるぞ。
426:日本@名無史さん
20/02/04 00:22:15 .net
>>413
>日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
吉武高木遺跡では高床式と思われる建物が登場する。
二千年以上前でも、筑紫倭国の最上流の首長層は大陸の様式を取り入れていた。
古墳時代云々は、後進地域の大和が基準の年代観だろ?
427:日本@名無史さん
20/02/04 00:31:16 .net
>>414
天子が太陽を背にして君臨する思想は筑紫生まれの神武が九州から持ち込んだもの。
三輪山の配置などにそれが反映されている。
しかしその源流はおそらく、高祖山を背に伊都を見下ろす高祖宮にあるだろう。
高祖宮は天孫族である彦火々出見の宮であり、神武が出発した筑紫の日向の高千穂宮のことである(神武自身も一書によれば彦火々出見とも呼ばれる)。
三雲遺跡の王は鏡をたくさん副葬されており、伊都は太陽信仰の中心地であったと考えられる。
平原遺跡の女王は世界最大の銅鏡である八咫の鏡を副葬されており、これもまた太陽信仰の影響があっただろう。
アマテラスのモデルと考えられる卑弥呼にふさわしい。
428:日本@名無史さん
20/02/04 01:15:46.66 .net
>>426
高床式倉庫は弥生早期の江辻遺跡に松菊里型住居とセットで登場してくるの
松菊里型住居とセットで
つまり弥生の高床式倉庫は松菊里型住居があった場所から伝わっているという事
確かに弥生後期中頃くらいから祭祀を扱う首長クラスの人だけ高床式建築に
住むようになった
だが、そのときの中国大陸の人々はすでに土壁の戸建てか、瓦屋根に土壁の戸建てに
住んでいたのである
429:日本@名無史さん
20/02/04 14:26:48.23 ET7P5kZEX
畿内説なんて「発掘バカ」が唱える妄言w NHKは全く相手にしないだろうねw
もちろんNHKは九州説に軍配を上げてはいない。あれほど歴史好きなNHKだが、
邪馬台国論争には完全に距離を置いている。しかし、「ブラタモリ」を見てい
ると、その歴史観は一種の「唯土木史観」としか思えない。土木工事の痕跡か
ら歴史を語るのがすごく好きなのがわかる。したがって発掘バカが語る「出土
物妄想歴史観」などはすごくバカにしてそうwww 「桃の種」なんて嘲笑し
ていることは疑いないな wwwwww
430:日本@名無史さん
20/02/04 14:42:47.96 ET7P5kZEX
>>408
>文字は九州に限らずあった。
俺もそう思う。西日本全域にあったはず。
>ヤマト王権が、中国の文化大革命と同じように記紀神話を正当化するた
めに各地の記述を葬り去った
俺はそうは思わない。西日本全域で文字は使われていたが、その文字は
「外国語としての漢字」だったに違いない。この「外国語としての漢字」
で中国や朝鮮と交易していたはず。しかし、文字がそれぞれの地域(北
九州、出雲、吉備、大和)などで、「それぞれのローカル情報=地名、
各地の動植物の名前など)を表現するために使用されるようになってか
ら、「文字が地域ごとにローカル化」されるようになり、違う地域同士
では互いに意味が通じなくなったのだと。そして、ヤマト朝廷の西日本
支配が確立後に、「ローカル化した文字」を「統一化」するための標準
化が行われ、これによって「風土記」や「記紀」が成立したのだと。そ
して無用の長物化した「ローカル文字」は消滅していったのだと。中国
の文化大革命のような政治的理由での文化弾圧があったとは思わない。
431:日本@名無史さん
20/02/04 14:34:22 .net
松菊里型住居、高床式倉の伝搬と言うのは、弥生の稲作伝搬とは時期が違う。
むしろBC200年からの青銅の搬入に関して、倭人は松菊里以北、
金印の九州はもちろん、漢四郡域にも進出している。
その上で、九州と本州日本海ルートでの青銅器文化は同じ道筋には無い。
松菊里の半島文化が日本に対して先進地域だったニカ? と言うなら
なんで四郡以南は日本同様の時代系列に在って古代中国文化が伝わっていないのか。
と言う、中卒でも考えうる問題にぶち当たる。
三国志の語る東夷伝倭人伝~楽浪候幽州刺史となる高句麗との戦350年
新羅百済の建国に至る過程では、246年馬韓辰韓が帯方郡に敗れているにもかかわらず、
半島南岸の日本域は、魏や司馬炎の統一後も中華の進出を阻んでいる。
大学生や学者もそろそろ、子供のように言い張るだけ、をやめて
倭人伝を正しく読んでみてはいかがか?
432:日本@名無史さん
20/02/04 14:50:39.44 ET7P5kZEX
「風土記」については俺はこう考える ⇒ 風土記は大和朝廷の西日本統一以
に以前にすでに出雲や吉備などの主要国で作成されていたに違いないと。した
がって、現在残っている風土記は、それぞれのクニのローカル文字で作成され
ていたものを「ヤマト標準文字」で書き換えたものなのだろうと。少なくとも
出雲や吉備については疑いない。ただ、常陸のような東国の田舎にすでに「ロ
―カル言語」があったのかは疑わしい。これは、大和朝廷が現地で聞き取りし
て書いたものだろうと思う。
433:日本@名無史さん
20/02/04 14:52:11.89 ET7P5kZEX
>>432
× 「ローカル言語」 〇 「ローカル文字」
434:日本@名無史さん
20/02/04 15:00:25.32 ET7P5kZEX
格言⇒ローマは一日にしてならず この格言の応用⇒「統一言語(話し言葉&
文字の統一)」は一日にしてならず。 これが「歴史的思考」だw 歴史を出
土物のみで語ろうとするバカの知能は中学生並みだぜ wwwwww
435:日本@名無史さん
20/02/04 15:02:31.75 ET7P5kZEX
テレビで学べる「歴史的思考」の神髄は、NHK「ブラタモリ」だ。この番組ほど
「歴史的思考」を養うのに有益なものは他にない。
436:日本@名無史さん
20/02/04 18:41:46 .net
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
437:日本@名無史さん
20/02/04 18:48:29.26 .net
高床式は弥生人らでしょ
縄文古来のは地面に穴を掘っての地下壕に近い作りの家らしいでな
438:日本@名無史さん
20/02/04 18:49:46.40 .net
穀物を収めるために高床式必要なんだね
つまり
439:日本@名無史さん
20/02/04 18:51:22.22 .net
古墳なんてあるじゃん
あれは墓ってより本来は人間らの生活住居に近い
つまり城だの家だのに相当
440:日本@名無史さん
20/02/04 19:11:49 .net
高床式に住むならその連中らは穀物類を作り出した生活に切り替えた連中らでしょ
441:日本@名無史さん
20/02/04 19:32:42.08 ET7P5kZEX
古墳は墓には違いないが、実は本来的には水田開発で生じた掘削残土を利用した
多目的構造物なんじゃないかと思う。まず、ランドマーク効果。この時代の人間
にとって方向音痴にならないための目標物。海に近ければ海上からの目印にもな
る。そして、大きければ大きいほど示威効果もある。それでこそ、大勢の民衆を
動員できたわけで。そうでなければ仁徳天皇稜なんか「奴隷制」の存在を仮定し
ないと造成できなかったことになりそうだしwww
442:日本@名無史さん
20/02/04 19:38:41.69 ET7P5kZEX
>>441
(続き)さらに災害時(海に近い所では水害)の避難場所にもなるし、敵の
襲来を発見するための「物見」場所にもなり得る。実際、埼玉県新座市の平
林寺の広大な林の中には「物見場」がある。これは解説板がなければ「古墳」
と思い込む人間が多数いるに違いない「大きな盛土」だぜwww 発掘バカ
はもっといろいろ世間を見て回れよ wwwwwww
443:日本@名無史さん
20/02/04 19:48:50.50 ET7P5kZEX
>>442
>埼玉県新座市の平林寺の広大な林の中には「物見場」がある
平林寺のこれは、敵の襲来を監視するためのものではなく、野火(火事)
を発見するためのもの。この付近には「野火止用水」という人工水路が江
戸時代に造られていた。
444:日本@名無史さん
20/02/04 19:57:02.69 ET7P5kZEX
まだ歴史学では全く確認されていないが、俺様の予想では「古墳には倉庫機能
もあった」に違いないと思うぜw 人間の考えることはいつでも同じだよw
そしてその倉庫の中には、次の古墳を造成するための材料(枯らした流木、芦
や茅、河原から集めた小石や大石などの建設資材)が蓄えられていたと思う。
445:日本@名無史さん
20/02/04 20:11:07.54 ET7P5kZEX
物見場は樹木が高く育ってしまうと視界を邪魔するので、定期的に焼き払って
視界を確保する必要がある。奈良の若草山の野焼きが有名だが、こういう場所
は日本のあちこちにある。そして、野焼きの手間がかからぬよう、樹木は若木
のうちに伐採して常に草原状態を保つようにしている。これを「カヤト=茅戸」
と呼ぶことが多い。茅は茅葺き屋根の建築材料にもなる。今は森と化した仁徳
天皇稜も遠い古代には「カヤト」だったに違いないねw
446:日本@名無史さん
20/02/04 20:13:08.93 ET7P5kZEX
さて、俺の勝手な考えだが、「仁徳天皇陵のてっぺんをカヤト化する」のが、
本来のこの稜の姿に違いないだろうなwww
447:日本@名無史さん
20/02/04 20:15:53.76 ET7P5kZEX
まとめ・・・・古墳は単なる墓ではない。ランドマークであり、物見場であり、
建設資材倉庫であった。
448:日本@名無史さん
20/02/04 20:55:47.90 .net
畿内説スレ
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6 、 これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
(倭人伝の記す方角・里数は信頼するに足らず、又、説得力ある比定の材料をも欠くため、候補として上記地域を示唆するに留む)
449:日本@名無史さん
20/02/04 22:05:39 .net
>>448
何の反論にもなってない駄文だな
そういうのは負け犬の遠吠えという
450:日本@名無史さん
20/02/04 22:46:24 .net
>>440
これは実に明快だな。
南方から高床式と稲作を同時に持ち込んだのだな。
451:日本@名無史さん
20/02/04 23:14:53 .net
>>450
中卒乙
BC10Cに菜畑に稲作が伝わった当初、高床式倉庫はまだなく、
弥生人たちは貯蔵庫として穴蔵を使っていた
高床式倉庫が松菊里型住居とセットで江辻遺跡に登場するのはBC9C頃
以後、穴蔵と高床式倉庫の二本立ての貯蔵庫が弥生中期まで使われたが、
弥生後期になると穴蔵は消滅した
452:日本@名無史さん
20/02/05 03:34:05 .net
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
453:日本@名無史さん
20/02/05 11:21:45.81 .net
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
URLリンク(inoues.net)
.
454:日本@名無史さん
20/02/05 11:26:04 .net
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
455:日本@名無史さん
20/02/05 11:46:27 .net
>>452
中卒乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
456:日本@名無史さん
20/02/05 18:37:10 .net
>>455
> こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
> 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
>
> URLリンク(10mtv.jp)
このビデオで話してる藤尾って学者、典型的な朝鮮顔だなw
名字は藤尾だが祖父母あたりまで遡って完全に日本人の血統かどうか調べる必要がありそうだ
朝鮮人は嘘の歴史をさも本当かのように平気で発表するのが日常茶飯事だからね
457:日本@名無史さん
20/02/06 15:05:25 .net
半島のゴミいらんよ
458:日本@名無史さん
20/02/06 15:14:03 .net
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
459:日本@名無史さん
20/02/06 19:27:11.02 .net
要は、オクキョン遺跡の水田が、
どこから伝わったか。 だろ?
BC1500年に農業都市化して~1100年水田構築?
中国から土器や農機具の文化が伝わってないのは、日本と同じ。
釜山の北? 自然発生じゃなきゃ対馬から入った倭人に決まってる。
これは、三国志が歴史を記録していることだ。
箕氏朝鮮遺民や秦の移民が、馬韓辰韓で水田耕作に成功していない。
オクキョン遺跡の水田を成功させた、その南部に異民族が居た。
日本だろ? 縄文時代の弥生人だけどなwww
460:日本@名無史さん
20/02/07 10:21:45.69 xuAsZcQib
水田もいろいろあらあなw 一番易しいのはいわゆる中山間地の水田だろ。今
ではもてはやされている「棚田」だな。日本ではこの後、火山山麓の伏流水を
利用する水田が現れる。その後、大河(筑後川、淀川など)に流入する支川の
水田が開発されるようになる。奈良盆地の大和川(淀川の支流)の水田開発あ
たりから、水田開発が大規模化して古墳時代に入っていく。利根川や木曽川の
ような大河の開発が進んだのは江戸中期以後だろ。土木技術の発達で水田開発
も進歩していったわけで、ただ単に古いから自慢できるようなものじゃない。
461:日本@名無史さん
20/02/07 10:09:22 .net
中卒の高校生だからw 時系列的に馬韓辰韓は水田耕作あるよね。
箕氏朝鮮はBC1100~195年、箕氏遺民が半島に渡り韓王を称すのは、
衛満が箕氏を追い遼東に入るBC195の後で漢王朝以降の話。
BC1100年~BC1500年で、殷周文明、土器工具を持ち込まずに燕を経て、
竪穴暮らしで、水田だけがオクキョン遺跡、釜山付近に伝わるのは確かにおかしい。
日本の青銅器文明の源流のはずなのに先進文明は無い?
半島石器人は寒冷期に南下して水田耕作可能な釜山にだけ残ったのか?
半島史の問題の本質は、それ以前の日本が縄文期の石器人はどこに行ったか? だね。
現代半島人のDNAが北方系であるから青銅を持ち込んだ大陸人が奴隷にした、
ってのが順当として、陸続きであるのに日本と同様で、殷周文明は入っていない。
半島石器人のDNAをちゃんと調査する必要は有るだろねjmon.
軍事帝国の漢は四郡を設置したのに、魏代まで南部の古代韓には侵攻していない。
ってのも謎で、中国史では半島南部や倭人南岸域は公孫氏に属したというが
青銅を売ったであろう四郡~公孫氏は南部韓や倭と良好な関係にあったのではないかな?
462:日本@名無史さん
20/02/07 10:18:02 .net
>>461
>四郡~公孫氏は南部韓や倭と良好な関係にあったのではないかな?
公孫氏の成り立ち及び曹操との主従関係からすれば、当然にしてその通り。
長きにわたって優良・友好な関係にあった。
ただ公孫氏4代目のバカ殿の晩年に、数年間だけ不仲になっただけのこと。
463:日本@名無史さん
20/02/07 10:43:10.35 .net
朝鮮半島には中国陶磁器文化も中国青銅器文化もないんだよね
櫛目文土器も無文土器も楽浪土器も遼東から入った土器文化だし、
青銅器はオルドス青銅器から入っている
中国大陸とは関係が希薄なんだよね
楽浪郡帯方郡にしても、太守などのごく僅かなトップ層だけが中国大陸から
派遣されて赴任するだけで、それ以外の人は遼東から入植した人たちなんだよ
だから中国陶磁器文化も中国青銅器文化もない
464:日本@名無史さん
20/02/07 11:53:11 .net
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
465:日本@名無史さん
20/02/07 12:39:18.70 .net
>>464
中卒乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
466:日本@名無史さん
20/02/07 12:40:31.26 .net
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
467:日本@名無史さん
20/02/07 13:21:24.89 .net
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6。 これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
(中略)
>九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て
>里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
九州上陸地として、白鳥は平戸を挙げ、そこからの陸行は、海岸伝いに松浦ー唐津ー糸島ー博多へと向かったとしている。
しかしそもそもこれが大間違いであり、はるばる西の平戸に行って博多に戻るくらいなら、最初から博多に上陸すればよかったのだ。
ここは素直に、>>1 も述べる通り、唐津湾に注ぐ松浦川中流の中原遺跡が順当なところだ。
そして、そこから東南の佐賀平野へ向かえば何の問題もなく、陸行500里で佐賀川上と云う歴史的な遺跡群に到着する。
この地は律令制下では山田郷といった。和名抄には「也万多・やまた」と(注:がある。
468:日本@名無史さん
20/02/07 13:26:44.17 .net
佐嘉郡
「肥前国風土記」では、佐嘉郡6郷・19里とあるが、郷や里の名は登場しない。
「和名抄」では同じく6郷とし郷名も記している。
・城崎郷(木佐岐):遺称地として佐賀市大和町尼寺の国分地区に城崎という地名があり、この付近と推定される。
・巨勢郷 :佐賀市巨勢町付近と推定。
・山田郷(也万多):佐賀市大和町東山田、及び大和町川上の西山田の付近と推定。
・小津郷(乎ツ・乎都):『川上神社文書』では小津郷の地名に与賀里とあり、現在の佐賀市与賀町付近と推定。(以下の郷は略)
(注)小津、乎ツ、乎都とあるように、「都」は此の地では「ツ」と読まれた。
故に、倭人伝の「伊都国」はイツコクと読み、後世転じて、乎都、乎ツ、小津、となったと見做すのが合理的であり、これを否定する理由は見当たらない。、
469:日本@名無史さん
20/02/07 13:35:21.76 .net
イツ国と読む可能性は否定しないが、小津に結びつけるのは無理があるというもの。
470:日本@名無史さん
20/02/07 14:01:02.17 .net
九州弁では、
イツは「ウィツ」のように発音する。小津のオツは「ウォツ」のようになる。
「ウィツ」と「ウォツ」の間にそう距離感はなく、年取って耳が遠くなればなおさらのこと。
471:日本@名無史さん
20/02/07 14:55:36.08 .net
弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎で見つかる
(朝日新聞社 2020/02/07)
>約1700年前にあたる弥生時代末ごろの鍛冶(かじ)工房跡が、長崎県大村市今富町の住宅地で発掘された。
きりやナイフなどの小型の鉄製品を鍛造していたとみられる。
この時代の鍛冶工房跡の発見は、長崎県内では壱岐市のカラカミ遺跡に次いで2例目という。
>調査した大村市教育委員会が6日、報道陣に公開した。場所は市内にある「帯取遺跡」の一部。
市教委によると、7メートル四方の竪穴式建物跡で鍛冶炉とみられる跡が四つ見つかった。
>いずれも高熱を受けたことを示す白やオレンジ色に土が変色し、金属反応があった。
一隅にある三つは、水を遮るためとみられる溝に囲われていた。棒状の鉄器片や、金属が付着してたたいた跡のある石、
研磨に用いたとみられる砥石(といし)なども出土した。
出土した土器を根拠に、工房の操業時期は弥生時代末~古墳時代初頭(3~4世紀)と断定。
472:日本@名無史さん
20/02/07 19:03:05 .net
>>464
中卒は高校生の教えて君=アタシなわけですがw
36度線の指標が微妙ではありますが
>日本人特有と言えるY染色体O2b1で、
朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
と、言うのは、BC1500~1100年のオクキョン遺跡はO2b1が出て、
BC500年辺りのソングンリ遺跡では、O2b1が出ない、という事ですか?
遺伝子検体の年代と地域が判るソースは公開されてますか?
青銅器では、倭人が間違いなく半島進出してたのは、BC200年辺りですが、
水稲の関係? てか、遺伝子では1100年迄遡るという事なんでしょうか?
473:日本@名無史さん
20/02/07 20:05:23 .net
>>471
時代的には、卑弥呼の後。
日本の青銅器時代、弁韓の鉄は、倭、漢、四郡でも貨幣同等に流通した。
日本では、九州のみ。 何故か? 中卒でも判るだろwww
長崎の有明海大牟田以南だと
地域的には、邪馬台国21国には含まれない、
周旋可5千里以遠の卑弥呼共立ではない交易国だろうが、
多分、真珠資本の王が有ったんだろ。
倭国には、真珠や丹が出る。
所詮、邪馬台国は、倭人部族国間の交易範囲内に在る一小国だよ。
畿内説が味噌糞にした、頓珍漢を、考古学が修正、実証している。
474:日本@名無史さん
20/02/07 20:45:17.32 .net
倭人伝を正しく読むと、外国目線の縄文弥生の謎にも迫るけどw
卑弥呼は190年辺りまでの倭国大乱後から247年迄の筑紫王ではある。
筑紫21国が共立した倭人地域国の半島の南、洲島の上(千里は対馬壱岐間)
周旋可5千里のそれぞれの国に大夫の在る地域国を治めていた女王。 と、言っている。
三国志の卑弥呼が大倭王だと言ってるのは、200年以前から日本は統一国だったという、
日本では、記紀が正史前提の畿内説だけの、ご都合の間違いなんじゃないのかな?
金印は、漢の委奴だし、筑紫の卑弥呼は親魏の倭王であって、
実際の列島統一倭国王は卑弥呼の247年以降で、軍事統一が成立し得る古墳発生の日本の歴史。
現実は半島利権を南朝に主張した400年倭の五王だし、
対外での日本国家成立宣言は、600年の聖徳太子でしょ?
475:日本@名無史さん
20/02/07 20:49:20.64 .net
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
476:日本@名無史さん
20/02/07 20:52:27.11 .net
>>474
当時の奴隷だと言っているのに。
上の人間がいたでしょ?
477:日本@名無史さん
20/02/07 21:01:16 .net
詳しいことは、わからないけど。
『倭猿』『倭の五王』
~ほとんど同じ、当時の奴隷の国(倭)の偉い家の話でしょ。
478:日本@名無史さん
20/02/07 22:20:43.99 .net
>>475
コピペのアラシを何度も相手にする気は無い中卒の教えて君なのですがw
スキとクワの違いって、判ってますか?
スキは人力でと言うより、人は重しのようになって馬や牛に引かせるタイプ。
クワは人力で叩き込むタイプですよ。
日本に牛馬が入ったのは
邪馬台国247年以降で漢四郡撤退313年がポイントで
高句麗戦での百済新羅建国の350年辺りからです。
三足土器には火力元の形式、農具には動力の違いが有るのでは?
まあ、阿波先生や豚鼻先生みたいな会話が成立しないアラシにマジレスも秋田けどw
教えてくださいorz
479:日本@名無史さん
20/02/07 22:57:27.69 .net
>>478
マジかw
アタマ弱すぎだろおまえw
簡単に言うと、スキ(耜)はシャベルの事。
中国のスキ(耜)は石刃。
菜畑から200年以上経ってから半島から日本に伝わったスキ(耜)は木刃。
おまえの言ってるスキ(犂)は牛耕用の耕作用農具で5C頃に半島から日本に
鉄刃のものが伝わった。
スキ(鋤)は地面を引き削って除草する除草用農具で日本には伝わっていない。
さすがにクワ(鍬)は説明の必要ないだろ?
クワとエブリは同期する中国には存在しない耕作用農具。
それらが菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具。
日本最古の耕作用農具には同期する中国の耕作用農具が何一つ伝わってないの。
日本最古の耕作用農具には同期する中国の耕作用農具であるスキ(耜)も
スキ(鋤)もスキ(犂)もないの。
日本語ではぜんぶスキと読むから分かり辛いが。
これで分かっただろうか?
480:日本@名無史さん
20/02/08 00:36:19 .net
>>478
菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具は、同期する中国の耕作用農具と
同じ耕作用農具が何一つ伝わっていない上に、同期する中国の耕作用農具には
存在しない耕作用農具が伝わっている。
菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具は、同期する中国の耕作用農具には
存在しない耕作用農具が伝わっている上に、同期する中国の耕作用農具と
同じ耕作用農具が何一つ伝わっていない。
一番のキモは↑これだぞ
481:日本@名無史さん
20/02/08 00:49:56 .net
>>478
一番のキモはこの表だぞ
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
.
482:日本@名無史さん
20/02/08 02:22:24 .net
>>465
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
483:日本@名無史さん
20/02/08 08:06:30 .net
>>482
ハイ、中卒チンコロ乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
484:日本@名無史さん
20/02/08 16:02:41 .net
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
485:日本@名無史さん
20/02/08 18:29:54 .net
オクキョン遺跡が、BC1500年から存続して1100年に水田が発生した。
それは見えた歴史であって、単純にその水田はどこから来たか。 であって、
日本同様に判らない のであれば、
日本同様に中華からどんだけ遅れてるんだよ?
と、言う地勢は同じってこと。
三国志時代の九州北部は明らかに韓伝諸国より発展している。
縄文から弥生の変化に関しては、現代日本人の白米信仰が異常なだけのように思うが・・・
水稲耕作なんてもんは、農業労役や租税生産みたいな価値でしか無くないか?
縄文の原始共産制から、開拓で土地の所有、氏族家庭の分離、裁判警察軍事の発生。
倭人伝では、収租賦有邸閣
高床の倉庫に税として集めた米を 領主が貯蔵したんだろ?
領主の水田で作った、兵士の給料の米を 庶民が個別の家庭で喰ったかな?
精米とかそんなめんどくさい喰いもんは、縄文人が受け入れるかね?
それが伝わって、日本は発展したのか?
中卒の高校生的には、通い婚で子は集落の物だったりしても、
食の神聖性のある土器でみんなでメシ喰った、縄文的な原始共産制に憧れるなw
朝鮮半島永遠の奴隷の歴史、ってのは判りやすいけどwww
江戸時代までの日本の農民は、つい10年前の厨共のように旅行もできない奴隷だよ。
兄の国は、奴隷化の先進国か?
三足土器を発明した奴が料理を知らない
馬鹿な中卒なんだから日本に伝わるわけが無いだろwww
486:日本@名無史さん
20/02/08 22:36:00.42 .net
畿内厨脂肪www
【考古学】弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎県大村市で1700年前の鍛冶工房の跡が見つかる (動画あり)
スレリンク(newsplus板)
> 8 :名無しさん@1周年 :2020/02/07(金) 22:45:07.66 ID:tZsLSx3M0
> 魏志倭人伝には倭人は鉄の矢じりを使用していると書かれていて、
> 魏志韓伝には倭人が半島南西部の弁韓まで来て鉄を採っていると記されている
>
> さて、ではこの図を見てくれ、弥生時代の鉄鍛冶工房跡の分布図だ
> URLリンク(inoues.net)
>
> まさかとは思うが、これを見てもまだ邪馬台国がどの辺りにあったか分からないような知恵遅れはこのスレにはいないよな?
487:日本@名無史さん
20/02/09 09:25:36.97 TqdrQoq3M
この1年くらいの間に九州説を裏付ける発掘が続いている。硯の発見とか、鍛
冶工房の発見とか。大騒ぎした纏向はどうやら土方の飯場のようだしw だい
たい常識で考えたって、3世紀前半の日本で、畿内から北九州に至る広域国家
なんかあったわけない。考古学者って基本的に「発掘バカ」だからなwww
歴史を考えるには「インフラ」=水、食糧、交通、通信、言語、貨幣に対する
考察が基本なのに、それを全く考えないで「緩やかな国家連合があった」とか
マヌケなこといってるんだからwww 人間の歴史はホッブズが言ったとおり
「万人の万人に対する闘争」だよ。「緩やかな国家連合」なんてあるわけねえ
わ。畿内説論者は「バカの見本」として、晒されろ wwwwww
488:日本@名無史さん
20/02/09 10:06:46 .net
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」-「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」-魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
-邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」-「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
URLリンク(www.infokkkna.com)
「魏志倭人伝」-「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
-弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
489:日本@名無史さん
20/02/09 12:17:33 .net
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
490:日本@名無史さん
20/02/09 14:35:33 .net
>>486
邪馬台国時代以降の製鉄国内化の走りとしても、
僻地であることは間違いないんですが
なんで「ムラの」なんでしょうwww
239年公孫氏滅亡、246年韓王朝滅亡、247年卑弥呼 以死亡。
この魏による中狂的帝国覇権主義の東夷侵攻を受けて、
日本は九州統一~防人化、半島進出を強化して牛馬の移入と鉄の国内生産化を進めた。
この富国強兵政策化での、先駆的遺跡であると考えられる。
しかし、なぜこんな村でもない糞僻地に? と言う疑問は当然である。
107年の、帥升の生口を見ても明らかなのだが、
海外に進出した倭人、縄文海神はどうも人さらいだったようである。
高句麗馬と一緒に製鉄の工人もさらってきているのではないか?
これら渡来人は後世にも、僻地、武蔵高麗村に移住させられた記録がある。
その前にも白村江海戦で亡国の百済人を強制送還しているのかなwww
弥生時代は国境が在った訳でもないが、縄文海神以来の強制連行の歴史である。
明治維新からの、文明開化がそうだが、異文化への転換革命は移動手段は十分に有るのに
文明人が文明を持ち込む必要も無く、渡来による人的変化は伴っていない。
縄文~弥生のDNA変化の研究は進行中なわけだが、
この原因には文明史基盤での人的移動より、生物学的原因を考慮した方が良い。
縄文末に弥生人が渡来した? 日本海フェリーでも開通したのか?
中卒には想像もつきません。
491:日本@名無史さん
20/02/09 16:27:54.17 TqdrQoq3M
>>490
>魏による中狂的帝国覇権主義の東夷侵攻を受けて、日本は九州統一~防人化、
半島進出を強化して牛馬の
3世紀前半の時点で「日本人」という民族意識=ナショナリズムなんかあ
ったわけない。「民族」という意識は「言語の統一」がまず前提になる。こ
の時代はまだ朝鮮や中国と生活の必要から漢字という文字を使っていただけ
で、そもそも「日本語」なんてなかっただろ。それぞれのローカル言語(方
言というレベルにすら達していなかったはず)があって、交易には「外国語
としての漢字」を使っていただけで、口語レベルでは互いに通じ合えない部
分が多々あったはずだ。即日取引なら漢字すら不要で、目の前で交換する物
を見せ合って、手で数示すだけで用が足りただろう。隔日取引の場合だけ、
証拠としての契約者が必要で、漢字を使っただけだと思うねw
た
492:日本@名無史さん
20/02/09 16:30:44.71 TqdrQoq3M
歴史を考えるには「インフラ」=水、食糧、交通、通信、言語、貨幣に対する
考察が基本・・・・・これが確固たる「歴史哲学」である www
493:日本@名無史さん
20/02/09 16:32:35.45 TqdrQoq3M
>>491
× 証拠としての契約者 〇 証拠としての契約書
494:日本@名無史さん
20/02/09 23:07:31.32 TqdrQoq3M
ヘーゲル、マルクス、ブラタモリw・・・・・これが正しい歴史学の羅針盤だw
495:日本@名無史さん
20/02/10 03:52:33 .net
>>483
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
496:日本@名無史さん
20/02/10 13:19:44 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
497:日本@名無史さん
20/02/10 19:16:15 .net
なんだ、またコピペのアラシか?
498:日本@名無史さん
20/02/10 19:35:56.91 .net
この手のスレの参加者は10人程度だが、まあ、時に15人程度。
その中に既出のコピペアラシが40%もあって、話にならないで面白くなるのか?
中卒のアタシは厨坊時に会話が成立しないアラシの
土器厨豚鼻先生や子供のように言い張るだけの
阿波先生に学んだのは間違いないんだが
この手のアラシってのは、
チラ裏レベルの歴史板読者を完全に勘違いしてるだろ?
弥生スレも阿波スレも在るし、
ディベートなら、まぬけ用の畿内説スレ(のテンプレ)でやれよ。
499:日本@名無史さん
20/02/10 19:40:23.16 .net
>>489
日本神話の八岐大蛇とか龍信仰の伝来ともとれるけど
500:日本@名無史さん
20/02/10 19:42:11.83 .net
ヤケクソ畿内説のあらしだろう。
畿内スレでやり込められると、こっちのコピペが増えるからな。
501:日本@名無史さん
20/02/10 19:52:03 .net
オクキョンで紀元前1100年に伝わった水稲耕作で
いまだに日本では、900年の菜畑の発見が最古なのかな?
まだぁ~?
で、日本神話の構想ってのは、五経博士が伝来してる
500年~700年に作った話じゃないのかな?
日本に龍信仰が文字以外で伝わるなら
土偶のはずだけど出ないなら、支石墓の墓制で絵かな?
記紀厨先生も乙ですw
502:日本@名無史さん
20/02/10 20:08:25.14 .net
>>500
畿内説スレは私の見解では、参加者10人を割ってます。
この板には、会話の可能性が若干は残っていると思いたい。
そうならない為のアラシ排除、歴史板の健全を希望します。
503:日本@名無史さん
20/02/10 20:11:12.21 .net
>>501
何を言いたいのかよくわからんが
あんたの書き込みは
中国から稲作が伝来したことの否定には全くなっとらんが
504:日本@名無史さん
20/02/10 20:29:02 .net
中国から稲作が伝来する訳はない。
中国は支配下に無い近隣国に文明を伝授しない。
だから日本は百済を傀儡として五経や仏教、僧侶を導入した。
稲作は世界に先駆けた縄文海神が世界中から稲種を持ち込んだ。
それを、どう使うのかは、その時の軍事統制、支配者の采配。
水稲耕作が縄文の原始共産制から、
家族制や土地の私有に繋がるのは歴史の必然。
米などの穀物による税が成立して倭人伝には、「収租賦有邸閣」
筑紫の高床倉庫の存在が記録されている。
250年以降に成立したであろう税収軍事警察統制を
宗教王の卑弥呼が作れたか?
は、判らない。
505:日本@名無史さん
20/02/10 20:35:01 .net
>>504
全て根拠がない
議論すらできない
506:日本@名無史さん
20/02/10 20:50:22 .net
そもそも内容というか表現が断片的で、何を言いたいのかよくわからない。
507:日本@名無史さん
20/02/10 20:51:42 .net
日本の稲作が
中国からでなく朝鮮半島から伝わったと言いたいだけだから
だって、そうじゃないと、
中国→日本→ あれ? www
508:日本@名無史さん
20/02/10 21:34:47 .net
>>501
日本に龍が伝わったのは紀元後の1C頃で土器絵から
楽浪郡との交流で伝わったものと考えられる
509:日本@名無史さん
20/02/10 21:35:12 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
510:日本@名無史さん
20/02/10 22:27:58.54 .net
>>509
だから中国から渡来人がいなかった根拠になってないってwww
逆にさ
稲作が伝わってるから中国から渡来人が来たんだぜ!
とか
泉貨があるから、ほら、中国から渡来人が来たんだぜ!
とか
いくらでも言えるっしょw
あんたの話の前提は、
中国から渡来人が来たら、
あらゆる全ての中国のものが伝来する筈だ、というのが証明されないと成り立たないからな。
511:日本@名無史さん
20/02/11 01:44:51 .net
>>510
で、中国から渡来人があった事を証明する、その生活痕たる衣食住に関する
中国系生活土器や漢服片、中国系住居の痕跡が出土した生活痕遺構は?
で、中国から渡来人があったと狂言している頭のおかしなキチガイ考古学者の
氏名と所属団体は?
.
512:日本@名無史さん
20/02/11 05:45:41 .net
>>501
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
513:日本@名無史さん
20/02/11 07:34:56 .net
>>512
中卒チンコロ乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
514:日本@名無史さん
20/02/11 07:51:03 .net
>>513
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
515:日本@名無史さん
20/02/11 07:52:22 .net
>>513
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
無能朝鮮人でも理解が出来るように3回コピペしました(笑)
516:日本@名無史さん
20/02/11 07:58:16 .net
>>515
中卒チンコロ乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
517:日本@名無史さん
20/02/11 12:32:36.66 pyvDQZDlv
今夜8時からBS11で放送される「歴史科学捜査班」では邪馬台国論争を取り上
げる。去年5月10日に放送されたBS-TBSの「諸説あり!」では中国の歴史学
者3人が全員九州説を支持した。この番組では考古資料は全く対象外だったが、
今夜の番組では多分それも対象になりそう。果たしてどういう内容なのか興味
深い。
518:日本@名無史さん
20/02/11 12:56:42 .net
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
519:日本@名無史さん
20/02/11 13:13:51 .net
>>636日本@名無史さん2020/02/11(火) 11:02:43
BSイレブン 2/11 20時 歴史科学捜査班
邪馬台国はどこなのか 機内?九州?
520:日本@名無史さん
20/02/11 13:20:25 .net
▽BS11
2月18日(火)よる8時00分
「古代史ミステリー 最新技術で「古墳」解明!?」
521:日本@名無史さん
20/02/11 16:38:10.90 .net
釜山のような半島南岸であれば縄文人以来の交易圏だし国境なんて無かった。
で、これはBC6000~4000年迄遡る。
BC1500年に温帯ジャポニカが半島に入って水稲を始めたなら持ち帰ることは可能だった。
あんまり早くすりゃ、日本の古墳時代も遡っちゃうw
てか、種米の分布で考えるならこのルートは逆でしょ?
国内の適地においては、縄文農耕、稲作もBC4000以前の同時期には遡る可能性が濃厚。
栗や胡桃でも日本人は庭や畑の端に植えるのに、一年草なんて集落中に生える草www
縄文~弥生の変化で稲作と渡来人が同時に日本中に普及したという屁理屈は
ネット時代の現代中学生以降の概念では、もはや完全に根拠をなくしてるんじゃないのかな?
弥生変化の根本は、狩猟、採集社会特有の原始共産制の崩壊。
豪族氏族資産としての土地の私有化と労働、軍人官僚の発生と穀物税制。
ソングンリ住居に炉が無いって、家族じゃなくて工人のタコ部屋だったのか?
半島との関りは弥生人の存在じゃなくて、BC200年以降の青銅の移入が鍵。
釜山~対馬東岸~(沖ノ島)は、宗像以東の日本海帰国ルート
対馬西岸~壱岐は博多湾筑紫の邪馬台国
この2つは、遠賀川、庄内甕とか銅鐸文化を分けている。
平戸~有明海~熊本も在っただろうね、済州島もこれかな?
魏の台頭によって239年公孫氏滅亡、246年韓王朝滅亡
この時の卑弥呼の外交を見て日本は九州統一古墳時代の富国強兵政策に切り替わった。
247年、倭人船便乗で来日、卑弥呼の死を知った視察官張政の報告
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察 諸國 畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
この247年で、魏と倭の外交で陳寿が残せる倭人国の記録は終わっている。
522:日本@名無史さん
20/02/11 18:36:18 .net
>>519
邪馬台国が何なのか? 倭人伝で陳寿は語る。
南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
(自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳)
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
これは、240年印綬に来た、魏の使譯、建中校尉 梯儁による從郡至倭。 ()は、陳寿の補足。
邪馬台国は21国の王で構成する7万戸。 南には国境が在り(倭人国の)敵国。
さらに、女王國 東渡海千餘里 復有國 皆倭種
本州だが敵と言うか、遠隔地、不干渉じゃないか?
で、又有 侏儒國 在其南 人長三四尺 去 女王 四千餘里
又有 裸國 黒齒國 在其東南 船行一年可至
これは、山海経などから、奇譚の類。
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
千里の基準は、対馬壱岐間で、福岡筑紫平野がやっとで周旋可。
一国家を女王国と言う陳寿のやる気無さは伝わるが、
247年に終わってる、239年迄未知の東夷国。 それが魏王認定の親魏倭国。
後は概ね筑紫だが、女王国には自己申告する国名は無かった。
21国7万戸を参問した、初の探検者、梯儁が邪馬台国と命名した。
陳寿は、247年で終ったことを知っているので、(かつての)女王国としか言っていない。
これが、190年から247年迄女王卑弥呼が治めたであろう筑紫、梯儁の仮称 邪馬台国である。
倭人伝を正しく読みましょう。
523:日本@名無史さん
20/02/11 19:25:59 .net
247年の張政は、伊都に駐留して邪馬台国21国の王の一大率の往来も見て
壹與、難升米に檄を告諭? 檄に応えなかった理由を聞いた?
戦国武将が魏の檄に応えないというのは、
戦国時代の三国志的には国交断絶、人質を出す状態ではないのかな?
壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
獻上 男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
これの帰国って、皇帝のご褒美満載、じゃなくて人質では?
中国に限らないが、日本も百済王子みたいなのは、
要らんから白村江海戦で強制送還したんだろ?
524:日本@名無史さん
20/02/11 20:12:43 .net
壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還
もうこれは壹與は港でお見送りしたとしか読めないよな
壹與が活動的な女性で北部九州を動き回った証拠とも言えるし
北部九州の海岸線のクニ(奴国か伊都国)にいたとも読める
525:日本@名無史さん
20/02/11 20:18:20 .net
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
これは238年以前は魏にとって邪馬台国は疎遠な国だったこと
それなのに
丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐
伊都国には郡司が往来して常駐してたこと
この辺に矛盾は感じないか?
伊都国には漢以来常に往来していたが邪馬台国は初めての出来事みたいな
526:日本@名無史さん
20/02/11 20:28:39 .net
>>516
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
無能朝鮮人でも理解が出来るように3回コピペしました(笑)
527:日本@名無史さん
20/02/11 21:32:32 .net
>>519
倉本先生が解説とは
528:日本@名無史さん
20/02/11 22:42:49.64 pyvDQZDlv
>>517
BS11の「歴史科学捜査班」を見た。結論は九州説支持だった。ただ、司会の
宮本隆二(元NHKアナ)の隣に座っていた人(歴史研究者?)一人の意見で決
めたようなものだったので、これが定説という感じではなかった。説の紹介も
畿内説の方がずっと長かった。畿内説の方が映像的には見栄えがするからだろ
う。要するに、邪馬台国はローカル政権なので規模が小さく、纏向は中央政権
なので大規模だという意見だった。元俳優の刈谷俊介が畿内説信者ぶりを発揮
していたw
529:日本@名無史さん
20/02/11 22:27:34.45 .net
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
530:日本@名無史さん
20/02/12 07:14:03 .net
>>525
魏志倭人伝をしっかり読みな。
公孫氏の勃興と滅亡を経ての卑弥呼の遣使という歴史がきちんと述べられている。
後漢以来往来していたが、公孫氏の時代だけ公孫氏の影響下に入り、
239年に交流が再開された。
531:日本@名無史さん
20/02/12 07:24:06 .net
郡使が常駐するようになったのは魏代以降なのではないかな。
まあ、その場所が伊都と明記されているから、卑弥呼もその近くにいたはずだが。
532:日本@名無史さん
20/02/12 08:02:16 .net
そりゃ、逆だ。
卑弥呼はやや遠いところにいたからこそ、女王国以北に一大率を置き、その一大率は、伊都国に居てニラミを聞かせていたのだよ。
ともあれ、その前に公孫氏4代と帯方郡の開設について勉強し、それからあれこれ考えることだな。
533:日本@名無史さん
20/02/12 08:22:52 .net
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」
この遺跡の出土品は計約50万点にも達するらしいので、相当数の鉄器が出て来たのでは? @阿波
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、
このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、
県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30~40?で、
鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。
534:日本@名無史さん
20/02/12 09:39:42 .net
>>525
ほんと倭人伝論争は、正しく読まない の積み重ねなんだよ。
魏の郡使は、240年と247年の2回しか来ていない。
240年=正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等
奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物
これは皇帝の使者であって、お宝もって水行30日陸行一月で魏の軍船で行軍している。
博多湾に上陸し伊都によらず、極南界の卑弥呼の城柵の有る楼塔を見ている。
伊都で、王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王
が有れば、戦争を始める覚悟で、239年楽浪帯方平定後の韓西岸すらも初探検である。
邪馬台国21国の名と可7萬戸の国勢を参問、漢字に直して記録。 この国を邪馬台国とした。
247年=其八年 太守王頎到官
倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米
これは遣倭 載斯烏越の言を受けて、郡の采配で張政を帰国便に便乗させて倭を視察させた。
倭人船の寄港地名等とその間の里程を記録した。
末盧國(港)に上陸。南東へ500里を歩かされ『到伊都』國までしか来ていない。
この間で、径150mの卑弥呼の墓も見た。
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐
これは、
卑弥呼の21国の王は皆伊都を往来していたので、張政は伊都に常駐しただけでその役目
齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之 と 檄告喩 壹與 は完了した。
535:日本@名無史さん
20/02/12 11:27:42 .net
という事は壹與は伊都國に居たと結論できる
卑弥呼の女王の都とする所との説明も無いと言う事は
卑弥呼と壹與は所在地が違うと言える
536:日本@名無史さん
20/02/12 11:31:59 .net
だんだん見えてきたぞ邪馬台国の威容がな
俺は今のところ田油津姫説に傾いている
537:日本@名無史さん
20/02/12 11:51:46 .net
陳寿の同時代の女王はイヨ、つまり女王国はイヨの国、邪馬台国にいたのもイヨだろう
卑弥呼は陳寿から見れば過去の人
538:日本@名無史さん
20/02/12 11:55:10 .net
自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入
この様子だと外国人は謁見どころか姿さえ見れないんじゃない
それと比べて宗女の方は社交的な事よ
衆を惑わす事もなかろうし
これはまったく違う系統と思えないか?
539:日本@名無史さん
20/02/12 12:02:10 .net
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
URLリンク(inoues.net)
.
540:日本@名無史さん
20/02/12 12:04:33 .net
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
541:日本@名無史さん
20/02/12 12:06:17 .net
卑弥呼が後継者にとって他国の女王と仮定したら
次の男王が卑弥呼を殺したと推測できないか?
542:日本@名無史さん
20/02/12 12:28:17 .net
>>533
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ
543:日本@名無史さん
20/02/12 13:08:34 .net
卑弥呼の墓は150mの塚。 日本で最初の巨大古墳と言えるのでは?
紛争の中の失脚などで死んだものとは考えられない。
この古墳を生前から準備したとかではなく、数か月の間に張政に見せるために作ったと考えられる。
公孫氏の遺民から、日本に軍師を招請していると思われる。
また、遣倭載斯烏越等 詣郡 の往復間の話であって、張政来日の当初には、壹與は喪中のようにも思う。
径百歩と言う単位は郡使の計測だから、墓が張政上陸地から伊都間、
または伊都周辺に在るとして、中卒のアタシがアースで見ただけだがw
丘陵地形利用として、糸島半島北岸志摩中学校東の小山のようなのがアヤシイと思っている。
13歳の小卒www 壹與ってのは、傀儡王で当たり前なのではないかな?
いずれにせよ、245~6年、郡の韓制圧戦以降、黄幢や檄に応えて出兵しなかったことで
247年で魏との交流は終わった。
陳寿はこれ以降の倭伝を皇帝の歴史には残せなかった、という事。
東夷伝里や、水行、陸行の里程ではない単位の利用も 記録をわざと濁していると思う。
三国志の覇者は、東夷においては313年漢四郡撤退に向かう失態を晒すが、
日本は公孫氏や韓王朝の滅亡で危機を知り、魏晋は倭人国の協力を得られなかったことがこの要因である。
東夷伝序文、文末
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
倭人伝 評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
544:日本@名無史さん
20/02/12 13:20:49.06 .net
大林組の推計で、仁徳天皇陵は必要人員のべ680万人、工期は15年8か月と推計されてるね
さて、箸墓だとどうなるだろ
545:日本@名無史さん
20/02/12 14:45:11 .net
>>541
190年頃にすでに年長大で即位して、247年に崩御だぞ。
当時としては記録的な高齢だ。
そんなことをする必要もない。
546:日本@名無史さん
20/02/12 14:51:46 .net
男王時代が短くてもあるんだから卑弥呼死亡の時は喪には復しただろうがイヨは無名だったろう
無名の少女の動向
547:日本@名無史さん
20/02/12 16:18:02 .net
泡ちょん死んでなかったんか
548:日本@名無史さん
20/02/12 17:02:13 .net
>>547
倭国(阿波)は、永遠に不滅です! わははははは @阿波
549:日本@名無史さん
20/02/12 18:07:59 .net
>>538
奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 并 齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因使 上表 答謝詔恩
で、一応金印とお土産は、卑弥呼が受け取ってお礼は申し伝えたという事のようですが。
気になったのが、参問倭地の21国名や戸数を誰から参問したか? なのですが、
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
ですから、
この官の倭人名が
伊支馬=一支国の馬 彌馬升/獲支=邪馬国の升/獲支 奴佳鞮=奴国の佳鞮
ではないだろうか?
和音名の聞き取りで漢字化する時の特性で
大夫、難升米=奴(王)の升米 都市牛利=都支(王)牛利 伊聲耆掖邪拘=巳百支(王)掖邪拘
のような、誤差が生じている。
壱岐では上陸地の案内、先駆け連絡要員に壱岐人を使ったとして
邪馬国での国勢調査では邪馬国人、奴国人を採用したのであろうと思う。
邪馬壹国と言う国名は、女王領極南界の邪馬国で梯儁が見た卑弥呼の宮の樓觀城柵を
ランドマークとして、邪馬国の 送政等還 因詣臺 の 表意文字である臺を付け
21国7万戸の自称する名の無い女王国を 邪馬壹国と仮称としたと思う。
陳寿は、曹操の高楼である臺の字はここに使えなかった。
550:日本@名無史さん
20/02/12 19:56:20.48 .net
>>548
妄言飽きたから首を吊って今日中に死んでください。
お願いします。
日本史スレ住人の総意です。
551:日本@名無史さん
20/02/12 20:02:03.25 .net
>>550
倭国(阿波)は、永遠に不滅です! わははははは @阿波
552:日本@名無史さん
20/02/12 20:17:15.96 .net
卑弥呼の後の男王は死んでない
継ぐ程だから相当な政治実力者と思える
おとなしく隠遁生活するとは考えられない
イヨは男王の親族ではないかな
553:日本@名無史さん
20/02/12 20:22:28.50 .net
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
URLリンク(inoues.net)
.
554:日本@名無史さん
20/02/12 20:22:55.60 .net
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
555:日本@名無史さん
20/02/12 21:36:20.57 .net
>>544
だいたいx,y,zが
仁徳天皇陵の1/4だから
体積は1/64程度。
556:日本@名無史さん
20/02/12 22:15:25 .net
仁徳陵 486m×347m×39.8m
箸墓 278m×157m×30m
だから1/6くらいじゃね
557:日本@名無史さん
20/02/13 02:24:43 .net
>>551
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ
558:日本@名無史さん
20/02/13 05:56:00 .net
>>556
水堀の部分も入れるとそんなもんでしょうかね。
559:日本@名無史さん
20/02/13 07:07:49 .net
じゃあ、のべ100万人か。
基礎の無い大型建物はホケノ山の前には廃絶してるから、
作業員はどこに暮らしてたのだろうね。
560:日本@名無史さん
20/02/13 07:17:59 .net
>>559
人日だから
千人×1000日(3年)でなんとかなる。
10年×300人でもいい。
561:日本@名無史さん
20/02/13 12:01:17 .net
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
562:日本@名無史さん
20/02/13 18:21:57 .net
531
だいたい800年間かけて数万基作っただな
563:日本@名無史さん
20/02/13 18:22:27 .net
末期は北海道南部まで行ってる
564:日本@名無史さん
20/02/13 19:39:46 .net
卑弥呼の墓が日本最初の巨大古墳と言う推測には
239年の公孫氏滅亡、246年韓王朝滅亡で、
日本は対魏で防衛体制をとる方針に切り替えたと言うのが前提。
240年迄は銅鐸が示すように、本州と九州は、卑弥呼の筑紫他とは別の国である。
この倭人伝の間に、銅鐸が終わり九州統一で、半島進出の古墳時代に切り替わる。
漢以前から日本が海上の大国でありうることを知っている中華4千年の正史が
日本列島に君臨する王の国を女王国などと言う、一代名称で記録するわけが無いだろ?
記紀厨じゃなくても、日本王朝は何代か、女王は神話じゃなくて居たか?くらい知ってるだろw
古墳時代と言うのは、軍事国家化が背景にあり兵士には訓練と給料が必要。
水路や開墾で出た残土がその地に君臨した王侯の古墳になるのである。
この歴史上の変遷は、防人?一大卒を置いた、三国志倭人伝から読み取れるのだが
これに関して阿波厨、土器厨みたいな、ご当地主義やただの日本文明朝鮮渡来願望じゃないなら、
真実を掲示板アラシとかで隠蔽したい理由が、学者や学生、歴史愛好家に有るのかね? 記紀厨モナ~
老婆心で言うのだが、これから古代史を真実に修正する中学生や中卒のアタシらには、
ネット民のみんなが、その理由をありていに、いま、言っといたほうが良いと思うよ。
ヨ~ヨ~でブッちゃうよ。
⌒ ☆ ∩`Д´) < ヤダヤダー!!
565:日本@名無史さん
20/02/13 22:16:37.70 .net
一大率ってそう言う組織があったのではなく、軍隊の集団の単位のことだと思うよ?
孫子の兵法で、軍隊の単位の一つに率がある。
兵士5人で伍、伍が2つで什、率は100人、旅は500人、軍が12500人
三国史の時代の魏呉蜀でも、それぞれが軍の単位を決めてたけど、一大率と言うのは、一つの大率と読んだ方が無難。
率の、上に500人の旅があるので、大率一隊で250人とかじゃないかなぁ。
566:日本@名無史さん
20/02/13 22:28:41.18 .net
んなカスらがいたって話なんかな?
ならそのカスらの子孫らには責任取って死んでもらうべ
先祖の罪過は子孫が負うの当たり前
567:日本@名無史さん
20/02/13 22:29:46.06 .net
いくら賠償請求すれぼよいかな?
有り金全部叩いても足らないぞ(╹◡╹)
568:日本@名無史さん
20/02/13 22:30:25.08 .net
「大率」
官名,汉魏时东夷女王国置,掌检察诸属国,类似汉朝的部刺史。
URLリンク(www.cidianwang.com)
569:日本@名無史さん
20/02/14 00:53:32 .net
即大帅。率、帅古相通。
率は帥と同じ。
つまり大宰の帥と同じ官名だということ。
570:日本@名無史さん
20/02/14 07:01:17 .net
刺史のようなものと書かれているのに軍隊などと妄想を繰り出す頭脳
571:日本@名無史さん
20/02/14 10:19:33 .net
イチ ダイソツ ではなく
イキ ソツ ではないかな
572:日本@名無史さん
20/02/14 11:07:40 .net
なんで、中国語? 字からして漢文より判らなくネ? 句読点あんのか?
「大率」 官名,汉魏时东夷女王国置 なんだから
これは、倭人伝が説明した一大卒であって、中国語の意訳が必要か?
使 大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國 畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史
刺史には説明が必要なようだが、漢帝に任官され諸州を治めた将軍。 州牧に準じる。
漢時、三国志においては、曹操、劉備、孫権もこれらから出発して皇帝を名のった。
各州の有力領主が任じられることも有るが、戦国時代であって
中央政権の皇帝に州における徴税徴兵軍事権をも預かるという将軍職。
軍を持たないただの官、知事なんてものは戦国時代には無力、無意味だ。
既に皇帝を名のっている魏時以降の話で、時期を下れば、
313年四郡を追った高句麗は350年代、楽浪候、幽州刺史に任官された。
この楽浪候幽州刺史に対し、日本は高句麗戦を起こし
百済新羅の建国を後援し、牛馬の移入と鉄の国内生産化を果たす。
400年以降、倭の五王は中国が南北朝となったことで、
南朝に対し、半島利権の交渉を開始している。
卑弥呼が大和朝廷に繋がる王であったら、この歴史は生まれないのではないかな?
邪馬台国と魏が繋がっていたとするならば、
四郡陥落時も黄幢や檄によって、日本は参戦を求められたはずである。
245年以降の韓制圧時代の黄幢や檄に邪馬台国は応えていない。
韓伝ではほぼ土人国だった百済や新羅の発展は、何故かこの、246年漢王朝滅亡後からだ。
日本がそれを後援したのでは、卑弥呼がまんまと魏晋を裏切ったことになる。
そして陳寿が、残せた倭人伝は247年で終る。
573:日本@名無史さん
20/02/14 11:33:50 .net
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
574:日本@名無史さん
20/02/14 11:38:02 .net
なんでかと言えばイチダイという言葉の痕跡が残ってないから
イキと言う言葉は伊都国の周辺に残ってる
575:日本@名無史さん
20/02/14 12:04:40.52 td5XYKyuF
>>573
じゃあ、稲って朝鮮から来たの? それとも日本に元々あったの? あるい
は沖縄やフィリピンあたりから来たの?
576:日本@名無史さん
20/02/14 11:59:56 .net
日本?どこの話をしているんだ、はやく精神病院に行ったほうが良いぞ。
577:日本@名無史さん
20/02/14 14:13:34 .net
>>568
なるほど
中国の歴史用語事典では「一大率」ではなくて「大率」になっていて、これが通説ということだね
578:日本@名無史さん
20/02/14 15:05:16 .net
朝鮮半島においてもそうだよ。
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:?帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。
率は帥と同義であり、倭(九州北部)における行政最高官のこと。
最初の記録は「倭王」とされた帥升であるが、なぜか王のはずなのに自ら漢を訪問したことになってしまう。実は王ではなく帥だったのだろうと考えられ、最初の帥である。
律令制においてはこの役職は太宰の帥と呼ばれた。
最後の帥は有栖川宮熾仁親王であり、明治2年に帥の役職は廃止された。