20/01/07 20:44:07.94 .net
宗像航路は壱岐を経由する必要が無い。
釜山からの日本海ルートは沖ノ島が目印でも本州沿岸に着けば良くて
BC200年から有る青銅器輸入の目的地が出雲なら博多湾に入る必要は全く無い。
博多湾の王、卑弥呼であっても、唐津や呼子、松浦半島なんて、全く関係ない。
301:日本@名無史さん
20/01/07 21:15:27 .net
247年の張政がなぜ糸島半島北岸に上陸したか?
そこに卑弥呼の墓を確認する目的があったからである。
南東500里の早良付近まで歩いたのは、日本の方針で
魏の査察官に博多湾の防衛体制を見せない為である。
檄 と言うのは、魏=帯方郡が卑弥呼に韓制圧戦への参戦を求めたのである。
なんで、魏が卑弥呼と狗奴国の戦争で負けそうな卑弥呼を応援する?
三国志の覇王どころか、日本の戦国にも、そういうマヌケな戦国武将は無い。
辺境では勝った方を冊封するのである。
邪馬台国は、次有21国、此が女王の勢力圏の境界である。
韓伝の、馬韓54国、弁辰韓24国、邪馬台国21国は、筆法が一致している。
筑紫の邪馬台国には21王国が有った、
日本は帯方郡の征韓戦には参戦せず、
313年四郡撤退で百済新羅の建国を支援した。
公孫氏と韓王の滅亡を見た卑弥呼以降の台与は、
対魏晋防衛で日本本州軍の一大率に合流したのである。
302:日本@名無史さん
20/01/08 03:29:42 .net
>>295
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ
303:日本@名無史さん
20/01/08 03:30:08 .net
>>297
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww
304:日本@名無史さん
20/01/08 03:30:33 .net
>>299
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧_,,∧ パカッ __,,
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨ ∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( つ O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧_,,∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( つ O
し' と_)_) ∧_,,∧
なっ、本当だろ!
∧_,,∧ ∧_,,∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( つ O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧_,,∧
305:日本@名無史さん
20/01/08 03:31:00 .net
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって
306:日本@名無史さん
20/01/08 03:31:20 .net
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww
307:日本@名無史さん
20/01/08 03:31:31 .net
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ~ン ♪
308:日本@名無史さん
20/01/09 17:30:33.51 .net
「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ない後進県にも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地9か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 @阿波
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
309:日本@名無史さん
20/01/09 20:28:29.47 .net
>>308
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧_,,∧ パカッ __,,
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨ ∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( つ O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧_,,∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( つ O
し' と_)_) ∧_,,∧
なっ、本当だろ!
∧_,,∧ ∧_,,∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( つ O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧_,,∧
310:国際指名手配「ロード・マイトレーヤ」容疑者!!
20/01/12 18:18:57.91 G+nwUelbk
「国際指名手配「ロード・マイトレーヤ」容疑者!!」
「次元上昇サギ!!」
「覚者(かくしゃ)サギ」
「外国の有名な詐欺(サギ)師」!!
サギ師「ロード・マイトレーヤ」容疑者!!
「国際指名手配」!!
「詐欺師」を見かけたら、ぜひ「2ちゃんねる」で
知らせて下さい!!
お願いします!!
311:日本@名無史さん
20/01/13 02:28:03 .net
さて どっちがイオンモールみたいだろう?w
【梅田 地下街】URLリンク(tokuhain.arukikata.co.jp)
【天神 地下街】URLリンク(yakei-world.com)
312:日本@名無史さん
20/01/21 00:55:00.03 IOTwT7Vmx
だけん築後やろ?
そぎゃん聞いとっぞ
313:日本@名無史さん
20/01/29 21:51:08.51 .net
とりあえず韓国あたりのやつら発言禁止な
うぜえだけだからよ
314:日本@名無史さん
20/01/29 21:51:49.51 .net
在日だかなんだか知らんやつらも発言禁止
邪魔だろやつらの発言
315:日本@名無史さん
20/01/29 23:38:19 .net
まずはキナイコシからだ。
316:日本@名無史さん
20/01/30 01:27:46 .net
糸島半島に一貴山がある
福岡の西の方は壱岐という地名が残るし生の松原もある
そして北方には壱岐
一大率って水軍だったんじゃないかなと思うよ
どう思うおまえら
317:日本@名無史さん
20/01/30 02:01:09.57 .net
>>316
伊都国は安曇海人の国っぽいから多分そうだろうな
卑弥呼への文書伝送も海路だろうし
318:日本@名無史さん
20/01/30 02:02:05.78 .net
伊都と安曇に何の関係があるんだ???
319:日本@名無史さん
20/01/30 07:46:35 .net
壱岐のもとは伊伎
だから一貴山も、生の松原も、伊伎山・伊伎の松原でいいんじゃないの
そして伊都国は伊都国(いつこく)だから、そもそも一帯は伊の一種族だったのだろう
320:日本@名無史さん
20/01/30 07:50:53 .net
>>318
安曇が住んでいたのが伊都国
321:日本@名無史さん
20/01/30 08:14:38 .net
唐津湾は伊族で、のちの唐津藩の範囲
そして漢王朝の流れの倭奴国一派が安曇で、博多湾組だろ、
322:日本@名無史さん
20/01/30 22:57:04.03 .net
>>316
>一大率って水軍だったんじゃないかなと思うよ
水軍の大将かな。
大率を一人置いたという意味だろう。
伊都にいて北方すなわち対馬海峡を監督したのだから、実質的には船で移動しただろう。
海の神、天津神。
323:日本@名無史さん
20/01/31 01:56:56 .net
>>320
糸クズの願望であって根拠は何一つない戯言じゃん
324:日本@名無史さん
20/01/31 02:35:34 .net
なんだ伊族って?
もう無茶苦茶だな
325:日本@名無史さん
20/01/31 03:34:18 .net
>>323
もう常識だぞ
483 :日本@名無史さん :2019/10/21(月) 21:28:44.83
>>478関連
安曇の祖とされる安曇磯良(あずみのいそら)には磯武良(いそたけら)という別名があり、五十猛(いそたける)と同一の可能性がある
恐らくイソタケルとは個人名というよりはイソの王という意味だろう
イソとは伊都、つまり魏志倭人伝にいう伊都国は後の安曇族の国だった可能性が高い
筑前国風土記逸文に、
「五十迹手(いとで)奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり。」
「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う。故れ、時の人五十迹手が本土を号けて伊蘇(いそ)国と曰う。伊覩(いと)と謂うは訛れるなり」
とあり、怡土郡が元々はイソという地名であったことが記されている
日本書紀によれば五十迹手は筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖
天村雲命の別名に天五多底(あめのいたて)がある
五十迹手(いとて)と同一人物の可能性がある
また射立神(いだてのかみ)という呼称もあり、伊達神こと五十猛と同一視する向きもある
そうすると天村雲命=五十迹手=五十猛=安曇磯武良
草薙剣の元の名が天叢雲剣なのは有名だが、ヤマタノオロチからこれを手に入れたのは素戔嗚命であり、その息子が五十猛とされる
スサノオが息子の五十猛=安曇磯武良=天村雲命に譲り、その佩剣となったから天叢雲剣なのではないか
天叢雲剣は皇室の神器となった後に熱田神宮に祀られているが、熱田神宮の大宮司は当初は尾張氏だった
尾張氏は安曇氏と同祖氏族
URLリンク(img-cdn.jg.jugem.jp)
326:日本@名無史さん
20/01/31 03:35:16 .net
>>325の続き
485 :日本@名無史さん :2019/10/21(月) 21:31:16.83
>>483関連
筑前国風土記逸文に五十迹手が伊蘇志(イソシ=勤)と褒められたので地名をイソにしたとある
一方の五十猛はイサオシの神と称えられている
安曇磯武良=五十猛=五十迹手は確実のようだ
伊太祁曽神社の御由緒について
URLリンク(itakiso-jinja.net)
> そして五十猛神は高天原から樹種を持ってきますが韓国には植えず日本に持ってきて、九州より播き始めて日本中を青山にしました。
> このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。
また、先代旧事本紀によれば天村雲命の別名は天五多底(あめのいたて)とされているが
兵庫県の射楯兵主神社に祀られている射楯大神(いたてのおおかみ)はそのものずばり五十猛だとされている
URLリンク(sohsha.jp)
> 御祭神 射楯大神 いたてのおおかみ
> 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた
> 植樹の神様と崇められています。
> また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています
事績に神功皇后の新羅遠征で水先案内をしたとあるが、太平記や磯良神社の社伝によれば、神功の水先案内を務めたのは安曇磯良とされる
安曇磯武良=五十猛=五十迹手=天村雲命はもう間違いないと断定していいだろう
327:日本@名無史さん
20/01/31 03:37:15 .net
>>326の続き
487 :日本@名無史さん :2019/10/21(月) 21:32:39.81
>>483,485関連
まさにそこが今回最大の収穫かもしれない
つまり記紀神話の年代のでっち上げの手法が判明したということだ
五十猛は素戔嗚命の息子なので神代の人間、というか神だが、五十迹手を褒めたのは仲哀だし、磯良は神功の水先案内を務めているから人代の話である
つまり実在の人物として人代に記録されている人間が別名を使って素知らぬ顔で神代にも書かれていることになる
従来考えられていたように神代が九州で人代が畿内というような分かれ方ではなく、人代の出来事を神話仕立てにして遠い過去の出来事として
投影したのが神代であり、人代と同一人物が重複して登場しているのだ
これはつまり、他の神々にも人代におけるモデル人物が存在する可能性を示している
例えば天照大神のモデル人物は神功皇后かもしれない、とかな
スサノオの子であるイソタケルが安曇磯武良なら、天照大神はその伯母にあたるから一世代上だが概ね同時代の人物とみると
むしろそう考えたほうが自然なくらいだろう
単に伊都国が安曇の国であることを実証するのが目的だったのだが、思いがけず記紀の嘘を暴いてしまったのかもしれない
もっと深い問題もある
天村雲命が五十猛=安曇磯武良=五十迹手と同一人物だということが分かったわけだが、この天村雲命は
?然が宋の太宗に献上した王年代記にも登場する
曰く
「初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。」
とうとう倭王になってしまった
しかもなんと天之御中主に次ぐ二代目の倭王にされてしまっている
王年代記は記紀よりも後に作られており、神武の即位が周の時代と書かれていることからも明らかに年代が捏造されている
そして二代目倭王が天村雲命=五十猛=安曇磯武良になっているのを見ても、単に年代を何百年かスライドさせたのではなく
倭王の即位順までメチャクチャに改竄されているし、倭王じゃない人まで倭王にされている有様
要するに、大和朝廷が作成した史書は、個々のエピソードについては脚色、改変はあれど元になった事実があるのだろうが
その年代観も天皇の順番さえもまるで信頼が置けないということである
328:日本@名無史さん
20/01/31 04:25:34 .net
考古学的に見ても海人族が邪馬台国のメインプレーヤーだったのは間違いないよ
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富なのは有名だが
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族が進出していた場所ばかりだ
弥生時代の鉄鍛冶工房の分布が海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は
半島からの鉄材料とともに海人族が各地に進出した際に広めたものだと分かる
そしてゴホウラ貝輪の分布が最も多いのは海人族の本拠地である玄界灘沿岸ではなく、有明海の東岸、いわゆる筑後の山門のあたりで
そこが弥生時代の鉄鍛冶工房の分布の中心地でもある
ここが伊都国の海人族が臣従した邪馬台国の場所だと考えるのが自然だろう
URLリンク(ac.jpn.org)
URLリンク(inoues.net)
329:日本@名無史さん
20/01/31 05:48:40 .net
>>325-327
歴史学的根拠が一切存在せず、言葉遊びと願望だけを頼りに展開してる妄想以外の何物でもないじゃないか(笑)
非常識にも程があるだろ(大笑)
330:日本@名無史さん
20/01/31 06:36:49 .net
>>328
>北部九州には鉄器が豊富なのは有名だが
北部九州は、倭国(阿波)による鉄器被供給国。 @阿波
331:日本@名無史さん
20/01/31 07:00:23 .net
住居が無いのに王都、、には勝てんな
332:日本@名無史さん
20/01/31 07:12:10 .net
>>329
>>328を見れば?
考古学的にも完全に一致しているぞ
333:日本@名無史さん
20/01/31 08:10:47.64 .net
>>327
>「初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。」
>とうとう倭王になってしまった
>そして二代目倭王が天村雲命=五十猛=安曇磯武良になっているのを見ても、単に年代を何百年かスライドさせたのではなく
>倭王の即位順までメチャクチャに改竄されているし、倭王じゃない人まで倭王にされている有様
記紀が畿内説よろしく年代前倒し詐欺の元凶であることは間違いない。
だが、志賀島の海神族が倭王であった、または倭王を名乗っていた時代が実際にあったのではないか?
伊都の政権の前に奴国の政権があり、彼らこそ安曇の海神による倭王朝であり、イザナギに連なるのだろう。
記紀では一旦は筑紫の日向から高天原に去った一族が舞い戻り、国津神に代わって政権を取ったとも読めるのだ。
334:日本@名無史さん
20/01/31 14:34:17 .net
>>332
文盲なのか?
歴史学的根拠が一切存在せず、言葉遊びと願望だけを頼りに展開してる妄想以外の何物でもないじゃないか(笑)
335:日本@名無史さん
20/01/31 14:34:54 .net
>>330
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ
336:日本@名無史さん
20/01/31 14:37:29 .net
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
337:日本@名無史さん
20/01/31 20:25:59.89 .net
>>326
> 筑前国風土記逸文に五十迹手が伊蘇志(イソシ=勤)と褒められたので地名をイソにしたとある
> 一方の五十猛はイサオシの神と称えられている
完全に同一人物だな
五十猛は筑紫神社で筑紫の国魂として祀られてるし、伊都国の影響力は筑前方面では絶大だったんだな
338:日本@名無史さん
20/01/31 20:44:28.72 .net
>>325
怡土縣主の祖先なら当時の伊都国王だろうな
繋がった
339:日本@名無史さん
20/01/31 21:15:51 .net
王を記紀では県主と呼称したのだろう。
怡土の県主と同時に崗の県主も出てくるわけだが、伊都が筑紫の日向の高千穂宮、崗が筑紫の岡田宮のこと。
それぞれ筑紫の天孫族王家(博多湾沿岸)と豊国王家(遠賀川流域)の王家。
記紀はそのあたりの関係をわざとぼかしているだけ。
340:日本@名無史さん
20/01/31 23:12:04 .net
>>338
タケルは国王じゃなくて将軍だろう
341:日本@名無史さん
20/02/01 00:02:40.30 .net
倭王武または倭武天皇は?
342:日本@名無史さん
20/02/01 00:14:11.76 .net
>>340
大足彦(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥(たける)である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号「魁帥(たける)」には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
それは倭王帥升と同じであり、卑弥呼の時代の一大率の率も帥と同音同意である。
343:日本@名無史さん
20/02/01 00:18:19.72 .net
【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比咩命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
344:日本@名無史さん
20/02/01 00:23:15.35 .net
なるほど文字から解読していくのも面白いな
ある予言で対馬に邪馬台国の証拠の決定版が出て論争が終わると予言されてたが
それが出土されるまでもなく九州北部だな
345:日本@名無史さん
20/02/01 00:38:36.89 .net
倭面上國王帥升等
これは倭の面上国王の官名が帥の名前が升さん達ということか
107年当時の倭の王とばかり考えてたよ
346:日本@名無史さん
20/02/01 00:59:07.05 .net
帥や梟師を倭王の称号と見れば間違いではないでしょう。
卑弥呼の時代も実権は率(帥)にあり、卑弥呼は超越的存在であったと見ることもできます。
347:日本@名無史さん
20/02/01 01:46:14 .net
57年に金印を貰った代々王家の委奴国王家
日本沿岸;海峡:半島の制海権保持の覇王
↓
107年に諸国を巡察し恐れられた権力保持の一大率の前身の総理大臣的権力者の升さん
だけど委奴王家じゃないから謁見だけ
↓
帥らの勢力の増大
委奴国王の男の王の権威衰弱化
↓
卑弥呼推戴で北九州30諸国連合国家成立=筑紫
↓
台与推戴
↓
諸国連合内のニニギ系統の勢力増大
↓
諸国連合統一し筑紫王となった神武が大和まで制覇
こんな感じかな
348:日本@名無史さん
20/02/01 01:53:59 .net
神武はむしろ倭国大乱における夜逃げ組に思える。
349:日本@名無史さん
20/02/01 02:39:01 .net
>>341
倭王武はタケルとは読まない
倭武も将軍だろ
350:日本@名無史さん
20/02/01 02:42:54 .net
>>348
神武は倭国大乱よりずっと後の時代の人だよ
351:日本@名無史さん
20/02/01 03:15:42 .net
>>340
熊襲の王がクマソタケルだし、そこからタケルの号を譲られたヤマトタケルは景行天皇の皇子
ワカタケルは雄略天皇
ここから考えると、タケルは王または王族に与えられる称号で、勇猛なる王とかそんな意味だろう
352:日本@名無史さん
20/02/01 10:16:03 .net
>>349
倭武天皇という文字が刻まれた鉄剣がある。
353:日本@名無史さん
20/02/01 10:16:43 .net
>>350
そんな無茶な。
せいぜい卑弥呼と同時代くらいだ。
354:日本@名無史さん
20/02/01 11:20:46 .net
>>352
天皇と刻まれてるなら奈良時代より後の話になるが
何か覚え違いしてないか?
355:日本@名無史さん
20/02/01 13:03:09.94 .net
うん、覚え違いだ。
常陸国風土記だった。
356:日本@名無史さん
20/02/01 15:51:47 .net
>>353
いやもっと後だよ
3世紀の末くらい
357:日本@名無史さん
20/02/01 16:09:19 .net
2世紀末 神武
3世紀末 崇神
4世紀末 応神
こんな感じかと。
358:日本@名無史さん
20/02/01 16:43:42 .net
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
359:日本@名無史さん
20/02/01 17:05:15 .net
神武はいたとしたら3世紀末か4世紀初頭
そのころに鉄器が奈良盆地に入ってる
360:日本@名無史さん
20/02/01 17:17:16.31 .net
神武は鉄器を持っていなかったと考えるべき。
神武が3世紀末では、そのあとがつまりすぎる。
361:日本@名無史さん
20/02/01 17:22:05.63 .net
実在しない天皇が挿入されてるんだよ
362:日本@名無史さん
20/02/01 17:30:24 .net
欠史八代のことなら、実在しなかったのではなく、奈良盆地の一角に住み着いた地方豪族にすぎなかったんだよ。
なんでもかんでも非実在にするのはキナイコシと同じレベル。
363:日本@名無史さん
20/02/01 17:34:34.71 .net
神武の奥さんは、ヒメタタライスズヒメ
タタラとあるから、鉄山師/鍛冶屋/鉄工所の娘だったのかな。どのみち古代の製鉄産業と関係が深かったのだろうな
364:日本@名無史さん
20/02/01 17:40:49.59 .net
欠史八代のうち何人かは、神武に付き従った将軍たちではなかったか、
(其のうち幾人かは、倭人伝にも見える「大倭之監」の大倭を含む諡号というが・・)
365:日本@名無史さん
20/02/01 18:26:23.13 .net
居築紫城 彥瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州
筑紫城の神武が大和を制圧してるんだから
大和に逃げて政権樹立って感じじゃないでしょう
というか夜逃げとかは完全な妄想でしょ
筑紫王の神武が大和まで併呑したとしか読めないよ
366:日本@名無史さん
20/02/01 19:32:15 .net
隋書の倭国は十万戸
魏代に七万戸なので、増えたといっても3割弱程度
倭国には阿蘇山を含むことから、九州島を含む
ということは
倭国=九州島限定なのだろう
367:日本@名無史さん
20/02/01 19:58:22.02 .net
熊本県と大分県を併合したんだな。
368:日本@名無史さん
20/02/01 19:59:35.83 .net
筑紫による大和制圧と同時に半島も制圧
神武の弱小大和の制圧はむしろ片手間作業だったと思う
369:日本@名無史さん
20/02/01 20:12:24 .net
だが記紀では筑紫の記事がぷっつりと途絶えてしまう。
四人兄弟で筑紫を出て大和に入ったのは神武ただ一人。
筑紫には帰れなかった。
370:日本@名無史さん
20/02/01 20:31:08 .net
>>360
九州では1世紀には鉄器が普及している
九州から遠征した神武が鉄器を持ってないわけがない
単に記紀の天皇系譜が改ざんされてるだけと考えるのが妥当
371:日本@名無史さん
20/02/01 20:50:48 .net
>>360
んなこたーない
実在が確実な古代の天皇の平均在位期間から逆算すると神武は280~290年あたりになる
URLリンク(www.kk-bestsellers.com)
年代的には何ら問題ない
372:日本@名無史さん
20/02/01 20:56:24.78 .net
>>370
>九州から遠征した神武が鉄器を持ってないわけがない
ふむ一理ある。
ただ、神武軍は少数で、考古学的に証拠が残らない程度だったのだろう。
373:日本@名無史さん
20/02/01 20:59:28.89 .net
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
⑧孝元
⑦孝霊
トヨ津 ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津 (250年頃) ④懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武
別のスレからの借り物だけどな。
374:日本@名無史さん
20/02/01 21:12:46 .net
考古学的に証拠が残らない程度の少数に東征された先の連中っていったい・・・w
375:日本@名無史さん
20/02/01 21:21:06 .net
>>373
URLリンク(yamatai.cside.com)
古代の天皇の在位期間は飛鳥時代までは古くなるほど短くなるが
欽明天皇以前は突然数倍に伸びている
日本書紀の改竄はほぼ間違いなく、崇神を起点にした計算には意味がない
376:日本@名無史さん
20/02/01 21:21:33 .net
神武が来る前も来た後も、畿内は饒速日の王国なんですよ。
記紀でも和解しただけ。
神武は居候させてもらった。
前方後円墳は饒速日を祖とする物部氏の墓制。
物部氏の没落とともに前方後円墳も作られなくなった。
377:日本@名無史さん
20/02/01 21:22:44 .net
>>375
>日本書紀の改竄はほぼ間違いなく、崇神を起点にした計算には意味がない
だからその改ざんを補正すると、神武は卑弥呼の少し前くらいの人物になる。
378:日本@名無史さん
20/02/01 21:27:47 .net
>>377
ならない
補正の結果は>>371
379:日本@名無史さん
20/02/01 21:38:17 .net
それではその後の天皇の代がつまりすぎて成り立たない。
それより九州における倭国大乱が天孫族の脱出のきっかけであると考えれば、記紀と魏志倭人伝の整合性が取れるのだ。
380:日本@名無史さん
20/02/01 21:44:35 .net
>>379
平均在位年数から割り出しているのに後の天皇の代がつまるわけないだろ
単に欽明以前の天皇の在位期間が不自然に長く改竄されてるだけの話
381:日本@名無史さん
20/02/01 21:47:40 .net
>>379
それじゃただの願望による辻褄合わせになってしまう
改竄が明らかな記紀は参考程度として魏志倭人伝を基礎にしなきゃ意味がない
382:日本@名無史さん
20/02/01 21:48:35 .net
>実在が確実な古代の天皇の平均在位期間
これの裏付けがないからな
神武を遅くするために恣意的に在位期間を設定しているだけの詐欺
383:日本@名無史さん
20/02/01 21:52:44 .net
>>382
>>375にあるが
在位期間は記録があるだろ
さすがに編纂時期に近い記録は記憶している人間が多いから改竄は難しいぞ
384:日本@名無史さん
20/02/01 21:54:05 .net
>>371
これだけだと確実とは言えないが、鉄器の移動時期と完全に一致してるからなぁ
神武は三世紀末で間違いなさそう
385:日本@名無史さん
20/02/01 21:55:06 .net
>>383
>さすがに編纂時期に近い記録は記憶している人間が多いから改竄は難しいぞ
じゃあお前は歴代徳川将軍の在位期間を言えるのか?
386:日本@名無史さん
20/02/01 21:56:16 .net
>>384
>鉄器の移動時期と完全に一致
奈良のどの遺跡の鉄器のこと?
教えて
387:日本@名無史さん
20/02/01 21:57:20 .net
>>385
そういう下らない屁理屈を言うとお前の負けが明らかになるだけだぞ
388:日本@名無史さん
20/02/01 22:00:21 .net
URLリンク(inoues.net)
3世紀の弥生時代には奈良盆地内に鉄器は普及していない
盆地内の鉄は4世紀から
389:日本@名無史さん
20/02/01 22:16:29 .net
>盆地内の鉄は4世紀から
だからその4世紀の鉄とやらはどの遺跡の鉄器のことを言ってるの?
390:日本@名無史さん
20/02/01 22:35:04 .net
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
391:日本@名無史さん
20/02/01 22:37:25 .net
見るに堪えれんぞ
記紀の記述で推測して考古で確認とか精度足りんよ
記紀と海外文献を擦り合わせた後に考古で検証だよ
鉄器の移動時期一つとっても
神武が攻め込んだ時期と生産された時期と墓に納めた時期で100年は違うはずだ
392:日本@名無史さん
20/02/01 22:42:25 .net
>>391
記紀に該当する内容は魏志倭人伝に存在しない
無意味
393:日本@名無史さん
20/02/01 22:43:00 .net
>>384
だな
キナイコシの見苦しい言い訳にはうんざり
394:日本@名無史さん
20/02/01 22:48:52.23 .net
>>392
倭人伝に書かれている風俗も畿内とは全然一致しないしな
記紀との整合性でいえば畿内は邪馬台国とは別の国、ということしか
395:日本@名無史さん
20/02/01 22:50:52.64 .net
>盆地内の鉄は4世紀から
4世紀にも存在しないのではないかな、、、
396:日本@名無史さん
20/02/02 00:13:05 .net
>>384
神武とは別の崇神あたりが鉄を持ち込んだんじゃない?
397:日本@名無史さん
20/02/02 00:15:40 .net
神武は八咫の鏡も大和に持ち込めていない。
大和における八咫の鏡の明確な記述は崇神から。
もっとも、纒向の建物群(大きいのは1棟だけ)が崇神の宮なら、崇神も鉄は持ち込めていないのか?
398:日本@名無史さん
20/02/02 00:44:11.55 .net
>>396
その場合は神武は実在しなかったとなるよ
九州から移動した神武は当然鉄器を持っているはずだからね
399:日本@名無史さん
20/02/02 02:49:37.75 .net
神武と崇神が同一という説もあるし
400:日本@名無史さん
20/02/02 12:03:15 .net
飛鳥時代からは文字の記録が残っていて
正確な天皇の年代が推測できたが
それ以前は門司の記録がなくて
正確な推測ができなかったんだろうね。
401:日本@名無史さん
20/02/02 12:36:42 .net
なぜか7世紀から前の文字記録がほぼない日本史の謎
後漢の頃から大陸と文書をやりとりしていたはずなのに。
飛鳥時代?
寝ぼけているのか?
402:日本@名無史さん
20/02/02 12:42:49 .net
7世紀前の文字記録があやふやなのは筑紫倭国の傍流地方政権だったからだよ
東海も制圧できない大和が高句麗と戦うのオカシイだろ
403:日本@名無史さん
20/02/02 13:09:52 .net
要するに政変の後で、筑紫倭国の記録は徹底的に破壊されたんだよ。
404:日本@名無史さん
20/02/02 15:29:18 .net
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
405:日本@名無史さん
20/02/02 15:37:47 .net
文字の出土状況
3~4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していない、でたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。
406:日本@名無史さん
20/02/02 22:25:35 .net
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600~2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> ?河姆渡第3~第4期(前5000~前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> ?屈家?期(前3000~前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> ?石家河期(前2600~前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
URLリンク(www.kyoto-up.or.jp)
407:日本@名無史さん
20/02/03 06:18:06 .net
2/1(土) 17:53配信 毎日新聞
松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、
福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。
石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200~300年さかのぼって最古となる。
一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
408:日本@名無史さん
20/02/03 06:23:20 .net
文字は九州に限らずあった。
ヤマト王権が、中国の文化大革命と同じように
記紀神話を正当化するために各地の記述を葬り去った
409:日本@名無史さん
20/02/03 06:26:04 .net
北朝鮮の将軍様の神格化と同様
と記紀の神話部分は読むべきである
410:日本@名無史さん
20/02/03 06:33:53 .net
>>366
>倭国=九州島限定なのだろう<
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國
次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國
次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
この国ぐには九州のどこよ?
411:日本@名無史さん
20/02/03 06:39:26 .net
九州に鉄が多いなは当たり前
畿内勢力が九州を征服するための戦場だったのだから
これが倭国大乱
412:日本@名無史さん
20/02/03 06:44:54 .net
生活用の鉄器なのだがな
倭国乱などは前哨戦にすぎない
その後の倭国=邪馬台国=やまと国と狗奴国の戦いが国家総力戦
畿内など狗奴国の植民地でもともとわずかな鉄器をほじくり出して武器原料として供出したのだ
413:日本@名無史さん
20/02/03 11:17:08 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
414:日本@名無史さん
20/02/03 12:55:48.88 .net
畿内を中心に仙人思想がやがて生まれるんだよ、この説明をつけなきゃならない曹操に解体させられた宗教集団が流れてきたのが倭国大乱だろ。
415:日本@名無史さん
20/02/03 16:18:59.22 .net
畿内が中心になるのは白村江以降
その辺のオッさんでも知ってる事だぞい
416:日本@名無史さん
20/02/03 17:36:29 .net
>>414
中卒だろおまえ
日本には縄文弥生を通して中国大陸から渡来定着した痕跡遺構はない
日本には縄文弥生を通して中国大陸から渡来定着した痕跡遺構はない
417:日本@名無史さん
20/02/03 18:01:45 .net
有明海沿岸の6000年位前からの出土物を一度検索してみるといいよ
418:日本@名無史さん
20/02/03 18:32:49 .net
梟師って書いてスグリって読むんだろ
419:日本@名無史さん
20/02/03 18:33:43 .net
忍者だべそいつら
420:日本@名無史さん
20/02/03 18:54:54 .net
纏向遷都は、倭人伝の239年公孫氏、246年韓王朝滅亡と符牒して
250年~350年あたりまでなんじゃのいのかな?
これは、瀬戸内海ルートの成立と九州平定とも同期している。
350年以降の大王墓は大阪湾寄りに下ってるでしょ。
で、弥生鉄器の分布で、纏向以前の朝廷の基盤としては九州は、
倭人伝の筑紫卑弥呼王権の存在によって否定されているから
日本海ルート 出雲~丹後~越前ってことだよ。
どんなに遅くても、57年金印以降の九州墳墓から
壁画文字、木簡、印字土器青銅器は出るはずだけどね?
卑弥呼の墓に、文字が無かったら大笑いwww
絵の有る銅鐸から、文字が出ないってことは、
金印の漢以降から、漢四郡や公孫氏との交流が確実な九州以外の日本国には、
銅鐸終了まで、文字が普及、使用していないって可能性は高い、とは思う。
遺跡から出ても大陸との交通は青銅時代で、BC200年には確実にあるから・・・
古墳時代の終わり、ってのは完璧な盗掘時代だったんじゃないのかな?
300年代には七支刀~400年以降~五経博士、聖徳太子で古墳は終了としてもだよ?
なのになぜ、漢名の倭の五王や漢字の氏姓まである豪族の古墳からは文書が出ない?
仏教公伝、500年以前に神社があったなら
石祠や石碑に文字を彫らないなんて、そんなこと有るか?
記紀ってのは日本の古代史という発酵味噌に混ざったウンチだと思うね。
畿内説が、まじぇまじぇ、してんだろwww
421:日本@名無史さん
20/02/03 19:19:35.07 .net
韓王っていたんだ
422:日本@名無史さん
20/02/03 19:56:21.37 .net
古代韓は燕、遼東の箕氏朝鮮王が衛満に追われて半島で韓王を名乗ったことに始まる。
漢は半島に進出し、楽浪他、四郡を設置した。
しかし、南岸の韓半島は、倭人伝を残した魏の奇襲までは不可侵であった。
倭人伝と言うのは、その東夷伝序文にある
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
中華に知られていない、倭を紹介する為に記録され、この状態は、
遣隋使帰国便、600年初頭の聖徳太子時代、600年裴世清の記録迄続き、
中国史書では南朝を天帝としての朝鮮半島の領有権交渉、
倭の五王の記述以外では空白となる。
日本が漢字文化圏であるのは事実だが、中華の
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷
として、
傀儡とした半島古代諸国のように
日本が中華に、服した歴史は無い。
畿内説は、中華起源の皇国史的にも、頭がおかしい。
倭人伝は、筑紫を中華の一部と見るための記録である。
423:日本@名無史さん
20/02/03 20:16:05.23 .net
昨日のNスペ『酒』
酒に弱い、分解遺伝子の弱い人の分布を見ると稲作伝搬に一致してるという分析してて面白かった
大陸江南に次いで酒に弱いのが西日本で東日本、朝鮮はそんなでもない
南九州、東北、北陸の縄文色の強い地域はわりと酒が強いんだよね
424:日本@名無史さん
20/02/03 22:24:41 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
425:日本@名無史さん
20/02/04 00:18:04 .net
>>418
梟師は「たける」
iPhoneでも変換できるぞ。
426:日本@名無史さん
20/02/04 00:22:15 .net
>>413
>日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
吉武高木遺跡では高床式と思われる建物が登場する。
二千年以上前でも、筑紫倭国の最上流の首長層は大陸の様式を取り入れていた。
古墳時代云々は、後進地域の大和が基準の年代観だろ?
427:日本@名無史さん
20/02/04 00:31:16 .net
>>414
天子が太陽を背にして君臨する思想は筑紫生まれの神武が九州から持ち込んだもの。
三輪山の配置などにそれが反映されている。
しかしその源流はおそらく、高祖山を背に伊都を見下ろす高祖宮にあるだろう。
高祖宮は天孫族である彦火々出見の宮であり、神武が出発した筑紫の日向の高千穂宮のことである(神武自身も一書によれば彦火々出見とも呼ばれる)。
三雲遺跡の王は鏡をたくさん副葬されており、伊都は太陽信仰の中心地であったと考えられる。
平原遺跡の女王は世界最大の銅鏡である八咫の鏡を副葬されており、これもまた太陽信仰の影響があっただろう。
アマテラスのモデルと考えられる卑弥呼にふさわしい。
428:日本@名無史さん
20/02/04 01:15:46.66 .net
>>426
高床式倉庫は弥生早期の江辻遺跡に松菊里型住居とセットで登場してくるの
松菊里型住居とセットで
つまり弥生の高床式倉庫は松菊里型住居があった場所から伝わっているという事
確かに弥生後期中頃くらいから祭祀を扱う首長クラスの人だけ高床式建築に
住むようになった
だが、そのときの中国大陸の人々はすでに土壁の戸建てか、瓦屋根に土壁の戸建てに
住んでいたのである
429:日本@名無史さん
20/02/04 14:26:48.23 ET7P5kZEX
畿内説なんて「発掘バカ」が唱える妄言w NHKは全く相手にしないだろうねw
もちろんNHKは九州説に軍配を上げてはいない。あれほど歴史好きなNHKだが、
邪馬台国論争には完全に距離を置いている。しかし、「ブラタモリ」を見てい
ると、その歴史観は一種の「唯土木史観」としか思えない。土木工事の痕跡か
ら歴史を語るのがすごく好きなのがわかる。したがって発掘バカが語る「出土
物妄想歴史観」などはすごくバカにしてそうwww 「桃の種」なんて嘲笑し
ていることは疑いないな wwwwww
430:日本@名無史さん
20/02/04 14:42:47.96 ET7P5kZEX
>>408
>文字は九州に限らずあった。
俺もそう思う。西日本全域にあったはず。
>ヤマト王権が、中国の文化大革命と同じように記紀神話を正当化するた
めに各地の記述を葬り去った
俺はそうは思わない。西日本全域で文字は使われていたが、その文字は
「外国語としての漢字」だったに違いない。この「外国語としての漢字」
で中国や朝鮮と交易していたはず。しかし、文字がそれぞれの地域(北
九州、出雲、吉備、大和)などで、「それぞれのローカル情報=地名、
各地の動植物の名前など)を表現するために使用されるようになってか
ら、「文字が地域ごとにローカル化」されるようになり、違う地域同士
では互いに意味が通じなくなったのだと。そして、ヤマト朝廷の西日本
支配が確立後に、「ローカル化した文字」を「統一化」するための標準
化が行われ、これによって「風土記」や「記紀」が成立したのだと。そ
して無用の長物化した「ローカル文字」は消滅していったのだと。中国
の文化大革命のような政治的理由での文化弾圧があったとは思わない。
431:日本@名無史さん
20/02/04 14:34:22 .net
松菊里型住居、高床式倉の伝搬と言うのは、弥生の稲作伝搬とは時期が違う。
むしろBC200年からの青銅の搬入に関して、倭人は松菊里以北、
金印の九州はもちろん、漢四郡域にも進出している。
その上で、九州と本州日本海ルートでの青銅器文化は同じ道筋には無い。
松菊里の半島文化が日本に対して先進地域だったニカ? と言うなら
なんで四郡以南は日本同様の時代系列に在って古代中国文化が伝わっていないのか。
と言う、中卒でも考えうる問題にぶち当たる。
三国志の語る東夷伝倭人伝~楽浪候幽州刺史となる高句麗との戦350年
新羅百済の建国に至る過程では、246年馬韓辰韓が帯方郡に敗れているにもかかわらず、
半島南岸の日本域は、魏や司馬炎の統一後も中華の進出を阻んでいる。
大学生や学者もそろそろ、子供のように言い張るだけ、をやめて
倭人伝を正しく読んでみてはいかがか?
432:日本@名無史さん
20/02/04 14:50:39.44 ET7P5kZEX
「風土記」については俺はこう考える ⇒ 風土記は大和朝廷の西日本統一以
に以前にすでに出雲や吉備などの主要国で作成されていたに違いないと。した
がって、現在残っている風土記は、それぞれのクニのローカル文字で作成され
ていたものを「ヤマト標準文字」で書き換えたものなのだろうと。少なくとも
出雲や吉備については疑いない。ただ、常陸のような東国の田舎にすでに「ロ
―カル言語」があったのかは疑わしい。これは、大和朝廷が現地で聞き取りし
て書いたものだろうと思う。
433:日本@名無史さん
20/02/04 14:52:11.89 ET7P5kZEX
>>432
× 「ローカル言語」 〇 「ローカル文字」
434:日本@名無史さん
20/02/04 15:00:25.32 ET7P5kZEX
格言⇒ローマは一日にしてならず この格言の応用⇒「統一言語(話し言葉&
文字の統一)」は一日にしてならず。 これが「歴史的思考」だw 歴史を出
土物のみで語ろうとするバカの知能は中学生並みだぜ wwwwww
435:日本@名無史さん
20/02/04 15:02:31.75 ET7P5kZEX
テレビで学べる「歴史的思考」の神髄は、NHK「ブラタモリ」だ。この番組ほど
「歴史的思考」を養うのに有益なものは他にない。
436:日本@名無史さん
20/02/04 18:41:46 .net
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
437:日本@名無史さん
20/02/04 18:48:29.26 .net
高床式は弥生人らでしょ
縄文古来のは地面に穴を掘っての地下壕に近い作りの家らしいでな
438:日本@名無史さん
20/02/04 18:49:46.40 .net
穀物を収めるために高床式必要なんだね
つまり
439:日本@名無史さん
20/02/04 18:51:22.22 .net
古墳なんてあるじゃん
あれは墓ってより本来は人間らの生活住居に近い
つまり城だの家だのに相当
440:日本@名無史さん
20/02/04 19:11:49 .net
高床式に住むならその連中らは穀物類を作り出した生活に切り替えた連中らでしょ
441:日本@名無史さん
20/02/04 19:32:42.08 ET7P5kZEX
古墳は墓には違いないが、実は本来的には水田開発で生じた掘削残土を利用した
多目的構造物なんじゃないかと思う。まず、ランドマーク効果。この時代の人間
にとって方向音痴にならないための目標物。海に近ければ海上からの目印にもな
る。そして、大きければ大きいほど示威効果もある。それでこそ、大勢の民衆を
動員できたわけで。そうでなければ仁徳天皇稜なんか「奴隷制」の存在を仮定し
ないと造成できなかったことになりそうだしwww
442:日本@名無史さん
20/02/04 19:38:41.69 ET7P5kZEX
>>441
(続き)さらに災害時(海に近い所では水害)の避難場所にもなるし、敵の
襲来を発見するための「物見」場所にもなり得る。実際、埼玉県新座市の平
林寺の広大な林の中には「物見場」がある。これは解説板がなければ「古墳」
と思い込む人間が多数いるに違いない「大きな盛土」だぜwww 発掘バカ
はもっといろいろ世間を見て回れよ wwwwwww
443:日本@名無史さん
20/02/04 19:48:50.50 ET7P5kZEX
>>442
>埼玉県新座市の平林寺の広大な林の中には「物見場」がある
平林寺のこれは、敵の襲来を監視するためのものではなく、野火(火事)
を発見するためのもの。この付近には「野火止用水」という人工水路が江
戸時代に造られていた。
444:日本@名無史さん
20/02/04 19:57:02.69 ET7P5kZEX
まだ歴史学では全く確認されていないが、俺様の予想では「古墳には倉庫機能
もあった」に違いないと思うぜw 人間の考えることはいつでも同じだよw
そしてその倉庫の中には、次の古墳を造成するための材料(枯らした流木、芦
や茅、河原から集めた小石や大石などの建設資材)が蓄えられていたと思う。
445:日本@名無史さん
20/02/04 20:11:07.54 ET7P5kZEX
物見場は樹木が高く育ってしまうと視界を邪魔するので、定期的に焼き払って
視界を確保する必要がある。奈良の若草山の野焼きが有名だが、こういう場所
は日本のあちこちにある。そして、野焼きの手間がかからぬよう、樹木は若木
のうちに伐採して常に草原状態を保つようにしている。これを「カヤト=茅戸」
と呼ぶことが多い。茅は茅葺き屋根の建築材料にもなる。今は森と化した仁徳
天皇稜も遠い古代には「カヤト」だったに違いないねw
446:日本@名無史さん
20/02/04 20:13:08.93 ET7P5kZEX
さて、俺の勝手な考えだが、「仁徳天皇陵のてっぺんをカヤト化する」のが、
本来のこの稜の姿に違いないだろうなwww
447:日本@名無史さん
20/02/04 20:15:53.76 ET7P5kZEX
まとめ・・・・古墳は単なる墓ではない。ランドマークであり、物見場であり、
建設資材倉庫であった。
448:日本@名無史さん
20/02/04 20:55:47.90 .net
畿内説スレ
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6 、 これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
(倭人伝の記す方角・里数は信頼するに足らず、又、説得力ある比定の材料をも欠くため、候補として上記地域を示唆するに留む)
449:日本@名無史さん
20/02/04 22:05:39 .net
>>448
何の反論にもなってない駄文だな
そういうのは負け犬の遠吠えという
450:日本@名無史さん
20/02/04 22:46:24 .net
>>440
これは実に明快だな。
南方から高床式と稲作を同時に持ち込んだのだな。
451:日本@名無史さん
20/02/04 23:14:53 .net
>>450
中卒乙
BC10Cに菜畑に稲作が伝わった当初、高床式倉庫はまだなく、
弥生人たちは貯蔵庫として穴蔵を使っていた
高床式倉庫が松菊里型住居とセットで江辻遺跡に登場するのはBC9C頃
以後、穴蔵と高床式倉庫の二本立ての貯蔵庫が弥生中期まで使われたが、
弥生後期になると穴蔵は消滅した
452:日本@名無史さん
20/02/05 03:34:05 .net
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
453:日本@名無史さん
20/02/05 11:21:45.81 .net
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
URLリンク(inoues.net)
.
454:日本@名無史さん
20/02/05 11:26:04 .net
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
455:日本@名無史さん
20/02/05 11:46:27 .net
>>452
中卒乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
456:日本@名無史さん
20/02/05 18:37:10 .net
>>455
> こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
> 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
>
> URLリンク(10mtv.jp)
このビデオで話してる藤尾って学者、典型的な朝鮮顔だなw
名字は藤尾だが祖父母あたりまで遡って完全に日本人の血統かどうか調べる必要がありそうだ
朝鮮人は嘘の歴史をさも本当かのように平気で発表するのが日常茶飯事だからね
457:日本@名無史さん
20/02/06 15:05:25 .net
半島のゴミいらんよ
458:日本@名無史さん
20/02/06 15:14:03 .net
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
459:日本@名無史さん
20/02/06 19:27:11.02 .net
要は、オクキョン遺跡の水田が、
どこから伝わったか。 だろ?
BC1500年に農業都市化して~1100年水田構築?
中国から土器や農機具の文化が伝わってないのは、日本と同じ。
釜山の北? 自然発生じゃなきゃ対馬から入った倭人に決まってる。
これは、三国志が歴史を記録していることだ。
箕氏朝鮮遺民や秦の移民が、馬韓辰韓で水田耕作に成功していない。
オクキョン遺跡の水田を成功させた、その南部に異民族が居た。
日本だろ? 縄文時代の弥生人だけどなwww
460:日本@名無史さん
20/02/07 10:21:45.69 xuAsZcQib
水田もいろいろあらあなw 一番易しいのはいわゆる中山間地の水田だろ。今
ではもてはやされている「棚田」だな。日本ではこの後、火山山麓の伏流水を
利用する水田が現れる。その後、大河(筑後川、淀川など)に流入する支川の
水田が開発されるようになる。奈良盆地の大和川(淀川の支流)の水田開発あ
たりから、水田開発が大規模化して古墳時代に入っていく。利根川や木曽川の
ような大河の開発が進んだのは江戸中期以後だろ。土木技術の発達で水田開発
も進歩していったわけで、ただ単に古いから自慢できるようなものじゃない。
461:日本@名無史さん
20/02/07 10:09:22 .net
中卒の高校生だからw 時系列的に馬韓辰韓は水田耕作あるよね。
箕氏朝鮮はBC1100~195年、箕氏遺民が半島に渡り韓王を称すのは、
衛満が箕氏を追い遼東に入るBC195の後で漢王朝以降の話。
BC1100年~BC1500年で、殷周文明、土器工具を持ち込まずに燕を経て、
竪穴暮らしで、水田だけがオクキョン遺跡、釜山付近に伝わるのは確かにおかしい。
日本の青銅器文明の源流のはずなのに先進文明は無い?
半島石器人は寒冷期に南下して水田耕作可能な釜山にだけ残ったのか?
半島史の問題の本質は、それ以前の日本が縄文期の石器人はどこに行ったか? だね。
現代半島人のDNAが北方系であるから青銅を持ち込んだ大陸人が奴隷にした、
ってのが順当として、陸続きであるのに日本と同様で、殷周文明は入っていない。
半島石器人のDNAをちゃんと調査する必要は有るだろねjmon.
軍事帝国の漢は四郡を設置したのに、魏代まで南部の古代韓には侵攻していない。
ってのも謎で、中国史では半島南部や倭人南岸域は公孫氏に属したというが
青銅を売ったであろう四郡~公孫氏は南部韓や倭と良好な関係にあったのではないかな?
462:日本@名無史さん
20/02/07 10:18:02 .net
>>461
>四郡~公孫氏は南部韓や倭と良好な関係にあったのではないかな?
公孫氏の成り立ち及び曹操との主従関係からすれば、当然にしてその通り。
長きにわたって優良・友好な関係にあった。
ただ公孫氏4代目のバカ殿の晩年に、数年間だけ不仲になっただけのこと。
463:日本@名無史さん
20/02/07 10:43:10.35 .net
朝鮮半島には中国陶磁器文化も中国青銅器文化もないんだよね
櫛目文土器も無文土器も楽浪土器も遼東から入った土器文化だし、
青銅器はオルドス青銅器から入っている
中国大陸とは関係が希薄なんだよね
楽浪郡帯方郡にしても、太守などのごく僅かなトップ層だけが中国大陸から
派遣されて赴任するだけで、それ以外の人は遼東から入植した人たちなんだよ
だから中国陶磁器文化も中国青銅器文化もない
464:日本@名無史さん
20/02/07 11:53:11 .net
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
465:日本@名無史さん
20/02/07 12:39:18.70 .net
>>464
中卒乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
466:日本@名無史さん
20/02/07 12:40:31.26 .net
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
467:日本@名無史さん
20/02/07 13:21:24.89 .net
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6。 これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
(中略)
>九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て
>里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
九州上陸地として、白鳥は平戸を挙げ、そこからの陸行は、海岸伝いに松浦ー唐津ー糸島ー博多へと向かったとしている。
しかしそもそもこれが大間違いであり、はるばる西の平戸に行って博多に戻るくらいなら、最初から博多に上陸すればよかったのだ。
ここは素直に、>>1 も述べる通り、唐津湾に注ぐ松浦川中流の中原遺跡が順当なところだ。
そして、そこから東南の佐賀平野へ向かえば何の問題もなく、陸行500里で佐賀川上と云う歴史的な遺跡群に到着する。
この地は律令制下では山田郷といった。和名抄には「也万多・やまた」と(注:がある。
468:日本@名無史さん
20/02/07 13:26:44.17 .net
佐嘉郡
「肥前国風土記」では、佐嘉郡6郷・19里とあるが、郷や里の名は登場しない。
「和名抄」では同じく6郷とし郷名も記している。
・城崎郷(木佐岐):遺称地として佐賀市大和町尼寺の国分地区に城崎という地名があり、この付近と推定される。
・巨勢郷 :佐賀市巨勢町付近と推定。
・山田郷(也万多):佐賀市大和町東山田、及び大和町川上の西山田の付近と推定。
・小津郷(乎ツ・乎都):『川上神社文書』では小津郷の地名に与賀里とあり、現在の佐賀市与賀町付近と推定。(以下の郷は略)
(注)小津、乎ツ、乎都とあるように、「都」は此の地では「ツ」と読まれた。
故に、倭人伝の「伊都国」はイツコクと読み、後世転じて、乎都、乎ツ、小津、となったと見做すのが合理的であり、これを否定する理由は見当たらない。、
469:日本@名無史さん
20/02/07 13:35:21.76 .net
イツ国と読む可能性は否定しないが、小津に結びつけるのは無理があるというもの。
470:日本@名無史さん
20/02/07 14:01:02.17 .net
九州弁では、
イツは「ウィツ」のように発音する。小津のオツは「ウォツ」のようになる。
「ウィツ」と「ウォツ」の間にそう距離感はなく、年取って耳が遠くなればなおさらのこと。
471:日本@名無史さん
20/02/07 14:55:36.08 .net
弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎で見つかる
(朝日新聞社 2020/02/07)
>約1700年前にあたる弥生時代末ごろの鍛冶(かじ)工房跡が、長崎県大村市今富町の住宅地で発掘された。
きりやナイフなどの小型の鉄製品を鍛造していたとみられる。
この時代の鍛冶工房跡の発見は、長崎県内では壱岐市のカラカミ遺跡に次いで2例目という。
>調査した大村市教育委員会が6日、報道陣に公開した。場所は市内にある「帯取遺跡」の一部。
市教委によると、7メートル四方の竪穴式建物跡で鍛冶炉とみられる跡が四つ見つかった。
>いずれも高熱を受けたことを示す白やオレンジ色に土が変色し、金属反応があった。
一隅にある三つは、水を遮るためとみられる溝に囲われていた。棒状の鉄器片や、金属が付着してたたいた跡のある石、
研磨に用いたとみられる砥石(といし)なども出土した。
出土した土器を根拠に、工房の操業時期は弥生時代末~古墳時代初頭(3~4世紀)と断定。
472:日本@名無史さん
20/02/07 19:03:05 .net
>>464
中卒は高校生の教えて君=アタシなわけですがw
36度線の指標が微妙ではありますが
>日本人特有と言えるY染色体O2b1で、
朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
と、言うのは、BC1500~1100年のオクキョン遺跡はO2b1が出て、
BC500年辺りのソングンリ遺跡では、O2b1が出ない、という事ですか?
遺伝子検体の年代と地域が判るソースは公開されてますか?
青銅器では、倭人が間違いなく半島進出してたのは、BC200年辺りですが、
水稲の関係? てか、遺伝子では1100年迄遡るという事なんでしょうか?
473:日本@名無史さん
20/02/07 20:05:23 .net
>>471
時代的には、卑弥呼の後。
日本の青銅器時代、弁韓の鉄は、倭、漢、四郡でも貨幣同等に流通した。
日本では、九州のみ。 何故か? 中卒でも判るだろwww
長崎の有明海大牟田以南だと
地域的には、邪馬台国21国には含まれない、
周旋可5千里以遠の卑弥呼共立ではない交易国だろうが、
多分、真珠資本の王が有ったんだろ。
倭国には、真珠や丹が出る。
所詮、邪馬台国は、倭人部族国間の交易範囲内に在る一小国だよ。
畿内説が味噌糞にした、頓珍漢を、考古学が修正、実証している。
474:日本@名無史さん
20/02/07 20:45:17.32 .net
倭人伝を正しく読むと、外国目線の縄文弥生の謎にも迫るけどw
卑弥呼は190年辺りまでの倭国大乱後から247年迄の筑紫王ではある。
筑紫21国が共立した倭人地域国の半島の南、洲島の上(千里は対馬壱岐間)
周旋可5千里のそれぞれの国に大夫の在る地域国を治めていた女王。 と、言っている。
三国志の卑弥呼が大倭王だと言ってるのは、200年以前から日本は統一国だったという、
日本では、記紀が正史前提の畿内説だけの、ご都合の間違いなんじゃないのかな?
金印は、漢の委奴だし、筑紫の卑弥呼は親魏の倭王であって、
実際の列島統一倭国王は卑弥呼の247年以降で、軍事統一が成立し得る古墳発生の日本の歴史。
現実は半島利権を南朝に主張した400年倭の五王だし、
対外での日本国家成立宣言は、600年の聖徳太子でしょ?
475:日本@名無史さん
20/02/07 20:49:20.64 .net
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
476:日本@名無史さん
20/02/07 20:52:27.11 .net
>>474
当時の奴隷だと言っているのに。
上の人間がいたでしょ?
477:日本@名無史さん
20/02/07 21:01:16 .net
詳しいことは、わからないけど。
『倭猿』『倭の五王』
~ほとんど同じ、当時の奴隷の国(倭)の偉い家の話でしょ。
478:日本@名無史さん
20/02/07 22:20:43.99 .net
>>475
コピペのアラシを何度も相手にする気は無い中卒の教えて君なのですがw
スキとクワの違いって、判ってますか?
スキは人力でと言うより、人は重しのようになって馬や牛に引かせるタイプ。
クワは人力で叩き込むタイプですよ。
日本に牛馬が入ったのは
邪馬台国247年以降で漢四郡撤退313年がポイントで
高句麗戦での百済新羅建国の350年辺りからです。
三足土器には火力元の形式、農具には動力の違いが有るのでは?
まあ、阿波先生や豚鼻先生みたいな会話が成立しないアラシにマジレスも秋田けどw
教えてくださいorz
479:日本@名無史さん
20/02/07 22:57:27.69 .net
>>478
マジかw
アタマ弱すぎだろおまえw
簡単に言うと、スキ(耜)はシャベルの事。
中国のスキ(耜)は石刃。
菜畑から200年以上経ってから半島から日本に伝わったスキ(耜)は木刃。
おまえの言ってるスキ(犂)は牛耕用の耕作用農具で5C頃に半島から日本に
鉄刃のものが伝わった。
スキ(鋤)は地面を引き削って除草する除草用農具で日本には伝わっていない。
さすがにクワ(鍬)は説明の必要ないだろ?
クワとエブリは同期する中国には存在しない耕作用農具。
それらが菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具。
日本最古の耕作用農具には同期する中国の耕作用農具が何一つ伝わってないの。
日本最古の耕作用農具には同期する中国の耕作用農具であるスキ(耜)も
スキ(鋤)もスキ(犂)もないの。
日本語ではぜんぶスキと読むから分かり辛いが。
これで分かっただろうか?
480:日本@名無史さん
20/02/08 00:36:19 .net
>>478
菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具は、同期する中国の耕作用農具と
同じ耕作用農具が何一つ伝わっていない上に、同期する中国の耕作用農具には
存在しない耕作用農具が伝わっている。
菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具は、同期する中国の耕作用農具には
存在しない耕作用農具が伝わっている上に、同期する中国の耕作用農具と
同じ耕作用農具が何一つ伝わっていない。
一番のキモは↑これだぞ
481:日本@名無史さん
20/02/08 00:49:56 .net
>>478
一番のキモはこの表だぞ
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
.
482:日本@名無史さん
20/02/08 02:22:24 .net
>>465
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
483:日本@名無史さん
20/02/08 08:06:30 .net
>>482
ハイ、中卒チンコロ乙w
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)
.
484:日本@名無史さん
20/02/08 16:02:41 .net
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
485:日本@名無史さん
20/02/08 18:29:54 .net
オクキョン遺跡が、BC1500年から存続して1100年に水田が発生した。
それは見えた歴史であって、単純にその水田はどこから来たか。 であって、
日本同様に判らない のであれば、
日本同様に中華からどんだけ遅れてるんだよ?
と、言う地勢は同じってこと。
三国志時代の九州北部は明らかに韓伝諸国より発展している。
縄文から弥生の変化に関しては、現代日本人の白米信仰が異常なだけのように思うが・・・
水稲耕作なんてもんは、農業労役や租税生産みたいな価値でしか無くないか?
縄文の原始共産制から、開拓で土地の所有、氏族家庭の分離、裁判警察軍事の発生。
倭人伝では、収租賦有邸閣
高床の倉庫に税として集めた米を 領主が貯蔵したんだろ?
領主の水田で作った、兵士の給料の米を 庶民が個別の家庭で喰ったかな?
精米とかそんなめんどくさい喰いもんは、縄文人が受け入れるかね?
それが伝わって、日本は発展したのか?
中卒の高校生的には、通い婚で子は集落の物だったりしても、
食の神聖性のある土器でみんなでメシ喰った、縄文的な原始共産制に憧れるなw
朝鮮半島永遠の奴隷の歴史、ってのは判りやすいけどwww
江戸時代までの日本の農民は、つい10年前の厨共のように旅行もできない奴隷だよ。
兄の国は、奴隷化の先進国か?
三足土器を発明した奴が料理を知らない
馬鹿な中卒なんだから日本に伝わるわけが無いだろwww
486:日本@名無史さん
20/02/08 22:36:00.42 .net
畿内厨脂肪www
【考古学】弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎県大村市で1700年前の鍛冶工房の跡が見つかる (動画あり)
スレリンク(newsplus板)
> 8 :名無しさん@1周年 :2020/02/07(金) 22:45:07.66 ID:tZsLSx3M0
> 魏志倭人伝には倭人は鉄の矢じりを使用していると書かれていて、
> 魏志韓伝には倭人が半島南西部の弁韓まで来て鉄を採っていると記されている
>
> さて、ではこの図を見てくれ、弥生時代の鉄鍛冶工房跡の分布図だ
> URLリンク(inoues.net)
>
> まさかとは思うが、これを見てもまだ邪馬台国がどの辺りにあったか分からないような知恵遅れはこのスレにはいないよな?
487:日本@名無史さん
20/02/09 09:25:36.97 TqdrQoq3M
この1年くらいの間に九州説を裏付ける発掘が続いている。硯の発見とか、鍛
冶工房の発見とか。大騒ぎした纏向はどうやら土方の飯場のようだしw だい
たい常識で考えたって、3世紀前半の日本で、畿内から北九州に至る広域国家
なんかあったわけない。考古学者って基本的に「発掘バカ」だからなwww
歴史を考えるには「インフラ」=水、食糧、交通、通信、言語、貨幣に対する
考察が基本なのに、それを全く考えないで「緩やかな国家連合があった」とか
マヌケなこといってるんだからwww 人間の歴史はホッブズが言ったとおり
「万人の万人に対する闘争」だよ。「緩やかな国家連合」なんてあるわけねえ
わ。畿内説論者は「バカの見本」として、晒されろ wwwwww
488:日本@名無史さん
20/02/09 10:06:46 .net
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」-「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」-魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
-邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」-「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
URLリンク(www.infokkkna.com)
「魏志倭人伝」-「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
-弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
489:日本@名無史さん
20/02/09 12:17:33 .net
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
490:日本@名無史さん
20/02/09 14:35:33 .net
>>486
邪馬台国時代以降の製鉄国内化の走りとしても、
僻地であることは間違いないんですが
なんで「ムラの」なんでしょうwww
239年公孫氏滅亡、246年韓王朝滅亡、247年卑弥呼 以死亡。
この魏による中狂的帝国覇権主義の東夷侵攻を受けて、
日本は九州統一~防人化、半島進出を強化して牛馬の移入と鉄の国内生産化を進めた。
この富国強兵政策化での、先駆的遺跡であると考えられる。
しかし、なぜこんな村でもない糞僻地に? と言う疑問は当然である。
107年の、帥升の生口を見ても明らかなのだが、
海外に進出した倭人、縄文海神はどうも人さらいだったようである。
高句麗馬と一緒に製鉄の工人もさらってきているのではないか?
これら渡来人は後世にも、僻地、武蔵高麗村に移住させられた記録がある。
その前にも白村江海戦で亡国の百済人を強制送還しているのかなwww
弥生時代は国境が在った訳でもないが、縄文海神以来の強制連行の歴史である。
明治維新からの、文明開化がそうだが、異文化への転換革命は移動手段は十分に有るのに
文明人が文明を持ち込む必要も無く、渡来による人的変化は伴っていない。
縄文~弥生のDNA変化の研究は進行中なわけだが、
この原因には文明史基盤での人的移動より、生物学的原因を考慮した方が良い。
縄文末に弥生人が渡来した? 日本海フェリーでも開通したのか?
中卒には想像もつきません。
491:日本@名無史さん
20/02/09 16:27:54.17 TqdrQoq3M
>>490
>魏による中狂的帝国覇権主義の東夷侵攻を受けて、日本は九州統一~防人化、
半島進出を強化して牛馬の
3世紀前半の時点で「日本人」という民族意識=ナショナリズムなんかあ
ったわけない。「民族」という意識は「言語の統一」がまず前提になる。こ
の時代はまだ朝鮮や中国と生活の必要から漢字という文字を使っていただけ
で、そもそも「日本語」なんてなかっただろ。それぞれのローカル言語(方
言というレベルにすら達していなかったはず)があって、交易には「外国語
としての漢字」を使っていただけで、口語レベルでは互いに通じ合えない部
分が多々あったはずだ。即日取引なら漢字すら不要で、目の前で交換する物
を見せ合って、手で数示すだけで用が足りただろう。隔日取引の場合だけ、
証拠としての契約者が必要で、漢字を使っただけだと思うねw
た
492:日本@名無史さん
20/02/09 16:30:44.71 TqdrQoq3M
歴史を考えるには「インフラ」=水、食糧、交通、通信、言語、貨幣に対する
考察が基本・・・・・これが確固たる「歴史哲学」である www
493:日本@名無史さん
20/02/09 16:32:35.45 TqdrQoq3M
>>491
× 証拠としての契約者 〇 証拠としての契約書
494:日本@名無史さん
20/02/09 23:07:31.32 TqdrQoq3M
ヘーゲル、マルクス、ブラタモリw・・・・・これが正しい歴史学の羅針盤だw
495:日本@名無史さん
20/02/10 03:52:33 .net
>>483
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
496:日本@名無史さん
20/02/10 13:19:44 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
497:日本@名無史さん
20/02/10 19:16:15 .net
なんだ、またコピペのアラシか?
498:日本@名無史さん
20/02/10 19:35:56.91 .net
この手のスレの参加者は10人程度だが、まあ、時に15人程度。
その中に既出のコピペアラシが40%もあって、話にならないで面白くなるのか?
中卒のアタシは厨坊時に会話が成立しないアラシの
土器厨豚鼻先生や子供のように言い張るだけの
阿波先生に学んだのは間違いないんだが
この手のアラシってのは、
チラ裏レベルの歴史板読者を完全に勘違いしてるだろ?
弥生スレも阿波スレも在るし、
ディベートなら、まぬけ用の畿内説スレ(のテンプレ)でやれよ。
499:日本@名無史さん
20/02/10 19:40:23.16 .net
>>489
日本神話の八岐大蛇とか龍信仰の伝来ともとれるけど
500:日本@名無史さん
20/02/10 19:42:11.83 .net
ヤケクソ畿内説のあらしだろう。
畿内スレでやり込められると、こっちのコピペが増えるからな。
501:日本@名無史さん
20/02/10 19:52:03 .net
オクキョンで紀元前1100年に伝わった水稲耕作で
いまだに日本では、900年の菜畑の発見が最古なのかな?
まだぁ~?
で、日本神話の構想ってのは、五経博士が伝来してる
500年~700年に作った話じゃないのかな?
日本に龍信仰が文字以外で伝わるなら
土偶のはずだけど出ないなら、支石墓の墓制で絵かな?
記紀厨先生も乙ですw
502:日本@名無史さん
20/02/10 20:08:25.14 .net
>>500
畿内説スレは私の見解では、参加者10人を割ってます。
この板には、会話の可能性が若干は残っていると思いたい。
そうならない為のアラシ排除、歴史板の健全を希望します。
503:日本@名無史さん
20/02/10 20:11:12.21 .net
>>501
何を言いたいのかよくわからんが
あんたの書き込みは
中国から稲作が伝来したことの否定には全くなっとらんが
504:日本@名無史さん
20/02/10 20:29:02 .net
中国から稲作が伝来する訳はない。
中国は支配下に無い近隣国に文明を伝授しない。
だから日本は百済を傀儡として五経や仏教、僧侶を導入した。
稲作は世界に先駆けた縄文海神が世界中から稲種を持ち込んだ。
それを、どう使うのかは、その時の軍事統制、支配者の采配。
水稲耕作が縄文の原始共産制から、
家族制や土地の私有に繋がるのは歴史の必然。
米などの穀物による税が成立して倭人伝には、「収租賦有邸閣」
筑紫の高床倉庫の存在が記録されている。
250年以降に成立したであろう税収軍事警察統制を
宗教王の卑弥呼が作れたか?
は、判らない。
505:日本@名無史さん
20/02/10 20:35:01 .net
>>504
全て根拠がない
議論すらできない
506:日本@名無史さん
20/02/10 20:50:22 .net
そもそも内容というか表現が断片的で、何を言いたいのかよくわからない。
507:日本@名無史さん
20/02/10 20:51:42 .net
日本の稲作が
中国からでなく朝鮮半島から伝わったと言いたいだけだから
だって、そうじゃないと、
中国→日本→ あれ? www
508:日本@名無史さん
20/02/10 21:34:47 .net
>>501
日本に龍が伝わったのは紀元後の1C頃で土器絵から
楽浪郡との交流で伝わったものと考えられる
509:日本@名無史さん
20/02/10 21:35:12 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
510:日本@名無史さん
20/02/10 22:27:58.54 .net
>>509
だから中国から渡来人がいなかった根拠になってないってwww
逆にさ
稲作が伝わってるから中国から渡来人が来たんだぜ!
とか
泉貨があるから、ほら、中国から渡来人が来たんだぜ!
とか
いくらでも言えるっしょw
あんたの話の前提は、
中国から渡来人が来たら、
あらゆる全ての中国のものが伝来する筈だ、というのが証明されないと成り立たないからな。
511:日本@名無史さん
20/02/11 01:44:51 .net
>>510
で、中国から渡来人があった事を証明する、その生活痕たる衣食住に関する
中国系生活土器や漢服片、中国系住居の痕跡が出土した生活痕遺構は?
で、中国から渡来人があったと狂言している頭のおかしなキチガイ考古学者の
氏名と所属団体は?
.
512:日本@名無史さん
20/02/11 05:45:41 .net
>>501
~チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪~
無能ヒトモドキ(URLリンク(sites.google.com))を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます