暇つぶし2chat HISTORY
- 暇つぶし2ch74:  南北朝~隋唐:30cm弱 と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。  先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。 参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。  後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。 「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。  また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。 記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。  ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。 《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出) ――――――――――MAN------------FRAU------ 4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7 3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6 2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9 A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1 (本項 続く)



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(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎―黄鐘律管が容積・重量の基準―になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。

 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

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◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

77:1
19/12/26 00:37:57.38 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

78:1
19/12/26 00:38:37.79 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

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19/12/26 00:39:13.59 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

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19/12/26 00:39:48.99 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

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19/12/26 00:40:21.38 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

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19/12/26 00:40:58.00 .net
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

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19/12/26 00:41:33.38 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

84:1
19/12/26 00:41:56.74 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、�


85:蜿ォ軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。  三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018) 初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。  黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。  このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。



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19/12/26 00:42:32.52 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

87:1
19/12/26 00:43:11.41 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

88:1
19/12/26 00:43:45.29 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

89:1
19/12/26 00:44:26.84 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部


90:平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。  また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。  江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。  参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』  https://i.imgur.com/LCI37Lk.png また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。  このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89 Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!    3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな! A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。 3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。 本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。  下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。 ・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。 対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は ・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏 ・中西部瀬戸内が平形銅剣圏 ・東辺が三遠式銅鐸圏 に分裂している。  この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。  夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。 https://i.imgur.com/EXTU3lu.png



91:1
19/12/26 00:45:00.97 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋


92:車馬虎豹禽獸」(皇覽)  ※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91 Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!    10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ! A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。  実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。



93:1
19/12/26 00:45:33.99 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

94:1
19/12/26 00:46:16.07 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

95:1
19/12/26 00:46:51.94 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今


96:人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。 ◆FAQ 98 Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない! A:合理的な理由がない。  纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。  一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。 よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。 また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。 よって此の因果関係も求め難い。  纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。 導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。 以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



97:1
19/12/26 00:47:32.43 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし

98:日本@名無史さん
19/12/26 07:17:10 .net
新しいスレッドで、研究をすれば、良いな。

99:日本@名無史さん
19/12/26 07:24:21.64 .net
Ω*(sin(θ+(1/Ω))─sinθ)は、どのような単純な姿に変形できるのだろうか、、、

100:日本@名無史さん
19/12/26 07:28:27.54 .net
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、無駄になってしまった、このスレッドで研究すれば、良いよ。

101:日本@名無史さん
19/12/26 14:29:44 .net
前スレ>884
>鉄で削るでもいいけど、それが何なのかわからん

九州説の主張で今うるさく残っているのが、
「鉄は九州が多いにだ」
「鉄のない纏向が倭国のはずがないにだ」
くらいだけだから、それをきちんと否定しているところ

102:日本@名無史さん
19/12/26 14:30:38 .net
前スレ>885
>鉄以外での主張をしたほうがいいよ 

九州説がなww
そんなのは何の論拠にもならないのに、九州説のこだわりポイントになっているらしいw

103:日本@名無史さん
19/12/26 14:32:20.67 .net
>>890
>それ累計じゃないの
またデタラメをww
そんな推計もソースもないくせにw
過去2000年の類型でも、800万なんて行かないぞww
なぜなら、観光客なんて概念はここ100年程度のものだしなw

104:日本@名無史さん
19/12/26 14:32:40.97 .net
>>988
>陸上競技場と言えば普通400mだよね (半円部の直径は約76m)
キナイコシの算数は駄目だから<<

>>993
>それ、算数と関係ないだろ<

だからキナイコシは算数が駄目
400mトラック
直線80M×2=160M
400m-160=240m
120mの半円を描く・・
120M×2÷π≠直径76m

105:日本@名無史さん
19/12/26 14:33:47.06 .net
前スレ>905
>50mの紐を造って、一端を中心にして円を描けばよく、
やってから言えw
50メートルの紐をまっすぐに引っ張るのは困難だし、
50メートルの長さだと縄伸びが無視できない

106:日本@名無史さん
19/12/26 14:35:28.78 .net
>>1000
箸墓は傾斜地で尾根の麓  高さな何mの尾根なの?

107:日本@名無史さん
19/12/26 14:35:30.11 .net
前スレ>908
>糸島市で年間632万人
またうその上塗りをしているww
うそじゃないというなら、ソースを出せや!
こういうところが本当に「うそも百回」体質のやつは始末が悪い

108:日本@名無史さん
19/12/26 14:37:30.40 .net
前スレ>916
>俺も不思議と思ったんだがこの矢板は後世で作らたとも思う
>矢板の年代測定をなぜしないんだろう
「石器で矢板」は分が悪いと見て、九州説が撤退に入った模様ですww
纏向には鉄器が普通にあったんだよ
それだけのことを認められない九州説は本当に惨めw

109:日本@名無史さん
19/12/26 14:38:57.62 .net
>>925
>ドームで覆うなり、ありのままに残せば良かったのに
柱穴も、建物分一揃いが残っているわけじゃないからな
後世の地表の改変でまともに残っていない
ありのままだとさらにしょぼいぞw

110:日本@名無史さん
19/12/26 14:39:28.64 .net
>>81 キナイコシが狂っているだけ
後円部は四段築成だから最下層部に円が描ければいいだけだから高度な技術はいらないよ

111:日本@名無史さん
19/12/26 14:40:21.20 .net
前スレ>929
>矢板を鉄器で磨くのもいいが、そんなら高床式住居が巻向にいっぱいあってもいいと思うが、
???
いっぱいあるだろ?
複数回建て直された跡が重なっているから、何棟と数えるのは困難だけれど

112:日本@名無史さん
19/12/26 14:40:35.15 .net
>>74
Ωπを巨大な正の自然数と考え、内接正2πΩ角形と円と外接正Ωπ角形の大きさを比較し、挟み撃ちをすれば、
感覚的には理解でき、計算もできるが、論理は厳密ではないな。。。

113:日本@名無史さん
19/12/26 14:40:55.99 .net
>>79
正解
キナイコシは頭が悪すぎるね

114:日本@名無史さん
19/12/26 14:43:09.80 .net
>>932
>>それに、「止」という字は足の裏の形状とはまったく関係ないぞw<
>足の裏の足跡の画像を提示したのは、類スレ主の方だ。
>私は、 「止」や「歩」の字形の持つ表意や表象で判断している。
釣れた、釣れたww
「止」という字は、枝を広げ葉を落とした植物の形象
葉を落として成長を止めた状態を示している
その形を借りてきているだけだよww
本質は「歩いたときにできる足跡」だ
「立ち止まっているときの足底長」というのは、
バカ初段を軽く超えている大バカ級ww

115:日本@名無史さん
19/12/26 14:44:28.24 .net
>>87
僕達は、テイラー氏の考え方を理解しているので、
cos(1/Ω)=1-(1/(2*(Ω^2)))+(1/(12*(Ω^4)))-(1/(6!*(Ω^6)))+・・・=1
としてしまえば、良いな。
だから、
Ω*sin(1/Ω)=1
も自明なのだ�


116:ヒ。



117:日本@名無史さん
19/12/26 14:44:33 .net
>>79
そうですな
このくらいできないようじゃ
奥山が九章算術を理解できないのも当然だなww

118:日本@名無史さん
19/12/26 14:45:06 .net
鉄は辰韓で出るから市買で銭を用いるくらい辰韓に多い
二郡に鉄を供給しているとあるから
韓、濊、倭がみな従ってこれを取っているのは
主に238年に魏が公孫氏を滅ぼした後の話
「従って」とあるのは魏に許可を得ているのだろう

119:日本@名無史さん
19/12/26 14:46:29 .net
奧山氏が、討論しているのではないのかな。

120:日本@名無史さん
19/12/26 14:46:45 .net
前スレ>986
>だから、直径100mの円も高度な技術をでなく描けると言うことだろ

だから、実際に書いてから言えやw
重機もなしに整地して平面とって、それから「正円」で直径100メートルの円を書いてみなw

121:日本@名無史さん
19/12/26 14:47:57 .net
前スレ>998
>巻向は平地に建ってるから、円は簡単に描けるなww

扇状地って言葉とか、微高地って言葉、知ってるのかな?

122:日本@名無史さん
19/12/26 14:49:04 .net
Ω*(sin(θ+(1/Ω))─sinθ)
=Ω*((sinθ)*cos(1/Ω)+(cosθ)*sin(1/Ω)─sinθ)
=Ω*((sinθ)*cos(1/Ω)─(sinθ)+(cosθ)*sin(1/Ω))
=(sinθ)*Ω*(cos(1/Ω)-1)+Ω*sin(1/Ω)*cosθ
=(sinθ)*Ω*0+1*cosθ
=cosθ

123:日本@名無史さん
19/12/26 14:49:39 .net
>>79です訂正
○120M×2÷π=直径約76m

124:日本@名無史さん
19/12/26 14:51:13.33 .net
都合の悪い事、分からない事に対する畿内説の反応
①それは嘘だ!嘘つき!
②証拠は?
③~別の話題へとすり替える~

125:日本@名無史さん
19/12/26 14:51:23.28 .net
>>82
平成29年は648.3万人に増えていた
URLリンク(www.city.itoshima.lg.jp)
ちなみに平原遺跡には十数回行ったが一度も観光客にあったことはない

126:日本@名無史さん
19/12/26 14:52:11.19 .net
>>96
Ω*(cos(1/Ω)-1)のあたりは、少し、慎重に考えたが、これで良いな。

127:日本@名無史さん
19/12/26 14:52:59.91 .net
>>90
奥山は着いていけないと思うよ
円周=直径×円周率も知らないのだからww

128:日本@名無史さん
19/12/26 14:53:39.24 .net
奧山氏は、円周の計算に失敗していたな。

129:日本@名無史さん
19/12/26 14:55:57.74 .net
奧山氏は、正多角形の周長の計算や面積の計算は、できない可能性が高いな。

130:日本@名無史さん
19/12/26 14:57:44.57 .net
奥山は円周率自体の算出方法すら知らないからなw

131:日本@名無史さん
19/12/26 14:58:25.75 .net
>>94
50mの縄があればできるよ
縄を引っ張り廻して描くとでも思ってるのかな
線は点の集合体だとわかれば、出来るのだよね

132:日本@名無史さん
19/12/26 14:59:51.36 .net
3
6
12
24
48
96
前方後円墳の円形だと認識されている部分は、本当は、正多角形なのではないのかな。

133:日本@名無史さん
19/12/26 15:00:49.48 .net
>>99
うそつけ
台風の時10数回行ったんじゃないのww

134:日本@名無史さん
19/12/26 15:02:05.59 .net
まあ前方後円墳という4世紀の物体の話をしても意味ないんだけどなw

135:日本@名無史さん
19/12/26 15:06:21.81 .net
>>108
フーン成程4世紀ね
すると奥山は4世紀に円を描くことが先進技術と言ってるんだww

136:日本@名無史さん
19/12/26 15:08:10.01 .net
>>83
>纏向には鉄器が普通にあったんだよ
犬の遠吠えに過ぎんな。

137:日本@名無史さん
19/12/26 15:09:45.83 .net
>>107
伊都国歴史博物館でも数十回は行ってるが
平日は地元のイベントがない日は入館者は僅かしかいない
14年目で入館者30万人
URLリンク(itoshima-np.co.jp)

138:日本@名無史さん
19/12/26 15:12:35.83 .net
>>94
ばかだね、整地しなくてもできるのだよ
高低差が5mとすれば、最高5m棒等を何本か縄に結び


139:付け縄が平行に一直線にすれば 出来るの知らないのかね・・・・



140:日本@名無史さん
19/12/26 15:19:03.04 .net
15年ほどかけた調査において、どれほどの成果が得られたのかを見れば一目瞭然。
史実には形があるのです。
<九州説代表>
佐賀:吉野ヶ里遺跡の宮殿
URLリンク(i.imgur.com)
集落全体
URLリンク(i.imgur.com)
<畿内説代表>
奈良:纏向遺跡の宮殿(想像模型)
URLリンク(i.imgur.com)
現物
URLリンク(i.imgur.com)

税金返せ

141:日本@名無史さん
19/12/26 15:23:40.44 .net
>>112 こういうのも奥山は高度な技術と言うのだったな わはははっ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(縄
    I I I I I I I I
I I I I I I I I=棒 棒の最低点が地形
I I I I I
I

142:日本@名無史さん
19/12/26 15:26:01.08 .net
吉野ヶ里遺跡の復元建物は成果ではなくて国営事業利権

143:日本@名無史さん
19/12/26 15:30:39 .net
>伊都国歴史博物館でも数十回は行ってるが
>14年目で入館者30万人

つまり1日あたり数十人、1時間に数人・・・。さすが大にぎわいジャラーン。

144:日本@名無史さん
19/12/26 15:40:06 .net
大和説者はすでに唱えられている説しか持ち出してこれない。
新たに自分で考えた邪馬台国大和説の証拠を考え出せない。
なので、もう最後の矢板は使ってしまったので、証拠なしの遠吠えしか吠えられん体たらく。
遠吠えだけじゃ、ダメダメ。

145:日本@名無史さん
19/12/26 15:43:28 .net
>>80
バカだね 
>50メートルの紐をまっすぐに引っ張るのは困難だし<

途中に棒を入れればいいだけだし
まっすぐかどうかは 誰かが遠目でみればいいし、最先端からも確認できる

>50メートルの長さだと縄伸びが無視できない<
50Mでどんだけ縄が伸びるのよ、途中に棒を入れてればそんなに伸びないよ

146:日本@名無史さん
19/12/26 15:48:39 .net
宮崎県の超ド田舎・高千穂町でもこれだけあるゾ

2015年に訪れた観光客数は過去最高の161万6200人。
これまで最高だった2009年の152万人と比較しても9万6200人増。

観光客数:161万6200人(前年比13.1%増)
消費額:52億7320万円(前年比27.4%増)
土産品購入:11億6754万円(同45%増)
宿泊費;22億9521万円(同32.7%増)

147:日本@名無史さん
19/12/26 15:50:32 .net
>>91
九章算術でも円周率の概念は反映されているよな
本当におバカなオクヤマ

148:日本@名無史さん
19/12/26 15:50:43.69 .net
古代人は円が書けないとか、方角を間違えるとか、とことん古代文明を舐めきってる畿内説は考古学に向いてないな

149:日本@名無史さん
19/12/26 15:54:27.65 .net
・・・日本昔話。
なぜか老婆談と同じような話ばかり。
凄い家に住んでいる、何やらの家の人だと言われて、
来てみたら(嫁に来た)、とくに・・・。~を祀っていたとか。

150:日本@名無史さん
19/12/26 15:57:25.18 .net
50メートルの長さの縄で簡単に円を描いた九州の前方後円墳はどこにあるのかな

151:日本@名無史さん
19/12/26 15:59:08.51 .net
うらしまマリン、長い竿・・・、
その他、ほとんど同じ?

152:奥山のために解説してやるよ
19/12/26 16:01:23.26 .net
>>105
>縄を引っ張り廻して描くとでも思ってるのかな
線は点の集合体だとわかれば、出来るのだよね<
解説1
直径100Mだと円周は314Mだろ、50センチ幅でもいいが点を628か所作ればほぼ正円が出来る
矢板を磨くほうがよっぽど大変だよ

>>118
>>
>50メートルの紐をまっすぐに引っ張るのは困難だし<
途中に棒を入れればいいだけだし
まっすぐかどうかは 誰かが遠目でみればいいし、最先端からも確認できる <<
解説2 縄がまっすぐかどうかは 遠目で確認できる
一直線かは縄の最先端から見て棒が重なりあって1本に見えればOK
@奥山 本当に大学出てるの?高校も行ってないように思えるが・・・・・

153:日本@名無史さん
19/12/26 16:05:32.36 .net
>>123
理解したよう�


154:セね 直径100Mの円を描くのは最先端の技術じゃないことを お利口さんですねwww



155:日本@名無史さん
19/12/26 16:06:43.72 .net
本や書など、
当時、家にあったものなんかも、どうしちゃったんだろうと言っていたりw
誰かにあげたのかな~・・・、それとも・・・・。

説明不要。

156:日本@名無史さん
19/12/26 16:07:27.53 .net
筑豊の田川地域住民は赤村に巨大な前方後円墳があると言張っていたが
田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に丘陵を「自然の地形」と否定している

157:日本@名無史さん
19/12/26 16:07:42.40 .net
>>99
>平成29年は648.3万人に増えていた
見てきたけど、なんか胡散臭いな
産直42%ってなんぞ?
これ、観光客じゃないだろww

158:日本@名無史さん
19/12/26 16:09:06.43 .net
>>105
>50mの縄があればできるよ
>縄を引っ張り廻して描くとでも思ってるのかな
やってみろってww
わらを編んで50メートルの縄を作るところからやれよ
そして、わら縄が引っ張ると伸びることに絶望しながらやれw

159:日本@名無史さん
19/12/26 16:10:05.06 .net
>>108
>まあ前方後円墳という4世紀の物体の話をしても意味ないんだけどなw
こうやって年代捏造をねじ込んでくるから、九州説は質が悪いw

160:日本@名無史さん
19/12/26 16:10:25.14 .net
>>83
無い物ねだりかよ
よっぽど鉄が欲しいんだなと思われプラスに働かない

161:日本@名無史さん
19/12/26 16:11:44.76 .net
>>110
>犬の遠吠えに過ぎんな。
まともな反論一つできない無能にも可能なことは、
飢えから目線で見ない不利をして印象操作の誹謗中傷の言葉を書き連ねることだけw

162:日本@名無史さん
19/12/26 16:14:27 .net
>>112
>高低差が5mとすれば、最高5m棒等を何本か縄に結び付け縄が平行に一直線にすれば

だから、実際にやってから言えww
宙に縄を浮かせた時点で、たわむぞw
さいくろいど曲線って知ってるか?w

それに、前方後円墳の格段は水平が取れてる
直径100メートルの円を描くのは簡単というところに持っていこうとしているようだが、
直径100メートルの正円の平面を取るのは間違いなく先進技術だろ?ww

163:日本@名無史さん
19/12/26 16:17:07 .net
日本昔話『ふろ屋の福の神』


このような話とか、どういうことなんだろうw
そもそも・・・みたいな話。

164:日本@名無史さん
19/12/26 16:17:19 .net
>>130
捨て台詞かな?
50M  5Mの縄(棒の結び目は除く)が10本あればいいだけ

165:日本@名無史さん
19/12/26 16:24:39.73 .net
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)


166:4/04/tanken08.html ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html .



167:日本@名無史さん
19/12/26 16:25:10 .net
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

168:日本@名無史さん
19/12/26 16:26:07 .net
>>133
あんたは円周率で投稿制限

169:日本@名無史さん
19/12/26 16:27:43 .net
>>83
キナイコシは無職で本当にミジメ

170:日本@名無史さん
19/12/26 16:29:27 .net
あの筋肉少女帯の曲。

山の上でもサカナが・・・、魚が好きとか、
老婆の話と同じw

171:日本@名無史さん
19/12/26 16:32:26.86 .net
>>134
>直径100メートルの正円の平面を取るのは間違いなく先進技術だろ?<
畿内説の学者の誰が言ってるの笑ってやるよ

172:日本@名無史さん
19/12/26 16:34:02.32 .net
>129
糸島市はとなりの福岡市から海水浴に来ても観光客
福岡市西部から30分くらいのJA糸島産直市場&#8206;に買い物に来ても観光客

173:日本@名無史さん
19/12/26 16:39:18.42 .net
>>134
>それに、前方後円墳の格段は水平が取れてる <
そんなの高等技術じゃないよ 見てもわかるし水を流せばわかるじゃん
弥生期の水田は水平じゃないとでもいうのかばーーか

174:日本@名無史さん
19/12/26 16:43:28.57 .net
数年前の、とあるスレw
そっちに行って、奴隷(労働者?肉体労働者?)にでもされたんだろうw
みたいなレスもあったり。

175:日本@名無史さん
19/12/26 16:47:21 .net
畿内説が最も古い前方後円墳だと言い張っているホケノ山古墳で4世紀。
おそらく卑弥呼の時代とは関係ありませんね。

ホケノの「槨」から出土した小枝の年代→URLリンク(i.imgur.com)
『樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。』

176:日本@名無史さん
19/12/26 16:48:41.90 .net
老婆が言うには、
肉なども食べなかったと言っているし、
肉体労働者では、なさそうな話ばかり。
さいきば事件みたいな話?
体つきにも変化が・・・。

177:日本@名無史さん
19/12/26 16:51:03.85 .net
>>121
>古代人は円が書けないとか、方角を間違えるとか、とことん古代文明を舐めきってる畿内説は考古学に向いてないな<
賛同
こういうレベルの低い奴が畿内説を支えてるから畿内説は崩壊していくのだよ

178:日本@名無史さん
19/12/26 16:52:33.50 .net
>>146
そうそうw
ホケノ山古墳や箸墓古墳やらが完成した頃に纏向遺跡は消滅してるんだよなw
纏向遺跡は間違いなく、古墳造営基地局だw

179:日本@名無史さん
19/12/26 16:54:39.78 .net
>>119
巻向は✖だな
奈良県の小中学生が強制的に行かされてる程度じゃねーか

180:日本@名無史さん
19/12/26 16:57:25 .net
>>134
>それに、前方後円墳の格段は水平が取れてる
直径100メートルの円を描くのは簡単というところに持っていこうとしているようだが、
直径100メートルの正円の平面を取るのは間違いなく先進技術だろ?ww<

周りに周濠が先に出来ているんだから、それに水を張って、
その水面からの高さを決めれば、平面を造るのは簡単さ。

181:日本@名無史さん
19/12/26 17:02:32 .net
キョベクリテペ
1万2千年前に造られた神殿

182:日本@名無史さん
19/12/26 17:07:00 .net
同じでしょ?さいきば事件(さかきばら事件)
嘘の話なのか、何なのか?

向こうにカメがいるよ(いたよ)、
行ってみよう。

山に誘い出し、一緒に行った?

183:日本@名無史さん
19/12/26 17:08:05 .net
>>152
立派な円形遺跡だなw

184:日本@名無史さん
19/12/26 17:08:58 .net
>>103
奥山は正多角形の内角の和が大きければ大きいほど円に近付く事を知らないのではないのかな?
だから、直径100mの円それも古墳の円部を描くのが先進技術と言っているのだろかな

正多角形については小学校で習ったと思うがな・・・

185:日本@名無史さん
19/12/26 17:09:26 .net
『姥清水』

浦島太郎、うらしまマリン・・・、その他w
仮名、キャラクター名。

186:日本@名無史さん
19/12/26 17:12:36 .net
>>103
奥山は正多角形の内角の和が大きければ大きいほど円に近付く事を知らないのではないのかな?
だから、直径100mの円それも古墳の円部を描くのが先進技術と言っているのだろかな

正多角形については小学校で習ったと思うがな・・・

>>120

187:日本@名無史さん
19/12/26 17:12:59 .net
『鳳輿』龍宮~。どう考えてもw

188:日本@名無史さん
19/12/26 17:14:51 .net
>>151
ナイス回答です
>>144
水田でも明らかですね

189:日本@名無史さん
19/12/26 17:20:26 .net
奥山窮するとつぶやきもどきに変身

190:日本@名無史さん
19/12/26 17:21:52 .net
九州で後円部直径が100mを越える前方後円墳は5世紀の宮崎の1基だけ

191:日本@名無史さん
19/12/26 17:25:47 .net
事件当時の話?

HM/HR(音楽)を好んで聴いている、
そういった活動をしている。

そういう説もあったとかwww

192:日本@名無史さん
19/12/26 17:25:59 .net
>>137
バナナもパプアニューギニアでは蒸し料理だな
本田勝一

193:日本@名無史さん
19/12/26 17:28:03 .net
『2ch  偉人 ヒョウロンカキドリ』

194:日本@名無史さん
19/12/26 17:31:47 .net
>>144
だよな、水田の土壌が平らでないと稲の茎の水位がばらばらで 腐っちまう稲が大量に出るな

>>134 あんたが正しいとしたら奈良では弥生期に水田は無かったことになるなww

195:日本@名無史さん
19/12/26 17:32:57 .net
語尾・・・・:~じゃん。

めがですの人?

196:日本@名無史さん
19/12/26 17:33:26 .net
弥生期の大規模水田というのは九州では見つかっていない

197:日本@名無史さん
19/12/26 17:34:41 .net
>>115
でも黒字だからいいじゃん

198:日本@名無史さん
19/12/26 17:35:14 .net
『めがです  じゃん』

199:日本@名無史さん
19/12/26 17:42:56.71 .net
>>149
>纏向遺跡は間違いなく、古墳造営基地局<
普通(物証)に考えればそうだろうが、畿内説互助会の稼ぎ頭にしようとして妄想が続くな
観光客も少ないようだし 妄想の失敗だな
古墳ミュージアムでも作って再出発したほうが良いと思う。
斎場と思われる掘立柱建物跡も似非復元しないで元に戻したほうがいい
桜井市の教委は✖ それに騙された観光課も✖

200:日本@名無史さん
19/12/26 17:45:38.97 .net
『浦島マリン』

201:日本@名無史さん
19/12/26 17:47:37.42 .net
弥生時代の水田は区画がめちゃ小さい
さて、なぜでしょうかね?

202:日本@名無史さん
19/12/26 17:50:09 .net
京間?

203:日本@名無史さん
19/12/26 17:56:40 .net
>>128

田川辺りは、奴国(二万戸)   @阿波

204:日本@名無史さん
19/12/26 17:58:29 .net
魏志倭人伝に邪馬台国は九州よりはるか南の位置になる所にあると書かれ
考古学的証拠は畿内が圧倒
九州説は唱える学者も0でとっくに学会で相手にされてない

205:日本@名無史さん
19/12/26 17:59:16 .net
『サカキバラ事件 メガデス』調べると、出てくるでしょ?

206:日本@名無史さん
19/12/26 18:05:34 .net
>>172
どの位なの?

207:日本@名無史さん
19/12/26 18:07:27 .net
まさか、あのメガデス?の、ふりーどまんが・・・という報道、
詳しいことは、わからないけど、ふりーどまんがやったんだろう、
はやく自首しろと言っているのに。それとも嘘の報道?

208:日本@名無史さん
19/12/26 18:10:11 .net
>>172
1区画は狭いが、寄せ集めると広いよ。
皆同じ土壌の高さだよ!

209:日本@名無史さん
19/12/26 18:10:54 .net
>>175
>考古学的証拠は畿内が圧倒


わははははは。  ぜったいそれは、ない!   @阿波

210:日本@名無史さん
19/12/26 18:18:08 .net
放送


211: 免許 資格 停止 だと言っているのにw 嘘の~、印象操作、レッテル貼り・・・冤罪事件?



212:日本@名無史さん
19/12/26 18:18:57 .net
>>172
均平にするのが大変だからだよ。  なんせ、人力だからね。  なんで均平にする必要があるのかは分かるよね?  わははははは   @阿波

213:日本@名無史さん
19/12/26 18:21:23 .net
>>180
三角縁神獣鏡
前方後円墳

214:日本@名無史さん
19/12/26 18:23:03 .net
>>183
それみんな、倭国(阿波)の特産品だよ。  わははははは   @阿波

215:日本@名無史さん
19/12/26 18:27:45 .net
>>183
はいはい4世紀4世紀w

216:日本@名無史さん
19/12/26 18:32:07 .net
>>185
ニセ情報だけが頼みの九州説って
みじめだね

217:日本@名無史さん
19/12/26 18:33:04 .net
>>175
>魏志倭人伝に邪馬台国は九州よりはるか南の位置になる所にあると書かれ
>九州説は唱える学者も0でとっくに学会で相手にされてない

九州より遥か東にある畿内はなおさら相手にされていない。又、学者といっても、自称学者の名刺を振りかざす詐欺師ばかり・・・、

218:日本@名無史さん
19/12/26 18:34:16 .net
>>186
はいはい老眼老眼w
>>146はちっちゃくて見えづらいのかな?w

219:日本@名無史さん
19/12/26 18:59:18.30 .net
>>187
そもそも魏志倭人伝に邪馬台国は九州と書かれてない
一方畿内は三世紀に魏と交流があって当時の中心地だった証拠が数多くある
邪馬台国は大和国だったという事さ

220:日本@名無史さん
19/12/26 19:03:22.84 .net
>>189
>一方畿内は三世紀に魏と交流があって当時の中心地だった証拠が数多くある
わははははは。  ぜったいそれは、ない!   @阿波

221:日本@名無史さん
19/12/26 19:03:44.42 .net
>>188
何言ってるんだか・・・
あの小枝で4世紀とか言ってはのは九州に爺さん、しかも理解の浅いごく一部の人だけでしょ

222:日本@名無史さん
19/12/26 19:05:29.39 .net
すでに気づいていると思うんだけど、頭が悪いんだろう。
『大膳 職』こういう話などもw

223:日本@名無史さん
19/12/26 19:06:23.46 .net
>>138
>ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。<
播磨の高御位山の東の方の信号の呼称が「鼎」であり、
播磨は、大国主の頃から出雲の支配下や、九州倭国の支配下になっていたから、
弥生人が「鼎」を使っていた可能性がある事になる。

224:日本@名無史さん
19/12/26 19:07:12.06 .net
『鳳輿』
このような名前の家・・・『大膳 職』
謎の日本昔話とかw

225:日本@名無史さん
19/12/26 19:15:06 .net
詳しいことは、わからない、・・・ほんとーに凄い家だったとか?
以前、書いた事があるんだけどw


凄い家に住んでいるような家の人で~~~~、
だからと言って、大きな家などに住んでいるわけでもない
とか。

226:日本@名無史さん
19/12/26 19:18:46 .net
>>190
魏年号のある三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡
科学測定で卑弥呼の時代の三世紀からあると判明している前方後円墳

227:日本@名無史さん
19/12/26 19:19:47 .net
『お前たちのしたことは すべて知っている』

 神殺し、人の家の先祖などの話でしょ。

228:日本@名無史さん
19/12/26 19:21:49 .net
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


URLリンク(inoues.net)

.

229:日本@名無史さん
19/12/26 19:22:21 .net
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

230:日本@名無史さん
19/12/26 19:23:26 .net
九州説というのは「クズ」説と音読するのが正しいのでありまして、この説が古墳の石室に混じり込んだゴミに一縷の望みを託しますのは誠に順当なお話しでございます

231:日本@名無史さん
19/12/26 19:31:48 .net
そういうことをする人間=なぜか創価か何かなんだろう?
みたいな話ばかりだしな、それとも違うのかな。


教わったり習ったりしたことなどを、いろいろと吸収するでしょ?


その後、もう、あなた(先生、師匠のような存在。家。)は、
必要ないみたいなやり方をする。

こちらのほうが大きくなった(有名でも可)のでとか。

232:日本@名無史さん
19/12/26 19:43:25 .net
6000~7000年前の中国新石器時代の黄河流域の遺跡なら
粟を蒸したんだろうな

233:日本@名無史さん
19/12/26 19:50:04 .net
でも成太作について調べてみると・・・、
そういう事は言ってないみたいだしな・・・むしろ逆、日本は下だとか。

234:日本@名無史さん
19/12/26 19:53:38 .net
・・・創価(成太作)の仕業にしようとしている団体、集団がいるのかな。

235:日本@名無史さん
19/12/26 19:5


236:6:36 .net



237:日本@名無史さん
19/12/26 19:58:10 .net
石川県鹿西町(現中能登町)杉谷チャノバタケ遺跡で見つかった約2000年前の日本最古のおにぎりは
蒸された後に焼かれたものと考えられている

238:日本@名無史さん
19/12/26 20:00:17 .net
>>161
>九州で後円部直径が100mを越える前方後円墳は5世紀の宮崎の1基だけ<

宮崎は、(姫氏系の卑弥呼とは違って)、
大和と同じく、糸島の阿毎氏系の国。

239:日本@名無史さん
19/12/26 20:00:27 .net
論争に敗れた九州説に出来ることは
荒らしだけ

240:日本@名無史さん
19/12/26 20:04:10 .net
邪馬台国畿内説が、完全に論破されてしまい、このスレッドは、最も巨大な発見済みの素数よりも、さらに大きな素数を発見するための方法を究明するための研究所になったのだったね。

241:日本@名無史さん
19/12/26 20:06:01 .net
円筒関数という関数が、あったな。

242:日本@名無史さん
19/12/26 20:08:19 .net
>>210
猫が、潜り込む円筒なのではないのかな。

243:日本@名無史さん
19/12/26 20:08:34 .net
>>209
九州説は敗れ去ったのだもの
そうやって逃げ回るのは当然だ

244:日本@名無史さん
19/12/26 20:10:56 .net
>>211
実験で、殺害されそうになっていた猫は、円筒に潜り込み、助かったのだろうか、、、

245:日本@名無史さん
19/12/26 20:11:40 .net
>>175
>魏志倭人伝に邪馬台国は九州よりはるか南の位置になる所にあると書かれ<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國は、不彌國や邪馬壹國女王之所都で、萬二千余里がほぼ終わる書き方をしているから、
「九州よりはるか南の位置」にもならない。

>考古学的証拠は畿内が圧倒<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
卑弥呼の頃の考古学的証拠でも九州が大和を圧倒。

>九州説は唱える学者も0でとっくに学会で相手にされてない<

「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説や学会は、
7割の国民や、中国や世界の学者らからも、とっくに相手にされていない。

246:日本@名無史さん
19/12/26 20:16:10.30 .net
>>183
>三角縁神獣鏡
前方後円墳<
大和の三角縁神獣鏡は4世紀であるし、前方後円墳は3世紀末からであり、
いずれも、卑弥呼の時代ではなく、九州倭国の東征毛人五十五國時代。

247:日本@名無史さん
19/12/26 20:17:10.61 .net
こんな街宣車式連呼しか出来なくなった九州説
相変わらず、一つも証拠を出さない
まさに末期症状です

248:日本@名無史さん
19/12/26 20:18:33.02 .net
>>186
>ニセ情報だけが頼みの九州説って みじめだね<
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの、
嘘つき騙しのニセ情報だけが頼みの大和説って
みじめだね

249:日本@名無史さん
19/12/26 20:19:03.86 .net
奥山氏は、大学病院から、処方箋を渡されたのだったね。。

250:日本@名無史さん
19/12/26 20:21:51.49 .net
>>217
それがニセだって証拠は?

251:日本@名無史さん
19/12/26 20:24:11.52 .net
>>189
>そもそも魏志倭人伝に邪馬台国は九州と書かれてない <
そもそも邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は、「南≠東」などに拠って、×。
>一方畿内は三世紀に魏と交流があって当時の中心地だった証拠が数多くある<
一方、畿内なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
3世紀前半の卑弥呼の頃に魏と交流があった証拠は、九州には全部あるが、
大和には、全くのようにない。
邪馬壹國女王之所都は九州だったという事さ

252:日本@名無史さん
19/12/26 20:27:23.95 .net
>>136
>50M  5Mの縄(棒の結び目は除く)が10本あればいいだけ
以外に50メートルの縄って用意するのが大変だって理解できたんだろうか?
実体験に乏しい文句しか言わない九州説の連中は、基本的に物知らずなんだよなw
5メートルの縄を10本つないだものの耐久性とか考えてないんだろうな

253:日本@名無史さん
19/12/26 20:28:43.30 .net
>>143
>福岡市西部から30分くらいのJA糸島産直市場&#8206;に買い物に来ても観光客
買い物客は日常生活をしているだけで、観光客ではないって!
そういうインチキな訳だww

254:日本@名無史さん
19/12/26 20:30:12 .net
連続するn組の双子の素数の間の数同士の関係性は、どのような物事なのだろうか、、、

255:日本@名無史さん
19/12/26 20:30:34 .net
>>144
>そんなの高等技術じゃないよ 見てもわかるし水を流せばわかるじゃん

墳丘上に水をためるのか?ww
長さ100メートルの樋は、水平を保てるほどの剛性はないぞ?

自分の書き込みが現実性のない想定だってことに気づきもしないw

256:日本@名無史さん
19/12/26 20:30:52 .net
>>191
>何言ってるんだか・・・
あの小枝で4世紀とか言ってはのは九州に爺さん、しかも理解の浅いごく一部の人だけでしょ <

何言ってるんだか・・・
あの小枝が3世紀中頃の卑弥呼の墓頃だろうと思ったから、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らが検査したんであり、
しかし結果はほぼ4世紀だと出てしまって、
大和説が×であった、と判ってしまったんでしょ?。

257:日本@名無史さん
19/12/26 20:31:51 .net
九州説・・・終わってるよね

258:日本@名無史さん
19/12/26 20:33:03 .net
>>165
>>134 あんたが正しいとしたら奈良では弥生期に水田は無かったことになるなww

直径100メートルの円でやってごらんww

それから、段築の各面が水平なんだぞ?
一段作るごとに池を掘るのか? 墳丘上に?ww

自分の書き込みが現実性のない想定だってことに気づきもしないw

259:日本@名無史さん
19/12/26 20:33:04 .net
3 5 5 7 11 13 17 19  29 31

4 6 10 18 30

260:日本@名無史さん
19/12/26 20:33:34 .net
>>225
>何言ってるんだか・・・
>あの小枝が3世紀中頃の卑弥呼の墓頃だろうと思ったから、
>「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らが検査したんであり、


それ、情報源ある?
無いよね

あなたの空想だよね?

261:日本@名無史さん
19/12/26 20:34:51 .net
>>202
おっ、鋭い。

三足土器は8500年ほど前に中原で登場した盃(カ)という鼎の直耳と蓋が
ないようなシンプルな三足土器だったが、7000年前に黄河、長江の両大河の
下流域まで拡散する頃には早くも直耳と蓋を持つ鼎になっていた。

7000年前の鼎が江南の河姆渡遺跡から出土している。

河姆渡遺跡からは7000年前の鼎だけでなく、7000年前の釜と竈のセットや蒸し器の
甑まで出土しているのだから中国文明の早熟さには驚かされる。

それから1000年くらい後の6000年くらい前に華北で鬲が登場する。

日本には弥生末の3Cに甑が伝わっただけで、弥生期に釜も竈も鼎も鬲も伝わる事は
なかった。

鬲は甑をセットして使う蒸し炊飯器で華南でも使われたが、華北の方が中心の
炊飯器だった。

6000年前にはまだコムギがないので、粟などの雑穀を蒸し上げて炊飯していた事が
分かる。

一方、華南では鼎で米を炊く炊飯方法が好まれ、その中間の長江下流域は
両方の炊飯方法が折衷していた。

262:日本@名無史さん
19/12/26 20:38:39 .net
奥山氏よ、貴方は、無職で時間が余っているのだから、228番の続きを、実行しなさい。。
そして、双子の素数の間の数が100個纏まる毎に、発表しなさい。
これは、貴方に与えられた社会奉仕の任務です。
おい、奥山氏、はっけよい。

263:日本@名無史さん
19/12/26 20:40:42 .net
>>231
こんなふうに
九州説のひとは病気

264:日本@名無史さん
19/12/26 20:40:47 .net
>>228

3 5 5 7 11 13 17 19  29 31

4 6 12 18 30

なのではないのかな。

265:日本@名無史さん
19/12/26 20:44:18 .net
3 5 5 7 11 13 17 19  29 31

4 6 12 18 30

2*2 2*3 2*2*3 2*2*3*3 2*3**5

266:日本@名無史さん
19/12/26 20:47:40 .net
3 5 5 7 11 13 17 19  29 31  41 43  

4 6 12 18 30 42

2*2 2*3 2*2*3 2*2*3*3 2*3*5 2*3*7

267:日本@名無史さん
19/12/26 20:48:45 .net
奥山氏よ、貴方は、無職で時間が余っているのだから、235番の続きを、実行しなさい。。
そして、双子の素数の間の数が100個纏まる毎に、発表しなさい。
これは、貴方に与えられた社会奉仕の任務です。
おい、奥山氏、はっけよい。

268:日本@名無史さん
19/12/26 20:50:39 .net
感覚的には、双子の素数は無限にありそうだが、証明しづらいな。

269:日本@名無史さん
19/12/26 20:50:54 .net
九州説は狂気の世界へ逃げ去ったか

270:日本@名無史さん
19/12/26 20:51:47 .net
感覚的には、邪馬台国は熊本平野にありそうだが、証明しづらいな。

271:日本@名無史さん
19/12/26 20:51:49 .net
>>196
>魏年号のある三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡<

明帝の生前の景初二年より後の年号であるから、明帝の下賜鏡ではなく、
渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏の作。

>科学測定で卑弥呼の時代の三世紀からあると判明している前方後円墳<

文献考古の両方で、
前方後円墳は卑弥呼の冢ではなく、
筑紫の前方後円墳は、3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などからであり、
大和の前方後円墳は、3世紀末の石塚頃からである、
と判明している。

272:日本@名無史さん
19/12/26 20:56:42 .net
>>225
>あの小枝が3世紀中頃の卑弥呼の墓頃だろうと思ったから・・・、
>大和説学者らが検査したんであり、しかし結果はほぼ4世紀だと出てしまって・・・、

まったくその通りだ、
あてが外れて4世紀と出ちまったので、アワ食って「・・・今のは無しょ」だとさ。大笑いのホケノ小枝。

273:日本@名無史さん
19/12/26 21:07:16 .net
>>200
>九州説というのは「クズ」説と音読するのが正しいのでありまして、
この説が古墳の石室に混じり込んだゴミに一縷の望みを託しますのは誠に順当なお話しでございます<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説というのは「クズ」説と音読するのが正しいのでありまして、
3世紀後半以後の「九州倭国の東征毛人五十五國で出来た別種分家の旧小国」である事に、
一縷の望みを託しますのは、誠に順当なお話しでございます。

274:日本@名無史さん
19/12/26 21:10:22 .net
九州ってワカタケルの遠征地じゃん

かなり記


275:述なんかと食い違うがな



276:日本@名無史さん
19/12/26 21:11:20 .net
肥後あたりにその遺跡みたいなんがでたんやなかったっけ?

277:日本@名無史さん
19/12/26 21:13:16 .net
ワカタケル大王に比肩されとる天皇がワカタケルみたいな諱(いみな)あるやろ

武蔵から肥後あたりにもその痕跡が実際にはでとる話みたいのなかったか?

278:日本@名無史さん
19/12/26 21:15:56 .net
>>206
>石川県鹿西町(現中能登町)杉谷チャノバタケ遺跡で見つかった約2000年前の日本最古のおにぎりは
蒸された後に焼かれたものと考えられている <

ふーん。

279:日本@名無史さん
19/12/26 21:17:23 .net
おい、奥山氏、はっけよい。

280:日本@名無史さん
19/12/26 21:21:12 .net
>>242
あんた・・・知能ないね?

281:日本@名無史さん
19/12/26 21:34:30 .net
>>222

インチキしてるわけじゃないだろうけど区別がつかないからな
産業振興部としては近かろうが遠かろうが
市に来る人が増えるための調査してるわけだから

282:日本@名無史さん
19/12/26 21:39:08 .net
驚いたな、、、
ある自然数を等差とする無限項を持つ等差数例の中には素数だけで構成される等差数例もあるのだな。

283:日本@名無史さん
19/12/26 21:41:02 .net
>>240
魏志倭人伝を引き写した各史書には
卑弥呼の遣使は景初三年とあり
それが景初二年になるのは11世紀の誤字が多くなった魏志倭人伝から

ホケノ山古墳は木棺のサンプル5つを炭素14C年代測定したところ
2世紀から3世紀にかけてのものと判明
副葬品から見てもも3世紀前期~中期と判定
九州説のいう小枝は後年天井が崩落した時の混入物と見なされている

284:日本@名無史さん
19/12/26 21:41:37 .net
ある自然数を等差とする、無限項を持つ、素数だけで構成される等差数例の等差と初項は、幾つなのだろうか、、、

285:日本@名無史さん
19/12/26 21:44:52 .net
朝鮮民族の民族運動だった、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝してきた、無職の奥山氏は、もう、何もかも論破されてたのだから、社会奉仕活動を実行しなさい。

286:日本@名無史さん
19/12/26 21:46:34 .net
無限と闘うためには、無限の時間が必要なのだろうか、、、

287:日本@名無史さん
19/12/26 21:48:33 .net
>>253
朝鮮民族の民族運動だった、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝してきた、無職の奥山氏は、もう、何もかも論破されてたのだから、社会奉仕活動を実行しなさい。

という文章は、

朝鮮民族の民族運動だった、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝してきた、無職の奥山氏は、もう、何もかも論破されてしまったのだから、社会奉仕活動を実行しなさい。

とタイピングしたかったのだね。

288:日本@名無史さん
19/12/26 21:49:43 .net
朝鮮民族の民族運動だった、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝してきた、無職の奥山氏は、もう、何もかも論破されてしまったのだから、社会奉仕活動を実行しなさい。

289:日本@名無史さん
19/12/26 21:50:42 .net
無職と闘うためには、時間を無駄にする必要があるのだったな。

290:キウス ◆PyuQX798ps
19/12/26 21:50:58 .net
レス読まさせていただきました。
円周率は九章算術でも出てきます
直径100Mの円を描くのは3世紀の先進技術とか
箸墓の4層が1づつ平地にするというのが先進技術という御人は、奥山氏ではないと思います。

291:日本@名無史さん
19/12/26 21:52:47 .net
時間を無駄にする事を、楽しむ必要もあるのだったな。

292:日本@名無史さん
19/12/26 22:19:50.67 .net
>>208
「南≠東」などの、論争に敗れた大和説に出来ることは
荒らしだけ

293:日本@名無史さん
19/12/26 22:22:38 .net
>>212
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、大和説は敗れ去ったのだもの、
そうやって、口先ばかりで逃げ回るのは、当然だ

294:日本@名無史さん
19/12/26 22:26:40 .net
>>216
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しがバレて、
こんな街宣車式連呼しか出来なくなった大和説
相変わらず、史料事実の証拠を一つも出さない
まさに末期症状です

295:日本@名無史さん
19/12/26 22:29:00 .net
三大狂人揃い踏み

296:日本@名無史さん
19/12/26 22:30:47 .net
>>226
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説・・・終わってるよね

297:日本@名無史さん
19/12/26 22:37:56 .net
>>232
「南→東」などに嘘吐き騙しのように、
こんなふうに大和説のひとは病気

298:日本@名無史さん
19/12/26 22:42:24 .net
>>238
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説学者や、学会教育界や、
安部文科省や、右翼マスコミや、キョクウ皇国史観戦争狂らは、
狂気の世界へ逃げ去ったか

299:日本@名無史さん
19/12/26 22:48:59.19 .net
>>243
>九州ってワカタケルの遠征地じゃん
かなり記述なんかと食い違うがな <
倭建命の事なら、「倭の建命」だから、
「九州倭国の一将軍」の事だ、という意味だよ。

300:日本@名無史さん
19/12/26 22:56:14.90 .net
>>245
>ワカタケル大王に比肩されとる天皇がワカタケルみたいな諱(いみな)あるやろ <
雄略の事なら、ないな。
>武蔵から肥後あたりにもその痕跡が実際にはでとる話みたいのなかったか?<
ないな。

301:日本@名無史さん
19/12/26 23:18:49.59 .net
>>251
>魏志倭人伝を引き写した各史書には卑弥呼の遣使は景初三年とあり<
後代史書は、「自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」をして、
内容が全く変わってしまう位の半分×書。
>それが景初二年になるのは11世紀の誤字が多くなった魏志倭人伝から<
写本版本での文字差異の発生率は0.5%位と非常に少ない



302: >ホケノ山古墳は木棺のサンプル5つを炭素14C年代測定したところ 2世紀から3世紀にかけてのものと判明< 木棺の採取部位や寝かせや、AMS法のプラズマ化などで、 100~150年位古い年次になってしまって、×。 >副葬品から見てもも3世紀前期~中期と判定< 副葬品から見ても、大和の石塚やホケニは、3世紀末頃以後と判明。 >九州説のいう小枝は後年天井が崩落した時の混入物と見なされている< (地上部からではなく)天井の付近から崩落したのなら、 ホケノ建設時、という事になる。



303:日本@名無史さん
19/12/26 23:41:42.04 .net
輪の建になったんかい?
ねばるね~

304:日本@名無史さん
19/12/26 23:42:25.66 .net
倭の建か
自分がほざいてることよく見てみるんだな

305:日本@名無史さん
19/12/26 23:43:03.11 .net
バカの都合に合わせるやつなんざいねえぞ(^O^)

306:日本@名無史さん
19/12/26 23:44:02.06 .net
こ~書いたらバカだから張り切るとか?(^O^)
バカは同じ反応ばかりやな

307:日本@名無史さん
19/12/27 00:24:56.93 .net
ほんとーにw『猫神やおよろず』
古びた神社に現れたネコの何やらの話?と、

その日本昔話『ふろ屋の福の神』も同じでしょ?

308:日本@名無史さん
19/12/27 00:28:59.12 .net
偶然観たのかな、その話のところだけ、
なぜか独眼、片目?のネコの話。
『猫神やおよろず』

309:日本@名無史さん
19/12/27 00:32:18.62 .net
『もののけ姫』でいうと神殺しの話?実在する存在(人物)の話なのかな。

310:日本@名無史さん
19/12/27 00:46:24.48 .net
とある漫画に出てくるキャラ

俺を祀れ

みたいな事を言っていたりwニンジャ?他の作品だったかな

311:日本@名無史さん
19/12/27 00:48:08.51 .net
『写輪眼』?????????

312:日本@名無史さん
19/12/27 01:07:05.98 .net
神殺し・・・などは成り済まし、騙りだと言っているだろう、
あの曲でいうとマガイモノ。

313:日本@名無史さん
19/12/27 03:55:30 .net
『ドンバ』
仙人の話が出てくるでしょ・・・家の話なんだと言っているんだよw
いい加減に気づいているだろう。

314:日本@名無史さん
19/12/27 04:07:02 .net
河伯・・・日本では河童w
他の家のことはわからないけど、
家は『鳳輿』このような名前の家。

315:日本@名無史さん
19/12/27 04:34:17.59 .net
花咲か爺さん、あの灰の話とか?・・・フェニックス。

316:日本@名無史さん
19/12/27 04:45:17.15 .net
『ラ・ムー 一万二千歳』みたいな話なのかな?ほとんど同じような設定。

317:日本@名無史さん
19/12/27 04:46:43.38 .net
『姥清水』・・・・も同じだしなw

318:日本@名無史さん
19/12/27 05:08:02.43 .net
『ドンバ 仙人』

319:日本@名無史さん
19/12/27 07:24:55 .net
キナイコシはつぶやきを非難しないのは何故だと思うww

320:日本@名無史さん
19/12/27 07:45:46 .net
>>221
バカだね 耐久性 ハーーー
直径100Mの円を描くのに何日もかからないよ
縄も何本か用意しておけばいいじゃん
1万枚だったっけ???矢板を磨くより楽勝だよ

321:日本@名無史さん
19/12/27 07:49:54 .net
>>286
キナイコシ本人だから

322:日本@名無史さん
19/12/27 07:58:34.00 .net
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ~ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

323:日本@名無史さん
19/12/27 07:59:52.23 .net
>>289の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━┓帯方郡  ┏┛~~~~~~~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~~日本海~~
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~~~~┏━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行10日」~~~~┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘~~~~~~~┗━━━━━━┓
   ┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行10日」┐関門海峡~瀬戸内海▲┃
v✖s┃~~┏末盧国━━↑━━━┓↓~~~~┏━━┓~┃ 
   ┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓~~~~┃侏儒国┃~┗━━┛
 ↑ ┃~~┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━┛「在其南 人長3~4尺
【呉】┃~~┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙豊後水道~~~~~去女王4,000里」
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃~~┗━女王国島━┛↓~~~~~~~~
会稽┃~東シナ海~┌南「水行10日」~~~~~~~~
東治┃~~┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃~~│~↓「陸行1月」_~│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃~~│~↓▲沖縄~~~│~~↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃~~│♀【奴国2】(幻)~│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃~~│▲台湾~~~~~│~~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~~南シナ海~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】東南 船行1年」


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