【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾 - 暇つぶし2ch342:日本@名無史さん
19/12/18 18:47:48.16 .net
現代音から類推w

343:日本@名無史さん
19/12/18 18:52:29.97 .net
>>331
>自らあてた文字ではないだろ。だとしたら卑弥呼とか邪馬台国とか奴国とか変じゃないか?
初心者・新米か???
倭人での編集時、或は写本時に、わざと卑字を当てたのではないかという論は昔から多々ある。驚き慌てることはない。
それにつけても、伊都国の「都」は最大級の誉め言葉だ。
同じ倭の国だが、これもおかしくないか。

344:日本@名無史さん
19/12/18 18:59:53.61 .net
>>331
あれか、
昔、コテハン取っかえ引っかえして、畿内説や九州説を荒らしまわってなかったか。
三角縁の踏み返しがどうのこうのとか、定型化古墳はああだこうだとか、得意げに説教ばかりしてたような・・・

345:日本@名無史さん
19/12/18 19:03:32.47 .net
>>331
それからよ、
熊本県のなんちゃら委員を務めてたこともあったとかなかったとか・・、

346:日本@名無史さん
19/12/18 20:16:54 .net
>>334
まあ、卑字で書くとすれば、夷屠か。
しかし、海外各国からの使節団の迎賓所があるところだから、格好のいい字を使ったというところかもな。

347:日本@名無史さん
19/12/18 21:02:21 .net
おーい、糸島。
平原は夷屠国だったらしいよ。

348:日本@名無史さん
19/12/18 21:34:51 .net
>>325
URLリンク(ja.wikipedia.org)クスノキ
>枝分かれが多く直線の材料が得難いという欠点はあるが、虫害や腐敗に強いため、古来から船の材料として重宝されていた。
>古代の西日本では丸木舟の材料として、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している。
>その様は、古事記の「仁徳記」に登場するクスノキ製の快速船「枯野」の逸話からも窺うことができる。

九州の木であるクスノキが大阪湾岸からも盛んに出土するのも、北部九州の海人が瀬戸内海を制していたことの裏付けとなるだろう
仁徳天皇が詠んだ淤能碁呂島の和歌も福岡で小呂島や能古島を見て詠んだという説があるね
和歌中に出てくる檳榔が九州北限で瀬戸内海地域には生えていない木だし

349:日本@名無史さん
19/12/18 21:46:37 .net
>>339
>九州の木であるクスノキが大阪湾岸からも盛んに出土するのも、北部九州の海人が瀬戸内海を制していたことの裏付けとなるだろう

ならない!  阿波だよ。   @阿波

350:日本@名無史さん
19/12/18 21:47:54 .net
巨大なクスノキと云い、その長大な並木道と云い、佐賀平野には何かでかい古代ものが有りそうだな

さが平野をさがせ・・

さが平野をさがせ・・

351:日本@名無史さん
19/12/18 22:25:59 .net
>>341

阿波よりずっと、探してるんじゃないの?  わははははは   @阿波

352:日本@名無史さん
19/12/19 02:01:59 .net
>>291
もっと北の栃木県内陸部にもクスノキの大木があるよ

URLリンク(blog.goo.ne.jp)
>八幡山のクスノキ
>宇都宮市指定天然記念物
>江戸時代からっこに生育していたと思われる、クスノキの巨木である。クスノキは主に関東地方より西の温かい地域に分布している常緑高木で、
>これだけ大きいものは、栃木県内では珍しい。

大木は珍しいにしても、栃木県内で他でも普通に生えてるから、植えさえすればそれなりに育つみたいだね
URLリンク(www.city.tochigi.lg.jp)
>くすのき公園
>所在地 栃木市片柳町2丁目
>シンボルツリーとして楠の大木が植えられていて、公園名の由来ともなっています。また、公園全体が大きな芝生広場となっていて多目的な利用が可能です。

関東でも北の方の栃木県内陸部で普通に育つなら、西日本の内陸部でクスノキが見られないのは気候の問題じゃないね
あなたの言うように本州に植えてまわったのが海人族だから海人族の縄張りである沿岸部に分布が偏っていると考えるのが自然だろう

353:日本@名無史さん
19/12/19 02:03:21 .net
ちなみに関東で内陸にクスノキがある理由は、海人族が川を遡って内陸まで行ってたからだろうね
貝輪の分布がそうなってる
URLリンク(pbs.twimg.com)

354:日本@名無史さん
19/12/19 02:20:42 .net
>>340
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

355:日本@名無史さん
19/12/19 02:20:49 .net
>>342
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

356:日本@名無史さん
19/12/19 06:35:44 .net
>>344
貝輪ってさ、北九州の海人族ではなく、南洋系の南九州の海人族がルーツなんだがね。

北九州はインドチャイニーズ系海人族で、中国南部から朝鮮半島経由の越族由来
南九州はインドネシア系海人族で、黒潮にのっての沖縄経由

勿論混血や文化交流はあったろうけど、海人族にも二つのルートがあったことはお忘れなく。

357:日本@名無史さん
19/12/19 07:02:13 .net
>>331
中国人が多数滞在していた伊都では漢字の細かい使い分けもわかっていたのだろう。

358:日本@名無史さん
19/12/19 07:03:08 .net
倭奴国=伊都国

359:日本@名無史さん
19/12/19 07:05:31 .net
倭奴国=倭の国(阿波)   @阿波

360:日本@名無史さん
19/12/19 07:10:24 .net
>>349
後漢書倭伝では、倭國之極南界也とある。

伊都国が糸島であるなら、倭国之極南ではない。


361:> 倭奴国と糸島は場所が違う。



362:日本@名無史さん
19/12/19 07:17:47 .net
だから倭奴国は糸島もしくは糸島を含む福岡県西部、すなわち筑紫の日向

363:日本@名無史さん
19/12/19 07:23:52 .net
倭奴国の本拠地は倭国=九州の南端である鹿児島県だな。

一度後漢の頃南九州の隼人が九州制圧し、後漢に朝貢したんだよ。
その後倭国で内乱があり九州が南北に分裂したのが倭国大乱。

倭奴国は魏志倭人伝では狗奴国と名前を変えられ、九州再統一の為に邪馬台国と和せず戦争してたわけだ。

戦力比は北3、南7と南有利であったため、壱与に代替わりした後、いつの間にか消滅してる。

364:日本@名無史さん
19/12/19 08:23:37 .net
>>352
九州島が筑紫島、筑紫州と呼ばれていたという、日本史の常識を無視した古田史学の罪は深い。

365:日本@名無史さん
19/12/19 08:51:49 .net
>>354
まったくそのとおりだ
古田のアタマのなかには、倭国とは全ニッポンの事であり、
九州には女酋に率いられたちっぽけな地方(反乱)王朝しかなかったという先入観があったのだろう。
結局、畿内育ちのボンボンで、地方蔑視の小人物だったということだ。

366:日本@名無史さん
19/12/19 08:58:24.79 .net
倭国大乱にせよ、その後の磐井の乱にしてもそうだが、結局の所南方系隼人と越人系北九州の覇権争いがベースにあるのだろう。
今日本最古の稲作遺跡が紀元前10世紀の菜畑遺跡とされているが、朝鮮半島の稲作開始時期との不一致から
稲作は南方系ルートでもたらされたとする考えが主流になってる事も失念してはいけない。
古田史学による北九州マンセー説というのは、根本的に日本古代の朝鮮起源説に近い思想的な世迷言成分を含んでいる。

367:日本@名無史さん
19/12/19 09:00:19.90 .net
倭奴国は極南界だー、糸島は伊都国だー、と大声でいうヤカラも古田に同じ。
要するに、
九州の先進地とは、福岡県博多と九州帝国大学であり、
その他の諸県・諸大学は未開の蛮族の地にすぎぬという偏見で成りたっているのがミエミエ・・。

368:日本@名無史さん
19/12/19 09:23:56 .net
なんでもかんでも、福岡博多、糸島地方に誘致しようとするのは、
言い換えれば、九州版畿内説といってよかろう。

九州版奥山、九州版キナイコシは、もしかして畿内から出張して来ているのかもしれぬな。

369:日本@名無史さん
19/12/19 10:00:57.23 .net
>>358
古田史学ってのは北九州版朝鮮起源説だよ。
幻の九州王朝とか言い出すんだぜw

370:日本@名無史さん
19/12/19 10:05:36.86 .net
無理やり島めぐりさせて、福岡博多に落とし込んだのは、
そういうことだったんだろな。

371:日本@名無史さん
19/12/19 10:24:15.70 .net
渡来王朝だよ、何れにしろ。中国五斗米道か?新羅か、百済、月支国辺りかの違いだけで。共立王朝なんて3韓のやり方出し、武内宿禰300年なんてのも嫁を使って支配する半島のやり口だよ。

372:日本@名無史さん
19/12/19 10:36:12 .net
>>361
その渡来王朝ってのは、いつ頃どこから日本に渡ってきて、その後どこに土着して、その後どうなったんだ?

373:日本@名無史さん
19/12/19 11:08:22.78 .net
>>356
華南インドシナブタロイド乙 

弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)'%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%83%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1'

.

374:日本@名無史さん
19/12/19 11:21:53.37 .net
>>363
残念だがオクキョン遺跡の年代測定はまだされてないよ。
土器片からの推測だけだ。

375:日本@名無史さん
19/12/19 11:25:47.21 .net
そもそも朝鮮半島の稲と日本に広がった稲のDNAが一致してないって言う、どうにもならない壁がある。

376:日本@名無史さん
19/12/19 11:32:19 .net
サンプル数がわずかなくせに
DNAが一致してない
なんていいきれるわけがないし

377:日本@名無史さん
19/12/19 11:36:14 .net
蔚州検丹里より古いというわけだね

378:日本@名無史さん
19/12/19 11:41:19 .net
前11世紀頃と考える まぬけもいるけど
弥生早期の始まりに
決定的な影響を与えていることだけは否定できない

379:日本@名無史さん
19/12/19 11:41:19 .net
>>365
>稲作は南方系ルートでもたらされたとする考えが主流になってる


で、その頭のおかしな考えの考古学者の氏名は?



今すぐ言ってみろよクッサイ汚らしい醜悪極まる華南ニグロブタチンコロのおまえ

380:日本@名無史さん
19/12/19 11:44:30 .net
>>365
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

381:日本@名無史さん
19/12/19 11:58:33.45 .net
>>370
唐古鍵の炭化米と菜畑の米が別ルーツだとでも言いたいのか?

382:日本@名無史さん
19/12/19 18:27:05.79 .net
【其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 
斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好?没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 
諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東
其風俗不淫 男子皆露? 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈? 
作衣如單被 穿其中央貫頭衣之】
郡から女王国まで12000余里としたうえで、続いて海洋民族としての特徴、魚貝食、断髪、蛇の咬害避け目的の
入れ墨の説明のあとに「計其道里 當在會稽東治之東」としている
その中で「夏后少康之子封於會稽」のくだり夏王朝少康の子(無余)が會稽に封じられて初代越王になった話を
交えてからの「當在會稽東治之東」であるので「會稽」は越国の首都(現在の紹興市)であろう
それと倭人の入れ墨が今や飾りの意味合いになっている、がそれは越人の文様に酷似している事をも暗に示して
いると見る
東治は東冶であれば福州市の古名でかなり離れているが、幅を取って紹興市?福州市からの東方位としても、
机上では琉球?種子島であるが海流・風で流される事を考慮して九州島南西部に相当すると見る
それは倭人から聞いた話(先祖が実際に呉・越から東に向けて直接渡海上陸した)なのであろう
そうでなければワザワザこのくだりを倭人伝に盛り込む意味が無い
遥か彼方の見えない陸地の方位を当時の計算で割り出せるならその方法を教えていただきたい
先祖が渡海上陸した時期より数百年のタイムラグあると思われるが大きく位置を変えていれば記述しているはず、
なればズバリ隈本の近辺だろう(大隅薩摩は狗奴国か)
※倭人伝の上記部分だけで推理してみました
 あちらのスレで話題になってますが荒れてるのでこちらに

383:日本@名無史さん
19/12/19 20:58:33 .net
>>347
貝輪の分布の中心は北部九州の有明海沿岸
つまり筑後山門=邪馬台国のあたり

URLリンク(stat.ameba.jp)

384:日本@名無史さん
19/12/19 21:05:21 .net
>>370
稲作縄文時代開始説をヒステリックに否定する稲作弥生時代起源説盲信者たちの背後には、いたっい誰がいるのか。
菜畑より古い水田跡が朝鮮半島で出ているのか。
答えは明らかだろ。
縄文時代があってこその弥生時代なのを忘れるなよ。

385:日本@名無史さん
19/12/19 21:10:02 .net
>>373
このゴホウラ貝腕輪の分布範囲と貝殻文土器の分布範囲は完全に一致している。

386:日本@名無史さん
19/12/19 21:17:18.53 .net
>>375
西日本の縄文弥生文化の基層にある海人文化がどこから来たか明らかだ。
それは南九州。
そして、その南九州の海人文化の半分は1万2000年前の百越にルーツがある。
もう半分のルーツは細石刃文化で、これはアルタイ地方が起源地だ。
南北の二重構造が西日本の文化の基層にあるのだよ。

387:日本@名無史さん
19/12/19 21:21:48.23 .net
だから、日本文化稲作起源説は無駄。
弥生の土器に縄文


388:の模様が継続していることがそれを証明している。 また、銅鐸の流水紋は北陸あたりの縄文模様が起源とされる。 稲作文化はそうした縄文文化の上に乗っかっているだけに過ぎない。



389:日本@名無史さん
19/12/19 23:12:50 .net
>>350
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))

  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

390:日本@名無史さん
19/12/20 00:32:42.09 .net
>>354
>>352
>九州島が筑紫島、筑紫州と呼ばれていたという、日本史の常識を無視した古田史学の罪は深い。
そんなのは、王都筑紫(福岡)から離れた関西の田舎者が九州の地理もよくわからずに十把一絡げにした妄想だよ。

391:日本@名無史さん
19/12/20 00:38:57.82 .net
>>377
土器はそうだが、祭祀は稲作を中心に組み立てられている。
神無月、新嘗祭などは基本的に稲の収穫祭だ。
庶民の生活の基盤である土器の文化と、まつりごとを行う首長層は別なんだよ。
九州北部の稲作銅鏡銅矛文化が列島の支配者層の基盤なんだ。
だから今でも天皇は稲の収穫が終わると新嘗祭を行い、筑紫からもたらされた三種の神器を敬い、天孫が筑紫にもたらしたという八咫の鏡を祖先神の魂として即位の報告をするんだよ。

392:日本@名無史さん
19/12/20 02:56:28.38 .net
◇◆◇ 創価学会の「不都合な真実」◇◆◇
十数年ほど前、創価学会は外資系のコンサルティング会社・アクセンチュアと契約して、
今後の布教活動の方針等について助言を求めた(高橋篤史著『創価学会秘史』による)。
それに対するアクセンチュアの提案は、「三代の会長」即ち、初代・牧口常三郎、第二
代・戸田城聖、第三代・池田大作への個人崇拝を教義の中核とし、創価学会にとって不
都合な過去を「無かったこと」にすることで、教団の正統性を訴えるというものだった。
創価学会が無かったことにしたい過去とは、牧口常三郎が戦争に賛成し、特高警察とも
協力していたこと、戸田城聖の詐欺まがいのビジネス、池田大作が高利貸しだったこと
や女性スキャンダル、「護符」と称するマジナイを大々的に行っていたことなどである。
こうした過去を封印するため、創価学会は「精神の正史」と位置づけている『人間革命』
を改訂したり、戦時中に発行していた機関誌を『牧口常三郎全集』から削除したりした。
不都合な真実を隠すことで正統性を偽装する宗教が「正しい信仰」と呼べるのだろうか?

393:日本@名無史さん
19/12/20 03:48:45.26 .net
>>380
祭祀が稲作を中心に組み立てられているというのは誤りではないか。
神を祀ることは米の収穫にかぎらず、いろいろな事柄に対して行われるので、祭祀行為が稲作を中心に組み立てられていることはない。
新嘗祭はそうした神祭りの行為の一つであり、コメ、ムギ、アワ、ヒエ、マメの五穀が神に奉げられる。
コメだけが対象ではない。
ただ、そうしたいろいろな事柄において行われる祭祀を一元的に行うようになるのは、やはり律令からではないか。
祭祀を国家的に管理するようになって、神の系列化や神の位階を国家機構が取り仕切るようになる。
縄文弥生の頃には、このような一元的な祭祀の管理はまったく生じていない。
そして、3世紀の頃の政権は明らかに海人系の勢力が担っており、その文化は基層もなにもなく全体が縄文文化の延長上にあったといえる。
弥生時代を描いた絵などには必ず水田で稲作に従事している光景が描かれて、弥生は稲作だとの印象付けが行われるが、あの光景は江戸時代のものだろう。


キビやムギ、ヒエ、陸稲などはそれぞれの収穫時期に祀りを行ったのではないか。
水稲は10月くらいの収穫で、やはりその時期に祀りが行われたはず。
新嘗祭は五穀を神に奉げる神事で、コメ、ムギ、アワ、ヒエ、マメがその五穀。
なので、それぞれの祭りを一つにまとめて秋に行うようになったのは稲の収穫が最大に重要だったからだろう。
この

394:日本@名無史さん
19/12/20 07:14:59 .net
>>380
>だから今でも天皇は稲の収穫が終わると新嘗祭を行い


阿波忌部は今も天皇家と繋がっている。 天皇家の出身地だから。

宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭(だいじょうさい)、新嘗祭(にいなめさい)の起源が『日本書紀』の斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に示されている。

福岡や佐賀なんて天皇家となんの関係もないんだから、論外である。   @阿波

395:日本@名無史さん
19/12/20 08:22:08.19 .net
URLリンク(publications.asahi.com)
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
 縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です
URLリンク(imgur.com)

396:日本@名無史さん
19/12/20 09:03:39 .net
>>384
ふーん
では、この写真のブツは何なのだろうか? 
イネそっくりだが、ほかに該当する植物は思い当たらぬぞ。
またノギのない品種もあるし、ノギがあっても食用のためスリコギを用いてモミすりすればノギは取れる。
人為の結果も考慮すべし。

397:日本@名無史さん
19/12/20 11:48:40 .net
>>382
>ただ、そうしたいろいろな事柄において行われる祭祀を一元的に行うようになるのは、やはり律令からではないか。

新嘗祭は律令制より確実に古い。
神無月はもっと古い。

>縄文弥生の頃には、このような一元的な祭祀の管理はまったく生じていない。

根拠なし。
出雲はおそらく弥生の話だろう。

>>382
>なので、それぞれの祭りを一つにまとめて秋に行うようになったのは稲の収穫が最大に重要だったからだろう。

つまり主に稲の収穫を祝ったんだよね?

398:日本@名無史さん
19/12/20 11:52:46.46 .net
>>384
縄文時代にも稲作そのものはあったが、陸稲であり、食糧調達の中心ではなかった。
弥生時代の特徴は、水田耕作を中心に集落の形態や、暦や灌漑のための指導体制まで含めて、社会全体が稲作を中心に構成されていた点にある。
単に稲作があっただけではない。

399:日本@名無史さん
19/12/20 12:21:53 .net
>>383
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
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     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
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     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

400:日本@名無史さん
19/12/20 13:25:43.96 .net
↑朝鮮煙幕チンコロw
チンコロは絶対に叩かないw

401:日本@名無史さん
19/12/20 15:18:08.59 .net
>>385
みなそう思うよな。

402:日本@名無史さん
19/12/20 15:22:46.42 .net
>>387
暦が来たのは6世紀だとされてるぞ。
弥生に中国の暦は存在しない。

403:日本@名無史さん
19/12/20 15:28:27.66 .net
>>387
弥生は部族社会であって、それらの部族が一元的に統制されていたことは弥生時代にはない。
古墳時代になっても氏族が誕生するのは5世紀頃からだ。
この氏族がヒエラルキー的に関係づけられるようになってくるのが応神難波政権からというのが常識。
弥生は部族の社会なんだということを忘れずにな。

404:日本@名無史さん
19/12/20 15:47:05.94 .net
>>391
遣隋使が倭人は暦も里程も知らんと書いてるよな。

405:日本@名無史さん
19/12/20 16:34:27 .net
>>387
縄文時代に稲作はない。

菜畑遺跡より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が一粒もないからだ。

406:日本@名無史さん
19/12/20 17:23:11 .net
>>391
ところがどっこい。
弥生後期には農耕暦の二十四節気が入って来ている。
まあしかし、これはいわゆる暦、太陰太陽暦とは違うものだがな。

407:日本@名無史さん
19/12/20 17:25:24 .net
>>394
文化庁の回し者か。
菜畑の炭化稲籾にはノギがあるのか。

408:日本@名無史さん
19/12/20 17:35:01.33 .net
>>394
証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が「一粒もない」というのはいいすぎというものだ。
無いのではなく、見つかっていないと認識すべきだろう。
縄文期の水田/陸田跡はあちこち見つかっているのではないのか???


409:日本@名無史さん
19/12/20 17:48:20.12 .net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

410:日本@名無史さん
19/12/20 17:49:11.66 .net
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

URLリンク(inoues.net)
.

411:日本@名無史さん
19/12/20 17:49:47.02 .net
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

412:日本@名無史さん
19/12/20 17:57:13.21 .net
ま~たその話題か、
畿内説が瀕死に陥ると現れる弥生オタク、つまり弥生倭種は天から下ってきたと云いたいのだろうな・・・、

413:日本@名無史さん
19/12/20 19:05:24 .net
縄文稲については、文化庁系は何が出ようともイチャモンつけて、縄文稲を葬るつもりだろう。
邪馬台国大和説者が、鉄が出なくても、いや鉄はあった、錆びて溶けてしまったのだと言い張るのと同じで、文化庁の背後にはコメの統制で権力を維持している勢力が幅広くあるのではないか。

414:日本@名無史さん
19/12/20 19:17:24 .net
>>392

その部族をまとめたのが大国主だろ。

415:日本@名無史さん
19/12/20 19:19:48 .net
>>402

問題は稲作があったかどうかではなく、それが社会の形態を変えるような位置づけとなっていたかどうかだ。
弥生時代は権力構造を含めた社会全体が稲作を中心としていた。

416:日本@名無史さん
19/12/20 19:39:49 .net
二千数百年前、
(縄文人ではなく)古弥生人の祖が稲穂を携えて天から降臨して以来、我が豊葦原瑞穂の国を制してきたと云いたいのだろう。

神話を奉り、利益を期待する者にとっては、縄文の時代から稲穂・イネ粒があったのでは困るからな。
ま、そんな程度さ。

417:日本@名無史さん
19/12/20 19:53:32.07 .net
>>404
稲作ってさ、紀元前10世紀に九州に上陸後日本列島を北上していったわけだが
紀元前3世紀には畿内まで、ADが始まる頃には本州最北端まで伝わったと言われてるんだぜ?

418:日本@名無史さん
19/12/20 20:03:08.43 .net
畿内には前7世紀頃

419:日本@名無史さん
19/12/20 20:25:54 .net
縄文焼き畑(稲作・穀物作)に比べ、
並外れて生産力の高い弥生式稲作社会を統率していった者(氏族)が居たのだろう、
銅鐸銅剣を奉る大国主もその一族だったが・・、

まもなく、鉄製農具を大量に供給できる巨大氏族が渡来してきた、
その氏族こそが大国主らを服従させ、やがては古墳文化を構築し、ヤマトに都のようなものを建てることに成功したのではないか。

420:日本@名無史さん
19/12/20 20:28:21 .net
越の国だよ。
出雲よりさらに古い倭国の最大勢力だった。
倭国の中枢である福岡に次々に新しい勢力が成立した結果、古い勢力は日本海沿岸を東に追いやられていった。

421:日本@名無史さん
19/12/20 20:29:30 .net
>>408
概ね正しい。
その氏族が天津神、天孫族だ。

422:日本@名無史さん
19/12/20 20:44:16 .net
縄文稲作なんかない。

菜畑遺跡より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が一粒もない。

423:日本@名無史さん
19/12/20 21:09:02 .net
>>403
そう、部族連合の大部族長だな。
出雲山陰が本領で、北陸が属領。
近江、大和はアメリカのフロンティアみたいなものだった。
しかし、これ弥生後期では列島最大の部族連合だった。
それに反旗をひるがえして大和に結集した他の部族連中が、大国主に国譲りさせて後の大和の王権へとつながった。
出雲にとって痛手だったのは北陸が大国主から離脱して、大和へ集まったこと。
冬には雪が積もる出雲自体は今と変わらぬ人口過疎地帯なので、連合大和に太刀打ちできなかったのだ。

424:日本@名無史さん
19/12/20 21:37:33 .net
畿内厨はもはや根拠ゼロの妄想を並べることしか出来なくなったのか
哀れな・・・

425:日本@名無史さん
19/12/20 21:52:25 .net
>>413

根拠を示せるのは、九州厨も含めて倭国(阿波)だけだよ!   @阿波

426:日本@名無史さん
19/12/20 23:45:56 .net
>>412
出雲、筑紫は記紀に詳しいが、越は記述が少ない。
これは越がさらに古い勢力だったからではないか。
香椎が越から転じたという説もあるくらいで、そもそもは日本海沿岸は福岡まで含めて越だったのではないか?
そして政権は出雲、豊、筑紫と変遷し、前政権は次々に東に追いやられ、地層のように重なって律令時代の国割りとなったのだろう。

427:日本@名無史さん
19/12/20 23:53:42.61 .net
>>412
>冬には雪が積もる出雲自体は今と変わらぬ人口過疎地帯なので、連合大和に太刀打ちできなかったのだ。
日本海は大陸との広範囲の交易で栄えた土地だ。
弥生時代前期には水稲栽培は日本海沿岸を東北まで到達していたから、筑紫平野から筑後平野まで達する越は豊かな国だったろう。
山間部の後進国の大和など、名もなき寒村だったろう。
しかし弥生時代にそのような広域を統合することは困難で、王都福岡に新たな政権が成立するとあっけなく越は東方に追いやられた。
続いて出雲が西日本を治めたが、高天原は国を譲るように強要し、後漢代に筑紫政権が誕生した。

428:日本@名無史さん
19/12/21 01:41:56.25 .net
>>416
大和に各地の勢力が集まって連合政権を置いたのは弥生終末期。
このすぐあとが古墳時代。
この連合大和が古墳時代を開いたのだよ。
この時期、卑弥呼と台与は九州だからね。
大和は倭種の国。
魏略倭国伝の冒頭を飾っているくらいだ。

429:日本@名無史さん
19/12/21 01:49:46.14 .net
>>411
菜畑や板付で籾圧痕のついた土器が出ているが、この籾圧痕にはノギがついてるんだろうな。

430:日本@名無史さん
19/12/21 02:11:07.20 .net
>>414
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

431:日本@名無史さん
19/12/21 20:37:08 .net
魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡儌去其国萬二千里」と書かれている。
倭人伝の萬二千余里が魏使による実測だと胸を張っても、
この萬二千里はすでに後漢時代に定着していた観念の可能性もあるからなぁ。

432:日本@名無史さん
19/12/21 20:51:05.00 .net
>>420
>魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡?去其国萬二千里」と書かれている。
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

433:日本@名無史さん
19/12/21 20:51:15.96 .net
ウソ

434:日本@名無史さん
19/12/21 20:54:39.65 .net
>>420
>魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡?去其国萬二千里」と書かれている。

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

435:日本@名無史さん
19/12/21 22:43:09.76 .net
>>423
この謝承の後漢書では萬二千里となっていて、魏略と倭人伝では萬二千余里と書かれている。
とすると、魏略がもっともらしく萬二千余里と書き、倭人伝もそれを踏襲したことが考えられる。
余があるから実測だと胸張っていた短里説者は顔色をなくすね。

436:日本@名無史さん
19/12/21 22:45:05.03 .net
ウソ

437:日本@名無史さん
19/12/21 22:48:46.22 .net
>>415
いくら筑紫東遷の根拠が薄いからと言って、出雲からトコロテン式に元筑紫が大和へ押し出されたなんて、よくも考えたもんだ。

438:日本@名無史さん
19/12/21 22:51:14.58 .net
>>425
力なくウソて、へたれた爺さんかよ。

439:日本@名無史さん
19/12/22 00:17:40.25 .net
>>426
大和はまた別の話
きちんと整合性があるのは日本海側だけ
大和はもっと後の話

440:日本@名無史さん
19/12/22 00:47:00 .net
>>421
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

441:日本@名無史さん
19/12/22 00:47:14 .net
>>423
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

442:日本@名無史さん
19/12/22 02:48:52.22 .net
>>424
もはや虚偽を並べるしかなくなった畿内厨アワレwww
どうせそんなマイナーな書物なんて誰も確認できないと思ってデマカセを並べたんだろうが残念賞
ここのサイトで現存分は全文読めるし単語検索もできるw
URLリンク(ctext.org)
もちろん萬二千里なんて単語は全くヒットしないがなw

443:日本@名無史さん
19/12/22 04:41:43 .net
>>431
これは電子記録化した分だろ。
膨大な書籍の記録化をしているときに、逸文の記録が手につくかよ。
まだ何十年とかかる作業だ。
載ってるわけないわ。

444:日本@名無史さん
19/12/22 04:51:13.99 .net
>>431
「朝鮮半島からの里程-飯山の昼行灯Ⅱ」と検索欄に入力して、
画面の一番上を開け。
原文が載ってるぞ。

445:日本@名無史さん
19/12/22 06:17:50 .net
>>424
>余があるから実測だと胸張っていた短里説者は顔色をなくすね。

意味がわからない。
一万二千里が概念だとする畿内説が顔を真っ青にするところだろう。

446:日本@名無史さん
19/12/22 06:50:48.21 .net
>>432
それは八家後漢書の全逸文だよ
たぶんお前の言ってるのは某氏の推測による説だろう

447:日本@名無史さん
19/12/22 06:57:54.34 .net
>>420
>魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡?去其国萬二千里」と書かれている。

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

448:日本@名無史さん
19/12/22 07:59:04 .net
>>434
畿内説は別に長里でいいんだから、萬二千里が概念だとか言う必要なくないか?

449:日本@名無史さん
19/12/22 08:01:13 .net
>>435
隋書も萬二千里だな。
魏略、倭人伝だけが萬二千余里なんか?
もっともらしく余分なもの付けるからよ。

450:日本@名無史さん
19/12/22 08:03:32 .net
>>437
萬二千里を一里430mで計算してみろよ。
ニューギニアあたりだぞ。
だから、萬二千里は遠いところという慣用句だよ。

451:日本@名無史さん
19/12/22 08:16:28 .net
>>439
>だから、萬二千里は遠いところという慣用句だよ。

朝っぱらから頑張っているではないか、よしよし!
たしかに「萬二千里」は慣用句でも良かろう。しかしそれと「萬二千余里」では字ズラも意味合いも違うからな、、。

452:日本@名無史さん
19/12/22 08:17:36 .net
>>439
短里を認めたくないのかw

仮に萬二千里が慣用句だとして邪馬台国は

どこにあるのだと思うか教えてもらえないだろうか?

後学のためにw

453:日本@名無史さん
19/12/22 08:17:47 .net
>>439
>だから、萬二千里は遠いところという慣用句だよ。


だから、帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

454:日本@名無史さん
19/12/22 08:32:59.27 .net
>>437
>>434
>畿内説は別に長里でいいんだから、萬二千里が概念だとか言う必要なくないか?
言っているバカに言ってやってくれ。

455:日本@名無史さん
19/12/22 08:33:22.67 .net
>>439
つまり長里は間違いなんだよ。

456:日本@名無史さん
19/12/22 09:04:57.46 .net
たしかに「萬二千里」は慣用句でも良かろう。
しかし、それと「萬二千余里」とでは、字ズラも意味合いも違う、こっちのほうは短里であることを意味しているのだ、。

457:日本@名無史さん
19/12/22 09:06:35.68 .net
>>445
その通り。  
だから、帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

458:日本@名無史さん
19/12/22 10:10:59 .net
短里ってのは何で三国志魏書の中国国外の東部にだけ存在するのかが意味不明なんだよ。
他は中国国外でも短里なんて使ってない。

魏の東に広大な国があり魏に朝貢しているとする偽装工作なんてことは、中国がもっと昔から大陸を支配してる事を考えると
そんな幼稚な偽装工作が罷り通ると考えるようなおめでたいやつはいない。

帯方郡から朝鮮半島の端の狗邪韓国まで7千里。
当時の中国人の1里の常識は400m程度だから2800km
朝鮮半島の長さが、台湾を突き抜けてフィリピンくらいまであると書いてる訳だ。

そこから更に5000里ほど。
中国本国を凌駕する国が魏に従ってますと。

1里70mでピッタリ合う!という短里の発想と言うのは、秦の始皇帝も万里の長城を諦めて裸足で逃げ出すビックリ超大国が
魏の東に存在すると言う夢物語を真面目に考えるというアホ臭さ。

459:日本@名無史さん
19/12/22 10:31:17.44 .net
>>447
まーたこういう周回遅れが湧いてきた
魏志倭人伝だけじゃなく、ずっと後の時代の隋書でさえ部分的に短里が使われてる
隋書百済伝に「其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里」とあり
耽牟羅國は済州島のことなので、この大きさは短里でしかあり得ない
長里(短里の約5倍)だとすると「方可四千里」の朝鮮半島より東西幅が大きくなってしまう
ちなみに隋書では南北や東西とは方の南北辺、東西辺の長さを表すので上記は横長の範囲となる
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

460:日本@名無史さん
19/12/22 10:32:19.34 .net
もう一つ短里の実例がある
三国史記新羅本紀の中の鬱陵島の大きさについて
「于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里」(『三国史記』巻第四 新羅本紀)
鬱陵島は突出部を除くと10km弱四方ほどの小さな島なので、方一百里は短里となる
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

461:日本@名無史さん
19/12/22 10:38:32.52 .net
グダグダと屁理屈を並べても実際に短里が複数の史書で使用されているという事実には勝てないのであった
畿内厨残念無念

462:日本@名無史さん
19/12/22 10:59:43.82 .net
>>447
>短里ってのは何で三国志魏書の中国国外の東部にだけ存在するのかが意味不明なんだよ。
何故そうなったのかは不明だが、だからといってその事実から目を背けてはいけない。
事実を受け入れ、それからその原因を探るしかない。

463:日本@名無史さん
19/12/22 11:06:18 .net
>>451

その通り。  

だから、帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

464:日本@名無史さん
19/12/22 11:12:15 .net
畿内説にとっては、辛い事実ばかりなんだろうなあ。

465:日本@名無史さん
19/12/22 11:12:18 .net
>>447
>短里ってのは何で三国志魏書の中国国外の東部にだけ存在するのかが意味不明なんだよ。

歴史というのは、考えたら意味がわかるってもんじゃないんだよ
速攻で、あきらめるんだな、

466:日本@名無史さん
19/12/22 11:14:05 .net
>>448
魏書にしても隋書にしても、その記述の全てが新規に書き起こしたわけではないって事は理解してるかい?

魏書にせよ隋書にしても、過去の他の記録から書き写して一纏めにしてるだけだ。
隋書に関しては、当然先に成立してる魏書から引用してるに過ぎない。
魏書は魏本国や帯方郡の公文書と、魏略や前漢書など他の文献の引用で纏めてるだけに過ぎない。

魏書でも隋書でも使かわれてるから正しい。ではなく、誰も出典元が正しいか検証しないまま転記されてるからこうなってるだけだ。

魏志倭人伝最大の無責任投げっ放しの、船で一年の裸国、黒歯国なんか、紀元前4~3世紀に書かれたビックリ妖怪大百科の山海経からの転記だしね。

正史にあるから物凄く正しくて正確に違いないなんて、幻想はさっさと捨てましょう。

467:日本@名無史さん
19/12/22 11:15:14 .net
>>453
>畿内説にとっては、辛い事実ばかりなんだろうなあ。


九州説もね。  わははははは

九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、

九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。

なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

468:日本@名無史さん
19/12/22 11:26:46 .net
>>451
目を背けずに考えたら、萬二千里は実測ではないという結論にしかならんよ。

逆に途中で思考停止するから、短里に逃げざるを得なくなる。
魏志倭人伝全文や、他の正史の倭国の記載も見比べ、正史以外も拾っていくと、魏志倭人伝に正しくない。正確でない事が混ざってるのがはっきりわかる。

魏志倭人伝を正しく読む。と言うのは、字面を額面通りに読むこと


469:ではなく、正誤をなるべく多く嗅ぎ分けて本当の所はどうなのか?を読む事だろ?



470:日本@名無史さん
19/12/22 13:12:00 .net
>>457
方角も違う、距離も合わないということか?

じゃあ魏志倭人伝なんて読む価値ないんだな。

すくなくとも畿内厨の人は。

471:日本@名無史さん
19/12/22 16:18:09 .net
到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至対海(対馬)国
    -------------
参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里
   -------------
自郡至女王国 萬二千余里

千余戸、四千余戸、七万余戸etc.と
ここでは戸数も「余」付けて表現してるのだからさ
グーグルマップ開いて帯方郡から狗邪韓国まで7000として、そこから対馬まで1000の距離比

でもって遠目で眺めて島をぐるっと一周ざっくり5000の対比関係になり得そうな陸地は九州島くらいしか
無いんだがね・・

そして帯方郡から女王国まで12000だから狗邪韓国までの距離の12/7掛けするとだいたいのところが出るよ
そうすると・・・ゴクリ

472:日本@名無史さん
19/12/22 16:20:31 .net
>>459

阿波だよ!   @阿波

473:日本@名無史さん
19/12/22 16:53:33 .net
>>458
>じゃあ魏志倭人伝なんて読む価値ないんだな。

>すくなくとも畿内厨の人は。

まさにその通り。読む価値もないが、畿内厨自身も価値なし。

474:日本@名無史さん
19/12/22 17:12:34 .net
「男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫」

男性は大人も子供も、みな顔や体に入墨をしている(黥面は顔の入れ墨、文身は体の入れ墨)
古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している(訳文by wiki)

実はこの一行だけで畿内説を粉砕できるのです
魏志倭人伝の作者にとって倭人とは「みな顔や体に入れ墨をしている」人々なのですよ
入れ墨してない倭人は作者(または魏の使者)にとって別種の倭人という認識
倭からの使者と何十人もの男女「生口」が大陸に渡っているので証人多数
少なくとも渡来してきた魏使者の張政一行は入れ墨人しか見ていないぽい

「4世紀以前奈良盆地の民は入れ墨習俗あるのか
イレズミ渡来人が半島から大挙して来た記録・物証あるのか」
なんかを問うて見ればいいかと、しょぼい土器でなんちゃら言うかもしれないが

倭人、倭国、邪馬台国の定義は魏志倭人伝の作者(伝聞なら伝承者)の定義が全てであって
現代の我々がかってに定義するもので無いという基本的な事がわかってない
自分たちの考えにそぐわない都合の悪い事実は見なかったことにするし
>>372をあっちのスレに貼ってもほぼほぼスルー

475:日本@名無史さん
19/12/22 17:26:02 .net
>>458
さぁ?正しいとするだけの根拠は足りないだろうな。

倭国に百くらいの国があったと言うのも、前漢書地理志の燕地条に出典元が見られるが、前漢書の成立はAD1世紀頃。
少なくとも魏書よりも早い時期に編纂された記録から魏書が転記した証明にはなる。

調べもせずに過去の記録を丸写しするのが中国歴史書のスタイル。
漢代では楽浪郡から萬二千里で倭国に着いたのに、魏の時代になると、楽浪郡よりも南の帯方郡からも萬二千里かかるって、適当なコピペするからミスをしたりね。

書いてあるから正しいと鵜呑みにするのではなく、その文面の出典元まで辿ってみる必要がある。
身長90cmの侏儒国とか、鵜呑みにしないよね?
それと同じ様に、正史だからと鵜呑みにせず、疑ってかかるほうが良い。

476:日本@名無史さん
19/12/22 17:33:32 .net
樂浪郡徼=帯方郡でしょ

477:日本@名無史さん
19/12/22 17:39:14 .net
>>464
帯方郡はソウルの辺りで、楽浪郡はその北だろ。

478:日本@名無史さん
19/12/22 17:40:45 .net
郡徼

479:日本@名無史さん
19/12/22 18:03:51 .net
>>449
朝鮮里は1里420m程度だそうだ。
百里だと42kmになる。
実際の地図上の鬱陵島は一辺10km程度なので、
朝鮮里による百里42kmは実際の鬱陵島の一辺10kmの4倍ということになる。
そこで、1里420mの4分の1を計算すると、1里105mになる。
この計算では、キミらが主張している75mとは合わんじゃないか。
30mも差がある物差しなんて物差しとは言えんよ。
つまり、普通に考えたら、鬱陵島一辺百里は実際よりも4倍に盛った過大な長さだということなんだがなぁ。
李氏朝鮮時代に描かれた朝鮮半島が異常に大きいのも、こうした史書の盛り過ぎの里程に起因していると考えるのがOKよ。

480:日本@名無史さん
19/12/22 18:08:52 .net
>>441
だからよ、萬二千里でもって邪馬台国の位置を割り出そうとする試み自体が、方法論として間違っているということなのよ。

481:日本@名無史さん
19/12/22 18:12:51 .net
>>440
謝承後漢書の萬二千里の慣用句を、魏略はあたかも測量を見てきたかのように余をつけて、もっともらしくしただけ。

482:日本@名無史さん
19/12/22 18:25:27.35 .net
>>469
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が現実に描かれている。  なんらかの測量法があったことは確実。   
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。   @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
URLリンク(imgur.com)

483:日本@名無史さん
19/12/22 18:27:06.01 .net
>謝承後漢書の萬二千里
根拠無し

484:日本@名無史さん
19/12/22 18:53:39.92 .net
あのー
1里の実距離に関係なく地図、定規、コンパスで割り出す方法書いたんだけど>>459
わかってもらえてない俺涙目

485:日本@名無史さん
19/12/22 19:35:08 .net
>>463
>漢代では楽浪郡から萬二千里で倭国に着いたのに、魏の時代になると、楽浪郡よりも南の帯方郡からも萬二千里かかるって、適当なコピペするからミスをしたりね。

後漢書が最後に書かれたんだよ。
でも後漢の頃には帯方郡がなくて楽浪郡だけだったから、後漢書ではあえて楽浪郡としたんだ。
写し間違いではなく、論理的にそうせざるを得なかった。

486:日本@名無史さん
19/12/22 19:36:46 .net
>>472

比率から言えば九州北部の他に選択肢はない。
それはもうずっと九州説が主張していることなんだ。
それを畿内説が無視し続けているだけ。

487:日本@名無史さん
19/12/22 19:59:58 .net
>>473
謝承が書いた後漢書が最も早い。
魏略より早い。
魏略や倭人伝はこの謝承が書いた後漢書を参考にしたのだろう、というのが学者の説。

488:日本@名無史さん
19/12/22 20:07:50 .net
>>475
>学者の説

誰?

489:日本@名無史さん
19/12/22 20:08:33 .net
>>464
楽浪郡儌は馬韓国儌。

490:日本@名無史さん
19/12/22 20:10:02 .net
>>476
福永晋三。

491:日本@名無史さん
19/12/22 20:12:40 .net
後漢書の時代:
 楽浪郡→金印の倭奴国・・・萬二千里

魏志倭人伝の時代:
 楽浪郡~帯方郡・・・(二千里)
 帯方郡→女王国(邪馬台国女王之所都)・・・萬二千余里

つまり差し引きすれば、倭奴国~女王国(邪馬台国女王之所都)は、二千余里であった。

492:日本@名無史さん
19/12/22 20:17:11 .net
>>478
やっぱりねw
あいつの理屈は間違ってると思うよ

493:日本@名無史さん
19/12/22 20:17:24 .net
>>459
5千は倭地のぐるり周囲の距離だからね。
倭人伝は倭種の国も倭地としているから、まあ福岡から瀬戸内海沿岸を通って伊勢まで行き、それから紀伊半島と四国南岸を廻り、そのあと鹿児島から長崎、福岡へ戻るのが5千里。
魏1里430mでぴったんこの一周距離。
遠いところを意味する萬二千里を地理的に割り振っただけの記述を元に地図上の距離と整合性をとろうとするから、1里75mなんていう夢にうなされ続けることになるのよ。

494:日本@名無史さん
19/12/22 20:19:57 .net
>>480
福永信三の田川説はトンデモだけど、彼の漢文能力は評価に値する。

495:日本@名無史さん
19/12/22 20:22:35 .net
>>481
よほど周旋五千里にうなされ続けてるようだな、お気の毒に、、、、

496:日本@名無史さん
19/12/22 20:24:52 .net
>>482
彼は翰苑中の後漢書が三國志より前にあるから謝承が書いたものに違いないって言ってるだけなんじゃないの

497:日本@名無史さん
19/12/22 20:45:10 .net
>>441
実際の邪馬台国は筑後山門にあったのじゃ。
このことは誰にも言うな。
秘密じゃけんの。
一方、萬二千里は単に謝承後漢書の受け売りだから、取り上げる必要はまったくない。
しかし、地理的に沖縄あたりにあるとする倭人伝の記述については、
これはそのあたりの海域に扶桑などと呼ばれる仙人の住む理想郷があるとする古代中国人の固定観念が原因となっており、
そのような理想郷の固定観念と先行の史書の奴国が倭国の極南界にあるとする記述を組み合わせたのが沖縄邪馬台国の陳寿説なわけだ。
この陳寿説は古代中国人の固定観念に発する荒唐無稽なものであるから、陳寿によるトンデモ説としておくのがよい。
そういうわけだから、邪馬台国は筑後の山門にあったのだよ。

498:日本@名無史さん
19/12/22 21:03:55.32 .net
実際の邪馬台国は安芸の宮島にあったのじゃ。
このことは誰にも言うな。
秘密じゃけんの。

499:日本@名無史さん
19/12/22 21:19:28 .net
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所 
帯方郡の場所
URLリンク(upload.wikimedia.org)
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km 
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km 
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km 
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km

水行10日、陸行1月の邪馬台国 
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km 
熊本緑川流域-奄美大島 580km 
熊本緑川流域-沖縄本島 824km 

おまけ 
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2

wikipediaより、 
韓国  面積 100,210km^2 

500:日本@名無史さん
19/12/22 22:04:14.09 .net
>>479
>つまり差し引きすれば、倭奴国~女王国(邪馬台国女王之所都)は、二千余里であった。
対馬海峡より短いということですな。

501:日本@名無史さん
19/12/22 22:06:27 .net
>>485
>実際の邪馬台国は筑後山門にあったのじゃ。

奴国から二千里程度ということかな?
一万二千里でも全く問題ないようだ。

502:日本@名無史さん
19/12/22 22:41:39.78 .net
>>489
萬二千里は捨てなよ。
伊都国から奴国までの百里と奴国から不彌国までの百里は同じ。同じ間隔ということ。
そこで、地図上の伊都国から奴国までの間隔と同じ間隔を東に取ればいいの。
そしたら、その間隔は筑紫野市から小郡の中間くらいの位置になる。
で、この地点と狗奴国である熊本の北に当たる大牟田との間が焦点になる。
小郡から南のあたりは筑後川付近が地理的に境界になるから、この筑後川の南の八女から大牟田までが邪馬台国ということが弾き出されるのだ。
邪馬台国はこのあたりにあって、八女は政治経済の中心、山門は卑弥呼の祭祀所があったところ。
倭国大乱の頃に八女と山門は合併したのだろう。
八女では、日本書紀神功紀に出てくる夏羽が仕事しており、山門では田油津媛が豊作を祈っていたということだよ。

503:日本@名無史さん
19/12/22 22:52:55.14 .net
>>486
安芸の宮島邪馬台国説はハツミミ。
そんじや、宮島と戦争した狗奴国は伊予か。
倭人伝は上陸戦の様子は書いてないけどな。
それに、水行三十日はどこからどこまでよ?

504:日本@名無史さん
19/12/22 22:55:43.79 .net
>>455
>隋書に関しては、当然先に成立してる魏書から引用してるに過ぎない。
魏書に耽牟羅國なんて出てこねえよw
負け犬の言い訳はいつも愚かしいな
>>450を百回読めカス

505:日本@名無史さん
19/12/22 23:05:06 .net
>>467
鬱陵島の一辺は10kmもない
東西は10km近いが南北は8km程度でしかない
10km弱を=10kmと読むそのアホさは救いがたいな

506:日本@名無史さん
19/12/22 23:08:22 .net
>>490
筑後川流域でも一万二千里を満たすだろってこと。

507:日本@名無史さん
19/12/23 00:17:53 .net
萬二千里が慣用句ならば対馬までの千余里、

壱岐までの千余里、末盧国までの千余里とは

どう解釈するんだ?比定できる地名と距離から

魏里とは違う短里の存在が昔から言われているだろう?

短里が幻想ならば對海国、一大国、末盧国とはどこになるのか

教えてくれないか?

508:日本@名無史さん
19/12/23 06:08:39.66 .net
倭国内の伊都~水30日陸一月の往復4ヶ月で頻繁に往来がなされてるわけは無い。半島南まで入れたら何ヵ月かかり潮の流れで秋は無理らしいじゃないか?都が遠すぎて助けてくれなぞ卑弥呼も言わんだろ?

509:日本@名無史さん
19/12/23 06:20:54 .net
それに一大率は相当暇だと思うよ、畏怖する理由も解らん。

510:日本@名無史さん
19/12/23 08:59:19 .net
吉野ヶ里の重要性と位置づけも見逃せない。
いったい、倭人伝の行程のどこに位置したのであろうか。

511:日本@名無史さん
19/12/23 08:59:46 .net
水戸黄門みたいなもの。

512:日本@名無史さん
19/12/23 09:00:32 .net
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高�


513:ヌ台、室岡・亀ノ甲遺跡 17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町) 18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺) 19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町) 20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市) 21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲 邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。 狗邪韓国 朝鮮半島南岸 対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市 末廬国(諸説あり) 伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都) 不彌国 福岡市東区(香椎宮) 投馬国 宮崎県西都原市(都万神社) https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg



514:日本@名無史さん
19/12/23 10:37:46.22 .net
「邪馬臺国」は呉の後背を襲える福建省の真東にあるというデタラメから
逆算したのが三国志魏志の「行程」記述
「行程」がどうのと垂れてる連中は全員白痴

515:日本@名無史さん
19/12/23 11:24:28.98 .net
畿内説の方角・距離無視というデタラメ行程論もあるが、
九州には、問題を解決できるきちんとした行程論もある。ま、気に入らないだろうけどな・・・、

516:日本@名無史さん
19/12/23 11:31:47.59 .net
>>502
九州説でもチョコチョコ方角や距離を誤魔化さないと無理だけどね。

517:日本@名無史さん
19/12/23 11:45:23 .net
ありもしないとんでもない場所に到達するための「距離」だの「方角」だのに
意味があるわけねーだろうが

三国志魏志の記述でわかるのは当時の中国人は九州北岸までの
地理の知識はあったということだけ

他の「地理」関連は全部デタラメ

518:日本@名無史さん
19/12/23 11:57:21 .net
>>503
やっぱり気に入らない様だな

ま、其のうち、倭人伝の行程記事の正確さを裏付ける発掘事業も進むことだろう。

519:日本@名無史さん
19/12/23 12:01:39 .net
>>505
>ま、其のうち、倭人伝の行程記事の正確さを裏付ける発掘事業も進むことだろう。


とっくに、倭人伝通りの行程は、決着済み!

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

520:日本@名無史さん
19/12/23 12:10:30 .net
>>505
一大国から末盧国までの工程がそもそも九州説だと千里ないじゃん?
九州上陸前から恣意的に歪めてるのは認めようよ。

別にそんな事位大昔の記録なんだからあってもいいんよ。
それを九州説は完璧で間違いないなんて思ってるのが間違いなだけ。

521:日本@名無史さん
19/12/23 12:20:28 .net
畿内機内説だと千里になるんだ

522:日本@名無史さん
19/12/23 12:30:10 .net
>>507
>一大国から末盧国までの工程がそもそも九州説だと千里ないじゃん?

実態として、



523:岐から末盧国の港(古唐津港の中原遺跡)までは、700里くらいある。 それを概数千余里というのは適切の範囲内だろうな。 また、西接の伊万里港までならドンピシャ千里となる。また帯方郡からは1万里で、ゆえにここをイー・マン・リーと称した。



524:日本@名無史さん
19/12/23 12:36:19 .net
成程、一万里ね。そりゃ面白い。

525:日本@名無史さん
19/12/23 12:50:17.98 .net
イー・マン・リーの伊万里から、
東南陸行500里到る伊都国といえば、そりゃ、どう考えたって佐賀平野じゃろうもん・・・、

526:日本@名無史さん
19/12/23 12:58:06.27 .net
>>507
松浦國の場所を恣意的に歪めておいて、間違っていると批判しているマッチポンプだろ。

527:日本@名無史さん
19/12/23 12:59:20.99 .net
帯方郡から1万里のところにある倭(伊)の国か。

528:日本@名無史さん
19/12/23 13:06:18 .net
>>509
対海国から一大国までの距離とえらい違うのに?

千里、五百理の行程とあるならまあそんなもんかな?の範囲ではあるが、流石に盛りすぎだぞ。

529:日本@名無史さん
19/12/23 13:07:08 .net
>>512
松浦ならいいと思うが、九州説でも松浦支持なんて少数派でね?

530:日本@名無史さん
19/12/23 13:08:44 .net
>>515
ごめん、末盧国と書いたつもりだった。
松浦かどうかはわからん。

531:日本@名無史さん
19/12/23 13:13:44 .net
>>504

じゃあ、邪馬台国がヤマトとも読める(しかも漢・魏音じゃなくて唐音でギリギリw)という

脆弱な理由しかない畿内説ってデタラメ以前だろw

532:日本@名無史さん
19/12/23 13:27:54 .net
>>516
>松浦かどうかはわからん。

末盧国(四千戸)は、万津浦(福津市辺り)だよ。  わははははは   @阿波

533:日本@名無史さん
19/12/23 16:12:17.18 .net
新井白石以来、言い習わされた通りで、松浦川の中原津で決まりだよ。
後世までワンドになっていたこともあって、今は唐津競艇場になってるが、
それくらい船溜まりとしては好適な場所だったということさ。
この競艇場の正門向かいに中原津の遺跡がある。
帯方郡のお役人も、昼間っからアワビをかじりつつ、接待競艇にトチ狂ってたのかもしれぬ。

534:日本@名無史さん
19/12/23 16:24:10.85 .net
>>518
万津浦なんて実在しないぞ無能チョンコwww

535:日本@名無史さん
19/12/23 17:28:19 .net
>>520

末盧国(四千戸)は、万津浦(福津市辺り)だよ。  わははははは   @阿波

536:日本@名無史さん
19/12/23 18:39:37.74 .net
東へ東へ心が流れる者たちは、
結局は、南にあった投馬国や邪馬台国には達することができなかったのだな、、、

537:日本@名無史さん
19/12/23 19:23:00.89 .net
始度一海 千餘里 至對海國
狗邪韓国のあったとされる釜山から対海国まで千里
対馬北端なら50km、南端なら100kmの距離

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
対海国から南に千里で一大国
対馬北端から壱岐までなら90km
南端からなら50km

又渡一海 千餘里 至末盧國
また千里で末盧国
壱岐から呼子(名護屋)だと25km
松浦なら45km
志賀島直行の方が50kmとまだマシ。
一大国から末盧国は方角の記載もないので何が何でも直南下しなきゃならん理由もない。
これを誤差だと言い張れるのが、古田信者の頭のおかしさ。

538:日本@名無史さん
19/12/23 19:45:45 .net
>>523
>一大国から末盧国は方角の記載もないので何が何でも直南下しなきゃならん理由もない。

これも既知のことだが、
対馬も壱岐の島民も、糧食を求めて南北に市櫂したとある。
(実際には南北に限定されないのだが)、わざわざ、南北市櫂と書いてあるからには、
ここは、南北に渡海した、或は南北に渡海すべしとの暗黙の指示・指令であろう。
このあたりが、陳寿の筆の巧みなところである。
(これを読み取れない者は、即刻退場!!)

539:日本@名無史さん
19/12/23 19:46:53 .net
東南陸行 五百里 到伊都国

これも方角の改変が必要な所

呼子から平原遺跡までは南東方向ではなく、南東に進んだ後、北東に進む必要がある。
直線方向なら真東


540:。 距離や方角を歪めないと糸島にはたどり着けない。



541:日本@名無史さん
19/12/23 19:51:51.94 .net
>>525
その通り、
だから、ここは素直に東南への道を進めば何の問題もないのだ。其の東南500里で到るとは、さていずこでしょう??

542:日本@名無史さん
19/12/23 20:01:30 .net
(参考図)
末盧国から、素直に東南への道を進めばいずこ??
URLリンク(imgur.com)

543:日本@名無史さん
19/12/23 20:10:13 .net
>>527
なるほどこれは実に貴重な図だ。 倭人伝そのまんま東南。。。

544:日本@名無史さん
19/12/23 20:16:46 .net
>>526
名護屋から南東に行くのがそもそも間違い。
たった25kmを千里と強弁するのは、距離の歪曲って言うんだぜ?

545:日本@名無史さん
19/12/23 20:23:24 .net
上陸したまつらには官名が無い上に伊都まで500里ってどんだけ歩くんだよ、其処が立ち寄る場所か?流されとるし500里は歩かん。

546:日本@名無史さん
19/12/23 20:28:52 .net
>>529
末盧国の港は名古屋ではない。壱岐の島に近すぎる。
どう見ても唐津中原だろうな。(壱岐から唐津中原まで約700里だからな)
だがその唐津からは海沿い北東への道ではない。東南の道を500里進んだところ、それが伊都国だ。

547:日本@名無史さん
19/12/23 20:37:56 .net
>>530
>其処が立ち寄る場所か?流されとるし500里は歩かん。

倭人伝の通り読めばよいのだ。
唐津から東南への道を500里だ。実際には南へ300里、そこで東へ転じて200里だ。
500里は遠すぎるというが、
倭人伝には、一大率が(唐津の中原の)津まで見聞に出向くとある。
別の見方をするなら、わざわざ唐津まで、出迎えと警護にやって来てくれてたのだろうなあ。
それが役人同士の仁義というものだ。

548:日本@名無史さん
19/12/23 20:42:21 .net
福建省の真東にあると書いているんだから
そこに至る行程は福建省の真東のどこかへの行程になってなきゃおかしいだろうが

福建省の真東には琉球しかない

よって距離だの方向だのはまったくのデタラメ

549:日本@名無史さん
19/12/23 20:45:03 .net
福建省などと、倭人伝には全く書かれていない。

550:日本@名無史さん
19/12/23 20:53:07 .net
短里にしろ50キロと200キロだぞ舟乗り捨てて歩く距離じゃ無いだろ流されてる。

551:日本@名無史さん
19/12/23 21:12:11.71 .net
>>535
一般に言う短里で500里は、およそ37.5㎞だ。
昔の人の足で、なおかつ一大率のような案内人ありなら、朝出発して夕方には到着できる距離だな。
逆に言えば、1日で着けるよう、伊都国の駐在が出迎える習わしだったのだろう。
その出迎えが唐津に来るまで、
客人たちはアワビやサザエを肴に飲んだくれては、唐津の競艇場で遊び呆けていたのではないかな。

552:日本@名無史さん
19/12/23 21:31:11.94 .net
帯方郡から邪馬台国まで水行10日陸行1月は、水行10日陸行1日の誤りだろう。
なぜなら日本国内で陸行1月が必要な土地などないから。
つまり伊都こそ倭の都、倭都(いと)だったのだろう。
倭が卑字だったのを知っていたから、伊の字に変えたのかもしれない。

553:日本@名無史さん
19/12/23 21:31:50.31 .net
>>523
>狗邪韓国のあったとされる釜山

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

554:日本@名無史さん
19/12/23 21:38:16 .net
>>523
>志賀島直行の方が50kmとまだマシ。

福津市辺り(万津浦)直行の方が70kmとずばり。   @阿波

555:日本@名無史さん
19/12/23 21:43:06 .net
>>524
>ここは、南北に渡海した、或は南北に渡海すべしとの暗黙の指示・指令であろう。

無理!  対馬海流に流されて無理!  それは、それぞれの島内を、「南北市櫂」。   @阿波

556:日本@名無史さん
19/12/23 21:44:11 .net
短里だと不弥国に海が無い。かといって馬に慣れとるであろう魏の役人が立ち寄る場所なら海に近いとこだろ、海から37キロは検閲する場所じゃない。

557:日本@名無史さん
19/12/23 21:59:39 .net
>>540
アホか。
島に農地が足りないから南北に渡海するんだよ。
島の中で移動しても解決しないだろ。

558:日本@名無史さん
19/12/23 22:49:33 .net
>>542
>島に農地が足りないから南北に渡海するんだよ。


アホか。
対馬海流に流されて無理!  それは、それぞれの島内を、「南北市櫂」。   @阿波

559:日本@名無史さん
19/12/24 01:40:31.33 .net
>>525
それもう過去スレで論破されてる
> 354 :日本@名無史さん :2019/09/24(火) 00:17:24.76
> 奈良文化財研究所のブログより
>
> URLリンク(www.nabunken.go.jp)
> >古代の方位測定法
> >いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、
> >地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
> >奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、
> >西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
> >
> >ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
> >午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
> >この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
>
> 太陽を利用する方法は精度が高いが定点観測しなきゃいけないので都市計画にはいいが移動時には使えない
> 魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
> と考えるとすっきり解決するのではないか

560:日本@名無史さん
19/12/24 02:22:01.86 .net
>>521
万津浦なんて実在しないぞ無能チョンコwww

561:日本@名無史さん
19/12/24 03:17:24.29 .net
>>538
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

562:日本@名無史さん
19/12/24 03:17:30.79 .net
>>539
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

563:日本@名無史さん
19/12/24 03:18:42.49 .net
>>540
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

564:日本@名無史さん
19/12/24 03:18:51.33 .net
>>543
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
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      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

565:日本@名無史さん
19/12/24 06:31:58 .net
URLリンク(youtu.be)

566:日本@名無史さん
19/12/24 07:11:02 .net
>>523
>志賀島直行の方が50kmとまだマシ。

福津市辺り(万津浦)直行の方が70kmとずばり。   @阿波

567:日本@名無史さん
19/12/24 07:17:54.06 .net
>>531
唐津から何も考えず南東に35km進むなら、伊都国は佐賀平野側に突き抜けるわな。

568:日本@名無史さん
19/12/24 07:30:18.37 .net
>>544
>ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、
>地球の自転軸は約25,800年の周期(歳差さいさ運動)で動いており、
>現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。
>それ以前は、紀元前1


569:,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が >北極星の役割を果たしていました。 >しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。 この奈良文化財研究所のブログは、都市計画において超正確に真北を定める場合の事のようであり、 これを倭人伝の行程論に援用するのは、全く意味がないことである。 古代と現代で、北極星の位置は数度しか違っていなかったので、ブログの都市図においても、 「良く見れば、北の方角がなんとなく西にずれてないでもないねえ・・・」程度のことである。 数度の違いは、一般人にはほとんど感知されない。 ましてや 「>古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。」のくだりはトンデモ無知無能の類だ・・・、 現代と同様、日常的な方位であれば、古代においても北極星で定めて何の問題もなかったのである。



570:日本@名無史さん
19/12/24 07:51:27 .net
>>544
> 魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
> と考えるとすっきり解決するのではないか

現代と古代の北極星のズレは数度から~せいぜい十度の範囲である。
これに対し、倭人伝の北部九州説や畿内説では45度~90度のズレになっている。
その大きなズレを少しばかりの北極星のせいにするのは全くのお門違いであり、言い掛かりと言わざるを得ない。
非科学的で安直である。

571:日本@名無史さん
19/12/24 09:03:11.70 .net
魏志倭人伝の内容が正確ではない。
だから文面の分析で当たりをつけるだけでは不十分で、発掘調査で現物を確認する必要があるし
書いてあるから正しい、書いてないから正しくない。という論調自体がナンセンスだと考えたほうが良い。

572:日本@名無史さん
19/12/24 09:07:00.77 .net
>>555
>発掘調査で現物を確認する必要があるし
その通り。   「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」   @阿波

573:日本@名無史さん
19/12/24 09:08:50.72 .net
>>556
卑弥呼の墓は?

574:日本@名無史さん
19/12/24 10:01:57.32 .net
>>555 名前
>魏志倭人伝の内容が正確ではない。 ←正確ではない△  さほど精密ではない○
>だから文面の分析で当たりをつけるだけでは不十分で、発掘調査で現物を確認する必要があるし
現状では、
文面で当りをつけたと称して、多くの場合がトンデモ距離・トンデモ方角を発掘しているのではないか。
倭人伝の文面を精密に解釈して、なるべく確率の大きい当りをつけることが必要。
その後に発掘で確かめることは当然大事で必要不可欠。

575:日本@名無史さん
19/12/24 10:25:15.80 .net
>>557
>卑弥呼の墓は?

卑弥呼の墓は
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。  
この矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
天石門別八倉比売神社:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山   @阿波
「矢野遺跡と天石門別八倉比売神社」
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)
URLリンク(www.genbu.net)

576:日本@名無史さん
19/12/24 10:44:26.68 .net
↑好例: @あわのトンデモ解釈、トンデモ当り付け

577:日本@名無史さん
19/12/24 10:48:47.86 .net
>>560
無い物ねだりのひがみ節!  わははははは   @阿波

578:日本@名無史さん
19/12/24 11:10:05 .net
魏志倭人伝に書いてある内容のうち、どの部分が本当に当時の事実なのか判別する事自体も難しい作業なのよな。

魏志倭人伝には色々な出典元が混ざってる訳で、本当に当時の事実だけを書いたわけではない。

最もわかり易い例
身長1m以下�


579:フ侏儒国や船で一年かかる裸国や黒歯国も魏志倭人伝の記述である事には変わりないが、誰も信じちゃいない。 魏志倭人伝の成分は、以下が推測される。 陳寿の解説、補足 魏略からの引用 梯儁の出張報告 張政の出張報告 裴松之の加筆 魏の公文書 魏書よりも古い記録からの転記や引用 邪馬台国が実は全然明後日の場所にあったとしても不思議ではない。



580:日本@名無史さん
19/12/24 11:34:33.39 .net
>>554
磁北の位置が現在と違ったというのが趣旨だろ
北極星の話じゃない
こういう日本語も理解できないバカが話に混ざろうとするからどんどん議論がおかしくなる

581:日本@名無史さん
19/12/24 11:50:22 .net
>>563
磁極は南北逆転を繰り返したり、移動速度も一定じゃない。
3世紀の北磁極なんて記録があるわけでもないのにわかってるの?

582:日本@名無史さん
19/12/24 12:21:56 .net
白痴老人共のウワゴトがわんさか

中国で正確な緯度計測の手法を確立させたのは
「令和」の種本として最近名前が挙がった後漢の科学者張衡

磁北なんてものは緯度計測にはまったく使っちゃいないんだよ

583:日本@名無史さん
19/12/24 12:23:51 .net
>>564
文字が読めないの?

>奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、
>西日本では平均して10~15度も西へずれていました。

584:日本@名無史さん
19/12/24 12:24:26 .net
>>565
方位計測の話だけど白痴なの?

585:日本@名無史さん
19/12/24 12:34:39 .net
>>566
それがどうやってわかったのか?
ここ最近ですら北磁極の移動速度が推定してたものよりもかなり速いと話題になってる。
信憑性あるのかと、問うているんだが?

586:日本@名無史さん
19/12/24 12:38:54 .net
>>568
奈良文化財研究所に聞けよ

587:日本@名無史さん
19/12/24 12:45:07 .net
>>554
90度は畿内説が南を東と言いくるめるための方便だろ。

588:日本@名無史さん
19/12/24 12:46:35 .net
>>562
>魏志倭人伝には色々な出典元が混ざってる訳で、本当に当時の事実だけを書いたわけではない。

それはいい。

>邪馬台国が実は全然明後日の場所にあったとしても不思議ではない。

しかし邪馬台国へは直接郡使が訪問しているのだから、そこまでの道程は信頼すべき情報だ。

589:日本@名無史さん
19/12/24 12:50:24 .net
>>563
この磁北論旨は、奈良文化財研究所のブログから、
>>磁北の部分と、>>太陽の部分を抜き出して、「磁北は不適当だったから、太陽で計った」となっている。
しかし、ちょうどその中華にあった「北極星」のことは、ごそっとスキップしての結論だ。
小細工をするでない。

(・・・前省)
>>西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>>544 の引用はこの行まで↑

>>553 の引用はここから↓
「次に思いつくのは、北極星を測ることでしょう。
現在の北極星(ポラリス=こぐま座α星)は真北にかなり近い位置にありますので、
これを利用するのが真北の測定法としてはもっとも簡便です。
実際、古代にも北極星で真北を求めたと主張する人がいます。
ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、
地球の自転軸は約25,800年の周期で動いており(歳差さいさ運動)、
現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。それ以前は、
紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が北極星の役割を果たしていました。
しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。」
>>553の引用はここまで↑

>>544の再引用はここから↓
>>ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。以下略・・・

590:日本@名無史さん
19/12/24 12:58:56 .net
マツラは官使もおらんし上陸するような場所じゃない、人が歩けば草はない。流されてる 。そっから短里だと40キロも歩いておる で七キロ先に奴国でまた七キロ先に不弥国で海。伊都は普通に短里なら福岡辺りだろ。

591:日本@名無史さん
19/12/24 12:59:54 .net
>>567
奈良文化財研究所のブログでさえ、
磁北で計ったのではないだろうといってるんだよ。

>>西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。

592:日本@名無史さん
19/12/24 13:12:47 .net
>>562
>邪馬台国が実は全然明後日の場所にあったとしても不思議ではない。

「邪馬臺国」の場所はとっくに「阿波」と解明されている  と、何度言えばw   @阿波

593:日本@名無史さん
19/12/24 13


594::22:35 .net



595:日本@名無史さん
19/12/24 13:23:59 .net
>>572
やっぱり日本語が読めない白痴だったな

> 太陽を利用する方法は精度が高いが定点観測しなきゃいけないので都市計画にはいいが移動時には使えない
> 魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
> と考えるとすっきり解決するのではないか

>>574
それはまさしく都市計画の話だろ白痴


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