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★弘仁新羅の乱(渡来朝鮮民族 新羅難民部落の騒乱)
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河、両国に移配した
新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし
日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが制圧できなかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、全員が降服した。
新羅渡来人難民部落の禍乱の経緯から新羅からの帰化人対策に
熟考した藤原衛は新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)
新羅人の日本への来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。
朝議の結果、以後は日本に帰化を申請してきた場合でも即座却下することになる。
難民、漂着民、亡命を希望しても緊急の食料衣服を与えても追い返すこととされた。
これは『貞観格』にも収められ、以後の朝鮮半島及び新羅人対策の基本方針になった。
かつて朝廷(日本国)は、すべての流民の新羅人に口分田まで与えて
帰化を認め寛大に遇して恩を与えたが朝鮮渡来の流民たちは
恩を仇で返し博多などに土着して本国と違法な交易を目論み
それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みした。
この渡来朝鮮人の乱以降、北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、群馬を中心に関東各地、東北にも少数住まわせる事になった。