【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
19/12/08 14:50:57.10 .net
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

3:日本@名無史さん
19/12/08 14:51:09.29 .net
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

4:日本@名無史さん
19/12/08 14:51:30.10 .net
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ

5:日本@名無史さん
19/12/08 14:52:30.11 .net
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに


6:信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~? 無能すぎるじょ~~~wwwww



7:日本@名無史さん
19/12/08 14:53:21.56 .net
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

8:日本@名無史さん
19/12/08 17:10:34 .net
筑紫平野の謎。
玄界灘沿岸各地では3世紀中頃から前方後円墳が造られて行き、大和政権との関連が注目されるものとなっているが、一方、筑紫平野側にはこの3世紀後半には前方後円墳が見当たらない。
筑紫平野最古の前方後円墳とされるのは佐賀市の銚子塚古墳で、4世紀末の築造とされる。
では、この時期に筑紫平野各地は大和政権との関わりがなかったのかというとそうでもなく、前方後円墳は造られないながらも埴輪や副葬品には明らかに大和政権との関わりを示すものが出ている。
円筒埴輪や三角縁神獣鏡などがそれである。
つまり、筑紫平野の謎というのは、3世紀中頃から4世紀後半にかけて大和政権の象徴である前方後円墳がまったく造られていないことなのである。
そして、応神政権が始まる4世紀末頃から前方後円墳の築造が筑紫平野においても行われるようになる。
これは何を意味しているのだろうか。
つまりは、筑紫平野は大和政権から公式的にはハブられていたということになってくる。
では、なぜにハブられたか。
おそらく、筑紫平野は倭国の中の筑紫平野連合勢力の地であり、卑弥呼や台与の邪馬台国が盟主となっていた地方だったからだろう。
筑紫平野をハブっていたその大和政権が応神政権に代わるととたんに筑紫平野に前方後円墳が造られだすのをみると、ハブられた理由はそういうことだったのだろう。
つまり、大和政権は玄界灘連合を傘下に収めて、その一方では筑紫平野連合をハブっていたということになる。
筑紫平野に3世紀中頃~4世紀後半まで前方後円墳がないのは、そういうことだったという歴史の真実。

9:日本@名無史さん
19/12/08 18:38:16.05 .net
>>7
応神天皇の前にあった筑紫平野等での大きな出来事といえば、
景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。
つまり、景行天皇及びその流れの影響下にあったから、そのぶん前方後円墳への移行が遅れたのではないか??

10:日本@名無史さん
19/12/08 18:48:36.05 .net
>>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。

九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

11:日本@名無史さん
19/12/08 19:29:57 .net
>>9
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

12:日本@名無史さん
19/12/08 19:59:26 .net
>>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。


九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、

九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

13:日本@名無史さん
19/12/08 20:13:32 .net
>>11
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

14:日本@名無史さん
19/12/08 20:18:54 .net
>>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな

景行天皇は大和へ帰るについて、どういうわけか宮崎から有明海に出て熊本などを観光しながら進むが、なぜか山門を素通りして久留米への藤山の峠越えをする。
そして、その際に南の方を振り返って粟岬(あわのさき・所在不詳)を望見して八女の重畳とした山々の美しさに感激するのだけど、この八女の山々の西側の先端が女山であり、ここが粟岬ではないか。
女山は山門のやや北に位置している。
つまり、景行は山門の方角を見て感慨にふける描写となっているのだ。
日本書紀の編纂者は山門の「や」も書かずに、その山門を感慨深く景行に望見させているわけ。
この描写に、大和が山門の卑弥呼の死に関わった秘密が隠されていると思われる。
つまり、夏草や兵どもが夢の跡ということだ。
ここに、日本書紀の編纂者が景行を宮崎からすぐに大和へ帰らせずに、ぐるりと西回りさせた隠された理由があるとみる。
卑弥呼の死について大和はその理由をちゃんと知っていたということになってくる。
筑紫平野が4世紀末まで前方後円墳を造れなかった理由がそこにあったと思うよ。

15:日本@名無史さん
19/12/08 20:23:10 .net
>>9
>なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか

単に大和から遠かったから。^^

16:日本@名無史さん
19/12/08 20:47:24 .net
前スレ>>993
>物部は、あくまで臣下物部であり、物部が邪馬台国の王族だったとは考えにくい
誰も物部が邪馬台国の王族だったなんて言ってないわけだが
問題は物部が「大連」の地位にあった氏族だということだ
ウジ・カバネ制では連の姓は神武東征以前から天皇家に仕えていた譜代の臣を表す

URLリンク(kotobank.jp)氏-34455
> 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、実力の向上に伴って頭角を現した
> 家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。

神代の昔から皇祖神に仕えた、つまり神武東征以前からの譜代の皇室の臣下が連の姓を与えられているわけだ
この天皇家の家政機関の人間が九州人であることはそのまま皇室が九州出自であることの根拠となる
たとえば伊都国で邪馬台国に臣従していた安曇氏も連姓だ
その連姓の中でも大連として連の中の連であった物部氏が筑後山門出身であることは、当然彼らの主である天皇家がここにいたということになる
つまり筑後山門の邪馬台国が東遷したのが後の大和朝廷であると考えるのが自然

17:日本@名無史さん
19/12/08 20:47:39 .net
前スレ>>993
>物部は、あくまで臣下物部であり、物部が邪馬台国の王族だったとは考えにくい
誰も物部が邪馬台国の王族だったなんて言ってないわけだが
問題は物部が「大連」の地位にあった氏族だということだ
ウジ・カバネ制では連の姓は神武東征以前から天皇家に仕えていた譜代の臣を表す

URLリンク(kotobank.jp)氏-34455
> 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、実力の向上に伴って頭角を現した
> 家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。

神代の昔から皇祖神に仕えた、つまり神武東征以前からの譜代の皇室の臣下が連の姓を与えられているわけだ
この天皇家の家政機関の人間が九州人であることはそのまま皇室が九州出自であることの根拠となる
たとえば伊都国で邪馬台国に臣従していた安曇氏も連姓だ
その連姓の中でも大連として連の中の連であった物部氏が筑後山門出身であることは、当然彼らの主である天皇家がここにいたということになる
つまり筑後山門の邪馬台国が東遷したのが後の大和朝廷であると考えるのが自然

18:日本@名無史さん
19/12/08 20:49:03 .net
>>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。


九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、

九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

19:日本@名無史さん
19/12/08 20:49:24 .net
スマンなんか二重投稿になってしまった

20:日本@名無史さん
19/12/08 20:55:36 .net
>>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。


九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、

九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

21:日本@名無史さん
19/12/08 21:19:51.46 .net
>>7
247年迄の卑弥呼時代と300年代との根本的違いは瀬戸内海ルート。
本州もBC200年以降は青銅器の移入は有るが、出雲~丹後経由の日本海ルート。
宗�


22:怦ネ東の遠賀川地域は経由しても、博多湾に入る必要は無かった。 九州と本州の青銅器文化の違いは、これが原因だろう。 247年迄の卑弥呼は、糸島、博多、筑紫平野21国の王。 これ以降に本州勢力と連携して半島進出、牛馬の移入などが始まるが、 313年の漢四郡撤退までは、246年に帯方郡に潰された馬韓辰韓王国の復興支援 半島南部での、魏晋との衝突は控えた富国強兵時代だったと考える。 この246~313の間、魏晋の楽浪帯方の馬韓辰韓支配によって、青銅の輸入元が絶えているはずで、 荒神谷の青銅集積はこのころの青銅商人豪族に何らかの事件が有ったのではないかと推測する。 筑紫内陸に後の大和政権勢力=前方後円墳の登場が遅かったのは、 玄界灘~半島方向以外には、軍事支配の徹底を必要としない、 わりと平和的な統合だったことを意味する。  支配層本家筋等は中央豪族化して、九州の栄華は終わる。



23:日本@名無史さん
19/12/08 21:52:44 .net
>>20
>247年迄の卑弥呼は、糸島、博多、筑紫平野21国の王。


九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、

九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

24:日本@名無史さん
19/12/08 23:47:23 .net
>>20
>筑紫内陸に後の大和政権勢力=前方後円墳の登場が遅かったのは…わりと平和的な統合だったことを意味する

筑紫内陸部では3世紀中頃に久留米市域に祇園山古墳(方墳)が造られ、そのあと3世紀後半に鳥栖市域に赤坂古墳(前方後方墳)が造られ、
その後3世紀末~4世紀初頭にみやま市瀬高町域に車塚古墳(円墳)が造られている。
鳥栖市の3世紀後半の赤坂古墳が前方後方墳であることは注意を要する。
これより前の3世紀中頃には大和では前方後方墳のメクリ1号墳が造られており、
前方後方墳は前方後円型の墳丘墓とは系統を異にし、大和政権の象徴ではないことから、鳥栖市域の勢力は大和政権そのものには同調していなかったことが考えられる。
このような視点でみると、3世紀中頃に造られた久留米の祇園山古墳が方墳であることも注意を要することだといえる。
みやまの瀬高町の3世紀末の円墳の車塚古墳もこの視点からみると、微妙な墳形だと言えそうだ。
このようにみると、玄界灘沿岸では大和政権の傘下であることを示す前方後円墳がみられ、一方、筑紫平野では大和政権に同調しない墳形がみられるということになってくる。
この双方の墳形の在り方は、卑弥呼のあと男王が立てられたことと、そしてすぐに形成が逆転して卑弥呼の後継の台与が立てられたことと、かなりよく類似しているようにみえる。
筑紫平野連合は大和傘下の玄界灘連合と対立して大和傘下に入ることに同意しなかったとする視点が成り立つように思う。

25:日本@名無史さん
19/12/09 00:33:01 .net
>>15
なるほど、つまり天皇家の大番頭がみやま市瀬高町にいたのは天皇の祖先がそこにいたからってことね

26:日本@名無史さん
19/12/09 01:30:59.14 .net
>>17
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

27:日本@名無史さん
19/12/09 01:31:13.92 .net
>>19
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

28:日本@名無史さん
19/12/09 01:31:35.84 .net
>>21
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

29:日本@名無史さん
19/12/09 06:25:09.39 .net
>>23
>なるほど、つまり天皇家の大番頭がみやま市瀬高町にいたのは天皇の祖先がそこにいたからってことね

九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

30:日本@名無史さん
19/12/09 08:28:34 .net
>>7
>つまり、大和政権は玄界灘連合を傘下に収めて、その一方では筑紫平野連合をハブっていたということになる。
>筑紫平野に3世紀中頃~4世紀後半まで前方後円墳がないのは、そういうことだったという歴史の真実。

これは、同意。
その筑紫平野の政権こそ、邪馬台国の後嗣だろう。
壹與に比定され得る與止日女や、神功皇后に倒された田油津姫などの女性首長の伝統が残っていた地域だ。

31:日本@名無史さん
19/12/09 09:16:10 .net
>>15 >>23
天皇家の大番頭がみやま市瀬高町にいたからといって、天皇の祖先もそこにいたかどうかは不明だな
例えば、江戸に徳川が居たから、譜代大名も全て江戸市中にいたわけではない。
全国各地の要衝に配されていた。

倭国の時代も、それと同じような配置ではなかったか。
特にみやま市瀬高は、肥後・日向など九州中南部にとって北の難関函谷関とも言うべき交通防衛の要衝であり、
だからそこに軍事刑部に長けた物部連が陣取って、
倭女王たる肥後の卑弥呼体制を守っていたのではないか。
だからみやま市は山門郡(ヤマのト)、つまり邪馬の門(邪馬台国の門)と称されたのであろう。、

32:日本@名無史さん
19/12/09 09:39:42 .net
>>29
>例えば、江戸に徳川が居たから、譜代大名も全て江戸市中にいたわけではない。

日本国が全国に拡大していた時代と比べても意味がない。

33:日本@名無史さん
19/12/09 10:53:28 .net
>>30
つまり倭国という国体が九州島全域に拡大していった時代、
それこそが倭国大乱以降の三世紀九州だったということさ。

34:日本@名無史さん
19/12/09 12:37:10 .net
>>27
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ

35:日本@名無史さん
19/12/09 16:15:04.21 .net
>>28
>その筑紫平野の政権こそ、邪馬台国の後嗣だろう
応神天皇の時代になると佐賀市域に前方後円墳がつくられ始めることをみると、大和政権に同調しなかったこうした勢力が台頭して応神政権の支持層を形成していくという構図が考えられる。
宗像が応神政権に同調して頭角を現すのも、そうした流れだろう。
そして、その頃には博多は宗像に圧倒されて行くことになる。

36:日本@名無史さん
19/12/09 16:26:11.70 .net
>>27
>なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
阿波には、流刑で天皇が二人来ているけどね。

37:日本@名無史さん
19/12/09 17:33:51 .net
>>33
>応神天皇の時代になると佐賀市域に前方後円墳がつくられ始めることをみると・・、

なるほど・・、
逆に見れば、邪馬台国東遷後の九州・佐賀~筑後~熊本平野は一時的に空白域となった。
で、そこに群雄割拠した地方豪族の熊襲らを、景行天皇及びその皇子オウス(ヤマトタケル)の一族が征伐して、、
応神朝までの短い時代を抑えていたからということではないのかねえ

38:日本@名無史さん
19/12/09 18:42:46 .net
>>35
まあ、面白い説ではありますね。

39:日本@名無史さん
19/12/09 18:45:16 .net
>>34
>阿波には、流刑で天皇が二人来ているけどね。


九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、

九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

40:日本@名無史さん
19/12/09 19:18:48.41 .net
つまり、
九州で活躍したという景行天皇ーヤマトタケルー仲哀天皇ー神功皇后は、
実は古より、博多那の津を根拠地とした倭奴・九州王権の血筋の王族であり、
新渡来王族の邪馬台国勢力とは相いれないところがあったのではないか。
で、両派閥が覇権をかけて争ったのが倭国大乱であり、
この時は優勢勝ちとなった邪馬台国勢力ではあったが、まもなく東へ新天地を得て、去って行った。
その残党の熊襲や土蜘蛛たちを、景行天皇らが征伐して失地回復した。
が、それも束の間で、
東遷後、勢力を増して前方後円墳文化を広めつつあった近畿勢力に取り入った銅財閥の応神天皇に、
その後は名を成さしめることになった・・・、

41:日本@名無史さん
19/12/09 19:41:57 .net
>>29
物部は大連なんだから江戸時代でいえば老中とかのポジションだろ
老中が江戸詰めじゃないわけがない

42:日本@名無史さん
19/12/09 19:51:25.21 .net
>>39
問題は、
その老中の出身であり、そして懐具合を支えた譜代の藩がどこにあったかだわな。

43:日本@名無史さん
19/12/09 20:10:53 .net
だから出身は筑後国山門郷なんだろ
もうそこが邪馬台国で確定じゃん

44:日本@名無史さん
19/12/09 20:47:38 .net
>>39
そもそも大連の意味について、後世の誤解やら捏造やらが含まれているのではないか?

45:日本@名無史さん
19/12/09 21:13:08 .net
>>38
いつもよく出てくる九州王権の東遷説のその東遷理由がどうも薄いような。

46:日本@名無史さん
19/12/09 21:16:57 .net
>>43
縄文時代から文物すべてが西から東へ拡散して行ったので、九州では東遷することがごく自然現象のように考えられているのでは?

47:日本@名無史さん
19/12/09 21:57:52.27 .net
>>42
お前に都合が悪いからって根拠もなく否定とかw

48:日本@名無史さん
19/12/10 01:01:46 .net
人々が大量に移動するなら、そこに理由があるはず。
押し出す要因か、引っ張る要因。
九州で迫害や戦争があったのか、近畿に人を引き寄せる何かがあったのか&


49:#55358;�



50:日本@名無史さん
19/12/10 01:45:14 .net
>>37
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

51:日本@名無史さん
19/12/10 09:07:24.38 .net
お天気と文化は西から東へ、人の流れも又然り
ま、アメリカ東岸に上陸した移民は、西へ西へと幌馬車を走らせたけどな、、。

52:日本@名無史さん
19/12/10 09:23:20.06 .net
>>48 続)
東遷/東征と称した学者が誰かは知らぬが、
そういう言い方をするから仰々しくなり、要らぬ波風・憶測もたつのであろう。
銃でインデイアンを追っ払いつつ、西へ西へと向かったアメリカ開拓移民と同じノリで、
古代渡来人も、鉄製武器で縄文/弥生人を追っ払いつつ、東へ東へと、新天地を開拓していっただけのことだろうな、、、、。

53:日本@名無史さん
19/12/10 10:03:38.62 .net
虚構の持つ効果性
天皇天孫降臨説
イエス処女生誕説
大ウソを信じる
大ウソが必要だった 大勢の人が組織を作るため
ウソを媒介して 多数の人が 仲間になる
ウソが言えない人は 仲間を作れない 少数派で 敗北していった
一神教こそが 多数の人を団結させられた
日本の多神教は 天皇という一神教でもあった

54:日本@名無史さん
19/12/10 10:08:07.06 .net
>>49
>古代渡来人も、鉄製武器で縄文/弥生人を追っ払いつつ、東へ東へと、新天地を開拓していっただけのことだろうな、、、、。
それ、誰が主役なんだよ?
弥生人の中でも後期に乗り込んできた筑紫の一族が東へ東へと進出したんだろ。
だからシンボルが内行花文鏡。

55:日本@名無史さん
19/12/10 11:09:39 .net
痴呆老人のうわごと

56:日本@名無史さん
19/12/10 16:34:37.14 .net
>>41
そうそう、それがごく自然。
なんの理屈もいらんね。

57:日本@名無史さん
19/12/10 17:37:22 .net
>>51
遠賀川式土器が東へ拡散した以降に、九州系の土器が東へ拡散した例はないんとちゃう?
誰かも、九州人は出不精とか言っているし。

58:日本@名無史さん
19/12/10 18:10:49.45 .net
遠賀川だって弥生だろうに。
九州勢だとか弥生だとかは大雑把すぎるのでは?

59:日本@名無史さん
19/12/10 18:14:11.39 .net
>>41
出身はそれでいいけど、王都は伊都なのでは?
倭国大乱で王統が交代して乗っ取ったのだろう。
倭国の王である条件は博多湾沿岸を制することだっただのだろう。
そう考えると、卑弥呼の前の男王も、その前の政権から王位を奪ったのだろう。

60:日本@名無史さん
19/12/10 20:32:37 .net
>>55
九州の地名と大和の地名がよく似ているから、九州から移住した人が相当いたのだろうといっているのは安本だが、
それにしては山門の地名がないよね。

61:日本@名無史さん
19/12/10 20:40:00.26 .net
>>56
>倭国の王である条件は博多沿岸を制することだったのだろう
地盤的にはその通りでしょう。
その上にやはり金印の権威の引継ぎも条件の一つではないか。
つまり、博多の承認がものを言ったとか。
なので、乗っ取りではなく、ある種の“禅譲”を必要としたと。

62:日本@名無史さん
19/12/10 21:43:07.64 .net
>>56
伊都はたぶん倭国大乱前までの王都だったんだと思う
光武帝から金印を貰って以来北部九州の国々の盟主の地位にあったけど、倭国大乱が起きてそれを鎮められなかった責任を負わされて
北部九州連合の盟主の座を筑後山門の卑弥呼に明け渡したんだと思うね

63:日本@名無史さん
19/12/10 22:09:10 .net
>>59
思う、思うと妄想ばかり。  妄想はそんなに楽しいかい?  わははははは   @阿波

64:日本@名無史さん
19/12/11 01:06:18 .net
>>56
伊都は女王国に属している国であって女王国ではないと魏志倭人伝に明記されてるが

65:日本@名無史さん
19/12/11 01:08:56 .net
>>60
泡チョンコロの思い込みによるトンスルフィクションより状況証拠と物証が揃ってるのが九州説

66:日本@名無史さん
19/12/11 02:34:58 .net
>>60
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

67:日本@名無史さん
19/12/11 07:29:46 .net
>>61
誤読だろ。

68:日本@名無史さん
19/12/11 07:31:46.47 .net
>>59
しかし金印そのものは志賀島にあったんだろ?
そうすると都もそれほど動かなかったのではないか。

69:日本@名無史さん
19/12/11 07:58:36 .net
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ~ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

70:日本@名無史さん
19/12/11 08:00:35 .net
>>65
志賀島は安曇の聖地だから
金印は伊都国伝来の宝として渡さなかったんだろう
邪馬台国としても伊都国の協力は必要だから無理強いはできなかったんじゃないか

71:日本@名無史さん
19/12/11 08:03:27 .net
>>66の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━┓帯方郡  ┏┛~~~~~~~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~~日本海~~
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~~~~┏━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行10日」~~~~┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘~~~~~~~┗━━━━━━┓
   ┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行10日」┐関門海峡~瀬戸内海▲┃
v✖s┃~~┏末盧国━━↑━━━┓↓~~~~┏━━┓~┃ 
   ┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓~~~~┃侏儒国┃~┗━━┛
 ↑ ┃~~┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━┛「在其南 人長3~4尺
【呉】┃~~┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↓豊後水道~~~~~去女王4,000里」
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃~~┗━女王国島━┛↓~~~~~~~~
会稽┃~東シナ海~┌南「水行10日」~~~~~~~~
東治┃~~┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃~~│~↓「陸行1月」_~│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃~~│~↓▲沖縄~~~│~~↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃~~│♀【奴国2】(幻)~│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃~~│▲台湾~~~~~│~~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~~南シナ海~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】東南 船行1年」

72:日本@名無史さん
19/12/11 08:03:49 .net
>>67
だろう、だろうと妄想ばかり。  妄想はそんなに楽しいかい?  わははははは   @阿波

73:日本@名無史さん
19/12/11 08:04:43 .net
>>66
>>68
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

-女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
-其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

74:日本@名無史さん
19/12/11 08:09:07 .net
>>70
安本美典先生を囲む「卑弥呼会」のお姉さま、おはようございます!!!

75:日本@名無史さん
19/12/11 08:34:38 .net
>>67
金印を最後に使ったのは卑弥呼だったはず。
ならば卑弥呼も志賀島にいなければいけない。

76:日本@名無史さん
19/12/11 08:51:02 .net
>>70すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝~応神朝~継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植�


77:B阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など) 桓武朝=9世紀(平安時代) まとめると、 九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京) 大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)



78:日本@名無史さん
19/12/11 08:54:43 .net
>>70
どうやら、九州の土地勘にうといお人柄だね。
仙台平野なんてのはちっぽけな半農半魚の川辺のど田舎
肝心の肥後の南半分を占める広大な球磨盆地の重要性がスッポリ抜け落ちてるな

肥後国11郡の中では球磨郡が最大勢力を誇っていた。
その主邑は球磨盆地(人吉盆地)だが、奈良平野と同じだけの広さがある。
しかも弓武術に優れた古代久米族の本拠地で、三世紀・呉製造の鍍金銅鏡が出土し、呉との太い絆・交流も想定されている。

狗奴国(球磨国)はここに比定すべきだよねえ。

79:日本@名無史さん
19/12/11 08:56:03 .net
>>73
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の?景行?成務?仲哀、応神朝(邪馬台国)?応神(息子)?仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
URLリンク(ja.wikipedia.org)

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、超巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

80:日本@名無史さん
19/12/11 12:43:46.03 .net
倭人伝に照合すれば、記紀の崇神~神功皇后までに関する
卑弥呼に重複した九州の話については、存在しえないファンタジーw
応神時代に、九州は東遷ではなく本州勢力と統合し、
この本家筋は中央貴族として、纏向建国に参入した。
これが魏の半島侵略による卑弥呼時代の
239年公孫氏滅亡、246年馬韓王朝滅亡という、東夷覇権の危機感によって
富国強兵に向かった、古代日本の姿であることは明らかである。
邪馬台国の従魏晋政策では、313年の漢四郡消滅は無理で
楽浪帯方軍は余裕で南下してしまう。

81:日本@名無史さん
19/12/11 12:49:05 .net
>>76
>この本家筋は中央貴族として、纏向建国に参入した。

時代錯誤の妄想は楽しかろう。
まったく無意味だが。

82:日本@名無史さん
19/12/11 13:05:02 .net
>>58
>ある種の“禅譲”を必要とした

その禅譲を受けずに楽浪郡へアポなしで朝貢願いしたのが帥升、ということで。

83:日本@名無史さん
19/12/11 13:16:21 .net
>>74
肥人と隼人が組んだことがあるかどうかだね。
人吉の久米は神武と同行したように隼人系。
菊池、熊本、八代は肥人系。
人吉の久米が筑後の山門を攻めようとしたら、どうしても熊本などの肥人と組む必要がある。
隼人系と肥人系が組んだかどうかだよね。

84:日本@名無史さん
19/12/11 13:16:51 .net
馬韓王なんていたんだ

85:日本@名無史さん
19/12/11 15:47:27 .net
>>79
そういうことだね
つまり、倭人伝の舞台だった三世紀において、
組んでいたのであれば味方同士。対立してれば、まさしく肥人の邪馬台国 対 隼人の狗奴国。

86:日本@名無史さん
19/12/11 15:53:52 .net
中国史書による半島の歴史

箕氏朝鮮は衛満に追われ韓に渡って韓王を名乗った。

この韓王は馬韓にあったが、246年に魏の帯方郡に討たれ断絶
以降、魏は馬韓、辰韓の王を廃して、臣智以下による直轄領とした。

この時、帯方太守は戦死し
魏の将軍位にあった難升米は、魏の正規軍としての檄を受けたが参戦しなかった。 卑弥呼は狗奴国との戦争で忙しいと言い訳したら、張政が視察に来たwww

この韓への魏の直轄は、漢四郡撤退の313年迄続いたが、
倭人国だった弁韓(後の加羅、任那)には王が有り
この後馬韓辰韓の復興を後援し、高句麗を追いつつ350年百済新羅を建国した。

この倭人伝での経緯では従魏晋の筑紫王卑弥呼が半島進出を企てられる道理は無い。

247年卑弥呼以降の九州は、本州勢力と軍事統合し、
対魏晋の防衛の為、統一日本は半島進出と富国強兵政策に転換した。

87:日本@名無史さん
19/12/11 16:12:48 .net
臣智って現地の首長に与えられた称号でしょ

88:日本@名無史さん
19/12/11 16:22:21 .net
>>78
それは違うと思うよ。

89:日本@名無史さん
19/12/11 16:23:37 .net
>>81

隼人は投馬国(宮崎)だから、魏志倭人伝からは中立に読める。

90:日本@名無史さん
19/12/11 16:26:25 .net
>>82
>魏の将軍位にあった難升米は、魏の正規軍としての檄を受けたが参戦しなかった。

儀礼的な位だろ。

>倭人国だった弁韓(後の加羅、任那)には王が有り

倭王とは別に王がいたなら、倭の領土ではない。

91:日本@名無史さん
19/12/11 16:34:40.77 .net
>>83
「大者自名為臣智」
と韓伝にあるので自称ですね

92:日本@名無史さん
19/12/11 16:53:01 .net
>>85
隼人が宮崎とは初耳だ。
九州では薩摩隼人で通っているからね。

93:日本@名無史さん
19/12/11 17:12:44 .net
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権

94:日本@名無史さん
19/12/11 17:22:22 .net
>>86
倭と言うのが国名ではなく海の東南の列島全ての事。漢時、百国以上。
だから、倭人伝は村でも港でも何でも国。 で、30国。

240年梯儁の印綬での調査時は女王国加盟参問21国で可7万戸が女王国。
この総称は無かったから、倭国王ではない邪馬台国の王が女王卑弥呼だった。

範囲は、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
糸島~福岡~筑紫です。

三国志の難升米将軍?
魏の将軍位は、戦国時代であって、儀礼的ではなく同盟。
これで後方の東夷安定で、蜀を滅ぼした。

戦国時代の王と言うのは、
筑豊薩長土佐でも上信越奥でも領主の事。

古代は、半島は未統一の韓であって朝鮮じゃない。
地域名の朝鮮は、遼東半島周辺。 
漢四郡設置で半独立の朝鮮王公孫氏も韓には不可触。

半島南部は朝鮮じゃない。 韓半島が正しい。
つまり、朝鮮民族なんて無い。

95:日本@名無史さん
19/12/11 17:33:10.77 .net
>>88
文献などでは大隅隼人がいるが、都萬(宮崎)隼人は聞かんな。
都萬あたりは景行天皇が大隅隼人の討伐の根拠地にしているくらいだから、宮崎隼人はないのとちがう?

96:日本@名無史さん
19/12/11 18:08:08 .net
>>91
それは時代が違うから。
景行は敵味方の区別が怪しい暴れ者だし。
隼人は海幸の末裔だから、天孫や天照の末裔でもある。

97:日本@名無史さん
19/12/11 18:16:50 .net
倭人伝に日本神話を張り付けているのか。
ま、楽しいだろうな・・・、

98:日本@名無史さん
19/12/11 18:23:04.65 .net
同じ倭での出来事を記録しているのだよ?
どこかに接点がないとおかしいだろ。

99:日本@名無史さん
19/12/11 18:32:26 .net
同じ倭でも、数世代時代が違えば接点には乏しいが、時代が同じなら多くの接点はある。
問題は、ほんとうに時代が同じだったかどうかに絞られるな。

100:日本@名無史さん
19/12/11 19:12:47 .net
倭猿はカエルを喰ってやがったwギャハハw

あまりにも惨めw

やっぱり邪馬台国は畿内で決定www

思いあがった日本人どもに本当の歴史を教えてやるぜw




     by キナイコシ

101:日本@名無史さん
19/12/11 19:33:55 .net
>>72
卑弥呼が使ったのは魏からもらった新しい金印だろ
後漢の古いのは用済みだから伊都国が持ってても問題ない

102:日本@名無史さん
19/12/11 19:42:27.35 .net
>>66
そうやって水行陸行をひと繫がりのルートとするのは誤読だってすでに判明しているのにそのテンプレもどき必要か?
> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない
>
> 【用例】
> 通鑑釋文辯誤卷六
> URLリンク(www.kanripo.org)
> >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
>
> 【嘉興府志】
> URLリンク(wenku.baidu.com)
> >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

103:日本@名無史さん
19/12/11 19:45:18.82 .net
>>98
それは間違ってるね。
A地点→B地点を水行陸行それぞれで記した文章と、
A地点→B地点を水行、B地点→C地点を陸行、で別々に記した文章とを混同している。
あんたの負けだ。

104:日本@名無史さん
19/12/11 20:01:39 .net
>>97
畿内纒向説の破綻に伴い、
原田大六が唱えた伊都国糸島説も連鎖破綻した。

105:日本@名無史さん
19/12/11 20:02:17 .net
死せる孔明 卑弥呼を… 古賀 英毅
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)
魏志倭人伝は約2千字の漢字で記される。正史「三国志」にある各国伝の中で最長だ。
渡邉教授によると、三国志以外の中国正史では倭の記述が最長のものはないそうだ。
「邪馬台国という“大帝国”がはるばる貢ぎ物を持ってきたのは仲達の功績。だから編者の陳寿は倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。

三国志は仲達の孫、司馬炎が建てた西晋の時代に作られる。仲達は「高祖」と追号され「王朝の創始者」になる。皇帝と同格だ。
中国の皇帝はその徳を慕って異民族が貢ぎ物を持ってくるとされる。邪馬台国の遣使は、仲達が皇帝と呼ぶにもふさわしいことを証明する
絶好の素材だった。仮に公孫氏を滅ぼしたのが仲達でなかったら、倭人伝は重視されず、卑弥呼は歴史に残っていないかもしない。

106:日本@名無史さん
19/12/11 20:03:19 .net
>>99
そんな意味不明な負け惜しみを書かれましてもw

107:日本@名無史さん
19/12/11 20:21:29.97 .net
>>69
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

108:日本@名無史さん
19/12/11 20:23:40.04 .net
>>98を踏まえて魏志倭人伝をよく読むと、倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えていることに気付く
わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . ┃
ルート分岐① ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐② ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 投馬國
ルート分岐③ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┗→ 邪馬壹國
という構造

109:日本@名無史さん
19/12/11 20:23:58.68 .net
>>102
文章がまるきり雑然としてるな。
散らかし放題のごみマンション暮らしみたいな感じだ。少し整理整頓したらどうだ。

110:日本@名無史さん
19/12/11 20:26:37.13 .net
>>105
>>102

111:日本@名無史さん
19/12/11 20:39:29 .net
104
> 動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
> ルート分岐
>? ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國

奴国の場合は、距離と方位の起点が前段の伊都国から移動しなかったのであるから、
移動しなかったはずの奴国を起点にしてその次の不彌国を決めるというのは論理矛盾で解せぬ。
キミの原則に従えば、だれが読んでも伊都国から東に行くと不彌国でなくてはならぬ。

ま、どうせ想定される現地に合わせて小細工してるんだろうけどな。

112:日本@名無史さん
19/12/11 21:13:29 .net
>>102
あんたが示しているのは
2点間の移動について、水行と陸行を並記したもの。
A→(水行陸行)→B

魏志倭人伝の行程は、
A→(水行)→B→(水行)→C→(陸行)→D
のように、地点が連なっている。

文法すら理解できずに
間違った引用をして恥ずかしくないのかね?

113:日本@名無史さん
19/12/11 21:16:08 .net
>水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である

魏志倭人伝のどこに、「水行●●陸行▲▲」という表現があるのだろうか



赤っ恥~♪

114:日本@名無史さん
19/12/11 21:45:21 .net
>>64
反論するなら最低限の漢文読解力を身に着けてからにしたほうが良いぞ無能

115:日本@名無史さん
19/12/11 22:07:33 .net
>>110
>伊都は女王国に属している国であって女王国ではない

どの部分のこと?

116:日本@名無史さん
19/12/11 23:25:13 .net
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))

  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

117:日本@名無史さん
19/12/12 04:15:37 .net
>>93
おっと。
まあ、倭人伝の投馬国は、鹿児島県の今の南さつま市阿多だよ。
万之瀬川の河口あたりだ。
そして、ここが伊弉諾が禊して天照や素戔嗚の神さんを生んだところだ。
倭人伝と日本神話がクロスする唯一の舞台だ。
ちなみに、宮崎の日下部さんはここの出身だけどな。
とすると、日下部さんは隼人の出だということになる。
おっと、倭人伝だったな。

118:日本@名無史さん
19/12/12 06:36:08 .net
>>113
「日下姓の起源」

古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。

日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。 

「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。

勿論、日本書紀にも出てくる。

阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。

徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。

香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。

このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、

この日下姓をとってみても、記紀は四国地方を記したものと言える。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

119:日本@名無史さん
19/12/12 06:43:16 .net
司馬懿のドラマで昨日とうがいが屯田の為、田を計ってたけど一歩は1・38だったから百歩は138メートルだよ

120:日本@名無史さん
19/12/12 08:02:21 .net
> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない

中国大陸においては、これを分断する大海はないのであるから、
水行○○、陸行○○の記述は、事実上、河川水行もしくは陸上陸行のケースに限定されるといっても過言ではない。

しかし倭は帯方東南大海の中であるから、倭へ至るには大海を渡らざるを得ない。
また島国であるから、海を渡り、川を渡った後に、また島を歩いたかもしれない。

中国大陸のしかも他の時代の文章をベースにおき、
これを絶対のものとして、安直に倭人伝を従わせようとするのは妥当な思考方法ではない。

121:日本@名無史さん
19/12/12 12:42:19 .net
だから卑弥呼の墓は百位無いとダメだね。行程は伊都国到で後は至るだから共立の首都は伊都、で伊都から水行なら十日、歩いて行けば一月が都 、だからたぶん宇佐。現実三月で陸一月は統治出来ない。宇佐なら西日本の中心位だし、やがて東遷して中心をずらしたんだよ。

122:日本@名無史さん
19/12/12 15:14:02 .net
間違えた水30日陸一月ね。舟漕ぐしかない時代に 畿内は遠すぎるし、百か国の時代デカすぎる。

123:日本@名無史さん
19/12/12 15:38:44 .net
>>114

泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

124:日本@名無史さん
19/12/12 17:05:39.46 .net
>>114
記紀の日下って港じゃない?

125:日本@名無史さん
19/12/12 17:10:34.63 .net
>>120
どのみち、記紀は倭国(阿波)の記述だから。   @阿波

126:日本@名無史さん
19/12/12 18:04:09 .net
邪馬台国には南水行20日の投馬國から、南水行10日で上陸した。
末盧國、伊都國、奴国、不彌國は、九州北岸域である。
これらが想定できる場所から、いずれも南に水行は出来ない。

そもそも、船は末盧國で下船しているから無い。 瀬戸内海フェリーの想定かwww
文法論の張先生説の末盧國起点はある意味正しいのだが、
文法をこじつけても南を読み替えちゃったら畿内説以下だ。

帯方郡から
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸

この2国は、都市間の距離を里程で示した地名ではなく、
人口も有ではなく可で示した国名。 
邪馬台国は筑紫、次有21国で7万戸で此女王境界所盡。

女王国=邪馬台国には投馬国入国地点から、水行10日で上陸した。
女王の都とする処には、さらに陸行1月を要した。

都市間を里程で示した行程とは明らかに別の話であって
これは、240年の梯儁と247年の張政の記録が併記されている。

倭人船で寄港地の里程を残した張政は伊都までしか来ていないし、
魏の軍船で半島西岸も初探検の梯儁は、卑弥呼王宮で金印を渡している。

日本の王が瀬戸内海を往来できるようになったのが
これ以降なのに、梯儁が自前の魏の軍船で畿内の王に謁見できてたら
日本は不沈空母でもなんでもなく、半島同様の奴隷収奪地だろ?

日本古代王朝ってのは、魏が公孫氏と韓王を滅ぼした
250年でも湾岸から奈良に遷都するほど臆病なんだぞ?
難波に降りたのは、313年漢四郡撤退以降だよ。

127:日本@名無史さん
19/12/12 18:09:06 .net
>>122
>これらが想定できる場所から、いずれも南に水行は出来ない。

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

128:日本@名無史さん
19/12/12 18:30:27.63 .net
伊都ってのは、博多の西麓で多分湾岸含む早良。
末盧国ってのは、糸島北岸しかない。
そんなとこで張政が降ろされた理由は
卑弥呼の墓があった、首都港を軍事上見せたくなかった。の二択。
卑弥呼の墓は、150m日本史上最初の巨大古墳。
しかし、1年かかってないw 最初だし・・・
この後、日本は対魏晋の富国強兵政策で半島進出
牛馬の移入、鉄の国内生産を成功させているのである。
梯儁の軍船は、呼子唐津どころか糸島でもマヌケであって
博多湾に入るに決まってる。 
風で宗像?土井ヶ浜~呼子についても、徒歩の必要は無い。
船は海流や風と無関係に最後は博多湾に入るに決まってる。
@阿波は、相手にしないで良いから。。。

129:日本@名無史さん
19/12/12 18:48:10.43 .net
>>124
>船は海流や風と無関係に最後は博多湾に入るに決まってる。
対馬海流に流されて、末盧国は福津・宗像方面に決まっている。  わははははは   @阿波

130:日本@名無史さん
19/12/12 19:12:21.03 .net
船は目的地が何処か?
壱岐を出ると自然条件で、呼子~出雲としても
博多に帰ってこないと、仕事じゃ無いし帰る港は釜山だろ?
基本的には経験値で帰国が難しいだけの話だけど
呼子から流されても良いけど、
呼子まで行けば、五島から済州島、長江河口ルートも有るんだよ?
邪馬台国に丹の輸出は無い、でも言ったけど、
@阿波は相手にしない方が良いw

131:日本@名無史さん
19/12/12 19:33:35 .net
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

URLリンク(wi12000.starfree.jp)

132:日本@名無史さん
19/12/12 19:52:02 .net
>>126
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)   

大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由  大陸への出航地(平戸市周辺)

大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

133:日本@名無史さん
19/12/12 20:07:47 .net
>>126
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)   

大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由  大陸への出航地(平戸市周辺)

大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  

因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、

一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。   @阿波

134:日本@名無史さん
19/12/12 21:50:39 .net
>>107
>奴国の場合は、距離と方位の起点が前段の伊都国から移動しなかったのであるから、
>移動しなかったはずの奴国を起点にしてその次の不彌国を決めるというのは論理矛盾で解せぬ。

君が論理を理解できてないだけ
起点というのは距離と方位の測定起点であって測定者の移動を意味しない
伊都から不彌国まで移動するのであれば間に奴国を挟む意味が無い

135:日本@名無史さん
19/12/12 21:53:33 .net
>>109
南至邪馬壹國 女王之所都 【水行十日陸行一月】

恥晒しは君一人だよ

136:日本@名無史さん
19/12/12 21:55:07 .net
>>108
>魏志倭人伝の行程は、
>A→(水行)→B→(水行)→C→(陸行)→D
>のように、地点が連なっている。

南至邪馬壹國 女王之所都 【水行十日陸行一月】

連なってませんが何か?

最近湧いてきたこの糞レベルの低いアホは畿内説なのかね?

137:日本@名無史さん
19/12/12 21:58:48.15 .net
>>116
地形がどうであろうとも文法が変わるものではない
でないと地形を知らない者には読めない文章となってしまう
複数の実例が示されている以上、水行●●陸行■■は
「水行ならば●●掛かり、陸行ならば■■掛かる」以外の読み方はできない

138:日本@名無史さん
19/12/12 22:24:37 .net
筑紫神社
URLリンク(genbu.net)
> 祭神は、五十猛神とも白日別神とも云われ筑紫の国魂である筑紫大明神。
> 後に、玉依姫命と坂上田村麿の霊を配祀した。
>
> もとは、筑紫の城山山頂に鎮座していたが、後、麓に移転したという。
>
> 『筑後國風土記』に、「筑紫」の語源として以下の話がある。
> 昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、
> 麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。
> 筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女として、その神を祀らせた。
> それ以後、人々が殺されることはなくなった。

五十猛が安曇磯武良と同一神であることは過去スレで既出だが、この神が筑紫の国魂として祀られている
そしてこの神が荒ぶって大勢の人が死んだので、筑紫と肥の君らが巫女を立てて鎮めたたというのは
まん


139:ま倭国大乱からの卑弥呼共立を指しているように思える



140:日本@名無史さん
19/12/13 01:55:11 .net
>>121
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

141:日本@名無史さん
19/12/13 01:55:44 .net
>>123
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

142:日本@名無史さん
19/12/13 01:56:41 .net
>>125
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

143:日本@名無史さん
19/12/13 01:57:11 .net
>>128
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

144:日本@名無史さん
19/12/13 01:57:19 .net
>>129
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

145:日本@名無史さん
19/12/13 02:07:51 .net
>>114
>古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある

この(くさか)に「日下」の字を当てるその理由が不明らしい。
いろんな説があるが、日本書紀神武紀の初めのほうに「河内国の草香邑の…」とあり、この草香邑は現在の東大阪市日下町あたりだとみられていて、日下(くさか)の元々の字はこの草香(くさか)だとされている。
草香になぜ日下の字が当てられたのかが学者の頭を悩ませている難問なのだ。
この難問に挑戦すると、日下の字が当てられた理由としては、次のことが考えられる。
埼玉県に草加市があり、草加の読みは(そうか)だが、これは元々は(くさか)だと思われる。東大阪市の草香(くさか)と同じだ。
この草加市の地形をみると、中川や綾瀬川などの大河の堤防に囲まれた土地だという。
東大阪市の草香も生駒山から流れ下る川の堤防の間にできた扇状地で、昔はすぐ西に河内湖の港があった。
つまり、この草香邑は生駒山と川の堤防と海に囲まれた場所だということになる。
埼玉県の草加市も東大阪市の草香邑も高い土手に囲まれた低地なのだ。
そして、その低地の土手の上には日が射していて、そして低地部分はやや暗い日陰になる。
この日陰という意味が(土手の上にある日よりも下にある低地)、つまり日下(ひのした)という表現になる。
これが日下の字の由来だろう。
このことからすると、草香(くさか)、草加(そうか=くさか)という地名は(川の土手に囲まれた低地)という意味であることが推測されるのだ。
この推測が正しいとすれば、ではなぜ川の堤防に囲まれた低地のことを(くさか)というのかという語源については、おそらく(くさ=草、か=場所)であり、(草が生い茂る場所)という意味だろう。
まあ、日下→草香→謎の語源は、たぶんこういうことだろうな。

146:日本@名無史さん
19/12/13 09:01:14.11 .net
このところ、九州説は元気が良いらしい。
いつ見ても上位にかおを出してるじゃないか。結構なことだ。

147:日本@名無史さん
19/12/13 18:32:27.37 .net
>>129
>狗邪韓国(順天)
倭人伝の「狗邪韓国に至る」の停泊地は固城。^^

148:日本@名無史さん
19/12/13 18:37:37.56 .net
倭人伝の「狗邪韓国に至る」の停泊地は順天。^^     @阿波

149:日本@名無史さん
19/12/13 22:12:52 .net
>>134
筑前と筑後の境界っていうと現在の筑紫野市、太宰府市あたりか
その北側は伊都国の一大率が監督していたエリアだな
それがイソタケル=伊都王か
またひとつパズルのピースが埋まったな

150:日本@名無史さん
19/12/13 23:22:26.41 .net
>>127
>此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり
この「笠沙の御前を真来通り」の主格がよく分からないな。
「韓国に向ひ」の主格は「此の地」であるので文章としては問題ないが、それに続く「笠沙の御前を真来通りて」とはいったい何が「真来通る」のか、文意が伝わらないへんな文章だ。
この古事記の文章の整合性のなさと比べると、日本書紀のこの箇所の記述はごく普通に文意が通るものとなっている。
古事記のこの文章は、日本書紀の文章を故意に変更したもののようにみえる。

151:日本@名無史さん
19/12/13 23:46:12.74 .net
>>127
福岡の高祖山が高千穂だとすると、天孫はどっから来たんだ?

152:日本@名無史さん
19/12/14 00:32:02 .net
>>145
「この地」は、笠沙岬に道が通じている

153:日本@名無史さん
19/12/14 02:36:27.97 .net
>>147
>「この地」は、笠沙岬に道が通じている
笠沙の岬を真木通りて→笠沙岬に道が通じている。
上の訳からすると、「真木(まぎ)」の意味が不明になる。
この古事記の「真木(まぎ)」と同じ発音は、日本書紀では「頓丘(ひたお)から国覓(くにまぎ)行去(とおりて)」の「覓(まぎ)」となっていて、
この日本書紀の「覓(まぎ)」は(求めて)の意味だとされている。
そこで「国覓(くにまぎ)」は(国を求めて)の意となる。
古事記の「真木(まぎ)」は日本書紀のこの「覓(まぎ)」と同じだと思われるので、「笠沙岬を真木通りて」は(笠沙岬を求め通りて)となり、
主格の「この地」を付けると(この地は笠沙岬を求めて通り)の意となり、文意が不明ということになる。
そして、このあとに続く「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」の文にもつながって行かないへんな文章となってしまう。
古事記の文がちゃんと意味が通じるものであるのなら、「真木(まぎ)」の意味をどのようなものとして使っているのかということになり、
「真木(まぎ)」の意味を明らかにしなければならなくなる。
「古事記(現代語訳・口語訳の全文)」のサイトでは、この箇所の「真木(まぎ)」を(まっすぐに)と訳している。
しかし、古語の「真木」はスギやヒノキのことであり、「真木柱(まきはしら)」は(太く立派な柱)のことだという。
なので、「真木(まぎ)」には(まっすぐに)という意味はみあたらず、
古事記の「真木通りて」は、どうにもヘンだということになってくる。

154:日本@名無史さん
19/12/14 04:01:43.98 .net
>>142
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

155:日本@名無史さん
19/12/14 06:46:18 .net
>>149

大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)   

大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由  大陸への出航地(平戸市周辺)

大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  

因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、

一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。   @阿波

156:日本@名無史さん
19/12/14 07:43:26.55 .net
「真来」だし

157:日本@名無史さん
19/12/14 08:05:32.63 .net
>>127
>此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり
此の地は、(北は)韓国に向ひ、(南は)笠沙の御前を真来通り、(東側は)朝日の直刺す国、(西側は)夕日の日照る国なり
意訳だが、要するに上のようにのべているのではないか。
つまり此の地とは九州島のことで、降臨したのは九州島ほぼ中心の阿蘇東麓・高千穂邑
で、真来通りは、韓国に向ひと対をなす句(向かひの別表現)であろう。

158:日本@名無史さん
19/12/14 08:05:36.98 .net
>>127
天孫降臨の場所は古事記と日本書紀で記述が異なり、どっちがどうなのかなんて決めようがないが
そもそも大和言葉では多気は岳で使う場合もあるが、滝で使う場合もあり、久士布流多気が岳なのか滝なのか推測することすらできない。
宮崎県高千穂説だと、高千穂峡の真名井の滝にでも当てるのではなかろうか?
古事記にしろ日本書紀にしろ、その後の話しまで読めば、筑紫の日向の高千穂が北九州ではないことは理解できる。
天孫降臨の地とは何か?
天孫であるニニギが高天原から天降り着地した地点であって、それ以上の意味はない。
ニニギは天降った後嫁取りをしているが、ニニギの妻のコノハナサクヤヒメは別名カムアタツヒメ。
吾田の都(もしくは津)の姫という意味。
吾田というのは、今で言う鹿児島県を指す地名。
日本書紀ではもっとはっきりと、ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが
ニニギの一族は南九州を拠点とした一族であり、卑弥呼や邪馬台国に絡めるなら、卑弥呼と敵対した側の勢力だろう。

159:日本@名無史さん
19/12/14 08:19:43 .net
ひた‐お ‥を【頓丘】

〘名〙 「お」は丘の意で、 ひたすらに続いた丘。ただ丘ばかり続く地形。

阿蘇から
北を見れば韓国に向かい、南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ)行去(とおりて)・・・

160:日本@名無史さん
19/12/14 08:28:26 .net
>>154 つづき
154のように読めば、
南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ=杉)行去(とおりて)・・・となり、
ひたすら続く南九州特有の巨大な縄文スギの林の中を通りて笠沙に至る・・、というような意味ではないか。

161:日本@名無史さん
19/12/14 08:31:51.49 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが

剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

162:日本@名無史さん
19/12/14 09:35:39 .net
>>156
瓊瓊杵尊笠狭宮跡
URLリンク(goo.gl)

163:日本@名無史さん
19/12/14 09:58:48.37 .net
>>157
地図など、どうでもいいからwww   わははははは   @阿波

164:日本@名無史さん
19/12/14 11:14:36 .net
痴呆老人共の巣窟

165:日本@名無史さん
19/12/14 11:16:33 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが


剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

166:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:16.25 .net
>>150
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

167:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:31.65 .net
>>156
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

168:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:40.54 .net
>>158
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

169:日本@名無史さん
19/12/14 11:39:22.16 .net
>>160
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

170:日本@名無史さん
19/12/14 12:35:05.87 .net
>>158
諦めろ
古事記、日本書紀のどちらもニニギが居を定めたのは吾田で揺るがない。

171:日本@名無史さん
19/12/14 15:07:24.83 .net
>>152
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
ウェブの古語辞典をみると、真木に(向ひ)の意味はみあたらない。
この真木(まき・まぎ)と同じ発音の語彙は、日本書紀の古事記と同じ文脈の個所にある覓(まぎ)。
この覓(まぎ)は、求めて、あるいは探しての意味。
日本書紀のこの一節を古事記が故意に書き改めたと考えれば、真木の意味が文脈上解釈不能である理由が分かる。
この視点からすれば、古事記の「韓国(からくに)」は日本書紀の「空国(からくに)」の故意の書き換えだとすることができる。
とすれば、古事記の天孫降臨のこの一節に立ってする地理的比定は無駄ということになってくる。
天孫降臨の地の地理的比定は日本書紀の記述に基づいて行うのがよく、その比定地は霧島連山に当てるのが正解。

172:日本@名無史さん
19/12/14 16:14:55.72 .net
>>152
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
「韓国に向かひ」は、この地の北面はかくかくしかじかであるという説明である。
依って、これに対をなすとは、
「また、この地の南面は斯く斯くしかじかである」という地理的あるいは地誌的説明なのであろう。

173:日本@名無史さん
19/12/14 16:43:58.50 .net
>>167
>かくかくしかじか…
とはいうものの、(真木)の解釈が不能であることに変わりがない。
天孫の由来に関わる重要な一節で、古事記ともあろう史書が意味不可解な語彙を用いるのは極めて不可思議なこと。
唯一理解可能な解釈は、古事記のこの一節が故意に日本書紀の同箇所を書き換えたものであるということ。
なぜ書き換えたのかという点はまた別の話になるが、書き換えたことが事実であれば、古事記による天孫降臨の地理的理解は誤りだということになってくる。
この(真木)の語彙は、かくかように極めて重要な一語となっている。

174:日本@名無史さん
19/12/14 17:04:32.33 .net
一般には、古事記が先で、
これをもとに日本書紀が時の朝廷の都合に合わせて手を入れ、完成されたとされている。。
で、真木(クニマギ)は、、
南九州特有の古代巨木杉に覆われた山丘ということで良かろう
これは阿蘇谷杉、飫肥杉、都城杉などのように、今もその面影を見ることができる

175:日本@名無史さん
19/12/14 18:15:58.64 .net
>>169
普通に歴史の時間に寝てなかったら、古事記が日本最古の歴史書で、その8年後が日本書紀ってのは学校で習ったろ。
古事記と日本書紀の編纂過程の違いも授業で聞かなかったか?
古事記は稗田阿礼が誦習した帝紀と旧辞を筆録したもの。
日本書紀はもっと大量の古い記録をひとまとめにしたもの。

176:日本@名無史さん
19/12/14 18:24:15.65 .net
>>169
>一般には、古事記が先で
古事記はダイジェスト版なので完成が早かった。
出発点は同じ。
古事記の編纂者は、日本書紀の編纂所に出入り自由だったようにみえる。
日本書紀が編集完了した天孫降臨や日向神話などを自己の編集目的に沿って書き換えたり、資料選抜を行ったフシがみえる。
だから、天孫降臨や日向神話を独自に日本書紀のそれよりも早く完了していたようには思えない。
むしろ、日本書紀のその部分のほうが古事記のそれよりも先に編集が完了していたと思うね。
それを見ることができた古事記の編纂者は、自分の都合によって、その日本書紀の記述を書き換えたことが推測される。

177:日本@名無史さん
19/12/14 18:33:35.56 .net
>>170
江戸時代の国学者が古事記を崇拝したから、教科書を編した学者も古事記のほうを持ち上げただけ。
そして、それを教えた先生もそれを教えてもらった生徒たちも、単にそう思い込んでいるに過ぎない。
古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
しかし、それをしつこく追及していると、いろいろとややこしい話になってくるので、それ以上詮索しないようにしているわけ。

178:日本@名無史さん
19/12/14 19:04:34.40 .net
>>153
>ニニギは天降った後嫁取りをしているが
この点が最重要の部分。
日本書紀では、ニニギは吾田族の土地に住んで、そこの神の娘と婚姻して婿入りする。
一方、古事記では、ニニギは降臨した山上に留まってそこに宮殿を造営し、笠沙御前に遊んだおりに木の花咲くや姫と出会って婚姻して嫁取りする。
吾田が鹿児島県にあることは賛成だが、上の通り、日本書紀と古事記ではこれだけの違いがある。
婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
そして、そのように、古事記は日本書紀とは別の物語を書いたということになってくるわけ。

179:日本@名無史さん
19/12/14 20:25:15 .net
「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   @阿波

URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

180:日本@名無史さん
19/12/14 20:33:00 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが


剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

181:日本@名無史さん
19/12/14 20:37:15 .net
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   @阿波

URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

182:日本@名無史さん
19/12/14 20:38:25 .net
さが平野をさがせ、、

さが平野をさがせ、、

さが平野をさがせ、、

183:日本@名無史さん
19/12/14 20:39:51 .net
日本(日本人)の話ではないんだけど、どういう事なの?
ほとんどウラシマンの家の話でしょ。

184:日本@名無史さん
19/12/14 22:37:17 .net
>>160
徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?

自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた

というものだから・・うーんw

185:日本@名無史さん
19/12/14 22:40:24 .net
>>179
>徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?

その通り。   @阿波

186:日本@名無史さん
19/12/14 22:42:05 .net
>>177
奈良を掘りまくってあれだったから勢いづいてるんだろうけど
佐賀平野なるものが作られたのも邪馬台国より後でしょうよ

187:日本@名無史さん
19/12/14 23:28:50 .net
佐賀平野って人工的に作られたの?

188:日本@名無史さん
19/12/15 02:42:30 .net
>>169
>真木(クニマギ)は、南九州特有の古代スギに覆われた山丘ということで

そんなのマギ?
マジ?ノシャレナ。

189:日本@名無史さん
19/12/15 06:59:18.00 .net
>>183
唯一マジは
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)
大吉野川をはさんで
邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

190:日本@名無史さん
19/12/15 08:32:12.54 .net
>>183
マギーさんというわけではない。
古代史というと、とかく王朝の政治・軍事というような王権文化的な思考で読みたがるようだ。
しかし記紀や倭人伝を読んでみると、
古代人が巨大な恩恵を受けていた、或は、脅威を被っていた大自然に対する畏敬の部分もたくさんある。
現代人がすっかり忘れてしまっているぶぶんだ。
古代の佐賀平野は、その東端から西端まで、巨大なクスノキの杜が連なっていたようだ。
古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた。
(今も佐賀平野筑後平野には、小さいけれどもクスノキの杜を見ることができる)
みなみ九州も同様だったのであろう。
雨が多くて湿潤温暖な南九州では、水気の多い場所には良く杉が


191:立つ。今でも都城は全国トップレベルの杉の産地である。 伐採する人も道具もなかった古代には 数百年・数千年の巨大杉の森が見渡す限り連なっていたことであろう。 古代人はその景観の中、巨樹の下を通り抜けて笠沙行去することを「真木通る」と記載したのであろう。、 。



192:日本@名無史さん
19/12/15 08:42:57 .net
また杉作(不明)の話をしているの?

193:日本@名無史さん
19/12/15 08:45:47 .net
おまいは偽を(奉って)祀っているんだよ、
というのも有名な話みたいだしな。

ネットなどでも、
どこそこ()は偽の~~~を、まつっているとか。

194:日本@名無史さん
19/12/15 12:21:27.81 .net
佐賀中心部にある与賀神社には
樹齢1400年以上
一説には1600年以上と言われる
クスノキが天然記念物として
指定されていますね。

195:日本@名無史さん
19/12/15 12:42:38.54 .net
日本書紀だったかな、
佐賀平野の中央にはクスノキの巨大な古木があって、朝日の影は平野の西端に届き、夕日の影は東端まで届いた・・、という旨の記事がある。
これは1本の巨大樹のことではなく、楠木の杜が東西に連なっているさまを劇画的に述べたのであろう。
与賀神社の推定樹齢1600年委禱ともいわれるクスの古木は、卑弥呼のころに芽を出した若木だったというわけだ。
歴史の証人に感激!!

196:日本@名無史さん
19/12/15 12:48:46.67 .net
>>189 の訂正
与賀神社の推定樹齢1600年以上

197:日本@名無史さん
19/12/15 12:57:19.78 .net
1400年だったら西暦600年
サバ読んで1600年でも西暦400年じゃないか
卑弥呼だと1770年前だぞ
100年以上もちがう

198:日本@名無史さん
19/12/15 13:13:53.57 .net
そうかそうか、気になるか。
ま、いずれにせよ、そのタネをもたらしたクスノキの親樹の並木は、当時既に相当の古木ばかりだったことであろう。
樹の下を行去する弥生時代・古墳時代の人々を見下ろしつつ、タネを撒き続けてきたのであるが、
其のうちの壱の若木が、運よく今の与賀神社に至ったというわけだ。

199:日本@名無史さん
19/12/15 14:48:28 .net
>>185
>古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた…「真木通る」と記載した

クスノキの幹下の薄暗い獣道をずっと佐賀平野から都城を通って、屋久島まで詣でに行くのが「真木通る」かもな~。

200:日本@名無史さん
19/12/15 15:09:24 .net
>>192
>運よく与賀神社に至った

与賀神社の祭神の与止日女神は神功の妹だそうじゃないか。
北部九州では神功が人気だな。
枕詞みたいに神功を神さんに箔付けしているし。
新羅を討った神功は北部九州では英雄なんかもな。

201:日本@名無史さん
19/12/15 15:13:29 .net
>>176
>こういう事実を…

阿波人(忌部)は異常な収集癖だな。
阿波には収集癖の神さんはいないのか? ^^

202:日本@名無史さん
19/12/15 16:26:14.14 .net
>>148
>しかし、古語の「真木」はスギやヒノキのことであり、「真木柱(まきはしら)」は(太く立派な柱)のことだという。
杉や檜は真っ直ぐな木なので建材に用いられる。
まっすぐという古来からの解釈はおおむね外れていないと思う。
ならば、天孫降臨後は韓国からまっすぐ上陸した博多湾沿岸で良いだろう。

203:日本@名無史さん
19/12/15 16:28:30.94 .net
>>172
>古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
昭和の末期に著書の安麻呂の墓が見つかって、序文の正しさは証明されたぞ。
何周遅れの議論をしているのか。

204:日本@名無史さん
19/12/15 16:30:57.67 .net
>>173
>婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
高祖山なら博多湾に面している。
そしてその麓には木花佐久夜毘売を祭る細石神社がある。
高祖神社の祭神は、日向三代の称号である彦火火出見だ。
母親である木花佐久夜毘売の細石神社まで御神渡りする神事もある。

205:日本@名無史さん
19/12/15 16:32:53.74 .net
>>179
>自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた
天孫は戦わずに王として迎えられた。
猿田彦が途中まで船で迎えにきたので、敵か味方かわから�


206:ク緊張した場面もあったようだ。



207:日本@名無史さん
19/12/15 16:33:17.89 .net
>>197
証明されたのは安万侶の実在性だけだよ

208:日本@名無史さん
19/12/15 16:35:02.72 .net
>>188
逆に言うと、邪馬台国の時代に開発により一度全て伐採された。
邪馬台国にとって佐賀平野は手頃なフロンティアだった。

209:日本@名無史さん
19/12/15 16:36:51.86 .net
【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比咩命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

210:日本@名無史さん
19/12/15 16:38:31.89 .net
それで
>>1よりも後の時代になり、渡ってきたと言われている渡来系の人々がいるでしょ、
なぜ先住民(日本の)のような事になっているの?


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