【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾 - 暇つぶし2ch157:日本@名無史さん
19/12/14 08:05:32.63 .net
>>127
>此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり
此の地は、(北は)韓国に向ひ、(南は)笠沙の御前を真来通り、(東側は)朝日の直刺す国、(西側は)夕日の日照る国なり
意訳だが、要するに上のようにのべているのではないか。
つまり此の地とは九州島のことで、降臨したのは九州島ほぼ中心の阿蘇東麓・高千穂邑
で、真来通りは、韓国に向ひと対をなす句(向かひの別表現)であろう。

158:日本@名無史さん
19/12/14 08:05:36.98 .net
>>127
天孫降臨の場所は古事記と日本書紀で記述が異なり、どっちがどうなのかなんて決めようがないが
そもそも大和言葉では多気は岳で使う場合もあるが、滝で使う場合もあり、久士布流多気が岳なのか滝なのか推測することすらできない。
宮崎県高千穂説だと、高千穂峡の真名井の滝にでも当てるのではなかろうか?
古事記にしろ日本書紀にしろ、その後の話しまで読めば、筑紫の日向の高千穂が北九州ではないことは理解できる。
天孫降臨の地とは何か?
天孫であるニニギが高天原から天降り着地した地点であって、それ以上の意味はない。
ニニギは天降った後嫁取りをしているが、ニニギの妻のコノハナサクヤヒメは別名カムアタツヒメ。
吾田の都(もしくは津)の姫という意味。
吾田というのは、今で言う鹿児島県を指す地名。
日本書紀ではもっとはっきりと、ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが
ニニギの一族は南九州を拠点とした一族であり、卑弥呼や邪馬台国に絡めるなら、卑弥呼と敵対した側の勢力だろう。

159:日本@名無史さん
19/12/14 08:19:43 .net
ひた‐お ‥を【頓丘】

〘名〙 「お」は丘の意で、 ひたすらに続いた丘。ただ丘ばかり続く地形。

阿蘇から
北を見れば韓国に向かい、南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ)行去(とおりて)・・・

160:日本@名無史さん
19/12/14 08:28:26 .net
>>154 つづき
154のように読めば、
南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ=杉)行去(とおりて)・・・となり、
ひたすら続く南九州特有の巨大な縄文スギの林の中を通りて笠沙に至る・・、というような意味ではないか。

161:日本@名無史さん
19/12/14 08:31:51.49 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが

剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

162:日本@名無史さん
19/12/14 09:35:39 .net
>>156
瓊瓊杵尊笠狭宮跡
URLリンク(goo.gl)

163:日本@名無史さん
19/12/14 09:58:48.37 .net
>>157
地図など、どうでもいいからwww   わははははは   @阿波

164:日本@名無史さん
19/12/14 11:14:36 .net
痴呆老人共の巣窟

165:日本@名無史さん
19/12/14 11:16:33 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが


剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

166:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:16.25 .net
>>150
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

167:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:31.65 .net
>>156
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

168:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:40.54 .net
>>158
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

169:日本@名無史さん
19/12/14 11:39:22.16 .net
>>160
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

170:日本@名無史さん
19/12/14 12:35:05.87 .net
>>158
諦めろ
古事記、日本書紀のどちらもニニギが居を定めたのは吾田で揺るがない。

171:日本@名無史さん
19/12/14 15:07:24.83 .net
>>152
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
ウェブの古語辞典をみると、真木に(向ひ)の意味はみあたらない。
この真木(まき・まぎ)と同じ発音の語彙は、日本書紀の古事記と同じ文脈の個所にある覓(まぎ)。
この覓(まぎ)は、求めて、あるいは探しての意味。
日本書紀のこの一節を古事記が故意に書き改めたと考えれば、真木の意味が文脈上解釈不能である理由が分かる。
この視点からすれば、古事記の「韓国(からくに)」は日本書紀の「空国(からくに)」の故意の書き換えだとすることができる。
とすれば、古事記の天孫降臨のこの一節に立ってする地理的比定は無駄ということになってくる。
天孫降臨の地の地理的比定は日本書紀の記述に基づいて行うのがよく、その比定地は霧島連山に当てるのが正解。

172:日本@名無史さん
19/12/14 16:14:55.72 .net
>>152
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
「韓国に向かひ」は、この地の北面はかくかくしかじかであるという説明である。
依って、これに対をなすとは、
「また、この地の南面は斯く斯くしかじかである」という地理的あるいは地誌的説明なのであろう。

173:日本@名無史さん
19/12/14 16:43:58.50 .net
>>167
>かくかくしかじか…
とはいうものの、(真木)の解釈が不能であることに変わりがない。
天孫の由来に関わる重要な一節で、古事記ともあろう史書が意味不可解な語彙を用いるのは極めて不可思議なこと。
唯一理解可能な解釈は、古事記のこの一節が故意に日本書紀の同箇所を書き換えたものであるということ。
なぜ書き換えたのかという点はまた別の話になるが、書き換えたことが事実であれば、古事記による天孫降臨の地理的理解は誤りだということになってくる。
この(真木)の語彙は、かくかように極めて重要な一語となっている。

174:日本@名無史さん
19/12/14 17:04:32.33 .net
一般には、古事記が先で、
これをもとに日本書紀が時の朝廷の都合に合わせて手を入れ、完成されたとされている。。
で、真木(クニマギ)は、、
南九州特有の古代巨木杉に覆われた山丘ということで良かろう
これは阿蘇谷杉、飫肥杉、都城杉などのように、今もその面影を見ることができる

175:日本@名無史さん
19/12/14 18:15:58.64 .net
>>169
普通に歴史の時間に寝てなかったら、古事記が日本最古の歴史書で、その8年後が日本書紀ってのは学校で習ったろ。
古事記と日本書紀の編纂過程の違いも授業で聞かなかったか?
古事記は稗田阿礼が誦習した帝紀と旧辞を筆録したもの。
日本書紀はもっと大量の古い記録をひとまとめにしたもの。

176:日本@名無史さん
19/12/14 18:24:15.65 .net
>>169
>一般には、古事記が先で
古事記はダイジェスト版なので完成が早かった。
出発点は同じ。
古事記の編纂者は、日本書紀の編纂所に出入り自由だったようにみえる。
日本書紀が編集完了した天孫降臨や日向神話などを自己の編集目的に沿って書き換えたり、資料選抜を行ったフシがみえる。
だから、天孫降臨や日向神話を独自に日本書紀のそれよりも早く完了していたようには思えない。
むしろ、日本書紀のその部分のほうが古事記のそれよりも先に編集が完了していたと思うね。
それを見ることができた古事記の編纂者は、自分の都合によって、その日本書紀の記述を書き換えたことが推測される。

177:日本@名無史さん
19/12/14 18:33:35.56 .net
>>170
江戸時代の国学者が古事記を崇拝したから、教科書を編した学者も古事記のほうを持ち上げただけ。
そして、それを教えた先生もそれを教えてもらった生徒たちも、単にそう思い込んでいるに過ぎない。
古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
しかし、それをしつこく追及していると、いろいろとややこしい話になってくるので、それ以上詮索しないようにしているわけ。

178:日本@名無史さん
19/12/14 19:04:34.40 .net
>>153
>ニニギは天降った後嫁取りをしているが
この点が最重要の部分。
日本書紀では、ニニギは吾田族の土地に住んで、そこの神の娘と婚姻して婿入りする。
一方、古事記では、ニニギは降臨した山上に留まってそこに宮殿を造営し、笠沙御前に遊んだおりに木の花咲くや姫と出会って婚姻して嫁取りする。
吾田が鹿児島県にあることは賛成だが、上の通り、日本書紀と古事記ではこれだけの違いがある。
婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
そして、そのように、古事記は日本書紀とは別の物語を書いたということになってくるわけ。

179:日本@名無史さん
19/12/14 20:25:15 .net
「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   @阿波

URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

180:日本@名無史さん
19/12/14 20:33:00 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが


剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

181:日本@名無史さん
19/12/14 20:37:15 .net
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   @阿波

URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

182:日本@名無史さん
19/12/14 20:38:25 .net
さが平野をさがせ、、

さが平野をさがせ、、

さが平野をさがせ、、

183:日本@名無史さん
19/12/14 20:39:51 .net
日本(日本人)の話ではないんだけど、どういう事なの?
ほとんどウラシマンの家の話でしょ。

184:日本@名無史さん
19/12/14 22:37:17 .net
>>160
徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?

自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた

というものだから・・うーんw

185:日本@名無史さん
19/12/14 22:40:24 .net
>>179
>徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?

その通り。   @阿波

186:日本@名無史さん
19/12/14 22:42:05 .net
>>177
奈良を掘りまくってあれだったから勢いづいてるんだろうけど
佐賀平野なるものが作られたのも邪馬台国より後でしょうよ

187:日本@名無史さん
19/12/14 23:28:50 .net
佐賀平野って人工的に作られたの?

188:日本@名無史さん
19/12/15 02:42:30 .net
>>169
>真木(クニマギ)は、南九州特有の古代スギに覆われた山丘ということで

そんなのマギ?
マジ?ノシャレナ。

189:日本@名無史さん
19/12/15 06:59:18.00 .net
>>183
唯一マジは
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)
大吉野川をはさんで
邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

190:日本@名無史さん
19/12/15 08:32:12.54 .net
>>183
マギーさんというわけではない。
古代史というと、とかく王朝の政治・軍事というような王権文化的な思考で読みたがるようだ。
しかし記紀や倭人伝を読んでみると、
古代人が巨大な恩恵を受けていた、或は、脅威を被っていた大自然に対する畏敬の部分もたくさんある。
現代人がすっかり忘れてしまっているぶぶんだ。
古代の佐賀平野は、その東端から西端まで、巨大なクスノキの杜が連なっていたようだ。
古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた。
(今も佐賀平野筑後平野には、小さいけれどもクスノキの杜を見ることができる)
みなみ九州も同様だったのであろう。
雨が多くて湿潤温暖な南九州では、水気の多い場所には良く杉が


191:立つ。今でも都城は全国トップレベルの杉の産地である。 伐採する人も道具もなかった古代には 数百年・数千年の巨大杉の森が見渡す限り連なっていたことであろう。 古代人はその景観の中、巨樹の下を通り抜けて笠沙行去することを「真木通る」と記載したのであろう。、 。



192:日本@名無史さん
19/12/15 08:42:57 .net
また杉作(不明)の話をしているの?

193:日本@名無史さん
19/12/15 08:45:47 .net
おまいは偽を(奉って)祀っているんだよ、
というのも有名な話みたいだしな。

ネットなどでも、
どこそこ()は偽の~~~を、まつっているとか。

194:日本@名無史さん
19/12/15 12:21:27.81 .net
佐賀中心部にある与賀神社には
樹齢1400年以上
一説には1600年以上と言われる
クスノキが天然記念物として
指定されていますね。

195:日本@名無史さん
19/12/15 12:42:38.54 .net
日本書紀だったかな、
佐賀平野の中央にはクスノキの巨大な古木があって、朝日の影は平野の西端に届き、夕日の影は東端まで届いた・・、という旨の記事がある。
これは1本の巨大樹のことではなく、楠木の杜が東西に連なっているさまを劇画的に述べたのであろう。
与賀神社の推定樹齢1600年委禱ともいわれるクスの古木は、卑弥呼のころに芽を出した若木だったというわけだ。
歴史の証人に感激!!

196:日本@名無史さん
19/12/15 12:48:46.67 .net
>>189 の訂正
与賀神社の推定樹齢1600年以上

197:日本@名無史さん
19/12/15 12:57:19.78 .net
1400年だったら西暦600年
サバ読んで1600年でも西暦400年じゃないか
卑弥呼だと1770年前だぞ
100年以上もちがう

198:日本@名無史さん
19/12/15 13:13:53.57 .net
そうかそうか、気になるか。
ま、いずれにせよ、そのタネをもたらしたクスノキの親樹の並木は、当時既に相当の古木ばかりだったことであろう。
樹の下を行去する弥生時代・古墳時代の人々を見下ろしつつ、タネを撒き続けてきたのであるが、
其のうちの壱の若木が、運よく今の与賀神社に至ったというわけだ。

199:日本@名無史さん
19/12/15 14:48:28 .net
>>185
>古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた…「真木通る」と記載した

クスノキの幹下の薄暗い獣道をずっと佐賀平野から都城を通って、屋久島まで詣でに行くのが「真木通る」かもな~。

200:日本@名無史さん
19/12/15 15:09:24 .net
>>192
>運よく与賀神社に至った

与賀神社の祭神の与止日女神は神功の妹だそうじゃないか。
北部九州では神功が人気だな。
枕詞みたいに神功を神さんに箔付けしているし。
新羅を討った神功は北部九州では英雄なんかもな。

201:日本@名無史さん
19/12/15 15:13:29 .net
>>176
>こういう事実を…

阿波人(忌部)は異常な収集癖だな。
阿波には収集癖の神さんはいないのか? ^^

202:日本@名無史さん
19/12/15 16:26:14.14 .net
>>148
>しかし、古語の「真木」はスギやヒノキのことであり、「真木柱(まきはしら)」は(太く立派な柱)のことだという。
杉や檜は真っ直ぐな木なので建材に用いられる。
まっすぐという古来からの解釈はおおむね外れていないと思う。
ならば、天孫降臨後は韓国からまっすぐ上陸した博多湾沿岸で良いだろう。

203:日本@名無史さん
19/12/15 16:28:30.94 .net
>>172
>古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
昭和の末期に著書の安麻呂の墓が見つかって、序文の正しさは証明されたぞ。
何周遅れの議論をしているのか。

204:日本@名無史さん
19/12/15 16:30:57.67 .net
>>173
>婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
高祖山なら博多湾に面している。
そしてその麓には木花佐久夜毘売を祭る細石神社がある。
高祖神社の祭神は、日向三代の称号である彦火火出見だ。
母親である木花佐久夜毘売の細石神社まで御神渡りする神事もある。

205:日本@名無史さん
19/12/15 16:32:53.74 .net
>>179
>自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた
天孫は戦わずに王として迎えられた。
猿田彦が途中まで船で迎えにきたので、敵か味方かわから�


206:ク緊張した場面もあったようだ。



207:日本@名無史さん
19/12/15 16:33:17.89 .net
>>197
証明されたのは安万侶の実在性だけだよ

208:日本@名無史さん
19/12/15 16:35:02.72 .net
>>188
逆に言うと、邪馬台国の時代に開発により一度全て伐採された。
邪馬台国にとって佐賀平野は手頃なフロンティアだった。

209:日本@名無史さん
19/12/15 16:36:51.86 .net
【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比咩命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

210:日本@名無史さん
19/12/15 16:38:31.89 .net
それで
>>1よりも後の時代になり、渡ってきたと言われている渡来系の人々がいるでしょ、
なぜ先住民(日本の)のような事になっているの?

211:日本@名無史さん
19/12/15 16:44:50.75 .net
★弘仁新羅の乱(渡来朝鮮民族 新羅難民部落の騒乱)
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河、両国に移配した
新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし
日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが制圧できなかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、全員が降服した。
新羅渡来人難民部落の禍乱の経緯から新羅からの帰化人対策に
熟考した藤原衛は新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)
新羅人の日本への来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。
朝議の結果、以後は日本に帰化を申請してきた場合でも即座却下することになる。
難民、漂着民、亡命を希望しても緊急の食料衣服を与えても追い返すこととされた。
これは『貞観格』にも収められ、以後の朝鮮半島及び新羅人対策の基本方針になった。
かつて朝廷(日本国)は、すべての流民の新羅人に口分田まで与えて
帰化を認め寛大に遇して恩を与えたが朝鮮渡来の流民たちは
恩を仇で返し博多などに土着して本国と違法な交易を目論み
それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みした。
この渡来朝鮮人の乱以降、北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、群馬を中心に関東各地、東北にも少数住まわせる事になった。

212:日本@名無史さん
19/12/15 16:47:59.58 .net
どう考えても漢人~中華なのに、
日本の先住民(あの記紀神話、国譲り?とか)のような話になっていたり。
後の時代(かなり最近)に創作された話なんだよwみたいなことを言っている人もいたり。

213:日本@名無史さん
19/12/15 16:53:52.33 .net
ほとんど逆の話をしているんじゃないの?
謎の神話、当時の話

中国、朝鮮半島←日本・倭(不明)、このような感じで国譲り?

214:日本@名無史さん
19/12/15 16:57:31.23 .net
誰が作ったのか、わからないんだけど、
あの謎のチェーンソーのゲームによると・・・、
(主人公、渡来人?)となっているでしょ?
どらごんぼーるのレーダーのようなものも出てきたり
『ドラゴンレーダー』

215:日本@名無史さん
19/12/15 17:01:22.31 .net
『ドランゴンレーダー』
知らない人もいると思うから、調べてみて。
『ドラゴンレーダー』

216:日本@名無史さん
19/12/15 17:20:25.15 .net
>>198
>高祖神社の祭神は…彦火火出見だ
古事記読んだ神主が深く思うところがあったのだろう。

217:日本@名無史さん
19/12/15 17:34:30.98 .net
邪馬台国の頃までは、まだ鉄斧が豊富でなかったので、うっそうとした森はいたるところにあった。
当時九州の30国余は、街道で結ばれていたが、
末盧国の地元道のように、先行く人の背も見えずの草ぼうぼうでは不便極まりないので、
こうした巨木古木の森伝いに雑草や笹竹の少ない獣道共用の街道が通じていたのであろう。
後世、日光の杉並木とか東海道の松並木とか出雲大社の黒松参道などは、
いわば古代の「真木通り」の心地よさ・便利さを、小規模ながら復活したものだったのではないか。
 

218:日本@名無史さん
19/12/15 17:37:37.81 .net
>>200
同意する。

219:日本@名無史さん
19/12/15 17:40:11.96 .net
>>210
>いわば古代の「真木通り」の心地よさ…
ついに新語義の誕生だなぁ。

220:日本@名無史さん
19/12/15 17:45:19.92 .net
>>176
>邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る…
親の大山祇の神も近くに祀っている?

221:日本@名無史さん
19/12/15 17:47:22.54 .net
>>209
鹿児島神宮の主祭神も彦火火出見尊だよ。

222:日本@名無史さん
19/12/15 18:14:28.69 .net
>>214
>鹿児島神社も祭神も…
鹿児島神社の神主は日本書紀派だったらしいな。

223:日本@名無史さん
19/12/15 18:43:56.09 .net
>>213
>親の大山祇の神も近くに祀っている?

阿波国板野郡上板町の大山に所在する大山寺奥の院の「波切不動尊」「黒岩大権現」   
黒岩大権現は「大山住


224:大明神」   @阿波 http://taisanji.jp/



225:日本@名無史さん
19/12/15 18:46:18.75 .net
ついでに、
日本で阿波にしかない、オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の妻を祀る「鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)」   @阿波
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

226:日本@名無史さん
19/12/15 19:11:30.80 .net
さが平野をさがせ!
さが平野をさがせ!
さが平野をさがせ!     @伊作

227:日本@名無史さん
19/12/15 19:20:15.49 .net
史実とごっちゃにして低能ほど神社うんぬんに引っ掛かるからな
お話にならない知的レベル

228:日本@名無史さん
19/12/15 19:26:26.98 .net
>>219
その通り。   @阿波

229:日本@名無史さん
19/12/15 19:37:20.76 .net
邪馬台国時代あたりの倭国の故事来歴は、
景行王朝(景行天皇ー日本武尊(オウス)ー仲哀天皇ー神功皇后)時代の土蜘蛛・熊襲退治で、完璧に上書きされてしまったように思える。
特に肥前・肥後・日向は、ことのほか徹底的だったような気がする。
しかし故事来歴は失われても、或は建造物は破壊されても、
その遺跡・遺構・街道の痕跡は残されているのではないか。とりわけ道は往時のままに使われ続けてきたのではないか

230:日本@名無史さん
19/12/15 20:00:47.22 .net
無知な大衆をいいように洗脳する史実と作り話を織り交ぜた
捏造洗脳書だからな古事記日本書記の記述は
その辺を注意深く理解する必要がある

231:日本@名無史さん
19/12/15 20:34:12.53 .net
>>211
序文が嘘なら、架空の人間をでっちあげても良かった。

232:日本@名無史さん
19/12/15 20:34:39.60 .net
>>213
博多か志賀島だろう。

233:日本@名無史さん
19/12/15 20:36:04.46 .net
>>219
話について来れない低能

234:日本@名無史さん
19/12/15 20:37:17 .net
>>222
神功皇后がそのいい例だ。
実際には卑弥呼より120年ほど後の人物だ。
九州にいた卑弥呼の足跡を消すのに躍起になっていた当時の大和政権が持ち上げた偶像だ。

235:日本@名無史さん
19/12/15 20:44:38.07 .net
>>216
>黒岩大権現は「大山住大明神」
阿波大山の地主神じゃね。
波切不動は三重大王崎の神さん。

236:日本@名無史さん
19/12/15 20:46:56.18 .net
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、 かんじんの伊作もお忘れなく。     @伊作

237:日本@名無史さん
19/12/15 21:20:10.60 .net
>>223
>序文が嘘なら…
蘇我入鹿暗殺の際に天皇の来歴や古い出来事を書いた史書が失われ、残った記録や諸家が持っていた帝紀、旧辞などを天武天皇が稗田阿礼に読み習わせたとされる。
古事記の編者はその稗田阿礼の誦習したものを筆記して古事記を編纂したというのであるが、
とすると、その当時、稗田阿礼が読み習わした文字資料があったはずで、稗田阿礼の誦習よりもその文字資料をもとに古事記を編纂すればよかったのであり、
日本書紀の編纂は実際にそのようになされたのだろうから、わざわざ稗田阿礼から聞き取る必要がないということになる。
それを稗田阿礼の誦習のみから古事記を編纂したとする序文は、どうもへんだと思われてもしようがないな。

238:日本@名無史さん
19/12/15 22:48:16.02 .net
でも、焚書の言いつけを守らずこっそり書物を残していました
なんて書けないでしょ
焚書の後、何年も経ってから古事記を書き始めたんだから

239:日本@名無史さん
19/12/15 22:58:26.67 .net
稗田阿礼も諸家の語り部から聞いたんじゃない?

240:日本@名無史さん
19/12/15 23:25:33 .net
>>229
稗田阿礼のプロジェクトの方が日本書紀のプロジェクトより先に始まったという証拠だろ。
その上で、日本書紀の完成後は他の書物は焚書したんだよ。

241:日本@名無史さん
19/12/16 02:02:21 .net
>>174
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑

242:日本@名無史さん
19/12/16 02:02:28 .net
>>175
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑

243:日本@名無史さん
19/12/16 02:02:34 .net
>>176
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑

244:日本@名無史さん
19/12/16 02:04:10 .net
>>180
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

245:日本@名無史さん
19/12/16 02:04:19 .net
>>184
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

246:日本@名無史さん
19/12/16 02:04:56 .net
>>216
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

247:日本@名無史さん
19/12/16 02:05:03 .net
>>217
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

248:日本@名無史さん
19/12/16 02:05:43 .net
>>220
どの口がそんな生意気なこと抜かしてんだよwww
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってw

249:日本@名無史さん
19/12/16 02:07:39 .net
>>1
> ※泡チョンコは駄レスが伸びるだけやけん自スレでホルっときーよ
> 邪馬台国四国説 part3
> スレリンク(history板)
>
> 推奨NGワード… 「阿波」「忌部」

>>2
> 泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

>>3
> 泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

>>4
> 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ

>>5
> 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
> ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
> 無能すぎるじょ~~~wwwww

250:日本@名無史さん
19/12/16 02:07:57 .net
>>6
>   ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
>         └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
>
>   ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

251:日本@名無史さん
19/12/16 03:35:39.61 .net
稗田阿礼って藤原不比等のペンネームやなかった?

252:日本@名無史さん
19/12/16 03:38:34.47 .net
編纂時期が天武天皇の命令からやが書かれた時期が持統天皇の時期からでその持統天皇の副臣参謀格って言われたが不比等やからな
古代の怪物って呼ばれとるだ

253:日本@名無史さん
19/12/16 05:47:18.53 .net
不比等が相当、自分の田んぼへバイアスかけとるしな。
そんな不比等は日本書紀でニ二ギを降臨させる役目を高御産巣日神に担わせているが、その高御産巣日神は6文字、
一方、古事記ではその役目は単に高木神として、3文字に下げている。
不比等が自分に似せて高御産巣日神を描かせたのが、古事記は気に食わなんだのだろうな。
6文字から3文字に降格して書いた。
古事記がどんな意識を持っていたか分かるというもんよ。

254:日本@名無史さん
19/12/16 07:55:05.68 .net
出雲風土記の研究者によれば、
とりあえず各国で編纂された風土記の草稿を朝廷に差し出し、
朝廷はそれをもとに(都合よく書き換え編集して)日本書紀を完成させた。
その後、各国に日本書紀を示して、整合性が取れるように書き直させた、と考えられるらしい。
古事記と日本書紀の関係も似たような関係にあり、だから古事記には、出雲国のくだりが特に多いということだ。

255:日本@名無史さん
19/12/16 08:34:44.40 .net
>>246
>だから古事記には、出雲国のくだりが特に多いということだ。
「出雲」のくだりはあるが、「出雲国」のくだりは一切、ない!   @阿波

256:日本@名無史さん
19/12/16 08:54:32.79 .net
そうかい
阿波も国未満だったのか、残念だねえ。

257:日本@名無史さん
19/12/16 09:49:07.24 .net
>>248
阿波にちょっかいを出しても無駄!  トンデモは妄想を楽しんでいるのが分相応。  わははははは   @阿波

258:日本@名無史さん
19/12/16 12:44:37 .net
>>247
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

259:日本@名無史さん
19/12/16 12:44:56 .net
>>249
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

260:日本@名無史さん
19/12/16 15:57:42.02 .net
>>245
古事記は皇統、皇族、皇族系氏族第一主義だからな。

261:日本@名無史さん
19/12/16 16:00:58 .net
まあ、なんだ、真木通るがクスノキの下の獣道を通り抜ける際の慣用句だったというのが、本スレの今年のワードに決定決だな。

262:日本@名無史さん
19/12/16 16:06:54 .net
何で王族が獣道を通るんだよ。

263:日本@名無史さん
19/12/16 16:09:33 .net
「倭は帯方東南大海の中に在り」の一文の「東南」は、狗邪韓国から対馬や壱岐に渡航する際の方角であることは、まず確定事項だ。
その「東南」が渡航ルートにぴったしなのは、固城→


264:対馬→壱岐→呼子加部島ルート。 魏の使節団が倭の方角を確定したのは、このルートで倭へ渡ったからだよ。 このルートがまさに東南の方角だからね。



265:日本@名無史さん
19/12/16 16:12:22 .net
>>254
昔のことだから、王族も獣同然だったということさ。

266:日本@名無史さん
19/12/16 16:22:44.29 .net
>>254
古代においては、
王族と云えどクスノキの下の獣道を我が物顔に行くのがらくちんだったということさ
だから、借り物の道を堂々と行くことを「真木通る」といい、後世これが訛って「罷り通る」となった!?

267:日本@名無史さん
19/12/16 17:01:42.24 .net
>>255
「帯方」東南大海の中に在り
なのに、帯方郡を無視するのは違うくね?

268:日本@名無史さん
19/12/16 18:02:37.89 .net
>>258
ほう、なかなかのツッコミ

269:日本@名無史さん
19/12/16 18:08:23.93 .net
>>257
今年のワード決定!

270:日本@名無史さん
19/12/16 18:14:43.28 .net
>>258
皆、そのダマシにひっかかる。
中国史書では楽浪、帯方、韓、百済・新羅と変化するも、東南の方角は帯方以降変化しない。
つまり、帯方など半島の政体は飾り物ということになるよ。
飾り物だからあれこれ変わってもいいけど、方角については一向に変わらないの。

271:日本@名無史さん
19/12/16 19:10:37.58 .net
倭人伝を解読すれば佐賀ルートになる・・、といってみても、
それは文章上のことにとどまる。
やはり、
地元科学者の調査・発掘による学術的・考古学的な証拠根拠が不可欠だよねえ。
そしていつの日か、古代三世紀のように佐賀平野を東西に貫く大クスノキの森が復活してほしいなあ。

272:日本@名無史さん
19/12/16 19:21:03.50 .net
>>262
佐賀ルートもあったはず。
半島の固城から対馬、壱岐、呼子加部島と東南に進んだ方角は、さらにそのまま東南に進めばその線は柳川の東の山門に達する。
この山門も含めての東南だから、必ずしも伊都、奴、不彌から山門へ行く北回りのルートだけではなく、佐賀平野を通るルートもあったと思うよ。

273:日本@名無史さん
19/12/16 19:37:08.73 .net
>>262
古代三世紀の「佐賀平野」の遺跡はどれ?

274:日本@名無史さん
19/12/16 19:38:00.28 .net
>>262
>地元科学者の調査・発掘による学術的・考古学的な証拠根拠が不可欠だよねえ。
その通り。   倭国(阿波)のようにね。  わははははは   @阿波

275:日本@名無史さん
19/12/16 19:41:08.90 .net
>>264
吉野ヶ里遺跡

276:日本@名無史さん
19/12/16 19:52:58 .net
>>261
魏志倭人伝の冒頭なんだから、当時の地名で書いてあって当たり前ですやん。

277:日本@名無史さん
19/12/16 19:52:58 .net
毎回同じ港に着けると思うかな?
列島に接岸なら、どこでも良いわけで博多湾に帰るだろ?

末盧國が、謎なのは反論する気も無いが?
壱岐から筑紫銀座を目指す時、博多湾に入らない理由は有るか?

博多湾に入らない、ためには、@阿波 
みたいな異常者以外なら別の理由が必要だろ?

247年の張政は糸島北岸の卑弥呼の巨大古墳を見て伊都に駐留。
240年卑弥呼の王宮を見た、初探検の梯儁は、邪馬台国と命名した。

魏が公孫氏を滅ぼしたけど、
韓西岸初探検の梯儁が九州から奈良に行く方法なんて
日本人にも無いヨ?

278:日本@名無史さん
19/12/16 20:34:11.91 .net
>>268
>壱岐から筑紫銀座を目指す時
それがそもそもの間違い!  そんなところに、魏使に用はない!  以上。   @阿波

279:日本@名無史さん
19/12/16 22:15:39 .net
卑弥呼が魏に渡って曹操と結婚した

280:日本@名無史さん
19/12/16 22:48:29.80 .net
>>267
中国史書で倭に関する地理的な記述は漢書。
  それ楽浪海中に倭人有り
この漢書の記述には、まだ倭の方角はない。
方角が現われるのは次の魏略。
  倭は帯方東南大海の中に在り
この二つの文章を見れば、帯方は楽浪から置き換えただけのものであることができる。
次の倭人伝も同じ。
  倭人は帯方東南大海の中に在り
魏略が倭としたものを、いや漢書は倭人としてるでしょ、と注文つけたわけだけど、倭人伝も楽浪を帯方に置き換えただけの魏略の記述を踏襲し、魏略が初めて書いた地理的な東南方角も踏襲している。
そして、次の後漢書は魏略や倭人伝の帯方をさらに韓に置き換えているが、東南の方位は変えていない。
  倭は韓の東南大海中に在り
ただ、倭人伝の倭人については、いや違うでしょ、漢書の倭が正しいのよ、と注文をつけている。
そして最後の隋書は、いやいや倭は俀であって字が違いますよ、と注文つけて気を吐くが、他の部分は皆と同じ。
  俀國は百済新羅の東南水陸三千里の大海の中に在り
こういう流れとなっている。
つまり、楽浪から帯方、韓、百済新羅とその時々の政体を次々と置き換えていることが分かる。
しかし、どの政体になっても東南は変わらず皆これを踏襲している。
ということは、この東南は帯方とも韓とも百済新羅とも関係がなく、帯方などの政体は単に置き換えてあるだけということになってくる。
とすると、では東南の方位はいつ確認されて倭の所在地についての公式の方位になり、その方位の起点はいったいどこなのかということが論点となるわけ。
要するに、帯方は単に楽浪から置き換えたものであって、東南の方角とはそもそも無関係ということになるのよ。

281:日本@名無史さん
19/12/16 22:54:41 .net
>>271
訂正

15行目の漢書は魏略の誤り。

282:日本@名無史さん
19/12/17 01:56:51 .net
>>265
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

283:日本@名無史さん
19/12/17 01:57:25 .net
>>269
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

284:日本@名無史さん
19/12/17 07:30:14.51 .net
畿内スレ>>436
>帯方から東南に900km余りだと阿波になっちゃうな
>方位を少し曲げて九州島にすると宮崎以南
韓国巡りでは、南に4000里し東に3000里して狗邪韓国で、この間は7000里だが、
帯方から直線で見た東南狗邪韓国までの距離は、ピタゴラスの定理によって5000里となり、海岸巡りより2000里ほど短い。
因って、帯方から直線で計った女王国までは、12000里-2000里=10000里(750㎞)以内であるから、
阿波には届かぬ、宮崎にも届かぬ。

285:日本@名無史さん
19/12/17 13:02:52 .net
>>1
> ※泡チョンコは駄レスが伸びるだけやけん自スレでホルっときーよ
> 邪馬台国四国説 part3
> スレリンク(history板)
>
> 推奨NGワード… 「阿波」「忌部」

>>2
> 泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

>>3
> 泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

>>4
> 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ

>>5
> 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
> ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
> 無能すぎるじょ~~~wwwww

286:日本@名無史さん
19/12/17 13:03:06 .net
>>6
>   ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
>         └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
>
>   ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
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>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

287:日本@名無史さん
19/12/17 15:47:27.79 .net
>>275
>阿波には届かぬ、宮崎にも届かぬ
その総計の1万2000里を75mで計算したら、大隅半島の付け根付近に届くのだが。
また宇佐もその圏内になってくる。
そこらに邪馬台国があったのか?
宇佐ファンは喜ぶだろうがな。

288:日本@名無史さん
19/12/17 16:20:38 .net
>>271
そこで、東南の方角が倭のある方角だと誰によって、いつ認定されたのかということになるわけだが、
魏略が書いた帯方は魏が領有した帯方郡であって、公孫氏が領有していた帯方郡でないことは、魏略が書かれたのが魏末晋初とされることで明らか。
魏が帯方郡を領有したのは公孫氏が滅亡した238年後半。
そして、翌年早々に魏が倭へ使節を派遣して、倭の朝貢を求める交渉をしたのが239年と考えられる。
そのあと239年の6月に卑弥呼の使節団が帯方郡へ到着する。
魏が帯方郡を領有した238年後半の翌年の前半には魏の使節団が倭に渡ったことが考えられる。
この際の渡海ルートは魏略によると、狗邪韓国から対馬、壱岐、末盧となっている。倭人伝はそれを踏襲している。
で、魏の使節団が初めて倭に渡ったこのルートの狗邪韓国の出発地がどこかを推測すると、小伽耶の中心地であった固城が想定される。
そして、この固城から外洋に出たあたりから対馬の南端、壱岐の西端、呼子加部島のコースがちょうど東南の方向に当たるのだ。
魏の使節団がこの南東方向のコースで海を渡ってちゃんと倭に到着したことで、初めて倭が東南の方向にあることが公式に認定された。
したがって、魏略が編纂のための資料から採録した東南の方角は、魏の使節団が作成した報告書に記されていたものであったと考えることができる。
そして、その倭に渡る東南方向の起点は停泊した固城の外洋であったと思われる。
この「倭は固城の東南に在り」の報告書の「東南」を、漢書の「楽浪大海の中に倭人有り」を書き改めた「倭は帯方大海の中に在り」の文章に挿入したのが「倭は帯方東南大海の中に在り」だったのだと想定するのである。
つまり、魏の使節団が倭に渡るまでその倭の所在地の方角がはっきりしなかったのが、使節団によって初めて倭の所在地の方位が確定されたということになる。

289:日本@名無史さん
19/12/17 17:40:00 .net
古来より、都はツと読むのが習わし

・都久津美神…つくつみのかみ
・都久豆美命…つくつみのみこと
・都怒我阿羅斯等…つぬがあらしと
・都麻津比賣命…つまつひめのみこと
・都麻耶美豆比賣命…つまやみづひめのみこと
・都味歯八重事代主神…つみはやえことしろぬしのかみ
・都留支日子命…つるぎひこのみこと

290:日本@名無史さん
19/12/17 17:42:33 .net
古来より、都はツと読むのが習わし

・都農神社…つのじんじゃ
・都万神社…つまじんじゃ
・都我利神社…つがりじんじゃ
・都弁志呂神社…つべしじんじゃ
・天都賀佐彦神社…あまつかさひこじんじゃ
・布都神社…ふつじんじゃ
・鴨都神社…かもつじんじゃ
・気都和既神社…きつわきじんじゃ
・許世都比古命神社…こせつひこのみことじんじゃ
・都祁水分神社…つげみくまりじんじゃ
・佐用都比売神社…さよつひめじんじゃ
・伊和都比売神社…いわつひめじんじゃ
・比都仕神社…ひつしじんじゃ
・阿志都彌神社…あしづみじんじゃ
・丹生都比売神社…にゅうつひめじんじゃ
・都麻津姫神社…つまつひめじんじゃ

291:日本@名無史さん
19/12/17 18:14:45.45 .net
やはり伊都国は、イツコクとよむべきなんだろな、、。

292:日本@名無史さん
19/12/17 18:22:04.89 .net
「都」は中古音で(to)

293:日本@名無史さん
19/12/17 18:57:47.53 .net
古来より、都はツと読むのが習わし
(ア行のみ)
・阿蘇都彦…あそつひこ
・阿田都久志尼命…あたつくしねのみこと
・天比登都柱…あめのひとつばしら
・伊勢都比古命…いせつひこのみこと
・伊勢都比売命…いせつひめのみこと
・伊都許利命…いつこりのみこと・・・・・・・・ まさに伊都をイツと読ませる事例
・伊都尾羽張神…いつのおはばりのかみ・・・・・ 同上
・伊波都久和希…いわつくわけ
・宇沙都比売…うさつひめ
・宇都志国玉神…うつしくにたまのかみ
・宇都志日金折命…うつしかなおりのみこと
・大気都比売神…おおげつひめのかみ

294:日本@名無史さん
19/12/17 19:01:49.72 .net
倭人伝って中古音でしょ

295:日本@名無史さん
19/12/17 19:08:55.49 .net
上古音(しょうこおん、又は、じょうこおん)
上古音とは、
周代・漢代頃の中国語および漢字音の音韻体系をいう。
字音を、古音(古代音)と今音(現代音)とに分け、古音を上古・中古・近古の3つに分けたものの1つである

296:日本@名無史さん
19/12/17 19:14:05 .net
中古音(ちゅうこおん)
中古音は、中国音韻学上、南北朝時代(439-589)の後期から、隋・唐・五代・宋初にかけて使用された中国語の音韻体系。
南北朝後期から、隋、唐代初期までの中古音を前期中古音、
唐代中期から五代・宋にかけての中古音を後期中古音に分ける。

297:日本@名無史さん
19/12/17 19:30:48.44 .net
>>285
そう。
日本の地名を中国人が中国人の都合で漢字をあててるだけ。
日本の古来の読みに中国語で漢字をあてるのは万葉仮名等でも使われる手法ではあるが
都をトやツにあてるのは万葉仮名の甲類、乙類どちらにもないあて方。
都に日本古来の縁を見出すことはちょっと無理がある。

298:日本@名無史さん
19/12/17 19:33:43.46 .net
>>282
日本語の読みばかりを並べて何言ってんだ?
伊都国と記したのは中国人だぞ

299:日本@名無史さん
19/12/17 22:10:23 .net
>>289
大正解

300:日本@名無史さん
19/12/17 22:30:11 .net
クスノキについて

URLリンク(wp1.fuchu.jp)
> クス、クスノキ 【樟・楠】 camphor wood
> クスノキ科の常緑広葉樹。散孔材。
> 学名 : Cinnamonum camphora
> 関東以南の暖地、特に海岸に多い。また、台湾・中国にも分布。なお、「楠」は南国から渡来した木を意味する。

URLリンク(ja.wikipedia.org)
> 世界的には、台湾、中国、ベトナムといった暖地に生息し、それらの地域から日本に進出した。(史前帰化植物)
> 日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
> 生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。

魏志倭人伝でも倭国に生えている植物としてクスノキが記録されているが、上記の通りクスノキは圧倒的に九州に多い木で、
特に九州以外の地域では沿岸部に偏って分布している
植物について解説するサイトではクスノキが暖地の植物であることをその理由としていることが多いが、実際には関東でも北側の埼玉県に
有名な大クスがあり、気候が問題で分布を広がらないというのは説得力に乏しい
特に黒潮に直面する四国南部や紀伊半島南部などは気候の暖かさにおいて北部九州と大差ない

ではなぜ九州以外では沿岸部に偏って分布しているのか?その答えは日本書紀に書かれている
書紀によれば素戔嗚命が日本に浮宝(=船)が無くては困るだろうと、体毛を抜いて木に変え、息子の五十猛命に各地に植えさせた、とある
この中に眉毛から作られたクスノキもあり、その用途として「船に使え」と素戔嗚命は述べている
クスノキは防虫剤の樟脳が採れる木なので虫害に強く、また腐りにくいという性質を持つ
丸木舟の時代には虫食いで船体に穴が開くのは致命的なので、クスノキは船の材料として最適なのだ

そしてこの木を植えるように指示された五十猛命が安曇磯武良と同一人物であることは過去スレで既出のとおり
つまりクスノキは元々九州の木であり、五十猛=安曇磯武良の命を受けた海人族が本州、四国各地の沿岸部に植えてまわったから分布が沿岸に偏っているのである

301:日本@名無史さん
19/12/17 22:33:42 .net
ちなみに九州のクスノキは6300年前の縄文時代にはすでに内陸部まで分布していたようである

URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
> 約65,000年前以降の最終氷期の種子島ではシイ属などの照葉樹林が継続して存在し、約11,000年前には薩摩半島でクスノキ科が拡大し始め、
> 約6,300年前までにはシイ属やクスノキ科を主とする照葉樹林が南九州の沿岸部から九州の内陸部にまで拡大していたと推定された。

クスノキの用途にまで精通していた素戔嗚命が九州人であることに疑いの余地はあるまい

302:日本@名無史さん
19/12/17 23:28:47.32 .net
倭、奴あたりは上古音かな
対馬あたりは倭人が充てた漢字かしら

303:日本@名無史さん
19/12/17 23:44:01 .net
ならば、伊都国はイツ国なのか?

304:日本@名無史さん
19/12/18 00:06:10.91 .net
>>294
文盲なのか
しつこ過ぎる性格なのか
はたまた無能朝鮮人なのか…

305:日本@名無史さん
19/12/18 03:17:49.67 .net
>>289
都 上古音 tag
  中古音 to
  中世音 tu
  現代音 tu(du)
     (学研漢和大字典)
倭人伝の頃は上古音から中古音への過渡期の時代。
中古音で表されているとするも良し。
上古音は現在まだ確定していず、上古音は不安定。

306:日本@名無史さん
19/12/18 06:42:57 .net
>>291
よって、北部九州や畿内は、魏志倭人伝でいうところの倭国に該当しない!   @阿波

307:日本@名無史さん
19/12/18 07:53:54 .net
>>291-292
クスノキが九州の樹だというのは何気に重要だな

URLリンク(books.google.co.jp)クスノキ 古墳時代#v=onepage&q=クスノキ 古墳時代&f=false

>大阪を中心とする発掘では、古墳時代の舟は殆どクスノキであった。千葉県東金付近で発見された鰹節型のくり舟はクスノキで、
>安房鉈切神社の割竹型に近いくり舟もクスノキであつた。

九州海人族が古代の倭国を席巻していたことがよく分かる

308:日本@名無史さん
19/12/18 07:58:44 .net
>>298

よって、北部九州や畿内は、魏志倭人伝でいうところの倭国に該当しない!   @阿波

309:日本@名無史さん
19/12/18 08:24:11.32 .net
>>284
・天比登都柱…あめのひとつばしらの事例
トに・・・登、
ツに・・・都、を当てている。
同様に、大和のトに都を当てなかったのも、古代には古代の理由あってのことであろう。

310:日本@名無史さん
19/12/18 08:38:02.90 .net
伝説上の故事として、
肥前国風土記は佐嘉郡の名の由緒を以下のように記している。
昔者 樟樹一株 生於此村。幹枝秀高 茎葉繁茂、朝日之影 蔽杵島郡蒲川山、暮日之影 蔽養父郡草横山也。
日本武尊 巡幸之時、御覧樟茂栄、勅曰 此国可謂栄国。因曰栄郡。後改号佐嘉郡。
(佐賀市史第1巻より)
古代、当郡のある村には楠(クスノキ)の大木が生い茂り、朝日の影は杵島郡蒲川山、夕日の影は養父郡草横山にまで届いたという。
当地を巡幸した日本武尊は楠樹の栄え繁る様を見て、「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよかろう」と述べ、
そこから「栄郡(さかのこおり)」と呼ばれるようになり、後に栄の字が佐嘉に転じたとする。

311:日本@名無史さん
19/12/18 08:43:34 .net
>>300
大倭→大和   倭→和は、中国が付けた「倭」を捨て、新生日本(奈良大和朝廷)が新たに「和」としたのだろう。   @阿波

312:日本@名無史さん
19/12/18 08:52:16.40 .net
>>300
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。   大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。   阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

313:日本@名無史さん
19/12/18 10:22:47.29 .net
>>302
日本の地名の変遷を理解してないんだな。
古い地名は基本的に、日本語で意味を持つ。
あてた漢字は好字令で意味の好ましい漢字二文字に置き換えが行われた。
阿波国は粟が取れたのであわのくにだし、吉備国は黍が茂っていたのできびのくに。
近江国は琵琶湖が昔あわうみ=淡海だった事から来てる。
ヤマトは元々は山門が盆地や山に囲まれた土地を指す言葉から来てる。
九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。

314:日本@名無史さん
19/12/18 10:38:39.09 .net
>>304
>九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。
そりゃ、お寺の山門があった所だわ。  わははははは   @阿波

315:日本@名無史さん
19/12/18 11:23:40.23 .net
熊本はもと隈本か

316:日本@名無史さん
19/12/18 11:47:09 .net
>>297
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

317:日本@名無史さん
19/12/18 11:47:25 .net
>>299
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

318:日本@名無史さん
19/12/18 11:48:20 .net
>>302
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

319:日本@名無史さん
19/12/18 11:48:34 .net
>>303
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

320:日本@名無史さん
19/12/18 11:48:52 .net
>>305
お前が笑いでごまかすときは、大抵言い逃れできないときだもんなぁ

321:日本@名無史さん
19/12/18 11:49:02 .net
>>305
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

322:日本@名無史さん
19/12/18 11:56:38.23 .net
淡の古音は「オホ」なんだけどなw

323:日本@名無史さん
19/12/18 12:28:08 .net
楠なんて未生で生えやすいから何処にでも生えるぞ。水行中に見やすい木だよ。

324:日本@名無史さん
19/12/18 12:58:47.92 .net
>>309
>九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。
そりゃ、お寺の山門があった所だわ。  わははははは   @阿波

325:日本@名無史さん
19/12/18 13:20:19.64 .net
>>284
・天比登都柱…あめのひとつばしら(伊伎島/壱岐島、及びその島の神)の事例
トに・・・登、
ツには・・・都、を当てている。
帝都であった大和のトに「都」を当てなかったのも、古代には古代の理由あってのことであろう。

326:日本@名無史さん
19/12/18 13:23:08.84 .net
倭人伝に関係ない話題は遠慮してほしい

327:日本@名無史さん
19/12/18 13:32:32.69 .net
徳島県知事、徳島市長、徳島市議会の足を引っ張る@阿波、
いいぞ、もっとやれ。

328:日本@名無史さん
19/12/18 14:45:36 .net
>>315
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

329:日本@名無史さん
19/12/18 14:47:01 .net
>>316
古中国語読みと古日本語読みをごっちゃにする無能

330:日本@名無史さん
19/12/18 16:09:27.75 .net
魏志倭人伝に書かれた伊都が何と発音されていたかだろ?

331:日本@名無史さん
19/12/18 16:34:55.52 .net
古日本語発音(?) → 古日本語漢字(?) → 古中国語漢字(伊都) → 古中国語読み(?)
問題は、古日本語(九州弁)で「都」を何と発音していたかだが・・・、

332:日本@名無史さん
19/12/18 17:31:33 .net
tu

333:日本@名無史さん
19/12/18 17:50:19.23 .net
現代中国語のピンイン表記は伊都 yidou
地名に関しては倭人が呼んでいたものに漢字を当てただけだろうから、yidou かそれに近い読み方だったのだろう
イトあるいはイトウと呼んでいたのではないか?

334:日本@名無史さん
19/12/18 17:55:10.70 .net
>>298
それぞれの木の性質はよく分からんが、
スギ、ヒノキは少し水に漬けておくと水が浸み込むのではないか。
その点、クスノキは防水性が高く、船底に潮が浸み出してきにくいとか。

335:日本@名無史さん
19/12/18 17:56:01.37 .net
硯が出土して倭人が文字を使っていたことがわかったんだから
伊都とかは倭人が自ら当てた文字だろう。

336:日本@名無史さん
19/12/18 17:56:46.34 .net
>>324
井戸(ido)かもな。

337:日本@名無史さん
19/12/18 18:03:09 .net
>>324
なんで現代音で読むんだよ笑

338:日本@名無史さん
19/12/18 18:06:57 .net
>>324
当時は、まだ文字がなかったと決めてかかるのはいかがなものか

唐津屋博多からは、古代の硯も出土しているし、倭人伝にも文書伝送とか、檄文とかが登場するくらいだから、
既に倭地でも文字化(漢字化)は進んでいたのだろう。
それは翰苑を読んでもわかる。

だから基本的には、国名・官名・人名などの固有名詞は、
倭地で成立していたものを、中国側がそのまま書き写したとみるべきではないか。
(なお、後世の写本の過程での誤写や書き換えは別のお話し)

339:日本@名無史さん
19/12/18 18:07:35 .net
>>325
厳島神社の鳥居はクスノキで、これはクスノキが耐水性が高いためだとする意見がみられる。

検索欄に「木智塾 4月クスノキ」と入力し、開いた画面の一番上を押す。
その61行目の厳島神社の冒頭に耐水性が高いと書いてある。

340:日本@名無史さん
19/12/18 18:41:12 .net
>>326
自らあてた文字ではないだろ。だとしたら卑弥呼とか邪馬台国とか奴国とか変じゃないか?
そんな悪い意味の漢字使わないだろ?

>>328
当時の音は誰にもわからない。現代音から類推していくしかない

341:日本@名無史さん
19/12/18 18:43:10.33 .net
䑓って皇帝の居所を意味するよね。

342:日本@名無史さん
19/12/18 18:47:48.16 .net
現代音から類推w

343:日本@名無史さん
19/12/18 18:52:29.97 .net
>>331
>自らあてた文字ではないだろ。だとしたら卑弥呼とか邪馬台国とか奴国とか変じゃないか?
初心者・新米か???
倭人での編集時、或は写本時に、わざと卑字を当てたのではないかという論は昔から多々ある。驚き慌てることはない。
それにつけても、伊都国の「都」は最大級の誉め言葉だ。
同じ倭の国だが、これもおかしくないか。

344:日本@名無史さん
19/12/18 18:59:53.61 .net
>>331
あれか、
昔、コテハン取っかえ引っかえして、畿内説や九州説を荒らしまわってなかったか。
三角縁の踏み返しがどうのこうのとか、定型化古墳はああだこうだとか、得意げに説教ばかりしてたような・・・

345:日本@名無史さん
19/12/18 19:03:32.47 .net
>>331
それからよ、
熊本県のなんちゃら委員を務めてたこともあったとかなかったとか・・、

346:日本@名無史さん
19/12/18 20:16:54 .net
>>334
まあ、卑字で書くとすれば、夷屠か。
しかし、海外各国からの使節団の迎賓所があるところだから、格好のいい字を使ったというところかもな。

347:日本@名無史さん
19/12/18 21:02:21 .net
おーい、糸島。
平原は夷屠国だったらしいよ。

348:日本@名無史さん
19/12/18 21:34:51 .net
>>325
URLリンク(ja.wikipedia.org)クスノキ
>枝分かれが多く直線の材料が得難いという欠点はあるが、虫害や腐敗に強いため、古来から船の材料として重宝されていた。
>古代の西日本では丸木舟の材料として、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している。
>その様は、古事記の「仁徳記」に登場するクスノキ製の快速船「枯野」の逸話からも窺うことができる。

九州の木であるクスノキが大阪湾岸からも盛んに出土するのも、北部九州の海人が瀬戸内海を制していたことの裏付けとなるだろう
仁徳天皇が詠んだ淤能碁呂島の和歌も福岡で小呂島や能古島を見て詠んだという説があるね
和歌中に出てくる檳榔が九州北限で瀬戸内海地域には生えていない木だし

349:日本@名無史さん
19/12/18 21:46:37 .net
>>339
>九州の木であるクスノキが大阪湾岸からも盛んに出土するのも、北部九州の海人が瀬戸内海を制していたことの裏付けとなるだろう

ならない!  阿波だよ。   @阿波

350:日本@名無史さん
19/12/18 21:47:54 .net
巨大なクスノキと云い、その長大な並木道と云い、佐賀平野には何かでかい古代ものが有りそうだな

さが平野をさがせ・・

さが平野をさがせ・・

351:日本@名無史さん
19/12/18 22:25:59 .net
>>341

阿波よりずっと、探してるんじゃないの?  わははははは   @阿波

352:日本@名無史さん
19/12/19 02:01:59 .net
>>291
もっと北の栃木県内陸部にもクスノキの大木があるよ

URLリンク(blog.goo.ne.jp)
>八幡山のクスノキ
>宇都宮市指定天然記念物
>江戸時代からっこに生育していたと思われる、クスノキの巨木である。クスノキは主に関東地方より西の温かい地域に分布している常緑高木で、
>これだけ大きいものは、栃木県内では珍しい。

大木は珍しいにしても、栃木県内で他でも普通に生えてるから、植えさえすればそれなりに育つみたいだね
URLリンク(www.city.tochigi.lg.jp)
>くすのき公園
>所在地 栃木市片柳町2丁目
>シンボルツリーとして楠の大木が植えられていて、公園名の由来ともなっています。また、公園全体が大きな芝生広場となっていて多目的な利用が可能です。

関東でも北の方の栃木県内陸部で普通に育つなら、西日本の内陸部でクスノキが見られないのは気候の問題じゃないね
あなたの言うように本州に植えてまわったのが海人族だから海人族の縄張りである沿岸部に分布が偏っていると考えるのが自然だろう

353:日本@名無史さん
19/12/19 02:03:21 .net
ちなみに関東で内陸にクスノキがある理由は、海人族が川を遡って内陸まで行ってたからだろうね
貝輪の分布がそうなってる
URLリンク(pbs.twimg.com)

354:日本@名無史さん
19/12/19 02:20:42 .net
>>340
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

355:日本@名無史さん
19/12/19 02:20:49 .net
>>342
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

356:日本@名無史さん
19/12/19 06:35:44 .net
>>344
貝輪ってさ、北九州の海人族ではなく、南洋系の南九州の海人族がルーツなんだがね。

北九州はインドチャイニーズ系海人族で、中国南部から朝鮮半島経由の越族由来
南九州はインドネシア系海人族で、黒潮にのっての沖縄経由

勿論混血や文化交流はあったろうけど、海人族にも二つのルートがあったことはお忘れなく。

357:日本@名無史さん
19/12/19 07:02:13 .net
>>331
中国人が多数滞在していた伊都では漢字の細かい使い分けもわかっていたのだろう。

358:日本@名無史さん
19/12/19 07:03:08 .net
倭奴国=伊都国

359:日本@名無史さん
19/12/19 07:05:31 .net
倭奴国=倭の国(阿波)   @阿波

360:日本@名無史さん
19/12/19 07:10:24 .net
>>349
後漢書倭伝では、倭國之極南界也とある。

伊都国が糸島であるなら、倭国之極南ではない。


361:> 倭奴国と糸島は場所が違う。



362:日本@名無史さん
19/12/19 07:17:47 .net
だから倭奴国は糸島もしくは糸島を含む福岡県西部、すなわち筑紫の日向

363:日本@名無史さん
19/12/19 07:23:52 .net
倭奴国の本拠地は倭国=九州の南端である鹿児島県だな。

一度後漢の頃南九州の隼人が九州制圧し、後漢に朝貢したんだよ。
その後倭国で内乱があり九州が南北に分裂したのが倭国大乱。

倭奴国は魏志倭人伝では狗奴国と名前を変えられ、九州再統一の為に邪馬台国と和せず戦争してたわけだ。

戦力比は北3、南7と南有利であったため、壱与に代替わりした後、いつの間にか消滅してる。

364:日本@名無史さん
19/12/19 08:23:37 .net
>>352
九州島が筑紫島、筑紫州と呼ばれていたという、日本史の常識を無視した古田史学の罪は深い。

365:日本@名無史さん
19/12/19 08:51:49 .net
>>354
まったくそのとおりだ
古田のアタマのなかには、倭国とは全ニッポンの事であり、
九州には女酋に率いられたちっぽけな地方(反乱)王朝しかなかったという先入観があったのだろう。
結局、畿内育ちのボンボンで、地方蔑視の小人物だったということだ。

366:日本@名無史さん
19/12/19 08:58:24.79 .net
倭国大乱にせよ、その後の磐井の乱にしてもそうだが、結局の所南方系隼人と越人系北九州の覇権争いがベースにあるのだろう。
今日本最古の稲作遺跡が紀元前10世紀の菜畑遺跡とされているが、朝鮮半島の稲作開始時期との不一致から
稲作は南方系ルートでもたらされたとする考えが主流になってる事も失念してはいけない。
古田史学による北九州マンセー説というのは、根本的に日本古代の朝鮮起源説に近い思想的な世迷言成分を含んでいる。

367:日本@名無史さん
19/12/19 09:00:19.90 .net
倭奴国は極南界だー、糸島は伊都国だー、と大声でいうヤカラも古田に同じ。
要するに、
九州の先進地とは、福岡県博多と九州帝国大学であり、
その他の諸県・諸大学は未開の蛮族の地にすぎぬという偏見で成りたっているのがミエミエ・・。

368:日本@名無史さん
19/12/19 09:23:56 .net
なんでもかんでも、福岡博多、糸島地方に誘致しようとするのは、
言い換えれば、九州版畿内説といってよかろう。

九州版奥山、九州版キナイコシは、もしかして畿内から出張して来ているのかもしれぬな。

369:日本@名無史さん
19/12/19 10:00:57.23 .net
>>358
古田史学ってのは北九州版朝鮮起源説だよ。
幻の九州王朝とか言い出すんだぜw

370:日本@名無史さん
19/12/19 10:05:36.86 .net
無理やり島めぐりさせて、福岡博多に落とし込んだのは、
そういうことだったんだろな。

371:日本@名無史さん
19/12/19 10:24:15.70 .net
渡来王朝だよ、何れにしろ。中国五斗米道か?新羅か、百済、月支国辺りかの違いだけで。共立王朝なんて3韓のやり方出し、武内宿禰300年なんてのも嫁を使って支配する半島のやり口だよ。

372:日本@名無史さん
19/12/19 10:36:12 .net
>>361
その渡来王朝ってのは、いつ頃どこから日本に渡ってきて、その後どこに土着して、その後どうなったんだ?

373:日本@名無史さん
19/12/19 11:08:22.78 .net
>>356
華南インドシナブタロイド乙 

弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が
伴っているところから、前11世紀頃と考えられている。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)'%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%83%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1'

.

374:日本@名無史さん
19/12/19 11:21:53.37 .net
>>363
残念だがオクキョン遺跡の年代測定はまだされてないよ。
土器片からの推測だけだ。

375:日本@名無史さん
19/12/19 11:25:47.21 .net
そもそも朝鮮半島の稲と日本に広がった稲のDNAが一致してないって言う、どうにもならない壁がある。

376:日本@名無史さん
19/12/19 11:32:19 .net
サンプル数がわずかなくせに
DNAが一致してない
なんていいきれるわけがないし

377:日本@名無史さん
19/12/19 11:36:14 .net
蔚州検丹里より古いというわけだね

378:日本@名無史さん
19/12/19 11:41:19 .net
前11世紀頃と考える まぬけもいるけど
弥生早期の始まりに
決定的な影響を与えていることだけは否定できない

379:日本@名無史さん
19/12/19 11:41:19 .net
>>365
>稲作は南方系ルートでもたらされたとする考えが主流になってる


で、その頭のおかしな考えの考古学者の氏名は?



今すぐ言ってみろよクッサイ汚らしい醜悪極まる華南ニグロブタチンコロのおまえ

380:日本@名無史さん
19/12/19 11:44:30 .net
>>365
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

381:日本@名無史さん
19/12/19 11:58:33.45 .net
>>370
唐古鍵の炭化米と菜畑の米が別ルーツだとでも言いたいのか?

382:日本@名無史さん
19/12/19 18:27:05.79 .net
【其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 
斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好?没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 
諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東
其風俗不淫 男子皆露? 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈? 
作衣如單被 穿其中央貫頭衣之】
郡から女王国まで12000余里としたうえで、続いて海洋民族としての特徴、魚貝食、断髪、蛇の咬害避け目的の
入れ墨の説明のあとに「計其道里 當在會稽東治之東」としている
その中で「夏后少康之子封於會稽」のくだり夏王朝少康の子(無余)が會稽に封じられて初代越王になった話を
交えてからの「當在會稽東治之東」であるので「會稽」は越国の首都(現在の紹興市)であろう
それと倭人の入れ墨が今や飾りの意味合いになっている、がそれは越人の文様に酷似している事をも暗に示して
いると見る
東治は東冶であれば福州市の古名でかなり離れているが、幅を取って紹興市?福州市からの東方位としても、
机上では琉球?種子島であるが海流・風で流される事を考慮して九州島南西部に相当すると見る
それは倭人から聞いた話(先祖が実際に呉・越から東に向けて直接渡海上陸した)なのであろう
そうでなければワザワザこのくだりを倭人伝に盛り込む意味が無い
遥か彼方の見えない陸地の方位を当時の計算で割り出せるならその方法を教えていただきたい
先祖が渡海上陸した時期より数百年のタイムラグあると思われるが大きく位置を変えていれば記述しているはず、
なればズバリ隈本の近辺だろう(大隅薩摩は狗奴国か)
※倭人伝の上記部分だけで推理してみました
 あちらのスレで話題になってますが荒れてるのでこちらに

383:日本@名無史さん
19/12/19 20:58:33 .net
>>347
貝輪の分布の中心は北部九州の有明海沿岸
つまり筑後山門=邪馬台国のあたり

URLリンク(stat.ameba.jp)

384:日本@名無史さん
19/12/19 21:05:21 .net
>>370
稲作縄文時代開始説をヒステリックに否定する稲作弥生時代起源説盲信者たちの背後には、いたっい誰がいるのか。
菜畑より古い水田跡が朝鮮半島で出ているのか。
答えは明らかだろ。
縄文時代があってこその弥生時代なのを忘れるなよ。

385:日本@名無史さん
19/12/19 21:10:02 .net
>>373
このゴホウラ貝腕輪の分布範囲と貝殻文土器の分布範囲は完全に一致している。

386:日本@名無史さん
19/12/19 21:17:18.53 .net
>>375
西日本の縄文弥生文化の基層にある海人文化がどこから来たか明らかだ。
それは南九州。
そして、その南九州の海人文化の半分は1万2000年前の百越にルーツがある。
もう半分のルーツは細石刃文化で、これはアルタイ地方が起源地だ。
南北の二重構造が西日本の文化の基層にあるのだよ。

387:日本@名無史さん
19/12/19 21:21:48.23 .net
だから、日本文化稲作起源説は無駄。
弥生の土器に縄文


388:の模様が継続していることがそれを証明している。 また、銅鐸の流水紋は北陸あたりの縄文模様が起源とされる。 稲作文化はそうした縄文文化の上に乗っかっているだけに過ぎない。



389:日本@名無史さん
19/12/19 23:12:50 .net
>>350
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))

  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

390:日本@名無史さん
19/12/20 00:32:42.09 .net
>>354
>>352
>九州島が筑紫島、筑紫州と呼ばれていたという、日本史の常識を無視した古田史学の罪は深い。
そんなのは、王都筑紫(福岡)から離れた関西の田舎者が九州の地理もよくわからずに十把一絡げにした妄想だよ。

391:日本@名無史さん
19/12/20 00:38:57.82 .net
>>377
土器はそうだが、祭祀は稲作を中心に組み立てられている。
神無月、新嘗祭などは基本的に稲の収穫祭だ。
庶民の生活の基盤である土器の文化と、まつりごとを行う首長層は別なんだよ。
九州北部の稲作銅鏡銅矛文化が列島の支配者層の基盤なんだ。
だから今でも天皇は稲の収穫が終わると新嘗祭を行い、筑紫からもたらされた三種の神器を敬い、天孫が筑紫にもたらしたという八咫の鏡を祖先神の魂として即位の報告をするんだよ。

392:日本@名無史さん
19/12/20 02:56:28.38 .net
◇◆◇ 創価学会の「不都合な真実」◇◆◇
十数年ほど前、創価学会は外資系のコンサルティング会社・アクセンチュアと契約して、
今後の布教活動の方針等について助言を求めた(高橋篤史著『創価学会秘史』による)。
それに対するアクセンチュアの提案は、「三代の会長」即ち、初代・牧口常三郎、第二
代・戸田城聖、第三代・池田大作への個人崇拝を教義の中核とし、創価学会にとって不
都合な過去を「無かったこと」にすることで、教団の正統性を訴えるというものだった。
創価学会が無かったことにしたい過去とは、牧口常三郎が戦争に賛成し、特高警察とも
協力していたこと、戸田城聖の詐欺まがいのビジネス、池田大作が高利貸しだったこと
や女性スキャンダル、「護符」と称するマジナイを大々的に行っていたことなどである。
こうした過去を封印するため、創価学会は「精神の正史」と位置づけている『人間革命』
を改訂したり、戦時中に発行していた機関誌を『牧口常三郎全集』から削除したりした。
不都合な真実を隠すことで正統性を偽装する宗教が「正しい信仰」と呼べるのだろうか?

393:日本@名無史さん
19/12/20 03:48:45.26 .net
>>380
祭祀が稲作を中心に組み立てられているというのは誤りではないか。
神を祀ることは米の収穫にかぎらず、いろいろな事柄に対して行われるので、祭祀行為が稲作を中心に組み立てられていることはない。
新嘗祭はそうした神祭りの行為の一つであり、コメ、ムギ、アワ、ヒエ、マメの五穀が神に奉げられる。
コメだけが対象ではない。
ただ、そうしたいろいろな事柄において行われる祭祀を一元的に行うようになるのは、やはり律令からではないか。
祭祀を国家的に管理するようになって、神の系列化や神の位階を国家機構が取り仕切るようになる。
縄文弥生の頃には、このような一元的な祭祀の管理はまったく生じていない。
そして、3世紀の頃の政権は明らかに海人系の勢力が担っており、その文化は基層もなにもなく全体が縄文文化の延長上にあったといえる。
弥生時代を描いた絵などには必ず水田で稲作に従事している光景が描かれて、弥生は稲作だとの印象付けが行われるが、あの光景は江戸時代のものだろう。


キビやムギ、ヒエ、陸稲などはそれぞれの収穫時期に祀りを行ったのではないか。
水稲は10月くらいの収穫で、やはりその時期に祀りが行われたはず。
新嘗祭は五穀を神に奉げる神事で、コメ、ムギ、アワ、ヒエ、マメがその五穀。
なので、それぞれの祭りを一つにまとめて秋に行うようになったのは稲の収穫が最大に重要だったからだろう。
この

394:日本@名無史さん
19/12/20 07:14:59 .net
>>380
>だから今でも天皇は稲の収穫が終わると新嘗祭を行い


阿波忌部は今も天皇家と繋がっている。 天皇家の出身地だから。

宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭(だいじょうさい)、新嘗祭(にいなめさい)の起源が『日本書紀』の斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に示されている。

福岡や佐賀なんて天皇家となんの関係もないんだから、論外である。   @阿波

395:日本@名無史さん
19/12/20 08:22:08.19 .net
URLリンク(publications.asahi.com)
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
 縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です
URLリンク(imgur.com)

396:日本@名無史さん
19/12/20 09:03:39 .net
>>384
ふーん
では、この写真のブツは何なのだろうか? 
イネそっくりだが、ほかに該当する植物は思い当たらぬぞ。
またノギのない品種もあるし、ノギがあっても食用のためスリコギを用いてモミすりすればノギは取れる。
人為の結果も考慮すべし。

397:日本@名無史さん
19/12/20 11:48:40 .net
>>382
>ただ、そうしたいろいろな事柄において行われる祭祀を一元的に行うようになるのは、やはり律令からではないか。

新嘗祭は律令制より確実に古い。
神無月はもっと古い。

>縄文弥生の頃には、このような一元的な祭祀の管理はまったく生じていない。

根拠なし。
出雲はおそらく弥生の話だろう。

>>382
>なので、それぞれの祭りを一つにまとめて秋に行うようになったのは稲の収穫が最大に重要だったからだろう。

つまり主に稲の収穫を祝ったんだよね?

398:日本@名無史さん
19/12/20 11:52:46.46 .net
>>384
縄文時代にも稲作そのものはあったが、陸稲であり、食糧調達の中心ではなかった。
弥生時代の特徴は、水田耕作を中心に集落の形態や、暦や灌漑のための指導体制まで含めて、社会全体が稲作を中心に構成されていた点にある。
単に稲作があっただけではない。

399:日本@名無史さん
19/12/20 12:21:53 .net
>>383
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
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      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))

  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

400:日本@名無史さん
19/12/20 13:25:43.96 .net
↑朝鮮煙幕チンコロw
チンコロは絶対に叩かないw

401:日本@名無史さん
19/12/20 15:18:08.59 .net
>>385
みなそう思うよな。

402:日本@名無史さん
19/12/20 15:22:46.42 .net
>>387
暦が来たのは6世紀だとされてるぞ。
弥生に中国の暦は存在しない。

403:日本@名無史さん
19/12/20 15:28:27.66 .net
>>387
弥生は部族社会であって、それらの部族が一元的に統制されていたことは弥生時代にはない。
古墳時代になっても氏族が誕生するのは5世紀頃からだ。
この氏族がヒエラルキー的に関係づけられるようになってくるのが応神難波政権からというのが常識。
弥生は部族の社会なんだということを忘れずにな。

404:日本@名無史さん
19/12/20 15:47:05.94 .net
>>391
遣隋使が倭人は暦も里程も知らんと書いてるよな。

405:日本@名無史さん
19/12/20 16:34:27 .net
>>387
縄文時代に稲作はない。

菜畑遺跡より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が一粒もないからだ。

406:日本@名無史さん
19/12/20 17:23:11 .net
>>391
ところがどっこい。
弥生後期には農耕暦の二十四節気が入って来ている。
まあしかし、これはいわゆる暦、太陰太陽暦とは違うものだがな。

407:日本@名無史さん
19/12/20 17:25:24 .net
>>394
文化庁の回し者か。
菜畑の炭化稲籾にはノギがあるのか。

408:日本@名無史さん
19/12/20 17:35:01.33 .net
>>394
証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が「一粒もない」というのはいいすぎというものだ。
無いのではなく、見つかっていないと認識すべきだろう。
縄文期の水田/陸田跡はあちこち見つかっているのではないのか???


409:日本@名無史さん
19/12/20 17:48:20.12 .net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

410:日本@名無史さん
19/12/20 17:49:11.66 .net
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

URLリンク(inoues.net)
.


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