【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾 - 暇つぶし2ch102:日本@名無史さん
19/12/11 19:42:27.35 .net
>>66
そうやって水行陸行をひと繫がりのルートとするのは誤読だってすでに判明しているのにそのテンプレもどき必要か?
> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない
>
> 【用例】
> 通鑑釋文辯誤卷六
> URLリンク(www.kanripo.org)
> >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
>
> 【嘉興府志】
> URLリンク(wenku.baidu.com)
> >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

103:日本@名無史さん
19/12/11 19:45:18.82 .net
>>98
それは間違ってるね。
A地点→B地点を水行陸行それぞれで記した文章と、
A地点→B地点を水行、B地点→C地点を陸行、で別々に記した文章とを混同している。
あんたの負けだ。

104:日本@名無史さん
19/12/11 20:01:39 .net
>>97
畿内纒向説の破綻に伴い、
原田大六が唱えた伊都国糸島説も連鎖破綻した。

105:日本@名無史さん
19/12/11 20:02:17 .net
死せる孔明 卑弥呼を… 古賀 英毅
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)
魏志倭人伝は約2千字の漢字で記される。正史「三国志」にある各国伝の中で最長だ。
渡邉教授によると、三国志以外の中国正史では倭の記述が最長のものはないそうだ。
「邪馬台国という“大帝国”がはるばる貢ぎ物を持ってきたのは仲達の功績。だから編者の陳寿は倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。

三国志は仲達の孫、司馬炎が建てた西晋の時代に作られる。仲達は「高祖」と追号され「王朝の創始者」になる。皇帝と同格だ。
中国の皇帝はその徳を慕って異民族が貢ぎ物を持ってくるとされる。邪馬台国の遣使は、仲達が皇帝と呼ぶにもふさわしいことを証明する
絶好の素材だった。仮に公孫氏を滅ぼしたのが仲達でなかったら、倭人伝は重視されず、卑弥呼は歴史に残っていないかもしない。

106:日本@名無史さん
19/12/11 20:03:19 .net
>>99
そんな意味不明な負け惜しみを書かれましてもw

107:日本@名無史さん
19/12/11 20:21:29.97 .net
>>69
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

108:日本@名無史さん
19/12/11 20:23:40.04 .net
>>98を踏まえて魏志倭人伝をよく読むと、倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えていることに気付く
わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . ┃
ルート分岐① ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐② ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 投馬國
ルート分岐③ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┗→ 邪馬壹國
という構造

109:日本@名無史さん
19/12/11 20:23:58.68 .net
>>102
文章がまるきり雑然としてるな。
散らかし放題のごみマンション暮らしみたいな感じだ。少し整理整頓したらどうだ。

110:日本@名無史さん
19/12/11 20:26:37.13 .net
>>105
>>102

111:日本@名無史さん
19/12/11 20:39:29 .net
104
> 動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
> ルート分岐
>? ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國

奴国の場合は、距離と方位の起点が前段の伊都国から移動しなかったのであるから、
移動しなかったはずの奴国を起点にしてその次の不彌国を決めるというのは論理矛盾で解せぬ。
キミの原則に従えば、だれが読んでも伊都国から東に行くと不彌国でなくてはならぬ。

ま、どうせ想定される現地に合わせて小細工してるんだろうけどな。

112:日本@名無史さん
19/12/11 21:13:29 .net
>>102
あんたが示しているのは
2点間の移動について、水行と陸行を並記したもの。
A→(水行陸行)→B

魏志倭人伝の行程は、
A→(水行)→B→(水行)→C→(陸行)→D
のように、地点が連なっている。

文法すら理解できずに
間違った引用をして恥ずかしくないのかね?

113:日本@名無史さん
19/12/11 21:16:08 .net
>水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である

魏志倭人伝のどこに、「水行●●陸行▲▲」という表現があるのだろうか



赤っ恥~♪

114:日本@名無史さん
19/12/11 21:45:21 .net
>>64
反論するなら最低限の漢文読解力を身に着けてからにしたほうが良いぞ無能

115:日本@名無史さん
19/12/11 22:07:33 .net
>>110
>伊都は女王国に属している国であって女王国ではない

どの部分のこと?

116:日本@名無史さん
19/12/11 23:25:13 .net
  ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
        └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))

  ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
     〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
      └i===|┘i===|┘.i===|┘
     ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉

  ♪    /.i   /.i.  /.i
♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
      〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
      └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
         〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

117:日本@名無史さん
19/12/12 04:15:37 .net
>>93
おっと。
まあ、倭人伝の投馬国は、鹿児島県の今の南さつま市阿多だよ。
万之瀬川の河口あたりだ。
そして、ここが伊弉諾が禊して天照や素戔嗚の神さんを生んだところだ。
倭人伝と日本神話がクロスする唯一の舞台だ。
ちなみに、宮崎の日下部さんはここの出身だけどな。
とすると、日下部さんは隼人の出だということになる。
おっと、倭人伝だったな。

118:日本@名無史さん
19/12/12 06:36:08 .net
>>113
「日下姓の起源」

古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。

日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。 

「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。

勿論、日本書紀にも出てくる。

阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。

徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。

香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。

このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、

この日下姓をとってみても、記紀は四国地方を記したものと言える。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

119:日本@名無史さん
19/12/12 06:43:16 .net
司馬懿のドラマで昨日とうがいが屯田の為、田を計ってたけど一歩は1・38だったから百歩は138メートルだよ

120:日本@名無史さん
19/12/12 08:02:21 .net
> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない

中国大陸においては、これを分断する大海はないのであるから、
水行○○、陸行○○の記述は、事実上、河川水行もしくは陸上陸行のケースに限定されるといっても過言ではない。

しかし倭は帯方東南大海の中であるから、倭へ至るには大海を渡らざるを得ない。
また島国であるから、海を渡り、川を渡った後に、また島を歩いたかもしれない。

中国大陸のしかも他の時代の文章をベースにおき、
これを絶対のものとして、安直に倭人伝を従わせようとするのは妥当な思考方法ではない。

121:日本@名無史さん
19/12/12 12:42:19 .net
だから卑弥呼の墓は百位無いとダメだね。行程は伊都国到で後は至るだから共立の首都は伊都、で伊都から水行なら十日、歩いて行けば一月が都 、だからたぶん宇佐。現実三月で陸一月は統治出来ない。宇佐なら西日本の中心位だし、やがて東遷して中心をずらしたんだよ。

122:日本@名無史さん
19/12/12 15:14:02 .net
間違えた水30日陸一月ね。舟漕ぐしかない時代に 畿内は遠すぎるし、百か国の時代デカすぎる。

123:日本@名無史さん
19/12/12 15:38:44 .net
>>114

泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

124:日本@名無史さん
19/12/12 17:05:39.46 .net
>>114
記紀の日下って港じゃない?

125:日本@名無史さん
19/12/12 17:10:34.63 .net
>>120
どのみち、記紀は倭国(阿波)の記述だから。   @阿波

126:日本@名無史さん
19/12/12 18:04:09 .net
邪馬台国には南水行20日の投馬國から、南水行10日で上陸した。
末盧國、伊都國、奴国、不彌國は、九州北岸域である。
これらが想定できる場所から、いずれも南に水行は出来ない。

そもそも、船は末盧國で下船しているから無い。 瀬戸内海フェリーの想定かwww
文法論の張先生説の末盧國起点はある意味正しいのだが、
文法をこじつけても南を読み替えちゃったら畿内説以下だ。

帯方郡から
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸

この2国は、都市間の距離を里程で示した地名ではなく、
人口も有ではなく可で示した国名。 
邪馬台国は筑紫、次有21国で7万戸で此女王境界所盡。

女王国=邪馬台国には投馬国入国地点から、水行10日で上陸した。
女王の都とする処には、さらに陸行1月を要した。

都市間を里程で示した行程とは明らかに別の話であって
これは、240年の梯儁と247年の張政の記録が併記されている。

倭人船で寄港地の里程を残した張政は伊都までしか来ていないし、
魏の軍船で半島西岸も初探検の梯儁は、卑弥呼王宮で金印を渡している。

日本の王が瀬戸内海を往来できるようになったのが
これ以降なのに、梯儁が自前の魏の軍船で畿内の王に謁見できてたら
日本は不沈空母でもなんでもなく、半島同様の奴隷収奪地だろ?

日本古代王朝ってのは、魏が公孫氏と韓王を滅ぼした
250年でも湾岸から奈良に遷都するほど臆病なんだぞ?
難波に降りたのは、313年漢四郡撤退以降だよ。

127:日本@名無史さん
19/12/12 18:09:06 .net
>>122
>これらが想定できる場所から、いずれも南に水行は出来ない。

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

128:日本@名無史さん
19/12/12 18:30:27.63 .net
伊都ってのは、博多の西麓で多分湾岸含む早良。
末盧国ってのは、糸島北岸しかない。
そんなとこで張政が降ろされた理由は
卑弥呼の墓があった、首都港を軍事上見せたくなかった。の二択。
卑弥呼の墓は、150m日本史上最初の巨大古墳。
しかし、1年かかってないw 最初だし・・・
この後、日本は対魏晋の富国強兵政策で半島進出
牛馬の移入、鉄の国内生産を成功させているのである。
梯儁の軍船は、呼子唐津どころか糸島でもマヌケであって
博多湾に入るに決まってる。 
風で宗像?土井ヶ浜~呼子についても、徒歩の必要は無い。
船は海流や風と無関係に最後は博多湾に入るに決まってる。
@阿波は、相手にしないで良いから。。。

129:日本@名無史さん
19/12/12 18:48:10.43 .net
>>124
>船は海流や風と無関係に最後は博多湾に入るに決まってる。
対馬海流に流されて、末盧国は福津・宗像方面に決まっている。  わははははは   @阿波

130:日本@名無史さん
19/12/12 19:12:21.03 .net
船は目的地が何処か?
壱岐を出ると自然条件で、呼子~出雲としても
博多に帰ってこないと、仕事じゃ無いし帰る港は釜山だろ?
基本的には経験値で帰国が難しいだけの話だけど
呼子から流されても良いけど、
呼子まで行けば、五島から済州島、長江河口ルートも有るんだよ?
邪馬台国に丹の輸出は無い、でも言ったけど、
@阿波は相手にしない方が良いw

131:日本@名無史さん
19/12/12 19:33:35 .net
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

URLリンク(wi12000.starfree.jp)

132:日本@名無史さん
19/12/12 19:52:02 .net
>>126
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)   

大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由  大陸への出航地(平戸市周辺)

大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

133:日本@名無史さん
19/12/12 20:07:47 .net
>>126
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)   

大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由  大陸への出航地(平戸市周辺)

大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  

因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、

一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。   @阿波

134:日本@名無史さん
19/12/12 21:50:39 .net
>>107
>奴国の場合は、距離と方位の起点が前段の伊都国から移動しなかったのであるから、
>移動しなかったはずの奴国を起点にしてその次の不彌国を決めるというのは論理矛盾で解せぬ。

君が論理を理解できてないだけ
起点というのは距離と方位の測定起点であって測定者の移動を意味しない
伊都から不彌国まで移動するのであれば間に奴国を挟む意味が無い

135:日本@名無史さん
19/12/12 21:53:33 .net
>>109
南至邪馬壹國 女王之所都 【水行十日陸行一月】

恥晒しは君一人だよ

136:日本@名無史さん
19/12/12 21:55:07 .net
>>108
>魏志倭人伝の行程は、
>A→(水行)→B→(水行)→C→(陸行)→D
>のように、地点が連なっている。

南至邪馬壹國 女王之所都 【水行十日陸行一月】

連なってませんが何か?

最近湧いてきたこの糞レベルの低いアホは畿内説なのかね?

137:日本@名無史さん
19/12/12 21:58:48.15 .net
>>116
地形がどうであろうとも文法が変わるものではない
でないと地形を知らない者には読めない文章となってしまう
複数の実例が示されている以上、水行●●陸行■■は
「水行ならば●●掛かり、陸行ならば■■掛かる」以外の読み方はできない

138:日本@名無史さん
19/12/12 22:24:37 .net
筑紫神社
URLリンク(genbu.net)
> 祭神は、五十猛神とも白日別神とも云われ筑紫の国魂である筑紫大明神。
> 後に、玉依姫命と坂上田村麿の霊を配祀した。
>
> もとは、筑紫の城山山頂に鎮座していたが、後、麓に移転したという。
>
> 『筑後國風土記』に、「筑紫」の語源として以下の話がある。
> 昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、
> 麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。
> 筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女として、その神を祀らせた。
> それ以後、人々が殺されることはなくなった。

五十猛が安曇磯武良と同一神であることは過去スレで既出だが、この神が筑紫の国魂として祀られている
そしてこの神が荒ぶって大勢の人が死んだので、筑紫と肥の君らが巫女を立てて鎮めたたというのは
まん


139:ま倭国大乱からの卑弥呼共立を指しているように思える



140:日本@名無史さん
19/12/13 01:55:11 .net
>>121
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

141:日本@名無史さん
19/12/13 01:55:44 .net
>>123
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

142:日本@名無史さん
19/12/13 01:56:41 .net
>>125
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

143:日本@名無史さん
19/12/13 01:57:11 .net
>>128
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

144:日本@名無史さん
19/12/13 01:57:19 .net
>>129
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

145:日本@名無史さん
19/12/13 02:07:51 .net
>>114
>古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある

この(くさか)に「日下」の字を当てるその理由が不明らしい。
いろんな説があるが、日本書紀神武紀の初めのほうに「河内国の草香邑の…」とあり、この草香邑は現在の東大阪市日下町あたりだとみられていて、日下(くさか)の元々の字はこの草香(くさか)だとされている。
草香になぜ日下の字が当てられたのかが学者の頭を悩ませている難問なのだ。
この難問に挑戦すると、日下の字が当てられた理由としては、次のことが考えられる。
埼玉県に草加市があり、草加の読みは(そうか)だが、これは元々は(くさか)だと思われる。東大阪市の草香(くさか)と同じだ。
この草加市の地形をみると、中川や綾瀬川などの大河の堤防に囲まれた土地だという。
東大阪市の草香も生駒山から流れ下る川の堤防の間にできた扇状地で、昔はすぐ西に河内湖の港があった。
つまり、この草香邑は生駒山と川の堤防と海に囲まれた場所だということになる。
埼玉県の草加市も東大阪市の草香邑も高い土手に囲まれた低地なのだ。
そして、その低地の土手の上には日が射していて、そして低地部分はやや暗い日陰になる。
この日陰という意味が(土手の上にある日よりも下にある低地)、つまり日下(ひのした)という表現になる。
これが日下の字の由来だろう。
このことからすると、草香(くさか)、草加(そうか=くさか)という地名は(川の土手に囲まれた低地)という意味であることが推測されるのだ。
この推測が正しいとすれば、ではなぜ川の堤防に囲まれた低地のことを(くさか)というのかという語源については、おそらく(くさ=草、か=場所)であり、(草が生い茂る場所)という意味だろう。
まあ、日下→草香→謎の語源は、たぶんこういうことだろうな。

146:日本@名無史さん
19/12/13 09:01:14.11 .net
このところ、九州説は元気が良いらしい。
いつ見ても上位にかおを出してるじゃないか。結構なことだ。

147:日本@名無史さん
19/12/13 18:32:27.37 .net
>>129
>狗邪韓国(順天)
倭人伝の「狗邪韓国に至る」の停泊地は固城。^^

148:日本@名無史さん
19/12/13 18:37:37.56 .net
倭人伝の「狗邪韓国に至る」の停泊地は順天。^^     @阿波

149:日本@名無史さん
19/12/13 22:12:52 .net
>>134
筑前と筑後の境界っていうと現在の筑紫野市、太宰府市あたりか
その北側は伊都国の一大率が監督していたエリアだな
それがイソタケル=伊都王か
またひとつパズルのピースが埋まったな

150:日本@名無史さん
19/12/13 23:22:26.41 .net
>>127
>此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり
この「笠沙の御前を真来通り」の主格がよく分からないな。
「韓国に向ひ」の主格は「此の地」であるので文章としては問題ないが、それに続く「笠沙の御前を真来通りて」とはいったい何が「真来通る」のか、文意が伝わらないへんな文章だ。
この古事記の文章の整合性のなさと比べると、日本書紀のこの箇所の記述はごく普通に文意が通るものとなっている。
古事記のこの文章は、日本書紀の文章を故意に変更したもののようにみえる。

151:日本@名無史さん
19/12/13 23:46:12.74 .net
>>127
福岡の高祖山が高千穂だとすると、天孫はどっから来たんだ?

152:日本@名無史さん
19/12/14 00:32:02 .net
>>145
「この地」は、笠沙岬に道が通じている

153:日本@名無史さん
19/12/14 02:36:27.97 .net
>>147
>「この地」は、笠沙岬に道が通じている
笠沙の岬を真木通りて→笠沙岬に道が通じている。
上の訳からすると、「真木(まぎ)」の意味が不明になる。
この古事記の「真木(まぎ)」と同じ発音は、日本書紀では「頓丘(ひたお)から国覓(くにまぎ)行去(とおりて)」の「覓(まぎ)」となっていて、
この日本書紀の「覓(まぎ)」は(求めて)の意味だとされている。
そこで「国覓(くにまぎ)」は(国を求めて)の意となる。
古事記の「真木(まぎ)」は日本書紀のこの「覓(まぎ)」と同じだと思われるので、「笠沙岬を真木通りて」は(笠沙岬を求め通りて)となり、
主格の「この地」を付けると(この地は笠沙岬を求めて通り)の意となり、文意が不明ということになる。
そして、このあとに続く「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」の文にもつながって行かないへんな文章となってしまう。
古事記の文がちゃんと意味が通じるものであるのなら、「真木(まぎ)」の意味をどのようなものとして使っているのかということになり、
「真木(まぎ)」の意味を明らかにしなければならなくなる。
「古事記(現代語訳・口語訳の全文)」のサイトでは、この箇所の「真木(まぎ)」を(まっすぐに)と訳している。
しかし、古語の「真木」はスギやヒノキのことであり、「真木柱(まきはしら)」は(太く立派な柱)のことだという。
なので、「真木(まぎ)」には(まっすぐに)という意味はみあたらず、
古事記の「真木通りて」は、どうにもヘンだということになってくる。

154:日本@名無史さん
19/12/14 04:01:43.98 .net
>>142
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

155:日本@名無史さん
19/12/14 06:46:18 .net
>>149

大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)   

大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由  大陸への出航地(平戸市周辺)

大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  

因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、

一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。   @阿波

156:日本@名無史さん
19/12/14 07:43:26.55 .net
「真来」だし

157:日本@名無史さん
19/12/14 08:05:32.63 .net
>>127
>此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり
此の地は、(北は)韓国に向ひ、(南は)笠沙の御前を真来通り、(東側は)朝日の直刺す国、(西側は)夕日の日照る国なり
意訳だが、要するに上のようにのべているのではないか。
つまり此の地とは九州島のことで、降臨したのは九州島ほぼ中心の阿蘇東麓・高千穂邑
で、真来通りは、韓国に向ひと対をなす句(向かひの別表現)であろう。

158:日本@名無史さん
19/12/14 08:05:36.98 .net
>>127
天孫降臨の場所は古事記と日本書紀で記述が異なり、どっちがどうなのかなんて決めようがないが
そもそも大和言葉では多気は岳で使う場合もあるが、滝で使う場合もあり、久士布流多気が岳なのか滝なのか推測することすらできない。
宮崎県高千穂説だと、高千穂峡の真名井の滝にでも当てるのではなかろうか?
古事記にしろ日本書紀にしろ、その後の話しまで読めば、筑紫の日向の高千穂が北九州ではないことは理解できる。
天孫降臨の地とは何か?
天孫であるニニギが高天原から天降り着地した地点であって、それ以上の意味はない。
ニニギは天降った後嫁取りをしているが、ニニギの妻のコノハナサクヤヒメは別名カムアタツヒメ。
吾田の都(もしくは津)の姫という意味。
吾田というのは、今で言う鹿児島県を指す地名。
日本書紀ではもっとはっきりと、ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが
ニニギの一族は南九州を拠点とした一族であり、卑弥呼や邪馬台国に絡めるなら、卑弥呼と敵対した側の勢力だろう。

159:日本@名無史さん
19/12/14 08:19:43 .net
ひた‐お ‥を【頓丘】

〘名〙 「お」は丘の意で、 ひたすらに続いた丘。ただ丘ばかり続く地形。

阿蘇から
北を見れば韓国に向かい、南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ)行去(とおりて)・・・

160:日本@名無史さん
19/12/14 08:28:26 .net
>>154 つづき
154のように読めば、
南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ=杉)行去(とおりて)・・・となり、
ひたすら続く南九州特有の巨大な縄文スギの林の中を通りて笠沙に至る・・、というような意味ではないか。

161:日本@名無史さん
19/12/14 08:31:51.49 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが

剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

162:日本@名無史さん
19/12/14 09:35:39 .net
>>156
瓊瓊杵尊笠狭宮跡
URLリンク(goo.gl)

163:日本@名無史さん
19/12/14 09:58:48.37 .net
>>157
地図など、どうでもいいからwww   わははははは   @阿波

164:日本@名無史さん
19/12/14 11:14:36 .net
痴呆老人共の巣窟

165:日本@名無史さん
19/12/14 11:16:33 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが


剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

166:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:16.25 .net
>>150
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

167:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:31.65 .net
>>156
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

168:日本@名無史さん
19/12/14 11:38:40.54 .net
>>158
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

169:日本@名無史さん
19/12/14 11:39:22.16 .net
>>160
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

170:日本@名無史さん
19/12/14 12:35:05.87 .net
>>158
諦めろ
古事記、日本書紀のどちらもニニギが居を定めたのは吾田で揺るがない。

171:日本@名無史さん
19/12/14 15:07:24.83 .net
>>152
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
ウェブの古語辞典をみると、真木に(向ひ)の意味はみあたらない。
この真木(まき・まぎ)と同じ発音の語彙は、日本書紀の古事記と同じ文脈の個所にある覓(まぎ)。
この覓(まぎ)は、求めて、あるいは探しての意味。
日本書紀のこの一節を古事記が故意に書き改めたと考えれば、真木の意味が文脈上解釈不能である理由が分かる。
この視点からすれば、古事記の「韓国(からくに)」は日本書紀の「空国(からくに)」の故意の書き換えだとすることができる。
とすれば、古事記の天孫降臨のこの一節に立ってする地理的比定は無駄ということになってくる。
天孫降臨の地の地理的比定は日本書紀の記述に基づいて行うのがよく、その比定地は霧島連山に当てるのが正解。

172:日本@名無史さん
19/12/14 16:14:55.72 .net
>>152
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
「韓国に向かひ」は、この地の北面はかくかくしかじかであるという説明である。
依って、これに対をなすとは、
「また、この地の南面は斯く斯くしかじかである」という地理的あるいは地誌的説明なのであろう。

173:日本@名無史さん
19/12/14 16:43:58.50 .net
>>167
>かくかくしかじか…
とはいうものの、(真木)の解釈が不能であることに変わりがない。
天孫の由来に関わる重要な一節で、古事記ともあろう史書が意味不可解な語彙を用いるのは極めて不可思議なこと。
唯一理解可能な解釈は、古事記のこの一節が故意に日本書紀の同箇所を書き換えたものであるということ。
なぜ書き換えたのかという点はまた別の話になるが、書き換えたことが事実であれば、古事記による天孫降臨の地理的理解は誤りだということになってくる。
この(真木)の語彙は、かくかように極めて重要な一語となっている。

174:日本@名無史さん
19/12/14 17:04:32.33 .net
一般には、古事記が先で、
これをもとに日本書紀が時の朝廷の都合に合わせて手を入れ、完成されたとされている。。
で、真木(クニマギ)は、、
南九州特有の古代巨木杉に覆われた山丘ということで良かろう
これは阿蘇谷杉、飫肥杉、都城杉などのように、今もその面影を見ることができる

175:日本@名無史さん
19/12/14 18:15:58.64 .net
>>169
普通に歴史の時間に寝てなかったら、古事記が日本最古の歴史書で、その8年後が日本書紀ってのは学校で習ったろ。
古事記と日本書紀の編纂過程の違いも授業で聞かなかったか?
古事記は稗田阿礼が誦習した帝紀と旧辞を筆録したもの。
日本書紀はもっと大量の古い記録をひとまとめにしたもの。

176:日本@名無史さん
19/12/14 18:24:15.65 .net
>>169
>一般には、古事記が先で
古事記はダイジェスト版なので完成が早かった。
出発点は同じ。
古事記の編纂者は、日本書紀の編纂所に出入り自由だったようにみえる。
日本書紀が編集完了した天孫降臨や日向神話などを自己の編集目的に沿って書き換えたり、資料選抜を行ったフシがみえる。
だから、天孫降臨や日向神話を独自に日本書紀のそれよりも早く完了していたようには思えない。
むしろ、日本書紀のその部分のほうが古事記のそれよりも先に編集が完了していたと思うね。
それを見ることができた古事記の編纂者は、自分の都合によって、その日本書紀の記述を書き換えたことが推測される。

177:日本@名無史さん
19/12/14 18:33:35.56 .net
>>170
江戸時代の国学者が古事記を崇拝したから、教科書を編した学者も古事記のほうを持ち上げただけ。
そして、それを教えた先生もそれを教えてもらった生徒たちも、単にそう思い込んでいるに過ぎない。
古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
しかし、それをしつこく追及していると、いろいろとややこしい話になってくるので、それ以上詮索しないようにしているわけ。

178:日本@名無史さん
19/12/14 19:04:34.40 .net
>>153
>ニニギは天降った後嫁取りをしているが
この点が最重要の部分。
日本書紀では、ニニギは吾田族の土地に住んで、そこの神の娘と婚姻して婿入りする。
一方、古事記では、ニニギは降臨した山上に留まってそこに宮殿を造営し、笠沙御前に遊んだおりに木の花咲くや姫と出会って婚姻して嫁取りする。
吾田が鹿児島県にあることは賛成だが、上の通り、日本書紀と古事記ではこれだけの違いがある。
婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
そして、そのように、古事記は日本書紀とは別の物語を書いたということになってくるわけ。

179:日本@名無史さん
19/12/14 20:25:15 .net
「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   @阿波

URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

180:日本@名無史さん
19/12/14 20:33:00 .net
>>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが


剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

181:日本@名無史さん
19/12/14 20:37:15 .net
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   @阿波

URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

182:日本@名無史さん
19/12/14 20:38:25 .net
さが平野をさがせ、、

さが平野をさがせ、、

さが平野をさがせ、、

183:日本@名無史さん
19/12/14 20:39:51 .net
日本(日本人)の話ではないんだけど、どういう事なの?
ほとんどウラシマンの家の話でしょ。

184:日本@名無史さん
19/12/14 22:37:17 .net
>>160
徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?

自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた

というものだから・・うーんw

185:日本@名無史さん
19/12/14 22:40:24 .net
>>179
>徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?

その通り。   @阿波

186:日本@名無史さん
19/12/14 22:42:05 .net
>>177
奈良を掘りまくってあれだったから勢いづいてるんだろうけど
佐賀平野なるものが作られたのも邪馬台国より後でしょうよ

187:日本@名無史さん
19/12/14 23:28:50 .net
佐賀平野って人工的に作られたの?

188:日本@名無史さん
19/12/15 02:42:30 .net
>>169
>真木(クニマギ)は、南九州特有の古代スギに覆われた山丘ということで

そんなのマギ?
マジ?ノシャレナ。

189:日本@名無史さん
19/12/15 06:59:18.00 .net
>>183
唯一マジは
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)
大吉野川をはさんで
邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」   
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

190:日本@名無史さん
19/12/15 08:32:12.54 .net
>>183
マギーさんというわけではない。
古代史というと、とかく王朝の政治・軍事というような王権文化的な思考で読みたがるようだ。
しかし記紀や倭人伝を読んでみると、
古代人が巨大な恩恵を受けていた、或は、脅威を被っていた大自然に対する畏敬の部分もたくさんある。
現代人がすっかり忘れてしまっているぶぶんだ。
古代の佐賀平野は、その東端から西端まで、巨大なクスノキの杜が連なっていたようだ。
古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた。
(今も佐賀平野筑後平野には、小さいけれどもクスノキの杜を見ることができる)
みなみ九州も同様だったのであろう。
雨が多くて湿潤温暖な南九州では、水気の多い場所には良く杉が


191:立つ。今でも都城は全国トップレベルの杉の産地である。 伐採する人も道具もなかった古代には 数百年・数千年の巨大杉の森が見渡す限り連なっていたことであろう。 古代人はその景観の中、巨樹の下を通り抜けて笠沙行去することを「真木通る」と記載したのであろう。、 。



192:日本@名無史さん
19/12/15 08:42:57 .net
また杉作(不明)の話をしているの?

193:日本@名無史さん
19/12/15 08:45:47 .net
おまいは偽を(奉って)祀っているんだよ、
というのも有名な話みたいだしな。

ネットなどでも、
どこそこ()は偽の~~~を、まつっているとか。

194:日本@名無史さん
19/12/15 12:21:27.81 .net
佐賀中心部にある与賀神社には
樹齢1400年以上
一説には1600年以上と言われる
クスノキが天然記念物として
指定されていますね。

195:日本@名無史さん
19/12/15 12:42:38.54 .net
日本書紀だったかな、
佐賀平野の中央にはクスノキの巨大な古木があって、朝日の影は平野の西端に届き、夕日の影は東端まで届いた・・、という旨の記事がある。
これは1本の巨大樹のことではなく、楠木の杜が東西に連なっているさまを劇画的に述べたのであろう。
与賀神社の推定樹齢1600年委禱ともいわれるクスの古木は、卑弥呼のころに芽を出した若木だったというわけだ。
歴史の証人に感激!!

196:日本@名無史さん
19/12/15 12:48:46.67 .net
>>189 の訂正
与賀神社の推定樹齢1600年以上

197:日本@名無史さん
19/12/15 12:57:19.78 .net
1400年だったら西暦600年
サバ読んで1600年でも西暦400年じゃないか
卑弥呼だと1770年前だぞ
100年以上もちがう

198:日本@名無史さん
19/12/15 13:13:53.57 .net
そうかそうか、気になるか。
ま、いずれにせよ、そのタネをもたらしたクスノキの親樹の並木は、当時既に相当の古木ばかりだったことであろう。
樹の下を行去する弥生時代・古墳時代の人々を見下ろしつつ、タネを撒き続けてきたのであるが、
其のうちの壱の若木が、運よく今の与賀神社に至ったというわけだ。

199:日本@名無史さん
19/12/15 14:48:28 .net
>>185
>古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた…「真木通る」と記載した

クスノキの幹下の薄暗い獣道をずっと佐賀平野から都城を通って、屋久島まで詣でに行くのが「真木通る」かもな~。

200:日本@名無史さん
19/12/15 15:09:24 .net
>>192
>運よく与賀神社に至った

与賀神社の祭神の与止日女神は神功の妹だそうじゃないか。
北部九州では神功が人気だな。
枕詞みたいに神功を神さんに箔付けしているし。
新羅を討った神功は北部九州では英雄なんかもな。

201:日本@名無史さん
19/12/15 15:13:29 .net
>>176
>こういう事実を…

阿波人(忌部)は異常な収集癖だな。
阿波には収集癖の神さんはいないのか? ^^

202:日本@名無史さん
19/12/15 16:26:14.14 .net
>>148
>しかし、古語の「真木」はスギやヒノキのことであり、「真木柱(まきはしら)」は(太く立派な柱)のことだという。
杉や檜は真っ直ぐな木なので建材に用いられる。
まっすぐという古来からの解釈はおおむね外れていないと思う。
ならば、天孫降臨後は韓国からまっすぐ上陸した博多湾沿岸で良いだろう。

203:日本@名無史さん
19/12/15 16:28:30.94 .net
>>172
>古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
昭和の末期に著書の安麻呂の墓が見つかって、序文の正しさは証明されたぞ。
何周遅れの議論をしているのか。

204:日本@名無史さん
19/12/15 16:30:57.67 .net
>>173
>婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
高祖山なら博多湾に面している。
そしてその麓には木花佐久夜毘売を祭る細石神社がある。
高祖神社の祭神は、日向三代の称号である彦火火出見だ。
母親である木花佐久夜毘売の細石神社まで御神渡りする神事もある。

205:日本@名無史さん
19/12/15 16:32:53.74 .net
>>179
>自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた
天孫は戦わずに王として迎えられた。
猿田彦が途中まで船で迎えにきたので、敵か味方かわから�


206:ク緊張した場面もあったようだ。



207:日本@名無史さん
19/12/15 16:33:17.89 .net
>>197
証明されたのは安万侶の実在性だけだよ

208:日本@名無史さん
19/12/15 16:35:02.72 .net
>>188
逆に言うと、邪馬台国の時代に開発により一度全て伐採された。
邪馬台国にとって佐賀平野は手頃なフロンティアだった。

209:日本@名無史さん
19/12/15 16:36:51.86 .net
【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比咩命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

210:日本@名無史さん
19/12/15 16:38:31.89 .net
それで
>>1よりも後の時代になり、渡ってきたと言われている渡来系の人々がいるでしょ、
なぜ先住民(日本の)のような事になっているの?

211:日本@名無史さん
19/12/15 16:44:50.75 .net
★弘仁新羅の乱(渡来朝鮮民族 新羅難民部落の騒乱)
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河、両国に移配した
新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし
日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが制圧できなかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、全員が降服した。
新羅渡来人難民部落の禍乱の経緯から新羅からの帰化人対策に
熟考した藤原衛は新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)
新羅人の日本への来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。
朝議の結果、以後は日本に帰化を申請してきた場合でも即座却下することになる。
難民、漂着民、亡命を希望しても緊急の食料衣服を与えても追い返すこととされた。
これは『貞観格』にも収められ、以後の朝鮮半島及び新羅人対策の基本方針になった。
かつて朝廷(日本国)は、すべての流民の新羅人に口分田まで与えて
帰化を認め寛大に遇して恩を与えたが朝鮮渡来の流民たちは
恩を仇で返し博多などに土着して本国と違法な交易を目論み
それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みした。
この渡来朝鮮人の乱以降、北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、群馬を中心に関東各地、東北にも少数住まわせる事になった。

212:日本@名無史さん
19/12/15 16:47:59.58 .net
どう考えても漢人~中華なのに、
日本の先住民(あの記紀神話、国譲り?とか)のような話になっていたり。
後の時代(かなり最近)に創作された話なんだよwみたいなことを言っている人もいたり。

213:日本@名無史さん
19/12/15 16:53:52.33 .net
ほとんど逆の話をしているんじゃないの?
謎の神話、当時の話

中国、朝鮮半島←日本・倭(不明)、このような感じで国譲り?

214:日本@名無史さん
19/12/15 16:57:31.23 .net
誰が作ったのか、わからないんだけど、
あの謎のチェーンソーのゲームによると・・・、
(主人公、渡来人?)となっているでしょ?
どらごんぼーるのレーダーのようなものも出てきたり
『ドラゴンレーダー』

215:日本@名無史さん
19/12/15 17:01:22.31 .net
『ドランゴンレーダー』
知らない人もいると思うから、調べてみて。
『ドラゴンレーダー』

216:日本@名無史さん
19/12/15 17:20:25.15 .net
>>198
>高祖神社の祭神は…彦火火出見だ
古事記読んだ神主が深く思うところがあったのだろう。

217:日本@名無史さん
19/12/15 17:34:30.98 .net
邪馬台国の頃までは、まだ鉄斧が豊富でなかったので、うっそうとした森はいたるところにあった。
当時九州の30国余は、街道で結ばれていたが、
末盧国の地元道のように、先行く人の背も見えずの草ぼうぼうでは不便極まりないので、
こうした巨木古木の森伝いに雑草や笹竹の少ない獣道共用の街道が通じていたのであろう。
後世、日光の杉並木とか東海道の松並木とか出雲大社の黒松参道などは、
いわば古代の「真木通り」の心地よさ・便利さを、小規模ながら復活したものだったのではないか。
 

218:日本@名無史さん
19/12/15 17:37:37.81 .net
>>200
同意する。

219:日本@名無史さん
19/12/15 17:40:11.96 .net
>>210
>いわば古代の「真木通り」の心地よさ…
ついに新語義の誕生だなぁ。

220:日本@名無史さん
19/12/15 17:45:19.92 .net
>>176
>邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る…
親の大山祇の神も近くに祀っている?

221:日本@名無史さん
19/12/15 17:47:22.54 .net
>>209
鹿児島神宮の主祭神も彦火火出見尊だよ。

222:日本@名無史さん
19/12/15 18:14:28.69 .net
>>214
>鹿児島神社も祭神も…
鹿児島神社の神主は日本書紀派だったらしいな。

223:日本@名無史さん
19/12/15 18:43:56.09 .net
>>213
>親の大山祇の神も近くに祀っている?

阿波国板野郡上板町の大山に所在する大山寺奥の院の「波切不動尊」「黒岩大権現」   
黒岩大権現は「大山住


224:大明神」   @阿波 http://taisanji.jp/



225:日本@名無史さん
19/12/15 18:46:18.75 .net
ついでに、
日本で阿波にしかない、オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の妻を祀る「鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)」   @阿波
URLリンク(sueyasumas.exblog.jp)

226:日本@名無史さん
19/12/15 19:11:30.80 .net
さが平野をさがせ!
さが平野をさがせ!
さが平野をさがせ!     @伊作

227:日本@名無史さん
19/12/15 19:20:15.49 .net
史実とごっちゃにして低能ほど神社うんぬんに引っ掛かるからな
お話にならない知的レベル

228:日本@名無史さん
19/12/15 19:26:26.98 .net
>>219
その通り。   @阿波

229:日本@名無史さん
19/12/15 19:37:20.76 .net
邪馬台国時代あたりの倭国の故事来歴は、
景行王朝(景行天皇ー日本武尊(オウス)ー仲哀天皇ー神功皇后)時代の土蜘蛛・熊襲退治で、完璧に上書きされてしまったように思える。
特に肥前・肥後・日向は、ことのほか徹底的だったような気がする。
しかし故事来歴は失われても、或は建造物は破壊されても、
その遺跡・遺構・街道の痕跡は残されているのではないか。とりわけ道は往時のままに使われ続けてきたのではないか

230:日本@名無史さん
19/12/15 20:00:47.22 .net
無知な大衆をいいように洗脳する史実と作り話を織り交ぜた
捏造洗脳書だからな古事記日本書記の記述は
その辺を注意深く理解する必要がある

231:日本@名無史さん
19/12/15 20:34:12.53 .net
>>211
序文が嘘なら、架空の人間をでっちあげても良かった。

232:日本@名無史さん
19/12/15 20:34:39.60 .net
>>213
博多か志賀島だろう。

233:日本@名無史さん
19/12/15 20:36:04.46 .net
>>219
話について来れない低能

234:日本@名無史さん
19/12/15 20:37:17 .net
>>222
神功皇后がそのいい例だ。
実際には卑弥呼より120年ほど後の人物だ。
九州にいた卑弥呼の足跡を消すのに躍起になっていた当時の大和政権が持ち上げた偶像だ。

235:日本@名無史さん
19/12/15 20:44:38.07 .net
>>216
>黒岩大権現は「大山住大明神」
阿波大山の地主神じゃね。
波切不動は三重大王崎の神さん。

236:日本@名無史さん
19/12/15 20:46:56.18 .net
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、 かんじんの伊作もお忘れなく。     @伊作

237:日本@名無史さん
19/12/15 21:20:10.60 .net
>>223
>序文が嘘なら…
蘇我入鹿暗殺の際に天皇の来歴や古い出来事を書いた史書が失われ、残った記録や諸家が持っていた帝紀、旧辞などを天武天皇が稗田阿礼に読み習わせたとされる。
古事記の編者はその稗田阿礼の誦習したものを筆記して古事記を編纂したというのであるが、
とすると、その当時、稗田阿礼が読み習わした文字資料があったはずで、稗田阿礼の誦習よりもその文字資料をもとに古事記を編纂すればよかったのであり、
日本書紀の編纂は実際にそのようになされたのだろうから、わざわざ稗田阿礼から聞き取る必要がないということになる。
それを稗田阿礼の誦習のみから古事記を編纂したとする序文は、どうもへんだと思われてもしようがないな。

238:日本@名無史さん
19/12/15 22:48:16.02 .net
でも、焚書の言いつけを守らずこっそり書物を残していました
なんて書けないでしょ
焚書の後、何年も経ってから古事記を書き始めたんだから

239:日本@名無史さん
19/12/15 22:58:26.67 .net
稗田阿礼も諸家の語り部から聞いたんじゃない?

240:日本@名無史さん
19/12/15 23:25:33 .net
>>229
稗田阿礼のプロジェクトの方が日本書紀のプロジェクトより先に始まったという証拠だろ。
その上で、日本書紀の完成後は他の書物は焚書したんだよ。

241:日本@名無史さん
19/12/16 02:02:21 .net
>>174
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑

242:日本@名無史さん
19/12/16 02:02:28 .net
>>175
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑

243:日本@名無史さん
19/12/16 02:02:34 .net
>>176
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑

244:日本@名無史さん
19/12/16 02:04:10 .net
>>180
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

245:日本@名無史さん
19/12/16 02:04:19 .net
>>184
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

246:日本@名無史さん
19/12/16 02:04:56 .net
>>216
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

247:日本@名無史さん
19/12/16 02:05:03 .net
>>217
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

248:日本@名無史さん
19/12/16 02:05:43 .net
>>220
どの口がそんな生意気なこと抜かしてんだよwww
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってw

249:日本@名無史さん
19/12/16 02:07:39 .net
>>1
> ※泡チョンコは駄レスが伸びるだけやけん自スレでホルっときーよ
> 邪馬台国四国説 part3
> スレリンク(history板)
>
> 推奨NGワード… 「阿波」「忌部」

>>2
> 泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

>>3
> 泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

>>4
> 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ

>>5
> 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
> ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
> 無能すぎるじょ~~~wwwww

250:日本@名無史さん
19/12/16 02:07:57 .net
>>6
>   ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
>         └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
>
>   ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

251:日本@名無史さん
19/12/16 03:35:39.61 .net
稗田阿礼って藤原不比等のペンネームやなかった?

252:日本@名無史さん
19/12/16 03:38:34.47 .net
編纂時期が天武天皇の命令からやが書かれた時期が持統天皇の時期からでその持統天皇の副臣参謀格って言われたが不比等やからな
古代の怪物って呼ばれとるだ

253:日本@名無史さん
19/12/16 05:47:18.53 .net
不比等が相当、自分の田んぼへバイアスかけとるしな。
そんな不比等は日本書紀でニ二ギを降臨させる役目を高御産巣日神に担わせているが、その高御産巣日神は6文字、
一方、古事記ではその役目は単に高木神として、3文字に下げている。
不比等が自分に似せて高御産巣日神を描かせたのが、古事記は気に食わなんだのだろうな。
6文字から3文字に降格して書いた。
古事記がどんな意識を持っていたか分かるというもんよ。

254:日本@名無史さん
19/12/16 07:55:05.68 .net
出雲風土記の研究者によれば、
とりあえず各国で編纂された風土記の草稿を朝廷に差し出し、
朝廷はそれをもとに(都合よく書き換え編集して)日本書紀を完成させた。
その後、各国に日本書紀を示して、整合性が取れるように書き直させた、と考えられるらしい。
古事記と日本書紀の関係も似たような関係にあり、だから古事記には、出雲国のくだりが特に多いということだ。

255:日本@名無史さん
19/12/16 08:34:44.40 .net
>>246
>だから古事記には、出雲国のくだりが特に多いということだ。
「出雲」のくだりはあるが、「出雲国」のくだりは一切、ない!   @阿波

256:日本@名無史さん
19/12/16 08:54:32.79 .net
そうかい
阿波も国未満だったのか、残念だねえ。

257:日本@名無史さん
19/12/16 09:49:07.24 .net
>>248
阿波にちょっかいを出しても無駄!  トンデモは妄想を楽しんでいるのが分相応。  わははははは   @阿波

258:日本@名無史さん
19/12/16 12:44:37 .net
>>247
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

259:日本@名無史さん
19/12/16 12:44:56 .net
>>249
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

260:日本@名無史さん
19/12/16 15:57:42.02 .net
>>245
古事記は皇統、皇族、皇族系氏族第一主義だからな。

261:日本@名無史さん
19/12/16 16:00:58 .net
まあ、なんだ、真木通るがクスノキの下の獣道を通り抜ける際の慣用句だったというのが、本スレの今年のワードに決定決だな。

262:日本@名無史さん
19/12/16 16:06:54 .net
何で王族が獣道を通るんだよ。

263:日本@名無史さん
19/12/16 16:09:33 .net
「倭は帯方東南大海の中に在り」の一文の「東南」は、狗邪韓国から対馬や壱岐に渡航する際の方角であることは、まず確定事項だ。
その「東南」が渡航ルートにぴったしなのは、固城→


264:対馬→壱岐→呼子加部島ルート。 魏の使節団が倭の方角を確定したのは、このルートで倭へ渡ったからだよ。 このルートがまさに東南の方角だからね。



265:日本@名無史さん
19/12/16 16:12:22 .net
>>254
昔のことだから、王族も獣同然だったということさ。

266:日本@名無史さん
19/12/16 16:22:44.29 .net
>>254
古代においては、
王族と云えどクスノキの下の獣道を我が物顔に行くのがらくちんだったということさ
だから、借り物の道を堂々と行くことを「真木通る」といい、後世これが訛って「罷り通る」となった!?

267:日本@名無史さん
19/12/16 17:01:42.24 .net
>>255
「帯方」東南大海の中に在り
なのに、帯方郡を無視するのは違うくね?

268:日本@名無史さん
19/12/16 18:02:37.89 .net
>>258
ほう、なかなかのツッコミ

269:日本@名無史さん
19/12/16 18:08:23.93 .net
>>257
今年のワード決定!

270:日本@名無史さん
19/12/16 18:14:43.28 .net
>>258
皆、そのダマシにひっかかる。
中国史書では楽浪、帯方、韓、百済・新羅と変化するも、東南の方角は帯方以降変化しない。
つまり、帯方など半島の政体は飾り物ということになるよ。
飾り物だからあれこれ変わってもいいけど、方角については一向に変わらないの。

271:日本@名無史さん
19/12/16 19:10:37.58 .net
倭人伝を解読すれば佐賀ルートになる・・、といってみても、
それは文章上のことにとどまる。
やはり、
地元科学者の調査・発掘による学術的・考古学的な証拠根拠が不可欠だよねえ。
そしていつの日か、古代三世紀のように佐賀平野を東西に貫く大クスノキの森が復活してほしいなあ。

272:日本@名無史さん
19/12/16 19:21:03.50 .net
>>262
佐賀ルートもあったはず。
半島の固城から対馬、壱岐、呼子加部島と東南に進んだ方角は、さらにそのまま東南に進めばその線は柳川の東の山門に達する。
この山門も含めての東南だから、必ずしも伊都、奴、不彌から山門へ行く北回りのルートだけではなく、佐賀平野を通るルートもあったと思うよ。

273:日本@名無史さん
19/12/16 19:37:08.73 .net
>>262
古代三世紀の「佐賀平野」の遺跡はどれ?

274:日本@名無史さん
19/12/16 19:38:00.28 .net
>>262
>地元科学者の調査・発掘による学術的・考古学的な証拠根拠が不可欠だよねえ。
その通り。   倭国(阿波)のようにね。  わははははは   @阿波

275:日本@名無史さん
19/12/16 19:41:08.90 .net
>>264
吉野ヶ里遺跡

276:日本@名無史さん
19/12/16 19:52:58 .net
>>261
魏志倭人伝の冒頭なんだから、当時の地名で書いてあって当たり前ですやん。

277:日本@名無史さん
19/12/16 19:52:58 .net
毎回同じ港に着けると思うかな?
列島に接岸なら、どこでも良いわけで博多湾に帰るだろ?

末盧國が、謎なのは反論する気も無いが?
壱岐から筑紫銀座を目指す時、博多湾に入らない理由は有るか?

博多湾に入らない、ためには、@阿波 
みたいな異常者以外なら別の理由が必要だろ?

247年の張政は糸島北岸の卑弥呼の巨大古墳を見て伊都に駐留。
240年卑弥呼の王宮を見た、初探検の梯儁は、邪馬台国と命名した。

魏が公孫氏を滅ぼしたけど、
韓西岸初探検の梯儁が九州から奈良に行く方法なんて
日本人にも無いヨ?

278:日本@名無史さん
19/12/16 20:34:11.91 .net
>>268
>壱岐から筑紫銀座を目指す時
それがそもそもの間違い!  そんなところに、魏使に用はない!  以上。   @阿波

279:日本@名無史さん
19/12/16 22:15:39 .net
卑弥呼が魏に渡って曹操と結婚した

280:日本@名無史さん
19/12/16 22:48:29.80 .net
>>267
中国史書で倭に関する地理的な記述は漢書。
  それ楽浪海中に倭人有り
この漢書の記述には、まだ倭の方角はない。
方角が現われるのは次の魏略。
  倭は帯方東南大海の中に在り
この二つの文章を見れば、帯方は楽浪から置き換えただけのものであることができる。
次の倭人伝も同じ。
  倭人は帯方東南大海の中に在り
魏略が倭としたものを、いや漢書は倭人としてるでしょ、と注文つけたわけだけど、倭人伝も楽浪を帯方に置き換えただけの魏略の記述を踏襲し、魏略が初めて書いた地理的な東南方角も踏襲している。
そして、次の後漢書は魏略や倭人伝の帯方をさらに韓に置き換えているが、東南の方位は変えていない。
  倭は韓の東南大海中に在り
ただ、倭人伝の倭人については、いや違うでしょ、漢書の倭が正しいのよ、と注文をつけている。
そして最後の隋書は、いやいや倭は俀であって字が違いますよ、と注文つけて気を吐くが、他の部分は皆と同じ。
  俀國は百済新羅の東南水陸三千里の大海の中に在り
こういう流れとなっている。
つまり、楽浪から帯方、韓、百済新羅とその時々の政体を次々と置き換えていることが分かる。
しかし、どの政体になっても東南は変わらず皆これを踏襲している。
ということは、この東南は帯方とも韓とも百済新羅とも関係がなく、帯方などの政体は単に置き換えてあるだけということになってくる。
とすると、では東南の方位はいつ確認されて倭の所在地についての公式の方位になり、その方位の起点はいったいどこなのかということが論点となるわけ。
要するに、帯方は単に楽浪から置き換えたものであって、東南の方角とはそもそも無関係ということになるのよ。

281:日本@名無史さん
19/12/16 22:54:41 .net
>>271
訂正

15行目の漢書は魏略の誤り。

282:日本@名無史さん
19/12/17 01:56:51 .net
>>265
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

283:日本@名無史さん
19/12/17 01:57:25 .net
>>269
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
無能すぎるじょ~~~wwwww

284:日本@名無史さん
19/12/17 07:30:14.51 .net
畿内スレ>>436
>帯方から東南に900km余りだと阿波になっちゃうな
>方位を少し曲げて九州島にすると宮崎以南
韓国巡りでは、南に4000里し東に3000里して狗邪韓国で、この間は7000里だが、
帯方から直線で見た東南狗邪韓国までの距離は、ピタゴラスの定理によって5000里となり、海岸巡りより2000里ほど短い。
因って、帯方から直線で計った女王国までは、12000里-2000里=10000里(750㎞)以内であるから、
阿波には届かぬ、宮崎にも届かぬ。

285:日本@名無史さん
19/12/17 13:02:52 .net
>>1
> ※泡チョンコは駄レスが伸びるだけやけん自スレでホルっときーよ
> 邪馬台国四国説 part3
> スレリンク(history板)
>
> 推奨NGワード… 「阿波」「忌部」

>>2
> 泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

>>3
> 泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

>>4
> 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ

>>5
> 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
> ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ~?
> 無能すぎるじょ~~~wwwww

286:日本@名無史さん
19/12/17 13:03:06 .net
>>6
>   ♪  i.\  .i.\   i.\   チャンカチョンコ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  チャンカチョンコ♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   エーラ張ハッタ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  目ーガ吊ッタ♪
>         └i===|┘i===|┘.i===|┘  ホルホルホルホル
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
>
>   ♪  i.\  .i.\   i.\  北ノ無脳ニ♪
> ♪    乂_\ 乂_\ 乂_\  下ノ無能♪
>      〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ  
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘
>      ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
>   ♪    /.i   /.i.  /.i
> ♪    ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ   オナージミンジョク ♪
>       〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ    
>       └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
>          〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))  チョンチョ~ン ♪

287:日本@名無史さん
19/12/17 15:47:27.79 .net
>>275
>阿波には届かぬ、宮崎にも届かぬ
その総計の1万2000里を75mで計算したら、大隅半島の付け根付近に届くのだが。
また宇佐もその圏内になってくる。
そこらに邪馬台国があったのか?
宇佐ファンは喜ぶだろうがな。

288:日本@名無史さん
19/12/17 16:20:38 .net
>>271
そこで、東南の方角が倭のある方角だと誰によって、いつ認定されたのかということになるわけだが、
魏略が書いた帯方は魏が領有した帯方郡であって、公孫氏が領有していた帯方郡でないことは、魏略が書かれたのが魏末晋初とされることで明らか。
魏が帯方郡を領有したのは公孫氏が滅亡した238年後半。
そして、翌年早々に魏が倭へ使節を派遣して、倭の朝貢を求める交渉をしたのが239年と考えられる。
そのあと239年の6月に卑弥呼の使節団が帯方郡へ到着する。
魏が帯方郡を領有した238年後半の翌年の前半には魏の使節団が倭に渡ったことが考えられる。
この際の渡海ルートは魏略によると、狗邪韓国から対馬、壱岐、末盧となっている。倭人伝はそれを踏襲している。
で、魏の使節団が初めて倭に渡ったこのルートの狗邪韓国の出発地がどこかを推測すると、小伽耶の中心地であった固城が想定される。
そして、この固城から外洋に出たあたりから対馬の南端、壱岐の西端、呼子加部島のコースがちょうど東南の方向に当たるのだ。
魏の使節団がこの南東方向のコースで海を渡ってちゃんと倭に到着したことで、初めて倭が東南の方向にあることが公式に認定された。
したがって、魏略が編纂のための資料から採録した東南の方角は、魏の使節団が作成した報告書に記されていたものであったと考えることができる。
そして、その倭に渡る東南方向の起点は停泊した固城の外洋であったと思われる。
この「倭は固城の東南に在り」の報告書の「東南」を、漢書の「楽浪大海の中に倭人有り」を書き改めた「倭は帯方大海の中に在り」の文章に挿入したのが「倭は帯方東南大海の中に在り」だったのだと想定するのである。
つまり、魏の使節団が倭に渡るまでその倭の所在地の方角がはっきりしなかったのが、使節団によって初めて倭の所在地の方位が確定されたということになる。

289:日本@名無史さん
19/12/17 17:40:00 .net
古来より、都はツと読むのが習わし

・都久津美神…つくつみのかみ
・都久豆美命…つくつみのみこと
・都怒我阿羅斯等…つぬがあらしと
・都麻津比賣命…つまつひめのみこと
・都麻耶美豆比賣命…つまやみづひめのみこと
・都味歯八重事代主神…つみはやえことしろぬしのかみ
・都留支日子命…つるぎひこのみこと

290:日本@名無史さん
19/12/17 17:42:33 .net
古来より、都はツと読むのが習わし

・都農神社…つのじんじゃ
・都万神社…つまじんじゃ
・都我利神社…つがりじんじゃ
・都弁志呂神社…つべしじんじゃ
・天都賀佐彦神社…あまつかさひこじんじゃ
・布都神社…ふつじんじゃ
・鴨都神社…かもつじんじゃ
・気都和既神社…きつわきじんじゃ
・許世都比古命神社…こせつひこのみことじんじゃ
・都祁水分神社…つげみくまりじんじゃ
・佐用都比売神社…さよつひめじんじゃ
・伊和都比売神社…いわつひめじんじゃ
・比都仕神社…ひつしじんじゃ
・阿志都彌神社…あしづみじんじゃ
・丹生都比売神社…にゅうつひめじんじゃ
・都麻津姫神社…つまつひめじんじゃ

291:日本@名無史さん
19/12/17 18:14:45.45 .net
やはり伊都国は、イツコクとよむべきなんだろな、、。

292:日本@名無史さん
19/12/17 18:22:04.89 .net
「都」は中古音で(to)

293:日本@名無史さん
19/12/17 18:57:47.53 .net
古来より、都はツと読むのが習わし
(ア行のみ)
・阿蘇都彦…あそつひこ
・阿田都久志尼命…あたつくしねのみこと
・天比登都柱…あめのひとつばしら
・伊勢都比古命…いせつひこのみこと
・伊勢都比売命…いせつひめのみこと
・伊都許利命…いつこりのみこと・・・・・・・・ まさに伊都をイツと読ませる事例
・伊都尾羽張神…いつのおはばりのかみ・・・・・ 同上
・伊波都久和希…いわつくわけ
・宇沙都比売…うさつひめ
・宇都志国玉神…うつしくにたまのかみ
・宇都志日金折命…うつしかなおりのみこと
・大気都比売神…おおげつひめのかみ

294:日本@名無史さん
19/12/17 19:01:49.72 .net
倭人伝って中古音でしょ

295:日本@名無史さん
19/12/17 19:08:55.49 .net
上古音(しょうこおん、又は、じょうこおん)
上古音とは、
周代・漢代頃の中国語および漢字音の音韻体系をいう。
字音を、古音(古代音)と今音(現代音)とに分け、古音を上古・中古・近古の3つに分けたものの1つである

296:日本@名無史さん
19/12/17 19:14:05 .net
中古音(ちゅうこおん)
中古音は、中国音韻学上、南北朝時代(439-589)の後期から、隋・唐・五代・宋初にかけて使用された中国語の音韻体系。
南北朝後期から、隋、唐代初期までの中古音を前期中古音、
唐代中期から五代・宋にかけての中古音を後期中古音に分ける。

297:日本@名無史さん
19/12/17 19:30:48.44 .net
>>285
そう。
日本の地名を中国人が中国人の都合で漢字をあててるだけ。
日本の古来の読みに中国語で漢字をあてるのは万葉仮名等でも使われる手法ではあるが
都をトやツにあてるのは万葉仮名の甲類、乙類どちらにもないあて方。
都に日本古来の縁を見出すことはちょっと無理がある。

298:日本@名無史さん
19/12/17 19:33:43.46 .net
>>282
日本語の読みばかりを並べて何言ってんだ?
伊都国と記したのは中国人だぞ

299:日本@名無史さん
19/12/17 22:10:23 .net
>>289
大正解

300:日本@名無史さん
19/12/17 22:30:11 .net
クスノキについて

URLリンク(wp1.fuchu.jp)
> クス、クスノキ 【樟・楠】 camphor wood
> クスノキ科の常緑広葉樹。散孔材。
> 学名 : Cinnamonum camphora
> 関東以南の暖地、特に海岸に多い。また、台湾・中国にも分布。なお、「楠」は南国から渡来した木を意味する。

URLリンク(ja.wikipedia.org)
> 世界的には、台湾、中国、ベトナムといった暖地に生息し、それらの地域から日本に進出した。(史前帰化植物)
> 日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
> 生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。

魏志倭人伝でも倭国に生えている植物としてクスノキが記録されているが、上記の通りクスノキは圧倒的に九州に多い木で、
特に九州以外の地域では沿岸部に偏って分布している
植物について解説するサイトではクスノキが暖地の植物であることをその理由としていることが多いが、実際には関東でも北側の埼玉県に
有名な大クスがあり、気候が問題で分布を広がらないというのは説得力に乏しい
特に黒潮に直面する四国南部や紀伊半島南部などは気候の暖かさにおいて北部九州と大差ない

ではなぜ九州以外では沿岸部に偏って分布しているのか?その答えは日本書紀に書かれている
書紀によれば素戔嗚命が日本に浮宝(=船)が無くては困るだろうと、体毛を抜いて木に変え、息子の五十猛命に各地に植えさせた、とある
この中に眉毛から作られたクスノキもあり、その用途として「船に使え」と素戔嗚命は述べている
クスノキは防虫剤の樟脳が採れる木なので虫害に強く、また腐りにくいという性質を持つ
丸木舟の時代には虫食いで船体に穴が開くのは致命的なので、クスノキは船の材料として最適なのだ

そしてこの木を植えるように指示された五十猛命が安曇磯武良と同一人物であることは過去スレで既出のとおり
つまりクスノキは元々九州の木であり、五十猛=安曇磯武良の命を受けた海人族が本州、四国各地の沿岸部に植えてまわったから分布が沿岸に偏っているのである

301:日本@名無史さん
19/12/17 22:33:42 .net
ちなみに九州のクスノキは6300年前の縄文時代にはすでに内陸部まで分布していたようである

URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
> 約65,000年前以降の最終氷期の種子島ではシイ属などの照葉樹林が継続して存在し、約11,000年前には薩摩半島でクスノキ科が拡大し始め、
> 約6,300年前までにはシイ属やクスノキ科を主とする照葉樹林が南九州の沿岸部から九州の内陸部にまで拡大していたと推定された。

クスノキの用途にまで精通していた素戔嗚命が九州人であることに疑いの余地はあるまい

302:日本@名無史さん
19/12/17 23:28:47.32 .net
倭、奴あたりは上古音かな
対馬あたりは倭人が充てた漢字かしら

303:日本@名無史さん
19/12/17 23:44:01 .net
ならば、伊都国はイツ国なのか?

304:日本@名無史さん
19/12/18 00:06:10.91 .net
>>294
文盲なのか
しつこ過ぎる性格なのか
はたまた無能朝鮮人なのか…

305:日本@名無史さん
19/12/18 03:17:49.67 .net
>>289
都 上古音 tag
  中古音 to
  中世音 tu
  現代音 tu(du)
     (学研漢和大字典)
倭人伝の頃は上古音から中古音への過渡期の時代。
中古音で表されているとするも良し。
上古音は現在まだ確定していず、上古音は不安定。

306:日本@名無史さん
19/12/18 06:42:57 .net
>>291
よって、北部九州や畿内は、魏志倭人伝でいうところの倭国に該当しない!   @阿波

307:日本@名無史さん
19/12/18 07:53:54 .net
>>291-292
クスノキが九州の樹だというのは何気に重要だな

URLリンク(books.google.co.jp)クスノキ 古墳時代#v=onepage&q=クスノキ 古墳時代&f=false

>大阪を中心とする発掘では、古墳時代の舟は殆どクスノキであった。千葉県東金付近で発見された鰹節型のくり舟はクスノキで、
>安房鉈切神社の割竹型に近いくり舟もクスノキであつた。

九州海人族が古代の倭国を席巻していたことがよく分かる

308:日本@名無史さん
19/12/18 07:58:44 .net
>>298

よって、北部九州や畿内は、魏志倭人伝でいうところの倭国に該当しない!   @阿波

309:日本@名無史さん
19/12/18 08:24:11.32 .net
>>284
・天比登都柱…あめのひとつばしらの事例
トに・・・登、
ツに・・・都、を当てている。
同様に、大和のトに都を当てなかったのも、古代には古代の理由あってのことであろう。

310:日本@名無史さん
19/12/18 08:38:02.90 .net
伝説上の故事として、
肥前国風土記は佐嘉郡の名の由緒を以下のように記している。
昔者 樟樹一株 生於此村。幹枝秀高 茎葉繁茂、朝日之影 蔽杵島郡蒲川山、暮日之影 蔽養父郡草横山也。
日本武尊 巡幸之時、御覧樟茂栄、勅曰 此国可謂栄国。因曰栄郡。後改号佐嘉郡。
(佐賀市史第1巻より)
古代、当郡のある村には楠(クスノキ)の大木が生い茂り、朝日の影は杵島郡蒲川山、夕日の影は養父郡草横山にまで届いたという。
当地を巡幸した日本武尊は楠樹の栄え繁る様を見て、「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよかろう」と述べ、
そこから「栄郡(さかのこおり)」と呼ばれるようになり、後に栄の字が佐嘉に転じたとする。

311:日本@名無史さん
19/12/18 08:43:34 .net
>>300
大倭→大和   倭→和は、中国が付けた「倭」を捨て、新生日本(奈良大和朝廷)が新たに「和」としたのだろう。   @阿波

312:日本@名無史さん
19/12/18 08:52:16.40 .net
>>300
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。   大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。   阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

313:日本@名無史さん
19/12/18 10:22:47.29 .net
>>302
日本の地名の変遷を理解してないんだな。
古い地名は基本的に、日本語で意味を持つ。
あてた漢字は好字令で意味の好ましい漢字二文字に置き換えが行われた。
阿波国は粟が取れたのであわのくにだし、吉備国は黍が茂っていたのできびのくに。
近江国は琵琶湖が昔あわうみ=淡海だった事から来てる。
ヤマトは元々は山門が盆地や山に囲まれた土地を指す言葉から来てる。
九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。

314:日本@名無史さん
19/12/18 10:38:39.09 .net
>>304
>九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。
そりゃ、お寺の山門があった所だわ。  わははははは   @阿波

315:日本@名無史さん
19/12/18 11:23:40.23 .net
熊本はもと隈本か

316:日本@名無史さん
19/12/18 11:47:09 .net
>>297
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

317:日本@名無史さん
19/12/18 11:47:25 .net
>>299
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww

318:日本@名無史さん
19/12/18 11:48:20 .net
>>302
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

319:日本@名無史さん
19/12/18 11:48:34 .net
>>303
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

320:日本@名無史さん
19/12/18 11:48:52 .net
>>305
お前が笑いでごまかすときは、大抵言い逃れできないときだもんなぁ

321:日本@名無史さん
19/12/18 11:49:02 .net
>>305
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば

322:日本@名無史さん
19/12/18 11:56:38.23 .net
淡の古音は「オホ」なんだけどなw

323:日本@名無史さん
19/12/18 12:28:08 .net
楠なんて未生で生えやすいから何処にでも生えるぞ。水行中に見やすい木だよ。

324:日本@名無史さん
19/12/18 12:58:47.92 .net
>>309
>九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。
そりゃ、お寺の山門があった所だわ。  わははははは   @阿波

325:日本@名無史さん
19/12/18 13:20:19.64 .net
>>284
・天比登都柱…あめのひとつばしら(伊伎島/壱岐島、及びその島の神)の事例
トに・・・登、
ツには・・・都、を当てている。
帝都であった大和のトに「都」を当てなかったのも、古代には古代の理由あってのことであろう。

326:日本@名無史さん
19/12/18 13:23:08.84 .net
倭人伝に関係ない話題は遠慮してほしい

327:日本@名無史さん
19/12/18 13:32:32.69 .net
徳島県知事、徳島市長、徳島市議会の足を引っ張る@阿波、
いいぞ、もっとやれ。

328:日本@名無史さん
19/12/18 14:45:36 .net
>>315
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ

329:日本@名無史さん
19/12/18 14:47:01 .net
>>316
古中国語読みと古日本語読みをごっちゃにする無能

330:日本@名無史さん
19/12/18 16:09:27.75 .net
魏志倭人伝に書かれた伊都が何と発音されていたかだろ?

331:日本@名無史さん
19/12/18 16:34:55.52 .net
古日本語発音(?) → 古日本語漢字(?) → 古中国語漢字(伊都) → 古中国語読み(?)
問題は、古日本語(九州弁)で「都」を何と発音していたかだが・・・、

332:日本@名無史さん
19/12/18 17:31:33 .net
tu

333:日本@名無史さん
19/12/18 17:50:19.23 .net
現代中国語のピンイン表記は伊都 yidou
地名に関しては倭人が呼んでいたものに漢字を当てただけだろうから、yidou かそれに近い読み方だったのだろう
イトあるいはイトウと呼んでいたのではないか?

334:日本@名無史さん
19/12/18 17:55:10.70 .net
>>298
それぞれの木の性質はよく分からんが、
スギ、ヒノキは少し水に漬けておくと水が浸み込むのではないか。
その点、クスノキは防水性が高く、船底に潮が浸み出してきにくいとか。

335:日本@名無史さん
19/12/18 17:56:01.37 .net
硯が出土して倭人が文字を使っていたことがわかったんだから
伊都とかは倭人が自ら当てた文字だろう。

336:日本@名無史さん
19/12/18 17:56:46.34 .net
>>324
井戸(ido)かもな。

337:日本@名無史さん
19/12/18 18:03:09 .net
>>324
なんで現代音で読むんだよ笑

338:日本@名無史さん
19/12/18 18:06:57 .net
>>324
当時は、まだ文字がなかったと決めてかかるのはいかがなものか

唐津屋博多からは、古代の硯も出土しているし、倭人伝にも文書伝送とか、檄文とかが登場するくらいだから、
既に倭地でも文字化(漢字化)は進んでいたのだろう。
それは翰苑を読んでもわかる。

だから基本的には、国名・官名・人名などの固有名詞は、
倭地で成立していたものを、中国側がそのまま書き写したとみるべきではないか。
(なお、後世の写本の過程での誤写や書き換えは別のお話し)


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