【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖 - 暇つぶし2ch350:日本@名無史さん
19/10/12 08:41:10.84 .net
>>349
馬鹿はまったくしょうがないな。
倭人伝「其山有丹」の脱字を、范曄が後漢書で改変してるだろうが。

351:日本@名無史さん
19/10/12 08:43:32.00 .net
>>350
それがなにか?   馬鹿はまったくしょうがないな。   @阿波

352:日本@名無史さん
19/10/12 08:46:31.54 .net
>>351
こいつ俺の指摘している意味が理解できないようだ。
ウスノロじゃ、相手にできない。

353:日本@名無史さん
19/10/12 08:50:18.35 .net
>>352
ウスノロの言うことは、理解できないよ。  わははははは   @阿波

354:日本@名無史さん
19/10/12 08:51:11.87 .net
お前後漢書読んだことないな。
お笑いだぜ。

355:日本@名無史さん
19/10/12 08:53:07.39 .net
>>354
それがなにか?   @阿波

356:日本@名無史さん
19/10/12 09:16:37.43 .net
辰砂じゃないって訂正されてるぞ。

357:日本@名無史さん
19/10/12 09:22:35.87 .net
>>356
間違いだらけの後漢書を信奉せざるを得ないくまモン!  哀れなことよ。   @阿波

358:日本@名無史さん
19/10/12 09:28:48 .net
>>298
>五角形って縄文文化って知ってたか?w


それがなにか?   @阿波

「天石門別八倉比売神社」
URLリンク(kamnavi.jp)

359:日本@名無史さん
19/10/12 09:29:17.66 .net
>>298
>五角形って縄文文化って知ってたか?w

それがなにか?   @阿波

阿波国内に 二千基程度あると云われる 「地神塔」。
阿波独特の祭礼(地神塔)
これは阿波独特のもので、寛政二年(一七九〇)に徳島藩主であった蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に地神塔(塚)を建て、
春秋の社日(戌の日)に地神祭を行うようにさせたと言われている。
阿波藩独特の祭礼行事ではあるが、香川県の南部、 岡山県南部の瀬戸内海に面する部落、 北海道では阿波藩からの入植者のいる地域等で「地神さん」が祀られている。
その形は五角柱で、塔の五面には…
1. 天照大神
2. 大己貴命
3. 稲倉魂命
4. 少彦名命
5. 埴安媛命
が彫られている。
通説では農業五面神といわれているが、正しくは皇祖 「天照大御神」、 葦原中つ国の盟主神 「大己貴命」、 薬学の神 「少彦名命」、 
稲米(五穀)の神 「稲倉魂命」、 埴土(はに: 土器や祭祀にかかわる)の神 「埴安媛命」 の五神で、
記紀神話の中でも 国土創生に欠かせない、いわば主役級の神々であり、阿波国内では神蹟の明らかな「土着の神」である。

360:日本@名無史さん
19/10/12 09:45:00 .net
22日本@名無史さん2019/10/08(火) 00:23:32
呼子から佐賀平野に入った可能性は?
URLリンク(i.imgur.com)

361:日本@名無史さん
19/10/12 09:49:49.35 .net
>>360
絶対、無い!   @阿波

362:日本@名無史さん
19/10/12 09:59:50.10 .net
案の定、阿波が飛び上がったwww

363:日本@名無史さん
19/10/12 10:10:28.85 .net
>>362
言う資格があるのは、阿波だけ。   @阿波

364:日本@名無史さん
19/10/12 10:52:41 .net
倭人伝「其山有丹」
後漢書「其山有丹土」

范曄は、倭人伝の脱字を修正している。

丹土とは一般に「赤土」のことで、丹と朱は同義語で、赤色を指す。
神社の朱塗りの柱などに用いられる水銀朱は、硫黄と水銀の化合した辰砂で、
朱は、この辰砂を粉砕して、水との比重を利用して採集したものである。
赤色には、この他にも赤鉄鉱を粉砕した「ベンガラ」があり、水銀朱は
貴重なものであった為、普通はベンガラが使用された。

365:日本@名無史さん
19/10/12 10:55:55 .net
>>364
范曄は、倭人伝を勝手に改ざんしている。   @阿波

366:
19/10/12 10:58:52 .net
漢籍電子文献資料庫

「其山有丹土。氣??漢籍按:「其山 有丹土。氣??」疑為「其山 有丹。土氣??」之誤。」

現代ではさらに修正

367:日本@名無史さん
19/10/12 11:41:43.55 .net
誤字脱字の倭人伝
鵜呑みの阿波

368:日本@名無史さん
19/10/12 11:46:10 .net
>>367
勝手改ざんの後漢書

鵜呑みのくまモン

間違いだらけの後漢書を信奉せざるを得ないくまモン!  哀れなことよ。   @阿波

369:日本@名無史さん
19/10/12 12:02:39 .net
唯一の主張も風前の灯
泣くな!

370:日本@名無史さん
19/10/12 12:30:45 .net
>>369
勝手改ざんの後漢書

鵜呑みのくまモン

間違いだらけの後漢書を信奉せざるを得ないくまモン!  哀れなことよ。   泣くな!   @阿波

371:日本@名無史さん
19/10/12 13:24:17 .net
ありゃ~
阿波、終わってるじゃん

372:日本@名無史さん
19/10/12 13:29:03.33 .net
>>371
勝手改ざんの後漢書
鵜呑みのくまモン
間違いだらけの後漢書を信奉せざるを得ないくまモン!  哀れなことよ。   泣くな!   @阿波

373:日本@名無史さん
19/10/12 14:16:25 .net
>>372
>間違いだらけの後漢書

どこが間違ってる個所なのかい。

374:日本@名無史さん
19/10/12 15:58:49 .net
>>373
倭人伝の【狗奴国】を【拘奴国】に変えている。

倭人伝の【在帶方東南大海之中】を、【在韓東南大海中】に変えている。

倭人伝の【使譯所通三十國】を、【使驛通於漢者三十許國】に変えている。

倭人伝で王の居る国は邪馬壹國、伊都国、狗奴国だけの処、【國皆稱王】に変えている。

倭人伝の【邪馬壹國】を、【邪馬臺國】に変えている。

倭人伝の【會稽東治之東】を、【會稽東冶之東】に変えている。   @阿波

375:日本@名無史さん
19/10/12 16:13:35 .net
>倭人伝の【狗奴国】を【拘奴国】に変えている。
どちらが正しいか分からない。

>倭人伝の【在帶方東南大海之中】を、【在韓東南大海中】に変えている。
>倭人伝の【使譯所通三十國】を、【使驛通於漢者三十許國】に変えている。
 表現方法の違い

>倭人伝で王の居る国は邪馬壹國、伊都国、狗奴国だけの処、【國皆稱王】に変えている。
 後漢時代は【國皆稱王】
 魏代は「邪馬壹國、伊都国、狗奴国」

>倭人伝の【邪馬壹國】を、【邪馬臺國】に変えている。
倭人伝の【會稽東治之東】を、【會稽東冶之東】に変えている。   
 誤写の類

376:日本@名無史さん
19/10/12 16:18:30 .net
>>375
だから、間違いだらけの後漢書!  わははははは   @阿波

377:日本@名無史さん
19/10/12 16:21:47 .net
>>371
勝手改ざんの後漢書

鵜呑みのくまモン

間違いだらけの後漢書を信奉せざるを得ないくまモン!  哀れなことよ。   泣くな!   @阿波

378:
19/10/12 16:22:40 .net
狗邪韓国も拘邪韓国になってる
どちらが正しいかは分からないが、同じ国ではあるのだろう

379:日本@名無史さん
19/10/12 16:31:56.27 .net
>>376
>倭人伝の【邪馬壹國】を、【邪馬臺國】に変えている。
「壹」と「臺」倭人伝が正しいのか?
倭人伝も原本は「臺」と記されていたのではないのか?
「壹」が正しいと考えるのなら、論じてみろよ。

380:日本@名無史さん
19/10/12 16:36:17 .net
>>379
倭人伝と後漢書とどちらが古いのか?  後漢書は倭人伝の捏造パクリ!   @阿波

381:日本@名無史さん
19/10/12 16:46:30 .net
>>380
「壹」と「臺」は、倭人伝が正しいのか?

382:日本@名無史さん
19/10/12 16:47:39 .net
>>381
倭人伝と後漢書とどちらが古いのか?  後漢書は倭人伝の捏造パクリ!   @阿波

383:日本@名無史さん
19/10/12 16:48:47 .net
>>371
勝手改ざんの後漢書

鵜呑みのくまモン

間違いだらけの後漢書を信奉せざるを得ないくまモン!  哀れなことよ。   泣くな!   @阿波

384:日本@名無史さん
19/10/12 16:51:36.70 .net
後世に書かれたとしても、
各種の古文献・資料を頼りに後漢時代を再現すべく最大限の努力したであろう。
それをいきなりねつ造というのは現代人の傲慢というもの、極力尊重しなくてはならぬ。

385:日本@名無史さん
19/10/12 16:52:13.29 .net
>>383
コピペが多くなったね。
脳がフリーズしてるの?

386:日本@名無史さん
19/10/12 16:55:58.87 .net
どうやらアルコール依存症が進行してフリーズ状態に入りつつあるらしい・・。

387:日本@名無史さん
19/10/12 16:57:41 .net
>>384
>後世に書かれたとしても、
>各種の古文献・資料を頼りに後漢時代を再現すべく最大限の努力したであろう。

頭大丈夫?  わははははは   @阿波

388:日本@名無史さん
19/10/12 16:58:34 .net
>>385
勝手改ざんの後漢書

鵜呑みのくまモン

間違いだらけの後漢書を信奉せざるを得ないくまモン!  哀れなことよ。   泣くな!   @阿波

389:日本@名無史さん
19/10/12 17:08:57 .net
>>388
「壹」と「臺」は、倭人伝が正しいのか?

390:日本@名無史さん
19/10/12 20:13:28 .net
阿波って韓国人なの?

391:日本@名無史さん
19/10/12 21:59:38 .net
満州人でしょ

392:日本@名無史さん
19/10/13 09:13:30 .net
日本人だろ。
古事記、日本書紀は、少し勉強してるみたいだけど。
中国文献は読んでないので、説に整合性がない。
今更勉強しても、三年以上は必要だろう。

393:日本@名無史さん
19/10/13 10:00:31.14 .net
「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。     
「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。   
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

394:日本@名無史さん
19/10/13 11:29:20.84 .net
「論理的思考力」
論理に基づいて思考する能力(の高さ)という意味で用いられる表現。
道理や筋道に則って思考を巡らせて結論を導いたり、あるいは、
複雑な事柄を分かりやすく説明したりできる能力として主に捉えられる。

395:日本@名無史さん
19/10/13 12:58:34 .net
「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。     

「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。

「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。   

こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

396:日本@名無史さん
19/10/15 21:37:46.79 .net
いきてるの

397:
19/10/18 02:24:50 .net
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないんだと何回しつけてやれば自覚できるんだよ(大笑)

398:
19/10/19 10:06:08 .net
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

水行の方角と陸行の方角が違うのはまずいだろうな
水行と陸行は同じ方向でないと。船から降りてちょっとだけ内陸に行く話とは全然違うのだし。

399:日本@名無史さん
19/10/19 10:14:40 .net
>>398
水行十日 または 陸行一月   @阿波

400:日本@名無史さん
19/10/19 10:22:04 .net
古代九州官道では、唐津から佐賀平野経由計熊本まで計20ほどの駅家があった。
一日一駅として、約二十日。
熊本周辺なら、ひと口に言って陸行一月でよかろうモン。

401:日本@名無史さん
19/10/19 10:22:11 .net
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

行程とするなら

南至邪馬壹國 水行十日陸行一月 女王之所都

だろう。

402:日本@名無史さん
19/10/19 10:46:50 .net
>>22
URLリンク(i.imgur.com)

古代九州官道では、唐津から佐賀平野経由熊本まで計20ほどの駅家があった.
この駅数は、糸島・博多平野経由でも2つ3つ増えるだけ。
但し、出だしの方角が北東と東南の違いとなるが、熊本までは、どちらも概ね一月の旅。

403:日本@名無史さん
19/10/19 10:58:57 .net
>>401
南至  邪馬壹國女王之所都  水行十日陸行一月  という行程だよ。   @阿波

404:日本@名無史さん
19/10/19 12:19:30 .net
>>401
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 について

邪馬壹國 は、對海國 一大國 末盧國 伊都國 のような、
2地点間の里程を示した、直列行程文のいわゆる地名ではなく、国名です。

南至 投馬國 水行二十日(官略)可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 水行十日(官略)可七萬餘戸
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此(次有21国)女王境界所盡

水行十日で、邪馬壹國(筑紫) 上陸後に、
女王之所都 へはさらに女王国内を、陸行一月 です。

邪馬壹國 女王之所都 は、主語の並列

この主語並列の、用例として、同様に難解な
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
(丗有王皆統屬女王國)往來 (郡使)常所駐
が、有ります。

405:日本@名無史さん
19/10/19 12:29:41 .net
>>404
行程や方角など、そんなことは、どうでもよい話!

「其山有丹」で、とっくに決着済み!   @阿波

406:日本@名無史さん
19/10/19 13:33:31 .net
出真珠青玉 其山有丹 の段の結語は
國國有市交易有無 であるから

筑紫王卑弥呼が、阿波の地との交易が有ったならば
魏志で、倭地に丹が出ることは紹介できる。

そのうえで、詔書報倭女王 で
又 特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠?丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
還到録受 悉可以示 汝國中人使知 國家哀汝 故鄭重賜 汝好物也

これは、皇帝が難升米牛利から、卑弥呼が喜ぶものを聞いて送った訳で
卑弥呼の筑紫には?丹五十斤は珍しいもの だったことが判る。

つまり、卑弥呼は?丹の売り手である阿波王ではない。

407:日本@名無史さん
19/10/19 13:39:01 .net
>>406
>筑紫王卑弥呼が、

いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「女王卑弥呼」など居る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   

408:日本@名無史さん
19/10/19 14:07:29.28 .net
倭人伝に描かれた、卑弥呼の邪馬台国は190年~247年と想定できる。
この間の遺跡で、鉄器、絹が出るのは、福岡が中心である。
これ以前の本州銅鐸地域において、銅鏡の生産を始め普及するのも、
基本的には九州と文化が統一された古墳時代であり250年以降になる。
魏と邪馬台国の交流は、247年で終っているので邪馬台国王は継続した大倭王ではない。
考古学では古墳時代となる、250年以降の九州遺跡が衰退してゆく様子が見て取れる。
これが残念な、邪馬台国の真実である。

409:日本@名無史さん
19/10/19 14:11:51.27 .net
>>404
>南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 について
「郡使往來常所駐」
「此女王境界所盡」
「女王之所都」は、文章の締めの個所。
「水行十日・・・」以下は別資料から、追加されたと考える。

410:日本@名無史さん
19/10/19 16:02:18.62 .net
纒向学が終わったので、邪馬怪も
出番がなくなったのではないかな・・。

411:日本@名無史さん
19/10/19 16:11:46.45 .net
別史料というよりは、帯方郡の役人たちが数年かけて調査作成した、
膨大な「地誌・倭国事情調査報告書」からの抜き書き編集の書だよ、
公孫氏の帯方郡は、韓国倭国の支配強化のために開かれたのだから・・。

412:日本@名無史さん
19/10/19 16:14:50.38 .net
一蓮托生邪馬台国の怪、
ま、次の事を考えよう。

413:日本@名無史さん
19/10/19 19:04:27 .net
>>405
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きた

414:日本@名無史さん
19/10/19 19:10:57.71 .net
>>413
>聞き飽きた
聞いてばかりいないで、まともに反論すればいいんだよ!  まともに反論できずに、話をすり替えることしかできないようだね?   @阿波

415:日本@名無史さん
19/10/19 19:25:31.93 .net
誰か~~~!
阿波の相手してやれよ。
可哀そうに。

416:日本@名無史さん
19/10/19 19:29:13.45 .net
>>415
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

417:
19/10/19 20:55:03 .net
>>401,404
過去スレの議論くらいおさえておけよ

> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない
>
> 【用例】
> 通鑑釋文辯誤卷六
> URLリンク(www.kanripo.org)
> >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
>
> 【嘉興府志】
> URLリンク(wenku.baidu.com)
> >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

418:日本@名無史さん
19/10/20 01:53:09.41 .net
>>414
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きた

419:日本@名無史さん
19/10/20 06:48:52 .net
>>418
>聞き飽きた

聞いてばかりいないで、まともに反論すればいいんだよ!  まともに反論できずに、話をすり替えることしかできないようだね?   

倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    

まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波

420:日本@名無史さん
19/10/20 07:26:52 .net
22日本@名無史さん2019/10/08(火) 00:23:32.90
呼子から佐賀平野に入った可能性は?
URLリンク(i.imgur.com)


23日本@名無史さん2019/10/08(火) 06:40:10.50>>29
>>22
絶対、無い!   @阿波

421:日本@名無史さん
19/10/20 07:49:59 .net
古代九州官道には、
唐津から佐賀平野経由熊本まで計20ほどの駅家があった.
この駅数は、糸島・博多平野経由でも、2つ3つ増えるだけ。
出だしの方角が北東と東南の違いにはなるものの、いずれにせよ熊本までは概ね陸行一月の旅。

422:日本@名無史さん
19/10/20 07:51:59 .net
>>421
>出だしの方角が北東と東南の違いにはなるものの

致命的欠陥説。   @阿波

423:日本@名無史さん
19/10/20 07:59:06 .net
対馬の民も南北市櫂
壹岐の民も巧みに南北市櫂
壹岐から流されて福津にたどり着いたのはナンパという、これ阿波の致命的欠陥説。

424:日本@名無史さん
19/10/20 08:17:51 .net
中華洛陽王朝の東界は帯方郡であり、王朝の高級官僚は帯方郡までしか赴任しない。
その先は、東夷という土人・下賤の住む地であり、
その下賤の倭地に足を踏み入れるのは、帯方郡雇いの下級役人の役目であった。事実、張政は雇人である。

このことを踏まえつつ、
東夷倭人伝を書き読む洛陽の高級貴族の立ち位置・胸の内を推測すれば、
南至水行20日、同水行10日陸行1月は、当然ながら帯方郡からの距離感・日程を記述したものと解すべきであろう、、。

425:日本@名無史さん
19/10/20 09:03:15.53 .net
>>424(補足)
南至投馬国,、(自郡)水行20日
南至邪馬台国女王之所都、(自郡)水行10日陸行1月

426:日本@名無史さん
19/10/20 09:07:23.63 .net
>>423
>対馬の民も南北市櫂
対馬島内での、沿岸航行による南北市櫂のことを言っている。 島民による日常的な渡海など到底不可能。  朝鮮半島や日本本土との渡海は倭国(阿波)の海人族あってこそ!

>壹岐の民も巧みに南北市櫂
壱岐島内での、沿岸航行による南北市櫂のことを言っている。 島民による日常的な渡海など到底不可能。 朝鮮半島や日本本土との渡海は倭国(阿波)の海人族あってこそ!   @阿波

427:
19/10/20 14:50:31 .net
>>426
泡チョンコの民族願望は聞き飽きた

428:日本@名無史さん
19/10/20 15:32:53 .net
日本列島で海岸から陸行一月の土地はない。
陸行は1日の誤りか。
そうすると帯方郡から水行10日が一万里に相当するので、邪馬台国は九州北岸に上陸してからわずか1日の距離、福岡県内であったことがわかる。

429:
19/10/20 15:36:31 .net
水行は

430:日本@名無史さん
19/10/20 15:40:26 .net
>>428
>日本列島で海岸から陸行一月の土地はない。

「陸行一月」

陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

431:日本@名無史さん
19/10/20 15:59:27 .net
>>428
>>22
URLリンク(i.imgur.com)
古代九州官道には、唐津から佐賀平野経由で熊本まで、20ほどの駅家があった.
この駅数は、糸島・博多平野経由でも2つ3つ増えるだけ。
但し、出だしの方角が北東と東南の違いとなるが、熊本までは、どちらも概ね一月の旅。

432:日本@名無史さん
19/10/20 16:02:59 .net
>>431
>但し、出だしの方角が北東と東南の違いとなるが

致命的欠陥説。   @阿波

433:
19/10/20 16:12:23 .net
>>432
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きた

434:日本@名無史さん
19/10/20 18:33:01.30 .net
水行20日の出発点は、有明海最奥の嘉瀬川河口だよね。
そこから20日水行して着くところは投馬国と書かれているが、これ投=殺なので投馬国は薩摩ということになるよ。
この薩摩までの水行20日は、地図上の距離とよく合う。
水行20日の情報は、邪馬台国の役人から聞いたのだろうな。

435:日本@名無史さん
19/10/20 18:38:24.81 .net
>>431
>但し、出だしの方角が北東と東南の違いとなるが、、、致命的欠陥説。 @阿波
皆様お分かりと思うので省略しましたが、詳しくは次のようになります。
「出だしの方角が、糸島・福岡平野へは北東、佐賀平野へは東南の違いとなるが・・・、」

436:日本@名無史さん
19/10/20 18:42:59 .net
>>435
>「出だしの方角が、糸島・福岡平野へは北東、佐賀平野へは東南の違いとなるが・・・、」

出だしの出発地が、致命的欠陥説。   @阿波

437:日本@名無史さん
19/10/20 18:45:25 .net
阿波に何があんだ?阿波原人の、
居住後と盛り土の死骸置き場だけだろ?

438:日本@名無史さん
19/10/20 18:47:25 .net
>>437
>阿波に何があんだ?

卑弥呼の女王国!   @阿波

439:
19/10/20 19:17:08 .net
西から流れてきた海の民の営む高地性集落の鍛冶遺跡

440:日本@名無史さん
19/10/20 20:33:46.97 .net
>>438
その時な天皇は誰?

441:日本@名無史さん
19/10/20 20:45:10.42 .net
壹岐から潮に流されて福津にたどり着くのはナンパ、、、。
なぜ阿波は、これほどナンパにこだわるのでしょう。

442:日本@名無史さん
19/10/20 20:56:52.33 .net
>>441
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。   @阿波

443:日本@名無史さん
19/10/21 00:25:44.96 .net
>>442
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きた

444:日本@名無史さん
19/10/21 04:10:21.25 .net
大陸~宗像航路は4世紀以降、
世界遺産もそのことは織り込み済み!

445:日本@名無史さん
19/10/21 06:47:18 .net
>>444
>大陸~宗像航路は4世紀以降、

なんで?   @阿波

446:日本@名無史さん
19/10/21 07:29:36 .net
で。そな時の天皇はだれなん?阿波爺さん

447:日本@名無史さん
19/10/21 07:51:14 .net
>>445
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きた

448:日本@名無史さん
19/10/21 07:51:18 .net
邪馬台国の玄関末蘆国は宗像
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

449:日本@名無史さん
19/10/21 07:53:29.55 .net
>>444
祭祀というのは基本的に先祖を祭るので、祭られる対象となる盤座の神というのはそれ以前にいたことになる。
宗像氏族が祭る神といえば天照と天孫だ。
風土記において辺津宮の神宝が八咫の鏡とされていることからも、沖ノ島が何を祭る場所であったかは明白だ。
沖ノ島の祭祀は、高天原を祭るものであり、みあれ祭は天孫降臨を再現したものだ。

450:日本@名無史さん
19/10/21 07:56:52.81 .net
>>448
根拠が乏しすぎて歴史研究と呼べる代物じゃないな。

451:日本@名無史さん
19/10/21 08:04:34.26 .net
>>448
酷い内容だねえ

452:日本@名無史さん
19/10/21 08:19:30.07 .net
>>448
宗像シンポジウム:
>世界遺産効果で注目された沖ノ島、そして沖ノ島を通る交易ルート・沖ノ島
>祭祀に大きくかかわる「海北道中」ですが、祭祀が盛んになったのは4世紀後半からです。

453:日本@名無史さん
19/10/21 08:21:34.60 .net
>>448
@阿波の故郷は、・・・阿波古事記研究会なのか? 

454:日本@名無史さん
19/10/21 08:27:26.36 .net
>>452
考古学的に確認できるのが四世紀、または祭祀の規模が大きくなるのが四世紀という意味だよ。

455:日本@名無史さん
19/10/21 08:29:43.60 .net
天照大神は「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である。
命じられた宗像三女神が祭られるのが沖ノ島を含む宗像大社なわけだが、そもそもは沖ノ島の祭祀は、天照も祭っていたのではないか。
さらに踏み込んで言えば、沖ノ島こそ天照の宮があった高天原なのではなかったのか。
それでこそ、古代最大級の聖地として沖ノ島の祭祀が大々的に続けられた意味がわかろうというものだ。
沖ノ島から筑紫に降臨する天孫を送迎する宗像士族と猿田彦の船の行き来をみあれ祭に見ることができるのだろう。
宗像大社は交通安全の神様として知られるが、それは天孫の降臨の道中の安全を守るようにという天照の神勅に基づいている。
そして天照は天孫に自らの形見として祭るようにと八咫の鏡を託したのだが、西海道風土記逸文によると、八咫の鏡は宗像大社に祭られていたのである。
天孫が降臨したのは筑紫の日向、すなわち福岡県西部の高祖山(日向山)周辺であり、魏志倭人伝の伊都国として知られる高祖宮こそ、記紀において神代の王都として知られる高千穂宮なのだろう。

456:日本@名無史さん
19/10/21 09:21:07 .net
沖ノ島~宗像ルートは神功皇后・応神天皇の時代以降に開拓され繁栄したと聞いた。
そして、このルートが瀬戸内から五畿まで延伸され、畿内の発展につながったのだそうだ。
(このため、邪馬台国を盟主と仰いだ九州倭国は次第に凋落していった)

しかし宗像説は、応神天皇によるこの新ルートを百数十年繰り上げて三世紀に置こうとしている。
が、三世紀にこだわり過ぎた糸島説、畿内説と同じ過ちにならなければよいが・・・

457:日本@名無史さん
19/10/21 10:57:38 .net
神功仲哀時代に天孫系が邪馬台国系から実権を取り戻したのが関係しているかもしれないぞ。
つまり神功仲哀は沖ノ島祭祀の再興の祖にすぎないことになる。
ちなみに仲哀は関門海峡を掘削して玄界灘と瀬戸内海ルートを繋いだ功労者とされている。
しかし、沖ノ島の磐座信仰そのものはそれ以前の天孫降臨まで遡るのだろう。

458:日本@名無史さん
19/10/21 11:00:30.29 .net
ちなみに3世紀ではなく、本来は1世紀くらいまで遡るのだろうが、小規模過ぎて確認できないだけだろう。
四世紀の九州北部全体の信仰形態は古墳文化や宇佐神宮のような社による信仰になっているからね。

459:日本@名無史さん
19/10/21 11:01:20.51 .net
>>456
>沖ノ島~宗像ルートは神功皇后・応神天皇の時代以降に開拓され繁栄したと聞いた。
まあ、当たらずとも遠からずという適当な意見だな。
根拠なし。

460:日本@名無史さん
19/10/21 11:54:16 .net
>>450
まさにそのとおり

461:日本@名無史さん
19/10/21 17:08:20 .net
潮流は良く調べた方がいいんだよ
「海流」に流されるから東の方に着くだろう、というのも結構怪しい

462:日本@名無史さん
19/10/21 18:32:16 .net
四世紀になって活発化する宗像のアクティビティは
半島からの渡海人との関連性の筋で思考すべきところ
ちなみに華夏からすればこの渡海人も倭人のくくり

463:1 ◆UiepmfCeDJqf
19/10/21 18:48:58 .net
つまり纒向が消える頃、祭祀が全盛期を迎えるわけだな。

464:日本@名無史さん
19/10/21 18:59:47 .net
そこのところは
先に渡海したか
後になって渡海したか のたんなるちがいに過ぎない

465:日本@名無史さん
19/10/21 19:32:13 .net
>>461
海流は、地球規模でおきる海水の水平方向の流れの総称。

似た現象に潮汐による潮汐流があるが、潮汐流は時間の経過に伴って流れが変化し、短い周期性を持つ。

海流はほぼ一定方向に長時間流れる。 Wikipedia   @阿波

466:日本@名無史さん
19/10/21 19:36:07.17 .net
もし古代より、呼子や唐津が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって呼子や唐津が「世界文化遺産」になっている。   何を考えているんだか。   @阿波

467:日本@名無史さん
19/10/21 19:37:27.43 .net
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子や唐津に上陸していない。   あとは推して知るべし。   @阿波

468:日本@名無史さん
19/10/21 19:58:25 .net
阿波古事記研究会・三村某が必死の形相でカキコ中、、、。

469:日本@名無史さん
19/10/21 20:18:42.73 .net
呼子には律令制下でも登望駅が置かれ
半島に向かう海の道に繋がる官道の末端としてがっつし機能していた
いつものことながらまた無知ないいはりをやらかしているのか

470:日本@名無史さん
19/10/21 20:25:36.48 .net
もし古代より、呼子や唐津が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって呼子や唐津が「世界文化遺産」になっている。   何を考えているんだか。   @阿波

471:日本@名無史さん
19/10/21 20:29:03 .net
@の頭脳は小学生レベルだな

472:日本@名無史さん
19/10/21 20:30:08 .net
>>469
もし古代より、呼子や唐津が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって呼子や唐津が「世界文化遺産」になっている。   何を考えているんだか。   @阿波

473:日本@名無史さん
19/10/21 20:33:39 .net
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子や唐津に上陸していない。   あとは推して知るべし。   @阿波

474:日本@名無史さん
19/10/21 21:14:00.90 .net
引きこもりだから許して、
下さい
父と母より。

475:日本@名無史さん
19/10/21 21:21:46 .net
>>465
影響が大きいのは海流よりも潮流の方なんだとさ
ちょこまか変わるからよく見て渡らないといけないのだと
「潮見」ってこと。

476:日本@名無史さん
19/10/21 21:23:49 .net
なんか話がループしてると思えば前スレから肝心な情報が全く引き継がれてないじゃん
ちゃんとテンプレに入れとけよ

邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
URLリンク(www.kanripo.org)
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
URLリンク(wenku.baidu.com)
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

477:日本@名無史さん
19/10/21 21:24:18 .net
>>476により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

478:日本@名無史さん
19/10/21 21:26:22 .net
過去スレで挙がったソースを総合的に考えた結果の各国配置
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

479:日本@名無史さん
19/10/21 21:26:58 .net
>>475
>影響が大きいのは海流よりも潮流の方なんだとさ

瀬戸内海はね!   @阿波

480:日本@名無史さん
19/10/21 21:27:10.75 .net
>>478関連
247 :日本@名無史さん :2019/09/01(日) 03:43:37.83
邪馬台国は人口七万戸、奴国の3.5倍を誇る超大国として書かれている
単一の集落による都市国家ではなく広範囲に渡る領域国家でなければ不可能な数字だろう
余傍二十一カ国に対蘇国(トスこく)などがあるので筑後川の北側は邪馬台国ではなく共立国の領土のようだ
邪馬台国の範囲は筑後川の南側を北限とし、南は山鹿市のあたりまでと見る
山鹿市にある方保田東原遺跡は中九州最大の集落遺跡であり、菊池川を挟んで対狗奴国の最前線だと思われる
大量の鉄器が出土し、武器の割合が多いことからもそれが窺える
ここで見つかった家型土器の戸の部分は形状が明らかに引き戸ではなくドアである
そのせいか妙にモダンに見える
URLリンク(inoues.net)
色々と興味深い遺跡である
URLリンク(inoues.net)

295 :日本@名無史さん :2019/09/02(月) 13:54:36.12
>>290日本@名無史さん2019/09/01(日) 21:48:24
>地形を見ると山鹿市と筑後山門(みやま市)の間は山間部だけど間道がありそうだな
>現在の国道443号線ルートで山あいを通り抜けられそうだ .
>うまくすると国道3号線ルートで八女方面にも抜けられたかもしれない
443号線と3号線のあいだにも県道4号線がある。山鹿から八女市本町へほぼ直線。
途中の峠越えは、自動車道化のためグネグネに見えるが、徒歩の場合はおおむね直線的。
このルートの良いところは、八女市手前(南)の 矢部川を、岩礁地帯を利用して簡単に渡れること。
八女本町からは、
国道3号線沿いに久留米方面へと、県道15号線?の城島経由で吉野ヶ里・佐賀市方面へも行ける。

481:日本@名無史さん
19/10/21 21:27:47.27 .net
>>475
>影響が大きいのは海流よりも潮流の方なんだとさ
瀬戸内海はね!   @阿波

482:日本@名無史さん
19/10/21 21:27:52.09 .net
>>478関連
138 :日本@名無史さん :2019/08/28(水) 16:30:46.88
>>137
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
到其北岸 狗邪韓國で、とりあえず倭に到達したという認識なのかと思う。
主語の理解で、倭人伝は其や此、之と言う代名詞が何を示しているかを読むのは非常に重要。
また、循海岸水行が終わって、始度一海
この 始度一海 によって、到達後の新たな行程と直列している。
到伊都國 については、
東南 至奴国 百里 が続き、これには動詞が無い。 つまり、行程として書いてはいない。
東行 至不彌國 百里 は、これまでの直列行程の語順では、東行 百里 至不彌國、違いは
東行したら不彌国が有る ということで、奴国と並列した伊都近隣国の紹介である。

483:日本@名無史さん
19/10/21 21:28:44.83 .net
>>478関連
安曇の祖とされる安曇磯良(あずみのいそら)には磯武良(いそたけら)という別名があり、五十猛(いそたける)と同一の可能性がある
恐らくイソタケルとは個人名というよりはイソの王という意味だろう
イソとは伊都、つまり魏志倭人伝にいう伊都国は後の安曇族の国だった可能性が高い
筑前国風土記逸文に、
「五十迹手(いとで)奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり。」
「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う。故れ、時の人五十迹手が本土を号けて伊蘇(いそ)国と曰う。伊覩(いと)と謂うは訛れるなり」
とあり、怡土郡が元々はイソという地名であったことが記されている
日本書紀によれば五十迹手は筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖
天村雲命の別名に天五多底(あめのいたて)がある
五十迹手(いとて)と同一人物の可能性がある
また射立神(いだてのかみ)という呼称もあり、伊達神こと五十猛と同一視する向きもある
そうすると天村雲命=五十迹手=五十猛=安曇磯武良
草薙剣の元の名が天叢雲剣なのは有名だが、ヤマタノオロチからこれを手に入れたのは素戔嗚命であり、その息子が五十猛とされる
スサノオが息子の五十猛=安曇磯武良=天村雲命に譲り、その佩剣となったから天叢雲剣なのではないか
天叢雲剣は皇室の神器となった後に熱田神宮に祀られているが、熱田神宮の大宮司は当初は尾張氏だった
尾張氏は安曇氏と同祖氏族
URLリンク(img-cdn.jg.jugem.jp)

484:日本@名無史さん
19/10/21 21:30:03.76 .net
>>478関連
見づらいのでレス番は割愛、アンカー修正
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
URLリンク(ac.jpn.org)
URLリンク(img04.ti-da.net)
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
URLリンク(inoues.net)
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>480のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る

485:日本@名無史さん
19/10/21 21:31:16.83 .net
>>483関連
筑前国風土記逸文に五十迹手が伊蘇志(イソシ=勤)と褒められたので地名をイソにしたとある
一方の五十猛はイサオシの神と称えられている
安曇磯武良=五十猛=五十迹手は確実のようだ
伊太祁曽神社の御由緒について
URLリンク(itakiso-jinja.net)
> そして五十猛神は高天原から樹種を持ってきますが韓国には植えず日本に持ってきて、九州より播き始めて日本中を青山にしました。
> このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。
また、先代旧事本紀によれば天村雲命の別名は天五多底(あめのいたて)とされているが
兵庫県の射楯兵主神社に祀られている射楯大神(いたてのおおかみ)はそのものずばり五十猛だとされている
URLリンク(sohsha.jp)
> 御祭神 射楯大神 いたてのおおかみ
> 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた
> 植樹の神様と崇められています。
> また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています
事績に神功皇后の新羅遠征で水先案内をしたとあるが、太平記や磯良神社の社伝によれば、神功の水先案内を務めたのは安曇磯良とされる
安曇磯武良=五十猛=五十迹手=天村雲命はもう間違いないと断定していいだろう

486:日本@名無史さん
19/10/21 21:32:33 .net
>>475
>影響が大きいのは海流よりも潮流の方なんだとさ

瀬戸内海はね!   @阿波

487:日本@名無史さん
19/10/21 21:32:39 .net
>>483,485関連

まさにそこが今回最大の収穫かもしれない
つまり記紀神話の年代のでっち上げの手法が判明したということだ

五十猛は素戔嗚命の息子なので神代の人間、というか神だが、五十迹手を褒めたのは仲哀だし、磯良は神功の水先案内を務めているから人代の話である
つまり実在の人物として人代に記録されている人間が別名を使って素知らぬ顔で神代にも書かれていることになる
従来考えられていたように神代が九州で人代が畿内というような分かれ方ではなく、人代の出来事を神話仕立てにして遠い過去の出来事として
投影したのが神代であり、人代と同一人物が重複して登場しているのだ

これはつまり、他の神々にも人代におけるモデル人物が存在する可能性を示している
例えば天照大神のモデル人物は神功皇后かもしれない、とかな
スサノオの子であるイソタケルが安曇磯武良なら、天照大神はその伯母にあたるから一世代上だが概ね同時代の人物とみると
むしろそう考えたほうが自然なくらいだろう

単に伊都国が安曇の国であることを実証するのが目的だったのだが、思いがけず記紀の嘘を暴いてしまったのかもしれない

もっと深い問題もある
天村雲命が五十猛=安曇磯武良=五十迹手と同一人物だということが分かったわけだが、この天村雲命は
?然が宋の太宗に献上した王年代記にも登場する
曰く
「初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。」
とうとう倭王になってしまった
しかもなんと天之御中主に次ぐ二代目の倭王にされてしまっている

王年代記は記紀よりも後に作られており、神武の即位が周の時代と書かれていることからも明らかに年代が捏造されている
そして二代目倭王が天村雲命=五十猛=安曇磯武良になっているのを見ても、単に年代を何百年かスライドさせたのではなく
倭王の即位順までメチャクチャに改竄されているし、倭王じゃない人まで倭王にされている有様

要するに、大和朝廷が作成した史書は、個々のエピソードについては脚色、改変はあれど元になった事実があるのだろうが
その年代観も天皇の順番さえもまるで信頼が置けないということである

488:日本@名無史さん
19/10/21 21:36:16.09 .net
>>483,485,486関連
安曇磯良は本当にあちこちに出てくるな
タケミカヅチやアメノコヤネまで安曇磯良らしい
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
>(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
>『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)
URLリンク(www.genbu.net)
>袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
>一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
上記のとおり鹿島神宮の武甕槌も磯良とされる上に、やはり神功の梶取(舵取り)を務めたとされる
武甕槌の父は伊都之尾羽張とされているので、やはり伊都国絡みの人物なのだろう
その武甕槌の葦原中津国平定は神武東征よりも前の時代の出来事とされているし、神武が東征中に熊野で苦戦しているときに
天照大神から手助けを命じられてフツノミタマの剣を神武に与えたのも武甕槌とされている
射楯兵主神社の射楯大神=五十猛といい、神武東征以前の神が神功の水先案内を務めたという伝承が多いところを見ると
本当は神功は神武よりも前の人物ではないかと思う
記紀で神武より後の人物ということにされたのは、神武即位を紀元前660年という考古学的にあり得ないほど昔に設定したがゆえのことか
8世紀の記紀編纂者が外征の大勝利という功績を大和朝廷のものにしたかったという事情によるものだろう

489:日本@名無史さん
19/10/21 21:38:00.00 .net
>>480の山鹿・菊池関連
山鹿・菊池は怪しいねえ
なんとスサノオのヤマタノオロチ退治の逸話がこのあたりにもあるらしい
実はヤマタノオロチ退治の逸話って地元のはずの出雲国風土記にはなぜか載ってないんだよね
本当はこの地域の話だったんじゃないか?
URLリンク(ameblo.jp)
>熊本県山鹿市菊池市一帯は「肥川 ひのかわ」と呼ばれる菊池川が流れ、八岐大蛇(やまたのおろち)神話の櫛稲田姫(くしなだひめ)生誕の
>伝説の地・熊本県山鹿市に旧稲田村があります。櫛稲田姫の本来の名称は「稲田媛」。
>福岡県高良大社の「高良玉垂宮神秘書」第1条に「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について古典的記載があります。

490:日本@名無史さん
19/10/21 21:42:09 .net
>>476関連
倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えている
記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ

連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い

・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・【★動詞は後ろ】

動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると

帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . ┃
ルート分岐? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 投馬國
ルート分岐? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┗→ 邪馬壹國

という構造

491:日本@名無史さん
19/10/21 22:01:39 .net
後の天皇家の出自について

それはやはり>>478のとおり筑後の山門だろうね
物部氏ゆかりの土地でもあるし

> 331 :名無しさん@1周年 :2019/09/10(火) 18:19:03.66 ID:yjDSp0sY0
> >>300補足
> のちの大連・物部氏の故地が福岡県みやま市瀬高町太神にある「こうやの宮」と呼ばれる場所
> 正式名称は磯上物部神社
> 久留米の高良大社にある高良記天慶神名帳に「礒上物部神(いそのかみもののべしん)」と書かれている
>
> そこには5体の神像が祀られていてそのうちの一つが手に七支刀を持っている
> 明治7年に奈良県天理市の石上神宮で七支刀が発掘されるよりも古くからこの地に祀られていた
> 物部氏の像と考えられており、物部氏が九州出自の氏族であることを示している
> カバネが臣ではなく連なのもこのためだろう
> URLリンク(stat.ameba.jp)
>
> そしてこの磯上物部神社のある場所こそまさに筑後国山門郡にあたり、邪馬台国があった場所と考えられる
> 地名の太神(オオガ)は古代にはオオミワと読まれていた
> 明らかに畿内大和の祖型となった地である
> URLリンク(lunabura.exblog.jp)
> >この地の旧名は筑後国山門郡太神村で、『倭妙類聚抄』には「太神郷」と出てきます。
> >「山門」には「夜万止」(やまと)、
> >「太神」には「於保美和」(おほみわ)と読み仮名がついています

492:日本@名無史さん
19/10/21 22:44:40.48 .net
>>478
菊池が邪馬台国側になっている。
やり直し。
URLリンク(i.imgur.com)

493:日本@名無史さん
19/10/21 22:50:23.00 .net
>>480
>山鹿市にある方保田東原遺跡は中九州最大の集落遺跡であり、菊池川を挟んで対狗奴国の最前線だと思われる
いやむしろ狗奴国そのものだよ。
>>484
>製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>480のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
倭国を二分する形で狗奴国が邪馬台国と対立したのだとすれば、南の部分は狗奴国としなくてはいけない。

494:日本@名無史さん
19/10/21 23:15:24 .net
>>492-493
狗奴国は免田式土器
菊池川を渡ると免田式土器の分布は急減するのでそこが勢力の境目

URLリンク(special.sankei.com)
免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
URLリンク(special.sankei.com)

495:日本@名無史さん
19/10/21 23:21:23 .net
あともう一つ、菊池にも山門郡が存在する
>>489のヤマタノオロチ伝説と合わせて考えても邪馬台国(後に東征して大和朝廷)側だろう

菊池を狗奴国とするのは狗古智卑狗が根拠だろうが、菊池市全体が狗奴国でなければならない必然性はない
古代の勢力圏は自然地形による分断が境界となるケースが多く、この場合菊池川がそれだと考えられる
菊池市は菊池川の南側にも広がっておりそちらが狗奴国だろう

496:日本@名無史さん
19/10/22 00:08:45.41 .net
>>495
そもそも邪馬台国と狗奴国は一つの肥国だったから、それは問題じゃないんだよ。
卑弥呼と卑弥弓呼は同族だろうしね。
ただ、魏志倭人伝の時点では菊池は狗奴国側だったと言うことさ。
卑弥呼がこの地域の出身であったことを否定するわけではない。
ただ、人は移動する。
国の体制も変化する。
それを考慮しないといけない。

497:日本@名無史さん
19/10/22 06:52:28.32 .net
>>496
>ただ、魏志倭人伝の時点では菊池は狗奴国側だったと言うことさ。
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い菊池に、「狗奴国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   

498:日本@名無史さん
19/10/22 07:33:33.66 .net
ああ言えば@阿波
オウムの残党か?

499:日本@名無史さん
19/10/22 07:44:07.30 .net
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

500:日本@名無史さん
19/10/22 07:56:12.15 .net
>>490
帯方郡 →  狗邪韓國 →  對海國 →  一大國 →  末盧國 → 伊都國
  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . ┃
>ルート分岐① ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 奴國 → 不彌國
>ルート分岐② ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 投馬國
>ルート分岐③ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┗→ 邪馬壹國
この構造のルート1には疑問がある。
奴国へは移動の動詞がないのに、次の不彌国は奴国に移動したことを前提に東行百里としている。
明らかに矛盾だね。

501:日本@名無史さん
19/10/22 08:05:58.76 .net
>>478日本@名無史さん2019/10/21(月) 21:26:22.42
>過去スレで挙がったソースを総合的に考えた結果の各国配置
この図の邪馬台国と狗奴国の境界は、菊池川というより、その上流部の、
小さく浅い合志川と豊田川が境界になっている 。歩いても膝までしかなく、相争った国境というイメージにはほど遠い。
URLリンク(i.imgur.com)

502:日本@名無史さん
19/10/22 08:06:19.63 .net
>>500
どうでもいい話!   とっくに「其山有丹」で決着済み!   @阿波

503:日本@名無史さん
19/10/22 08:20:01.20 .net
>>494日本@名無史さん2019/10/21(月)
>狗奴国は免田式土器
>菊池川を(北へ)渡ると免田式土器の分布は急減するのでそこが勢力の境目
URLリンク(special.sankei.com)
>免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
上の見解は、畿内説と同じ過ちではないか。
強い侵入者が有れば、弱い者は多くの土器類を捨て去って逃げ惑う。
免田式土器が発掘されたからといって、三世紀にそこが狗奴国の支配地だったとは断定できない。
重い土器はその地に残っても、人やクニや国境はしばしば大移動する。戦乱が有ればなおさらの事。
>>496の指摘通り、
人は移動する。
国の体制も変化する。
それを考慮しないといけない。

504:日本@名無史さん
19/10/22 08:21:25.90 .net
>>496
>ただ、魏志倭人伝の時点では菊池は狗奴国側だったと言うことさ。
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い菊池に、「狗奴国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   

505:日本@名無史さん
19/10/22 08:31:18.79 .net
>>502
じゃあ学会に発表してください@阿波
そして本出してベストセラーへ、ニートからの華麗な転身、卑弥呼の存在と女王の古墳を発見した偉人ですな、今でしょ!阿波よ その自信なら大丈夫。まさかネット番長じゃないもんね。

506:日本@名無史さん
19/10/22 08:31:58.63 .net
>>496
それって何か裏付けになる考古学資料ある?

507:日本@名無史さん
19/10/22 08:32:51.90 .net
>>500
奴国から先に不弥国があるからそう書いたのだろう
矛盾はないよ

508:日本@名無史さん
19/10/22 08:35:59.36 .net
昭和のころ、宗像ルートというのが流行った。
小説家のナントカさんが唱えて広まった。俺も少しかぶれかかった。
しかし調べてみると方角と里数がどうにも合わない。またどことなく不自然で曲がったところがあった。
案の定、ほどなく忘れ去られてしまった。
今、阿波は其の旧い説にかぶれている。

509:日本@名無史さん
19/10/22 08:42:37.39 .net
>>506
魏志倭人伝の記事からの推定だよ。
王の名前が酷似、素より不和など。
同じ一族なのだろう。

510:日本@名無史さん
19/10/22 08:43:53.09 .net
>>501
いや菊池川が境になってるよ
合志川はもっと南
菊池川中流にはかつて茂賀の浦と呼ばれた古代湖があった
周辺の川幅は水量が多かったため現在よりもかなり広かったものと考えられる
URLリンク(pds.exblog.jp)
方保田東原遺跡はこの古代湖の北岸側なので邪馬台側の遺跡と見るのが妥当だろう

511:日本@名無史さん
19/10/22 08:48:31.04 .net
>>503
>免田式土器が発掘されたからといって、三世紀にそこが狗奴国の支配地だったとは断定できない。
話をすり替えてはいけない
こちらが指摘しているのは「菊池川より北では免田式土器が急減する」という事実だよ
免田式土器は熊本平野南部と人吉盆地が分布の中心だから狗奴国の土器であることにほぼ疑いはない
それが菊池川より北には少ないのは狗奴国の勢力がそこまで及ばなかったからと考えるより他無い

512:日本@名無史さん
19/10/22 08:50:30.47 .net
>>507 名前:日本@名無史さん
>奴国から先に不弥国があるからそう書いたのだろう
たとえそうだったとしても、奴国には移動していないのだからこの書き方は論理矛盾だね。
どうしても書きたいなら次有り不彌国とでもすれば十分だった。
そうしなかったのは、不彌国はそれなりに重要な位置・地位を占めていたから行く(行った)と書いたのだろう。
また、伊都国から不彌国へ行ったとしても、>>490の論旨には全く差し支えないではないか。

513:日本@名無史さん
19/10/22 08:50:56.15 .net
>>509
それはもう>>495で指摘したとおりだね
菊池の北半分が邪馬台国領だろうと菊池の南半分の狗奴国領側に狗古智卑狗がいたと考えればなんの矛盾もない

514:日本@名無史さん
19/10/22 08:54:23.86 .net
>>510
グーグルマップと照合してみろや
合志川と豊田川を境界線にしているから・・、

515:日本@名無史さん
19/10/22 09:00:19.93 .net
川は交通手段だから、古代においては境界になりにくいのではないか?

516:日本@名無史さん
19/10/22 09:00:28.83 .net
>>512
>たとえそうだったとしても、奴国には移動していないのだからこの書き方は論理矛盾だね。
動詞の有無は移動を意味するとは書いてないよ
距離と方位の計測起点が前段からの連続であることを意味している
なので論理矛盾ではない
ではなぜこう読むかと言えば、不彌国への距離が伊都国起点であるならば動詞を入れなくても結果が同じだから
なぜそこだけ動詞を挿入したのかの説明がつかない
>また、伊都国から不彌国へ行ったとしても、>>490の論旨には全く差し支えないではないか。
確かに距離が百里でしかないから全体から見ると誤差の範疇
ただ、女王への文書は伊都国から転送されると魏志倭人伝に書かれており、女王国や投馬国への水行は伊都国の安曇海人の船で行くものと思われる
であるならば魏使一行が不彌国に移動したとは考えにくい

517:日本@名無史さん
19/10/22 09:00:59.47 .net
>>514
照合したから言ってるんだよ
境目は菊池川になってる

518:日本@名無史さん
19/10/22 09:01:46.58 .net
>>510
この茂賀の浦の周辺の弥生遺跡を調べた結果から、弥生末に新たな侵入者があったとされている。
この図をベースに邪馬台国と狗奴国の境界線を考えてみればどのようになるのかな。
少なくとも菊池川本流が境界とはならないのではないか・・。

519:日本@名無史さん
19/10/22 09:05:29.87 .net
>>518
>この茂賀の浦の周辺の弥生遺跡を調べた結果から、弥生末に新たな侵入者があったとされている。
これソースある?

520:日本@名無史さん
19/10/22 09:11:18.91 .net
>>508
>しかし調べてみると方角と里数がどうにも合わない。
どこが?

>またどことなく不自然で曲がったところがあった。
どこが?   @阿波

521:日本@名無史さん
19/10/22 09:14:12.72 .net
>免田式土器は熊本平野南部と人吉盆地が分布の中心だから狗奴国の土器であることにほぼ疑いはない
>それが菊池川より北には少ないのは狗奴国の勢力がそこまで及ばなかったからと考えるより他無い
意味不明。
邪馬台国と狗奴国は陸上で争っているのだから、国境線はその時々によって変化する。
免田式土器を狗奴国の土器と考えるのなら、
免田式土器が多い熊本平野南部と人吉盆地=ずっと狗奴国領土だった
免田式土器が少ない以北=狗奴国の領土となったり邪馬台国の領土となったりした
こう考えるのが自然。

522:日本@名無史さん
19/10/22 09:16:05.04 .net
>>515
山に比べればね
それでも何もない平地よりはやっぱり境界になりやすいよ
まして敵対国なら相手には交通手段として使わせないだろうし

523:日本@名無史さん
19/10/22 09:21:22.06 .net
>>521
>免田式土器を狗奴国の土器と考えるのなら、
>免田式土器が多い熊本平野南部と人吉盆地=ずっと狗奴国領土だった
>免田式土器が少ない以北=狗奴国の領土となったり邪馬台国の領土となったりした
>こう考えるのが自然。
わずかでも免田式土器があれば狗奴国領になったことがある?
君こそ意味不明だな
免田式土器は少量であれば筑後平野や糸島からも出土してるんだぜ?
URLリンク(special.sankei.com)
土器は交易によっても移動するから、狗奴国と邪馬台国は完全な没交渉ではなかった
大乱前にはつきあいがあったのか、魏志倭人伝の後に和睦したのかは不明だが、交易した時代もあった
それだけのこと
免田式が主流である地域が狗奴国で、少量しかない地域は狗奴国ではない
そう考えるのが自然

524:日本@名無史さん
19/10/22 09:21:51.18 .net
1年程度の紛争なら境界線で睨み合いもあるだろうが、
倭国乱から数えても百年近く戦っているのだぞ。
戦国時代の例えば龍造寺や大友、島津の領地なども拡大縮小を繰り返している。
狗奴国が滅亡したとすれば、菊池川まで後退したのがいつか、という議論は成立しても、
狗奴国と邪馬台国の国境線がずっと菊池川だった、という議論は前提が間違っている。

525:日本@名無史さん
19/10/22 09:24:45.86 .net
>>523
なんで1か0かでしか考えられないのだ?
免田式土器が主流=ずっと狗奴国領土
免田式土器が少量=狗奴国と邪馬台国が奪い合った土地
免田式土器がわずか=偶然運ばれただけかもしれんが、狗奴国勢が押し掛けた可能性は残る
>筑後平野や糸島からも出土してるんだぜ?
君の筑後平野は「狗奴国領土だった時期」があるのだろうな。

526:日本@名無史さん
19/10/22 09:24:46.61 .net
>>515
古代において、山は歩いて越えられたが、川は日常的に超えられなかった。
いわく対岸の火事というがごとし。
日常的な交流交通は、鉄器が普及し、船や橋が広まってからからの事。

527:日本@名無史さん
19/10/22 09:26:05.07 .net
盆地での川なら軍事境界線として機能するだろうが
いくら菊池川があっても横の有明海からいくらでも移動できる。

528:日本@名無史さん
19/10/22 09:26:09.65 .net
>>524
>狗奴国が滅亡したとすれば、菊池川まで後退したのがいつか、という議論は成立しても、
>狗奴国と邪馬台国の国境線がずっと菊池川だった、という議論は前提が間違っている。
それは菊池全体が狗奴国だったに違いないという君の思い込みが前提だな
だがそれが間違いなのは>>523の通り
そもそも免田式土器の分布中心は熊本平野南部と人吉盆地であり、菊池は狗奴国の中心からは遠い
菊池の奪い合いの結果程度で狗奴国は滅亡しない
君の前提が間違っているのだよ

529:日本@名無史さん
19/10/22 09:27:55.40 .net
>>525
>君の筑後平野は「狗奴国領土だった時期」があるのだろうな。
は?
免田式土器が少量なら狗奴国領だった時期があると主張してるのは君だろ
こちらは最初から菊池川の北は狗奴国ではないとしか言っていないぞ
日本語大丈夫か?

530:日本@名無史さん
19/10/22 09:29:23.35 .net
>>527
有明海は伊都国の安曇海人の庭だろう
彼らが運んだ貝輪の分布を見る限り
URLリンク(ac.jpn.org)

531:日本@名無史さん
19/10/22 09:29:23.43 .net
>>527
有明海は伊都国の安曇海人の庭だろう
彼らが運んだ貝輪の分布を見る限り
URLリンク(ac.jpn.org)

532:日本@名無史さん
19/10/22 09:29:27.14 .net
>>528
それは菊池南部だけが狗奴国だったに違いないという君の思い込みが前提だな
だがそれが間違いなのは>>521の通り
菊池の奪い合いの結果程度で狗奴国は滅亡しない
そう、狗奴国はそれくらいでは滅亡しないから、
菊池だけでなく筑後平野の奪い合いが続いていたわけだな

533:日本@名無史さん
19/10/22 09:31:49.41 .net
>>519
茂賀の浦
又は、
古代茂賀の浦から狗奴国へ
菊池市役所 中原氏
リンク張れず、これで検索してみてください

534:日本@名無史さん
19/10/22 09:34:08.93 .net
残念ながら、狗奴国が菊池川の南だけ、という君の説は
百年近く菊池川で睨み合いしていたという前提がなければ成立しない。
そんな馬鹿な話に乗る人はいないだろうね。
筑後平野に卑弥呼邪馬台国を持って来たいから必死なのだろうけど。
免田式土器が大量=ずっと狗奴国領土
免田式土器がそれなりに出土=狗奴国と邪馬台国が奪い合った地域
狗奴国が滅亡したのであれば、
最初の領土から敗北を重ねて次第に南下するわけだから、
筑後平野こそが最初の拠点だったことになる。

535:日本@名無史さん
19/10/22 09:34:23.56 .net
>>532
>>521が間違いなのはもう>>523で指摘したとおり
君は筑後平野まで狗奴国にしたがっているのか
もう少しまともかと思ったが俺の思い違いだったな
筑後平野は狗奴国から見ると筑後山門の邪馬台国の向こう側なんだがどうやって奪いに行くのやら

536:日本@名無史さん
19/10/22 09:35:47.43 .net
>>534
狗奴国と邪馬台国の不仲がいつ始まったかなんてソースは存在しないんだが
結局君は根拠のない妄想を並べただけだったわけね

537:日本@名無史さん
19/10/22 09:36:35.35 .net
>>523は君の意見であって、根拠でもなんでもない。
>筑後山門の邪馬台国
ほらね。
結果ありきのご都合主義だな。

538:日本@名無史さん
19/10/22 09:40:27.09 .net
>>533
サンクス
住み着いたのは伊都国の安曇海人のようだからやっぱり邪馬台国側だね
>(1) 海神(綿津見)と菊池
> 綿津見神社は、玉名の海岸沿いに帯状に分布しているが、菊池盆地でも5箇所ある。
>山鹿市南島の南島菅原神社境内に「綿津見龍神社」、鹿本町梶屋に「上梶屋神社」・「下梶屋神社」、菊池市七城町台に「寺町神社」、
>植木町舟島に「雨山宮」の5社がそれである。海神は海の守護神であるので海岸沿いにあるのが普通であるが、菊池のように海から遠く離れた内陸部にあるのは稀である。
>「上梶屋神社」・「下梶屋神社」・「寺町神社」・「雨山宮」は、弥生湖「茂賀の浦」の湖中及び湖岸にあり、綿津見の神と関係している。

539:日本@名無史さん
19/10/22 09:41:32.32 .net
>>537
その言葉はそっくりそのまま君に返すよ
菊池全土が狗古智卑狗の領土だったという史料が見つかったらまたおいで

540:日本@名無史さん
19/10/22 09:42:33.12 .net
人も国も土器も土器の生産地も移動するのだから、
免田式土器があった、なかっただけでは三世紀のことはわからないし、確定もしない。
広く、かつ詳細な出土状況の発掘調査結果を待たなくてはならない。
結論断定を急ぐのは、畿内説の二の舞、三の舞になって不適当。

541:日本@名無史さん
19/10/22 09:43:20.32 .net
>>539
残念だったね。
君の筑後平野が狗奴国の初期拠点で。
どんどん敗北して菊池川の南に敗走したわけだ。

542:日本@名無史さん
19/10/22 09:44:51.20 .net
>>540
わずかでも免田式土器が出るから狗奴国領だったに違いないという彼のことですねわかります

543:日本@名無史さん
19/10/22 09:45:46.85 .net
>>541
>>538でソースがでたから君のその妄想は否定されました
残念だったね

544:日本@名無史さん
19/10/22 09:46:19.55 .net
免田式土器が主流=ずっと狗奴国領土
免田式土器が少量=狗奴国と邪馬台国が奪い合った土地
免田式土器がわずか=偶然運ばれただけかもしれんが、狗奴国勢が押し掛けた可能性は残る

545:日本@名無史さん
19/10/22 09:48:20.60 .net
>>544
>>543

546:日本@名無史さん
19/10/22 09:48:28.02 .net
>>543
そのソースでなにが証明されたというのだ?
勝者の邪馬台国側がやってきてそれが残っているのは当たり前だろう。

547:日本@名無史さん
19/10/22 09:49:55.50 .net
本拠地である筑後平野を邪馬台国に奪われた狗奴国人がどっと押し寄せた。
それも結局掃討されて邪馬台国が九州統一しましたとさ。

548:日本@名無史さん
19/10/22 09:51:09.98 .net
>>546
そんなことは、どうでもいい話!  「其山有丹」でとっくに決着済み!   @阿波

549:日本@名無史さん
19/10/22 09:51:38.99 .net
>>547
そんなことは、どうでもいい話!  「其山有丹」でとっくに決着済み!   @阿波

550:日本@名無史さん
19/10/22 09:55:08.53 .net
邪馬台国と狗奴国が元から同じ国ならだいぶ話は変わる。

551:日本@名無史さん
19/10/22 09:55:20.84 .net
菊池川の南だけの国が王を名乗ったとして、
張政がやって来たり魏が大騒ぎで邪馬台国を激励して
魏志倭人伝に記載されるほどのことかね?
オラが筑後平野に邪馬台国を持ってくるために
菊池川に大役を任せようとしているのだろうが、
完全なるミスリードだな。

552:日本@名無史さん
19/10/22 09:57:17.45 .net
107年には倭国王がいるからな。
そして後世にも倭国があり、邪馬台国と狗奴国はもう出てこない。
倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して戦った。
筑前と筑後だな。

553:日本@名無史さん
19/10/22 09:59:50.76 .net
>>551
>菊池川の南だけの国が王を名乗ったとして、張政がやって来たり魏が大騒ぎで邪馬台国を激励して魏志倭人伝に記載されるほどのことかね?
くだらないミスリード乙
狗奴国の中心は熊本平野南部と人吉盆地だと何度言ったら分かるんだこのアホは

554:日本@名無史さん
19/10/22 10:00:46.90 .net
>>546
そんなに邪馬台国が優勢ならどうして魏に援助を求めなくちゃいけなかったのやら
もうソースの無い君の妄想は聞き飽きたよ

555:日本@名無史さん
19/10/22 10:01:56.44 .net
>>547
じゃあ魏に援軍を求める必要なんてまるで無かったんですね
論理矛盾してますね

556:日本@名無史さん
19/10/22 10:02:45.51 .net
>>466
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないんだと何回しつけてやれば自覚できるんだよ(大笑)

557:日本@名無史さん
19/10/22 10:04:50.29 .net
同じ王家なら家督争いだから、軍事的理由ではなく政治的理由で卑弥呼の立場が脅かされたかもね。

558:日本@名無史さん
19/10/22 10:04:58.80 .net
>>549
泡チョンコは自スレで妄想語ってホルっとけって笑

559:日本@名無史さん
19/10/22 10:07:35.39 .net
>>558
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

560:日本@名無史さん
19/10/22 10:09:59.48 .net
>>559
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコロの主張に一切の信憑性なんてないんだと何回しつけてやれば自覚できるんだよマヌケ(大笑)

561:日本@名無史さん
19/10/22 10:17:46.77 .net
>>559
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きた

562:日本@名無史さん
19/10/22 10:18:38.62 .net
>>561
敗北宣言!   @阿波

563:日本@名無史さん
19/10/22 10:21:57.57 .net
>>562
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコロの主張に一切の信憑性なんてないんだと何回しつけてやれば自覚できるんだよマヌケ(大笑)

564:日本@名無史さん
19/10/22 10:23:56.43 .net
ホルる阿呆も触る阿呆も四国説スレで踊ってろよ・・・

565:日本@名無史さん
19/10/22 10:42:31.63 .net
>>555日本@名無史さん2019/10/22(火) 10:01:56.44
>じゃあ魏に援軍を求める必要なんてまるで無かったんですね
>論理矛盾してますね
注意深く読むと、援軍を求めたとは書いてないな。ただいざこざがあってますとだけ・・。
だから係長クラスの張政ほか数名を送っただけ。
此れも、張政を派遣する口実であり、その実、倭国支配のために人材を起こり込んだだけかもしれない。
なお卑弥呼死後、再び立った男王は狗奴国王ではなく(狗奴国王は既に王位にあった)、倭国内の有力者だった。。
また、当時殺千余人は共立倭国内の事件だった。ご留意あれ。

566:日本@名無史さん
19/10/22 11:25:38.03 .net
>>564
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

567:日本@名無史さん
19/10/22 11:30:45.95 .net
>>553
罵倒だけで内容が亡くなったようだ。

568:日本@名無史さん
19/10/22 11:32:49.19 .net
曹操鉄鏡やら硯やらで考古学者も九州説を唱え始めたから今後は九州説同士での議論が主流になるだろう

569:日本@名無史さん
19/10/22 11:51:29.86 .net
>>565
全くその通り。
魏に援軍を求めた訳ではない。
『檄』の意味が全く違う。
245年に帯方郡から難升米に対して、韓制圧戦に後方から参戦せよ。
という、三国志戦列に加われという『檄』によって『黄幢』を授けたのである。
これに倭が応えなかった言い訳が
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
である。
張政はこの遣倭載斯烏越の船に便乗して、査察に来たのであって援軍も糞も無い。
この報告が
使 大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
下戸 與大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲 或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰噫比 如然諾
であって、女王には既に対外外交実権は無いことが知れた。
これが、邪馬台国―魏外交が、247年に終わった理由である。
ただし、卑弥呼の墓は、魏人に見せた日本最初の巨大古墳だ。
筑紫国は滅びたのではなく、軍人たちは古墳としてはやっつけ仕事の墓を盛ったw
邪馬台国は、防人の一大卒を受け入れ、調略的に統一に応じたのである。
これヒドw

570:日本@名無史さん
19/10/22 13:00:33.90 .net
その後の邪馬台国と曹操鉄鏡について
曹家との交流については、
238年卑弥呼が最初であり、247年が最後である。
238年難升米の銅鏡100枚には鉄鏡ではなく、集めた漢鏡等だろう。
249年には、司馬氏が台頭するので、次の2回のどちらかで送られている。
正始元年(240年明帝没 曹芳8歳戴冠、佐治曹爽・司馬懿)
太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物
其四年(243年 曹芳元服) 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
卑弥呼の宗家が500年以降迄、宗教的に継承したと考えられる。
ただし、筑紫の君の台頭、日田に引っ込んでいることから冷や飯組だ。
これに対し、銅鏡については239年~240年には、九州で年記△鏡を作っている。
この鏡師は、公孫氏遺民など楽浪や帯方経由で亡命させたのだろう。
おそらく中央政権と筑紫を強く結んだ証拠は、
この年記△鏡が初めで、以降は銅鐸圏だった本州でも制作されるが、
これ以前から、庄内甕の出る奴国の難升米である。
九州の安曇氏及び筑紫の君の時代に繋がる発掘はまだまだ出る。

571:日本@名無史さん
19/10/22 14:24:23.21 .net
チェリーピック畿内説の馬鹿カキコでスレストw

572:日本@名無史さん
19/10/22 14:35:35.77 .net
>245年に帯方郡から難升米に対して、韓制圧戦に後方から参戦せよ。
という、三国志戦列に加われという『檄』によって『黄幢』を授けたのである。
>これに倭が応えなかった言い訳が
わざわざ邪馬台国にやってきて、またまた『檄』を飛ばした張政さんは
アホなのか?w

>これが、邪馬台国―魏外交が、247年に終わった理由である。
>曹家との交流については、
238年卑弥呼が最初であり、247年が最後である。
台与に『檄』を告諭したりしている張政の存在そのものが魏との交流では?
台与も朝貢してその内容まで記録されているのに無視ですか?

>であって、女王には既に対外外交実権は無いことが知れた。
>これが、邪馬台国―魏外交が、247年に終わった理由である。
>ただし、卑弥呼の墓は、魏人に見せた日本最初の巨大古墳だ。
実権が無いのに巨大古墳作れたの?
狗奴国を相手にしながら巨大古墳を作れるのなら、
そんな余裕があるなら三国志戦列に加われって言われるよね?

573:日本@名無史さん
19/10/22 14:55:49.16 .net
巨大古墳とか言い出したし正体はキナイコシかこれ

574:日本@名無史さん
19/10/22 15:00:30.91 .net
「遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」
倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く
普通に魏に援軍求めているようだが

575:日本@名無史さん
19/10/22 15:10:31.25 .net
文献軽視だからキナイコシだろう。平成限りの一発屋。

576:日本@名無史さん
19/10/22 15:23:36.15 .net
もう令和だというのに。

577:日本@名無史さん
19/10/22 17:06:32.15 .net
>>574
【説】とく
① 物の道理を、ことばをついやして相手にわかるように言い聞かせる。理をわけて話す。さとす。説得する。
② 物事のなりゆきや事情などを、相手にわかるように説明する。
③ 意味などのわからないところを、ときあかす。解釈して示す。説明する。講釈する。
説くとは、あくまで説明しただけで、お願いする(された)という意味はない。
推測だが、倭としては阿吽の呼吸で援軍を要請したつもりだったかもしれないが、
郡の方は、ふんふんそうかそうか、そりゃ大変だねえ・・、と聞き置いたという書き方になっている。
またその結果は、「大したことはなさそうだから、様子見に張でも遣わしておけばよかろう」という判断だったわけだ。、

578:日本@名無史さん
19/10/22 19:12:48.22 .net
>>566
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコロの主張に一切の信憑性なんてないんだと何回しつけてやれば自覚できるんだよマヌケ(大笑)

579:日本@名無史さん
19/10/22 19:49:52.36 .net
免田式土器は沖縄にも分布しているし、瀬戸内地方とも関連が深い
後の阿蘇ピンク石遠距離輸送に関係してそうなんだけどなあ

580:日本@名無史さん
19/10/22 19:52:30.16 .net
>>579
日本人ならば、皇国史観!   @阿波

581:日本@名無史さん
19/10/22 20:56:51.40 .net
>>572
238~9年に公孫氏遺民から鏡師や軍師を向えている。
魏の対韓制圧戦は 245年以降。
この間、青銅移入元を失った日本(中央)は中華冊封下に入らず富国強兵の道を選び、
統一政権に 銅鐸文化の連携が無かった九州筑紫も参入、半島進出で高句麗馬の移入、
鉄の国内生産を為し350年までに百済新羅を建国した。
245年の韓制圧戦の『檄』に応えなかったのは、日本が対魏の防衛戦を覚悟したからである。
基本的に日本海や瀬戸内海沿岸諸国諸国の 大阪湾岸に有った政都は防衛の為、纏向を建設した。
313年楽浪帯方が撤退すると倭の五王時代には大阪湾岸に戻り古墳時代は本格化した。
つまり、この時の纏向奈良王朝は継続していない。
空白の4世紀は、邪馬台国九州筑紫説への回帰で、古墳が全てを語れるはずである。
247年迄の倭人伝は九州を語っているが、大倭王は畿内に発生したことは言うまでも無い。
@阿波は、ただの火事場泥棒のアラシ、低次元なので無視でw
しかし阿波はこの前の本州統一、この後600年辺りまでの朝廷形成の
豪族勢力としては極めて有力である。
関東までの本州における攻防の為、250年迄の
本営が奈良纏向のように四国に引いた可能性が高い。
四国スレは、これで行こうぜwww

582:日本@名無史さん
19/10/22 21:38:12.17 .net
>>581
>@阿波は、ただの火事場泥棒のアラシ、低次元なので無視でw
>しかし阿波はこの前の本州統一、この後600年辺りまでの朝廷形成の豪族勢力としては極めて有力である。
倭国(阿波)に対するジレンマだね。  気持ちは理解できるよ。   @阿波 

583:日本@名無史さん
19/10/22 21:39:28.28 .net
>>577
全くその通り。
三国志は、中華大王の歴史ではなく、戦国時代である。
辺境で北条と武田と徳川が争ったとしても、勝者を取り込めば良いのである。
三者三様に婚姻や人質など調略を取るのが王道。
公孫氏打破の東夷安定政策は、宿敵呉を制する為であり
楽浪帯方の安定に、倭を利用したかったのである。
結果は、280年、三国志を制しても東夷では、
313年高句麗と倭の支援する百済新羅に挟まれ、してやられ楽浪帯方は失った。
東夷伝里や、月行等、謎の地理概念で 洋上の大国、倭の特定を避けたのは
卑弥呼が筑紫の小国王だったのに、皇帝が大倭王認定した 間違いの恥 も有るが
倭が、東夷伝序文にある、
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
中華思想の
俎豆之象 存中國 
に、組さなかったことによって、正史に記録したくなかった
という理由に由来すると考えられる。


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