【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬捌at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬捌 - 暇つぶし2ch352:日本@名無史さん
19/09/23 13:16:25.63 .net
>>325
>皆、三世紀以前の話をしてるんだけど?
縄文時代後期から、7世紀末までの倭国(阿波)の話をしてるんだけど?  わははははは   @阿波

353:日本@名無史さん
19/09/23 13:19:28.41 .net
それでも卑弥呼は阿波にいた

354:日本@名無史さん
19/09/23 13:37:48.11 .net
今となっては黒潮で水行とか言ってた頃が懐かしいなあ
逝ったっきりじゃんとか突っ込んでも聞く耳もたずに主張しまくってて懐かしかった
@高地性集落が四国横断山中街道の宿場町とかあったな
人間おいつめられるといろいろ考えつくものだ

355:日本@名無史さん
19/09/23 13:39:28.16 .net
>@高地性集落が四国横断山中街道の宿場町
銅鏡百枚かついで魏使が足腰鍛えたってあれだなw

356:日本@名無史さん
19/09/23 15:10:25.69 .net
まぁ、魏人が短里などという亡国の尺度を使う意味もメリットもないし、短里を採用する時点で「魏使の報告書」が陳寿のソース源でないことは明らかだわな。
さらに水行〇日、陸行〇日ってところでそれを決定づけてる。
それまで記録してきた里数換算を行程の途上で突如放棄とかありえん。
そんな報告書を魏帝に提出したら、魏帝は「げぇっ!!」って大口あけて絶句しよるわ。

357:日本@名無史さん
19/09/23 15:13:43.02 .net
>>303
またそうやって都合の悪い箇所は見えないふりをする
魏使は銅鏡百枚などの重量物を運搬していると言っているだろう
もともと標準速度での移動は無理なんだよ
>いや、平地の標準ルートで糸島-佐賀平野が100km程度ってことなんだが。
日本語が通じない人か?
多くの河川があるので渡河点までいちいち迂回してたら100kmどころじゃ済まないってことなんだが
>吉野ヶ里出土の銅鐸が島根の銅鐸と同型である事から明確なように、佐賀-糸島はおろか本州までの流通ルートははるか昔に確立している。
>邪馬台国期に道なき道などあり得ない。
末廬国から伊都国までのルートでさえ草木が生い茂って前を進む人間の背中が見えないと書かれているわけだが?
都合の悪い箇所を見えないふりする癖は直したほうがいいぞ
魏志倭人伝の記述を無視した想像は結局ただの妄想に過ぎないのだから
吉野ケ里でわかるように当時は環濠集落が主である
環濠集落は環濠で外界と集落を区切っているのだから、城郭で外界と区切っている中国やヨーロッパの城塞都市文化と同じで、
区画の外には無人地帯が広がっている
人が住んでいなければ橋もろくにかからないし、九州の気候ではひと夏であっという間に草ぼうぼうの道なき道になる
まして筑紫平野の女王共立諸国はつい最近まで倭国大乱で争っていたのだから、敵の進行ルートにもなり得る街道や橋の整備を行う動機がない

358:日本@名無史さん
19/09/23 15:16:26.93 .net
>>330
そんな報告書を魏帝に提出したら、魏帝は「げぇっ!!」って大口あけて絶句しよるわ。
西晋 だと、何度言えばw   @阿波

359:日本@名無史さん
19/09/23 15:17:31.80 .net
>>330
>そんな報告書を魏帝に提出したら、魏帝は「げぇっ!!」って大口あけて絶句しよるわ。
西晋 だと、何度言えばw   @阿波

360:日本@名無史さん
19/09/23 15:22:00.55 .net
>>330
>それまで記録してきた里数換算を行程の途上で突如放棄とかありえん。
伊都国や不弥国で行程はほぼ終了したんだよ。
だからそこまでの日数をおさらいしただけ。

361:日本@名無史さん
19/09/23 15:22:34.34 .net
・東夷世界の情報が全て短里で記されている
・短里と魏尺の変換係数がわからない
この条件が揃っていたら、短里でそのまま記すしかないな。
例えば未知の国がインチという尺度を使っていて、
未知の国の地図がインチ尺度で書かれていたとする。
そしてインチ尺度と我々のメートル法との変換係数が不明だとする。
とすれば、勝手にメートルに変換するわけにもいかないから、
とりあえずインチで記すのが正確。
メートルへの変換は後世に託す。

362:日本@名無史さん
19/09/23 15:29:55.17 .net
>>330
>まぁ、魏人が短里などという亡国の尺度を使う意味もメリットもないし、短里を採用する時点で「魏使の報告書」が陳寿のソース源でないことは明らかだわな。
いや、陳寿は短里で書かれていることをちゃんと認識しているよ
だからこそ万二千里という数字から会稽の東というおお�


363:謔サ正しい方向を計算できている 長里で書かれていると認識していたら倭国の位置は赤道付近まで行ってしまうので会稽どころの話じゃない



364:日本@名無史さん
19/09/23 15:33:07.04 .net
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。

365:日本@名無史さん
19/09/23 15:46:51.00 .net
洛陽市-紹興市(会稽)の距離は1069.8km
1069.8km÷12000里=89m

366:日本@名無史さん
19/09/23 16:57:12.19 .net
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由
玄関口(福津市周辺 万津浦)   

大陸への帰路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由
出航地(平戸市周辺)   @阿波

367:日本@名無史さん
19/09/23 18:15:29.85 .net
>>337
無理がありすぎる

368:日本@名無史さん
19/09/23 18:35:06.94 .net
>>339
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないじゃん(大爆笑)

369:日本@名無史さん
19/09/23 18:59:17.97 .net
>>339
言うだけ番長

370:日本@名無史さん
19/09/23 19:18:49.08 .net
当時は帆船がある可能性はあまりないそうだから
海流・潮流に流されると思っていいだろうな
漕いだくらいでは逆らえない

371:日本@名無史さん
19/09/23 19:21:08.51 .net
魏志に帆船出てくるよ

372:日本@名無史さん
19/09/23 19:28:48.47 .net
だよな~
黄海を船が行き来した記録向こうにあるもんよ
なんかの船が朝鮮よってそのあと日本にきた古代の航海史記録みたいなんなかったっけ?
その連中らが渡来人だの呼ばれていきなり出てきた連中らじゃねえの?

373:日本@名無史さん
19/09/23 19:29:22.46 .net
倭人経由で勝手にきたんならそいつら勝手に日本にきただけやな

374:日本@名無史さん
19/09/23 19:30:00.89 .net
じゃないの

375:日本@名無史さん
19/09/23 19:30:38.55 .net
そんなん持ち上げる理由ないぞ(°▽°)
宣言する連中らいるなら海に沈めるか?
当たり前の反応だろ

376:日本@名無史さん
19/09/23 19:38:28.71 .net
やったぜ!
朝鮮半島から鉄ゲッツ!!!

377:日本@名無史さん
19/09/23 21:56:45.25 .net
>331
きみはほんとうにばかだなあ。
>魏使は銅鏡百枚などの重量物を運搬していると言っているだろう
もともと標準速度での移動は無理なんだよ
船から荷下ろしした後は現地倭人の人夫に手分けして運ばせるんだよ。
魏使が自分で担いだとでも?
>多くの河川があるので渡河点までいちいち迂回してたら100kmどころじゃ済まないってことなんだが
多くの渡河点って具体的にどこだよ?
>末廬国から伊都国までのルートでさえ草木が生い茂って前を進む人間の背中が見えないと書かれているわけだが?
末廬国から伊都までは倭の朝貢使が通ったルートだから、そもそも魏使は通ってない。
魏使は壱岐から伊都まで直行。
距離的に変わらない上に海流乗れるから。
伊都から女王のもとに交易品は伝送されるって書いてるだろ。大量の荷物を輸送できる街道は既にあるんだよ。
外交の玄関口から王都まで、道なき道を行かねばならぬ運営体制とかありえないから。
王都が陸の孤島なわけがないだろうが。
万一の事変の時に援軍も送れんぞ?

史書に書いてもいない「魏使の通ったルート」という妄想から始めるから、そんなヘンテコリン�


378:ネ考えになるわけ。 倭人伝のどこに「魏使の通った道をトレースしました!」なんて書いてあるんだ? 帯方からなら松浦経由でなく、壱岐から糸島直行の方がはるかに「合理的」なのは猿でもわかるよな? あえて「不合理」な松浦経由した理由は何?



379:日本@名無史さん
19/09/23 22:13:27.72 .net
>>350
>船から荷下ろしした後は現地倭人の人夫に手分けして運ばせるんだよ。魏使が自分で担いだとでも?
誰が担いだって人力である以上、移動速度は変わらないわけだが
きみはほんとうにばかだなあ
>多くの渡河点って具体的にどこだよ?
普通は橋だろ
場所によっては渡し船もあったかもしれん
いずれにせよ現代のように多数あるわけもなく移動距離は長くならざるを得ない
>末廬国から伊都までは倭の朝貢使が通ったルートだから、そもそも魏使は通ってない。
何を根拠に?
妄想はもうたくさんだぜ
>伊都から女王のもとに交易品は伝送されるって書いてるだろ。大量の荷物を輸送できる街道は既にあるんだよ。
伊都国は安曇海人の国だ
海路で運んだに決まっている
街道は必要ない
>史書に書いてもいない「魏使の通ったルート」という妄想から始めるから、そんなヘンテコリンな考えになるわけ。
つまりお前は史書に書いてもいない「倭の朝貢使が通ったルート」だと妄想してるわけね
倭の朝貢使がどうして伊都からじゃなく末盧に行かなきゃいけないのか意味不明なわけだが
そもそも倭の朝貢使のルートなら陸行五百里はどこから出てきたんだ?
倭人は里程を知らんのだぞ?
お前の妄想はとっくに破綻してるんだよ

380:日本@名無史さん
19/09/23 22:17:40.46 .net
>>338
>洛陽市-紹興市(会稽)の距離は1069.8km

>1069.8km÷12000里=89m
お見事。

381:日本@名無史さん
19/09/23 22:49:49.18 .net
んなら卑弥呼って呼ばれた女王がいたん会稽やん、、、

382:日本@名無史さん
19/09/24 00:17:24.76 .net
奈良文化財研究所のブログより
URLリンク(www.nabunken.go.jp)
>古代の方位測定法
>いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、
>地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
>奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、
>西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>
>ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
>午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
>この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
太陽を利用する方法は精度が高いが定点観測しなきゃいけないので都市計画にはいいが移動時には使えない
魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
と考えるとすっきり解決するのではないか

383:日本@名無史さん
19/09/24 04:06:25.59 .net
>>354
なるほど、この修正を加えれば呼子から糸島まで東南になるな
倭人伝の謎もだいぶ解明されてきた感じがするね

384:日本@名無史さん
19/09/24 06:06:57.06 .net
>>351
>誰が担いだって人力である以上、移動速度は変わらない
そうだよ?人夫に分散させれば平時の行軍装備と変わらない重量で運べるから、平時の行軍速度と変わらないね?
冊封には軍事同盟の意味合いもあり、なおかつ蛮地に赴くときは危険も多いから倭への魏使は武人…船舶比率が高いから水軍のそこそこの将官と精兵ってとこだろ。
まさか、ヨボヨボ


385:の爺さんや書生然としたモヤシっ子を派遣するわけはないだろう。 なんで遅くなると思ったの? >いずれにせよ現代のように多数あるわけもなく移動距離は長くならざるを得ない いやだから、渡河地点がいくつあって、距離は何倍に増えたの?具体的に。 >街道は必要ない 重要な都市と都市ができれば、そこに街道ができるんだよ。往来あるんだから。 平地を通る糸島-佐賀間で、街道が「できない」と思う理由はなに? >倭の朝貢使がどうして伊都からじゃなく末盧に行かなきゃいけないのか意味不明 海流と船舶技術。 倭人でも「行き」は対岸距離が短い松浦半島経由。「帰り」は対馬海流が利用できる壱岐から糸島。 >倭人は里程を知らんのだぞ? いや、だからそれはずっと前に解明済だろ。 土着倭人は里を知らないけど、古い時代に来た渡来人、現代的に言うと「ザイニチ」には里の知識が伝承されてたのだよ。 特に北九州一帯には、古くからの半島人も多いからね。 でないと、短里を使う意味がわからないね?



386:日本@名無史さん
19/09/24 06:07:20.62 .net
「魏使の通ったルート」だと仮定すると、
●松島半島から糸島まであえて困難な陸路を行った理由
●魏使が短里を使う理由
これらに対する説明ができてないね?
俺はその疑問に既に「合理的」に解答を出してるね?
お前の妄想はとっくに破綻してるんだよ。
もし、糸島から佐賀まで日速3kmでしか進めない未開の地だったらね…
安心しろ、そこに邪馬台国はない。
正史に記載されている以上、邪馬台国=大和だと言うのが中華の公式見解だからな。

387:日本@名無史さん
19/09/24 07:13:38.61 .net
>>357
>正史に記載されている以上、邪馬台国=大和だと言うのが中華の公式見解だからな。
あなたさま、魏・晋王朝のお役人様でいらっしゃいますか???

388:日本@名無史さん
19/09/24 07:21:34.74 .net
>>357
>正史に記載されている以上、邪馬台国=大和だと言うのが中華の公式見解だからな。
頭が可哀想な人?

389:日本@名無史さん
19/09/24 07:53:15.05 .net
>>354
>魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
それにしても極北を計る方法は、「西日本では最大10-15度」だそうだからさしたる問題ではない。、
ましてや朝夕の日の出・日の入りの方角をあてにして45度も間違えるよりは、はるかにましではないか??

390:日本@名無史さん
19/09/24 08:01:52.92 .net
>>356:>平地を通る糸島-佐賀間で、街道が「できない」と思う理由はなに?
>>357:>もし、糸島から佐賀まで日速3kmでしか進めない未開の地だったらね…
なんでここに糸島-佐賀が出てくるか、分かりかねるのだけれどねえ。佐賀に邪馬台国でもあったのかねえ。

391:日本@名無史さん
19/09/24 08:49:14.46 .net
そういえばこの時代、壱岐→対馬 はどうやっていったのだろうな
対馬→壱岐 は海流にのって行けそうだけど、反対なら流されそうなのだが

392:日本@名無史さん
19/09/24 10:37:49.18 .net
季節を選べば大丈夫だよ

393:日本@名無史さん
19/09/24 10:38:12.55 .net
>>362
この海峡間(釜山-対馬-壱岐-唐津)の潮の流れはとても複雑なのだそうだ。
干満の差、月齢の差、四季の差などで潮の方向や強さが大きく変わる。
また、風向によっては底流と表面50㎝位までの流れの方向も違う。
結果として、旧暦の夏6月頃と冬12月頃が、潮としては最も渡りやすく、
各島間は基本的に1日航海で渡れることが、近年の海潮レーダー観測で明らかにされたそうだ。。
事実、卑弥呼の遣いは6月と12月に渡ったらしいことが、倭人伝からも読み取れる。

394:日本@名無史さん
19/09/24 12:14:06.46 .net
つまり倭人らの拠点自体が会稽ってわけな(°▽°)
そっからさらにどっか行ったとこに邪馬壹国←ってのがあったって話だべ
魏の連中らは魏の首都、洛陽←から会稽←までの道のり距離、方角を記録に残したわけだよ

395:日本@名無史さん
19/09/24 14:26:16.10 .net
会稽と言えば
呉の夫差と越の勾践の戦争で有名やな

396:日本@名無史さん
19/09/24 14:27:18.65 .net
会稽自体はもともと越国の領地
呉の夫差と越の勾践の間で戦争があった地だよ

397:日本@名無史さん
19/09/24 16:02:36.67 .net
倭人


398:の方向感覚は 20度から25度程度で北が北北西にやや偏している であればこそ真北にはない半島が真北にあるということにはなる 半島が真北にあるということは 真西方向ぴったしに会稽東部都尉の支配した領域があるということだよ



399:日本@名無史さん
19/09/24 18:39:01.68 .net
>>340
>無理がありすぎる
どこが無理なのかを指摘できない、小心者ですか?  わははははは   @阿波

400:日本@名無史さん
19/09/24 19:25:13.23 .net
>>340
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

401:日本@名無史さん
19/09/24 19:36:49.87 .net
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由
玄関口(福津市周辺 万津浦)   

大陸への帰路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由
出航地(平戸市周辺)   @阿波

402:日本@名無史さん
19/09/24 21:38:15.16 .net
それ高麗時代に日本に仏教が伝わってきたルートじゃないの?

403:日本@名無史さん
19/09/24 21:40:59.28 .net
会稽郡が古代中華世界の南の果てなんだよ
それより南は全て南蛮と呼ばれた

404:日本@名無史さん
19/09/24 22:27:14.36 .net
>>356
>そうだよ?人夫に分散させれば平時の行軍装備と変わらない重量で運べるから、平時の行軍速度と変わらないね?
どれだけの大名行列組む気だよお前はw
人間の数が増えるほど移動速度は遅くなるのが常だがそんなことも分からんのか?
>いやだから、渡河地点がいくつあって、距離は何倍に増えたの?具体的に。
いや、それを明らかにしなきゃいけないのは距離が100kmほどだと断言しているお前なんだが?
ちゃんとルート上に渡河可能な地点が十分にあって迂回が必要なかった証明をしろよ
>重要な都市と都市ができれば、そこに街道ができるんだよ。往来あるんだから。
伊都国からの往来は船だと言ってるだろう
なんで海人族がわざわざ3倍も時間の掛かる陸路を取ると思ってるんだ?
>平地を通る糸島-佐賀間で、街道が「できない」と思う理由はなに?
筑後山門は福岡県なんだが?
地理も理解できてないくせに噛み付いてきたのか?
>倭人でも「行き」は対岸距離が短い松浦半島経由。「帰り」は対馬海流が利用できる壱岐から糸島。
根拠が一つもないな
ただの妄想じゃないか
>土着倭人は里を知らないけど、古い時代に来た渡来人、現代的に言うと「ザイニチ」には里の知識が伝承されてたのだよ。
それも根拠が一つもない
ただの妄想だな
>でないと、短里を使う意味がわからないね?
いや、>>336の通り短里で書いてあるのは生粋の中国人である陳寿も認識しているから半島人関係ない
お前の妄想はとっくに破綻している

405:日本@名無史さん
19/09/24 22:35:38.64 .net
>>357
>●松島半島から糸島まであえて困難な陸路を行った理由
松浦な
三国志の常識を知らんようだが中国北方の魏の人間は船が苦手だ
魏人は赤壁の戦いで嫌というほど思い知ってる
>●魏使が短里を使う理由
司馬懿の功績を大きくするため短里で数字を誇張した
昔から言われていることだな
>俺はその疑問に既に「合理的」に解答を出してるね?
いや全然
愚にもつかない妄想が並べてあるだけだったよ
>正史に記載されている以上、邪馬台国=大和だと言うのが中華の公式見解だからな。
これもまた愚にもつかない妄想
魏志から三百年以上後の隋使に邪馬台国の場所なんて分かるわけがない
単に地名が同じだったからそう思っただけのこと
地名が同じなのは筑後山門から畿内にヤマトの名を持っていったのだから当たり前だが、隋使には知る由もない

406:日本@名無史さん
19/09/25 03:25:48.31 .net
邪馬台国とは関係ないけど、金印見つかってる割に奴国関連の遺跡って全然掘られてねえな
福岡空港前の月隈丘陵で犬と散歩してるとさ、犬がくんくん地面かいで掘るんだけど、割れた赤粘土の皿がわんさか出てくる
月隈遺跡は古代の祭祀場 兼 共同墓場で、昭和の代に開発される前に一通り学術調査されてるんだけど、国際スポーツ大会までにスポーツ公園を作らないといけない事情で急遽、発掘調査を切上げて、そのままその上に道路敷いてしまったらしいんだよ
俺の爺ちゃんがそのときその工事の現場監督やってて「甕棺の上にコンクリートば流し込んでくさ罰当たりなことしちょった」ってめっちゃ嘆いてた
だから俺はまだまだ掘られてないお宝が眠ってるこの月隈丘陵が奴国一の聖地だったのでないかと思ってる

407:日本@名無史さん
19/09/25 03:42:17.30 .net
まあ普通に考えて日本で最初に稲作の始まった席田遺跡の外縁を取囲むように走ってる月隈丘陵に何もないはずかないわな
先祖代代志免に住む祖父


408:が言ってことだが、東平尾公園が整備されるまでこの辺りの人は忌地として絶対にこの丘陵には立入らなかったらしい 奴国が大陸人の最初の入植地なのだから、邪馬台国論争をする前に博多周辺の胡散臭いところを粗ざらい調査するほうが古代史研究に寄与すると思うが、学者や九州説者は平原遺跡に釘付けなんだよな 趣味で月隈を研究してる教育委員会のジジイいないかな



409:日本@名無史さん
19/09/25 07:04:42.48 .net
>>375
>単に地名が同じだったからそう思っただけのこと
面白いこと云うねエ。 
畿内大和も筑後山門も、単に地名が同じだったからそう思っただけのこと、・・じゃないの。

410:日本@名無史さん
19/09/25 07:20:00.91 .net
「畿内大和」
これは地名じゃないから

411:日本@名無史さん
19/09/25 07:24:09.18 .net
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。 
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡とは、雲泥の差。   @阿波

412:日本@名無史さん
19/09/25 07:27:33.84 .net
陸行一月というのの算出根拠推定だが、
魏からの贈り物は、卑弥呼のもとへ伝送されたとなっている。
伝送とあるのだから、駅のようなものが有って物資や一般情報へ伝達されたようだ。後世の駅家の数が参考になるのではないか。

413:日本@名無史さん
19/09/25 07:38:20.68 .net
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

414:日本@名無史さん
19/09/25 07:45:25.31 .net
>>381 つづき
というのは、我が村に駅家はなかったが、その代替として昭和の初めまで郵便文書の伝送があった。
村から村へ、地元の健脚が郵便文書を担ぎ、走り伝えたという。
これはなかなか合理的で、
自分の家で朝飯を食ってらら、郵便を受け取って走り、
隣り村へ送り届けたら駄賃をもらって帰り、我が家で昼飯を食べる。
こうすれば、移動往復の食事や宿泊の世話設備が必要ない。。昔の伝送は、昔なりに巧妙な仕組みだったわけだ。

415:日本@名無史さん
19/09/25 08:01:11.84 .net
>>378
畿内大和はその通りだろう
魏志倭人伝の描写と全然合ってないのに主張しているんだから
筑後山門は魏志倭人伝の描写にピッタリ>>8

416:日本@名無史さん
19/09/25 08:07:55.36 .net
>>384
>筑後山門は魏志倭人伝の描写にピッタリ>>8
魏志倭人伝の「丹」の採れない筑後山門に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波

417:日本@名無史さん
19/09/25 08:10:12.49 .net
>>383 続つづき
重たい荷物の伝送の場合は、走り伝えるというわけにはいかない。
それなりに準備も必要で、背負い道具や雨風に備えてミノ傘もいる。腹も減るから握り飯の一つも用意しただろう。
だから、半日伝送して、現地で昼飯を喰い、帰り道に半日費やして、夜は我が家で晩酌し、カーチャンと休む。
こうすれば、昼飯・宿泊・酒色の手間・世話・心配もいらない。
重い物資の伝送は半日づつの行程だったのではないか・・・、


418:日本@名無史さん
19/09/25 09:16:34.84 .net
三国志魏志の「邪馬台国」への「行程」は
「邪馬台国」が魏の敵である呉の後背を襲える福建省の真東に位置するという
結論から逆算したもの
福建省の真東は琉球しかないんだから
最初からデタラメ
よって魏志に記されている「行程」などまったく何の意味も無い

中国は「令和」の種元となった科学者張衡によって後漢の時代に
現地に行きさえすればほぼ正確に緯度を計測する技術を確立している
これにより


419:張衡以降の地図の精度は飛躍的に向上した 南北の位置がデタラメだというのは 中国の役人が誰一人「邪馬台国」なんぞに到達していないという 決定的な証拠



420:日本@名無史さん
19/09/25 10:14:41.26 .net
>>374
>いや、それを明らかにしなきゃいけないのは距離が100kmほどだと断言しているお前なんだが?
あー、元ネタは>>8のこの珍図な。俺はこれ見て「佐賀はねぇだろ」って言ってるわけ。
URLリンク(i.imgur.com)
平野部を抜けるルートだと100kmぐらい。平野ルートでどう考えても陸行1月じゃねえだろ、って話。
ちな、過酷な山岳ルートで訓練された兵士がどのくらいの速度出せるかというと
ハンニバルのアルプス越えで200km以上10日ぐらい(+5日で軍団集結)。
八甲田山弘前隊で200km以上11泊12日。
時代も装備も違うが、体力が倍も違うわけじゃないから、どちらも結局20km/1日前後というところに落ち着くのだろう。
魏使が決死の強行軍で急ぐわけはないから、半分の速度と見積もって山越えルートで10km/日ってところか。
>どれだけの大名行列組む気だよお前はw
まさしくそれだよ。魏の威光を知らしめる目的で、大名行列組んだんだよ。
大名行列が「道なき道」を行くはずがないだろ。
重要な国賓を、「道なき道」に案内するわけがないだろ。
民草に知らしめるためにも、街道を行列組んでいくんだよ。

421:日本@名無史さん
19/09/25 10:15:36.99 .net
>三国志の常識を知らんようだが中国北方の魏の人間は船が苦手だ
それお前の妄想。どんな国にも、得意なやつ、不得意なやつ、色々いる。
魏の水軍は全員赤壁要員のクローンか?
海路・遠征に長けた奴を選抜するにきまってるだろうが。
>司馬懿の功績を大きくするため短里で数字を誇張した
魏志における短里の論拠のひとつは張遼伝の「天柱山高峻二十餘里」記述であるが、これは位置諸説あるがもちろん倭ではない。
司馬懿の功績関係ない。
「辺境では中華中央の度量衡更新が伝わらず、古いままの単位が残ったところがあった」とすれば、筋は通る。

>愚にもつかない妄想が並べてあるだけだったよ
それはお前の読解力が決定的に足りないから。
>魏志から三百年以上後の隋使に邪馬台国の場所なんて分かるわけがない
これもまたお前の妄想、根拠なし。

魏人が船が苦手~とかいうところ、思わず「げぇっ!」って噴いたわ(笑)
帯方から9000里も渡海しておいて、壱岐に至った段階で「船は苦手づら~早く陸に上がるづら~」って、どんな状況だよ。

422:日本@名無史さん
19/09/25 10:35:04.71 .net
仮に呉の牽制であるなら魏の興味は倭人伝の記述通り九州の南の地勢がどうなっているか。
陸伝いにどこまで南下できるか、聞き取りや現地のフィールドワークで得られた情報から
倭地が周旋可能な1つの島であることを認識した。
そして、実際に九州南部を調査したからこそ花弁状住居や九州南部風の記述がある。
後に陳寿のデスクワークによりおおよその緯度も推定された。
(だだしこれには単位の混同という大きな誤りがあったが)
当然、戦略的位置にある九州南部の国と関係を持とうとする。
重要拠点の政治的安定のため内紛があれば積極的に仲裁もするだろう。
戦略的位置から外れる東の辺境なら倭種の記述で十分。

423:日本@名無史さん
19/09/25 11:52:20.63 .net
>>363>>364
海流というか潮目・潮流なんだろうけど、
うまく乗った上で漕いで
時速5kmで進めたとしても、
途中で潮目が変わらないかな。
大体6時間周期で潮目は変わるのではなかったっけ。
壱岐→対馬 最短距離で75kmほどあるから、どんな加減だろうなと。

424:日本@名無史さん
19/09/25 12:32:48.8


425:8 .net



426:日本@名無史さん
19/09/25 13:39:36.51 .net
>>385
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないじゃん(大爆笑)

427:日本@名無史さん
19/09/25 22:17:41.84 .net
>>388
>あー、元ネタは>>8のこの珍図な。俺はこれ見て「佐賀はねぇだろ」って言ってるわけ。
だからその図のどこに佐賀が関係するんだよw
地理も分からんカスが寝言ほざくな
>平野部を抜けるルートだと100kmぐらい。平野ルートでどう考えても陸行1月じゃねえだろ、って話。
だからその平野部には多数の河川があるんだが?
平野部をまっすぐ抜けられるように多数の渡河点があったことを示せなければ100kmはただの妄想
>代も装備も違うが、体力が倍も違うわけじゃないから、どちらも結局20km/1日前後というところに落ち着くのだろう。
他国の文化を持ち出しても無駄
中国では一日一舎=三十里が平地での標準、魏の一里は約430mとされるから13km弱
街道もなく草刈りもされていない無人地帯はその半分も出ないだろう
そして行く手を阻む多数の河川
一月は余裕でかかるな
>まさしくそれだよ。魏の威光を知らしめる目的で、大名行列組んだんだよ
まさしく妄想だよw
威光を知らしめるためなら現地人使っちゃダメだろw
甲冑着込んだ魏兵じゃなければ魏の威光なんて伝わるかよ
そもそもそんな大量の現地人雇う予算が辺境の帯方郡のどこにあるんだよ
>重要な国賓を、「道なき道」に案内するわけがないだろ。
だから海路で移動したって図に書いてあるじゃねえかアホウ
知能障害を起こしてんじゃねえよ

428:日本@名無史さん
19/09/25 22:27:17.40 .net
>>389
>それお前の妄想。どんな国にも、得意なやつ、不得意なやつ、色々いる。
南船北馬も知らねえのかよ
本気で無知だなお前
>海路・遠征に長けた奴を選抜するにきまってるだろうが。
それこそお前の妄想だ
そんなことが可能なくらいなら最初から赤壁で負けてねえわ
>司馬懿の功績関係ない。
いや東夷伝だけ短里にしてある動機として司馬懿が公孫淵を討って韓・倭への支配を開いたという功績を誇張するためというのは
多くの研究者が指摘している
>それはお前の読解力が決定的に足りないから
読解力が無いのはあの地図をみて佐賀がどうたら言い出すお前だよw
>これもまたお前の妄想、根拠なし。
魏志から三百年以上後の隋使に邪馬台国の場所が分かる理由を述べよ
>帯方から9000里も渡海しておいて、壱岐に至った段階で「船は苦手づら~早く陸に上がるづら~」って、どんな状況だよ。
他にルートがなければ苦手でも船に乗るしかないわけだが
ようやく陸地についてさっさと上がりたいと思うのは当然の心理だろう
まあ伊都国に行ったら「女王のところまで歩く?その大荷物じゃ一月はかかるぞ。船なら十日だが」と言われて結局また船に乗る羽目になるんだがな

429:日本@名無史さん
19/09/25 22:36:24.99 .net
>>389
ああそれと、狗邪韓国までの七千里は沿岸水行で狗邪韓国から末盧国までの三千里は外洋渡海だ
波の荒さも潮の速さも全く違う
海に不慣れな魏人には生きた心地がしなかっただろうよ
陸地についたら一刻も早く船を降りたいと思っただろうね

430:日本@名無史さん
19/09/25 22:47:34.16 .net
>>392
潮の満ち引きは6時間くらいで変わるよ
まあ結構幅はあるけど
URLリンク(www.surf-life.blue)東京
潮流の遅い小潮の日を選んで力で渡りきったんじゃないかな
海人ってこんなんらしいし
URLリンク(www3.nhk.or.jp)

431:日本@名無史さん
19/09/25 23:05:07.98 .net
>>354
これで方角問題も解決か
あと残ってる謎って何があったっけ?

432:日本@名無史さん
19/09/25 23:43:11.64 .net
>>354は知恵遅れのうわごと

433:日本@名無史さん
19/09/25 23:45:58.24 .net
>>356
>倭人でも「行き」は対岸距離が短い松浦半島経由。「帰り」は対馬海流が利用できる壱岐から糸島。
だったら末廬国と伊都国の間が「前を行く人の背中が見えないほど」草が伸び放題なのはおかしくね?
お前は当時もう国と国の間に街道があったと思ってるんだろ?
魏志韓伝に倭人が弁韓まで来て鉄を採掘してると書いてあるんだから、朝鮮半島には頻繁に行っていたはずだぜ

434:日本@名無史さん
19/09/26 08:04:30.54 .net
畿内スレ:
>>887 名前:日本@名無史さん 2019/09/26(木) 06:35:07
日本は未開の地で北九州に幾らか文化的な邑があって国になり漢倭奴国王がいたぐらいだね。
黄巾の乱が発端、道教宗教集団が流れてきて奈良を芙蓉とした。卑弥呼は西王母、天王は東王父。
移民を受け入れ信者を増やしていったのが初期。隋書では卑弥娥と扱われてる。

435:日本@名無史さん
19/09/26 08:14:06.84 .net
>>397
ま、この海峡の流れは潮の干満というよりは、川の流れの蛇行渦巻斑点流のような感じだ。
6時間でも変わるし、8時間でも変わるし、12時間でも変わる。
ともあれ、ヤシの実のように潮に流されてたどり着いたのではない。
風向きも利用し、潮の流れの変化も大いに利用したが、何より基本的には人力でこぎ渡ったということだろうねえ。

436:日本@名無史さん
19/09/26 10:07:55.10 .net
そもそも魏志倭人伝ほど胡散臭い物はない、
馬鹿馬鹿しい

437:日本@名無史さん
19/09/26 13:49:51.24 .net
畿内説とか北部九州説とか胡散臭い信者ばかりじゃ、ご本尊の倭人伝も胡散臭く見られるわな。。
ごもっとも。、

438:日本@名無史さん
19/09/26 18:26:48.69 .net
寒国と同じだな
自説が敗北
→自説もあれだが相手説も胡散臭い
の論点ずらし

439:日本@名無史さん
19/09/26 18:27:55.22 .net
畿内説に対して「北部」九州説を限定して持ち出すということは
理屈では北部九州説が正しいと理解しているのだな

440:日本@名無史さん
19/09/26 19:17:44.31 .net
>>406
そうかもね。

441:日本@名無史さん
19/09/26 19:18:10.29 .net
魏志倭人伝に九州北部の地名しか出てこないのだから、どうしようもない。

442:日本@名無史さん
19/09/26 21:08:14.92 .net
会稽東治の東はう吉が東を治めたの喩えだろ、なになに尊も真人もこれ道教。記紀神代は道教にあふれてるよ。卑弥呼は西王母。

443:日本@名無史さん
19/09/26 21:11:34.72 .net
三国志魏志の記述でわかるのは
(1) 三国志正史が執筆された晋の時代までの中国人がわかっていた
倭人領域の地理は九州北岸まで それ以外の地理はまったく知らない
(2) 倭の中心国家の使者と称する人間が魏皇帝である曹叡と内宮で謁見し
 国名に曹叡の内宮の字「臺」を得る
 これにより得体のしれない蛮族ではないという「肩書き」を得て金印をもらっている
 東夷の他の諸族と違うと認定されているから顔中入れ墨だらけだったのも
 まちがいない
 中心国家の位置はデタラメ・よって風俗の記述もデタラメで
 おそらく華南の蛮族の風俗の引き写し

444:日本@名無史さん
19/09/26 21:25:07.34 .net
考えても考えても自説に至らない
よってデタラメと考える
チーン

445:日本@名無史さん
19/09/26 21:35:24.90 .net
そのあたりは、漢書地理志のパクリだね
「其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害。後二十世,至句踐稱王,與?王闔廬戰,敗之雋李。夫差立,句踐乘勝復伐?,?大破之,棲 會稽,臣服請平。」
「民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。」

446:日本@名無史さん
19/09/26 22:13:45.59 .net
筑紫とか出てくるニカ(°▽°)???

447:日本@名無史さん
19/09/26 22:16:38.61 .net
神話集立てるはよいが怪しいやつらがそれを利用してその宗教の役職みたいなんに入りこむために利用してるとこあるからな
そいつらはっきり調べて詐称だったら全てそれら廃止な(°▽°)

448:日本@名無史さん
19/09/26 23:44:09.52 .net
魏志倭人伝に帯方から邪馬台国までの距離とある南に1万2千里は
元は漢の神仙思想による空想的地理書である淮南子にある架空の世界の最果てまでを表わす数値
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国までの里程はそれに辻褄を合わせたもので
実際の距離方位を記したものではない

449:日本@名無史さん
19/09/26 23:59:50.49 .net
なるほど。やっぱどう考えても道教だよな。陳寿はよく解ってるよな、この女王国。

450:日本@名無史さん
19/09/27 01:44:00.50 .net
>>415
漢書地理志でさえ一万二千里以上遠い国が出てくる
却下

451:日本@名無史さん
19/09/27 01:46:35.09 .net
>>397
そんなゴリマッチョが鉄の武器持って攻めてきたらヒョロい平地の弥生人は為す術もなかっただろうな
安曇が日本各地を制圧するわけだ

452:日本@名無史さん
19/09/27 02:14:30.44 .net
>>410
>倭人領域の地理は九州北岸まで それ以外の地理はまったく知らない
そこで卑弥呼に金印を渡しているのだが。

453:日本@名無史さん
19/09/27 05:19:41.88 .net
壱岐→対馬の渡航にこだわっている者だけど、
丁度よかった潮目が数時間程度で変わって、あとは潮目に逆らいながら漕ぎ続けることになる。
残り20-30km程度は漕ぎ続けないといけない。途中で休めば当然流されるから。
本当に可能だろうか。この点が疑問。
対馬→朝鮮半島、九州島→壱岐 は可能だろうが、
壱岐→対馬は可能?ギリギリありそうな感じもするけど確実性は全く感じない。

454:日本@名無史さん
19/09/27 05:35:29.53 .net
壱岐の住民が穀物を買い出しに行ってるらしいし
白村江のときには、
九州から48000人を百済に送り込んでるわけで
地元民が潮を読めば、そう困難な航海でも
なかったということだろう。

455:日本@名無史さん
19/09/27 05:37:24.83 .net
>>420
>壱岐→対馬は可能?ギリギリありそうな感じもするけど確実性は全く感じない。
その通り。   
大陸への出航地(平戸市周辺)から、壱岐をパスして、直接対馬に渡った可能性が高い。
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  @阿波

456:日本@名無史さん
19/09/27 05:57:30.29 .net
>>420
>壱岐→対馬は可能?ギリギリありそうな感じもするけど確実性は全く感じない。
その通り。   
大陸への出航地(平戸市周辺)から、壱岐をパスして、直接対馬に渡った可能性が高い。
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  @阿波
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

457:日本@名無史さん
19/09/27 07:00:58.95 .net
>>421
そういうことだね。一大国の地元民も、又南北市櫂、とあるから、
そこにはそれ相応の経験と知識の蓄積があったのだろう。しかも南北ということは対馬と唐津を意味する。

458:日本@名無史さん
19/09/27 07:12:35.61 .net
その渡海技術を独占することで、倭国の王権が成立したと考えている。

459:日本@名無史さん
19/09/27 12:55:02.98 .net
>>417
魏志倭人伝自体に倭地の端は邪馬台国よりさらに南に四千里と書いてあるが
そしてそう書いてあっても
南1万2千里が淮南子に出てくる想定上の世界の最果てを示す数字で
実際の帯方から邪馬台国までの距離を示すものではない事に変わりなし

460:日本@名無史さん
19/09/27 13:56:57.42 .net
>>423
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないじゃん(大爆笑)

461:日本@名無史さん
19/09/27 14:45:01.33 .net
>>426
ご本人はご満足のご様子だが、どことなく理屈にはなり得ていないように思われますねえ。

462:日本@名無史さん
19/09/27 15:08:04.94 .net
>>428
理屈にはなり得ているのは、後にも先にも倭国(阿波)だけ。   
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

463:日本@名無史さん
19/09/27 15:36:22.84 .net
>>426
 その通り

464:日本@名無史さん
19/09/27 15:39:57.46 .net
>>430
>実際の帯方から邪馬台国までの距離を示すものではない事に変わりなし
違う!
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m   @阿波

465:日本@名無史さん
19/09/27 16:29:41.91 .net
>>426
万二千里は修辞、ぞな、もし!

466:日本@名無史さん
19/09/27 16:30:01.46 .net
>>428
そうだね。
あれは変人の呟きだよね。

467:日本@名無史さん
19/09/27 16:30:30.61 .net
>>432
ニャンコ先生?

468:日本@名無史さん
19/09/27 16:37:40.15 .net
>>432
>万二千里は修辞、ぞな、もし!
違う!
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m   @阿波

469:日本@名無史さん
19/09/27 16:52:49.97 .net
>>435
言うだけ番長
説得力〇

470:日本@名無史さん
19/09/27 17:02:11.77 .net
>>436
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

471:日本@名無史さん
19/09/27 17:03:20.26 .net
>>436
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

472:日本@名無史さん
19/09/27 17:09:10.06 .net
>>437
魏使たちは、奴国、不弥国、投馬国には、行ってない。

473:日本@名無史さん
19/09/27 17:19:03.68 .net
>>439
そう、思いたいだけだろう?  わははははは    @阿波

474:日本@名無史さん
19/09/27 17:21:21.18 .net
>>440
奴国、不弥国、投馬国はどんな国だったと書かれてるんだ?

475:日本@名無史さん
19/09/27 17:24:37.19 .net
>>441
教えて。   @阿波

476:日本@名無史さん
19/09/27 17:28:00.34 .net
>>442
末盧国四千戸でもあれだけ国情記事があるんだ.
二万の奴国なら、もっとたくさんの記載があって当然じゃないか?
行ってないから、記事がないのさ。

477:日本@名無史さん
19/09/27 17:32:44.28 .net
>>443
>二万の奴国なら、もっとたくさんの記載があって当然じゃないか?
>行ってないから、記事がないのさ。
行ったから、記載があるんだよ。  わははははは   @阿波

478:日本@名無史さん
19/09/27 17:38:11.42 .net
>>444
「参問倭地」
伊都国で問い正しただけだろ?
奴国に行ったのなら、書くことが一杯あっただろうよ。
奴国、不弥国、投馬国は、他書に記載があるのかい?

479:日本@名無史さん
19/09/27 17:38:16.85 .net
>>444
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

480:日本@名無史さん
19/09/27 17:40:09.90 .net
>>445
>奴国に行ったのなら、書くことが一杯あっただろうよ。
そう、思いたいだけだろう?  わははははは    @阿波

481:日本@名無史さん
19/09/27 17:41:24.68 .net
>>447
奴国、不弥国、投馬国は、他書に記載があるのかい?

482:日本@名無史さん
19/09/27 17:42:20.24 .net
>>448
それがなにか?   @阿波

483:日本@名無史さん
19/09/27 17:43:56.78 .net
>>449
聞いてるの。有無をね。

484:日本@名無史さん
19/09/27 17:47:23.79 .net
知らん。   @阿波

485:日本@名無史さん
19/09/27 17:51:13.25 .net
>>451
勉強したら?
邪馬台国好きな人は、誰でもぶち当たる壁だぜ。
専門家は、ほとんどスルーしてるけどね。

486:日本@名無史さん
19/09/27 17:53:55.39 .net
>>452
>邪馬台国好きな人は、誰でもぶち当たる壁だぜ。
ぜんぜん、ぶち当たる壁じゃないんだけどw そう、思いたいだけだろう?  わははははは    @阿波

487:日本@名無史さん
19/09/27 17:57:49.91 .net
>>453
> わははははは    @阿波
笑う時は逃げなんだね。
もう少し踏み込んで学んだら?
またね!

488:日本@名無史さん
19/09/27 17:58:57.79 .net
>>454
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波

489:日本@名無史さん
19/09/27 18:04:00.33 .net
二万だろうが五万だろうが、奴国という字面からして三等国扱いさ。だから字数も少ない。
つまり、国の偉さ・重要さに応じて、割かれる字数(ページ数)にも多少があるのさ。
これ役人の常識。

490:日本@名無史さん
19/09/27 18:26:33.52 .net
>>426
裸国や黒歯国なんてさらに船で一年だぞ
要するに万二千里が世界の果てなんて当の中国人は思ってなかったってこと
そもそもお前が頼りにしている淮南子にも
天文訓には影がなくなる太陽の真下まで南に二万里と明記されている
> 淮南子 天文訓
> 南二万里则无景,是直日下也。

491:日本@名無史さん
19/09/27 18:28:20.61 .net
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m   @阿波

492:日本@名無史さん
19/09/27 18:34:33.81 .net
自郡至女王國萬二千餘里
自女王國以北 其戸數道里可得略載
萬二千餘里は郡・女王國間の[道里]であり[距離]ではない
よって@のお説は敗退

493:日本@名無史さん
19/09/27 18:37:01.51 .net
[道里]ってなに?   @阿波

494:日本@名無史さん
19/09/27 18:38:19.74 .net
@は用語の使用が杜撰で不具合
連呼すれば良いというものではないから反省したら

495:日本@名無史さん
19/09/27 18:39:46.60 .net
[道里]ってなに?   @阿波

496:日本@名無史さん
19/09/27 18:41:18.78 .net
いまさら
[道里]ってなに?   @阿波
自分で模範解答とかしてみたら

497:日本@名無史さん
19/09/27 18:43:34.98 .net
>>463
[道里]ってなに?   そんな表現、見たことも聞いたこともないんだがwww    @阿波

498:日本@名無史さん
19/09/27 18:47:49.09 .net
ああ@は史料の取


499:扱の基礎知識さえございませんと自白してしまったな



500:日本@名無史さん
19/09/27 18:52:16.95 .net
>>465
そう、思いたいだけだろう?  わははははは    @阿波

501:日本@名無史さん
19/09/27 18:58:52.59 .net
ここで@に[道里]の模範解答を要求してみたいところだが
やっぱ荷が重く無理なのだろうな

502:日本@名無史さん
19/09/27 19:10:06.11 .net
>>467
>ここで@に[道里]の模範解答を要求してみたいところだが
模範解答してみたいが、[道里]なんて、見たことも聞いたこともないんだがwww    @阿波

503:日本@名無史さん
19/09/27 19:19:04.19 .net
>>428
どこが理屈になり得てないのかな
>>457
日が沈む所までの距離は陸地が尽きた海の向こうという概念なんだろ
楽浪、帯方より南1万2千里は恐らくは後漢の時代に倭奴国があるという設定になった
倭の極南界を示す符丁的な数値
魏志倭人伝の行程は実際のものではなく
政治的祭事的な事情で邪馬台国をはるか遠くの倭の極南界にあるとして書かれたもの

504:日本@名無史さん
19/09/27 19:25:14.03 .net
>>463
[道里]ってなに?   そんな表現、見たことも聞いたこともないんだがwww    @阿波

505:日本@名無史さん
19/09/27 20:13:42.01 .net
帯方郡があったとこは燕国って連中らの勢力範囲になっているが?
もとはちっちゃい半島南部のゴミみたいな国々が伸びて新羅だの百済だの任那まで伸びたみたいよ

506:日本@名無史さん
19/09/27 20:15:48.92 .net
紀元前500年ころから見え始めて200年ころまで使われていた国名やな(°▽°)
ゴミ(三韓とか呼ばれた)が伸びて朝鮮史の幕開け

507:日本@名無史さん
19/09/27 20:45:57.75 .net
ゴミとディスるふりをしつつさりげなく高句麗以外をゴミ起源

508:日本@名無史さん
19/09/27 20:48:12.66 .net
>>463
[道里]ってなに?   そんな表現、見たことも聞いたこともないんだがwww    @阿波

509:日本@名無史さん
19/09/27 22:09:16.32 .net
BC200年から日本は青銅輸入してるし
黒曜石、翡翠は縄文海神だろ?
つまり、弥生渡来人ってのは、縄文人が人さらいだったんだろ?
帥升なんて、奴隷160人とかwww 船団で人さらいだよwww

510:日本@名無史さん
19/09/27 23:06:46.16 .net
473
高句麗はゴミとはあまり関係ないニダ(°▽°)
どっちかっちゃシナあたりのやつらが異民族扱いしたやちらが起源やけ
ゴミはゴミニダ(°▽°)

511:日本@名無史さん
19/09/27 23:24:19.68 .net
>>474
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないじゃん(大爆笑)

512:日本@名無史さん
19/09/27 23:26:53.85 .net
痴呆のふりをしようとしている痴呆老人

513:日本@名無史さん
19/09/27 23:56:08.28 .net
ゴミしかいないニダ~(°▽°)

514:日本@名無史さん
19/09/28 07:05:46.83 .net
>>463
[道里]ってなに?   そんな表現、見たことも聞いたこともないんだがwww    @阿波

515:日本@名無史さん
19/09/28 09:43:18.72 .net
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬捌
魏志倭人伝には景初二年と書かれているのに、
景初三年と主張している連中は何が根拠なの?

516:日本@名無史さん
19/09/28 10:31:20.68 .net
>>481
阿波教授に尋ねたら?
「倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。」って
豪語してるからね。

517:日本@名無史さん
19/09/28 11:27:15.78 .net
>>480
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないじゃん(大爆笑)

518:日本@名無史さん
19/09/28 11:53:03.63 .net
>>481
三角縁神獣鏡の景初4年鏡というのが有って
これを、卑弥呼の鏡であるとする説、が有ったんだけど
これを持ち帰った景初二年朝貢の難升米は景初三年には帰国している。
時の明帝は、景初三年急没なので、考古学畿内説で
これが卑弥呼の鏡であり得るための ご都合主義が根拠かと。
三角縁神獣鏡が国産で量産されているのが明白になったので、
もうこの景初三年説は文献通りに正しく読めば要らないんじゃないかな?
筑紫だしwww

519:日本@名無史さん
19/09/28 12:19:27.65 .net
公孫氏が戦争中だったから遼東を通れないと思ったんだよ

520:日本@名無史さん
19/09/28 12:21:21.80 .net
梁書とか日本書紀で景初三年になってんのもね

521:日本@名無史さん
19/09/28 12:32:11.10 .net
翰苑とか太平御覧も景初三年
景初三年の方が正しいのかな

522:日本@名無史さん
19/09/28 12:38:16.89 .net
>>439
奴国、不彌國 に説明がない、行っていないからだろう。
というのは、読み方として正しい。
『到』伊都國 郡使 常所駐
で 張政の旅程は終了


523:し、これ以降の奴国不彌國は紹介であって 方向も南じゃ無いし、女王国に近づいている方向なのかどうかも判らない。 南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 は、帯方郡起点~南至 の別の文。  投馬國 は別記 所属24国5万戸の弁辰韓5万戸の初期(240年時)仮称。 邪馬壹國 は、次有で示す21国で7万戸 女王国の仮称です。 この所属国列記は、前章の馬韓辰韓伝 同様の陳寿の書式であり、 投馬國 邪馬壹國 は海を隔てた隣国という概念であって 地名同士をその間の里程で記した、狗邪韓國~伊都までの行程と直列ではない。



524:日本@名無史さん
19/09/28 13:16:58.24 .net
また珍読かよ

525:日本@名無史さん
19/09/28 14:17:24.50 .net
猿でもわかる景初二年。
「魏志倭人伝」
景初二年六月に倭使難升米が帯方郡へ。
景初二年十二月に難升米が洛陽へ。
魏の明帝から金印その他の授与を申し渡される。
景初三年一月明帝死去 ←←←
景初三年六月だと明帝に会えない。
△詐欺はタマネギみたいだなあ。

526:日本@名無史さん
19/09/28 15:02:22.87 .net
畿内説の主張
景初三年はそのまま卑弥呼の遣使年代で、△が舶載銅鏡百枚。
青龍三年は後世に卑弥呼を称えたもので、方格規矩鏡は仿製鏡。
 普 通 に 考 え た ら 逆 だ ろ 
景初二年(238)六月に洛陽へ連絡がいって、
正始元年(240)には銅鏡百枚を卑弥呼に渡さなくちゃいけないんだから、
倉庫にあった、青龍三年(235)の方格規矩鏡を百枚渡したんだよ。
後世に卑弥呼を称えるのが金印の景初三年だろが。
景初四年やら呉の元号やらあるし
もう、畿内説はグダグダたな。

527:日本@名無史さん
19/09/28 15:29:40.98 .net
>>490
明帝に別に会わなくたってええやん

528:日本@名無史さん
19/09/28 15:43:33.42 .net
又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
皆装封付難升米牛利 であって、これに記された銅鏡100枚は
景初三年239年、多分春以降? 難升米が持ち帰っている。
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩
梯儁の240年には、
奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物
この奉詔書は、239年明帝没 曹芳8歳戴冠 の報が有ったはず。
鏡も持って来ているが100枚ではない。
曹家と倭王としての卑弥呼との交流はこれだけなので、
噂の日田鉄鏡な気がする。

529:日本@名無史さん
19/09/28 17:04:38.38 .net
倭に鏡持ってきたのが正始なら
三角縁神獣鏡景初三年四年正始元年鏡が下賜品でもおかしくねえなあ

530:日本@名無史さん
19/09/28 17:12:13.60 .net
景初四年で終了
呉の職人さんだね
仁徳天皇だったかみたくスカウトしてきたんだろう

531:日本@名無史さん
19/09/28 17:48:02.23 .net
日本側に持ち込む都合じゃなくて
明帝の崩御が景初3年1月だから、
景初4年はもちろん景初3年年記鏡を皇帝は作れない。
って話だろ?
景初3年1月以降、公孫氏の報復戦で
呉が遼東に入ったので、呉の職人さんをさらって来る
みたいのは、倭人の縄文以来人さらい伝統説だな。
犯人は難升米で、ぴったしwww

532:日本@名無史さん
19/09/28 17:52:08.59 .net
喪中だと年号鏡は作れないのか?

533:日本@名無史さん
19/09/28 17:53:59.77 .net
なに寝言言ってるんだ?
台与もしくはそれ以降の王が、
4世紀くらいに呉の職人さんをスカウトしてきたんだよ
呉が滅亡して商売あがったりだったろうからな

534:日本@名無史さん
19/09/28 17:54:45.39 .net
それが最近の研究で景初四年は何ヶ月か魏で使われてたらしいぞ

535:日本@名無史さん
19/09/28 17:57:33.79 .net
涙ぐましい詐欺師

536:日本@名無史さん
19/09/28 18:01:09.93 .net
>>499
で、その証拠は?

537:日本@名無史さん
19/09/28 18:21:21.19 .net
「唐の時代に編纂された『晋書』という歴史書があります。
この中の巻 12「天文志』に〈景初 4年〉という年号が出てくる。
天文志とは天体観測の記録などで日時に関してはかなり正確を期しているはず。
当時、〈景初 4 年〉が当たり前のように使われていた証拠。
同じように清時代に編纂された『侃文韻府』という書にも
〈景初 4 年〉という年号が出てきます

538:日本@名無史さん
19/09/28 18:21:29.94 .net
皇帝の威信材として配る場合に
239年明帝没 曹芳8歳戴冠以降で、
なんで景初年紀である必要がある?
通貨とは違うから司馬氏が作っても良いが
皇帝没後に有力家臣が年号は使わないだろ。
曹家の鏡が日本に有るなら、240年曹芳8歳戴冠、卑弥呼印綬か
243年12歳元服の 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘 までだが、
243年は皇帝が、お土産を自慢してない。
同盟倭王に過大な期待は、印綬時の報告
邪馬壹國 可七萬餘戸 列記21国 此女王境界所盡
自郡至女王國 萬二千餘里
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
で、概ね終ってると思う。

539:日本@名無史さん
19/09/28 18:25:19.22 .net
>>503
>邪馬壹國 可七萬餘戸 列記21国 此女王境界所盡
>自郡至女王國 萬二千餘里
>参問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連周旋可五千餘里
まさに倭国(阿波)だね。   @阿波

540:日本@名無史さん
19/09/28 18:38:12.31 .net
>>502
唐や清の文献を持ち出して正気か?
学者だから正確なはず。といっても、
天文学者であれば天文学が専門で、当時はネットですぐ検索という時代でもない。
天文事象の記載に重点を置いた文章で、
景初一年
景初二年
景初三年
景初四年
と刻んでも全く不思議ではない。

541:日本@名無史さん
19/09/28 18:43:49.05 .net
>>502
両方とも解釈の誤りで結論済み

542:日本@名無史さん
19/09/28 18:43:51.23 .net
方角の件などもそうだが、
後世に間違えた例を持ち出しても何の証明にもならないのだが。
藁にもすがりたい気持ちは分かるが。
あ、いや、分からんが。

543:日本@名無史さん
19/09/28 18:45:06.27 .net
景初四年と正始元年のどちらもある時点で矛盾してアウト
卑弥呼朝貢時に正始元年はわからなくて予知能力でもあったのかでアウト
赤烏元年どころか赤烏七年まであって猛烈にアウト
スリーアウトチェンジ、試合終了

544:日本@名無史さん
19/09/28 18:46:10.25 .net
>>502
景初三年240年=正始元年(明帝没は1月 曹芳8歳戴冠、佐治曹爽・司馬懿)
曹芳の皇位継承に異論が有ったことは予測可能で
結果としては曹爽はクーデターで倒れ、曹芳は司馬氏に譲位する。
曹芳8歳戴冠 243年の元服迄
この歴史を認めない勢力の記録が残った可能性はある。
よく有ること、ニダw

545:日本@名無史さん
19/09/28 18:47:37.49 .net
弥生の鑑真:呉から4世紀にやってきた陳さんが作った、で結論済み

546:日本@名無史さん
19/09/28 18:50:39.02 .net
どうあがこうが景初二年六月じゃないと明帝の時代じゃなくなるから
景初三年と言ってる連中は全て嘘つきなの?

547:日本@名無史さん
19/09/28 19:14:59.33 .net
>>511
まだ、言ってる場合は嘘つきというより
倭人が、百済新羅の建国を後援して
漢四郡の追討で高句麗と挟み撃ちにしたという
歴史を認めたくないだけの、歴史認識都合だと思う。
倭人伝が東夷伝里を使うとか
同盟国の倭や方可4千里の韓の大きさが、おかしいのは
九州筑紫を倭王にした魏の皇帝の間違いを隠すためだな。
日本はこの後、中華を出し抜き半島進出で高句麗牛馬の移入に成功する。
中国正史には、書けない蛮国なのである。
これで、嘘を言っても
中国には三国志統一は無かった事にはならないが
チベット、ウイグルも、香港、台湾も戦前の
清、中国じゃないだろ?
こういう真実の歴史は共有されない。
うその、教科書が必要ニダ、だってよ。

548:日本@名無史さん
19/09/28 19:15:37.55 .net
卑弥呼の使いが明帝に会ってなくても別に良くね

549:日本@名無史さん
19/09/28 19:16:16.24 .net
仕方ねーなじゃあ景初四年鏡は偽物でいいわ
その代わりに景初三年と正始元年鏡は年号が実際あるから本物の魏鏡でいいな?

550:日本@名無史さん
19/09/28 19:18:47.41 .net
>>512=513
>>512
内容の無い文章だな。
どうあがこうが景初二年六月じゃないと明帝の時代じゃなくなるから
魏志倭人伝に書かれた通り
卑弥呼の朝貢は景初二年六月からだ。
>>513
明帝の返事の文章があるだろうが。
タイムリミットは景初三年1月。
つーか、
なに議論してるふりしてるんだよこのクズが。

551:日本@名無史さん
19/09/28 19:21:07.34 .net
>>514
詐欺師が取引を始めおったかw
三角は同范鏡だらけでほぼ全てが舶載鏡か国産鏡。
>景初四年鏡は偽物でいいわ
>その代わりに景初三年と正始元年鏡は年号が実際あるから本物の魏鏡
そう言い出した時点で
レッドカード100枚。
そろそろお前らはこの世界から旅立つ時が来てるぞ。

552:日本@名無史さん
19/09/28 19:23:06.88 .net
>>515
>明帝の返事の文章があるだろうが
明帝とは書いてないけどな

553:日本@名無史さん
19/09/28 19:23:47.73 .net
九州の卑弥呼が貰ったのは銅鏡百枚
畿内のキナイコシが貰うのはレッドカード100枚

554:日本@名無史さん
19/09/28 19:26:22.42 .net
>>515
明帝の返事の文書なんてないらしいぞ
詔書はあるようだけど

555:日本@名無史さん
19/09/28 19:27:01.90 .net
>>516
何でレッドカードなの

556:日本@名無史さん
19/09/28 19:27:26.82 .net
キナイコシさん
レッドカード100枚もらったから、
【九州説】魏志倭人伝を正しく読むスレから
退場してもらえますか?



100年ほどwww

557:日本@名無史さん
19/09/28 19:28:48.88 .net
九州説は立場が悪くなるとすぐに発狂

558:日本@名無史さん
19/09/28 19:29:40.55 .net
卑弥呼は景初二年に朝貢した、で確定だな。

559:日本@名無史さん
19/09/28 19:31:21.82 .net
景初二年に朝貢した方が畿内説にとっても都合いいんじゃないのか?
景初三年に朝貢したら、正始元年までに銅鏡百枚の新作は間に合わないだろう

560:日本@名無史さん
19/09/28 19:31:31.24 .net
イイヤ景初三年だ

561:日本@名無史さん
19/09/28 19:32:40.19 .net
倭国に鏡を持って来たのは正始になってから

562:日本@名無史さん
19/09/28 19:34:23.81 .net
>>514
そのお手持ち品は、昭和鏡かと思います。
年記が景初四年であることは、鉛の年代測定では
逆に嘘と知らない3世紀の国内偽造の可能性は高い。
家宝として、大切に保存してくださいね。
ここまで、詐欺師だと(藁藁

563:日本@名無史さん
19/09/28 19:36:39.82 .net
>>205
晋書天文志
「魏明帝太和五年十二月甲辰,月犯填星。
青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。 戊寅,月犯太白。占曰:「人君死,又為兵。」
  景初元年七月,


564:公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩。 四年三月己巳,太白與月?加景晝見,月犯太白。占同上。 景初元年十月丁未,月犯?惑。占曰:「貴人死。」二年四月,司徒韓?薨。」 これは訳すと、 「青龍二年十月乙丑に月が土星に接近し、また、戊寅には金星に接近した。これを占うと「人君が死に、戦と成る」ということであった。その占い通り、景初元年七月に公孫文懿が反乱を起こし、   (景初)二年正月に宣帝がこれを征伐したが、(景初)三年正月には明帝が崩御した。 (青龍四年)三月己巳に金星が月と共に光を増して日中でも見え、月が金星に接近したので、また占った。 景初元年十月丁未に月が火星(?惑けいこく)に接近した。占ったところ「貴人が死ぬとあり」(景初)二年四月に司徒の韓?が死んだ。」 田舎の大学教授が青龍二年に行われた占いにある「四年三月己巳」を「景初四年」と勘違いしちゃったんだね 次に来る四年は景初じゃなくて青龍四年なんだな 青龍二年、青龍四年、景初元年の占いが時系列で記述されているということ 佩文韻府も同じ間違い



565:日本@名無史さん
19/09/28 19:39:48.99 .net
キナイコシ、爆沈!

566:日本@名無史さん
19/09/28 19:42:26.01 .net
魏志倭人伝に記されている通り、卑弥呼の朝貢は景初二年六月帯方郡からでした
めでたしめでたし

567:日本@名無史さん
19/09/28 19:44:05.27 .net
>>528
納得!

568:日本@名無史さん
19/09/28 19:46:41.05 .net
陳寿は正始元年の記録を殷歴である景初四年の記録のまま残していて
夏四月の黄権薨去の記載までは景初四年であろうから
正始改元は景初四年の四月以降であることが確定するそうだ

569:日本@名無史さん
19/09/28 19:48:33.72 .net
>>532
で、三国志に景初四年の記録のままとやらは残っているのかな?
詐欺師キナイコシ君?

570:日本@名無史さん
19/09/28 19:54:08.32 .net
呉から4世紀にやってきた陳さんが作った
なんでキナイコシが反応してるの?

571:日本@名無史さん
19/09/28 19:54:40.32 .net
>>524
銅鏡100枚は新作じゃないな。
皆装封付難升米牛利 であって朝貢謁見の後
二度目の謁見などは無く、封印して持ち帰らせている。
12月なので、洛陽~帯方は判らんが、
倭人船による半島西岸~対馬渡海は難しいと思えるので、
帯方からは翌春早々帰るはずである。
たぶん、帯方に向かったとは思うが
景初三年一月の皇帝の死を知ってるかは、判らない。

572:日本@名無史さん
19/09/28 19:59:42.39 .net
>>533
魏書
「正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令係資為~」

573:日本@名無史さん
19/09/28 20:02:40.50 .net
中国から習作なり鋳型なり見つかってるのか?
中国から「魏の年号」の入った銅鏡は見つかってるのか?
いくら特注といっても、
それなりのバックグラウンドがないと
全て机上の空論だぞい

574:日本@名無史さん
19/09/28 20:11:51.66 .net
>>537
洛陽近郊の畑から三角縁神獣鏡が1面見つかっているよ

575:日本@名無史さん
19/09/28 20:14:13.68 .net
>>538
戦前に日本人が持ち込んだやつね。
反論したかったら発掘証明を持ってきてね。
ちなみに
>中国から習作なり鋳型なり見つかってるのか?
>中国から「魏の年号」の入った銅鏡は見つかってるのか?
への解答になってないけどさ。

576:日本@名無史さん
19/09/28 20:19:33.03 .net
人の振り見て我が振り直せ
考えてみると、
銅鐸もそうだし
三悪もそう
同范技術というのは日本の誇る弥生青銅器作成技術だから、
青龍三年銘方格規矩鏡も、日本製かもね。
ただ、青龍三年なんてどうでもいい年号を複製してるんだから、
卑弥呼が貰った百枚の中に一枚くらいの年号鏡があって、
それを複製したのか。

577:日本@名無史さん
19/09/28 20:19:38.87 .net
>>539
鋳型や習作が魏で見つかってなくて
中国で魏の年号の入った鏡が見つからなければ
三角縁神獣鏡は魏鏡判定されないのだろうか?



578:三角縁が魏鏡である証拠は他で沢山あるよ



579:日本@名無史さん
19/09/28 20:23:52.85 .net
>>541
日本で出土しすぎた。

580:日本@名無史さん
19/09/28 20:24:29.07 .net
そうそう正始五年鏡というのがあったな
中国 画文帯環状乳神獣鏡 五島美術館蔵

581:日本@名無史さん
19/09/28 20:26:22.62 .net
>>542
倭はトヨの時代も合わせて4回ほど魏に使いを送っているからな
国内でコピーしたぼう製鏡もあるし

582:日本@名無史さん
19/09/28 20:30:24.71 .net
九州説が20年以上前の説に凝り固まっているうちに
畿内説は新しい証拠を着々と積み上げているのだよ

583:日本@名無史さん
19/09/28 20:32:23.87 .net
積み上げていないな。
卑弥呼の朝貢は魏志倭人伝の記載通り、「景初二年六月」以降であり、
△は国産鏡

584:日本@名無史さん
19/09/28 20:35:03.14 .net
赤烏元年と赤烏七年の鏡があるからなあ。
景初四年があるからなあ。
呉からきた陳さんが作ったんだなあ。
と、みーーーーんなが思ってるぞwww

585:日本@名無史さん
19/09/28 20:37:43.66 .net
じゃ景初三年鏡と正始元年鏡は実際ある年号なので本物の魏鏡
師出洛陽と銘も彫ってあるし

586:日本@名無史さん
19/09/28 20:38:14.73 .net
既に何度も否定された>>502を持ち出す時点で
キナイコシは詐欺師
こんなクズは
レッドカード100枚で退場相当だと思うよ

587:日本@名無史さん
19/09/28 20:41:43.69 .net
じゃあwww

588:日本@名無史さん
19/09/28 20:44:04.11 .net
>>548
じゃ景初三年+正始元年+師出洛陽と銘も彫れば、本物の魏鏡になるんだね。
そう思って、
呉から来た陳さんも、景初三年+正始元年+師出洛陽と銘も彫ったんだね。
青銅原料は全部海外の時代に。

589:日本@名無史さん
19/09/28 20:44:22.05 .net
>>538
>洛陽近郊の畑から三角縁神獣鏡が1面見つかっているよ
その洛陽近郊の「三角縁神獣鏡」 と宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?
群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?   @阿波

590:日本@名無史さん
19/09/28 20:46:42.34 .net
日本人が持っていったのを敗戦して日本へ引き揚げる時に現地に残していったんだろう
みーーーーんながそう思ってるよ

591:日本@名無史さん
19/09/28 20:48:03.86 .net
>>538
>洛陽近郊の畑から三角縁神獣鏡が1面見つかっているよ
その洛陽近郊の「三角縁神獣鏡」 と宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?
群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?   @阿波

592:日本@名無史さん
19/09/28 20:49:38.80 .net
>>548
じゃ景初三年+正始元年+師出洛陽と銘も彫れば、本物の魏鏡になるんだね。
そう思って、
呉から来た陳さんも、景初三年+正始元年+師出洛陽と銘も彫ったんだね。
青銅原料は全部海外の時代に

593:日本@名無史さん
19/09/28 20:50:18.52 .net
魏の領内には銅山がなくて銭も作れなかった

594:日本@名無史さん
19/09/28 20:50:42.70 .net
赤烏元年と赤烏七年は
呉から来た陳さんが滅亡した故国呉を想うせめてもの意地

595:日本@名無史さん
19/09/28 20:52:05.15 .net
貴重な銅を卑弥呼に贈り、卑弥呼は貴重な銅から八咫鏡を作った

596:日本@名無史さん
19/09/28 20:57:47.89 .net
>>553
同向式神獣鏡(伝楽浪大同江面)と萩原1号墳の画文帯神獣鏡が同笵鏡だってこと、知ってるかい? @阿波

597:日本@名無史さん
19/09/28 20:58:56.93 .net
>>538
>洛陽近郊の畑から三角縁神獣鏡が1面見つかっているよ

その洛陽近郊の「三角縁神獣鏡」 と宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?   @阿波

598:日本@名無史さん
19/09/28 21:13:39.19 .net
東四国(徳島・香川)では、初期の古墳に漢鏡(とくに後漢晩期のもの)が副葬される例が多い。
通常は単数副葬例が多いが、東四国(徳島・香川)では、2面副葬される例が複数ある。
例:天河別神社5号墳(上方作系浮彫式獣帯鏡・斜縁神獣鏡)   @阿波

599:日本@名無史さん
19/09/28 21:22:38.74 .net
魏志倭人伝にはその国本は男王とあり他の巫女女王がない、次に男子1人いて辞を伝えるとある、これはさにわであり政事要略に出てる、明法博士は秦氏が主でありちょう然もまた秦氏の流れとされる。よって卑弥呼以前はヤマトとは関係ない世界である。どうなってたかは知らん。

600:日本@名無史さん
19/09/28 21:31:30.72 .net
「宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とその時代」
制作年代としては、3面とも舶載第2段階で、かなり古い鏡である。
歴年代では、240年代の製作である可能性が高い。
副葬時期(古墳の時期)
・舶載第1・2段階の「三角縁神獣鏡」 は、古墳時代前期前半に築造された古墳から多数出土している。
・宮谷古墳も、古墳時代前期前半となる可能性が高い。
古墳時代前期前半に相当するとみられる古墳の数の多さは、東四国あるいは徳島を特徴づ�


601:ッるものと評価できる。   @阿波



602:日本@名無史さん
19/09/28 21:47:52.71 .net
キナイコシは詐欺師!
ちい、覚えた!

603:日本@名無史さん
19/09/28 22:02:06.44 .net
だから俺だって嫌なんだって、でも瓢箪墓は神霊の容器、鉄拐の神通力。黄巾の乱が起きて増えてくんじゃこの流れしかないだろ?道教の宗教集団だよ、銅鐸も改宗で減っていったんだろ。

604:日本@名無史さん
19/09/28 22:09:08.90 .net
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。   @阿波

605:日本@名無史さん
19/09/28 23:01:57.16 .net
>>551
陳さんの作った三角縁神獣鏡には
銅出徐州 師出洛陽(魏の領地で銅産出地の徐州の銅で鏡師は洛陽)
と彫っている
陳さんは魏の洛陽出身という事だろう
>>555
三角縁には師出洛陽と彫ってあるので陳さんは魏から来た
呉から来たなら師出長安と彫っただろう
そして青銅原料は海外だけれども
倭国内で銅製品を作る場合は複数の原料を混ぜて作るので
海外銅製品とは不純物の量が違って出る

606:日本@名無史さん
19/09/28 23:15:06.80 .net
三国時代の魏晋朝領域の徐州では銅は産出していない

607:日本@名無史さん
19/09/28 23:18:25.14 .net
王仲殊
「“師出洛陽”の銘文は、明らかにでたらめである。」
URLリンク(blog.livedoor.jp)

608:日本@名無史さん
19/09/28 23:36:19.36 .net
>>569
> “師出洛陽”の銘文は、明らかにでたらめである。
>鏡上に“師出洛陽”の銘文があろうと、決してそれらが洛陽の工匠によって作られたとは説明できないし、更にそれらが洛陽の製品だとは説明できない。
>中国で出土した各種銅鏡によれば、洛陽及びその付近から出土した銅鏡には、全くこの種の銘文がなく、これも中国銅鏡と日本の三角縁神獣鏡の間の
>明確な相違の一つになる。
ふむふむ、本物の洛陽の鏡には師出洛陽なんて銘文は無いと

609:日本@名無史さん
19/09/28 23:42:37.09 .net
>>568
徐州で銅が出ないなら何の目的があって鏡に銅出徐州と彫ってあるのか

610:日本@名無史さん
19/09/28 23:50:21.70 .net
古代日本の誇る国産鏡
同じく国産の銅鐸と同じく、
海外産の銅を使って(当時の銅は全て輸入品だから当たり前)
同范がとても多い。
呉から来た陳さんが銅鐸職人を指導して
偉大なる卑弥呼女王を称える国産鏡を開発してくれたんだね。
感謝の心。

611:日本@名無史さん
19/09/28 23:53:38.59 .net
>>571
頭悪いなあ
陳さんは呉出身だぞ。
呉の徐州の銅を自慢して「銅出徐州」(呉の徐州ね)と
彫ったんだよ。
赤烏元年・赤烏七年も陳さんの意地だ。
ちくしょう
こんな辺境の島国ですら魏を崇拝しやがって。。。
俺っちの故郷の呉もすごかったんだぞ、、、
かわいいね
陳さん

612:日本@名無史さん
19/09/28 23:55:57.86 .net
呉の陳さんはなぜ作った鏡に景初や正始の魏の年号を刻んで
銅出徐州 師出洛陽と彫ったのかな

613:日本@名無史さん
19/09/28 23:57:03.34 .net
>>573
徐州は三国時代魏の領土だったよ

614:日本@名無史さん
19/09/29 00:00:38.57 .net
《漢書・地理志》と《続漢書・郡国志》によれば、彭城及びその付近は、漢時代には鉄鉱があり、鉄官が置かれたが、銅鉱はなかった。
《新唐書・地理志》《宋書・地理志》等も徐州は鉄を産すると書いているが、銅を産するとは説いていない。
明清時の関係書籍に初めて徐州付近に銅山があり、“旧曾産銅”とあるが、実際には根拠がない。
清の雍正帝の時代に徐州府に銅山県が置かれたが、所謂銅山は有名無実であった。
近代に到り実際に調査されたが、徐州の利国駅の主な鉱石は赤鉄鉱であり、そして銅山島の南�


615:[に鉄峰があり赤鉄鉱に黄銅鉱が含まれ、 風雨に浸食され緑色に変色している。銅山の名は多分これに由来しているのだろうが、決して採掘可能な銅鉱ではない。 要するに結論を言えば、三国時代、彭城及びその付近は絶対に銅を産することはなかった。



616:日本@名無史さん
19/09/29 00:01:27.07 .net
>>575
徐州最南部の長江北岸一帯は呉の領土だよ
そして銅山があった魏徴とかもその一帯

617:日本@名無史さん
19/09/29 00:02:11.48 .net
>>574
滅亡した呉から、「技術」を評価されて
4世紀にスカウトされてきたものの、
北部九州倭国=邪馬台国では、魏の年号が重宝されていたからだろ
それくらいもわからないのか?

618:日本@名無史さん
19/09/29 00:04:43.97 .net
さんざん理屈を無視した喧伝ばかりしておいて
今さら議論してるフリしても
誰も心動かされないぞ
>キナイコシ

619:日本@名無史さん
19/09/29 00:07:25.24 .net
銅が不足して
魏は鉄鏡へシフトしてるだろ。
金銀鉄鏡が話題になっただろ。
硯も全国各地の大型建物も鉄鏡も
20年前で凍りついた畿内説は無視してるけどさw

620:日本@名無史さん
19/09/29 00:10:01.24 .net
>>577
三国時代の徐州の呉の領地は南のごくわずか
銅山のあった北部は魏の領地
>>578
三角縁神獣鏡は三世紀の古墳から見つかっているのだが

621:日本@名無史さん
19/09/29 00:11:31.67 .net
>>581
>三角縁神獣鏡は三世紀の古墳から見つかっているのだが
へえ、どこ?

622:日本@名無史さん
19/09/29 00:12:11.65 .net
<3世紀>
九州 銅鏡<大型化
魏  銅鏡×<<<金銀鉄鏡
呉  銅鏡<肉彫り神獣鏡
畿内 石器木器

<4世紀>
九州 金銀財宝
中国 金銀財宝
畿内 まだ銅鏡やってんの???w

623:日本@名無史さん
19/09/29 00:12:57.59 .net
>>581
まだそんなウソをつく気か
銅山があったのは呉の領土
URLリンク(yamatai.cside.com)
> 王仲殊氏はいう。(傍線を、引いたのは、安本。)
> 『銅出徐州』の銘文にある徐州とは、どの地を指しているのであるか、研究しなければならない。思うに徐州とは漢の武帝が置いた十三の刺史部
> 〔州内の国政を視察・報告させるために中央から派遣した官の刺史が監督する地域〕の一つで、管轄地区はいまの江蘇省の長江以北および
> 山東省の東南部の地区であった。後漢時代の徐州の治所〔郡役所のおかれこころ〕は?(せん)(いまの山東省?)にあり、魏時代に彭城(ぼうじょう)
> (いまの江蘇省徐州)にうつした。しかし、指摘しなければならないことは、いまの徐州一帯では、古代より銅を産出しない。
> 『漢書』地理志、『続漢書』郡国志には、彭城およびその付近の地区には、漢代に鉄鉱があり、かつて鉄官〔鉄の産地で鋳造を担当した官〕がおかれたが、
> しかし銅鉱はない。『新唐書』地理志、『宋書』地理志などにも、徐州には鉄を産するといっているが、銅を産出するとはいっていない。
> ただ、明・清時代の関係ある書籍になってようやく徐州付近に銅山があり、『旧く、かつて銅を産す』といっているが、実は根拠のないことである。
> 清時代の雍正年間〔1723~1735年〕に徐州府に銅山県がおかれたが、しかし銅山といっても有名無実である。
> 近代の実地踏査によれば、徐州利国駅〔山東省との境にある地〕でとれるおもな鉱石は赤鉄鉱であり、銅山島の南端にある鉄峰の赤鉄鉱の中に
> 黄銅鉱がまざっていて、風雨によって緑色になっている。銅山の名のおこりはこのことからおこったのであろうが、しかし、採鉱のできるような銅鉱山ではない。
> 要するに、上にのべたように、三国時代には、彭城およびその付近では決して銅を産することはなかった。
> しかし、もし『銅出徐州』の銘文中の徐州が、いまの江蘇省の長江以北と山東省東南部の広大な地区をさ�


624:オているならば、いまの揚州市付近の江都、 > 儀徴一帯には、古く銅鉱があり、漢代の初めに呉王の劉?が鋳銭したところと伝えられている > 〔呉王劉?は漢高祖劉邦の兄の子で、呉地方に封建され、王国内の予章郡で銅山を開発して、銅銭を鋳造した。



625:日本@名無史さん
19/09/29 00:13:26.64 .net
ほら有名な黒塚古墳とか
椿井大塚古墳もそうだな


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch