【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬捌at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬捌 - 暇つぶし2ch149:日本@名無史さん
19/09/20 22:01:02.98 .net
>>130
とうとう畿内説が完全崩壊したのか
まあもともと無理のある設定だったしな

150:日本@名無史さん
19/09/20 22:02:41.00 .net
>>105
>桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られたのに残った家臣が奮戦して織田勢を壊滅させましたとか言われたら「そんなバカな」だろう
ワロタw
たしかに

151:日本@名無史さん
19/09/20 22:17:10.97 .net
>>127
自洛陽至会稽の満二千里を 之東 と言うのも検討しました。
男子 無大小 皆 黥面 文身
自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避 蛟龍之害
今 倭 水人 好沉没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚水禽後稍 以為飾
諸國 文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
計其道里 當在 會稽東治之東
これが、ひとまとまりの文ですが、計其道里の 其 に該当する文が存在しません。
前節の 自郡至女王國 萬二千餘里 に当たります。
これだと、南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 水行十日 陸行一月
の言い換えなので、あえて 自洛陽至会稽の満二千里を之東 でなくても大丈夫です。
計其道里 當在 會稽東治之東 がこの位置にある事自体が問題で
計其道里が、自郡至女王国満二千里=自洛陽至会稽満二千里 であるとも考えられます。
謎の東夷伝里の補足説明なわけですが、満二千里を説明しています。

152:日本@名無史さん
19/09/20 23:56:17.73 .net
>>134
佐賀川上に邪馬台国があったとは思えんが
まず畿内の大和に地名からして負けている

153:日本@名無史さん
19/09/21 06:38:15.28 .net
>>141
>まず畿内の大和に地名からして負けている

「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。   大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。   阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。  @阿波

154:日本@名無史さん
19/09/21 07:10:08.81 .net
>>139
神武東征は、大将だった兄が戦死したが、残党が大和にたどり着いたというストーリーなんだが。

155:日本@名無史さん
19/09/21 07:17:48.03 .net
>>140
計其道里の「其」は、今 倭 水人 の倭を指しているとみるべきじゃないかな
つまり、
夏后少康之子 封於會稽 斷髪「文身」と、今 倭 水人 好沉没 捕魚蛤 「文身」が合わせてあり、
その習俗の文身も類似しているが 
一方で道里を計ってみても、則ち自洛陽至会稽満二千余里(=華人の日常知識?)と自郡至女王国満二千余里とを比べてみても、
緯度もまた会稽と似たようなところにある・・・、

156:日本@名無史さん
19/09/21 08:09:33.24 .net
>>141
あ~、説明不足ですみません。
最近、佐賀川上を力説しているのですが、深夜にはほとんど書き込まないので、失礼してます・・。
従来の伊都国説は、唐津・末盧国から東南陸行至の糸島にイトコクあったとしますが、実際には北�


157:圏、行するので??と考え、、 やはり倭人伝の記述通り、東南陸行500里の佐賀川上に真の伊都国があった、という新しい説です。 則ち唐津・中原の船着き場遺跡から、松浦川沿いの古道を南へ進み、小さな峠を越えて300里で佐賀平野の多久市へ・・、 ここで大きく東へ折れ、山すその古道を200里で佐賀川上の伊都国に到るわけです。 つまり途中の多久で右折するので、至るではなく「到る」が使用されているのです。この到るの用法には前例が有り・・、 下記の如く、韓半島の南西岬でも大きく右折して乍南乍東するので、ここも到狗邪韓国と「到る」になっています。 「従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里」 (なお、次の東南奴国百里は佐賀市街、東行百里の不彌国は旧三根郡の吉野ケ里一帯とする)



158:日本@名無史さん
19/09/21 08:15:23.74 .net
>>100
新解釈だな
だが筋は通っている

159:日本@名無史さん
19/09/21 08:16:52.31 .net
>>143
大将は最初から神武だが?

160:日本@名無史さん
19/09/21 08:20:59.96 .net
倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えている
記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . ┃
ルート分岐① ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐② ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 投馬國
ルート分岐③ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┗→ 邪馬壹國
という構造

161:日本@名無史さん
19/09/21 08:32:59.25 .net
>>147
長男の五瀬命だろ。
日下で戦死したんだよ。

162:日本@名無史さん
19/09/21 08:57:47.67 .net
>>148
あれ、一部おかしくないか??
東南┃至 奴国 百里・・・【★動詞なし】、であるからここは奴国へ移動していない。
東【行】┃至 不彌國 百里・・・【動詞は前】、なんだから、キミの定義に従えば、不彌国へは移動しており、
そして、その不彌国から再度放射読みで南の投馬国と邪馬台国へ至るにならないか???
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・【動詞は前】末盧国から連続読みで伊都国へ移動した
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】 伊都国から放射読みで伊都国にとどまっている状態。
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・【動詞は前】伊都国から連続読みで不彌国へ移動した
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・【★動詞は後ろ】不彌国から放射読みで不彌国にとどまったまま
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・・・【★動詞は後ろ】不彌国から放射読み不彌国にとどまったまま

163:日本@名無史さん
19/09/21 09:06:54.67 .net
おかしくない九州説など未だかつて存在したことがない

164:日本@名無史さん
19/09/21 09:40:59.71 .net
もう勘違い畿内説などはとっくに逝っているのだよ

165:日本@名無史さん
19/09/21 09:42:33.47 .net
ふーん、そういうことか。
ま、そうだろな、古くはシラトリ、エノキ、
戦後になってハラダ、フルタ、邪馬台国の怪も、ことごとく方向オンチの方角ムシだし・・

166:日本@名無史さん
19/09/21 10:29:39.48 .net
>>97 アマタリシヒコというのは、「尊称」じゃないかと思うな。 だから、基本全員の王のあたまについていた。 ついていたというか、ついているものだった。 普段は長ったらしいからそんな名前で呼ばないが、正式名称として。 「起源」は、倭国統一のときの王、天足彦国押人命。 彼の弟が「ヤマトタリシヒコ」。 もしかすると、卑弥呼は天足彦国押人命の妻なのかも知れん。夫は早くに死んでいた。 王になるには、卑弥呼の一族の娘を妻にする必要があった。 その娘が母親であるものでは、王として認められ、そうでないものが王になることは 難しかった。母がそうでも、複数の有力者達の間で争いが起きた。



168:日本@名無史さん
19/09/21 10:31:29.46 .net
>>続き
それは100年以上、いや継体の時代まで続いた。
その一族はその後没落したが、没落したというか天皇家に取り込まれたというか一体化
してしまったというべきか。
ほとんどの有力者の一族はその一族の地を引くようになっていたからな。
ないがしろにしてきた女王の一族の祟りを恐れ、伊勢に呼び寄せることにしたのが
「外宮」の神様だった。アマテラスと同様に祀ることこで祟りを鎮めようとした。
そして、女王の魂はそれで納得した。
草薙の剣が熱田神宮にあり、それを長らく誰も違和感も持たず取り返しもしなかった。
後になって一度取り返そうとしたら、不幸が起きた。
草薙の剣を守っているのが女王のちを引く姫だから。
だから、今でも熱田神宮に守られている。
記紀は、その女王のことを書いてはいないようで隠しきれていないように見える。
女王の一族の血を消してしまうと、天皇家そのものが成立しないから。
母や祖母がいないことになってしまう。
だから、系譜は隠せない。
いや、隠すと言うか、天武の時代でもそれは自明のことであり、どの氏族も女王の一族の
血を引いていた。天武に忖度して、彼女の一族こそが日本を作った立役者であることを
「書かなかった」
卑弥呼の一族とは何か?その一族こそ、アマテラスの正当な後継者であり、天孫降臨の
本物の子孫なのだろう。
九州からやってきた「自称天孫」は、本物の天孫の血を何代にも渡って取り入れ
10代経ってようやく「身内」と認められた。
崇神や垂仁の頃は、有力候補が多すぎて争いが起きた。
景行は母はかの一族の本家の姫で、その姉妹をまとめて妻にした父のおかげで他に有力者が
いなかった。
ここにきて、「天皇家」が王の中の王となり、一気に統一が進み、前方後円墳が広まった。
各地の同時期の有力な前方後円墳は、景行の母である日葉酢媛命の古墳と同形をとることが多い。
四世紀前半の時代である。

169:日本@名無史さん
19/09/21 10:49:58.49 .net
なるほど!

170:日本@名無史さん
19/09/21 10:52:43.98 .net
>>149
>日下で戦死したんだよ。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。  また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
現在、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県か香川県等、四国地方を起源にしている。   @阿波

171:日本@名無史さん
19/09/21 10:54:17.35 .net
「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。 「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
よって、記紀に登場する日下姓をみても、記紀は四国地方を記したものと言える。   @阿波

172:日本@名無史さん
19/09/21 10:56:59.34 .net
>>155: >崇神や垂仁の頃は、有力候補が多すぎて争いが起きた。
景行は、母がかの一族の本家の姫で、その姉妹をまとめて妻にした父のおかげで他に有力者が
いなかった。
ここにきて、「天皇家」が王の中の王となり、一気に統一が進み、前方後円墳が広まった。
縁故は大事、今でもそうだが、古代はなおさら・・。

173:日本@名無史さん
19/09/21 11:00:40.26 .net
>>159
>崇神や垂仁の頃は、有力候補が多すぎて争いが起きた。
その舞台が、倭国(阿波)。

>ここにきて、「天皇家」が王の中の王となり、一気に統一が進み、前方後円墳が広まった。
その舞台が、倭国(阿波)。   @阿波

174:日本@名無史さん
19/09/21 11:01:44.24 .net
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。   大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。   阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。  @阿波

175:日本@名無史さん
19/09/21 11:09:49.45 .net
>>144
前スレの274で
陳寿の文が太伯削除由来で改変された説で 作った修正文があるが
これに太伯の伝説と 呉の会稽が 倭には遠すぎる
伝太伯 古公亶父之子 譲王 封於會稽/ 聞之 一同訝疑 倭地 極遠絶
と言う二文を、加えると
自郡 至女王國 萬二千餘里

倭人 聞舊語 自謂 太伯之後
伝太伯 古公亶父之子 譲王 封於會稽 斷髪文身 以避 蛟龍之害
之聞 於一同 訝疑 倭地 極遠絶
計其道里 當在 會稽東治之東
自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
其 男子 無大小 皆 黥面 文身
(夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避 蛟龍之害)←削除
今 倭 水人 好沉没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚水禽後稍 以為飾
諸國 文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
太伯伝を夏后少康之子に置き換える改訂で、文章が壊れた可能性が推測できる。
倭人伝の文の順列を修正無しで読むなら、悪文だが
洛陽~会稽 を之東に持ってくと帯方から女王への満二千余里に一致するになります。
ご指摘、ありがとうございます。

176:日本@名無史さん
19/09/21 11:30:58.03 .net
>>145
そんなトコにゃあ何にもないぞ
通説通りに伊都国は旧怡土郡で糸島市
魏志倭人伝は邪馬台国を倭の極南界隈とされていた会稽東治(冶)の東
沖縄辺りに持っていくための辻褄合わせで距離と方位が実際とは違って書かれている

177:日本@名無史さん
19/09/21 11:44:15.96 .net
どう一致すんのよ
計算は?

178:日本@名無史さん
19/09/21 11:59:49.05 .net
計算なんて要らねえ
魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治(冶)の東に当たると書いてる

179:日本@名無史さん
19/09/21 12:49:06.06 .net
>>163
いくつかありますよ。
ま、何といっても有名なのは、肥国王家の総大将の熊襲タケルの砦だったこと。
その熊襲タケルは死に臨んで「カワカミンタケル」に改名しました。お墓も近くにあるその川上で~す。、

180:日本@名無史さん
19/09/21 12:55:09.86 .net
>>154
>アマタリシヒコというのは、「尊称」じゃないかと思うな。
天皇家にはタリシヒコという諡が何人もいる。
諡号は死後に付けられたという解釈だが、実は生前から使われていたのだろう。

181:日本@名無史さん
19/09/21 12:57:19.38 .net
>>166
肥前川上の與止日女神社が壹與の都だと思います。
でもそれは福岡の邪馬台国と熊本の狗奴国を統合するためにそこを都としたのであり、卑弥呼の時代の都は糸島でしょう。

182:日本@名無史さん
19/09/21 13:04:27.93 .net
朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。 忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。
忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。
「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。
「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。
櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。
さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。 つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。
「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡�


183:_戸玉作氏造備…」とある。 これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。 つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。 もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。 大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。 徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。 両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。 矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。 時代は矢野が若干古く弥生時代後期後半とみられる。 矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。  @阿波



184:日本@名無史さん
19/09/21 13:47:49.71 .net
>>166
それ以外に何かないの

185:日本@名無史さん
19/09/21 13:50:49.52 .net
倭人伝原理主義に従えば、
佐賀川上の伊都国の東には吉野ヶ里一帯に広がる不彌国があった。
そしてその不彌国から南の方角に、投馬国と邪馬台国があったという。
吉野ヶ里の南は筑後市・柳川市・みやま町(旧山門郡)、玉名市、山鹿市、菊池市、合志市、熊本市などになる。
計算上、不彌国までは1万600里ほどだから、女王国まで残りは千数百里(約100㎞)ほどだ。
さて卑弥呼が都とした7万戸の超大国は、いったいどのあたりにあったのであろうか。

186:日本@名無史さん
19/09/21 14:03:38.40 .net
>>170(佐賀川上・抄)
末盧国東南陸行500里の佐賀川上にあった伊都国と、
此処から東行く百里の吉野ヶ里にあった不彌国との中間に位置する大和町久池井には、
8世紀前半に作られた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして、和名抄に記された古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、
佐賀川上に残る区画遺構(大願寺地区の古代廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。
したがって両遺構の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から・・、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が、約600年古い設計施工であり、
西暦150年頃までさかのぼり得る大区画遺構ということになる。
なお此の古国府(乎伎国府、オキとは土塁の意味)こそ、
熊襲タケル累代の土塁砦を利用して作られた古国衙だったのではないかという論者もいる。

187:日本@名無史さん
19/09/21 14:24:09.25 .net
>>172
代々王がいて一大率があると魏志倭人伝に書かれている伊都国と佐賀川上は
随分と様相が違うようですなあ

188:日本@名無史さん
19/09/21 14:50:19.98 .net
>>173
トンデモ説は、みんなその程度。   心臓に毛が生えている連中ばかり。   @阿波

189:日本@名無史さん
19/09/21 14:55:43.89 .net
>>173
倭人伝上の方角里数はピタリだし、大区画遺構もある。また現地の見晴らしも良く、
東南百里には、奴国と思しき佐賀市街から、朝夕立ち上るかまどの煙も見えたはず。
なのに、伊都国らしき遺跡がみつからない印象はその通り。。
というのも、
明治期までここに2000基もの中小古墳があったことは知られていたが、伊都国に比定した者は全くいなかった。
倭人伝原理主義の俺でさえ、まだ1年にもならぬ。
依って、佐賀県教育委員会による発掘調査も全くなされていないのが現状だ。正否判定が出るまでに、あと30年はかかるだろうねえ。

190:日本@名無史さん
19/09/21 15:50:33.40 .net
>>17


191:5> トンデモ説は、みんなその程度。   心臓に毛が生えている連中ばかり。   @阿波



192:日本@名無史さん
19/09/21 16:19:19.28 .net
>>175
あれもこれも、@阿波と徳島商工会にはかなわないねえ。
とくにスサノオ面の皮の厚さと、心臓の毛の生え具合は、とてもとてもかなわぬ。

193:日本@名無史さん
19/09/21 16:50:20.34 .net
佐賀川上の付近は、かって山田郷とよばれたそうであるが、
関心を呼ぶのは・・、
その山田を、古くは「也万多(ヤマタ)」と書かせ、読ませていたらしいことである。
えっ、ここがヤマタイと、思わず目を疑ってしまった。
また隣接の小津郷は、「乎ツ(乎都)」となっているが、これまたヲツであり、もしや「ゐツ(伊都)」の訛りではと、これまたゲスの勘ぐりをしてしまったのである。
(参考)
>『肥前国風土記』では、郷里制の下で佐嘉郡は6郷・19里とあるが、郷・里の名は登場しない。
>『和名抄』では同じく6郷とし郷名も記している。
・城崎郷(木佐岐) - 遺称地として佐賀市大和町尼寺の国分地区に城崎という地名があり、この付近と推定される。
・巨勢郷 - 佐賀市巨勢町付近と推定。
・山田郷(也万多) - 佐賀市大和町東山田、大和町川上の西山田の付近と推定。
・小津郷(乎ツ・乎都) - 『川上神社文書』では小津郷の地名に与賀里とあり、現在の佐賀市与賀町を含む一帯と推定。
(以下、略)

194:日本@名無史さん
19/09/21 16:50:31.60 .net
佐賀平野の開拓が進むのは4世紀なんだよ。
壹與や熊襲タケルが開拓者であり、卑弥呼時代は海が遠のいた吉野ヶ里を解体している頃だろう?

195:日本@名無史さん
19/09/21 16:51:25.24 .net
九州の山田さんは邪馬台国さんなのか。

196:日本@名無史さん
19/09/21 16:58:24.25 .net
「やまた」と読み方がしめされてるだけじゃん

197:日本@名無史さん
19/09/21 17:03:57.33 .net
>>178
どちらかというとヤマタノオロチの方に意識が向くけどな

198:日本@名無史さん
19/09/21 17:26:45.30 .net
>>182
うん、そうだよねえ。
折角の小津(ヲツ)≒ゐツ国(伊都国)のすぐ隣に、山田ヤマタイ国では格好悪いねえ。
それより山田のオロチの方がありがたい。九州の山田さんはヤマタノオロチに成ってしまうけど・・・。

199:日本@名無史さん
19/09/21 17:50:04.64 .net
首が8本で股は7つなはずなのに八岐大蛇とはこれいかに。
その解答がこれか。

200:日本@名無史さん
19/09/21 18:27:56.73 .net
>>178
佐賀川上とは伊都国なのか邪馬台国なのかどうなのか
邪馬台との一致なら遺跡から見て大和の方が上だね

201:日本@名無史さん
19/09/21 18:32:44.88 .net
>>185
佐賀川上も大和も、
碌な集落遺跡や資源の無い所に、「邪馬臺国」など居る訳がない。  なにを考えているんだか。   以上御終い。   @阿波

202:日本@名無史さん
19/09/21 19:10:30.16 .net
>>150
>東【行】┃至 不彌國 百里・・・【動詞は前】、なんだから、キミの定義に従えば、不彌国へは移動しており、
>そして、その不彌国から再度放射読みで南の投馬国と邪馬台国へ至るにならないか???
文章だけならその解釈も不可能ではないけれど、そうだとすると奴国を前に持ってきた意味が不明になるんだよね
全ての放射読み箇所を不彌国基準にして奴国の方位を南にすれば連続読み部分と放射読み部分がきれいに分かれるんだから
そのほうがスッキリした文になったはず
陳寿ほどの文筆家が書いた文章でそれはおかしいから、不彌国については奴国からの連続読みであることを示すため
つまりルート分岐①の続きだよと言うのを明示するために動詞を前にしたと考えるべきだろう

203:日本@名無史さん
19/09/21 19:42:55.09 .net
>>184
交際相手が二人なら二股
先が三本で三又
「また」は分岐点のことだけでなく
分岐した数のことも表す
なので、頭が八つで「ヤマタ」はおかしくない

204:日本@名無史さん
19/09/21 20:22:34.08 .net
放射読みなんて無いね
地名に当てはめれば邪馬台国の道のりは一直線になっている事が判る

205:日本@名無史さん
19/09/21 20:56:17.79 .net
>>185
倭人伝原理主義に従えば、各国へは、以下のような方角・里数になります。
(九州上陸地点)
唐津・中原船着き場遺跡(現・唐津競艇場の正門前)の末盧国の港
・末蘆国→佐賀川上の伊都国は、東南陸行して到る37㎞(500里)で、方角・里共にドンピシャ、
・伊都国→佐賀市街の奴国は、東南方向に見える(至)7.5㎞(100里)で、同じく方角・里共にドンピシャ、
・同伊都国→吉野ヶ里の不彌国は、東へ行くこと11㎞(146里)で、方角はドンピシャ、里の四捨五入100里も適切
・不彌国→投馬国(宮崎県西都市都万)は、南方向にある(至)。(郡より)水行二十日 。
(水行20日の内訳:自郡至末盧国まで万余里を十日、さらに九州西岸回りで都万まで万余里を十日)。 方角はドンピシャ、里も適切。
・同不彌国→邪馬壹国(官衙は熊本県菊池郡砦村臺城)女王之所都(宮殿は宮崎県高千穂町三田井・・馬臺の訛り)も、南方向にある(至)。
(郡より)水行十日(郡~末盧国、万余里)と陸行一月(末盧国~三田井間158㎞で二千余里)。方角、里共に適切。
(中略)
・其余傍国22国は、国名のみ順次記載。華奴蘇奴国は、華奴国と蘇奴国の2国縮合記述とみる
・自郡至女王国万二千余里は、郡~不彌国まで1万600里と、残り不彌国~臺城~高千穂町三田井まで110㎞で、1400余里。

206:日本@名無史さん
19/09/21 21:41:50.28 .net
末蘆国 ってのは、247年の遣倭載斯烏越船が
同乗して来た、張政に卑弥呼の墓を見せるため、あるいは一大率が
防衛上魏使に伊都の港を見せない為に、一度だけに使った辺境。
伊都は考古学上、今宿から早良、福岡平野湾岸の西北麓であって
北西500里は、糸島半島北岸。 卑弥呼の墓は、ほぼ糸島半島内である。
呼子だの唐津は、参問倭地、21国、周旋可五千餘里の
邪馬台国7万戸 の広さの中には入りがたい。
卑弥呼は、糸島、福岡、筑紫平野の筑紫王である。

207:日本@名無史さん
19/09/21 21:53:26.37 .net
>>148
倭人伝を正しく読むとそうなるな
連続読みだけで考えるのは記述法の変化を無視した謬論

208:日本@名無史さん
19/09/21 21:55:49.05 .net
>>182
簸(ひ)の川上は肥前の川上だった・・・?

209:日本@名無史さん
19/09/21 22:05:35.92 .net
邪馬壹国って編成されたもんとちゃうんかい?
字面を見ればな(°▽°)
日本に馬術を利用した戦闘法あったっけ?
大将あたりのみ乗ってあとは大半が徒士やぞ

210:日本@名無史さん
19/09/21 22:06:58.85 .net
海外から入ってきたもんなら当て字をするがその場合は一番発音に近い漢字が使われる
中国人らが読むためにな

211:日本@名無史さん
19/09/21 22:08:20.05 .net
日本に文献資料など入ってきたらまたそれを日本読みに切り替える
つまり原型なくなるんだ(°▽°)

212:日本@名無史さん
19/09/21 23:35:13.86 .net
>>194
邪馬台国に牛馬はいないと魏志倭人伝に書いてなかったかな?

213:日本@名無史さん
19/09/21 23:39:03.61 .net
197
牛は南西諸島に行かないといないだ(°▽°)
日本で唯一、馬がいた可能性があるんが九州
こっから日本各地に繁殖させた可能性が大

214:日本@名無史さん
19/09/21 23:39:39.22 .net
後漢書には倭の西北は狗邪韓国になっとるから弁辰狗邪は共立倭国のひとつだな。

215:日本@名無史さん
19/09/21 23:41:51.97 .net
九州産の日向馬が本土に持ち込まれたんじゃなかろかと
牛自体は沖縄よりちょい上までの離島まで行けばおる可能性がある
まあ古代あたり東南アジアあたりから広がったんじゃなかろかと、、、
寒い地域にはいないでもともと

216:日本@名無史さん
19/09/21 23:49:10.74 .net
山越言われてんのは山間部にこもってのゲリラ戦やしな
匈奴どうなん?
もともと北京あたりが根城やぜ連中ら
西方月氏ら追い払って今の中国北部まで勢力を広げたんは連中らだよ
漢にそのあと開発した武器の差で勝負にならなくて負けたんだよ

217:日本@名無史さん
19/09/21 23:51:45.07 .net
倭人らってのははっきり呉の流れを組む海人連中らなんだよ
得意としたんは海上戦、この末裔らみたいなんが後年くだって満州国の祖形となる金国と戦争やってるだ

218:日本@名無史さん
19/09/21 23:53:07.34 .net
ほとんどが漢に従う武将らに転身、

219:日本@名無史さん
19/09/21 23:55:31.65 .net
あとは羌族、これはチベット系言われとるが
これも中国周辺にいた異文化系の戦闘系民族
戦争起こすときは交流はないがそゆ連中らの参戦を誘うみたいなんは漢もやってるからな

220:日本@名無史さん
19/09/21 23:57:53.73 .net
匈奴の北にモンゴル系言われてるんがいるからモンゴルともちゃうんだよ匈奴
もともと山間部を根城とした連中らだからよ

221:日本@名無史さん
19/09/22 00:17:06.54 .net
>>149
五瀬命が大将だったなんて書いてる史書あるか?
どれも最初から東征の主役は神武だろ

222:日本@名無史さん
19/09/22 01:14:54.34 .net
それは最終的に神武が生き残ったから、生存者バイアスだよ。
五瀬が生き残っていたら、今の天皇家の祖先になっていたかもしれない。
記紀は現在の天皇家に直結しない傍系に冷淡だしね。

223:日本@名無史さん
19/09/22 02:11:57.44 .net
>>207
それはお前の想像だろ
想像を>>143のように断言するようじゃ畿内説と変わらんぞ

224:日本@名無史さん
19/09/22 02:23:16.88 .net
>記紀は現在の天皇家に直結しない傍系に冷淡だしね。
初期天皇は傍系どころか系統入り乱れ激しかったはず。
結果的に時代時代に生き残った奴らを後世に無理やり万世一系にまとめちゃったんだよ。
初期天皇の異常な長命は「系統」と見るといい。
神武系統とか綏靖系統とか、それぞれ数人居るのを血族ごとにまとめて個人名にしちゃった感じ。
血脈自体は天皇ごとに全然バラバラ。

225:日本@名無史さん
19/09/22 06:48:10.61 .net
神武は日向・高千穂の出身者、五瀬は隣の五瀬村出身者

226:日本@名無史さん
19/09/22 07:08:31.38 .net
(修正)
神武は日向・高千穂の山部氏族の出身者、(ヤマ)
五瀬命は隣邑の五瀬村出身者(ヤマ)、
久米命はさらにその隣の球磨郡久米氏族の出身者(クマ、クナ)

227:日本@名無史さん
19/09/22 07:16:25.68 .net
>>211
碌な集落遺跡や資源の無い九州に、邪馬台国など在る訳がない。 なにを考えているんだか。  
神武東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が全国で唯一、式内社「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 、「宇志比古尊」を祀るはずがない。  後は推して知るべし。   @阿波   

228:日本@名無史さん
19/09/22 07:57:35.31 .net
九州倭国といえば、
北部九州・博多湾岸を根拠地に活躍し、57年に漢から金印を拝受した倭奴国王を想う。
だから、倭人伝の伊都国、奴国、不彌国も、当然的に博多湾岸を想定するのは普通の流れだろう。
しかし倭人伝の記事通りに進めば、
唐津上陸後は、脊振山系の西端を迂回して佐賀平野へ抜け、
そこから東行して佐賀平野の東部まで進んで、そして南の邪馬台国、投馬国へ向かっている。
どう見ても、伝統的盟主の博多湾岸・倭奴国勢力圏を避けて南下しているように見える。これをどのように解釈すべきなのであろうか??

229:日本@名無史さん
19/09/22 08:24:55.47 .net
>>212
あのな、
倭人伝は、倭国遺跡


230:総覧でもないし、古墳や神社のガイドブックでもないんだよ。



231:日本@名無史さん
19/09/22 08:33:09.77 .net
>>214
あのな、
倭人伝には、「其山有丹」なんだよ。
あのな、
「丹」の採れないところに卑弥呼は居ない。   わははははは   @阿波

232:日本@名無史さん
19/09/22 08:33:55.69 .net
>>214
あのな、
倭人伝には、「其山有丹」なんだよ。
あのな、
「丹」の採れないところに卑弥呼は居ないんだよ。   わははははは   @阿波

233:日本@名無史さん
19/09/22 08:38:23.91 .net
>>214
>倭人伝は、倭国遺跡総覧でもないし、古墳や神社のガイドブックでもないんだよ。
碌な「倭国遺跡や古墳や神社」の無い九州に、「邪馬臺国」など在る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波

234:日本@名無史さん
19/09/22 09:02:58.53 .net
あのな、
「丹」のような貴重鉱物は中央構造線に沿ったところなら、どこでもとれるんだよ。
阿波でも取れるが、もちろん九州でも丹と取れる。菱刈鉱山には世界最高級の金鉱脈もある  わははははは  @@@

235:日本@名無史さん
19/09/22 09:11:52.43 .net
>>218
>阿波でも取れるが、
あのな、
阿波では採れて・い・た・んだよ。

>もちろん九州でも丹と取れる。
あのな、
九州では採れて・い・な・かった・んだよ。  わははははは   @阿波

236:日本@名無史さん
19/09/22 09:25:55.75 .net
熊襲征伐と称して九州遠征した景行天皇の行幸路の先々には、実は、希少種鉱物の鉱山が数多くあった。
最初の豊後大野市から日向へ向かう古峠の道筋には、大水銀鉱山があった。
そして旅の最後の筑後広川から山道を行って辿りついた浮羽にも、錫・水銀などの鉱山があった。
景行天皇は、湯治場を巡り、地元の商工会のネーチャンたちと仲良くしただけではなかったのだよ。

237:日本@名無史さん
19/09/22 09:26:23.84 .net
>當在會稽東治之東
九州北部却下

238:日本@名無史さん
19/09/22 09:45:30.64 .net
>>220
>古風土記編纂時に温泉が九州にないってことは無いと思うよ。
だよね。  では、
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。   @阿波

239:日本@名無史さん
19/09/22 10:16:46.75 .net
なんで徳島に在る商工会への天皇行幸が、無いのだろうか?
あとは、推して知るべし。

240:日本@名無史さん
19/09/22 10:23:57.76 .net
>>213
>しかし倭人伝の記事通りに進めば、
唐津上陸後は、脊振山系の西端を迂回して佐賀平野へ抜け、
そこから東行して佐賀平野の東部まで進んで、そして南の邪馬台国、投馬国へ向かっている。
どう見ても、伝統的盟主の博多湾岸・倭奴国勢力圏を避けて南下しているように見える。これをどのように解釈すべきなのであろうか??

根本的に勘違いをしている。
倭人伝の行程は帯方→邪馬台国への魏使ルートじゃない。
邪馬台国→帯方への、倭使の語ったルートを中華視点に書き直したもの。
魏使ルートなら半島南岸海流に乗ってから壱岐経由で伊都国へ直行するのが合理的。
わざわざ遠回りして半島北上して対馬とか、無駄に松浦半島の山中行とか謎過ぎる。

241:日本@名無史さん
19/09/22 10:28:32.52 .net
>>223
>なんで徳島に在る商工会への天皇行幸が、無いのだろうか?
残念なことに、徳島には温泉がないんだよ。
だから、同じ四国の道後へ湯治行幸に行ったんだね。
『日本書紀』や伊佐爾波神社(八幡宮)の社伝などによると、
厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)
など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。
それは取りも直さず、道後温泉が倭国王都(阿波)と同じ四国に在り、湯治場として近かったからに他ならない。   @阿波
URLリンク(ja.wikipedia.org)

242:日本@名無史さん
19/09/22 11:16:22.94 .net
>>225
そうか、そうか、、
徳島には温泉がないのか、それは残念じゃのう。
でもまあ、それ以外には自慢できるものがたくさんあるじゃろう。商工会も、それで頑張ってくれ・・。

243:日本@名無史さん
19/09/22 11:21:52.51 .net
>>226
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。   @阿波

244:日本@名無史さん
19/09/22 11:42:52.18 .net
九州は天皇家のふるさとだから、行幸などと仰々しいことは言わないのだ


245:。 ただの里帰り・・・だな。



246:日本@名無史さん
19/09/22 11:46:49.17 .net
>>228
う~ん、妄想がいまいちだね。   もうちょっと、頑張ってみよう!  わははははは   @阿波

247:日本@名無史さん
19/09/22 12:32:47.76 .net
景行が温泉行ってるじゃん

248:日本@名無史さん
19/09/22 12:40:49.76 .net
>>230
景行天皇自身が、九州巡幸したという根拠はなにかな?  わははははは   @阿波

249:日本@名無史さん
19/09/22 12:50:47.65 .net
景行天皇から応神天皇までは
九州に住んでたからねえ。

250:日本@名無史さん
19/09/22 12:57:11.58 .net
>>232
景行天皇自身が、九州巡幸したという根拠はなにかな?  わははははは  
景行天皇から応神天皇までは 九州に住んでたという根拠はなにかな?  わははははは  @阿波

251:日本@名無史さん
19/09/22 13:54:33.63 .net
>>233
記紀だよ。
久留米に仮宮を作って
豊前から大隅までを攻め、6年滞在して
九州に住んでいないという根拠は何かな?

252:日本@名無史さん
19/09/22 14:23:26.73 .net
>>234
>久留米に仮宮を作って
記紀のどこに「久留米」などと書かれているのかな?  わははははは   @阿波

253:日本@名無史さん
19/09/22 14:25:25.57 .net
>>190
魏志倭人伝には最終的に邪馬台国が現在の地図で見ると沖縄辺りになる会稽東治の東と書かれてて
距離や方位はそれに辻褄を合わせた正確性を欠いたもの
区間によって一里が50m~200mになる事は昔から知られていたし
明治時代の九州説学者白鳥庫吉も魏志倭人伝の里については正確なものではないと指摘している

254:日本@名無史さん
19/09/22 14:50:02.76 .net
弥生時代に会稽東治の東が正確に沖縄ってどうやったらわかるんだい?

255:日本@名無史さん
19/09/22 14:52:00.42 .net
>>226
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。   @阿波

256:日本@名無史さん
19/09/22 15:25:09.02 .net
>>237
現在の地図で見れば沖縄という事だよ
そこは邪馬台国じゃないのは明らかにも関わらず魏志倭人伝にはそう記されている
つまり魏志倭人伝の行程は邪馬台国までを記したものではないという事
ちなみに福建省福州市の東の海上になる会稽東治の東には
昔からたまに人が漂着して遠くて詳細はわからないけど住民がいる事は知られていて
古くは東テイ人が住む国があるとされていた

257:日本@名無史さん
19/09/22 15:28:25.85 .net
>>239
>現在の地図で見れば沖縄
だから弥生時代には会稽東治の東の正確な場所などわからないだろ。
これで議論は終わりだ。
九州説を否定する根拠にはならん。

258:日本@名無史さん
19/09/22 15:30:39.39 .net
ふふ。そこまで無理してでも行程論を否定したいということは
行程論だと九州説になってしまうと認めているわけだな。

259:日本@名無史さん
19/09/22 15:41:32.27 .net
>>240
正確な場所がわからないだろ?
けれど魏志倭人伝はそこが邪馬台国と書いているわけさ
つまり距離と方位は正確なものでは何でもないって事
まあ陳寿はそこが邪馬台国じゃない事は十分知ってただろうけど
>>241
否定してないよ
むしろ肯定をしている
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の位置は現在の地図で見れば
沖縄か台湾の辺りになる会稽東治(冶)の東と書かれていると

260:日本@名無史さん
19/09/22 15:52:39.61 .net
>>242
弥生時代には会稽東治の東の正確な場所などわからない。
これは東シナ海を挟んでいるから。
一方で沿岸航海と対馬海峡渡海による行程論の距離と方位は全く別もの。
あんたはあえて混同して
あたかも否定したように誤魔化しているだけだなキナイコシ。

261:日本@名無史さん
19/09/22 16:04:52.11 .net
>>236
わざわざ、>>190 を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
おかげさまで、全区間に於いて方位はほとんどドンピシャ、距離も全行程に於いて1里70-80mに収まるようになりました。
その根拠理由の一つですが、明治の白鳥先生の行程も大幅に見直し、新らしく佐賀川上ルートを設定した結果と思われます。
よろしくご検討くださいませ。

262:日本@名無史さん
19/09/22 16:11:52.53 .net
短里を採用するならば、論拠となる資料は唯一「周髀算経」のみだが、これからすると短理は75~76mとなる。
行程距離は「倭人は里を知らない」と史書にあるから倭人の計測値ではない。



263:k九州内の地理に関しては、滞在華人・半島人からの伝聞情報をつなぎ合わせたと考えれば辻褄は合う。 北九州滞在華人・半島人が周代など古い時代に渡ってきたものであれば、古い尺度しか知らない可能性もある。 魏人があえて短里などという現行の魏尺度でないものを使う意味はないし、魏人が何かの目的をもって真面目に計測したにしてはバラつきがありすぎるから、これはない。



264:日本@名無史さん
19/09/22 16:27:00.37 .net
倭人伝自体の松浦までの距離で
短里は間違いないと思いますよ。
ここが短里じゃなければ
日本国内に収めることすら困難になります。

265:日本@名無史さん
19/09/22 16:43:25.32 .net
短里を採用するとなると、帯方-女王国の距離「萬二千餘里」は直線距離となる。
論拠となる周髀算経の日影長計測法で測れるのは、あくまで「二点間の直線距離」だからだ。
魏人が女王国にて直接計測した可能性もある。
魏略逸文の「自謂太伯之後」を信じるとすると、女王国は華人の末裔国ということになる。
大多数の邪馬台国「倭人」は里を知らずとも「華人」の末裔たる一部エリート層は周髀算経を知っていた可能性はある。
そういった一部の邪馬台国人が計測したとしても、辻褄は合う。
短里を採用するなら、帯方-女王国間は直線距離で萬二千餘里=約900km前後というのが必然。

266:日本@名無史さん
19/09/22 17:24:13.27 .net
>>247
>短里を採用するとなると、帯方-女王国の距離「萬二千餘里」は直線距離となる。
その通り。   @阿波

267:日本@名無史さん
19/09/22 17:27:58.39 .net
>>247
>短里を採用するなら、帯方-女王国間は直線距離で萬二千餘里=約900km前後というのが必然。

その通り。   
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波   

268:日本@名無史さん
19/09/22 17:36:14.03 .net
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波

269:日本@名無史さん
19/09/22 17:36:26.49 .net
>>242
九州の大きさを過大評価しただけ。
報告書が短里だったのだろう。

270:日本@名無史さん
19/09/22 17:38:30.06 .net
>>247
>短里を採用するとなると、帯方-女王国の距離「萬二千餘里」は直線距離となる。
区間距離の積み上げだから、直線である必要はない。
朝鮮半島沿岸は南へ東へと曲がっていることが記載されている。

271:日本@名無史さん
19/09/22 17:43:06.53 .net
>>252
>朝鮮半島沿岸は南へ東へと曲がっていることが記載されている。
関係なし!   @阿波
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)

272:日本@名無史さん
19/09/22 17:59:59.71 .net
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波

273:日本@名無史さん
19/09/22 18:16:12.44 .net
まずもって、短里を採用するということは陳寿の引用が
「魏使の行程記録ではない」
ということを意味する。これは100%と言っていい。
魏使が魏帝に対する公的報告書として魏尺以外の尺度を


274:用いることはあり得ないからだ。 中華においては尺度・度量衡というものは王朝の権威と密接に関わる。 魏使が魏帝に報告するならば、魏尺以外はむしろ不敬である。 短里説を採用するならば、行程記録が「魏使の報告書によるものではない」、言い換えれば 「魏使の通ったルートではない」 ことを示している。



275:日本@名無史さん
19/09/22 18:20:16.79 .net
>>255
>魏使が魏帝に報告するならば、魏尺以外はむしろ不敬である。
却下!
時代は西晋だよ。  わははははは   @阿波

276:日本@名無史さん
19/09/22 18:22:34.14 .net
>>255
安心したまえ、 けっして、九州ではないから。  もちろん、畿内でもないがw   わははははは   @阿波

277:日本@名無史さん
19/09/22 18:23:58.13 .net
魏尺ってなんだ?w新機軸?

278:日本@名無史さん
19/09/22 18:26:13.23 .net
>>258
畿内も九州も、もうボロボロ状態だね。  @阿波

279:日本@名無史さん
19/09/22 18:28:31.25 .net
>>243
なぜ別のものなのか
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の位置は会稽東治(冶)の東と書いているのに
>>244
一里が所によって50m~200mと変動し
邪馬台国が現実的な場所に書かれてない魏志倭人伝に
全てがドンピシャに当てはまる読みは逆にありえない話

280:日本@名無史さん
19/09/22 18:30:45.89 .net
>>251
短里は存在が確認されてないね
魏で使われた里は当時の尺定規や度量衡を記した史書から換算すると
一里約430mで古代から使われていた尺度とそう変わらない

281:日本@名無史さん
19/09/22 18:32:09.29 .net
>>255
勝手ルールを振り回してもダメ。
実際に短里で書いてあるのだから。

282:日本@名無史さん
19/09/22 18:40:51.95 .net
>>260
行程は連続したもの。
会稽東治の東は東シナ海を挟んだ弥生時代レベルでのだいたいの方角。
全然別物。
ていうか、あんたがいくら喚こうが、
「事実」は別物なので、
会稽東治の東だからおかしい→行程論はおかしい
という論理の飛躍は成り立たない。
見苦しい詐欺行為を垂れ流してるから親切心で注意してるだけ。

283:日本@名無史さん
19/09/22 18:45:07.33 .net
魏志倭人伝だけじゃなくて高句麗とか韓とかも短里で書かれとる

284:日本@名無史さん
19/09/22 18:45:18.13 .net
>>262
短里で書かれているなら、それは魏使の報告書の引用ではないということ。
日本でも建築業界なんかでは未だに尺貫法が部分的に生きてるが、現代の公務員が公務の公的報告書に尺貫法を使ったりはしない。
魏使が魏帝に報告するなら、魏の尺度を使う。
逆に、陳寿が魏史の報告を引用したという根拠がどこにあるのか?

285:日本@名無史さん
19/09/22 18:55:26.26 .net
>>255
>魏使が魏帝に報告するならば、魏尺以外はむしろ不敬である。
却下!
時代は西晋だよ。  わははははは   @阿波

286:日本@名無史さん
19/09/22 19:02:14.09 .net
だから魏尺ってなんだよ?w存在したのかんなもんw

287:日本@名無史さん
19/09/22 19:03:38.57 .net
>>263
いや成り立つけど
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は沖縄か台湾になる会稽東治の東となっていて現実的なものじゃないので
書いてある行程をいくら辿っても実際の邪馬台国にはたどり着かない

288:日本@名無史さん
19/09/22 19:07:30.78 .net
会稽ってのがそもそも倭人らの拠点なんだが

289:日本@名無史さん
19/09/22 19:08:48.49 .net
もうはっきり倭人らの祖と言われてるんが封ぜられて根拠地とした中心地
会稽

290:日本@名無史さん
19/09/22 19:08:51.25 .net
>>260
>邪馬台国が現実的な場所に書かれてない魏志倭人伝に
>全てがドンピシャに当てはまる読みは逆にありえない話
それがでございますねえ、なんとなんと、有ったのでございます。
明治の東京帝国大学・白鳥先生と、天皇御用係の宮内省・近藤芳樹博士のおっしゃった女王の都は肥後熊本の山門郷。
ならば唐津から、徒歩で肥後熊本を目指してみようと考えました。
とはいえ最近の私めは、足腰もそうとう弱っておりますので、
超軽量で走行メーター付きの高価な外国製自転車を買い求め、旅してみたのでございます。
もちろん、平戸は遠いのでそちらへは行かず、、、唐津からすぐ南へ向かい、近道-近道と、ズルいたしました。
ところが、、、
朝出発してお昼には佐賀平野に入ったので、ここら


291:で超豪華な昼飯をと思い、コンビニに立ち寄った時のこと、 なんと走行メーターが37.5㎞を指しているではありませんか。・・ん、唐津から陸路500里じゃないか!! なんとまあ、そこがくだんの佐賀川上だったのでございますyo。(つづく) 。 、



292:日本@名無史さん
19/09/22 19:11:21.80 .net
>>268
書いてある行程=帯方郡から北部九州までの行程
会稽東治の東=「弥生時代に」会稽から東シナ海を見渡した方角
会稽東治の東を否定しても、行程論とは全く関係なし。
あんたが連呼すればするほどキナイコシの信用が落ちていくだけだから
どーでもいいが(つか、これ以上落ちようがないからいいのか。
恥を晒しつづけてくれたまへ。

293:日本@名無史さん
19/09/22 19:21:40.90 .net
あと短里が云々とか今さらどうでもいいだろ。
今どきの学者で、末蘆が唐津、伊都が糸島三雲、奴国が須玖とか比恵那珂、ってのが
定説なんだから、短里でだいたい合ってる。
どうしても短里を否定するなら倭人伝に関しては度量衡を採用できなくなり、百余歩なども同時に無意味となって議論そのものがすべて消し飛ぶ。
なにをギャーギャー騒いでるのか意味不明。

294:日本@名無史さん
19/09/22 19:47:22.86 .net
>>273
>今どきの学者で、末蘆が唐津
対馬海流に流されて、末蘆が唐津など有り得ない。 今どきの学者は何を考えているのやらw  わははははは   @阿波

295:日本@名無史さん
19/09/22 19:56:01.51 .net
>>271
当時の道と現在の道は同じだったのかなあ

296:日本@名無史さん
19/09/22 20:21:46.10 .net
>>268
そう信じたいだけでしょ。
そうしないと帯方郡から一万二千里の邪馬台国は九州で確定してしまうものね(もう確定しているけど)

297:日本@名無史さん
19/09/22 20:25:23.91 .net
長さの尺度が辺境の地を強調するために誇張されていたんだろう。
それを逆算すると短里になる。
まあ、短里で書かれていると言ってもいい。
そして径100歩も誇張であり、実際は平原遺跡が卑弥呼の大きさ。

298:日本@名無史さん
19/09/22 20:33:11.87 .net
>>275
唐津~多久のように山間部を通る道や、多久~佐賀川上を通過する山裾の道は、
代替の土地が少なく、古代も中世も現代も似たようなところを通らざるを得ない。
また、近年の自動車道化でバイパス舗装やトンネルになった場合でも、並行していることが少なくない。
古代の道をなぞって作られた主要街道・官道の場合は、
今日でも、旧宿場街道や集落道のような形で残されていることが多い。。
グーグルマップで最大拡大してみると、けっこうな部分でそうした古代・中世の道筋らしきが観察できる。

299:日本@名無史さん
19/09/22 20:46:44.86 .net
>>272
会稽東治の東を否定はしてないよ
現在の地図で見れば沖縄か台湾辺りと肯定している
>>276
帯方より南1万2千里は魏里で換算するとオーストラリア付近
これは淮南子という漢の時代の神仙思想の地理書にある
地の果てを表す空想的な数字で邪馬台国までの距離を表したものではない数値

300:日本@名無史さん
19/09/22 20:49:02.53 .net
>>277
短里という単位はないよ
魏志倭人伝には邪馬台国は沖縄辺りと書かれているから
距離や方位は邪馬台国までの物ではない

301:日本@名無史さん
19/09/22 20:52:07.68 .net
>>278
本当に当時の道と今の道はそっくりそのまま同じかな
舗装もなくて川があれば迂回して雑木林に覆われた山があっても迂回して
現代の距離感で古書に100%合致する距離は測るのは難しいのではないのかな

302:日本@名無史さん
19/09/22 21:14:21.01 .net
古代を舐めたらあかんぜよ

303:日本@名無史さん
19/09/22 22:18:01.48 .net
>>274
対馬海流のことは気になるね
朝鮮半島→日本 のときは


304:海流に乗ればいいけど 日本→朝鮮半島 のときはどうやって移動するんだろか



305:日本@名無史さん
19/09/22 22:23:51.49 .net
>>281
当然だが、100%同じにはならないな。
ただ、古代の道より現代の道が近道とは限らない。
自動車道は設計上、一定の勾配以上にはできないので、特に山間山寄りでは、大きく迂回したり、グネグネ回ったりになる。
その点、人間が歩いた古代の道は一種のケモノ道なので、急坂で近回りするところも多々ある。
それと雑木林・森林の中は、日陰になってて地面が出ているところも少なくない。
だから、意外に歩きやすいし、道の維持にも手間がかからない。
オレは、山国育ちだから、そういう場面は幾度も経験している。

306:日本@名無史さん
19/09/22 22:34:24.40 .net
>>283
>日本→朝鮮半島 のときはどうやって移動するんだろか

大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
大陸への出航地(平戸市周辺)
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。  @阿波

307:日本@名無史さん
19/09/22 22:35:29.57 .net
書いてある行程は北部九州までは間違いなく、伊都=糸島半島であることは誰の意見も一致する。
そこまでの方角・数値がしばしば間違っていることからもわかるように、方角・数値の信用性は低い。
信用性の低いものを基準に位置論を唱えること自体無意味。
そもそも、伊都or不弥から少なくとも10日以上、普通に解釈すれば30日以上水行する事になるので、この時点で北部九州の線は消える。
末廬上陸から不弥まで合算700里しかなく、短里換算だと50数km。
徒歩1か月の距離としては短すぎるし、1か月が1日の誤記だとしても徒歩1日の距離としては長すぎて全然合わない。
「『水行~』は帯方起点」というのも、まったく成立しない。

308:日本@名無史さん
19/09/22 23:15:20.51 .net
>>285
壱岐にはいけそうなんだが、対馬・朝鮮半島は厳しくないかな
やってみたら行けるものかな
もうちょっと南に下がって天草あたりから五島列島とかでなくても行けると

309:日本@名無史さん
19/09/22 23:20:06.49 .net
>>283
季節選べば大丈夫

310:日本@名無史さん
19/09/23 00:19:09.19 .net
ギリギリ行けそうな線はあるのだが、ギリギリすぎないか・・・

311:日本@名無史さん
19/09/23 02:07:21.57 .net
>>286
>>2,4でその辺はもう解決済み
その結果が>>8

312:日本@名無史さん
19/09/23 05:52:25.60 .net
>>290
>>2,4でその辺はもう解決済み
その結果が>>8
解決済みではなく、「妄想済み」な。
帯方起点だと「南」に水行にならない。方向は「東南」。
そもそも、倭は帯方の東南と陳寿は認識している。
伊都から福岡平野経由で佐賀平野に抜けるのが陸行1月の意味だとすると、距離がまったく合わない。
江戸時代の伊勢参りや、朝鮮通信使の行程を見ると徒歩旅人の一日あたりの進行は30km程度。
11月だと900~950kmは進むことになる。
伊都-佐賀平野はだいたい100km程度。健脚であれば3日ぐらい。
3日で到達できる距離を水行10日と遠回りする意味もない。
未整備悪路を考慮してその半分の歩速だとしても1週間あれば足る。
北部九州に邪馬台国を設定すると日数と距離の整合性なし。
南部九州なら可能性はゼロではない。

313:日本@名無史さん
19/09/23 05:53:15.86 .net



314:11月じゃねぇな、1月だ。



315:日本@名無史さん
19/09/23 06:04:09.14 .net
>>291
>帯方起点だと「南」に水行にならない。方向は「東南」。
帯方起点なんてどこにも書いてないわけだが
お前が妄想だろw
>伊都から福岡平野経由で佐賀平野に抜けるのが陸行1月の意味だとすると、距離がまったく合わない。
>江戸時代の伊勢参りや、朝鮮通信使の行程を見ると徒歩旅人の一日あたりの進行は30km程度。
街道が整備された時代と一緒にするとかバカかよw
まして使者は銅鏡百枚などの重量物を抱えて大人数で移動してるんだぞ
古代中国において軍が一日に進む標準的な行軍距離を一舎と言い、一舎=三十里とされる
URLリンク(ksbookshelf.com)
> 【舍】
> ④軍隊の一日の行軍距離の単位、一舎は三十里(約15km)、「一舎ごとに一宿する」ことから
平地の標準でこれなのだから、道なき道ではその半分以下も充分有り得る
まして筑紫平野は大小の河川が多数ある
今のように橋が整備されている時代とは違い、渡河点までいちいち迂回しなければならないことを考えれば
筑後山門まで一月でも何ら不思議はない

316:日本@名無史さん
19/09/23 06:50:38.05 .net
壮年の男性であれば一日十里も可能だろうが、
籠や老人、女子供の足もあり、
江戸時代の宿場間の距離は15km程度が
上限となっている。
場合によっては15kmでも難しく
さらにその中間地点に
宿が作られた場所もある。

317:日本@名無史さん
19/09/23 06:51:47.19 .net
>>293
>筑後山門まで一月でも何ら不思議はない
その筑後山門が「まぼろし」なんだが・・・、

318:日本@名無史さん
19/09/23 06:52:20.18 .net
>>287
>壱岐にはいけそうなんだが、対馬・朝鮮半島は厳しくないかな

対馬着岸は、対馬の北端(上対馬)。
朝鮮半島着岸は、釜山。   @阿波

319:日本@名無史さん
19/09/23 06:56:33.67 .net
>>296
ちなみに、対馬出航は、対馬南端の神崎から釜山へ。   @阿波

320:日本@名無史さん
19/09/23 07:03:16.25 .net
フルタ私学やヤマタイ国の怪やその異形バージョンは、迷路・冥界に落ちる宿命。
なぜなら、そもそも上陸地点からイト国・ナ国へが神功皇后記を下敷きにしており、時代背景も方角も距離もペケ、、、

321:日本@名無史さん
19/09/23 07:07:40.13 .net
>>298
その修正は、倭国(阿波)に任せなさい。   @阿波

322:日本@名無史さん
19/09/23 07:14:21.93 .net
>>296
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。

323:日本@名無史さん
19/09/23 08:03:07.99 .net
畿内説は、モモソを下敷きに・・、
邪馬台国の怪は、神功皇后を下敷きに・・、
@阿波は、商工会のネーチャンを下敷きに・・、 どれもこれも、似たり寄ったり。

324:日本@名無史さん
19/09/23 08:25:40.22 .net
>>301
>@阿波は、商工会のネーチャンを下敷きに・・
@阿波は、 ↓ を下敷きに・・
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波

325:日本@名無史さん
19/09/23 09:11:40.76 .net
>>293
>④軍隊の一日の行軍距離の単位、一舎は三十里(約15km)、「一舎ごとに一宿する」ことから
平地の標準でこれなのだから、道なき道ではその半分以下も充分有り得る
いや、平地の標準ルートで糸島-佐賀平野が100km程度ってことなんだが。
山間ルートならもっと短いが。
吉野ヶ里出土の銅鐸が島根の銅鐸と同型である事から明確なように、佐賀-糸島はおろか本州までの流通ルートははるか昔に確立している。
邪馬台国期に道なき道などあり得ない。
100kmを1か月だと1日の踏破距離は3km強という事になり、半分どころか一桁違う。
全て山岳ならともかく、平地の標準ルートとしてはまったくあり得ない。

326:日本@名無史さん
19/09/23 09:56:46.62 .net
海路だけ

327:日本@名無史さん
19/09/23 09:57:10.10 .net
>>303
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) ? 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ? 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

328:日本@名無史さん
19/09/23 09:58:08.09 .net
>>303
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

329:日本@名無史さん
19/09/23 10:05:12.82 .net
佐賀平野が無い時代になに言ってるんだ
ムー大陸か

330:日本@名無史さん
19/09/23 11:10:26.09 .net
うん、そうだねえ。
縄文海進のころは、まさにムー大陸状態だったんだよなぁ。

331:日本@名無史さん
19/09/23 11:12:27.71 .net
縄文後期から、倭国(阿波)の時代が 始まる。   @阿波

332:日本@名無史さん
19/09/23 11:13:59.30 .net
庄・蔵本遺跡とは
庄・蔵本遺跡は、阿波徳島のランドマーク、眉山の北側山麓に広がる遺跡です。
蔵本キャンパスでは、1982 年に体育館器具庫地点の発掘調査を嚆矢とし、これまで30次にわたる発掘調査が実施されています。
その結果、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる、数多くの貴重な文化財が発見されています。
その中でも、弥生時代前期のそれは極めて豊富で、初期の農耕集落遺跡として、学界で注目されています。
弥生時代の始まりには、2重の大溝が居住地の周りを巡り、その周辺に墓地や畑・水田が広がっていたようです。
そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。
旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、
弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。   @阿波
URLリンク(tokudaimaibun.jp)

333:日本@名無史さん
19/09/23 11:15:07.02 .net
「田井遺跡(縄文時代前期~中期)  所在地  徳島県海部郡美波町由岐田井」
縄文時代前期~中期・様々な道具とアクセサリー
田井遺跡は海水浴場として知られる田井ノ浜の北西約300mにある標高約20mの小山のすその微高地上にある。
2001年(平成13年)に道路建設に伴って発掘調査により、縄文時代前期末~中期(約5,000~4,000年前)にかけての、主に石器を製作した跡とみられる遺構が発見されている。
出土した遺物として土器・石器類が多いが、なかでも注目されるのは様々な石を材料とした石器の道具やアクセサリー類である。
石鏃にはサヌカイトやチャート、石斧には結晶片岩、けつ状耳飾には滑石や蛇紋岩というように、それぞれの用途に適した石を選んで製作していたことが分かっている。
※縄文人が、海を通じて広く交流をしていた様子が各種の遺物から分かる。 ← 言葉を濁しているが、倭国(阿波)の海人族のこと。   @阿波 
「田井遺跡で出土したけつ状耳飾」
URLリンク(www.pref.tokushima.lg.jp)

334:日本@名無史さん
19/09/23 11:16:31.24 .net
「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千~3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形


335:配石遺構16基だ。 1基の円形配石遺構は、直径が1~3m。 人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。 また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、 全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。 配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。 縄文時代前期から中期(約7千~4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。 後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。 一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。 しかし、発見された遺構は極めて少ない。 円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。 (県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)      2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊



336:日本@名無史さん
19/09/23 11:17:19.42 .net
「矢野遺跡(縄文時代)」
徳島南環状道路建設に伴い1992~98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊

337:日本@名無史さん
19/09/23 12:04:03.58 .net
トピズレ
古過ぎ

338:日本@名無史さん
19/09/23 12:06:31.28 .net
「加茂宮ノ前遺跡(弥生時代)」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24~26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生~古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末~後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末~後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期�


339:フ県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。 加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。 県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。 それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。 (県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲) 2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊



340:日本@名無史さん
19/09/23 12:09:19.14 .net
「矢野遺跡(弥生時代)」
徳島県最大級の弥生時代の集落、銅鐸(重要文化財)が出土
1992年(平成4年)から始まった徳島南環状道路建設に伴う発掘調査により、徳島県では最大規模の弥生時代の集落遺跡であることが判明した。
現在までに、竪穴住居跡約100棟が見つかっている。
大量の遺物の中で、とくに注目されるのは銅鐸である。鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る突線鈕式と呼ばれる銅鐸の中でも最新型式。1992年12月18日に発見された。
銅鐸は木製容器に納めて埋められたと考えられ、土坑の周りには、7本の柱穴が確認されている。このような埋納状況が判明した銅鐸は非常に珍しく、銅鐸の謎を解く鍵となる。
1995年6月15日に重要文化財(考古資料)に指定された。
そのほか、鉄器を製作したと考えられる鍛冶遺構も見つかっており、集落内での鉄器生産を考える上で興味深い。

341:日本@名無史さん
19/09/23 12:10:43.49 .net
徳島県阿南市水井町「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
①石器(石臼・石杵)
②土器
 甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
 小型丸底坩(弥生Ⅴ様式後半~布留式まで)庄内式並行期がほとんど
 土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
③玉類
 蛇紋岩製勾玉
④鉄製品
 刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
⑤自然遺物
 貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
 分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
 若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
              (徳島県立博物館1997・岡山1998)

342:日本@名無史さん
19/09/23 12:11:52.34 .net
鳴門・板野古墳群について    「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳  池谷宝幢寺古墳(県史跡)  天河別神社古墳群(6基・県史跡)  萩原1号墓(消滅)・2号墓  大代古墳(県史跡)  板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨


343:から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。 近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする 摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。 鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。 「板野・鳴門古墳群」 http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm



344:日本@名無史さん
19/09/23 12:17:04.25 .net
畿内の古墳は、阿波のお墓。
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
URLリンク(www.let.osaka-u.ac.jp)

345:日本@名無史さん
19/09/23 12:19:42.52 .net
『阿波の青石(緑色結晶片岩)の石槨石材搬出状況』
・西求女塚古墳(兵庫)・五色塚古墳(兵庫)・紫金山古墳(大阪)・茨木将軍山古墳(大阪)
・弁天山C1号墳(大阪)・櫛山古墳(河内)・燈籠山古墳(河内)・松岳山古墳(奈良)・茶臼塚古墳(奈良)
・玉手山7・9号墳(奈良)・貝吹山古墳(奈良)・ホケノ山古墳(奈良)
    北條芳隆「讃岐型前方後円墳の提唱」(1999大阪大学考古学研究所 記念論集)より

346:日本@名無史さん
19/09/23 12:21:19.91 .net
徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末~3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。  
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。

347:日本@名無史さん
19/09/23 12:24:20.25 .net
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。  
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ぐうの音も出ない九州説や畿内説。   @阿波

348:日本@名無史さん
19/09/23 12:37:57.39 .net
 文字のないところに歴史はない。

349:日本@名無史さん
19/09/23 12:43:13.96 .net
>>323
>文字のないところに歴史はない。
その通り。   
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
URLリンク(bunka.nii.ac.jp)
こう


350:いう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波



351:日本@名無史さん
19/09/23 13:01:50.00 .net
>7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
 皆、三世紀以前の話をしてるんだけど?

352:日本@名無史さん
19/09/23 13:16:25.63 .net
>>325
>皆、三世紀以前の話をしてるんだけど?
縄文時代後期から、7世紀末までの倭国(阿波)の話をしてるんだけど?  わははははは   @阿波

353:日本@名無史さん
19/09/23 13:19:28.41 .net
それでも卑弥呼は阿波にいた

354:日本@名無史さん
19/09/23 13:37:48.11 .net
今となっては黒潮で水行とか言ってた頃が懐かしいなあ
逝ったっきりじゃんとか突っ込んでも聞く耳もたずに主張しまくってて懐かしかった
@高地性集落が四国横断山中街道の宿場町とかあったな
人間おいつめられるといろいろ考えつくものだ

355:日本@名無史さん
19/09/23 13:39:28.16 .net
>@高地性集落が四国横断山中街道の宿場町
銅鏡百枚かついで魏使が足腰鍛えたってあれだなw

356:日本@名無史さん
19/09/23 15:10:25.69 .net
まぁ、魏人が短里などという亡国の尺度を使う意味もメリットもないし、短里を採用する時点で「魏使の報告書」が陳寿のソース源でないことは明らかだわな。
さらに水行〇日、陸行〇日ってところでそれを決定づけてる。
それまで記録してきた里数換算を行程の途上で突如放棄とかありえん。
そんな報告書を魏帝に提出したら、魏帝は「げぇっ!!」って大口あけて絶句しよるわ。

357:日本@名無史さん
19/09/23 15:13:43.02 .net
>>303
またそうやって都合の悪い箇所は見えないふりをする
魏使は銅鏡百枚などの重量物を運搬していると言っているだろう
もともと標準速度での移動は無理なんだよ
>いや、平地の標準ルートで糸島-佐賀平野が100km程度ってことなんだが。
日本語が通じない人か?
多くの河川があるので渡河点までいちいち迂回してたら100kmどころじゃ済まないってことなんだが
>吉野ヶ里出土の銅鐸が島根の銅鐸と同型である事から明確なように、佐賀-糸島はおろか本州までの流通ルートははるか昔に確立している。
>邪馬台国期に道なき道などあり得ない。
末廬国から伊都国までのルートでさえ草木が生い茂って前を進む人間の背中が見えないと書かれているわけだが?
都合の悪い箇所を見えないふりする癖は直したほうがいいぞ
魏志倭人伝の記述を無視した想像は結局ただの妄想に過ぎないのだから
吉野ケ里でわかるように当時は環濠集落が主である
環濠集落は環濠で外界と集落を区切っているのだから、城郭で外界と区切っている中国やヨーロッパの城塞都市文化と同じで、
区画の外には無人地帯が広がっている
人が住んでいなければ橋もろくにかからないし、九州の気候ではひと夏であっという間に草ぼうぼうの道なき道になる
まして筑紫平野の女王共立諸国はつい最近まで倭国大乱で争っていたのだから、敵の進行ルートにもなり得る街道や橋の整備を行う動機がない

358:日本@名無史さん
19/09/23 15:16:26.93 .net
>>330
そんな報告書を魏帝に提出したら、魏帝は「げぇっ!!」って大口あけて絶句しよるわ。
西晋 だと、何度言えばw   @阿波

359:日本@名無史さん
19/09/23 15:17:31.80 .net
>>330
>そんな報告書を魏帝に提出したら、魏帝は「げぇっ!!」って大口あけて絶句しよるわ。
西晋 だと、何度言えばw   @阿波

360:日本@名無史さん
19/09/23 15:22:00.55 .net
>>330
>それまで記録してきた里数換算を行程の途上で突如放棄とかありえん。
伊都国や不弥国で行程はほぼ終了したんだよ。
だからそこまでの日数をおさらいしただけ。

361:日本@名無史さん
19/09/23 15:22:34.34 .net
・東夷世界の情報が全て短里で記されている
・短里と魏尺の変換係数がわからない
この条件が揃っていたら、短里でそのまま記すしかないな。
例えば未知の国がインチという尺度を使っていて、
未知の国の地図がインチ尺度で書かれていたとする。
そしてインチ尺度と我々のメートル法との変換係数が不明だとする。
とすれば、勝手にメートルに変換するわけにもいかないから、
とりあえずインチで記すのが正確。
メートルへの変換は後世に託す。

362:日本@名無史さん
19/09/23 15:29:55.17 .net
>>330
>まぁ、魏人が短里などという亡国の尺度を使う意味もメリットもないし、短里を採用する時点で「魏使の報告書」が陳寿のソース源でないことは明らかだわな。
いや、陳寿は短里で書かれていることをちゃんと認識しているよ
だからこそ万二千里という数字から会稽の東というおお�


363:謔サ正しい方向を計算できている 長里で書かれていると認識していたら倭国の位置は赤道付近まで行ってしまうので会稽どころの話じゃない



364:日本@名無史さん
19/09/23 15:33:07.04 .net
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。   
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。

365:日本@名無史さん
19/09/23 15:46:51.00 .net
洛陽市-紹興市(会稽)の距離は1069.8km
1069.8km÷12000里=89m

366:日本@名無史さん
19/09/23 16:57:12.19 .net
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由
玄関口(福津市周辺 万津浦)   

大陸への帰路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由
出航地(平戸市周辺)   @阿波

367:日本@名無史さん
19/09/23 18:15:29.85 .net
>>337
無理がありすぎる

368:日本@名無史さん
19/09/23 18:35:06.94 .net
>>339
アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないじゃん(大爆笑)

369:日本@名無史さん
19/09/23 18:59:17.97 .net
>>339
言うだけ番長

370:日本@名無史さん
19/09/23 19:18:49.08 .net
当時は帆船がある可能性はあまりないそうだから
海流・潮流に流されると思っていいだろうな
漕いだくらいでは逆らえない

371:日本@名無史さん
19/09/23 19:21:08.51 .net
魏志に帆船出てくるよ

372:日本@名無史さん
19/09/23 19:28:48.47 .net
だよな~
黄海を船が行き来した記録向こうにあるもんよ
なんかの船が朝鮮よってそのあと日本にきた古代の航海史記録みたいなんなかったっけ?
その連中らが渡来人だの呼ばれていきなり出てきた連中らじゃねえの?

373:日本@名無史さん
19/09/23 19:29:22.46 .net
倭人経由で勝手にきたんならそいつら勝手に日本にきただけやな

374:日本@名無史さん
19/09/23 19:30:00.89 .net
じゃないの

375:日本@名無史さん
19/09/23 19:30:38.55 .net
そんなん持ち上げる理由ないぞ(°▽°)
宣言する連中らいるなら海に沈めるか?
当たり前の反応だろ

376:日本@名無史さん
19/09/23 19:38:28.71 .net
やったぜ!
朝鮮半島から鉄ゲッツ!!!

377:日本@名無史さん
19/09/23 21:56:45.25 .net
>331
きみはほんとうにばかだなあ。
>魏使は銅鏡百枚などの重量物を運搬していると言っているだろう
もともと標準速度での移動は無理なんだよ
船から荷下ろしした後は現地倭人の人夫に手分けして運ばせるんだよ。
魏使が自分で担いだとでも?
>多くの河川があるので渡河点までいちいち迂回してたら100kmどころじゃ済まないってことなんだが
多くの渡河点って具体的にどこだよ?
>末廬国から伊都国までのルートでさえ草木が生い茂って前を進む人間の背中が見えないと書かれているわけだが?
末廬国から伊都までは倭の朝貢使が通ったルートだから、そもそも魏使は通ってない。
魏使は壱岐から伊都まで直行。
距離的に変わらない上に海流乗れるから。
伊都から女王のもとに交易品は伝送されるって書いてるだろ。大量の荷物を輸送できる街道は既にあるんだよ。
外交の玄関口から王都まで、道なき道を行かねばならぬ運営体制とかありえないから。
王都が陸の孤島なわけがないだろうが。
万一の事変の時に援軍も送れんぞ?

史書に書いてもいない「魏使の通ったルート」という妄想から始めるから、そんなヘンテコリン�


378:ネ考えになるわけ。 倭人伝のどこに「魏使の通った道をトレースしました!」なんて書いてあるんだ? 帯方からなら松浦経由でなく、壱岐から糸島直行の方がはるかに「合理的」なのは猿でもわかるよな? あえて「不合理」な松浦経由した理由は何?



379:日本@名無史さん
19/09/23 22:13:27.72 .net
>>350
>船から荷下ろしした後は現地倭人の人夫に手分けして運ばせるんだよ。魏使が自分で担いだとでも?
誰が担いだって人力である以上、移動速度は変わらないわけだが
きみはほんとうにばかだなあ
>多くの渡河点って具体的にどこだよ?
普通は橋だろ
場所によっては渡し船もあったかもしれん
いずれにせよ現代のように多数あるわけもなく移動距離は長くならざるを得ない
>末廬国から伊都までは倭の朝貢使が通ったルートだから、そもそも魏使は通ってない。
何を根拠に?
妄想はもうたくさんだぜ
>伊都から女王のもとに交易品は伝送されるって書いてるだろ。大量の荷物を輸送できる街道は既にあるんだよ。
伊都国は安曇海人の国だ
海路で運んだに決まっている
街道は必要ない
>史書に書いてもいない「魏使の通ったルート」という妄想から始めるから、そんなヘンテコリンな考えになるわけ。
つまりお前は史書に書いてもいない「倭の朝貢使が通ったルート」だと妄想してるわけね
倭の朝貢使がどうして伊都からじゃなく末盧に行かなきゃいけないのか意味不明なわけだが
そもそも倭の朝貢使のルートなら陸行五百里はどこから出てきたんだ?
倭人は里程を知らんのだぞ?
お前の妄想はとっくに破綻してるんだよ


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