【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬漆at HISTORY
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬漆 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
19/08/21 06:15:36.13 .net
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
スレリンク(history板)

3:日本@名無史さん
19/08/21 06:33:55.69 .net
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる!
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国①】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国②(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国①】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国②】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

4:日本@名無史さん
19/08/21 06:42:28.43 .net
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ~ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
URLリンク(www.youtube.com)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大物主→饒速日の纏向宮殿→神武東征→倭迹迹日百襲姫の祭殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」

5:日本@名無史さん
19/08/21 06:47:33.27 .net
>>3の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━┓帯方郡  ┏┛~~~日本海~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>4
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~↗~~┏━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行十日」↗~~~┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓~玄界灘~↗_~~~~┗━━━━━━┓
   ┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行十日」┐関門海峡~瀬戸内海▲┃
v✖s┃~~┏末盧━━↑━━━┓↓~~~~┏━━┓~┃ 
   ┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓~~~~┃侏儒国┃~┗━━┛
 ↑ ┃~~┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃~~┃★奴国①【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道~~~~~去女王四千余里」@阿波
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃~~┗━女王国島━┛↙~~~~~~~~
東治┃~東シナ海~┌南「水行十日」~~~~~~
   ┃~~┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃~~│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃~~│↓~▲~~~~~│亶州(沖縄)~↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃~~│☆奴国②(幻)~~│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃~~│▲狗奴国(幻)~~│夷州(台湾)~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~南シナ海~~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国②)東南 船行一年」

6:日本@名無史さん
19/08/21 07:15:32.35 .net
>>3
>>5
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を確保すること(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
-女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
-其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは物理的に不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

7:日本@名無史さん
19/08/21 09:35:39.58 .net
【倭人伝 行程文要約】
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今(魏時) 使譯(梯儁、張政の二回) 所通 三十國
從郡至倭 247年 張政の行程に從れば
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到 其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海 千餘里
至 對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海 千餘里・瀚海
至 一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至 末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸
以上、動的な直列行程、里程合計満五百里
東南 至 奴國 百里 有二萬餘戸
東行 至 不彌國 百里 有千餘家
奴国の文節には動詞が無い。 前文までの行程とは直列しない。
到達した伊都の近隣紹介であり、247年は女王宮には向かっていない。
で、ふと思ったんだが、
漢時は、本州含む百余国を知っていたのに、
魏時は、2回の使譯で九州島の北部
・帯方郡から行程12000里 (水行30日陸行1月の行軍日程及び総里程)
・周旋可5千里で7万戸の21国 (240年梯儁の国勢参問女王所属国)
・以北の行程内、立寄り国 (狗邪韓国、對海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国)
・女王の境界が尽きた南の狗奴国
・馬韓54国10万戸、弁辰韓24国5万戸同様の、国の概念での投馬国と邪馬台国21国
しか、知らない。 漢時より、国が減った訳ではないのではないかな?

8:日本@名無史さん
19/08/21 10:04:01.38 .net
>漢時は、本州含む百余国を知っていたのに、
これが根拠ないだろ

9:日本@名無史さん
19/08/21 12:07:57.81 .net
そもそも冒頭の、「倭人有 帯方東南 大海之中」を、どう読むかだが、
どう見ても帯方郡の東の本州は入っていそうにないな
それに、大海の中だからやはり大き目の島だ。つまりは九州島のことを大前提に書いていると思うが・・。

10:日本@名無史さん
19/08/21 12:18:05.62 .net
>>7
例えば、関門海峡を渡海した時は、女王国【東渡海】千余里複有国と書かれているわけだから、昔100カ国は
漢代の九州島内の(狗奴国を含むだろう)百カ国が、倭国大乱を経て、魏代には邪馬台国連合30カ国(敵対した狗奴国連合を除く)に統廃合されたと読むべきだろう。

11:日本@名無史さん
19/08/21 12:20:37.88 .net
倭人伝の行程部分に関しては、使譯 所通 三十國 從郡至倭 であって、
評にも見るように、魏時2回の使譯によるものと判断可能だが
出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉
のような、風物データに関しては漢書からの引用がある。
魏時の倭人国データは、漢時よりも増えているとは言えない。
この引用が600年近くまで変わらない、というのは日本が中原を避けていたからだろう。
中国側も、隣国に文明を与えればその国は亡ぶ、といった発想で日本を避けているよう。
で、350年以降、百済を傀儡としての七支刀、五経博士、仏教など文化の移入になった。
卑弥呼時代の親交だが、245年魏帯方郡は半島南部の韓に侵攻し箕子韓王朝を滅ぼしている。
この際、詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授による、参戦の檄が有ったが、これに応えてはいない。
この件の査察官が、247年遣倭載斯烏越の船に便乗で来た張政である。
この報告が
使 大倭 監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國 畏憚之 常治 伊都國 於國中有 如刺史
王 遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
であって、女王国は既に主権国家ではなくなっていた。 魏外交は終わった。
この後、魏は大倭王と同盟が有ることにして、東夷を放置。
蜀、呉を倒し覇者となるが、
日本は半島進出をはじめ、牛馬の移入、製鉄の国内化を進め
313年四郡撤退後、350年楽浪候、幽州刺史の高句麗を押し返し、百済新羅建国。
400年南朝との半島利権交渉の倭の五王時代を迎える。
これが陳寿が意味不明の工作によって、皇帝の恥を隠蔽しようとした原因
古代日本の富国強兵政策である。

12:日本@名無史さん
19/08/21 12:33:55.41 .net
>>8
こういう相手の無関心に付け込んだ、我田引水をやらなければ畿内説も多少は信用されるのだろうが、
そうでもしないと成立しない畿内説だから仕方ないw

13:日本@名無史さん
19/08/21 12:34:04.44 .net
>>10
其の読みで大正解と思う。

14:日本@名無史さん
19/08/21 12:34:52.86 .net
>>9
九州については、帯方の南12000里であっているのではないかな?
倭人 在帯方東南 大海之中 は
東夷伝序文、沿海州長老の言う海の東の謎の国が大倭であろうという想定。
関門海峡は見れば黄河より狭い河口だし、知らないはず。
九州から東渡海千里は、倭人は里を知らない以上
聞いただけではなく漢時に中津や宇佐辺りから渡った可能性は否定できない。
公孫氏もだが、四郡成立初期の交流は記録されていない。

15:日本@名無史さん
19/08/21 12:42:50.41 .net
>>14
>九州から東渡海千里は、、、、
>聞いただけではなく漢時に中津や宇佐辺りから渡った可能性は否定できない。
倭地及び周辺の地勢をざっくり表現しているわけだから、
漢時に中津や宇佐辺りから見た、或は渡った記録を陳寿が再録したで よく適合するのではないか。

16:日本@名無史さん
19/08/21 15:47:31.85 .net
>>13
そういう自演っぽいレスはやめましょう

17:日本@名無史さん
19/08/21 16:05:22.69 .net
>>10
九州説の立場なんだが、反論というか、他の意見を述べさせてくれ。
魏志倭人伝では九州との交流しか記録されていないが、出雲が倭国を代表していた頃は本州も含めた100カ国が交流していたのではないだろうか。
九州北部に30カ国を当てはめる時に、福岡平野は奴国2万戸の大国邑であり、そら以外の地域に30カ国を詰め込んでいるので、かなりキツキツだ。
吉野ヶ里級の国邑を30詰め込むのは不可能ではないが、100となると小さな国邑を含めてもかなり厳しいのではないか。

18:日本@名無史さん
19/08/21 16:08:03.30 .net
>>16
なんじゃい、年寄りのやきもちか
>>10 の読み方は、これまでなかなかお目にかかったことがなかったが、従前からのオレの考えに極めて近いので、応援したわけだ。

19:日本@名無史さん
19/08/21 16:39:03.28 .net
>>1-2
おつ!

20:日本@名無史さん
19/08/21 16:42:16.84 .net
関門海峡を知らないで、九州が洲島である、と言ってる事には難が有るわけで、
そもそも、出雲や丹後、糸魚川に向かう
日本海海神のルートでは、関門海峡は河口にしか見えないのは確かだろう。
BC200辺りからの青銅の移動はあるわけで、これに関しては
吉備、淡路島、畿内、近江、阿波があるから、瀬戸内海ルートの存在は推定できる。
これを筑紫が握っていたというのなら、まぬけな東遷説みたいのが成立する。
しかし250年以降、歴史の時系列には
そんなファンタジーを生む暇は記紀にしか存在しない。
中国史書や金印によって、筑紫は四郡や公孫氏とのフロントであったと想定可能だが、
倭人伝においても、豊国は邪馬台国に含まないことが推定できる。
これは、卑弥呼時代まで、遠賀川地域以外の九州は非銅鐸文化の異郷であり、
日本海ルートや瀬戸内海ルートは別に存在し、青銅器原料は半島から調達していた。
倭人伝の対馬方可4百里は長辺循海岸の千里を見ていないが
釜山に用が無いなら、西岸しか見ないルートで正しい。
日本海海神にとって釜山から対馬東部経由であれば、
壱岐も不要で宗像以東や土井ヶ浜着岸でも良いはずである。
松浦半島(末盧國)が常時交易の玄関などと言うのは発想自体が貧困なのである。
卑弥呼時代まで、九州は後の朝廷に未加盟の異国。
魏の侵攻で公孫氏や箕氏韓王朝を失い、青銅仕入れ元が不安定になった。
魏に対抗するため、日本の王都が九州を加えたこれ以降に纏向にできた、
が、正しそうだが
これら歴史の必然は、倭人伝が説明する筑紫の邪馬台国とは無関係である。
247年以降、中国史では暗に敵対視している半島進出倭人の記述は消える。

21:日本@名無史さん
19/08/21 17:15:06.50 .net
倭人伝で大きく取り上げたのは、どのみち帯方郡に近かった親魏の倭人集団であり、
旧来の銅鐸文化圏は、倭種の国々として形ばかりの記述に留めたのであろう。
出雲などは新羅系の人種だったようであるので、なおさらのこと・・。

22:日本@名無史さん
19/08/21 17:25:49.18 .net
>>21
まあ、総論としてはその通りだ。

23:日本@名無史さん
19/08/21 18:24:16.11 .net
ひとつ、基本的な確認をしたいんだが、
日本列島だから、縄文海神みたいな外洋進出は有ったが、
大陸系戦乱遺民の半島人が海を渡る可能性は有るのかね?
韓伝からは、箕氏、衛氏、秦懲役民等、中原戦乱遺民に席巻されて、
(縄文的)半島石器人文明が継続した可能性は感じない。
陸続きなのに、この文明差と言うのは大きすぎで、
松菊里みたいな日本並みの後進文明って言うのは、
戦乱遺民の人畜奴隷化で終ってないかね?
まあ、それが先進とする日本の弥生古代史もどうかしてるがwww

24:日本@名無史さん
19/08/21 19:03:58.99 .net
可能性は大有り。通行料は大陸系の科学技術。
壱岐対馬を牛耳る倭人が一枚岩ならともかく内部抗争などした時が
列島側に根付いた遺民が権力奪取するチャンス
たとえば倭国乱とかw→甕棺消えて積石が全国へ

25:日本@名無史さん
19/08/21 19:41:07.98 .net
九州と畿内に二つ政権があったのさ
倭人伝に登場する九州政権は白村江の戦いで滅びた

26:日本@名無史さん
19/08/21 19:42:38.01 .net
記紀成立が700年以降、日本の王朝は畿内で良いわけで、
それは、出雲、吉備、丹後、越、淡路島、阿波、畿内、近江、紀伊、美濃、関東
等が統合して、300年辺りで奈良纏向を作ったんだろ?
238年時点で、対魏で九州筑紫の卑弥呼は独立国王を名乗った。
卑弥呼は190年から倭国大乱以降の王だ。 
所属国は21国で総戸数7万戸である。 
梯儁の国勢参問した21国の漢字名命名によれば、この中には、
奴国王難升米、都市支国王都市牛利、巳百支国王伊聲耆掖邪拘 がいる。
邪馬国もあるし、臺は曹操の高楼であるから
これをランドマークとした21国表意文字の総称である。
ちなみに、投馬国も半島国馬韓を過ぎた不明の国だったから、表意文字命名である。
しかし、邪馬台国は九州北部の筑紫であり、小国であった。
三国志覇権で忙しい魏は、これを倭王とし金印印綬した。
東夷の大国倭は魏王を後援しているとして魏は三国志の覇王となった。偽計である。
陳寿はこれを、小声で記録するために、短里のような煙幕を張った。
帯方郡から12000里
所属の参問21国7万戸、周旋可5千里
此女王の境界、南は狗奴国付属女王。
帯方郡から南12000里は会稽東治の東(行程中の3000里東行無視)
陳寿は皇帝直属の、文人である。

27:日本@名無史さん
19/08/21 19:45:50.24 .net
>>25
正解

28:日本@名無史さん
19/08/21 19:51:06.59 .net
>>23
そもそも海人族も弥生文化を持ち込んだ張本人たちであり、縄文とは関係ない。
海人族は江南の沿岸部「倭」からやって来て、稲作や高床式建物を持ち込んだ。
江南の呉の太伯(中原と決別するために刺青をした)の末裔を名乗り、体に刺青があり、海に潜って魚を取ることを得意とした。
これが弥生時代の中国史書に書かれた倭であり、海人族が弥生文化の主体なんだよ。

29:日本@名無史さん
19/08/21 19:54:45.54 .net
二つ政権があったら巨大古墳なんぞ作る余裕ないだろ
んなもん作ってたら国力疲弊してあっという間に攻め滅ぼされる
大王が就任するたびに
新しいのを作らされたんだよ
忠誠心を示して国力減らして反乱しないように

30:日本@名無史さん
19/08/21 19:55:50.95 .net
筑紫、出雲、吉備、丹後、越、淡路島、阿波、畿内、近江、紀伊、美濃、関東
それぞれ有った、この王国政権が、統一の必要を見たのは
魏による、239年公孫氏滅亡、246年半島南部箕氏系韓王朝滅亡である。
軍事外交的統一の必要が生じた。
糸島北岸の卑弥呼の墓は、一年以内のやっつけ仕事で残っていないだろうが
古墳時代の始まりではないのかな?

31:日本@名無史さん
19/08/21 20:27:17.00 .net
巨大古墳は公共政策という説もあるから

32:日本@名無史さん
19/08/21 20:47:49.83 .net
>>31
銅鐸時代の重農政策から、
徴兵含む軍事国家の成立ではないかな?
対魏で半島進出は必要だった。
 
しかし、徴兵しても
魏軍ごときに瀬戸内海突破や日本海ルート開拓は無理で戦争は無い。 
では、王の力を誇示する古墳でも作るかなw と。
これが、不沈空母日本 の古代富国強兵の事実だなw
馬の移入と鉄の国内生産、
四郡撤退の313年以降は、百済新羅傀儡化で高句麗追討。
畿内説みたいな、朝鮮史忖度で、古代史捏造なんて
ネット普及の今の中学生には無理だぞ?

33:日本@名無史さん
19/08/21 21:10:06.12 .net
>>25
白村江じゃなくて、
247年には女王国の伊都に一大率=三国志時代中国の刺史の如し が置かれ
邪馬台国は検閲下に置かれ、主権国家としての外交権が無くなっていた。
伊都は240年には無かったが、247年には、査察の魏史も検閲駐留させられた。
ある意味で、倭人伝西暦の存在は日本の統一史的にタイムリーだと思うよ。

34:日本@名無史さん
19/08/21 21:11:09.19 .net
>>25
白村江で滅びたのが倭国、勝ったのが日本だな

35:日本@名無史さん
19/08/21 21:19:19.43 .net
>>34
白村江は開国派の曽我氏、近くは馬子や聖徳太子の招請で
日本で貴族化した亡国の百済皇子と百済移民の豪族を
日本に置いても無益だから、天智天皇が、海軍付けて強制送還した戦いだろ?
日中の植民地で国境が無かった半島と対馬で国境が確立した歴史だよ。

36:日本@名無史さん
19/08/21 21:43:30.23 .net
まあ、日本国側は唐とかなりツーカーで、倭国を陥れた感はあるね。

37:日本@名無史さん
19/08/21 22:05:40.74 .net
だからライバルがいるのに巨大古墳つくってたら滅ぼされるだろが
巨大古墳を作ってたという事実から統一国家だったことがわかる

38:日本@名無史さん
19/08/21 22:07:14.84 .net
畿内スレ、誤爆天才wだが・・・ 向こうはディベートで無意味なんでw
倭人伝には邪馬台国は九州筑紫であると書かれている。
畿内説は、その時の大倭王は畿内に有ったと言っているだけ。
BC200から、青銅の移入は有るが
日本の中心は、出雲、丹後、越、吉備、淡路、畿内、阿波、近江、伊勢、美濃、関東
とか、と 九州が、統合したから成立したんだろ?
238年の九州の邪馬台国は、外交で独立国家を主張している。
これは、筑紫が朝廷に参加していなかったことを意味する。
この筑紫邪馬台国の外交方針否定は、245年の対韓戦檄または247年で否定され
対魏で敵対し、漢四郡撤退や350年付近の楽浪候幽州刺史の高句麗戦で
百済新羅建国に貢献した日本国の富国強兵と一致する。

39:日本@名無史さん
19/08/21 22:20:17.20 .net
メイ首相に本国を任せて
イギリス国王が自ら軍勢を率いてアメリカ大陸に渡ったから
話がややこしくなっているわけだ
スジンがアメリカ大陸を鎮圧してからの
ケイコーが凱旋帰国して狗奴国滅ぼしてイギリス本国を鎮圧して
イギリス本国とアメリカ大陸の両方を完全支配体制完成
王子ん辺りで国力に余裕が出て海外出兵

40:日本@名無史さん
19/08/21 22:57:10.39 .net
>>37
何も根拠になってないw

41:日本@名無史さん
19/08/21 23:01:22.34 .net
>>37
ライバルといっても、戦争するわけではないのなら問題ない。
それよりも、九州が畿内の体力を削ぐために大きな墓づくりを押し付けたのかもしれないぞ。

42:日本@名無史さん
19/08/21 23:10:20.37 .net
豪族同士、王族同士で争っている時代。
こっちが戦争するつもりがなくても
巨大古墳を作って国力疲弊したら
あっちが攻めてきて尾張。
巨大古墳を作っていたということは、攻められる心配がなかったわけで、
強力な一人の大王が支配していたわけだ。
そして各地にその土地ごとに限界いっぱいの古墳を次々に作っていたということは
強力な一人の大王が全国支配していて、
その大王を讃えるために古墳を作っていればよかったということ。
同時期の古墳はぜんぶ、その時代における一人の大王を讃えるためのもの。

43:日本@名無史さん
19/08/21 23:19:59.25 .net
つまり同時期の古墳は全て大王を讃えるものであるが、
被葬者はその場所の有力者
ある意味全てが大王の支配地における大王のための墳であるが、
その墳の中で眠るのは在地の有力者が大部分であり
大王自信がどこにいるのかは別。

44:日本@名無史さん
19/08/22 03:12:49.95 .net
関門海峡が河口にしか見えないとかキチガイだろ(笑)

45:日本@名無史さん
19/08/22 05:58:01.34 .net
九州地方の大規模水田開発は、有明周辺の低湿地に水路を引くとか、クリークを掘ってアオ取水するとかではじまった。
しかし奈良ではそれはできなかったので、
水田開発の一環として、ため池を作り、用水路を整備したことから奈良の初期巨大古墳が始まったのだろう。
つまり、ため池掘りの残土をそれらしく整形して前方後円墳に仕立て、残石で葺いた。
そして功績のあった地元大物はそこに葬られた・・・
(やがて形式に流れ、大和朝廷衰退の原因になったが、少なくとも当初は)万事、経済合理性に基づいた公共事業だったわけだ。

46:日本@名無史さん
19/08/22 07:26:51.18 .net
>>44
昔はトンネルだったらしいぞ。

47:日本@名無史さん
19/08/22 08:26:53.76 .net
>>33
>247年には女王国の伊都に一大率=三国志時代中国の刺史の如し が置かれ
刺史の如しであり、刺史が置かれたわけではない。

48:日本@名無史さん
19/08/22 09:45:00.41 .net
大率=太宰帥だよね

49:日本@名無史さん
19/08/22 10:01:23.05 .net
一大国の率じゃないの?

50:日本@名無史さん
19/08/22 10:42:17.54 .net
大前提として伊都国は世々王がいる諸国の一つであって女王国ではないということを忘れてるだろお前ら
そして女王国の北限に置かれたのが一大率
魏志倭人伝に明記されている事実を歪曲するな

51:日本@名無史さん
19/08/22 11:14:12.61 .net
使 大倭 監之 自女王國 以北 特置 一大率 檢察諸國 畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆 臨津捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
畿内説の目線では、伊都国に筑紫または九州北部の国司を置いた。
これは、特に半島ルートの外交を監視している。 で、帳尻は合うんだろ?
まあ、なぜ筑紫が独自外交で郡や皇帝と文通や朝貢してるのかは、無視だろうがw
九州説目線では、なぜ周旋可5千里の自国内に、地方長官の如き将軍を置いて
女王と皇帝や郡との文書や贈答品の検閲が必要か。 と、言うのは謎なわけだ。
しかし、
王遣使 詣京都は、景初二年難升米都市牛利、正始四年 伊聲耆掖邪拘等の二回
郡使倭國は、正始元年梯儁、其八年張政の二回である。
これ、
一大率の検察が有った可能性は、247年の張政だけなのではないかな?
魏史は続くが、247年の張政のこの報告で、邪馬台国外交は終わっている。

52:日本@名無史さん
19/08/22 11:21:27.50 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

53:日本@名無史さん
19/08/22 11:23:52.30 .net
>>51
誤読です

54:日本@名無史さん
19/08/22 11:56:07.60 .net
>>52
確かに説明どおりだな・・・
伊都国の立場・・・

55:日本@名無史さん
19/08/22 11:58:00.51 .net
つまり女王国は伊都国の南ですね。

56:日本@名無史さん
19/08/22 11:58:53.25 .net
>>52
誤読です

57:日本@名無史さん
19/08/22 12:30:26.31 .net
>>52
有能だが、このスレでは嫌われるな(笑)

58:日本@名無史さん
19/08/22 16:40:33.88 .net
自女王國以北 特置 一大率 檢察 諸國 畏憚之 常治 伊都國 於 國中有 如刺史
この一文から読み取るべきは、畿内説でも伊都は九州北部だろ?
一大卒を置いて、伊都で外交交易を検閲するという事だろうが、
自女王國以北 特置 一大率 という事は、女王国は伊都より南だろ?
どこの畿内の女王国だよ?
まあ、九州スレだから、なんだが、
この場合の 自女王國以北 と言うのは、
九州説だと女王国以南は、狗奴国であって勢力圏外で一大卒は治めてない
ってことじゃないのかね。

59:日本@名無史さん
19/08/22 16:43:03.61 .net
誤読です

60:日本@名無史さん
19/08/22 16:48:50.81 .net
頭の病院に行けと言っているんだよ、
どこの池沼なんだ、それと日本の神話?

なぜ中国人(漢人、漢民族)が日本の先住民なんだ

池沼「❓」?

61:日本@名無史さん
19/08/22 16:56:54.01 .net
中国人なのに日本の先住民、
芸能(実際は当事者では関係ない人々)などが広めた話だと言っている人がいたり

例えばwiki『アマテラス』
孫悟空のような人物が描かれていたり、知っている人は知っているw

62:日本@名無史さん
19/08/22 17:13:50.52 .net
数年前の話
AB蔵暴行事件などがあったでしょ、
何か知っている人がいるんだろう

63:日本@名無史さん
19/08/22 18:26:15.98 .net
>>58
>この場合の 自女王國以北 と言うのは、
>九州説だと女王国以南は、狗奴国であって勢力圏外で一大卒は治めてない
>ってことじゃないのかね。
まあそうなんだろ。

64:日本@名無史さん
19/08/22 18:32:15.48 .net
畿内スレ
>>943 日本@名無史さん2019/08/22(木) 15:53:20
>畿内説では、方角は陳寿の錯誤であると きちんと論証してあるから、
>現実の地理とは一致してなくてもまったく問題ない
つまり、キナイコシの>>943が云いたいのは、
倭人伝の行程記事は陳寿本人の錯誤に基づいて書かれているが、
もし、その記述通りに進むとすれば、末盧国東南陸行500里で到る伊都国は、
今、遺跡らしいものは何もないけれども佐賀川上になる。
依って北部九州説はない。 そういうことだ、、、。

65:日本@名無史さん
19/08/22 18:36:24.77 .net
太宰府だろやっぱり

66:日本@名無史さん
19/08/22 18:38:09.14 .net
日本史に出てくるなら亜目多利思比孤=筑紫君だよ
橘氏ってのが古代の太宰府に勤めていた官庁役人

67:日本@名無史さん
19/08/22 18:39:38.19 .net
筑紫は裏切り戦争なったべ(゚∀゚)
いや~つながるつながる

68:日本@名無史さん
19/08/22 19:07:06.41 .net
>>64
令和現在での発掘で、対馬外交フロントの伊都を糸島または、
早良付近福岡平野西麓以外に求めるのは無理ではないのかな?
当然、末盧國は糸島北岸にしかならないが、
この末盧國は、247年の張政がたまたま卑弥呼の墓を見るため
或いは倭国側が防衛上博多湾を見せなかった、と考えるべき。
博多湾最寄りの伊都まで南東徒歩500里w アホですか?
帯方郡は245~6年、韓南部と戦争状態にあり
箕氏韓王朝を廃絶し、臣智と言う菅政を敷いた。 韓伝も読んだ方が良い。
245に詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 だが、
当然参戦要請の 檄 が有り卑弥呼はこれに応えていない。
倭人が、皇帝を無視した記録は残らないのではないかなw
これに関する査察が247年の張政である。
歴史の必然を読む、と言うのは考古学と少々違うかもしれない。
しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
ここ掘れ、わんわん。

69:日本@名無史さん
19/08/22 21:00:57.76 .net
>>68
>しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
>ここ掘れ、わんわん。
まさに、ここ掘れワン状態の、阿波考古学。
女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。   @阿波

70:日本@名無史さん
19/08/22 21:26:14.94 .net
>>69
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww

71:日本@名無史さん
19/08/22 22:02:32.73 .net
>しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
>ここ掘れ、わんわん。
まさに、ここ掘れワン状態の、阿波考古学。    阿波の遺跡は、他のトンデモ説の遺跡とは、別格!   @阿波

女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。   @阿波

72:日本@名無史さん
19/08/22 23:11:57.87 .net
労働者の国ですよ

73:日本@名無史さん
19/08/22 23:45:04.55 .net
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
URLリンク(www.kanripo.org)
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
URLリンク(wenku.baidu.com)
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

74:日本@名無史さん
19/08/23 00:13:43.71 .net
>>73により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

75:日本@名無史さん
19/08/23 00:47:27.52 .net
>>71
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww

76:日本@名無史さん
19/08/23 07:59:17.07 .net
>>73-74
一連の議論にようやく終止符が打たれたか
陸行できない畿内も四国も終わったな

77:日本@名無史さん
19/08/23 08:22:32.49 .net
新提案
関門海峡は仲哀天皇が開削するまでトンネル状の穴門であったとされる。
つまり、本州は陸続きで行けた。

78:日本@名無史さん
19/08/23 08:41:51.37 .net
常識的に考えて、陸続きのところを壊して、海峡を作る意味が分からない
陸続きのままの方が便利だろ

79:日本@名無史さん
19/08/23 09:08:02.20 .net
当時は海運が主力。
陸路の整備は奈良時代から。

80:日本@名無史さん
19/08/23 11:15:32.43 .net
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
自女王國以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
次有 ―列記21国― 此 女王境界 所盡 其 南有 狗奴國 不屬女王
自郡 至女王國 萬二千餘里
簡略化したが、これが240年梯儁の 魏による初探検の記録である。
(中央一文は、陳寿の補足だが、余計わかりにくい。削除可w)
―列記21国―、狗奴國 は、印綬国の国勢参問の際、和音国名を漢字化命名したもの。
投馬國は馬韓を過ぎた国(当初は倭人国認識)可5万戸、後の弁辰韓
邪馬壹國は21国(韓伝の国名に所属国を列記を踏襲)7万戸で、
女王所属国、邪馬国の女王宮を見てこれをランドマークとして命名。
(臺は、曹操の楼閣を意味する字 として魏書では改訂した)
この仮称の採用は、陳寿が初探検者、梯儁の命名を尊重したものである。
邪馬台国、投馬國と言う国名は歴史上これが初出で他には使われたことが無い。
ついでだが、邪馬台国は概ねで筑紫国にある、21国であり、
南至 邪馬壹國 女王之所都 は主語が並列している。
投馬國から水行十日で邪馬台国に入国し、さらに陸行一月で女王宮に到達した。
この行程が240年梯儁の満二千里の女王宮に至った行軍であり、
247年張政の倭人船便乗の行程は10500里の伊都に到達で終っている。
邪馬台国、投馬國が、国名である以上、
前文の都市間の里程で示された行程とは直列出来ない。

81:日本@名無史さん
19/08/23 11:48:16.56 .net
>>76
>陸行できない畿内も四国も終わったな

「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

82:日本@名無史さん
19/08/23 12:30:18.10 .net
>>81
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww

83:日本@名無史さん
19/08/23 15:16:46.56 .net
どう考えても瀬戸内から日本海側に出られる方が便利だろ
関門海峡開削はスエズ運河

84:日本@名無史さん
19/08/23 16:28:43.79 .net
だから魏志倭人伝では宮崎県都万まで鹿児島周りで水行なのかもしれないな。

85:日本@名無史さん
19/08/23 16:54:47.66 .net
>>83
神功皇后の頃だな

86:日本@名無史さん
19/08/23 17:16:55.43 .net
>>73
おお、ちゃんとした他の用例が見つかったのか
これで決着がつくな

87:日本@名無史さん
19/08/23 20:46:53.32 .net
畿内スレ497 >>943日本@名無史さん2019/08/22(木) 15:53:20.
>畿内説では、方角は陳寿の錯誤であるときちんと論証してあるから、
>現実の地理とは一致してなくてもまったく問題ない
つまり、このレスでキナイチュー>>943が云いたいのは、
倭人伝の行程記事は陳寿本人の錯誤に基づいて書かれているが、
仮にその記述通りに進むとすれば、末盧国東南陸行500里で到る伊都国は、
今遺跡らしいものは何もないけれども、佐賀川上と云うことになる。
依って北部九州説はない・・・。こういうことだ。

88:日本@名無史さん
19/08/23 21:02:49.81 .net
新九州説:佐賀川上ルート:
(不彌国までの方角一致、里数も短里≒韓倭の里換算で一致)
狗邪韓国~対海国~一大国までは省略
・一大国(壱岐)ー末盧国(唐津市中原津)は渡海+遡河計55㎞(700里)で、千里はまあOK、
・末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南陸行して到る38㎞(500里)でドンピシャ、
・伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南方向至る7.5㎞(100里)でドンピシャ、
・伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東に行く11㎞(145里)で、其の四捨五入の100里は適切。

89:日本@名無史さん
19/08/23 21:22:51.64 .net
畿内スレの九州説って言うのは、話にもならんのだが
ザラコク説の事なのではないかな?
伊都国は糸島早良福岡平野西麓以外には無いわけで
247年に倭人船便乗で来日した張政の上陸地、
末盧国がどこであろうが、対馬航路の常用帰港地では有り得ない。
と言うより、帰港は風や潮任せで、着けば沿岸を母港に帰る、だろ?
平戸や呼子が着けやすいとして、出雲でも糸魚川でも帰れるんだよ?
奈良に行くために、なんで松浦半島で下船だよ? 
瀬戸内海に自前の外洋船で入れないの? 
何が卑弥呼と狗奴国との戦争応援だよ? 中国皇帝ってアホなの死ぬの?
九州説なら、博多湾入港で当たり前で、どこからでも有って良いわけだけどw

90:日本@名無史さん
19/08/23 21:39:20.47 .net
畿内や四国だと言ってる奴らは偏狭なナショナリズムで主張しているだけ
それを半島が倭国だったと認めたくない朝鮮シンパに利用されているのが今の構図
いい加減に気付いてほしいよね

91:日本@名無史さん
19/08/23 21:40:53.05 .net
>>90
碌な集落遺跡の無い九州に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波

92:日本@名無史さん
19/08/23 21:45:20.70 .net
>>87 追加説明
今、遺跡らしいものは何もない佐賀川上と云うけれども、
航空写真により、古道に囲まれた国衙らしき遺構(250m×200m)が見て取れる。
その前に、ここから東へ約3㎞、佐嘉川を東へ渡った大和町久池井で発見された肥前国庁跡を説明したい。
この庁は、8世紀前半に建設された南北110m×東西80mの国府跡である。
其の中心軸線は真北から7度西へ振っている。
この国庁名は肥前風土記には記述がなく、風土記以後の建設とみられている。
なお、和名抄には乎岐国府(オキ・乎伎国府)の別名が有り、今の小城市方面に古国府があったと推定されている。
で、この古国府(オキ、乎伎国府)こそ、上に述べた佐賀川上の遺構(250m×200m)だったのではないであろうか??。
ちなみにこの佐賀川上の遺構らしき敷地区画の中心軸線は真北から約10度西偏である。
仮に中心軸線が北極星を指すものであったとすれば、
先の肥前国庁の軸線とは約3度の差となり、其の歳差から、
古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計で、西暦150年頃までさかのぼる遺構であったということになる。

この遺構から

93:日本@名無史さん
19/08/23 22:06:15.14 .net
この遺構からさしたる遺物は出土していない。
佐賀県教育委員会のデータによれば、現状では古代遺物の散布地となっているのみである。
先に述べたごとく、佐賀川上の地は西暦150年頃まで遡り得る古い国衙であった可能性が大である。
こうした仮説想定の下に1~2のトレンチを入れてみれば、必ずや貴重な発見があるものと確信している、、。、

94:日本@名無史さん
19/08/23 22:06:32.27 .net
240年に和人の音で国名が漢字になった。
この状況を想像してもらいたい。
247年に張政が倭人船便乗で知った寄港地の都市名だが
末盧国は松浦半島ではない。
伊都は女王国所属大夫の21国には無い(伊都国に王は無い)
丗有王皆統屬女王國 郡使 
往來 常所駐
わかりにくい主語が並列しているが、
女王国所属王は皆、伊都を往来している。
247年の郡師は、伊都に常駐させられたのである。
邪馬台国はヤマトとは関係ない。
投馬国可5万戸は、馬韓を過ぎた半島国。 
弁辰韓は5万戸との情報は既知。

95:日本@名無史さん
19/08/24 07:16:20.63 .net
>>74
投馬国は九州山地で隔てられた宮崎平野、邪馬台国は筑後の山門だな

96:日本@名無史さん
19/08/24 09:26:58.10 .net
(書き直し・抄)
佐賀川上の推定伊都国と、吉野ヶ里の推定不彌国の中間に位置する大和町久池井には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして、和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)は、佐賀川上に残る区画遺構(250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。。
したがって両者の中心軸線には約3度の差があるが、
仮に其の軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計で、西暦150年頃までさかのぼる遺構であったということになる。

97:日本@名無史さん
19/08/24 14:08:31.95 .net
( ^ω^ ) 邪馬台国は九州にあったのか畿内にあったのかどっちなの?
わかりやすく教えて

98:日本@名無史さん
19/08/24 14:10:24.86 .net
「徳島県小松島市・新居見遺跡 縄文晩期の土偶発見、県内初」
徳島県埋蔵文化財センターは、四国横断自動車道建設工事に伴い昨年9月から小松島市新居見町山路の新居見遺跡を調査し、
古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭)の古墳と小型埋葬施設の墳墓群を発見した後、
さらに下層を調べたところ3月に縄文時代晩期(2500~3000年前)のものとみられる土偶1体が出土したと発表した。 県内で縄文時代の土偶が確認されたのは初めて。
縄文時代の土偶はこれまで、全国で徳島県だけが未出土だった。
出土した土偶は、腹から脚にかけての下半身のみで、高さが7・6cm、厚みは最大2・5cm。 へその部分はベンガラで赤彩されていた。
一般に土偶は女性を模したものが多いが、出土した土偶の一部から女性の土偶とは言い切れない。
脚の壊れた部分やX線写真の分析から、予め頭や脚などを部位ごとに作り、各部位のつなぎ目に凹凸を作り、胴体を中心に差し込んでつなぎ合わせる方法で作ったとみられる。   @阿波

99:日本@名無史さん
19/08/24 14:13:32.15 .net
>>98
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww

100:日本@名無史さん
19/08/24 14:14:07.09 .net
畿内にあったのになぜ九州を歩くの?
そんな馬鹿なことさせちゃあ、中国人怒るよ

101:日本@名無史さん
19/08/24 15:19:41.24 .net
>>100
え?笑わそうとしてるの?

102:日本@名無史さん
19/08/25 01:25:18.76 .net
>>97
魏の使いは佐賀の末廬国で船を降りて歩いて伊都国に行った
もし邪馬台国が畿内なら佐賀で船を乗り捨てる理由は無いよね
目的地が九州内だから船を降りたんだよね

103:日本@名無史さん
19/08/25 07:22:50.34 .net
>>102
その通り、
目的地が九州内だから佐賀・末盧国(唐津)で船を降りた・・、という考えはとても合理的だ。

104:日本@名無史さん
19/08/25 07:44:52.38 .net
>>102
え?笑わそうとしてるの?

105:日本@名無史さん
19/08/25 07:56:11.09 .net
>>104
横からその通りだ、笑顔で笑ってやってくれ。

106:日本@名無史さん
19/08/25 08:03:44.21 .net
仮に佐賀だとしたら、水行で有明海に回り込むのは面倒だな。

107:日本@名無史さん
19/08/25 08:04:27.47 .net
【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

108:日本@名無史さん
19/08/25 12:55:13.66 .net
>>107
根拠がないから却下な

109:日本@名無史さん
19/08/25 14:04:36.78 .net
>小碓尊の二太刀目が急所にきまって倒れた熊襲は息もたえだえながら
「我こそは日本一の武勇者として誇りつづけたが、小碓の尊こそ誠に日本一の武勇者なれば、今後は日本武尊と尊称し奉る。
我は九州全土をわが家の住いとせしも、これが最後となったこの川上の地を記念して
姓の熊襲を改めて川上タケルと称する」、
と遺言して息を引き取った。
>以来、熊襲タケルを、川上タケルと呼ぶようになったという。
熊襲タケルの墓は、一般には現・健福寺の境内にあるといわれているが、
その謂れの元は、健福寺が真手(まて)山(大願寺の北2㎞ほどの山中)にあった時代のことであるので、彼の地一帯を調べる必要がある。

110:日本@名無史さん
19/08/25 14:41:13.47 .net
なんで負けた方が名前をくれるんですかね
そんな名前いらないだろうし

111:日本@名無史さん
19/08/25 16:00:13.74 .net
>>104
負け犬が引きつった笑いを浮かべててワロタ

112:日本@名無史さん
19/08/25 16:15:08.41 .net
タケルが倭王の称号の一つだったのだろう。

113:日本@名無史さん
19/08/25 16:51:08.80 .net
>>111
>>100が悔しがってるんだろ
そっとしといてやるのがオトナだぞ

114:日本@名無史さん
19/08/25 17:21:19.72 .net
>>113
日本語が理解できないんだねw

115:日本@名無史さん
19/08/25 17:35:05.01 .net
文盲が悔しがってて草www

116:日本@名無史さん
19/08/25 20:11:32.33 .net
>>109
まあ、大願寺が肥国の中心の一つであったことは間違いない。

117:日本@名無史さん
19/08/26 18:32:58.68 .net
獲加多支鹵(わかたける)か?
応神天皇の異名なんざ誉田分(ほむたわけ)天皇やぞ
これバカ天皇って暗喩じゃん(゚∀゚)
大事な田を分けるバカもんのことを田分け(タワケ)って呼ぶだ
誉めるべきタワケたバカって意味やぞ

118:日本@名無史さん
19/08/27 10:33:25.38 .net
ワケとかワカは「財産や地位を継ぐ人」と言う意味ですよ
だからそれなりの地位に着いたときまだ親が生きてるってそれだけの話

119:日本@名無史さん
19/08/27 12:36:47.88 .net
別けは分家の意味だと思っていたが、若と同じか。

120:日本@名無史さん
19/08/27 13:27:04.26 .net
>>117
ニッポンには「戯(たわ)ける」という言葉があるんだよマヌケ

121:日本@名無史さん
19/08/27 17:56:27.43 .net
文字が共有されだした600年以降の概念で倭人伝の話し、も いかがなものかと思うが、
400年程度には、天皇が中国語名を使用した形跡は有る。
倭人伝は、240年の和音の国名21国が、漢字の当て字で記されたという
日本言語の歴史上? 中国語文献上なのだが稀有な考古価値を持っている。
また、人名の傾向も
女王/卑弥呼 狗奴王/卑弥弓呼
奴王/(難)升米  都支王/(都市)牛利 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
載斯烏越/該当国名無し、卑弥呼直属家臣?
官、247年張政の聞き取り漢字化
對海/卑狗 卑奴母離 一支/卑狗 卑奴母離
末盧國/官無し、載斯烏越船の母港?
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 奴/兕馬觚 卑奴母離
不彌/多模 卑奴母離(卑奴母離は現地任命の官ではなく同行者の可能性が高い)
240年梯儁の聞き取り漢字化
投馬国/彌彌 副日彌彌那利 邪馬壹国/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮
倭人伝論争で、
漢字記録しだした奈良から戦国以降の地名が
これら和音名詞の存在を無視して、記紀の地名と
倭人伝の和音名とが似ているというのは、全く評価する気がしない。
九州言語の九州名の漢訳であり、筑紫に結び付くものも無い。
倭人伝行程は、240年から247年までの九州紀行である。

122:日本@名無史さん
19/08/27 18:22:19.06 .net
書き忘れたが、
(狗邪)韓
對海 対馬
一大 一支
投馬
(邪馬)臺
は表意文字であり
一般化していない段階での
中国語化した、地名、固有名詞の当て字への
補足的表意文字である。

123:日本@名無史さん
19/08/27 18:34:30.51 .net
伊都は意訳か音訳か?

124:日本@名無史さん
19/08/27 18:43:18.64 .net
240年梯儁の聞き取り漢字化
投馬国/彌彌 副日彌彌那利 邪馬壹国/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮
の 漢字化 について
彌については箕氏朝鮮の? キだけどミの影響は否めない
彌国のミはミミ、その那利。
半島は基本的には、馬韓、マ国である。
辰国は移民国で王は月支国に居る。
中原遺民と倭の遺民で国体は無い。
240年の投馬国は、後の弁辰韓5万戸である。
言語学的宿題は、中学生ネラー諸君の夏休みの研究発表で良い。

125:日本@名無史さん
19/08/27 19:01:25.97 .net
>>123
東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
ここで、到の文字が使われているが
247年の張政の行程は、伊都で終っている。
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
伊都には、女王所属王皆がが往来していて、
郡使は、検閲を受け駐留させられた。
張政は247年に、これを査察したわけで
魏と邪馬台国の交流は、これで終った。
247年の伊都は筑紫の首都機能を示唆するが
240年の女王所属の21国には無い。
これは、この間の歴史変動であっても良い。
313年、漢四郡撤退から、
350年、百済新羅の建国、対高句麗、牛馬の移入は
記紀では、どれほどの文明革命として記録されているのだろうか?
だから、銅鐸消えて、古墳時代だよねw
現代中学生には、謎も糞も無いんだが?

126:日本@名無史さん
19/08/27 19:03:55.99 .net
伊都は紀元前後から王墓が作られ続けた王都であり、それはおそらく倭国大乱より前から変わらなかっただろう。

127:日本@名無史さん
19/08/27 19:17:42.19 .net
>>126
碌な集落遺跡の無い糸島に、王都など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波

128:日本@名無史さん
19/08/27 19:18:31.01 .net
王は奴王もしくは委奴国王であり、委と奴ってのも、有っても良いがw
伊国、伊王と言うのは、247年の伊都国の一大卒からだ。
日本は、239年の公孫氏滅亡、246年の箕氏韓王朝滅亡を見て
どうでも良かった九州防衛の修正や富国強兵政策への転換、これを行った。
廃絶した公孫氏、箕氏韓王朝、後に四郡の遺民から
軍師を迎えたことは言うまでもない。
縄文海神の日本は、帥升に見るように人さらい国であるwww

129:日本@名無史さん
19/08/27 20:11:51.09 .net
海神は南方から稲作を伝えた弥生人だ。
そしてアマツカミ(海の神)と呼ばれた皇祖だ。

130:日本@名無史さん
19/08/27 20:23:46.28 .net
>>129
それ(稲作)が紀元の2600年以前であることは、確定した。
しかし、稲作の普及と縄文人の消滅、弥生人の台頭は一致するか?
縄文海神の子孫繁栄は、長期的な
外国からの移民、強制連行で成立してないか?
土偶、子孫繁栄の教科書? そんなもん要るのかよ?
日本列島の縄文人の歴史には女性が生まれなくなる歴史があるだろ?

131:日本@名無史さん
19/08/27 20:30:57.30 .net
>>127
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww

132:日本@名無史さん
19/08/27 20:32:49.21 .net
しつこく天津神と海神、海人を結びつけようとするキナイコシ

133:日本@名無史さん
19/08/27 20:54:41.25 .net
どうみてもキナイコシではないだろ

134:日本@名無史さん
19/08/27 22:56:15.94 .net
>>133
必死だな(笑)

135:日本@名無史さん
19/08/28 12:16:50.61 .net
伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国

136:日本@名無史さん
19/08/28 14:42:06.78 .net
東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐
丗有王皆統屬女王國は、これで一つの主語。 女王共立の各王は伊都国を往來している。
郡使は、伊都国を往来していないから、ここに常駐させられたことを意味する。
そもそも、240年の梯儁は印綬で皇帝の文書賜遺之物詣女王を携え、
検閲や文書を開けられたら戦争を始めなければならない行軍である。
海賊等と戦える軍を率い、上陸は博多湾だろうし直接王宮に向かい
伊都には常駐も検閲もさせられないし、入ってもいない。
一大卒が無かったかは知らんが、たいした軍隊では無かったのではないかな?
ちなみに『到』伊都國であるが、
到と至は字の違いだけではなく、音も違う。 
明らかに別の意味を持つものであり、到は到達したという意味が勝る。
直列した行程はここで終わっている。
247年の張政は、伊都駐留でここを往来する壹與と難升米に檄告喩して役目が終わった。
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐 は この説明である。
大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺 が帰国船である。

137:日本@名無史さん
19/08/28 15:46:07.03 .net
>>136
>到は到達したという意味が勝る。
>直列した行程はここで終わっている。
一般的な解釈はそうだが、では「到る狗邪韓国」の場合も、ここで直列の行程が終わっているのかな、いかが??

138:日本@名無史さん
19/08/28 16:30:46.88 .net
>>137
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
到其北岸 狗邪韓國で、とりあえず倭に到達したという認識なのかと思う。
主語の理解で、倭人伝は其や此、之と言う代名詞が何を示しているかを読むのは非常に重要。
また、循海岸水行が終わって、始度一海
この 始度一海 によって、到達後の新たな行程と直列している。
到伊都國 については、
東南 至奴国 百里 が続き、これには動詞が無い。 つまり、行程として書いてはいない。
東行 至不彌國 百里 は、これまでの直列行程の語順では、東行 百里 至不彌國、違いは
東行したら不彌国が有る ということで、奴国と並列した伊都近隣国の紹介である。

139:日本@名無史さん
19/08/28 17:10:06.59 .net
>>138
>到其北岸 狗邪韓國で、とりあえず倭に到達したという認識なのかと思う。
倭(倭地)に到達したと思ったら○○韓国(韓地)だったというのは、いささかぎくしゃくの感ありとおもうが・・。
また、東南 至奴国 百里 には動詞が無いことが特徴で、東行 至不彌國 百里 は動詞のあることが特徴で、
その両者が並列というのも、聡明な陳寿の筆としてはすっきりしがたいのであるが・・。

140:日本@名無史さん
19/08/28 17:44:32.82 .net
>>139
確かに韓南岸に倭地が有る、と言うのはおかしい。
韓伝の書かれた246年の郡による韓王朝廃絶、制圧後の280年辺りでも、
それ以降の史書でも、この240年~247年の記録が
馬韓、弁韓、辰韓は南を倭と接するという誤解釈の原因になっている。
魏が帯方占領直後、240年の梯儁は、弁辰韓5万戸を投馬国と仮称した。
辰韓が秦遺民であるのに対し、弁韓は鉄青銅移入の倭人の植民も混ざっていた。
公孫氏も漢四郡もこの地は不可触である。
正常に記録されなかった原因は国家の成立も阻まれ制圧されていないからである。
馬韓、辰韓には王政が無くなり、臣智と言う官の統治下に置いた。
弁韓はそのままである。
魏は247年に、卑弥呼との同盟の間違いに気づいたが、
これで東夷を放置し、三国志の覇者へと前進したが、
313年韓四郡は撤退に追い込まれる。
記紀、三韓征伐の嘘で、実は高句麗は中華の楽浪候、幽州刺史であるが、
350年までに、日本が新羅百済を後援して、立国したのは間違いない。
ここからが、馬の移入と鉄の国内生産化で、400年に倭の五王の半島利権外交が始まる。
邪馬台国論争は、東夷の古代史を見えなくしてるだけなのではないのかな?

141:日本@名無史さん
19/08/28 21:53:36.87 .net
>>139
ネトウヨ化してしまいw 本論である文法の話を忘れてた。 スマヌ。
東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
東南 至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
奴国に移動する為の動詞が無い事
東行すると百里で不彌國 なのであって、陳寿の文章には一切疑義は無い。
書写で間違いが有るなら壱岐の、一大国は一支国では無いか?
という部分だけである。 
これは、壱岐だろ?

142:日本@名無史さん
19/08/28 22:29:47.10 .net
日本古代史の結論を記紀に迎合させたい、という意向はよくわかる。
しかし、300年以前の九州を何も知らないで、九州起源の記紀は意味が判らない。
時系列が明らかな邪馬台国に、仲哀天皇も神功皇后も三韓征伐も有り得ない。
倭人伝により、247年以前に九州が統一日本であったことは有り得ないのである。
公孫氏と箕氏韓王朝の滅亡で、
BC200年以来の日本の青銅器輸入に支障が有ったという事実は存在する。
公孫氏や箕氏韓王朝から軍師を迎えた日本が、
対魏で防衛体制に入るのは当然である。
数年前に、夏休みの研究で、現代中学生が見て感じたことだが
単純な歴史の必然を無視するのが、考古学なのかね?
徹夜すれば、話題の邪馬台国? 空白の3~4世紀、模造紙2~3枚で発表可能だよw
大学生の論文なら、ソースは日本史スレだぞwww

143:日本@名無史さん
19/08/28 22:51:43.19 .net
はっきり、言っておくが
邪馬台国論争で、真実を知るという事は
残念過ぎる、のではないだろうか?
歴史に関する、ホントの事って、
自他ともにどうでも良い、五ちゃん認定のネトウヨ以外が、
ホントの事を言っちゃってても良いのかな?
邪馬台国論争は解決しているが、よゐこ限定の、
中学生の夏休みの宿題向けなのではないのかな?

144:日本@名無史さん
19/08/28 23:20:31.02 .net
魏志の東夷伝読んでるだけでも、一般に言われてることと
東夷伝の記述が何か違うと思うことは多々あるんだよね。
九州か畿内か阿波かは決着は付いてるし、後は金と時間の掛かる発掘
頑張ってねと思うだけ。日本よりも半島での発掘の方が興味あるけど、
現在の半島情勢を考えると自分が生きてるうちには無理かなと思う。
古墳とかブルドーザーで壊しちゃうんでしょ。
スレがソースなのが嫌なら URLリンク(tsukudaosamu.com) とかでもいいんだお(^ω^)

145:日本@名無史さん
19/08/29 02:01:22.74 .net
>>143
おまえは「こくごドリル2ねんせい」から日本語を勉強し直せ

146:日本@名無史さん
19/08/29 06:42:16.07 .net
>>145
その通り。   日本語を勉強し直せ   @阿波

147:日本@名無史さん
19/08/29 06:59:50.49 .net
>>135
そう信じ込みたいのだね。
可哀想に。

148:日本@名無史さん
19/08/29 07:08:37.91 .net
>>135
その通り。   @阿波

149:日本@名無史さん
19/08/29 09:39:04.69 .net
>>146-148
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww

150:日本@名無史さん
19/08/29 09:44:45.84 .net
伊都国は240年の女王共立21王の国としては名前が挙がっていない。
247年までの間にできたか、いずれかの国に含まれるものかもしれない。
南東百里の奴国2万戸に対し千戸である。
奴国は福岡平野の大国であろうと推測できるから
伊都は、早良あたり、福岡西麓から今宿辺りを想定できる。
一大卒が有り、諸国がこれを畏憚するわけで、隣国奴国の2万戸に対する
千戸という小ささは、畏憚に値するとも思えず、一大卒の一部隊の数ではないか?
後世(九州起源後付けの記紀以降w)に怡土城が出来るが、
この付近を古代山城とする、軍事都市である可能性が高い。
238~9年公孫氏滅亡、245~6年箕氏韓王朝滅亡。
これを受けて、日本国内で防人を集め作られた防衛部隊だと推測する。
魏と女王国の交流は247年で終っている\(^o^)/オワタ

151:日本@名無史さん
19/08/29 09:49:06.41 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”
和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。
結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

152:日本@名無史さん
19/08/29 11:46:03.01 .net
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。
「刺史」・・・地方を検察する官僚
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職

153:日本@名無史さん
19/08/29 12:10:14.19 .net
三国志時代の刺史の概念を過小評価しすぎ。 伊都は千戸。
畿内説であれば、畿内政権が伊都に筑紫総督府を置いた、が成立する。
しかし畿内説で女王国以北に伊都があるというのは成立しない。
女王国=邪馬台国は
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
の位置にあり
次有 ―列記21国― 此(21国で全てで)女王境界所盡
21国で構成される7万戸である。 概ねで筑紫です。
これは、東夷伝 前節
韓伝の馬韓54国列記10万戸、弁辰韓24目列記5万戸
の書式を、踏襲している。
其南有 狗奴國 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里 である。
自女王國以北 特置一大率
この場合の、自女王國以北は、其南有 狗奴國 不屬女王
であるから、女王国以南は、一大卒の勢力圏に無いことを言っている。
これは、日本史における熊襲征伐が半島進出より遅れている
と言う事実と一致する。
日本は四郡撤退の313年以降、全力で半島進出し、
百済新羅の建国を後押しし、牛馬の移入と鉄の国内化に成功している。
魏と同盟、印綬の卑弥呼は190年から247年まで筑紫に存在したが、
この大倭王では有り得ない。 統一前の九州の女酋長である。

154:日本@名無史さん
19/08/29 12:57:10.05 .net
後世から見れば本州の統一前だが、それでも九州北部の多数の国邑を束ねて代表した倭国女王だよ。

155:日本@名無史さん
19/08/29 13:23:56.05 .net
>>152
ちゃうで「以北」は北限という意味やで
>>151が書いとるように女王国の北限に一大率を置いて、伊都国の王を傀儡にしとる(伊都国王を差し置いて一大率が伊都国を治めとる)と魏志倭人伝は伝えとるんやで

156:日本@名無史さん
19/08/29 13:32:09.18 .net
>>153
筑紫総督府なんてもんはこの世界線には存在しとらんで
あるのは筑紫都督府
しかも中華圏の文献には存在せず、日本書紀の廿七巻 十一月丁巳朔乙丑に
「百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」
”百済進駐軍の将 劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国の司馬である法聡らを派遣して、大山下の境部連石積ら百人を筑紫都督府に送り返してきた。”
という一文があるだけや

157:日本@名無史さん
19/08/29 16:19:58.87 .net
>>154
碌な集落遺跡の無い九州北部に、多数の国邑を束ねて代表した倭国女王など居る訳がない。  以上御終い。   @阿波

158:日本@名無史さん
19/08/29 16:21:17.22 .net
自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。
(以下次有りとは、女王国の次隣りに斯馬国有りの意。以下同様にして○○国の次の隣りに××国有り)
次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、
次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、
(次の隣りには華奴国と蘇奴国の2国が並んでいるの意)
次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、
次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国(奴国には、伊都国東南の奴国と次有り奴国の2国あり)、
(以上で女王国の「国境」が尽きるではなくて、以上で女王の「覇権、権威の境界の範囲」は尽きる)
此女王境界所盡。
(その女王の覇権、権威の境界の尽きるところの南に・・)
其南有狗奴国、男子為王。

159:日本@名無史さん
19/08/29 16:27:50.83 .net
以北の解釈がおかしい。

160:日本@名無史さん
19/08/29 16:57:59.46 .net
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今(魏時) 使譯(梯儁、張政の二回) 所通 三十國
從郡至倭 247年 張政の行程
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到 其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海 千餘里
至 對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海 千餘里・瀚海
至 一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至 末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸
以上、動的な直列行程、里程積算合計満五百里
東南 至 奴國 百里 有二萬餘戸
東行 至 不彌國 百里 有千餘家
奴国の文節には動詞が無い。 
前文までの行程とは直列しない。
この中、伊都までで墓を見て女王宮には向かっていない。
こういうものに、現代語訳は要らない。

161:日本@名無史さん
19/08/29 17:06:07.68 .net
「自女王國以北 特置一大率」
「自女王國以北」とは、このフレーズが出る前までに登場した国々であって里数が書かれている国のこと。
対海国(千余里)、一大国(千余里)、末盧国(千余里)、伊都国(500里)、奴国(100里)、不彌国(100里)、邪馬台国=女王国・・・(自郡至女王国萬二千余里)の7国。

162:日本@名無史さん
19/08/29 17:07:43.11 .net
240年 梯儁の印綬行軍日程と邪馬台国の国勢説明
(投馬國 邪馬壹國 は国名であり里程で示せる行程とは違う)
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸(官、陳寿の補足、一文削除)
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

163:日本@名無史さん
19/08/29 17:11:19.41 .net
>>161
その女王国だけ不自然だよ。
距離もなしか?伊都国もしくは不弥国で一万二千里の大部分を使い切るということだろう。
そして邪馬台国は7万戸の大国邑だ。
奴国二万戸の隣に七万戸を入れる余裕はあるだろうか。
そもそも邪馬台国と投馬国だけ別に書かれており、この二つだけは領域国家を表すのだろう。
それならば、それは奴国を含むとしか考えられない。
(わずか千五百里の位置に二万戸と七万戸は並べられない)

164:日本@名無史さん
19/08/29 17:28:38.05 .net
>>163
>その女王国だけ不自然だよ。
この「自郡至女王国」の語句が登場するまでに出てきた女王のいる国は邪馬台国だけであるので、
邪馬台国=女王国でなんら不思議ではない、また文の流れからいっても当然である。
なお、「此女王境界所盡」の女王は、文字通り「女王(いわば女王グループ)」であって「ザ・女王国」ではない。

165:日本@名無史さん
19/08/29 17:29:18.33 .net
>>163
>(わずか千五百里の位置に二万戸と七万戸は並べられない)
その通り。   @阿波

166:日本@名無史さん
19/08/29 17:35:35.22 .net
>>164
つまり奴国とかを女王国に含めてもよいということ?

167:日本@名無史さん
19/08/29 17:46:23.78 .net
>>166
・邪馬台国=ザ・女王国
・女王=親女王グループの国々(対海国から其の余の傍国の最後の奴国まで30国のこと)
つまり伊都国東南の奴国や遠絶傍国の奴国は親女王グループに属してはいるが、ザ・女王国の国内に在るのではない。

168:日本@名無史さん
19/08/29 17:49:29.87 .net
>>167
>つまり伊都国東南の奴国や遠絶傍国の奴国は親女王グループに属してはいるが、ザ・女王国の国内に在るのではない。
その通り。   @阿波

169:日本@名無史さん
19/08/29 17:50:50.84 .net
じゃあザのグループは空っぽになってしまう。

170:日本@名無史さん
19/08/29 17:53:39.99 .net
>>169
>じゃあザのグループは空っぽになってしまう。
空っぽになんかなる訳がない。  旧吉野川流域・鮎喰川流域のメンバーが大勢いる。   @阿波

171:日本@名無史さん
19/08/29 18:08:21.32 .net
>>169
>じゃあザのグループは空っぽになってしまう。
なんかかんちがいしてないか、うちわけは以下の通り。
1.ザ・女王国・・・邪馬台国の別名
2.親女王グループの国々・・・邪馬台国の女王と親しい対海国から其の余の傍国の最後の奴国まで30国のグループ。つまり狗奴国以外の30国。

172:日本@名無史さん
19/08/29 18:20:40.43 .net
つまり卑弥呼は共立王ではないわけだ

173:日本@名無史さん
19/08/29 18:26:45.53 .net
>>172
つまり卑弥呼は、旧吉野川流域・鮎喰川流域のメンバーに共立された女王だ。   @阿波

174:日本@名無史さん
19/08/29 19:02:07.74 .net
【魏時の所通 30国とは】
240年梯儁の参問を漢字化 女王共立所属国=邪馬台国可7万戸 の21国
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國
呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 (奴國)
此 女王境界所盡(これが周旋可五千餘里の筑紫)と、
帯方郡 南至(()内表意文字)
(投馬)国→邪馬(臺)国→其南不属女王、狗奴国 
この3国は、馬(韓)同様、国の概念
247年倭人船便乗での立ち寄り地名、(張政の和名聞き取を漢字化)
狗邪(韓)國→(對海)國→(一支)國→末盧國→伊都國/不彌國 奴國=構成国に重複
これが、陳寿お約束の 所通30国である。
案外細かいw

175:日本@名無史さん
19/08/29 19:06:56.90 .net
>>172
ああわかった、そういう解釈なのか。此れにはややこしい事情がある。
倭人伝は、暦年を追って書かれている。このため時代を経るごとに女王の呼び名が変わる。以下参照。
正史『三国志』魏書・東夷伝「倭人」(魏志倭人伝)
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。従郡至倭~~~~、
南至邪馬壹国、女王之所都(これをザ・女王国とする)。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸~~~~
自女王国(ザ・女王国)以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国~~~~
其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。
自郡至女王国(ザ・女王国)万二千余里。
自女王国(ザ・女王国)以北、特置一大率、檢察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、於国中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王 ←←←(邪馬台国女王のこと)
(↓ここで共立女王が誕生する)
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛~~~~。
(共立女王誕生後の「女王国」は、倭30国から成る倭女王国で、卑弥呼は倭女王とよばれるようになる)
女王国東渡海千余里 ←←←ここの女王国は倭30国から成る倭女王国、
復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国、黒歯国~~~~
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰  ←←←(まだ倭女王のまま)。
(詔書により、親魏倭王となる)
「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使・・・ ←←←ここで親魏倭王(倭30国に君臨する親魏の倭王)となる)
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授~~~~ 
(以下、単に倭王ともよばれるようになる)
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王~~~~

176:日本@名無史さん
19/08/29 19:37:27.00 .net
>>175
>倭人伝は、暦年を追って書かれている。
最後の外交史は年順でも、行程は違う。 
行程部分は最奥の到達点である、
自郡至女王國 萬二千餘里 が、最後に記してある。
247年卑弥呼の死後の張政は、
糸島半島で墓を見て王宮に行かず、伊都一大率に駐留した。
一大卒は、ここに壹與及び難升米を呼びつけ、張政は檄告喩で帰国した。
240年の梯儁は印綬行軍であり、女王宮を見ている。
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
最後の一行は、魏時2回の使譯の内、梯儁意外が得れる情報ではない。
評曰
史漢著 朝鮮兩越 東京撰西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑
爰及 東夷 使譯 時通 記述隨事
豈常也哉
卑弥呼が倭王であることは、
占領直後の帯方郡の勇み足で間違いであったが
陳寿は初探検の半島西岸~対馬海峡の使譯に敬意をもって
これを記している。

177:日本@名無史さん
19/08/29 21:05:03.04 .net
博多湾沿岸は後漢の頃から倭の中心であり、そこにいた卑弥呼は間違いなく倭王である。

178:日本@名無史さん
19/08/29 21:13:24.56 .net
>>177
碌な集落遺跡の無い博多湾沿岸に、卑弥呼が居る訳がない。  以上御終い。   @阿波

179:日本@名無史さん
19/08/29 21:27:15.76 .net
>>177
考古学的には、
出雲、吉備、淡路、阿波、丹後、越、近江、伊勢、美濃、関東
を統一した倭王は、本州に在り、纏向に首都を作った可能性はある。
250以降で300年?迄だろ? 
卑弥呼は190年から247年迄の、後の筑紫地域の王である。
もちろん、倭人伝247年以降の壹與が畿内に輿入れで箸墓古墳の当事者でも良い。
魏による公孫氏滅亡と箕氏韓王朝滅亡で、BC200年から青銅器移入の日本が
その基盤を失ったことに対する、対外対応が250年以降の九州統合と古墳時代の到来である。
倭人伝は、この歴史を裏付けている。
本州は銅鐸廃棄から九州進出で古墳時代、313年四郡撤退で半島進出本格化だし。
倭人伝に記述されている、卑弥呼は九州筑紫の238年から247年の歴史である。
奇しくも、日本の古代史、激動期の記録なのである。
正しく読む方が良くないか?

180:日本@名無史さん
19/08/29 21:33:35.67 .net
韓南岸に倭地が有る、と言うのはおかしくない
なぜならば
韓國の称は亡命してきた韓氏が王を称したことに由来するからであり
近現代になってからできあがった韓国という近代国家の呼称にひきつけて
陳寿が使用した用語の韓を理解しちゃうのは良くないことだ
彼の証言によれば
3世紀には韓王は半島には不在
韓王はいったい何処にいっちゃったのだろう

181:日本@名無史さん
19/08/29 21:51:47.13 .net
公孫氏や箕氏韓王朝の滅亡は、ちゃんと説明されてるよ。
大韓帝国ってのは、日本 倭による古代韓、350年百済新羅の建国にちなんで
大日本帝国が建国した国の名称で、日帝残滓だろ?
半島人にとっては、朝鮮が半島民族の王道じゃないのか?
高麗だとこれは高句麗で中国の楽浪候、幽州刺史であって、
中華四郡と変わらない。
韓半島 と言うのは、歴史を知らない国特有の日帝残滓でお笑いネタ。

182:日本@名無史さん
19/08/29 22:16:23.01 .net
今の韓国人は自分たちは新羅の末裔、列島は百済の末裔と思ってるんだよな
三国時代の自分たちは勝者で、列島は敗者で格下だと

183:日本@名無史さん
19/08/29 22:16:23.76 .net
魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有 三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也
「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

184:日本@名無史さん
19/08/29 22:22:59.74 .net
>>180
衛氏に追われた箕氏が半島の馬韓地域に入り韓王を名乗った。
秦遺民に辰韓を与え、辰韓12国の王は馬韓の月支国に居た。
朝鮮と言うのは、遼東であり半島は石器人の未開地
だから国体が無く、周辺国の植民地だったんだろ?
弁韓には倭人も多く、倭人伝時点でこれを倭人国と誤認した。
だから、馬韓も弁韓も辰韓も南は倭と接すると記録された。
陳寿が、梯儁の初探検を尊重した結果だろ。
まあ、任那四県割譲の500年迄は、倭人国かなにかは判らない状態だろ?
東夷の古代史をうやむやにするのが、
倭人伝の畿内スレじゃないかと憶測しているw

185:日本@名無史さん
19/08/29 22:29:42.65 .net
接の意味:
①つぐ。つなぐ。「接合」「接続」「密接」
②ちかづく。ちかよる。「接戦」「近接」
韓の東西は広~い海だが、南は対馬海峡で千里ほど。
接するといっても、必ずしもくっついていなくてよい。倭と近づく・近接するの意味で十分理解できる。

186:日本@名無史さん
19/08/29 22:33:49.65 .net
史書の説明は知っているから
マヌケな詭弁は要らない。

187:日本@名無史さん
19/08/29 22:42:13.34 .net
都合が悪い事実に対しては「詭弁」だと思い込んで目を塞ぎます

188:日本@名無史さん
19/08/29 22:50:45.01 .net
>>182
統一新羅と言うのは、完全に唐の属国であって
百済を滅ぼして日本と敵対した事を悔い、
日本に朝貢することで かろうじて国体を保った国だろ?
似たような状況を知ってるw
チベットウイグルを見れば中共も狡猾だが、
ロシアとか米国を裏切るってのはいかがなものか?
韓国って冷戦、ミサイル戦以前の壁としてはともかく、米国には、
チベットやウイグル、クリミアほどの、価値がある国なのかな?
ニダ―をあげる、ニダ―はイラネ、はないちもんめ、じゃね?

189:日本@名無史さん
19/08/29 22:53:08.48 .net
で狗邪韓国ってどこにあったの?卑弥呼はどこにいたの?そろそろ答えでたんじゃないのかい?

190:日本@名無史さん
19/08/29 22:56:02.94 .net
韓国なんて地名は日本にはないニダ(°▽°)
韓国岳(からくにだけ)って半島から逃げてきたやつら来たらしいから名前がついた山なら九州にあるが

191:日本@名無史さん
19/08/29 23:01:35.20 .net
邪馬台国論争のくだらなさは
倭人伝を正しく読んでしまうと
最初から結論が出ている、という事ではないかな?
ご都合主義に誘導しないと
予算取りとかに全然役に立たない。
まあ、真実はつまらないなwww
韓国の予算は良いかもな?

192:日本@名無史さん
19/08/29 23:48:19.43 .net
邪馬台国論争のつまらなさは
歴史学のイロハもわかってないど素人が
ろくな知識ももたたないのに
俺様だけは絶対正しいっていう思い込みだけで
好き勝手に言いたい放題やってるところだろ

193:日本@名無史さん
19/08/30 00:32:50.02 .net
邪馬壹国の話が流行り始めたんが18世紀
それ以前に邪馬壹国の話なんてまったくない
あるなんていうやついるならそりゃ嘘だ
中国内にあった文献のみにだけ書かれていたん
それから邪馬壹研究が流行り今じゃ九州あたり邪馬壹国にちなんだ伝承を作っちまっただ
町の由来からなにから
もはや後戻りできないくらいになw

194:日本@名無史さん
19/08/30 00:35:40.88 .net
韓国岳の名前なんぞの場合は半島から逃げ出した連中が九州の山岳部に逃げ込み立て篭もったみたいな伝承から韓国岳だぞ(゚∀゚)

195:日本@名無史さん
19/08/30 00:39:01.60 .net
玄人らしき者も結局判断は市販されてる史書で。倭人伝がなけりゃ解からんのは玄人も同じ。

196:日本@名無史さん
19/08/30 00:45:31.47 .net
韓国岳は、古くは霧島岳西峰、筈野岳、雪岳、甑岳等と呼ばれていた

197:日本@名無史さん
19/08/30 00:57:25.88 .net
>>157,165,168,173,178
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww

198:日本@名無史さん
19/08/30 04:28:28.21 .net
>>179
考古学的には
倭国(阿波)で確定!  他説の追随を許さない圧倒的考古資料。   @阿波

199:日本@名無史さん
19/08/30 06:54:37.20 .net
>>198
>他説の追随を許さない・・・、@阿波
おおよしよし、心配するな。 誰一人として付いては行かぬ、、、。

200:日本@名無史さん
19/08/30 06:57:01.20 .net
>>199
そりゃそうだろう。  誰一人として付いて来れぬ、、、。  わははははは   @阿波

201:日本@名無史さん
19/08/30 07:01:31.09 .net
九州説も畿内説も、ちょろいもんだ。  他説の追随を許さない圧倒的考古資料。   @阿波

202:日本@名無史さん
19/08/30 10:40:57.29 .net
>>198
>>200
>>201
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)

203:日本@名無史さん
19/08/30 18:41:24.45 .net
魏志倭人伝を読めば邪馬台国に行くには九州を通り過ぎると書いてある

204:日本@名無史さん
19/08/30 18:42:46.21 .net
>>203
その通り。   @阿波

205:日本@名無史さん
19/08/30 18:59:50.93 .net
魏志倭人伝を読めば邪馬台国に行くには阿波も通り過ぎると書いてある

206:日本@名無史さん
19/08/30 19:07:12.55 .net
>>205
魏志倭人伝を読めば邪馬台国は阿波だと書いてある。  わははははは   @阿波

207:日本@名無史さん
19/08/30 19:21:44.14 .net
@阿波の芸風は、一種の炎上商法だな。
しばし阿波に注目が集まればそれでよし、煙りが立たなくなれば、それで御終い、、、。

208:日本@名無史さん
19/08/30 19:54:39.67 .net
>>207
>しばし阿波に注目が集まればそれでよし
倭国(阿波)は、類まれな遺跡の裏付けで、盤石。  これからは阿波の時代である。  わははははは   @阿波

209:日本@名無史さん
19/08/30 21:12:27.27 .net
古代西暦200年頃の星空
(熊本阿蘇) 
幅・津留遺跡で発掘された石柱が指し示す北斗七星信仰のナゾ
URLリンク(minami-aso.cocolog-nifty.com)

210:日本@名無史さん
19/08/30 22:14:29.25 .net
平成26年10月7日(火)~11月24日(月、
伊都国歴史博物館開館10周年記念特別展「狗奴浪漫 ~熊本・阿蘇の弥生文化~」
特別講演会・狗奴国の考古学
「講師:関西外国語大学教授 佐古和枝氏」
>近年の発掘調査などにより、弥生時代の熊本地方では、
>九州の中央に位置する地理的特性を生かして各地との交流がさかんに行われたことがわかってきました。
>また、北部九州とは趣を異にする独特で個性的な弥生文化を生み出しており、
>邪馬台国論争においても、卑弥呼と敵対した「狗奴国(くなこく)」の有力な候補地ともされています。
URLリンク(wajinden.com)狗奴国の考古学「弥生時代の鉄器は熊本がno-1」/
この講演で狗奴国比定地とされた熊本を邪馬台国に置き換えて倭人伝を読み直してみると、
その陸行行程記事がすらすら読めるだけでなく、
魏と交流の深かった弥生時代の熊本地方の鉄器文化の偉大さも納得できる。
なお懸案の狗奴国は、呉系の鍍金銅鏡を出土した熊本南部の球磨地方に比定するほうが合理的ではないか・・。


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