源為義at HISTORY
源為義 - 暇つぶし2ch247:日本@名無史さん
20/04/04 05:11:20 .net
>>246
創作ならなんでも可能でしょう
名前はありふれた幼名なので余り意味なし
ただし当時の為義にあの年頃の子らがいて斬られた事実があっても不思議じゃないとは思う

248:日本@名無史さん
20/04/04 08:26:40 .net
>>247
「可能性がある」は「四人が実在した」の証明にはならないね。
歴史学の場では語る価値もない。

249:日本@名無史さん
20/04/04 15:11:49 .net
これがこだわる馬鹿か

250:日本@名無史さん
20/04/04 15:47:23 .net
>>246
記録といっても公的なものではなくあくまで当時の人間の日記だから、書かれなかった理由なんて、あくまで戦に関わった人間だけ書かれたとか、単純に他の出来事を優先的に書いた結果忘れたとか、筆が進まなかったとか、理由ならいくらでもある
物語成立の過程で使用された資料が見つかっていないだけの可能性もあるし
存在についてはかなり懐疑的だけど、当時の一級資料に出てこない=全て全否定というのも強引だと思う
第一級資料の玉葉ですら書かれた事に伝聞や私的意見が多く実際とかけ離れた描写も多いという指摘もあるし、重大事件が書かれていなかったりするしね

251:日本@名無史さん
20/04/04 15:55:14 .net
まぁほとんど創作だろうなとは思う
本当なら志田義広はそもそも保元の乱に参加してたのかどうかも怪しいがなんで免れたのかも不明だしね

252:日本@名無史さん
20/04/04 16:36:23 .net
源氏の棟梁の割には不祥事等で官位が低いままだった。

253:日本@名無史さん
20/04/04 19:50:50 .net
>>252
為義は子供と部下のために不遇だったと思う

254:日本@名無史さん
20/04/07 23:08:06 .net
為義も義朝も無能だよな

255:日本@名無史さん
20/04/09 08:21:20 .net
>>251
これなんでだろうね

256:日本@名無史さん
20/04/17 21:49:36 .net
義朝は頼朝を遺したことはなかなかの功績

257:日本@名無史さん
20/04/18 11:43:12.32 .net
>>256
それ以上に東国武士をそれなりにまとめあげて結果的に頼朝挙兵時の即戦力にしたのが大きい
清盛の誤算は頼朝を生かした事よりも伊豆に流したことなんだよな

258:日本@名無史さん
20/04/18 14:57:38 .net
佐渡や淡路のような海に隔てられた島に追いやってしまえばさすがに何も出来なかったろう。
それが無理だったとしても、少なくとも平家のホームグラウンドである西国なら良かった。

配流先が伊豆になったのは、頼政の差し金もあったらしいな。
貴重な源氏の生き残りとして、いつか自分の手駒として使えるやもしれぬという布石みたいな。

実際は頼政の方が打倒平家の先兵として真っ先に死ぬ結果になったがw

259:日本@名無史さん
20/04/18 16:38:20 .net
源頼朝の同母弟希義は四国土佐に流された
頼朝挙兵後、頼朝と合流しようとするも途中で討ち取られ消滅
頼朝も西国へ流されていたなら討ち取られていただろう

260:日本@名無史さん
20/04/18 16:46:25 .net
>>258
伊豆は頼政の知行領地だしな
源氏の長老として責任持って預かってたんだろう

261:日本@名無史さん
20/04/18 21:27:03 .net
清盛優しい。いっつも喧嘩売られるけど

262:日本@名無史さん
20/04/19 03:19:11 .net
>>261
史実ではあちこちから喧嘩売られまくりで対応も優しいというより甘いよね

263:日本@名無史さん
20/04/19 12:58:51.16 .net
>>258
淡路とか京に近いし抜け出しやすいし
平安末期の流刑地に淡路とかないだろ

264:日本@名無史さん
20/04/19 13:08:11.40 .net
佐渡、隠岐、伊豆大島かな
再起不能は喜界島あたり

265:日本@名無史さん
20/04/19 13:12:21.21 .net
流される先が備前でも死ぬ時は死ぬ

266:日本@名無史さん
20/04/19 13:39:02 .net
義朝の関東下向も、為朝同様勘当だったのかな
為義父ちゃんは頼賢を可愛がってたんだよね

267:日本@名無史さん
20/04/19 20:58:54 .net
大事なのは義朝と義賢の母ちゃんの実家の家格よな。
どちらも藤原氏で、例えば清華家や殿上家くらい離れてるとかでもないし。
義朝の正室も藤姓熱田大宮司家だし、そんなに悪くはないよね。

268:日本@名無史さん
20/04/20 20:05:40.88 .net
義朝は「長子である自分こそ源氏の棟梁になるべき」とばかりに、
義賢を殺させてまで半ば強引に棟梁になったのに、
自分の子に関しては端から長子相続とは考えていない辺りが矛盾してる。
義平の事は武勇こそ買っていたけど自分の後継者とは見ていなかったからな。
けど自分が弟を殺したように、将来義平が頼朝を殺して棟梁の座を乗っ取る可能性もあった訳だし。

269:日本@名無史さん
20/04/20 22:15:58 .net
河内源氏は生き残った者が嫡流だからね

270:日本@名無史さん
20/04/21 00:11:14.33 .net
>>189
義国は京で不祥事を起こしたから上野に追放になったんでしょ。
為義は義家の子だと思うけどなあ。
朝敵の義親の子をわざわざ跡継ぎにしないでしょ。
消去法で妥当なのが為義しか残っていなかった。

271:日本@名無史さん
20/04/21 00:12:21.29 .net
義国は東国でもやらかしてるという……

272:日本@名無史さん
20/04/21 13:26:36 .net
源義家没後、嫡男義忠が源氏棟梁となったが、叔父の義光に暗殺された
しかし最初は叔父義綱が犯人だとされ源為朝(14)が義綱一家を追討し滅ぼしてしまった

真犯人義光は逃亡、うっかり為義wは源氏の代表となるが本人や手下が狼藉三昧だったので出世できず、子作りに精をだす

273:日本@名無史さん
20/04/21 14:39:11 .net
その事件、義光が義家の死後俄かに棟梁への野心を燃やしての事だと言われてるけど、
内紛を煽る事で源氏の力を削ごうとした白河院が元凶という説もあるようだ。
義光は院に唆されてまんまと踊らされただけらしい。

実際この内紛で義家の死後から瞬く間に義忠が殺され、次兄の義綱一族は壊滅、義光も義忠暗殺の黒幕と割れたために
京には居場所が無くなり常陸へ逃亡、残されたのはまだ年端も行かない為義のみという有様だし。

274:日本@名無史さん
20/04/21 18:24:03 .net
>>268
長子が跡を継ぐなんて概念はこの時代ないよ
基本は母親の実家の格で決まるし、それすら父親の一言で覆ったりする

義平が生き残ってたとしても義経同様に頼朝に戦でこき使われた挙げ句消されるか、
行家のように従わずに飛び出して追い詰められて消されるか、
義仲や志田義広のように独自路線を取りつつも最後は敵対した消されるか

どちらにせよ長生きは出来なそう

275:日本@名無史さん
20/04/21 19:30:28 .net
義平が生きてたら関東は割れそうだけどな

276:日本@名無史さん
20/04/22 00:49:02 .net
ただ義平は武勇はあってもカリスマのようなものは無い。
平治の乱に敗れて敗走する途上、父と別れて再起の兵を募るべく飛騨方面に向かった時も、
一時は千人もの軍勢が集まったにも関わらず、義朝死すの報が伝わるやあえなく四散している。

義平は所詮侍大将レベルの武人であり、多数の武士達を心服させるようなものは持っていなかった。
頼朝の後ろ盾を失った義経に誰もついて来なかったのと同じで、義平も結局は「父ありき」の存在に過ぎなかったと言えよう。

277:日本@名無史さん
20/04/22 07:03:56 .net
義仲も烏合の衆呼ばわりされるけど
なんだかんだ最後まで地元の軍隊は残ったりしてるし
それなりのカリスマはあった模様

278:日本@名無史さん
20/04/22 08:19:03 .net
>>272
為義本人のミスとか狼藉って何かあった?
義賢しかり全部部下の問題だと思ってたけど
まぁ統率出来ないのはアレだが

279:日本@名無史さん
20/04/22 15:05:28 .net
八幡太郎も武家の棟梁でありながら息子の制御はできなかった
子どもなんてのはそんなもんよ
みんな自分の子どもは可愛いのよ

280:日本@名無史さん
20/04/22 15:32:26 .net
この頃の家族関係って家父長権が強い割には親子それぞれがかなり独立的な印象があるなあ

281:日本@名無史さん
20/04/22 21:42:26 .net
源義忠暗殺後、義忠の息子たちは平氏養われた
義忠の妻が平正盛の娘である縁
義忠の孫は壇ノ浦で平氏と一緒に滅びた

282:日本@名無史さん
20/04/23 20:25:40 .net
>>279
為義が義賢と頼賢を可愛がってたのはわかるが
義朝と為朝に限ってはそうは思わん

283:日本@名無史さん
20/04/23 21:50:01 .net
可愛がっていたと言っても、「嫡子として見どころがある」と見做されていた間だけだろ。
義賢にしても、帯刀先生の位を剥奪された後は義朝同様東国に追いやられているし、その後は頼賢だもんな。

息子だけで10人以上もいるからなのか、為義にとって「嫡子」なんてものはいくらでも取り換えの利くものだったのだろう。
まぁ嫡子の選択を誤ればすなわち一族の命運にも関わる事ではあるから止む無い面もあるが。

284:日本@名無史さん
20/04/24 00:26:49 .net
保元の乱を制した実績で義朝が嫡流かな

285:日本@名無史さん
20/04/24 07:14:26 .net
>>284
結果論で言えばね

286:日本@名無史さん
20/04/24 21:29:38.38 .net
保元の乱で義朝は京に凱旋して関東は悪源太に任せるつもりだった?

287:日本@名無史さん
20/04/24 21:43:36 .net
>>286
そもそもなんで義朝以外の兄弟はみんな為義側についたんだろうね
東国武士のほとんどは天皇側だし、一人くらい義朝と一緒に戦ってもよさそうなもんだが

288:日本@名無史さん
20/04/25 01:53:04 .net
義平
朝長
頼朝
義門
希義
範頼
全成
円済
義経

頼朝同母弟の希義の影が薄いのは何故?

289:日本@名無史さん
20/04/25 04:30:12 .net
>>288
旗上げ直後に潰されたから

290:日本@名無史さん
20/04/26 00:39:16 .net
>>271
荒加賀入道だっけ?

291:日本@名無史さん
20/04/26 12:31:05 .net
希義よりも義門だろ。存在してたかどうか

292:日本@名無史さん
20/04/30 04:14:47 .net
義門は早世

293:日本@名無史さん
20/04/30 08:20:47 .net
巴御前
夜叉姫
鶴若、亀若、今若、天王
廊御方
弁慶

実在が怪しい奴ら

294:日本@名無史さん
20/05/10 21:49:05.68 .net
保元物語を鵜呑みにしてたので、ここ見つけて幼子四人の存在自体が創作の可能性があることを初めて知ったわ
比企にある供養塔にも四人の名前があるけど、これは「義経が逃亡中に立ち寄った記念」とか「信玄が座った石」レベルの胡散臭さってことかね

295:日本@名無史さん
20/05/11 01:07:42 .net
義平1141-1160 左衛門少尉
朝長1143-1160 従五位下・中宮大夫進
頼朝1147-1199 正二位・右近衛大将・征夷大将軍
 頼家1182-1204 正二位 左衛門督・征夷大将軍
  一幡
  公暁
  栄実
 貞暁1186-1231
 実朝1192-1219 正二位・右大臣・征夷大将軍
義門????-???? 宮内丞
希義1152-1180
範頼1150-1190 従五位下・三河守
 範圓
 源昭
全成1153-1203
 頼保
 頼高
 頼全
 時元
  義継
 道暁
 頼成
義円1155-1181
 範成
 豪曉
 義保
義経1159-1189 従五位下・伊予守

296:日本@名無史さん
20/05/11 15:23:17 .net
保元物語を信じてるヤシw

297:日本@名無史さん
20/05/11 18:06:57.95 .net
>>296
平家物語も信じてたわw

298:日本@名無史さん
20/05/11 22:15:08 .net
義朝直系で家系が最も長く続いたのは阿野家?

299:日本@名無史さん
20/05/12 15:51:16 .net
範頼のとこの吉見氏は?

300:日本@名無史さん
20/05/12 22:42:22.70 .net
>>296
どこまでが本当なのかね
実際為朝はどのくらい強かったのか

301:日本@名無史さん
20/05/17 01:42:46 .net
源氏最後のトップは細川総理か

302:日本@名無史さん
20/05/17 06:15:42 .net
>>276
> ただ義平は武勇はあってもカリスマのようなものは無い。

平治の乱当時、義平は20歳くらい
父義朝のパシリ役の20歳にカリスマも何もある訳あんめえや
30歳過ぎくらいになれば威厳も出てくるだろう
知能は高くなさそうだが優秀な補佐役がいれば凌げる
20歳の時点で叔父急襲や平重盛戦の経験があるのだから、その後にも武勇伝は増えただろう

303:日本@名無史さん
20/05/17 08:22:47 .net
>>302
清盛急襲なんて考えずそのまま逃亡して三浦と合流してたらなぁ…
頼朝の傘下に降るとは思えないし、義仲と義広とは敵対間違いないだろうし、独自勢力で都を目指すも頼朝に潰されそうだな
義仲と同じ運命辿りそう

304:日本@名無史さん
20/05/17 10:19:37 .net
義平の母は三浦氏らしいし、上総広常は平治の乱で義平配下らしかったし、義平の妻は新田氏だった
義平存命なら関東武士団は義平に従っただろう
頼朝は義平の配下として義経のような立場になっていたと思われる

305:日本@名無史さん
20/05/17 10:36:47 .net
>>304
頼朝が従うかね
自分も周りも母親の身分持ち出して対立しそうな気が

306:日本@名無史さん
20/05/17 22:57:26 .net
義平がいたら、義経範頼はどっちに付いたかね?
現実は頼朝が旗揚げした時、既に頼朝より上の兄二人(義平・朝長)はいなかったために
頼朝は嫡子だけでなく長兄という立場にもあった事で二人は自動的に頼朝の下へ来た訳だが、
義平がいるとなれば話は違って来るだろう。

自分達と同じ立場の庶兄の義平の方にやはり親近感を持つという可能性はあろう。
特に義経のような戦バカにとっては義平のような豪勇な兄の方がウマは合ったと思うし。

307:日本@名無史さん
20/05/17 23:11:14 .net
義平が生き延びていたら、源氏の棟梁は義平になっていただろう
戦の度に武勇伝を重ねカリスマ性が高まり、かつての平将門のように暴れまくると思われる
一方頼朝は武士としては最弱だから事務的な役割しかこなせない

308:日本@名無史さん
20/05/18 00:12:46 .net
個人の能力じゃなくて坂東武士がどちらにつくかだろう?

309:日本@名無史さん
20/05/18 06:52:14 .net
義平存命なら、三浦氏、上総氏、新田氏は確実に義平の配下になる
頼朝に味方するのはには乳母繋がりの比企氏や佐々木くらい
足利氏や小山氏傍系も頼朝につくかもだが、義平軍のほうが優勢

310:日本@名無史さん
20/05/18 08:49:32 .net
新田は味方にはなっても配下にはならんじゃろ
河内源氏で世代上で大勢力だぞ
第三極にすらなりうる

311:日本@名無史さん
20/05/18 13:29:54 .net
義平、朝長が生きてたら関東騒乱ですわ
頼朝はたまたま以仁王の令旨の時に関東にいて兄が亡く長兄だったのが幸いした、と思います

312:日本@名無史さん
20/05/18 21:35:46 .net
初陣が負け戦の平治の乱だが無傷で逃亡成功
落ち延び途中で逸れたお陰で長田家に辿りつかずに済む
都合よく兄二人は死亡
死罪ではなく流罪、それも源氏地盤の関東へ
石橋山で負けても敵に見逃され逃亡成功
義仲が折れてくれたおかげで衝突を避けられる
義仲が戦ったおかげで平家が都から落ちる
義仲が暴れたおかげで対照的に評価and期待が上がる
弟のおかげで平家を倒せる
弟のおか(ry 名目上幕府の基礎を作れる

運良すぎ

313:日本@名無史さん
20/05/18 23:12:47 .net
それと並行して私的には武士と主従関係を結び、公的には朝廷と折衝して権限をぶん獲っとる大政治家やがな頼朝は

314:日本@名無史さん
20/05/19 13:09:21 .net
朝廷工作交渉とか、頼朝本人よりも京から来た大江や中原とかが活動したんだろ
頼朝は運と人に恵まれたということだ

315:日本@名無史さん
20/05/19 14:31:39.36 .net
だがその頼朝も晩年には自分の娘を後鳥羽天皇に入内させようと画策なんかして武士の支持を失っている。
所詮は源氏もまた「朝廷への帰属意識」だけは捨て切れなかったという事。
それが承久の乱の遠因になったのは確か。

316:日本@名無史さん
20/05/19 15:40:47 .net
頼朝は馬から落ちて氏んだことになってるが、本当は北条らに暗殺されたんだろ

317:日本@名無史さん
20/05/19 17:50:36 .net
>>316
これは間違いないだろうね

318:日本@名無史さん
20/05/19 21:47:32 .net
そりゃあ頼朝は京生まれ京育ちだもの

319:日本@名無史さん
20/05/20 00:29:45.69 .net
京育ちといっても平治の乱で流刑になるまでの約13年間だけだが
何人も乳母つけられて美味いもの食い放題だったんだろう。普通の鎧は着られないし馬にもろくに乗れないデブだったらしい

320:日本@名無史さん
20/05/20 03:54:19 .net
義平は平治の乱で父の援軍として京に来た時が頼朝とは初対面だったのかな。
義平は母方の東国で生まれ育ったのだろうから京生まれ京育ちの頼朝とは面識など無かったろうし。
けど本当に↑そんな有り様だったとしたら、内心面白くはなかったと思う。
母が貴族だからというだけで嫡男として遇されているとなれば尚の事不満は大きかったはず。

『たとえ父が嫡男と決めたとしても、俺はこんなヤツは認めんぞ』なんて思ってたのかも。

「平治物語」では平重盛の軍勢と度々渡り合った事になっており、重盛に対しても
「嫡男同士不足はあるまい。さあ戦え」などと言ったらしいが、
その辺も自分こそが源氏を継ぐ者だという意識の表れだったかもしれん。

321:日本@名無史さん
20/05/20 07:53:40 .net
朝長が従五位下中宮大夫進、頼朝が従五位下右兵衛権佐に叙位されていた
にも関わらず義平は無官あるいは六位の左衛門少尉と伝わる

源氏の棟梁には成れなかったでしょう

322:日本@名無史さん
20/05/20 09:57:21 .net
頼朝は上西門院つきの公達だからね

323:日本@名無史さん
20/05/20 10:17:51 .net
平治の乱のどさくさに紛れた除目は信用できない
東の僻地からやってきた、お上りさんに即官位を与えるほど甘くはなかったようだが

324:日本@名無史さん
20/05/20 23:24:37 .net
平治の乱の首謀者の藤原信頼は義平が上洛した時大層上機嫌で
「大国でも小国でも、官位官職でも好きなだけ申請するがよい」と言ったらしいが。
けど義平はそこでは辞退している。
むしろ自分に兵を預けてくれ、摂津の阿倍野まで進んで平家を迎え撃ちましょう。
清盛の首を取った暁にはいくらでも官位官職を頂くと。

325:日本@名無史さん
20/05/21 00:35:51 .net
嘘半分だから信用はしていない

326:日本@名無史さん
20/05/21 11:36:18 .net
頼朝が上手く馬に乗れていたら義朝と一緒に知多半島で長田に討たれていただろう

327:日本@名無史さん
20/05/21 11:42:46 .net
義朝を暗殺した長田親子は、頼朝の平家討伐にしたがった。
懸命に働いたなら、みのおわりをやる と頼朝から言われたらしい
そして平家が滅んだあと、頼朝は長田親子に、身の終わりを与えられ処刑された

328:日本@名無史さん
20/05/21 14:44:41 .net
>>327
物凄く嘘臭いよねそれ

329:日本@名無史さん
20/05/21 18:57:20 .net
頼朝はただ二人に「恩賞をやる」と言って呼び出しただけだろ。
美濃や尾張をくれてやるとか具体的な話はしていない。
それでいそいそとやって来た長田父子を磔にして殺したらしい。

330:日本@名無史さん
20/05/21 20:42:17 .net
義朝とはぐれなかったら、頼朝は義朝ともども長田にころされていたのだから
どう間違っても長田を許す訳ない
それも分からずに頼朝に使われて平家と戦った長田は阿呆

331:日本@名無史さん
20/05/22 10:03:48 .net
為朝が伊豆大島で死去したのは1170年らしいが
あと10年生きていたら以仁王挙兵で活躍したかもしれない
残念

332:日本@名無史さん
20/05/22 14:15:17 .net
死去というかやらかして殺されてるからなあ
そしてやらかさなかったら為朝じゃない

333:日本@名無史さん
20/05/22 19:10:25 .net
>>331
暴れまわっても他の源氏の下についたり同盟組んだりする未来が見えないしなんだかんだ鎮圧されそう

334:日本@名無史さん
20/05/22 19:23:50 .net
正直為朝は父の為義以外の者に従う姿が想像出来ない。

335:日本@名無史さん
20/05/22 19:52:44 .net
平家と平氏を分けたがる人いるけど

俺の家系の先祖は良文流だけど鎌倉時代に平家一門を称してたぞ

ちゃんと鶴岡八幡宮の記録に平家一門と記録が残ってる

336:日本@名無史さん
20/05/22 20:45:55 .net
為朝と義平が組んで平治の乱で暴れるところが見たかった気はする

337:日本@名無史さん
20/05/22 23:25:00.68 .net
>>336
乱で勝っても負けてもその後殺し合う未来しか見えないw
そう考えると暴れ者のイメージの義仲が実は源氏でトップレベルに入るくらい一族を大事にしてる感はある
政治力はパーだけど

338:日本@名無史さん
20/05/23 01:39:10 .net
この頃の闘いって大将が
「やーやー我こそは音にきく源義朝が長男悪源太義平」みたいな
名乗りを先ずはあげてたんだっけ?

339:日本@名無史さん
20/05/23 02:57:20 .net
大将はあげない
あれ味方に「今から突っ込みます/一騎討ちしますので証人になってくださいね」って言ってるだけだから
手柄を立てたい武士がやる

340:日本@名無史さん
20/05/23 13:03:49 .net
原偽善

341:日本@名無史さん
20/05/23 13:44:20 .net
>>339
そんな時代で、自ら先陣を切って武士の戦いとは言えない奇襲をかけ、民間人を犠牲にしてまで完璧に勝利する義経

頼朝と対立した時に誰も味方しなかったのも頷ける

342:日本@名無史さん
20/05/23 17:38:10 .net
一の谷も屋島も壇ノ浦も、当時の戦の設定を逸脱した奇襲だったから平家は対応できずに敗れ去った
義経がいなかったら平家は滅亡しなかっただろう

343:日本@名無史さん
20/05/23 17:40:25 .net
戦の設定内での最強武士 珍精破恥漏源為朝

344:日本@名無史さん
20/05/23 19:15:32 .net
>>341
>>342
あの時代ってのは、戦はただ勝つだけじゃダメで「勝ち方」が問題だった。
そこへただ一人型破りな戦術を駆使する義経は確かに天才(いや鬼才と言うべきか)ではあったが、
その時代の常識を遥かに逸脱していた以上最後には排斥される事は免れようが無かった。

345:日本@名無史さん
20/05/23 22:47:50 .net
>>344
そうなんだよね
特に自費で戦に参加している武士たちからすると、意見は聞かず独断先行で手柄は奪うわ、武士にあるまじき奇襲and無謀地味た突撃をさせられるわ、民間人も巻き添えにする奇策はとるわで、ついて行くのが嫌になったんじゃないかと

たまたま完全勝利に終わっただけでバクチな面だらけなんだよな、義経の戦術は

346:日本@名無史さん
20/05/25 06:43:37 .net
保元の乱で敗れ、為朝が東国落ちを勧めたのに為義は京に留まり死罪
当時の東国は、義朝、義平の勢力が強かったはずだから、為朝や為義が活動する場所はなかっただろう
どうせなら為朝の本拠地九州に落ち延びるたら歴史は変わっていたかも

347:日本@名無史さん
20/05/25 08:38:02 .net
>>1
先発親スレ
河内源氏を語る 二代目
スレリンク(history板)

348:日本@名無史さん
20/05/25 12:08:38 .net
>>346
既に齢60にも近かった為義に九州まで行くのはとても無理だろ。
そもそも戦で敗れて逃亡していた時に為義は身体を壊していたのだから尚の事そんな余力は残っていまい。

やはり「義朝が自分の助命を嘆願してくれる」という一縷の望みに縋って降伏する以外の道は無かった。

349:日本@名無史さん
20/05/25 12:19:45 .net
>>345
博打は屋島の前に嵐の中を渡海したくらいしかないんだが
一ノ谷も博打の要素はあまりないぞ

350:日本@名無史さん
20/05/25 18:25:19 .net
壇ノ浦にいたっては多勢で少数の平家を包囲してるし
どこにバクチの要素があるのか知りたい

351:日本@名無史さん
20/05/25 19:39:19.38 .net
壇ノ浦は源氏にとっては最初で最後の本格的な海戦だった。
たとえ大軍を擁していても、陸の上では強くても「船同士の戦い」なら源氏は勝てるかどうかは分からないという意味で、
不安要素が無かった訳ではない。
戦いの当初は潮の流れも平氏軍有利に働いていたしな。
それまでの常道を無視して「非戦闘員」と見做されていた水夫を射殺させたのも、
とにかく不利な状況を打開する事以外考えていなかったからだろう。
けどその時は良くても後になれば「あんなやり方は無い」となるのもごく自然な事。

352:日本@名無史さん
20/05/25 19:58:58.60 .net
>>351
水夫射殺は戦後に小説で書かれたのがさも史実のように書かれてるだけ

353:日本@名無史さん
20/05/25 22:04:17 .net
潮の流れとか水主射殺とか、いったい何を参考文献にしてるんだかw
少なくとも合戦の模様を記す文献は『平家物語』しかないんだが、
どうも>>351は『平家物語』を読んだこともないようだね。
海戦って書いてる辺り司馬遼太郎みたいなクズがバイブルのようだな。

354:日本@名無史さん
20/05/25 23:16:43 .net
関門海峡を海と呼ぶなら瀬戸内海は大洋で太平洋に至っては銀河系の広さだなw


あのな、平家には「水軍」はあっても「海軍」はないの。
なにが海戦だよバカかw

355:日本@名無史さん
20/05/26 01:20:22 .net
舟戦といっても大砲がある訳でもなし。
ほとんどは小船に乗った侍が弓矢放ったり、相手の船に乗り移って白兵戦やるだけ
烽火や鉄球とかの兵器もなかっただろう

356:日本@名無史さん
20/05/26 01:22:45 .net
壇ノ浦で平原が負けたのは、平家の味方の水軍が裏切りまくりで源氏方になったからだろう
熊野水軍とか

357:日本@名無史さん
20/05/26 12:41:06.20 .net
あと潮目も

358:日本@名無史さん
20/05/26 20:06:48 .net
いや、屋島の敗戦でほぼ詰み
壇ノ浦は消化試合

359:日本@名無史さん
20/05/26 21:35:26 .net
まさに源氏軍にフルボッコされた平家みたいな351よ、決して波の下にダイブなんてしちゃいかんぞ。

360:日本@名無史さん
20/05/27 08:13:33.09 .net
義経より義仲のほうが戦が上手かったと思う
そして単体の戦力なら為朝はチートとして頼朝もなかなかだよね

361:日本@名無史さん
20/05/27 13:18:25 .net
だが個人での武勇なんてものは必ずしも「将の器」には結び付かないからな。
義経も為朝も義平も所詮「侍」であって「武将」ではなかった。

義仲だけは両立していたと言えるかもしれんが、頼朝のような有能なブレーンがいなかった。

362:日本@名無史さん
20/05/27 13:51:08 .net
義平は武将の器だったと思うぞ
まだ若くて実績は少ないが、父義朝が東国を離れたあと、義平が東国武将を統率していたようだし。目障りな叔父を攻め滅ぼしている

363:日本@名無史さん
20/05/27 13:55:29 .net
平治の乱で頼朝が鎧を着ようとしたデブすぎて入らなかったとか、馬にもろくに乗れなかったとか。
伊豆での挙兵の際も、北条一味が山木を攻めてる間、頼朝は北条邸で喚いてただけだし。石橋山では惨敗だし
頼朝は戦以外の工作で成り上がっただけ

364:日本@名無史さん
20/05/27 14:33:42 .net
京都兵wwwww

『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」

『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」

『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」

『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」

『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」

『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」

365:日本@名無史さん
20/05/27 22:59:12.13 .net
>>363
戦が強いだけの奴は単なる営業マン
頼朝は現代企業に例えると大企業の創業者だよ

366:日本@名無史さん
20/05/27 23:34:50 .net
>>363
頼朝が嫡流の証の源太産衣着を着たんだから違うんじゃないか?
石橋山の時も敗走時に追いかける敵に百発百中だったとか、3人張りの弓を引いたとかの逸話はあっても馬に乗れないなんて聞いた事ないぞ

最後は限りなく怪しい落馬事故だが

367:日本@名無史さん
20/05/28 06:44:26 .net
吾妻鏡とか頼朝と北条一味に都合のいいように捏造改竄されたやらせ本だからな
頼朝関係の記述は半分以上信用できんわ

368:日本@名無史さん
20/05/28 12:09:09 .net
>>366
ソイツは藤原信頼のエピソードと混乱してるようだね

369:日本@名無史さん
20/05/28 13:22:39 .net
源氏八領と呼ばれる鎧のうち、薄金(うすかね)の鎧は平治の乱で源為義が着たと言われている。
薄金の鎧は源氏棟梁のみが着用を許された鎧らしいから、為義は源氏棟梁だったのかもしれない

370:日本@名無史さん
20/05/28 13:30:06 .net
源氏八領の鎧は保元の乱と平治の乱の際、散逸されてしまったが、楯無の鎧のみ現存しているとされている
平治の乱の際、源義朝は楯無の鎧をつけ逃亡途中で脱ぎ捨てたらしいが。
その楯無の鎧が何故か源義光から甲斐源氏に伝承されている。どちらかは偽物だろう

371:日本@名無史さん
20/05/28 13:47:20 .net
>>367
頼朝というより北条だよね
13人の合議制も嘘らしいし

372:日本@名無史さん
20/05/28 15:47:19.53 .net
>>370
おそらくは義光伝承の方が偽物ではないのか。
義光は一度は棟梁になる野心を燃やして部下に甥の義忠を殺させているからな。
自分への拍付けのために鎧をデッチ上げるぐらいの事はしても不思議じゃない。

373:日本@名無史さん
20/05/28 22:40:35.96 .net
為義は義忠の養子として、源氏伝来の宝物を相続したのだな

374:日本@名無史さん
20/05/28 22:49:12 .net
八龍の鎧は源為朝や源義平が着用したらしい
平治の乱での敗北逃亡途中で義平は美濃あたりで八龍の鎧を脱ぎ捨てたらしい
しかし、それが何故か義経の手に渡ったとされている

375:日本@名無史さん
20/05/30 18:44:58.56 .net
名前が同じだけで別の鎧だろうな

376:日本@名無史さん
20/05/30 20:18:43 .net
為朝こそ悪○○の異名があってもいいのに

377:日本@名無史さん
20/05/30 22:46:03 .net
悪八郎
どこかで聞いたことがあるような……?

378:日本@名無史さん
20/05/31 02:16:11 .net
タコ八郎という池沼役者がいたな

379:日本@名無史さん
20/05/31 17:58:13 .net
別に殊更に「悪」などと付けなくても為朝の強さは誰もが知る所だからな。
「鎮西八郎」の方が響きもいいしカッコイイではないか。

380:日本@名無史さん
20/06/02 10:07:33 .net
悪源太源義平
悪左府藤原頼長
鬼左月鬼庭良直

381:日本@名無史さん
20/06/02 13:34:42 .net
悪七兵衛「おいっ!」

382:日本@名無史さん
20/06/02 13:45:31 .net
鬼畜米英

383:日本@名無史さん
20/06/02 18:57:56.23 .net
為朝にどうしても「悪」の称号をつけたければ「鎮西悪源八為朝」といったところか

384:日本@名無史さん
20/06/03 13:04:04.94 .net
仮に保元の乱で上皇方が勝っていたら、為義は改めておそらく最も戦功を上げたであろう為朝を
嫡子にしたなんて可能性はあるかな?

385:日本@名無史さん
20/06/03 18:13:51 .net
すでに嫡子となってる頼賢がそれを許すまい

386:日本@名無史さん
20/06/03 22:19:25.25 .net
まあ河内源氏は生き残ったのが嫡流だからw

387:日本@名無史さん
20/06/04 07:57:03 .net
真の嫡流となるには、累代伝承の宝物を相続してないとな
皇室の3種の神器みたいなもの

388:日本@名無史さん
20/06/04 12:57:35 .net
家義光流だけど、10年前に弟に騙されたわ、懲らしめたら
逃げちゃったけど、いま何処でなにしてるんだろうな(^^;
魔が差したけど、兄ちゃんを裏切らないと逃げ出すまで言ってたけど
先日判明したのは、母方は三浦氏の末裔みたい。

389:日本@名無史さん
20/06/04 14:04:27 .net
>>388
何言いたいのか分からんが、日本語で頼む

390:日本@名無史さん
20/06/04 17:19:06 .net
藤原氏の長者にも代々相伝される宝があったと思う

391:日本@名無史さん
20/06/04 22:21:26 .net
遊行僧世阿弥の子孫でも武力があれば源氏氏の長者になれるんだもんな

392:日本@名無史さん
20/06/04 22:34:32 .net
松平→得川は偽源氏だろ
吉良から家系図買って家系を偽造

得川が源氏とか本気で思ってるなら、かなりの池沼だな

393:日本@名無史さん
20/06/05 12:01:05.50 .net
先祖伝来の宝物とかなくても朝廷が氏の長者と認めたら氏の長者となる
偽源氏の徳川家康は朝廷から源氏の氏の長者とされて征夷大将軍になった

394:日本@名無史さん
20/06/06 05:28:50 .net
源頼朝の清和源氏が一番有名だが、宇田源氏、村上源氏、嵯峨源氏、花山源氏、正親町源氏他もいる

395:日本@名無史さん
20/06/06 08:25:19 .net
河内源氏は頼朝以前の極位を考えると……まあその程度の家柄

396:日本@名無史さん
20/06/06 12:22:54.99 .net
頼朝以降は臣籍降下で与えられる姓は源だけだったろ?

397:日本@名無史さん
20/06/06 13:19:16.15 .net
細かいことだが、源は姓ではなく氏だろ
姓(カバネ)は古代は大臣、大連、国造、県主等
壬申の乱後に天武天皇が定めた八色の姓では真人、朝臣、宿禰等
奈良時代以後は有力氏族の姓は、ほとんど朝臣になってしまったらしいが

398:日本@名無史さん
20/06/06 13:33:39 .net
源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。
原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。

源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、
自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。

源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていた。
武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初
室町時代には清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めており、徳川家康以降は、源氏長者は徳川家が独占した。

399:日本@名無史さん
20/06/06 14:03:09.11 .net
源義家も源頼朝も源氏長者ではなかった。もちろん源為義も。
清和源氏河内流という枝葉末節の中での自称嫡流
源頼朝と息子二人は征夷大将軍になって武家の棟梁となったが、全源氏のトップとなった訳ではなかった

400:日本@名無史さん
20/06/06 20:59:34.23 .net
氏の長者なんか西国でしか通用しない慣例だろ
東国は鎌倉殿・征夷大将軍が絶対だ

401:日本@名無史さん
20/06/06 22:49:43.75 .net
源実朝は最期一瞬だけ正二位右大臣になったから
暗殺されずに生き延びていたら武家源氏初の源氏長者になっていたかもしれん

402:日本@名無史さん
20/06/06 23:57:01 .net
建保6年(1218年)に源実朝が内大臣になった時に、先任の大納言だった久我通光を超えて、源氏で一番高い官職には就いていた。
実朝より上にいたのは、関白:近衛家実、太政大臣:三条公房、左大臣:九条良輔、右大臣:九条道家。
その後、九条良輔が亡くなって、道家が左大臣に昇格して、実朝も右大臣に昇格する。

403:日本@名無史さん
20/06/07 06:52:38.64 .net
徳川家康は生前は従一位右大臣、源氏長者。
死亡直前に太上大臣を贈られ死後正一位を贈られた
源為義は従五位下、左衛門大尉、検非違使
六条判官、陸奥四郎
最期は保元の乱で敗退し息子義朝に処刑される、59歳

404:日本@名無史さん
20/06/07 14:54:52 .net
為義が幼少期の義朝を早くに関東にやったのは
やはり為朝同様勘当同然の厄介払いだったのだろうか

405:日本@名無史さん
20/06/07 17:50:06 .net
そのあと義賢が嫡子となり関東に進出したから、そんなところなんだろう。
力をつけた義朝への牽制。しかし義平に返り討ちされた。

406:日本@名無史さん
20/06/07 19:59:44.01 .net
義賢が関東に下向した時は事実上廃嫡された後だろう?
既に嫡子の座は頼賢に移っていたはず。
むしろ廃嫡されたから義朝の牽制役にされたのではないか。
嫡子のままならそんな役割をさせるとは思えない。
まだ下に適当な弟はいるのだから。

407:日本@名無史さん
20/06/08 07:05:53 .net
手下や為義自身が荘園を襲撃したりの悪行が多かったから、従五位下から出世できなかった
息子為朝が為義の真似して九州で暴れたら、為義は検非違使解任されて無職となった

為義に嫡男扱いされて喜ぶ息子はいたのか?

408:日本@名無史さん
20/06/12 07:19:24.00 .net
>>407
義朝も見下してたろうね
長男である自分を追いやったにも関わらず、その後も全然駄目なオヤジ
一方自分は為朝同様にどんどん配下を増やして関東を固めた
殺したくなっても仕方がない

409:日本@名無史さん
20/06/12 12:17:49 .net
親殺しは後々まで響くから戦略的にはやりたくない
信西の厳命でやむなく処刑した

410:日本@名無史さん
20/06/12 16:13:47.86 .net
>>409
これだろうね
実際は父親もそれに従う弟達も目障りだったから殺す分にはいいけど、後の評判考えて助命嘆願したんだろう

411:日本@名無史さん
20/06/13 19:01:54 .net
清盛の伯父を処刑するのとはわけが違う

412:日本@名無史さん
20/06/14 04:31:53.01 .net
というよりそもそも処刑命令が出された証拠がないらしい
無理やり父殺しさせられた事にしたのかもね。後の頼朝あたりが

413:日本@名無史さん
20/06/18 22:25:17.55 .net
為義は無実の叔父義綱一家を攻め滅ぼした
そしてその報いとして為義は息子に処刑された

414:日本@名無史さん
20/06/23 22:14:28.27 .net
武家源氏は内部抗争が醜いから衰退した
そして偽源氏得川家康が源氏を乗っ取った

415:日本@名無史さん
20/06/30 22:13:37.60 .net
処刑命令は為義だけらしい
弟達は生かしておけば危ないから義朝が自発的に殺した
義仲の子供や義経の子供を殺した頼朝も然り
清盛は甘すぎる

416:日本@名無史さん
20/07/19 13:41:29 .net
為朝は天皇の血筋だったの?

417:日本@名無史さん
20/07/20 07:47:03.25 .net
清和天皇の血筋ですし

418:日本@名無史さん
20/08/01 22:50:49.66 .net
ほうかね

419:日本@名無史さん
20/08/03 07:10:48.79 .net
清和源氏は、実は醍醐天皇の子孫らしいぞ

420:日本@名無史さん
20/08/03 17:40:26 .net
源経基が陽成上皇の圧力で、どこの馬の骨か分からない無頼漢の満仲を無理やり養子に押し付けられた。

421:日本@名無史さん
20/08/05 07:48:44 .net
陽成源氏

422:日本@名無史さん
20/08/05 13:50:42.25 .net
六孫王経基と多田満仲はけっこう謎多くないか?

423:日本@名無史さん
20/08/05 17:40:38 .net
〈祖父〉貞純親王死去の翌年〈息子〉六孫王経基誕生
〈息子〉六孫王経基よりも〈孫〉多田満仲の方が先に生まれる
単に400年後成立の尊卑分脈の記述だから不正確なのか
それとも別の理由があるのか

424:D
20/08/24 18:00:23 .net
知らない

源満仲の子の頼信が関東の神社⛩にお参りして起請文を報じた文は見つかってる

本人は自分は応神天皇の末裔だの名乗ってる

425:D
20/08/24 18:03:09 .net
ありえるなら継体天皇のときに滅んだ本流があるだろ

武烈天皇のときに滅んで継体天皇が天皇家を継承しただ

その雄略~武烈天皇の方の系図かなにかを引くやつが源常基の養子に入り家系図を買った可能性が考えられる

生き残りいたとしたらな

426:日本@名無史さん
20/08/24 18:24:39.00 .net
闇は深いからね、、、

427:日本@名無史さん
20/08/24 18:42:44.56 .net
どっちにしろ天皇家の血筋は引いてるわけだから皇族の末裔っちゃ末裔やがな

428:日本@名無史さん
20/08/24 18:46:57.93 .net
あくまで仮説

429:日本@名無史さん
20/08/24 18:58:09.38 .net
現天皇家ってのは継体天皇の血を引く末裔らなわけ
継体天皇の子孫らには全て真人号が与えられた
朝臣号に切り替えたのが源氏、平氏
天皇家にまとわりつく影はこれやな
応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、仁賢、顕宗、武烈
滅んだ天皇家本流

430:日本@名無史さん
20/08/24 19:04:23 .net
こな仮説がほんもんなら清和源氏は天智天皇の血すら引いとらん

431:日本@名無史さん
20/08/24 19:10:39 .net
家系図ってのは神の血を引く連中らが保管、管理していたからね

そっちの記録が残っていたなら自分の祖先が誰だか知るのは可能なの

432:日本@名無史さん
20/08/24 19:25:32 .net
天武天皇あたりにしろ天智天皇の弟を名乗ったが天智天皇より年上みたいな話もあるからの

天武天皇は継体天皇の末裔らに真人号を与えてるんだから別に迫害はしとらん

てより自分自身が継体天皇らの子孫の女性らと積極的に婚姻政策やってるからな

433:日本@名無史さん
20/08/24 19:30:43 .net
持統天皇と藤原不比等らはどっちかっちゃ天武天皇の血を引く皇子らを最終的には滅ぼしとるわけなんだな

そんで全て天智天皇の血を引く者らだけを残した

この時代から藤原氏の専制が始まる

434:日本@名無史さん
20/08/24 19:37:05 .net
最終的には天皇家本流が滅んだのが西暦506年

継体天皇が即位したのが西暦507年

435:日本@名無史さん
20/09/02 09:18:42 .net
このスレでは義朝の幼い弟は居なかった説が濃厚なのか

436:日本@名無史さん
20/09/13 00:59:10.29 .net
このスレではなく史学での話

437:日本@名無史さん
20/09/13 02:41:19.42 .net
史学だと、義朝の弟、娘の夜叉姫、巴御前、弁慶は皆怪しい

438:日本@名無史さん
20/09/13 19:45:14.69 .net
>>435
元木氏は「第一資料に見られないが、いた可能性は十分ある。ただし保元物語内のように朝廷から処刑命令が出た形跡はないので、頼賢以下6名と幼童4人の処刑自体は義朝の独断であろう」と述べてる

439:日本@名無史さん
20/09/13 20:51:35.51 .net
それは「行家の下に弟たちがいた可能性はないこともない」であり、
四人でしかも名前が保元物語の通りである確率は天文学的に低いだろうな。

440:日本@名無史さん
20/09/13 23:19:34.90 .net
>>439
一応元木氏は名前の通りの四人にも言及していた
他資料に名前が出てこない=日記に登場しないことも、物語の通り朝廷から処刑命令が出た訳でもなく、ましてや戦乱とは無関係な幼児ならば義朝が独断で処刑した場合、日記にわざわざ書かれない理由は大いにあり得ると
ただ、個人的には為義の本妻扱いの女とその子供なら、処刑された場合、戦とは関係なくとも名前が出てきても良いような気がする

441:日本@名無史さん
20/09/14 18:35:46.80 .net
一次史料に名前がないのに名前がわかるわけないだろ
人数もどうやって知るんだよ

442:日本@名無史さん
20/09/14 18:39:23.85 .net
>>441
一応吾妻鏡でも名前は出てるし、家系図もある

443:日本@名無史さん
20/09/14 19:47:52.52 .net
吾妻鏡は一次史料じゃないし

444:日本@名無史さん
20/09/14 20:51:44.89 .net
>>440
『兵範記』には為義と五人の義朝弟の処刑のことが記されているよ。
>義朝が独断で処刑した場合、日記にわざわざ書かれない理由は大いにあり得る
なら四人の幼子についても記されているべきでは?

445:日本@名無史さん
20/09/14 21:19:58.84 .net
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446:日本@名無史さん
20/09/15 19:23:12.65 .net
>>444
>>440は、「戦に参加したわけでもなく、それも義朝の独断で行った処刑なら、わざわざ日記に書かれる事もなかったのでは?」って言いたいんじゃない?

447:日本@名無史さん
20/09/15 19:51:55.87 .net
じゃあ処刑されたという事実があったかどうやってわかるの?

448:日本@名無史さん
20/09/15 20:53:32.84 .net
>>446
同時代の記録に何一つ残っていないのに「四人は実在して死刑になった」の根拠は何なの?
それならニュースになってないけど今日は安倍総理が近所のスーパーで万引きした、
マスゴミは忖度して黙っているんだ、というフェイクニュースも成立するんだよ。

449:日本@名無史さん
20/09/15 21:50:17.13 .net
よく考えたら「義朝の独断で処刑」って意味わからないね

450:日本@名無史さん
20/09/15 22:34:16.32 .net
>>449
保元物語にあるように、朝廷から親兄弟を処刑するよう命令が出た記録はないらしい
元木氏曰く、物語では助命嘆願も叶わずやむなく処刑させられた事になってるけど、実際は河内源氏の内乱をまとめるべく戦後処理と称して義朝の独断で処刑したのではないかとのこと

451:日本@名無史さん
20/09/15 22:51:09.54 .net
それは合戦に参加した弟たちのことであって実在しない四人の幼子の話ではないだろ

452:日本@名無史さん
20/09/16 07:51:26.57 .net
>>451
>>450だけど、俺は誰も幼子四人について触れてないぞ

453:日本@名無史さん
20/09/16 09:12:48.84 .net
>>451
弟どころか為義の処刑命令や助命嘆願も当時の記録には見られないらしいから義朝がこれ幸いとやったのかもね

454:日本@名無史さん
20/09/16 19:56:17.22 .net
義朝にしてみれば、自分の棟梁の座を確固たるものにするためにも
自分に敵対した弟は生かしておく事は出来なかったのだろうな。
その後の平家との戦いの結果は全く逆ではあるが、義朝のやった事も頼朝と変わらん訳だ。
自分の地位を固めるために弟を殺す辺りは同じ。

455:日本@名無史さん
20/09/16 21:04:08.81 .net
>>454
それが河内源氏だよね
敵対したら身内でもその子供でもおかまいなし
敵の子供を助けた清盛とは真逆

456:日本@名無史さん
20/09/24 18:15:45.17 .net
頼朝が殺さなかったのは北条氏と結んでいた全成だけ。
と考えると、頼朝による弟粛清は北条氏が裏で糸を引いていた可能性は?

457:日本@名無史さん
20/09/24 18:23:41.31 .net
御葉門てんで親族衆の家柄制定してるけどね
足利なんかその筆頭だろ
義経、範頼、義高は殺しちまったけどな

458:日本@名無史さん
20/09/24 18:24:55.91 .net
てよりおまえらの考え偏るな~

459:日本@名無史さん
20/09/25 22:36:20.23 .net
>>440
一応四人の幼子については以下の形で吾妻鏡にも出てくる
内藤行遠の四人の子供の内、為義妻(四人の幼子の母親)、平太政遠(幼子一人の乳父)、義朝妾(夜叉御前の母親)
ただし吾妻鏡自体がねつ造多いし、夜叉御前に至っては平治物語では義朝死後に自殺しているのにこちらでは生きて成長した頼朝と再会してる
また保元物語では幼子処刑の後に政遠と為義妻が自殺しているが、こちらでは子供含め全て自殺
元木氏曰く、義朝に乳父含めて一家全員殺されたか、もしくは為義の死を知り今でいう一家心中ではないかとも
少なくとも物語のように幼子処刑命令が出た形跡はないから、あったとしても「将来の悪い芽を摘む」意味だったのかもね

460:日本@名無史さん
20/09/25 23:29:07.56 .net
源平合戦で戦死した頼朝の親族
・仲家(義仲兄)
・希義(頼朝実弟)
・義円(異母弟)
頼朝に倒された頼朝の親族
・義仲(従弟)
・義高(従甥)
・義広(叔父)
・行家(叔父)
・光家(従弟)
・義経子(甥)
・義経(異母弟)
・範頼(異母弟)
頼朝殺しすぎw

461:日本@名無史さん
20/09/26 00:50:01.81 .net
残念賞な頼朝の親族
・阿野全成(異母弟)
頼朝没後まで生きたのに。
頼朝の息子に倒された頼朝の親族、でもあるが。

462:日本@名無史さん
20/09/26 08:11:28.88 .net
>>460
志田義弘と行家はしゃあないべ

463:日本@名無史さん
20/09/26 19:48:24.51 .net
>>459
物語のような処刑ではなく、強制自殺かも

464:日本@名無史さん
20/09/26 21:16:27.50 .net
>>462
どっちも義仲に接近した時点で運命は決していた。
義広の場合義仲は同母兄の義賢の子という事もあったかもしれんが。

465:日本@名無史さん
20/09/27 05:19:25.25 .net
義仲って世間一般のイメージと違って男らしくていい奴だったんじゃないかって思う
ギリギリまで頼朝にも気を使ってるし

466:日本@名無史さん
20/09/27 07:16:54.30 .net
>>463
元木先生は、「処刑命令が出た記録はないので、義朝の独断で幼子4人も殺したのだろう」と仰っている。
物語とは違って、そこら辺は後継者としての地盤固めをする必要もあってかなりドライだったのかもね

467:日本@名無史さん
20/09/27 08:32:31.35 .net
為義流は平家に倒されるより同属の殺し合いのほうが多いってのが凄い

468:日本@名無史さん
20/09/27 18:43:50.17 .net
為義自身も殺してるからな。
叔父(大叔父?)の義綱を。

469:日本@名無史さん
20/09/27 22:57:05.90 .net
>>467
平家との戦いで死んだのって義円くらいじゃないか?
他はほぼ同族にやられるか、北条にやられるか

470:日本@名無史さん
20/09/27 22:57:15.54 .net
あ、希義もだね

471:日本@名無史さん
20/09/27 23:17:33.16 .net
源仲家も源平合戦(宇治)で戦死してる。

472:日本@名無史さん
20/09/28 06:47:09.05 .net
>>471
駒王丸と違って、仲家はするっと頼政の養子になれてるあたり、義朝親子も頼政には手出し出来なかったのかね

473:日本@名無史さん
20/09/28 21:08:03.02 .net
頼政は天皇の護衛だし、いくら源氏といっても流れが違うからな。

474:日本@名無史さん
20/09/29 17:47:02.56 .net
何代も遡らないと先祖が一致しないほど血筋が違うものな。
まして放っておいてもいつ死んでもおかしくないくらいの高齢ならライバルにはなり得ないし、
だから義朝も特に警戒はしていなかったのだろう。
もっとも皮肉にもその頼政のおかげで頼朝は復権出来たようなものだが。
義朝はそんな事は知る由も無く死んだが、もし頼政がいなかったら頼朝は「源氏の地盤」とも言える
東国に流される事は無く、従って後の復権も無かった。
令旨は届いて旗揚げぐらいはしたかもしれんが、希義のようにあえなく敗死するのが関の山か。

475:日本@名無史さん
20/09/30 07:57:43.03 .net
>>465
わかる
身内を大事にする数少ない河内源氏って感じ
皇位継承への口出しも、令旨を出して死んでいった以仁王の遺児を担いだあたり、本人なりに筋を通してる気がするしね

476:日本@名無史さん
20/09/30 10:06:57.69 .net
15年前義経の追われるルートに沿って旅行したら
一気に運気を落として貯金がゼロどころか借金人生に転落
勇気ある人はやって検証してみないか?

477:日本@名無史さん
20/09/30 21:31:51.56 .net
そうなのか
俺は派遣社員の時にそのルートを旅行して半年後に正式雇用されたよ

478:日本@名無史さん
20/10/01 02:18:46.63 .net
四国お遍路を逆周りすると恐ろしいことが起こるという噂も・・・

479:日本@名無史さん
20/10/01 23:59:52.46 .net
義平
朝長
頼朝
義門
希義
範頼
全成
義円
義経

480:日本@名無史さん
20/10/06 18:42:18.99 .net
義門は実在じゃない可能性が高いらしいな
あとから系図に書き加えられたとか

481:日本@名無史さん
20/11/05 00:47:44.42 .net
菅は在郷のスダレおやじみたいでめちゃかっちょえ

482:日本@名無史さん
20/11/06 23:44:09.38 .net
>>480
義経を九郎にするため?

483:日本@名無史さん
20/11/23 00:04:43.70 .net
ヅラスガ「アベコロナが順調に殖えとるな
よっしゃよっしゃあ!」

484:日本@名無史さん
20/11/26 16:45:35.85 fAYJ3Ii/m
上の部屋のゴキブリキチガイチーズ牛丼気持ち悪いな
共通廊下で平気で泣き喚かせるし
キチガイは共通廊下ですらうるさい

485:日本@名無史さん
20/11/29 02:41:51.90 .net
義平 1141~1160 左衛門少尉
朝長 1143~1160 従五位下中宮大夫進
頼朝 1147~1199 正二位右近衛大将
義門 不明~不明 正六位下宮内丞
希義 1152~1180 無官
範頼 1150~1193 従五位下三河守
全成 1153~1203
義円 1155~1181
義経 1159~1189 従五位下左衛門少尉

486:日本@名無史さん
20/12/07 23:49:26.67 .net
天中殺だ!

487:日本@名無史さん
20/12/09 11:37:44.36 .net
義仲好きいる?
個人的に源平最強の軍略家だと思うんだ

488:日本@名無史さん
20/12/10 21:55:09.81 .net
義仲は好きか嫌いかといわれても困るが興味がある人物ではある

489:日本@名無史さん
20/12/12 12:07:38.52 .net
>>488
人に好かれる性格だったんだと思う
頭が良かったかは疑問だが

490:日本@名無史さん
20/12/15 19:45:53.02 .net
前にも書いたけど、なんで梶原景時は「平三」なのに、息子の景季は「源太」なの?
平氏から源氏にかわってね?

491:日本@名無史さん
20/12/20 08:13:43.41 .net
>>487
義経より義仲のほうが軍略家としては上だろうね
義経はバクチの部分が強い
政治が理解出来ないのは2人とも一緒だけど

492:日本@名無史さん
20/12/20 08:59:06.94 .net
なんぼなんでも北陸宮はなあ……

493:日本@名無史さん
20/12/20 17:48:35.08 .net
政治が理解できないといっても相手が日本史上でもトップ級英雄の頼朝だからねぇ。
白鵬に勝てなかったら弱い横綱という認定するようなもんだわ。

494:日本@名無史さん
20/12/20 21:58:52.97 .net
>>492
以仁王の遺児を立てたい!っていうのはある意味筋が通ってるんだけどね
問題は武士の分際で皇位継承問題に口出しした事

495:日本@名無史さん
20/12/20 23:05:21.11 .net
そこらへんの感覚は京育ちじゃないとだめだったかな
育った先もそこらへんの感覚を教えられなかっただろうし

496:日本@名無史さん
20/12/27 18:28:39.30 .net
親王宣下も受けられなかった以仁王の、さらにその遺児が皇位を継ぐのは無理があるって事を
義仲に助言出来るようなブレーンがいればまた違っていただろうがな。
いくら源氏が蜂起する直接のきっかけになった令旨を出した張本人とはいえ、所詮はただの「王」であり、
厳然とした位の差ってものがあるんだから。

497:日本@名無史さん
21/02/17 00:16:17.05 .net
アベコロナで強盗ヘヴン


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