漢委奴国王 金印 part3at HISTORY
漢委奴国王 金印 part3 - 暇つぶし2ch550:日本@名無史さん
21/03/14 23:37:19.44 .net
にもかかわらず細石神社や八雲神社などと言ったトンスルファンタジーを捏造するキチガイが多いんだよなぁ

551:日本@名無史さん
21/03/15 01:22:19.16 .net
>>550
だから>>548がリセット作業に勤しんでるんだろ

552:日本@名無史さん
21/03/15 02:40:26.00 .net
リセットだったんだw

553:日本@名無史さん
21/03/15 11:05:15.07 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

554:日本@名無史さん
21/03/15 13:17:12.65 .net
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

555:日本@名無史さん
21/03/16 02:08:39.22 .net
>>554
(=゚ω゚)ノぃょぅ!純日とかいうナゾ身分を自称し出した中卒コンプレックスで藤尾信者の哀れで卑しい在日朝鮮ヒトモドキw

556:日本@名無史さん
21/03/16 09:04:30.49 .net
>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したと中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

557:日本@名無史さん
21/03/16 10:00:41.52 .net
>>555
それ書き込むと在日ヒトモドキが執拗に粘着し始めるから以後禁句な
推奨NGワード:華南ブタ、タラコ唇

558:日本@名無史さん
21/03/16 14:32:40.20 .net
そろそろリセット

559:日本@名無史さん
21/03/16 14:33:06.41 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

560:日本@名無史さん
21/03/16 17:29:21.57 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

561:日本@名無史さん
21/03/16 20:10:41.80 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず


.

562:日本@名無史さん
21/03/16 21:17:15.18 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

563:日本@名無史さん
21/03/16 21:48:44.41 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

564:日本@名無史さん
21/03/16 23:33:44.89 .net
>>541
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

565:日本@名無史さん
21/03/16 23:34:09.88 .net
>>542
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

566:日本@名無史さん
21/03/16 23:34:25.60 .net
>>543
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

567:日本@名無史さん
21/03/16 23:34:48.17 .net
>>544
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

568:日本@名無史さん
21/03/16 23:35:09.98 .net
>>545
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

569:日本@名無史さん
21/03/17 00:07:22.53 .net
>>564
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

570:日本@名無史さん
21/03/17 00:07:40.86 .net
>>565
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

571:日本@名無史さん
21/03/17 00:07:53.53 .net
>>566
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

572:日本@名無史さん
21/03/17 00:08:17.78 .net
>>567
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

573:日本@名無史さん
21/03/17 00:08:28.42 .net
>>568
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

574:日本@名無史さん
21/03/17 01:31:04.94 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

575:日本@名無史さん
21/03/17 03:42:28.51 .net
相変わらず伊都チョンはあちこち荒らしまくってんな・・・

576:日本@名無史さん
21/03/17 11:31:29.11 .net
他人の迷惑を省みる社会性に欠けてるのが糸島朝鮮人
別に今に始まったことじゃない
あぼ~んしとけば良いだけのこと

577:日本@名無史さん
21/03/17 14:30:37.85 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

578:日本@名無史さん
21/03/17 17:41:15.49 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

579:日本@名無史さん
21/03/18 02:00:22.34 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

580:日本@名無史さん
21/03/18 19:25:47.83 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

581:日本@名無史さん
21/03/18 20:12:08.64 .net
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

582:日本@名無史さん
21/03/19 01:10:24.51 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

583:日本@名無史さん
21/03/19 02:46:55.81 .net
>>582
リセットおつ

584:日本@名無史さん
21/03/19 10:56:51.28 .net
場所はほぼ確定したがドルメンの痕跡が見当たらなかった
現在の金印公園である

585:日本@名無史さん
21/03/19 21:56:48.36 .net
>>569
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

586:日本@名無史さん
21/03/19 21:57:11.41 .net
>>570
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

587:日本@名無史さん
21/03/19 21:57:27.07 .net
>>571
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

588:日本@名無史さん
21/03/19 21:57:47.72 .net
>>572
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

589:日本@名無史さん
21/03/19 21:58:36.76 .net
結局、今日もこの圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw
295 :日本@名無史さん :2021/01/16(土) 03:18:20.03
さて、キナイコシ君を論破したところで、これまでの話を纏めてみた
ソースが多すぎて文字だらけになってしまったなw
URLリンク(i.imgur.com)

590:日本@名無史さん
21/03/20 01:14:59.68 .net
>>585
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

591:日本@名無史さん
21/03/20 01:15:10.78 .net
>>586
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

592:日本@名無史さん
21/03/20 01:15:21.15 .net
>>587
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

593:日本@名無史さん
21/03/20 01:15:37.04 .net
>>588
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

594:日本@名無史さん
21/03/20 01:15:48.22 .net
>>589
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

595:日本@名無史さん
21/03/20 02:58:30.47 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

596:日本@名無史さん
21/03/20 10:22:54.55 .net
>>595
おつです

597:日本@名無史さん
21/03/20 17:35:22.28 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

598:日本@名無史さん
21/03/20 20:23:04.37 .net
.


(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

.

599:日本@名無史さん
21/03/20 20:27:22.93 .net
.


7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑

URLリンク(inoues.net)

.

600:日本@名無史さん
21/03/20 21:58:39.73 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

601:日本@名無史さん
21/03/21 00:33:40.64 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

602:日本@名無史さん
21/03/21 15:45:44.75 .net
>>601
リセットも良いんだが、何か議論の種を蒔いてくれよ

603:日本@名無史さん
21/03/21 16:56:41.80 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

604:日本@名無史さん
21/03/21 20:49:24.47 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

605:日本@名無史さん
21/03/21 21:56:35.29 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

606:日本@名無史さん
21/03/21 22:13:22.55 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

607:日本@名無史さん
21/03/21 22:28:15.55 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

608:日本@名無史さん
21/03/22 04:23:49.64 .net
>>606
透明あぼ~んされてると気づけよ
誰にも相手にしてもらえないんだから無駄な荒らしはやめようや

609:日本@名無史さん
21/03/22 04:46:51.04 .net
と構うやつも迷惑
せっかく非表示にしてるのに
連鎖にチェック入れるか

610:日本@名無史さん
21/03/22 10:32:00.11 .net
場所はほぼ確定したがドルメンの痕跡が見当たらなかった
現在の金印公園である

611:日本@名無史さん
21/03/22 18:37:33.41 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

612:日本@名無史さん
21/03/22 20:18:59.52 .net
.

日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》

クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

613:日本@名無史さん
21/03/22 22:23:40.25 .net
>>557>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

614:日本@名無史さん
21/03/22 23:38:33.90 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

615:日本@名無史さん
21/03/23 15:30:56.74 .net
>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

616:日本@名無史さん
21/03/23 19:09:00.75 .net
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

617:日本@名無史さん
21/03/23 21:29:02.31 .net
>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

618:日本@名無史さん
21/03/24 02:14:21.21 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

619:日本@名無史さん
21/03/24 12:31:24.13 .net
推奨NGワード

で、
中卒
広鼻
突顎
大タラコ唇
ニグロ
吹聴

620:日本@名無史さん
21/03/24 21:51:46.02 .net
>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

621:日本@名無史さん
21/03/24 22:09:55.49 .net
>>590
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

622:日本@名無史さん
21/03/24 22:10:30.20 .net
>>591
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

623:日本@名無史さん
21/03/24 22:10:56.29 .net
>>592
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

624:日本@名無史さん
21/03/24 22:11:22.95 .net
>>593
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

625:日本@名無史さん
21/03/24 22:12:03.18 .net
結局、今日も>>589の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

626:日本@名無史さん
21/03/25 10:32:42.41 .net
>>621
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の給{は那珂川市の血サ人神社だとしbトいる

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

627:日本@名無史さん
21/03/25 10:32:53.87 .net
>>622
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

628:日本@名無史さん
21/03/25 10:33:08.55 .net
>>623
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

629:日本@名無史さん
21/03/25 10:33:24.24 .net
>>624
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

630:日本@名無史さん
21/03/25 10:33:40.81 .net
>>625
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

631:日本@名無史さん
21/03/25 10:33:57.24 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

632:日本@名無史さん
21/03/25 23:11:49.45 .net
>>545
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)



で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?


で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?



早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

633:日本@名無史さん
21/03/26 01:02:57.63 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

634:日本@名無史さん
21/03/26 09:33:49.80 .net
細石神社ガー!八雲神社ガー!とかいう時代遅れの歴史ファンタジーを盲信するバカはいなくなったな

635:日本@名無史さん
21/03/27 23:52:39.07 .net
>>634
あれは平成の黒歴史の一つ

636:日本@名無史さん
21/03/28 21:39:56.23 .net
で、金印が見つかったとかいう場所はどこなんだよ?

637:日本@名無史さん
21/03/28 21:49:09.03 .net
>>626
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

638:日本@名無史さん
21/03/28 21:49:21.15 .net
>>627
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

639:日本@名無史さん
21/03/28 21:49:35.31 .net
>>628
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

640:日本@名無史さん
21/03/28 21:49:59.43 .net
>>629
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

641:日本@名無史さん
21/03/28 21:50:15.87 .net
結局、今日も>>589の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

642:日本@名無史さん
21/03/28 23:31:10.86 .net
>>637
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。
阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。
つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。
一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。
また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

643:日本@名無史さん
21/03/28 23:31:49.75 .net
>>638
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。

少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。

何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

644:日本@名無史さん
21/03/28 23:32:11.52 .net
>>639
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

645:日本@名無史さん
21/03/28 23:32:33.39 .net
>>640
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
URLリンク(i.imgur.com)

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

646:日本@名無史さん
21/03/28 23:32:47.75 .net
>>641
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

647:日本@名無史さん
21/03/28 23:33:05.86 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した

648:日本@名無史さん
21/03/29 05:16:14.20 .net
>>647
キチガイ2匹に纏わり憑かれてご愁傷様です

649:日本@名無史さん
21/03/30 01:48:43.13 .net
キチガイは糸チョン一匹
もう一匹は糸チョン憎しの嫌韓厨

650:日本@名無史さん
21/03/30 11:08:04.39 .net
>>648-649
そういう煽り入れるから糸島朝鮮人が湧き、アンチチョンが追撃しに来るという最悪ルーティンになる。

651:日本@名無史さん
21/03/30 11:29:13.62 .net
Let’sリセット♪
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した


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