漢委奴国王 金印 part3at HISTORY
漢委奴国王 金印 part3 - 暇つぶし2ch400:日本@名無史さん
21/01/30 14:51:31.56 .net
>>394
花でなく鼻なんだな可哀想
確かスサノオはイザナギの鼻から生まれてるが無関係だろうか

401:日本@名無史さん
21/01/30 15:46:39.25 .net
>>399
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402:日本@名無史さん
21/01/30 17:19:17.30 .net
>>250
ちょっと解説するね
基本的に日本は、もう半島は諦めたから参戦しないよ、唐と新羅で勝手に半島の奪い合いして、っていうスタンス
新羅は高句麗遺民を軍として利用したから、唐も百済や倭国を軍として駆り出したくて来てたんだよ
それに他国を占領したのなら堂々と国の記録に残るはずなのに、大陸側の書には全く出てこない人物なんだよね彼

403:つづき
21/01/30 17:23:06.20 .net
>>250
663年
中大兄皇子「半島における倭国の優位性を再興させたい」白村江に大軍を送るも唐の水軍に敵わず大敗し半島から撤退
唐新羅連合軍を恐れ軍事的防備を固めるため那津官家の太宰府を移築、水城に大野城にキイノ城に筑紫館にと物々しく整備
664年
百済の最高官職であった禰軍ら100余人が唐側の立場となり、劉仁願(百済鎮将)により派遣された郭務悰(唐代官吏/朝散大夫/役職は上柱国)ら30人を連れ対馬に到着し表函と献物を奉る
天子(唐の皇帝)からの使いではなく劉仁願(百済鎮将)の私使だったため朝廷に奏上せず入京を許されなかったが、中臣鎌足が智祥(僧侶)を通じて物を与えると一旦帰国
665年
派遣された劉徳高らに郭務悰と禰軍が同行し7月に対馬到着(使節団一行は合計254人)、9月に筑紫に入り表函を進上、この船で定恵(鎌足の息子)が唐より帰国したため入京を許された
668年
唐は新羅とともに高句麗を滅ぼすが、高句麗の地に安東都護府、百済の地に熊津都督府、さらに新羅の地にも鶏林州都督府として半島全体を支配
670年
高句麗遺民軍と高句麗復興運動を支援した新羅軍が鴨緑江を渡り唐軍を攻撃
671年
対高句麗戦における失策で流罪となった劉仁願の代わりで李守真が1月に倭国に派遣、7月には百済の使いとともに帰国、10月には百済に向かっていた薛仁貴の率いる唐の水軍が黄海で新羅の水軍に敗れる
671年11月
郭務悰ら600人と送使沙宅孫登ら1400人と白村江の戦いで捕虜になったと思われる倭人(道久や筑紫薩夜麻)を載せた船47隻の大船団が駐留
捕虜を返す代わりに軍事支援を要求する交換条件の持ちこみであったか、戦乱の続く旧百済領内の唐避難民を倭国へ護送したいためのものだったと想定される
672年
天智天皇崩御知らされた郭務悰は喪服で拝み唐皇帝の国書と信物を進上、5月に大量の甲冑弓矢などを与えられることで帰国した
この年、唐と新羅は本格的な戦闘状態に入る
参考文献『海外国記』『日本書紀』『伊吉博徳書(654年)』『百済禰軍墓誌』

404:日本@名無史さん
21/01/30 17:24:06.34 .net
なんか論理的な会話が出来ない煽り屋は何がしたいんだろうか

405:日本@名無史さん
21/01/30 17:30:57.26 .net
>>393
日本でも脅威(祟り)に感じた人物や神社に格をあげて鎮めようとする風習あったけど、大陸側も脅威に感じた国々に格を与えて鎮めようとしてたんだな
匈奴や鮮卑に金印ってのが意外だった

406:日本@名無史さん
21/01/30 17:40:26.31 .net
ここで偽物疑惑や陰謀論を説いてる人がいるけど、それって1957年に大陸の石寨山遺跡から蛇鈕金印「滇王之印」が発掘されるまでの古い認識だよね
大きさや彫り方など酷似している同時代のものが、遠く離れた大陸と列島それぞれで見つかっている時点で疑惑は解消されてる

407:日本@名無史さん
21/01/30 21:59:53.18 .net
.


(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

.

408:日本@名無史さん
21/01/30 22:00:52.54 .net
.


7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑

URLリンク(inoues.net)

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409:日本@名無史さん
21/01/31 01:18:19.73 .net
あぼんが入るけど気にしなくていいレベル?

410:日本@名無史さん
21/01/31 01:26:18.14 .net
>>406
そうだね
それ以上の何を語るスレなのかイマイチ謎というか
>>393-394みたいなのはおもしろい

411:日本@名無史さん
21/01/31 02:12:04.18 .net
>>407-408
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
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  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

412:日本@名無史さん
21/01/31 02:26:30.05 .net
反論スキル皆無でコピペしかできなくなる感じ本当に可哀想

413:日本@名無史さん
21/01/31 14:32:10.55 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

414:日本@名無史さん
21/01/31 14:45:46.30 .net
>>412
語彙も少ないからNGしやすくて助かるけどな

415:日本@名無史さん
21/02/01 14:40:18.83 .net
>>413
               ∩_
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  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
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  (___)      /

416:日本@名無史さん
21/02/01 21:13:17.15 .net
.

日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》

クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
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417:日本@名無史さん
21/02/02 01:35:24.16 .net
>>416
               ∩_
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418:日本@名無史さん
21/02/02 14:00:02.21 .net
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日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


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419:日本@名無史さん
21/02/03 03:36:08.42 .net
>>418
               ∩_
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420:日本@名無史さん
21/02/03 14:06:29.30 .net
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今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず


.

421:日本@名無史さん
21/02/03 21:10:18.44 .net
金印といえば建武中元二年銘の銅鏡はあるのかな?

422:日本@名無史さん
21/02/04 03:01:00.91 .net
>>420の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない卑しくも憐れな無能生物なのです。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 き 、
中 国 共 産 党 へ の 被 害 妄 想 に
嵌 まり 込 む と い う 醜 態 を
繰 り 返 す し か 能 の な い
卑 し く も 憐 れ な 無 能 生 物な の で す。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 く こ と で 精 神 勝 利 を 画 策 す る
惨 め な 無 能 生 物 が >>420 で す。

423:日本@名無史さん
21/02/04 12:19:12.97 .net
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


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424:日本@名無史さん
21/02/04 21:57:52.01 .net
>>423
               ∩_
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  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

425:日本@名無史さん
21/02/05 13:27:40.30 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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426:日本@名無史さん
21/02/05 15:16:15.85 .net
>>425
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427:日本@名無史さん
21/02/06 16:44:00.43 .net
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◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

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428:日本@名無史さん
21/02/06 23:36:16.47 .net
>>427
               ∩_
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429:日本@名無史さん
21/02/07 13:33:59.63 .net
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

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430:日本@名無史さん
21/02/07 13:34:11.64 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑

URLリンク(inoues.net)

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431:日本@名無史さん
21/02/07 16:20:17.40 .net
>>429-430
               ∩_
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  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

432:日本@名無史さん
21/02/08 14:28:11.07 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

433:日本@名無史さん
21/02/09 02:39:24.72 .net
>>432
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
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  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

434:日本@名無史さん
21/03/01 10:33:26.95 .net
こっちも無能ヒトモドキと在日ヒトモドキ、嫌韓厨に荒らされとるんやな・・・

435:日本@名無史さん
21/03/01 13:15:24.04 .net
志賀島に埋まってた理由

436:日本@名無史さん
21/03/02 01:37:57.46 .net
>>435
奴国王族阿曇の聖地だから

437:日本@名無史さん
21/03/03 07:50:42.99 .net
奴国に宮を置いていた倭王の聖地だから?

438:日本@名無史さん
21/03/03 07:51:06.96 .net
倭奴国王の聖地だからでいいのか。

439:日本@名無史さん
21/03/03 09:18:20.90 .net
天皇が倭奴国王なわけない。

440:日本@名無史さん
21/03/03 10:51:32.23 .net
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている
魏志倭人伝に奴国王が記されていないのは、倭国乱によって3世紀には女王国直轄地となってしまっていたから
ちょうどイタリアという国家の中にヴァティカンという上位国家が存在しているような状態
また、仲哀の目的地であったにもかかわらず、那懸から誰も出迎えに行かなかったのも女王国直管地として王を置かないスタイルだった証左

441:日本@名無史さん
21/03/03 11:17:12.05 .net
>阿曇読み
何この根拠なき妄想

442:日本@名無史さん
21/03/03 11:27:59.48 .net
>>441
詳しくは志賀海神社の阿曇氏と風浪宮氏子の津村氏に聞くべき

443:日本@名無史さん
21/03/03 11:40:42.44 .net
URLリンク(i.imgur.com)

九州博物館で売ってるレプリカ
本体はアンチモニー合金に24金メッキ
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URLリンク(i.imgur.com)

444:日本@名無史さん
21/03/03 11:40:56.57 .net
日常的に漢委奴国王印を使いたい方には便利なゴム印もご用意いたしました
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445:日本@名無史さん
21/03/03 11:41:12.54 .net
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446:日本@名無史さん
21/03/03 11:55:47.24 .net
金印はペンダントにもいいよね
少し痛いけど

447:日本@名無史さん
21/03/03 12:38:42.13 .net
.


(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

.

448:日本@名無史さん
21/03/03 12:43:35.24 .net
.


7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑

URLリンク(inoues.net)

.

449:日本@名無史さん
21/03/03 14:43:37.78 .net
>>442
気持ち悪い

450:日本@名無史さん
21/03/03 16:51:15.10 .net
>>439
>天皇が倭奴国王なわけない。
そう信じる根拠は?

451:日本@名無史さん
21/03/04 00:17:00.58 .net
>>447-448
               ∩_
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  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

452:日本@名無史さん
21/03/04 11:27:00.05 .net
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した
それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573~1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624~1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)
古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である
結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

453:日本@名無史さん
21/03/04 11:29:53.96 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた。とある
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有。
之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。
志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石があった。
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いで見たところ、金の印刻がされた物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺。明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では
天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出す。とある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出した。とある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に
天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す。
とある
現場を検分した梶原景熙、青柳種信や亀井昭陽は箱のように三枚の石が並べられていたとしている
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出てきた
ドルメンの頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があったため、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
となる

454:日本@名無史さん
21/03/04 14:00:05.03 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

455:日本@名無史さん
21/03/04 23:24:43.77 .net
>>454
               ∩_
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  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

456:日本@名無史さん
21/03/05 00:12:45.16 .net
>>436
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
URLリンク(i.imgur.com)

457:日本@名無史さん
21/03/05 00:13:13.57 .net
>>440
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

458:日本@名無史さん
21/03/05 00:14:19.31 .net
>>441
キナイコシくんのいつもの妄想病です
>>457を見ればわかるように、相手にするだけ無駄w

459:日本@名無史さん
21/03/05 02:38:57.55 .net
>>456
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
~仲哀天皇八年一月~
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ~
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!
~現代~
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
URLリンク(i.imgur.com)
現実はコチラ
URLリンク(i.imgur.com)

460:日本@名無史さん
21/03/05 02:39:15.79 .net
>>457
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている

461:日本@名無史さん
21/03/05 02:39:32.66 .net
>>458
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ~
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ∥ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

462:日本@名無史さん
21/03/05 02:39:50.28 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
URLリンク(i.imgur.com)

463:日本@名無史さん
21/03/05 02:40:17.96 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
URLリンク(i.imgur.com)

464:日本@名無史さん
21/03/05 02:40:29.09 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
~糸島朝鮮人特有の三種の珍技~
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
URLリンク(i.imgur.com)

465:日本@名無史さん
21/03/05 02:40:40.23 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
URLリンク(i.imgur.com)

466:日本@名無史さん
21/03/05 02:40:53.28 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
URLリンク(i.imgur.com)

467:日本@名無史さん
21/03/05 02:41:23.83 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼

468:日本@名無史さん
21/03/05 02:42:27.71 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>456-458のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>456-458のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ~!確定ニダ~!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
URLリンク(i.imgur.com)

469:日本@名無史さん
21/03/05 02:42:41.96 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
スレリンク(history板)
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
スレリンク(sf板)
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
URLリンク(i.imgur.com)
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

470:日本@名無史さん
21/03/05 02:43:23.87 .net
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

471:日本@名無史さん
21/03/05 04:38:53.59 .net
このスレでは古事記・日本書記の神代日本神話について語りましょう
※他説を貶したり、貶めることは博多湾説の裏付けにはならないのでやめましょう。
※しかし、前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ 、 キ ナ イ コ シ ネ タ は 禁 止 で す !
必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、磯武良、オクキョン、キナイコシ
伊都国王=海人族だと言い張る朝鮮人はコチラ↓に移動
伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
スレリンク(history板)
伊都国=邪馬台国だと言い張る朝鮮人はコチラ↓に移動
女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
スレリンク(history板)
or
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
スレリンク(history板)
倭国=阿波だと言い張る朝鮮人はコチラ↓に移動
「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
スレリンク(history板)
オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張るヒトモドキはコチラ↓に移動
日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
スレリンク(history板)

472:日本@名無史さん
21/03/05 14:04:45.74 .net
>>471
マルチうざい

473:日本@名無史さん
21/03/05 14:14:47.24 .net
※他説を貶したり、貶めることは博多湾説の裏付けにはならないのでやめましょう。
※しかし、前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ 、 キ ナ イ コ シ ネ タ は 禁 止 で す !
必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、磯武良、オクキョン、キナイコシ
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伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
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女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
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日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
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474:日本@名無史さん
21/03/05 14:31:55.05 .net
ほとんど透明あぼん

475:日本@名無史さん
21/03/06 03:36:58.80 .net
金印

476:日本@名無史さん
21/03/06 03:43:11.28 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた。とある
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有。
之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。
志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石があった。
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いで見たところ、金の印刻がされた物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺。明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では
天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出す。とある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出した。とある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に
天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す。
とある
現場を検分した梶原景熙、青柳種信や亀井昭陽は箱のように三枚の石が並べられていたとしている
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出てきた
ドルメンの頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があったため、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
となる

477:日本@名無史さん
21/03/06 09:07:02.52 .net
そのドルメンが見つからないのが現時点までの問題

478:日本@名無史さん
21/03/06 09:16:27.93 .net
百姓甚兵衛の命令で、用水路を改善しようとしていた小作人の秀治と喜平が、
ドルメンとその下の金印を発見した。

梶原景熙、青柳種信や亀井昭陽が現場を検分した。

検分が終わったので、秀治と喜平がドルメンを撤去して、用水路の水捌けを改善した。
見つからないのが当たり前。

479:日本@名無史さん
21/03/06 13:02:22.87 .net
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

480:日本@名無史さん
21/03/06 14:36:49.65 .net
>>479
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

481:日本@名無史さん
21/03/07 00:32:51.77 .net
>>478
なるほどな

482:日本@名無史さん
21/03/07 00:51:12.20 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られたとある。
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有。
之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。
志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石があった。
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いで見たところ、金の印刻がされた物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺。明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出す。とある。
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある。
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある。
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す。」と記されている。
現場を検分した梶原景熙、青柳種信や亀井昭陽は箱のように三枚の石が並べられていたとしている。

総合すると、
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出てきた。
ドルメンの頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があったため、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった。
那珂郡奉行所の要請で、梶原景熙、青柳種信や亀井昭陽らが実況検分を行った。
検分の後、秀治と喜平がドルメンの三枚の石を撤去し、用水路の水捌けを改善した。
となる。

483:日本@名無史さん
21/03/07 09:56:32.85 .net
天明四年はこんな時代
天明2年-8年(1782年-1788年): 天明の大飢饉
天明3年(1783年)7月6日 : 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
天明4年(1784年)2月23日 : 筑前国志賀島で金印発見。
天明4年(1784年)4月 : 田沼意知が江戸城内で佐野政言に殺害される。
天明4年(1784年): 蝦夷地の開拓が始まる。
天明6年(1786年)8月 : 田沼意次が失脚。

484:日本@名無史さん
21/03/07 11:41:53.09 .net
>>483
で?

485:日本@名無史さん
21/03/07 19:03:58.40 .net
天明4年(1784年)
梶原景熙(1778-1827) 07歳
青柳種信(1766-1836) 19歳
亀井昭陽(1773-1836) 12歳
数えで7歳の子が責任者のようなことを伝えるまがいものの記事だな

486:日本@名無史さん
21/03/07 19:22:23.00 .net
印鑑が副葬されていたとするところがまゆつば

487:日本@名無史さん
21/03/07 19:24:04.73 .net
はんこといえばいんやくじんじゃ

488:日本@名無史さん
21/03/07 19:36:44.21 .net
江戸時代の天明4(西暦1784)年に志賀島で発見された「漢委奴國王」金印は,発見直後に亀井南冥が,『後漢書』記事中の「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀…(略)…光武賜以印綬」の印とみなし,その判断は現在まで定説となっている。
亀井昭陽(1773-1836) 12歳が
石川日出志も杜撰なことを

489:日本@名無史さん
21/03/07 19:38:50.41 .net
あ こっちのか
亀井南冥(1743-1814)

490:日本@名無史さん
21/03/07 20:24:52.21 .net
>>485
まーた反日朝鮮人がホラ吹いてて草

491:日本@名無史さん
21/03/08 00:35:09.19 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した福岡藩士の青柳種信(18)や金石学者の梶原景熙(30)、甘棠館の祭酒であった亀門学の亀井南冥(41)は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、元服したての青柳種信や福岡藩主印や松平定信印を刻した梶原景熙、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀井南冥らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した
となる

492:日本@名無史さん
21/03/08 05:18:20.49 .net
>>491
最初からそう書いとけば良かったのに

493:日本@名無史さん
21/03/08 09:36:32.30 .net
仙厓って○△□で有名な僧だよね
ちなみに○△□は禅宗真言宗天台宗だといったり
儒教仏教神道の三位一体だという説もある
飢饉や噴火で大変な時に九州で金印が出る
はたしてその影響は

494:日本@名無史さん
21/03/08 09:38:12.40 .net
せんがいね

495:日本@名無史さん
21/03/08 11:33:47.26 .net
>>493
まーた反日朝鮮人がホラ吹いてて草

496:日本@名無史さん
21/03/08 12:10:34.46 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず


.

497:日本@名無史さん
21/03/08 13:54:12.01 .net
>>496の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない卑しくも憐れな無能生物なのです。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 き 、
中 国 共 産 党 へ の 被 害 妄 想 に
嵌 まり 込 む と い う 醜 態 を
繰 り 返 す し か 能 の な い
卑 し く も 憐 れ な 無 能 生 物な の で す。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 く こ と で 精 神 勝 利 を 画 策 す る
惨 め な 無 能 生 物 が >>496 で す。

498:日本@名無史さん
21/03/09 13:23:55.74 .net
    |_  l   ―┬─  l  ヽヽ  |_ .┌-┐  へ     |   ヽヽヽ
    |    l   ─┼─  ヽ/  _|∠ | / /__ \  ̄| ̄ヽ \
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  \ノ\   レ .(_ノ`ヽ ヽ__  |_|.|    |__|   ノ  ヽノ
                 
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      ギャハハハハッ   /⌒  ⌒\ \  
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            レレ'、ノ‐´   ̄〉 . |
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.     ヽ、 ヽ、 |     )  .__|      }  /         /  __|
 ノ |___i    ヽ/     \ノ\   __ノ  /  \__      (_l\ W W W

499:日本@名無史さん
21/03/09 13:38:06.02 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した福岡藩士の青柳種信(18)や金石学者の梶原景熙(30)、甘棠館の祭酒であった亀門学の亀井南冥(41)は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、元服したての青柳種信や福岡藩主印や松平定信印を刻した梶原景熙、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀井南冥らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した
となる

500:日本@名無史さん
21/03/09 13:39:42.96 .net
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


.

501:日本@名無史さん
21/03/09 13:40:46.47 .net
>>500
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

502:日本@名無史さん
21/03/10 01:50:23.02 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した福岡藩士の青柳種信(18)や金石学者の梶原景熙(30)、甘棠館の祭酒であった亀門学の亀井南冥(41)は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、元服したての青柳種信や福岡藩主印や松平定信印を刻した梶原景熙、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀井南冥らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した
となる

503:日本@名無史さん
21/03/10 14:37:20.85 .net
>>482は何で人名を間違ってたんだろうか?

504:日本@名無史さん
21/03/11 00:20:29.41 .net
どうでもいい

505:日本@名無史さん
21/03/11 09:30:48.75 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した福岡藩士の青柳種信(18)や金石学者の梶原景熙(30)、甘棠館の祭酒であった亀門学の亀井南冥(41)は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、元服したての青柳種信や福岡藩主印や松平定信印を刻した梶原景熙、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀井南冥らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した
となる

506:日本@名無史さん
21/03/11 12:42:01.36 .net
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
URLリンク(inoues.net)

.

507:日本@名無史さん
21/03/11 15:12:07.95 .net
>>506
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /

508:日本@名無史さん
21/03/11 19:38:22.73 .net
>>505
わかりやすいですね。
テンプレにしてほしい。
青柳種信、梶原景熙、亀井南冥は、説明が重複しているので、
初出時に説明をまとめて、
総合すると、の段落では、名前だけ、あるいは「(代表者)ら」、
で簡素化したほうが読みやすいでしょう。

509:日本@名無史さん
21/03/12 10:20:34.63 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した
となる

510:日本@名無史さん
21/03/12 12:09:16.48 .net
>>509
テンプレ化決定だね。

511:日本@名無史さん
21/03/12 22:58:27.48 .net
今さら贋作説を唱える阿呆はおらんやろ

512:日本@名無史さん
21/03/12 23:07:26.22 .net
>>511
そりゃあ
日本列島に金印保持者がいたら困る異民族の仕掛けたデマだからねw

513:日本@名無史さん
21/03/12 23:23:46.69 .net
出土譚のが贋作くさい

514:日本@名無史さん
21/03/12 23:25:25.70 .net
>>513
おやおや
狗邪韓国や任那は倭人固有の領土だよね?

515:日本@名無史さん
21/03/12 23:28:21.81 .net
青柳種信もね
実際に検分していたなら
標石墓のスケッチくらい残しているだろうに

516:日本@名無史さん
21/03/12 23:30:41.07 .net
狗邪韓国や任那は倭國の王族にとってはゆかりの地だろうに

517:日本@名無史さん
21/03/12 23:32:21.31 .net
>>515
実際に検分して標石墓のスケッチを残した前例は?

518:日本@名無史さん
21/03/12 23:42:57.38 .net
叶ノ崎がピンポイントできない

519:日本@名無史さん
21/03/12 23:45:18.33 .net
>>518
んなもんどーでもいい
敗北説の定番屁理屈

520:日本@名無史さん
21/03/12 23:48:06.81 .net
学術的には出土地不明とすべきところ

521:日本@名無史さん
21/03/12 23:50:42.93 .net
>>520
志賀島の中でねぇ

522:日本@名無史さん
21/03/12 23:53:06.52 .net
亀井南冥もね
もっとましな地図かきのこしていればよかったのに
てきとおな図だものさ

523:日本@名無史さん
21/03/12 23:54:03.67 .net
よかったね
江戸時代に発見されたから愚痴ることができて

524:日本@名無史さん
21/03/12 23:59:54.24 .net
江戸時代に発見されたからよかった
というのは同意
明治だったら海外流出していた可能性が大だね

525:日本@名無史さん
21/03/13 00:08:47.77 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した
となる

526:日本@名無史さん
21/03/13 00:10:01.73 .net
URLリンク(sanmao.cocolog-nifty.com)

527:日本@名無史さん
21/03/13 00:11:21.04 .net
金印は福岡市西区今宿にある八雲神社の御神宝として伝えられたもので、筑前黒田藩の大儒として著名な亀井南冥が同神社から借り受けたものとする資料
があるらしい

528:日本@名無史さん
21/03/13 00:13:29.57 .net
URLリンク(goo.gl)
ここらしい

529:日本@名無史さん
21/03/13 00:14:19.97 .net
細石神社ネタの次は八雲神社ネタか・・・
        ,r-ー'/               yー-、 ヽ,
       ,r '"  /        /     /~| l //ー-ヽl' |
      /    l    l  /ヽ     |`'^r'ー'r,-ー'""}  l
      /     | ,ハ ハ / l ィヘ  l    `ヾ,ー'/  ト,
     l      レソl ,l  レ,r-=|,/=y,ハヘ|      ,ト-ノ   ヽ
     |    / /' ヽl  ,'r-ーr_、、_, 'ヾ''   .,___  ///  ,ハl
    ,/   ノT リ     `  !-' `   /__`ヾミ,;/フ   / '
  /   イ {^<,l'            i ' '}ソ')/  ̄/ハ/
 /     ヽ,`' ,              ヽ ~ ・{ハリソ/
/     l  / /\`i          ' '"  /
l    ,l  / \/'l丶      ー=ニ,r    ,イ  相変わらず
ヽ/ハ/  ,   ノ  l_、,,`rー┐       /| ヽ  朝鮮ヒトモドキは 
    レ'ヘハ,,r'-''"    l  |      /' /   〉  無様で惨めで卑しいわね
      r'"       / /`'- 、,__/ヘ /|,ノハ/
      ヽ       //l    |ヘ/ ^'/ 〉 

530:日本@名無史さん
21/03/13 00:16:35.70 .net
懲りることのないトンスルファンタジー

531:日本@名無史さん
21/03/13 01:07:28.10 .net
現時点で発見に関して判明していること
黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有、之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石であった
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いだところ、金の印刻物であった。)
志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺 明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出すとある
また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙厓義梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出したとある
同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある
真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に「天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す」とある
現場を検分した青柳種信や梶原景熙、亀井南冥は箱のように三枚の石が並べられていたと記録
総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出現
ドルメン頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があり、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
那珂郡奉行所の要請で、福岡藩士として元服したての青柳種信(数え19)や福岡藩主印や松平定信印を刻した金石学者の梶原景熙(数え31)、同年に甘棠館の祭酒に就いた亀門学の亀井南冥(数え42)らが実況検分を行った
検分の後、甚兵衛は白銀五枚の褒美を貰い受け、秀治と喜平がドルメンを撤去して用水路の水捌けを改善した
となる

532:日本@名無史さん
21/03/13 10:29:02.32 .net
>>529
祝!シン・エヴァンゲリオン公開中!

533:日本@名無史さん
21/03/13 11:06:04.94 .net
平成八年十月三一日に能古博物館が発行した能古便りに、当時の理事長庄野寿人さんの記述でこうあります。
昭和35年ごろ、福岡市史編纂室勤務の小野有郁介から一枚の紙を見せられた。
その紙の中央には金印が押されており、紙の質から見て近代のものではなかった。
そして、小野さんが言うには「これは亀井南冥が天明四年に、金印を糸島の神社から持ち出したときに、此の紙面を預けて形代にしたものだ」
能古博物館とは、博多湾に浮かぶ能古島の中にある博物館で、亀井家の資料が保管、展示されている場所です。

534:日本@名無史さん
21/03/13 13:01:59.81 .net
     :    ∧_∧ ウソこくな       //,  ホラ吹くな        
        ( ´∀`)つ@>       〃〃〃 ∧_∧ .  
         γ  つ∧,,_ `:; ,        i|l i|l| !|i (・∀・ )   
          〉  〉 <il`Д´>)')    .从[二二二]=O=と  )   
        (__) と;; ::::::〈      そ・<`Д´l|>ヽW /  ヘ 
             ('゙゙)::;:*;:つ    ∴;;::’ UUと__) (_ノ (__)  
                       , ・;; ; 。::ヾ`          
ウソツキは朝鮮人 ∧∧         '’   ` ∧,从    。  
              (,,゚Д゚)    从 ,     ━<。Д;゚'il> ・:::∴
           {{ (つ[辷O=━' ::",,   ̄  とと    )そ”:;;; ;:。
           ~(,,  〈    ' W`"      と    ノ ‘ '`;  
            (/ ヽ)            ¨``ヽ)   

535:日本@名無史さん
21/03/13 13:41:47.07 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

536:日本@名無史さん
21/03/13 14:53:55.66 .net
>>460
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

537:日本@名無史さん
21/03/13 14:54:30.51 .net
>>463
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
URLリンク(wi12000.starfree.jp)
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

538:日本@名無史さん
21/03/13 14:55:07.18 .net
>>465
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

539:日本@名無史さん
21/03/13 14:55:32.71 .net
>>466
URLリンク(hero1945.livedoor.biz)
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw


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