19/03/02 12:17:00.53 .net
>>97
>これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な文字文化の痕跡を有すのは筑前中域であり、この地域を邪馬壹国に比定すべきとの結論に至らざるを得ない
素晴らしいレスなのに、この最後の部分だけが余計。
弥生時代には、硯は出雲の田和山遺跡、土器の文字は三重の大城遺跡などからも出ている。
あと壱岐の原の辻遺跡からは楽浪の文物とともに出雲土器と畿内土器が出ている。
これは楽浪の使者を迎え入れた弥生時代の日本のエスタブリッシュメントが出雲人や畿内人であった証拠だ。
いわゆる銅鐸族だな。
出雲の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡出土の銅鐸との兄弟銅鐸が畿内や中部に一斉に拡散する。
松帆銅鐸の放射性炭素測定でBC4~BC2世紀の事だ。
おそらく始皇帝が大中華を統一したBC3世紀の事であろう。
想像を絶する数の軍隊を持つ秦にたいして首都移転、そして九州瀬戸内の防御を固めた。
こんな時代以降に九州に女王の住む都などありはしない。
君は真子様・佳子様を対馬に住んでもらおうとは思わないだろ?
それと同じ。