【新田楠木】後南朝スレ★4【西陣南帝】at HISTORY
【新田楠木】後南朝スレ★4【西陣南帝】 - 暇つぶし2ch103:日本@名無史さん
19/03/24 22:25:03.74 .net
そもそも西陣南帝に皇位を継ぐ資格があったのか疑問に思う
小倉宮の子孫と自称しているが、小倉宮の血筋は教尊が隠岐島で死亡して断絶している(墓もある)
個人的見解だが、山名宗全が怪しい
なぜなら彼の領国である因幡国には、理由は解らないが南朝系の玉川宮がいた(恐らく幕府により流されたのだろうが)
その玉川宮の一族を利用したんじゃないかと思う
資金援助して山名家の家来を付けて、紀伊に送り込んで土豪を抱き込んで挙兵させたのではないか?
あたかも南朝の一族がまだ健在であるかのように見せかける為に
だからこそ、山名宗全死後の西陣南帝は寄る辺なくさまようしかなかったのではないかと思える
自身を支持してくれる勢力が本当にあって自力で紀伊で反乱起こせる様な勢力を持っていたなら、もっとマシな末路があったはず
山名宗全の考えた策で仕込まれただけの存在だったからこそ、あの末路だったのではないか

104:日本@名無史さん
19/03/25 02:22:50.54 .net
教尊の墓(供養塔だろう)は由緒不明
古い地誌も漁ったけど言及がない

105:日本@名無史さん
19/03/25 04:58:20.91 .net
だからといって脱出して生き延びているのか?
それもソース無しの南朝信者の妄想にすぎない
普通に考えれば幕府が監視していたはずで、そこで死んでるよ

106:日本@名無史さん
19/03/25 18:34:23.86 .net
>>103
近畿地方のほぼ全域、宗全と仲が悪い勢力ばかりだろ
自分の勢力圏内ならまだしも、他勢力の領土でそんな無茶するほどの力は、宗全といえども無いぞ

107:日本@名無史さん
19/03/26 05:39:21.20 .net
>>106
へ?
紀伊の畠山とかいるじゃん

108:日本@名無史さん
19/03/26 12:49:30.16 .net
畠山の本流は東軍所属の政長
対抗の義就は宗全方だが後南朝擁立に強く反対してる

109:日本@名無史さん
19/03/26 14:10:49.82 .net
>>106
近畿地方の西軍は近江の六角・山内、丹後の一色、大和の越智・古市など

110:日本@名無史さん
19/03/26 14:16:41.35 .net
紀伊は畠山が守護とはいえ、土豪たちの自立性が強い国ではある
だから江戸時代初期まで難治の国の一つだったわけで
紀伊は明徳の乱前は山名氏が統治していたから、縁がないわけではないが、
紀伊の土豪と山名氏に接点があったのかどうかは研究課題だね
あるいは畠山義就は大和や河内で暴れるだけで、
不自然なほど紀伊には出兵していないが、これをどうみるか

111:日本@名無史さん
19/03/26 15:09:28.90 .net
紀伊は政長の勢力が強かったのでは
係争地じゃないから出兵してないんだと思う

112:日本@名無史さん
19/03/26 15:10:49.85 .net
>>109
越智古市以外は南朝とつながりがなさそうなメンバーかな?

113:日本@名無史さん
19/03/26 19:35:16.89 .net
西陣南帝が紀伊で挙兵し、一定の勢力があったので、山名宗全はその勢力を西軍側の
兵力として利用したかったのでは?
そこで南帝を推戴する形で西軍の本陣にお迎えした。
だが、南帝勢力の支配地域と畠山義就の領地がかぶること、南帝を推戴することが
北朝の現朝廷との紛争を招くことから、義就をはじめ西軍の諸将が反対した。
南帝の存在が西軍の団結を乱す原因になってきたので、宗全はやむなく南帝を
陣営から退去させたのではと思う。

114:日本@名無史さん
19/03/27 02:48:17.94 .net
> 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。

115:日本@名無史さん
19/03/27 04:14:27.93 .net
>>113
本当に一定の勢力があったなら、応仁の乱後も紀伊に帰れば良いだけなんだけどね
それが出来なかったって事は、応仁の乱後は勢力は無かったんだろ
元々一過性のブームのような勢力だったのか それとも応仁の乱期間中に東軍に壊滅されたのかは解らんが

116:日本@名無史さん
19/03/27 12:21:36.28 .net
応仁の乱の講和条件で、北朝が西陣南帝に親王宣下して滞京を許すという条項は入れられなかったのか

117:日本@名無史さん
19/03/31 10:53:43.82 .net
西陣南帝が紀伊で挙兵したのが文明2(1470)年2月、西軍に擁立されて上洛した
のが文明3(1471)年8月だから、1年以上の間、西陣南帝は紀州・大和のあたり
を転戦して勢力を築いていたことになる
それなりの地盤があったと思えるが、帝位を追われたときには、それはすでに失われて
いたのだろうか?

118:日本@名無史さん
19/03/31 11:40:55.48 .net
移動に時間がかかったのが大きい
普通の旅じゃないので戦いながら移動、しかも安全を確保する必要もあり、出発から到着まで半年を超える長旅だったらしい
出発前の準備も大変だっただろうし、到着後もすぐ擁立できるわけではないし、勢力の弱小さの影響もあってスケジュール的にはカツカツで余裕などなかっただろうよ

119:日本@名無史さん
19/04/01 19:48:44.93 .net
天正期にいた資料がなかった?

120:日本@名無史さん
19/04/02 19:48:15.95 .net
いないよ 自称後裔は色々いたけど
津島の連中とか美作後南朝とか捏造だらけだけど

121:日本@名無史さん
19/04/02 22:22:02.84 .net
>>119
昭和期には確かに南朝の皇胤がいたね
熊沢天皇というんだけど

122:日本@名無史さん
19/04/02 23:16:00.81 .net
自称・南朝皇胤であってホンモノの皇胤ではないと考えられてるけどな

123:日本@名無史さん
19/04/02 23:30:46.16 .net
>>119
木寺宮は大覚寺統だが南朝ではない

124:日本@名無史さん
19/04/06 11:26:59.79 .net
後南朝も木寺宮のように、地方に土着してその地方の貴人として存続できなかったのかな?
そうなっていれば、リアル美作後南朝のような存在になっていた

125:日本@名無史さん
19/04/06 18:09:23.74 .net
きっと吉野・川上村の古参の住民が団結して、後南朝の子孫を隠していると思う
赤松残党を信じて引き入れてしまった長録の変の反省のためにも、村の秘密中の秘密なのだろう

126:日本@名無史さん
19/04/06 19:15:40.24 .net
ある程度、生活に余力があるなら匿うことも可能だったかもしれんけどなあ
あいにくと、室町時代後半から戦国時代頃って、日本列島各地で頻繁に飢饉が発生する時代。
匿う余裕のある村なんて無かったんじゃないかなあ
がんばって匿ってた村が仮に実在したとしても、飢饉と戦乱で滅亡したんじゃないかと

127:日本@名無史さん
19/04/06 21:56:20.29 .net
木寺宮は土着したか不明だよ そういう伝承があるだけで史学的証明はされていない
地元民が貴種流離譚として捏造してるだけだろ

128:日本@名無史さん
19/04/07 02:35:58.55 .net
>>124
早い段階で野心を捨ててれば、土着もできたと思うけど、
最後まで京都復帰を目指して武装闘争をつづけた結果、
支援者がいなくなっちゃってるし。
ただ、西陣南帝も自分の戦力連れてきた記録が無いし、
その前後の記録もないから、実質的に土着して
政治的活動せずにほそぼそ暮らしてたのかも。
それが下手に引っ張り出せれたせいで、その暮らしさえ
できなくなった。

129:日本@名無史さん
19/04/07 13:05:23.62 .net
>>127
赤坂恒明氏が最近示した新史料で、木寺宮が三河・遠江方面に下向したことは確からしいぞ

130:日本@名無史さん
19/04/07 14:44:49.01 .net
木寺宮は京都で死んでるからね
領地を見るために一度現地に行っただけだろ 土着とは違う

131:日本@名無史さん
19/04/07 15:40:18.50 .net
つまり、下向したときに現地の女に産ませた子供がいて、そいつが木寺宮を自称したんだろ

132:日本@名無史さん
19/04/07 16:52:54.41 .net
筑後矢部にいた征西大将軍・良成親王の子孫は残ってないのかな?

133:日本@名無史さん
19/04/07 20:01:10.46 .net
付き添った五条家は続いてるらしいけどねぇ

134:日本@名無史さん
19/04/08 23:36:46.75 .net
五条家が良成をぬっころしたんだろうな 降伏して生き残る為に
まさに闇の歴史だな

135:日本@名無史さん
19/04/08 23:37:54.37 .net
>>131
それはお前の妄想にすぎない
南朝信者はこれだからいけない

136:日本@名無史さん
19/04/09 00:03:31.49 .net
んなこと言ったって、京都で死んだはずの人間の子孫が地方に残ってるなんて、
他に解釈のしようがないだろ。
田舎の権力者が娘を都から来た人間の夜伽にだして、子孫を都人の子孫と主張
するケースなんてありふれてる。
生まれた子どもが宮の子どもかどうかは自己申告しかないわけだが。

137:日本@名無史さん
19/04/09 00:37:06.91 .net
本当の子孫じゃなく詐称という可能性をなぜ除外してるのか

138:日本@名無史さん
19/04/09 10:35:12.07 .net
そう詐称だよ

139:日本@名無史さん
19/04/09 10:37:01.78 .net
そもそも子孫だと言う伝承だけで、きちんとした資料無しで言われてもな。
検証しようが無いよ。

140:日本@名無史さん
19/04/09 12:54:59.25 .net
奈良・平安時代なら早くに臣籍降下して武士になったり、貴族社会から消滅するのが
大半なのに、室町時代は宮家が割と長く続くんだね
代表的なのは伏見宮だが、木寺宮もそうだ
後南朝が細々とでも続いたのは、そのような風潮と関連があるのかも知れない

141:日本@名無史さん
19/04/09 18:30:02.20 .net
均分相続から長子単独相続、ウジからイエへの流れに伴う現象だろうな。

142:日本@名無史さん
19/04/09 18:37:20.93 .net
平安~鎌倉武士の分流ぶりとかすごいもんな。常陸平氏なんか三男の三男の四男、みたいな家が国中に割拠してる

143:日本@名無史さん
19/04/09 18:54:31.37 .net
朝令暮改当たり前、謀反人への追討命令ですら撤回当たり前の室町幕府に、
後南朝の血筋を断絶させるほど強力な政策を展開できたとは思えん

144:日本@名無史さん
19/04/09 19:44:24.59 .net
それには同意できん
幕府は長年南朝系を殺しつづけているからな
しつこく殺しているぞ

145:日本@名無史さん
19/04/09 22:30:36.25 .net
うむ足利義教なんかは特に執拗に断絶させようとしてる

146:日本@名無史さん
19/04/10 11:31:06.06 .net
楠木家も名前がろくに伝わってない奴まで探し出されて殺されてるからな
楠兄弟としか文献に名前が残ってないんだぜ 酷いだろ

147:日本@名無史さん
19/04/11 17:09:19.28 .net
>>144-145
でも義教の死後にも自天王や西陣南帝やらいるではないか
後南朝の血統を絶やしたくても徹底できなかった室町幕府の限界だよ

148:日本@名無史さん
19/04/11 22:35:55.19 .net
自天王は赤松遺臣を使って殺してるだろ 何を言ってるんだ
お家再興の条件にしてな
西陣南帝も遠地配流にして、南朝断絶の流れ通りの処理してる

149:日本@名無史さん
19/04/12 00:52:27.12 .net
室町幕府政権下で後南朝の血筋は絶えてるだろ
少なくとも史実でそれ以降の血脈は見当たらない
これは室町幕府の勝利だろうよ

150:日本@名無史さん
19/04/12 08:50:33.80 .net
>>148
西陣南帝は別に幕命で流罪になってないだろ
地方各国を転々としていただけ

151:日本@名無史さん
19/04/12 08:56:11.71 .net
戦国時代に入ると将軍の権威が地に落ちる一方で、天皇の権威が相対的に上がったという
指摘がある
つまり、いかに下剋上の戦国時代でも、戦国大名は自分を正当化するための権威が何かほしい
でも将軍の権威は地に落ちている ということで天皇に脚光が集まった
すると世間に認知されている京都の北朝の天皇に、大名たちは権威を求めるようになり、
わざわざ後南朝を擁して、独自の官位をもらうという動きがなくなってしまったのだろう
またほとんどの大名は「天下」に興味はなく、自分の近隣諸国の勢力拡大のみに専念しており、
わざわざ後南朝を擁することが面倒に思われたのだろう
足利将軍が没落して用済みとなっていく中で、後南朝も用済みとなってしまうとは皮肉だ

152:日本@名無史さん
19/04/12 09:15:24.90 .net
足利尊氏に南朝に対抗するために擁立された北朝だが、
足利が没落すると北朝も一緒に没落するかと思いきや、
逆に南朝が没落して北朝が続くとは歴史は面白い

153:犯罪首謀者・高添沼田の連絡先:東京都葛飾区青砥6-26-6
19/04/12 11:39:53.19 .net
【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
①高添・沼田(東京都葛飾区青砥6-26-6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
 老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
②井口・千明(東京都葛飾区青砥6-23-16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
 低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
③宇野壽倫(東京都葛飾区青砥6-23-21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
 異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
④色川高志(東京都葛飾区青砥6-23-21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
 youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124-8555
東京都葛飾区立石5-13-1
℡03-3695-1111
⑤清水(東京都葛飾区青砥6-23-19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
 清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
⑥高橋(東京都葛飾区青砥6-23-23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
⑦長木義明(東京都葛飾区青砥6-23-20)

154:日本@名無史さん
19/04/12 12:20:10.10 .net
>>151
将軍が在京しない時期があるのを利用して朝廷が復権の道を模索したからだろ
朝廷の主体的な動きの結果として権威を戻したんだよ

155:日本@名無史さん
19/04/12 12:22:30.80 .net
>>152
北朝側が尊氏を利用すべく接近したという側面も大きいのだが

156:日本@名無史さん
19/04/12 20:09:08.83 .net
>>150
へー 自己都合で放浪してたのか?
そんな事はないと思うぞ
常にソース無しの思い込みで書くのが南朝信者

157:日本@名無史さん
19/04/12 20:16:51.24 .net
>>150
西陣南帝或いはその弟の最後の記録と思われるのが
『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
 山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、
  越後より越前国北荘へ移った。
であり、誰かの都合で越後に送られて、更にそこからも追い出されて越前にとも読める

158:日本@名無史さん
19/04/13 09:42:21.12 .net
>>140
西陣南帝は伏見宮とか木寺宮のような立ち位置を目指せばよかったね
紀伊・伊勢あたりで支持者を中心に勢力を固めて、行宮から動かなければいい
今すぐ帝位に昇るのではなく、「皇統のスペア」として朝廷や幕府、有力な守護大名に
認めさせる運動に徹するべきだった
山名宗全から打診があれば、東軍追討の「令旨」を発給することで、自分は親王クラスの
家格を持った宮家の当主であることを認めさせていくべきだった

159:日本@名無史さん
19/04/13 16:11:55.30 .net
>>156
幕命や勅命の流罪なら、流刑地の外に出られないから、流浪できんだろ

160:日本@名無史さん
19/04/13 16:28:16.99 .net
>>158
西陣南帝は新しい元号として明応を定めているが、
西軍諸大名は誰も明応なんて使ってない

161:日本@名無史さん
19/04/13 21:59:00.78 .net
明応は易経の「其徳剛健而文明、応乎天」に基づいているんだよな
甘露寺親長が制定した

162:日本@名無史さん
19/04/14 02:28:28.64 .net
制定w

163:日本@名無史さん
19/04/14 12:19:37.20 .net
>>159
幕府命令で流刑地の変更というのは十分ありうるだろう

164:日本@名無史さん
19/04/14 12:22:18.36 .net
>>158
紀伊も伊勢も、もはや支持者なんていない
それを忘れるなよ
支持者がいたなら頼って移動してるだろ

165:日本@名無史さん
19/04/14 13:05:11.70 .net
>>161
それは、
>明応(めいおう、旧字体: 明??應)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府の将軍は足利義材(義稙)、足利義澄。
のほうであって、
>なお、それ以前に応仁の乱で西軍に擁立された後南朝の西陣南帝が、当初は「明応」の年号を独自に制定していたことがある。
のほうではないだろ
後南朝側については誰がどう決めたかを示す記録も何も残ってない
甘露寺親長は、禁闕の変の際に、後花園天皇を守護すべく自ら大刀を振るったとの逸話が記録されるほどの人物で西陣南帝に従うことはない。

166:日本@名無史さん
19/04/14 13:42:08.60 .net
後南朝には甘露寺親長のような公卿はほとんどいないから、在野の学者が勧進者となって
最終的には南帝が籤を引くなどして「明応」を選定したものだろう
あるいは、従来、すでに何度か「明応」が元号の候補として出たことがあり、それを
知った後南朝の朝臣が使用したのかも知れない

167:日本@名無史さん
19/04/14 19:50:18.89 .net
応仁の乱の時には前関白九条政元だっけ、泉南のほうの日根野に下向してるね
蜂起した連中が事前に年号案とかをこっそり質問してた可能性はないか?
泉州南部と紀伊は地理的にも文化的にも近いしさ

168:日本@名無史さん
19/04/27 17:00:24.38 .net
「明応」の出典は、後醍醐天皇が親政を始めた元亨年間の「元亨」と同じなんだよな
「周易」の文をもう少し長く引用すると、「其徳剛健而文明、応乎天時而行、是以元亨」
となる
これは、西陣南帝が後醍醐天皇の偉業を継いで、再び主上による親政を復活し、南朝の
皇基を築こうという意思を反映したものではないか?

169:日本@名無史さん
19/04/27 19:26:56.76 .net
仏教由来が多い私年号のなかで、儒教的な「天靖」はやはり異質

170:日本@名無史さん
19/05/06 16:26:16.44 .net
令和になってダンマリかよ

171:日本@名無史さん
19/05/07 19:40:32.75 .net
平成院が自天王を祀るために毎年吉野・川上村で催されている朝拝式に出席してくれれば嬉しい

172:日本@名無史さん
19/05/07 20:13:01.89 .net
南朝は朝敵だと代々に渡って申し送ってきた北朝系の今上・先帝らが後南朝の正統性を受忍する可能性は極めて低いだろ
よほど多くの国民が求めたら断れないだろうけどな

173:日本@名無史さん
19/05/07 21:51:31.65 .net
>>171
南朝ならともかく、後南朝は正統とは言えないから無理スジ

174:日本@名無史さん
19/05/07 23:30:06.48 .net
>>168
その推理は当たっていると思う
西陣南帝を推戴する勢力は後醍醐天皇を意識し、南朝の復興を意図していた

175:日本@名無史さん
19/05/08 11:41:37.68 .net
>>173 自天王が持っていた勾玉を赤松残党が力づくで奪い、
京都の北朝の天皇に献上し、今に至る
今回の新天皇即位でも、勾玉が箱に入って天皇の御前に供されていた
あの勾玉を自天王が持っていたと思えば感慨深い

176:日本@名無史さん
19/05/08 19:24:22.67 .net
嘉吉3年(1443年)9月の禁闕の変のときに京都で盗み出した神璽だろ
南北朝時代から連綿と受け継いでいたわけではない

177:日本@名無史さん
19/05/08 21:43:19.62 .net
盗むとは不遜なり
正統なる吉野の帝・金蔵主の御意を奉じて忠臣楠木党らが勾玉(神璽)を奪還したと言いなおすべし

178:日本@名無史さん
19/05/08 21:47:06.95 .net
南朝後裔と自称する賊が禁中より強奪した神璽を不法に所持していたのを赤松遺臣らが取り返したと言えばいいのかな

179:日本@名無史さん
19/05/09 22:32:33.19 .net
幕府も守護大名も後南朝には後ろめたい所があり、
正統なる「天皇」(自天王)を弑逆することへの「畏怖」があった
だから赤松遺臣に自天王の弑逆と勾玉奪還をやらせたのだろう
要は誰もやりたくない汚い泥仕事を、お家再興を餌に託したといえる

180:日本@名無史さん
19/05/10 21:45:50.82 .net
旧宮家の復活とか言ってる輩がいるが、
それならまず真正の皇統たる後南朝の皇胤を探しだし、
これまで平民の暮らしをさせてしまったことを政府が謝罪して
親王宣下するのが先である

181:日本@名無史さん
19/05/10 22:36:06.57 .net
言い出しっぺのおめえが探してこいや

182:日本@名無史さん
19/05/10 23:23:38.96 .net
南朝は断絶が長すぎて、鍛冶屋長九郎を探し出したようにはいかないわな

183:日本@名無史さん
19/05/11 11:26:32.83 .net
北条時行は、たとえ自分が倒れても、
北条(得宗家)の血が後世に残るようにと、
育った信濃諏訪の地で大勢の巫女に手を付け、
また各地を転戦する中でも地元の豪族の娘などを寝取ったりして、
多くの胤子を残したとする伝承がある
西陣南帝もこの伝承通りにしてくれていれば・・・

184:日本@名無史さん
19/05/11 16:07:45.52 .net
西陣南帝はもともと紀伊・伊勢方面の土豪に支持されて挙兵したのだから、この支持基盤を
離れないようにすべきだった
上洛して西軍の陣中に入ったため、山名宗全たちの後ろ盾をなくしたとき、支えてくれる
人がいなくなったのではないか?

185:日本@名無史さん
19/05/12 11:05:16.29 .net
西陣南帝の子孫はどこかで隠れているんだと思う
露顕したら北朝を崇拝しているネトウヨに何をされるかわかったもんじゃない

186:日本@名無史さん
19/05/12 12:06:26.79 .net
子孫が生き残って続いていると、どうして確信できるんだよ
江戸時代の相続の実態調査で、全相続の3割もが息子以外への相続だったって事実もある
婿養子を入れたり、親戚の子を養子にしたり、それも無理なら血縁のない養子を入れたりする
一般庶民なら無理せず絶家する
商家や大名などでは婿養子も許されるし実例も多いが、天皇家や宮家では婿養子は許されない
そうすると、国家予算をつぎ込んででも頑張ってないと断絶してる可能性が高い、と考えるのが妥当

187:日本@名無史さん
19/05/12 13:46:32.98 .net
大菊
坊門清忠
聡 野野
   大数
   地人

188:日本@名無史さん
19/05/12 14:00:17.50 .net
上流階級は妻を何人も持てるし、子供も多く養えるので、子孫継続させやすいが、
庶民は子供を養えず、無嗣絶家になることが多いんだよな
だから、後南朝といえども、帝位についたり宮家を運営していた時代は皇孫が複数
存在したが、庶民になってからは家が絶えた可能性が高い

189:日本@名無史さん
19/05/12 15:03:40.89 .net
その上流階級でも息子がいなくて養子を取る事例が少なくないんだ。ましてや……

だから、断絶してない可能性は低いよな

190:日本@名無史さん
19/05/15 08:37:43.70 .net
伊勢の北畠、肥後の菊池、信濃の諏訪、香坂、遠江の井伊、常陸の小田・・・
旧南朝勢力が後南朝の宮を見捨てる忘恩の悪臣どもなのが涙を誘うね
>>189
熊沢天皇が子孫だろ

191:日本@名無史さん
19/05/15 12:14:03.14 .net
そもそも、近隣の敵対者と戦う必要から便宜的に南朝についただけの連中の方が多い
それ以外の動機で南朝についた忠臣なんて元から少数
そんな北畠でさえ自家の存続のためには後南朝を見捨てることが多かったぐらいだしな、
他は推して知るべし

192:日本@名無史さん
19/05/18 04:28:08.51 .net
>>190
熊澤天皇って養子なんだが

193:日本@名無史さん
19/05/18 09:26:36.84 .net
後南朝に味方したのは、自分にとってもメリットがあったからなのは当然だな
「後南朝皇族を擁立する」というのが応仁の乱を最後に途絶えてしまった
その途端、後南朝皇族の消息も次第に断片的なものになり、途絶えてしまった
応仁の乱に際して、身の処し方がもう少し巧みであれば、世襲宮家としての
地位を残せたかも知れない

194:日本@名無史さん
19/05/21 08:22:00.58 .net
南朝って150年ほど続いたのか
凄いな 執念やな
鎌倉幕府の執権130年よりも長い?
子孫がどんどん変なネーミングになっていくな
小倉宮聖承 ←怪しい
通蔵主・金蔵主 ←もはや何者?
西陣南帝←ミナミの帝王?
南天皇
自天王←天王?
忠義王

195:日本@名無史さん
19/05/21 12:05:49.98 .net
つっても、後醍醐廃帝が吉野に落ち延びてから十年ほどの期間しか善戦できてなくて、
それ以後は幕府が武力討伐に消極的になったから存続できただけだし、
後南朝になってからは継続的な勢力などなくて、京都近郊の寺にいる南朝皇胤を連れ出して武装蜂起するだけで、軍事勢力のまったくいない期間の方が長い

196:194
19/05/22 06:19:16.95 .net
まあけど、130年ほど南朝が忘れ去られなくて「旗印」として利用価値があったというのも凄いんじゃない?
朝廷ブランド?・天皇ブランド?って凄いな 今も存続しているくらいだし

197:日本@名無史さん
19/05/22 06:21:27.48 .net
150年だった 訂正
南朝の子孫が生き残っていれば織田信長とか徳川家康とかも担いだかもしれんな

198:日本@名無史さん
19/05/22 19:27:09.98 .net
>>197
その辺の時期だと、探せば見つかる可能性はあっただろ
信長も家康も探そうとしなかったんだよ。担ぐつもりがなかったから探さなかったんだろ

199:日本@名無史さん
19/05/23 04:34:56.34 .net
>>197
正統な北朝天皇を担いでるのに、南朝天皇を担ぐ必要がどこにある?
徳川は新田流といっても北朝方の子孫、織田家は土岐氏の守護代で北朝方。

200:日本@名無史さん
19/05/23 14:16:45.39 .net
土岐じゃなくて斯波だけど、他はまあ、そんなもんだな
北朝の流れである朝廷への献金の多さで名前が残ってるし

201:日本@名無史さん
19/05/24 21:31:24.03 .net
けど、よく考えたら3世くらいまでの王は皇族としての価値があるだろうけど、
4世・5世・・・とかになってくると価値はないかもしれんな
本来、4世・5世などになってくると皇籍を離脱しなければならない立場だし
こういう理由で後南朝が終わったのかもしれん

202:日本@名無史さん
19/05/25 07:58:35.75 .net
>>201
奈良、平安ごろは皇族の数が多くて、5世王あたりは貴族としての地位も低かった
もっと早い段階で臣籍降下して、地方へ下る人も見られた
室町期は皇族が減ったし、宮家も長く続くようになった
だから、細々とではあるが、後南朝が長く続き、一定の高貴さも続いたのではないか?

203:日本@名無史さん
19/05/25 13:49:08.51 .net
>>202
ttps: //ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11489858466.html?frm=theme
ttps: //ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11510135602.html?frm=theme
ここの受け売りになるけど
>皇族は、四世王まで、つまり天皇の玄孫まで。それ以外は、臣籍
>ただし、五世王以降の宮が親王宣下を受けた場合、四世王に繰り上がり終身皇族となる。
つう事になると玄孫はまだしもそれを越えると特殊な例でもない限り基本自動的に皇族から外れるって見なしてるな
この人みたいに西陣南帝を小倉宮末裔と認めてると考えるにしても後亀山の玄孫に当たる形になり
その西陣南帝が消滅した時点で後南朝自体が完全消滅したと見なしてる
つまり西陣南帝に子供がいたとしてもそれはもう皇族とは言えず単なる後南朝の裔となると言う事だと

204:日本@名無史さん
19/05/26 04:02:35.37 .net
いや、それは後亀山までしか即位してない前提だろ?
南朝的にはその後も即位してることになってるはずだから、皇族で問題なかろう。
北朝から見れば、後亀山から5世離れてるのに臣籍降下も受けてないので、姓すらない只の非人だが。

205:日本@名無史さん
19/05/26 15:46:08.33 .net
北朝視点でみれば御村上以降誰も即位してないし、南朝視点なら西陣南帝も即位してる。
五世王云々ってあまり意味のある議論とも思えん。

206:日本@名無史さん
19/05/26 22:10:08.26 .net
北朝視点で見れば後南朝じゃなく南朝が、後村上以下全員が反乱者、謀反人、賊なんだよな、後亀山含めて。

207:日本@名無史さん
19/05/27 09:47:45.69 .net
>>190
井伊って南朝なんだ。

208:日本@名無史さん
19/05/27 12:52:26.71 .net
山名宗全以下、西軍の首脳は西陣南帝に対して臣下の礼を取っていたわけだから、
西陣南帝は室町幕府(北朝側)の有力者たちから皇位を認められていたことになる。
理屈の上からは、西陣南帝から起算して五世王までは皇族となる。
だが、残念ながら史実はそうならなかった。

209:日本@名無史さん
19/05/27 19:33:31.32 .net
URLリンク(ilha-formosa.org)
当たっているかどうかはともかくも面白い考察だとは思う

210:日本@名無史さん
19/05/28 05:35:06.30 .net
>>208
西陣南帝に対して臣下の礼なんて取ってない
都合の良い神輿になるかもと担いだだけ
が、神輿としても使えない事が判明したのでポイ捨てした

211:日本@名無史さん
19/05/28 06:45:23.98 .net
>>208
武家政権から認められているかどうかで皇位を考えるのはおかしい。
武家政権が天皇から正当性を認められる側であって、逆はありえない。
その思想は天皇が武家に従属していることになる。

212:日本@名無史さん
19/05/28 09:19:37.55 .net
>>211
室町幕府初代将軍足利尊氏の正平一統の「伝統」だろう
尊氏は自分で北朝の天皇を擁立しておいて、
弟の直義を討つための大義名分欲しさに平気で北朝の天皇を廃位にして、
南朝の天皇を正統な天皇と急に承認して和平を結んだ
そして尊氏が直義を討った直後、南朝が足利との和平を破って京都を占拠し、
北朝の「先帝」らと北朝の三種の神器を奪回して、吉野へ連れて行ってしまった
京都を奪還した足利は、三種の神器もない中で北朝の天皇を新たに再擁立した
このように武家の都合で天皇の皇統を擁立したり廃したりするのが、室町時代の伝統
西陣南帝の擁立もその延長線上に考えればわかる

213:日本@名無史さん
19/05/28 12:29:02.98 .net
いや、南朝北朝が争う中に第三勢力の幕府が関わっただけだ
幕府が南朝支持したときだって、擁立ではない。
北朝と(結果的には一時的だが)手を切ったとは言え、北朝を廃したわけではないしな
幕府には擁立したり廃したりする権限はなかった、あくまでも第三勢力にすぎない

214:日本@名無史さん
19/05/28 16:17:21.88 .net
足利尊氏は神器もなしに自分の都合で天皇を擁立した。
ならば、西軍が自分の都合で西陣南帝を擁立したのと同じではないか?
正式な手続きや正統性からすれば、どちらも問題があるし、そもそも武士が天皇を
決めること自体がおかしいという面もある。
だが、自分で天皇を擁立して、その錦旗のもとに政権を正当化することこそ
室町幕府の本質だ。
「西幕府」たる西軍も同じことをしたに過ぎない。

215:日本@名無史さん
19/05/28 17:38:46.60 .net
光明天皇が即位した時点、つまり北朝が始まった段階では、
本物の神器を持ってたのは北朝がわで、
後醍醐帝は神器を持ってないはずだ
ありもしない神器を元手に、北朝がわの神器は偽物で本物はオレの手元にあると吹聴したホラ吹きだ

216:日本@名無史さん
19/05/28 19:54:58.19 .net
光明天皇の正統性は、神器より光厳上皇の院宣を根拠とする
後に神器を入手して、その地位をより確かなものにした

217:日本@名無史さん
19/05/28 21:06:17.31 .net
三種の神器って今でもウィキペディアとか見ないとなんなのかよくわからないのに
そこらへんの田舎土豪たちがよく知ってたな
で、ウィキペディアを見たら本物は熱田神宮や伊勢神宮にあって、レプリカが
皇居にあるそうだが、いずれも誰も実物を見たことがないという・・・
奇妙奇天烈としか言いようがない

218:日本@名無史さん
19/05/29 02:46:54.49 .net
神社のご神体なんかもそうだろ
誰も見たことが無いって奴

219:日本@名無史さん
19/05/29 06:25:44.12 .net
忠義王も川上郷民に顔を見せなかったという伝承がある

220:日本@名無史さん
19/05/29 08:14:10.49 .net
忠義王は御所の御簾の後ろにいたからな
近侍する公卿や女官しか竜顔を拝することは許されなかった

221:日本@名無史さん
19/05/29 09:53:58.19 .net
不敬を敢えてして言えば、天皇自体が神器のような御存在だから、人々の前に姿を
表すことはなく、誰も顔を見たことがない

222:日本@名無史さん
19/05/29 12:04:44.43 .net
姿を表さないのだから、偽物が現れても真偽を確かめるのは困難だよな
きっと伝承に残ってる南朝後胤のなかにも多くの偽物が混じってるだろうな

223:日本@名無史さん
19/05/30 04:24:19.39 .net
>>220
当時の後南朝はもはや山賊レベルなので
近侍する公卿や女官なんていない

224:日本@名無史さん
19/05/30 07:21:55.65 .net
寺を行宮にするって、住職の庫裏に住むのかね?まさか本堂から御本尊を追い出しはしないよね?まあ本堂も寝殿造と大差ないから、宮殿としても使えるだろうけど。
観心寺とか大きな寺の本堂なら内裏の代用品としては十分使えそうだけど、庫裏だけではちょっと手狭そう。

225:日本@名無史さん
19/05/30 08:37:44.86 .net
伽藍の中にある宿坊に屏風や御簾を設置して内裏にするんだろう
御師や先達が南帝の御前に大御食を奉ったんだろうね

226:日本@名無史さん
19/05/30 12:24:08.13 .net
平安時代後半からだっけ?
京都にいる天皇でさえ、貴族の邸宅を行宮にすることが多発してて、内裏が造営されることは少なかったはず?
ましてや亡命王朝にすぎない後南朝で内裏が造営されることはあり得ない

227:日本@名無史さん
19/05/30 12:36:57.90 .net
西陣南帝の場合は、上洛後、北野松梅院、続いて安山院を行宮にしていたな
正式な内裏への移行はその後の予定だった

228:日本@名無史さん
19/05/30 20:52:04.15 .net
後南朝の時代には内裏なんてない
維持出来る金もないし、知識のある公家もいない

229:日本@名無史さん
19/05/30 23:02:46.38 .net
>>1
南チョンのスレを立ててんじゃねーよ、糞チョン

230:日本@名無史さん
19/05/31 02:14:41.65 .net
>>228
内裏はないが里内裏ならあった
まあ、貴族の邸宅なわけだけど

231:日本@名無史さん
19/05/31 04:41:17.07 .net
>>230
どこに後南朝の味方する貴族の邸宅があったんだ?
吉野の山奥や、そこすら追い出されて紀伊とかにいた連中だぞ
西陣南帝を一時的に入れたとこを書いてるなら、それは例外
山名宗全の味方をしただけで、後南朝の味方をした訳ではないから

232:日本@名無史さん
19/05/31 06:26:29.41 .net
ウィキペディアを見てたら・・・・
紀伊国有田郡あたりの連中は西陣南帝に味方したらしいな
自称四世王か五世王でも紀伊の田舎侍たちは恐れ入って家来になった?
あと、応仁の乱後、一応、しばらくは動向を注目されていたようだな
どういう記録に残ってのかは知らんけど

233:日本@名無史さん
19/05/31 07:50:47.27 .net
>>231
いや、時代って言い方だから、京都のことも含むと思ったんだ
京都にも内裏なんてないぞ、里内裏が普通だぞって
前後何百年かの範囲で代理を作ろうとしたのって、鎌倉幕府倒した直後の後醍醐帝だけだよな?

234:日本@名無史さん
19/05/31 11:48:50.95 .net
>>226
>>228
後南朝が大内裏を造営したなんて誰も言ってないのに、誰と喧嘩してるんだろう?
なんか怖いよこの人・・・

235:日本@名無史さん
19/05/31 12:42:29.43 .net
北朝・室町幕府への忠誠心のあまり後南朝を敵視しているのかもね

236:日本@名無史さん
19/05/31 16:54:49.51 .net
時代錯誤を指摘されてるだけなのに怖いだのなんだのと何なの?
 
建武の新政時代と南朝時代と後南朝時代はそれぞれ別
それを区別せずに語るのがおかしいと当然の指摘をされてるだけ

237:日本@名無史さん
19/05/31 18:21:28.61 .net
>>234
いや、226はオレ(226=230=233)だが228は別人だぞ

238:日本@名無史さん
19/05/31 19:22:00.64 .net
さすがに後南朝に大内裏を造営するだけの財力も動員力もなかった
それ以上に御所の警護が手薄であったのが痛く、赤松遺臣の強襲を許してしまった

239:日本@名無史さん
19/05/31 19:50:07.37 .net
そりゃな
南北朝が始まるより前でさえ造営する財力がないレベルのシロモノを後南朝の微力だけで作れたら驚くわ

そんなモノを作ると宣言した後醍醐帝(在京中)の意気込みにも驚くが。(←決して「生きゴミ」と呼んではイカン)

240:日本@名無史さん
19/05/31 20:19:48.13 .net
南朝が粘り強く一部から熱心な支持が集まっていたことについては研究が必要
高師直に吉野を焼き払われた後でも、南朝を支持する勢力は畿内だけでも、
河内にも大和にも伊勢にも紀伊にも存在していた

241:日本@名無史さん
19/05/31 22:03:18.52 .net
積極的に南朝を支持するというより北朝が憎かっただけの印象
しかし土豪が反北朝を鮮明にしても討伐できないという・・・・ 弱すぎ

242:日本@名無史さん
19/05/31 22:21:40.22 .net
中世ってどこの地域でも似たようなもんじゃね
十字軍とかカノッサの屈辱とかの時代のヨーロッパとかも大差ないでしょ

243:日本@名無史さん
19/06/01 11:30:51.97 .net
大和国は興福寺の勢力圏で、必ずしも室町幕府の支配が及ばなかったことも要因ではないか?
興福寺と関係の深い土豪が割拠しているので、中には後南朝皇胤と関係を持つ者も出てくる
だから、小勢力の後南朝が長期間続いてしまったのではないだろうか?

244:日本@名無史さん
19/06/01 11:43:51.02 .net
その興福寺のなかが二大派閥に別れての盛大な派閥抗争続きだった点こそ重要では
南北朝時代にも両派に割れて戦争してるしさ
勝負がついても負けた方を殲滅できないから紛争の種が残り続けるし
もと南朝支持だったがわはどうしても起死回生を狙って南帝擁立に走りやすかったんじゃないかなあ

245:日本@名無史さん
19/06/01 12:20:14.98 .net
南北朝期の比叡山とかドライだよな
天台座主だった護良親王の縁もあるのか、湊川合戦の後は後醍醐天皇を匿って
足利軍と一戦交えたぐらいだったのに
後醍醐天皇が吉野へ逃れてからは急速に関係が冷却化したのか、
比叡山が南朝に味方して足利と戦った形跡はない
後南朝のきんけつの変の時に、後南朝の一派が比叡山へ逃げてきたが、
比叡山が後南朝に味方することなく、足利軍と連合して後南朝と戦って排除した

246:日本@名無史さん
19/06/02 19:14:45.78 .net
比叡山が北朝を支持したのは北朝の正統性に大きく貢献しただろうね

247:日本@名無史さん
19/06/03 11:26:16.80 .net
南朝とか北朝とか、
キムチくせーんだよ!
オマイらチョンは

248:日本@名無史さん
19/06/03 12:35:49.42 .net
後南朝は過大評価してはいけないが、過小評価もしてはいけない
大和、河内、紀伊などでは一定の支持者もいたし、動員力もあった
貴種としての政治力も一定程度残っていた

249:日本@名無史さん
19/06/06 23:48:31.25 .net
戦国時代でも大内義興や上杉謙信、織田信長は貴種を旗印にして、
自分の権威の向上に役立てていたが、
後南朝がそれを活用できなかったのが惜しいな

250:日本@名無史さん
19/06/07 00:58:22.42 .net
大内にとっても謙信や信長にとっても後南朝は自分の役に立たない無用な存在だったからね

251:日本@名無史さん
19/06/07 05:26:44.68 .net
100~150年くらいで人々の意識が変わるんじゃない?
いわゆるパラダイムシフトってやつ?

252:251
19/06/07 06:08:37.58 .net
あるいは応仁の乱 明応の政変の破壊力が大きくて従来のパワーバランスが崩れた・・・とか
「打倒室町幕府」を目標に南朝の子孫を担いでいたが、その室町幕府自体が弱体化して
しまったので南朝を担ぐ意味がなくなったとか
南朝の天皇による政権・親政を目指していた勢力もあったのかもしれんが、それはパラダイム
シフトというやつで後醍醐天皇から100~150年を経て人々の意識からほぼ消えていたの
ではないか

253:251
19/06/07 06:09:45.52 .net
パラダイムシフトとか書いてるけど、書いてる俺自身が実は言葉の意味がよくわかってないのだが

254:日本@名無史さん
19/06/07 08:38:50.82 .net
応仁の乱は後南朝にとってチャンスであったと思う。
西軍は軍事的に劣勢だったし、名分においても弱かった。
一方、東軍は将軍御所を押さえ、上皇・天皇も確保していた。
だから、後南朝皇胤であっても担ぎたい動機はあったし、実際、西陣南帝を擁立した。
このチャンスを生かせていたら、後南朝は復活できていた。

255:日本@名無史さん
19/06/07 18:58:28.77 .net
古河城まで行けば古河公方が後南朝をかくまってくれそうだけどな
古河公方は幕府の推挙で朝廷が決めた年号改元を頑なに認めなかったから

256:日本@名無史さん
19/06/07 20:12:28.51 .net
匿ってもデメリットしか無いじゃん

257:日本@名無史さん
19/06/07 21:13:17.91 .net
後南朝の西陣南帝から古河公方足利成氏へ征夷大将軍に任命してもらえばいい

258:日本@名無史さん
19/06/08 10:04:26.10 .net
応仁の乱で義視に通じていた公家の葉室光忠は、義視が擁立した西陣南帝に
あまり熱心に奉公しなかったようだな
応仁の乱終結後、葉室家は京都朝廷に復帰し義視とも親しくしているが、西陣南帝と交流していた形跡なし

259:日本@名無史さん
19/06/08 13:21:26.16 .net
西軍側でも西陣南帝に対しては温度差があったらしい
西陣南帝を推戴することで、西軍側の政治的立場の弱点を補強しようという人もいた
新帝を擁することで、西軍は政権(西幕府)としての外形を整えることができる
一方、新帝擁立まで踏み切れば、将軍・義政を擁する東軍(室町幕府)と完全に対立する
ことになり、早期の和睦を図るのが難しくなる
「できれば早期に和睦し、義政に帰順したい」と考える人は、西陣南帝から距離を置こうとした

260:日本@名無史さん
19/06/09 19:37:54.41 .net
何を書こうが西陣南帝の末路があれだからな
諸将から捨てられて、地方に押し付け合いされて、たらい回し
で、最後は消息不明
本当に紀伊や大和にまだ担ぐ勢力があれば、そこに帰るはず
当時はもうそういう勢力なんて無かったと考えるのが自然

261:日本@名無史さん
19/06/10 12:16:58.49 .net
足利義視が当初から危惧したように、西陣南帝を擁立することで、東軍との和解が遠のく
ことに、西軍の諸将が気づいたからではないか?
経覚や尋尊も西陣南帝擁立に懸念を示したので、大和・紀伊の豪族たちも後南朝から距離
を置くようになったのだろう
「西陣南帝擁立」という地点にまで到達したからこそ、そのリスクが認識されるようになり、
後南朝を支援する人が急速に途絶えたのかも知れない

262:日本@名無史さん
19/06/10 20:32:29.08 .net
西陣南帝って観応のときみたいに勝ったら即ポイ捨てされそうな予感。
曲がりなりにも独自の武力と支配領域を残してた観応時の南朝とは違って、後南朝にはそんなん無いしな

263:日本@名無史さん
19/06/11 08:52:15.00 .net
西陣南帝「僕朕の生活の面倒を生涯みてくれたら、征夷大将軍、太政大臣、関白、
何でも好きな官位をあげるよ!!追討令も和平仲介も出兵催促も、
詔勅綸旨宣旨で何でもできるよ!!さあさあさあ!!!!」
諸侯「」
西陣南帝「あれ?応募がない?」

264:日本@名無史さん
19/06/15 11:53:46.62 .net
応仁の乱の西軍の諸将は室町幕府の守護や足利一門であって、南朝の公家や武士は
いないからね
陣中において西陣南帝は孤立してしまっている
随身や女官は伴っていたのかも知れないけどね

265:日本@名無史さん
19/06/17 05:34:25.46 .net
随身や女官なんていないよ
そんな勢力は既に無い
山賊のような取り巻きが少数だけだろう

266:日本@名無史さん
19/06/17 06:11:56.72 .net
なんで天皇が必要だったのかよくわからん
そもそもこの頃は天皇号を贈ることが途絶えていたそうだし、じゃあいったい何だったのか?
ミカド?
とにかく天皇が必要で年号が必要で従う者は官位・官職(衛門佐とか)を貰うことが必須だった?
官位・官職を貰わないと始まらない?

267:266
19/06/17 06:15:11.13 .net
「南天皇」なんて名称は新しすぎる
「南院」とかじゃないとダメだな

268:266
19/06/17 07:13:41.45 .net
>>265
山賊たちが欲しかったのは
・幕府、金剛峯寺、根来寺、興福寺、その他近隣勢力から干渉されない権利
・完全無税
・・・だろうな

269:日本@名無史さん
19/06/17 12:41:32.36 .net
>>267
いや、南帝って呼び名があるし

270:日本@名無史さん
19/06/17 19:56:14.38 .net
>>266
東軍は上皇と天皇を擁しており、将軍の足利義政を擁していた。将軍御所も占拠していた。
だから、西軍も天皇を擁立することで、政権としての正統性が欲しかった。
そこで、大和の国人・越智家栄の仲介で紀州・大和方面で勢力を築いていた西陣南帝を
陣中に迎えることにした。

271:日本@名無史さん
19/06/17 21:56:03.12 .net
西軍「こっちだって「天皇」を用意できるんだからね。官軍だ官軍だと東軍も調子に乗るなよ」という牽制球だな
ただ本気で別の天皇を擁立する気もないのでハッタリな所もある
本気で擁立されるつもりだったであろう西陣南帝にとっては憐れだが

272:日本@名無史さん
19/07/15 08:40:31.07 .net
ただ、西陣南帝は上洛して西軍の陣中に入ったことが命取りになったね
紀伊・大和の本拠地に御所を構えて地盤を強化しながら、勅使だけ西軍に送ればよかった
西軍の足利義視に征夷大将軍任官を宣下することで新帝としての権威を示すこともできた

273:日本@名無史さん
19/08/24 17:26:16.53 .net
後南朝を大河ドラマでやってほしい
教尊を主人公にしてじっくり描ければ、かなり人気がが出て、今の不振を挽回できると思う

274:日本@名無史さん
19/08/24 18:54:59.56 .net
視聴率の最低記録を更新できるだろうね

275:日本@名無史さん
19/08/25 05:56:11.21 .net
登場人物が出てきてはあっという間に退場
ナレ死対応すらしてもらえない
これの繰り返しだから、最低の大河になるだろうな

276:日本@名無史さん
19/08/25 11:57:44.82 .net
後南朝は無理だろうな…
いいとこ北方太平記…

277:日本@名無史さん
19/08/25 12:36:14.67 .net
20××年 大河ドラマ「自天王 悲しき吉野のミカド」
自天王役(源尊秀)中川大志
自天王の母役 松坂慶子 
忠義王役   井之脇海
金蔵主役   阿部サダヲ

278:日本@名無史さん
19/08/26 21:55:51.05 .net
>>277
センス無さすぎい

279:日本@名無史さん
19/08/27 03:24:29.65 .net
>>277
エピソードが少なすぎるから、せいぜい2時間ドラマ
それでも間延びした物語になるだろう
大河なんてとても無理

280:日本@名無史さん
19/08/29 23:22:46.23 .net
人気が出るのは小倉宮聖承と教尊だから、イケメンな俳優が演じれば、歴史女子の間で
評判になる可能性はある

281:日本@名無史さん
19/08/31 10:26:35.26 .net
後南朝がドラマ化されれば、川上村などの村おこしにつながる
外国人観光客も一気に増加して、世界中が後南朝ブームになる

282:日本@名無史さん
19/09/01 20:25:00.94 .net
随分と狭い世界で生きておられるようで

283:日本@名無史さん
19/09/03 22:12:24.16 .net
>>281
あそこは大昔からこれネタにして村おこししてるじゃん
むしろやりすぎてもう新鮮味ないだろ

284:日本@名無史さん
19/09/06 12:45:06.57 .net
中国人を大勢乗せた観光バスが川上村に集結するようになれば流れが変わるな
秋葉原と並んで川上村は聖地となる

285:日本@名無史さん
19/09/09 02:32:54.03 .net
村民だって聖地を毛唐人に踏み荒らされたくないだろ

286:日本@名無史さん
19/09/14 15:34:01.30 .net
主人公は西陣南帝でいいと思う
応仁の乱でかなり長く引っ張れる
西軍に迎えられる回は最高視聴率になる

287:日本@名無史さん
19/09/14 23:53:40.45 .net
何谷有美「川上村の後南朝伝承と朝拝式 : 「変容」に見られた当事者の実践」 『日本民俗学』(298) 2019.5
ここの住民なら必読

288:日本@名無史さん
19/09/16 05:25:52.44 .net
その西陣南帝ってどんな服装してたのかね?
あと、家来はどんな人間がどれくらいいてどんな服装をしていたのか?

289:日本@名無史さん
19/09/16 06:31:38.12 .net
西陣南帝は最初は「法体」だったというから、僧形をしていたと考えられる。
紀州方面で地元の土豪たちに擁立されて挙兵したころから、蓄髪して直衣を着けて
烏帽子をかぶっていたのではないか。
新帝として上洛したときには、衣冠束帯しただろうし、北野松梅院を仮御所とした
際には御簾の背後に南面されたことだろう。

290:日本@名無史さん
19/09/17 12:37:52.23 .net
南北和談で後亀山天皇入京時の行列も実にみすぼらしいものだったそうだし、それが後南朝とかなったらもう・・・

291:日本@名無史さん
19/09/19 12:23:45.53 .net
あれは後小松が後亀山の太上天皇尊号を拒否したからじゃね?

292:日本@名無史さん
19/09/28 09:30:42.79 .net
後南朝は所領が少なかったから、行列に参列する官人への俸給も少ない
禁裏御料も乏しいから、主上の装束もみすぼらしいのはやむを得ない

293:日本@名無史さん
19/10/18 12:49:45 .net
武内の吉野太平記ならドラマ化できるかも、と保守がわりに書き込み

294:日本@名無史さん
19/11/02 16:46:28 .net
美作後南朝なら長く続いたから大河ドラマ化しても、1年間持つかも知れない
華やかな江戸や京都と対比しながら、植月御所の内裏や廷臣たちの屋敷が並ぶ街並みを
描けば、味わい深いドラマになるだろう

295:日本@名無史さん
19/11/02 22:27:03.24 .net
美作ってどこの世界線の話ですか?

296:日本@名無史さん
19/11/04 22:51:29 .net
美作後南朝は9代264年も続いているから、全期間をドラマ化するのは難しいだろうな
初代尊義王の時代か第9代良懐親王の時代にしぼったほうがよい

297:日本@名無史さん
19/11/05 00:27:18.63 .net
とはいえ、創作物の中にしか存在しない架空の皇統だけどな

298:日本@名無史さん
19/11/05 09:20:18.19 .net
URLリンク(i.imgur.com)

299:日本@名無史さん
19/11/07 01:01:26 .net
「貴人 貴種」と「一般人」の境目がどこにあるのかよくわからん

源頼朝は貴人とみなされていたから田舎武士が集まったんだろうけど、庶兄の源義平だったらどうだったか?

足利・佐竹・武田だったらどうだったか?

集まった田舎武士も天皇の子孫の源氏・平氏であることが多いのに貴人・貴種とはみなされない これは
何故か?

300:日本@名無史さん
19/11/07 07:04:23.55 .net
都の高位貴族とのつてがあって、官位とか所領紛争とかで後ろ盾になってくれるのが重要なんじゃね?地頭補任にしても官位にしても東国武士が欲しかったのは王朝国家システム内部における地位であり権益だったんだから。
だから都で活動する軍事貴族、あるいはその近親であることが重要。都落ちして数世代以上たった足利やら佐竹やらはその点で厳しい。
頼朝は一流人だけど、一度東国武士の結集の核になれればそういう交渉ができる血縁やコネがあった。そこが平将門みたいな田舎っぺ大将や平治の乱まで無位無官の冠者だった義平とは違うところ。

301:日本@名無史さん
19/11/07 07:42:16.85 .net
足利は都にも出仕してたけど、
官位までは得られてない下っ端だったからな。
都に伝手がないわけじゃないけど、旗頭にはちょっと頼りない。

302:日本@名無史さん
19/11/07 09:02:21.17 .net
将門や義平みたいな田舎っぺ大将がまかりまちがって不満武士の糾合に成功したらどうなったかのモデルケースが木曽義仲じゃなかろうか?
頼朝政権が安定した要因の半分は東国武士団を糾合して軍事的勝利を収めたことだろうけど、残り半分は朝廷との安定した関係構築に成功したことだろう。
そういう意味では、官位は低くても都との関係性が薄くても、混乱期には武士の結集の核になるチャンスはあったんだろう。将門、純友、義仲にもできたんだから。
ただそこから法的正統性を得て安定した政権を構築することは「貴種、貴人」じゃなければ無理だった、ということかなあ。

303:日本@名無史さん
19/11/09 04:14:36 .net
明治になって持ち上げられてのって
勤王っていうか、
志士たちが、ああ京都の公家マジウゼー!こんな奴らにいじめられて、作戦却下された楠公マジかわいそう!
って思いがあったんかな

304:日本@名無史さん
19/11/09 10:37:02 .net
>>299
天皇・中央貴族との血筋が近いこと、自身も五位以上の官位を帯びていることが貴人
としての基準になるように思われる。
源頼朝は左馬頭・播磨守(国司としては最上位級)の地位にあった源義朝の嫡子で
あり、自身も右兵衛権佐に任官したことがあった。
木曾義仲も父の源義賢が帯刀先生に任官した貴族なので、頼朝には及ばないが、
貴人として求心力を持つ可能性はあった。
同時期の皇族・以仁王も、本人は親王宣下も受けていない不遇の身であったが、
後白河法皇の皇子であり、「天皇から一代しかたっていない」ため、貴人として
求心力があった。

関東武士の多くは天皇・中央貴族の子孫であり、その血筋に連なることへの身分意識を
持っていたが、貴族としての官位に就かなくなってから世代がかなりたっている。
だから、自分たちには求心力はなく、源頼朝のような貴人を主君としたのだと思う。

305:日本@名無史さん
19/11/09 10:57:59.45 .net
よく北条スレで話題になるが、鎌倉幕府の執権北条氏は、桓武平氏の血筋に連なると
されるが、在庁官人の身分とされており、国司や知行国主の下僚として仕える身分
であった。時政、義時はやがて国司に任官するようになったが、代々国司や京官の
地位にあった血筋に連なる源頼朝との身分差があったと思われる。
そのことが、源氏将軍廃絶後も、北条氏が鎌倉殿ではなく、幕府機構の実務責任者
として権力を振るった原因となったと考えられる。
源頼朝の元に集まった関東武士の多くは、在庁官人の身分の者だった。

306:日本@名無史さん
19/11/22 16:16:10 .net
楠木正成 聖徳太子の予言書を読む
URLリンク(plaza.raku)
ten.co.jp/denkyu
pikaso/diary/201911220001/

307:日本@名無史さん
19/11/22 16:37:24.72 .net
>>695
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しは、
何も根拠なく、主観で自分の好みの感想を述べてるだけ
議論でも何でもないな
大和説は、無能でバカ

308:オレンジ・エア
19/11/22 23:40:02.66 .net
晴富日記によると西陣南帝は越前に落ち延びたそうな
法名は西厳。

309:オレンジ・エア
19/11/22 23:41:33.50 .net
明治維新は建武中興なので楠木正成は英雄なのである。

310:オレンジ・エア
19/11/22 23:47:38.96 .net
西陣南帝は京都の船岡山に陣を張った。
船岡山には健勲神社がある。

311:日本@名無史さん
19/11/23 00:20:35 .net
>>307
どこのスレの誤爆だよ、zarakoku爺

312:日本@名無史さん
19/11/23 00:22:47 .net
>>308
信長の父祖の法名と似てるな
日厳、月厳、桃厳だそうだ

313:オレンジ・エア
19/11/23 00:48:19 .net
ザラコクが誤爆したのかw

俺のレスに釣られたのか??

西陣南帝の法名は西厳
織田信定の法名は月厳

314:オレンジ・エア
19/11/23 00:52:51 .net
美作南朝、津山藩は森家(本能寺の変の森の末っ子

津山といったら八つ墓村(津山事件な

八つとは平氏の蔑称

315:299
19/11/25 06:15:07 .net
貴人貴種について考えていたが、要は「一代で顕著な成功を収めた人」ということなんだろうな

あと、一代で顕著な成功を収めた人が作った組織・財産・得た地位を継承する権利のある人。
どこの社会でもこれは血縁関係者・・・特に息子であることが多いな
今でもよく見かける

松下幸之助-松下正治-松下正幸
豊田佐吉-豊田喜一郎-豊田章一郎-豊田章男

316:299
19/11/25 06:24:01 .net
「社会的成功」って書くほうがよかったかな? まあどうでもいいか

四位 五位の地位に昇ろうとしたら色々やらんといかんようだな。
他氏の排斥に加えて、自分に近い身分の親族が腐るほどいるので何らかの方法でいちいち
屈服させなければならない

その前提として、初代は類まれなリーダーシップが必要だな 二代目以降は初代が築いた組織・
財産・身分を受け継いで次代にバトンタッチする必要がある

317:299
19/11/25 06:33:22 .net
競争原理が働く社会だと何もしないと地位がどんどん落ちていったようだな

ウィキペディアの知識しかなくてすまんが、例えば、嵯峨源氏は高位高官からスタートして
同族もたくさんいたのに、絶対的勝利者・絶対的権力者である藤原北家に敵対して
しまったので宮廷社会からハブられてしまって地位がどんどん落ちてしまった

結果、蓄財もできなかったし、大武士団も結成できなかったし、宮廷社会で再浮上することは
なかった ま、嵯峨源氏出身を称する江戸期の大名はいるし、「渡辺」姓の人は日本で10位くらいの
多さで大繁殖してるといえばしてるんだが

318:日本@名無史さん
19/11/25 06:56:08.73 .net
貴族としての源氏は天皇との血縁の近さを利用して出世してるので、世代を経るだけでもハンデが強くなっていくよ

319:299
19/11/27 06:25:58 .net
>>318
ウィキペディアで得た程度の知識なので申し訳ないが・・・

どの氏族も・・・・武家清和源氏・武家桓武平氏・公家村上源氏も最高権力者に接近して
五位以上の位を保ってるようなんだが

村上源氏はスタート時点で藤原摂関家と仲が超良くて他氏のように排斥されることがなかったようだ

武家清和源氏・武家桓武平氏も藤原摂関家や院の従者からスタートして五位以上の位階を
もらったようだな 特に「○○の乱」「○○の役」が起こるたびに顕著な功績を収めた者が五位・四位+
カリスマ・ブランドを得て、その氏族の「嫡流」「棟梁」の資格を得たわけだ。

320:299
19/11/27 07:31:23.77 .net
しかしそれにしても・・・・
●天皇
●院
●摂関家
・・・って神聖不可侵の存在だったのだろうか?
ここだけは絶対に誰も冒そうとしないな 天皇・摂関家を追放して代わりに自分がなろうとする者がでない。
天皇・摂関の地位そのものをなくそうという者もでない
日本国の最高権力者に上り詰めると誰も手を出さない?
北条義時あたりが新しい皇帝に即位して北条朝初代皇帝になってもよかったんじゃないのかと思うんだが、
そうはならないんだな 実に不思議だ

321:299
19/11/27 07:42:43 .net
とにかく数百年間どこまで行っても律儀に

・持明院統の正統後継者
・大覚寺統の正統後継者

を立てて、ひたすら三種の神器の奪い合いをやるとか・・・なんかルールのあるスポーツをやってるのか?と思ってしまうな
ラグビーのボールの取り合い・サッカーのボールの蹴り合いみたいな

その一方で国司・国衙・在庁官人・朝廷の文武百官に忠実でこれらを守り立てていくのかというとそうではなく
これらから実権をどんどん奪いとっていっている 国衙領・皇室領・公家領・寺社領も尊重するわけではなく
どんどん強奪していっているしな

この現象をどう理解すればいいのか?

322:日本@名無史さん
19/11/27 20:17:24.80 .net
>>320
北条氏は在庁官人の家柄で、中央貴族の知行国主、国司、またその目代の下僚として
仕える立場だった。
そして、鎌倉幕府ができてからも、武士たちの主君は中央貴族で公卿の地位にある
人が就くものという身分意識を、武士たちは持っていた。
だから、北条義時は武士たちの主君にはならなかったんだよ。

323:日本@名無史さん
19/11/27 21:59:17 .net
>>血筋は取って変われんからね。御輿、御幡として貴人が必用なだけで、土地は自分の物なんでしょう。

324:オレンジ・エア
19/11/29 21:23:13 .net
新羅は源氏、百済は平氏

325:日本@名無史さん
19/12/16 08:30:42.98 .net
南朝も後南朝も一種の亡命政権で、本拠地は築いたものの、都の造営まで手が回らなかった
ことが、政権としての脆弱さを招いたかも知れない
長期にわたって北朝と対峙するのなら、都の造営は必要だった

326:日本@名無史さん
19/12/16 19:23:52.95 .net
南帝は仮内裏にお住まいだったし、永住するかわからなかったからな
戦況が好転すれば遷都もあり得た

327:日本@名無史さん
19/12/18 23:26:26.29 .net
南朝は天皇が住めば都だろ

328:日本@名無史さん
19/12/20 07:30:19.10 .net
平壌も1972年迄はあくまで「ソウル奪回までの仮首都」扱いだったしなあ
鎌倉を追われた鎌倉公方が移った古河にはけっこう都市的繁栄が見られたそうだし、南朝ももう少し長続きすれば吉野(河内あたりの山奥)に都市ができてたかもね。

329:日本@名無史さん
19/12/20 08:05:46.17 .net
現代の吉野は極めて交通の便が悪い僻地だが、河川交通が盛んだった往時はそれなりに往来のできる場所だったそうだしな
とはいえ、南朝の時代でも吉野を常時維持できていたわけではなくて、攻め落とされて失ったこともあるので発展できなかったんだろうな
ちなみに、河内ではなく大和国内だぞ。大阪府ではなく奈良県な。

330:日本@名無史さん
19/12/22 00:43:25.00 .net
古河には公方に仕える官僚機構があったし、経済都としての機能もあったので、
商人や職工たちも多く住んでいた。
南朝・後南朝の都も長く続けば、北山御所の周辺には公卿や官人の屋敷が並ぶ
ようになり、検非違使による治安維持も行われるようになった。
古河も利根川を中心とする水路が物流を支えたので、北山御所においても
水路を介して商都としての機能が形成されたものと思われる。

331:日本@名無史さん
19/12/22 02:05:59.66 .net
古河公方はそれなりの規模で官僚を抱え込んだけど南朝はろくに役人を抱え込むこともできない人材難(官僚じゃなく上級貴族は少なからず居たけど)
規模的に都を発達させるのは難しい。
規模的にはむしろ賀名生がお似合いだった

332:日本@名無史さん
19/12/23 22:01:56 .net
南帝は旧平城京には住まなかったの?
守り難いのかな?

333:日本@名無史さん
19/12/23 22:38:52 .net
当時の交通事情だと平城京跡地(完全に寂れて寒村のみ)と吉野では交通の便は大差なかったはず
どちらも川を下ればそれなりに大阪方面とかに出れる
ただ、平城京から下ると京都の近くまで回らないといけなかったのでは、それでは守りにくすぎる

334:日本@名無史さん
19/12/28 17:40:07 .net
吉野は地形的に急峻なので、守りやすいと思う。
大軍を擁して攻めても、平地に大軍を展開した布陣ができない。
後南朝側は、伏兵によるゲリラ戦が可能だし、内裏が危険になれば、山中を逃亡する
ことも可能だ。
ただ、都市としては進展性がないので、本格的に都を造営するのは難しい。

335:日本@名無史さん
19/12/28 18:42:36 .net
間違いだらけだな

336:日本@名無史さん
19/12/29 15:52:52.34 .net
平城京近くの興福寺では、大乗院門跡は北朝方に、
一乗院門跡は南朝方に味方して争ってたから、南朝も安全地帯とはいえない
平城宮を本拠地にしにくかったんじゃないか
あと南朝の大僧正・文観の人脈だ
笠置山も吉野金峯山寺も河内金剛寺も文観のネットワークだ
URLリンク(www.infonet.co.jp)

337:日本@名無史さん
19/12/29 23:30:47.45 .net
後南朝は南帝を護衛する随身もわずかしかいなかったし、院御所に詰める北面の武士も
十分ではなかったことを考えると、防衛が難しい環境にあった
平城宮ではなく、吉野行宮を本拠地にする必要があった

338:日本@名無史さん
20/01/08 17:31:12.14 TrZskWkOj
吉野の山奥なら攻める側も大軍を長期間展開できないしな、軍勢が多ければ多い程、
補給が持たないし現地調達で賄える程には豊な場所でもない。

339:日本@名無史さん
20/01/12 11:13:29 .net
文観と賢俊の権力争いも面白いね

340:日本@名無史さん
20/01/13 08:30:29 .net
一条院門跡など後南朝方の高僧もいた
また、大和の学僧や国人の支援があったので、後南朝は長く続いた

341:日本@名無史さん
20/01/13 12:52:02 .net
なあ、このスレと趣旨が違うとは思うんだが

>>336で取り上げている「大乗院は北朝側」というのはどうしてなんだろうな?
まあ「近衛系一乗院と九條系大乗院」が仲が悪いのは解かる

たださ、当時は『禅宗強国時代』で各宗派は不満を高めていた
また大覚寺系は『真言宗優遇政策』で、『京仏教天台宗』は不満だったんだろ?

で、『金剛峰寺派』や『南都仏教復興運動派』は、『京仏教派』や『禅宗派』に
あまり良い感情を抱いてなかったはずだ

なのに、そんな中でも実質大和国司に当たる『興福寺勢力』は
真言宗の一員であり、大和の名主として一致団結してしかるべきだと思うんだがな~

342:日本@名無史さん
20/01/13 15:18:57.21 .net
そういう主義主張ではなく、敵の敵は味方って方向で、一条院と大乗院の対立構造が先にあって、あちらが北朝ならこっちは南朝だってレベル
各地域の南朝方北朝方の対立も大多数は同様で、目の前の敵対者が付いてるのと別の閥に所属しようとしてるだけ

343:日本@名無史さん
20/01/13 19:07:57 .net
反権力が担ぐにはもってこいの後南朝

344:日本@名無史さん
20/01/15 06:47:29.21 .net
平家も北条家も残党は草の根分けて狩られたのに後南朝はそういうふうにはならなかったのが謎

345:日本@名無史さん
20/01/15 14:53:55.58 .net
??「およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々」

346:日本@名無史さん
20/01/15 19:40:57 .net
後南朝は大和や紀伊を根拠地にしたことが、長続きした原因だと思う
室町時代の大和は、摂関家の影響が大きい一方、寺院を中心とした勢力が大きくて
中央権力がなかなか制御できない地域だった

347:日本@名無史さん
20/01/16 00:58:36 .net
後南朝の収入源て何だったの?八条院領は無いに等しいし、それにまず吉野まで物資運べないよね?

348:日本@名無史さん
20/01/16 01:55:50 .net
南朝の時点で、荘園からの収入はほとんど横領されてただろう。仕方ないから傘下の武家や寺社の収入から「朝用分」と称してピンハネしていた。
手柄立てた奴への恩賞も「○○荘地頭職を与える(ただし、実際の引き渡しは天下一統の後でねw)」だし、詐欺みたいなもんだな。

349:日本@名無史さん
20/01/16 12:11:14.24 .net
南朝秘話
美作南朝

350:日本@名無史さん
20/01/16 12:13:28.82 .net
西軍は船岡山に陣を張った。
西陣南帝である

351:日本@名無史さん
20/01/16 12:34:53.57 .net
後南朝の収入は乏しかったので、南帝の暮らし向きも不如意だった
日々、奉られる大御食も吉野山中で採集した山菜が中心だったし、新嘗祭の挙行にも
参列する官人は乏しかった

352:日本@名無史さん
20/01/16 12:39:34.98 .net
講釈師見てきたように嘘を言い

353:日本@名無史さん
20/01/16 12:55:44.31 .net
後南朝じゃなく南朝の時点ですら、官人は吉野に行ってない、ほとんど南朝につかえていない
当然、供奉する官人は極めて少なくなる
ましてや後南朝だとね、ほぼいないでしょ

354:日本@名無史さん
20/01/16 13:19:09 .net
南朝の発給文書は武家文書の様式に近い、と分析してる人がいたなあ。
官人の層が薄くて天皇と武士が直接に主従関係に近い関係を結ぶようになった結果としてそうなったのかな?

355:日本@名無史さん
20/01/16 14:02:22.32 .net
鎌倉幕府じゃねえか

356:日本@名無史さん
20/01/16 14:55:11 .net
南朝って公家優先のイメージとは裏腹に、天皇と武士が御恩と奉公を媒介に直接結びつく軍事政権としての性格が濃厚だったようにも見えるんだよね。

楠木正儀なんか南朝で公卿まで昇ってるし、武士の影響力が強い。

357:日本@名無史さん
20/01/16 19:09:08 .net
けど五摂家は南朝側の摂関に就いたよね?

358:日本@名無史さん
20/01/16 19:12:58 .net
五摂家は人数の関係であふれてたからね

跡継ぎ争いで南朝と北朝に分かれて争うんだ

359:日本@名無史さん
20/01/16 21:56:34 .net
>>344
平家や北条は武士。後南朝は落ちぶれたとはいえ皇族だからな

360:日本@名無史さん
20/01/17 16:14:29 .net
>>321
単に下剋上ぽくなってるだけじゃない?

361:日本@名無史さん
20/01/17 19:21:03.74 V3e4BSYH6
初歩的な疑問ですまんが、御醍醐帝は律令体制に戻すとして荘園はどう整理するつもりだったの?
自身も厖大な荘園を有していたはずなのに。

362:日本@名無史さん
20/01/17 19:23:36.97 V3e4BSYH6
>>347
吉野近辺の南朝派に恵んでもらってたんじゃないの。既に単なる御神輿に過ぎないと思う。
担いでる連中は曲がりなりにも自分の所領なり収入源があるし。

363:日本@名無史さん
20/01/18 10:59:56.68 .net
摂関家を始め、公家の家門にも跡目争いがあったので、兄弟や親族と反目した公家が
後南朝に出仕することもあった。
人数はわずかであるが、摂関や大納言の要職に就いて南帝に近侍する者もいた。

364:日本@名無史さん
20/01/20 00:04:06.27 .net
五摂家で南北朝に分裂したのは二条と近衛だけ。
南朝の関白は実質この二家で回していた

365:日本@名無史さん
20/01/20 14:18:25 .net
>>364
後猪熊関白近衛経忠や平田関白近衛経家・玉櫛関白二条冬実なんかだね

しっかし非常に興味深いのは近衛家だよね
近衛家は、近衞家基の時代から二つに別れたんだけど
第一夫人の『大覚寺統 亀山天皇皇女』から生まれた次男の経平が持明院統北朝方
第二夫人の『鷹司朝子』から生まれた長男の家平が大覚寺統南朝方なんだから

366:日本@名無史さん
20/01/20 17:26:55 .net
敵の敵は味方 の論理以外に理由がなく、人脈とかガン無視で南朝についてたってとこかな

367:日本@名無史さん
20/01/20 18:28:20.83 .net
面倒だからそりゃ義教さんも殲滅しますわ

368:日本@名無史さん
20/01/21 15:07:17 .net
南朝関白って仕事は何をするんや?

369:日本@名無史さん
20/01/21 15:16:02 .net
つか、後醍醐天皇って建武以後は摂関を不設置じゃなかったっけ?

370:日本@名無史さん
20/01/21 20:38:14.23 .net
後醍醐帝だけな。他は院政もやってるよ

371:日本@名無史さん
20/01/22 04:36:54 .net
摂関の仕事は主に儀式儀礼じゃね。
公家の家格が固定して特定の家門のみ摂関を輩出するようになって以降、摂関=最高権力者ではないしなあ。
外戚とか武家とのコネとかで内大臣止まりでも宮廷を牛耳る人物も出てくるし。

大納言以下でも摂関より権力あった例ってあるのかな?

372:日本@名無史さん
20/01/22 12:59:08.67 .net
後南朝の関白は、北山御所に参上して南帝に拝謁することもあるが、具体的な職務は
あまりなくて、歌学の研究に没頭することが多かった
早期に辞官して落飾する者も少なくなかった

373:日本@名無史さん
20/01/22 15:46:15.97 .net
鎌倉時代なら西園寺がブッチギリだろ

374:日本@名無史さん
20/01/22 18:18:17.57 .net
南朝と違って後南朝なは関白とかいなかっただろ

375:日本@名無史さん
20/01/22 18:59:10.38 .net
>>373
西園寺は清華家だし、宮廷を牛耳るような実力者ならスムーズに太政大臣まで進むだろ

376:日本@名無史さん
20/01/22 19:19:30.19 .net
関東申次をご存知ない?

377:日本@名無史さん
20/01/22 19:49:05.05 .net
>>376
ご存知ないこともないが・・・
なぜ?

378:日本@名無史さん
20/01/22 19:50:31 .net
>>375
>大納言以下でも摂関より権力あった例ってあるのかな?

コレへのレスかと思ったんだけど、誤解だったかな?

379:日本@名無史さん
20/01/22 19:54:24 .net
南北朝でも戦国でも潰えなかった「天皇位」「朝廷内部での昇進コース」「藤原氏内部の家格」ってすごいな

380:日本@名無史さん
20/01/26 16:00:46 .net
そりゃ権威あるもん。有職故実のおかげ?

381:日本@名無史さん
20/02/01 13:42:33.67 .net
北朝や室町幕府に不満を持つ公家や武士もおり、そのような人たちが南朝・後南朝の
支持勢力となった。幕府側の武士でも、幕府内の内紛によって、南朝側に寝返ること
もあった。そのように、北朝や室町幕府への不満の受け皿として南朝・後南朝は需要
があり、応仁の乱でも旗印として擁立された。

382:日本@名無史さん
20/02/05 21:29:02 .net
楠木家は豊臣秀吉によって滅ぼされた
小牧長久手の戦いの際、家康信雄についた楠木の幼年当主が降参してきても許さずに処刑

383:日本@名無史さん
20/02/29 16:53:27 .net
宗家は刀鍛冶屋になってたんじゃないんだ

384:日本@名無史さん
20/03/02 11:47:25 .net
楠木の当主が?

385:日本@名無史さん
20/03/02 20:20:23.26 .net
楠木の庶流は残ってるみたいだけど?

386:日本@名無史さん
20/03/09 05:52:27 .net
残ってるのは甲斐庄氏だな 徳川幕府旗本
だけど楠木家の女系子孫であり、男系では無い
楠木正成の弟(楠木正季)の女系子孫だから

甲斐庄氏は早期に北朝側となり、河内守護である畠山家の重臣になっていたからね

387:日本@名無史さん
20/03/20 18:48:01 .net
楠木氏は河内の土豪だったが、正成の代に従五位に登り、貴族の身分となった
子息の正儀は左兵衛督にまで登っている
子孫の正理は後南朝において、事実上、公卿の地位にあったと見られる

388:日本@名無史さん
20/03/20 22:28:20 .net
いちおう、貴族とか公家という称号は昇殿できる身分を意味してて、現代人が言う貴族よりも範囲は狭いんだよな
五位ぐらいでは昇殿できないから貴族ではない

389:日本@名無史さん
20/03/21 23:54:50 .net
>>387
正儀も晩年参議に昇ったから立派な公卿やで

390:日本@名無史さん
20/03/22 10:43:10 .net
楠木正成は陣中においては護良親王に近侍し、後醍醐天皇の寵臣でもあったことから
見ると、一介の地下人と見るのはふさわしくない。
上国の摂津、河内の国司を兼ねていた点も合わせると、軍事貴族の地位にあったと
見るのが適当ではないだろうか?
正成の子孫が公卿に昇っていることから見て、正成の代において楠木氏は家格が
堂上家に昇ったものと考えられる。

391:日本@名無史さん
20/03/22 12:07:49 .net
国司って、武士としては高い地位だが貴族としては高い地位じゃない

下級貴族などと呼んでる官人あたりならともかく、公卿にまで昇進するような階層にとっては駆け出しの時期に就任することがあるって程度だぞ

392:日本@名無史さん
20/03/22 18:56:30 .net
中央で出世できないレベルの人が、小銭稼ぎに就任して嬉しい役職だな<国司

393:日本@名無史さん
20/03/23 12:30:50 .net
将来は高位に昇っていく貴族でも、その過程で受領に任官することはあるのでは?
平清盛は安芸守、播磨守に任官した後、太宰大弐、太政大臣に昇った
大楠公も長生きしていれば、議政官に列せられていた
摂津守が極官ということはない

394:日本@名無史さん
20/03/24 20:42:27 .net
>>388がちょっとミスリーディングで議論が混乱したんじゃないの?
律令制用語では五位は通貴であって貴ではない、というのはそのとおりだが、現代の歴史学者は五位以上は貴族と扱ってるわけで。「軍事貴族」だって五位以上を指す用語、六位以下は「侍」。
五位が昇殿できない、というのも誤り。

395:日本@名無史さん
20/03/30 22:29:54 .net
>>392
小遣い稼ぎというか、人財産稼ぐというか。

396:日本@名無史さん
20/03/31 09:00:54 .net
随身ノ珍宝ソノ数ヲ知ラズ。九国二嶋ノ物、底ヲ掃イテ奪イ取ル。恥ヲ忘ルルニ似タリ。

397:日本@名無史さん
20/04/02 22:14:08 .net
その数年でかき集めたものは、ほかの美味しい仕事を自分や子供がもらうために殿上人に貢ぐわけで
所詮は下っ端よ

398:日本@名無史さん
20/04/05 08:11:00 .net
そもそも西陣南帝に皇位を継ぐ資格があったのか疑問に思う
小倉宮の子孫と自称しているが、小倉宮の血筋は教尊が隠岐島で死亡して断絶している(墓もある)

個人的見解だが、山名宗全が怪しい
なぜなら彼の領国である因幡国には、理由は解らないが南朝系の玉川宮がいた(恐らく幕府により流されたのだろうが)
その玉川宮の一族を利用したんじゃないかと思う

資金援助して山名家の家来を付けて、紀伊に送り込んで土豪を抱き込んで挙兵させたのではないか?
あたかも南朝の一族がまだ健在であるかのように見せかける為に
だからこそ、山名宗全死後の西陣南帝は寄る辺なくさまようしかなかったのではないかと思える

自身を支持してくれる勢力が本当にあって自力で紀伊で反乱起こせる様な勢力を持っていたなら、もっとマシな末路があったはず
山名宗全の考えた策で仕込まれただけの存在だったからこそ、あの末路だったのではないか

399:日本@名無史さん
20/04/05 08:13:17 .net
第99代
後亀山天皇-恒敦(小倉宮)-聖承(小倉宮)-教尊(勧修寺)        
                               |                       
                               |(推定)         第104代
                               -岡崎前門主(小倉宮流)-西方新主(「小倉宮御息」)
                                              |    
                                              -弟宮

小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。

*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
       その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
       関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
       その後の消息は不明。

教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。

400:日本@名無史さん
20/04/05 23:24:15 .net
URLリンク(ameblo.jp)
一部似た事言ってるね
ただこっちの説は小倉宮と見てるようだが

401:日本@名無史さん
20/05/01 23:43:50 .net
wikiの記載だと1416年に後亀山が吉野から京都に戻った時、恒敦は同行せず死ぬまで吉野で抵抗したって有るけど
これって何かの記載が有ったの?
自分知ってる限りだと恒敦は父の後亀山に先立つ事1422年に亡くなったってのだけなんで
他にソースが有ったら知りたい

402:日本@名無史さん
20/05/06 09:32:48 .net
東軍側が将軍家に加えて天皇と上皇を擁しているのが政治的優位になっていたから、
宗全が「新主」を立てようとしたのは理解できる。
「新主」に正統性があることを印象づけるため、南朝の本拠地である紀伊で挙兵
させたということか?
紀伊・大和は寺院やその傘下の国人が強い地域で、幕府はかねてからその制圧に
苦心していた。だから、その地域で後南朝勢力に反乱を起こさせることは、幕府の
主流派たる東軍に打撃を与えられるという計算もあったものと思われる。

403:日本@名無史さん
20/05/06 18:06:13.34 .net
西軍大ピンチ、御旗が後南朝だと弱すぎる

404:日本@名無史さん
20/05/08 03:34:06 .net
大覚寺統を担ぐなら常盤井宮とか木寺宮ぐらいにしとけば良かったのに

405:日本@名無史さん
20/05/13 20:15:45 .net
南朝っつうか後醍醐流としての復興を求めてるんだから最初から北朝側の木寺や常磐井は除外に決まってる

406:日本@名無史さん
20/05/13 21:27:23 .net
そうじゃなくて、北朝の中で対立天皇を立てる、って話じゃないの?
まぁ、皇族も貴族も同意せんだろうから、無理だと思うけど

407:日本@名無史さん
20/05/14 21:13:28 .net
>そうじゃなくて、北朝の中で対立天皇を立てる、って話じゃないの?
違います

408:日本@名無史さん
20/05/20 23:05:36 .net
後醍醐流以外の大覚寺統は京で密かに皇統を狙っていた!?

409:日本@名無史さん
20/05/23 12:45:27 .net
北朝の皇統や北朝系の皇族を擁立しようとしても、断られる可能性が高いんだろうな。
せっかく北朝や幕府の枠組みの中で一定の地位を得ているのに、それを失うリスクがあるから。
もはや失うもののない後南朝だからこそ、リスクの高い擁立にも協力してくれる。
だから、山名宗全が擁立するのは後南朝の皇族でなければならなかった。

410:日本@名無史さん
20/05/27 21:30:55 .net
後小松は称光没後に養子先として木寺宮や常磐井宮も検討してた可能性は有るだろうな

411:日本@名無史さん
20/05/28 06:04:27 .net
さすがに大覚寺統はないだろ
大覚寺統の人が持明院統を皇嗣にするか?

412:日本@名無史さん
20/05/28 22:04:13 .net
後花園天皇ノートってサイトの称光天皇の追号の由来の項目

称光天皇は我らが後花園天皇の一つ前の天皇です。皇女は残せたのですが、皇子を残せなかったため、あえなく皇統が断絶してしまいました。



後小松はそこで伏見宮家から養子を迎えて皇統を存続させることを選択します。私の見るところでは、後小松は当初常盤井宮か木寺宮から養子を迎えることを考えたのではないか、と思っています。しかし実際には伏見宮一択でしかないわけです。

って記載は有るな

413:日本@名無史さん
20/05/31 17:56:01 .net
禁闕の変は単に後南朝の残党がってだけではなく後光厳流の叛乱の一環でも有るって説はなるほどと思った

414:日本@名無史さん
20/05/31 23:01:23.58 .net
北朝を割ったのは室町幕府だからな

415:日本@名無史さん
20/06/27 21:30:53 .net
日本人は禿げだからコロナで死なない

416:日本@名無史さん
20/07/04 14:49:38 .net
最善の道は北朝の皇族を擁立することだっただろうな
だが、北朝の皇族はそれなりに地位を得て暮らしているため、リスクのある話には乗ってこない
いちかぱちかの賭けでも乗ってくるのは、後南朝の皇族だけだった可能性が高い

417:日本@名無史さん
20/07/04 15:23:01.17 .net
>>413
後光厳流って、後小松の従兄弟/称光の又従兄弟ぐらいまでさかのぼらないと男系いないじゃん
称光実弟らしい一休さんは僧籍で子供もいないしすでに高齢だろ、それでは候補になれそうにないし。
復権する余裕なんて残ってない気がする

418:日本@名無史さん
20/07/06 22:46:18.55 .net
室町・戦国時代の歴史・古文書講座ってサイトの禁闕の変のページのコメの
「我々の今日の考え方では「え?なんで後小松院の重臣が南朝と組むの?」となりがちですが、
極端な話、後小松院が南朝よりも恐れたのが、崇光皇統だったはずです。
後小松が後花園への皇位継承を了承したのは、
あくまでも後光厳皇統を存続させるためでしたが、
崇光皇統には貞成親王という、皇統の付け替えに執念を燃やす人物がいて、
彼は自分の子どもが天皇になっただけでは不足であり、
後光厳皇統を断絶させる意気込みで活動しています。
また足利義教は貞成親王を後花園天皇の父親として位置付ける動きをしていました。
後小松院の遺臣からすれば、南朝の方が皇統の付け替えをもくろまないだけまし、
というものです。」
と言う文章は気になる

419:日本@名無史さん
20/08/10 21:37:47 .net
吉村いらっしゃい観戦で大阪民国の土人ヒーハー

420:日本@名無史さん
20/08/29 15:26:44 .net
非国民の安倍ちょん辞任

421:日本@名無史さん
20/08/29 16:48:35.82 .net
後亀山天皇の身の振り方がいけなかった
合一に応じず、ずっと吉野で南朝を続けていたほうが権威を保持できた

422:日本@名無史さん
20/09/13 15:49:12.28 .net
>>421
そもそもそれだったら融和派の後亀山じゃなく抗戦派の長慶で良いって事になる
或いは融和派の後亀山を追放して惟成か泰成が天皇になれば良いって事になる

423:日本@名無史さん
20/09/20 14:09:06.01 .net
護聖院宮(惟成?泰成?)も融和派っぽいけどな

424:日本@名無史さん
20/09/20 21:18:34.53 .net
後村上も条件付きの融和派だもんな。
長慶だけ何故あんなに尖ってしまったのか

425:日本@名無史さん
20/09/21 14:54:52.20 .net
融和せずにずっと吉野の賀名生で朝廷を続けていたなら、南朝の皇統を維持できた。
勢力は小さくても、神器を持っていたので、正統な天皇を称することができる。
応仁の乱の際に西軍を支持すれば、西陣南帝をしのぐ存在になっていたのは間違いない。

426:日本@名無史さん
20/09/21 20:36:07.59 .net
もうあと50年も抵抗を続けてたら、しびれを切らした幕府が両朝合一案を捨てて南朝を反乱軍/賊軍として武力討伐・鎮圧する方向に切り替えて皇族まで皆殺しになってただけだろうと思うけど

427:日本@名無史さん
20/09/21 21:03:12.45 .net
「長禄の変」は避けられない訳だな

428:日本@名無史さん
20/09/22 01:03:14.09 .net
>>424
条件付きってその条件が義詮の降伏だろ
そんなもん義詮が受け入れる訳絶対無いわ
むしろ長慶は良くも悪くも後村上の思想を踏襲してるだろ

429:日本@名無史さん
20/09/22 02:50:26.58 .net
長慶は幕府との交渉すらしてないだろ。
だから和平派の楠木正儀に見限られた。

430:日本@名無史さん
20/09/22 18:48:35.60 .net
で「義満、私は和平派だ。降伏したら許してやろう。」とか言うのか
「何言ってんだこいつ」の一言で終わりだろ
ぶっちゃけ後村上のあんなもん融和にもなってねーっつの
ちょっとは現実見て語れ

431:日本@名無史さん
20/10/03 16:57:55.57 .net
URLリンク(kodocha.s3.xrea.com)
これ書いたのここの後南朝ヲタだろw
ヒロインが南朝の末裔という珍設定

432:日本@名無史さん
20/10/03 17:03:13.56 .net
貴種流離譚のネタとして、南朝後胤って、わりとありがちなネタだろ
普通の貴族末裔より高級感がありつつ貧乏生活も併存できるから便利だし

433:日本@名無史さん
20/10/04 22:38:31.04 .net
 時は1976年,東京,調布。
 共に関西圏で育った一人の男女が,大学の入学をきっかけにそこで出会った。
 男は大阪で生まれ育ち,女は奈良で生きてきた。
 共に古くから残る名家の育ちだった。
 男の名は真田秀一。戦国時代には隆盛を誇った名家だったが,没落してからは細々と生
き長らえてきた。しかし,過去の誇りと代々引き継がれてきた家刀「村雨」だけは,彼ら
にとって欠かすことの出来ない宝だった。
 対して女は,西大寺ゆかりという。南北朝時代に天皇家から分家して出来た家だった。
こちらも歴史の表舞台に出るような華々しい記録は歴史には残さなかったが,過去から
脈々と受け継がれる「血の記憶」と奈良の地における「大地主」の地位だけは,決して放
すことなく引き継がれてきていた。

434:日本@名無史さん
20/10/06 20:15:47.65 .net
俺は歴史に興味持つまでは、後南朝なんて存在すら知らなかったけどなあ
学校の授業では「南北朝は無事合一しました。終わり」だし

435:日本@名無史さん
20/10/09 22:45:44.53 .net
禁闕の変と長禄の変は高校の授業で
さらっと触れて初めて知ったけどな。

436:日本@名無史さん
20/10/16 12:46:40.31 .net
終わったと思われていたのに、吉野の山奥の行宮で細々と皇統が続いていたというのが
人の心を惹きつけるんだろうな
もっと普及宣伝すれば、後南朝ファンは増えると思う

437:日本@名無史さん
20/10/16 15:13:15.28 .net
細々と続いたというのは嘘っぱちで、本当は続いてない
近世に入ってから、もしくは近代に入ってから、後付けで作られ、ずっと続いてたことにしただけ

438:日本@名無史さん
20/10/17 09:58:34.09 .net
確実に続いていたのは応仁の乱のころまでで、そこから後は次第に動向がわからなくなる
続いたとしてもせいぜい戦国時代までだな
その後の歴史は後世に付け加えられたものが多い

439:日本@名無史さん
20/10/17 10:38:54.01 .net
それも嘘だね
後南朝蜂起の事例の多くは京都近郊の寺にいた後南朝系の皇族が脱走して蜂起しているのであって、辺境に隠遁していた皇族が蜂起した事例は少ない

440:日本@名無史さん
20/10/17 13:48:29.79 .net
吉野の行宮で起居していた後南朝皇族は限られるからな
ふだんは京都に住んでいた人のほうが多い

441:日本@名無史さん
20/10/17 16:01:19.53 .net
一人もいないことを「限られてる」といってよいものかどうか。

442:日本@名無史さん
20/10/17 19:48:40.77 .net
現地の御所に住んでいたのは植月御所の尊義王くらいだろ
吉野では誰も住んでいなかった

443:日本@名無史さん
20/10/18 11:58:37.41 .net
植月御所も、後世の創作物の中にしか存在しない架空の皇胤だぞ

444:日本@名無史さん
20/10/20 10:38:44.28 .net
南朝・後南朝の朝廷は最初は吉野行宮に置かれたが、賀名生に移り、やがて北山御所に移った
植月御所は一次資料が乏しく、その実在が立証されていない

445:日本@名無史さん
20/10/20 12:57:49.21 .net
賀名生は御所ではなく「詰めの城」みたいなもんだろ
行宮のある吉野が危険になったから賀名生に逼塞してただけ
賀名生まで攻めこまれたこともあるが、戦況が落ち着いてからは吉野に戻ってるじゃん

446:日本@名無史さん
20/10/20 19:50:16.74 .net
すいません、あのう・・・

447:日本@名無史さん
20/10/24 01:01:49.68 .net
神様「未解決事件の真相を一つだけ教えてやるよ」 ←何が知りたい?

こんなスレがあったけど、俺なら後南朝のその後が知りたい
西陣南帝は殺されなかったわけだから、子孫がいてもおかしくないよね
熊沢が本当に子孫かもしれない

448:日本@名無史さん
20/10/24 08:31:48.34 .net
婿養子とか含めて一度も養子を迎えないで直系相続で続けられるのはせいぜい200年300年がいいとこ
直系以外も併存で養って宮家として残すなどの工夫なしでは直系子孫が残ってるはずがないよ
後南朝の財政を想像で見る限り、分家まで養う余力はなかっただろうしな

449:日本@名無史さん
20/10/24 17:00:25.57 .net
十津川宮とか熊野宮が残っていて、西陣南帝の本宗家と交流が続いていれば、傍流の宮家から
養子が入って皇位を継承することができたけど、残っていた痕跡もないしな
子孫が皇族としての処遇を受けられたのは、せいぜい五代後(五世王)くらいまでだろう

450:日本@名無史さん
20/10/28 02:52:13.16 .net
スレチだが・・・・無理やり臣籍降下させられた皇族は源・平・橘などの姓を貰えたけど
そうではなく、五世を経て自動的に臣籍になった者はどういう姓を名乗ったのだろうか?

451:日本@名無史さん
20/10/30 00:24:21.58 .net
5世以降は正式な賜姓を経なくても源姓の扱い

452:日本@名無史さん
20/10/31 08:31:25.05 .net
>>451
そうか
他にも色々疑問はあるがスレチなのでこのへんで・・・・
・・・と言いつつ1個だけ書いておくが源姓が作られる以前はどうだったのだろうか?

453:日本@名無史さん
20/10/31 11:09:00.96 .net
>>452
特に法則性はなく、様々な氏を称している。
用明天皇の子孫の登美氏とか、敏達天皇の子孫の大原氏、天武天皇の子孫の文室氏などがある。
余剰な皇族を整理する必要が出るのは、奈良・平安以前も同じであったと考えられる。
後世には次第に源氏に統一されていっている。

454:日本@名無史さん
20/11/01 13:03:08.68 .net
橘とかもそうだったような

当初は、臣下として官界で活動できる親族の需要という側面も大きかったのでは
平安中期ごろまでは源氏が大臣として官界で活動することで藤原氏を掣肘って意義もあったはず
藤原氏のトゲが抜き取られてからは対抗させる必要もなくなったけど、その頃になると新しい源氏は(明確な臣籍降下をともなう賜姓源氏としては)出てこなくなってるんだよな

455:日本@名無史さん
20/11/01 18:02:19.46 .net
橘諸兄もそうだったし、文室大市、文室浄三、淡海三船も高官として活躍したな
また、臣籍降下する前の皇族でも、高官として要職を占めるケースも多かった
その流れが藤原氏に対抗する賜氏源氏として受け継がれていった
皇親・賜氏貴族は天皇の藩屏としての意味があった

456:日本@名無史さん
20/11/03 07:26:54.82 .net
>>453
1無理やり臣籍降下させられる
2自分から願い出て臣籍降下する(国からの給与も放棄する 代わりに位階と官職を貰う)
3規定により五世を経て自動的に臣籍降下する
A姓を賜る
B自分で姓を考える
・・・の組み合わせか(後には源氏onlyに)

>>455
その割には皇親・賜氏貴族って二世・三世・四世・・・・になってくるとどんどん位階が下がって上がることはないし
大事にされてなかったんじゃないのか
世代を経ても位階が下がらなかったのは藤原摂関家の親族扱いである村上源氏だけだそうだし
天皇になれそうでなれないが、ひょっとしたらゴネたらなんとなく皇位も狙えそうな傍流の皇族や源氏って現天皇から
見てむしろ危ない存在だったんじゃないのか 古代には粛清された親王・諸王も結構いたようだし

457:日本@名無史さん
20/11/03 09:01:14.05 .net
その結果、平将門や興世王みたいに反乱起こす皇族の子孫も出た訳だ。

458:日本@名無史さん
20/11/03 09:03:27.42 .net
>>456
ゴネたら皇位を狙えると思った皇族の最たるものが南朝という訳ですな。

459:日本@名無史さん
20/11/03 10:41:54.03 .net
>>456
皇親というのは「天皇との血縁の近さ」が尊さの源泉だから、天皇と代が離れていくほど
尊さが失われていく。大半の家系が貴族としての身分を失って消滅する。
むしろ、村上源氏が例外中の例外だと思う。
興世王は出自さえ不明の皇族だった。当時はこういう貴族社会の周縁にぶら下がっている
皇族・皇親が相当数存在したのではないか?

460:日本@名無史さん
20/11/03 11:48:11.21 .net
>>455
臣籍降下する前の皇籍にある皇族が官僚として働けたのは奈良時代だけでは
それ以前も以後もできなかったと思う

461:日本@名無史さん
20/11/03 12:22:41.98 .net
そもそも藤原氏だって本流を離れた分家になるとそれなりの高頻度で没落してる
総数が多いから残ってる家しか見えないだけで。
だから、軽視されてなくても源氏の没落が目立つのは不思議じゃない
そもそも、官界で落ちぶれて地方に土着する道を選んだ武士達も官界で落ちこぼれた結果なんだしな

462:日本@名無史さん
20/11/03 21:41:47.52 .net
>>460
平安時代においても皇親が官職に就いた例は複数ある
例えば、正躬王は受領のほか左大弁として弁官を務めているし、平将門の腹心として有名な
興世王は武蔵権守になっている

463:日本@名無史さん
20/11/03 23:33:36.22 .net
平安時代の記録には、源氏、平氏のほかに、藤原氏、多治比氏、佐伯氏、橘氏、
和気氏、文室氏、小野氏、伴氏など様々な出自の武士が現れるから、中央貴族の家系
から地方武士になった経路は、いろいろあるんだろうな
源氏と平氏が目立つだけでね

464:日本@名無史さん
20/11/18 19:48:33.07 .net
460
田原の藤太こと藤原秀郷や利仁こと藤原利仁あたりは藤原氏の流れですね。


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