(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)at HISTORY
(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島) - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
18/10/30 20:02:40.11 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

3:日本@名無史さん
18/10/30 20:46:29.99 .net
URLリンク(www.youtube.com)
私の 説は 邪馬台国 は 球磨郡 にあった です
魏志倭人伝の 翻訳 とか みなさん 読んで かたってますか?
ぼくも 読む前は 邪馬台国 やまたい 大和 ヤマトゥ と このよみから 近畿だと ゆってましたが
これは 本居宣長 の 策略でした まんまとはまってました
魏志倭人伝には 邪馬壹國 と あり これは 中国よみで シュマイ 日本語で よんでも やまいこく 臺灣 台湾 誤字ったにしろ とにかく ソウル から 邪馬台国 まで 1マン2000里 である 100里が7KMとしても 近畿にはとどかないので
九州しかないのです そのへんも 動画に まとめました

4:日本@名無史さん
18/10/31 03:18:37.23 .net
>>1前スレ終わって
なかなか次スレが立てられなくて
m(__)m
邪馬台国九州説をさらに絞って福岡説にしました。
どうぞよろしくお願いいたします。

5:日本@名無史さん
18/10/31 17:34:10.24 .net
こんなスレもあるよ
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
スレリンク(history板)

6:日本@名無史さん
18/10/31 19:28:39.07 .net
【九州説】邪馬台国は福岡県山門郡にあった!
スレリンク(history板)

7:日本@名無史さん
18/10/31 19:36:46.97 .net
いろいろあるんだけど、まず
高天原って
どこなのさ?

8:日本@名無史さん
18/10/31 19:43:10.30 .net
中国

9:日本@名無史さん
18/10/31 19:48:57.59 .net
>>7
dead or alive『turn around and count 2 ten』?
動画を見てみて

それか・・・こーえー?

10:日本@名無史さん
18/10/31 19:53:47.20 .net
そんなことよりも
ネットではツブ、ツブ言われているけど

コウ・ツブサワは、
この曲(音楽家)が好きなのかな?

とあるMMO(コエテクモ)?をやっていたとき、
こういう曲ばかりが好き?なのかな、
そういう知人がいたような

11:日本@名無史さん
18/10/31 20:18:31.05 .net
いろいろあるんだけど、まず
高天原って
どこなのさ?

12:日本@名無史さん
18/10/31 20:26:40.21 .net
高天原=福岡県門司大台ヶ原
間違いなし

13:日本@名無史さん
18/10/31 20:34:13.33 .net
どこの基地外なんだ?

14:日本@名無史さん
18/10/31 21:01:26.63 .net
高千穂の前の山じゃなかったかな
新井白石は違う所だったな

15:日本@名無史さん
18/10/31 23:13:52.48 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

16:日本@名無史さん
18/11/01 01:27:04.19 .net
高天原は対馬海峡のどこか。

17:日本@名無史さん
18/11/01 01:28:12.22 .net
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ

18:日本@名無史さん
18/11/01 08:24:00.34 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsus)


19:hi.net/blog/2012/01/1238.html .



20:日本@名無史さん
18/11/01 23:08:43.27 .net
>>16
あら、賛成

21:日本@名無史さん
18/11/02 00:02:50.75 .net
やった

22:日本@名無史さん
18/11/02 08:52:23.29 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

23:日本@名無史さん
18/11/02 13:45:05.38 .net
>>16
>高天原は対馬海峡のどこか。
だがな、記紀では高天原で卑弥呼が水田稲作をして、機織をしてるんだ
普通の平野部の弥生社会のように見える
魏志倭人伝に対馬と壱岐は
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴
多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴
と書かれていて、稲作中心の弥生社会からは外れて見える
これでは、スサノオが田んぼのあぜを壊して狼藉を働くのも難しくないか?

24:日本@名無史さん
18/11/02 15:16:30.29 .net
それは一理ある。
いくつかの記憶が高天原に集約されているようにも見える。
しかし狭義の倭国は対馬海峡のみになるので、そのどこかに高天原を求めるしかない。

25:日本@名無史さん
18/11/02 19:44:26.28 .net
>>23
>しかし狭義の倭国は対馬海峡のみになる
この論証が、まったくもって不十分
まず、十分な根拠をもって論証するところから始めないと
というか、方々で論破されてるよねww

26:日本@名無史さん
18/11/02 19:47:05.04 .net
後漢書でも読んでくださいよ。

27:日本@名無史さん
18/11/02 20:34:16.21 .net
URLリンク(www.youtube.com)
私の 説は 邪馬台国 は 球磨郡 にあった です
熊襲 とよばれて 後の 大和朝廷に くちくされたのが
みなさん どうが みました?
高天原は 球磨郡 か 伊佐市です
標高も高い 広い 稲がそだつはらっぱもある
雪も降る

28:日本@名無史さん
18/11/02 20:58:53.76 .net
>>25
>後漢書でも読んでくださいよ
倭在韓東南大海中 依山爲居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 
國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國 「その」大倭王        「倭国の」大倭王
樂浪郡徼 去其國萬二千里        「その」国を去ること萬二千里 「倭国を」去ること萬二千里 
去其西北界拘邪韓國七千餘里       「その」西北界        「倭国の」西北界
これの二番目をむりくり「倭国」ではなく、「邪馬台国」と読むインチキだろ
方々でコピペを見てるよ
三連続の「其」の二番目だけ違うものを指すとかインチキもいいとこ

29:日本@名無史さん
18/11/02 21:47:40.43 .net
その国と言えば、首都から距離を測るのが普通だからだよ。
国境は他に書いてあるわ


30:けだし。



31:日本@名無史さん
18/11/03 02:12:40.85 .net
みやま説なら大牟田もありだな

32:日本@名無史さん
18/11/03 09:39:43.87 .net
「其山有丹」だから辰砂が採れる場所でないといけない。
鉱脈が中南九州にはあるようだ。
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
佐世保にも水銀の鉱脈はあったようだ。
URLリンク(motamota.hatenablog.com)
でも福岡はどうかな?

33:日本@名無史さん
18/11/03 09:52:25.63 .net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

. 

34:日本@名無史さん
18/11/03 10:58:16.15 .net
みやま説が、大牟田ありらなら、玉名、山鹿も有りだな

35:日本@名無史さん
18/11/03 15:20:39.57 .net
>>30
福岡が王都で、佐賀と長崎までが女王国。

36:日本@名無史さん
18/11/03 19:05:16.25 .net
だが、九州の辰砂鉱山は飛鳥時代以降に発見
弥生時代には「ない」んだよ

37:日本@名無史さん
18/11/03 21:34:51.82 .net
>>34
それ、どうしてわかったの?
別のスレで
「其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
『邪馬台国の卑弥呼
 卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。
 その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の
 出る山があったと言うことである。
 どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る
 必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと
 市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。」
と書いてあるんで、
その市毛さんが何を根拠にしてそう書いているのか聞いたがレスがつかない。

38:日本@名無史さん
18/11/03 21:51:57.18 .net
>>35
>それ、どうしてわかったの?
>その市毛さんが何を根拠にしてそう書いているのか聞いたがレスがつかない。
心配しなくても、弥生時代には畿内にも「ない」んだよ 。
あるのは倭国(阿波)だけだから安心して。  @阿波

39:日本@名無史さん
18/11/03 23:17:42.04 .net
>>36
阿波にあったのはどうしてわかったの?

40:日本@名無史さん
18/11/03 23:45:32.90 .net
>>34
根拠くらい示せよ。
畿内説は言い張るだけだよな。

41:日本@名無史さん
18/11/04 15:20:34.80 .net
日本民族体系3は、なかなか図書館でもおいてないからね

42:日本@名無史さん
18/11/04 16:06:01.05 .net
日本民俗文化体系3  稲と鉄―さまざまな王権の基盤
水銀 : 民俗と製造技術 市毛勲
あとは、
市毛勲 朱の考古学

43:日本@名無史さん
18/11/04 16:34:39.96 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

44:日本@名無史さん
18/11/04 17:32:59.52 .net
後漢書だと「其山有丹土」なんだけどね。
ただ、魏志の前文に出白珠青玉とあるから、
献上品リストを見て倭には


45:真珠とヒスイが取れて 辰砂の出る山があるって記載したんだと思うけど。 真珠はともかくヒスイの産地も限定されるね。



46:日本@名無史さん
18/11/04 18:44:15.71 .net
>>40
結局
「卑弥呼の時代には、大和と阿波の(辰砂の)鉱床群が開発されており、九州はまだであった」という市毛勲氏が日本民族文化体系3の中に書いたという主張の根拠はなんなの?
卑弥呼の時代のことがそんなにわかるの?

47:日本@名無史さん
18/11/04 18:54:31.67 .net
>>42
縄文時代の九州で翡翠が採取されていたようだよ。
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

48:日本@名無史さん
18/11/04 19:00:24.09 .net
>44
間違えた。
従来翡翠だと言われてきたものが、クロムの含量の高い白雲母だったということだから、「九州で翡翠にビジュアルのよく似た鉱物が採取されて装飾品に加工されていた」、だった。
蛍光X線で分析して初めて翡翠でないとわかるもの。

49:日本@名無史さん
18/11/04 20:42:01.85 .net
>>42
>後漢書だと「其山有丹土」なんだけどね。
それを、読点の打ち間違い
其山有丹、土氣温腝でいいんだよ

50:日本@名無史さん
18/11/04 21:09:08.57 .net
>>44
これは面白いね。古代史塗り替えるじゃないですか。
青玉も真珠も丹が(丹土)なら九州内でまかなえそう。

51:日本@名無史さん
18/11/04 21:20:47.60 .net
>>37
>阿波にあったのはどうしてわかったの?
「若杉山遺跡」
URLリンク(awakouko.info)

52:日本@名無史さん
18/11/04 22:53:17.84 .net
>>45
>従来翡翠だと言われてきたものが、クロムの含量の高い白雲母だったということだから、
従来翡翠だと言われてきたもの「の中に」、クロムの含量の高い白雲母「のものもあった」
が正しい
九州外まで輸出されてるから、結局「九州だけの倭国」はないんだけどね

53:日本@名無史さん
18/11/05 07:39:39.81 .net
筑紫を盟主とする連合国家である倭国だろ。

54:日本@名無史さん
18/11/05 07:52:28.61 .net
>>50
>筑紫を盟主とする連合国家である倭国だろ。
権力の可視化モニュメントである巨大墳丘墓の時代に
12×8メートルの墓しか作れない地域に王はいないよ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部、
てなサイズがある
畿内では纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートル
考古学的実体である墳丘墓を見れば、「九州が盟主」はないことが分かる
北部九州でも一時代前の吉野ヶ里遺跡北墳丘墓は、27×40メートルの大きさがある
北部九州の凋落は明らか

55:日本@名無史さん
18/11/05 08:19:39.98 .net
>>48
ありがとう。徳島では辰砂の「採掘」をしてたのがわかった。
でも、他の場所で辰砂を「採取」してなかったとは言えないね、地上に現れていたものを採っただけなら遺跡にはならないから。

56:日本@名無史さん
18/11/05 08:48:06.74 .net
>>52
>でも、他の場所で辰砂を「採取」してなかったとは言えないね、地上に現れていたものを採っただけなら遺跡にはならないから。
そんな少量では、とても全国各地の古墳に賄えないよ。 却下。  @阿波

57:日本@名無史さん
18/11/05 12:44:54.02 .net
墓の大きさしか頼るものがない畿内説。

58:日本@名無史さん
18/11/05 12:59:27.81 .net
そういうこった。
畿内の老人たちが、箸墓のドでかさで驚かして乗り切ろうとたくらんだものの、
ネット5ちゃんの情報力には、まるきり歯が立たず、ついに化けの皮がはがれたってわけだ。

59:日本@名無史さん
18/11/05 13:14:36.04 .net
>>53
魏志倭人伝の「其山丹有」と後々の古墳への使用は直接的には無関係だよ。

60:日本@名無史さん
18/11/05 13:37:04.72 .net
>>56
>魏志倭人伝の「其山丹有」と後々の古墳への使用は直接的には無関係だよ。
確かに、倭人伝には古墳の使用は書いていない。
が、「其山有丹」の山が若杉山しか該当しない事実があり、古墳に使用された朱も若杉山産である事実。
これは結果的に、「魏志倭人伝の「其山丹有」と後々の古墳への使用は直接的に関係する」ということ。  @阿波

61:日本@名無史さん
18/11/05 13:42:52.15 .net
>>57
意味がわからない。

62:日本@名無史さん
18/11/05 13:59:10.95 .net
>>58
補足すると
「『其山有丹』の山が若杉山しか該当しない事実」などないはずで、
仮に
「古墳に使用された朱も若杉山産である事実」が本当だとしても関係ないはずで意味不明ということ。

63:日本@名無史さん
18/11/05 15:31:50.65 .net
@阿波の其山牛丹有、日がな一日 食いしん坊の極みww

64:日本@名無史さん
18/11/05 15:34:06.46 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

65:日本@名無史さん
18/11/05 16:59:10.22 .net
>>59
>補足すると
>「『其山有丹』の山が若杉山しか該当しない事実」などないはずで、
少なくとも、今の時点では、「『其山有丹』の山が若杉山しか該当しないという事実。  @阿波

66:日本@名無史さん
18/11/05 19:17:26.65 .net
>>62
どういう論理なのか、さっぱりわからん。
辰砂は掘らなくても「山」に「有」ればいいんだよ。採掘する必要はないから。

67:日本@名無史さん
18/11/05 19:32:57.84 .net
阿波さんて孤立無援でよく頑張るな
もう読みもしないけど

68:日本@名無史さん
18/11/05 20:41:13.36 .net
>>63
>辰砂は掘らなくても「山」に「有」ればいいんだよ。採掘する必要はないから。
いつまでそんなこと言うつもりなんだい?
平成も終わろうとしている時代に、この体たらく。  
実に情けない。  @阿波

69:日本@名無史さん
18/11/05 20:48:10.33 .net
九州説も畿内説も、最早ガラパゴス状態。
当人たちはそれさえも気づいていないのだろうか? 
本心は、近づく倭国(阿波)の足音におびえているのだろう。  @阿波

70:日本@名無史さん
18/11/05 21:48:24.25 .net
>>66
URLリンク(www.mars.dti.ne.jp)

71:日本@名無史さん
18/11/06 17:01:10.64 .net
>>52横からすいませんが
私は、阿波の丹だけでは
倭人の身体に朱を塗る風習や古墳内に塗る量に
到底追い付かないと思うのです。
まず、みやま市こうやの宮の色彩像を見て下さい。
真っ赤に塗られた横にマッチョな色彩像を。
私は、これが倭人の戦士か海人族と思うのです。(たぶん海人族)
倭人は沢山の朱を使っていたはずです。
しかし阿波で発見された丹洞窟内は狭く長さも20m無いと記憶してます。
これでは四国内での消費量にも足りたのか疑問に思います。
古墳に使用した量だけでも阿波朱じゃ足らないはず。
きっと日本国内に他に鉱山があったはず。
中国から輸入していた説もあるでしょうが
あの色彩像をみる限り、国内で容易に調達できたと思っています。

72:日本@名無史さん
18/11/06 17:38:15.34 .net
ついでに
海人族が朱を沢山身体に塗ったのは
日焼けの働きもあったのかもしれません
(本人達が意識していたかは謎ですけど)
長期間、海を航海すれば、火傷並に日焼けしたでしょう
朱を塗れば日焼けしなかったと思ってます
さらにこうやの宮の赤い人の色彩像、
腕に金輪みたいなのをしています。
これは、たぶん貝輪です
この貝輪は、遠い沖縄でしか捕れない珍しい貝です。
海人族が遠い沖縄で貝輪を仕入れ、倭人に売った
(貨幣の貨は貝が化けるですもんねw)
初期の経済活動の始まりではないかと想像できます
この視点(想像ですが)も実は素晴らしい事なんですよ。
私には証拠も出せませんし、想像ばかりですが
書いてみましたm(__)m

73:日本@名無史さん
18/11/06 18:04:49.18 .net
さらにさらについでに
今私が注目しているのは
邪馬台国の(台)の漢字です
臺が、いきなり→台になるのでしょうか?
どなたか詳しい人がいましたら教えてください

74:日本@名無史さん
18/11/06 18:06:19.98 .net
常用漢字だけじゃね

75:日本@名無史さん
18/11/06 22:08:06.73 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

76:日本@名無史さん
18/11/06 22:29:04.80 .net
>>68
>私は、阿波の丹だけでは
>倭人の身体に朱を塗る風習や古墳内に塗る量に
>到底追い付かないと思うのです。
おなたがそう思うのは自由です。
ただ、全国唯一の辰砂採掘遺跡や出土した朱のイオウ同位体比を見る限り、
今現在は、あなたのその思いは外れていると言わざる得ませんね。  @阿波

77:日本@名無史さん
18/11/06 23:00:29.85 .net
>>73
徳島産の辰砂とほぼ同じ同位体比を有する辰砂は九州でも採れてる。
文献では三重産の辰砂だけは区別できるけど?そうでないものが徳島産なんて結果は出てない。
URLリンク(kindai.repo.nii.ac.jp)
「古代日本の主な朱産地である三重県丹生鉱山と徳島県水井鉱山および奈良県大和水銀鉱山の間には有意差 があり、丹生産かどうかを区別することが可能」
「弥生時代から古墳時代にかけた西日本各地の支配者階級の墳墓から出土した朱を我々が分析したところ、
イオウ同位体比が大きくプラス値に傾き、中国貴州省辰砂鉱山産とよく似た値を示す朱と、
マイナスの値を示して三重県丹生鉱山産とよく似た値を示す朱の存在を明らかにした。」
「一つの鉱山鉱脈において深さなどが異なってもイオウ同位体比に違いは少ないことを 明らかにしている。」
「古代では露頭部分付近から採取された朱を用いていたと思われるが、地中深くから採掘している現在の鉱 山鉱 石 のイオウ同位体比分析の結果はそれほど変わらないと考えられる。」
「丹生産辰砂鉱石は日本の他鉱山鉱石とイオウ同位体比の値が大きく異なっていた。丹生鉱山は縄文時代から朱の採掘が行われていたことから、弥生時代および古墳時代も朱が採掘されていたと考えられる。 」
「古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山であ る丹生鉱山産のイオウ同位体比 が他鉱山 と異なることは貴重�


78:ネデータであり、今後遺跡から出土する朱の産地推定に役立つと考える。」



79:日本@名無史さん
18/11/06 23:09:56.54 .net
>>73
徳島産の辰砂とほぼ同じ同位体比を有する辰砂は九州でも採れてる。
文献では三重産の辰砂だけは区別できるけど?そうでないものが徳島産なんて結果は出てない。
URLリンク(kindai.repo.nii.ac.jp)
「古代日本の主な朱産地である三重県丹生鉱山と徳島県水井鉱山および奈良県大和水銀鉱山の間には有意差があり、丹生産かどうかを区別することが可能」
「弥生時代から古墳時代にかけた西日本各地の支配者階級の墳墓から出土した朱を我々が分析したところ、
イオウ同位体比が大きくプラス値に傾き、中国貴州省辰砂鉱山産とよく似た値を示す朱と、
マイナスの値を示して三重県丹生鉱山産とよく似た値を示す朱の存在を明らかにした。」
「一つの鉱山鉱脈において深さなどが異なってもイオウ同位体比に違いは少ないことを明らかにしている。」
「古代では露頭部分付近から採取された朱を用いていたと思われるが、地中深くから採掘している現在の鉱山鉱石のイオウ同位体比分析の結果はそれほど変わらないと考えられる。」
「丹生産辰砂鉱石は日本の他鉱山鉱石とイオウ同位体比の値が大きく異なっていた。丹生鉱山は縄文時代から朱の採掘が行われていたことから、弥生時代および古墳時代も朱が採掘されていたと考えられる。 」
「古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山である丹生鉱山産のイオウ同位体比 が他鉱山と異なることは貴重なデータであり、今後遺跡から出土する朱の産地推定に役立つと考える。」

80:日本@名無史さん
18/11/07 02:16:24.52 .net
実はみやま、大牟田、荒尾あたりに大きな国があったんだよ
ただ大規模な古墳や遺跡は見つかっていない
なぜなら意図的に隠されたから
特に大牟田、荒尾は炭鉱があったし、遺跡なんか出ちゃ迷惑だったんだよ
という仮説

81:日本@名無史さん
18/11/07 06:43:45.66 .net
>>76
いや、普通に遺跡密集地帯で
鍛冶遺跡が多いですよ
筑紫と肥の国境で戦の痕跡も多いですね

82:日本@名無史さん
18/11/07 06:50:44.08 .net
>>74
>古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山
少なくとも、今現在、卑弥呼の時代に「辰砂鉱石採取」をしていたと、認められない。  @阿波

83:日本@名無史さん
18/11/07 06:55:53.72 .net
>>77
根拠を示さないと!  投稿する意味なし。  @阿波

84:日本@名無史さん
18/11/07 07:25:14.55 .net
>>77
>筑紫と肥の国境で戦の痕跡も多いですね
つまりは邪馬台国と狗奴国の国境だろ。

85:日本@名無史さん
18/11/07 07:41:21.50 .net
>>80
>つまりは邪馬台国と狗奴国の国境だろ。
その「邪馬台国と狗奴国」に相応しい集落遺跡群を示せないというお粗末。  @阿波

86:日本@名無史さん
18/11/07 08:00:32.76 .net
>>78
していなかったという断定さえできなければ、鉱脈がある場所では十分可能性は残る。「古代では露頭部分から採取」していたのなら遺跡は残らない。

87:日本@名無史さん
18/11/07 08:55:30.03 .net
でも精製してたら遺物は残る

88:日本@名無史さん
18/11/07 08:55:37.57 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

89:日本@名無史さん
18/11/07 09:34:12.29 .net
>>82
ところで、九州では朱の精製跡さえないのかね?  辰砂鉱脈のない吉備にさえあるのに。  @阿波

90:日本@名無史さん
18/11/07 12:29:14.98 .net
>>85
大きめの遺跡にはたいていあるよ
吉野ケ里にもあるし。
北部九州の朱丹の使用量は大きいからね。

91:日本@名無史さん
18/11/07 12:38:40.08 .net
>>86
>吉野ケ里にもあるし。

ウソはイカンぜよ。  @阿波

92:日本@名無史さん
18/11/07 13:21:49.89 .net
>>83
>でも精製してたら遺物は残る
そして、朱の取引に使われたのではないかと推定されている分銅(石製)は
畿内の亀井遺跡から出土している
河内の中心集落だよ

93:日本@名無史さん
18/11/07 14:51:41.10 .net
>>88
>そして、朱の取引に使われたのではないかと推定されているその取引された朱が、若杉山産の朱という落ち。

>分銅(石製)は 畿内の亀井遺跡から出土している
出荷元の倭国(阿波)では、祭祀具にまで、昇華している。
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)
注目されるのは分銅形土製品がある。分銅形土製品には目・鼻・口など顔が線刻されており、祭祀に用いられたと思われる。
URLリンク(awakouko.info)

>河内の中心集落だよ
「西長峰遺跡」程度では倭国(阿波)の中心遺跡とはならない。  @阿波

94:日本@名無史さん
18/11/07 15:06:17.90 .net
>>88
>分銅(石製)は 畿内の亀井遺跡から出土している

その分銅(石製)は、まず間違いなく倭国(阿波)の「青石」だよ。  @阿波

95:日本@名無史さん
18/11/07 15:15:57.35 .net
なんで阿波が福岡説にはりついてんだよ
畿内は潰し終わったのか

96:日本@名無史さん
18/11/07 15:20:40.77 .net
>>91
>なんで阿波が福岡説にはりついてんだよ
面白いから。

>畿内は潰し終わったのか
やはり、畿内を潰すのは倭国(阿波)の役割だと?  もはや他力本願に成り下がったか、九州説。  @阿波

97:日本@名無史さん
18/11/07 16:15:24.68 .net
>>89
ふんどうがたどせいひん
 天秤(てんびん)に乗せて重さを量る分銅と「形が似ている」ことから名称が付けられた土製品。



98:`が似ているだけで、分銅として使われてないじゃんww



99:日本@名無史さん
18/11/07 16:33:01.06 .net
>>93
>形が似ているだけで、分銅として使われてないじゃんww
だって、これ、分銅の親分(化身)だから、分銅として使ったら罰が当たるよ。  @阿波

100:日本@名無史さん
18/11/07 16:37:19.46 .net
>>94
>だって、これ、分銅の親分(化身)だから、分銅として使ったら罰が当たるよ。  @阿波
おいおい、「分銅と形が似ている」といっても、似ているのは弥生時代の分銅じゃなくて
江戸時代とかの分銅だぞww
後藤分銅でググってごらん
プラナリアの頭形土製品って名前にした方が、有名になっただろうに

101:日本@名無史さん
18/11/07 16:48:40.42 .net
>>95
>プラナリアの頭形土製品って名前にした方が、有名になっただろうに
じゃ、そうしよう。 
土製仮面はどうする?  @阿波 
URLリンク(awakouko.info)

102:日本@名無史さん
18/11/07 18:41:24.78 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

103:日本@名無史さん
18/11/08 10:59:45.89 .net
>>96
>土製仮面はどうする?  @阿波 
登録、ログインしないと見られない

104:日本@名無史さん
18/11/08 16:20:14.42 .net
転載ですが
このHPは見やすく九州の古墳の発掘品の一覧表です
URLリンク(www.netpia.jp)
この表には土器や石製品等は含まれていません
当時と現在では海岸線が違うはずなので
海岸線をうまく重ねると面白いかもしれません。
しかし凄い量の品々ですね  

105:日本@名無史さん
18/11/08 17:34:02.80 .net
>>99
肝心かなめの弥生時代後期の遺跡がすくないねぇ。
しかも、ほとんど古墳ばかり。 
申し訳ないけれど、遺跡発掘の少ない倭国(阿波)の遺跡に比べて、パッとしたものがない。  @阿波  
@阿波

106:日本@名無史さん
18/11/08 18:40:23.34 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)

.

107:日本@名無史さん
18/11/08 19:50:27.93 .net
>>100
ところでどうして倭国(阿波)と書くの?
徳島とでも書けばいいのに。
倭と阿波は関係ないみたいだけど。
ウィキペディアには
「『阿波』の名称と由来
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていた。
(中略)
のち、律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。
和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため『粟』は『阿波』に変更された。」
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)
粟の方も倭国とは関係ないようだし。
「アワの語源は五穀の中でも味が淡いためだとか、穂が大きいところから大穂 (オオホ)が転じたものとか、
『ア』は小さい意味を、また『ワ』は丸いことを意味し、 穎果の形状からきたもの、
などの諸説があり、この他にも次のような説がある。
中国 ではアワを『黄禾』ともいっており、 禾(カ)はノギ偏の元祖で稲などの穀類を表わし、 黄色い穀類という意味である。
これを[A-Fa]と発音したために、これが日本に伝来 したとき、アワとなったとする説。朝鮮語では[ho-a]と発音し、これがアワとなった とする説などである。」

108:日本@名無史さん
18/11/08 20:26:03.48 .net
>>102
>倭と阿波は関係ないみたいだけど。
「倭大國魂神社」・「倭大國敷神社」と
「倭」が付く物証が全国で「阿波」にしかない。 他所にあれば倭国(阿波)とは言わない。
ゆえに、唯一「阿波」が倭国(阿波)である。  @阿波

109:日本@名無史さん
18/11/08 23:08:44.17 .net
>>103
何の物証なのかわかりません

110:日本@名無史さん
18/11/09 00:13:13.04 .net
壱岐の原の辻をもっと調査して欲しい。
ここ見ると畿内の影響受けてたとは思えないんだよなぁ。

111:日本@名無史さん
18/11/09 06:41:47.51 .net
>>104
>何の物証なのかわかりません
「倭」が付く物証
と、何度言えばw  @阿波

112:日本@名無史さん
18/11/09 08:13:51.12 .net
>>106
「倭」が名前に付いてるのが何?

113:日本@名無史さん
18/11/09 08:19:56.58 .net
>>105
そこ、多分、高天原

114:日本@名無史さん
18/11/09 08:19:56.66 .net
>>107
>「倭」が名前に付いてるのが何?

「倭」が名前に付いてるのが倭国(阿波)にだけ。  @阿波

115:日本@名無史さん
18/11/09 08:23:04.10 .net
>>107
>「倭」が名前に付いてるのが何?

「倭」が名前に付いてるものが無いところは論外。  @阿波

116:日本@名無史さん
18/11/09 08:25:02.28 .net
>>110
倭は、中国人が発音から当てた字で日本側が使ってるのはおかしいね。

117:日本@名無史さん
18/11/09 08:55:19.32 .net
>>111
>倭は、中国人が発音から当てた字で日本側が使ってるのはおかしいね。

そうだねぇ、倭は、中国人が発音から当てた字で倭国(阿波)にだけ使ってるのはおかしいね。  @阿波

118:日本@名無史さん
18/11/09 11:51:19.11 .net
第三者視点から研究するほうが公正かつ正確(思い入れフィクションが入りにくい)ということで支那文献に記載の漢字を積極的に使おうとするけど
日本人は背が小さくて「矮」小だから倭國とか「邪」馬壹国とか「卑」弥呼とかを積極的に使うことに抵抗がある
邪馬壹国や卑弥呼に関してはどう読むかの論争があるからアレだけど、倭國はワのクニで間違いないんだから和国で良いんじゃないかっていつも感じる

119:日本@名無史さん
18/11/09 11:57:09.77 .net
>>113
>倭國はワのクニで間違いないんだから和国で良いんじゃないかっていつも感じる
倭國はワのクニで間違いないんだから
「倭大國魂神社」・「倭大國敷神社」と
「倭」が付く物証が全国で唯一「阿波」にしかない「阿波」が倭国(阿波)で良いんじゃないかっていつも感じる。  @阿波

120:日本@名無史さん
18/11/09 12:01:03.99 .net
>>114
う~ん
あれだけ聖徳太子が嫌がってた「倭」だよ
むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが薄れてしまった後年に作られたって解釈するほうがhiSTORYとしては自然だと思うけどな

121:日本@名無史さん
18/11/09 12:18:03.25 .net
>>115
>むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが薄れてしまった後年に作られたって
う~ん
むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが分からなかった時代に作られたって解釈するほうがhiSTORYとしては自然だと思うけどな。  @阿波  

122:日本@名無史さん
18/11/09 12:53:25.89 .net
>>116
なるほど、それは一理あるかもしれんね
てかここ福岡説のスレなのに何で阿波説を説いてるの?

123:日本@名無史さん
18/11/09 13:17:14.71 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

124:日本@名無史さん
18/11/09 14:29:11.66 .net
>>117
>てかここ福岡説のスレなのに何で阿波説を説いてるの?

それはね、福岡が「筑紫忌部」によって今日があるからだよ。  @阿波

125:日本@名無史さん
18/11/09 20:52:34.92 .net
筑紫忌部族は久留米の高良玉垂の子孫
よく判らないのは高良大社と香春神社の関係性
九州の詳しい人がいたら教えて下さい 
 

126:日本@名無史さん
18/11/09 20:58:58.24 .net
想像ですが
高良玉垂が月神なら対極がヒミコかなと
 

127:日本@名無史さん
18/11/09 21:39:49.57 .net
ウエツフミってどうなんだろう
豊国文字も

128:日本@名無史さん
18/11/09 23:49:21.40 .net
>>120
筑後一宮高良大社の末社はおしなべて武内宿禰を祭り神としているため、高良の神とは武内宿禰のことと考えられます。
筑前一宮住吉神社の住吉の神も、武内宿禰のことと言われます。仲哀天皇の崩御の夜に神功皇后との間に密事ありと伝えられます。
つまり4世紀末において、筑前筑後を支配した筑紫の倭王こそ、武内宿禰です。
密事から十月十日後に誕生した応神天皇の家系が、その後の倭国の正統とされています。

129:日本@名無史さん
18/11/09 23:58:51.75 .net
香春宮の田油津姫は、景行天皇と共闘していた筑紫の梟師すなわち倭王である神夏磯姫の末裔と伝えられています。
神夏磯姫は年代的には壹與(肥前一宮河上神社の淀姫)の直後の倭国(邪馬台国)の女王です。
景行天皇の九州上陸の際に、八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて神威を示しました。
田油津姫も、倭国の王の一人であったと考えられます。
当時の倭国(九州北部)には、高良玉垂宮、香椎宮、穴門豊浦宮、岡田宮、箱崎宮など、多くの宮があり、それぞれに宮様、つまり王族がいたのでしょう。

130:日本@名無史さん
18/11/10 08:36:14.44 .net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

. 

131:日本@名無史さん
18/11/10 15:16:12.04 .net
>>125
カマ野郎消えろ

132:日本@名無史さん
18/11/10 21:05:24.91 .net
>>123
>>124
おそくなりましたが
詳しい説明ありがとうございます
最近、気になる古本(¥38000(ToT)高すぎ)がありまして
八幡大菩薩愚童訓
これを知ってる人いますか?
 

133:日本@名無史さん
18/11/10 21:08:30.95 .net
これ?
URLリンク(www.kosho.or.jp)

134:日本@名無史さん
18/11/11 06:09:56.71 .net
>>128値段がぜんぜん違うw
教えてくれてありがとう
(^3^)/

135:日本@名無史さん
18/11/11 09:10:31.29 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

136:日本@名無史さん
18/11/11 20:59:07.84 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

137:日本@名無史さん
18/11/14 18:31:22.09 .net
次のサイト図付きで分かりやすい
URLリンク(kodaishi.net)

138:日本@名無史さん
18/11/18 15:25:31.90 .net
ニュース速報+より
(4): (新潟県) [NZ] 11/18(日)14:20 ID:uKzdSSEW0(1) BE AAS
BEアイコン:miyabi.gif
弥生人骨、予想覆し「渡来系」大半…鳥取の遺跡
2018年11月18日 13時59分
鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、
鳥取県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、
同町の市青谷町総合支所で開かれた。
大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。
遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。
調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。
報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。
市民ら約130人が聞き入った。
篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。
当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。
しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。
DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。
青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、
交易で栄えていたことがうかがえるという。
また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。
しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。
外部リンク[html]:www.yomiuri.co.jp

139:日本@名無史さん
18/11/18 15:33:30.08 .net
ごめんなさいニュース速報だった
URLリンク(n2ch.net)
もしかして島根出雲鳥取あたりは渡来系かな
九州は縄文と渡来系の両方でるから倭人かな?
  👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9)


140:日本@名無史さん
18/11/18 17:31:55.58 .net
環日本海交流圏だな。
出雲は公益により発展し、九州北部では天津神と国津神が対峙または共存していた。

141:日本@名無史さん
18/11/18 22:38:49.26 .net
記紀では確か神武天皇の妃は国津神の事代主の娘。

142:日本@名無史さん
18/11/18 23:01:40.15 .net
それは後付け。
塗矢伝説と言って、父親が不明だったものを神様にこじつけただけ。
むしろ母親が大山積や三島の神(鴨主)の家系だ。

143:日本@名無史さん
18/11/19 05:08:29.71 .net



144:朝で時間がないからニュース速報+のコピーですまん 11/17(土)04:55 ID:QsczJxFn0(1) AAS どうやら邪馬台国は九州で決着のようだな 71 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 02:13:12.52 ID:WkLyAWvr0 北部九州は縄文時代から西日本の中心だからな そしてそれは弥生時代から古墳時代にかけても継続した 縄文時代の貝の交易マップと、北部九州の海人族・安曇の分布がほぼ一致している 縄文時代の貝の交易 外部リンク:blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp 画像リンク[jpg]:www.gondo.com 安曇族ゆかりの地 画像リンク[jpg]:4.bp.blogspot.com また、縄文時代には貝で作った貝輪が北部九州の有力者の証だったが、弥生時代以降にはそれをモデルにして銅で作った 銅釧(どうくしろ)というものがこれに代わり、やはり同様の分布を示す 銅釧出土地 画像リンク[png]:www.city.ichihara.chiba.jp 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる 外部リンク[htm]:www.city.ichihara.chiba.jp >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、 >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。 やはり、邪馬台国の時代に至っても北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ 銅釧の出土を見ると、畿内も大阪湾南岸は既に北部九州の勢力下に入っていたようだ 現在の和泉市や泉佐野市のあたりなのを見ると、和泉(イズミ)も安曇(アズミ)由来の地名のようだな 72 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 02:29:56.78 ID:eKkX3/450 >>71 画像リンク[jpg]:www.gondo.com この地図で「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」と書かれているオレンジ色の範囲が邪馬台国かな 魏志倭人伝に出てくる侏儒国は種子島だと言われているけど、「女王国を去ること南に四千里」という位置情報とも 完全に一致している こっちのスレもたってます        



145:日本@名無史さん
18/11/19 05:09:28.51 .net
アタマのビョーインに行けw

146:日本@名無史さん
18/11/19 07:34:22.48 .net
>>138
>この地図で「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」と書かれているオレンジ色の範囲が邪馬台国かな
邪馬台国というより、倭国だろう。
邪馬台国は王都となっているから、福岡。

147:日本@名無史さん
18/11/19 12:37:05.73 .net
前スレで取り上げた事がニュース速報+でスレたってた
URLリンク(n2ch.net) 
やっぱり貝輪と海人族のつながりは興味深い
あと大分の金細工の鉄鏡のトルコ石使用も謎のまま 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9)


148:日本@名無史さん
18/11/19 15:22:29.29 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で


149:、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。



150:日本@名無史さん
18/11/20 19:31:00.94 .net
大分の鉄鏡を気にしてたら
またニュース速報+にスレきたわw
初期の邪馬台国は女王は大分から来て福岡に
住み着いたのかなあ
URLリンク(n2ch.net) 
またロックされるのかな 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9)


151:日本@名無史さん
18/11/20 19:35:47.11 .net
大分の鉄鏡のトルコ石が
どこから伝わったか説明できる人いる?
不思議だよね
私たちの想像以上に昔の人達は活動的だったのかも

152:日本@名無史さん
18/11/20 22:53:14.79 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

153:日本@名無史さん
18/11/21 20:39:17.73 .net
アマテラスやヤマトヒメの古墳はどこ?

154:日本@名無史さん
18/11/21 20:48:14.46 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

155:日本@名無史さん
18/11/22 12:50:09.92 .net
万葉集に
「河内王を豊前国(=大分県か田川郡鏡山神社)の鏡山に葬る時」
という題のつけられ「豊国の鏡の山の
岩戸立て隠りにけら」という歌がある。
河内王が鏡山を墓として埋葬されたという歌だが、
このときの岩戸とは死者が他界に行く入口を指している。
古来から日本では他界に去った死者の霊は
山の神となって生者の守り神となると考えられていた。

156:日本@名無史さん
18/11/22 12:55:01.69 .net
なぜ河内王は田川郡の小さな鏡山に埋葬されたのか?

157:日本@名無史さん
18/11/22 13:50:36.68 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)

.

158:日本@名無史さん
18/11/23 15:18:43.65 .net
>>138
誰かがその辺をまとめてこっちの板にも持ってきたみたいだよ
瀬戸内海も日本海も九州の海人の勢力圏だったというのは面白いね
【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
スレリンク(history板:593番)-602

159:日本@名無史さん
18/11/23 15:30:47.91 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

160:日本@名無史さん
18/11/24 14:30:29.45 .net
ごほうらの貝がー、銅釧がー、って言ってコピペして回ってる人は
東遷厨って呼ばれる人なんだってね

161:日本@名無史さん
18/11/24 22:46:11.61 .net
>>153
負け犬の中傷ほど惨めなものはない

162:日本@名無史さん
18/11/26 00:13:24.56 .net
面白い見解があったのでコピーさせていただきました
546: 11/25(日)17:08 ID:qvgWxeKF0(1) AAS
倭国の政変は3世紀末~4世紀前半頃で、卑弥呼の時代より少し後
卑弥呼のいた弥生末に九州中心に分布していた破鏡が古墳前期には瀬戸内海~畿内へ移動している
一枚の鏡を割って割符とし、穴を開けて紐を通し兵士たちが持って移動した
 166 :ホワイトケープ :2018/10/06(土) 18:57:54.78
 破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。
 弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。
 次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期~終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。
 図40(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
 図41(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
 熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。
 ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。
 当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。
 福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。
 家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。
 出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。
 兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。
 突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。
 妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。
 鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。
 三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。
 東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。
 九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。
 
素晴らしい見解と思いませんか?

163:日本@名無史さん
18/11/26 00:18:53.47 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

164:日本@名無史さん
18/11/26 00:51:07.32 .net
>>155はニュース速報+のスレから
【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡

165:日本@名無史さん
18/11/26 01:04:34.72 .net
鏡が与えられてる兵士って将軍レベルだよな

166:日本@名無史さん
18/11/26 01:15:13.32 .net
班長レベルじゃないかな
割って仲間同志の割り符としたとか
しかし銅鐸は何に使ったのかね

167:日本@名無史さん
18/11/26 01:22:54.52 .net
>>155
大元の出処はこのスレの166みたいだな
神武・倭国の連合東遷説
スレリンク(history板)
そのホワイトケープってコテは他にも同一地名や山名の分布とか分析しててなかなか本格的に調べているように見える

168:日本@名無史さん
18/11/26 01:37:11.56 .net
>>155
肝心の図が見れなかったんで>>160から引っ張ってきた
確かに移動がはっきり見て取れるな
図40(URLリンク(vbsoft.sub.jp)
図41(URLリンク(vbsoft.sub.jp)

169:日本@名無史さん
18/11/26 03:35:25.94 .net
>>144
水銀の生成法から大陸製ってことが判明してる

170:日本@名無史さん
18/11/26 09:44:43.70 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

171:日本@名無史さん
18/11/26 13:17:50.46 .net
台与は海人族の娘で那島の姫だよ

172:日本@名無史さん
18/11/26 13:20:35.74 .net
>>164
根拠のない妄想

173:日本@名無史さん
18/11/26 17:31:42.35 .net
お疲れ様です。
私初めて>>160を読ませて

174:日本@名無史さん
18/11/26 17:44:28.15 .net
お疲れ様です。
私初めて>>160を読ませてもらいましたが
スゴイ!びっくり、素晴らしい
一度でファンになりました。

175:日本@名無史さん
18/11/26 17:46:06.05 .net
>>167
こっちじゃなくあっちに書いてやれよマヌケ

176:日本@名無史さん
18/11/27 11:58:12.02 .net
自演による誘導だろw

177:日本@名無史さん
18/11/29 15:18:25.54 .net
根拠もない妄想なんですが
倭国の人達は
倭の全体の土地が家(神社や宮)と考えて
クニグニの名前をつけてないかな?
大工の専門用語と被るね。
宗像→棟方(神社や家の屋根)
投馬(つま)→妻(建物の端の壁)
偶然bゥな。
建鋳z詳しくないけbヌ調べたら、もbチとあるかも?=@ 

178:日本@末シ無史さん
18/11/29 15:20:50.45 .net
あれ?文字化けしてるゴメン

179:日本@名無史さん
18/11/29 15:27:43.22 .net
テスト

180:日本@名無史さん
18/11/29 17:19:54.64 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)

.

181:日本@名無史さん
18/11/29 20:28:11.54 .net
「戦」いくさ
単とは頭に鷹の羽根を3枚頭にさして
戈を手に持った姿
単+戈=戦
その昔、田川(鷹羽)の戦士達は頭に鷹の羽根をさしていて
とても勇敢だったらしい
信長の時代だったかな、九州の兵士は
滅茶苦茶に強かったから、なかなか手を出さなかった
島津軍もほんとに強かったそうだ

182:日本@名無史さん
18/11/29 23:20:50.76 .net
>>174
タカミムスビ

183:日本@名無史さん
18/12/08 21:27:18.46 .net
日本書記や古事記の中つ国葦原とは
福岡県筑紫郡那珂川辺りだね
ヤマタノオロチは那珂川を含めて裂田の溝を含めている
洪水被害の多かった地域に「さくたのうなで」を
造ったことで地域に安定をもたらした
裂田神社の横の地中の大岩(花こう岩)が
ヤマタノオロチで剣の刃が欠けた所
偶然かも?その地域は山田ノオロチ
神話の始まりは、やはり福岡
@東京

184:日本@名無史さん
18/12/08 21:40:44.81 .net
つまりヤマタノオロチとは
水害洪水で住民に被害をもたらす
川のこと

185:日本@名無史さん
18/12/08 21:43:54.79 .net
>>177
その川は倭国(阿波)の大河。  @阿波

186:日本@名無史さん
18/12/08 22:50:33.00 .net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

. 

187:日本@名無史さん
18/12/09 07:31:22.57 .net
豊中国葦原を筑紫郡山田一帯とするならば
那珂川の上流側に天の高原があることになる 

188:日本@名無史さん
18/12/09 10:18:55.65 .net
日本、古倭奴也。
去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。
國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。
左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。
置本率一人、檢察諸部。
旧唐書と新唐書
平家物語をよんでも当時の人々の家は

189:日本@名無史さん
18/12/09 12:17:03.80 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

190:日本@名無史さん
18/12/09 20:36:45.55 .net
今日、江戸東京博物館に行ってきました
企画展「古代を彩る至宝(玉)」を見てきました
全国に翡翠、赤メノウ、碧玉など
いろんな勾玉がありますね
あぁいろんな所を旅したくなった

191:日本@名無史さん
18/12/11 12:13:36.10 .net
最近ニュース速報+に古代史歴史スレが、よく立つね。
これ気に入った
963: 12/11(火)09:13 ID:R4EL


192:cWF90(12/17) AAS >>954 邪馬台国畿内説などと言う学説は存在しない 卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して 緩やかに連合している状態であり、 どの勢力も他を軍事的に統括することは出来ずにいた。 これは古代日本史の完全な常識であり、異を唱えるものなど居ない。 しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。 つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺を軍事的に統括することが出来ずにいるのに 中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括することが出来たと主張することになる。 このような説はバカが言う説であり、もはや学問の体をなしていない。 邪馬台国畿内説は検証を加える以前に、立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。 邪馬台国畿内説は、ただのファンタジー 



193:日本@名無史さん
18/12/11 12:21:16.74 .net
>>183
>全国に翡翠、赤メノウ、碧玉など
>いろんな勾玉がありますね
>あぁいろんな所を旅したくなった

勾玉の発祥・供給地も倭国(阿波) と、何度言えばw  
勾玉製作の本家本元 倭国(阿波)へいらっしゃい。  @阿波

194:日本@名無史さん
18/12/11 12:24:18.28 .net
>>184
>卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
>緩やかに連合している状態であり
妄想過多。 各地で「忌部はん」が活動・活躍しているだけのこと。  @阿波

195:日本@名無史さん
18/12/11 12:27:06.39 .net
考古学者って歴史を知らないバカ集団だからね

196:日本@名無史さん
18/12/11 13:40:53.07 .net
>>184
そもそも畿内説って言葉の時点でセンスがない

197:日本@名無史さん
18/12/11 13:45:10.77 .net
大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。

198:日本@名無史さん
18/12/11 13:55:45.40 .net
>>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。
それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。  @阿波

199:日本@名無史さん
18/12/11 13:56:11.56 .net
【アマルガム】 有毒廃棄物として処理される水銀を、口の中ならOK、と歯に詰めた歯科医を逮捕すべき
スレリンク(liveplus板)
ロボトミー手術・・・ この手術を考案したモニッツは、ノーベル賞を受賞している
URLリンク(twitter.com)
(deleted an unsolicited ad)

200:日本@名無史さん
18/12/11 17:07:17.84 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

201:日本@名無史さん
18/12/12 11:28:14.18 .net
忘れない内にコピーしとこ
: 09/05(水)23:12 AAS
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた

202:日本@名無史さん
18/12/12 12:41:05.34 .net
【筑紫の日向】
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

203:日本@名無史さん
18/12/12 14:28:34.61 .net
クジフルとは久智古?久智振?
あと津の意味は、港?船着き場?市場?
どなたか教えてください

204:日本@名無史さん
18/12/12 14:40:06.12 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

205:日本@名無史さん
18/12/12 14:40:36.74 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

206:日本@名無史さん
18/12/12 14:44:02.89 .net
青柳種信ってどうなん

207:日本@名無史さん
18/12/12 16:39:12.82 .net
>>195
漢字がなかった頃の地名だから、漢字は全て当て字。

208:日本@名無史さん
18/12/12 16:59:36.01 .net
>>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。
それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。  @阿波

209:日本@名無史さん
18/12/12 17:27:01.48 .net
>>195
本来の意味は船着き場です。でも発展すれば港にも市にもなるでしょ

210:日本@名無史さん
18/12/13 12:37:12.11 .net
>>201わかりました。ありがとうございます

211:日本@名無史さん
18/12/16 18:31:17.87 .net
猿田彦
実は、猿田→さるた→去る田
天照の領地の古代米を配った、もしくは苗を配った人
 
古代米をサルタと言う場所も有るんだよ
 
やっぱり人間だもの
食べさせてくれる人(農業指導者)が初期の神になったはず
 
もちろん妄想だけどね、当たってる気もする

212:日本@名無史さん
18/12/16 18:40:27.13 .net
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。  @阿波

213:日本@名無史さん
18/12/16 18:45:52.51 .net
だからサルタ彦も農業神と思うんです

214:日本@名無史さん
18/12/16 18:53


215::46.52 .net



216:日本@名無史さん
18/12/16 18:54:38.39 .net
「忌部はん」 はみんな農業神でもあり、最先端のスーパー頭脳集団なんだよ。  @阿波

217:日本@名無史さん
18/12/16 18:55:59.57 .net
>>206
>キビも穀物名
吉備が?  @阿波

218:日本@名無史さん
18/12/16 19:02:36.96 .net
米国

219:日本@名無史さん
18/12/16 19:15:14.66 .net
>>193高祖村24戸
これよく読んで思ったのは
倭人伝の住民2万などの表記は嘘かも。無理がある
何人が調べたのか知らないけど
万の数字を数えるのは想像以上に難しいぞ
 

220:日本@名無史さん
18/12/16 19:51:42.03 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

221:日本@名無史さん
18/12/16 19:52:38.97 .net
筑前国郡絵図 福岡県立図書館 怡土郡
これに高祖村の椚地区が何処なのか記してある

222:日本@名無史さん
18/12/16 19:55:29.28 .net
椚って現在でも残ってる地名じゃんか

223:日本@名無史さん
18/12/16 20:29:00.54 .net
: 09/05(水)23:12 AAS
>「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべ>しと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
>其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
>民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
>田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
江戸時代にこの状況だったから、三世紀の高祖村なんて、どうだったんだろうね。
此処に出てくる原田家というのは、中世以来のこの地の領主・旧家だろ。原田大六も其の家系だったのかな。

224:日本@名無史さん
18/12/17 07:26:22.50 .net
逆に、今の椚集落はかつての五郎丸とやらの中にあるということだな。
つまりは高祖城の城郭の中ということだ。
高祖城、怡土城の城域は200ヘクタールとされているが、椚は含まれていなかったように思う。
しかし実は椚やその傍を通る日向峠も城域に含まれていたのだろう。
そうでないと伊都の防衛に不足するもんな。
伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。

225:日本@名無史さん
18/12/17 08:33:53.34 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

226:日本@名無史さん
18/12/18 16:19:09.98 .net
>>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。
読んでて哀れになるから、妄想の九州説を書き連ねても無駄だと思うよ?
高祖城なんて、3世紀以前にはあるはすもないんだから

227:日本@名無史さん
18/12/18 17:46:50.92 .net
では筑紫城と呼ぶか?
伊都城?
高千穂宮?

228:日本@名無史さん
18/12/18 17:54:39.38 .net
>>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw   @阿波

229:日本@名無史さん
18/12/18 18:00:23.57 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

230:日本@名無史さん
18/12/18 18:33:22.53 .net
筑前・高祖城 (別名:高祖山城,原田城)
>形態・朝鮮式山城(416m/380m)
>建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は元・怡土城の一部を利用して築かれている。

231:日本@名無史さん
18/12/18 19:01:41.01 .net
筑前・高祖城主の原田一族は、中国人の血筋だった、、、

232:日本@名無史さん
18/12/18 19:09:24.12 .net
伊都城と書いたほうがいいのか?
もともと中国の国邑は城壁を持つのが普通だしな。
奴国は城壁など持たない広域都市だったろうけど。

233:日本@名無史さん
18/12/19 05:11:09.48 .net
「年魚あり」これってどの古文に書いてあるのかな
忘れて見つけられない

234:日本@名無史さん
18/12/19 07:32:04.60 .net
筑紫の日向のクジフル山にある宮なら、高千穂宮と呼ぶべきかな。
魏志倭人伝も記紀も、伊都が倭の王都ということで一致していることになる。
そもそも、これだけの大国?で王都の場所がはっきりしていないなんておかしいけどな。
隋書や唐書を読んでも、倭の王都はそもそも筑紫なんだよ。

235:日本@名無史さん
18/12/19 08:28:10.74 .net
筑紫の日向の橘の・・・、宮崎だろ。

236:日本@名無史さん
18/12/19 08:33:54.78 .net
筑紫の日向の小戸が福岡市西区小戸

237:日本@名無史さん
18/12/19 08:34:13.32 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

238:日本@名無史さん
18/12/19 08:39:28.65 .net
西向きの伊都・高祖・日向ではねえ
糸島は、博多奴国から監視されてたんじゃないの

239:日本@名無史さん
18/12/19 08:46:15.71 .net
西向きだからいいんだよ。
神武が長髄彦


240:と戦った時の言葉に、天神は太陽を背にするべきだとある。 高祖宮はまさにその通りの配置なんだよ。 糸島平野から見ると、高千穂の神奈備を日の出る方角に仰ぎ見ることになる。 これは神仙思想や天照の太陽信仰にも通じる。



241:日本@名無史さん
18/12/19 08:55:29.05 .net
>>227
ウソはイカンぜよ
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」 
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。   @阿波

242:日本@名無史さん
18/12/19 08:58:00.08 .net
西は日の没するところ
ま、仰ぎ見るということは、臣下だったということだな

243:日本@名無史さん
18/12/19 09:01:16.75 .net
糸島平野は、筑紫平野の1/30ほどしかない。しかも西向きのどん詰まり。
笑わせんな。

244:日本@名無史さん
18/12/19 09:04:48.62 .net
>>233
まぁまぁ、トンデモ九州同士、喧嘩はおよし。  @阿波

245:日本@名無史さん
18/12/19 09:08:52.40 .net
怡土城の城郭は、山頂と西麓にあるので、三雲地区から見上げることになる。
福岡側からは見えない。
臣民は東を仰ぎ見て、天神は太陽を背に君臨する構図になる。

246:日本@名無史さん
18/12/19 09:13:30.17 .net
雑穀か。
古代の中原の主食はアワ、アワめしが一番の御馳走だったのだ。

247:日本@名無史さん
18/12/19 09:16:40.51 .net
福岡の出城で、糸島の監視台だったのだろうな。
そう考えると配置が良くわかる。

248:日本@名無史さん
18/12/19 10:23:20.11 .net
もめないで答えてくれ
年魚ありってどの古文にのってるのさ

249:日本@名無史さん
18/12/19 10:43:07.06 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

250:日本@名無史さん
18/12/19 11:16:44.54 .net
>>238
>年魚ありってどの古文にのってるのさ
ヨコだが、「年魚あり」の記述は知らないが、「年魚」は
延喜式(巻7、神祇7)[践祚大嘗祭式]の「由加物」条に有る「らしい」。  @阿波
・阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬 各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四具 鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女等量程造備
・凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京之日 路次之国掃道路祗承

251:日本@名無史さん
18/12/19 12:18:19.99 .net
邪馬台国は最低でも一級河川を管理下においている。

252:日本@名無史さん
18/12/19 12:21:55.05 .net
那珂川

253:日本@名無史さん
18/12/19 12:22:23.66 .net
>>237
邪馬台国時代、奴国に王はいない。

254:日本@名無史さん
18/12/19 12:33:54.81 .net
>>240ありがとう、だけどその年魚ではないのよ
そっちの年魚は鮎
古代の年魚は鮭
ソースは和妙

255:日本@名無史さん
18/12/19 14:18:36.66 .net
高祖山の望楼跡に登ると
福岡市内や博多湾がよく見える。
白村江のときの博多湾の監視に使われてたそうな。

256:日本@名無史さん
18/12/19 16:32:57.17 .net
伊都の一大率も使ったかもね。

257:日本@名無史さん
18/12/19 17:26:01.71 .net
>>242
那珂川じゃあ7万戸は養えない。

258:日本@名無史さん
18/12/19 17:31:08.88 .net
室見川もつけてあげよう。

259:日本@名無史さん
18/12/19 18:00:34.89 .net
高祖山は、東西南北の見張り台

260:日本@名無史さん
18/12/19 18:04:22.36 .net
当時の国境は
川から川までが国境、川向こう側は別の国
太宰府の町も川を渡ると別の景色
たぶん遠賀川と那珂川が鍵
昔の川はもっと大きく、入江も内陸奥まであった
 

261:日本@名無史さん
18/12/19 18:10:29.99 .net
そうだね、
川から川で分けるから、郡や郷も細長が~~かった、

262:日本@名無史さん
18/12/19 18:42:33.17 .net
>>244
>そっちの年魚は鮎
>古代の年魚は鮭



263: 邪馬台国(西日本)なら、「鮭」はない。 年魚は「鮎」。  @阿波



264:日本@名無史さん
18/12/19 19:11:32.10 .net
>当時の国境は
>川から川までが国境、川向こう側は別の国
農耕系の民の場合にはあたっている
漁労交易系の海の民の巣は汽水湖の周辺沿岸域ぐるっととか

265:日本@名無史さん
18/12/19 19:39:33.94 .net
>>252
一応、鮭は遠賀川、釣川、室見川にも居たらしい。
江戸時代だけど。
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)

266:日本@名無史さん
18/12/19 19:52:44.46 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

267:日本@名無史さん
18/12/19 19:56:31.16 .net
アワは、農林漁業にも、地理学にも、考古学にも弱い。
ただ一つ強いのは宗教。


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