18/10/24 14:14:06.99 .net
少なくとも弘安の役ではその気があっただろうね。
昔の戦争は土地を占領するよりも、まず敵の主力を潰す。敵の主力が壊滅して抵抗力が
なくなれば土地や王朝は意のまま。
弘安の役で東路軍が志賀島戦闘をやっていたころ、幕府側の人が「敵もやっつけたが味方も
損害が多い。このままだと兵数の多い敵の方が有利だ」とこぼしている史料があったように思う。
十万の江南軍が合流した後ならなおさらだ。もし台風が来なければどうなったかわからない。
24:日本@名無史さん
18/10/25 20:35:53.78 .net
やる気があったのは高麗とフビライでモンゴル人達は海の向こうまで行くのは嫌だと暴動起こしているじゃん。
25:日本@名無史さん
18/10/26 01:30:32.00 .net
「蒙古襲来絵詞」
鎌倉時代の肥後国御家人竹崎季長奮戦す
URLリンク(www.lib.kyushu-u.ac.jp)
26:日本@名無史さん
18/11/20 10:19:53.39 .net
>>24
暴動ってマ?何時?
27:日本@名無史さん
18/12/11 20:45:16.55 .net
>>23
承久の変で19万動員出来る鎌倉幕府にはアウェイの土地じゃ敵わんだろ。
28:日本@名無史さん
18/12/16 01:27:28.97 .net
>>23
日本近海にいれば上陸拠点作れない限り台風の餌食やから
どっちにしても同じやで
29:日本@名無史さん
19/02/12 07:43:40.50 .net
>>27
その承久の変の時期に攻めてきてたらモンゴル勝てたんじゃね?
URLリンク(ja.wikipedia.org)
高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹と呼ばれる)が満洲から
高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている[2]。その後の1220年
から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)[3]、1225年にモンゴル
使節が殺害される事件が起きためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カンは西夏への遠征中で
あり、高麗侵攻はチンギスの死後、三男のオゴデイが大カーンに即位した後に行われた。
この時期、高麗と協力してさっさと日本に兵を出してれば、1220年に準備開始したとして攻撃実行はちょうど1221年ごろだろう
30:日本@名無史さん
19/02/12 10:24:12.60 .net
チョンコを属国にした国は負ける
31:日本@名無史さん
19/02/12 10:28:30.33 .net
高句麗と倭(日帝)と歴代中国王朝とモンゴル帝国の敗北は全部チョンコのせい
32:日本@名無史さん
19/02/12 20:27:30.73 .net
現在ではチョンコがオゴデイ家臣に日本進軍を懇願したってのが一般的な解釈になってる
モンゴル帝国としては西進が征服の目的で、海の向こうとか割とどうでも良かったはず
33:日本@名無史さん
19/08/07 18:04:53.40 .net
丹波あたりに上陸して京に直行する
34:日本@名無史さん
19/08/15 21:09:25.69 .net
>>033丹波に上陸はムリ。海がない。
丹後ならわかるが。
35:日本@名無史さん
19/08/18 13:07:38.94 .net
>>15
同様のことを欧米列強がやれば、幕末に白人が日本を支配出来たのに
36:日本@名無史さん
19/08/25 02:43:52.74 .net
若狭湾から上陸して京に向かったら、鯖街道あたりで六波羅探題軍の虐殺になっただろうな。
突破して京近くにたどり着いても比叡山からわらわらと降りてくる武者法師の薙刀の錆
37:日本@名無史さん
19/08/25 21:25:39.67 .net
中国、モンゴル、日本の侵略行為は半島までが限界
38:日本@名無史さん
19/09/07 07:19:40.27 .net
日本の地形だとモンゴルの騎馬戦術は効果減だからなあ
39:日本@名無史さん
19/09/12 02:54:23.25 .net
>>37
それ全て食い止めてたとしたらものすごい国だな
40:日本@名無史さん
19/09/19 07:23:42.48 .net
>>38
つうか馬大量に連れてくるのも難しいしな
一応描かれてるから連れてきてはいたんだろうけど
41:日本@名無史さん
19/09/22 07:16:20.93 .net
>>15
日本侵略にくる外国勢力と組むほど馬鹿じゃないんじゃね?
42:日本@名無史さん
19/09/22 12:16:42.96 .net
>>41
そもそも、当時は普通に両党が順番に即位してるから干されてる皇族いないし、
承久の乱以降、皇室に味方して幕府と戦う武士はいない。
43:日本@名無史さん
19/10/27 07:14:51 .net
天皇(上皇だったかもだけど)にしても敵国降伏祈願とかしまくってたしな
文永の役の前に結局出さなかったけど返書の草案を朝廷が書いてたけど
かなり強気に元の要求を拒絶してたし
44:日本@名無史さん
19/10/31 14:48:46 .net
>>41
元寇と三別抄
URLリンク(www.youtube.com)
ここの1:26:00あたりから1分でもいいから見てみ
45:日本@名無史さん
19/11/01 16:23:02.55 .net
>>44
三別抄って蒙古を相手に最後まで抵抗した側だから逆じゃん
46:日本@名無史さん
19/11/03 17:53:58.70 .net
>>44
それ日本は結局スルーしたから手を組んでないよ
別に日本侵略にきてもないし
47:日本@名無史さん
19/11/04 07:21:07.72 .net
>>44
日本は三別抄の手紙を、それまで高麗からくる正式な国書と違うと訝しんでて信用しなかった
48:日本@名無史さん
19/11/04 07:23:19 .net
>>24
>やる気があったのは高麗とフビライで
>モンゴル人達は海の向こうまで行くのは嫌だと暴動起こしているじゃん。
それ初耳だけど何の話?
最初の使者が海の向こうまで行くのは嫌だと途中で帰った話はあるけど
49:日本@名無史さん
19/11/04 09:34:25 .net
>>47
鎌倉幕府は三別抄をスルーしてないよ。
三別抄の手紙を重視したから、朝廷が蒙古に出そうとした返信を握りつぶして、
大陸に調査団派遣してる。
50:日本@名無史さん
19/11/04 09:38:58.96 .net
>>49
朝廷が蒙古に出そうとした返書って蒙古に従ったり友好するようなものじゃなく、
クビライの国書の内容を手厳しく批判するものだよ
三別抄の手紙を重視したから朝廷が蒙古と交流するの止めたという意味なら、
幕府がこれを止めたからといって、蒙古との交流を止めさせたとは言えないと思う
喧嘩売ってるのかってくらいの内容だし
大陸に調査団(5回目の使者が連れて帰ったやつ?)にしても、
戦争が近いなら相手国の偵察はしたいだろうし、
それも三別抄の手紙を重視したからとは言えないと思う
51:日本@名無史さん
19/11/04 09:53:42 .net
>>49
ってか朝廷が返書しようとしたのは1269年の第4回使節金有成の時で、
三別抄の使者が来たのは1271年だからその2年後
朝廷が蒙古に出そうとした返信を握りつぶしたのが、
使者が来た2年後より後ってのは遅すぎない?
幕府が蒙古を疑ってるのは2回目の使者の潘阜が
1268年に来て直ぐからだし(蒙古の凶心への要人を御家人に伝えてる)
三別抄の手紙を重視したから蒙古を拒絶するようになったんじゃなく
三別抄の手紙がくる前から元々だし
52:日本@名無史さん
19/11/04 10:22:36 .net
>>50
元史に書いてあるじゃん。
『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「去歲九月、日本人の彌四郎らと太宰府西守護所に至る。守る者云えらく、先に高麗の給くところとなり、
屡々上国の来伐を言う。豈に皇帝の生を好み殺を悪み、先ず行人を遣わし璽書を下示せられるを期せんや。
然れども王京はここを去ること尚お遠し。願わくは先に人を遣わし奉使に従い回報せしめん。
良弼乃ち鐸を遣わしその使二十六人と同に京師至り見えんことを求めしむ」
ここに書いてある「しばしば上国の来伐を言う高麗」って三別抄のことだから。
三別抄の情報をもとに、返書より先に使二十六人を送ることになったのが分かる。
『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条
「安童言えらく、良弼、金州の戍兵を移し日本をして妄りに疑惧を生ぜせしむることなきを請う。
臣等以爲らく金州の戍兵はかの国の知るところにして、若しまた移戍せしめば、
宜とするところにあらず」
金州にモンゴル軍が駐屯してるって日本側が知ったのも三別抄情報だし。
日本の使二十六人はその調査を任務にしてたんだよ。
53:日本@名無史さん
19/11/04 10:36:03.63 .net
>>52
それ『高麗にあざむかれて元が日本に攻め寄せると脅かされた』とは言ってるけど、
使節を派遣する理由がそれだとは言ってないよ?
そもそもその会話では、使節の派遣目的を都が大宰府より遠いから
まずこの使者を遣わして~と、言ってて、名目上はあくまで使者
もちろん本心はその後の記述で元が疑ってたように調査目的だろうけど
会話では調査が目的とも、調査する理由が高麗(三別抄)だとも言ってない
この会話でわかるのは、高麗(三別抄)が元の侵略を警告してたことのみ
でそれについては、幕府は三別抄の使者が来る前から疑ってるし、
そもそも4回目の使者が持ってきた国書で
「返書しないと将軍に命令して万の船で王城まで攻める」と脅してるんだから、
三別抄の使者に警告されるまでもなかった
54:日本@名無史さん
19/11/04 10:37:54.46 .net
>>52
>金州にモンゴル軍が駐屯してるって日本側が知ったのも三別抄情報だし。
下の所も、 金州の駐屯軍について日本が知っているとは書いてるけど、
それが三別抄情報だとは書いてなくない?
55:日本@名無史さん
19/11/04 11:00:53.40 .net
>>54
三別抄からの手紙には、金州にモンゴル軍が駐屯してるって書いてあるんだよ。
だからこれは明らかに三別抄情報。
『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑
「既にして至れば、宋人、高麗耽羅と共にその事を沮撓せんとす」
来日した趙良弼が「高麗耽羅」つまり三別抄からの妨害を受けたと書いてある。
三別抄からの妨害ってのは、>>52のようなモンゴル情報を日本に流すことだ。
外交交渉に当たった趙良弼がそれを障害だと感じてたんだから、鎌倉幕府が三別抄をスルーしてないのは確かだろ。
56:日本@名無史さん
19/11/05 13:14:14.76 .net
どっちにしても朝廷の返書中止とは関係なくないか?
使者出した原因も前々から蒙古が怪しまれまくりだったなら
それが原因とは限らないし
後押しになった可能性はあるが
57:日本@名無史さん
19/11/08 06:33:25.64 .net
ボコボコにされたにしろ威力偵察や脅しにしろ、文永の役で4万以下で舐めプしたのが失敗
それで防衛強めてより攻めにくくなった
といって文永の役の頃に大軍で攻め込むことも南宋と戦争してる時にやらないだろうし
要するに当時では最初から完全制圧できる状況になかったんじゃね
58:日本@名無史さん
19/11/08 07:06:10.89 .net
完全制圧できるとしたら、>>29のタイミングだったろうな
59:日本@名無史さん
19/11/10 14:45:50.69 .net
>>29
でも日本に攻め込むなら事前偵察は必要だし、
といって使者送ったら日本は警戒するし、
九州すら偵察なしで攻め込んだら文永の役以上にまごついただろうしで、
いきなり攻め込んだらそれはそれで元にも不利だったと思う
60:日本@名無史さん
19/11/10 15:18:45.51 .net
金だって滅亡してないし遼東の支配も確率してない時期にいきなり日本に大軍送れるわけない
61:日本@名無史さん
19/11/10 17:58:38.54 .net
まあ日本征服には大軍必要→大軍送る→
その隙に別の国に攻め込まれる&被征服民の反乱
になるわな
62:日本@名無史さん
19/11/11 00:48:49.20 .net
結局は、元の国内も国外との関係も安定しないと
日本征服できるほどの規模の大軍送るのはデメリット多すぎるし、
といってそこまで元が安定してたことないような気がするしで
日本征服は最初から無理げーだったんだな
多少九州で優勢になったって補給確保できなければ
半島や大陸からの渡海補給が遭難すれば窮地に陥るし
九州以外がの武士の攻撃は続けくだろうし
63:日本@名無史さん
19/11/11 05:52:12 .net
元は渡海補給が得意だけどな。
江南地方の穀物を首都大都まで輸送する手段に、運河じゃなく海運使ってたのなんて
歴代中国王朝で元くらいだ。
馬の牧場もわざわざ渡海輸送が必要な済州島に作ってるし。
64:日本@名無史さん
19/11/11 07:26:32.83 .net
モンゴルは世界帝国だから人材登用で華人に拘りが全く無い。
だから南宋攻めた時に中国沿岸から中東まで貿易やってたイスラム人を大量登用したんだよ。
そいつらが海軍軍閥作って日本とか東南アジアとか海外進出を積極的に進めようとした。
65:日本@名無史さん
19/11/11 09:56:36 .net
モンゴル人は人口少ない。
よって、元寇の軍も、純粋なモンゴル人の数は少ない。
モンゴル人は被征服地の人材を積極的に雇用する。
66:日本@名無史さん
19/11/11 15:42:24.05 .net
>>63
でも弘安の役は軍ですら台風にやられてるわけだしなあ
江南→大都の台風襲来率がどんなか知らないけど、
日本までだと補給部隊も台風に遭うリスク高そう
67:日本@名無史さん
19/11/11 19:00:07.88 .net
>>60
考え方としては、あえて遠方を征服して従順な子分の国にして、あとで挟み撃ちにするやり方もある
とくに高麗はこのあと50年がかりでモンゴルと激闘を繰り広げることになるから、あらかじめ日本を抑えて挟み撃ちにできていればこんな苦労もなかったかもしれない
68:日本@名無史さん
19/11/11 23:15:09 .net
>>67
日本征服の難易度を100としたら高麗は2くらいだろ。
モンゴルと高麗は激闘なんか繰り広げて無いぞ。
高麗の武臣政権が江華島に引きこもってる間、モンゴル軍は半島で奴隷狩りやってただけ。
そもそも50年じゃ無いし。
69:日本@名無史さん
19/11/12 01:43:03.31 .net
>>67
でも高麗を完全に抑えてない段階で、日本に大軍送れるのかな
文永の役では高麗、弘安の役では高麗と南宋が造船担当してるし
70:日本@名無史さん
19/11/12 03:51:34 .net
>>67
承久の乱のときの日本は朝廷とすら戦争するくらいなのに
従順な子分になんてなるかなあ
ゲリラ戦が続いたら地の利のないモンゴル側に不利だし
71:日本@名無史さん
19/11/12 03:53:13 .net
日本は→日本の武士は
>>65
実際のところ何人くらいいたんだろうねモンゴル人
高麗人除いても、残りは蒙古と他の混合だし
72:日本@名無史さん
19/11/12 08:06:19.01 .net
>>68
1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きたため紛争勃発し、1231年に戦争に発展、6度にわたる戦闘を経て「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を蔽う」状況を経て1259年に国家として降伏するも、
なお抵抗勢力が三別抄を組織してさらに抵抗、日本討伐のために建造されていた船を焼き討ちにするなどの成果を挙げるも1273年に完全制圧して終戦
正式な戦争をしてた期間は1231年から1259年までの19年間だけど、その前後の戦闘を含めれば1225年から1273年までの49年間だね
73:日本@名無史さん
19/11/12 08:26:59.72 .net
>>72
1225年にモンゴル使節が殺害されてから1231年までの間に戦闘なんか無い。
それに三別抄は高麗王朝に対する反乱だ。
高麗自身はモンゴル軍と共闘してるじゃん。
そもそも1231年から1259年までだって一方的に荒らされて「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」
「骸骨野を蔽う」状態になったわけで激闘なんかじゃないだろ。
74:日本@名無史さん
19/11/12 18:25:28 .net
まるでベトナム戦争は南北ベトナムの戦争で対アメリカ戦争じゃないみたいな屁理屈だな
75:日本@名無史さん
19/11/12 22:56:51 .net
>>74
どっちが屁理屈だよ?
「モンゴルと高麗の激闘」にモンゴルと高麗が共闘した戦いを含めるのはおかしいって
当たり前の話だろ。
76:日本@名無史さん
19/11/13 01:45:33.59 .net
>>74
あくまで高麗の政府は高麗王の方だからね
三別抄の行動を高麗のそれとするのはどうだろう
この頃の高麗王は王子は人質に出し、その王子に元の皇女の降嫁を願い、
実際それが叶えられてもいるほど元に従ってた
77:日本@名無史さん
19/11/13 03:25:29.28 .net
つか、高麗王朝は目の上のたんこぶの三別抄をつぶすために積極的に元朝に取り入ってるし
三別抄は元朝にすり寄ろうとして拒絶されて、武装闘争に転じた
78:日本@名無史さん
19/11/13 16:11:32 .net
ベトナム戦争のときの南ベトナム政府だってアメリカの傀儡政権だったけど、だからアメリカはベトナムと戦ったことにはならない、などと言うやつがいたらキチガイにしか見えない
79:日本@名無史さん
19/11/14 08:44:26 .net
ベトナム戦争とは全く違うから何の例えにもならんよ。
高麗とモンゴルが共同で戦ったのを、高麗とモンゴルの激闘などというのはキチガイの主張。
80:日本@名無史さん
19/11/14 19:07:08.88 .net
ベトナム戦争だって、「ベトナム共和国」とアメリカが共同で戦った戦争だ
81:日本@名無史さん
19/11/14 23:19:22.61 .net
>>78
高麗政府は別にモンゴルの傀儡政権じゃないよ
当時の政権は親モンゴルではあったし逆らえる立場でもなかったが
82:日本@名無史さん
19/11/14 23:31:23.85 .net
ってか三別抄を高麗の政府として扱った国ってあったっけ
日本も三別抄にそうはしてないだろうし
83:日本@名無史さん
19/11/15 08:12:36 .net
一回モンゴルに取られた土地だったら近隣豪族は切り取り放題で頑張りそう
84:日本@名無史さん
19/11/15 10:43:48.66 .net
ハングルは読めないけど漢字は読めるから中国語版のウィキペディアを見てるけど
三別抄が擁立した王もちゃんと高麗王として認めてるんだな
URLリンク(zh.wikipedia.org)(%E6%89%BF%E5%8C%96%E4%BE%AF)
85:日本@名無史さん
19/11/15 12:47:41.25 .net
蒙古の戦い方を研究しないと分からんでしょうよ。
蒙古の戦い方をしったら、そもそも、日本制圧なんて、土台無理。
蒙古は人口少ない。よって、一度の戦いだけで、相手を征服できない。
何度も、攻撃、撤退、攻撃、撤退をループして、相手が疲弊するまでやる。
これには陸続き同士の国と大平原で戦闘しないといけない。
いちいち、渡海して戦わないといけない対日戦では、まず不可能な戦闘。
86:日本@名無史さん
19/11/15 20:56:54.94 .net
ヒット&アウェイってことか
三度目の日本遠征も準備してたらしいけど、
仮に何度もやったとしても日本が疲弊する前に
渡海の負担で元の方が疲弊しそうだな
87:日本@名無史さん
19/11/16 06:33:59 .net
何度も、攻撃、撤退、攻撃、撤退をループして、相手が疲弊するまでやるって倭寇が
元や高麗にやったことだな
88:日本@名無史さん
19/11/17 06:58:09.41 .net
>>1
在ちょんを利用すればできた
89:日本@名無史さん
19/11/17 09:39:23 .net
>>87
ヒットアンドアウェイだな。
ヨーロッパの地中海沿岸はアフリカから来るイスラム系海賊にズタボロにされたらしい。
そんな感じで数年間攻めれば良かったな。
90:日本@名無史さん
19/11/17 10:38:58 .net
またそんなデマを
オスマン帝国はビザンチン帝国を破って旧領を陸路進軍し、ハンガリーを拠点にウイーンを包囲してたんだよ
オスマン帝国領ハンガリーは1541年から1699年まで、150年以上継続してずっと支配してきた
91:日本@名無史さん
19/11/17 10:39:44 .net
モンゴルが日本征服のため高麗に設置したのが征東行省。
それに対して九州四国の倭寇を仕切っていたのは征西将軍府。
つまり倭寇とはモンゴル高麗の「征東」と日本の「征西」の戦い。
92:日本@名無史さん
19/11/17 20:49:52 .net
>>90
地中海ではオスマン海賊とマルタ騎士団がお互いの商船を狙って海賊行為を繰り返してた。
アフリカ側にはオスマン海賊に支配されていた土地もある。
レパントの海戦でオスマン艦隊を撃破したけど、それでオスマン勢力が地中海から消えてなくなったわけではない。
逆に東ローマ帝国とハンガリーが落ちてから、それ以上ヨーロッパの侵略が進んでもいない。
93:日本@名無史さん
19/11/17 22:01:33 .net
>>90
塩野七生の本は全部読んだから、そのくらいは知ってるよ。
94:日本@名無史さん
19/11/22 06:38:55.21 .net
>>89
倭寇の活動は高麗や元にとって致命傷だったよ。
元は江南地方から首都までの穀物輸送を海運に依存していた。
高麗も全国で採れた年貢を海運で首都へ集積していた。
モンゴル軍が30年間朝鮮半島で暴れても高麗王朝が存続できたのは、
この海上輸送網が手付かずだったからだ。
一方、倭寇の襲撃は元と高麗の海運輸送網を直撃した。
95:日本@名無史さん
20/05/27 19:34:34 .net
朝鮮奴隷だらけの蒙古じゃ無理
96:日本@名無史さん
20/08/05 18:06:17 .net
相撲は制圧しとるがな
97:日本@名無史さん
20/08/05 21:45:40 .net
>>6
800年前のモンゴル軍にそんな技術や経済力が有るか そこまで負担や犠牲を払って得るほどの価値がある島か
98:日本@名無史さん
20/08/06 21:45:20.43 .net
>>1.へ
つまり「台風=神風」が、やって来なかったとしたら・・・って、意味か?
( よくある、SFネタだが )
:もしも、そうだったら。800年前から「九州」なんて土地は存在しなくて。
山口県の西は=「中国」だった、かもしれないな。
江戸時代後半から、ロシアがもっと東の列島まで来ていたら。今の現在「北海道」な
んて土地は存在しなくて・・・青森県から北は= "〇〇○スク” なんてロシアの国だっ
たかも、知れない。とか、言うのと同じ意味だ。
99:日本@名無史さん
20/08/07 06:35:16 .net
北方騎馬民族が得意だったのは馬に乗りながらの平野での戦い。
そもそも海を渡って侵略しようってのが無理な計画
長江に阻まれて南宋にすら苦戦した。
ベトナムも密林だらけだったせいで侵略できなかったんじゃ?
100:日本@名無史さん
20/08/07 20:03:00 .net
蒙古=モンゴル。としては、あまりそんなにヤル気が無くて・・・まー、東のほうに
そんな(日本)列島があるなら。
↓
"ついでに、ソイツらもヤッて来い!" って・・・ていどのツモリだったようだ。
( 実さいに、九州にやって来たのは。蒙古の「正規軍」ではなく=蒙古に支配されて
奴隷になっていた、朝鮮半島の連中だったらしい )
>>1. へ
もしも、蒙古=モンゴルが。
マジ=「本気」で、この列島を支配する必要があったとしたら。
↓
今の現在=この日本国という国家は、存在しなかっただろう。
たぶん21世紀の現在には=この列島は「中国」か「ロシア」に、なっていたと思う
101:日本@名無史さん
20/08/07 20:12:50 .net
↑つづき
なにせ、800年前の当時は・・・「モンゴル帝国」は=ユーラシア大陸の4分の1
を「征服」していた。世界帝国!だった、のだ。
( その後、モンゴルは・・・朝青龍など、ショボい「日本の相撲取り」とかに "なり
果て" て。いる )
102:日本@名無史さん
20/08/09 20:05:28.26 .net
ところで・・・あまり、関係ないけど。
もしも、当時。モンゴルがモスクワの、もっと東のほうまで進出していたとしたら。
( ↑あー、キミが一生知らない "教科書" を読むことが可能だったら。読んでね。
「タタールのくびき」)
その、もっと「東」の北欧には=あの "バイキング!" が、いたハズだ。
800年前の当時・・・もしも、モンゴルとバイキングが「激突!」していたとした
ら。いったい、どっちが「勝って」いただろう??
:あるいは、2000年以上前に「古代ローマ帝国」が、もっともっと東のほうに
進出して来て・・・・ほぼ、同じ時代に。この中国大陸の「王者」だった(兵馬俑
などの)「秦の始皇帝」が、もっともっと西のほうに進出していて。
↓
もしも「ローマ帝国」と始皇帝の「秦国」とが・・・ユーラシア大陸のド真ん中で
「激突!」していたとしたら。いったい、どっちが「勝って」いただろう?
:私は=「モンゴルvsバイキング」では → モンゴルのほーが、強い!勝ち。で、
「ローマ vs 秦の始皇帝」では → "ローマ" のほうが "秦" よりも強くて。ローマの
勝ち!だと、思う。
歴史上の・・・世界「東西対決」だっ!
103:日本@名無史さん
20/08/10 04:39:29 .net
>>100
いや、モンゴルはマジ=「本気」で、この列島を支配するつもりだったよ。
だから万単位の「正規軍」を日本遠征に投入した。
朝鮮半島の連中はモンゴル「正規軍」を運ぶための操船要因だから。
ところが、そのマジのモンゴル「正規軍」は鎌倉武士に全く歯が立たず壊滅しちまった。
そのあとは日本から倭寇がモンゴル帝国沿岸を襲撃しまくり。
モンゴルは日本が怖くて一切反撃できずって状態になるんだよ。
104:日本@名無史さん
20/08/12 09:58:47 .net
呉越の血を持つ海洋国家のベトナムと日本は北の遊牧民に負けるわけない。
105:日本@名無史さん
20/08/12 12:01:13.69 .net
身内が死のうがそれ踏み潰して戦争やるからな
死んだやつは野晒し
106:日本@名無史さん
20/08/12 12:05:33.06 .net
98
てめえほんとに喧嘩売ってるんだな
107:日本@名無史さん
20/10/11 23:01:16.88 .net
見下してきた隣国が属国になってないのが気に入らない高麗がけしかけた
108:日本@名無史さん
20/10/24 23:29:42.32 .net
売国奴の安倍ちょん辞任
109:日本@名無史さん
20/10/25 00:57:37.44 .net
古来より倭人得意の水中戦法ってのがあって3分くらい戦える
モンゴル人や高麗人は水中戦が出来ないから勝てない
夜に船底へ潜り板の継ぎ目に鉄棒で穴を開けられて、はい終了。
110:日本@名無史さん
20/10/25 01:08:49.77 .net
呉越時代.「水軍戦闘図」 倭人が得意な水中戦
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
111:日本@名無史さん
20/10/25 01:19:42.12 .net
それで、元寇の時には、一夜にして逃げ去ったと記録されてるが、台風なんかじゃない
寝静まった深夜に外から船底に穴開けられて沈められたらパニックになり
戦意喪失で一目散に逃げ去るしかない。
112:日本@名無史さん
20/12/21 00:55:08.41 .net
元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた
【悲報】 鎌倉武士団、実はモンゴルより鬼畜だった!! [515020545]
スレリンク(poverty板)
113:日本@名無史さん
20/12/24 11:56:50.27 .net
コロナ五輪でトンキン土人ヒーハー
114:日本@名無史さん
20/12/25 12:56:13.78 .net
>>112
モンゴルと高麗は明確な敵国、宋は無理に参加させられた被害国と見抜いていたということだね
相手の実情をよくわかっていたということだ
115:日本@名無史さん
21/01/28 01:13:27.76 .net
ガースー「強盗トラブルでアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」
116:日本@名無史さん
21/01/28 09:49:37.83 .net
宋人とは院~鎌倉執権の時代まで官民共に友好関係あったから。
117:日本@名無史さん
21/02/09 00:13:00.20 .net
ごっちゃんです
118:日本@名無史さん
21/03/13 23:55:02.19 .net
蒙古親方
119:日本@名無史さん
21/03/24 19:49:59.00 .net
蒙古の総がかりで日本を制服できなかった時点で無理
元は五分割されたウルスの一つに過ぎず兵力が分散
北元は満州より先に進めず後金に降伏
後元は東と南からの清の攻撃には耐えたが西のジュンガルに滅ぼされた
120:日本@名無史さん
21/06/04 17:04:57.04 .net
>>114
その手の、鎌倉武士蛮族の捏造コピペには大抵ソースが無い
対馬壱岐を意図的に捨て駒にした?なんてソースもない
人質(というか対馬の女たち)が手に穴開けられて船に結付けられた、
その女たちは助からなかった、とあるだけ
※?鎌倉武士が殺した?なんて話はない※
>去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、
>対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、
>百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、
>女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、
>一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
『日蓮書状』、高祖遺文録
ソースあるのは、捕虜を南宋人以外は皆殺しにしたって話が元史にあるくらい
121:日本@名無史さん
21/06/05 22:19:00.06 +zWhKj/sT
元寇
572,842 回視聴•2009/07/07
URLリンク(www.youtube.com)
122:日本@名無史さん
21/08/10 14:36:18.87 .net
>>120
それも女性も含めてとは書いてないしな
123:日本@名無史さん
21/08/19 09:28:21.88 .net
>>1
博多で惨敗した蒙古に壱岐、対馬を制圧できるわけないだろ。
記録によれば、日本軍は即座に追撃艦隊だしたけど壱岐、対馬には難破船しか残ってなかった。
124:日本@名無史さん
21/11/06 07:29:51.04 .net
馬で戦えば勝てた
URLリンク(youtu.be)
125:日本@名無史さん
21/11/06 09:13:20.01 .net
>>124
いやモンゴル軍は馬で戦っても鎌倉武士にボロ負けしたから困ってるんだよ
126:日本@名無史さん
21/11/07 21:29:14.39 .net
モンゴルと言ってもチョンだから弱かったw
スレリンク(history板)
これにて終了wwwwwwww
127:日本@名無史さん
21/12/04 15:47:02.18 Nt9lPsji9
英霊来世の追悼歌でございます!
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
128:日本@名無史さん
21/12/19 01:36:16.32 .net
一番有効なのは朝廷と組んで鎌倉幕府を倒すやり方。
高麗や大里国はこの方法で征服されたわけで、モンゴル帝国の得意戦法だな。
ただそう言う点でも朝廷の書いた返書を握りつぶして直接モンゴルの使者と接触させなかった
鎌倉幕府の外交は本当に賢いんだよ。
歴史学者連中は外交オンチだから、それが理解できないんだな。
129:日本@名無史さん
21/12/25 16:58:32.51 .net
URLリンク(i.imgur.com)
130:日本@名無史さん
22/01/02 03:58:08.91 .net
無理
武士が強すぎた
131:日本@名無史さん
22/11/12 12:39:50.16 .net
米国が“世界の警察”と呼ばれ覇権を握っているのは、優秀な国だからだ。
しかしロシア中国北朝鮮などが米国と張り合っているのは優秀だからではなく、これらの国の住民が
ちょっとおかしい人間だからである。
ユーラシア大陸の内側には、ロシア中国北朝鮮イランなど反米、反西欧、反日の国が固まって存在し、
この地域の住民は先進国に対し常に強い嫉妬や恨みや被害妄想を持ち、先進国を核で滅ぼそうとする
意思が何十年経っても消えない。
このおかしい国々が存在する地域は蒙古帝国の版図と一致しており、それは文明国を滅ぼす意思を発現
する特殊な遺伝子が、蒙古帝国の時代にこの地域に拡散したために起きている。
一方ロシアを除く欧州から、アラビア半島、アフリカ、インド、東南アジア、台湾、日本など蒙古の
支配を免れたユーラシア大陸の外側の地域には精神が正常な人間が住んでいる。彼らは先進国を滅ぼす
意思を持たない。
ニュースを見れば“ウクライナ”“台湾”“統一教会”など“ロシア中国朝鮮の人間が悪さをしている”
という話ばかりやっている。このおかしい人間たちが核武装することで人類の生存が脅かされている。
132:日本@名無史さん
22/11/12 12:41:29.15 .net
>>131
蒙古領だった地域とそうでない地域とでは、住民の価値観が異なっている。
インドは蒙古の支配を免れたため精神は正常であり、中国人や朝鮮人と違ってインド人は自国が西洋人
によって植民地化されたことを今は恨んでいない。
しかしパキスタンの西半は旧蒙古領で特殊な遺伝子を持つため、これが印パ紛争の原因になった。パキ
スタンは昔は親米だったが現在の両国関係は冷えている。
東南アジアや台湾も蒙古領にならなかったが、日本によって植民地化された。しかしこれらの地域は今
では親日になっている。精神が正常な人種同士なら過去にわだかまりがあっても、時が経てば友好関係
を築くようになる。
蒙古の支配下に落ちたイランなど、大陸側のイスラム地域は基本的に反米だが、蒙古領にならなかった
アラビア半島は大体親米である。
イラクの東半分も蒙古領だったが、米国と戦ったフセイン大統領の出身地ティクリット近郊も蒙古の
支配地域だ。
アフガンも蒙古領だったが、ここは米軍が20年間駐留していたにも拘らず、米軍撤退と共にタリバン
政権が復活した。これはアフガン人にとって欧米の価値観が肌に合わなかったためだ。
ポーランドなど東欧にはスラブ人が多く居住しているが、ロシアと違って蒙古領にならなかったため
住民の遺伝子は正常である。東欧諸国は冷戦の頃、ロシアの配下にあったが現在はNATOに属する。
ウクライナ西部は蒙古の支配を免れたため精神は正常だが、東部やクリムハン国の古地クリミアは
長期間蒙古領だったため特殊な精神の住民が多く住む。ロシアがこれらの地域にこだわるのは勿論、
ロシア人が蒙古人の末裔だからだ。
蒙古領にならなかったインド等の発展途上国が経済的にロシアや中国と結びついていたり、蒙古領だ
った韓国が米国の陣営に属しているなどの例外はあるが、全体としては現代の世界は軍事的に、旧
蒙古領の国々とそうでない国々の2陣営に分かれつつある。