【北条得宗家】北条時宗【最後の英雄】at HISTORY
【北条得宗家】北条時宗【最後の英雄】 - 暇つぶし2ch250:日本@名無史さん
21/07/28 16:20:45.71 .net
円覚寺にお参りいこう

251:日本@名無史さん
21/08/28 17:40:52.36 .net
鎌倉幕府は僧侶や商人を通じて、当時の大陸や半島の情報を入手している。
蒙古が当時大陸や半島でどんなことをしていたかを知れば、徹底的な対決姿勢を取るのは
当然だった。実際、壱岐と対馬で蒙古と高麗は暴虐の限りを尽くしている。
蒙古襲来について事実を無視して時宗を批判するおかしい学者がいるのは、大笑いだ。

252:日本@名無史さん
21/10/13 13:20:10.28 .net
神風が吹かなかったらどうなってただろうなw
あの後、元が日本に攻めてこなかったのも
日本が不戦勝の神国だと知ったためじゃなくて
それほど侵略意思がなかったからだろ

253:日本@名無史さん
21/10/13 19:28:43.00 .net
元寇の研究は殆ど行われてなかったからな。
だから、>>252みたいなコメントが出る。
元寇は、どっちみち、成功することはなかったと思うけどね、大陸軍は。
元の記録でも、モンゴルの将軍は正確に分析しているよ。無理だってね。
大型船を座礁せずに接岸できるポイントを完全に防御されていて、上陸すら困難。
渡海して戦わないといけなく、季節風や海流の関係で渡海時期が限られているとか
補給線が常に不安定で、兵站の確保が難しいとか、
日本は人口が多くて動員力が多くて、押し切れないとか。
日本は山岳地帯が多く地形の起伏が激しくて攻めにくいとか、
博多に上陸しても、日本の王都までの道のりが長くて、とてもじゃないけど
そこまで攻めあがれないとか

254:日本@名無史さん
21/10/13 20:40:15.42 .net
>>253
馬鹿だな
やろうがやれまいが侵略する気があれば出撃する
普通に考えればやれっこない朝鮮出兵や第二次世界大戦を
日本は20世紀にいたるまで遂行したじゃないかw
元は侵略する気がなかったんだよ

255:日本@名無史さん
21/10/13 21:14:17.09 .net
>>254
朝鮮半島と日本列島では進軍の難易度に大きな違いがあるだろう。
朝鮮半島の場合、地形的に一つの半島で、北上しやすいけど
日本列島の場合、九州、四国、本州があり、真ん中に瀬戸内海に島々が連なっていたりする。
人口も日本は半島の3倍だし。。。
元寇は2回あって、最初の侵略は、元軍の動員兵力は少なかったので、
日本征服の意思は少なかったけど。。。
2回目の侵略は14万の兵力なので、日本征服の意思はあっただろう。
でも、これで2か月間戦って、九州の海岸線すら突破できなかったんだから。。。
そうこうしているうちに食糧不足になり、ずっと船の上での生活で、船酔いに悩まされるし。。。

256:日本@名無史さん
21/10/13 21:26:32.02 .net
CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点
URLリンク(gendai.ismedia.jp)

257:日本@名無史さん
21/10/14 09:08:12.03 .net
>>255
最初の元寇だって動員兵力は多いたろ。
蒙漢軍2万5000人と高麗軍8000人って同時代の普通の国なら余裕で征服できる兵数だよ。

258:日本@名無史さん
21/10/16 17:08:25.86 .net
来年の大河では出てこんな

259:日本@名無史さん
21/10/16 21:24:24.66 .net
>>253
東路軍と江南軍14万人が博多の防衛ラインを突破してモンゴル騎兵40万騎の上陸に成功していたら
時間はかかっても日本征服できた。
大平洋戦争のオリンピック作戦並みの大兵力なんだから。
クビライの日本征服プランはかなり現実的な作戦だよ。

260:日本@名無史さん
21/10/23 11:12:16.44 .net
当時の航海技術では馬の輸送ができないので、蒙古軍は主力の騎馬隊が使えなかった。
海上に浮かべた船から徒歩の兵士を小出しに博多の防塁に向かって突撃させる戦法では
大軍勢の実力を発揮することもできない。
江南軍は南宋人が主体で戦意が低かった(杉山正明によれば、南宋人を日本に棄民する
ための移民団であり、戦闘員ではなかったらしい)。
上陸できないまま合戦が長期化すれば、日本側の水軍による反撃、海上で長期生活する
蒙古兵の衰弱などで、蒙古側の戦力は低下する。
史実のように、蒙古・高麗側は壊滅するしかなかった。

261:日本@名無史さん
21/10/23 12:05:17.45 .net
騎兵40万騎ということは、馬も40万匹以上いるのか?
そんなに沢山の馬の餌とか用意できる訳なかんめえ

262:日本@名無史さん
21/10/23 12:07:09.40 .net
元軍の司令官は馬にのっていたらしいが。
数匹なら船で馬を運搬できたのだろう

263:日本@名無史さん
21/10/23 12:19:09.56 .net
元寇では、元軍は志賀島などに上陸占領していたらしいが。
元軍が用意してきた食料は、どれくらいもったのか気になるところ。
補給部隊が途中で来たとかは聞かない。
現地略奪して調達する予定だったのだろうけど。

264:日本@名無史さん
21/10/23 18:07:14.97 .net
>>260
船で馬を輸送するのが大変ってのは品種改良し過ぎで極端に脆弱になったサラブレッドの感覚。
馬の海上輸送なんて紀元前から普通に行われてる。
だから元寇の主力も当然騎馬部隊。
元は江南から博多までの中継地である済州島をわざわざ馬の牧場化してるじゃん。
クビライの対日戦略の中心に馬の運用があったことがよくわかる。

265:日本@名無史さん
21/10/23 19:57:37.73 .net
馬は輸送できても騎馬部隊の運用が出来るほどには送れないだろう
少数の馬でも偵察・伝令には有用だっただろうが
どちらにしても橋頭堡の確保を歩兵が行なってからになるかと

266:日本@名無史さん
21/10/23 23:01:50.52 .net
蒙古軍も馬は数的には日本に匹敵するくらいいた
ただし騎乗率は日本と違った可能性はあるのと
上陸戦闘した部隊が一部だった可能性はある
尤も馬の多寡は実際の戦闘経過で見るとさして重要ではない
端的に日本軍の戦闘意欲が強く大きな損害を出したため引き揚げに決した

267:日本@名無史さん
21/10/23 23:10:43.70 .net
そもそも論として、3万程度の蒙古軍で
動員中の鎮西御家人を撃破するのは困難だった
幕府にとっては承久の乱あるいは元弘の乱のほうが
一刻を争う対処という意味でよほど脅威だった
蒙古は負け組の九州御家人主体で撃退しているからな

268:日本@名無史さん
21/10/23 23:54:54.36 .net
>>267
蒙古軍の数は40万人だって
『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」

269:日本@名無史さん
21/10/24 00:23:41.46 .net
>>264
元寇の主力は騎馬部隊?
そんな訳なかんめえや

270:日本@名無史さん
21/10/24 06:19:15.17 .net
>>269
現地に伝わる史料にも蒙古は馬に乗って戦ってたと書いてある。
八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル。」

271:日本@名無史さん
21/10/24 07:07:19.31 .net
洪茶丘のような指揮官は騎乗していたという記録がある。だが、騎馬隊による戦闘の
記録はなく、海上輸送した馬の数は限定的だったのではないか。
鷹島に10万余の兵を下船させたとき、降ろした軍馬は70匹だったという。
戦場が海岸線や島嶼に限定されたので、そもそも騎乗兵による力は発揮しにくい。
島嶼にこもった元軍は10万余いたとされるが、それだけの人数がいたにも関わらず
日本側の掃討によって壊滅している。

272:日本@名無史さん
21/10/24 09:21:11.40 .net
>>270
馬に乗っていた元軍兵士は数人はいただろうから、記録は間違いではない

273:日本@名無史さん
21/10/24 12:19:47.01 .net
元寇
スレリンク(whis板)

274:日本@名無史さん
21/10/24 23:37:46.75 .net
>>271
東路軍や江南軍に騎馬部隊がいないのは、水上戦闘部隊だからだよ。
他に40万蒙古軍という巨大騎馬部隊がいるのに、わざわざ東路軍や江南軍に騎馬部隊を
所属させるわけないじゃん。

275:日本@名無史さん
21/10/25 00:41:04.94 .net
モンゴル騎馬兵40万騎は、どこから現れたのだ?
空から来たのか?

276:日本@名無史さん
21/10/25 04:48:38.88 .net
大本営発表や日本書紀のように、公式文献に書かれていることが全て正しい訳ではない。

277:日本@名無史さん
21/10/25 11:14:43.20 .net
弘安の役では、元軍は東路軍4万、江南軍10万、合わせて14万と言われている。
元軍の退却後、約3万人が日本に置き去りにされ、処刑されたり奴隷にされたらしい。

278:日本@名無史さん
21/10/25 13:09:44.01 .net
>>275
弘安の役のちょっと前まで南宋征服に従事していたモンゴル騎馬部隊と、
中国河西地方に駐屯していたモンゴル騎馬部隊で編成したんだよ。
もと西夏国の河西地方は対カイドゥの最前線で、オゴデイやチャガタイの子孫たち所属の
モンゴル大軍団が多数あったからね。
『元史』巻十一 世祖八 至元十八年春正月癸亥
「賜征日本河西軍等鈔」

279:日本@名無史さん
21/10/25 18:15:32.89 .net
元々目的が宋人の世界最大拠点である博多の攻略だったから、弘安の役で上陸して八幡社である筥崎宮を焼失させたところで目的は達成出来たんだろう。

280:日本@名無史さん
21/10/26 09:19:49.77 .net
北条時宗の異母兄、時輔は時宗に殺害されたが。
大河ドラマでは、高麗に逃亡し、高麗の日本侵攻を手伝ったことになっている

281:日本@名無史さん
21/10/26 09:56:21.99 .net
文永の役の後、時宗は日本から高麗へ攻め込むことを空想したが、実現できなかった

282:日本@名無史さん
21/10/26 14:31:07.55 .net
そりゃ守りに役立つ玄界灘が今回は敵ですし

283:日本@名無史さん
21/10/26 15:17:30.75 .net
倭寇が元寇の仇討ちをした

284:日本@名無史さん
21/10/27 12:37:25.22 .net
たとえ「40万蒙古軍の騎馬部隊」がいたとしても、日本まで海上輸送できないのでは意味はない
東路軍と江南軍が壊滅した時点で蒙古(元)の日本侵攻は潰えた

285:日本@名無史さん
21/10/27 14:59:09.77 .net
蒙古襲来に失敗
ベトナム
日本 弘安の役
蒙古襲来に成功後何もせずに帰った
ハンガリー
日本 文永の役など

286:日本@名無史さん
21/10/27 21:17:15.06 .net
フビライは3度目の日本侵攻を準備していたらしい

287:日本@名無史さん
21/10/28 09:28:50.64 .net
3度目はどうやって攻めるつもりだったの?
今度こそ40万蒙古軍の騎馬部隊を投入して最後の決戦に持ち込む計画だったのか?

288:日本@名無史さん
21/10/28 10:17:58.71 .net
ggrks

289:日本@名無史さん
21/10/28 17:12:08.33 .net
>>285
武士に負けて1日で逃げ帰り1万3500余人の犠牲者出した文永の役なんて、
これ以上ないレベルの大失敗だろ

290:日本@名無史さん
21/10/28 17:32:14.84 .net
文永の役は蒙古襲来に成功してないし
偵察だったのかもしれないが、日本側に防備を備えさせることになったから失敗だろう

291:日本@名無史さん
21/10/28 17:32:32.63 .net
第三次日本侵攻計画には軍船の製造はあったが、騎馬部隊の編成・輸送はないな
ならば、公安の約の繰り返しだ

292:日本@名無史さん
21/10/28 17:33:09.53 .net
訂正
約→役

293:日本@名無史さん
21/10/28 17:57:41.22 .net
第三次日本侵攻計画では、モンゴル兵に水軍の訓練させて海戦に投入するつもりだった。
弘安の役では、東路軍と江南軍が制海権を確保できず、せっかく動員したモンゴル大部隊を
戦闘に使えないまま大敗したからね。
とにかく制海権を確保しないと話にならない。

294:日本@名無史さん
21/10/28 17:58:58.37 .net
高麗や元南宋の奴隷が嫌々で作った泥船を使い、やる気のない兵士が主力では、元が何回攻めてきても日本は負けないだろう
元が勝つとしたら、南北朝の時に、南朝か北朝のどちらかを味方にして便乗するくらいしかない

295:日本@名無史さん
21/10/28 18:22:32.90 .net
文永の役は筥崎宮を焼いた後、何もせずに四方を荒らして帰った。
中世の八幡社の役割なんてよく分からんが、これできっと目的である博多攻略が達成できたんじゃないかな。

296:日本@名無史さん
21/10/28 18:33:51.93 .net
>>295
文永の役で元軍に博多が攻略されたなんて史料は皆無なんだが。
その手前の赤坂で武士に負けて逃げ帰ってる。
元軍大惨敗。

297:日本@名無史さん
21/10/28 19:04:51.10 .net
どさくさに紛れて博多の町を放火したら勝ちなのか?
それなら、倭寇は大勝利を重ねたと見なされることになる。

298:日本@名無史さん
21/10/28 21:56:51.87 .net
今で言う華僑の大元締めが八幡社だったんじゃないかな。逆説でしかないが

299:日本@名無史さん
21/10/30 00:40:13.50 .net
そもそも筥崎宮の火災って史料では蒙古の放火じゃなく内部出火だし。
筥崎宮は当時火災を連発してて、1265年に一度焼失して、再建したら1274年にまた燃えて、
再建したらすぐ1280年に焼失した。
火災原因を内部に抱えた状態だったんだよ。
史料で内部出火の筥崎宮の火災を無理やり蒙古が放火したことにして、それを根拠に
史料では戦闘で勝ってる武士を負けてたことにする。
こんなのまともな学問じゃない。

300:日本@名無史さん
21/10/30 15:41:49.18 .net
モンゴルが情報操作に長けているから、多くの史料は鵜呑みに出来ないんだろう。

301:日本@名無史さん
21/11/06 09:16:23.58 .net
元寇の研究はイデオロギーによって歪められてきた。
皇国史観においては、実際の戦果を過小評価して「神風によって勝った」として、「日本は
神国」という思想の根拠にしようとした。
戦後の偏向的研究においては、「蒙古が勝っていた」「武士が負けていた」などと戦果を
過小評価し、「蒙古による日本遠征」と称して侵略性を隠蔽することもあった。

302:日本@名無史さん
21/11/13 14:11:00.20 .net
>>268
その四十万、多分Wikipediaもそれ参考にして元軍の数を計算したんだろうけど、
他の部分では十四万となってるのみると、そこだけ十四を四十と誤字ったんじゃないかなあ

303:日本@名無史さん
21/11/13 14:30:33.66 .net
>>302
早く訂正してください

304:日本@名無史さん
21/11/13 16:45:46.07 .net
>>302
弘安の役に参加したモンゴル兵の人数が40万人であったことは、全く別系統の史料でも
裏付けられてる。
鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌
「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。
晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、
在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。」
「韃軍」とは、旧南宋軍とかじゃなくあきらかにモンゴル軍だ。
その「韃軍」は半数が海に沈み、20万人が帰還できずに殺されたとある。
つまり「韃軍」=モンゴル軍の総数は40万人。

305:日本@名無史さん
21/11/13 17:20:39.27 .net
>>304
その帰還できなかった云々についても、やはり元史では10万人としてるよ

306:日本@名無史さん
21/11/13 17:30:42.57 .net
>>305
元史日本伝に書いてあることは江南軍のことで、蒙古軍のことじゃないでしょ。
江南軍と蒙古軍は完全に別物なんだから。

307:日本@名無史さん
21/11/13 17:39:33.33 .net
元の手下となって日本に攻め込んできた元南宋の兵士は10万人くらいいたに違いない。
モンゴル人は、多分数千人だろう

308:日本@名無史さん
21/11/13 23:49:07.38 .net
「韃軍」とは韃靼の軍、つまりモンゴルの軍だ。
元南宋の軍を「韃軍」とは呼ばないな。

309:日本@名無史さん
21/11/13 23:51:29.63 .net
南宋はモンゴルに降伏してモンゴル軍になったんだろ

310:日本@名無史さん
21/11/14 00:08:33.95 .net
降伏したばかりの南宋人なんてモンゴル帝国最下層の人種じゃん。
南宋人がモンゴル軍になれるわけないだろ。

311:日本@名無史さん
21/11/14 00:20:12.07 .net
自国の禅僧などを通して情報戦をやってたくらいだから、カチカチ山の泥舟で元軍を沈められたんだろう。なんせ船は南宋の持ち船か高麗の船しかなかった。元が滅亡したきっかけの江南の反乱も扇動してそう。

312:日本@名無史さん
21/11/14 15:44:52.55 .net
そもそも、モンゴルは自前の海軍なんて持ってない。
まあ、モンゴル陸軍自体、被征服民たちとの混成部隊だけどな。
モンゴルは人口が少ないので、自前の軍隊だけでは動員力に限界がある。

313:日本@名無史さん
21/11/14 16:04:25.59 .net
高麗がモンゴルに嫌々作らされた舟は、まさに泥舟
間違いない
元南宋に作らされた舟は、よく分からんけど。多分少し大きな泥舟

314:日本@名無史さん
21/11/14 16:46:29.47 .net
10万もの大軍を上陸させようと思ったら、丸1日かかるらしい。
つまり、朝に上陸を開始しても、日が暮れても、全軍の上陸は不可能。
しかも、大型船が座礁せずに接岸できる港は限られている。
よって、蒙古襲来の時も、浜辺から遠いところに大型船を止めて
小型の船に乗り換えて、上陸を試みようとしたけど、
そこには日本の大軍が待ち構えており、弓矢のあらし。
常に兵力で劣勢な戦いを強いられてきた。

315:日本@名無史さん
21/11/14 23:45:23.15 .net
>>311
クビライに寝返った南宋の水軍提督の蒲寿庚って南宋滅亡前からクビライに寝返って
その時に南宋の宗室の虐殺もしてるくらいだし
旧南宋ってもこのあたりはクビライに忠実だったんじゃね
貿易商人でもあるからメリットもあるし

316:日本@名無史さん
21/11/14 23:46:19.94 .net
>>313
高麗史の数字を信用するなら高麗の船の方が南宋船より帰還率高い

317:日本@名無史さん
21/11/15 00:48:41.16 .net
九州から朝鮮へ帰るのは簡単
九州から中国まで、壊れた船に敗残兵沢山のせて帰るのは大変だっただろう

318:日本@名無史さん
22/01/11 14:19:51.52 .net
>>315
まぁ、調略は双方していただろうと。
表の歴史だけ見ると、宋側は最後の土壇場で大規模な連環の計を成功させたように見えるけど。

319:日本@名無史さん
22/01/11 15:25:45.94 .net
あの時代、色目人を信用してはならないことがよく分かったな。
URLリンク(japanknowledge.com)

320:日本@名無史さん
22/01/16 09:47:33.71 .net
調略に関してはベトナムに使者を送って反乱起こさせた北条時宗がモンゴルなんかより数段上だな

321:日本@名無史さん
22/01/26 19:53:47.20 .net
水曜日は50%off
URLリンク(ebookjapan.yahoo.co.jp)

322:日本@名無史さん
22/07/20 18:07:32.12 .net
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(youtu.be)
栗井ムネ男

323:日本@名無史さん
22/07/21 19:52:23.58 .net
>>316
南宋の范文虎の水軍て長江守備の喫水の浅い川船だから、
大型で堅牢に作られてようと、高波には弱いから、
台風来たら一発浸水転覆だろう。

324:日本@名無史さん
22/07/26 11:43:15.97 .net
この人の早世と子供の少なさが北条氏衰亡の大きな要因だよね。

325:日本@名無史さん
22/07/27 22:12:33.30 .net
弘安の役では日本が勝ったと言うより元側が戦う気なくして逃げ帰った、と言う方がより正確。
当時、良くも悪くも天候を読み取る科学技術がなかったことが大きな要因だろうな。

326:日本@名無史さん
22/07/31 09:52:24.13 .net
当時の兵站から考えて、本気かそうでないか以前に、海を超えて支配権を維持できるかって微妙だよ。

327:日本@名無史さん
22/10/07 07:42:13.02 .net
元寇船のいかり引き揚げ、長崎 鷹島沖、学術調査では初 [香味焙煎★]
スレリンク(newsplus板)
元寇船調査進んでるみたいだね

328:日本@名無史さん
22/10/07 17:36:26.48 .net
北条というのは北条時宗以外は注目を集めんわな

329:日本@名無史さん
22/10/08 02:12:35.22 .net
今大河放送中だからそれ以外の北条も注目されてるのでは

330:日本@名無史さん
22/10/19 09:43:04.74 .net
>>326
当時の兵站を考えたら、海を越えた方が船で大量の物資を輸送できるから有利になるよ。
北アフリカのイスラムだって海を越えてイベリア半島の支配権を数百年維持しただろ。

331:日本@名無史さん
22/11/01 23:51:17.65 .net
得宗になりたい。

332:日本@名無史さん
22/11/03 01:32:54.89 .net
>>326
よくあるやり口は皇子を人質にすることだけど、
日本の場合は仮に朝廷の東宮が人質として元にとられても
幕府にとってはどうなんだろうな
幕府の都合で皇統を選ぶのはもう過去にやってるし

333:日本@名無史さん
22/11/04 02:49:54.65 .net
>>332
モンゴルが朝廷と組んだら日本なんて簡単に征服されちゃうじゃん。
その国の権威を温存して征服するのはモンゴルの得意戦略。
朝廷は承久の乱で鎌倉幕府に恨みがあるんだし。
モンゴル軍が攻めてきたとき朝廷が幕府の方を朝敵宣告したら日本の防衛体制崩壊だろ。

334:日本@名無史さん
22/11/04 21:31:03.02 .net
>>333
そう考えるとよくみる一旦従属すればよかった論はダメそうだな
一旦従属する→皇子を人質に出すになったらもう
元から無理難題があってやっぱり逆らおうとなっても
人質とられた朝廷との間に軋轢が生まれるし

335:日本@名無史さん
22/11/08 18:35:50.07 .net
北条氏って戦国時代の武将に比べるとそれほど高い評価は受けていないな。時宗は18のときにフビライに対して強気な態度を崩さなかったことで日本存亡の危機を乗り越えたという大きな功績がある。なのに教科書ではそれほどページが割かれてない


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