司馬遼太郎 Part13at HISTORY
司馬遼太郎 Part13 - 暇つぶし2ch219:日本@名無史さん
18/03/25 10:40:19.79 .net
船越は大村から四斤山砲をたくさん作って大阪に貯えておけと命ぜられたが、たくさん作る前に山城屋事件に連座して軍人生命が終わっていた。
    / ̄| .  人
    |  |. (__) 船越!
    |  |. (__) 終わったな!
  ,―    \( ・∀・)
 | ___)   |  ノ
 | ___)   |)_)
 | ___)   |
 ヽ__)_/

220:日本@名無史さん
18/03/25 10:46:08.68 .net
山県はこれはかれの生涯の特徴だが、およそ他人を批評したり、他の勢力について非難がましいことを口にしたことがない。

221:日本@名無史さん
18/03/25 10:49:06.99 .net
大久保ら日本国を外から見る経験を持った者たちは世界における日本像をけし粒のように小さいと思っているが、内国にいた連中はいまなお戦国期の豪傑たちと同様、日本六十余州こそ天下という感覚から抜けきらずにいる。

222:日本@名無史さん
18/03/25 10:54:50.06 .net
▽けし粒
芥子の果実が熟すと植物体は枯死し、熟した果実の天頂に穴があき、径 0.5mm に満たない微細な種子が飛び出す。非常に細かい物を「ケシ粒のような~」と表現するのは、これが由来である。
URLリンク(blog-imgs-37.fc2.com)
※あんパンの上に乗せられたツブツブが芥子粒である。
URLリンク(stat.ameba.jp)

223:日本@名無史さん
18/03/25 11:03:53.93 .net
芥子は「けし」とも読むし「からし」とも読む。
芥子という表記は本来カラシナを指す言葉であるが、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、室町時代中期に誤用されて定着したものであるとされる。バカが日本語を豊かにしている例である。

224:日本@名無史さん
18/03/25 11:05:45.08 .net
カラシナの種子はからし(和からし)の原料となりオリエンタルマスタードとも呼ばれる。
マスタード(洋からし)の原料として利用されるシロガラシは、同じアブラナ科の別種である。

225:日本@名無史さん
18/03/25 11:11:41.38 .net
「君は陸軍卿としてまた陸軍中将として、篠原をあくまでも踏みとどまらせることはできないのか」
出来るものではなかった。政府といい、陸軍といっても、薩長の寄合所帯にすぎず、陸軍卿山県有朋の力は篠原にとても行きとどかず、篠原はあくまで西郷に属している。
「これは政府ではない」
木戸は悲鳴をあげるように言った。

226:日本@名無史さん
18/03/25 11:20:30.58 .net
>>191
司馬さんのように山県有朋が大嫌いな人は、山県が東京から逃げていたと考えるのだろうな。
しかし、近衛崩れが起こるような状況になれば、地方の鎮台や分営でも同様の辞職騒ぎが起こるかもしれないし、官に属さない不平士族の乱が地方から狼煙を上げる可能性もある。現に翌年には佐賀の乱を起きるわけだ。
それらに備えて出来たばかりの鎮台の視察を陸軍卿が行うのは当然ともいえるよね。

227:日本@名無史さん
18/03/25 11:23:36.90 .net
熊本鎮台が襲われたと言われても、実際に熊本鎮台を見たことがなければ、具体的なイメージがわかない。
対策もピンボケのものになる。陸軍卿は現地視察をしておかなければならないね。

228:日本@名無史さん
18/03/25 14:03:02.47 .net
高校生の頃に司馬作品を読んだときは、山県有朋の悪口を書いてあるところは痛快だったけどな。
山県は権力者だったし、顔も好きじゃなかったから。
歳を取って読み直すと、山県のことなら何でも悪く書けばいい態度が鼻について嫌だな。
いまでも別に山県が好きなわけじゃないけど、何でも色眼鏡で見るというのは良くない。

229:日本@名無史さん
18/03/25 14:12:12.93 .net
しかし『田原坂』の有川博は山縣有朋に見えなかったな。
もっとブサイクかつ頬の肉の削げ落ちた役者がやらないとダメだ。
URLリンク(image.space.rakuten.co.jp)
URLリンク(blog-imgs-46.fc2.com)

230:日本@名無史さん
18/03/25 14:17:49.83 .net
>>225
大久保が天皇の権威を使い、木戸と山県が額を寄せ合うようにして篠原を慰留させる手立てを考えているシーンを読んで、篠原国幹ってどれほどの人物なんだろうと期待したよな。
しばらくすると、司馬さんによってボロクソに言われ出します。

231:日本@名無史さん
18/03/25 14:23:06.70 .net
>>219
連座辞職仲間に山県有朋がいたために、船越と山県は親戚になって、最終的には船越衛は勝ち組になったよ(・∀・)ニヤニヤ

232:日本@名無史さん
18/03/25 14:34:01.13 .net
>>222
むかしから不思議に思っていたのだが、アンパンの上のツブツブは芥子の原料なのに、ちっとも辛くないんだよね。

233:日本@名無史さん
18/03/25 15:30:04.38 .net
辛みをつけるためにケシの実を載せているじゃなくて、「こしあん」と「つぶあん」を見分けるために載せている。
「こしあん」の上に載っているのが、ケシの実。
URLリンク(kodomo-byouki-kakekomi.com)
「つぶあん」の上にはゴマが載っている。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

234:日本@名無史さん
18/03/25 15:32:09.23 .net
誰もアンパンに辛みをつけろとは言っていない。

235:日本@名無史さん
18/03/25 15:37:51.32 .net
>>168
「二百十日」と「野分」は、文庫で一冊にまとめれているな。
「二百十日」は会話しかでてこない変な小説だったけど、「野分」は良かったな。
内容はまったく覚えていないが、それを読んだ時間を思い出すと気分がいいから、きっと面白い小説だったんだわ。

236:翔ぶが如く
18/03/27 04:01:14.11 .net
第20章 陸軍卿
〔二〕鳥尾小弥太
山県にとってこの日の木戸家への訪問は欲と二人連れであった。
やがて近衛都督についての用件が不調におわったとき、鳥尾小弥太が、
「では、私は陸軍を辞めます」
と、木戸に噛みつくように言った。この二十代の陸軍少将はもともと圭角の多い男である上に、まだ年若く、感情が先に立った。火の粉をかぶろうとしない木戸に腹を立てたのである。
鳥尾が辞職について山県より先に発言したことは、山県にとって思う壺だった。山県は自分が先にそれを言いだすことは木戸に肚を見すかされるようでまずいと思っていた。

237:日本@名無史さん
18/03/27 04:18:25.22 .net
★文民統制
▼civilian control of the military
木戸のいう「軍人たる者はポリチックに喙を容れてはいけない」は、欧米の文民統制と同じ。
政治・政事という言葉は幕末期以来しきりに使われたが、古義における政治とは、天に仕えて民を牧するという皇帝や王の職分というニュアンスがあって、政治活動・政治状況といった風に使われる場合、どこか即しないという言語感覚が木戸にあって、わざと外来語をそのまま使っていた。

238:日本@名無史さん
18/03/27 04:24:20.10 .net
▼日本国憲法66条2項
「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」
自衛の為の軍隊の保持が想定されたことにより、いわゆる芦田修正によって導入された。
現職の自衛官は文民ではないが、退官した自衛官は文民にあたる。

239:日本@名無史さん
18/03/27 04:35:24.83 .net
★鳥尾小弥太
▽鳥尾小弥太
弘化4年(1848年)- 明治38年。Part12〔259-260〕に書いた。
鳥尾が陸軍少将に任命されたのは24歳のとき。現在26歳。
鳥尾小弥太は戊辰戦争後に和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に戊営副都督次席として参与している。
この経験が基礎となって、薩摩藩出身の実力者たちが廃藩置県に慎重な姿勢を見せていた状況に対する危機感に駆られ、野村靖とともに山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。
URLリンク(yugetuan.net)

240:日本@名無史さん
18/03/27 04:44:22.21 .net
明治14年政変は、開拓使官有物払下げ事件を契機に、これを糾弾した大隈重信が失脚した事件として有名であるが、失脚したのは、大隈重信ばかりではない。
陸軍部内の反主流派である鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城・曾我祐準も払下げ反対の建白書を上奏し、結局、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷されている。

241:日本@名無史さん
18/03/27 06:45:14.74 .net
▽中村宇右衛門敬義
萩城下川島村で長州藩士。鳥尾小弥太の父。
小弥太ははじめ中村百太郎あるいは鳳輔と称しており、諱は照光、のち敬高。
乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を改めた。

242:日本@名無史さん
18/03/27 19:47:41.26 .net
▽鳥尾隊
鳥尾が長州の壮丁20人をかき集めて組織した諸隊のひとつ。
鳥尾は健武隊参謀としても、戊辰戦争に参加している。

243:日本@名無史さん
18/03/27 19:52:10.69 .net
明治20年以降の鳥尾は、国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた。
晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った。明治38年、静岡県熱海の別邸にて肺患のため死去した。享年58。

244:日本@名無史さん
18/03/27 19:58:52.18 .net
▽乃木希典
明治4年、23歳でいきなり陸軍少佐になる。洋式軍隊の教育は、2ヵ月しか受けていない。
乃木の栄達は、従兄の御堀耕助(太田市之進)が、死の直前に山県と黒田に頼んでいたからである。
現在は名古屋鎮台勤務、目下金沢分営に出張中。

245:日本@名無史さん
18/03/27 20:00:18.28 .net
乃木希典は、この時代の士官が、士官の制服を着せ辞令さえ出せば誰でも士官になれた例として挙げられている。

246:日本@名無史さん
18/03/27 20:04:58.85 .net
近衛の前身は御親兵であるため、薩長土肥以外の四藩以外の兵はいない。
その中でも、薩摩が最も多かった。警察も海軍も、薩摩が握っている。
山県は、大量辞職した薩摩系士官の補充は、すべて長州人で行おうと考えていた。

247:日本@名無史さん
18/03/27 23:18:57.70 .net
▽近衛都督
明治5年2月に近衛条例が制定され、親兵が近衛と改称された。各地の鎮台が陸軍卿の権内におかれた政府軍であるのとちがい、近衛の総指揮官である近衛都督は天皇に直隷した。また近衛兵は壮兵つまり職業兵制をとることになった。
西郷隆盛の辞任により、近衛都督は空席になった。近衛軍の動揺を抑えるために、山県と鳥尾は木戸孝允を後任の近衛都督に就けようと考えた。

248:日本@名無史さん
18/03/27 23:20:34.54 .net
★木戸邸
▽千代田区九段北2-2-1
現在は九段中等教育学校が建っている。このことはPart12〔653〕で述べた。
山県と鳥尾は、木戸邸を訪ねた。

249:日本@名無史さん
18/03/27 23:22:02.90 .net
近衛都督は、お断りします
   ハハ
   (゚ω゚)
  /  \
((⊂ )  ノ\つ))
   (_⌒ヽ
   ヽ ヘ |
εニ三 ノノ J

250:日本@名無史さん
18/03/27 23:28:22.83 .net
軍人はポリチックに関与してはならない〔>>237〕。
これは参議の兼任を求めている山県にとっては都合の悪い論であった。
留守内閣では、江藤新平が司法卿と参議を兼任し、大隈重信が大蔵総裁と参議を兼任していた。
明治6年政変後、伊藤博文が工部卿と参議を兼任している〔>>213〕。
文民統制の原則を木戸が持ち出さねば、山県陸軍卿が参議を兼任してもおかしいことではなかった。

251:日本@名無史さん
18/03/27 23:32:22.76 .net
▽明治六年政変
論争に敗れた征韓派の参議たちは一斉に下野した。西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平の5人である。
受験日本史の頻出事項。後藤象二郎に変えて大木喬任がひっかけで出題されることが多い。
大木喬任が含まれている肢は×です。

252:日本@名無史さん
18/03/27 23:34:05.32 .net
「私も、辞めます」
と、山県が言った。
(また例のくせがはじまったな)
木戸はうんざりした。

253:解説
18/03/27 23:45:11.66 .net
谷沢永一『人間性を象徴する政治の力学』(全集第35巻)
【一】立場と人格と意識のにおい
「ちなみに明治維新は無数の異分子の参加によって成立した革命であったが、生き残って権力の座についた大久保一個の意識ではこれは厳密な意味での革命ではなく、徳川政権が太政官政権に移行しただけのものであるというにおいがあった。
つまりは将軍が天皇に変わっただけのことであり、だから旧幕時代の官僚用語どおりに〈御評定〉などとこの人物はいう」

254:日本@名無史さん
18/03/27 23:51:37.62 .net
▽服部之総〈しそう〉
明治34年 - 昭和31年。マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史。
島根県那賀郡旭村(現・浜田市)出身。
浄土宗正蓮寺に生れる。旧制浜田中学、第三高等学校卒業。1925年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍。
昭和3年、三・一五事件の共産党弾圧の際、検挙されるが釈放され、唯物史観の立場で維新を論じた「明治維新史」を刊行。昭和7年刊行開始の「日本資本主義発達史講座」において講座派の代表的論客となる。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

255:日本@名無史さん
18/03/27 23:53:54.77 .net
司馬遼太郎は一貫して概念のもてあそびに、いささかの興味をも示さない。歴史の真実に近づく道は、その時期に生きたさまざまな人物の個別な視座にたちかえる想像力である。

256:日本@名無史さん
18/03/27 23:56:43.96 .net
つい安易な大上段の構えをとって、明治維新は革命ではなく政権の移行であったと高みから見おろして定義すると、その途端に大久保利通も西郷隆盛も、単純なあやつり人形に化してしまう。

257:日本@名無史さん
18/03/28 00:00:02.36 .net
歴史の波動にただよう一人ひとりの人物の限られた意識には、過去と現在しか与えられていない。かれらは未来から当時の自分を振り返り見る特権をもたない。
したがって意識と認定と模索と発想は、すべて試行錯誤のための断片にすぎない。

258:日本@名無史さん
18/03/28 00:02:09.57 .net
▽陣僧
主に室町時代、軍陣に同道して、戦死者の供養をはじめ文書作成や敵方への使者を務めた僧。

259:日本@名無史さん
18/03/28 00:06:05.53 .net
いつの世でも観察者であるなら、結論をひねり出しては自己満足を楽しめよう。しかし渦中の当事者にあっては、傍観者的な結論は不要であるのみならず、次に打つべき手を考えるには、有害な手かせ足かせとなる。
行動する者は、概念を必要としない。

260:日本@名無史さん
18/03/28 00:09:38.69 .net
本稿の木戸孝允が、観察者の立場で、進歩的な思想を披歴するあたりは、陣僧に似たものがあるな。
西郷隆盛の征韓論も、しかり。自国の置かれた地位・立場をわきまえないと、すぐれた政策も愚策にしかならない。

261:日本@名無史さん
18/03/28 18:14:18.16 .net
>>232
アンパンの上のツブツブはカラシの実ではなくてケシの実だから、辛くないのではありませんか?

262:日本@名無史さん
18/03/28 18:15:03.75 .net
>>233さんも、>>232に釣られていませんか?

263:日本@名無史さん
18/03/28 18:17:27.43 .net
>>247
西郷辞任の後は近衛都督はしばらく空席になっていたが、結局、陸軍卿の山県が近衛都督を兼任することになる。
本章にも書かれている通り、西郷の前の近衛都督も山県だった。

264:coffee break
18/03/28 20:47:56.91 .net
『謎の円盤UFO』を観て思ったのだが、UFOと戦うためには、エロい躰のねえさんにエロいコスチュームを着せなければならないのか?

265:日本@名無史さん
18/03/28 21:54:24.15 .net
【二】革命ではない政権交代
ついでながら明治の大官の多くはじつに醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるようなものではなく、たとえば役所へ通うとき、書生と称する草履取りを連れている者が多かった。
政権を握った成功者は威張りかえった。だがもしそれだけであったなら、日本の近代化はいつまでも実現できなかったであろう。歴史の奇妙さはこの点をめぐって顕現するのだが、このじつに醜悪な明治の大官たちは、醜悪のままで同時に併行して、日本の国家形成を最も効果的に推進した。

266:日本@名無史さん
18/03/29 06:11:15.68 .net
▽「革命」の二義
1.易姓革命……孟子らの儒教に基づく五行思想から王朝の交代を説明した理論。天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命が起きる。革命とは、天命を革めるの意味。
2.レボリューションの訳語

267:日本@名無史さん
18/03/29 06:16:22.45 .net
明治の初期は、革命とは「易姓革命」の意義に用いられるのが一般であった。これによると、明治維新は政権の交代という認識になる。
しかし、外圧によって変革へのエネルギーが生じた明治維新には、歴史の段階を縦に上に昇るという意味合いが内在していた。これを表現する語彙は、当時の日本にはなかった。

268:日本@名無史さん
18/03/29 06:22:54.46 .net
▽「哲学辞彙」〈じい〉
哲学者のオナニーではない。明治14年に帝国大学が編纂刊行した哲学辞書。
この辞書は、レボリューションにふたつの訳語を付けた。革命と顛覆がそれである。
「按ズルニ、国ヲ興ス、之ヲ革命ト謂ヒ、国ヲ亡ボス、之ヲ顛覆ト謂フ」

269:日本@名無史さん
18/03/29 06:26:17.30 .net
明治維新は徳川政権を転覆したにとどまり(政権交代)、新たに国を興すという今後の課題にすぎなかった。
明治4年あたりまでの混沌とした状況を見ていると、まさにそのとおりだった。

270:日本@名無史さん
18/03/29 06:31:40.74 .net
前半生が極度の艱難にみちていた革命家は、かろうじて革命が一応の成就をみると、人間が変わったよいうに権勢欲のかたまりとなる。
明治維新においても、貪官?吏の集団が簇生した。
しかし彼らは醜悪さを保持しつつも、同時に新たな国家形成に邁進した。

271:日本@名無史さん
18/03/29 06:34:47.24 .net
革命家のもうひとつ類型は、清廉潔癖を保持しつつ、永久革命を目指して内外に惨禍をひきおこすタイプである。
西郷隆盛はこちらのタイプに近かった。

272:日本@名無史さん
18/03/29 06:38:40.63 .net
▽リゴリズム〈rigorism〉
道徳的厳格主義のこと。何事も道徳的善悪の判断で考えようとする杓子定規な考えの持ち主をリゴリストとも言います。
近代哲学でいえばカントがそうでした。
日本でも明治の20年代に儒教教育が国民に徹底して教え込まれた結果、道徳的にうるさい厳格な父親がたくさん現れ、その子供たちの世代は恐ろしい父親の目を逃れようと必死でした。

273:日本@名無史さん
18/03/29 16:17:25.73 .net
政治を道徳で律するリゴリズムは、結果としては木を見て森を見ざるの幣におちいる。

274:日本@名無史さん
18/03/29 16:23:57.37 .net
▽高橋亀吉
全集50巻の『ひとびとの跫音』の谷沢永一による解説「清冽で温柔な感情移入の極致」にも登場した。Part8〔959〕参照。
明治24年 - 昭和52年。経済評論家・経済史研究者。
石橋湛山と並ぶ日本の民間エコノミストの草分け的存在である。山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。
家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。
日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。
URLリンク(corp.toyokeizai.net)

275:日本@名無史さん
18/03/29 16:28:16.75 .net
高橋亀吉は、日本が近代経済の本格的発達の基礎を築きえたのは、明治18年頃である『日本近代経済の育成』で述べている。

276:日本@名無史さん
18/03/29 16:36:13.41 .net
【三】革命の結果がもたらすもの
革命というのは元来、支配・被支配階級のいかんをとわず、遠い将来は知らず、さしあたっての勘定からいえば失う利益のほうが大きい。
革命はかならず国力および生活水準の全国的に大幅な低下をもたらす。明治維新もまたいささかも例外でなく、武士階級にのみ焦点を絞ってみても、維新で政府のやったことといえば士族を山野に棄てただけのことであった。

277:日本@名無史さん
18/03/29 16:44:48.97 .net
・士族:既得権を奪われる
・農民:租税負担が重くなる。徴兵令により若い働き手を奪われる。

278:日本@名無史さん
18/03/29 16:59:01.44 .net
▽阿片戦争
1800年頃になると日本周辺に西洋列強の船が現れ始める。幕府は異国船打ち払い令を出すが(1825年)、1840年のアヘン戦争で清朝が負けたことが大きな原因で打ち払い令に代わって薪水給与令を出した(1842年)。
モリソン号事件(1837年)において外国船を攻撃したことで清朝のようになることを当時の幕府は予測したわけであるから、アヘン戦争の結果は大きな衝撃だったのである。アヘン戦争により東洋よりも西洋の軍事力が圧倒的に優位だと幕府は悟った。

279:日本@名無史さん
18/03/29 17:00:54.32 .net
なお、天保の薪水給与令(1842年)の前に、文化の薪水給与令(1806年)というのがある。
しかし、この法令は、翌年の文化露寇を受けてロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された。

280:日本@名無史さん
18/03/29 17:04:42.75 .net
なお、大村益次郎が西郷の乱にそなえて「四斤山砲をたくさん作って大阪に貯えておけ」と命じた部下は、『翔ぶが如く』では船越衛になっているが〔>>219〕、『花神』では山田顕義だった。

281:日本@名無史さん
18/03/29 17:06:12.49 .net
司馬さんは、もう少し『花神』を読んだほうがいい(・∀・)

282:日本@名無史さん
18/03/29 17:14:30.88 .net
【四】外交と内政の融合と混交
外交が常にただの外交におわることなく、かならず悪霊のような魔術性をもち、国内問題にむかって強烈な呪術力を発揮するという点で、日本はきわめて特異であり、世界の政治地理的分野のなかで特別な国であるとして見なければ、征韓論というものはわからない。

283:日本@名無史さん
18/03/29 17:34:19.27 .net
▽遣韓大使
西郷は自分が遣韓大使として韓都にゆくことにより、あたかも幕末の日本でそれが起こったように、韓国でも在野世論が沸騰し、国論の形成によって李朝が亡びると考えていた。
しかし谷沢永一は、李朝の場合、在野世論が沸騰する基盤もなければ、政権が変質する可能性も絶無であったに違いないと述べている。

284:日本@名無史さん
18/03/29 17:38:52.02 .net
革命を成功させた指導者は、フランス革命においてもロシア革命においても例外なく、革命を他国に輸出したがる。それは覇権の拡張を意味し、制圧による属国化をもたらすことも例外がない。
ただし、西郷の場合、理想主義的な「革命の輸出」ではない〔>>271〕。西郷の発想は、国内問題の現実判断を基礎にした外交論であった。

285:日本@名無史さん
18/03/29 17:46:22.63 .net
【五】政治を基底で動かすもの
征韓論は外交でもなく軍事でもなく、一挙にもっとも根の深い政治問題と化した。
政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人類の歴史ははるかに輝けるものであったろうと思われる。しかし政治においては論理という機械の作動する部分は不幸なことに僅かでしかない。
それよりも利害で動くということは大いにあるであろうが、維新早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していない。
かれらはむしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利害よりも遥かに大きいといえるかもしれない。

286:日本@名無史さん
18/03/29 17:47:55.44 .net
政治が感情で動くことの例証として、江藤新平と大久保利通が相互に憎悪しあっていたことが述べられている。

287:日本@名無史さん
18/03/29 17:53:13.89 .net
西郷はその才略や機鋒を、鈍重な肉質の外被で包みこんで露さないことを心掛けていた。政治は才略よりも人格であるという考え方をとったのである。
それゆえに西郷は結局は敗れる。通常の次元で評価するなら、もとより西郷は敗者であった。しかし敗者であるゆえに、かえって西郷は偉大であった。それは果たしてなにゆえであろうか。

288:月報35
18/03/29 17:58:56.86 .net
司馬遼太郎『声明と木遣と演歌』
『この国のかたち』〈第6巻〉の随想集に収載されている。そこでやる。

289:月報35
18/03/29 18:13:33.03 .net
粕谷一希『編集者としての春と秋に』
昭和33年から35年にかけて、私は中央公論社の出版部に籍があった。そこには、現在、紀行作家として活躍中の宮脇俊三氏や直木賞作家綱淵謙定氏など、多士済々の連中がトグロを巻いていて、皆、若かった。

290:日本@名無史さん
18/03/29 18:20:22.88 .net
▽粕谷一希〈昭和5年 - 平成26年〉
日本の評論家、編集者、出版事業家。保守派の編集者として多くの書き手を送り出し、戦後日本の論壇に保守主義、現実主義の潮流を築いた。
東京雑司が谷に生まれる。東京府立第五中学校、一高を経て、東京大学法学部を卒業。昭和30年、中央公論社に入社。
URLリンク(books.bunshun.jp)

291:日本@名無史さん
18/03/29 18:28:43.95 .net
▽宮脇俊三〈しゅんぞう〉
大正15年 - 平成15年。日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子がいる。
埼玉県川越市で7人兄弟の末子(三男)として生まれる。東京府青山師範学校附属小学校、旧制成蹊高等学校卒業後の昭和20年、東京帝国大学理学部地質学科に入学。昭和26年、中央公論社に入社。
URLリンク(mktabi.cocolog-nifty.com)

292:日本@名無史さん
18/03/29 18:41:24.22 .net
▽綱淵謙錠
全集50巻に『綱淵謙錠氏のこと』という随筆が収載されていて、本スレPart10〔456-〕で詳しくやっている。参照せよ。
大正13年 - 平成8年。樺太出身の小説家。

293:日本@名無史さん
18/03/29 18:49:56.35 .net
▽谷崎潤一郎〈明治19年 - 昭和40年〉
初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。
漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」と称された。
URLリンク(jpreki.com)

294:日本@名無史さん
18/03/29 18:55:28.73 .net
▽谷崎潤一郎全集
「谷崎潤一郎全集」は、これまで中央公論社から谷崎の生前に一度、没後に二度、合計三回編纂され刊行されている。以下はそのリスト。
「谷崎潤一郎全集」全三十巻(昭和32年12月~昭和34年7月、中央公論社)
「谷崎潤一郎全集」全二十八巻(昭和41年11月~昭和45年7月、中央公論社)
「谷崎潤一郎全集」全三十巻(昭和56年5月~昭和58年11月、中央公論社)
綱淵謙錠が担当したのは、昭和30年代に刊行されたいわゆる「自選全集」。

295:日本@名無史さん
18/03/29 19:01:25.61 .net
▽尾崎士郎〈明治31年 - 昭和39年〉
愛知県幡豆郡横須賀村(現西尾市)生まれ。早稲田大学政治科在学中に社会主義運動にかかわり、大学を中退し、大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。
大正10年に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てる様になる。昭和8年から都新聞に『人生劇場』を連載し、文芸懇話会賞を受賞。これが大ベストセラーとなって以後20年以上も執筆し続ける大長編となる。

296:日本@名無史さん
18/03/29 19:05:04.31 .net
早くに右傾し、軍国主義鼓吹の小説や著作を多く書いたため、戦後公職追放となるが、以後は文壇から距離を置き、実業家などとのつきあいが多かった。川端康成とは関東大震災の翌年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友であった。
川端康成を通じて伊豆湯ヶ島温泉で知り合った梶井基次郎とは、馬込文士村において、妻の宇野千代を巡って関係が険悪となり、その後尾崎と千代は離婚した。
夫婦の仲はすでにぎくしゃくしていたが、宇野に好意を寄せる梶井とそれを憎からず思う宇野との親しい関係に対してわだかまりを感じていた尾崎は、友人宅で開かれたパーティで偶然居合わせた梶井の態度が気に入らず、梶井の顔に火のついた煙草を叩きつけるという事件を起こしてしまったのである。
URLリンク(www.city.nishio.aichi.jp)

297:日本@名無史さん
18/03/29 19:09:26.16 .net
▼宇野千代〈明治30年 - 平成8年〉
小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。
山口県玖珂郡(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が「おはん」のモデルとされる。
URLリンク(www.designroomrune.com)
URLリンク(e.kaigo110.co.jp)

298:日本@名無史さん
18/03/29 19:10:51.36 .net
文士の下半身ときたら( *´艸`)クスッ♪

299:日本@名無史さん
18/03/29 19:19:01.15 .net
▽中山義秀〈ぎしゅう〉
明治33年 - 昭和44年。日本の小説家。昭和13年、『厚物咲』で第7回芥川賞受賞。
福島県西白河郡大屋村(現白河市)生まれ。旧制安積中学(現福島県立安積高等学校)、早稲田大学文学部英文科卒業。
戦後は『新剣豪伝』『信夫の鷹』などの時代小説を書き、昭和39年、明智光秀を描いた『咲庵』で野間文芸賞を受賞した。
URLリンク(www.kamakurabungaku.com)

300:日本@名無史さん
18/03/29 19:50:18.68 .net
みかんを入れている網袋に石鹸を入れて水道の蛇口に吊るしておくんだ。
手を洗うとき、すごく泡立ちがよくて、汚れがおちるよ。
URLリンク(rr.img.naver.jp)

301:日本@名無史さん
18/03/29 19:52:38.62 .net
>>300は吊るし方がおかしい。
正統派は、これだ。
URLリンク(www.yaslab.com)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

302:日本@名無史さん
18/03/29 19:58:17.73 .net
以上、余談である。

303:日本@名無史さん
18/03/29 20:03:23.30 .net
▽子母澤寛〈明治25年 - 昭和43年〉
小説家。北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)出身。
祖父の梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎)は、幕府から切り米20俵の家禄を受けていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れて捕虜となったが釈放され、札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩の漁村・厚田で漁場を持った。
新聞記者をするかたわらで、旧幕臣の聞き書きをまとめ、昭和3年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版し、その後の作家ら(司馬遼太郎・池波正太郎など)に引用される。
URLリンク(cdn.amanaimages.com)

304:日本@名無史さん
18/03/29 20:05:14.16 .net
ずいぶん長くなったが、尾崎士郎、中山義秀、子母澤寛は、当時、綱淵謙錠が通っていた作家である。

305:日本@名無史さん
18/03/29 20:09:34.65 .net
▽子母沢寛全集
中央公論社版は全10巻で、昭和37年10月から翌年8月に刊行された。
綱淵謙錠は、「子母沢寛全集の次は、司馬遼太郎全集を出すべきだ」と、ある会議の席上、発言したそうだ。

306:日本@名無史さん
18/03/29 20:15:35.55 .net
▽昭和36年1月
綱淵謙錠と粕谷一希は、新編集長笹原金次郎の許、両次長として「中央公論」編集部に移った。
「風流夢譚」事件に対応する補強策であった。

307:日本@名無史さん
18/03/29 20:24:29.47 .net
▽風流夢譚事件〔嶋中事件〕
昭和36年2月1日に日本で起こった右翼による言論抑圧を目的としたテロ事件。
昭和35年11月上旬に雑誌『中央公論』に発表された深沢七郎の小説「風流夢譚」の中には、皇太子・皇太子妃が斬首される記述や、天皇・皇后の首のない胴体が登場したり、昭憲皇太后が野卑な言葉を語ったり面罵されたりする記述などがあった。
これを「不敬」であるとして右翼の抗議活動がすぐに起こったが、加熱する批判と擁護論争の中で、右翼団体大日本愛国党に所属していた少年Kが、中央公論社の社長嶋中鵬二宅に侵入して起こした殺傷事件。

308:日本@名無史さん
18/03/29 20:31:13.94 .net
この事件に関して第38回国会参議院で当局の警備の手落ちを指摘して緊急質問したのが西郷吉之助議員です。マジ。
西郷吉之助議員は、西郷隆盛と糸子の間に生まれた嫡男・寅太郎の三男。つまり、隆盛の孫。
URLリンク(cdn.snsimg.carview.co.jp)

309:日本@名無史さん
18/03/29 20:34:50.25 .net
右翼は「風流夢譚」のなかの皇族が処刑され冒涜される描写に憤慨したけど、「左慾」(サヨク)という皮肉を込めた漢字表記からも伺えるように、深沢は60年安保に見られた左翼運動で安易に語られた「革命」もパロディとしているんだよね。
小説の内容は、革命を煽動したり賛美したりするのではなく、むしろその愚かさと恐怖を書いたのであり、右翼が怒ったような内容ではなかった〔「よみがえる45年前の記憶 『風流夢譚』事件が私に教えた『言論の自由』より大切なもの インタビュー粕谷一希」〕。

310:日本@名無史さん
18/03/29 20:36:20.80 .net
深沢七郎は『楢山節考』も良かったな。
当時42歳の深沢の処女作である。

311:日本@名無史さん
18/03/29 20:39:30.70 .net
映画『楢山節考』の話だけど、左とん平は、「清川虹子のおっぱいは意外と張りがあった」とインタビューで答えていた。
URLリンク(image.space.rakuten.co.jp)

312:日本@名無史さん
18/03/29 20:46:04.67 .net
▽笹原金次郎〈大正9年 - 平成16年〉
山形県出身。早稲田大学政経学部卒。昭和23年中央公論社入社。昭和36-41年『中央公論』編集長、取締役編集局長をへて退任。

313:日本@名無史さん
18/03/29 20:50:22.32 .net
▽当時連載中の司馬作品
週刊コウロン……「上方武士道」
小説中央公論……「新選組血風録」
週刊文春……「燃えよ剣」

314:日本@名無史さん
18/03/29 20:56:35.20 .net
▽空海の風景
中央公論の昭和48年1月号から、途中「長安から北京へ」のための休載を挟んで、昭和50年9月号まで掲載された。
連載開始時は笹原編集長であったが、その後は粕谷一希が編集長を務めた。
粕谷によると「空海の風景」は、司馬遼太郎の青春への追想だそうである。

315:月報35
18/03/29 21:11:03.38 .net
芳賀徹『司馬さんと駒場』
司馬さんは、式典の日には忙中を上京、みごとな記念講演をして下さった。「アジア諸国との対比において見た日本社会の性格」という、まさに教養学科三十周年にふさわしい、中国・朝鮮・日本、そして貨幣と儒教と製鉄技術と役人道の問題をおおう、遠大で大胆で、しかも個人的見聞と見識とに裏打ちされた名講義であった。

316:日本@名無史さん
18/03/29 21:16:06.76 .net
▽芳賀徹〈昭和6年 - 〉
東京府生まれだが、本籍は山形県。父は中世日本史を専攻した歴史学者芳賀幸四郎で、父が左翼活動で東京高等師範学校を退学になった直後に生まれている。
昭和28年、東京大学教養学部教養学科フランス分科第一期生として卒業、続いて大学院比較文学比較文化専修課程第一期生。島田謹二に比較文学を学ぶ。
URLリンク(images.keizai.biz)

317:日本@名無史さん
18/03/29 21:22:37.27 .net
▽昭和56年
東大教養学部教養学科創設三十周年記念式典で司馬遼太郎が記念講演をした経緯が述べられている。

318:日本@名無史さん
18/03/29 21:28:02.03 .net
▽T・S・エリオット〈Thomas Stearns Eliot:1888年 - 1965年〉
イギリスの詩人、劇作家で文芸批評家である。
昭和56年には故人なんだが、ふざけすぎているぞ、東大教授。
URLリンク(www.poets.org)
URLリンク(shisly.cocolog-nifty.com)

319:日本@名無史さん
18/03/29 21:30:54.22 .net
▽トインビー〈Arnold Joseph Toynbee:1889年 - 1975年〉
イギリスの歴史学者。
トインビーも昭和56年には故人なんだが、どういうつもりなんじゃ、東大教授?
URLリンク(i.ytimg.com)

320:日本@名無史さん
18/03/29 21:35:43.33 .net
▽ケネス・クラーク〈Kenneth McKenzie Clark:1903年 - 1983年〉
英国の美術史家。
筆者は、この時代の外国の学者には昏い。申し訳ない。
URLリンク(sugimatamihoko.cocolog-nifty.com)

321:日本@名無史さん
18/03/29 21:39:14.19 .net
▽国際関係論
国際社会において生起するさまざまな事象についての分析を行う研究領域である。 政治学の一分野と考えられることが多い。
国際関係論でもっとも大きな部分を占めるのが戦争の原因・過程と影響に関する研究である。
戦争・紛争以外の領域でも、様々な側面から国家の行動を説明しようとする試みが続けられている。その中でも、代表的なものはウォルツによる勢力均衡論である。突出した勢力を持つ国が現れるとそれに対抗する連合体が形成される傾向があるという仮説。

322:日本@名無史さん
18/03/29 21:42:29.12 .net
▽文化人類学
人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野。
人間について「文化」という概念を中心に、経験的な調査法(=インタビューと参与観察)を動員して、〈他者〉と〈他者がおりなす社会〉を観察し、そのことを具体的に考察する。
文化人類学の名称はアメリカにおいて用いられ、イギリスおよび多くのヨーロッパ諸国では「社会人類学」の名称が用いられてきた。他のヨーロッパ諸国や日本においては民族学(英語圏での Ethnology、ドイツ語圏での Ethnologie)の名称も用いられている。

323:日本@名無史さん
18/03/29 21:50:03.26 .net
▽江藤淳〈昭和7年 - 平成11年〉
戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄の死後は文芸批評の第一人者とも評された。
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」という遺書を残して自殺した。
URLリンク(i.pinimg.com)

324:日本@名無史さん
18/03/29 22:08:29.36 .net
▽島田謹二〈明治34年 - 平成5年〉
日本の比較文学者・英米文学者。芳賀徹の恩師。
廣瀬武夫とアリアズナの恋の顛末は、東京大学の著名な教授である島田謹二氏が初めて詳細に研究し、1960年代に著している。日本で彼は 「比較文学の父」 と呼ばれている。
島田謹二は 『ロシアにおける廣瀬武夫』 という研究論文 (モノグラフ) を書き上げた。この労作をもとに、司馬遼太郎が、長編小説 『坂の上の雲』 の一節でこれら二人の若者たちの愛の物語を鮮やかに描写している。
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

325:日本@名無史さん
18/03/29 22:12:42.35 .net
国際関係論だの文化人類学だの総合文化研究科などというような鵺のような“すきま学問”の話は興味ない。
伝統文化を重んじる我々としては、法学部とか経済学部のようなスキっとした学問が好みである。

326:日本@名無史さん
18/03/29 22:14:15.42 .net
大蔵省を財務省というようなくだらん名称に変えるから、文書改竄などをしよる。

327:月報35
18/03/29 22:20:50.15 .net
【図表】主要登場人物のおもな経歴(明治元年~六年)
以下の人物が載せられている。
三条実美、島津久光、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信
副島種臣、大木喬任、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、井上馨、黒田清隆、西郷従道、大山巌、桐野利秋、川路利良、勝安芳

328:日本@名無史さん
18/03/29 22:23:08.28 .net
五箇条の御誓文に加筆したという理由で、受験日本史ではかなりの重要人物である福岡孝弟は、この小説では活躍していません。
どうなさってますか?

329:日本@名無史さん
18/03/29 22:27:08.16 .net
▼福岡孝弟
明治維新では、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。
明治4年、王政復古の功を賞されて賞典禄400石を授けられる。議事体裁取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事。政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。
URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)

330:日本@名無史さん
18/03/29 22:27:34.49 .net
司法大輔時代の明治5年、司法卿の江藤新平と共同で、法律で妾を持つことを禁止すべきとの建白書を提出する。しかし、蓄妾は旧来の慣習であったため、建白はいつしか立ち消えとなって採用されることはなかった。
その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任した。明治17年、子爵を授けられる。
大正8年(1919年)3月7日、薨去。享年85。
URLリンク(pds.exblog.jp)

331:日本@名無史さん
18/03/29 22:29:58.60 .net
しぶとく生き延びられていたようですが、二度と歴史の表舞台には顕われなかったようですね。
五箇条の御誓文のところで頻出なんですが、こんな人物を受験日本史で覚えなければならないのですか?
日本史教科書から福岡孝弟の名前は、削除してはどうでしょうか?

332:日本@名無史さん
18/03/29 22:45:34.82 .net
昨年の12月19日に『翔ぶが如く』を始めて、2,331レスも費やして、やっと35巻が終わっただけだぞ。
まだ3巻もあるぞ。
全集を全部終える前に、画像君の寿命が尽きてしまわないか、心配になってきた。

333:日本@名無史さん
18/03/29 22:52:00.84 .net
>>263
引き続き、西郷従道→山県有朋→鳥尾小弥太となり、その後は皇族が都督を務めるようになる。

334:日本@名無史さん
18/03/30 01:03:17.53 .net
>>328
五箇条の御誓文や政体書は、受験日本史や憲法史の上では重視されるけど、実際の影響力から考えれば、まあ糞のようなものだね。

335:日本@名無史さん
18/04/06 12:58:23.27 .net
田布施システムの創作者・発信者一覧表
・大室近祐
通称田布施の和田喜八郎と呼ばれる詐話師
・鹿島昇
極左弁護士
同和問題にも取り組む極左弁護士
新国民社を設立し、陰謀論を出版
・太田竜
鹿島昇の新国民社を引き継いだ極左
元日本革命的共産主義者同盟委員長
・鬼塚英昭
大分の部落民で竹細工職人
鹿島昇の本に影響を受け陰謀論を
在日コリアンの会社から出版
・リチャード輿水
在日コリアンの会社から陰謀論を出版
・朴甲東
鬼塚や輿水が陰謀論を出版してる成甲書房を設立
朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者
・犬丸勝子
日本共和党の極左
・松重正
陰謀論で親韓
・松重楊江
陰謀論
・松重
名前は不明だが鹿島の本に影響を受けている
日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員

336:日本@名無史さん
18/04/06 12:59:07.03 .net
続き
・原田伊織
左翼
小説形式のブログで長州を貶める内容を発信
出版のソースに史料・文献が少なく司馬遼太郎などの
小説をソースにしている
・ツイートTVの老夫婦
共産党支持者
わざわざ山口県にまで出向き
地域を撮影しYouTubeで発信してる陰謀論者
動画の出だしに必ず「はぁい」と不気味な声で言う
会津プロパガンダ同様、極左だらけで歴史家がいない
に加えて部落、朝鮮人、親韓が絡んでるが特徴的

337:日本@名無史さん
18/04/07 13:46:12.51 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた

朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(youtu.be)

338:翔ぶが如く
18/04/08 11:10:12.35 .net
第21章 大警視
大久保が新設の内務卿に就任したのは、11月29日である。征韓論分裂から一月あまりになる。ただし、「全国人民の安寧を図る」というこの省は、すぐには発足しない。
実務が開始されるのは翌年1月10日ということが決められた。実務開始に先立ち、大久保は参議職に兼ねて内務卿になったわけである。大久保が日本国の実権を事実上握るのはこのときからであった。
内務省に、警察組織も移管される。川路も大久保の部下になる。

339:日本@名無史さん
18/04/08 11:20:41.03 .net
★ポリス
▽自由と権利
FreedomやLibertyの翻訳語としての「自由」は、福沢諭吉によって作られた。福沢の『西洋事情』には、FreedomあるいはLibertyは決して我儘放蕩を意味しないとわざわざ断っている。
福沢は欧米において世界を臣従させるような大文明が興った基礎には、自由と権利があるという。

340:日本@名無史さん
18/04/08 11:24:39.06 .net
▽「ポリスが国家をつくる」
川路利良は、警察こそ文明の基礎だという。
ただし、川路は、警保の職の目的は「全国人民の安寧を護り、政府高官の独善を許さないところにある」としているから、彼の思想には国権の管理下において人民の自由と権利を護りたいという気分があった。

341:日本@名無史さん
18/04/08 11:30:21.85 .net
司馬さんは川路〈利良〉を「としなが」と読むことに固執されている。
川路がパリのホテルの宿帳にローマ字で「としなが」と署名したことが根拠になっている。
しかし、当時は別の漢字で「としなが」と名乗っていたのであろう。
その後〈利良〉と改名したのであるから、「としよし」でよい。

342:日本@名無史さん
18/04/08 11:34:15.19 .net
「良」を人名として用いる場合、「なが」と読む例が皆無というわけではない。
「利良=としなが」説も、完璧に葬り去られるべき見解じゃないよ。

343:日本@名無史さん
18/04/08 11:40:57.64 .net
▼川路の官歴
明治4年秋、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。翌明治5年5月、邏卒総長に就任した。
同年8月、警保助・大警視となる。同年9月、司法省の西欧視察団8人の一員として欧州各国の警察を視察する。
帰国は明治6年夏。現在は同年11月。

344:日本@名無史さん
18/07/12 16:05:31.77 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
2Q3

345:日本@名無史さん
18/08/23 17:49:08.03 .net
さしこゲット(σ゚∀゚)σ

346:日本@名無史さん
18/12/24 10:34:30.23 .net
>>1
海音寺潮五郎スレッドが
ないのは何故?

347:日本@名無史さん
19/01/24 12:57:22.64 .net
書いた司馬遼太郎が悪いのか
司馬遼太郎を信じるヤツがバカなのか
まあ、どっちもバカで悪いんだろうが
司馬は世良と乃木将軍の子孫に詫び
あれは創作だと一筆書くべきだったよな

348:日本@名無史さん
19/02/19 19:28:52.11 .net
久光の浜町屋敷
日本橋浜町。人形町の東、墨田川畔にある。

349:日本@名無史さん
19/02/20 19:15:53.77 .net
【諫早作次郎】
慶応元年11月29日、四境戦争(第二次長州征伐)に対応する諸兵の部署を定められた。
膺懲隊は山代(玖珂郡本郷村)へ配置替えになった。
かわって干城隊の分隊(隊長諫早作次郎 のち衝撃隊)と徳地宰判の狙撃兵そのほか諸兵が入った。
この隊はのち、芸州口の戦(小瀬川口)に出陣している。

350:日本@名無史さん
19/02/20 20:07:47.97 .net
丈夫玉砕 甎全を愧ず

351:日本@名無史さん
19/02/20 20:14:49.02 .net
【伊藤退三】
越後北蒲原郡水原(すいばら)出身。
水原町は、平成16年、合併により阿賀野市の一部になる。

352:日本@名無史さん
19/02/21 19:04:38.85 .net
鉋屑を近年とんと見ていない。
死ぬまでにもう一度鉋屑を見てみたい。

353:日本@名無史さん
19/02/21 19:17:23.62 .net
明治3年11月
両国中村楼で前原一誠・佐々木男也 vs 山縣有朋・三浦梧楼
中村楼は本所区元町(現墨田区両国1丁目)の隅田川沿いにあった。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)

354:日本@名無史さん
19/02/23 00:48:20.59 .net
『翔ぶが如く』は江華島事件を数行で済ませているところがいただけないな。
江華島事件に続く日朝修好条規によって朝鮮は開国したのであるから、
実質は遣韓論であるところの西郷の征韓論は、太政官が実現したことになる。
ここを端折るというのはよくない。

355:日本@名無史さん
19/02/23 01:21:47.67 .net
あえて省いたのかもしれんよ。
征台の役につづく北京談判で大久保が成功し、日朝修好条規(明治9年)では黒田清隆が成功した。
詳しく書いていると西郷が木偶に見えてしまう。

356:日本@名無史さん
19/02/23 09:21:04.40 .net
なるほど……そうかもしれない。

357:日本@名無史さん
19/02/23 13:01:08.65 .net
太田黒伴雄が神官を務めた新開太神宮(通称:お伊勢さん)は、熊本城の西南約5㎞の地点にある(熊本市南区内田町)。
URLリンク(img01.otemo-yan.net)
URLリンク(isemiyasan.jp)

358:日本@名無史さん
19/02/23 13:08:56.71 .net
文安元年(1444年)、伊勢神宮を熱心に信仰していた太田黒孫七郎が、天照大神の託宣を受け、翌年に伊勢神宮を当地に勧請し創建した。
天正年間(1573年 - 1592年)、佐々成政により社殿が焼かれた。
その後、加藤清正により再興され崇拝を受け、細川家の代になり、手厚い保護を受けた。
幕末の思想家林桜園はこの宮を深く崇敬し、宮部鼎蔵をはじめ桜園の門下生も同様に信仰を注いだ。
敬神党の首領である太田黒伴雄が、祠官太田黒伊勢守に入婿し神主として奉職した。
神風連の変の挙兵の宇気比が行われた社でもある。

359:日本@名無史さん
19/02/23 13:14:35.06 .net
明治4年、肥後国には熊本県と八代県が設置された。
熊本県はその後白川県と改められ、明治6年、白川県と八代県が合併して白川県となった。
明治9年2月、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。

360:日本@名無史さん
19/02/23 13:19:18.80 .net
【千島・樺太交換条約】
明治8年5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するためにサンクトペテルブルクで署名され、
同年8月22日に東京にて批准され締約された条約。
スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本武揚は粘りに粘り、
ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。

361:日本@名無史さん
19/02/23 13:26:58.47 .net
安岡良亮(享年51)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
太田黒伴雄(享年41)
URLリンク(upload.wikimedia.org)

362:日本@名無史さん
19/02/23 13:37:07.10 .net
司馬さんは、太田黒伴雄は、明治9年の時点で43歳と書いておられるな。

363:日本@名無史さん
19/02/23 13:42:21.91 .net
数え歳で計算する習慣が抜けきらないんだろうな。
2歳年長で書かれることが多い。

364:日本@名無史さん
19/02/23 15:48:32.04 .net
太田黒伴雄は、幕末の頃は大野家の養子で、大野鉄兵衛と称していた。

365:日本@名無史さん
19/02/23 16:48:49.19 .net
加屋霽堅
上野堅吾……国学
斎藤求三郎……洋学
富永守国……勤王運動家
石原運四郎……陽明学
阿部景器……人柄のよさ

366:日本@名無史さん
19/02/23 18:02:46.11 .net
【秋月の乱】
明治9年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助(しゃのすけ)ら約400名によって起こされた反乱である。

367:日本@名無史さん
19/02/23 18:22:42.26 .net
だから何?

368:日本@名無史さん
19/02/23 18:34:18.99 .net
益田静方(しずかた)1850-1876
明治時代の士族。嘉永3年生まれ。筑前秋月藩士の子。
明治9年秋月の乱に加わり、捕らえられて今村百八郎らとともに同年12月3日処刑された。27歳。

369:日本@名無史さん
19/02/23 18:39:16.10 .net
秋月は、現在の行政区画では、福岡県朝倉市秋月になっている。
URLリンク(fukuoka-yokatoko.biz)
URLリンク(washimo-web.jp)
URLリンク(washimo-web.jp)
URLリンク(washimo-web.jp)
URLリンク(washimo-web.jp)

370:日本@名無史さん
19/02/23 18:54:03.52 .net
前原は、健康がよほど思わしくない。先月五日に目方をはかってみたところ、以前より一貫八百匁も減っているのである。
心労としか言えないようであった。後日、前原がその日記に、
―全身震動、頭浮クガ如ク、翔ブガ如ク
と、自分の症状を書いている。

371:日本@名無史さん
19/02/23 19:03:49.61 .net
【大楽源太郎の蜂起】
明治3年、多くの門下生が奇兵隊脱隊騒動を起こすと、首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられる。
ここに至りついに山口より脱走し、豊後姫島に潜伏した後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるも失敗。
さらに久留米に走って応変隊を頼るが、新政府からの追及を受けた同隊隊士の川島澄之助らの手によって、翌4年に斬殺された。

372:日本@名無史さん
19/02/23 19:57:41.33 .net
小河源之允
久留米藩士。実在の人物のようである。

373:日本@名無史さん
19/02/23 20:00:46.00 .net
古田十郎
神風連幹部。
大島邦秀中佐は熊本鎮台砲兵営に所属していたが、明治9年10月24日の神風連の乱において、熊本城の大兵営に駆けつけ、防戦したのちに戦死した。
名に負う剣客であったという大島は、駆けつけた南坂で神風連の【古田十郎】、青木暦太と対峙し、善戦しているところを太田黒伴雄に胸を刀で貫かれた。

374:日本@名無史さん
19/02/23 23:06:49.69 .net
種田政明の写真はない。
妾の小勝の写真はあった。
URLリンク(pds.exblog.jp)
墓は甲府の瑞泉寺にある。
URLリンク(pds.exblog.jp)

375:日本@名無史さん
19/02/23 23:50:03.62 .net
司馬さんは、安岡良亮邸襲撃班のリーダーを吉岡義節としているが、
吉村義節(ぎせつ)の誤りである。

376:日本@名無史さん
19/02/25 05:51:32.08 .net
雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂

377:日本@名無史さん
19/02/25 17:59:24.97 .net
安岡良亮邸襲撃部隊……吉村義節班
【被害者】
安岡良亮 →3日後に死去
小関敬直……旧小倉藩士、熊本県参事 →明治10年3月病院で死去
仁尾惟茂……一等警部(県警指揮者)
村上新九郎……六等警部 →現場で死去、愛敬元吉の両眼を抉り取る
坂口静樹……一等巡査 →現場で死去

378:日本@名無史さん
19/02/25 18:34:53.36 .net
神風連第二隊……砲兵第六大隊襲撃
週番士官:坂谷敬一砲兵砲兵少尉

379:日本@名無史さん
19/02/25 18:37:23.33 .net
神風連第三隊……歩兵第13連隊襲撃
週番士官:福原豊功歩兵大尉(司馬は福原豊助としているが誤り)

380:日本@名無史さん
19/02/25 18:43:48.26 .net
白川県の由来は、熊本市内を流れる白川だな。

381:日本@名無史さん
19/02/25 19:13:03.47 .net
熊本鎮台逆転劇の英雄
参謀児玉源太郎少佐
歩兵第13連隊第3大隊大隊長小川又一
歩兵第13連隊連隊長与倉知実中佐

382:日本@名無史さん
19/02/25 19:16:31.74 .net
神風連の乱の当日に熊本にいた児玉源太郎。
おなじく熊本鎮台に属しながら小倉営所に常駐する第14連隊連隊長だった乃木希典。
いつもツイている児玉と、いつもツイていない乃木。

383:日本@名無史さん
19/02/26 03:22:34.46 .net
国名を聴いただけでほんわかした気分になれるのは、ホンジュラス。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

384:日本@名無史さん
19/02/26 21:12:23.19 .net
歴代熊本鎮台司令長官
明治4年:桐野利秋少将
明治6年4月:谷干城少将
明治7年:野津鎮雄
明治9年6月:種田政明
明治9年:谷干城……参謀長:樺山資紀

385:日本@名無史さん
19/02/27 17:01:32.41 .net
【豊前豊津】
豊前の豊津陣屋は、明治2年に小笠原忠忱によって築かれた。
慶長2年(1866)第二次長州征伐で敗れた小倉藩は小倉城に自ら火を放ち退去した。
慶長3年(1867)に長州藩と和睦した小倉藩は香春に移り、後に豊津に陣屋を築き豊津藩となったが、明治4年廃藩置県により廃城となった。
『翔ぶが如く』にちょくちょく登場する豊津士族とは、旧小倉藩士のことだと思えば、ほぼ間違いない。

386:日本@名無史さん
19/02/27 17:03:29.53 .net
【秋月藩】
福岡藩の支藩。元和9年(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。
藩庁は秋月陣屋(福岡県朝倉市)。無城大名ではあるが城主格が与えられていた。

387:日本@名無史さん
19/02/27 17:14:48.74 .net
香春町(かわらまち)
福岡県田川郡香春町。豊津の西方約10㎞に位置する。その西南に田川市がある。
なお、豊津は福岡県京都郡みやこ町豊津。
URLリンク(www.town.kawara.fukuoka.jp)

388:日本@名無史さん
19/02/27 19:26:37.63 .net
>>385
旧小倉藩といえば、戦闘的佐幕藩だろう。
こんな連中を信頼した旧秋月藩士が阿呆。

389:日本@名無史さん
19/02/27 19:35:14.25 .net
歩兵第十四連隊(小倉)連隊長
明治8年12月まで:山田頴太郎少佐……前原一誠の実弟
その後:乃木希典少佐……連隊長心得

390:日本@名無史さん
19/02/27 19:38:45.44 .net
福原和勝(1846-1877)
長府藩士村上通虎の三男として生まれた。幼名は百合勝。
後に同藩士・福原俊親の養子となって福原俊行を名乗り、後に和勝と改めた。若年ながら武芸に秀で、藩主・毛利元周の護衛等も務めた。
元治元年(1863年)から始まる下関戦争では藩内の青年を組織、翌年の英米仏蘭連合艦隊の攻撃では、上陸した幕府軍の陸戦隊と死闘を繰り広げた。
佐賀の乱では佐賀征討総督幕僚参謀として参戦。

391:日本@名無史さん
19/02/27 19:41:33.68 .net
御堀耕助=太田市之進(司馬さんはいつも太田市之允とされる)

392:日本@名無史さん
19/02/27 19:46:21.68 .net
太田市之進から御堀耕助に改名したのは慶応元年(1865年)。
長州藩士・太田要蔵の長男として萩に生まれる。18歳で江戸の斎藤弥九郎道場に入門し塾頭を務める。帰藩後、世子毛利定広の小姓となる。
元治元年(1864年)7月の禁門の変に参加するも破れて帰藩。
四カ国連合艦隊との戦闘に参加後、山田顕義・品川弥二郎らと御楯隊を結成し総督となる。
同年12月(1865年1月)、高杉晋作が決起すると(功山寺挙兵)、これに呼応して御楯隊を率いて俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍した。
慶応3年(1867年)、参政となる。同年8月、柏村数馬と共に京都に赴き、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らと倒幕の実施計画について会談した。

393:日本@名無史さん
19/02/27 20:16:09.66 .net
杉民治(みんじ)
吉田松陰の実兄。
『花燃ゆ』では原田泰造が演じたらしいが、まったく記憶に残っていない。

394:日本@名無史さん
19/02/27 20:26:00.17 .net
歩兵第十四連隊(小倉)連隊長時代の乃木希典も元へ、実弟の玉木正誼が訪ねて、前原一誠への加担を勧めている。
乃木はその情報を種田政明と山縣有朋に通報している。
つまり実弟を売ったことになる。

395:日本@名無史さん
19/02/27 20:32:32.00 .net
乃木自身が前原一誠の乱への加担を疑われたので、実弟を売らざるを得ない窮地に立たされたのかもしれんな。

396:日本@名無史さん
19/02/27 20:49:35.48 .net
東光寺(萩市)
山口県萩市にある黄檗宗の寺院。毛利家の菩提寺。
吉田松陰誕生地近くの萩市大字椿東字椎原にあり、元禄4年(1691年)長州藩3代藩主毛利吉就が建立した。
熊本の神風連につづいて秋月も蜂起したとの報を受けると、前原一誠は26日、山田穎太郎、佐世一清(両者とも前原の弟)、奥平謙輔、横山俊彦など主な同志を東光寺に集め、「国体を挽回するはこの時にあり」と告げて蹶起の趣意書を作った。
URLリンク(buraneta.com)

397:日本@名無史さん
19/02/27 20:58:32.96 .net
乃木希典と玉木正誼が別離の宴のつもりで酒をくみかわした鎮海楼は、現在でも同名の割烹旅館がある。
明治9年当時の店が続いているものかどうかは筆者にはわからないが、おそらく無関係。

398:日本@名無史さん
19/02/27 20:59:49.59 .net
希典と正誼が上がったのは、遊郭である大坂屋の対帆楼だと思う。
対帆楼はのちに鎮海楼と名前を変えた。
URLリンク(stat.ameba.jp)

399:日本@名無史さん
19/02/27 22:41:28.37 .net
関口隆吉
天保7年(1836年)江戸本所相生町に幕臣関口隆船の次男として生まれる。関口家は今川一族の関口氏広の子孫。
嘉永元年(1848年)斎藤弥九郎の練兵館に入門する。当時の塾頭は兄弟子となる桂小五郎であった。
このときの桂小五郎とのコネクションで、山口県令に任命されたものと思われる。
URLリンク(www.tosyokan.pref.shizuoka.jp)

400:日本@名無史さん
19/02/27 22:44:46.59 .net
諏訪好和大尉
広島鎮台山口営所の大隊長
前原軍との萩における市街戦は、明治9年10月31日。

401:日本@名無史さん
19/02/27 23:11:08.06 .net
佐藤信寛
島根県令。曾孫に佐藤市郎(海軍軍人)、岸信介、佐藤栄作らがいる。

402:日本@名無史さん
19/02/27 23:43:20.64 .net
宇龍浦
前原一誠が捕縛された場所
URLリンク(i.ytimg.com)

403:日本@名無史さん
19/02/28 09:19:43.39 .net
明治9年12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡された。
首謀者とされた前原一誠と奥平謙輔および横山俊彦、佐世一清(前原実弟)、山田頴太郎(前原実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日斬首された。

404:日本@名無史さん
19/02/28 09:29:21.07 .net
斗南藩領
明治3年4月16日に正式に移住命令が下り、先発役人が下北半島の田名部(むつ市東部)に到着したのは5月2日だったという。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

405:日本@名無史さん
19/02/28 09:47:39.99 .net
☆今戸
東京都台東区にある地名。浅草の北西、墨田川沿岸。
永岡久茂の寓居があった。

406:日本@名無史さん
19/02/28 09:59:44.02 .net
☆草倉銅山
新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬町角神にある草倉銅山は明治に入って古河鉱業の創立者古河市兵衛によって経営された。
明治末期になると産出量は減少し、大正3年休山になると多くの鉱夫が足尾銅山へと移っていった。
最盛期は6,000人の人々が暮らしたという。福島県喜多方の西方約30㎞の地点。
木戸孝允は、草倉銅山の経営を任せることを餌にして、永岡久茂を太政官に誘った。
URLリンク(yamaguchifuyuto.c.blog.so-net.ne.jp)

407:日本@名無史さん
19/02/28 10:43:11.90 .net
☆新富町
東京都中央区。東京駅からみると、東南に京橋→銀座→新富町となる。
有楽町線では銀座一丁目の次の駅。
URLリンク(www.ndl.go.jp)

408:日本@名無史さん
19/02/28 11:20:13.36 .net
☆日本橋小網町
西郷隆盛の東京における屋敷があった地名として幾たびも登場した。
今回は永岡久茂の書生井口慎三郎が千葉県庁襲撃のための移動手段として船宿に舟をチャーターした地名として登場する。
URLリンク(www.oldphotosjapan.com)

409:日本@名無史さん
19/02/28 11:29:44.92 .net
☆登戸(のぶと)
永岡らが千葉県庁襲撃のための上陸予定地としていた湊。
千葉市中央区登戸。現在は沿海の埋立により海岸から約1㎞離れた町になっている。
JR総武線千葉駅のすぐそば。
URLリンク(bousou.txt-nifty.com)
URLリンク(bousou.txt-nifty.com)

410:日本@名無史さん
19/02/28 11:43:15.15 .net
【思案橋事件】
最初の被害者は、警部補寺本義久(30歳 / 三重県士族)。
斬ったのは井口慎次郎(司馬は井口慎三郎としている)。
URLリンク(www.dumbonet.co.jp)

411:日本@名無史さん
19/02/28 13:00:25.39 .net
【伊勢暴動】
明治9年12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆。
受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾事件となった。
指導者は森田源之助。

412:日本@名無史さん
19/02/28 13:09:10.30 .net
☆ 大橋一蔵清贇(せいえん / 1848-1889)
明治9年前原一誠らがおこした萩の乱に呼応して反乱をくわだてたが失敗して自首。
特赦ののち明治15年新潟県弥彦村に私学明訓校を設立。
北越殖民社をおこし、北海道開拓事業にもつくした。明治22年2月13日死去。
URLリンク(public.muragon.com)

413:薩南
19/02/28 13:36:22.09 .net
☆ 野村忍介(おしすけ)
弘化3年(1846年)折田清太夫の第二子として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(のちの鹿児島市常盤町)に生まれる。
戊辰戦争のときは、城下四番小隊(隊長は川村純義、監軍は永山弥一郎)の分隊長として鳥羽・伏見の戦いに参戦した。
次いで東山道軍が大垣、池上、内藤新宿を経て白河に進撃すると、これに続き四番小隊の小隊長として有数の激戦であった白河攻防戦で戦い、白河城陥落後は棚倉に転戦した。
会津若松城に進撃する際は、川村指揮の下で十六橋の戦いに勇戦、後に会津若松城包囲戦に参戦し軍功を挙げた。
明治4年、藩が御親兵を派遣した際、西郷隆盛に従って上京し近衛陸軍大尉に任じられたが、この航海中錯乱した者に斬りつけられ、鼻に刀傷を負った。このため「ハナ」というあだ名がついたとされる。
後に伊予大洲県に判事として派遣されるが、明治5年にこの職を辞し、鹿児島へ帰郷した。
URLリンク(blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp)

414:日本@名無史さん
19/02/28 13:43:52.50 .net
日本テレビ年末時代劇スペシャル『田原坂』(1987年)では、福本清三が演じた。
URLリンク(eiga.k-img.com)
もうひとりの鹿児島の警察幹部は中島建之で、こちらは加納竜が演じた。代表曲は「エロスの海」。
URLリンク(image.middle-edge.jp)

415:日本@名無史さん
19/02/28 13:45:09.08 .net
司馬さんが「にんすけ」とルビを振っていたので、ずっとそれで覚えていた。

416:日本@名無史さん
19/02/28 13:48:57.41 .net
☆ 日当山温泉
鹿児島県霧島市隼人町内。
URLリンク(kono87.jp)

417:日本@名無史さん
19/02/28 19:38:42.53 .net
ルビは筆者と編集のどっちが入れたかわからんぞ

418:日本@名無史さん
19/03/02 13:59:36.75 .net
大阪府庁舎
西区江之子島
URLリンク(upload.wikimedia.org)

419:日本@名無史さん
19/03/02 14:05:36.48 .net
大日向清緝(きよつぐ)一等警部……大阪府警察課長
福原元資警部……旧与力

420:日本@名無史さん
19/03/02 18:03:48.60 .net
明治9年8月21日 - 宮崎県が鹿児島県に合併され、宮崎県庁は支庁へ格下げされた。
明治16年5月9日 - 日向国のうち志布志郷・松山郷・大崎郷を除いた地域をもって再置県が認められ分県が成立した。
なお、同日に富山県・佐賀県も再置されている。

421:日本@名無史さん
19/03/02 19:38:03.80 .net
郷村制に戻せばいいのにな。

422:内務卿の靴音
19/03/02 21:09:19.97 .net
木戸孝允
明治7年5月……台湾出兵に抗議して参議を辞職
明治8年8月……大阪会議 →参議に復職
明治9年3月……元老院が骨抜きにされたことに抗議して参議辞職
明治9年10月……萩の乱 →前原一誠を極刑に処す

423:日本@名無史さん
19/03/02 22:30:34.68 .net
明治9年3月に参議は辞めたが、内閣顧問という職で太政官に留まっているがな。

424:日本@名無史さん
19/03/02 23:47:17.73 .net
林友幸
幕末は林半七の名で登場する。
文政6年(1823)生まれなので、明治9年の時点では53歳。

425:日本@名無史さん
19/03/03 09:20:52.91 .net
征矢(そや)
雁股・鏑矢などに対し、鋭い鏃をつけた戦闘に用いる矢のこと

426:日本@名無史さん
19/03/03 09:44:35.90 .net
そうやね

427:日本@名無史さん
19/03/03 09:45:53.13 .net
内務少輔林友幸は、大山に丸めこまれてしまいました。

428:日本@名無史さん
19/03/03 14:36:49.14 .net
村田新八と高橋新吉の件は、のちに伏線回収があるが、沼間守一は放置されたままだな。
明治8年7月に河野敏鎌の推薦で元老院権大書記官となっているから、宮崎八郎の件で絡めることもできただろうに。

429:日本@名無史さん
19/03/03 14:50:23.76 .net
沼間守一は明治10年の西南戦争に際し「義勇兵募集演説会」を開いているから、
登場するとすれば、それが最後の機会だな。

430:日本@名無史さん
19/03/03 15:05:03.28 .net
黒岡季備(すえよし)
嘉永5年(1852)生まれ。明治4年、清の上海に派遣されて中国語をまなぶ。
明治7年、台湾出兵の際、西郷従道に随行。ついで事態収拾のため北京に派遣された全権大久保利通の随員となる。
清との和議成立後、台湾で事業をおこした。明治18年10月14日死去。34歳。薩摩出身。

431:日本@名無史さん
19/03/03 16:05:19.23 .net
「男子の顔色は、灑々楽々としていなければならない」(大久保利通)
灑落=さっぱりしてこだわらないさまのこと

432:日本@名無史さん
19/03/03 16:51:26.02 .net
宮内報告
警視庁職員の鹿児島県士族宮内盛高ら数人の帰郷報告によって、太政官は鹿児島暴動の鎮圧計画に入った。
宮内の帰郷は明治9年12月27日、帰京は翌年1月4日である。

433:日本@名無史さん
19/03/03 17:02:45.19 .net
桐野利秋の出身地吉野村
URLリンク(upload.wikimedia.org)
合併前の鹿児島市地図

434:日本@名無史さん
19/03/03 19:33:06.29 .net
中原尚雄は、明治6年の政変で下野した警視庁組のひとりで、征台の役に従軍していたんだな。
だったらそのとき出せよ。

435:東京獅子
19/03/03 21:31:26.58 .net
田中直哉
評論新聞社に潜りこんだ警視庁の密偵となっている。
田中直哉については、次のような書物が市販されている。
"鹿児島士族がこぞって西南戦争に臨んだわけではない。
親族、親兄弟が敵味方に分かれる事態を避けるために、西郷の決起を阻止しようと動いたのが、川内平佐の郷士・田中直哉であった。
田中は、戦前、浄土真宗解禁を実現し、戦後は民権論者として県会議員を務めた鹿児島の誇るべき俊英である。"
URLリンク(pbs.twimg.com)

436:日本@名無史さん
19/03/03 21:35:37.17 .net
☆ 加治木常樹
西南戦争では西郷隆盛にしたがい、捕らえられて懲役1年。
のち挙兵の真相が誤伝されていることを憂い「西南血涙史」をかく。
明治15年平岡浩太郎らと大陸経営を画策し朝鮮にわたるが時機を逸し、のち福岡県警察部につとめた。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

437:日本@名無史さん
19/03/03 21:52:25.55 .net
☆ 小根占
平成17年に佐多町と合併して南大隅町という味もそっけもない糞つまらん町名に変わっている。
島津氏よりも出自が古い武家の名門の名称は、平成のバカのおかげで消えてしまった。
薩摩の小松氏は、禰寝氏から出ている。
なお、小根占村と呼ばれていたのは昭和16年までで、それ以降は根占町。
URLリンク(www.oosumi-tourism.com)

438:日本@名無史さん
19/03/03 22:06:20.71 .net
☆ 雄川
河川付近の町名は根占川北・根占川南となっているのに、地図で見ると川そのものは雄川となっている。
なお、司馬さんは小根占川(麓川)と書かれている。本文もカッコ内も両方間違い。
麓川は錦江町に河口がある。
URLリンク(cdn.jalan.jp)
上流にある雄川の滝

439:日本@名無史さん
19/03/03 22:13:15.72 .net
☆ 松山信吾
西郷が最後の遊猟をしていた大隅の根占の郷士松山信吾は、私学校徒に捕えられることなく、うまく三邦丸に乗り込み、東京警視庁にもどった。

440:日本@名無史さん
19/03/03 22:16:38.49 .net
☆ 加世田景国
嘉永元年(1848)生まれ。野村忍介の実弟。
戊辰戦争で各地に転戦する。明治10年西南戦争がおこると、西郷軍にくわわって重傷を負い、同年3月27日陣中で死去。
30歳。本姓は折田。

441:日本@名無史さん
19/03/03 22:30:31.29 .net
>>438
そもそも雄川は、「大隅有数の大きな川」じゃないしw
エジプト人にOgawa Riverと言ったら、「小川」のジョークだと思われるレベル。

442:日本@名無史さん
19/03/03 22:32:51.62 .net
雄川の滝は、昨年のNHK大河ドラマ「西郷どん」のオープニングで使用され、一気に人気に火が付いた鹿児島の観光スポットだな。

443:日本@名無史さん
19/03/03 23:10:04.08 .net
☆ 疝気
漢方用語。下腹部の痛みの総称。胃炎、胆嚢炎あるいは胆石、腸炎、腰痛などが原因となることが多い。

444:日本@名無史さん
19/03/04 01:00:45.04 .net
☆ 谷口登太
中原尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷を止める」といったと言われる。
中原尚雄が郷里伊集院で余生を送って臨終の間際、地元青年団が駆けつけて中原尚雄に視察か刺殺かを問うたところ視察と明言したという。

445:日本@名無史さん
19/03/04 01:03:01.95 .net
中原尚雄は根津甚八がドンピシャのはまり役だったな。
URLリンク(pbs.twimg.com)

446:日本@名無史さん
19/03/04 02:07:00.24 .net
>>444
谷口登太は、それとはまったく反対の事実を述べているな。
中原尚雄は西郷を暗殺すると言ったと死ぬまで言っていたそうだ。

447:日本@名無史さん
19/03/04 02:11:46.77 .net
戦後の裁判において、谷口は「中原尚雄は刺し違えてでも西郷を止める(説得する)と言った」と口供した。
そのため釈放後鹿児島で温かく迎えられることはなかった。
かつての戦友たちから冷遇されるのがたまらなくなり、裁判とは反対のことを言い出したのではないかな。

448:日本@名無史さん
19/03/04 02:14:18.10 .net
谷口登太は貧乏人で、学問もなく、性根もすわっていない。
私学校でも裁判所でも、都合のいいように言い包められたのだろうよ。

449:日本@名無史さん
19/03/04 10:50:21.79 .net
☆ 高城七之丞
「タカギ」ではなく「タキ」と読む。
弘化4年(1847)生まれ。鹿児島に退隠した西郷隆盛らの動向を内偵していた政府の密偵を捕らえ西南戦争の発端をつくる。
西郷軍三番大隊三番小隊長として熊本城攻めに参加。明治10年9月24日城山で戦死。31歳。

450:日本@名無史さん
19/03/04 11:14:39.70 .net
>>448
見てきたように谷口登太の人格を断定的に規定してはならない。
私学校側は太政官憎しの先入主をもって谷口の言葉を聴く、太政官側も戦後の取調べであるから私学校憎しの感情で谷口の言葉を聴く。
感情が過熱していると、同じ言葉が正反対の意味に解釈されることはある。
俺は嫁と姑の喧嘩を二代にわたって60年間見続けてきたから、そのことがよくわかる。

451:日本@名無史さん
19/03/04 11:14:58.90 .net
世良の「奥羽皆敵」の手紙は会津による工作だった!!
会津藩より世良修蔵の偽手紙をこしらえて
大山格之助へ遣わす途中、仙台人が
この手紙を見たところ、仙台を滅ぼすとの
文字があった。仙台は藩を挙げて怒り
どうせ滅ぼされるなら、会津に与して滅ぼうと
ついに世良を殺して、奥羽諸藩と連合したのである。
世良の暗殺は、仙台藩が一向に本気で
会津攻めを行おうとしないことに
立腹した世良が、秋田に転戦していた
同役参謀大山格之助にあてた書簡に
「奥羽皆敵と見て」と書いたことを
仙台人が知り、怒って殺害したというのが通説
(『仙台戊辰史』など)である。
だが、この大村書簡によると
明治元年九月の時点で仙台藩は「世良書簡は偽造だった」と認めていた。大村は、仙台藩の
嘘(偽造を会津の手によるものとした)
とみて、憤慨したものらしい。
大村益次郎研究家 山本栄一郎

452:日本@名無史さん
19/03/04 11:57:30.70 .net
☆ 草牟田陸軍火薬庫(そうむた)
明治10年1月、明治政府は武器弾薬を輸送船へと積み込もうと試みたが、私学校生徒が激怒する。
1月29日の夜に火薬庫の1棟を襲撃の上破壊して弾薬6万発を強奪。残った火薬庫も翌日に襲撃した。
URLリンク(www.kagoshima-kankou.com)

453:日本@名無史さん
19/03/04 12:01:16.00 .net
刺客問題(真偽はさておき刺客と誤解される懼れは太政官に予測可能)といい、弾薬撤収問題といい、
太政官が薩摩私学校を挑発した事実に間違いはないな。
西南戦争を始めたのは太政官の方だ。

454:日本@名無史さん
19/03/04 12:07:21.17 .net
☆ 汾陽光輝(かわみなみ)
草牟田火薬庫を襲撃した私学校党のリーダー。
日テレ「田原坂」では鈴木ヤスシ。
https://芸能人の子供まとめ.net/wp-content/uploads/2019/01/WS002463-300x283.jpg

455:日本@名無史さん
19/03/04 12:08:25.58 .net
鈴木ヤスシの画像やりなおし
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

456:日本@名無史さん
19/03/04 12:12:31.75 .net
草牟田火薬庫襲撃シーンに石井富子が出ていたね。
汾陽光輝の親族みたいな感じだったけど、そうなの?

457:日本@名無史さん
19/03/04 12:20:07.21 .net
石井富子さんの役は村田三介の妻・佐和子。
村田三介は植木の戦い乃木希典少佐の軍旗を奪った小隊長。

458:日本@名無史さん
19/03/04 12:31:05.57 .net
石井富子は時代劇には欠かせない名脇役だったな。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
特撮にも頻出「電磁戦隊メガレンジャー」より
URLリンク(pbs.twimg.com)

459:日本@名無史さん
19/03/04 12:38:58.28 .net
>>444
「自分は刺し違えてでも……」は、命懸けで説得するという意味の幕末の常套句だよ。
この言い回しが>>450が言うように、私学校側および太政官側で理解が異なったのだろうな。

460:日本@名無史さん
19/03/04 12:51:22.25 .net
翔ぶが如くとまったく関係ないが、ひさしぶりに武原英子を見たので貼っておく。
当時、保健室の先生にしたい女優No.1と呼ばれた。そんなのないけど。
URLリンク(birthday.worksb.biz)
URLリンク(pbs.twimg.com)

461:日本@名無史さん
19/03/04 14:20:18.70 .net
>>459
西郷暗殺は私学校側が捏造した可能性が強い。
1月29日に草牟田火薬庫事件が起きている。
翌日、篠原以下が高城家に会合して、その対策に苦慮する。
東京獅子は西郷暗殺団であるとすれば戦の大義名分ができる。
谷口登太が中原尚雄からメンバーの氏名・止宿先を聞き出すのは、その後のことだ。

462:日本@名無史さん
19/03/04 14:36:15.13 .net
☆ 菅野覚兵衛
天保13年(1842)土佐藩の庄屋千屋民五郎の三男として和食(わじき)に生まれる。
はじめ千屋寅之助の名で登場するが、いつから菅野姓になるのかは不明。
勝海舟の紹介で海軍省に入省し海軍少佐となる。
西南戦争勃発直前に海軍造船所次長として鹿児島県に赴任し、その発端となった『弾薬掠奪事件』に係わったため海軍の中での立場は不遇に終わる。
この事件では私学校徒らの襲撃・略奪を防ぐため弾薬を水に浸すなどの処置をし事態の収拾に奔走した。
まもなく造船所を閉鎖、官職を離れ同地を去り、のち明治17年(1884年)に辞職。
URLリンク(we.eek.jp)

463:西郷の下山
19/03/04 16:08:16.62 .net
警視庁帰郷組が暗殺団であったのか否かに興味はゆきがちですが、
西郷以下の私学校党を叛乱に追い込んだのは、政府の挑発に乗って火薬庫を襲撃した事件です。
西郷暗殺云々は私学校党が叛乱するための大義名分にすぎません。
つまり、いちばんの阿呆は汾陽光輝(>>454)。

464:日本@名無史さん
19/03/04 21:57:04.74 .net
とはいうものの「田原坂」で最高に愉快なシーンは、火薬庫襲撃シーンなんだわな。
鈴木ヤスシの汾陽光輝の姿が痛快。

465:日本@名無史さん
19/03/04 22:02:23.67 .net
母国での二度目の賜暇を終えたアーネスト・サトウは、横浜へは立ち寄らず、
上海から長崎を経て鹿児島へ直行した。鹿児島上陸は2月2日。
ウィリアム・ウィリスをためである。なんというタイミングの良さ。

466:日本@名無史さん
19/03/04 22:21:03.19 .net
☆ 高須
根占の北方にある鹿屋市の字。
URLリンク(www.e-kanoya.net)
URLリンク(stat.ameba.jp)

467:日本@名無史さん
19/03/04 22:28:00.45 .net
西郷は高須から海路で鹿児島に向かう予定でいたが、あいにく海上が荒れていた。
やむなく陸路をとった。垂水・加治木を経て鹿児島庁下に入ったのは、2月3日夜である。

468:日本@名無史さん
19/03/04 22:30:19.81 .net
戦が始まる前ってワクワクするね。

469:日本@名無史さん
19/03/04 22:30:54.69 .net
だまれ!辺見!

470:日本@名無史さん
19/03/04 22:44:56.91 .net
☆ 大洲鉄然
浄土真宗本願寺派の僧。念仏停止が解禁されたので鹿児島に布教に来ていた。
中原尚雄らが逮捕された際、太政官の密偵と勘違いされ、ともに私学校党に逮捕された。
大洲鉄然は長州の勤王僧月性の弟子。
URLリンク(stat.ameba.jp)

471:日本@名無史さん
19/03/04 22:51:40.44 .net
中原逮捕は西郷の鹿児島帰郷と同日の2月3日。
この日から凄惨な拷問が始まる。

472:日本@名無史さん
19/03/05 08:47:25.45 .net
>>450
谷口登太は幕末の志士活動を経ていないから、「刺し違えてでも止める」=命懸けで説得する
という幕末に流行した常套句を知らなかったと思う。所詮薩摩の芋。しかも城下に住いのない田舎者。
谷口が中原はマジで西郷を刺すつもりと勘違いしたんだろうな。

473:日本@名無史さん
19/03/05 09:33:52.54 .net
☆ 野村綱
弘化2年(1845)、砲術家野村好酔の子として鹿児島天神馬場に生まれる。
西南戦争勃発直前の明治10年2月、内務卿大久保利通の命により密偵として鹿児島に帰県したものの、県当局に拘束され、西郷隆盛暗殺計画への大久保の関与を匂わせる口供書を取られることになった。
明治27年3月、非職満期となり退官。宮崎の江平に移り、同月実施の第3回衆議院議員総選挙に宮崎県第一区から立候補したが次点で落選した。

474:日本@名無史さん
19/03/05 09:39:15.58 .net
☆ 岩元基(はじめ)
密偵野村綱が鹿児島城下に潜入しようとした迎陽丸に乗り合わせ、野村から助けを求められたという場面で登場する。
野村綱の取り調べ調書に出てくるのだそうだ。
URLリンク(www5d.biglobe.ne.jp)
向井覚著『建築家・岩元禄』相模書房p34の写真

475:日本@名無史さん
19/03/05 09:40:15.17 .net
戦、まだ~?

476:日本@名無史さん
19/03/05 10:20:46.91 .net
また、おまえか、辺見。

477:日本@名無史さん
19/03/05 10:31:02.33 .net
2月17日早朝に野村綱の口供書が大山綱良により西郷隆盛にもたらされる。
西郷は刺客問題は川路の先走りで大久保の関与せざるところと考えていた。
ところが、野村綱の口供により弾薬撤去問題が大久保の直接の命であることを知るに及ぶ。
西郷の心が開戦におおいに傾くのは、このときからである。

478:日本@名無史さん
19/03/05 10:32:39.73 .net
先生、開戦ですか?

479:日本@名無史さん
19/03/05 10:43:10.15 .net
十郎太、しつこい。

480:鹿児島異人館
19/03/05 14:42:47.96 .net
☆ 鹿児島異人館
日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所の技術指導にあたったイギリス人技師の宿舎で、慶応3(1867)年に建てられた。
現在はウィリアム・ウィリスの公舎になっている。
URLリンク(www.meijiishin150countdown.com)

481:日本@名無史さん
19/03/05 14:48:27.56 .net
ウィリスは薩英戦争(文久3年)を軍艦アーガス号の甲板から眺めた。
URLリンク(cdn.mos.cms.futurecdn.net)

482:日本@名無史さん
19/03/05 14:52:44.15 .net
2月3日
西郷 :小根占から武の自宅に帰る。中原尚雄逮捕。
サトウ:桜島観光
URLリンク(nanshukan.co.jp)

483:日本@名無史さん
19/03/05 14:54:34.85 .net
2月4日
鹿児島は雨

484:日本@名無史さん
19/03/05 14:57:50.39 .net
2月5日
西郷が開戦を決意した日とされている。
菊次郎の記憶に、この日西郷が桐野あるいは篠原にむかって
「そいじゃ、おいの躰をおはんらにあげもっそう」と言うのが聞こえたという。

485:日本@名無史さん
19/03/05 15:05:11.69 .net
ここはおまえの日記帳じゃないぞ。
チラシの裏にでも書いて桶。

486:日本@名無史さん
19/03/05 15:07:34.28 .net
2月6日(雨)
西郷 :私学校大講堂において開戦の評定(寄合)を行う。
サトウ:苗代川観光
URLリンク(nasan.cocolog-nifty.com)

487:日本@名無史さん
19/03/05 16:38:50.92 .net
開戦が決定されたとたんに、西郷・桐野・篠原は愚物に描かれます。

488:日本@名無史さん
19/03/05 18:06:27.47 .net
2月7日
西郷 :作戦会議
サトウ:苗代川から鹿児島庁下へ帰る

489:高雄丸%sjsndh575lk
19/03/05 21:29:35.79 .net
☆ 川村純義
天保7年(1836年)川村与十郎の長男として生まれる。家格は御小姓組で最下級の藩士であった。
妻の春子は椎原国幹の娘であり、椎原国幹の妹は西郷隆盛の母糸子であった。川村は西郷から実弟のように可愛がられたという。
川村は海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切り、海軍創始期を担った。
西南戦争後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続したが、山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画した。
太政官制のもとでは枢要な地位を占めたが、内閣制度への移行と同時にその座を追われた。
URLリンク(pds.exblog.jp)

490:日本@名無史さん
19/03/05 21:30:48.03 .net
%じゃなくて、#ですよ。

491:高雄丸
19/03/05 21:31:36.00 .net
知っとるわ

492:日本@名無史さん
19/03/05 21:50:04.17 .net
☆ 中井弘
天保9年(1839年)鹿児島城下に藩士横山休左衛門の長子として生まれる。元服後、横山休之進。
鹿鳴館の名付け親である。
岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際に碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したり、宴席にて明治天皇の御前で西村茂樹をビール瓶で殴打するなど、奇行が多かった。
URLリンク(www.mfca.jp)

493:日本@名無史さん
19/03/05 23:56:11.59 .net
井上馨の妻の武子新田俊純の娘は、はじめ中井の妻であった。

494:日本@名無史さん
19/03/06 00:12:25.33 .net
>>462
鹿児島の異変を太政官が知ったのは2月3日だが、これを知らせたのが菅野覚兵衛というのは意外だった。

495:日本@名無史さん
19/03/06 00:17:48.10 .net
2月9日
川村純義を乗せた高雄丸、錦江湾に到着。
艦長は伊東祐之。

496:日本@名無史さん
19/03/06 00:57:20.80 .net
そろそろ辺見十郎太がウザくなってきた。

497:日本@名無史さん
19/03/06 01:04:41.86 .net
>>341
去年のNHK大河もトシヨシだったな。
良=ナガと読む例が他にないからな。

498:日本@名無史さん
19/03/06 01:08:47.80 .net
乱暴者でも、生きた時代が張飛や呂布ぐらい遥か昔なら好きになれるが、
百数十年の近さだと、辺見十郎太のようなキャラは好きになれないな。

499:日本@名無史さん
19/03/06 01:14:01.19 .net
客を殺して肉饅頭にしてしまうおばさんは好きになれるの?

500:人馬
19/03/09 21:12:54.66 .net
☆ 樺山資綱
樺山資之=樺山三円は間違いないようだが、資之と資綱が同一人物であるかどうかは不明。
樺山資之は、「木戸孝允日記」明治7年2月27日付、黒田清隆あて書簡に登場します。
樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註:資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。
というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。

501:日本@名無史さん
19/03/09 21:30:18.63 .net
☆ 春田吉二
☆ 日高藤一

502:再び異人館
19/03/09 22:54:14.73 .net
西南の役の本質を最も鋭く捉えていたのは、ハリー・パークスだな。
パークスの書簡を読んだ。脱帽した。

503:日本@名無史さん
19/03/09 23:06:49.77 .net
パークスが書簡を送った相手であるダービー外相は、第15代ダービー伯爵エドワード・スタンリーである。
オークスとダービーの創設者として高名なダービー伯爵は、第12代。

504:日本@名無史さん
19/03/09 23:16:06.29 .net
馬が走ってく 馬が走ってく 
でっかい鼻の孔おっぴろげて 馬が走ってく ?

505:日本@名無史さん
19/03/10 10:12:23.16 .net
パークスと比較すると勝海舟の頓珍漢ぶりには呆れかえる。
政府の発表した政府軍優勢報道を大本営発表のごとく「あれはウソ」と言い切っている。

506:日本@名無史さん
19/03/10 10:13:37.14 .net
そんなこと『氷川清話』には書いてないよ。

507:日本@名無史さん
19/03/10 10:14:22.30 .net
氷川清は演歌歌手だろうw

508:日本@名無史さん
19/03/10 10:19:09.67 .net
まあバカは放っておけばいいけど、西南戦争に関する勝の談話は『氷川清話』には載っていない。
アーネスト・サトウの日記に書かれている。
広瀬靖子訳「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号 / 一九七〇年)

509:日本@名無史さん
19/03/10 10:25:19.20 .net
サトウ日記の西南戦争関連は、萩原延寿の訳で単行本化されているな。
萩原延寿『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄一三-西南戦争』(朝日新聞社 / 二〇〇一年)

510:東風動く
19/03/10 11:02:43.44 .net
☆ 渋谷彦助
鹿児島県一等属。
坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。
どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。

511:日本@名無史さん
19/03/11 01:14:59.92 .net
海老原穆の逮捕は、川路書簡の中で1行触れられただけだな。

512:日本@名無史さん
19/03/11 01:53:02.08 .net
>>500
樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考え始めると、夜も眠れなくなるな。

513:日本@名無史さん
19/03/11 01:56:19.27 .net
木戸さんは樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考えすぎてノイローゼになったのかもしれん。

514:日本@名無史さん
19/03/11 02:30:10.53 .net
☆ 山縣有朋
この頃になると、風格すら感じさせる山縣。
桐野・篠原はただの地五郎。
山縣の敵ではないな。

515:日本@名無史さん
19/03/11 07:53:55.14 .net
司馬はどの作品も文体が同じで退屈 

516:宣戦
19/03/11 20:16:42.51 .net
☆ 蓑田長僖(49歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
明治21年に日本運輸会社(現在の日本通運)は暫定役員として蓑田長僖を選出している。
同一人物であろうか?

517:日本@名無史さん
19/03/11 20:25:07.08 .net
☆ 鎌田政直(51歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
なお、第六課の課長は渋谷彦助(>>510)。

518:日本@名無史さん
19/03/11 20:27:18.90 .net
☆ 谷元信清
私学校の会計係

519:日本@名無史さん
19/03/11 21:02:18.04 .net
私学校党蹶起の軍資金の提供は、島津久光の内命によるものだろうな。

520:日本@名無史さん
19/03/11 21:08:08.60 .net
軍資金を提供されたにもかかわらず、西郷が大山に対して冷淡な態度だったのは、
西郷は私学校のニセたちに乗せられただけでなく、久光にも乗せられたという思いがあったのだろう。

521:日本@名無史さん
19/03/11 21:34:38.61 .net
【部隊編成】
一番大隊 篠原国幹 西郷小兵衛
二番大隊 村田新八 松永清之丞
三番大隊 永山弥一郎 辺見十郎太
四番大隊 桐野利秋 堀新次郎
五番大隊 池上四郎 河野主一郎
独立大隊 別府晋介
独立第一大隊 越山休蔵 鮫島敬輔
独立第二大隊 児玉強之助 坂元敬介

522:日本@名無史さん
19/03/11 21:37:29.13 .net
☆ 松永清之丞
明治10年1月29日、鹿児島市草牟田の火薬庫から、政府が弾薬を運び出します。
当夜、汾陽光輝家(>>454)で松永清之丞と堀新次郎が、火薬庫からの武器搬出を計画し、実行。
これが西南戦争に繋がります。

523:日本@名無史さん
19/03/11 21:44:34.12 .net
☆ 堀新次郎
明治後、伊地知貞馨となる堀次郎と混同しないように。

524:雷発
19/03/12 19:20:57.46 .net
☆ 2月14日(旧暦正月2日)
伊敷村玉江練兵場……閲兵式
URLリンク(pds.exblog.jp)
※旧45聯隊の兵舎と練兵場

525:日本@名無史さん
19/03/12 20:27:19.52 .net
☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)、鹿児島高麗町で生まれる。諱名は高照、通称は直右衛門、後に群平という。
戊辰戦争では、山崎の戦いで重傷を負った。
次いで、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。
長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治10年、谷口登太が内偵した中原尚雄の西郷隆盛刺殺計画を聞いた高木七之丞邸の会合に出席していた淵辺はこれに憤激し、私学校本校で行われた大評議でも出兵に賛成した。出陣に際しては薩軍本営附護衛隊長となって、西郷を護衛しながら熊本に赴き、本営の軍議に参画した。

526:日本@名無史さん
19/03/12 20:33:29.12 .net
☆ 仁礼景通
西南の役の最後に城山で捕縛されて銃殺された薩軍副官の仁礼景通ほか鹿児島城下に仁礼姓は多い。
仁礼景範と名が似ているが、親族ではなさそうである。

527:日本@名無史さん
19/03/12 20:52:05.46 .net
☆ 2月14日
別府晋介の独立大隊(郷士軍)は、2月14日に加治木に集結し、横川→大口→水俣というコースを辿った。

528:日本@名無史さん
19/03/12 21:01:03.17 .net
☆ 2月15日
一番大隊(篠原国幹隊)は、市来→川内→阿久根→米ノ津(出水市)…海路…佐敷(現在の芦北町の中心部と佐敷川流域)という西回りルートを辿った。
二番大隊(村田新八隊)は、別府晋介隊と同じく東回りコース。

529:日本@名無史さん
19/03/12 21:56:53.85 .net
☆ 2月17日
西郷隆盛の出陣。

530:日本@名無史さん
19/03/13 17:55:42.77 .net
☆ 武の自宅
屋敷は明治2年薩摩藩の重臣二階堂氏から譲り受けたもので、敷地約3600㎡、高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年に西郷従道が再建した。いま屋敷跡は公園になっており、当時の井戸が残っている。
URLリンク(www.meijiishin150countdown.com)

531:日本@名無史さん
19/03/13 18:00:07.40 .net
☆ 西郷松子
安政4年(1857)前後の生まれ、昭和18年3月6日没。父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉・国。
明治6年11月、西郷家の四男・西郷小兵衛と結婚し、西郷家に入る。小兵衛25歳、松15歳か16歳。いとこ婚。
名はマスであったが、西郷の次弟・吉二郎の先妻の旧名と同姓同名(有馬マス)であったため、呼び名をマツ(松子)と変えた。

532:日本@名無史さん
19/03/13 18:04:18.58 .net
☆ 西郷糸子
西郷隆盛の妻。
元治2年(1865年)、西郷隆盛と結婚する。隆盛は3回目、糸子は再婚。
隆盛との間に寅太郎・午次郎・酉三の子どもを産む。
また、隆盛の奄美大島における島妻である愛加那との子である菊次郎・菊を引き取り養育した。
URLリンク(bakumatsu.org)
URLリンク(samurai-hi.com)
URLリンク(pbs.twimg.com)

533:日本@名無史さん
19/03/13 18:07:24.48 .net
☆ 西郷寅太郎
明治17年に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。
明治35年父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任する。
URLリンク(samurai-hi.com)

534:日本@名無史さん
19/03/13 18:08:01.46 .net
寅太郎は母親似だな。

535:日本@名無史さん
19/03/13 18:09:46.95 .net
☆ 市来四郎
幕末は島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。明治以後は島津久光の側近となる。

536:日本@名無史さん
19/03/13 18:16:12.70 .net
☆ 加治木
2010年、同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。
加治木という地名は、船の舵を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来する。
ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になった。
平安時代頃からこの地域を支配していたのは、大蔵氏の一族とされる加治木氏であった。
蒲生に本拠を置く蒲生氏、帖佐に本拠を置く平山氏などとともに、互いに同盟したり対立したりしながら、島津氏との勢力争いを繰り広げていた。
URLリンク(www.pref.kagoshima.jp)
URLリンク(cdn.jalan.jp)

537:日本@名無史さん
19/03/13 18:22:05.89 .net
☆ 横川宿
2005年、国分市および姶良郡内5町と合併して霧島市となる。
URLリンク(mall.373news.com)
URLリンク(www.photolibrary.jp)

538:日本@名無史さん
19/03/13 18:34:20.58 .net
平成の合併はむかつくわ。
わしは今でも昭和の地図帳を愛用している。

539:日本@名無史さん
19/03/13 20:21:36.67 .net
☆ 佐土原
宮崎県の中南部に存在していた宮崎郡の町。2006年、宮崎市に編入され消滅した。
江戸時代は島津氏の佐土原藩三万石の城下町であった。
URLリンク(yogokun.my.coocan.jp)
URLリンク(yogokun.my.coocan.jp)

540:日本@名無史さん
19/03/13 20:23:25.34 .net
☆ 東目街道
薩摩藩時代、現鹿児島県霧島市福山町を基点として、都城を経由し高城町の月山日和城を通り、高岡町に通ずる往還道として作られた「東目街道」は、薩摩藩西目街道に対して同藩東側を通るため「東目街道」と称されました。

541:日本@名無史さん
19/03/13 20:29:16.46 .net
☆ 栗野村
鹿児島県北東部、姶良郡に属していた。
平成17年吉松町と合併して湧水町が発足。同日栗野町廃止。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(kokuhoren-kagoshima.or.jp)

542:日本@名無史さん
19/03/13 20:36:27.23 .net
☆ 加久藤越え
熊本県と宮崎県の県境に加久藤峠という急峻な峠道がある。人吉からえびの高原に抜ける飫肥街道。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

543:日本@名無史さん
19/03/13 20:41:26.43 .net
☆ 吉田温泉
宮崎県えびの市大字昌明寺にある「吉田温泉 鹿の湯」を訪問しました。
鹿の湯という名前の通り、傷ついた鹿がこちらの温泉に浸かって傷を癒したという言い伝えが残っています。
URLリンク(kagoshima-meijiishin150.com)
URLリンク(stat.ameba.jp)

544:日本@名無史さん
19/03/13 20:47:39.97 .net
☆ 熊本県人吉市田町
URLリンク(www.isan-no-sekai.jp)
URLリンク(www.sakuratabi.tv)
URLリンク(www.tabirai.net)

545:日本@名無史さん
19/03/13 20:48:43.39 .net
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