司馬遼太郎 Part11at HISTORY
司馬遼太郎 Part11 - 暇つぶし2ch954:日本@名無史さん
18/01/16 22:54:30.54 .net
嘉永4年(1851年)、11代藩主となった島津斉彬は停滞していた造士館の改革に乗り出した。従来の儒教と武芸教育にくわえて西洋の実学を学習の中心においたのである。
明治34年に旧制第七高等学校造士館となるが、昭和25年に新制鹿児島大学に包括され廃校となる。
※慶応3年(1867年)に市内磯地区に建てられた旧鹿児島紡績所技師館。明治17年に鶴丸城址に移築されて造士館本館として長く使用された。
URLリンク(img.guide.travel.co.jp)

955:日本@名無史さん
18/01/16 23:38:12.80 .net
▽家督
斉彬は嘉永4年(1851年)に家督を嗣ぎ、安政5年(1858年)に急死しているから、藩主であった期間はわずか7年でしかない。

956:日本@名無史さん
18/01/17 12:04:56.33 .net
▼島津斉宣
安永2年(1774年)、第8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。天明7年(1787年)1月、父・重豪の隠居により、家督を継いで第9代藩主となった。しかし実権は父・重豪に掌握されていた〔>>889〕。
文化2年(1805年)12月には『亀鶴問答』を著し藩政改革の方針を示したが、父・重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題などから内紛(近思録崩れ)が起こる。これにより文化6年(1809年)6月、斉宣は重豪より近思録崩れの責任を問われ、長男の斉興に家督を譲らされて強制隠居させられた。天保12年(1841年)10月、江戸の薩摩藩下屋敷にて死去。享年69。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

957:日本@名無史さん
18/01/17 12:06:44.83 .net
江戸に重豪、斉宣の2人の隠居を抱える薩摩藩の出費は莫大なもので、斉宣は経費が少なくて済む薩摩での隠居を度々幕府に願い出たが却下される。そのため隠居後は一度も薩摩に帰国出来なかった。
父・重豪が孫・斉興に出した手紙で「問題があった時、江戸にいる時には奥平昌高〔>>897〕に相談し、国元にいる時には島津忠厚に相談するように」(奥平昌高と島津忠厚は斉宣の弟であり、斉興の叔父にあたる)とあり、藩政からは徹底的に排除された模様である。

958:日本@名無史さん
18/01/17 12:13:00.31 .net
▽島津斉興
寛政3年(1791年)、第9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。文化6年(1809年)、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって


959:強制隠居させられたため、家督を継いで第10代藩主となった。しかし藩政の実権は重豪に握られていた。 天保4年(1833年)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。



960:日本@名無史さん
18/01/17 12:15:04.10 .net
藩政改革では、借金の250年分割支払いや、清との密貿易、砂糖の専売などが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復したが、嘉永元年(1848年)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。
※調所広郷:竜 雷太 URLリンク(news-topics24.com)

961:日本@名無史さん
18/01/17 12:19:24.69 .net
この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児には、正室・弥姫(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光がいた。次男・斉敏は岡山池田氏を継いでいた。
本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永2年(1849年)12月にはお家騒動が勃発した(お由羅騒動)。〔>>513-525〕

962:日本@名無史さん
18/01/17 12:24:00.66 .net
安政5年(1858年)7月16日、斉彬が先立って50歳で急死すると、斉彬の遺言により藩主は久光の長男・忠徳(忠義)が継いだが、忠徳が若年であることを理由に、再び隠居の島津斉興が藩政を掌握した。
西郷隆盛を始めとする斉彬派の家臣を大粛清し、集成館事業を一時廃止したため、一気に時代に逆行した復古的な政策に転換した藩政は混乱した。しかし、翌安政6年(1859年)9月12日に死去。享年69。
URLリンク(img.atwikiimg.com)
※島津斉興:鹿賀丈史
URLリンク(samurai-hi.com)

963:日本@名無史さん
18/01/17 12:29:51.37 .net
ここから蘭癖大名・島津斉彬一代の治績の数々を紹介する。

964:日本@名無史さん
18/01/17 12:34:49.02 .net
斉彬の活動期はみじかい。かれは数えて四十三になるまで部屋住みの世子としてすごした。
かれは曾祖父の重豪(しげひで)に愛された。重豪は斉彬が二十五歳のとき八十九歳で亡くなったが、もし重豪と斉彬という二人の非常人が薩摩に国主として存在しなければ、薩摩という風土が維新前後から明治期いっぱいにいたるまで日本のモダニズムの先頭をゆくというぐあいにはならなかったであろう。

965:日本@名無史さん
18/01/17 12:38:05.61 .net
▽水力発電
水力発電をつくり、その電気をもって有線電信機を作動させ、鹿児島防衛用の沈置水雷をつくり、送電により爆発させるようにした。鉱山用の送電地雷もつくって、実用に供した。
※水力発電用ダム跡
URLリンク(cdn.4travel.jp)
URLリンク(www.waterworks.co.jp)

966:日本@名無史さん
18/01/17 12:50:14.75 .net
▽火薬の製造
鹿児島の滝之上に水車を動力とした大規模な火薬製造所が設立された〔参考:>>760〕。火薬製造のためには硝石・硫黄・木炭を混ぜる必要


967:があった。硫黄は硫黄島や霧島で、木炭は領内各地で豊富に産した。しかし、硝石は藩内で不足しがちであった。 そこで嘉永4年 (1851) 藩主に就任した島津斉彬は、蘭学者石河確太郎に人工硝石の製造法を調べさせ、谷山や城下の各地で硝石を作成する作硝場を設けた。



968:日本@名無史さん
18/01/17 12:53:16.33 .net
また、オランダの技術書によって西洋式の火薬の製造を開始したが、その質はむしろ舶来火薬よりも良質だった。文久3年 (1863) には、敷根 (現霧島市) に本格的な洋式火薬製造所が築かれた。
薩摩藩は、敷根火薬製造所を設置する以前から、既に城下の滝之上に火薬製造所を作っており〔>>913〕、また、谷山にも煙硝倉を設けて、火薬製造を行っていました。しかしながら、薩英戦争をきっかけとして、大量に火薬を製造できる施設を建造する必要があると感じ、火薬の増産を試みるため、新たに敷根に火薬製造所を設けることとした。

969:日本@名無史さん
18/01/17 12:55:00.04 .net
敷根火薬製造所は、この石組みの水路上に小屋を建て、その中に水車を設置し、その動力を利用して、硫黄や硝石を砕き、火薬の原料としていた。
URLリンク(blog-imgs-94-origin.fc2.com)
下記の画像は、島津斉彬が谷山に設けた煙硝倉の跡です。
URLリンク(blog-imgs-94-origin.fc2.com)

970:日本@名無史さん
18/01/17 13:01:07.69 .net
▽薩摩切子
薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)である。薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれた。
薩摩のガラス製造は、弘化3年 (1846)、薩摩藩主島津斉興が中村製薬館を創設した際、江戸から硝子師を招聘し薬瓶をつくらせたことにはじまる。島津斉彬はこれをさらに向上させ、薩摩切子を生み出させた。特に藩内外の洋学者が協力して生み出した紅ガラスは「薩摩の紅ガラス」として珍重された。
URLリンク(auctions.c.yimg.jp)

971:日本@名無史さん
18/01/17 13:05:28.89 .net
▽反射炉
島津斉彬が日本を守る大砲を鋳造するためにつくらせたこの反射炉、もともとはヨーロッパで開発されたものです。しかし当時は鎖国中ですから西洋人に造ってもらうことも教えてもらうこともできません。オランダの書物のみを手がかりに、日本人だけで造るしかありませんでした。
基礎部分は石垣を造る技術、燃焼室などの耐火レンガは薩摩焼の技術を応用したものです。

972:日本@名無史さん
18/01/17 13:05:43.07 .net
※仙巌園内にある反射炉遺構
URLリンク(www.senganen.jp)
※尚古集成館本館にある反射炉模型
URLリンク(www.senganen.jp)

973:日本@名無史さん
18/01/17 13:15:22.47 .net
▽挙兵上洛
安政4年(1857年)老中・阿部正弘が急死すると事態が大きく変わっていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派である一橋派の大弾圧を開始します。安政の大獄です(1858年)。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画していました。斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。その閲兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。

974:日本@名無史さん
18/01/17 13:20:51.49 .net
久光も西郷も、斉彬を真似しただけ。大名という身分の者に、優秀な頭脳が宿ると、やることのスケールが大きい。
凡人は真似するのみ。

975:日本@名無史さん
18/01/17 13:44:25.41 .net
なにもかもを斉彬ひとりでやれるはずがない。
斉彬の下で火薬製造に携わった蘭学者石河確太郎のようなブレーンがいたから、成し遂げられたことだと思うよ。

976:日本@名無史さん
18/01/17 13:46:21.24 .net
その意味では民間の蘭学熱の高まりも重要ですよね。
司馬さんも、薩摩を舞台にしているわけではありませんが、『胡蝶の夢』でそのあたりの事情を書いておられる。

977:日本@名無史さん
18/01/17 13:50:02.96 .net
19世紀の日本を侮ってはならないよな。すべてが明治維新によってスタートしたんじゃない。江戸末期にすでに近代は始まっていた。
明治維新の重要性は、近代化への最後のネックになっていた士族による武力の独占を廃止して、国民皆兵を実現したことに尽きる。
この観点からは、明治6年の徴兵令こそ重要で、廃藩置県ですら徴兵制のための準備にすぎない。

978:日本@名無史さん
18/01/17 13:56:21.33 .net
理系の観点から近代史の再構成をしてもらいたいよな。
文系は人権だの立憲主義だのアホなことしか言わん。

979:日本@名無史さん
18/01/17 14:11:13.31 .net
▽四賢公
一橋慶喜 URLリンク(www.ndl.go.jp)
水戸斉昭 (前水戸藩主・慶喜父 / 1800-1860) … 伊武雅刀 URLリンク(thetv.jp)
松平慶永〔>>885URLリンク(cdn-images-1.medium.com)

980:日本@名無史さん
18/01/17 14:11:26.50 .net
山内容堂〔>>709URLリンク(www.kurofune-shachu.com)
伊達宗城 URLリンク(blog.rnb.co.jp)
鍋島閑叟 URLリンク(9-shop.com)

981:日本@名無史さん
18/01/17 14:17:30.18 .net
▽松平春嶽
橋本左内が春嶽を補佐していたときは春嶽は一世の目を見張らせるようなところがあったが、左内が井伊直弼の弾圧政治で刑殺されてしまうと、春嶽は昼行燈のようになった。

982:日本@名無史さん
18/01/17 14:22:56.12 .net
▽橋本左内
天保5年(1834年)- 安政6年(1859年)。越前国福井藩士。
江戸幕府第14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
安政6年(1859年)に安政の大獄が始まり春嶽が隠居謹慎を命じられると、頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年26。
URLリンク(meigen.keiziban-jp.com)

983:日本@名無史さん
18/01/17 14:30:30.50 .net
▽藤田東湖
文化3年(1806年)- 安政2年(1855年)
戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。安政2年(1855年)10月2日に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。
地震発生時に東湖は一度は脱出するが、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。
URLリンク(plaza.rakuten.co.jp)

984:日本@名無史さん
18/01/17 14:40:37.86 .net
▽黒船来航
嘉永6年(1853年)に米海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件があっても、斉彬は黒船に驚くよりも、黒船を造ろうとした。鍋島閑叟および伊達宗城と競い合うようにして製造に着手したが、ペリー来航後3年で、三藩とも製造に成功した。
このあたりの事情は、司馬氏の短篇集『酔って候』の中の「伊達の黒船」で詳述する。

985:日本@名無史さん
18/01/18 17:51:29.69 .net
▽ミニエー銃
嘉永6年(1853年)にペリーが徳川将軍家に持参した土産。
雷管式の前装式ライフル歩兵銃である。ライフル銃としては最初期のもので、1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
弾丸が充分な回転を持ち弾丸周囲からのガス漏れが防止されたため、飛距離と命中精度が飛躍的に向上した。また装弾が容易となり連射能力も向上した。
URLリンク(db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp)

986:日本@名無史さん
18/01/18 17:55:38.59 .net
▼マスケット銃
銃身にライフリングが施されていない先込め式の滑腔式歩兵銃である。このため、散弾も発射可能であった。
命中精度は非常に悪かったため長距離狙撃には向かず、軍隊では陣形を組み敵へ向けて短距離で斉射する運用しかできなかった。
火打石または銃用雷管を用いる滑腔銃身のマスケット銃=ゲベール銃
URLリンク(www.japanese-sword.jp)

987:日本@名無史さん
18/01/18 18:05:42.99 .net
▽島津斉彬とミニエー銃
漫画単行本「せごどん」の第二巻。
斉彬が狩猟に使っている銃がフランス式のミニエー銃だというが、時代はまだ弘化三年(1846)だから、ミニエー弾はまだ開発されていないはず。ミニエー銃は1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された〔>>931〕。
司馬さんも、ペリーが献上したミニエー銃を斉彬が幕閣から借りて、これを分解してその構造を知り、ミニエー銃を3,000挺製造したと書かれているが???。

988:日本@名無史さん
18/01/18 18:10:17.53 .net
小銃ではなく大砲に関する薩摩藩のエピソードに、次のようなものがあります。
島津斉彬の先見性と沿岸防備推進策により、首府鹿児島を防備するための大砲の準備と設置は順調に進んでいたが、残念ながら、その主力は一時代前の射程の短い滑空砲であった。
その結果、生麦事件報復時の「薩英戦争」によって、滑空砲が如何に時代遅れかを薩摩藩全体が身を持って体験させられたのである。

989:日本@名無史さん
18/01/18 18:12:06.31 .net
幕府も何もしなかった訳ではなく、1855年に老中阿部正弘は、江戸・湯島の大筒鋳立所に小銃の製作を指示しています。これは在来技術を用いてゲベール銃やヤーゲル銃 (狙撃用前装ライフル銃) が作れるものと考えていたようです。
江川英敏 (江川英龍の息子) がこれにあたりますが、後にヤーゲル銃の生産は取りやめられ、1857年に予定の4000丁のゲベール銃を完成させています。1861年にはもう4000丁を作り上げた様です。

990:日本@名無史さん
18/01/18 18:18:18.83 .net
1860年、幕府ではライフル銃(ミニエー銃)の生産が計画されます。しかしライフル銃身の製造に失敗しこの計画は頓挫します。
1861年に小栗忠順らの上申で欧米から工作機械を導入しライフル銃を作ることが計画され、1865年末に関口工廠に蒸気施条機械が搬入されます。
ちなみに、幕府と薩摩では1864年頃には、青銅前装ライフル砲「四斤山砲」〔>>593〕の生産に成功しています。小銃に関しては、筆者にもよくわかりません。

991:日本@名無史さん
18/01/18 18:19:16.91 .net
日本での本格的なライフル銃の生産は、1880年の十三年式村田銃まで待たなければならないようです。しかし、村田銃のライフル銃身はベルギー製らしいです。

992:日本@名無史さん
18/01/18 18:23:23.29 .net
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\    <ペリーも彼が愚弄した日本国にライフル銃を大量製造しうる侯国が
    /   ⌒(__人__)⌒ \     存在していることを想像すらできなかったであろう
    |      |r┬-|    |
     \     `ー’´   /
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
          ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ   <だっておwww
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)   
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //       
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー’´      ヽ /    /
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バンバン
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

993:日本@名無史さん
18/01/18 18:25:19.53 .net
島津斉彬の神格化の度が過ぎております。

994:日本@名無史さん
18/01/18 18:28:45.94 .net
薩摩でミニエー銃を大量生産していたら、長崎のグラバー商会は商売にならんわ。

995:日本@名無史さん
18/01/18 18:35:34.28 .net
斉彬は、かれが死去する安政5年(1858年)に計画していた大挙上洛においては、このライフル銃三千挺をひっさげて京都に拠り、その威力によって日本国の改造に乗り出すつもりだったのである。だっておwww(AA略

996:日本@名無史さん
18/01/18 18:46:03.44 .net
▽水野忠邦
寛政6年(1794年)、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。文化14年(1817年)9月、実封25万石の唐津から実封15万石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。これは、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから幕閣としての昇格に障害が生じるからである。
天保10年(1839年)に老中首座となった。その後は天保の改革でおなじみ。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

997:日本@名無史さん
18/01/18 18:49:51.56 .net
当時異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減しているにもかかわらず、徳川家斉の大御所政治は放漫な財政に打つ手を見出せないでいた。
天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、ついで天保12年(1841年)閏1月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、天保の改革に着手した。

998:日本@名無史さん
18/01/18 18:51:50.84 .net
天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。
農村から多数の農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施した。

999:日本@名無史さん
18/01/18 18:53:37.04 .net
その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。腹心の遠山景元は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和したことにより庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。
また、天保14年(1843年)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居耀蔵が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏9月13日に老中を罷免されて失脚した。

1000:日本@名無史さん
18/01/18 18:58:22.63 .net
弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災により焼失した。老中首座・土井利位〈としつら〉はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、6月21日に家慶は水野忠邦を老中首座に再任した。
しかし昔日の面影はなく、重要な任務を与えられるわけでもなかったため、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったとされる。
一方で忠邦は、天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしている。土井利位は自ら老中を辞任。鳥居耀蔵は全ての役職を罷免された。

1001:日本@名無史さん
18/01/18 19:00:53.44 .net
老中・阿部正弘は水野忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦は弘化2年(1845年)9月、強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58。

1002:日本@名無史さん
18/01/18 19:25:30.40 .net
水野忠邦は、同僚の阿部正弘に対し、
「あなたは薩摩守と仲がよさそうだが、かれは油断がならぬ」
と言っていたという。

1003:日本@名無史さん
18/01/18 19:31:20.14 .net
▽阿部正弘
文政2年(1819年) - 安政4年(1857年)。備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座。
天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの一度だけである。
天保14年(1843年)、25歳で老中となり、弘化2年(1845年)9月には、老中首座であった水野忠邦を天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった〔>>947〕。
URLリンク(pbs.twimg.com)

1004:日本@名無史さん
18/01/18 19:34:28.84 .net
人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石は、ほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。

1005:日本@名無史さん
18/01/18 19:36:07.72 .net
幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。
弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。
7年後の嘉永6年(1853年)にはペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。

1006:日本@名無史さん
18/01/18 19:38:06.80 .net
この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募った。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で


1007:、雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。



1008:日本@名無史さん
18/01/18 19:38:21.83 .net
なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。

1009:日本@名無史さん
18/01/18 19:39:36.73 .net
嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。

1010:日本@名無史さん
18/01/18 19:43:59.74 .net
安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全〈のりやす〉、松平忠固を老中より罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
安政4年(1857年)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。

1011:日本@名無史さん
18/01/18 19:48:14.39 .net
阿部正弘 (老中 / 1819-1857) … 藤木直人
URLリンク(pbs.twimg.com)
徳川斉昭 (前水戸藩主・慶喜父 / 1800-1860) … 伊武雅刀
URLリンク(pbs.twimg.com)
徳川家定 (第13代将軍 / 1824-1858) … 又吉直樹
URLリンク(webbizinfo.xsrv.jp)
井伊直弼 (大老・彦根藩主 / 1815-1860) … 佐野史郎
URLリンク(pbs.twimg.com)

1012:日本@名無史さん
18/01/18 19:59:52.67 .net
▽集成館事業
島津斉彬が集成館事業を開始するに至るまでの時代背景として、その当時、中国でのアヘン戦争(1840~1842年)などで英仏等の西欧諸国がアジア各地で植民地化を進めていたことが挙げられる。
アヘン戦争については、魏源が著した『海国図志』(1843年初版)などの書籍が日本に輸入されていたため、日本でもその実情はかなり正確に知られていた。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていったことに、日本人は衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。

1013:日本@名無史さん
18/01/18 20:02:57.02 .net
アヘン戦争前後から当時薩摩藩の支配下にあった琉球へ異国船が度々来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。
1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、それまで長年温めていた集成館事業に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。
特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。
URLリンク(media-cdn.tripadvisor.com)

1014:日本@名無史さん
18/01/18 20:09:44.76 .net
▽お由羅の方〔>>518
寛政7年(1795年)- 慶応2年(1866年)。薩摩藩主・島津斉興の側室。
出身については江戸の大工・工藤左衛門の娘といわれているが、江戸・三田の八百屋の娘、その他に舟宿の娘など多数の説がある。
薩摩藩邸で奉公していた際に斉興に見初められ、斉興の側室となる。藩邸には正室・弥姫(周子)がいたため、由羅は薩摩に置かれたが、参勤交代の度に江戸と薩摩に由羅を連れて行くほど斉興の寵愛は深かったともいわれている。

1015:日本@名無史さん
18/01/18 20:19:36.24 .net
▽斉彬の妻子
子は六男五女の11人であった。
正室:恒姫(一橋家徳川斉敦の娘)→長男・菊三郎
側室:酒井忠?の娘 →長女・澄姫/次女・邦姫
側室:田宮安知の娘 →三男・盛之進/五男・虎寿丸
側室:伊集院須磨 →三女・?姫(島津忠義正室)/四女・典姫(島津珍彦夫人)/五女・寧姫(島津忠義の後妻)/四男・篤之助/六男・哲丸
側室:旗本横瀬克己の娘 →次男・寛之助

1016:日本@名無史さん
18/01/18 20:21:29.49 .net
多数の子女のうち成人したのは須磨との間の娘三人人のみで、全員が弟久光の息子の妻となった。さらに、養嗣子の忠義に嫁いだ娘2人はいずれも難産で死去し、無事出産を迎えて命を長らえたのは典姫ただ一人であった。
※斉彬の娘たちの写真。左から典姫・?姫・寧姫�


1017:B https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/Shimazu_Nariakira_Family.jpg/200px-Shimazu_Nariakira_Family.jpg



1018:日本@名無史さん
18/01/18 20:27:25.33 .net
※喜久 (斉彬側室) … 戸田菜穂
伊集院須磨がモデルであると思われる。文政4年(1821年)- 明治3年。
早くから斉彬に出仕し奉公したという。斉彬の寵愛を受け、篤之助、虎寿丸、?姫、典姫、寧姫の二男三女を儲けた。
URLリンク(news-topics24.com)

1019:日本@名無史さん
18/01/18 20:34:52.98 .net
▽島津忠義
天保11年(1840年) - 明治30年
島津氏分家の重富家当主・島津久光の長男として生まれる。伯父・斉彬の養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして哲丸は死去した。
URLリンク(pds.exblog.jp)

1020:日本@名無史さん
18/01/18 20:46:30.46 .net
▽岡崎藩邸
斉彬は安政5年の大挙上洛に備えて、京の岡崎に藩邸の敷地を買い求めていた。
薩摩藩邸は文久4年までに京都市街地とその周辺に都合三か所あったことになる。取得の順序でいえば、享保2年までに市街地内部の錦小路、それから176年後に市街地北部の御所の近傍で二本松藩邸を建設し、その直後に鴨川の東側に位置する岡崎でも藩邸を確保していた。

1021:日本@名無史さん
18/01/18 21:08:55.01 .net
▽月照
文化10年(1813年)- 安政5年(1858年)
大坂の町医者の長男として、讃岐の国吉原(現在の善通寺市)に生まれた。
徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している。
URLリンク(i0.wp.com)

1022:日本@名無史さん
18/01/18 21:10:26.92 .net
※月照 (清水寺の僧 / 1813-1858) … 尾上菊之助
URLリンク(dokidoki-tv.com)

1023:日本@名無史さん
18/01/18 21:14:56.14 .net
安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。この頃、藩政の実権は、島津斉興にあった〔>>909〕。
これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年46。

1024:日本@名無史さん
18/01/18 21:18:39.24 .net
▽福山矢三太
西郷の国許にいた同志らしい。詳細不明。
斉彬の死の直後に認められた西郷からの手紙を受け取ったとされる。

1025:日本@名無史さん
18/01/18 21:36:08.14 .net
▽精忠組
近思録崩れ〔>>904〕の秩父季保が愛読した『近思録』を輪読する会が発展したものである。彼ら自身が「精忠組」を名乗った事実はなく後世の命名である。西郷隆盛を盟主的存在とし、大久保正助(利通)・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。
水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津忠義および島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫した。結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。

1026:日本@名無史さん
18/01/18 21:40:51.39 .net
久光はその後、大久保利通・税所篤・堀仲左衛門(伊地知貞馨)・吉井友実らを側近として抜擢した。
文久2年(1862年)、久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す。しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木和泉・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。
有馬らが集結する旅籠寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂。精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。ここにおいて精忠組の結束は事実上崩壊した。

1027:日本@名無史さん
18/01/18 21:42:29.79 .net
>>968
精忠組のメンバー表を調べてみたが、福山矢三太という人物は存在しない。
架空の人物もしくは実在した人物の変名だろうな。

1028:日本@名無史さん
18/01/18 21:48:51.45 .net
迷路に足を踏み入れた読者の皆様へ。現在、渋谷金王町の西郷従道邸に西郷吉之助を訪ねた川路の件が続いております。
西郷の人となりを説明するために、その師というべき島津斉彬の人物を解き明かしています。
その過程で、話が脇道にそれております〔>>879〕。

1029:日本@名無史さん
18/01/18 21:57:13.44 .net
▽安政江戸地震
安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である〔>>929〕。
特に強い揺れを示したのは隅田川東側(江東区)であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及ぶ。
URLリンク(5orb.net)

1030:日本@名無史さん
18/01/18 22:05:16.78 .net
▽三田藩邸
現在の三田は、江戸時代に多くの大名屋敷がありました。三田ではNECの本社が一際目立ちます。このNECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。幕末には、薩摩藩邸は三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷、そして現在は八芳園になっている白金の屋敷がありました。
URLリンク(pds.exblog.jp)

1031:日本@名無史さん
18/01/18 22:12:42.06 .net
天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に三田の上屋敷に入りました。しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に安政の大地震が起きて上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。篤姫は1年余り、渋谷下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。
※篤姫 (徳川家定継室 / 1836-1883) … 北川景子
URLリンク(pbs.twimg.com)
※幾島 (篤姫女中頭 / 1808-1870) … 南野陽子
URLリンク(daily.c.yimg.jp)

1032:日本@名無史さん
18/01/18 22:23:41.61 .net
慶応3年12月25日に起きた庄内藩新徴組による江戸薩摩藩邸の焼討事件の江戸藩邸とは、三田藩邸のことである〔>>63〕。
これは新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走し薩摩藩邸に逃げ込んだ事件への報復であった。
幕府を挑発するための放火・略奪・暴行を指揮していたのが、薩摩藩士の伊牟田尚平や益満休之助である。益満休之助は、司馬『花咲ける上方武士道』の重要登場人物である。

1033:日本@名無史さん
18/01/18 22:31:32.83 .net
▽薩摩藩渋谷別邸
江戸の郊外に位置した渋谷周辺にあった大名屋敷は、ほとんどが下屋敷だった。
國學院・青山学院・実践等学舎が集中する閑静な場所に別邸跡となる「常磐松の碑」がある。嘉永5年(1852)に薩摩藩屋敷になり、その後1万8千坪の広大な敷地となった。
斉彬は、安政大地震の後、この渋谷別邸でしばらく暮らした。
URLリンク(bkmts.on.coocan.jp)
URLリンク(bon-emma.my.coocan.jp)

1034:日本@名無史さん
18/01/18 22:35:57.12 .net
▽安政2年(1855年)12月16日
斉彬は、渋谷別邸に、松平春嶽を招待した。
斉彬のアジア政策は、春嶽によって記録に残されている。

1035:日本@名無史さん
18/01/18 22:42:46.40 .net
▽太平天国の乱
清朝の中国で1851年(嘉永4年)に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王としキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国が起こした。
賊は清朝が強制した弁髪を拒否して長髪にしていたため、長髪賊の乱ともいわれる。
URLリンク(1.bp.blogspot.com)

1036:日本@名無史さん
18/01/18 22:51:12.20 .net
▽白村江の戦い〈はくすきのえ〉
天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。
581年に建国された隋は、煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったものの、いずれも失敗した。唐は二代太宗・三代高宗の時に高句麗へ3度に渡って侵攻を重ね、ついに高句麗を征服する(668年)。

1037:日本@名無史さん
18/01/18 22:56:49.40 .net
百済は、642年から新羅侵攻を繰り返していたが、659年4月、唐は秘密裏に百済への出撃準備を整え、また、倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。
660年、百済が唐軍・新羅軍に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開され、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。

1038:日本@名無史さん
18/01/18 23:02:16.86 .net
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。
何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一がなされた。
URLリンク(navicon.jp)

1039:日本@名無史さん
18/01/18 23:05:57.53 .net
▽文禄・慶長の役
文禄元年(1592年)に始まって、翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役
慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開され、翌慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死による日本軍の撤退で終結した慶長の役

1040:日本@名無史さん
18/01/18 23:26:02.04 .net
斉彬の時代、清朝は衰弱し、すでに内乱が慢性化し、しかも清朝に交代すべき新勢力は現れず、清朝は国家としてあの広大な大陸を統治する力を失いつつある。
「いずれ、支那大陸は英仏が支配するであろう」
という観測が基礎になっている。支那大陸を英仏が支配すれば日本もろとも彼らの属邦になってしまうかもしれないという恐怖が、観測に裏打ちされている。

1041:日本@名無史さん
18/01/18 23:28:42.47 .net
この恐怖は、日本の地理的性格からくる宿命のようなものであった。支那大陸でおこる変動や変化が、ときに朝鮮半島というクッションをおきつつもその波動の影響から免れないのである。

1042:日本@名無史さん
18/01/18 23:33:02.17 .net
▽琉球館
福建省福州と鹿児島に置かれた琉球王国の出先機関。福州琉球館は、琉球専用の滞在施設として中国側の手で設置されたもので、正式名称を柔遠駅といった。設置の年代は不明だが、15世紀後半にはすでに存在し、1879年(明治12)の琉球処分により王国が廃されるまで活用された。
URLリンク(ryubun21.net)

1043:日本@名無史さん
18/01/18 23:38:17.98 .net
鹿児島琉球館は、島津侵入事件後に薩摩と琉球の連絡調整機関として設置された。
島津侵入事件とは、1609年(慶長14)春、薩摩藩主島津家久が兵3000を送って琉球王国を侵略し征服した事件。薩摩は琉球の検地を行い、与論島以北の奄美地方を琉球王国から分割して自藩の直轄領に繰り込むと同時に、他を琉球国王領と認めながらも、これに対する管理権を確保する方針をとった。
また、鎖国体制の強化に伴い、琉球王国を介する対中国貿易の重要性に着目し、その管理権も手中にした。こうして、東アジアに独立自営の国家として存在してきた琉球王国は、薩摩藩を介して幕藩体制の一環に編成されることになった。

1044:日本@名無史さん
18/01/18 23:40:07.69 .net
斉彬は、日本は英国がそのようにして国家を保っているように積極策をとる以外にない、と思うようになったのである。

1045:日本@名無史さん
18/01/18 23:44:40.62 .net
▽台湾占領策
18世紀頃までの台湾は、中国本土の支配を受けた他、オランダやスペインの植民地であったりもしました。以前より、中国大陸から漢人が入植していましたが、清の時代になると中国本土からの移住が一段と進みました。もともと台湾に居住していた先住民族はいずれも少数民族であるため、人口の大半は漢人が占めるようになりました。

1046:日本@名無史さん
18/01/18 23:49:36.10 .net
台湾に渡った漢人の出身地は福建省が多く、福建地方の言葉が台湾語と呼ばれ、現在まで広く使われています。また、戦乱から逃れるため中原から南へと移動して定住を繰り返していった客家人も台湾に移住してきましたが、客家語を話します。
移住先では原住民から見て“よそ者”であるため客家(ハッカ)と呼ばれますが、そのルーツを辿ると周から春秋戦国時代の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多いといわれています。

1047:日本@名無史さん
18/01/18 23:52:53.19 .net
清の時代には台湾にもその支配が及びましたが、大陸政権は中華思想の政権であり、中央との距離が遠いほど文明度が低くなるという思想により、台湾は小さな僻地の島という認識に基づいて、十分な統治を行いませんでした。
そのため、近世以前の台湾は、清国の領土であるか否かがあいまいな混沌とした状態が長く続きました。
URLリンク(www.petitmonte.com)

1048:日本@名無史さん
18/01/18 23:56:06.54 .net
斉彬のこの思想をもって彼が侵略主義者であったということにはならないであろう。19世紀の帝国主義時代の国際環境のなかで日本を自立せしめるにはこれ以外にない、と斉彬は思っていた。
というより日本の地理的環境が彼をしてそう思わしめていたのである。

1049:日本@名無史さん
18/01/18 23:57:49.68 .net
まだ、第7章「渋谷金王町」の途中でありますが、キリがよいので続きは次スレでやります。

1050:日本@名無史さん
18/01/19 00:02:38.13 .net
次スレ
司馬遼太郎 Part12
スレリンク(history板)

1051:日本@名無史さん
18/01/19 00:04:32.23 .net
あっさり立てられたな。

1052:日本@名無史さん
18/01/19 00:05:25.20 .net
台湾の歴史については『街道をゆく』の「台湾紀行」で詳しくやります。

1053:coffee break
18/01/19 00:09:19.83 .net
ドラムレスのウィズ・ストリングス物など死ぬまで聴くことはないだろうと若い頃は思っていたが、歳をとるとこういう音楽が心臓に優しい。

1054:日本@名無史さん
18/01/19 00:11:49.11 .net
>>983
文禄・慶長の役も一度きっちりまとめたいのだけど、人名に旧字体があったりして、やりにくくはある。

1055:日本@名無史さん
18/01/19 00:12:47.36 .net
気のせいかもしれんが、旧字体で表示できる範囲が、最近拡大されたんじゃないか?

1056:日本@名無史さん
18/01/19 00:13:50.79 .net
???????????

1057:1001
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