司馬遼太郎 Part11at HISTORY
司馬遼太郎 Part11 - 暇つぶし2ch850:日本@名無史さん
18/01/13 12:33:43.82 .net
明治4年外務卿になった副島種臣は樺太領有の解決をアメリカに依頼し、「樺太の国境を北緯五十度線として問題を解決したい」と申し出ました。
これを知ったイギリス公使パークスは、日本政府を相手に「樺太は古船一艘の価値もない。速やかにロシアに譲れ!」と言いました。これに対して西郷隆盛は「日本古来の版図を割譲することはできない」と言い返しました。

851:日本@名無史さん
18/01/13 12:34:06.25 .net
パークスは手にしたワイングラスを握りつぶして粉々にすると、「ロシアと樺太を争うならば、日本はこのグラスの様になるぞ!」と言い放ちました。
しかしこのときパークスは指の筋を切ってギターが弾けなくなり、この後に予定されていた『眩惑のブロードウェイ』ツアーをすべてキャンセルすることになる。
URLリンク(midlandsmetalheads.com)

852:日本@名無史さん
18/01/13 12:42:10.61 .net
ロシアは、樺太を流刑地にしていました。つまり南樺太に暮らす日本人は、ロシア人の犯罪者とロシア軍人に囲まれていたのです。そのため、樺太の日本人は、悲惨な事件に遭遇し続けました。
ロシア人は日本人の漁場を荒らし、強盗殺人を働き、そして日本人女性を強姦するなどの事件が多発しました。明治6年2月には、ロシア人多数が大泊(コルサコフ)の日本人の漁場と建物を焼き�


853:・うという事件も起きます。 本章の黒田了介が木戸に話した事件は、これである。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Sakaecho_in_Ootomari.JPG/250px-Sakaecho_in_Ootomari.JPG



854:日本@名無史さん
18/01/13 12:52:21.86 .net
>>803
史実と違う。パークスの頭に注目しろよ。
パークスはドラムス担当だ。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

855:日本@名無史さん
18/01/13 13:08:51.95 .net
★銀座
▽銀座
江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれた海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる。銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる。
町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎を中心に行われた。

856:日本@名無史さん
18/01/13 13:10:23.78 .net
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所が移転し、銀貨の鋳造が行われた。
江戸時代の銀座は御用達町人地として発展したものの、「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと自著『銀座』内で語っている。

857:日本@名無史さん
18/01/13 13:16:35.80 .net
銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の火災だった。明治5年の銀座大火は銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と銀座煉瓦街の建設が行われた。
この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜?東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を、文明開化の象徴的な街にしたいとの思惑があったとされる。ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹やガス燈、アーケードなどが造られた。
煉瓦街はまず明治6年に銀座通り沿いに完成し、明治10年に全街区の建設が完了した。

858:日本@名無史さん
18/01/13 13:20:46.56 .net
URLリンク(www.library.city.nishitokyo.lg.jp)
URLリンク(gallery.wox.cc)
※明治35年頃の銀座通り:煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている。
URLリンク(www.ginza.jp)
※銀座の少年
URLリンク(c1.staticflickr.com)

859:日本@名無史さん
18/01/13 13:24:50.42 .net
>>809
1枚目の画像は、明治の銀座といっても、物語の時期よりはかなり後だな。
2枚目の画像が、明治6年に銀座を歩いた木戸さんの見た風景に近いかもしれない。

860:日本@名無史さん
18/01/13 13:32:01.73 .net
▽毛はさみ
文明開化のころには、散髪のことを「毛はさみ」と呼んだ。死語です。
木戸さんの毛はさみは、フランス式でした。
※画像の散髪はイングランド式です。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

861:日本@名無史さん
18/01/13 13:37:17.14 .net
木戸さんの聞いた噂によると、
「英風に掻分ける櫛、仏流に撫付るブラシ」というではないか。
>>811は、どこを掻分けているのだ?

862:日本@名無史さん
18/01/13 13:39:22.76 .net
むしろ撫付けているから、フランス流じゃないですかね。゚(゚^Д^゚)゚。

863:日本@名無史さん
18/01/13 14:54:50.58 .net
▽広沢真臣
天保4年(1834年) - 明治4年
長州藩士・柏村安利の四男として誕生する。弘化元年(1844年)、同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称した。
慶応元年(1865年)、高杉晋作がクーデターによって藩の実権を掌握すると、中間派であった波多野金吾が政務役として藩政に参加することとなった。同年、藩命によって広沢兵助と改名した。
URLリンク(bakumatsu.org)

864:日本@名無史さん
18/01/13 14:58:21.91 .net
慶応2年(1866)8月の第二次征長では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉し、慶応3年(1867年)10月には大久保利通らとともに討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。
維新政府の発足後は、参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任。明治2年、復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄1,800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。

865:日本@名無史さん
18/01/13 15:02:34.64 .net
明治4年1月9日、東京府麹町富士見町私邸での宴会後、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39。死後、正三位を贈位される。
なお、大村益次郎が、明治2年9月、京都で攘夷派浪士に襲われ療養中に死亡したことについては、前述した〔>>637〕。
広沢真臣は、大村益次郎の暗殺後、わずか1年4か月の後に暗殺されたことになる。

866:日本@名無史さん
18/01/13 15:49:06.13 .net
▽由利公正
文政12年11月11日(1829年)- 明治42年  ←丸一年早く生まれていたら、すごいことになっていた。
福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれる。
福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。
URLリンク(www.archives.pref.fukui.jp)

867:日本@名無史さん
18/01/13 15:53:38.10 .net
慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人になる。しかし、長州征伐をめぐる藩論の対立に巻き込まれ、福井にて蟄居・謹慎処分となった。
謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
※晩年はまるでサンタクロース
URLリンク(upload.wikimedia.org)

868:日本@名無史さん
18/01/13 15:56:43.37 .net
三岡八郎さんは、法駕籠のお婦以さんとは、いつ親しくなられたのですか?

869:日本@名無史さん
18/01/13 16:16:08.83 .net
明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らとともに五箇条の御誓文の起草に参画した。公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている。
  ↑
ここ試験に出ますよ。

870:日本@名無史さん
18/01/13 16:18:06.06 .net
新政府では徴士参与〔>>168〕として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年に辞職するに至った。

871:日本@名無史さん
18/01/13 16:23:49.94 .net
明治4年に東京府知事に就任した。明治5年2月に銀座大火が発生し、現在の丸の内・銀座・築地一帯が全焼した。当時の東京は木造家屋が多かったため、由利は東京を防火防災都市とすべく銀座に煉瓦造りの建築物を数多く建てたり、現在の銀座大通りの幅員を「ニューヨークやロンドンの目抜き通り並に45.5mに拡張すべし」と主張するといった都市改造計画を立案・実行した。
明治5年5月、岩倉使節団に随行することになり、欧米へ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究した。
明治7年、板垣退助や江藤新平らとともに、政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。

872:日本@名無史さん
18/01/13 16:51:33.10 .net
>>820
由利公正 →福岡孝弟〔>>820〕 →木戸孝允〔>>703〕の三人の名前を、この順番で覚えておかないと、正解できないよ。

873:日本@名無史さん
18/01/13 17:13:44.31 .net
▽杉浦
銀座四丁目四番地にあった理髪店。
木戸さんは、ここで毛はさみをした。傭いのフランス人が、フランス式の毛はさみをした。

874:日本@名無史さん
18/01/13 17:21:06.87 .net
▽堀基〈もとい〉
1844年(天保15年)- 1912年(明治45年)
薩摩藩士としては明治元年の鳥羽・伏見の戦いに参加し旧幕府軍と戦う。直後に箱館裁判所監察として渡道した。翌明治2年、開拓使に移り開拓中判官、開拓大書記官、屯田事務局長などを歴任した。
薩摩閥として羽振りを利かせる一方、同郷の先輩黒田清隆と共に樺太に駐在し対ロシア交渉などにあたった。
北海道炭礦鉄道初代社長。貴族院議員。
URLリンク(blog-imgs-44.fc2.com)

875:日本@名無史さん
18/01/13 17:35:23.38 .net
▽樺太駐箚開拓監
慶応3年(1867)に樺太島仮規則をロシアと調印する。樺太全島は日露雑居地とされた。
以降、ロシアは囚人を送込み、軍隊を増派して、北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手した〔>>804〕。
樺太駐箚開拓監は、明治6年当時の堀基の開拓使における役職らしい。役所は大泊にあった。

876:日本@名無史さん
18/01/13 17:42:36.79 .net
樺太問題のほうが先決だからという提案をして、征韓論をうやむやにしてしまおうというのが黒田案であった。

877:日本@名無史さん
18/01/13 17:43:12.36 .net
>>808
街路樹には、松、楓、桜などが選ばれた。
木戸さんは、西洋館に松やモミジは映りがわるいなと思った。

878:日本@名無史さん
18/01/13 17:46:53.00 .net
由利の煉瓦造の西洋館は、計画倒れに終わった。庶民は、そんな住居に住みたくはなかった。西洋館は売れなかった。
売れた西洋館にしても、明治35年頃までには、煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている〔>>809〕。

879:日本@名無史さん
18/01/13 17:48:52.24 .net
三岡八郎(由利公正)も、紀州藩家老の津田出〔>>476〕と大差のない人物だったような気がするな。

880:日本@名無史さん
18/01/13 17:50:44.75 .net
それなのに、試験にはよく出たよな。由利公正と福岡孝弟の名前は、日本史の答案用紙に何回書いたことか。
おそらく坂本竜馬の名よりも、多く書いていると思う。

881:日本@名無史さん
18/01/13 17:56:15.35 .net
▽平民乗馬の始
従来、社会の階級制度やかましく、農工商者の口取り者なき馬に騎して行くこと禁制なりしが、維新後、明治四年四月十九日始めてこの制を撤去し、庶民の騎馬を許したり。
されども堅


882:気の商人等には、敢て騎行するものも多からざりしと見えて、この時の〔年表〕に「町人には騎る人見えず」と記せり。 ――石井研堂著『明治事物起源』



883:日本@名無史さん
18/01/14 11:39:11.66 .net
これで第6章「小さな国」は終り。狂言廻しは木戸さんから再び川路に戻り、第7章「渋谷金王町」に突入する。
第7章では川路利良によって西郷隆盛の人となりがDeepに観察されます。

884:日本@名無史さん
18/01/14 11:40:13.22 .net
木戸さんが狂言廻しをやっていると、陰気になってしまうからな。景気がよくない。

885:日本@名無史さん
18/01/14 11:43:40.36 .net
>>819
「法駕籠のご寮人さん」は全集未収載だけど、「大坂侍」収載の巻でいっしょにやるよ。

886:日本@名無史さん
18/01/14 17:06:27.29 .net
>>816
長州閥の参議が一人もいなくなるという珍現象は、この二人の死が大きいな。
それと木戸さんの鬱病。

887:翔ぶが如く
18/01/14 19:45:38.58 .net
第7章 渋谷金王町
〔一〕西郷隆盛
「かの人はまことに妙である。一日かの人に接すれば一日の愛生ず。三日かの人に接すれば三日の愛生ず。しかれども予は接するの日を重ね、もはや去るべくもあらず。いまは善悪を越えて、この上はかの人と生死を共にするほかない」
増田宗太郎というこの若者は、西郷の弁舌に打たれたわけでもなく、西郷の文章を多く読んだわけでもなかった。かれは西郷にじかに接しただけのことであり、それでもって骨髄まで染まるほどに西郷の全体を感じてしまったのである。

888:日本@名無史さん
18/01/14 20:16:16.98 .net
★渋谷金王町
▽新帰朝
司馬さんも書いておられるが、「新帰朝」は広辞苑に載っていない。死語だ。
筆者の頭の中では死語ではない。永井荷風に「新帰朝者日記」という短篇もある。
辞書から除くべき言葉ではない。意味は司馬さんの解説どおり。

889:日本@名無史さん
18/01/14 20:25:08.42 .net
▽川畑種長
川路の妻・沢子〔>>203〕の兄。警視庁の幹部で、西南戦争の時期は、一等大警部。
鹿児島県士族で、西南戦争における最大の激戦地である田原坂では、警視庁抜刀隊の一隊を率いて戦った。
URLリンク(i.ytimg.com)

890:日本@名無史さん
18/01/14 20:27:54.43 .net
▽鼠賊
小さな盗みをする泥棒。こそどろ。
川路の義兄・川畑種長は、川路を「一鼠賊」と表現した。悪意はない。単に言葉を知らないだけ。

891:日本@名無史さん
18/01/14 20:38:17.13 .net
▽立小便
野糞もしくは立小便をした者は、軽犯罪法第1条第26号により拘留又は科料に処せられる。
また、同法同条第20号は、公衆に嫌悪の情を催させる仕方で、ももを露出した者も罰している。
したがって、ブスのミニ・スカートは犯罪である。
URLリンク(d13n9ry8xcpemi.cloudfront.net)

892:日本@名無史さん
18/01/14 20:44:50.72 .net
江戸時代は、男も女も屋外で平気で放尿していた。男が板塀などに向かって立小便をするのはもちろんのこと、女もちょっとした物陰にしゃがんで放尿するのは珍しいことではなかった。そんな時代、文化年間(1804~18)のころの話が『多話戯草』に出ている。
URLリンク(files.hangame.co.jp)

893:日本@名無史さん
18/01/14 20:53:28.80 .net
▽明治期の警察官の制服
警察博物館に行けば、本物が見れる。東京都中央区京橋3-5-1。料金は無料。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

894:日本@名無史さん
18/01/14 21:13:50.32 .net
西郷は初夏から初秋にかけての暑いあいだ、薩摩絣の単衣を一枚きりですごすのである。
(問題は衣類のことではない。このひとは、浮世の栄爵というものが遂に身につかぬ人ではないか)

895:日本@名無史さん
18/01/14 21:16:38.01 .net
▽薩摩絣
絣(かすり)とは、織物の技法の一つ。前もって染め分けた絣糸を経糸(たていと)、緯糸(よこいと)、またはその両方に使用して織り上げ文様を表すものである。
URLリンク(www.eternel.info)
URLリンク(www.akariya2.com)

896:日本@名無史さん
18/01/14 21:20:35.25 .net
▽単衣〈ひとえ〉
裏地のない和服のこと。6月から9月までの間にしか着られないという慣習がる。衣替え。
なお、麻製の単〈ひとえ〉を特に帷子 (かたびら) と称する。平安時代においては男子の汗取りの帷子、室町時代や江戸時代には男女の小袖形式の麻の帷子がある。
⇔袷(あわせ):裏地がある。

897:日本@名無史さん
18/01/14 21:31:02.53 .net
▽象皮病
バンクロフト糸状虫などのヒトを宿主とするリンパ管・リンパ節寄生性のフィラリア類が寄生することによる後遺症の一つ。
身体の末梢部の皮膚や皮下組織の結合組織が著しく増殖して硬化し、ゾウの皮膚状の様相を呈するため、この名で呼ばれる。陰嚢、上腕、陰茎、外陰部、乳房などで発症しやすい。
西郷隆盛は、象皮病に感染したため、晩年は陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていたという。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(www.discoverynetworks.nl)

898:日本@名無史さん
18/01/14 21:33:24.69 .net
城山で自害した西郷は首なし死体だったんだけど、キン玉がでかいから、すぐに特定されたんだよね。

899:日本@名無史さん
18/01/14 21:34:19.09 .net
江戸時代に象皮病が日本に蔓延していたことは、葛飾北斎の画に象皮病の患者が描かれていることや、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に象皮病の症状のことを詠んだ歌があることからもうかがえる。

900:日本@名無史さん
18/01/14 21:50:24.95 .net
▽文旦〈ブンタン〉
標準和名はザボン。柑橘類の一種である。
日本伝来の地は鹿児島県の阿久根市とされ、生産量も多いことなどから1971年に市の木に制定されている。
URLリンク(www.m-ys.co.jp)
近時は高知県がブンタンの生産に力を入れている。

901:日本@名無史さん
18/01/14 21:50:39.99 .net
ボンタンともいう。ボンタンアメのボンタンである。鹿児島市にあるセイカ食品が製造・販売する飴菓子。
URLリンク(www.fj9.info)

902:日本@名無史さん
18/01/14 22:04:03.87 .net
▽ヤシゴロ
食いしん坊という意味の鹿児島弁。

903:日本@名無史さん
18/01/14 22:04:34.27 .net
私は「ヤヒグレ」と言っていました。発音は「やいぐれ」。

904:日本@名無史さん
18/01/14 22:07:23.34 .net
▼やっせんぼ
役立たず。「役せぬ」の転じた語。
「こんカバンな、こもしてやっせんじゃった」=このカバンは小さくて役に立たなかった。

905:日本@名無史さん
18/01/14 22:13:40.55 .net
>>521
「靱負」は、律令制度の衛府の官人で、宮中を靭(ゆぎ:矢を入れる道具の一種)を背負って見回りをする者で、元々は「ゆげい」と読んでいた。
転じて「ゆきえ」。靭を背負う人。

906:日本@名無史さん
18/01/14 22:31:18.89 .net
▽ぞんざい
1.いいかげんに物事をするさま。投げやり。粗略。「仕事をぞんざいにする」
2.言動が乱暴で礼を失しているさま。不作法。「ぞんざいな口のきき方」
ぞんざいの語源には、「そざつ(麁雑・粗雑)」の転化とする説と、「存在のまま」を略した「存在」の意味とする説があるが、未詳である。

907:日本@名無史さん
18/01/14 22:38:32.41 .net
西郷が、日本国の極官の座につきながら、美邸も造らず、馬車ももたず、弟の屋敷に居候し、ふだん着は一枚きりで、いつもすその短い薩摩絣に兵児帯を二重巻きにして駒場野あたりを走りまわっているようでは、その日常の存在そのものが新政府に対する痛烈な批判であるといえる。

908:日本@名無史さん
18/01/14 22:42:36.91 .net
▽着たきり雀
どうして語尾に雀が付くのか、かねてより不思議に思っていたが、「舌切り雀」の洒落であった。
あまりにライトな笑えない洒落なので、今日まで気づかなかった。

909:日本@名無史さん
18/01/14 22:56:35.05 .net
▽徴兵令
明治6年1月10日(新暦)に施行された徴兵令で、士族および農民の明治新政府に対する不満が一挙にヴォルテージを上げた。
士族にしてみれば、明治5年の国民皆兵をうたう徴兵告諭でプライドを傷つけられ、翌明治6年には征韓中止で活躍の場を奪われた。
農民にしてみれば、江戸時代260年のあいだ兵士にとられることがなかったのに、維新によって若い労働力を鎮台に奪われることになった。

910:日本@名無史さん
18/01/14 22:59:38.77 .net
戊辰戦争における官軍は、薩摩・長州・土佐など諸藩の軍の集合で、政府が独自に徴兵して組織した軍はなかった。明治政府直属の御親兵も、長州藩の一部部隊を元に、諸藩の在京の浪人を集めて組織されたものだった。
大村益次郎や山縣有朋は、早くから「国民皆兵」の必要性を唱えていた。これは、近世的な個人的武技に頼る戦闘では、近代戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからである。

911:日本@名無史さん
18/01/14 23:03:13.73 .net
しかし、国民皆兵のためには身分・家格を廃して四民平等を導入せねばならず、それは武士階級の解体を意味した。そのため、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者が多数おり、また西郷隆盛も中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。そのうち、大村益次郎が暗殺されたこともあって構想は一旦は挫折した。

912:日本@名無史さん
18/01/14 23:06:26.13 .net
明治3年11月13日に山縣有朋の主導で徴兵規則が制定され、各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石につき5人を徴兵することを定めた。続いて翌明治4年2月13日には、西郷の構想の一部をも取り込む形で三藩(薩摩・長州・土佐)の軍が御親兵として編成され、この兵力を背景に同年7月の廃藩置県が断行された〔>>289〕。

913:日本@名無史さん
18/01/14 23:11:34.65 .net
中央集権体制の近代国家にとって国民軍の創出が不可欠であると認識され、西郷隆盛も最終的には山縣の考え方を支持して、山城屋事件で山縣が辞職に追い込まれた後も、西郷は桐野利秋らの反対論を退けた。
明治5年11月28日に徴兵告諭が出され、翌明治6年1月10日(新暦)に徴兵令が施行された。以後、1月10日は毎年徴兵による新兵の入営日となった。陸軍は初年度、各県から計3272人の徴員を要請したが、各県では100名~400名程度を徴兵したにとどまる。

914:日本@名無史さん
18/01/15 09:48:00.32 .net
▽斗南藩〈となみ〉
明治2年11月3日に、松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した藩である。七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった。会津藩を没収された会津松平家は、改めて元盛岡藩(南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した。
但し旧会津藩士4,700名余が謹慎を解かれたのは、翌年の明治3年1月5日のことである。
URLリンク(image.jimcdn.com)

915:日本@名無史さん
18/01/15 10:03:04.65 .net
▽アーネスト・サトウ〔>>632
アーネスト・サトウは、日本での体験を「一外交官の見た明治維新」と題した書に記した。そのなかで西郷のことを「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていた」と表現した。おそらく当時の日本に滞在していた外国人のなかで最も西郷と親しい関係にあった人物といえるだろう。
URLリンク(furuido.c.blog.so-net.ne.jp)

916:日本@名無史さん
18/01/15 10:03:16.95 .net
西郷と初めて会ったのは、慶応2年6月にイギリス公使パークスが鹿児島に来た際のことである。この年の12月には、生麦事件の賠償の支払を砂糖で代償できないかの交渉のため兵庫港で会談している。さらに慶応3年7月には、薩摩藩と長州藩に対して軍事援助も申し出て来たが、西郷は断っている。
サトウは明治2年に一時帰国しているが、西郷の明治政府からの下野や西南戦争の時期には、再び日本に滞在していた。

917:日本@名無史さん
18/01/15 10:11:04.72 .net
▽豊前中津
中津藩は、黒田家(のち筑前福岡藩)→細川家(小倉藩→熊本藩)→小笠原家→奥平家と続いた。
享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年の廃藩置県まで九代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。
URLリンク(uub.jp)

918:日本@名無史さん
18/01/15 10:12:55.06 .net
奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がいる。
また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎をして、郷土の英雄と位置付けている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。

919:日本@名無史さん
18/01/15 10:44:44.99 .net
▽増田宗太郎〔>>837
嘉永2年(1849年)- 明治10年
中津藩下士・増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人である渡辺重名 (しげな) の娘。父は福沢百助の妻のいとこ。
国学・水戸学を学び、尊王攘夷思想をもっていた。福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があったが、明治3年、福澤が帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。同学の同士に、獅子文六の父親の岩田茂穂がいた。福沢邸に乗り込むものの、議論する内に福沢の価値観に魅せられ、その後、慶應義塾へ入学した。なんのこっちゃ?

920:日本@名無史さん
18/01/15 10:50:46.77 .net
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        ィjj)))))))))!!!!!彡ヽ,
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Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


921:日本@名無史さん
18/01/15 10:51:36.47 .net
維新後は攘夷思想を改め、自由民権運動に参加する。西南戦争に薩軍側として従軍し、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し故郷へ帰る隊もある中、最後まで西郷に付き従った。
司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも、捕えられて斬首されたともいう。

922:日本@名無史さん
18/01/15 10:53:26.66 .net
太平洋戦争中は、西洋思想を日本に広めた福沢が貶められ、それを暗殺しようとした増田の評価が高まり、生家跡地には神社まで建立されたという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。
URLリンク(fukuzawakyukyo.com)
URLリンク(www.jalan.net)
URLリンク(eritokyo.jp)

923:日本@名無史さん
18/01/15 10:59:10.01 .net
▽司馬光
1019年 - 1086年。中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家。
諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」「司馬文正公」と呼ばれる。祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。『資治通鑑』の編者として著名。新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した。
URLリンク(blog-imgs-43.fc2.com)

924:日本@名無史さん
18/01/15 11:05:36.14 .net
▽神宗〈1048年 - 1085年〉
北宋の第六代皇帝。在位:1067年 - 1085年。
1066年に皇太子となり


925:、翌年に英宗の崩御により即位した。即位後は地方で政務実績のあった王安石を登用し、国家再建に乗りだした。 王安石による改革は「政・官・財・軍事」の仕組みを再編して朝廷を効率化し、結果として賦税負担を軽減することでの国の発展を目標とするものであり、神宗もその王安石の理念に同意し全権を与えた。 http://funny-c.com/wp-content/uploads/2017/06/c223b58a9691cd8406af4cd8bcfbea4a.jpg



926:日本@名無史さん
18/01/15 11:06:32.30 .net
唐突だが、西郷が司馬温公を尊敬していたということで、こんなことになっている。

927:日本@名無史さん
18/01/15 11:12:09.44 .net
▽王安石
1021年 - 1086年。北宋の政治家・詩人。
宋では、官吏への俸給の増加、遼および西夏との和平のための贈物による出費、傭兵を維持するための費用などがかさみ、慢性的な財政難に悩まされていた。神宗に登用された王安石は大胆な富国強兵策をたて、その財政難と兵力の弱体化と解決し、宋の再建を目指した。

928:日本@名無史さん
18/01/15 11:16:37.11 .net
▽新法
王安石の新法の特徴は、大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げるというところにある →均輸法・市易法
また、宋の軍事力は傭兵に依存したため、その出費が多かった。王安石は傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。徴兵制による国民皆兵である →保甲法
URLリンク(img.chinatimes.com)

929:翔ぶが如く
18/01/15 11:31:45.61 .net
第7章 渋谷金王町
〔二〕島津斉彬
「機先を制しなければなりませぬ、支那に兵を送るのです。ただし目的は侵略にあらず、列強の蚕食からの領土保全にあります」
以下、斉彬はのちに佐賀の鍋島閑叟あたりまでその信徒にさせた有名なアジア政策を述べた。
近畿・東海・東山・中国の諸藩は支那本部にむかって入るべし、九州・四国の諸藩は安南交趾(ベトナム地方)方面にむかって進出し、北陸奥羽の諸藩は満州に入り、漢民族に代わって支那大陸を守るのです、と言った。

930:日本@名無史さん
18/01/15 11:34:45.71 .net
話が、脇道にそれている。
が、斉彬について触れておくということは、西郷が何者であるかを知るために、案外近道であるかもしれない。

931:日本@名無史さん
18/01/15 14:38:53.88 .net
戊辰戦争、日清戦争辺りの日本の軍事的レベル(兵器、戦略・戦術等々)ってどれほどのものだったのでしょうか?特に欧米などと比較した場合。

932:日本@名無史さん
18/01/15 15:00:49.95 .net
明治6年の段階では比較にならないほど弱い。この年初めて百姓に軍服を着せて鎮台に配った。
日清戦争の段階でも戦後の三国干渉に屈した程度だから弱い。

933:日本@名無史さん
18/01/15 19:26:54.39 .net
★渋谷金王町
▽島津斉彬
文化6年(1809年)- 安政5年(1858年)。薩摩藩の第11代藩主。
西郷より19才年長。元治元年(1864年)は、順聖院の七回忌。
URLリンク(bunshun.ismcdn.jp)

934:日本@名無史さん
18/01/15 19:35:35.39 .net
西郷隆盛は、弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与に編入された。
西郷が直に農村を見てわかった農民の辛苦を書いた上書を、島津斉彬が読む。上書を読んだ斉彬は、西郷の見識の高さや農民を思う優しさに感銘を受ける。安政元年(1854年)、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。
これが、斉彬と西郷の出会いである。

935:日本@名無史さん
18/01/16 17:30:10.47 .net
斉彬と吉之助の二人三脚は、長くても5年間にすぎないんだな。

936:日本@名無史さん
18/01/16 17:36:45.63 .net
▽松平春嶽
江戸城内の田安屋敷で文政11年(1828年)に生まれる。幼名は錦之丞。錦之丞は伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが内定しており、天保8年(1837年)には正式決定した。
ところが天保9年(1838年)に越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去した。跡継ぎがいないことから、斉善の兄の第12代将軍・徳川家慶の計らいにより、急遽松平錦之丞が養子とされた。
URLリンク(kotobank.jp)

937:日本@名無史さん
18/01/16 17:39:21.72 .net
春嶽は、島津斉彬が「家来多数あれと雖も間に合ふ者なし。西郷一人は薩国の大宝なり」と生前言っていたことの証人として登場している。

938:日本@名無史さん
18/01/16 17:44:43.60 .net
▽水神坂の出会い
江戸出府のために鹿児島城下を発った斉彬の一行は、藩境の水神坂の坂上で休息することになります。斉彬は建白書を読んで西郷を中小姓として一行に加えたものの、まだ面識がありません。
そこで斉彬が、「今日、予が供廻りに西郷吉之助はおるか」と側近に質すと、側近は、「かの大兵肥満の人物」といって西郷を指さしました。

939:日本@名無史さん
18/01/16 18:04:51.15 .net
▽島津重豪〈しげひで〉
1745年(延享2年)- 1833年(天保4年)。薩摩藩の第8代藩主。
分家の加治木島津家当主島津久門(のちの重年)の長男として生まれた。宝暦5年(1755年)6月、本家を継いでいた父・重年が死去したため、11歳で本家の家督を継いだ。重豪は蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。

940:日本@名無史さん
18/01/16 18:05:40.65 .net
天明7年(1787年)、家督を長男の島津斉宣に譲って隠居したが、なおも実権は握り続けた。
文化6年(1809年)、近思録崩れ事件が起こった。これは子の斉宣が緊縮財政政策を行なおうとしたものだが、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して斉宣を隠居させた事件である。重豪は斉宣を隠居させ、孫の島津斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握った。
URLリンク(samurai-hi.com)

941:日本@名無史さん
18/01/16 18:06:12.55 .net
しかし、晩年になると重豪は藩の財政改革にようやく取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。調所の財政再建は島津斉興の親政時に成果を見ている。
老いてますます盛んな重豪は、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。なお重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。
ちなみに重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。

942:日本@名無史さん
18/01/16 21:17:17.28 .net
重豪 →斉宣 →斉興 →斉彬
司馬さんは、斉宣にはまったく触れておられないので、斉彬を重豪の孫と勘違いする読者もいるかもしれないな。曾孫。

943:日本@名無史さん
18/01/16 21:22:25.40 .net
触れられないんだよ。斉彬は曾祖父の重豪に似ていると言いたい�


944:フに、重豪は斉興と同じようなことをしている。 斉興時代の高崎崩れと同じような近思録崩れという事件も起きている。 島津斉宣の存在は、ひた隠しに隠したいわけさ。



945:日本@名無史さん
18/01/16 21:37:26.40 .net
▽『南山俗語考』
鹿児島藩主島津重豪(1745―1833)が編集させた中国語辞典。天部・地部・人部・器材部など19部に分類した8,277語を載せ、片仮名でその発音や訳語を記している。
重豪はオランダ語と中国語の知識に富み、とりわけ中国語は会話ができるほど堪能であった。そんな重豪の中国趣味と、中国船が藩領に時折漂着するという事情が重なって本書が企画された。
明和4年(1767)編集に着手。文化9年(1812)刊。中国人を祖先に持つ医者の曾槃が中国語の和訳を担当し、漢学者で中国語に通じていた石塚確斎が「華音」(中国音)の正誤を校訂した。書名の「南山」は重豪の号で、「俗語」は日常用いる言葉のこと。

946:日本@名無史さん
18/01/16 21:48:18.39 .net
▽Philipp Franz von Siebold〈1796年 - 1866年〉
ドイツの医師・博物学者。
文政6年 (1823) 長崎オランダ商館の医師として来日、翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き、伊東玄朴・高野長英・黒川良安ら数十名の門人に西洋医学および一般科学を教授した。文政9年 (1826) 商館長の江戸参府に随行した。
島津重豪が斉彬を伴い大森宿まで出迎えたのは、このときである。
URLリンク(www.geocities.jp)

947:日本@名無史さん
18/01/16 21:48:31.18 .net
※ついでにシーボルトの娘の楠本イネ
URLリンク(pbs.twimg.com)

948:日本@名無史さん
18/01/16 21:55:26.85 .net
▽大森宿
東海道五十三次の宿駅ではない。品川宿と川崎宿の中間地点にあたり、間の宿として賑わった。古くは「大杜」と書き、江戸時代は「大森村」と称した。地名は大きな森があったことにちなむ。大部分は田畑だが、海辺では塩も生産していた。
URLリンク(www.yasuda-hsp.jp)

949:日本@名無史さん
18/01/16 22:03:27.50 .net
▽奥平昌高
豊前中津藩〔>>867〕第5代藩主。天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれる。天明6年(1786年)、急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ。これには昌男の父・昌鹿と昌高の父・重豪が蘭学仲間で非常に仲が良かったという背景があった。

950:日本@名無史さん
18/01/16 22:06:03.36 .net
父の重豪と同様「蘭癖大名」の一人として知られている。特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの交流は熱心なもので、文政9年(1826年)に実父の重豪とともに初めて対面して以降、5回も会談している。
昌高は養祖父の昌鹿から、藩医であった前野良沢〔>>868〕らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした。安政2年(1855年)、江戸で74歳にて没した。
URLリンク(stat.ameba.jp)

951:日本@名無史さん
18/01/16 22:11:28.79 .net
▽つぎの代の斉興
「次の次の代」の誤り。次の代は、重豪の子の斉宣である〔>>889〕。

952:日本@名無史さん
18/01/16 22:38:50.26 .net
▽造士館
八代藩主・島津重豪は安永2年(1773年)、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。
初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命された。モデルになったのは江戸幕府の昌平黌である。
隣接する敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)

953:日本@名無史さん
18/01/16 22:42:42.07 .net
安永3年(1774年)、重豪は漢方を学習する「医学院」を増設する。
安永8年(1779年)には鹿児島城の東南に「明時館」を建設し、天文学を研究させた。
文化4年には近思録党〔>>889〕を「偽実学党」として非難した山本正誼が教授を免職される事態となり、造士館は大混乱に陥った。その後、緊縮財政の影響もあり、造士館での教育は停滞した。

954:日本@名無史さん
18/01/16 22:54:30.54 .net
嘉永4年(1851年)、11代藩主となった島津斉彬は停滞していた造士館の改革に乗り出した。従来の儒教と武芸教育にくわえて西洋の実学を学習の中心においたのである。
明治34年に旧制第七高等学校造士館となるが、昭和25年に新制鹿児島大学に包括され廃校となる。
※慶応3年(1867年)に市内磯地区に建てられた旧鹿児島紡績所技師館。明治17年に鶴丸城址に移築されて造士館本館として長く使用された。
URLリンク(img.guide.travel.co.jp)

955:日本@名無史さん
18/01/16 23:38:12.80 .net
▽家督
斉彬は嘉永4年(1851年)に家督を嗣ぎ、安政5年(1858年)に急死しているから、藩主であった期間はわずか7年でしかない。

956:日本@名無史さん
18/01/17 12:04:56.33 .net
▼島津斉宣
安永2年(1774年)、第8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。天明7年(1787年)1月、父・重豪の隠居により、家督を継いで第9代藩主となった。しかし実権は父・重豪に掌握されていた〔>>889〕。
文化2年(1805年)12月には『亀鶴問答』を著し藩政改革の方針を示したが、父・重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題などから内紛(近思録崩れ)が起こる。これにより文化6年(1809年)6月、斉宣は重豪より近思録崩れの責任を問われ、長男の斉興に家督を譲らされて強制隠居させられた。天保12年(1841年)10月、江戸の薩摩藩下屋敷にて死去。享年69。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

957:日本@名無史さん
18/01/17 12:06:44.83 .net
江戸に重豪、斉宣の2人の隠居を抱える薩摩藩の出費は莫大なもので、斉宣は経費が少なくて済む薩摩での隠居を度々幕府に願い出たが却下される。そのため隠居後は一度も薩摩に帰国出来なかった。
父・重豪が孫・斉興に出した手紙で「問題があった時、江戸にいる時には奥平昌高〔>>897〕に相談し、国元にいる時には島津忠厚に相談するように」(奥平昌高と島津忠厚は斉宣の弟であり、斉興の叔父にあたる)とあり、藩政からは徹底的に排除された模様である。

958:日本@名無史さん
18/01/17 12:13:00.31 .net
▽島津斉興
寛政3年(1791年)、第9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。文化6年(1809年)、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって


959:強制隠居させられたため、家督を継いで第10代藩主となった。しかし藩政の実権は重豪に握られていた。 天保4年(1833年)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。



960:日本@名無史さん
18/01/17 12:15:04.10 .net
藩政改革では、借金の250年分割支払いや、清との密貿易、砂糖の専売などが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復したが、嘉永元年(1848年)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。
※調所広郷:竜 雷太 URLリンク(news-topics24.com)

961:日本@名無史さん
18/01/17 12:19:24.69 .net
この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児には、正室・弥姫(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光がいた。次男・斉敏は岡山池田氏を継いでいた。
本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永2年(1849年)12月にはお家騒動が勃発した(お由羅騒動)。〔>>513-525〕

962:日本@名無史さん
18/01/17 12:24:00.66 .net
安政5年(1858年)7月16日、斉彬が先立って50歳で急死すると、斉彬の遺言により藩主は久光の長男・忠徳(忠義)が継いだが、忠徳が若年であることを理由に、再び隠居の島津斉興が藩政を掌握した。
西郷隆盛を始めとする斉彬派の家臣を大粛清し、集成館事業を一時廃止したため、一気に時代に逆行した復古的な政策に転換した藩政は混乱した。しかし、翌安政6年(1859年)9月12日に死去。享年69。
URLリンク(img.atwikiimg.com)
※島津斉興:鹿賀丈史
URLリンク(samurai-hi.com)

963:日本@名無史さん
18/01/17 12:29:51.37 .net
ここから蘭癖大名・島津斉彬一代の治績の数々を紹介する。

964:日本@名無史さん
18/01/17 12:34:49.02 .net
斉彬の活動期はみじかい。かれは数えて四十三になるまで部屋住みの世子としてすごした。
かれは曾祖父の重豪(しげひで)に愛された。重豪は斉彬が二十五歳のとき八十九歳で亡くなったが、もし重豪と斉彬という二人の非常人が薩摩に国主として存在しなければ、薩摩という風土が維新前後から明治期いっぱいにいたるまで日本のモダニズムの先頭をゆくというぐあいにはならなかったであろう。

965:日本@名無史さん
18/01/17 12:38:05.61 .net
▽水力発電
水力発電をつくり、その電気をもって有線電信機を作動させ、鹿児島防衛用の沈置水雷をつくり、送電により爆発させるようにした。鉱山用の送電地雷もつくって、実用に供した。
※水力発電用ダム跡
URLリンク(cdn.4travel.jp)
URLリンク(www.waterworks.co.jp)

966:日本@名無史さん
18/01/17 12:50:14.75 .net
▽火薬の製造
鹿児島の滝之上に水車を動力とした大規模な火薬製造所が設立された〔参考:>>760〕。火薬製造のためには硝石・硫黄・木炭を混ぜる必要


967:があった。硫黄は硫黄島や霧島で、木炭は領内各地で豊富に産した。しかし、硝石は藩内で不足しがちであった。 そこで嘉永4年 (1851) 藩主に就任した島津斉彬は、蘭学者石河確太郎に人工硝石の製造法を調べさせ、谷山や城下の各地で硝石を作成する作硝場を設けた。



968:日本@名無史さん
18/01/17 12:53:16.33 .net
また、オランダの技術書によって西洋式の火薬の製造を開始したが、その質はむしろ舶来火薬よりも良質だった。文久3年 (1863) には、敷根 (現霧島市) に本格的な洋式火薬製造所が築かれた。
薩摩藩は、敷根火薬製造所を設置する以前から、既に城下の滝之上に火薬製造所を作っており〔>>913〕、また、谷山にも煙硝倉を設けて、火薬製造を行っていました。しかしながら、薩英戦争をきっかけとして、大量に火薬を製造できる施設を建造する必要があると感じ、火薬の増産を試みるため、新たに敷根に火薬製造所を設けることとした。

969:日本@名無史さん
18/01/17 12:55:00.04 .net
敷根火薬製造所は、この石組みの水路上に小屋を建て、その中に水車を設置し、その動力を利用して、硫黄や硝石を砕き、火薬の原料としていた。
URLリンク(blog-imgs-94-origin.fc2.com)
下記の画像は、島津斉彬が谷山に設けた煙硝倉の跡です。
URLリンク(blog-imgs-94-origin.fc2.com)

970:日本@名無史さん
18/01/17 13:01:07.69 .net
▽薩摩切子
薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)である。薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれた。
薩摩のガラス製造は、弘化3年 (1846)、薩摩藩主島津斉興が中村製薬館を創設した際、江戸から硝子師を招聘し薬瓶をつくらせたことにはじまる。島津斉彬はこれをさらに向上させ、薩摩切子を生み出させた。特に藩内外の洋学者が協力して生み出した紅ガラスは「薩摩の紅ガラス」として珍重された。
URLリンク(auctions.c.yimg.jp)

971:日本@名無史さん
18/01/17 13:05:28.89 .net
▽反射炉
島津斉彬が日本を守る大砲を鋳造するためにつくらせたこの反射炉、もともとはヨーロッパで開発されたものです。しかし当時は鎖国中ですから西洋人に造ってもらうことも教えてもらうこともできません。オランダの書物のみを手がかりに、日本人だけで造るしかありませんでした。
基礎部分は石垣を造る技術、燃焼室などの耐火レンガは薩摩焼の技術を応用したものです。

972:日本@名無史さん
18/01/17 13:05:43.07 .net
※仙巌園内にある反射炉遺構
URLリンク(www.senganen.jp)
※尚古集成館本館にある反射炉模型
URLリンク(www.senganen.jp)

973:日本@名無史さん
18/01/17 13:15:22.47 .net
▽挙兵上洛
安政4年(1857年)老中・阿部正弘が急死すると事態が大きく変わっていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派である一橋派の大弾圧を開始します。安政の大獄です(1858年)。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画していました。斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。その閲兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。

974:日本@名無史さん
18/01/17 13:20:51.49 .net
久光も西郷も、斉彬を真似しただけ。大名という身分の者に、優秀な頭脳が宿ると、やることのスケールが大きい。
凡人は真似するのみ。

975:日本@名無史さん
18/01/17 13:44:25.41 .net
なにもかもを斉彬ひとりでやれるはずがない。
斉彬の下で火薬製造に携わった蘭学者石河確太郎のようなブレーンがいたから、成し遂げられたことだと思うよ。

976:日本@名無史さん
18/01/17 13:46:21.24 .net
その意味では民間の蘭学熱の高まりも重要ですよね。
司馬さんも、薩摩を舞台にしているわけではありませんが、『胡蝶の夢』でそのあたりの事情を書いておられる。

977:日本@名無史さん
18/01/17 13:50:02.96 .net
19世紀の日本を侮ってはならないよな。すべてが明治維新によってスタートしたんじゃない。江戸末期にすでに近代は始まっていた。
明治維新の重要性は、近代化への最後のネックになっていた士族による武力の独占を廃止して、国民皆兵を実現したことに尽きる。
この観点からは、明治6年の徴兵令こそ重要で、廃藩置県ですら徴兵制のための準備にすぎない。

978:日本@名無史さん
18/01/17 13:56:21.33 .net
理系の観点から近代史の再構成をしてもらいたいよな。
文系は人権だの立憲主義だのアホなことしか言わん。

979:日本@名無史さん
18/01/17 14:11:13.31 .net
▽四賢公
一橋慶喜 URLリンク(www.ndl.go.jp)
水戸斉昭 (前水戸藩主・慶喜父 / 1800-1860) … 伊武雅刀 URLリンク(thetv.jp)
松平慶永〔>>885URLリンク(cdn-images-1.medium.com)

980:日本@名無史さん
18/01/17 14:11:26.50 .net
山内容堂〔>>709URLリンク(www.kurofune-shachu.com)
伊達宗城 URLリンク(blog.rnb.co.jp)
鍋島閑叟 URLリンク(9-shop.com)

981:日本@名無史さん
18/01/17 14:17:30.18 .net
▽松平春嶽
橋本左内が春嶽を補佐していたときは春嶽は一世の目を見張らせるようなところがあったが、左内が井伊直弼の弾圧政治で刑殺されてしまうと、春嶽は昼行燈のようになった。

982:日本@名無史さん
18/01/17 14:22:56.12 .net
▽橋本左内
天保5年(1834年)- 安政6年(1859年)。越前国福井藩士。
江戸幕府第14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
安政6年(1859年)に安政の大獄が始まり春嶽が隠居謹慎を命じられると、頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年26。
URLリンク(meigen.keiziban-jp.com)

983:日本@名無史さん
18/01/17 14:30:30.50 .net
▽藤田東湖
文化3年(1806年)- 安政2年(1855年)
戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。安政2年(1855年)10月2日に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。
地震発生時に東湖は一度は脱出するが、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。
URLリンク(plaza.rakuten.co.jp)

984:日本@名無史さん
18/01/17 14:40:37.86 .net
▽黒船来航
嘉永6年(1853年)に米海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件があっても、斉彬は黒船に驚くよりも、黒船を造ろうとした。鍋島閑叟および伊達宗城と競い合うようにして製造に着手したが、ペリー来航後3年で、三藩とも製造に成功した。
このあたりの事情は、司馬氏の短篇集『酔って候』の中の「伊達の黒船」で詳述する。

985:日本@名無史さん
18/01/18 17:51:29.69 .net
▽ミニエー銃
嘉永6年(1853年)にペリーが徳川将軍家に持参した土産。
雷管式の前装式ライフル歩兵銃である。ライフル銃としては最初期のもので、1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
弾丸が充分な回転を持ち弾丸周囲からのガス漏れが防止されたため、飛距離と命中精度が飛躍的に向上した。また装弾が容易となり連射能力も向上した。
URLリンク(db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp)

986:日本@名無史さん
18/01/18 17:55:38.59 .net
▼マスケット銃
銃身にライフリングが施されていない先込め式の滑腔式歩兵銃である。このため、散弾も発射可能であった。
命中精度は非常に悪かったため長距離狙撃には向かず、軍隊では陣形を組み敵へ向けて短距離で斉射する運用しかできなかった。
火打石または銃用雷管を用いる滑腔銃身のマスケット銃=ゲベール銃
URLリンク(www.japanese-sword.jp)

987:日本@名無史さん
18/01/18 18:05:42.99 .net
▽島津斉彬とミニエー銃
漫画単行本「せごどん」の第二巻。
斉彬が狩猟に使っている銃がフランス式のミニエー銃だというが、時代はまだ弘化三年(1846)だから、ミニエー弾はまだ開発されていないはず。ミニエー銃は1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された〔>>931〕。
司馬さんも、ペリーが献上したミニエー銃を斉彬が幕閣から借りて、これを分解してその構造を知り、ミニエー銃を3,000挺製造したと書かれているが???。

988:日本@名無史さん
18/01/18 18:10:17.53 .net
小銃ではなく大砲に関する薩摩藩のエピソードに、次のようなものがあります。
島津斉彬の先見性と沿岸防備推進策により、首府鹿児島を防備するための大砲の準備と設置は順調に進んでいたが、残念ながら、その主力は一時代前の射程の短い滑空砲であった。
その結果、生麦事件報復時の「薩英戦争」によって、滑空砲が如何に時代遅れかを薩摩藩全体が身を持って体験させられたのである。

989:日本@名無史さん
18/01/18 18:12:06.31 .net
幕府も何もしなかった訳ではなく、1855年に老中阿部正弘は、江戸・湯島の大筒鋳立所に小銃の製作を指示しています。これは在来技術を用いてゲベール銃やヤーゲル銃 (狙撃用前装ライフル銃) が作れるものと考えていたようです。
江川英敏 (江川英龍の息子) がこれにあたりますが、後にヤーゲル銃の生産は取りやめられ、1857年に予定の4000丁のゲベール銃を完成させています。1861年にはもう4000丁を作り上げた様です。

990:日本@名無史さん
18/01/18 18:18:18.83 .net
1860年、幕府ではライフル銃(ミニエー銃)の生産が計画されます。しかしライフル銃身の製造に失敗しこの計画は頓挫します。
1861年に小栗忠順らの上申で欧米から工作機械を導入しライフル銃を作ることが計画され、1865年末に関口工廠に蒸気施条機械が搬入されます。
ちなみに、幕府と薩摩では1864年頃には、青銅前装ライフル砲「四斤山砲」〔>>593〕の生産に成功しています。小銃に関しては、筆者にもよくわかりません。

991:日本@名無史さん
18/01/18 18:19:16.91 .net
日本での本格的なライフル銃の生産は、1880年の十三年式村田銃まで待たなければならないようです。しかし、村田銃のライフル銃身はベルギー製らしいです。

992:日本@名無史さん
18/01/18 18:23:23.29 .net
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\    <ペリーも彼が愚弄した日本国にライフル銃を大量製造しうる侯国が
    /   ⌒(__人__)⌒ \     存在していることを想像すらできなかったであろう
    |      |r┬-|    |
     \     `ー’´   /
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
          ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ   <だっておwww
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)   
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //       
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー’´      ヽ /    /
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バンバン
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

993:日本@名無史さん
18/01/18 18:25:19.53 .net
島津斉彬の神格化の度が過ぎております。

994:日本@名無史さん
18/01/18 18:28:45.94 .net
薩摩でミニエー銃を大量生産していたら、長崎のグラバー商会は商売にならんわ。

995:日本@名無史さん
18/01/18 18:35:34.28 .net
斉彬は、かれが死去する安政5年(1858年)に計画していた大挙上洛においては、このライフル銃三千挺をひっさげて京都に拠り、その威力によって日本国の改造に乗り出すつもりだったのである。だっておwww(AA略

996:日本@名無史さん
18/01/18 18:46:03.44 .net
▽水野忠邦
寛政6年(1794年)、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。文化14年(1817年)9月、実封25万石の唐津から実封15万石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。これは、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから幕閣としての昇格に障害が生じるからである。
天保10年(1839年)に老中首座となった。その後は天保の改革でおなじみ。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

997:日本@名無史さん
18/01/18 18:49:51.56 .net
当時異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減しているにもかかわらず、徳川家斉の大御所政治は放漫な財政に打つ手を見出せないでいた。
天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、ついで天保12年(1841年)閏1月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、天保の改革に着手した。

998:日本@名無史さん
18/01/18 18:51:50.84 .net
天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。
農村から多数の農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施した。

999:日本@名無史さん
18/01/18 18:53:37.04 .net
その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。腹心の遠山景元は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和したことにより庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。
また、天保14年(1843年)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居耀蔵が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏9月13日に老中を罷免されて失脚した。

1000:日本@名無史さん
18/01/18 18:58:22.63 .net
弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災により焼失した。老中首座・土井利位〈としつら〉はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、6月21日に家慶は水野忠邦を老中首座に再任した。
しかし昔日の面影はなく、重要な任務を与えられるわけでもなかったため、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったとされる。
一方で忠邦は、天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしている。土井利位は自ら老中を辞任。鳥居耀蔵は全ての役職を罷免された。

1001:日本@名無史さん
18/01/18 19:00:53.44 .net
老中・阿部正弘は水野忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦は弘化2年(1845年)9月、強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58。

1002:日本@名無史さん
18/01/18 19:25:30.40 .net
水野忠邦は、同僚の阿部正弘に対し、
「あなたは薩摩守と仲がよさそうだが、かれは油断がならぬ」
と言っていたという。

1003:日本@名無史さん
18/01/18 19:31:20.14 .net
▽阿部正弘
文政2年(1819年) - 安政4年(1857年)。備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座。
天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの一度だけである。
天保14年(1843年)、25歳で老中となり、弘化2年(1845年)9月には、老中首座であった水野忠邦を天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった〔>>947〕。
URLリンク(pbs.twimg.com)

1004:日本@名無史さん
18/01/18 19:34:28.84 .net
人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石は、ほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。

1005:日本@名無史さん
18/01/18 19:36:07.72 .net
幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。
弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。
7年後の嘉永6年(1853年)にはペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。

1006:日本@名無史さん
18/01/18 19:38:06.80 .net
この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募った。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で


1007:、雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。



1008:日本@名無史さん
18/01/18 19:38:21.83 .net
なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。

1009:日本@名無史さん
18/01/18 19:39:36.73 .net
嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。

1010:日本@名無史さん
18/01/18 19:43:59.74 .net
安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全〈のりやす〉、松平忠固を老中より罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
安政4年(1857年)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。

1011:日本@名無史さん
18/01/18 19:48:14.39 .net
阿部正弘 (老中 / 1819-1857) … 藤木直人
URLリンク(pbs.twimg.com)
徳川斉昭 (前水戸藩主・慶喜父 / 1800-1860) … 伊武雅刀
URLリンク(pbs.twimg.com)
徳川家定 (第13代将軍 / 1824-1858) … 又吉直樹
URLリンク(webbizinfo.xsrv.jp)
井伊直弼 (大老・彦根藩主 / 1815-1860) … 佐野史郎
URLリンク(pbs.twimg.com)

1012:日本@名無史さん
18/01/18 19:59:52.67 .net
▽集成館事業
島津斉彬が集成館事業を開始するに至るまでの時代背景として、その当時、中国でのアヘン戦争(1840~1842年)などで英仏等の西欧諸国がアジア各地で植民地化を進めていたことが挙げられる。
アヘン戦争については、魏源が著した『海国図志』(1843年初版)などの書籍が日本に輸入されていたため、日本でもその実情はかなり正確に知られていた。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていったことに、日本人は衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。

1013:日本@名無史さん
18/01/18 20:02:57.02 .net
アヘン戦争前後から当時薩摩藩の支配下にあった琉球へ異国船が度々来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。
1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、それまで長年温めていた集成館事業に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。
特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。
URLリンク(media-cdn.tripadvisor.com)

1014:日本@名無史さん
18/01/18 20:09:44.76 .net
▽お由羅の方〔>>518
寛政7年(1795年)- 慶応2年(1866年)。薩摩藩主・島津斉興の側室。
出身については江戸の大工・工藤左衛門の娘といわれているが、江戸・三田の八百屋の娘、その他に舟宿の娘など多数の説がある。
薩摩藩邸で奉公していた際に斉興に見初められ、斉興の側室となる。藩邸には正室・弥姫(周子)がいたため、由羅は薩摩に置かれたが、参勤交代の度に江戸と薩摩に由羅を連れて行くほど斉興の寵愛は深かったともいわれている。

1015:日本@名無史さん
18/01/18 20:19:36.24 .net
▽斉彬の妻子
子は六男五女の11人であった。
正室:恒姫(一橋家徳川斉敦の娘)→長男・菊三郎
側室:酒井忠?の娘 →長女・澄姫/次女・邦姫
側室:田宮安知の娘 →三男・盛之進/五男・虎寿丸
側室:伊集院須磨 →三女・?姫(島津忠義正室)/四女・典姫(島津珍彦夫人)/五女・寧姫(島津忠義の後妻)/四男・篤之助/六男・哲丸
側室:旗本横瀬克己の娘 →次男・寛之助

1016:日本@名無史さん
18/01/18 20:21:29.49 .net
多数の子女のうち成人したのは須磨との間の娘三人人のみで、全員が弟久光の息子の妻となった。さらに、養嗣子の忠義に嫁いだ娘2人はいずれも難産で死去し、無事出産を迎えて命を長らえたのは典姫ただ一人であった。
※斉彬の娘たちの写真。左から典姫・?姫・寧姫�


1017:B https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/Shimazu_Nariakira_Family.jpg/200px-Shimazu_Nariakira_Family.jpg



1018:日本@名無史さん
18/01/18 20:27:25.33 .net
※喜久 (斉彬側室) … 戸田菜穂
伊集院須磨がモデルであると思われる。文政4年(1821年)- 明治3年。
早くから斉彬に出仕し奉公したという。斉彬の寵愛を受け、篤之助、虎寿丸、?姫、典姫、寧姫の二男三女を儲けた。
URLリンク(news-topics24.com)

1019:日本@名無史さん
18/01/18 20:34:52.98 .net
▽島津忠義
天保11年(1840年) - 明治30年
島津氏分家の重富家当主・島津久光の長男として生まれる。伯父・斉彬の養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして哲丸は死去した。
URLリンク(pds.exblog.jp)

1020:日本@名無史さん
18/01/18 20:46:30.46 .net
▽岡崎藩邸
斉彬は安政5年の大挙上洛に備えて、京の岡崎に藩邸の敷地を買い求めていた。
薩摩藩邸は文久4年までに京都市街地とその周辺に都合三か所あったことになる。取得の順序でいえば、享保2年までに市街地内部の錦小路、それから176年後に市街地北部の御所の近傍で二本松藩邸を建設し、その直後に鴨川の東側に位置する岡崎でも藩邸を確保していた。

1021:日本@名無史さん
18/01/18 21:08:55.01 .net
▽月照
文化10年(1813年)- 安政5年(1858年)
大坂の町医者の長男として、讃岐の国吉原(現在の善通寺市)に生まれた。
徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している。
URLリンク(i0.wp.com)

1022:日本@名無史さん
18/01/18 21:10:26.92 .net
※月照 (清水寺の僧 / 1813-1858) … 尾上菊之助
URLリンク(dokidoki-tv.com)

1023:日本@名無史さん
18/01/18 21:14:56.14 .net
安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。この頃、藩政の実権は、島津斉興にあった〔>>909〕。
これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年46。

1024:日本@名無史さん
18/01/18 21:18:39.24 .net
▽福山矢三太
西郷の国許にいた同志らしい。詳細不明。
斉彬の死の直後に認められた西郷からの手紙を受け取ったとされる。

1025:日本@名無史さん
18/01/18 21:36:08.14 .net
▽精忠組
近思録崩れ〔>>904〕の秩父季保が愛読した『近思録』を輪読する会が発展したものである。彼ら自身が「精忠組」を名乗った事実はなく後世の命名である。西郷隆盛を盟主的存在とし、大久保正助(利通)・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。
水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津忠義および島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫した。結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。

1026:日本@名無史さん
18/01/18 21:40:51.39 .net
久光はその後、大久保利通・税所篤・堀仲左衛門(伊地知貞馨)・吉井友実らを側近として抜擢した。
文久2年(1862年)、久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す。しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木和泉・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。
有馬らが集結する旅籠寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂。精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。ここにおいて精忠組の結束は事実上崩壊した。

1027:日本@名無史さん
18/01/18 21:42:29.79 .net
>>968
精忠組のメンバー表を調べてみたが、福山矢三太という人物は存在しない。
架空の人物もしくは実在した人物の変名だろうな。

1028:日本@名無史さん
18/01/18 21:48:51.45 .net
迷路に足を踏み入れた読者の皆様へ。現在、渋谷金王町の西郷従道邸に西郷吉之助を訪ねた川路の件が続いております。
西郷の人となりを説明するために、その師というべき島津斉彬の人物を解き明かしています。
その過程で、話が脇道にそれております〔>>879〕。

1029:日本@名無史さん
18/01/18 21:57:13.44 .net
▽安政江戸地震
安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である〔>>929〕。
特に強い揺れを示したのは隅田川東側(江東区)であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及ぶ。
URLリンク(5orb.net)

1030:日本@名無史さん
18/01/18 22:05:16.78 .net
▽三田藩邸
現在の三田は、江戸時代に多くの大名屋敷がありました。三田ではNECの本社が一際目立ちます。このNECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。幕末には、薩摩藩邸は三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷、そして現在は八芳園になっている白金の屋敷がありました。
URLリンク(pds.exblog.jp)

1031:日本@名無史さん
18/01/18 22:12:42.06 .net
天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に三田の上屋敷に入りました。しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に安政の大地震が起きて上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。篤姫は1年余り、渋谷下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。
※篤姫 (徳川家定継室 / 1836-1883) … 北川景子
URLリンク(pbs.twimg.com)
※幾島 (篤姫女中頭 / 1808-1870) … 南野陽子
URLリンク(daily.c.yimg.jp)

1032:日本@名無史さん
18/01/18 22:23:41.61 .net
慶応3年12月25日に起きた庄内藩新徴組による江戸薩摩藩邸の焼討事件の江戸藩邸とは、三田藩邸のことである〔>>63〕。
これは新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走し薩摩藩邸に逃げ込んだ事件への報復であった。
幕府を挑発するための放火・略奪・暴行を指揮していたのが、薩摩藩士の伊牟田尚平や益満休之助である。益満休之助は、司馬『花咲ける上方武士道』の重要登場人物である。

1033:日本@名無史さん
18/01/18 22:31:32.83 .net
▽薩摩藩渋谷別邸
江戸の郊外に位置した渋谷周辺にあった大名屋敷は、ほとんどが下屋敷だった。
國學院・青山学院・実践等学舎が集中する閑静な場所に別邸跡となる「常磐松の碑」がある。嘉永5年(1852)に薩摩藩屋敷になり、その後1万8千坪の広大な敷地となった。
斉彬は、安政大地震の後、この渋谷別邸でしばらく暮らした。
URLリンク(bkmts.on.coocan.jp)
URLリンク(bon-emma.my.coocan.jp)

1034:日本@名無史さん
18/01/18 22:35:57.12 .net
▽安政2年(1855年)12月16日
斉彬は、渋谷別邸に、松平春嶽を招待した。
斉彬のアジア政策は、春嶽によって記録に残されている。

1035:日本@名無史さん
18/01/18 22:42:46.40 .net
▽太平天国の乱
清朝の中国で1851年(嘉永4年)に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王としキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国が起こした。
賊は清朝が強制した弁髪を拒否して長髪にしていたため、長髪賊の乱ともいわれる。
URLリンク(1.bp.blogspot.com)

1036:日本@名無史さん
18/01/18 22:51:12.20 .net
▽白村江の戦い〈はくすきのえ〉
天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。
581年に建国された隋は、煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったものの、いずれも失敗した。唐は二代太宗・三代高宗の時に高句麗へ3度に渡って侵攻を重ね、ついに高句麗を征服する(668年)。

1037:日本@名無史さん
18/01/18 22:56:49.40 .net
百済は、642年から新羅侵攻を繰り返していたが、659年4月、唐は秘密裏に百済への出撃準備を整え、また、倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。
660年、百済が唐軍・新羅軍に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開され、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。

1038:日本@名無史さん
18/01/18 23:02:16.86 .net
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。
何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一がなされた。
URLリンク(navicon.jp)

1039:日本@名無史さん
18/01/18 23:05:57.53 .net
▽文禄・慶長の役
文禄元年(1592年)に始まって、翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役
慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開され、翌慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死による日本軍の撤退で終結した慶長の役

1040:日本@名無史さん
18/01/18 23:26:02.04 .net
斉彬の時代、清朝は衰弱し、すでに内乱が慢性化し、しかも清朝に交代すべき新勢力は現れず、清朝は国家としてあの広大な大陸を統治する力を失いつつある。
「いずれ、支那大陸は英仏が支配するであろう」
という観測が基礎になっている。支那大陸を英仏が支配すれば日本もろとも彼らの属邦になってしまうかもしれないという恐怖が、観測に裏打ちされている。

1041:日本@名無史さん
18/01/18 23:28:42.47 .net
この恐怖は、日本の地理的性格からくる宿命のようなものであった。支那大陸でおこる変動や変化が、ときに朝鮮半島というクッションをおきつつもその波動の影響から免れないのである。

1042:日本@名無史さん
18/01/18 23:33:02.17 .net
▽琉球館
福建省福州と鹿児島に置かれた琉球王国の出先機関。福州琉球館は、琉球専用の滞在施設として中国側の手で設置されたもので、正式名称を柔遠駅といった。設置の年代は不明だが、15世紀後半にはすでに存在し、1879年(明治12)の琉球処分により王国が廃されるまで活用された。
URLリンク(ryubun21.net)

1043:日本@名無史さん
18/01/18 23:38:17.98 .net
鹿児島琉球館は、島津侵入事件後に薩摩と琉球の連絡調整機関として設置された。
島津侵入事件とは、1609年(慶長14)春、薩摩藩主島津家久が兵3000を送って琉球王国を侵略し征服した事件。薩摩は琉球の検地を行い、与論島以北の奄美地方を琉球王国から分割して自藩の直轄領に繰り込むと同時に、他を琉球国王領と認めながらも、これに対する管理権を確保する方針をとった。
また、鎖国体制の強化に伴い、琉球王国を介する対中国貿易の重要性に着目し、その管理権も手中にした。こうして、東アジアに独立自営の国家として存在してきた琉球王国は、薩摩藩を介して幕藩体制の一環に編成されることになった。

1044:日本@名無史さん
18/01/18 23:40:07.69 .net
斉彬は、日本は英国がそのようにして国家を保っているように積極策をとる以外にない、と思うようになったのである。

1045:日本@名無史さん
18/01/18 23:44:40.62 .net
▽台湾占領策
18世紀頃までの台湾は、中国本土の支配を受けた他、オランダやスペインの植民地であったりもしました。以前より、中国大陸から漢人が入植していましたが、清の時代になると中国本土からの移住が一段と進みました。もともと台湾に居住していた先住民族はいずれも少数民族であるため、人口の大半は漢人が占めるようになりました。

1046:日本@名無史さん
18/01/18 23:49:36.10 .net
台湾に渡った漢人の出身地は福建省が多く、福建地方の言葉が台湾語と呼ばれ、現在まで広く使われています。また、戦乱から逃れるため中原から南へと移動して定住を繰り返していった客家人も台湾に移住してきましたが、客家語を話します。
移住先では原住民から見て“よそ者”であるため客家(ハッカ)と呼ばれますが、そのルーツを辿ると周から春秋戦国時代の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多いといわれています。

1047:日本@名無史さん
18/01/18 23:52:53.19 .net
清の時代には台湾にもその支配が及びましたが、大陸政権は中華思想の政権であり、中央との距離が遠いほど文明度が低くなるという思想により、台湾は小さな僻地の島という認識に基づいて、十分な統治を行いませんでした。
そのため、近世以前の台湾は、清国の領土であるか否かがあいまいな混沌とした状態が長く続きました。
URLリンク(www.petitmonte.com)

1048:日本@名無史さん
18/01/18 23:56:06.54 .net
斉彬のこの思想をもって彼が侵略主義者であったということにはならないであろう。19世紀の帝国主義時代の国際環境のなかで日本を自立せしめるにはこれ以外にない、と斉彬は思っていた。
というより日本の地理的環境が彼をしてそう思わしめていたのである。

1049:日本@名無史さん
18/01/18 23:57:49.68 .net
まだ、第7章「渋谷金王町」の途中でありますが、キリがよいので続きは次スレでやります。

1050:日本@名無史さん
18/01/19 00:02:38.13 .net
次スレ
司馬遼太郎 Part12
スレリンク(history板)

1051:日本@名無史さん
18/01/19 00:04:32.23 .net
あっさり立てられたな。

1052:日本@名無史さん
18/01/19 00:05:25.20 .net
台湾の歴史については『街道をゆく』の「台湾紀行」で詳しくやります。

1053:coffee break
18/01/19 00:09:19.83 .net
ドラムレスのウィズ・ストリングス物など死ぬまで聴くことはないだろうと若い頃は思っていたが、歳をとるとこういう音楽が心臓に優しい。

1054:日本@名無史さん
18/01/19 00:11:49.11 .net
>>983
文禄・慶長の役も一度きっちりまとめたいのだけど、人名に旧字体があったりして、やりにくくはある。

1055:日本@名無史さん
18/01/19 00:12:47.36 .net
気のせいかもしれんが、旧字体で表示できる範囲が、最近拡大されたんじゃないか?

1056:日本@名無史さん
18/01/19 00:13:50.79 .net
???????????

1057:1001
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