司馬遼太郎 Part11at HISTORY
司馬遼太郎 Part11 - 暇つぶし2ch728:日本@名無史さん
18/01/09 18:52:11.56 .net
明治6年2月には、前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。
同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行している。

729:日本@名無史さん
18/01/09 19:59:45.94 .net
>>681
タイの話をするから、てっきりインラック・シナワトラの画像が出てくるんだと思ったら、ユル・ブリンナーかw

730:日本@名無史さん
18/01/09 20:04:44.84 .net
▽宗主国
儒教的封建国家の関係における上位の国。下位の国は藩属という。
中国で1882年に作られた韓国の歴史や地理などをまとめた書物「東藩紀要」に、わが国固有の領土で韓国が不法占拠する竹島の記載がないことが、島根県竹島問題研究会の調査で分かった。
同研究会は「当時の李氏朝鮮の宗主国だった清が、竹島を李氏朝鮮の領土と認識していなかったことが分かる」と話している。

731:日本@名無史さん
18/01/09 20:08:40.23 .net
▽駐清英国公使
副島が、朝鮮がなおも頑愚をつのらせる場合、日本としては兵力を用いることもありうると英国公使に告げたところ、英国公使は拒否的な色をみせなかった。

732:日本@名無史さん
18/01/09 20:15:03.77 .net
▽駐清米国公使
辛未洋擾〈しんみようじょう〉において〔>>673〕、米国が朝鮮に公使と軍艦を送ったことについて、副島が駐清米国公使に質問した。
「あのとき宗主国である清国は抗議しなかったか?」
「清国からはいっさい抗議が出なかった」

733:日本@名無史さん
18/01/09 20:16:12.47 .net
このときの米国公使が、フレドリック・ロー本人なのかどうかは、調べてみたがわからなかった。

734:日本@名無史さん
18/01/09 20:22:13.86 .net
朝鮮は清国の属国であるが、自主の国である。政教や禁令は朝鮮自身が行い、清国は干渉したことがない。

735:日本@名無史さん
18/01/09 20:22:27.29 .net
西郷の征韓論は、この副島の外交成果が基礎のひとつになっている。西郷も副島と同様、もし日本が朝鮮を侵略すれば清国および欧米が黙っていないだろうという健康な想像については、わざと想像の窓をみずから塞いでいる気配があった。

736:日本@名無史さん
18/01/09 20:25:14.64 .net
◆明治六年七月
明治六年七月の暑気はものすごかった。
「暑いために廟議をしばらく休みます」という三条のいかにも公卿らしい言いわけがもっともに聞こえるほどの暑気であった。

737:日本@名無史さん
18/01/09 20:32:36.31 .net
征韓論が廟議に上がったのは、明治6年6月12日である〔>>451〕。
それっきりであった。
※長山洋子の「あれっきり それっきり」は、アルバム『二十九才~旬~』に収録されています。
URLリンク(music.oricon.co.jp)

738:日本@名無史さん
18/01/09 20:36:39.21 .net
▽副島の帰国
明治6年3月13日、副島外務卿は特命全権大使を命じられて清国に渡った〔>>686〕。副島の渡清は、同治帝の親政祝賀と日清修好条規の批准書互換のためと称されたが、最大の目的は清政府と宮古島島民遭難事件について交渉することだった。
清政府は日本と琉球の間に宗属関係があることを認めず、逆に清朝と琉球問の宗属関係に基づいて問題は解決済みだとして、日本の主張を一蹴した。副島一行は清国側から、台湾蕃地が政教のおよばない「化外の地」という非公式の「言質」を得ただけで、7月に帰国した。

739:日本@名無史さん
18/01/09 20:44:26.11 .net
▽江戸期の武士
禅はこの世を仮宅であると見、生命含めすべての現象はまぼろしにすぎず、かといってニヒリズムは野弧禅であり、宇宙の真如に参加することによってのみ真の人間になれるとした。
朱子学が江戸期の武士に教えたことは、人生の大事は志であるということ以外になかった。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれたも悔いがないというものである。
禅から得た「仮宅思想」と儒教から得た「志の思想」が、両要素とも極めて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた。

740:日本@名無史さん
18/01/09 20:51:43.46 .net
▽明治6年8月3日
西郷は板垣を伴って、征韓論について膝詰め談判をするため、三条の屋敷を訪ねる予定であった。
しかし、ホフマン医師からもらっていた下剤を多量に服用したため、数十度の下痢を繰り返して起きあがれなくなった。
その代わりに、西郷は三条に廟議の評決を催促する嘆願書を送っている。

741:日本@名無史さん
18/01/09 20:56:01.18 .net
▽外遊組の帰国
5月26日:大久保利通帰国 ※ただし、司馬さんは5月20日としている。
7月23日:木戸孝允帰国 →静養中

742:日本@名無史さん
18/01/09 21:06:14.92 .net
▽大久保利通の旅行
8月16日~9月21日
9月13日:岩倉具視帰国

743:日本@名無史さん
18/01/09 21:29:07.17 .net
◆木戸孝允
厳密には長州人の集団というのは薩摩人集団と違い、頭目を戴くということを習慣としてもっていない。幕末、長州藩を牛耳った革命集団は書生のあつまりであった。
彼らの師匠は死せる吉田松陰で、死者だけに頭目としての統制力はもっていない。長州の革命秩序は、せいぜい兄貴株の存在を許す程度であった。この兄貴株が、すでに亡い高杉晋作と、明治後まで生きて元勲になった当時の桂小五郎、いまの木戸孝允である。

744:日本@名無史さん
18/01/09 21:32:28.17 .net
ここで述べられている西郷と木戸の性格の比較は、たいへん面白い。

745:日本@名無史さん
18/01/09 21:37:17.52 .net
▽木戸孝允
天保4年(1833年)- 明治10年
明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。
慶応4年(1868年)3月14日に布告された五箇条の御誓文において、木戸は福岡孝弟の当初案から、第一条の「列侯会議を興し」を「廣ク會議ヲ興シ(広く会議を起こし)」に改め、第四条「舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)」を新たに挿入させた。
URLリンク(ktymtskz)


746:.my.coocan.jp/denki3/sinsei/s153.jpg



747:日本@名無史さん
18/01/09 21:42:28.35 .net
▽7月27日
赤坂御所に参内して明治帝に帰国の旨を奏上した。
そのあと太政官に出て三条実美に外遊の報告書を提出する。
それから大久保の屋敷を訪うた。大久保は不在であった。

748:日本@名無史さん
18/01/09 21:59:08.94 .net
▽大久保満寿
大久保正助(利通)の妻。正助28歳、満寿19歳で結婚した。
そして二人は四男一女の子に恵まれた。また、正助と妾おゆうとの間にも四人の男子が産まれたので、九人を育てる母だった。
URLリンク(pds.exblog.jp)

749:日本@名無史さん
18/01/09 21:59:21.54 .net
※利通の妻 / ?-1878 … ミムラ
URLリンク(img.stardust.co.jp)
※妾おゆう……前列右から二人目
URLリンク(pds.exblog.jp)

750:日本@名無史さん
18/01/09 22:20:43.38 .net
木戸が大久保に気をつかって愛想よくふるまうことがあっても、大久保は冷然として木で鼻をくくったような態度を示したりした。
(権柄ずくな、いやなやつだ)

751:日本@名無史さん
18/01/09 22:23:51.41 .net
木戸はこの帰国後ほどなく土佐の山内容堂から深川の「平清」に招待された。
「木戸参議公、貴公は陰気じゃのう」

752:日本@名無史さん
18/01/09 22:29:10.24 .net
▽山内容堂
文政10年(1827年)- 明治5年(1872年)6月21日
木戸の帰国する1年前に容堂は死去しているので、深川の「平清」に木戸を招待したのは、おそらく容堂の幽霊。
URLリンク(pds.exblog.jp)

753:日本@名無史さん
18/01/09 22:37:25.79 .net
▽平清
深川土橋にあった平清(ひらせい)は、文化年間 (1808~1818) に営業を始め、明治32年 (1899) に廃業した店で、料理の評判も高かったようです。
屋号の平清は、主人の平野屋清兵衛の名によるものですが、平清を平清盛に見立てて、「平清の奢りのすえも うしほなり」という江戸川柳があります。これは平家の一門が壇の浦でほろんだことと、平清の会席料理の最後に、鯛の潮汁(うしおじる)が出されることをかけた句です。

754:日本@名無史さん
18/01/09 22:40:04.31 .net
※平清のあった場所
現在の富岡八幡宮の東側の点線で描かれた所に川があって、現在埋め立てられて公園になっていますが、その上部に八幡橋が横断して人の流れをさばいています。八幡側から渡って富岡二丁目が土橋といわれた所で、三十三間堂が有りました。八幡橋の東側に料理茶屋平清がありました。
URLリンク(ginjo.fc2web.com)

755:日本@名無史さん
18/01/09 22:41:49.22 .net
「殿はなぜ武市半平太をお殺しになりました」

756:日本@名無史さん
18/01/09 22:47:02.72 .net
▽立憲主義
木戸は明治6年7月23日に帰朝し、太政官に対して『憲法制定の建言書』を上奏している。これを読むと、一国運営の鍵は憲法がどういうものかによると書いてある。そして、政治は君主独裁から始まるとするが、漸次民主へ移行すべきとの考えが出ている。
また、憲法に関してその頃発表した記事には、「君主は其の制をみだりにせず」とも述べており、立憲君主制の考え方が読み取れる。

757:日本@名無史さん
18/01/09 23:03:33.97 .net
▽パリの下水道
ロニーが川路に勧めたのは、パリの下水溝の見学であったが〔>>109〕、木戸は下水道の本管を見学している。
1370年にパリ市長のHugues Aubriot (1320-1382) が、モンマルトルに最初の下水処理の工事を始めました。
その後ルイ14世がパリに大規模な下水道を建設、その後にナポレオン1世が30kmに及ぶ下水道網を完成させます。
しかし一番の立役者は、なんといってもパリの街全体を大改革したオスマン男爵。現在の下水道網まで飛躍的に発達させ、水を貯蓄し豊富に利用できるシステムを確立しました。
URLリンク(images.china.cn)
URLリンク(www.noisette-paris.net)

758:日本@名無史さん
18/01/09 23:07:17.45 .net
中世までパリはセーヌ河から水を汲んで生活していました。使用した水は畑や路地に捨て、それがまたセーヌ河に戻り……、というサイクルであったため、当時のセーヌ河の水はたいへん汚く不衛生で、病気も蔓延していました。
※いまでもパリは汚い。
URLリンク(yuuma7.com)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

759:日本@名無史さん
18/01/09 23:07:38.95 .net
さすが、花の都。

760:日本@名無史さん
18/01/09 23:12:52.74 .net
大久保と木戸は、パリで酒場に立ち寄った。
※マネ「フォリー・ベルジェールの酒場」
並べられた酒瓶が、彼女も同様に商品だったことを暗示しているとの解説もあります。実際、このバーは売春婦がたむろしていた場所でもあり、ここで働く女性が身体を売ることもあったそうです。
この絵はマネがサロンに出した最後の作品です。近代化するパリの現実を切り取ったマネの集大成という感じます。
URLリンク(blog-imgs-53.fc2.com)

761:日本@名無史さん
18/01/09 23:20:59.70 .net
▽ベルリン禽獣園〈Zoologischer Garten Berlin〉
ドイツの首都ベルリンにある世界最大級の動物園である。開園は1844年8月1日。ドイツ初の動物園であった。
「時山直八にみせてやりたかったな」と、同行の品川弥二郎にいった。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(i.pinimg.com)

762:日本@名無史さん
18/01/09 23:24:48.37 .net
▽時山直八
天保9年(1838年)- 慶応4年(1868年)5月13日
萩城外の奥玉江にて士雇・時山茂作の子として生まれた。嘉永3年(1850年)頃、吉田松陰の松下村塾にて学んだ。
慶応4年(1868年)、北越戦争における越後長岡藩との朝日山攻防戦において、陣頭に立って指揮し立見尚文率いる桑名藩兵と戦ったが、顔面を狙撃されて即死した。享年31。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

763:日本@名無史さん
18/01/09 23:30:39.55 .net
▽ウズラ(鶉)
時山直八は鳥が好きで、ウズラなどを飼っていた。
※スーパーで売っているウズラの卵を孵化させました。
URLリンク(stat.ameba.jp)
URLリンク(static.pepy.jp)


764:56/shutterstock_181831898-e1484044750787.jpg



765:日本@名無史さん
18/01/09 23:35:55.10 .net
▽カイゼルに拝謁
ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世は、即位してまだ2年の頃である〔>>603〕。

766:日本@名無史さん
18/01/09 23:39:11.02 .net
▽ビスマルク
大久保のところで既に述べた〔>>185-187〕。

767:日本@名無史さん
18/01/09 23:48:40.94 .net
狂言回しが、川路から大隈に代わり、現在は木戸になっている。
これで第5章「征韓論」は終り、木戸が狂言回しのままで、第6章に突入する。

768:翔ぶが如く
18/01/09 23:57:48.68 .net
第6章 小さな国
―大国はつねに武力解決しようとする。
―小国はあわれなものだ。
―国際公法は小国を守ってはくれない。
と、ビスマルクは岩倉、大久保、木戸らに説く。
木戸孝允はこのとき幕末におけるかれの盟友のひとりだった土佐の坂本竜馬を思い出したであろう。木戸は当時坂本にさんざん聴かされたことだが、坂本は万国公法(国際公法)の信者であった。

769:日本@名無史さん
18/01/10 00:24:08.25 .net
★ベルリン
▽坂本龍馬
天保6年〈1836年〉- 慶応3年11月15日〈1867年〉
日本はその国家を防衛するための武力がひどく弱い、と坂本は冷静に考えようとした。そのために彼は国家の方途を見出すのに苦しんだが、国際公法を発見するにおよんで、「文明とはこれだ」と大いに喜び、国際公法が小国を守ってくれるのだと信じた。
彼は海援隊でこの国際公法を翻訳出版しようとさえしたが、京都で幕府の見廻組に斃され、国際公法の信者であるままに永眠した。

770:日本@名無史さん
18/01/10 00:32:22.82 .net
ビスマルクはエムス電報事件でマスコミ操作もやった奸譎な政治家であるが、自国の自主独立を守るために強国に立ち向かったという人格の気品がある。
気品もなく自分の権利だけを主張しはじめると、みにくいモンスター・ペアレンツになる。

771:日本@名無史さん
18/01/10 00:40:11.79 .net
大久保も伊藤も日本をもっとひ弱にみていて、列強に伍するというような大それた期待よりも、せいぜい支那のように列強から蚕食される状態にならない国家を設計できれば十分であった。
大久保も伊藤も太平洋戦争を起こすような強国としての日本を想定したことがなく、伊藤にいたっては日露戦争でさえその開戦に反対し、日本の滅亡という悪い卦をのみ想像しつづけた。

772:日本@名無史さん
18/01/10 00:46:12.37 .net
▽モルトケ〈Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke〉
1800年 - 1891年
プロイセン及びドイツ帝国の軍人・軍事学者。 1858年から1888年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した〔>>600〕。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。最終階級は元帥。
甥にあたる第一次世界大戦時の参謀総長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)と区別して、大モルトケと呼ばれる 。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

773:日本@名無史さん
18/01/10 00:52:23.18 .net
▽東洋のビスマルク
大久保は、ドイツ国内におけるビスマルクへの信任と同等の信任�


774:氓ソ取って、日本国改造のすべての権柄を握りたいと勃然と志した。現にその権柄を握るための方向が、帰国後の大久保の動きでもあった。



775:日本@名無史さん
18/01/10 00:54:18.09 .net
これに対して木戸孝允はビスマルクにさほどの感動はもたなかった。かれ自身、ビスマルク流の奇術的な外交政略がやれる柄ではなかったからであろう。

776:日本@名無史さん
18/01/10 18:26:45.75 .net
木戸が大久保にくらべて政治家としての実力を欠くのは、彼はつねに物事を悲観的に見がちであるという点であった。
木戸は、新興プロシア国がいかにすばらしいかといったような陽気な話はいっさい容堂の幽霊にはしなかった。
「ポーランドは悲惨でした」

777:日本@名無史さん
18/01/10 18:32:35.28 .net
▽単独帰国
三条実美からの帰国要請の手紙を受けて〔>>460〕、大久保はベルリンから直接帰国の途についた。
木戸は「自分だけはロシアをまわる」と異を立てた。その理由は、
・大久保の顔をみるのも不愉快で、口もきいていない。
・岩倉に対しても愉快でなかった。
・伊藤博文に対してもその軽薄さがたまらなく嫌になっていた。

778:日本@名無史さん
18/01/10 18:36:16.19 .net
木戸は毛布にくるまってひどく孤独な表情をしていた。
          |     |/(-_-)\|
          |     |   ∩∩   |
          |      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        (-_-) …
        (∩∩)────────
      /
    /
  /

779:日本@名無史さん
18/01/10 18:47:56.77 .net
▽蕭条
ひっそりともの寂しいさま。
※ポーランドの蕭条たる風景
URLリンク(my-edition.net)
URLリンク(1.bp.blogspot.com)
URLリンク(www.aiwff.com)
URLリンク(i.ytimg.com)

780:日本@名無史さん
18/01/10 19:05:40.29 .net
★ポーランド
▽ポーランド
スラヴ民族が、現代のポーランド領域に居住して1500年になる。部族を組織し、大きなグループは後にポーランド族として知られた。
15世紀半から19世紀初頭まで、「ポーランド人」は民族的出自や宗教的信条は基盤とせずに、貴族のシュラフタ階級のみを指していた。
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
URLリンク(4.bp.blogspot.com)

781:日本@名無史さん
18/01/10 19:08:52.95 .net
世界各国の国旗を画用紙に描いてくるという小学校の宿題があった。
もっとも嫌われたのはサウジアラビア国旗で、一番人気がポーランド国旗だった。
日の丸よりも簡単だった。
URLリンク(www.sarago.co.jp)

782:日本@名無史さん
18/01/10 19:12:56.11 .net
▽ポーランド分割
18世紀末、東欧の朝鮮と呼ばれるポーランドが、隣接するロシア・プロイセン・オーストリアの三強国によって分割され国家を消滅させたこと。

783:日本@名無史さん
18/01/10 19:14:47.08 .net
自分の国を消滅させるなんて、誰にでも体験できることじゃないよね。
貴重な体験をしたんだね。

784:日本@名無史さん
18/01/10 19:20:09.77 .net
ポーランドでは、ヤゲウォ朝が断絶した1572年から選挙王制となっていた。
1700年に始まった北方戦争は、ロシアとスウェーデンが主たる敵対国であったが、ポーランドもロシアと結んで戦った。開戦当初にロシアが敗北すると、カール12世のスウェーデン軍がポーランドに侵入した。親ロシアのポーランド国王は追放され、親スウェーデンの国王スタニスワフ1世が即位した。

785:日本@名無史さん
18/01/10 19:29:21.73 .net
親スウェーデンの傀儡王権がロシアによって倒されると、ポーランドはロシア帝国の影響力の下に置かれるようになった。
さらにポーランド継承戦争が起こるに至って、ポーランドは近隣列強の干渉を受けるようになった。

786:日本@名無史さん
18/01/10 19:29:41.26 .net
*第一次分割
1772年、まずロシアのエカチェリーナ2世とプロイセンのフリードリヒ2世との間で条約が締結され、オーストリアのヨーゼフ2世がそれに加わった。
プロイセンは1466年にドイツ騎士団がポーランドに譲った土地である「王領プロイセン」を領有し(グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

787:日本@名無史さん
18/01/10 19:33:24.13 .net
*第二次分割
ポーランド・ロシア戦争の停戦直後、プロイセンはロシアと共に第2回ポーランド分割を行った(1793年)。オーストリアはマリー・アントワネットが帝室出身であった関係からフランス革命に巻き込まれてしまい、第2回分割には参加できなかった。

788:日本@名無史さん
18/01/10 19:39:06.35 .net
*第三次分割
ポーランドは、第二次分割によって事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年、コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援がなく、コシューシコ自身も負傷して捕らえられ、反乱は鎮圧された。
反乱を鎮圧したエカチェリーナ2世は、ポーランド国王に退位を強く迫り、1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアによるポーランドの最終的分割を行った。これによってポーランド国家は完全に滅亡し、政治地図から姿を消すこととなった。
URLリンク(www.vivonet.co.jp)
ポーランドが独立を回復するのは、第一次世界大戦後の1918年のことである(第三次分割から123年後)。

789:日本@名無史さん
18/01/10 20:01:17.76 .net
ポーランド分割は、物語の時点である明治6年(1873)を遡ること78年前のことなので、昔話といえば昔話だな。

790:日本@名無史さん
18/01/10 20:15:45.54 .net
▽セイム(Sejm)
ポーランド語で集会あるいは議会。
※1791年のthe "Great Sejm"を描いた絵
URLリンク(upload.wikimedia.org)

791:日本@名無史さん
18/01/10 20:19:10.03 .net
▽一見将軍風の老ポーランド人の乞食
画像が、あるわけがない。検索中に中国の老乞食の画像が出てきた。
中共の統治が、いったい中華民族になにをもたらしたのだろうか。助けを求める人々の声が、もう永遠に聞こえないだろうか。
URLリンク(www.epochtimes.jp)

792:日本@名無史さん
18/01/10 20:24:29.24 .net
(日本も西郷によってポーランドになりはてるか)
木戸はこの痛点を通してしか西郷の反乱を見ず、かといって大久保が主宰する明治政府の独裁ぶりや大官の横暴などに不満で、つねに参議の顕職をすてて野に下ろうとする衝動をおさえかねていた。

793:日本@名無史さん
18/01/10 20:28:02.87 .net
「ポーランドが滅んだ原因は、国家に政規(憲法)がなく、人民に権利がなかったからです」
と、木戸は容堂の幽霊に言った。

794:日本@名無史さん
18/01/10 20:33:47.97 .net
▽要路の一局
大久保が外遊後に設立しようとしていた内務省のこと。「要路の一局」は木戸の外遊後の報告書に書かれた表現。
木戸の大久保嫌いは、報告書にまで表れていた。
「賢明独りその身の利達を要し、民意を問わずして東管功名を望し、要路の一局に拠りて威艦を備持し、万緒国務の多き毎事これを文明の各国に擬似せんと欲し……(略)……」

795:日本@名無史さん
18/01/10 20:40:41.62 .net
木戸は多分に意見だけの人であった。
木戸が耳学問によって形成した時務論は、奇矯偏頗なところがなかった。
「桂にカタビキ無し」と仲間から言われた。

796:日本@名無史さん
18/01/10 20:43:03.48 .net
▽時務論
幕末期の政治論のことであろう。言葉の由来は、「時務策」からだと思う。
「時務策」とは、律令制の進士になるための試験で、政治の要務に関する方策を答えさせたものである。

797:日本@名無史さん
18/01/10 20:54:30.26 .net
▽木戸松子
天保14年(1843年)- 明治19年
京都三本木の芸妓幾松として知られる。明治元年(1868年)8月、木戸孝允の正妻となる。
明治2年6月からは東京で暮らしている。
木戸の没後は、松子は薙髪し「翠香院」と号し、京都木屋町へ転居した。二人の想い出深い京都にて木戸の墓を護った。
URLリンク(bakumatsu.org)

798:日本@名無史さん
18/01/11 20:39:37.62 .net
▽役者買い
役者を独占的に個人契約すること。 江戸時代、人気の歌舞伎役者を贔屓筋の客が、座を設けて呼び寄せる習慣があった。
特に売春目的であるわけではないが、まあそういうこともあったのかもしれない。
明治5年、歌舞伎役者の役者買いを重ね主人を毒殺した「毒婦夜嵐おきぬ」事件が起きている。

799:日本@名無史さん
18/01/11 20:47:27.72 .net
▽木戸の西郷観
「西郷は奸物で、許すべからざる人物である」「西郷ほど肚の黒い男はいない」「薩摩の人間とは、とても約束はできない」
文久3年の禁門の政変と元治元年の蛤御門の変を、いまだに根に持っている。執念深い木戸さんである。
ただし、西郷は禁門の政変の時期は沖永良部島に遠島されており〔>>331〕、事件とは無関係である。

800:日本@名無史さん
18/01/11 20:49:24.00 .net
蛤御門の変において、来島又兵衛が川路利良に狙撃された話は、ここに書いてあった〔>>59〕。

801:日本@名無史さん
18/01/11 20:53:51.37 .net
坂本竜馬が道理を説いてついに木戸を説得したのは、坂本の雄弁によるというよりも、長州が幕府から攻められてほとんど衰滅の危機にあったからである。これは筆者が述べているのではなく、司馬さんが「翔ぶが如く」に書かれている。

802:日本@名無史さん
18/01/11 21:00:42.52 .net
>>753
そうなんですか。木戸松子は、てっきり不倫をしているのかと思ってしまいました。
※五月みどり「奥様はお固いのがお好き」
URLリンク(www.cdjournal.com)
URLリンク(images-na.ssl-images-)<)

803:日本@名無史さん
18/01/11 21:27:46.23 .net
★渋谷金王町
▽金王八幡〔>>452
社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。
江戸時代には徳川将軍家の信仰を得た。特に三代将軍徳川家光の乳母春日局は神門・社殿を造営したとされる。
当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、渋谷重家の嫡男常光が金剛夜叉明王の化身で金王丸と称したことによるとされる。
URLリンク(blog-imgs-68.fc2.com)
URLリンク(urashibuya.com)
URLリンク(www.geocities.jp)

804:日本@名無史さん
18/01/11 21:37:32.74 .net
▽明治時代の渋谷
渋谷の通りを野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲がっていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。
地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に沿って歩いた。
「此処らに国木田っていう家はありませんかね」こう二三度私達は訊いた。
― 田山花袋『東京の三十年』の中の「丘の上の家」の一節 ―
明治30年頃、渋谷の丘に住む国木田独歩を花袋たちが訪ねて行く場面。
URLリンク(blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp)
URLリンク(www.kasetatsuya.com)

805:日本@名無史さん
18/01/11 21:47:23.84 .net
渋谷は古くから水車業(水車を使って精?・製粉・鉛筆用黒鉛の粉砕等をする業種)が盛んな地域で、明治時代の最盛期には50もの水車が稼動していたというが、大正時代までに姿を消した。文部省唱歌の「春の小川」は渋谷の小川を歌った楽曲。
URLリンク(imaginenetgallery.com)
※現在の渋谷川。無惨な春の小川の現在の姿。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
URLリンク(www.youtube.com)

806:日本@名無史さん
18/01/11 21:52:39.91 .net
>>760
精?=精穀

807:日本@名無史さん
18/01/11 22:05:12.71 .net
▽駒場野
駒場野は、京王井の頭線渋谷駅の二つ隣りが駒場東大駅なので、まあ近い。
江戸時代には、将軍家の鷹狩場が設けられたことがあり、狩りの際に利用する馬を止める場所(駒場)があったことが名前の由来とされている。
URLリンク(chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp)
URLリンク(78.media.tumblr.com)

808:日本@名無史さん
18/01/11 22:16:34.19 .net
維新後、ほとんどの長州人が禁門の政変と蛤御門の変の怨恨を忘れたのに木戸だけは持続し、この帰朝後、西郷の寓居(西郷従道の屋敷)を訪ねるにあたっても、そのことを思い続けていた。

809:日本@名無史さん
18/01/11 22:22:13.47 .net
▽駘蕩たる気分
遮るものなどがなく伸々としている様。
春の情景などが平穏でのんびりとしている様。「春風駘蕩」
URLリンク(www.town.kusu.oita.jp)

810:日本@名無史さん
18/01/11 22:26:32.03 .net
▽澎湃として
水がみなぎって逆巻くさま。転じて、盛んな勢いで盛り上がるさま。「―たる世論」
URLリンク(japaneseliterature.files.wordpress.com)

811:日本@名無史さん
18/01/11 22:30:23.06 .net
「一蔵は戦(ゆっさ)をこわがる」
この言葉が閣内に伝わり、西郷は好戦家であるという悪評が、この時期すでにあった。

812:Coffee break
18/01/11 23:13:09.10 .net
クリストファー・クロスは、5歳~9歳の幼少期に、軍医だった父親の仕事の関係で東京代々木に住んでいたことがある。

813:日本@名無史さん
18/01/11 23:19:33.28 .net
「まず韓国に一大刺激を与えなければならない」
西郷が遣韓大使として韓都にゆくことにより、韓国の在野世論が大いに沸騰し、西郷の意見に反撃するにせよ賛成するにせよ、国論が形成される。日本でも尊王攘夷の国論を無視できずついに幕府が倒れたように、国論の形成によって結局政権が変質し、国民というものが初めて成立する、と西郷は考えている。

814:日本@名無史さん
18/01/11 23:23:16.42 .net
革命を輸出すれば、列強が武力介入しないわけがない。

815:日本@名無史さん
18/01/11 23:50:56.42 .net
▽薩摩汁
鶏肉や豚肉などを使う肉入りの味噌汁。
江戸時代の日本では基本的に肉食の習慣がなかったが、例外的に鹿児島地方だけは肉食をしており、豚、鳥、兎などを味噌で煮た汁料理があった。闘鶏に負けた軍鶏をぶつ切りして野菜と煮たのが始まりともいう。
URLリンク(cdn.amanaimages.com)

816:日本@名無史さん
18/01/11 23:53:42.45 .net
明治時代になると政府は肉食を奨励し、肉の味噌汁は「薩摩汁」の名称で軍隊の公式メニューとなり、全国の兵士が食するようになって、明治の末には一般家庭にも普及した。
肉と具の野菜を油で炒め、出汁と味噌を加える。具は大根や牛蒡、里芋、および葱やコンニャクが入れられることが多い。サツマイモは、必須の具材ではないが、おバカはサツマイモが入っているから「薩摩汁」なのだと勘違いしている。
※おバカが喜ぶサツマイモ入りの薩摩汁
URLリンク(cdn.amanaimages.com)

817:日本@名無史さん
18/01/12 00:01:24.52 .net
▽癸丑以来〈きちゅう〉
ペリーが浦賀に来た嘉永六年(1853年)が、癸丑(みずのとうし)の年である。
晩年の木戸考允は「癸丑以来」が口ぐせだった。ペリー来航から攘夷論が起こり尊王の志士が簇出〈そうしゅつ〉するのだが、「癸丑以来」の連中が一番古いことになる。
(自分と西郷がもっとも古い)

818:日本@名無史さん
18/01/12 00:03:17.32 .net
物語のこの時期(明治6年)、木戸孝允は満40歳、西郷隆盛は満46歳である。

819:日本@名無史さん
18/01/12 00:10:11.75 .net
▽品川弥二郎
天保14年(1843年)- 明治33年
長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。元治元年(1864年)の蛤御門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
本章では、木戸の執拗さと西郷の器量の大きさの証人として登場している。
URLリンク(blog-imgs-34.fc2.com)

820:日本@名無史さん
18/01/12 00:16:12.07 .net
なお、品川弥二郎は岩倉遣欧使節の随員ではない。岩倉遣欧使節よりも1年早い明治3年に普仏戦争を視察するため、大山巌らとともに一足先に渡欧している〔>>594〕。
ベルリン禽獣園で木戸孝允と同行しているのは、パリから合流したのかもしれない〔>>718〕。

821:日本@名無史さん
18/01/12 00:17:57.23 .net
なお、品川弥二郎の死因は、インフルエンザに肺炎を併発したためである。享年58。

822:日本@名無史さん
18/01/12 00:30:10.09 .net
>>757
俺は小松みどりから五月みどりに乗りかえる。やっぱり姉ちゃんの方が綺麗だ。
URLリンク(joyuslife.info)


823:/wp-content/uploads/2017/09/%E4%BA%94%E6%9C%88%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8Agreenii.jpg http://iv1.lisimg.com/image/13986012/500full-midori-satsuki.jpg https://cdn.images-dot.com/S2000/upload/2017033100051_1.jpg http://britpopnews.com/wp-content/uploads/2013/03/blur-leisure1.jpg



824:日本@名無史さん
18/01/12 00:33:02.57 .net
最後の画像は、五月みどりじゃなくて、ブラーの『Leisure』だしwww

825:日本@名無史さん
18/01/12 22:07:26.18 .net
★駒場野
▽行人坂〈ぎょうにん〉
目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂。急な勾配や、江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場で知られる目黒雅叙園があることで知られる。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝であり、富士見の名所として知られた坂である。
URLリンク(www.city.meguro.tokyo.jp)
URLリンク(navi.ag-aoyama.com)

826:日本@名無史さん
18/01/12 22:14:25.09 .net
▽椋鳥〈ムクドリ〉
全長24cm ほどで、およそスズメとハトの中間ぐらいの大きさ。翼と胸と頸は茶褐色で、頸から頭部にかけてと腰に白い部分が混じり、足および嘴は黄色い。鳴き声は「ギャーギャー」「ギュルギュル」「ミチミチ」など。
URLリンク(www.city.mitaka.tokyo.jp)
URLリンク(static.flickr.com)
URLリンク(irorio.jp)

827:日本@名無史さん
18/01/12 22:21:12.81 .net
▽黒田清隆
天保11年(1840年) - 明治33年(1900年)
鹿児島城下(現鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。
文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。
文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。
URLリンク(78.media.tumblr.com)

828:日本@名無史さん
18/01/12 22:26:18.46 .net
慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。
慶応4年(1868年)3月、北陸道鎮撫総督の参謀に、山縣有朋とともに任命された。北越戦争および秋田庄内戦争を勝利に導く。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)

829:日本@名無史さん
18/01/12 22:31:55.48 .net



830:館戦争が始まると、黒田は明治2年2月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、3月に東京を出港した。途中、宮古湾停泊中に宮古湾海戦に際会した。5月11日の箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。榎本武揚に降伏を勧め、17日に降した。 戦後は榎本の助命を強く要求して厳罰を求める者と長い間対立し、榎本のために丸坊主に剃髪したこともある。榎本問題は明治5年1月6日にようやく決着した。榎本らは謹慎、その他は釈放。 http://twtukuru.com/wp-content/uploads/2015/04/E88BA5E3818DE9BB92E794B0E6B885E99A86.jpg



831:日本@名無史さん
18/01/12 22:35:38.53 .net
明治3年(1870年)5月に、樺太専任の開拓次官となった。
明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、お雇い外国人招請の道を開いた。帰国後、10月15日に開拓使長官・東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

832:日本@名無史さん
18/01/13 10:47:18.94 .net
▽駒場農学校
明治6年に設立された内務省は、農業・牧畜について西洋式技術の導入をはかり、駒場農学校と三田育種場を開設した。
駒場農学校は明治7年に内務省勧業寮内藤新宿出張所(現在の新宿御苑)に農事修学場として設置される。農事修学場は明治11年に駒場の地に移って駒場農学校となる。東京大学農学部の前身。
URLリンク(www.a.u-tokyo.ac.jp)
URLリンク(upload.wikimedia.org)

833:日本@名無史さん
18/01/13 10:51:19.36 .net
厳密にいうと駒場農学校は駒場野には未だ移転していない。しかし司馬さんがイメージしているのは駒場農学校であろう。
ひょっとすると駒場農学校の敷地に宛てられるべき新政府の農場はあったのかもしれないね、というようなイマジネイションが刺激されるので、こういうフィクションは許されてよい。

834:日本@名無史さん
18/01/13 10:54:27.73 .net
この場面の黒田了介は好きです。
新時代を拓いてゆく男は、征韓論だの民権論だのと声高に叫んでいる人間ではない。
牛の乳を搾ったり、南瓜を作ったりしている男なんだろうと思う。

835:日本@名無史さん
18/01/13 10:58:56.33 .net
>>786
フィクションじゃないよ。木戸孝允の日記に駒場野で黒田に出遭ったと書いてある。

836:日本@名無史さん
18/01/13 11:00:37.56 .net
まあ嫁殺しの酒乱漢だけどな。

837:日本@名無史さん
18/01/13 11:11:06.45 .net
▽榎本武揚
1836年(天保7年)- 1908年(明治41年)
伊能忠敬の弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。通称は釜次郎。
箱館戦争後、政府内では榎本らの処置に関して対立があり、木戸孝允ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆らが助命を嘆願した。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

838:日本@名無史さん
18/01/13 11:15:09.40 .net
明治5年1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する〔>>783〕。3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。
ロシア帝国との樺太の国境画定交渉と、マリア・ルス号事件に対処するため、駐露特命全権公使に決まった澤宣嘉が明治6年10月に病死した。榎本が代役として明治7年1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。
URLリンク(dic.academic.ru)

839:日本@名無史さん
18/01/13 11:18:27.50 .net
▽大鳥圭介
天保4年(1833年)- 明治44年(1911年)
播磨国赤穂


840:郡赤松村(兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師・小林直輔の子として生まれる。幼名、慶太郎。 安政4年(1857年)、縄武館(江川塾)に兵学教授として招かれるかたわら、中浜万次郎に英語を学んだ。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Ohtori_keisuke.png/220px-Ohtori_keisuke.png



841:日本@名無史さん
18/01/13 11:21:00.80 .net
明治5年(1872年)1月8日に特赦により出獄後、新政府に出仕して、左院少議官、開拓使五等出仕を経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉の為に歴訪した。
その後は外交官に転じて、明治26年(1893年)7月には朝鮮公使を兼任し、翌年6月には朝鮮へ赴任。大院君に対して朝鮮の近代化を建言し、朝鮮の独立運動派から発砲を受けるなど日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たった。
URLリンク(kotobank.jp)

842:日本@名無史さん
18/01/13 11:25:43.96 .net
>>786
明治11年に駒場農学校となるが、開拓使の農事試験場のような施設は、それ以前から駒場にあった。

843:日本@名無史さん
18/01/13 11:34:48.82 .net
黒田は黒田なりに、「日本はなんと小さな国か」ということを、その外遊によって知った。黒田にすれば、もし、である、日本が征韓論外交を推進して国際的波紋を投じた場合、ロシアと支那と英仏が当然これに干渉する。
日本の陸兵は韓国にいる、列強の艦隊はただちに上海を抜錨し、東京湾に入り、威力外交を行う。日本政府は列強の砲艦外交で首の根を押さえられ、西郷の大理想どころか、自主外交の権能をすら失ってしまう。
「日本は亡びます」

844:日本@名無史さん
18/01/13 11:47:46.24 .net
▼樺太
氷河期には大陸と陸続きだった。古代以前は樺太南部に進出した続縄文人や、オホーツク文化人(粛慎)などが存在し、鎌倉時代以降は南部にアイヌ民族や和人が進出、東岸中部にウィルタ民族(オロッコ)、北部にニヴフ民族(スメレンクル)などの北方少数民族もいた。
18世紀末からロシア人と日本人が移住するようになったが、当初は両者が共存していた。
樺太は1855年の日露和親条約で日露双方の雑居地とされたが、その後も紛争が絶えず幕府にとっても頭痛の種となっていた。明治新政府はその問題を引き継ぎ交渉を開始、初めは副島種臣があたったが、征韓論で敗れて下野してからは北海道開拓使次官黒田清隆がリードした。

845:日本@名無史さん
18/01/13 11:51:39.29 .net
黒田はロシアとの紛争を避け北海道の開拓に全力を挙げるべきであると主張し、樺太の放棄をロシアに提案し、千島列島を得ることで合意が成立した。明治7年、明治政府代表榎本武揚〔>>791〕とロシアの間で、ロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを定める樺太・千島交換条約が締結された。
樺太及び千島に住んでいる両国人は国籍を維持したまま残留することが認められ、その場合は営業・所有の権利、信教の自由が保障された。
URLリンク(jahistory.com)

846:日本@名無史さん
18/01/13 11:57:41.87 .net
日露戦争で日本軍が樺太全島を占領したが、戦後のポーツマス条約では南半分だけを割譲された。
URLリンク(blog-imgs-82.fc2.com)
第一次世界大戦のさなかにロシア革命が起きると、日本軍はアメリカなどと共同でシベリア出兵を行った。1920年にニコライエフスク事件で日本人居留民が殺害されたことを理由に、日本軍はその対岸の北樺太を占領した。

847:日本@名無史さん
18/01/13 12:03:26.47 .net
長期にわたるシベリア出兵は国際的にも国内的にも批判が強かった。それでも1925年までは駐留を続けたが、ようやく日本がソ連を承認し日ソ基本条約が締結されたことにより北樺太から撤退した。
第二次世界大戦では、ソ連はヤルタ協定において、対日参戦の代償として南樺太の収容をイギリス・アメリカに認めさせ、参戦と共に侵攻して全島を占領、1946年に併合した。日本はサンフランシスコ平和条約で、海外領土の一部として南樺太の放棄を認めた。
URLリンク(www.jichiro.gr.jp)

848:日本@名無史さん
18/01/13 12:08:49.32 .net
戦後日本の領土は、ポツダム宣言(およびその前提となるカイロ宣言)と、このサンフランシスコ講和条約で確定されたはずであった。
しかし、サンフランシスコ講和条約にソ連が加わっていなかったことと、千島の定義が不明確であったところから国後、択促、歯舞、色丹の北方領土問題が残った。四島は、現在もロシアの不法占領状態が続いている。日本は固有の領土と主張しているが、ほとんど交渉は進展していない。
URLリンク(image.space.rakuten.co.jp)
URLリンク(www8.cao.go.jp)

849:日本@名無史さん
18/01/13 12:16:42.18 .net
▽明治初年の樺太問題
明治2年、ロシア兵200人は遠渕に上陸し、勝手に「ムラビヨフスク」と名付けて占領してしまいます。さらに兵50名が、日本側の一大拠点である大泊に上陸し、驚くべき無法ぶりでアイヌ墓地を破壊しながら兵営を築いてしまいました。
この緊急事態を報せるべく岡本監輔は東京に向かい政府に通報しましたが、明治政府の三条実美の回答は「樺太は日露雑居地であり、ロシアが暴慢な行動をとったとしても、勝手な行動をせず礼節を重んじること」と言いました。

850:日本@名無史さん
18/01/13 12:33:43.82 .net
明治4年外務卿になった副島種臣は樺太領有の解決をアメリカに依頼し、「樺太の国境を北緯五十度線として問題を解決したい」と申し出ました。
これを知ったイギリス公使パークスは、日本政府を相手に「樺太は古船一艘の価値もない。速やかにロシアに譲れ!」と言いました。これに対して西郷隆盛は「日本古来の版図を割譲することはできない」と言い返しました。

851:日本@名無史さん
18/01/13 12:34:06.25 .net
パークスは手にしたワイングラスを握りつぶして粉々にすると、「ロシアと樺太を争うならば、日本はこのグラスの様になるぞ!」と言い放ちました。
しかしこのときパークスは指の筋を切ってギターが弾けなくなり、この後に予定されていた『眩惑のブロードウェイ』ツアーをすべてキャンセルすることになる。
URLリンク(midlandsmetalheads.com)

852:日本@名無史さん
18/01/13 12:42:10.61 .net
ロシアは、樺太を流刑地にしていました。つまり南樺太に暮らす日本人は、ロシア人の犯罪者とロシア軍人に囲まれていたのです。そのため、樺太の日本人は、悲惨な事件に遭遇し続けました。
ロシア人は日本人の漁場を荒らし、強盗殺人を働き、そして日本人女性を強姦するなどの事件が多発しました。明治6年2月には、ロシア人多数が大泊(コルサコフ)の日本人の漁場と建物を焼き�


853:・うという事件も起きます。 本章の黒田了介が木戸に話した事件は、これである。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Sakaecho_in_Ootomari.JPG/250px-Sakaecho_in_Ootomari.JPG



854:日本@名無史さん
18/01/13 12:52:21.86 .net
>>803
史実と違う。パークスの頭に注目しろよ。
パークスはドラムス担当だ。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

855:日本@名無史さん
18/01/13 13:08:51.95 .net
★銀座
▽銀座
江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれた海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる。銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる。
町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎を中心に行われた。

856:日本@名無史さん
18/01/13 13:10:23.78 .net
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所が移転し、銀貨の鋳造が行われた。
江戸時代の銀座は御用達町人地として発展したものの、「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと自著『銀座』内で語っている。

857:日本@名無史さん
18/01/13 13:16:35.80 .net
銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の火災だった。明治5年の銀座大火は銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と銀座煉瓦街の建設が行われた。
この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜?東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を、文明開化の象徴的な街にしたいとの思惑があったとされる。ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹やガス燈、アーケードなどが造られた。
煉瓦街はまず明治6年に銀座通り沿いに完成し、明治10年に全街区の建設が完了した。

858:日本@名無史さん
18/01/13 13:20:46.56 .net
URLリンク(www.library.city.nishitokyo.lg.jp)
URLリンク(gallery.wox.cc)
※明治35年頃の銀座通り:煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている。
URLリンク(www.ginza.jp)
※銀座の少年
URLリンク(c1.staticflickr.com)

859:日本@名無史さん
18/01/13 13:24:50.42 .net
>>809
1枚目の画像は、明治の銀座といっても、物語の時期よりはかなり後だな。
2枚目の画像が、明治6年に銀座を歩いた木戸さんの見た風景に近いかもしれない。

860:日本@名無史さん
18/01/13 13:32:01.73 .net
▽毛はさみ
文明開化のころには、散髪のことを「毛はさみ」と呼んだ。死語です。
木戸さんの毛はさみは、フランス式でした。
※画像の散髪はイングランド式です。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

861:日本@名無史さん
18/01/13 13:37:17.14 .net
木戸さんの聞いた噂によると、
「英風に掻分ける櫛、仏流に撫付るブラシ」というではないか。
>>811は、どこを掻分けているのだ?

862:日本@名無史さん
18/01/13 13:39:22.76 .net
むしろ撫付けているから、フランス流じゃないですかね。゚(゚^Д^゚)゚。

863:日本@名無史さん
18/01/13 14:54:50.58 .net
▽広沢真臣
天保4年(1834年) - 明治4年
長州藩士・柏村安利の四男として誕生する。弘化元年(1844年)、同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称した。
慶応元年(1865年)、高杉晋作がクーデターによって藩の実権を掌握すると、中間派であった波多野金吾が政務役として藩政に参加することとなった。同年、藩命によって広沢兵助と改名した。
URLリンク(bakumatsu.org)

864:日本@名無史さん
18/01/13 14:58:21.91 .net
慶応2年(1866)8月の第二次征長では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉し、慶応3年(1867年)10月には大久保利通らとともに討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。
維新政府の発足後は、参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任。明治2年、復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄1,800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。

865:日本@名無史さん
18/01/13 15:02:34.64 .net
明治4年1月9日、東京府麹町富士見町私邸での宴会後、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39。死後、正三位を贈位される。
なお、大村益次郎が、明治2年9月、京都で攘夷派浪士に襲われ療養中に死亡したことについては、前述した〔>>637〕。
広沢真臣は、大村益次郎の暗殺後、わずか1年4か月の後に暗殺されたことになる。

866:日本@名無史さん
18/01/13 15:49:06.13 .net
▽由利公正
文政12年11月11日(1829年)- 明治42年  ←丸一年早く生まれていたら、すごいことになっていた。
福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれる。
福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。
URLリンク(www.archives.pref.fukui.jp)

867:日本@名無史さん
18/01/13 15:53:38.10 .net
慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人になる。しかし、長州征伐をめぐる藩論の対立に巻き込まれ、福井にて蟄居・謹慎処分となった。
謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
※晩年はまるでサンタクロース
URLリンク(upload.wikimedia.org)

868:日本@名無史さん
18/01/13 15:56:43.37 .net
三岡八郎さんは、法駕籠のお婦以さんとは、いつ親しくなられたのですか?

869:日本@名無史さん
18/01/13 16:16:08.83 .net
明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らとともに五箇条の御誓文の起草に参画した。公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている。
  ↑
ここ試験に出ますよ。

870:日本@名無史さん
18/01/13 16:18:06.06 .net
新政府では徴士参与〔>>168〕として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年に辞職するに至った。

871:日本@名無史さん
18/01/13 16:23:49.94 .net
明治4年に東京府知事に就任した。明治5年2月に銀座大火が発生し、現在の丸の内・銀座・築地一帯が全焼した。当時の東京は木造家屋が多かったため、由利は東京を防火防災都市とすべく銀座に煉瓦造りの建築物を数多く建てたり、現在の銀座大通りの幅員を「ニューヨークやロンドンの目抜き通り並に45.5mに拡張すべし」と主張するといった都市改造計画を立案・実行した。
明治5年5月、岩倉使節団に随行することになり、欧米へ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究した。
明治7年、板垣退助や江藤新平らとともに、政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。

872:日本@名無史さん
18/01/13 16:51:33.10 .net
>>820
由利公正 →福岡孝弟〔>>820〕 →木戸孝允〔>>703〕の三人の名前を、この順番で覚えておかないと、正解できないよ。

873:日本@名無史さん
18/01/13 17:13:44.31 .net
▽杉浦
銀座四丁目四番地にあった理髪店。
木戸さんは、ここで毛はさみをした。傭いのフランス人が、フランス式の毛はさみをした。

874:日本@名無史さん
18/01/13 17:21:06.87 .net
▽堀基〈もとい〉
1844年(天保15年)- 1912年(明治45年)
薩摩藩士としては明治元年の鳥羽・伏見の戦いに参加し旧幕府軍と戦う。直後に箱館裁判所監察として渡道した。翌明治2年、開拓使に移り開拓中判官、開拓大書記官、屯田事務局長などを歴任した。
薩摩閥として羽振りを利かせる一方、同郷の先輩黒田清隆と共に樺太に駐在し対ロシア交渉などにあたった。
北海道炭礦鉄道初代社長。貴族院議員。
URLリンク(blog-imgs-44.fc2.com)

875:日本@名無史さん
18/01/13 17:35:23.38 .net
▽樺太駐箚開拓監
慶応3年(1867)に樺太島仮規則をロシアと調印する。樺太全島は日露雑居地とされた。
以降、ロシアは囚人を送込み、軍隊を増派して、北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手した〔>>804〕。
樺太駐箚開拓監は、明治6年当時の堀基の開拓使における役職らしい。役所は大泊にあった。

876:日本@名無史さん
18/01/13 17:42:36.79 .net
樺太問題のほうが先決だからという提案をして、征韓論をうやむやにしてしまおうというのが黒田案であった。

877:日本@名無史さん
18/01/13 17:43:12.36 .net
>>808
街路樹には、松、楓、桜などが選ばれた。
木戸さんは、西洋館に松やモミジは映りがわるいなと思った。

878:日本@名無史さん
18/01/13 17:46:53.00 .net
由利の煉瓦造の西洋館は、計画倒れに終わった。庶民は、そんな住居に住みたくはなかった。西洋館は売れなかった。
売れた西洋館にしても、明治35年頃までには、煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている〔>>809〕。

879:日本@名無史さん
18/01/13 17:48:52.24 .net
三岡八郎(由利公正)も、紀州藩家老の津田出〔>>476〕と大差のない人物だったような気がするな。

880:日本@名無史さん
18/01/13 17:50:44.75 .net
それなのに、試験にはよく出たよな。由利公正と福岡孝弟の名前は、日本史の答案用紙に何回書いたことか。
おそらく坂本竜馬の名よりも、多く書いていると思う。

881:日本@名無史さん
18/01/13 17:56:15.35 .net
▽平民乗馬の始
従来、社会の階級制度やかましく、農工商者の口取り者なき馬に騎して行くこと禁制なりしが、維新後、明治四年四月十九日始めてこの制を撤去し、庶民の騎馬を許したり。
されども堅


882:気の商人等には、敢て騎行するものも多からざりしと見えて、この時の〔年表〕に「町人には騎る人見えず」と記せり。 ――石井研堂著『明治事物起源』



883:日本@名無史さん
18/01/14 11:39:11.66 .net
これで第6章「小さな国」は終り。狂言廻しは木戸さんから再び川路に戻り、第7章「渋谷金王町」に突入する。
第7章では川路利良によって西郷隆盛の人となりがDeepに観察されます。

884:日本@名無史さん
18/01/14 11:40:13.22 .net
木戸さんが狂言廻しをやっていると、陰気になってしまうからな。景気がよくない。

885:日本@名無史さん
18/01/14 11:43:40.36 .net
>>819
「法駕籠のご寮人さん」は全集未収載だけど、「大坂侍」収載の巻でいっしょにやるよ。

886:日本@名無史さん
18/01/14 17:06:27.29 .net
>>816
長州閥の参議が一人もいなくなるという珍現象は、この二人の死が大きいな。
それと木戸さんの鬱病。

887:翔ぶが如く
18/01/14 19:45:38.58 .net
第7章 渋谷金王町
〔一〕西郷隆盛
「かの人はまことに妙である。一日かの人に接すれば一日の愛生ず。三日かの人に接すれば三日の愛生ず。しかれども予は接するの日を重ね、もはや去るべくもあらず。いまは善悪を越えて、この上はかの人と生死を共にするほかない」
増田宗太郎というこの若者は、西郷の弁舌に打たれたわけでもなく、西郷の文章を多く読んだわけでもなかった。かれは西郷にじかに接しただけのことであり、それでもって骨髄まで染まるほどに西郷の全体を感じてしまったのである。

888:日本@名無史さん
18/01/14 20:16:16.98 .net
★渋谷金王町
▽新帰朝
司馬さんも書いておられるが、「新帰朝」は広辞苑に載っていない。死語だ。
筆者の頭の中では死語ではない。永井荷風に「新帰朝者日記」という短篇もある。
辞書から除くべき言葉ではない。意味は司馬さんの解説どおり。

889:日本@名無史さん
18/01/14 20:25:08.42 .net
▽川畑種長
川路の妻・沢子〔>>203〕の兄。警視庁の幹部で、西南戦争の時期は、一等大警部。
鹿児島県士族で、西南戦争における最大の激戦地である田原坂では、警視庁抜刀隊の一隊を率いて戦った。
URLリンク(i.ytimg.com)

890:日本@名無史さん
18/01/14 20:27:54.43 .net
▽鼠賊
小さな盗みをする泥棒。こそどろ。
川路の義兄・川畑種長は、川路を「一鼠賊」と表現した。悪意はない。単に言葉を知らないだけ。

891:日本@名無史さん
18/01/14 20:38:17.13 .net
▽立小便
野糞もしくは立小便をした者は、軽犯罪法第1条第26号により拘留又は科料に処せられる。
また、同法同条第20号は、公衆に嫌悪の情を催させる仕方で、ももを露出した者も罰している。
したがって、ブスのミニ・スカートは犯罪である。
URLリンク(d13n9ry8xcpemi.cloudfront.net)

892:日本@名無史さん
18/01/14 20:44:50.72 .net
江戸時代は、男も女も屋外で平気で放尿していた。男が板塀などに向かって立小便をするのはもちろんのこと、女もちょっとした物陰にしゃがんで放尿するのは珍しいことではなかった。そんな時代、文化年間(1804~18)のころの話が『多話戯草』に出ている。
URLリンク(files.hangame.co.jp)

893:日本@名無史さん
18/01/14 20:53:28.80 .net
▽明治期の警察官の制服
警察博物館に行けば、本物が見れる。東京都中央区京橋3-5-1。料金は無料。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

894:日本@名無史さん
18/01/14 21:13:50.32 .net
西郷は初夏から初秋にかけての暑いあいだ、薩摩絣の単衣を一枚きりですごすのである。
(問題は衣類のことではない。このひとは、浮世の栄爵というものが遂に身につかぬ人ではないか)

895:日本@名無史さん
18/01/14 21:16:38.01 .net
▽薩摩絣
絣(かすり)とは、織物の技法の一つ。前もって染め分けた絣糸を経糸(たていと)、緯糸(よこいと)、またはその両方に使用して織り上げ文様を表すものである。
URLリンク(www.eternel.info)
URLリンク(www.akariya2.com)

896:日本@名無史さん
18/01/14 21:20:35.25 .net
▽単衣〈ひとえ〉
裏地のない和服のこと。6月から9月までの間にしか着られないという慣習がる。衣替え。
なお、麻製の単〈ひとえ〉を特に帷子 (かたびら) と称する。平安時代においては男子の汗取りの帷子、室町時代や江戸時代には男女の小袖形式の麻の帷子がある。
⇔袷(あわせ):裏地がある。

897:日本@名無史さん
18/01/14 21:31:02.53 .net
▽象皮病
バンクロフト糸状虫などのヒトを宿主とするリンパ管・リンパ節寄生性のフィラリア類が寄生することによる後遺症の一つ。
身体の末梢部の皮膚や皮下組織の結合組織が著しく増殖して硬化し、ゾウの皮膚状の様相を呈するため、この名で呼ばれる。陰嚢、上腕、陰茎、外陰部、乳房などで発症しやすい。
西郷隆盛は、象皮病に感染したため、晩年は陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていたという。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(www.discoverynetworks.nl)

898:日本@名無史さん
18/01/14 21:33:24.69 .net
城山で自害した西郷は首なし死体だったんだけど、キン玉がでかいから、すぐに特定されたんだよね。

899:日本@名無史さん
18/01/14 21:34:19.09 .net
江戸時代に象皮病が日本に蔓延していたことは、葛飾北斎の画に象皮病の患者が描かれていることや、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に象皮病の症状のことを詠んだ歌があることからもうかがえる。

900:日本@名無史さん
18/01/14 21:50:24.95 .net
▽文旦〈ブンタン〉
標準和名はザボン。柑橘類の一種である。
日本伝来の地は鹿児島県の阿久根市とされ、生産量も多いことなどから1971年に市の木に制定されている。
URLリンク(www.m-ys.co.jp)
近時は高知県がブンタンの生産に力を入れている。

901:日本@名無史さん
18/01/14 21:50:39.99 .net
ボンタンともいう。ボンタンアメのボンタンである。鹿児島市にあるセイカ食品が製造・販売する飴菓子。
URLリンク(www.fj9.info)

902:日本@名無史さん
18/01/14 22:04:03.87 .net
▽ヤシゴロ
食いしん坊という意味の鹿児島弁。

903:日本@名無史さん
18/01/14 22:04:34.27 .net
私は「ヤヒグレ」と言っていました。発音は「やいぐれ」。

904:日本@名無史さん
18/01/14 22:07:23.34 .net
▼やっせんぼ
役立たず。「役せぬ」の転じた語。
「こんカバンな、こもしてやっせんじゃった」=このカバンは小さくて役に立たなかった。

905:日本@名無史さん
18/01/14 22:13:40.55 .net
>>521
「靱負」は、律令制度の衛府の官人で、宮中を靭(ゆぎ:矢を入れる道具の一種)を背負って見回りをする者で、元々は「ゆげい」と読んでいた。
転じて「ゆきえ」。靭を背負う人。

906:日本@名無史さん
18/01/14 22:31:18.89 .net
▽ぞんざい
1.いいかげんに物事をするさま。投げやり。粗略。「仕事をぞんざいにする」
2.言動が乱暴で礼を失しているさま。不作法。「ぞんざいな口のきき方」
ぞんざいの語源には、「そざつ(麁雑・粗雑)」の転化とする説と、「存在のまま」を略した「存在」の意味とする説があるが、未詳である。

907:日本@名無史さん
18/01/14 22:38:32.41 .net
西郷が、日本国の極官の座につきながら、美邸も造らず、馬車ももたず、弟の屋敷に居候し、ふだん着は一枚きりで、いつもすその短い薩摩絣に兵児帯を二重巻きにして駒場野あたりを走りまわっているようでは、その日常の存在そのものが新政府に対する痛烈な批判であるといえる。

908:日本@名無史さん
18/01/14 22:42:36.91 .net
▽着たきり雀
どうして語尾に雀が付くのか、かねてより不思議に思っていたが、「舌切り雀」の洒落であった。
あまりにライトな笑えない洒落なので、今日まで気づかなかった。

909:日本@名無史さん
18/01/14 22:56:35.05 .net
▽徴兵令
明治6年1月10日(新暦)に施行された徴兵令で、士族および農民の明治新政府に対する不満が一挙にヴォルテージを上げた。
士族にしてみれば、明治5年の国民皆兵をうたう徴兵告諭でプライドを傷つけられ、翌明治6年には征韓中止で活躍の場を奪われた。
農民にしてみれば、江戸時代260年のあいだ兵士にとられることがなかったのに、維新によって若い労働力を鎮台に奪われることになった。

910:日本@名無史さん
18/01/14 22:59:38.77 .net
戊辰戦争における官軍は、薩摩・長州・土佐など諸藩の軍の集合で、政府が独自に徴兵して組織した軍はなかった。明治政府直属の御親兵も、長州藩の一部部隊を元に、諸藩の在京の浪人を集めて組織されたものだった。
大村益次郎や山縣有朋は、早くから「国民皆兵」の必要性を唱えていた。これは、近世的な個人的武技に頼る戦闘では、近代戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからである。

911:日本@名無史さん
18/01/14 23:03:13.73 .net
しかし、国民皆兵のためには身分・家格を廃して四民平等を導入せねばならず、それは武士階級の解体を意味した。そのため、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者が多数おり、また西郷隆盛も中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。そのうち、大村益次郎が暗殺されたこともあって構想は一旦は挫折した。

912:日本@名無史さん
18/01/14 23:06:26.13 .net
明治3年11月13日に山縣有朋の主導で徴兵規則が制定され、各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石につき5人を徴兵することを定めた。続いて翌明治4年2月13日には、西郷の構想の一部をも取り込む形で三藩(薩摩・長州・土佐)の軍が御親兵として編成され、この兵力を背景に同年7月の廃藩置県が断行された〔>>289〕。

913:日本@名無史さん
18/01/14 23:11:34.65 .net
中央集権体制の近代国家にとって国民軍の創出が不可欠であると認識され、西郷隆盛も最終的には山縣の考え方を支持して、山城屋事件で山縣が辞職に追い込まれた後も、西郷は桐野利秋らの反対論を退けた。
明治5年11月28日に徴兵告諭が出され、翌明治6年1月10日(新暦)に徴兵令が施行された。以後、1月10日は毎年徴兵による新兵の入営日となった。陸軍は初年度、各県から計3272人の徴員を要請したが、各県では100名~400名程度を徴兵したにとどまる。

914:日本@名無史さん
18/01/15 09:48:00.32 .net
▽斗南藩〈となみ〉
明治2年11月3日に、松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した藩である。七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった。会津藩を没収された会津松平家は、改めて元盛岡藩(南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した。
但し旧会津藩士4,700名余が謹慎を解かれたのは、翌年の明治3年1月5日のことである。
URLリンク(image.jimcdn.com)

915:日本@名無史さん
18/01/15 10:03:04.65 .net
▽アーネスト・サトウ〔>>632
アーネスト・サトウは、日本での体験を「一外交官の見た明治維新」と題した書に記した。そのなかで西郷のことを「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていた」と表現した。おそらく当時の日本に滞在していた外国人のなかで最も西郷と親しい関係にあった人物といえるだろう。
URLリンク(furuido.c.blog.so-net.ne.jp)

916:日本@名無史さん
18/01/15 10:03:16.95 .net
西郷と初めて会ったのは、慶応2年6月にイギリス公使パークスが鹿児島に来た際のことである。この年の12月には、生麦事件の賠償の支払を砂糖で代償できないかの交渉のため兵庫港で会談している。さらに慶応3年7月には、薩摩藩と長州藩に対して軍事援助も申し出て来たが、西郷は断っている。
サトウは明治2年に一時帰国しているが、西郷の明治政府からの下野や西南戦争の時期には、再び日本に滞在していた。

917:日本@名無史さん
18/01/15 10:11:04.72 .net
▽豊前中津
中津藩は、黒田家(のち筑前福岡藩)→細川家(小倉藩→熊本藩)→小笠原家→奥平家と続いた。
享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年の廃藩置県まで九代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。
URLリンク(uub.jp)

918:日本@名無史さん
18/01/15 10:12:55.06 .net
奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がいる。
また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎をして、郷土の英雄と位置付けている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。

919:日本@名無史さん
18/01/15 10:44:44.99 .net
▽増田宗太郎〔>>837
嘉永2年(1849年)- 明治10年
中津藩下士・増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人である渡辺重名 (しげな) の娘。父は福沢百助の妻のいとこ。
国学・水戸学を学び、尊王攘夷思想をもっていた。福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があったが、明治3年、福澤が帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。同学の同士に、獅子文六の父親の岩田茂穂がいた。福沢邸に乗り込むものの、議論する内に福沢の価値観に魅せられ、その後、慶應義塾へ入学した。なんのこっちゃ?

920:日本@名無史さん
18/01/15 10:50:46.77 .net
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        ィjj)))))))))!!!!!彡ヽ,
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Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


921:日本@名無史さん
18/01/15 10:51:36.47 .net
維新後は攘夷思想を改め、自由民権運動に参加する。西南戦争に薩軍側として従軍し、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し故郷へ帰る隊もある中、最後まで西郷に付き従った。
司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも、捕えられて斬首されたともいう。

922:日本@名無史さん
18/01/15 10:53:26.66 .net
太平洋戦争中は、西洋思想を日本に広めた福沢が貶められ、それを暗殺しようとした増田の評価が高まり、生家跡地には神社まで建立されたという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。
URLリンク(fukuzawakyukyo.com)
URLリンク(www.jalan.net)
URLリンク(eritokyo.jp)

923:日本@名無史さん
18/01/15 10:59:10.01 .net
▽司馬光
1019年 - 1086年。中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家。
諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」「司馬文正公」と呼ばれる。祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。『資治通鑑』の編者として著名。新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した。
URLリンク(blog-imgs-43.fc2.com)

924:日本@名無史さん
18/01/15 11:05:36.14 .net
▽神宗〈1048年 - 1085年〉
北宋の第六代皇帝。在位:1067年 - 1085年。
1066年に皇太子となり


925:、翌年に英宗の崩御により即位した。即位後は地方で政務実績のあった王安石を登用し、国家再建に乗りだした。 王安石による改革は「政・官・財・軍事」の仕組みを再編して朝廷を効率化し、結果として賦税負担を軽減することでの国の発展を目標とするものであり、神宗もその王安石の理念に同意し全権を与えた。 http://funny-c.com/wp-content/uploads/2017/06/c223b58a9691cd8406af4cd8bcfbea4a.jpg



926:日本@名無史さん
18/01/15 11:06:32.30 .net
唐突だが、西郷が司馬温公を尊敬していたということで、こんなことになっている。

927:日本@名無史さん
18/01/15 11:12:09.44 .net
▽王安石
1021年 - 1086年。北宋の政治家・詩人。
宋では、官吏への俸給の増加、遼および西夏との和平のための贈物による出費、傭兵を維持するための費用などがかさみ、慢性的な財政難に悩まされていた。神宗に登用された王安石は大胆な富国強兵策をたて、その財政難と兵力の弱体化と解決し、宋の再建を目指した。

928:日本@名無史さん
18/01/15 11:16:37.11 .net
▽新法
王安石の新法の特徴は、大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げるというところにある →均輸法・市易法
また、宋の軍事力は傭兵に依存したため、その出費が多かった。王安石は傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。徴兵制による国民皆兵である →保甲法
URLリンク(img.chinatimes.com)

929:翔ぶが如く
18/01/15 11:31:45.61 .net
第7章 渋谷金王町
〔二〕島津斉彬
「機先を制しなければなりませぬ、支那に兵を送るのです。ただし目的は侵略にあらず、列強の蚕食からの領土保全にあります」
以下、斉彬はのちに佐賀の鍋島閑叟あたりまでその信徒にさせた有名なアジア政策を述べた。
近畿・東海・東山・中国の諸藩は支那本部にむかって入るべし、九州・四国の諸藩は安南交趾(ベトナム地方)方面にむかって進出し、北陸奥羽の諸藩は満州に入り、漢民族に代わって支那大陸を守るのです、と言った。

930:日本@名無史さん
18/01/15 11:34:45.71 .net
話が、脇道にそれている。
が、斉彬について触れておくということは、西郷が何者であるかを知るために、案外近道であるかもしれない。

931:日本@名無史さん
18/01/15 14:38:53.88 .net
戊辰戦争、日清戦争辺りの日本の軍事的レベル(兵器、戦略・戦術等々)ってどれほどのものだったのでしょうか?特に欧米などと比較した場合。

932:日本@名無史さん
18/01/15 15:00:49.95 .net
明治6年の段階では比較にならないほど弱い。この年初めて百姓に軍服を着せて鎮台に配った。
日清戦争の段階でも戦後の三国干渉に屈した程度だから弱い。

933:日本@名無史さん
18/01/15 19:26:54.39 .net
★渋谷金王町
▽島津斉彬
文化6年(1809年)- 安政5年(1858年)。薩摩藩の第11代藩主。
西郷より19才年長。元治元年(1864年)は、順聖院の七回忌。
URLリンク(bunshun.ismcdn.jp)

934:日本@名無史さん
18/01/15 19:35:35.39 .net
西郷隆盛は、弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与に編入された。
西郷が直に農村を見てわかった農民の辛苦を書いた上書を、島津斉彬が読む。上書を読んだ斉彬は、西郷の見識の高さや農民を思う優しさに感銘を受ける。安政元年(1854年)、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。
これが、斉彬と西郷の出会いである。

935:日本@名無史さん
18/01/16 17:30:10.47 .net
斉彬と吉之助の二人三脚は、長くても5年間にすぎないんだな。

936:日本@名無史さん
18/01/16 17:36:45.63 .net
▽松平春嶽
江戸城内の田安屋敷で文政11年(1828年)に生まれる。幼名は錦之丞。錦之丞は伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが内定しており、天保8年(1837年)には正式決定した。
ところが天保9年(1838年)に越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去した。跡継ぎがいないことから、斉善の兄の第12代将軍・徳川家慶の計らいにより、急遽松平錦之丞が養子とされた。
URLリンク(kotobank.jp)

937:日本@名無史さん
18/01/16 17:39:21.72 .net
春嶽は、島津斉彬が「家来多数あれと雖も間に合ふ者なし。西郷一人は薩国の大宝なり」と生前言っていたことの証人として登場している。

938:日本@名無史さん
18/01/16 17:44:43.60 .net
▽水神坂の出会い
江戸出府のために鹿児島城下を発った斉彬の一行は、藩境の水神坂の坂上で休息することになります。斉彬は建白書を読んで西郷を中小姓として一行に加えたものの、まだ面識がありません。
そこで斉彬が、「今日、予が供廻りに西郷吉之助はおるか」と側近に質すと、側近は、「かの大兵肥満の人物」といって西郷を指さしました。

939:日本@名無史さん
18/01/16 18:04:51.15 .net
▽島津重豪〈しげひで〉
1745年(延享2年)- 1833年(天保4年)。薩摩藩の第8代藩主。
分家の加治木島津家当主島津久門(のちの重年)の長男として生まれた。宝暦5年(1755年)6月、本家を継いでいた父・重年が死去したため、11歳で本家の家督を継いだ。重豪は蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。

940:日本@名無史さん
18/01/16 18:05:40.65 .net
天明7年(1787年)、家督を長男の島津斉宣に譲って隠居したが、なおも実権は握り続けた。
文化6年(1809年)、近思録崩れ事件が起こった。これは子の斉宣が緊縮財政政策を行なおうとしたものだが、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して斉宣を隠居させた事件である。重豪は斉宣を隠居させ、孫の島津斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握った。
URLリンク(samurai-hi.com)

941:日本@名無史さん
18/01/16 18:06:12.55 .net
しかし、晩年になると重豪は藩の財政改革にようやく取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。調所の財政再建は島津斉興の親政時に成果を見ている。
老いてますます盛んな重豪は、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。なお重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。
ちなみに重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。

942:日本@名無史さん
18/01/16 21:17:17.28 .net
重豪 →斉宣 →斉興 →斉彬
司馬さんは、斉宣にはまったく触れておられないので、斉彬を重豪の孫と勘違いする読者もいるかもしれないな。曾孫。

943:日本@名無史さん
18/01/16 21:22:25.40 .net
触れられないんだよ。斉彬は曾祖父の重豪に似ていると言いたい�


944:フに、重豪は斉興と同じようなことをしている。 斉興時代の高崎崩れと同じような近思録崩れという事件も起きている。 島津斉宣の存在は、ひた隠しに隠したいわけさ。



945:日本@名無史さん
18/01/16 21:37:26.40 .net
▽『南山俗語考』
鹿児島藩主島津重豪(1745―1833)が編集させた中国語辞典。天部・地部・人部・器材部など19部に分類した8,277語を載せ、片仮名でその発音や訳語を記している。
重豪はオランダ語と中国語の知識に富み、とりわけ中国語は会話ができるほど堪能であった。そんな重豪の中国趣味と、中国船が藩領に時折漂着するという事情が重なって本書が企画された。
明和4年(1767)編集に着手。文化9年(1812)刊。中国人を祖先に持つ医者の曾槃が中国語の和訳を担当し、漢学者で中国語に通じていた石塚確斎が「華音」(中国音)の正誤を校訂した。書名の「南山」は重豪の号で、「俗語」は日常用いる言葉のこと。

946:日本@名無史さん
18/01/16 21:48:18.39 .net
▽Philipp Franz von Siebold〈1796年 - 1866年〉
ドイツの医師・博物学者。
文政6年 (1823) 長崎オランダ商館の医師として来日、翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き、伊東玄朴・高野長英・黒川良安ら数十名の門人に西洋医学および一般科学を教授した。文政9年 (1826) 商館長の江戸参府に随行した。
島津重豪が斉彬を伴い大森宿まで出迎えたのは、このときである。
URLリンク(www.geocities.jp)

947:日本@名無史さん
18/01/16 21:48:31.18 .net
※ついでにシーボルトの娘の楠本イネ
URLリンク(pbs.twimg.com)

948:日本@名無史さん
18/01/16 21:55:26.85 .net
▽大森宿
東海道五十三次の宿駅ではない。品川宿と川崎宿の中間地点にあたり、間の宿として賑わった。古くは「大杜」と書き、江戸時代は「大森村」と称した。地名は大きな森があったことにちなむ。大部分は田畑だが、海辺では塩も生産していた。
URLリンク(www.yasuda-hsp.jp)

949:日本@名無史さん
18/01/16 22:03:27.50 .net
▽奥平昌高
豊前中津藩〔>>867〕第5代藩主。天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれる。天明6年(1786年)、急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ。これには昌男の父・昌鹿と昌高の父・重豪が蘭学仲間で非常に仲が良かったという背景があった。

950:日本@名無史さん
18/01/16 22:06:03.36 .net
父の重豪と同様「蘭癖大名」の一人として知られている。特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの交流は熱心なもので、文政9年(1826年)に実父の重豪とともに初めて対面して以降、5回も会談している。
昌高は養祖父の昌鹿から、藩医であった前野良沢〔>>868〕らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした。安政2年(1855年)、江戸で74歳にて没した。
URLリンク(stat.ameba.jp)

951:日本@名無史さん
18/01/16 22:11:28.79 .net
▽つぎの代の斉興
「次の次の代」の誤り。次の代は、重豪の子の斉宣である〔>>889〕。

952:日本@名無史さん
18/01/16 22:38:50.26 .net
▽造士館
八代藩主・島津重豪は安永2年(1773年)、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。
初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命された。モデルになったのは江戸幕府の昌平黌である。
隣接する敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)

953:日本@名無史さん
18/01/16 22:42:42.07 .net
安永3年(1774年)、重豪は漢方を学習する「医学院」を増設する。
安永8年(1779年)には鹿児島城の東南に「明時館」を建設し、天文学を研究させた。
文化4年には近思録党〔>>889〕を「偽実学党」として非難した山本正誼が教授を免職される事態となり、造士館は大混乱に陥った。その後、緊縮財政の影響もあり、造士館での教育は停滞した。

954:日本@名無史さん
18/01/16 22:54:30.54 .net
嘉永4年(1851年)、11代藩主となった島津斉彬は停滞していた造士館の改革に乗り出した。従来の儒教と武芸教育にくわえて西洋の実学を学習の中心においたのである。
明治34年に旧制第七高等学校造士館となるが、昭和25年に新制鹿児島大学に包括され廃校となる。
※慶応3年(1867年)に市内磯地区に建てられた旧鹿児島紡績所技師館。明治17年に鶴丸城址に移築されて造士館本館として長く使用された。
URLリンク(img.guide.travel.co.jp)

955:日本@名無史さん
18/01/16 23:38:12.80 .net
▽家督
斉彬は嘉永4年(1851年)に家督を嗣ぎ、安政5年(1858年)に急死しているから、藩主であった期間はわずか7年でしかない。

956:日本@名無史さん
18/01/17 12:04:56.33 .net
▼島津斉宣
安永2年(1774年)、第8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。天明7年(1787年)1月、父・重豪の隠居により、家督を継いで第9代藩主となった。しかし実権は父・重豪に掌握されていた〔>>889〕。
文化2年(1805年)12月には『亀鶴問答』を著し藩政改革の方針を示したが、父・重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題などから内紛(近思録崩れ)が起こる。これにより文化6年(1809年)6月、斉宣は重豪より近思録崩れの責任を問われ、長男の斉興に家督を譲らされて強制隠居させられた。天保12年(1841年)10月、江戸の薩摩藩下屋敷にて死去。享年69。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

957:日本@名無史さん
18/01/17 12:06:44.83 .net
江戸に重豪、斉宣の2人の隠居を抱える薩摩藩の出費は莫大なもので、斉宣は経費が少なくて済む薩摩での隠居を度々幕府に願い出たが却下される。そのため隠居後は一度も薩摩に帰国出来なかった。
父・重豪が孫・斉興に出した手紙で「問題があった時、江戸にいる時には奥平昌高〔>>897〕に相談し、国元にいる時には島津忠厚に相談するように」(奥平昌高と島津忠厚は斉宣の弟であり、斉興の叔父にあたる)とあり、藩政からは徹底的に排除された模様である。

958:日本@名無史さん
18/01/17 12:13:00.31 .net
▽島津斉興
寛政3年(1791年)、第9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。文化6年(1809年)、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって


959:強制隠居させられたため、家督を継いで第10代藩主となった。しかし藩政の実権は重豪に握られていた。 天保4年(1833年)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。



960:日本@名無史さん
18/01/17 12:15:04.10 .net
藩政改革では、借金の250年分割支払いや、清との密貿易、砂糖の専売などが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復したが、嘉永元年(1848年)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。
※調所広郷:竜 雷太 URLリンク(news-topics24.com)

961:日本@名無史さん
18/01/17 12:19:24.69 .net
この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児には、正室・弥姫(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光がいた。次男・斉敏は岡山池田氏を継いでいた。
本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永2年(1849年)12月にはお家騒動が勃発した(お由羅騒動)。〔>>513-525〕

962:日本@名無史さん
18/01/17 12:24:00.66 .net
安政5年(1858年)7月16日、斉彬が先立って50歳で急死すると、斉彬の遺言により藩主は久光の長男・忠徳(忠義)が継いだが、忠徳が若年であることを理由に、再び隠居の島津斉興が藩政を掌握した。
西郷隆盛を始めとする斉彬派の家臣を大粛清し、集成館事業を一時廃止したため、一気に時代に逆行した復古的な政策に転換した藩政は混乱した。しかし、翌安政6年(1859年)9月12日に死去。享年69。
URLリンク(img.atwikiimg.com)
※島津斉興:鹿賀丈史
URLリンク(samurai-hi.com)

963:日本@名無史さん
18/01/17 12:29:51.37 .net
ここから蘭癖大名・島津斉彬一代の治績の数々を紹介する。

964:日本@名無史さん
18/01/17 12:34:49.02 .net
斉彬の活動期はみじかい。かれは数えて四十三になるまで部屋住みの世子としてすごした。
かれは曾祖父の重豪(しげひで)に愛された。重豪は斉彬が二十五歳のとき八十九歳で亡くなったが、もし重豪と斉彬という二人の非常人が薩摩に国主として存在しなければ、薩摩という風土が維新前後から明治期いっぱいにいたるまで日本のモダニズムの先頭をゆくというぐあいにはならなかったであろう。

965:日本@名無史さん
18/01/17 12:38:05.61 .net
▽水力発電
水力発電をつくり、その電気をもって有線電信機を作動させ、鹿児島防衛用の沈置水雷をつくり、送電により爆発させるようにした。鉱山用の送電地雷もつくって、実用に供した。
※水力発電用ダム跡
URLリンク(cdn.4travel.jp)
URLリンク(www.waterworks.co.jp)

966:日本@名無史さん
18/01/17 12:50:14.75 .net
▽火薬の製造
鹿児島の滝之上に水車を動力とした大規模な火薬製造所が設立された〔参考:>>760〕。火薬製造のためには硝石・硫黄・木炭を混ぜる必要


967:があった。硫黄は硫黄島や霧島で、木炭は領内各地で豊富に産した。しかし、硝石は藩内で不足しがちであった。 そこで嘉永4年 (1851) 藩主に就任した島津斉彬は、蘭学者石河確太郎に人工硝石の製造法を調べさせ、谷山や城下の各地で硝石を作成する作硝場を設けた。



968:日本@名無史さん
18/01/17 12:53:16.33 .net
また、オランダの技術書によって西洋式の火薬の製造を開始したが、その質はむしろ舶来火薬よりも良質だった。文久3年 (1863) には、敷根 (現霧島市) に本格的な洋式火薬製造所が築かれた。
薩摩藩は、敷根火薬製造所を設置する以前から、既に城下の滝之上に火薬製造所を作っており〔>>913〕、また、谷山にも煙硝倉を設けて、火薬製造を行っていました。しかしながら、薩英戦争をきっかけとして、大量に火薬を製造できる施設を建造する必要があると感じ、火薬の増産を試みるため、新たに敷根に火薬製造所を設けることとした。

969:日本@名無史さん
18/01/17 12:55:00.04 .net
敷根火薬製造所は、この石組みの水路上に小屋を建て、その中に水車を設置し、その動力を利用して、硫黄や硝石を砕き、火薬の原料としていた。
URLリンク(blog-imgs-94-origin.fc2.com)
下記の画像は、島津斉彬が谷山に設けた煙硝倉の跡です。
URLリンク(blog-imgs-94-origin.fc2.com)

970:日本@名無史さん
18/01/17 13:01:07.69 .net
▽薩摩切子
薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)である。薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれた。
薩摩のガラス製造は、弘化3年 (1846)、薩摩藩主島津斉興が中村製薬館を創設した際、江戸から硝子師を招聘し薬瓶をつくらせたことにはじまる。島津斉彬はこれをさらに向上させ、薩摩切子を生み出させた。特に藩内外の洋学者が協力して生み出した紅ガラスは「薩摩の紅ガラス」として珍重された。
URLリンク(auctions.c.yimg.jp)

971:日本@名無史さん
18/01/17 13:05:28.89 .net
▽反射炉
島津斉彬が日本を守る大砲を鋳造するためにつくらせたこの反射炉、もともとはヨーロッパで開発されたものです。しかし当時は鎖国中ですから西洋人に造ってもらうことも教えてもらうこともできません。オランダの書物のみを手がかりに、日本人だけで造るしかありませんでした。
基礎部分は石垣を造る技術、燃焼室などの耐火レンガは薩摩焼の技術を応用したものです。

972:日本@名無史さん
18/01/17 13:05:43.07 .net
※仙巌園内にある反射炉遺構
URLリンク(www.senganen.jp)
※尚古集成館本館にある反射炉模型
URLリンク(www.senganen.jp)

973:日本@名無史さん
18/01/17 13:15:22.47 .net
▽挙兵上洛
安政4年(1857年)老中・阿部正弘が急死すると事態が大きく変わっていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派である一橋派の大弾圧を開始します。安政の大獄です(1858年)。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画していました。斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。その閲兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。

974:日本@名無史さん
18/01/17 13:20:51.49 .net
久光も西郷も、斉彬を真似しただけ。大名という身分の者に、優秀な頭脳が宿ると、やることのスケールが大きい。
凡人は真似するのみ。

975:日本@名無史さん
18/01/17 13:44:25.41 .net
なにもかもを斉彬ひとりでやれるはずがない。
斉彬の下で火薬製造に携わった蘭学者石河確太郎のようなブレーンがいたから、成し遂げられたことだと思うよ。

976:日本@名無史さん
18/01/17 13:46:21.24 .net
その意味では民間の蘭学熱の高まりも重要ですよね。
司馬さんも、薩摩を舞台にしているわけではありませんが、『胡蝶の夢』でそのあたりの事情を書いておられる。

977:日本@名無史さん
18/01/17 13:50:02.96 .net
19世紀の日本を侮ってはならないよな。すべてが明治維新によってスタートしたんじゃない。江戸末期にすでに近代は始まっていた。
明治維新の重要性は、近代化への最後のネックになっていた士族による武力の独占を廃止して、国民皆兵を実現したことに尽きる。
この観点からは、明治6年の徴兵令こそ重要で、廃藩置県ですら徴兵制のための準備にすぎない。

978:日本@名無史さん
18/01/17 13:56:21.33 .net
理系の観点から近代史の再構成をしてもらいたいよな。
文系は人権だの立憲主義だのアホなことしか言わん。

979:日本@名無史さん
18/01/17 14:11:13.31 .net
▽四賢公
一橋慶喜 URLリンク(www.ndl.go.jp)
水戸斉昭 (前水戸藩主・慶喜父 / 1800-1860) … 伊武雅刀 URLリンク(thetv.jp)
松平慶永〔>>885URLリンク(cdn-images-1.medium.com)

980:日本@名無史さん
18/01/17 14:11:26.50 .net
山内容堂〔>>709URLリンク(www.kurofune-shachu.com)
伊達宗城 URLリンク(blog.rnb.co.jp)
鍋島閑叟 URLリンク(9-shop.com)

981:日本@名無史さん
18/01/17 14:17:30.18 .net
▽松平春嶽
橋本左内が春嶽を補佐していたときは春嶽は一世の目を見張らせるようなところがあったが、左内が井伊直弼の弾圧政治で刑殺されてしまうと、春嶽は昼行燈のようになった。

982:日本@名無史さん
18/01/17 14:22:56.12 .net
▽橋本左内
天保5年(1834年)- 安政6年(1859年)。越前国福井藩士。
江戸幕府第14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
安政6年(1859年)に安政の大獄が始まり春嶽が隠居謹慎を命じられると、頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年26。
URLリンク(meigen.keiziban-jp.com)

983:日本@名無史さん
18/01/17 14:30:30.50 .net
▽藤田東湖
文化3年(1806年)- 安政2年(1855年)
戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。安政2年(1855年)10月2日に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。
地震発生時に東湖は一度は脱出するが、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。
URLリンク(plaza.rakuten.co.jp)

984:日本@名無史さん
18/01/17 14:40:37.86 .net
▽黒船来航
嘉永6年(1853年)に米海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件があっても、斉彬は黒船に驚くよりも、黒船を造ろうとした。鍋島閑叟および伊達宗城と競い合うようにして製造に着手したが、ペリー来航後3年で、三藩とも製造に成功した。
このあたりの事情は、司馬氏の短篇集『酔って候』の中の「伊達の黒船」で詳述する。

985:日本@名無史さん
18/01/18 17:51:29.69 .net
▽ミニエー銃
嘉永6年(1853年)にペリーが徳川将軍家に持参した土産。
雷管式の前装式ライフル歩兵銃である。ライフル銃としては最初期のもので、1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
弾丸が充分な回転を持ち弾丸周囲からのガス漏れが防止されたため、飛距離と命中精度が飛躍的に向上した。また装弾が容易となり連射能力も向上した。
URLリンク(db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp)

986:日本@名無史さん
18/01/18 17:55:38.59 .net
▼マスケット銃
銃身にライフリングが施されていない先込め式の滑腔式歩兵銃である。このため、散弾も発射可能であった。
命中精度は非常に悪かったため長距離狙撃には向かず、軍隊では陣形を組み敵へ向けて短距離で斉射する運用しかできなかった。
火打石または銃用雷管を用いる滑腔銃身のマスケット銃=ゲベール銃
URLリンク(www.japanese-sword.jp)

987:日本@名無史さん
18/01/18 18:05:42.99 .net
▽島津斉彬とミニエー銃
漫画単行本「せごどん」の第二巻。
斉彬が狩猟に使っている銃がフランス式のミニエー銃だというが、時代はまだ弘化三年(1846)だから、ミニエー弾はまだ開発されていないはず。ミニエー銃は1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された〔>>931〕。
司馬さんも、ペリーが献上したミニエー銃を斉彬が幕閣から借りて、これを分解してその構造を知り、ミニエー銃を3,000挺製造したと書かれているが???。

988:日本@名無史さん
18/01/18 18:10:17.53 .net
小銃ではなく大砲に関する薩摩藩のエピソードに、次のようなものがあります。
島津斉彬の先見性と沿岸防備推進策により、首府鹿児島を防備するための大砲の準備と設置は順調に進んでいたが、残念ながら、その主力は一時代前の射程の短い滑空砲であった。
その結果、生麦事件報復時の「薩英戦争」によって、滑空砲が如何に時代遅れかを薩摩藩全体が身を持って体験させられたのである。

989:日本@名無史さん
18/01/18 18:12:06.31 .net
幕府も何もしなかった訳ではなく、1855年に老中阿部正弘は、江戸・湯島の大筒鋳立所に小銃の製作を指示しています。これは在来技術を用いてゲベール銃やヤーゲル銃 (狙撃用前装ライフル銃) が作れるものと考えていたようです。
江川英敏 (江川英龍の息子) がこれにあたりますが、後にヤーゲル銃の生産は取りやめられ、1857年に予定の4000丁のゲベール銃を完成させています。1861年にはもう4000丁を作り上げた様です。

990:日本@名無史さん
18/01/18 18:18:18.83 .net
1860年、幕府ではライフル銃(ミニエー銃)の生産が計画されます。しかしライフル銃身の製造に失敗しこの計画は頓挫します。
1861年に小栗忠順らの上申で欧米から工作機械を導入しライフル銃を作ることが計画され、1865年末に関口工廠に蒸気施条機械が搬入されます。
ちなみに、幕府と薩摩では1864年頃には、青銅前装ライフル砲「四斤山砲」〔>>593〕の生産に成功しています。小銃に関しては、筆者にもよくわかりません。


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