464:日本@名無史さん
18/01/01 21:52:56.29 .net
〈薩摩で高貴とされる人間の価値〉
「いさぎよさ」「勇敢」「弱者に対する憐れみ」
武士の学問などはほどほどでよい。
465:日本@名無史さん
18/01/01 22:01:35.87 .net
▽桐野利秋の揮毫
桐野の直筆と思われるきたない文字の書
URLリンク(blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp)
有馬藤太らが代筆したと思われる美しい文字の書
桐野は署名だけは自分でしている。きたない文字なので揮毫が偽物だとすぐに分かる。
URLリンク(auctions.afimg.jp)
466:日本@名無史さん
18/01/01 23:07:21.82 .net
▽桐野利秋の剣術
半次郎は15歳から城下にある示現流・伊集院鴨居の道場まで剣を習いに通ったともいい (西南記伝)、西田町にある江夏仲左衛門 (後の寺田屋事件では鎮撫の一員に選ばれた手練れ) の道場で野太刀自顕流の修練をしたともいう。
しかし、10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられた。しかも、18歳のときに兄が病没したため、小作や開墾畑で家計を支えるという生活であったので、剣術はほとんど独習といっていい。
467:日本@名無史さん
18/01/01 23:09:54.33 .net
▽川に放り込まれた半次郎
二才(にせ=若者)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。因みに、この郷中には、寺田屋事件の鎮撫使となった奈良原繁や抵抗して死んだ弟子丸龍助など精忠組の士が多くいた。半次郎がもっとも親しくしていたのは、弟子丸龍助だったという。
468:日本@名無史さん
18/01/01 23:13:22.40 .net
▽天狗党の乱
元治元年(1864年)、天狗党の乱に際して偵察に赴いたことも、12月7日付小松帯刀の大久保利通宛書簡に見える。これは、半次郎が小松帯刀に嘆願して実現したことだったという。
『会津藩庁記録』には「薩州中村半十郎と申す者、かの濃州金原辺に天狗党の居り候頃、武田と藤田小四郎に面会致し談判候よし」とあり、天狗党の首領である武田耕雲斎と藤田小四郎に面会したとされる。
469:日本@名無史さん
18/01/01 23:21:19.46 .net
▽田中幸介
司馬さんは、田中幸助としているが、幸介の誤りである。そして、田中幸介とは中井弘〔>>407〕の別名である。
中井弘は、桐野利秋にとって政治学の教師といってよい存在であった。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)
桐野はインテリと交際できるだけの知性を備えていた。単なる低学歴ではない。
470:日本@名無史さん
18/01/01 23:27:55.72 .net
中井弘は脱藩者であるため別名が実に多い。専�
471:蛯フ研究者でないと中井弘の別名をすべて把握するのは無理であろう。 司馬さんが田中幸介が中井弘の別名であることに気づかれているの否か、よくわからない。 田中幸介ではなく田中幸助としたあたり、中井弘であることは知っているんだけどね、というニュアンスが匂ってはいるが……。
472:日本@名無史さん
18/01/01 23:29:45.20 .net
わしは田中幸助の名前を見て、田中友幸を思い出してしまった。
URLリンク(thejakeandsimonshow.com)
473:日本@名無史さん
18/01/02 14:34:58.21 .net
>>422
薩摩人にとって喧嘩さわぎというのは、たとえば西洋人が酒を飲んでダンスを愉しむようなもので、他藩人がみるほど深刻なものではない。
474:日本@名無史さん
18/01/02 14:47:53.11 .net
▽鋩子
蛤御門の変以来、一振しかない川路の刀は、鋩子は折れ、刃こぼれもいくつかあったという文脈で出てくる。
鋩子(ぼうし)とは、日本刀の切先の焼刃のこと。ここに焼きを入れるには刀工のすぐれた技量が必要である。
驚いたのは、「日本刀 ぼうし」で検索すると、鋩子に優先して帽子がヒットしてしまうことである。
俺は時代小説もいくつも読んできたが、かつて「刀の帽子」という書き方を見たことがない。「刀の帽子」はやめようぜ。
URLリンク(daitouryu.com)
475:日本@名無史さん
18/01/02 14:55:27.80 .net
>>316
中村楼騒動のときも、川路と桐野は二人きりになったけど、このときは桐野は川路を風呂に誘っただけだよ。
川路は桐野に斬られるかもしれないと身構えてはいたけどね。
時系列が逆さまのデジャヴを見ているようで、気持ちはよくないね。
476:日本@名無史さん
18/01/02 15:05:29.76 .net
▽シャボン
「シャボン(sabao)」とは、ポルトガル語で「石鹸」を意味する単語である。日本には17世紀初頭に伝わった。
子供の遊びである「シャボン玉遊び」が文献に初登場するのは、1677年(延宝5年)。四代将軍家綱の時代である。
桐野はシャボンを所持していたが、幕末の開港とリンクさせて考える必要はない。江戸時代のセレブにとってはシャボンは珍しい物ではなかった。
URLリンク(imgs.marry-xoxo.com)
477:日本@名無史さん
18/01/02 15:09:45.64 .net
貧乏な裏借家〈うらがしや〉住まいのあっしらは、糠袋で身体を洗ろうておりました。
URLリンク(img01.naturum.ne.jp)
URLリンク(pbs.twimg.com)
478:日本@名無史さん
18/01/02 15:14:31.30 .net
貧乏人の子倅であったあっしらに、シャボンなんぞが手に入るわけもなく、無患子(ムクロジ)または芋殻、煙草の茎などの粉末をシャボンの代用にしとりやした。シャボン玉は、すぐに消えてしまいましたがな。
URLリンク(image.blog.livedoor.jp)
479:翔ぶが如く
18/01/02 16:23:47.14 .net
第5章 征韓論
◆渋谷金王町
征韓論について。
この議論が正式に太政官の廟議にかけられたのは、明治六年六月十二日である。
当時、西郷は健康がすぐれなかった。すこし歩くと息切れがし、心臓に圧迫感があった。
480:日本@名無史さん
18/01/02 16:33:45.09 .net
▽渋谷金王町
昭和41年に廃止された町名である。現在の東京都渋谷区渋谷二丁目および三丁目界隈が、渋谷金王町にあたる。
町名は、同地にある金王八幡に由来する。筆者の小学生のころは、初詣はいつも金王八幡宮でしていた。
西郷従道の屋敷は、渋谷金王町にあった。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
481:日本@名無史さん
18/01/02 16:40:28.15 .net
▽ホフマン〈Theodor Eduard Hoffmann〉
ドイツの軍医。ブレスラウおよびベルリンの軍医学校に学び、明治4年8月、L.ミュラーとともに東校の教師として来日。内科学を担当した。
明治7年、宮内省お雇いとなって明治8年秋に帰国した。著作に『日本の脚気論』がある。
西郷の主治医である。
482:日本@名無史さん
18/01/02 16:46:59.78 .net
◆第一回廟議
西郷は、病いを押して出席した。
この日、六人の参議が出席した。
薩摩出身の西郷隆盛を筆頭に、土佐出身の板垣退助、おなじく後藤象二郎、肥前佐賀出身の大隈重信、おなじく大木喬任、江藤新平である。議長格として公卿出身の太政大臣三条実美が出た。
483:日本@名無史さん
18/01/02 16:54:05.08 .net
廟議が行われたのは、明治6年の森山茂の帰国後のことである〔>>379〕。
この年の4月~5月には、釜山において官憲の先導による日本使節のボイコットも行なわれた。
以下では、外務官僚森山茂の略歴を追うことによって、征韓論について考えてみる。
484:日本@名無史さん
18/01/02 17:10:03.30 .net
▼森山茂
天保13年(1842年)9月、大和国式下郡八尾村常盤町(現奈良県磯城郡田原本町八尾)に萱野恒次の長男として生まれ、後に森山家を継いだ。
明治維新後に兵庫裁判所に出仕。明治2年7月の外務省創立により外務少録に任じられた。同年12月に日韓事情の調査のため、従来の日韓外交を所管していた対馬藩とともに釜山に出張した〔>>376〕。
485:日本@名無史さん
18/01/02 17:10:31.81 .net
明治3年4月に外務権大録となり、同年10月に外務権少丞の吉岡弘毅に随行して朝鮮国に派遣され修交を求めたが〔>>377〕、朝鮮側の倭学訓導・安東晙に対馬藩吏以外との会見を拒否されたため、明治4年(1871年)11月に一旦帰国した。
この帰国後、大院君の暴言を、日本政府に報告している〔>>378〕。
486:日本@名無史さん
18/01/02 17:10:56.21 .net
翌明治5年1月、廃藩置県により外務大丞となった旧対馬藩主・宗重正名義で、外交権限が対馬藩から外務省に移管された旨の文書を携えて、同年9月、再び朝鮮国と交渉した。
この遣韓使節が宗重正に代わる外務大丞花房義質で、森山茂はその随員であろう。しかし、交渉は不調に終わった〔>>377〕。
そして、明治6年の森山茂の帰国となる〔>>455〕。
487:日本@名無史さん
18/01/02 17:19:58.37 .net
◆留守内閣
この征韓論という一国の運命を決定しようとしている内閣は、厳密には留守内閣であるにすぎない。
おもな閣僚は、外遊している。
その外遊派は、公卿出身の岩倉具視を首領とし、薩の大久保利通、長の木戸孝允が二本の柱になっている。
さらに彼らの後輩ながら彼ら以上に機敏な文明摂取能力をもっている長の伊藤博文が、この外遊団の事実上の事務局長として活躍するのである。
488:日本@名無史さん
18/01/02 17:29:30.35 .net
▽大久保利通
大久保は岩倉使節団と別れて、一足先に帰国していた。
3月19日 岩倉使節団に、三条実美より、大久保利通および木戸孝允の帰国を願う手紙が届く。
3月28日 大久保利通 帰国に向う。
5月26日 大久保利通 帰国 →現在、帰国後17日
8月16日 大久保利通 休暇願を出し旅行に行く。 箱根、富士登山、近江、大和、紀伊、有馬など。
9月21日 大久保利通 有馬より東京に入る。
489:日本@名無史さん
18/01/02 21:14:43.59 .net
▽政治は感情
「留守中は決して大事を決めてくれるな」
「ばかにするな」
490:日本@名無史さん
18/01/02 21:22:03.78 .net
▽大隈重信
天保9年(1838年) - 大正11年
佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み、石火矢頭人(砲術長)を務める上士の家柄であった。
明治元年(1868年)、小松帯刀の推挙により、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。
URLリンク(www.wasedaweekly.jp)
491:日本@名無史さん
18/01/02 21:27:51.77 .net
キリスト教禁令に関するイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽くした。
明治3年に参議に補され、1872年には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。
明治6年5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。
492:日本@名無史さん
18/01/02 21:30:52.35 .net
「翔ぶが如く」の大隈は、最初から反征韓派=大久保派のスパイとして登場しているが、この部分は創作である。
大隈重信は、はじめは西郷の使節派遣に賛同している。大隈もまた肥前閥なのである。
また、維新早々の時期は、大久保とは距離を置いていた。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで大久保利通ら薩摩閥を牽制していた。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。
493:日本@名無史さん
18/01/02 21:39:44.05 .net
そんな大隈も、明治十四年の政変で下野するころには、大久保を高く評価するようになっていた。
「事のここに至ったのは全く薩長軋轢の関係から来たもので、邦家の前途深憂に堪えない。余は政府と縁を絶ち、野に下って学校を開き、国家有為の人材を養成せんと考えている。大久保さんが今日なお生きて居られたならば、斯かることはなかったであろう」と、両眼に涙を浮かべてはハンカチーフを取り出し、語っては目を拭き、拭いては泣き、思い出多き歎息をした。
494:日本@名無史さん
18/01/02 21:45:55.86 .net
▽佐賀藩出身者
個々にあの血なまぐさい幕末の革命運動を経験しなかったために、その意味での坊ちゃんくささがあった。
大隈は自分の才略に陶酔するところがあり、かつ才略があるかないかで他人の値打ちを見切ってしまうところがあった。
大隈は西郷のことを阿呆だと思っていた。この場合の阿呆とは、知能的な低能のことである。
495:日本@名無史さん
18/01/02 21:51:00.05 .net
▽薩長出身者
薩長の士は、個々に革命の血風のなかをくぐってきて、才略や機鋒の鋭さだけでは仲間も動かせず、世の中も動かないということを知るにいたっている。むしろなまなかな才人や策士は、革命運動の過程で幕吏の目標にされて殺されるか、仲間の疑惑をうけて殺された。
以下には、それらの才人および策士が羅列されている。
496:日本@名無史さん
18/01/02 22:08:33.77 .net
▽清河八郎
文政13年(1830年)- 文久3年(1863年)。
出羽国田川郡清川村(現:山
497:形県東田川郡庄内町)の庄内藩郷士齋藤豪寿の子。 上洛する将軍警護を名目に浪士組編成を幕府に認めさせ、上洛後に浪士組を尊皇攘夷の急先鋒へと転回させた。幕府に危険視され、文久3年(1863年)4月、江戸麻布で暗殺された。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Kiyokawahatiro.jpg/250px-Kiyokawahatiro.jpg
498:日本@名無史さん
18/01/02 22:16:55.58 .net
▽本間精一郎
天保5年(1834年)- 文久2年(1862年)
越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。
本間は故郷越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は論争に強く自己の実績を過大に喧伝していたため、彼の存在を疎ましく思う同志が殺害した。実行者は田中新兵衛および岡田以蔵といわれる。
※女性ふたりの間にある首が本間精一郎の首
URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)
499:日本@名無史さん
18/01/02 22:25:20.90 .net
▽長井雅楽
文政2年(1819年)- 文久3年(1863年)
幕末の長州藩家老。名は時庸。長州藩の名門に生れ、早くから知弁をもって聞えた。文久元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。
長井は、安政の大獄で吉田松陰が捕縛され、江戸に護送されても強硬な対抗策を取らなかった。このため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞や前原一誠らに暗殺を計画される。
500:日本@名無史さん
18/01/02 22:29:01.07 .net
文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤信正や久世広周らが坂下門外の変で失脚すると、藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。
同年3月、再度入京したが、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、毛利敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。享年45。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
501:日本@名無史さん
18/01/02 22:32:22.23 .net
“Close to the Edge”は長い歌であるが、歌詞の内容は長井雅楽の危機についてである。
URLリンク(www.geocities.jp)
502:日本@名無史さん
18/01/02 22:39:48.85 .net
▽赤禰武人
天保9年(1838年)- 慶応2年(1866年)
周防国玖珂郡柱島(現山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
元治元年 (1864)、高杉晋作の下関挙兵に反対して藩庁政府との和平論を唱えたが容れられず、長州藩を脱した。上京しようとして幕吏に捕らえられたが、長州藩討幕派の説得のために釈放され帰郷する。
しかし藩からは幕府内応の嫌疑を受けて逮捕され、鰐石河原 (山口市) で斬首された。享年29。
URLリンク(stat.ameba.jp)
503:日本@名無史さん
18/01/02 22:41:31.62 .net
もうひとり坂本龍馬の名を挙げるべきであるが、「竜馬がゆく」の売上げに悪影響を及ぼしてはならないので、割愛している。
504:日本@名無史さん
18/01/02 23:05:49.60 .net
西郷は、政治は才略よりも人格であるという考え方をとった。そのことが、大隈�
505:ノは愚物にみえた。 たしかに西郷には、大隈の指摘する愚物の面もあった。 「西郷はやたらに新政府に人を推薦してきた。そのほとんどがロクでもない連中だった」
506:日本@名無史さん
18/01/02 23:14:34.76 .net
▽紀州藩出身の詐欺漢になりかねまじい型の男
>>475のロクでもない連中の例として匿名で語られている。津田出〈いずる〉である。
天保3年(1832年)- 明治38年。和歌山藩士・官僚。通称は又太郎。号は芝山。
維新後、和歌山藩大参事となり、徴兵制・郡県制をとり入れるなど藩政改革に尽力した。廃藩置県ののち大蔵少輔、陸軍大輔、元老院議官、貴族院議員などを歴任した。ほ
507:ら吹きのハッタリ屋であり、国政という舞台ではまったくの無能者で厄介者の烙印を押され、早々に左遷させられた。 http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/blog/images/2010/08/31/s_tudaizuru.jpg
508:日本@名無史さん
18/01/02 23:16:47.13 .net
ひょっとして維新後の西郷は、オレオレ詐欺の被害者と共通する性格?
509:日本@名無史さん
18/01/02 23:32:41.19 .net
>>464
次の節で、大隈がはじめ大久保に嫌われていたことが述べられている。
そして、大隈の方から大久保に接近したと書かれているな。
510:日本@名無史さん
18/01/02 23:36:36.55 .net
大久保は、大隈が権力者である自分に取り入ろうとしている所がよいと述べている。
大久保は、福地源一郎に対して、同じようなことを述べている。
511:日本@名無史さん
18/01/02 23:37:46.62 .net
大久保は『おのれの志を世に実現しようとすれば、権力者にとり入らねばならぬ。志さえ高ければ、それを恥とすべきではない。自分は往昔、藩父の久光公に取り入り、自在に志をのべた。君も、もし世に展べるほどの志があるなら、まずおれに取り入れ』と福地源一郎に語っています。
大久保は島津久光に取り入るために、久光の好きだった囲碁まで覚えてお近づきになっています。
512:日本@名無史さん
18/01/02 23:44:06.38 .net
▽福地源一郎
天保12年(1841年)- 明治39年
長崎新石灰(しっくい)町で儒医・福地苟庵の子に生まれた。安政4年(1857年)に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。
文久元年(1861年)には柴田日向守の通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。
慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始める。
URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)
513:日本@名無史さん
18/01/02 23:56:43.75 .net
▽大隈財政
大隈の大蔵卿在任時期は明治6年10月25日から明治13年2月28日である。
しかし、実際には明治2年7月8日の大蔵省創立とともに大蔵大輔に就任して以来、事実上の大蔵省の最高責任者であり、明治14年10月11日の御前会議による参議免官(明治十四年の政変)まで大蔵省及び日本財政の責任者であった。
514:日本@名無史さん
18/01/03 00:00:54.48 .net
もともと外国官(後の外務省)にいた大隈が財政を扱うようになったのは、旧江戸幕府・明治新政府・諸藩による大量の悪金(贋金)発行の事実が発覚し、諸外国より抗議が殺到したことにより、明治政府の貨幣改革に外交交渉が付随することになったからある(高輪談判)。
515:日本@名無史さん
18/01/03 00:02:15.39 .net
大隈は、当初は参議木戸孝允の支援を受け、木戸と同じ長州藩出身の伊藤博文・井上馨や旧幕臣の渋沢栄一らを登用して、新貨条例制定、予算制度導入、造幣局・印刷局の建設、廃藩置県・地租改正の実施などに尽力する〔>>464〕。
516:日本@名無史さん
18/01/03 00:05:01.49 .net
こうした急進的な木戸・大隈路線に大久保利通は警戒を強め、得能良介・松方正義ら薩摩藩出身者を大蔵省に入れて大隈を牽制しようとしたが、後には木戸・大隈路線に譲歩した。
明治3年に大隈は参議を兼ね、明治6年には、大久保が兼ねていた大蔵卿を譲られることになったのである〔>>463 / >>465〕。
517:日本@名無史さん
18/01/03 00:10:53.51 .net
>>464
明治6年5月26日に帰国した大久保は〔>>460〕、即刻、大隈を大蔵省事務総裁にした〔>>463〕。
であるから、6月12日の征韓論に関する第一回廟議で、大隈が大久保のスパイであったというのは間違いではないと思う。
しかし、岩倉使節団が不在中の留守内閣について、不在期間中ずっと大久保のスパイをしていたというのは誤りだと思う。
518:日本@名無史さん
18/01/03 14:35:28.05 .net
>>486
そうだろうね。昨日の『田原坂』では、大隈が廟議で大久保に牙を剥いて議論をふっかけていたが、あれは違う。
江藤以上に大隈が大久保に敵対している感じだった。
帰国後すぐに大久保が大隈に大蔵省を任せるという褒美が大きかった。この時点で、大久保は大隈を取り込んだ。
519:日本@名無史さん
18/01/03 14:40:02.54 .net
>>464
したがって、大隈は反征韓派なんだが、第一回廟議では、板垣と西郷に圧倒されて遣韓大使の件に賛同してしまったということだな。
厳密にいうと典型的な征韓論は板垣で、西郷のは征韓論と反征韓論の折衷案だから、大隈も西郷案に反対する根拠を失った。
520:日本@名無史さん
18/01/03 14:45:13.57 .net
征韓論派……板垣、江藤
折衷案……西郷 ←後藤象二郎が雷同 ←大隈はしぶしぶ賛同
どっちでもいい……大木喬任
521:日本@名無史さん
18/01/03 14:59:50.71 .net
▽板垣退助
天保8年(1837年) - 大正8年
明治3年に高知県大参事。明治4年に参議。
全集の月報35・7頁の表では、明治4年7月に板垣は「参議・従四位・工部卿」になったとあるが、工部卿は???である。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
522:日本@名無史さん
18/01/03 15:08:02.94 .net
▽後藤象二郎
明治4年に工部大輔になっているが、役立たずなので在任1年未満。
現在は参議のみ。
正四位なので、明治4年12月に正三位になった板垣より身分は下。
523:日本@名無史さん
18/01/03 15:22:53.79 .net
▽大木喬任
1832年(天保3年)- 1899年(明治32年)
肥前国佐賀藩の藩士大木知喬(45石)の長男として生まれる。明治元年に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸を東京とすることに尽力した(東京奠都)。明治4年に民部卿、文部卿として学制を制定。明治5年に教部卿を兼任。
524:日本@名無史さん
18/01/03 15:23:04.19 .net
板垣・後藤に比べると官僚実務に明るかった。明治6年の政変で、副島は辞任しているが、大木は辞任していないので注意。ここ試験に出ます。
教育行政に携わるだけあって女好き。芸妓との間に岡崎えんという娘をもうけている。えんは銀座の小料理屋の女将となった。
※踏みつぶされた蛙のような顔をした大木喬任
URLリンク(pds.exblog.jp)
525:日本@名無史さん
18/01/03 15:41:49.31 .net
◆大久保邸
大隈は、第一回廟議があった夜、ひそかに大久保をその屋敷に訪ね、面会した。
大久保は先月に単身帰国したものの形式上はまだ外遊中ということになっている。参議としての職を執らず、かれが担当している大蔵省も大隈に任せたきりで、実質は静養ということでいっさい人に�
526:煢�わない。 政治は勢力である。大久保はそのことをよく知っていた。西郷や江藤や板垣らが一大勢力をなして征韓論を唱えているが、これを潰すためには勢力が必要であった。一人では何もできないと思い、岩倉以下の外遊組の要人が帰ってくるのを待っていたのである。
527:日本@名無史さん
18/01/03 20:58:41.44 .net
>>418
こげん人じゃなか。やどンしは、こげん人じゃなかとよ。
528:日本@名無史さん
18/01/03 22:44:47.22 .net
「西郷が、そう言いましたか」
529:日本@名無史さん
18/01/03 22:54:36.37 .net
大久保が西郷に「刺しちがえて死のう」と言ったのは、文久2年(1862年)の島津久光上洛のとき。
西郷は過激派志士たちの京都焼き討ちおよび挙兵の企てを止めようと試みたが、久光に誤解されて、寺田屋事件の後、徳之島への遠島処分を受けた〔>>331〕。
その際、奄美大島から西郷が帰って2ヵ月も経ないうちに再び遠島になったことに責任を感じた大久保は、西郷に「刺しちがえて死のう」と迫った。
530:日本@名無史さん
18/01/03 23:04:55.72 .net
西郷は参議・陸軍大将・近衛都督という日本一の顕職をもちながら、自分が歴史から落魄した男だというふしぎな自己規定をしていた。
事実そうであった。西郷は倒幕の英雄ではあったが、国家を建設するというこの俗で汚れた手を必要とする仕事にはまるで適かなかった。
531:日本@名無史さん
18/01/03 23:07:56.54 .net
西郷が維新後しきりに百姓をやるといっていたのは本音であった。大久保はそのことをたれよりもよく知っていた。
「西郷さあは、岡林信康ごたる」
532:日本@名無史さん
18/01/03 23:34:07.57 .net
▽東郷平八郎
弘化4年(1848年)- 昭和9年
鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限)に生まれる。西郷・大久保と同じ方限である。
鉄道技師になるために留学を希望したが、大久保に留保されていた。
これを西郷は、即座に留学させた。しかし、鉄道を学ぶためではなく、海軍を学ぶための留学であった。
URLリンク(hobbytimes.jp)
533:日本@名無史さん
18/01/03 23:40:44.98 .net
▽江藤新平〔>>172〕
江藤の薩摩切り崩しの方法は、まず西郷をおだてることであった。それによって大久保と喧嘩をさせ、大久保を斃し、しかる後に西郷を斃してから、長州を押し崩して第二維新を成就する。
534:日本@名無史さん
18/01/03 23:47:50.77 .net
江藤は、長州人の怜悧さを嫌った。反対に、薩人の公正さ、すなわち旧幕臣であっても人材とみれば抜擢した公正さを褒めていた。
しかし、それは同時に薩人は利用しやすいという意味になり、長州閥を斃すために薩閥は利用できると考えていた。
535:日本@名無史さん
18/01/03 23:49:24.26 .net
ところが、江藤が考えているほど薩人は甘くはなかった。
明治7年の佐賀ノ乱のとき西郷は江藤に手を貸さず、江藤を冷然と見捨てた。
536:日本@名無史さん
18/01/04 00:05:26.79 .net
◆島津久光
征韓論についての第一回廟議で、大隈は西郷に一喝され、小僧のように扱われたことを、生涯うらみに思った。
「実はあのとき西郷は窮しきっていたのだ」
と、大隈の西郷論は痛烈であった。西郷がなぜ征韓論のような暴論を唱えたかについてである。
「あのころの西郷の立場はどうも悲惨だったな。かれはその主君である島津久光から大悪人と罵られていて、まったく立つ瀬をうしなっていた」
と、大隈はいう。
537:日本@名無史さん
18/01/04 00:21:57.22 .net
西郷にジゴロと罵られた久光は、殿様なのに何故おんなのヒモになっていたのですか?
538:日本@名無史さん
18/01/04 10:41:08.81 .net
地五郎は田舎者という意味
539:日本@名無史さん
18/01/04 11:38:20.88 .net
地五郎
540:日本@名無史さん
18/01/04 11:45:40.49 .net
▽島津斉彬〔>>339〕
安政4年(1857年)の阿部正弘の死後、斉彬は、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。第13代将軍・徳川
541:家定が病弱で嗣子がなかったため、次期将軍に斉昭の子の慶喜を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。
542:日本@名無史さん
18/01/04 11:46:05.86 .net
一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。その結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。
543:日本@名無史さん
18/01/04 11:46:53.63 .net
斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、安政5年(1858年)7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧中に発病し、7月16日に死去した。享年50。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
544:日本@名無史さん
18/01/04 12:00:48.92 .net
島津斉彬 (第28代島津家当主/1809-1858) … 渡辺謙
URLリンク(pbs.twimg.com)
喜久 (斉彬側室) … 戸田菜穂
URLリンク(contents.oricon.co.jp)
篤姫 (徳川家定継室/1836-1883) … 北川景子
URLリンク(pablo.click)
幾島 (篤姫女中頭/1808-1870) … 南野陽子
URLリンク(storage.mantan-web.jp)
545:日本@名無史さん
18/01/04 12:07:22.13 .net
阿部正弘 (老中/1819-1857) … 藤木直人
URLリンク(pbs.twimg.com)
徳川斉昭 (前水戸藩主・慶喜父/1800-1860) … 伊武雅刀
URLリンク(pds.exblog.jp)
徳川家定 (第13代将軍/1824-1858) … 又吉直樹
URLリンク(storage.mantan-web.jp)
井伊直弼 (大老・彦根藩主/1815-1860) … 佐野史郎
URLリンク(archives.bs-asahi.co.jp)
546:日本@名無史さん
18/01/04 12:14:24.34 .net
▽お由羅騒動
別名は高崎崩れ。
祖父・島津重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた父・斉興や、家老・調所広郷などの重臣達が、久光を後継者にと望んでいた。
久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬が、この頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていた。
547:日本@名無史さん
18/01/04 12:16:05.91 .net
それに対し、斉彬の家督相続を希望していた勢力もある。斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘である。
琉球を実効支配し外洋にも面していた薩摩藩は、この当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれることが多々あった。このため、海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。
548:日本@名無史さん
18/01/04 12:20:37.84 .net
島津斉興は、嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬が将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていたため廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。
※島津斉興 (第27代島津家当主/1791-1859) … 鹿賀丈史 URLリンク(i.imgur.com)
549:日本@名無史さん
18/01/04 12:23:30.69 .net
その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となった。この頃には嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが習慣であり、この事態は異常であった。国元の�
550:瘤阡ヒ士を中心として、斉興と調所に対する不満が高まっていた。 ※調所広郷 (薩摩藩家老/1776-1849) … 竜雷太 http://news-topics24.com/wp-content/uploads/2017/11/01-zusho_hirosato.jpg
551:日本@名無史さん
18/01/04 12:26:29.95 .net
斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば改易になりかねない手段に打って出た。
調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう、一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。
552:日本@名無史さん
18/01/04 12:32:55.56 .net
お由羅の方は久光擁立派の調所に同情していたらしく、調所の遺児を密かに側用人として召抱えるなどして支援していた。
一方、斉彬は多数の子女を設けていたものの、その多くが幼少の間に死亡しており、生き残っていたのは女子3人だけであった。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣を排除しようと計った。
※由羅 (斉興側室・久光生母/1795-1866) … 小柳ルミ子 URLリンク(taigaiine.com)
553:日本@名無史さん
18/01/04 12:38:34.47 .net
嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。
その機先を制するかのように、同年12月3日(1850年)、斉彬派の重鎮である近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門が、久光とお由羅の暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された。
554:日本@名無史さん
18/01/04 12:41:57.84 .net
同じ罪状で赤山靭負ら3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島などの処分が下された。その際に、これを恥じて自殺したものも多い。また、騒動の前に病没していた二階堂主計は士籍を剥奪されるなど、斉彬派へ徹底した弾圧がおこなわれた。
この禍は江戸屋敷にまで及び、嘉永3年4月26日(1850年)、島津壱岐は更迭され隠居謹慎を命ぜられ、下命の2日後に切腹した。ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。
555:日本@名無史さん
18/01/04 12:49:39.28 .net
※赤山靱負久普(ひさひろ)〔>>248〕 (薩摩藩重臣/1823-1850) … 沢村一樹
URLリンク(samurai-hi.com)
556:日本@名無史さん
18/01/04 12:49:57.83 .net
※桂久武 (赤山靱負の弟/1830-1877) … 井戸田潤
斉彬の死の直後の文久元年(1861年)には奄美大島守衛方・銅鉱山方に左遷される。このころに流刑中であった西郷隆盛と親交を結ぶ。
西南戦争従軍後は、薩軍の輜重の責任者をつとめた。明治10年9月24日、城山において流れ弾に当たり戦死した。
URLリンク(pbs.twimg.com)
557:日本@名無史さん
18/01/04 12:52:28.58 .net
西郷吉之助は、父・吉兵衛から、吉兵衛が御用人をしており介錯を務めた赤山靭負の切腹の様子を聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願う様になる〔>>248〕。
また、大久保利通にとってはさらに影響が大きく、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免の上、鬼界島に遠島になり、自らも記録所書役助を免職され謹慎となるなど非常に困窮した。これを西郷が援けたという。
558:日本@名無史さん
18/01/04 13:16:52.55 .net
斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派藩士は、福岡藩に逃げ込んだ。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父であり、実弟の八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部正弘に事態の収拾を訴えた。
阿部正弘は、将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したのである。将軍の命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851年)、遂に斉興は42年間勤めた藩主の座を明け渡し、家督を斉彬に譲った。
559:日本@名無史さん
18/01/04 13:20:04.67 .net
騒動の首謀者とされるお由羅の方には、その後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866年)に鹿児島で死去した。
なお、海音寺潮五郎によると、この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「斉彬の蘭癖が藩を潰すという懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたことが、久光と西郷の確執の原因であるという〔>>330〕。
※島津久光 (斉彬異母弟/1817-1887)…青木崇高
URLリンク(webbizinfo.xsrv.jp)
560:日本@名無史さん
18/01/04 13:24:52.74 .net
「翔ぶが如く」のこの箇所では、お由羅騒動が詳しく書かれているわけではないが、もうすぐ「西郷どん」の放送開始なので、少し詳しく調べてみた。配役から考えて、お由羅騒動は「西郷どん」で詳しくやると思う。
561:日本@名無史さん
18/01/04 13:34:28.29 .net
▽廃藩置県
明治4年7月4日、兵部少輔山縣有朋の下に居合わせた同藩出身の鳥尾小弥太と野村靖が、会話のうちに薩摩藩出身の実力者たちが廃藩置県に慎重な姿勢を見せていた状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。
翌日に2人は、大蔵省を切り回す井上馨を味方に引き入れ、7月6日に、井上は木戸を、山縣は西郷隆盛を説得した。
562:日本@名無史さん
18/01/04 13:38:23.65 .net
廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、7月9日、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山厳、木戸孝允、井上馨、山縣有朋の7名が、木戸邸で案を作成した。予想される抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な御親兵をもって鎮圧することが計画された〔>>289-290〕。
明治4年7月14日(1871年)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。
563:日本@名無史さん
18/01/04 13:42:30.52 .net
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。旧藩主家の収入には旧藩の収入の一割が当てられ、旧藩士への家禄支給の義務および藩の債務から解放された。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。そこで明治4年10~11月には3府72県に統合された。URLリンク(co-smart.net)
564:日本@名無史さん
18/01/04 14:08:33.61 .net
明治3年12月18日、当時鹿児島にいた久光と西郷を中央政界に呼び戻すべく、勅使岩倉具視と大久保利通が鹿児島を訪れた。この段階の明治政府の懸案として、「廃藩置県」という一大改革も含まれていた。
久光は病気であったため上京することが出来なかったが、代わりに西郷を政府へ派遣することを決めた。西郷と大久保が鹿児島を旅立つ前日、久光は二人に対して、「わしは廃藩には不同意じゃ。そのところをよく含んで、これから相勤めるように……」と語ったことが伝わっている。
565:日本@名無史さん
18/01/04 14:08:48.15 .net
▽明治天皇の西国巡幸
久光にとっては突然の廃藩�
566:フ命令はまったく寝耳に水のことであった。保守的な久光は、藩を潰そうなどという料簡などさらさらなかった。 明治5年6月22日から7月2日にかけて、明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に滞在した。島津久光は、6月28日に政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を奉呈する。
567:日本@名無史さん
18/01/04 14:11:59.58 .net
その際、西郷が久光のもとに一言の挨拶にも来なかったという理由から、久光は太政大臣の三条実美宛に西郷を非難する文章を送りつけた。これに驚いた西郷は、急遽鹿児島に戻った。鹿児島で待っていた久光は、西郷に対して、十四カ条からなる罪状を突き付けた。
568:日本@名無史さん
18/01/04 15:26:37.07 .net
久光は直前に釘を刺しておいたのに、約束を破られれば、そりゃ怒る。
569:日本@名無史さん
18/01/04 15:27:32.11 .net
その後、大久保は岩倉使節団に混じって海外へ逃げる。そりゃ狡い。
570:日本@名無史さん
18/01/04 15:28:01.10 .net
留守政府がブチ切れるのも無理はないな。
571:日本@名無史さん
18/01/04 15:30:44.85 .net
明治5年に西郷が天皇に供奉して鹿児島へ行ったときも、大久保は外遊中だ。ズルい。
572:日本@名無史さん
18/01/04 15:31:31.97 .net
西郷は久光に会わせる顔がないわな。
573:日本@名無史さん
18/01/04 15:38:06.30 .net
西郷は一方では自分の作った明治政府を愛さざるを得ない立場にあり、一方では没落士族への際限ない同情に身をもだえさせなければならない。
空前絶後の大矛盾であった。
574:日本@名無史さん
18/01/04 15:47:40.52 .net
◆西郷隆盛
要するに大隈のみるところでは、西郷は個人的窮境のなかにあり、折から征韓論という対外論が発生したとき、
「自分はこれで死のう」
と、死所をそこに見出したのだという。
「西郷は英雄でも豪傑でもない」
と、大隈は、西郷とともに数年太政官ですごしてそれがわかった、という。
しかし、大隈の感覚ではとうてい捉えられないところが西郷にあった。
575:日本@名無史さん
18/01/04 17:29:55.00 .net
▽庄内藩
幕臣の沼間守一〔>>42〕が、秋田庄内戦争において庄内藩とともに戦っているので、そのときに説明している〔>>63-65〕。
ここでは、西郷隆盛による戦後処理に限定して説明する。
576:日本@名無史さん
18/01/04 17:33:29.27 .net
▽新徴組
文久3年(1863年)1月に結成された江戸幕府による警備組織である。
清河が暗殺されると清河の同志達も次々と捕縛されたため、浪士組は組織目的を失う。幕府は浪士組を新徴組として再組織した。屯所は江戸の本所(東京都墨田区)に設置し、取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎が就いた。
577:日本@名無史さん
18/01/04 17:36:55.71 .net
文久3年(1863年)10月、幕府より江戸市中警護・海防警備の命令を受け規律を取り戻すと、元治元年(1864年)には庄内藩酒井家の御預かりとなる。
慶応4年(1868年)、放火・掠奪・暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、江戸薩摩藩邸の焼討事件を引き起こし戊辰戦争の発端を作った。この焼き討ちにより、品川などで火災が一日中続く。
578:日本@名無史さん
18/01/04 17:40:25.07 .net
▼相楽総三
天保10年(1839年)、下総国相馬郡(現茨城県取手市)の郷士で大富豪の小島兵馬の四男として江戸・赤坂に生まれる。本名は小島四郎左衛門将満。西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった。
579:日本@名無史さん
18/01/04 17:41:29.29 .net
運動とはいえ総三らがやったことは、掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。
これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実とするためであった。西郷の策は成功し、屯所を襲撃された庄内藩が、薩摩藩邸を焼き討ちする(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。これが、鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。
580:日本@名無史さん
18/01/04 17:42:46.54 .net
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると、赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍する。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍する。
しかし、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は下諏訪宿で捕縛される。同年3月、下諏訪で処刑。享年30。
581:日本@名無史さん
18/01/04 17:51:47.54 .net
▽明治元年9月27日
西郷隆盛は、庄内藩の降伏とともに鶴岡城に入る〔>>275〕。
奥羽鎮撫参謀は、大山格之助〔綱良 / >>390-393〕と黒田了介〔清隆 / >>275〕。
582:日本@名無史さん
18/01/04 17:57:43.47 .net
▽酒井忠篤〈ただずみ〉
嘉永6年(1853年)2月13日、第9代藩主・酒井忠発(ただあき)の五男として生まれる。文久2年(1862年)、義兄で第10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として跡を継ぐ。
庄内藩は弟の忠宝〈ただみち〉が藩主となり、12万石に削減された上で存続を許された。明治2年、忠篤は罪を許され、明治3年に薩摩に移った。
URLリンク(stat.ameba.jp)
583:日本@名無史さん
18/01/04 18:08:06.18 .net
左衛門尉酒井家の当主の名前は、たいへん読みにくく、かつ覚えにくい。復習しておく。
第10代:酒井忠器〈ただかた〉……第11代忠発〈ただあき〉の父。
第11代:酒井忠発〈ただあき〉
第12代:酒井忠寛〈ただとも〉……第11代忠発〈ただあき〉の弟。
第13代:酒井忠篤〈ただずみ〉……第11代忠発〈ただあき〉の五男。
第14代:酒井忠宝〈ただみち〉……第11代忠発〈ただあき〉の六男。
584:日本@名無史さん
18/01/04 18:14:36.10 .net
▽高島鞆之助
天保15年(1844年)- 大正5年。陸軍軍人。
明治維新後、侍従番長・教導団長をつとめ、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征した。
その後、熊本鎮台・大阪鎮台各司令長官を歴任。1891年5月、松方正義内閣の陸相となった。
その後、第2次伊藤博文内閣の拓相、第2次松方内閣の拓相兼陸相となり薩閥の巨頭として活躍。93年予備役に入り枢密顧問官となった。
URLリンク(www.kagoshima-yokanavi.jp)
585:日本@名無史さん
18/01/04 18:21:53.67 .net
西南戦争のときには庄内藩士団が「戊辰の恩にむくいるため」といって鹿児島にかけつけた。
『田原坂』では、伴兼之(西川弘志)と榊原政治(砂川真吾)が登場していた。
彼らは、西南戦争時に私学校で学んでいた庄内藩からの留学生で、薩軍と行動を共にした。
URLリンク(www.officiallyjd.com)
586:日本@名無史さん
18/01/04 18:29:10.38 .net
西郷には、戊辰戦争で庄内藩を斃し、かつ庄内藩を救った体験がある。
「朝鮮に対してもその流儀で刺激し、開国させて世界性をもたせ、ともに列強の侵略を防ぐ」という計略が、西郷の征韓論であった。
それは、日本の幸福であるとともに、朝鮮の幸福であり、かつ朝鮮の国都で殺される西郷の幸福でもあった。
587:日本@名無史さん
18/01/04 18:42:38.03 .net
人間の行動を100%論理で解明することはできないのだが、他人である読者に理解してもらおうと思えば、論理を駆使するほかない。
西郷の心情に関する司馬さんの叙述は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと複雑だけど、まずまず真相を捉えているような気はします。
588:日本@名無史さん
18/01/04 19:03:06.72 .net
西郷人気というのは、典型的な判官贔屓である。
589:リアル世界で権力者になれず非業の死を遂げた義経・幸村・隆盛を、せめてヴァーチャル世界では英雄にしておいてやろうという日本人の優しさだと思う。判官贔屓という日本人のメンタリティが失われれば、日本人のアイデンティティが失われるような気がする。
590:日本@名無史さん
18/01/05 00:28:25.57 .net
▽鬼籌
籌を訓読みすると、はかりごと。
しかし、まあ神算鬼籌の四字熟語以外で使われることはない。
それすらめったに使われなくて検索したら、使用例として『翔ぶが如く』のこの部分がヒットして、わろうてもた。
591:日本@名無史さん
18/01/05 00:43:29.06 .net
遣韓大使の件が俎上に上ってから、西郷は健康を気遣うようになった。
ここでホフマン先生が再登場する〔>>453〕。
そんなに有名な先生ではないみたいだね。
592:日本@名無史さん
18/01/05 00:46:03.52 .net
ホフマン先生は、西郷さんに下剤ダイエットを施しました。
下剤ダイエットで痩せたという効果を得たという口コミなどが多く見られますが、危険ですので絶対にやめましょう。下剤はあくまでも便秘を解消するための医薬品なのでダイエット目的で使うものではありません。真似しないでください。
593:日本@名無史さん
18/01/05 00:50:55.67 .net
大久保利通が明治6年5月26日に帰国してから〔>>460〕、西郷はしばしば大久保宅を訪ね、征韓論の話はしていたらしい。
両者の溝は深くなるばかりであったが。
大久保は留学中の大山巌に手紙を出して、西郷のことをぼやいていたらしい。以下、大山巌の話が挟まれる。
594:日本@名無史さん
18/01/05 01:12:34.90 .net
▽大山巌
天保13年(1842年)- 大正5年
鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。
明治2年に渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年から6年の間はジュネーヴに留学した。
※大河ドラマ「西郷どん」の大山弥助役は、まだ決まっていない。
弥助は吉之助より14歳の年下。従弟とはいっても、叔父さんくらいに年齢が離れている。
URLリンク(kotobank.jp)
595:日本@名無史さん
18/01/05 01:16:02.12 .net
映画『二百三高地』で、児玉源太郎が親しみをこめて大山元帥を「ガマ坊」の渾名で呼んでいた。
たしかに顔がガマに似ている。
596:日本@名無史さん
18/01/05 01:19:05.38 .net
弥助は西郷慎吾よりは、一歳年長だよ。
『田原坂』の寺田屋の変のところでは、慎吾が弥助をリードしている感じだったけど、あれは逆だと思う。
あの年代の一歳の違いは大きいよ。
597:日本@名無史さん
18/01/05 01:37:10.40 .net
▽鉄砲
司馬さんは、戦国時代の合戦で火縄銃が最初に使われた合戦は、毛利元就の厳島合戦(1555年)か、島津貴久の岩剣城の戦い(1554年)としているが、岩剣城の戦いでよい。1543年(天文12年)に種子島に鉄砲が伝来してから11年後のことである。
598:日本@名無史さん
18/01/05 01:42:05.12 .net
▽岩剣城の戦い
天文19年(1550)12月に鹿児島の御内城に入って名実ともに島津氏当主の地位を継承した島津貴久は、すでに平定した薩摩半島に続いて大隅国平定へと目を向けていた。
薩摩・大隅の国境から別府川下流の帖佐や加治木周辺は貴久の父・島津忠良の時代から幾度となく係争が繰り返されており、当時の加治木城は島津氏に属す肝付兼演が守備していた。しかし天文23年(1554)9月、別府川上流を本貫地とする国人領主・蒲生範清がこの加治木城に向けて侵攻し城を包囲した。貴久はこの加治木城救援の前段として、加治木への往来を扼す岩剣城の制圧を目論んだのである。
599:日本@名無史さん
18/01/05 01:44:47.88 .net
戦国ドラマの主人公は平和主義者に設定されることが多いが、同時に西洋から伝来した最新兵器にいち早く着目する先見の明のある人物とも設定される。この矛盾にいつ気づいてくれるのだろうか?
600:日本@名無史さん
18/01/05 01:50:59.99 .net
▽大山解綱
おりました。大山巌元帥の御先祖に大山解綱なる人物がおりました。司馬さんのおっしゃるとおりです。
「綱次の子織部解綱も亦驍勇無雙の士で、天文二十三年九月晦日、隅州岩劍城の戰に、第十五代太守島津貴久公の旗下に在つて奮戰激鬪し、星原の戰場に於て名譽の戰死を遂げた」
601:日本@名無史さん
18/01/05 01:53:12.68 .net
司馬さんは、こうもおっしゃっておられる。
「わが国における銃創による最初の死者ともいえるかもしれない」
602:日本@名無史さん
18/01/05 01:55:09.81 .net
司馬さんお得意の余計な一言ですね。わかります( ̄ー ̄)ニヤリ
603:日本@名無史さん
18/01/05 02:12:01.23 .net
▽大山綱昌
通称は彦八。大山家に養子入りする前は西郷小兵衛と称していた。養父綱毅は一代小番まで進んだが、綱昌は出世の道を捨てて、生涯を砲術研究にゆだねた。ただし研究していた砲術の流派と砲術師範になったかどうかは不明である。
実兄が吉之助の父吉兵衛である〔>>248〕。
家督は大山彦八成美が継ぐ。幕末小説によく出てくる彦八は、息子の彦八。いうまでもないが弥助の兄。
604:日本@名無史さん
18/01/05 02:22:21.90 .net
脱線するが、息子の大山彦八成美と結婚したのが、吉之助の妹の西郷安。いとこ婚である。
天保10年(1839)生まれ。西郷家の三女で、7人きょうだいの5番目(従道のすぐ上)。下加治屋町の大山家は、西郷家の実家から四軒を隔てたすぐ近所であった。
※西郷安 (妹/1839-?) … 佐藤心美(子役)
URLリンク(hollywoodlatte.com)
URLリンク(stat.ameba.jp)
605:日本@名無史さん
18/01/05 02:26:31.60 .net
※『田原坂』では、新井春美
URLリンク(www.tv-ranking.com)
606:日本@名無史さん
18/01/05 02:30:24.33 .net
脱線ついでに、安の姉の琴さんも。
その前に西郷七人兄弟を年齢順に並べてみる。
長男隆盛 →長女琴 →次男吉二郎 →次女鷹 →三女安 →三男従道 →四男小兵衛
607:日本@名無史さん
18/01/05 02:36:25.19 .net
ちょっと待って。早いよ。>>568には続きがある。
夫の薩摩藩士・大山成美は、薩長同盟締結から2日後の慶応2年1月23日に坂本龍馬が寺田屋で伏見奉行の捕吏に襲われたとき、伏見の薩摩藩邸から川船を出して龍馬を救出した大山彦八のことである。
大山安は、万延元年(1860)頃、辰之助を産む。明治10年(1877)5月7日、西南の役に出征した息子の大山辰之助が、鹿児島の甲突川で戦死(16歳)。
608:日本@名無史さん
18/01/05 02:36:51.77 .net
※『田原坂』の大山辰之助は宮川一朗太
URLリンク(www.japan-zone.com)
609:日本@名無史さん
18/01/05 02:39:19.26 .net
それ、宮川一朗太じゃなくて、内村だからw
URLリンク(image.tmdb.org)
610:日本@名無史さん
18/01/05 02:42:07.35 .net
それも内村だからwww
松田優作に迫られる宮川一朗太
URLリンク(newnews.in.net)
URLリンク(yumeijinhensachi.com)
URLリンク(blog-imgs-54.fc2.com)
611:日本@名無史さん
18/01/05 02:44:51.93 .net
そろそろ琴姉さん、やっていい?
612:日本@名無史さん
18/01/05 02:45:05.00 .net
いいよ
613:日本@名無史さん
18/01/05 02:54:24.91 .net
▼西郷琴
天保3年(1832年)- 大正2年。西郷吉兵衛の長女。吉之助の5歳下の妹。
薩摩藩士市来正之丞の妻となる。母の実家の椎原家と並んで、市来家は西郷家にとって親密な縁戚であり、両家への西郷隆盛の書簡が多く残っている。
614:日本@名無史さん
18/01/05 02:54:37.55 .net
※西郷琴 (妹/1832-1913) … 栗本有規(子役)→桜庭ななみ
URLリンク(mighpa.xsrv.jp)
URLリンク(i.ytimg.com)
URLリンク(image.news.livedoor.com)
URLリンク(im3-a.mbokimg.dena.ne.jp)
615:日本@名無史さん
18/01/05 03:04:03.04 .net
※『田原坂』の琴は、赤座美代子
URLリンク(s.yimg.jp)
琴の夫の名は、市来六左衛門になっている:井川比佐志
URLリンク(img.news.goo.ne.jp)
616:日本@名無史さん
18/01/05 03:05:47.82 .net
琴の子が、市来宗介:新田純一
URLリンク(tisen.jp)
617:日本@名無史さん
18/01/05 03:07:11.16 .net
市来宗介が西郷菊次郎とともにアメリカへ留学したのは、明治5年の2月。
618:日本@名無史さん
18/01/05 03:15:11.41 .net
「西郷どん」は次女の鷹も登場させるみたいだね。鷹は、文久2年には死んでしまう。
※西郷鷹 (妹/1837-1862) … 石井心咲 →渡来るひか →原舞歌
URLリンク(www.smile-monkey.com)
URLリンク(www.smile-monkey.com)
URLリンク(pbs.twimg.com)
子役は三人バトンタッチなのか?
619:日本@名無史さん
18/01/05 03:17:14.00 .net
鷹は、薩摩藩士三原伝左衛門に嫁いでいる。
長女は産んだようだが、男子は産めなかったようだ。
620:日本@名無史さん
18/01/05 03:18:55.45 .net
どこから脱線したか、わからなくなったなw
大山巌の父綱昌の名前が出たところからだな。>>567
621:日本@名無史さん
18/01/06 13:48:29.42 .net
▽ゼームス・ファブルブラント〈James Favre-Brandt〉
1841-1923 スイスの貿易商。
司馬さんはファーブルが名でブラントが姓であると勘違いされているが、ファブルブラントが姓。
文久3年 (1863) 遣日使節団長アンベールらとともに来日。横浜に定住してスイス時計の輸入・販売をおこない、時計製作技術研修生をスイスに派遣した。
URLリンク(www7b.biglobe.ne.jp)
622:日本@名無史さん
18/01/06 13:54:29.85 .net
ファブルブラント商会は元治元年(1864)に横浜54番で設立されたが、慶応2年(1866)、有名な豚屋火事で類焼し、其の後175番に移転して関東大震災(大正12年)で被災廃業するまで同地で営業していた。
URLリンク(blog.hama1.jp)
※ファブルブラント商会の年賀状〔明治42年〕URLリンク(www.kodokei.com)
623:日本@名無史さん
18/01/06 14:01:05.90 .net
ファブルブラントは、司馬遼太郎「峠」の主要登場人物である。幕末の薩摩藩及び敵対する河井継之助の長岡藩に大量の武器を売っている。
「死の商人」として財を成したが、イメージ・ダウンを避けるため、時計商を表看板にしていた世渡り上手である。
本章では、大山弥助が武器買付に横浜を訪れた話が出ている。大山とファブルブラントの親交は深かった。
624:日本@名無史さん
18/01/06 14:14:25.42 .net
▽黒ラシャ・金モール入りの軍服
「ラシャ」はポルトガル語の raxa。12世紀ころセルビアの首都ラサで産した毛織物であるため、この名称で呼ばれ、南蛮貿易により日本へ渡来した。漢字表記は「羅紗」。
「金モール」は、軍服の片肩から前部にかけて吊るされる飾り紐のことで、正式名称は「飾緒(しょくしょ)」。材質に金銀糸が使用されることからモールとも呼ばれている。
URLリンク(www.hanayome.biz)
625:日本@名無史さん
18/01/06 14:15:12.
626:52 .net
627:日本@名無史さん
18/01/06 14:19:50.09 .net
大山弥助はおしゃれで、黒ラシャ・金モール入りの軍服を、蛤御門の変のときにはすでに着用していた。
おれ個人の趣味としては、『田原坂』で桐野少将が着用していた軍服が好きだ。
URLリンク(www.mohkacc.jp)
628:日本@名無史さん
18/01/06 14:34:52.99 .net
最近、過去の記憶がカオスになりつつある。
『ギルガメッシュないと』のイジリー岡田と、『TV海賊チャンネル』の「ティッシュタイム」と、『グッドモーニング』のオナッターズという三つの記憶がカオスになっている。
『ギルガメッシュないと』で「ティッシュタイム」と南麻衣子が言うと、エロビデオが流れて、あと少しというところでイジリー岡田のアップが映されていたような記憶になっている。余談である。
629:日本@名無史さん
18/01/06 14:41:40.84 .net
▽弥助砲
先日、九段下に行ったところ、交差点そばの歩道に妙な物が立っているのをみつけました。どうやら大砲の砲身のようです。さて、この大砲の正体は何者かと調べてみると「弥助砲」であるとの説明が一般にされているようです。
弥助砲とは、明治初期に日本で生産された2種の大砲の通称で、薩摩藩の砲兵隊にいた大山弥助(後の元帥大山巌)が開発しました。
URLリンク(blog-imgs-34-origin.fc2.com)
630:日本@名無史さん
18/01/06 14:44:41.34 .net
弥助砲には、幕末の主力火砲であるフランス製四斤山砲を長砲身化したものと、十二斤臼砲の二種がありますが、そのうちの四斤山砲型であると伝えられているようです。
四斤山砲型は、薩摩藩の集成館及び大阪造兵廠(明治3年以降)で相当数が生産されています。なお、「斤」といっても英式重量ポンドではなく、フランス式なのでkg表記であり、砲弾重量が4kgであることを示します。
URLリンク(img01.militaryblog.jp)
631:日本@名無史さん
18/01/06 14:55:08.19 .net
▽観戦武官
この制度の起源は明らかではないが、19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため自然に消滅した。
日本では、1870年に普仏戦争を大山巌が観戦している。また、1898年の米西戦争では秋山真之海軍大尉・柴五郎陸軍少佐(義和団の乱では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。
632:日本@名無史さん
18/01/06 15:06:40.78 .net
▼普仏戦争
フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。
普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
633:日本@名無史さん
18/01/06 15:08:25.87 .net
当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した。
次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。
634:日本@名無史さん
18/01/06 15:10:58.42 .net
戦争の直接的な要因は、1868年に空位となっていたスペインの王位にプロイセン王の親戚ホーエンツォレルン家レオポルトが推挙されたことにある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。
フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。
635:日本@名無史さん
18/01/06 15:13:44.82 .net
フランスとの開戦準備を進めていたプロイセン宰相ビスマルクは、この事件をめぐるプロイセン王ヴィルヘルム1世からのフランスとの交渉報告電報を、“フランス大使の非礼な要求に立腹したプロイセン国王がフランス大使を強く追い返した”ように編集して、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。
ヴィルヘルム1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。
636:日本@名無史さん
18/01/06 15:14:55.40 .net
エムス電報事件に刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌7月15日に動員令を発令した。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。
637:日本@名無史さん
18/01/06 15:34:20.36 .net
この戦争を予測していたプロイセンは、普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣し、観光客にまぎれこませて偵察させ、地図を作成するなど万全な準備を整えていた。
参謀総長大モルトケ率いるプロイセン軍は、フランス軍正面と右翼を攻撃した。フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。
638:日本@名無史さん
18/01/06 15:38:36.57 .net
ナポレオン3世は自ら戦地に赴きセダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動に出ていた。
フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の9月4日、ナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための新政府の設立が決議された。
※セダン URLリンク(www.vivonet.co.jp)
639:日本@名無史さん
18/01/06 15:44:30.08 .net
プロイセン軍は、各地の要塞や残存部隊を包囲し、各個撃破しつつパリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された。
プロイセン軍は、背後にあるメッツ要塞のバゼーヌ元帥指揮の軍団を警戒して、一気に攻め込むことはしなかった。
10月27日、メッツ要塞で大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
640:日本@名無史さん
18/01/06 15:54:58.65 .net
1871年1月5日、パリに砲撃開始。
同年1月18日、パリ砲撃が続く中、プロイセン王はヴェルサイユ宮殿で、新しく樹立されたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世として即位した。
URLリンク(bundestor.com)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(kotobank.jp)
641:日本@名無史さん
18/01/06 16:00:38.88 .net
大山巌にふれているのは、同じ薩摩人でも、東京にいる者とフランスにいる者とがまったく別な体験をし、国家についての危機感に関しても別種なものを抱くにいたっていることを理解したいためである。
けっして世界史の復習をするためではない。
642:日本@名無史さん
18/01/06 16:04:45.48 .net
▽モンパリヤン堡
モンパリヤン堡 に一致する情報は見つかりませんでした。
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643:日本@名無史さん
18/01/06 16:14:43.08 .net
▽明治5年1月9日
司馬さんは、この日、大山弥助がパリに入ったと叙述されている。これは普仏戦争観戦のための外遊のときではない。
大山は普仏戦争終了後、一度日本へ帰国している。明治4年12月3日に、再び渡欧している。
まえの段落からの流れだと、ドイツ軍によるパリ陥落後の話のように読めるが、お間違えのないように。
644:日本@名無史さん
18/01/06 16:20:12.10 .net
明治2年、普佛戰爭に際し、29歳の壯齡で選まれて渡歐した公は始終、普軍に從ひ、その本營にあつて戰況の進行と共に巴里に進み、巴里攻圍の實戰を目撃して、大いに自家の戰術に裨益するところがあつた。
翌3年1月巴里陷落と共に入城し、一旦歸朝し、竪4年12月3日31歳にして再び渡歐、明治5年は巴里に住んで書生生活を營み、フランス語の勉強などをしてゐたのであるか、元來の目的は砲術の研究にあるので5年の秋頃から瑞西のゼネバヘ行つた。
645:日本@名無史さん
18/01/06 16:22:36.12 .net
そして明治7年10月3日、34歳になつて歸朝したのであつた。歸朝した時、大山公は恐らく日本第一のハイカラであり、新知識であつたらしい。少くとも實地に見學修得した歐洲諸強國の戰術軍制は、公の頭腦を異常に發逹させ、公をして其後も永く、日本陸軍部内に於ける進歩派たらしめるに十分であつた。
646:日本@名無史さん
18/01/06 17:53:56.80 .net
▽Grand Hotel de Paris
大山は明治5年1月9日にパリに入り、幕末以来日本の高官の定宿のようになっているグランドホテルに投宿した。
画像で見ると五階建てである。川路・河野・沼間が投宿した宿も五階建てであった。
ルーヴル美術館から200mというのも、司馬さんの叙述と合致する。特定しましたよ〔>>60〕。
URLリンク(images.xaccom.com)
URLリンク(img1.superbreak.net)
URLリンク(www.unnamedproject.com)
647:日本@名無史さん
18/01/06 18:02:40.92 .net
このホテルから大山弥助は、仏蘭西がなぜ普仏戦争に敗れたかの理由を、山縣有朋宛に書き送っている。
「ヨーロッパのいかなる小国の士官学校にも、プロシアは留学生を最低七、八人は送っています。ヨーロッパ諸国でそういうことをしないのは仏蘭西だけです」〔>>600〕
648:日本@名無史さん
18/01/06 18:03:36.88 .net
大山弥助は、この留学中にスイスを好きになっている。
649:日本@名無史さん
18/01/06 18:11:22.61 .net
▽スイス
ローマ時代にはケルト人の一派が居住していたが、カエサルのガリア進出の際にこの地もローマの属州とされた。ゲルマン民族の移動によって、ブルグンド族などの支配を受けた後、フランク王国の領土となった。
ケルト人は、中央アジアからヨーロッパに来たインド・ヨーロッパ語族で、ケルト語派を話す人達です。特に、ガリアと呼ばれる地域に住んでいたケルト人をガリア人と呼んでいます。
※ケルト人の美女
URLリンク(m.msmstatic.com)
650:日本@名無史さん
18/01/06 18:13:06.11 .net
ついで神聖ローマ皇帝がイタリア政策を遂行するための重要な交通路としたために、皇帝の直轄地とされた。特にサン・ゴタール峠はドイツとイタリアを結ぶルートとして重視された。スイスの出身であるハプスブルク家が皇帝位に付くと、本拠をウィーンに移してからもスイスを直轄地として支配し、圧政を加えた。
651:日本@名無史さん
18/01/06 18:20:46.42 .net
ハプスブルク家の支配に対して、1291年、ウーリ・シュヴィーツ・ウンターリンデンの三州が協力して「自由と自治」を守るための「永久同盟」を結成した。この誓約はスイス国家の出発点とされ、この三州は「原初三州」といわれている。
1316年には神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世によって承認され、次第に周辺の州も同盟に加わり、1353年には8州による「盟約者団会議」が成立した。
URLリンク(www.geocities.jp)
652:日本@名無史さん
18/01/06 18:25:38.97 .net
スイスに対する支配権を回復しようとするハプスブルクの騎士軍を1386年のゼンパハの戦いでスイス民兵が破り、その後の戦闘でもスイス側が勝利し、1389年には実質的独立が達成された。
なおもハプスブルク家の名目的な支配が続いたが、1499年のシュヴァーベン戦争で最終的にハプルブルク帝国からの分離が確定した。
URLリンク(www2m.biglobe.ne.jp)
URLリンク(skyticket.jp)
URLリンク(d18gmz9e98r8v5.cloudfront.net)
URLリンク(d2ygv0wrq5q6bx.cloudfront.net)
653:日本@名無史さん
18/01/06 18:28:27.67 .net
ア ホレ スイスイ スーダララッタ スラスラ スイスイスイ ♪
URLリンク(www.hakubutu.jp)
654:日本@名無史さん
18/01/06 18:31:12.02 .net
スイスの独立運動というと、ウィリアム・テルの話が有名である。ウーリ州のアルトルフという村で圧政をしく神聖ローマ帝国ハプスブルク家の代官に反抗したテルが、自分の子供の頭にのせたリンゴをみごと射ぬき、代官をこらしめる話である。
ただしこの話はまったくの作り話で、しかも15世紀にアイスランドから伝えられたものだった。それがシラーの戯曲やロッシーニのオペラで有名になったにすぎない。
URLリンク(www.bar-taian.com)
URLリンク(blog-imgs-93.fc2.com)
655:日本@名無史さん
18/01/06 18:33:53.80 .net
16世紀の宗教革命の時期には、チューリヒにツヴィングリが現れ、またジュネーヴではフランス人のカルヴァンが福音主義を説いてその市政を握るなど運動の中心地となった。その後カルヴァン派はフランスでユグノーといわれて増加し、1598年のナントの勅令で信仰を認められた。
※ユグノー戦争 URLリンク(stat.ameba.jp)
656:日本@名無史さん
18/01/06 18:40:10.85 .net
ドイツの宗教戦争である三十年戦争でハプスブルク家劣勢のまま講和となったため、スイスの独立が国際的に承認されることとなり、1648年のウェストファリア条約によってスイスの独立が確定した。
その後、フランスでルイ14世がナント勅令の廃止を行ったため(1685年)、ユグノーの多くがスイスに移住した。ユグノーは商工業者層に多く、その中の時計職人がスイスの時計産業を興したという。ファブルブラント商会参照〔>>585〕。
657:日本@名無史さん
18/01/06 18:44:21.03 .net
スイスは、ウェストファリア条約で独立が国際的に承認されたが、各州の対立から統一が進まず、フランス革命時にナポレオンの征服を受けた。
ナポレオン没落後の国際会議であるウィーン会議では、スイスの安定はヨーロッパ各国の安全にとって重要な意味があると認識されたので、1815年のウィーン議定書で、カントンといわれる自治体22州からなる連邦国家の独立があらためて確認され、同時に永世中立国となることが承認された。
658:日本@名無史さん
18/01/06 21:47:58.72 .net
▽下加治屋町
旧薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町。下加治屋町出身の著名人を下の掲げる。
西郷隆盛、大山巌〔>>558〕、西郷従道、井上良馨、黒木為楨、東郷平八郎〔>>500〕、村田新八〔>>338〕
樺山資紀、大久保利通、吉井友実〔>>247〕、池上四郎、有馬新七、山本権兵衛〔>>210〕、篠原国幹
URLリンク(www.kyushu-sanpo.jp)
659:日本@名無史さん
18/01/06 21:49:33.52 .net
西郷の末弟である西郷小兵衛は、東郷平八郎の素読の師匠。
660:日本@名無史さん
18/01/06 21:59:34.90 .net
◆三条実美
幕末、宮廷をゆるがしたいわゆる過激公卿はみな下級公卿であったが、三条実美のみは家柄がよく、自然その棟梁株に立てられた。幕末の過激公卿はほぼ長州系であった。長州人が出入りして彼らに長州風の尊王攘夷思想を教えたが、逆に長州に都合のいいような宮廷工作の道具にもなった。
文久三年の政変で京から長州色が一掃されたとき、三条はいわゆる「七卿落ち」で京を去ったが、維新の成立とともに太政大臣として日本国の首相となった。
661:日本@名無史さん
18/01/07 11:02:18.22 .net
>>603
「翔ぶが如く」のなかに出てきたかどうかは忘れたましが、司馬作品によく出てくる西郷の台詞に「新しい国は、戦争の焦土の中から生まれる」というのがあるじゃないですか。普仏戦争によって生まれたドイツ帝国がモデルですよね。
662:日本@名無史さん
18/01/07 11:08:25.50 .net
▽手弱女〈たおやめ〉
やさしい女。しとやかな女。対義語は、益荒男〈ますらお〉。意味は、雄々しく強い男。立派な男。ますらおのこ。
なお、成人男性の7割は「手弱女」を「てごめ」と読むという調査結果があります。
663:日本@名無史さん
18/01/07 11:12:58.99 .net
>>625は表の意味で、「益荒男」「手弱女」には裏の意味もある。武人・もののふ vs 浮かれ女・あそびめ・たわれめ、である。
司馬さんは、三条実美の性格を表現して「手弱女ぶりの芯の強さ」とおっしゃっている。「手弱女」を遊女の意味で用いています。
664:日本@名無史さん
18/01/07 11:21:30.63 .net
三条実美は、小骨の間の微量の肉まですくいあげて、魚が骨格標本のようになるまで、魚を上手に食べる。
665:日本@名無史さん
18/01/07 11:27:46.00 .net
▽岩倉具視
文政8年(1825年)- 明治16年
公卿・堀河康親の次男として京都に生誕する。朝廷儒学者・伏原宣明は、岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかった。
URLリンク(kosenkaitori.info)
666:日本@名無史さん
18/01/07 11:37:07.15 .net
文久2年(1862年)7月、徳川慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職として復帰した。こうした情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。
岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから、尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。
667:日本@名無史さん
18/01/07 11:40:15.03 .net
正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。
しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美・姉小路公知など13名の公卿が連名で、岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子を、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を、関白・近衛忠煕に提出するにいたる。
いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は、朝廷を去った。
668:日本@名無史さん
18/01/07 12:57:28.89 .net
▽三条家
藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。その下は大臣
669:家。 ※藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立つ五摂家……近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家 ※大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる七清華家……久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川
670:日本@名無史さん
18/01/08 19:58:30.00 .net
▽孝明天皇毒殺説
真偽のほどは筆者には分からない。噂話を載せておく。出典は、アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)。
「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。
この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。
反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」
671:日本@名無史さん
18/01/08 20:09:14.32 .net
「これはカステラでございますか」
「松風どす」
672:日本@名無史さん
18/01/08 20:13:21.91 .net
▽松風
松風は、小麦粉を主体とする「和風カステラ」といい表わしてもよい京菓子。ただし、カステラのように卵や油は入っていない。
粉っぽさがなく、グルテン(小麦などの胚乳から生成されるタンパク質の一種)の弾力を生かした歯ごたえがあり、噛んでいるうちになめらかになっていく。
URLリンク(www.shichikuan.com)
673:日本@名無史さん
18/01/08 20:24:54.48 .net
▽山縣有朋
天保9年(1838年)- 大正11年
明治2年に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年、アメリカ経由で帰国。その後は大村益次郎の実質的な後継者として、西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行し、徴兵制を取り入れた。
明治4年 (1871年)、兵制統一の必要性から廃藩置県を提議し、有力者間の根回しを行った〔>>289〕。
URLリンク(blog-imgs-46.fc2.com)
674:日本@名無史さん
18/01/08 20:26:35.94 .net
明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年4月に陸軍大輔を辞任。しかし山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿として復職した。物語のこの時期、山縣は陸軍卿に復職したばかりであった。
675:日本@名無史さん
18/01/08 20:34:55.78 .net
▽大村益次郎
文政7年(1824年)- 明治2年11月5日
明治2年7月、兵部大輔として兵制の近代化に着手したが、同年9月、京都で攘夷派浪士に襲われ負傷し、療養中に死亡した。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
676:日本@名無史さん
18/01/08 20:43:19.85 .net
▽鎮台
明治4年から明治21年まで置かれた日本陸軍の編成単位である。
明治新政府の重要な課題として、近代の中央集権制度にもとづく兵力軍備の統制と編成があった。最初の画期は明治4年2月に正式に編成された御親兵であり〔>>289〕、薩摩藩・長州藩・土佐藩からなる御親兵の編成費用は、宮内省の定額金を割いて兵部省に下付され成立した〔>>290〕。
677:日本@名無史さん
18/01/08 20:54:09.69 .net
明治4年7月14日の廃藩置県により全国が明治政府の直轄となったが、8月20日、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された。このときの鎮台は、御親兵から転じた者と、士族からの志願者で編成された。残る各藩常備兵は武装解除されることになる。
明治6年に名古屋鎮台と広島鎮台が増設された。同年の徴兵令施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった。北海道には徴兵令が施行されず、かわりに屯田兵が置かれた。
678:日本@名無史さん
18/01/08 21:02:26.68 .net
統帥:西郷隆盛
軍政:大村益次郎 →山縣有朋
679:日本@名無史さん
18/01/08 21:04:40.89 .net
近衛軍:志士気取りの政治的人間の集団
六鎮台:国防軍
680:日本@名無史さん
18/01/08 21:12:47.80 .net
山県ほど政治好きな男が、征韓論について沈黙の立場をとったのは、彼がかつて汚職事件に連座したときに西郷に救われたという恩義があったからでもある。
681:日本@名無史さん
18/01/08 21:27:45.77 .net
▽魑魅魍魎
国権確立論者の大隈重信は、壮士・志士あがりの近衛軍を魑魅魍魎の集団だと思っていた。
魑魅:山林の瘴気から生ずるという怪物(魑:虎の形をした山神、魅:猪頭人形の沢神)
魍魎:山川や木石の精霊
URLリンク(pbs.twimg.com)
682:日本@名無史さん
18/01/08 21:34:06.35 .net
◆朝鮮事情
西郷派から三条に対する入説もひんぱんである。
はたして朝鮮に兵を入れることは可能であるか、という純軍事的課題についても、近衛軍のほうはよく調査していた。朝鮮事情を探るために軍事探偵を朝鮮および満州さらには清国にも派遣していたのである。
683:日本@名無史さん
18/01/08 21:40:48.36 .net
池上四郎(外務省十等出仕)+武市熊吉大尉
……上海 →営口 →南満州
北村長兵衛中佐+別府晋介少佐
……朝鮮
684:日本@名無史さん
18/01/08 21:46:00.18 .net
▽池上四郎
天保13年(1842年)- 明治10年
鹿児島城下の樋之口通町(現鹿児島市加治屋町16番街区)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として生まれる。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが医術を好まず、西郷吉之助・伊地知正治の教導を受け、勤王の志を抱いた。
戊辰戦争では、参謀・伊地知正治の下で軍議に参画し、白河城攻防戦、棚倉・二本松攻城戦、会津若松攻城戦では直接戦闘に参加した。
685:日本@名無史さん
18/01/08 21:50:46.37 .net
明治4年、西郷が廃藩置県に備えて御親兵を率いて上京したときは、一隊を率いて市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。このとき陸軍少佐に任官したが、病気を理由に7月に辞職した。
明治5年、征韓論に関連して西郷隆盛が朝鮮・満洲の軍事偵察をさせたとき、外務省十等出仕に任じられ、8月16日、武市正幹・彭城中平とともに満洲に派遣された。武市・彭城は満洲偵察後は帰国したが、池上は清国内部の偵察を続け、西郷下野を知った明治6年12月に帰国した。
686:日本@名無史さん
18/01/08 21:55:35.82 .net
>>645
武市熊吉は維新後に陸軍大尉になっているが、明治5年の満州偵察のときは、池上四郎と同じく外務省十等出仕だな。
687:日本@名無史さん
18/01/08 22:04:37.30 .net
▽武市熊吉
天保11年 (1840)、土佐国土佐郡潮江村 (高知市) 生まれ。諱は正幹、熊吉は通称。
戊辰戦争では、甲州勝沼や北関東の戦闘で、大胆な斥候として軍功を挙げた。
688:日本@名無史さん
18/01/08 22:09
689::59.68 .net
690:日本@名無史さん
18/01/08 22:13:16.95 .net
▽北村長兵衛
弘化2年(1845年)、土佐藩士北村五平(馬廻格で200石)の子息として高知城下潮江に生まれる。
戊辰戦争では、板垣退助の配下の迅衝隊士として甲州勝沼の戦いや奥羽各地の戦争に参戦し、8月の会津戦争では大いに戦功をあげた。凱旋後は中老格となって200石を加増される。
691:日本@名無史さん
18/01/08 22:15:03.33 .net
明治4年、御親兵設置にあたっては陸軍少佐、さらに翌明治5年には陸軍中佐に任官した。政界で征韓論争が起こるや、板垣退助や西郷隆盛の命により別府晋介とともに朝鮮を視察したが、明治6年10月、征韓論の破裂をきっかけに近衛を脱隊する。
692:日本@名無史さん
18/01/08 22:16:19.01 .net
明治6年11月には、有志とともに海軍義社を結成したが、まもなく谷干城の仲介によって陸軍に復職する。
明治10年の西南戦争勃発に伴い、郷里高知も立志社や古勤王派の挙兵計画によって民情不穏となったため、同年7月、政府の命を受けて佐々木高行とともに高知鎮撫に当たった。
明治11年3月2日、高知で死去。享年34。
693:日本@名無史さん
18/01/08 22:18:45.83 .net
※北村長兵衛
URLリンク(bujinkensyokai.web.fc2.com)
694:日本@名無史さん
18/01/08 22:25:18.34 .net
▽別府晋介
弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第二子として生まれる。母方の従兄の桐野利秋とは実の兄弟以上に仲が良かった。
戊辰戦争では、城下四番小隊(隊長・川村純義)の分隊長として、白河城攻防戦、棚倉・二本松戦で戦い、会津若松進撃の際は川村指揮のもと十六橋の戦いで勇戦した。
URLリンク(kagoshimayokamon.com)
695:日本@名無史さん
18/01/08 22:28:18.11 .net
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき〔>>276〕、大隊中の小隊長となった〔>>280〕。明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。
696:日本@名無史さん
18/01/08 22:31:14.50 .net
明治5年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村長兵衛・河村洋与とともに外務大丞・花房義質〔>>458〕の随員という形で釜山に赴き、韓服を着て韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。
帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より「鶏林八道を蹂躙するは、我二三箇中隊にして足れり」と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。
697:日本@名無史さん
18/01/08 22:40:47.65 .net
▽朝鮮とキリスト教
司馬さんは、「朝鮮にキリスト教が入ったのは、日本の寛政3年(1791年)、十一代将軍家斉のときである」とされているが、1791年は朝鮮でキリスト教に対する弾圧が始まった年であって、キリスト教が朝鮮に伝わった時期は、17世紀半ばまでさかのぼる。
698:日本@名無史さん
18/01/08 22:48:40.44 .net
ただし、17世紀半ばに伝わったキリスト教は、宗教としてではなく学問として受容されていたようである。
朝鮮で初めて受洗者が現れたのは、初めての弾圧である辛亥教難(1791年)を遡ること数年にすぎない。
1784年2月、朝鮮使節の一員として清に渡っていた李承薫は、北京の北堂でフランス人イエズス会士ジョセフ・ド・グラモンより洗礼を受けた。韓国では彼が最初の朝鮮人受洗者と見なされている。
699:日本@名無史さん
18/01/08 22:56:17.61 .net
▽アレキサンドル・ワン
朝鮮政府の弾圧に憤慨した洗礼名アレキサンドル・ワンという信徒は、1801年にフランス国王に信書を送り、軍隊と軍艦を派遣して韓国を占領してもらいたいと嘆願している。と、司馬さんは述べられている。
しかし、1801年といえばフランスは第一共和政の時代であり(1792年9月21日~1804年5月18日)、フランスに国王は存在しない。
700:日本@名無史さん
18/01/08 23:02:13.19 .net
1801年の時点では、ナポレオンは総裁政府をブリュメール18日のクーデターで倒し〔>>121〕、統領政府を樹立して自ら第一統領に就任してはいるが(1799年)、まだ皇帝にはなっていない。ナポレオンが皇帝になるのは、1804年〔>>122〕。
ましてナポレオンがフランス国王になったことは一度もない。
701:日本@名無史さん
18/01/08 23:10:12.82 .net
▽己亥迫害
憲宗時代には大規模なカトリック弾圧があり、これを己亥迫害と呼ぶ。
当時朝鮮におけるカトリックは、1831年にカトリック朝鮮大教区が承認されるほど大きく成長していた。
しかし、1839年の己亥迫害で、モーバン(Maubant)神父らカトリック宣教師と劉進吉・丁夏祥らの一般信者たちが、セナムトで一挙に処刑された。
702:日本@名無史さん
18/01/08 23:26:31.86 .net
▽ルイ・フィリップ
1830年の七月革命でブルボン朝の復古王政〔>>130〕が倒れると、ブルジョワジーに擁立されて国王となった(オルレアン朝の七月王政)。
ルイ=フィリップ1世は、国内の安定と繁栄をはかるために経済の奨励を行ってフランスに産業革命をもたらした。
対外政策においては、後のフランス帝国主義政策に先鞭をつけた。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
703:日本@名無史さん
18/01/08 23:29:27.45 .net
極東では、アヘン戦争(1842年)で敗れた清に対して、1844年に黄埔条約を自国に有利な形で締結し、海禁政策を採るインドシナの阮朝大南国に対しては1847年にダナン港を砲撃して圧力をかけた。
本章では、アヘン戦争に便乗し軍艦二隻を朝鮮に派遣して強圧を加えようとしたそうである。
704:日本@名無史さん
18/01/08 23:35:00.23 .net
▽丙寅洋擾
1866年10月、フランス人宣教師の処刑(丙寅教獄)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国(ナポレオン三世の第二帝政)との間で発生した戦い。
李氏朝鮮が近代的な軍隊と最初に遭遇した戦いとなった。しかし戦いは文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに勝利した朝鮮軍側の優位に進み、フランス軍は大きく装備に劣る軍隊によって、数倍の損害を与えられ最終的にフランス軍は敗走した。
705:日本@名無史さん
18/01/08 23:37:25.87 .net
同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き討ち事件によるアメリカ合衆国の介入を阻止した辛未洋擾と合わせて、興宣大院君による孤立主義・排外主義に正当性を与える戦いとなった。
URLリンク(kotobank.jp)
こうした孤立路線は、10年後に結ばれる日朝修好条規締結まで継続した。
706:日本@名無史さん
18/01/08 23:41:01.95 .net
この時期の朝鮮は、日本でいうと攘夷の嵐が吹き荒れた文久年間と似ているな。
こんな時期に、「おたくも開国すれば?」という話を日本が持ち込めば、「帰れ!」と言われるに決まっている。
朝鮮側の歴史から征韓論を照射してみると、理解が容易になる。
707:日本@名無史さん
18/01/08 23:43:2
708:4.87 .net
709:日本@名無史さん
18/01/08 23:54:40.12 .net
在野世論はともかくとして、太政官の廟議で征韓論が議論されたことは一度もない。
遣韓論というネーミングに変えるべきである。
710:日本@名無史さん
18/01/09 00:06:25.65 .net
>>667
下関戦争と薩英戦争を文久年間に体験した日本は、西欧列強との関係に関しては、攘夷の先輩であるわけだ。
列強の侵略が朝鮮に及ぶ時期は、日本より少し遅れていた。
同じ体験をした先輩のいうことは、素直に聞かなければいけないよ。
711:日本@名無史さん
18/01/09 17:02:00.15 .net
▽江華島
韓国のソウル特別市の北西の京畿湾に位置する島。漢江の河口に位置する比較的平坦な島で、水田や朝鮮人参畑が広がっている。
南北休戦ライン近くにあり、島の北側は海を隔てて北朝鮮統治地域と至近距離で向き合っている。現に過去には北朝鮮の工作員が度々潜入してきていた。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
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712:日本@名無史さん
18/01/09 17:06:37.59 .net
1866年10月の丙寅洋擾〈へいいんようじょう〉では、フランスにより一時占拠される〔>>665〕。
URLリンク(www.sanshin-travel.com)
713:日本@名無史さん
18/01/09 17:19:13.99 .net
▽辛未洋擾〈しんみようじょう〉
ジェネラル・シャーマン号事件〔>>666〕を発端として、1871年(明治4年)に起きた朝鮮国軍によるアメリカ艦隊の測量船への奇襲に端を発した交戦である。
1866年、李氏朝鮮との通商を求めてきたアメリカの商船シャーマン号を、朝鮮が焼き討ちし、乗組員全員を虐殺する。
1871年、清に駐在していたアメリカ公使のフレドリック・ローは、シャーマン号事件への謝罪と通商を求めて、アジア艦隊に朝鮮出兵を命じた。
714:日本@名無史さん
18/01/09 17:21:42.59 .net
1871年6月10日、米軍は江華島の草芝鎮と徳津鎮を襲撃した。激しい砲撃戦を経て、アジア艦隊は海兵隊を上陸させることに成功し、草芝鎮と徳津鎮を制圧し、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘で朝鮮軍は240名以上の戦死者をだすこととなった。一方、米軍の戦死者は3名にすぎなかった。
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715:日本@名無史さん
18/01/09 17:46:09.54 .net
▽オーベルト強奪団
オーベルトはユダヤ系ドイツ人。強奪団のメンバーはヨーロッパ人8人とマニラや上海で傭ったアジア人120人。
彼らは1867年4月に忠清南道の海浜に上陸し、王陵をあばいて金銀財宝を盗もうとした。
この発掘中、そのあたりの韓国人は遠巻きにして騒ぐのみで、強奪団の行動を阻止しなかった。
716:日本@名無史さん
18/01/09 17:53:18.47 .net
両班と呼ばれた貴族は、大地主であり宮廷の高官だったが、伝統的に身体を使うことを嫌い、むしろそれを恥としてきた。
四書五経を読み、儒教の祭りをし、宮廷での行事に毎日を過ごして、少しも働こうとしない。社会の基盤が有史以来殆ど変わっていない。鎖国状態のままで、古代の貴族社会がそのまま継続していたに近い。
717:日本@名無史さん
18/01/09 17:55:10.17 .net
両班は農村の経済発展になんの興味もない。収穫の6割が小作料として入る。地主には豊作も凶作もない。飢えるのは農民。特権階級の両班にとって、こんなに都合のいいことはなかった。
驚くべきことに19世紀末の朝鮮は、人口の半分以上を両班が占めるという異常な事態になっていた。勤労を蔑む者が半分を占め、残りの半分がその収奪を受けるような社会であった。
718:日本@名無史さん
18/01/09 17:56:16.56 .net
日本の奈良朝時代の貴族と農民のことを知りたければ、日韓併合前の朝鮮の様子を調べれば足りる。
719:日本@名無史さん
18/01/09 18:08:18.35 .net
ペリー来航以来、尊王攘夷運動から出発した明治維新の目的は、国民を成立せしめて産業革命の潮流に乗った欧米の侵略に耐えうる国家を作ることであった。日本はこれによって硬質の地帯になった。
他のアジアの諸地域で硬軟の種別分けをあえてしてみると、タイ国がやや硬質であった。このためタイ国はマライから侵入してくる英国の勢力と安南(ベトナム)から圧迫してくるフランスの勢力に対し、この時期きわどいながらも独立を保ちえている。
720:日本@名無史さん
18/01/09 18:12:49.54 .net
▽タイ王国
タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。
小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝(1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やクメール王朝(カンボジア)の支配を退け成立した。
721:日本@名無史さん
18/01/09 18:17:54.44 .net
その後、アユタヤ王朝(1350年 - 1767年)、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した。
ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進、仏教の改革などを行った。映画『王様と私』にも登場する。1855年、イギリスと通商条約を結んでからは、コメの輸出が急増し、全国土に稲作地帯ができあがった。英仏両勢力圏の緩衝地帯として独立を維持し、植民地化を免れた。
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722:/c/p/ac/9c/3346view001.jpg http://contest.japias.jp/tqj13/130191/12862445081941.png
723:日本@名無史さん
18/01/09 18:23:02.14 .net
朝鮮は軟質なのか、それとも硬質であるのかということは、列強にとって謎であった。このため各国とも武力外交でもって小当りにあたってみた。
ところが李王朝の攘夷精神とその断行能力は日本のかつての幕府よりもはるかに旺盛で、その意味ではひどく硬質な外観をもっていたのだる。
724:日本@名無史さん
18/01/09 18:36:08.11 .net
◆副島種臣
この当時、佐賀出身の副島種臣が外務卿に任じ、遣清全権大使として北京に使いしていた。
副島は容貌古朴で、機略を愛さずひたすらに政治における誠実を信じ、人柄が高雅なうえに、支那学の学殖と詩文の才においては古来副島に匹敵する者は菅原道真ぐらいのものだろうといわれていた。
しかし西郷と同様、官僚的実務には明るくなく、しかも西郷と同様そういう世界に手を汚そうとはせず、ただ世界の趨勢をみて一国の経綸だけを考えているという種類の政治家に属していた。
725:日本@名無史さん
18/01/09 18:50:58.80 .net
▽副島種臣
文政11年(1828年)- 明治38年
佐賀藩士・枝吉南濠の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努め�
726:骰相w者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。 https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102736.jpg
727:日本@名無史さん
18/01/09 18:52:00.70 .net
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる。
慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は、慶応4年(1868年)に新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年に参議、同4年に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
728:日本@名無史さん
18/01/09 18:52:11.56 .net
明治6年2月には、前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。
同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行している。
729:日本@名無史さん
18/01/09 19:59:45.94 .net
>>681
タイの話をするから、てっきりインラック・シナワトラの画像が出てくるんだと思ったら、ユル・ブリンナーかw
730:日本@名無史さん
18/01/09 20:04:44.84 .net
▽宗主国
儒教的封建国家の関係における上位の国。下位の国は藩属という。
中国で1882年に作られた韓国の歴史や地理などをまとめた書物「東藩紀要」に、わが国固有の領土で韓国が不法占拠する竹島の記載がないことが、島根県竹島問題研究会の調査で分かった。
同研究会は「当時の李氏朝鮮の宗主国だった清が、竹島を李氏朝鮮の領土と認識していなかったことが分かる」と話している。
731:日本@名無史さん
18/01/09 20:08:40.23 .net
▽駐清英国公使
副島が、朝鮮がなおも頑愚をつのらせる場合、日本としては兵力を用いることもありうると英国公使に告げたところ、英国公使は拒否的な色をみせなかった。
732:日本@名無史さん
18/01/09 20:15:03.77 .net
▽駐清米国公使
辛未洋擾〈しんみようじょう〉において〔>>673〕、米国が朝鮮に公使と軍艦を送ったことについて、副島が駐清米国公使に質問した。
「あのとき宗主国である清国は抗議しなかったか?」
「清国からはいっさい抗議が出なかった」
733:日本@名無史さん
18/01/09 20:16:12.47 .net
このときの米国公使が、フレドリック・ロー本人なのかどうかは、調べてみたがわからなかった。
734:日本@名無史さん
18/01/09 20:22:13.86 .net
朝鮮は清国の属国であるが、自主の国である。政教や禁令は朝鮮自身が行い、清国は干渉したことがない。
735:日本@名無史さん
18/01/09 20:22:27.29 .net
西郷の征韓論は、この副島の外交成果が基礎のひとつになっている。西郷も副島と同様、もし日本が朝鮮を侵略すれば清国および欧米が黙っていないだろうという健康な想像については、わざと想像の窓をみずから塞いでいる気配があった。
736:日本@名無史さん
18/01/09 20:25:14.64 .net
◆明治六年七月
明治六年七月の暑気はものすごかった。
「暑いために廟議をしばらく休みます」という三条のいかにも公卿らしい言いわけがもっともに聞こえるほどの暑気であった。
737:日本@名無史さん
18/01/09 20:32:36.31 .net
征韓論が廟議に上がったのは、明治6年6月12日である〔>>451〕。
それっきりであった。
※長山洋子の「あれっきり それっきり」は、アルバム『二十九才~旬~』に収録されています。
URLリンク(music.oricon.co.jp)
738:日本@名無史さん
18/01/09 20:36:39.21 .net
▽副島の帰国
明治6年3月13日、副島外務卿は特命全権大使を命じられて清国に渡った〔>>686〕。副島の渡清は、同治帝の親政祝賀と日清修好条規の批准書互換のためと称されたが、最大の目的は清政府と宮古島島民遭難事件について交渉することだった。
清政府は日本と琉球の間に宗属関係があることを認めず、逆に清朝と琉球問の宗属関係に基づいて問題は解決済みだとして、日本の主張を一蹴した。副島一行は清国側から、台湾蕃地が政教のおよばない「化外の地」という非公式の「言質」を得ただけで、7月に帰国した。
739:日本@名無史さん
18/01/09 20:44:26.11 .net
▽江戸期の武士
禅はこの世を仮宅であると見、生命含めすべての現象はまぼろしにすぎず、かといってニヒリズムは野弧禅であり、宇宙の真如に参加することによってのみ真の人間になれるとした。
朱子学が江戸期の武士に教えたことは、人生の大事は志であるということ以外になかった。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれたも悔いがないというものである。
禅から得た「仮宅思想」と儒教から得た「志の思想」が、両要素とも極めて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた。
740:日本@名無史さん
18/01/09 20:51:43.46 .net
▽明治6年8月3日
西郷は板垣を伴って、征韓論について膝詰め談判をするため、三条の屋敷を訪ねる予定であった。
しかし、ホフマン医師からもらっていた下剤を多量に服用したため、数十度の下痢を繰り返して起きあがれなくなった。
その代わりに、西郷は三条に廟議の評決を催促する嘆願書を送っている。