17/12/31 20:13:29.15 .net
★征韓論
▽桐野利秋
桐野利秋は壮士的気分における征韓派の巨魁とされていた。
といって桐野が朝鮮の政情や人文一般についてどれほど多くのことを知っていたかということになると、ほとんど知らないといってよかった。
むしろ知らないということが、桐野だけでなく、日本歴史のなかで間歇的に噴出する外征エネルギーのエネルギー源になっていた。
397:日本@名無史さん
17/12/31 20:19:56.50 .net
▽壬辰倭乱
秀吉は朝鮮を厳密な定義での外国であると思っていたかどうか疑問であった。
九州の北方にある準九州的な地帯という程度の認識だったために、九州征伐で島津氏を威服せしめたと同様、朝鮮もまた日本国の統一者である彼の威光のもとに威服すべきものだと無邪気に思っていた。
398:日本@名無史さん
17/12/31 20:26:15.94 .net
▽日韓交渉
明治維新の直後、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。
明治3年2月、明治政府は佐田白茅および森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。
399:日本@名無史さん
17/12/31 20:26:27.61 .net
明治3年9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年からは排日の風がますます強まり、4月~5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
400:日本@名無史さん
17/12/31 20:29:35.03 .net
政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」という布告を出した。
当時外交官として釜山に居た佐田白茅および森山茂は、この乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。
401:日本@名無史さん
17/12/31 20:32:42.11 .net
明治6年(1873年)6月、森山茂帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。
中国から帰国した副島種臣は、西郷の主張に賛成はしたが、西郷ではなく自らが赴くことを主張した。二人の議論の末、三条実美の説得もあり、副島が折れることとなった。板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。
402:日本@名無史さん
17/12/31 20:35
403::32.64 .net
404:日本@名無史さん
17/12/31 20:43:33.63 .net
▽長州と薩州
長州人は戦争にくたびれており、革命政府と新秩序の出現を妥当なものとして安堵していた風があった。
しかし、薩摩の場合は違っている。
薩摩は、戦国武者のエネルギーをひたすらに貯えていた集団であった。それが、西郷と大久保両人の英雄的活動によって革命主力となり、その鮮やかな手腕によって戦いに倦まぬまま革命を樹立させたのである。精気だけが残った。
405:翔ぶが如く
17/12/31 20:58:20.06 .net
第4章 情念
【二】中村楼騒動
薩摩人は天下をとった。かれらは軍人と文官とそして警察官にわかれた。中村楼騒動はごく簡単にいえば薄給の薩摩系軍人が高給の薩摩系文官を殴るための大会であり、しかもその喧嘩大会を薩摩系警察官が、中村楼だけに土俵を限定すべく遠巻きに保護するという役割を演じたという滑稽きわまりないものなのである。
(話にならん)
と、川路は不愉快であった。
406:日本@名無史さん
17/12/31 21:43:59.30 .net
★文官と軍人
▽明治4年2月
物語は、再び時間をさかのぼる。御親兵という近衛軍が薩長土三藩から選抜されて編成され、東京に駐屯した当座のことである。
文官である有馬純雄の月俸……150円……下町の長屋住まいの大工の二年分の収入以上。
薩人で軍隊に残った陸軍大尉の月俸……70円程度……それでも下町の長屋住まいの大工の11ヵ月分の月俸である。
407:日本@名無史さん
17/12/31 21:46:47.78 .net
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w (・ω・ ) ふざけるな!
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408:日本@名無史さん
17/12/31 21:53:41.49 .net
▽有馬純雄
天保8年(1837年)- 大正13年。藤太〈つだ〉どん。
薩摩藩砲術師範有馬藤太(同名)の長男に生まれる。伊地知正治に引き立てられた。
慶応4年 (1868年) 1月に戊辰戦争が勃発すると、4月に東山道総督府の斥候を命じられ、香川敬三率いる一隊に従軍して宇都宮へ向かった。
途中、流山に旧幕府軍が駐屯しているという報告を聞き、不意をついて甲陽鎮撫隊の陣屋を包囲して、近藤勇を越谷まで連行することになった。14日、一時江戸に帰還したが、板橋に拘留されている近藤の処刑には強く反対したと伝えられる。
※写真中央の人物
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
409:日本@名無史さん
17/12/31 21:56:37.83 .net
この挿話があるので、キネマの黄金時代には、新選組の映画に有馬藤太の名で頻繁に登場していた。
司馬遼太郎の短編集『余話として』(文春文庫)に「有馬藤太のこと」が収載されている。
410:日本@名無史さん
17/12/31 21:59:23.49 .net
有馬純雄は、明治政府に出仕して弾正台や司法省官吏を務めた。明治六年の政変で西郷隆盛が下野したときに辞職し、銀座煉瓦街で代言人の看板を立てる。
明治10年の西南戦争に際しては、大阪で有志を募り挙兵して、その功で西郷軍に加わ�
411:�うとしたが、警察に仲間が摘発されて失敗し、有馬も1年ほど拘束された。
412:日本@名無史さん
17/12/31 22:03:12.87 .net
「藤太どん。土佐の兵隊と一緒に飛鳥山に花見にゆく約束をし申したどん、少しお貸しやっ賜らんか」
URLリンク(img.yaplog.jp)
413:有馬藤太
17/12/31 22:04:57.70 .net
┌○┐ お断りします
│お│ハハ
│断│゚ω゚)
│り│//
└○┘(⌒)
し⌒
414:日本@名無史さん
17/12/31 22:40:56.76 .net
▽大山綱良
文政8年(1825年)、樺山善助の次男として鹿児島に生まれる。嘉永2年(1849年)に大山四郎助の婿養子となる。通称は格之助。
西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に所属。島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原繁(喜八郎)らとともに過激派藩士の粛清に加わり、中心的役割を果たした。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
※この場面は、NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990年)の蟹江敬三が最高か。
URLリンク(stat.ameba.jp)
415:日本@名無史さん
17/12/31 22:45:48.57 .net
戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった。もう一人の下参謀は仙台藩に処刑された長州藩士の世良修蔵。
大山率いる新政府軍は庄内戦線において、庄内藩の反撃にあい連戦連敗を喫する。
新政府では、廃藩置県後に鹿児島県の大参事・権令(県令)となる。
※県令の大山綱良は、日テレ『田原坂』(1987年)の丹波哲郎だな。画像は白虎隊の神保内蔵助。
URLリンク(i.rubese.net)
416:日本@名無史さん
17/12/31 22:53:22.83 .net
来年の「西郷どん」の大山格之助 (薩摩藩士/1825-1877)は北村有起哉か。
時々ドラマで見るけど、ほとんど印象に残っていない。
いま調べたら、北村和夫の倅なんだな。やっと印象に残った。
URLリンク(dorama9.com)
URLリンク(www.bungakuza.com)
417:日本@名無史さん
17/12/31 22:55:19.42 .net
中村楼事件は、県令に就任して上京してきた大山綱良の歓迎の宴を契機として起こった。
418:日本@名無史さん
17/12/31 23:11:12.01 .net
▽中村楼
政財界の人々が足繁く通った高級料亭である両国の中村楼は、後年、東京美術倶楽部が建物を買い取り、美術品の売買の場所となった。
東京市本所区元町1番地。
URLリンク(www7b.biglobe.ne.jp)
419:日本@名無史さん
17/12/31 23:11:56.26 .net
近く県の大参事大山?良が上京してくるというので、大山の歓迎会を兼ねて、薩摩出身者の親睦会を開くことにし、場所も両国の中村楼と決めた。
当日は、中村楼には近衛局の鹿?島隊の将兵は早くから来ていた。桐野少将は熊本鎮台司令官なので、残念ながら来られない〔>>272〕。
それでも、この日、熊本から桐野を強引に呼び出した司馬さんの剛腕は、さすがというほかない。
420:日本@名無史さん
17/12/31 23:14:57.98 .net
中村楼の一階の広間には、西郷大将、大参事大山綱良、伊地知正治をはじめ、少将の種田正明、篠原国幹以下が来ている。
村田新八宮内大丞は岩倉一行と外遊中である。座に着くと勝手に飲み始めて、有馬藤太が来たときは皆かなり酔っていた。
421:日本@名無史さん
17/12/31 23:20:12.90 .net
>>395
何度も言うけど、「翔ぶが如く」は小説だからな、なっ。
422:日本@名無史さん
17/12/31 23:46:13.26 .net
>>396
司馬さんによると、薩摩の宴会は、中村楼の二階で行われたようだよ。
423:日本@名無史さん
17/12/31 23:48:06.58 .net
★中村楼騒動
▽有馬は遅参した
有馬は馬丁に言い含めて、二階から馬の上に飛び降り、逃げる準備をしていた。
424:日本@名無史さん
17/12/31 23:51:50.58 .net
▽箸戦〈なんこ〉
南交とも書く。
対戦する二人が向き合って座り、お互いに三本ずつ『なんこ棒』(堅い木で作られた一辺が1cmの正方形断面で、長さが10cmの棒)を後ろ手に隠して持ち、その中の何本かを右手の拳で握り、隠しながら『なんこ盤』に突き出し、両者合わせて何本持っているかを当てる遊びです。
通常は負けた方が飲むことになっているので、負けが込むと酔いが回って、いよいよ勘が冴えなくなります。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
425:日本@名無史さん
18/01/01 00:02:22.41 .net
▽野津道貫
天保12年(1841年)- 明治41年。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる〔>>283〕。
若い頃、兄・野津鎮雄とともに薩摩藩士・奈良原繁(後の沖縄県知事)の家で書生をしていた〔>>216 / >>223〕。
明治4年3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。同年7月、陸軍少佐に任じられ2番大隊付となる。
URLリンク(stat.ameba.jp)
426:日本@名無史さん
18/01/01 00:03:25.97 .net
野津は有馬をかばって中村楼の二階から逃がした。
427:日本@名無史さん
18/01/01 00:06:41.77 .net
▽亀清楼
創業は安政元年。森鴎外の「青年」や永井荷風の「牡丹の客」、舟橋聖一の「花の生涯」等、有名な文学作品にも登場する。
国技館に近い場所柄もあって古くから横綱審議会が行われている。
URLリンク(www.water.sannet.ne.jp)
428:日本@名無史さん
18/01/01 00:10:57.81 .net
亀清は現在も営業を続けられている。向こうに見えるのは柳橋。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
本章では、有馬藤太は、中村楼から亀清楼へ逃げた。
429:日本@名無史さん
18/01/01 00:13:02.72 .net
他にも、重野安繹や中井弘といった文官が亀清に逃げてきている。
430:日本@名無史さん
18/01/01 00:19:34.16 .net
▽重野安繹
1827年(文政10年)- 1910年(明治43年)。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗。
鹿児島郡鹿児島近在坂元村生まれ。通称は厚之丞。
1857年(安政3年)に同僚の金の使い込みにより奄美大島に遠島処分にされ、その先で西郷隆盛と出会った。
明治4年に上京し、明治8年以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
431:日本@名無史さん
18/01/01 00:23:30.32 .net
▽中井弘
天保9年(1839年)- 明治27年
鹿児島城下に藩士・横山休左衛門詠介の長子として生まれる。
脱藩して京都に行き浪人となるが、後藤象二郎や坂本龍馬らにその剛毅な性格を愛され、彼らが工面した資金で、1866年(慶応2年)に土佐の結城幸安とともに、イギリスへ密航留学する。
432:日本@名無史さん
18/01/01 00:25:40.37 .net
翌年年春に帰国し、宇和島藩周旋方として京都で活躍。中井弘三と改名し、1868年1月、外国事務各国公使応接掛となる。
その後、寺島宗則らとともに外交面で活躍した。鹿鳴館の名付け親でもある。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
433:日本@名無史さん
18/01/01 00:27:39.62 .net
逃げた連中は頭脳明晰な男ばかりだな。
低学歴の怨嗟が渦巻く中村楼といったところか。
434:日本@名無史さん
18/01/01 00:34:00.89 .net
▽淵辺群平
天保11年(1840年)- 明治10年。鹿児島高麗町で生まれる。
戊辰戦争では、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊の教導となった。
明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて東上したとき、これに従って上京し、御親兵に編入されて陸軍少佐に任じられた。しかし、まもなく北条県の参事として転出した。
URLリンク(s3.amazonaws.com)
435:日本@名無史さん
18/01/01 00:35:36.58 .net
本章では、中村楼における乱戦のなかで、相五左衛門という兵隊の親指を噛み切って杯洗へ吐き捨てた。
436:日本@名無史さん
18/01/01 01:09:06.74 .net
>>378
つい5年ほど前には、薩摩は薩英戦争をやり、長州は下関戦争をやっていたわけで、そいつらが「朝鮮も開国すれば?」と言ってくれば、「なによ、その掌返し」と思うのも無理はないという気がするがな。
437:日本@名無史さん
18/01/01 13:26:11.03 .net
>>395
淵辺群平が北条県の参事として転出した時期を勘案すると〔>>410〕、中村楼騒動は明治4年の前半だと思う。
桐野利秋の熊本赴任は明治5年3月なので、明治4年前半のこの時期は東京にいる。
「桐野少将は熊本鎮台司令官なので、残念ながら来られない」という叙述の方が誤りだな。司馬が正しい。
438:日本@名無史さん
18/01/01 13:31:21.30 .net
それは置いておくとしても、桐野利秋が熊本鎮台司令官であった事実は、西南戦争の戦略を考える上では非常に重要だと思う。
西郷軍が熊本城陥落に執拗なまでに拘泥したのは、桐野が熊本城を知悉していたからとしか考えられない。
「熊本城はオイに任しておけばよか。熊本鎮台の便所の蛆虫の数まで知っとんどん」と言ったと思う。
439:日本@名無史さん
18/01/01 13:37:18.88 .net
「知っとんどん」とは言わないと思うぞ。
「知っとりもんで」じゃないか。
440:日本@名無史さん
18/01/01 13:48:00.51 .net
中村楼騒動の元ネタは、おそらく有馬藤太の書いた『維新史の片鱗』という著書だと思う。
読んだことはないけどね。
441:日本@名無史さん
18/01/01 13:55:02.03 .net
▽西郷隆盛
西郷は目下の者を生涯いちども叱ったことがないと、司馬さんは書かれている。
西郷はこの騒ぎの中でも、騒動を静めようとはしなかったようだ。酒をくらって酔いつぶれていた。
442:日本@名無史さん
18/01/01 13:55:24.27 .net
従弟の大山巌が、西郷のことを「西郷どんの人望好き」と批判めいた言葉で評している。
目下の者から好かれたいがために、目下に対し厳しいことは一切言わなかったのだろうね。
443:日本@名無史さん
18/01/01 13:59:13.83 .net
▽川路利秋
酔いつぶれた西郷を中村楼から逃がすために、川路は人力車を用意しておいた。
ここでも、野津道貫が登場する。有馬を亀清楼に逃がしたのが野津だ〔>>402〕。
ネタがかぶる。川路の人力車の挿話は、創作かもしれないね。
444:日本@名無史さん
18/01/01 14:04:43.94 .net
▽人力車
記録では、日本の和泉要助、高山幸助、鈴木徳
445:次郎の三名が、発明者として明治政府から認定されている。 三名は、東京で見た馬車から着想を得て明治2年に人力車を完成させ、翌明治3年に日本橋で開業したとされる。 ※明治初年の人力車……まだ折りたたみ機能をもった便利幌がない。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c9/Montanus-page-161-Rich-carriage-of-a-Taikosama-lady-in-waiting.png/593px-Montanus-page-161-Rich-carriage-of-a-Taikosama-lady-in-waiting.png
446:日本@名無史さん
18/01/01 14:09:42.77 .net
川路は郷士で構成されたポリスが中村楼に姿を現わせば、騒動が大きくなると予測して、城下士である野津に後始末を依頼した。
西郷を人力車で逃がした野津の仲間は、西南戦争において官軍に残ったエリートたちである。
447:日本@名無史さん
18/01/01 14:10:14.87 .net
やっぱり中村楼で暴れたのは、低学歴なんだな。
448:日本@名無史さん
18/01/01 14:17:00.47 .net
▽種田政明
天保8年(1837年)- 明治9年
鹿児島城下の高麗町で生まれる。1862年(文久2年)、島津久光の上洛に従い中川宮朝彦親王付の護衛となった。これを契機に諸藩の志士と交流を持つようになり、その交渉役を果たしている。戊辰戦争にも参加した。
449:日本@名無史さん
18/01/01 14:20:31.24 .net
薩摩藩常備隊2番隊長を経て、明治4年に御親兵大隊長として上京。明治5年の陸軍省創設後は、陸軍少丞、会計監督、会計監督長代理などを歴任し、明治6年11月に陸軍少将となった。
東京鎮台司令長官を経て、明治9年9月、熊本鎮台司令長官に就任。同年10月の神風連の乱で、妾である小勝と就寝中、蜂起した敬神党に居宅を襲撃され、これに応戦するも首を刎ねられ殺害された。享年40。
URLリンク(u.jimdo.com)
450:小勝
18/01/01 14:21:07.77 .net
ダンナワイケナイ ワタシハテキズ
451:日本@名無史さん
18/01/01 14:23:50.78 .net
種田政明は、派手好き・女好きで、盛んに色町に出入りし花の左門様と囃されていた。
熊本においても、妾である小勝とともに小間使いの女をも妾とし、両手に花と喜んでいたという。3P大好きな変態公務員である。
URLリンク(ona-apple.com)
452:日本@名無史さん
18/01/01 14:24:44.35 .net
そりゃ神風連も怒るわな。
453:日本@名無史さん
18/01/01 14:40:56.43 .net
話は変わるが、昨夜BS日テレで見た『五稜郭』で笑えるシーンがあったわ。
妻を惨殺したほどの酒乱漢黒田了介が、大酔した長州海軍の連中を説教しておった。
454:日本@名無史さん
18/01/01 14:52:20.56 .net
★桐野利秋
▽明保野亭〔作中では曙亭〕
東山三年坂にある料亭。
あるとき奥で酒を飲んでいた中村半次郎が軒下へ出てきてぜんざいを二十六杯のんだ。
※現在も営業されております。豆腐料理・湯葉料理が中心で、ぜんざいがメニューにあるかどうかはわかりませんでした。
URLリンク(murakumo1868.web.fc2.com)
455:日本@名無史さん
18/01/01 15:03:13.31 .net
▽赤松小三郎
天保2年(1831年)、信濃国上田城下に上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれる。のち、同藩士・赤松弘の養子となり名を小三郎と改める。
安政2年(1855年)、勝海舟に入門し、勝の従者として長崎海軍伝習所に赴き、オランダ人より�
456:鼕w、航海、測量、騎兵学等を学ぶ。 慶応2年(1866年)、薩摩藩から兵学教授として招聘され、京都二本松の薩摩藩邸において野津鎮雄(塾頭)〔>>283〕・野津道貫〔>>401〕・中村半次郎・村田新八・篠原国幹・黒木為楨・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約800人に英国式兵学を教え、藩士たちの練兵も行った。 薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割を果たした。 http://www.taiseihokan150.jp/wp-content/uploads/2016/03/akamatsukosaburou.jpg
457:日本@名無史さん
18/01/01 15:09:26.85 .net
赤松小三郎は、慶応3年(1867年)8月に薩摩藩が武力討幕計画を固める中、内戦の危機を回避しようと「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた。
出身地の上田藩よりの召還命令を拒否し続けた。しかし、慶応3年(1867年)9月に呼び戻されることになった。その帰国の直前、京都・東洞院通りで薩摩藩士で門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。
458:日本@名無史さん
18/01/01 15:22:21.92 .net
▽田代五郎左衛門
作中では田代五郎。
四条から東洞院通りを伏見の方向に下って赤松を追っていくと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次(道貫)ら他二名と会った。
二人は「赤松とそこの角で会った」と言ったので、自分達は匂天(おいて)町を通って五条まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。
459:日本@名無史さん
18/01/01 15:22:44.02 .net
すると、魚棚を上がった所で赤松と出会った。僕は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いたところ、赤松は短筒(鉄砲)に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけたので、すぐに赤松は倒れかかった。
そこを田代君が背後から横に斬り払ったので、赤松は一歩ほど歩こうとしたがそのまま倒れた。僕は直に留めを刺し、田代君も留めを刺して、討ち果たしたのである。『京在日記 / 桐野利秋』
460:日本@名無史さん
18/01/01 21:44:13.01 .net
▽薩摩郷士
旧族居付大名であるため家臣団の構成は中世的であり、城下集住・俸禄制をとる大多数の藩とは異なり、戦国時代における国人・在地武士、そして島津氏の九州統一戦で傘下に入った武士等が郷士として家臣団に組み込まれた。参勤交代・軍役等、果たす役目は一般の藩士と同じである。
島津重豪の藩政改革以降、「城下士」と「郷士」の間には厳格な身分差意識が誕生したといわれる。但し、その後も城下士との間に養子縁組や移籍による身分の移動や通婚関係はあり、これを利用して城下士になる者も多い。また、城下士が分家後に鹿児島から他郷へ移住し、郷士となる例も多かった。
461:日本@名無史さん
18/01/01 21:47:21.52 .net
郷士内部でも身分の上下があり、上中級郷士は麓と呼ばれる侍町に住み、事実上地方行政を取り仕切った(麓郷士)。また、上級郷士ともなると多くの農地山林を抱え、身分は低くとも城下士以上に豊かな者すら存在した。
しかし、無高の郷士も多かった(無高郷士)。薩摩藩では郷士まで含めての武士の総数は人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。無高郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。
462:日本@名無史さん
18/01/01
463:21:49:56.80 .net
464:日本@名無史さん
18/01/01 21:52:56.29 .net
〈薩摩で高貴とされる人間の価値〉
「いさぎよさ」「勇敢」「弱者に対する憐れみ」
武士の学問などはほどほどでよい。
465:日本@名無史さん
18/01/01 22:01:35.87 .net
▽桐野利秋の揮毫
桐野の直筆と思われるきたない文字の書
URLリンク(blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp)
有馬藤太らが代筆したと思われる美しい文字の書
桐野は署名だけは自分でしている。きたない文字なので揮毫が偽物だとすぐに分かる。
URLリンク(auctions.afimg.jp)
466:日本@名無史さん
18/01/01 23:07:21.82 .net
▽桐野利秋の剣術
半次郎は15歳から城下にある示現流・伊集院鴨居の道場まで剣を習いに通ったともいい (西南記伝)、西田町にある江夏仲左衛門 (後の寺田屋事件では鎮撫の一員に選ばれた手練れ) の道場で野太刀自顕流の修練をしたともいう。
しかし、10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられた。しかも、18歳のときに兄が病没したため、小作や開墾畑で家計を支えるという生活であったので、剣術はほとんど独習といっていい。
467:日本@名無史さん
18/01/01 23:09:54.33 .net
▽川に放り込まれた半次郎
二才(にせ=若者)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。因みに、この郷中には、寺田屋事件の鎮撫使となった奈良原繁や抵抗して死んだ弟子丸龍助など精忠組の士が多くいた。半次郎がもっとも親しくしていたのは、弟子丸龍助だったという。
468:日本@名無史さん
18/01/01 23:13:22.40 .net
▽天狗党の乱
元治元年(1864年)、天狗党の乱に際して偵察に赴いたことも、12月7日付小松帯刀の大久保利通宛書簡に見える。これは、半次郎が小松帯刀に嘆願して実現したことだったという。
『会津藩庁記録』には「薩州中村半十郎と申す者、かの濃州金原辺に天狗党の居り候頃、武田と藤田小四郎に面会致し談判候よし」とあり、天狗党の首領である武田耕雲斎と藤田小四郎に面会したとされる。
469:日本@名無史さん
18/01/01 23:21:19.46 .net
▽田中幸介
司馬さんは、田中幸助としているが、幸介の誤りである。そして、田中幸介とは中井弘〔>>407〕の別名である。
中井弘は、桐野利秋にとって政治学の教師といってよい存在であった。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)
桐野はインテリと交際できるだけの知性を備えていた。単なる低学歴ではない。
470:日本@名無史さん
18/01/01 23:27:55.72 .net
中井弘は脱藩者であるため別名が実に多い。専�
471:蛯フ研究者でないと中井弘の別名をすべて把握するのは無理であろう。 司馬さんが田中幸介が中井弘の別名であることに気づかれているの否か、よくわからない。 田中幸介ではなく田中幸助としたあたり、中井弘であることは知っているんだけどね、というニュアンスが匂ってはいるが……。
472:日本@名無史さん
18/01/01 23:29:45.20 .net
わしは田中幸助の名前を見て、田中友幸を思い出してしまった。
URLリンク(thejakeandsimonshow.com)
473:日本@名無史さん
18/01/02 14:34:58.21 .net
>>422
薩摩人にとって喧嘩さわぎというのは、たとえば西洋人が酒を飲んでダンスを愉しむようなもので、他藩人がみるほど深刻なものではない。
474:日本@名無史さん
18/01/02 14:47:53.11 .net
▽鋩子
蛤御門の変以来、一振しかない川路の刀は、鋩子は折れ、刃こぼれもいくつかあったという文脈で出てくる。
鋩子(ぼうし)とは、日本刀の切先の焼刃のこと。ここに焼きを入れるには刀工のすぐれた技量が必要である。
驚いたのは、「日本刀 ぼうし」で検索すると、鋩子に優先して帽子がヒットしてしまうことである。
俺は時代小説もいくつも読んできたが、かつて「刀の帽子」という書き方を見たことがない。「刀の帽子」はやめようぜ。
URLリンク(daitouryu.com)
475:日本@名無史さん
18/01/02 14:55:27.80 .net
>>316
中村楼騒動のときも、川路と桐野は二人きりになったけど、このときは桐野は川路を風呂に誘っただけだよ。
川路は桐野に斬られるかもしれないと身構えてはいたけどね。
時系列が逆さまのデジャヴを見ているようで、気持ちはよくないね。
476:日本@名無史さん
18/01/02 15:05:29.76 .net
▽シャボン
「シャボン(sabao)」とは、ポルトガル語で「石鹸」を意味する単語である。日本には17世紀初頭に伝わった。
子供の遊びである「シャボン玉遊び」が文献に初登場するのは、1677年(延宝5年)。四代将軍家綱の時代である。
桐野はシャボンを所持していたが、幕末の開港とリンクさせて考える必要はない。江戸時代のセレブにとってはシャボンは珍しい物ではなかった。
URLリンク(imgs.marry-xoxo.com)
477:日本@名無史さん
18/01/02 15:09:45.64 .net
貧乏な裏借家〈うらがしや〉住まいのあっしらは、糠袋で身体を洗ろうておりました。
URLリンク(img01.naturum.ne.jp)
URLリンク(pbs.twimg.com)
478:日本@名無史さん
18/01/02 15:14:31.30 .net
貧乏人の子倅であったあっしらに、シャボンなんぞが手に入るわけもなく、無患子(ムクロジ)または芋殻、煙草の茎などの粉末をシャボンの代用にしとりやした。シャボン玉は、すぐに消えてしまいましたがな。
URLリンク(image.blog.livedoor.jp)
479:翔ぶが如く
18/01/02 16:23:47.14 .net
第5章 征韓論
◆渋谷金王町
征韓論について。
この議論が正式に太政官の廟議にかけられたのは、明治六年六月十二日である。
当時、西郷は健康がすぐれなかった。すこし歩くと息切れがし、心臓に圧迫感があった。
480:日本@名無史さん
18/01/02 16:33:45.09 .net
▽渋谷金王町
昭和41年に廃止された町名である。現在の東京都渋谷区渋谷二丁目および三丁目界隈が、渋谷金王町にあたる。
町名は、同地にある金王八幡に由来する。筆者の小学生のころは、初詣はいつも金王八幡宮でしていた。
西郷従道の屋敷は、渋谷金王町にあった。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
481:日本@名無史さん
18/01/02 16:40:28.15 .net
▽ホフマン〈Theodor Eduard Hoffmann〉
ドイツの軍医。ブレスラウおよびベルリンの軍医学校に学び、明治4年8月、L.ミュラーとともに東校の教師として来日。内科学を担当した。
明治7年、宮内省お雇いとなって明治8年秋に帰国した。著作に『日本の脚気論』がある。
西郷の主治医である。
482:日本@名無史さん
18/01/02 16:46:59.78 .net
◆第一回廟議
西郷は、病いを押して出席した。
この日、六人の参議が出席した。
薩摩出身の西郷隆盛を筆頭に、土佐出身の板垣退助、おなじく後藤象二郎、肥前佐賀出身の大隈重信、おなじく大木喬任、江藤新平である。議長格として公卿出身の太政大臣三条実美が出た。
483:日本@名無史さん
18/01/02 16:54:05.08 .net
廟議が行われたのは、明治6年の森山茂の帰国後のことである〔>>379〕。
この年の4月~5月には、釜山において官憲の先導による日本使節のボイコットも行なわれた。
以下では、外務官僚森山茂の略歴を追うことによって、征韓論について考えてみる。
484:日本@名無史さん
18/01/02 17:10:03.30 .net
▼森山茂
天保13年(1842年)9月、大和国式下郡八尾村常盤町(現奈良県磯城郡田原本町八尾)に萱野恒次の長男として生まれ、後に森山家を継いだ。
明治維新後に兵庫裁判所に出仕。明治2年7月の外務省創立により外務少録に任じられた。同年12月に日韓事情の調査のため、従来の日韓外交を所管していた対馬藩とともに釜山に出張した〔>>376〕。
485:日本@名無史さん
18/01/02 17:10:31.81 .net
明治3年4月に外務権大録となり、同年10月に外務権少丞の吉岡弘毅に随行して朝鮮国に派遣され修交を求めたが〔>>377〕、朝鮮側の倭学訓導・安東晙に対馬藩吏以外との会見を拒否されたため、明治4年(1871年)11月に一旦帰国した。
この帰国後、大院君の暴言を、日本政府に報告している〔>>378〕。
486:日本@名無史さん
18/01/02 17:10:56.21 .net
翌明治5年1月、廃藩置県により外務大丞となった旧対馬藩主・宗重正名義で、外交権限が対馬藩から外務省に移管された旨の文書を携えて、同年9月、再び朝鮮国と交渉した。
この遣韓使節が宗重正に代わる外務大丞花房義質で、森山茂はその随員であろう。しかし、交渉は不調に終わった〔>>377〕。
そして、明治6年の森山茂の帰国となる〔>>455〕。
487:日本@名無史さん
18/01/02 17:19:58.37 .net
◆留守内閣
この征韓論という一国の運命を決定しようとしている内閣は、厳密には留守内閣であるにすぎない。
おもな閣僚は、外遊している。
その外遊派は、公卿出身の岩倉具視を首領とし、薩の大久保利通、長の木戸孝允が二本の柱になっている。
さらに彼らの後輩ながら彼ら以上に機敏な文明摂取能力をもっている長の伊藤博文が、この外遊団の事実上の事務局長として活躍するのである。
488:日本@名無史さん
18/01/02 17:29:30.35 .net
▽大久保利通
大久保は岩倉使節団と別れて、一足先に帰国していた。
3月19日 岩倉使節団に、三条実美より、大久保利通および木戸孝允の帰国を願う手紙が届く。
3月28日 大久保利通 帰国に向う。
5月26日 大久保利通 帰国 →現在、帰国後17日
8月16日 大久保利通 休暇願を出し旅行に行く。 箱根、富士登山、近江、大和、紀伊、有馬など。
9月21日 大久保利通 有馬より東京に入る。
489:日本@名無史さん
18/01/02 21:14:43.59 .net
▽政治は感情
「留守中は決して大事を決めてくれるな」
「ばかにするな」
490:日本@名無史さん
18/01/02 21:22:03.78 .net
▽大隈重信
天保9年(1838年) - 大正11年
佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み、石火矢頭人(砲術長)を務める上士の家柄であった。
明治元年(1868年)、小松帯刀の推挙により、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。
URLリンク(www.wasedaweekly.jp)
491:日本@名無史さん
18/01/02 21:27:51.77 .net
キリスト教禁令に関するイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽くした。
明治3年に参議に補され、1872年には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。
明治6年5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。
492:日本@名無史さん
18/01/02 21:30:52.35 .net
「翔ぶが如く」の大隈は、最初から反征韓派=大久保派のスパイとして登場しているが、この部分は創作である。
大隈重信は、はじめは西郷の使節派遣に賛同している。大隈もまた肥前閥なのである。
また、維新早々の時期は、大久保とは距離を置いていた。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで大久保利通ら薩摩閥を牽制していた。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。
493:日本@名無史さん
18/01/02 21:39:44.05 .net
そんな大隈も、明治十四年の政変で下野するころには、大久保を高く評価するようになっていた。
「事のここに至ったのは全く薩長軋轢の関係から来たもので、邦家の前途深憂に堪えない。余は政府と縁を絶ち、野に下って学校を開き、国家有為の人材を養成せんと考えている。大久保さんが今日なお生きて居られたならば、斯かることはなかったであろう」と、両眼に涙を浮かべてはハンカチーフを取り出し、語っては目を拭き、拭いては泣き、思い出多き歎息をした。
494:日本@名無史さん
18/01/02 21:45:55.86 .net
▽佐賀藩出身者
個々にあの血なまぐさい幕末の革命運動を経験しなかったために、その意味での坊ちゃんくささがあった。
大隈は自分の才略に陶酔するところがあり、かつ才略があるかないかで他人の値打ちを見切ってしまうところがあった。
大隈は西郷のことを阿呆だと思っていた。この場合の阿呆とは、知能的な低能のことである。
495:日本@名無史さん
18/01/02 21:51:00.05 .net
▽薩長出身者
薩長の士は、個々に革命の血風のなかをくぐってきて、才略や機鋒の鋭さだけでは仲間も動かせず、世の中も動かないということを知るにいたっている。むしろなまなかな才人や策士は、革命運動の過程で幕吏の目標にされて殺されるか、仲間の疑惑をうけて殺された。
以下には、それらの才人および策士が羅列されている。
496:日本@名無史さん
18/01/02 22:08:33.77 .net
▽清河八郎
文政13年(1830年)- 文久3年(1863年)。
出羽国田川郡清川村(現:山
497:形県東田川郡庄内町)の庄内藩郷士齋藤豪寿の子。 上洛する将軍警護を名目に浪士組編成を幕府に認めさせ、上洛後に浪士組を尊皇攘夷の急先鋒へと転回させた。幕府に危険視され、文久3年(1863年)4月、江戸麻布で暗殺された。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Kiyokawahatiro.jpg/250px-Kiyokawahatiro.jpg
498:日本@名無史さん
18/01/02 22:16:55.58 .net
▽本間精一郎
天保5年(1834年)- 文久2年(1862年)
越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。
本間は故郷越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は論争に強く自己の実績を過大に喧伝していたため、彼の存在を疎ましく思う同志が殺害した。実行者は田中新兵衛および岡田以蔵といわれる。
※女性ふたりの間にある首が本間精一郎の首
URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)
499:日本@名無史さん
18/01/02 22:25:20.90 .net
▽長井雅楽
文政2年(1819年)- 文久3年(1863年)
幕末の長州藩家老。名は時庸。長州藩の名門に生れ、早くから知弁をもって聞えた。文久元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。
長井は、安政の大獄で吉田松陰が捕縛され、江戸に護送されても強硬な対抗策を取らなかった。このため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞や前原一誠らに暗殺を計画される。
500:日本@名無史さん
18/01/02 22:29:01.07 .net
文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤信正や久世広周らが坂下門外の変で失脚すると、藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。
同年3月、再度入京したが、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、毛利敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。享年45。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
501:日本@名無史さん
18/01/02 22:32:22.23 .net
“Close to the Edge”は長い歌であるが、歌詞の内容は長井雅楽の危機についてである。
URLリンク(www.geocities.jp)
502:日本@名無史さん
18/01/02 22:39:48.85 .net
▽赤禰武人
天保9年(1838年)- 慶応2年(1866年)
周防国玖珂郡柱島(現山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
元治元年 (1864)、高杉晋作の下関挙兵に反対して藩庁政府との和平論を唱えたが容れられず、長州藩を脱した。上京しようとして幕吏に捕らえられたが、長州藩討幕派の説得のために釈放され帰郷する。
しかし藩からは幕府内応の嫌疑を受けて逮捕され、鰐石河原 (山口市) で斬首された。享年29。
URLリンク(stat.ameba.jp)
503:日本@名無史さん
18/01/02 22:41:31.62 .net
もうひとり坂本龍馬の名を挙げるべきであるが、「竜馬がゆく」の売上げに悪影響を及ぼしてはならないので、割愛している。
504:日本@名無史さん
18/01/02 23:05:49.60 .net
西郷は、政治は才略よりも人格であるという考え方をとった。そのことが、大隈�
505:ノは愚物にみえた。 たしかに西郷には、大隈の指摘する愚物の面もあった。 「西郷はやたらに新政府に人を推薦してきた。そのほとんどがロクでもない連中だった」
506:日本@名無史さん
18/01/02 23:14:34.76 .net
▽紀州藩出身の詐欺漢になりかねまじい型の男
>>475のロクでもない連中の例として匿名で語られている。津田出〈いずる〉である。
天保3年(1832年)- 明治38年。和歌山藩士・官僚。通称は又太郎。号は芝山。
維新後、和歌山藩大参事となり、徴兵制・郡県制をとり入れるなど藩政改革に尽力した。廃藩置県ののち大蔵少輔、陸軍大輔、元老院議官、貴族院議員などを歴任した。ほ
507:ら吹きのハッタリ屋であり、国政という舞台ではまったくの無能者で厄介者の烙印を押され、早々に左遷させられた。 http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/blog/images/2010/08/31/s_tudaizuru.jpg
508:日本@名無史さん
18/01/02 23:16:47.13 .net
ひょっとして維新後の西郷は、オレオレ詐欺の被害者と共通する性格?
509:日本@名無史さん
18/01/02 23:32:41.19 .net
>>464
次の節で、大隈がはじめ大久保に嫌われていたことが述べられている。
そして、大隈の方から大久保に接近したと書かれているな。
510:日本@名無史さん
18/01/02 23:36:36.55 .net
大久保は、大隈が権力者である自分に取り入ろうとしている所がよいと述べている。
大久保は、福地源一郎に対して、同じようなことを述べている。
511:日本@名無史さん
18/01/02 23:37:46.62 .net
大久保は『おのれの志を世に実現しようとすれば、権力者にとり入らねばならぬ。志さえ高ければ、それを恥とすべきではない。自分は往昔、藩父の久光公に取り入り、自在に志をのべた。君も、もし世に展べるほどの志があるなら、まずおれに取り入れ』と福地源一郎に語っています。
大久保は島津久光に取り入るために、久光の好きだった囲碁まで覚えてお近づきになっています。
512:日本@名無史さん
18/01/02 23:44:06.38 .net
▽福地源一郎
天保12年(1841年)- 明治39年
長崎新石灰(しっくい)町で儒医・福地苟庵の子に生まれた。安政4年(1857年)に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。
文久元年(1861年)には柴田日向守の通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。
慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始める。
URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)
513:日本@名無史さん
18/01/02 23:56:43.75 .net
▽大隈財政
大隈の大蔵卿在任時期は明治6年10月25日から明治13年2月28日である。
しかし、実際には明治2年7月8日の大蔵省創立とともに大蔵大輔に就任して以来、事実上の大蔵省の最高責任者であり、明治14年10月11日の御前会議による参議免官(明治十四年の政変)まで大蔵省及び日本財政の責任者であった。
514:日本@名無史さん
18/01/03 00:00:54.48 .net
もともと外国官(後の外務省)にいた大隈が財政を扱うようになったのは、旧江戸幕府・明治新政府・諸藩による大量の悪金(贋金)発行の事実が発覚し、諸外国より抗議が殺到したことにより、明治政府の貨幣改革に外交交渉が付随することになったからある(高輪談判)。
515:日本@名無史さん
18/01/03 00:02:15.39 .net
大隈は、当初は参議木戸孝允の支援を受け、木戸と同じ長州藩出身の伊藤博文・井上馨や旧幕臣の渋沢栄一らを登用して、新貨条例制定、予算制度導入、造幣局・印刷局の建設、廃藩置県・地租改正の実施などに尽力する〔>>464〕。
516:日本@名無史さん
18/01/03 00:05:01.49 .net
こうした急進的な木戸・大隈路線に大久保利通は警戒を強め、得能良介・松方正義ら薩摩藩出身者を大蔵省に入れて大隈を牽制しようとしたが、後には木戸・大隈路線に譲歩した。
明治3年に大隈は参議を兼ね、明治6年には、大久保が兼ねていた大蔵卿を譲られることになったのである〔>>463 / >>465〕。
517:日本@名無史さん
18/01/03 00:10:53.51 .net
>>464
明治6年5月26日に帰国した大久保は〔>>460〕、即刻、大隈を大蔵省事務総裁にした〔>>463〕。
であるから、6月12日の征韓論に関する第一回廟議で、大隈が大久保のスパイであったというのは間違いではないと思う。
しかし、岩倉使節団が不在中の留守内閣について、不在期間中ずっと大久保のスパイをしていたというのは誤りだと思う。
518:日本@名無史さん
18/01/03 14:35:28.05 .net
>>486
そうだろうね。昨日の『田原坂』では、大隈が廟議で大久保に牙を剥いて議論をふっかけていたが、あれは違う。
江藤以上に大隈が大久保に敵対している感じだった。
帰国後すぐに大久保が大隈に大蔵省を任せるという褒美が大きかった。この時点で、大久保は大隈を取り込んだ。
519:日本@名無史さん
18/01/03 14:40:02.54 .net
>>464
したがって、大隈は反征韓派なんだが、第一回廟議では、板垣と西郷に圧倒されて遣韓大使の件に賛同してしまったということだな。
厳密にいうと典型的な征韓論は板垣で、西郷のは征韓論と反征韓論の折衷案だから、大隈も西郷案に反対する根拠を失った。
520:日本@名無史さん
18/01/03 14:45:13.57 .net
征韓論派……板垣、江藤
折衷案……西郷 ←後藤象二郎が雷同 ←大隈はしぶしぶ賛同
どっちでもいい……大木喬任
521:日本@名無史さん
18/01/03 14:59:50.71 .net
▽板垣退助
天保8年(1837年) - 大正8年
明治3年に高知県大参事。明治4年に参議。
全集の月報35・7頁の表では、明治4年7月に板垣は「参議・従四位・工部卿」になったとあるが、工部卿は???である。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
522:日本@名無史さん
18/01/03 15:08:02.94 .net
▽後藤象二郎
明治4年に工部大輔になっているが、役立たずなので在任1年未満。
現在は参議のみ。
正四位なので、明治4年12月に正三位になった板垣より身分は下。
523:日本@名無史さん
18/01/03 15:22:53.79 .net
▽大木喬任
1832年(天保3年)- 1899年(明治32年)
肥前国佐賀藩の藩士大木知喬(45石)の長男として生まれる。明治元年に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸を東京とすることに尽力した(東京奠都)。明治4年に民部卿、文部卿として学制を制定。明治5年に教部卿を兼任。
524:日本@名無史さん
18/01/03 15:23:04.19 .net
板垣・後藤に比べると官僚実務に明るかった。明治6年の政変で、副島は辞任しているが、大木は辞任していないので注意。ここ試験に出ます。
教育行政に携わるだけあって女好き。芸妓との間に岡崎えんという娘をもうけている。えんは銀座の小料理屋の女将となった。
※踏みつぶされた蛙のような顔をした大木喬任
URLリンク(pds.exblog.jp)
525:日本@名無史さん
18/01/03 15:41:49.31 .net
◆大久保邸
大隈は、第一回廟議があった夜、ひそかに大久保をその屋敷に訪ね、面会した。
大久保は先月に単身帰国したものの形式上はまだ外遊中ということになっている。参議としての職を執らず、かれが担当している大蔵省も大隈に任せたきりで、実質は静養ということでいっさい人に�
526:煢�わない。 政治は勢力である。大久保はそのことをよく知っていた。西郷や江藤や板垣らが一大勢力をなして征韓論を唱えているが、これを潰すためには勢力が必要であった。一人では何もできないと思い、岩倉以下の外遊組の要人が帰ってくるのを待っていたのである。
527:日本@名無史さん
18/01/03 20:58:41.44 .net
>>418
こげん人じゃなか。やどンしは、こげん人じゃなかとよ。
528:日本@名無史さん
18/01/03 22:44:47.22 .net
「西郷が、そう言いましたか」
529:日本@名無史さん
18/01/03 22:54:36.37 .net
大久保が西郷に「刺しちがえて死のう」と言ったのは、文久2年(1862年)の島津久光上洛のとき。
西郷は過激派志士たちの京都焼き討ちおよび挙兵の企てを止めようと試みたが、久光に誤解されて、寺田屋事件の後、徳之島への遠島処分を受けた〔>>331〕。
その際、奄美大島から西郷が帰って2ヵ月も経ないうちに再び遠島になったことに責任を感じた大久保は、西郷に「刺しちがえて死のう」と迫った。
530:日本@名無史さん
18/01/03 23:04:55.72 .net
西郷は参議・陸軍大将・近衛都督という日本一の顕職をもちながら、自分が歴史から落魄した男だというふしぎな自己規定をしていた。
事実そうであった。西郷は倒幕の英雄ではあったが、国家を建設するというこの俗で汚れた手を必要とする仕事にはまるで適かなかった。
531:日本@名無史さん
18/01/03 23:07:56.54 .net
西郷が維新後しきりに百姓をやるといっていたのは本音であった。大久保はそのことをたれよりもよく知っていた。
「西郷さあは、岡林信康ごたる」
532:日本@名無史さん
18/01/03 23:34:07.57 .net
▽東郷平八郎
弘化4年(1848年)- 昭和9年
鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限)に生まれる。西郷・大久保と同じ方限である。
鉄道技師になるために留学を希望したが、大久保に留保されていた。
これを西郷は、即座に留学させた。しかし、鉄道を学ぶためではなく、海軍を学ぶための留学であった。
URLリンク(hobbytimes.jp)
533:日本@名無史さん
18/01/03 23:40:44.98 .net
▽江藤新平〔>>172〕
江藤の薩摩切り崩しの方法は、まず西郷をおだてることであった。それによって大久保と喧嘩をさせ、大久保を斃し、しかる後に西郷を斃してから、長州を押し崩して第二維新を成就する。
534:日本@名無史さん
18/01/03 23:47:50.77 .net
江藤は、長州人の怜悧さを嫌った。反対に、薩人の公正さ、すなわち旧幕臣であっても人材とみれば抜擢した公正さを褒めていた。
しかし、それは同時に薩人は利用しやすいという意味になり、長州閥を斃すために薩閥は利用できると考えていた。
535:日本@名無史さん
18/01/03 23:49:24.26 .net
ところが、江藤が考えているほど薩人は甘くはなかった。
明治7年の佐賀ノ乱のとき西郷は江藤に手を貸さず、江藤を冷然と見捨てた。
536:日本@名無史さん
18/01/04 00:05:26.79 .net
◆島津久光
征韓論についての第一回廟議で、大隈は西郷に一喝され、小僧のように扱われたことを、生涯うらみに思った。
「実はあのとき西郷は窮しきっていたのだ」
と、大隈の西郷論は痛烈であった。西郷がなぜ征韓論のような暴論を唱えたかについてである。
「あのころの西郷の立場はどうも悲惨だったな。かれはその主君である島津久光から大悪人と罵られていて、まったく立つ瀬をうしなっていた」
と、大隈はいう。
537:日本@名無史さん
18/01/04 00:21:57.22 .net
西郷にジゴロと罵られた久光は、殿様なのに何故おんなのヒモになっていたのですか?
538:日本@名無史さん
18/01/04 10:41:08.81 .net
地五郎は田舎者という意味
539:日本@名無史さん
18/01/04 11:38:20.88 .net
地五郎
540:日本@名無史さん
18/01/04 11:45:40.49 .net
▽島津斉彬〔>>339〕
安政4年(1857年)の阿部正弘の死後、斉彬は、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。第13代将軍・徳川
541:家定が病弱で嗣子がなかったため、次期将軍に斉昭の子の慶喜を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。
542:日本@名無史さん
18/01/04 11:46:05.86 .net
一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。その結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。
543:日本@名無史さん
18/01/04 11:46:53.63 .net
斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、安政5年(1858年)7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧中に発病し、7月16日に死去した。享年50。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
544:日本@名無史さん
18/01/04 12:00:48.92 .net
島津斉彬 (第28代島津家当主/1809-1858) … 渡辺謙
URLリンク(pbs.twimg.com)
喜久 (斉彬側室) … 戸田菜穂
URLリンク(contents.oricon.co.jp)
篤姫 (徳川家定継室/1836-1883) … 北川景子
URLリンク(pablo.click)
幾島 (篤姫女中頭/1808-1870) … 南野陽子
URLリンク(storage.mantan-web.jp)
545:日本@名無史さん
18/01/04 12:07:22.13 .net
阿部正弘 (老中/1819-1857) … 藤木直人
URLリンク(pbs.twimg.com)
徳川斉昭 (前水戸藩主・慶喜父/1800-1860) … 伊武雅刀
URLリンク(pds.exblog.jp)
徳川家定 (第13代将軍/1824-1858) … 又吉直樹
URLリンク(storage.mantan-web.jp)
井伊直弼 (大老・彦根藩主/1815-1860) … 佐野史郎
URLリンク(archives.bs-asahi.co.jp)
546:日本@名無史さん
18/01/04 12:14:24.34 .net
▽お由羅騒動
別名は高崎崩れ。
祖父・島津重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた父・斉興や、家老・調所広郷などの重臣達が、久光を後継者にと望んでいた。
久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬が、この頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていた。
547:日本@名無史さん
18/01/04 12:16:05.91 .net
それに対し、斉彬の家督相続を希望していた勢力もある。斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘である。
琉球を実効支配し外洋にも面していた薩摩藩は、この当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれることが多々あった。このため、海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。
548:日本@名無史さん
18/01/04 12:20:37.84 .net
島津斉興は、嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬が将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていたため廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。
※島津斉興 (第27代島津家当主/1791-1859) … 鹿賀丈史 URLリンク(i.imgur.com)
549:日本@名無史さん
18/01/04 12:23:30.69 .net
その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となった。この頃には嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが習慣であり、この事態は異常であった。国元の�
550:瘤阡ヒ士を中心として、斉興と調所に対する不満が高まっていた。 ※調所広郷 (薩摩藩家老/1776-1849) … 竜雷太 http://news-topics24.com/wp-content/uploads/2017/11/01-zusho_hirosato.jpg
551:日本@名無史さん
18/01/04 12:26:29.95 .net
斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば改易になりかねない手段に打って出た。
調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう、一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。
552:日本@名無史さん
18/01/04 12:32:55.56 .net
お由羅の方は久光擁立派の調所に同情していたらしく、調所の遺児を密かに側用人として召抱えるなどして支援していた。
一方、斉彬は多数の子女を設けていたものの、その多くが幼少の間に死亡しており、生き残っていたのは女子3人だけであった。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣を排除しようと計った。
※由羅 (斉興側室・久光生母/1795-1866) … 小柳ルミ子 URLリンク(taigaiine.com)
553:日本@名無史さん
18/01/04 12:38:34.47 .net
嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。
その機先を制するかのように、同年12月3日(1850年)、斉彬派の重鎮である近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門が、久光とお由羅の暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された。
554:日本@名無史さん
18/01/04 12:41:57.84 .net
同じ罪状で赤山靭負ら3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島などの処分が下された。その際に、これを恥じて自殺したものも多い。また、騒動の前に病没していた二階堂主計は士籍を剥奪されるなど、斉彬派へ徹底した弾圧がおこなわれた。
この禍は江戸屋敷にまで及び、嘉永3年4月26日(1850年)、島津壱岐は更迭され隠居謹慎を命ぜられ、下命の2日後に切腹した。ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。
555:日本@名無史さん
18/01/04 12:49:39.28 .net
※赤山靱負久普(ひさひろ)〔>>248〕 (薩摩藩重臣/1823-1850) … 沢村一樹
URLリンク(samurai-hi.com)
556:日本@名無史さん
18/01/04 12:49:57.83 .net
※桂久武 (赤山靱負の弟/1830-1877) … 井戸田潤
斉彬の死の直後の文久元年(1861年)には奄美大島守衛方・銅鉱山方に左遷される。このころに流刑中であった西郷隆盛と親交を結ぶ。
西南戦争従軍後は、薩軍の輜重の責任者をつとめた。明治10年9月24日、城山において流れ弾に当たり戦死した。
URLリンク(pbs.twimg.com)
557:日本@名無史さん
18/01/04 12:52:28.58 .net
西郷吉之助は、父・吉兵衛から、吉兵衛が御用人をしており介錯を務めた赤山靭負の切腹の様子を聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願う様になる〔>>248〕。
また、大久保利通にとってはさらに影響が大きく、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免の上、鬼界島に遠島になり、自らも記録所書役助を免職され謹慎となるなど非常に困窮した。これを西郷が援けたという。
558:日本@名無史さん
18/01/04 13:16:52.55 .net
斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派藩士は、福岡藩に逃げ込んだ。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父であり、実弟の八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部正弘に事態の収拾を訴えた。
阿部正弘は、将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したのである。将軍の命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851年)、遂に斉興は42年間勤めた藩主の座を明け渡し、家督を斉彬に譲った。
559:日本@名無史さん
18/01/04 13:20:04.67 .net
騒動の首謀者とされるお由羅の方には、その後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866年)に鹿児島で死去した。
なお、海音寺潮五郎によると、この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「斉彬の蘭癖が藩を潰すという懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたことが、久光と西郷の確執の原因であるという〔>>330〕。
※島津久光 (斉彬異母弟/1817-1887)…青木崇高
URLリンク(webbizinfo.xsrv.jp)
560:日本@名無史さん
18/01/04 13:24:52.74 .net
「翔ぶが如く」のこの箇所では、お由羅騒動が詳しく書かれているわけではないが、もうすぐ「西郷どん」の放送開始なので、少し詳しく調べてみた。配役から考えて、お由羅騒動は「西郷どん」で詳しくやると思う。
561:日本@名無史さん
18/01/04 13:34:28.29 .net
▽廃藩置県
明治4年7月4日、兵部少輔山縣有朋の下に居合わせた同藩出身の鳥尾小弥太と野村靖が、会話のうちに薩摩藩出身の実力者たちが廃藩置県に慎重な姿勢を見せていた状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。
翌日に2人は、大蔵省を切り回す井上馨を味方に引き入れ、7月6日に、井上は木戸を、山縣は西郷隆盛を説得した。
562:日本@名無史さん
18/01/04 13:38:23.65 .net
廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、7月9日、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山厳、木戸孝允、井上馨、山縣有朋の7名が、木戸邸で案を作成した。予想される抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な御親兵をもって鎮圧することが計画された〔>>289-290〕。
明治4年7月14日(1871年)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。
563:日本@名無史さん
18/01/04 13:42:30.52 .net
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。旧藩主家の収入には旧藩の収入の一割が当てられ、旧藩士への家禄支給の義務および藩の債務から解放された。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。そこで明治4年10~11月には3府72県に統合された。URLリンク(co-smart.net)
564:日本@名無史さん
18/01/04 14:08:33.61 .net
明治3年12月18日、当時鹿児島にいた久光と西郷を中央政界に呼び戻すべく、勅使岩倉具視と大久保利通が鹿児島を訪れた。この段階の明治政府の懸案として、「廃藩置県」という一大改革も含まれていた。
久光は病気であったため上京することが出来なかったが、代わりに西郷を政府へ派遣することを決めた。西郷と大久保が鹿児島を旅立つ前日、久光は二人に対して、「わしは廃藩には不同意じゃ。そのところをよく含んで、これから相勤めるように……」と語ったことが伝わっている。
565:日本@名無史さん
18/01/04 14:08:48.15 .net
▽明治天皇の西国巡幸
久光にとっては突然の廃藩�
566:フ命令はまったく寝耳に水のことであった。保守的な久光は、藩を潰そうなどという料簡などさらさらなかった。 明治5年6月22日から7月2日にかけて、明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に滞在した。島津久光は、6月28日に政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を奉呈する。
567:日本@名無史さん
18/01/04 14:11:59.58 .net
その際、西郷が久光のもとに一言の挨拶にも来なかったという理由から、久光は太政大臣の三条実美宛に西郷を非難する文章を送りつけた。これに驚いた西郷は、急遽鹿児島に戻った。鹿児島で待っていた久光は、西郷に対して、十四カ条からなる罪状を突き付けた。
568:日本@名無史さん
18/01/04 15:26:37.07 .net
久光は直前に釘を刺しておいたのに、約束を破られれば、そりゃ怒る。
569:日本@名無史さん
18/01/04 15:27:32.11 .net
その後、大久保は岩倉使節団に混じって海外へ逃げる。そりゃ狡い。
570:日本@名無史さん
18/01/04 15:28:01.10 .net
留守政府がブチ切れるのも無理はないな。
571:日本@名無史さん
18/01/04 15:30:44.85 .net
明治5年に西郷が天皇に供奉して鹿児島へ行ったときも、大久保は外遊中だ。ズルい。
572:日本@名無史さん
18/01/04 15:31:31.97 .net
西郷は久光に会わせる顔がないわな。
573:日本@名無史さん
18/01/04 15:38:06.30 .net
西郷は一方では自分の作った明治政府を愛さざるを得ない立場にあり、一方では没落士族への際限ない同情に身をもだえさせなければならない。
空前絶後の大矛盾であった。
574:日本@名無史さん
18/01/04 15:47:40.52 .net
◆西郷隆盛
要するに大隈のみるところでは、西郷は個人的窮境のなかにあり、折から征韓論という対外論が発生したとき、
「自分はこれで死のう」
と、死所をそこに見出したのだという。
「西郷は英雄でも豪傑でもない」
と、大隈は、西郷とともに数年太政官ですごしてそれがわかった、という。
しかし、大隈の感覚ではとうてい捉えられないところが西郷にあった。
575:日本@名無史さん
18/01/04 17:29:55.00 .net
▽庄内藩
幕臣の沼間守一〔>>42〕が、秋田庄内戦争において庄内藩とともに戦っているので、そのときに説明している〔>>63-65〕。
ここでは、西郷隆盛による戦後処理に限定して説明する。
576:日本@名無史さん
18/01/04 17:33:29.27 .net
▽新徴組
文久3年(1863年)1月に結成された江戸幕府による警備組織である。
清河が暗殺されると清河の同志達も次々と捕縛されたため、浪士組は組織目的を失う。幕府は浪士組を新徴組として再組織した。屯所は江戸の本所(東京都墨田区)に設置し、取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎が就いた。
577:日本@名無史さん
18/01/04 17:36:55.71 .net
文久3年(1863年)10月、幕府より江戸市中警護・海防警備の命令を受け規律を取り戻すと、元治元年(1864年)には庄内藩酒井家の御預かりとなる。
慶応4年(1868年)、放火・掠奪・暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、江戸薩摩藩邸の焼討事件を引き起こし戊辰戦争の発端を作った。この焼き討ちにより、品川などで火災が一日中続く。
578:日本@名無史さん
18/01/04 17:40:25.07 .net
▼相楽総三
天保10年(1839年)、下総国相馬郡(現茨城県取手市)の郷士で大富豪の小島兵馬の四男として江戸・赤坂に生まれる。本名は小島四郎左衛門将満。西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった。
579:日本@名無史さん
18/01/04 17:41:29.29 .net
運動とはいえ総三らがやったことは、掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。
これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実とするためであった。西郷の策は成功し、屯所を襲撃された庄内藩が、薩摩藩邸を焼き討ちする(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。これが、鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。
580:日本@名無史さん
18/01/04 17:42:46.54 .net
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると、赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍する。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍する。
しかし、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は下諏訪宿で捕縛される。同年3月、下諏訪で処刑。享年30。
581:日本@名無史さん
18/01/04 17:51:47.54 .net
▽明治元年9月27日
西郷隆盛は、庄内藩の降伏とともに鶴岡城に入る〔>>275〕。
奥羽鎮撫参謀は、大山格之助〔綱良 / >>390-393〕と黒田了介〔清隆 / >>275〕。
582:日本@名無史さん
18/01/04 17:57:43.47 .net
▽酒井忠篤〈ただずみ〉
嘉永6年(1853年)2月13日、第9代藩主・酒井忠発(ただあき)の五男として生まれる。文久2年(1862年)、義兄で第10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として跡を継ぐ。
庄内藩は弟の忠宝〈ただみち〉が藩主となり、12万石に削減された上で存続を許された。明治2年、忠篤は罪を許され、明治3年に薩摩に移った。
URLリンク(stat.ameba.jp)
583:日本@名無史さん
18/01/04 18:08:06.18 .net
左衛門尉酒井家の当主の名前は、たいへん読みにくく、かつ覚えにくい。復習しておく。
第10代:酒井忠器〈ただかた〉……第11代忠発〈ただあき〉の父。
第11代:酒井忠発〈ただあき〉
第12代:酒井忠寛〈ただとも〉……第11代忠発〈ただあき〉の弟。
第13代:酒井忠篤〈ただずみ〉……第11代忠発〈ただあき〉の五男。
第14代:酒井忠宝〈ただみち〉……第11代忠発〈ただあき〉の六男。
584:日本@名無史さん
18/01/04 18:14:36.10 .net
▽高島鞆之助
天保15年(1844年)- 大正5年。陸軍軍人。
明治維新後、侍従番長・教導団長をつとめ、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征した。
その後、熊本鎮台・大阪鎮台各司令長官を歴任。1891年5月、松方正義内閣の陸相となった。
その後、第2次伊藤博文内閣の拓相、第2次松方内閣の拓相兼陸相となり薩閥の巨頭として活躍。93年予備役に入り枢密顧問官となった。
URLリンク(www.kagoshima-yokanavi.jp)
585:日本@名無史さん
18/01/04 18:21:53.67 .net
西南戦争のときには庄内藩士団が「戊辰の恩にむくいるため」といって鹿児島にかけつけた。
『田原坂』では、伴兼之(西川弘志)と榊原政治(砂川真吾)が登場していた。
彼らは、西南戦争時に私学校で学んでいた庄内藩からの留学生で、薩軍と行動を共にした。
URLリンク(www.officiallyjd.com)
586:日本@名無史さん
18/01/04 18:29:10.38 .net
西郷には、戊辰戦争で庄内藩を斃し、かつ庄内藩を救った体験がある。
「朝鮮に対してもその流儀で刺激し、開国させて世界性をもたせ、ともに列強の侵略を防ぐ」という計略が、西郷の征韓論であった。
それは、日本の幸福であるとともに、朝鮮の幸福であり、かつ朝鮮の国都で殺される西郷の幸福でもあった。
587:日本@名無史さん
18/01/04 18:42:38.03 .net
人間の行動を100%論理で解明することはできないのだが、他人である読者に理解してもらおうと思えば、論理を駆使するほかない。
西郷の心情に関する司馬さんの叙述は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと複雑だけど、まずまず真相を捉えているような気はします。
588:日本@名無史さん
18/01/04 19:03:06.72 .net
西郷人気というのは、典型的な判官贔屓である。
589:リアル世界で権力者になれず非業の死を遂げた義経・幸村・隆盛を、せめてヴァーチャル世界では英雄にしておいてやろうという日本人の優しさだと思う。判官贔屓という日本人のメンタリティが失われれば、日本人のアイデンティティが失われるような気がする。
590:日本@名無史さん
18/01/05 00:28:25.57 .net
▽鬼籌
籌を訓読みすると、はかりごと。
しかし、まあ神算鬼籌の四字熟語以外で使われることはない。
それすらめったに使われなくて検索したら、使用例として『翔ぶが如く』のこの部分がヒットして、わろうてもた。
591:日本@名無史さん
18/01/05 00:43:29.06 .net
遣韓大使の件が俎上に上ってから、西郷は健康を気遣うようになった。
ここでホフマン先生が再登場する〔>>453〕。
そんなに有名な先生ではないみたいだね。
592:日本@名無史さん
18/01/05 00:46:03.52 .net
ホフマン先生は、西郷さんに下剤ダイエットを施しました。
下剤ダイエットで痩せたという効果を得たという口コミなどが多く見られますが、危険ですので絶対にやめましょう。下剤はあくまでも便秘を解消するための医薬品なのでダイエット目的で使うものではありません。真似しないでください。
593:日本@名無史さん
18/01/05 00:50:55.67 .net
大久保利通が明治6年5月26日に帰国してから〔>>460〕、西郷はしばしば大久保宅を訪ね、征韓論の話はしていたらしい。
両者の溝は深くなるばかりであったが。
大久保は留学中の大山巌に手紙を出して、西郷のことをぼやいていたらしい。以下、大山巌の話が挟まれる。
594:日本@名無史さん
18/01/05 01:12:34.90 .net
▽大山巌
天保13年(1842年)- 大正5年
鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。
明治2年に渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年から6年の間はジュネーヴに留学した。
※大河ドラマ「西郷どん」の大山弥助役は、まだ決まっていない。
弥助は吉之助より14歳の年下。従弟とはいっても、叔父さんくらいに年齢が離れている。
URLリンク(kotobank.jp)
595:日本@名無史さん
18/01/05 01:16:02.12 .net
映画『二百三高地』で、児玉源太郎が親しみをこめて大山元帥を「ガマ坊」の渾名で呼んでいた。
たしかに顔がガマに似ている。
596:日本@名無史さん
18/01/05 01:19:05.38 .net
弥助は西郷慎吾よりは、一歳年長だよ。
『田原坂』の寺田屋の変のところでは、慎吾が弥助をリードしている感じだったけど、あれは逆だと思う。
あの年代の一歳の違いは大きいよ。
597:日本@名無史さん
18/01/05 01:37:10.40 .net
▽鉄砲
司馬さんは、戦国時代の合戦で火縄銃が最初に使われた合戦は、毛利元就の厳島合戦(1555年)か、島津貴久の岩剣城の戦い(1554年)としているが、岩剣城の戦いでよい。1543年(天文12年)に種子島に鉄砲が伝来してから11年後のことである。
598:日本@名無史さん
18/01/05 01:42:05.12 .net
▽岩剣城の戦い
天文19年(1550)12月に鹿児島の御内城に入って名実ともに島津氏当主の地位を継承した島津貴久は、すでに平定した薩摩半島に続いて大隅国平定へと目を向けていた。
薩摩・大隅の国境から別府川下流の帖佐や加治木周辺は貴久の父・島津忠良の時代から幾度となく係争が繰り返されており、当時の加治木城は島津氏に属す肝付兼演が守備していた。しかし天文23年(1554)9月、別府川上流を本貫地とする国人領主・蒲生範清がこの加治木城に向けて侵攻し城を包囲した。貴久はこの加治木城救援の前段として、加治木への往来を扼す岩剣城の制圧を目論んだのである。
599:日本@名無史さん
18/01/05 01:44:47.88 .net
戦国ドラマの主人公は平和主義者に設定されることが多いが、同時に西洋から伝来した最新兵器にいち早く着目する先見の明のある人物とも設定される。この矛盾にいつ気づいてくれるのだろうか?
600:日本@名無史さん
18/01/05 01:50:59.99 .net
▽大山解綱
おりました。大山巌元帥の御先祖に大山解綱なる人物がおりました。司馬さんのおっしゃるとおりです。
「綱次の子織部解綱も亦驍勇無雙の士で、天文二十三年九月晦日、隅州岩劍城の戰に、第十五代太守島津貴久公の旗下に在つて奮戰激鬪し、星原の戰場に於て名譽の戰死を遂げた」
601:日本@名無史さん
18/01/05 01:53:12.68 .net
司馬さんは、こうもおっしゃっておられる。
「わが国における銃創による最初の死者ともいえるかもしれない」
602:日本@名無史さん
18/01/05 01:55:09.81 .net
司馬さんお得意の余計な一言ですね。わかります( ̄ー ̄)ニヤリ
603:日本@名無史さん
18/01/05 02:12:01.23 .net
▽大山綱昌
通称は彦八。大山家に養子入りする前は西郷小兵衛と称していた。養父綱毅は一代小番まで進んだが、綱昌は出世の道を捨てて、生涯を砲術研究にゆだねた。ただし研究していた砲術の流派と砲術師範になったかどうかは不明である。
実兄が吉之助の父吉兵衛である〔>>248〕。
家督は大山彦八成美が継ぐ。幕末小説によく出てくる彦八は、息子の彦八。いうまでもないが弥助の兄。
604:日本@名無史さん
18/01/05 02:22:21.90 .net
脱線するが、息子の大山彦八成美と結婚したのが、吉之助の妹の西郷安。いとこ婚である。
天保10年(1839)生まれ。西郷家の三女で、7人きょうだいの5番目(従道のすぐ上)。下加治屋町の大山家は、西郷家の実家から四軒を隔てたすぐ近所であった。
※西郷安 (妹/1839-?) … 佐藤心美(子役)
URLリンク(hollywoodlatte.com)
URLリンク(stat.ameba.jp)
605:日本@名無史さん
18/01/05 02:26:31.60 .net
※『田原坂』では、新井春美
URLリンク(www.tv-ranking.com)
606:日本@名無史さん
18/01/05 02:30:24.33 .net
脱線ついでに、安の姉の琴さんも。
その前に西郷七人兄弟を年齢順に並べてみる。
長男隆盛 →長女琴 →次男吉二郎 →次女鷹 →三女安 →三男従道 →四男小兵衛
607:日本@名無史さん
18/01/05 02:36:25.19 .net
ちょっと待って。早いよ。>>568には続きがある。
夫の薩摩藩士・大山成美は、薩長同盟締結から2日後の慶応2年1月23日に坂本龍馬が寺田屋で伏見奉行の捕吏に襲われたとき、伏見の薩摩藩邸から川船を出して龍馬を救出した大山彦八のことである。
大山安は、万延元年(1860)頃、辰之助を産む。明治10年(1877)5月7日、西南の役に出征した息子の大山辰之助が、鹿児島の甲突川で戦死(16歳)。
608:日本@名無史さん
18/01/05 02:36:51.77 .net
※『田原坂』の大山辰之助は宮川一朗太
URLリンク(www.japan-zone.com)
609:日本@名無史さん
18/01/05 02:39:19.26 .net
それ、宮川一朗太じゃなくて、内村だからw
URLリンク(image.tmdb.org)
610:日本@名無史さん
18/01/05 02:42:07.35 .net
それも内村だからwww
松田優作に迫られる宮川一朗太
URLリンク(newnews.in.net)
URLリンク(yumeijinhensachi.com)
URLリンク(blog-imgs-54.fc2.com)
611:日本@名無史さん
18/01/05 02:44:51.93 .net
そろそろ琴姉さん、やっていい?
612:日本@名無史さん
18/01/05 02:45:05.00 .net
いいよ
613:日本@名無史さん
18/01/05 02:54:24.91 .net
▼西郷琴
天保3年(1832年)- 大正2年。西郷吉兵衛の長女。吉之助の5歳下の妹。
薩摩藩士市来正之丞の妻となる。母の実家の椎原家と並んで、市来家は西郷家にとって親密な縁戚であり、両家への西郷隆盛の書簡が多く残っている。
614:日本@名無史さん
18/01/05 02:54:37.55 .net
※西郷琴 (妹/1832-1913) … 栗本有規(子役)→桜庭ななみ
URLリンク(mighpa.xsrv.jp)
URLリンク(i.ytimg.com)
URLリンク(image.news.livedoor.com)
URLリンク(im3-a.mbokimg.dena.ne.jp)
615:日本@名無史さん
18/01/05 03:04:03.04 .net
※『田原坂』の琴は、赤座美代子
URLリンク(s.yimg.jp)
琴の夫の名は、市来六左衛門になっている:井川比佐志
URLリンク(img.news.goo.ne.jp)
616:日本@名無史さん
18/01/05 03:05:47.82 .net
琴の子が、市来宗介:新田純一
URLリンク(tisen.jp)
617:日本@名無史さん
18/01/05 03:07:11.16 .net
市来宗介が西郷菊次郎とともにアメリカへ留学したのは、明治5年の2月。
618:日本@名無史さん
18/01/05 03:15:11.41 .net
「西郷どん」は次女の鷹も登場させるみたいだね。鷹は、文久2年には死んでしまう。
※西郷鷹 (妹/1837-1862) … 石井心咲 →渡来るひか →原舞歌
URLリンク(www.smile-monkey.com)
URLリンク(www.smile-monkey.com)
URLリンク(pbs.twimg.com)
子役は三人バトンタッチなのか?
619:日本@名無史さん
18/01/05 03:17:14.00 .net
鷹は、薩摩藩士三原伝左衛門に嫁いでいる。
長女は産んだようだが、男子は産めなかったようだ。
620:日本@名無史さん
18/01/05 03:18:55.45 .net
どこから脱線したか、わからなくなったなw
大山巌の父綱昌の名前が出たところからだな。>>567
621:日本@名無史さん
18/01/06 13:48:29.42 .net
▽ゼームス・ファブルブラント〈James Favre-Brandt〉
1841-1923 スイスの貿易商。
司馬さんはファーブルが名でブラントが姓であると勘違いされているが、ファブルブラントが姓。
文久3年 (1863) 遣日使節団長アンベールらとともに来日。横浜に定住してスイス時計の輸入・販売をおこない、時計製作技術研修生をスイスに派遣した。
URLリンク(www7b.biglobe.ne.jp)
622:日本@名無史さん
18/01/06 13:54:29.85 .net
ファブルブラント商会は元治元年(1864)に横浜54番で設立されたが、慶応2年(1866)、有名な豚屋火事で類焼し、其の後175番に移転して関東大震災(大正12年)で被災廃業するまで同地で営業していた。
URLリンク(blog.hama1.jp)
※ファブルブラント商会の年賀状〔明治42年〕URLリンク(www.kodokei.com)
623:日本@名無史さん
18/01/06 14:01:05.90 .net
ファブルブラントは、司馬遼太郎「峠」の主要登場人物である。幕末の薩摩藩及び敵対する河井継之助の長岡藩に大量の武器を売っている。
「死の商人」として財を成したが、イメージ・ダウンを避けるため、時計商を表看板にしていた世渡り上手である。
本章では、大山弥助が武器買付に横浜を訪れた話が出ている。大山とファブルブラントの親交は深かった。
624:日本@名無史さん
18/01/06 14:14:25.42 .net
▽黒ラシャ・金モール入りの軍服
「ラシャ」はポルトガル語の raxa。12世紀ころセルビアの首都ラサで産した毛織物であるため、この名称で呼ばれ、南蛮貿易により日本へ渡来した。漢字表記は「羅紗」。
「金モール」は、軍服の片肩から前部にかけて吊るされる飾り紐のことで、正式名称は「飾緒(しょくしょ)」。材質に金銀糸が使用されることからモールとも呼ばれている。
URLリンク(www.hanayome.biz)
625:日本@名無史さん
18/01/06 14:15:12.
626:52 .net
627:日本@名無史さん
18/01/06 14:19:50.09 .net
大山弥助はおしゃれで、黒ラシャ・金モール入りの軍服を、蛤御門の変のときにはすでに着用していた。
おれ個人の趣味としては、『田原坂』で桐野少将が着用していた軍服が好きだ。
URLリンク(www.mohkacc.jp)
628:日本@名無史さん
18/01/06 14:34:52.99 .net
最近、過去の記憶がカオスになりつつある。
『ギルガメッシュないと』のイジリー岡田と、『TV海賊チャンネル』の「ティッシュタイム」と、『グッドモーニング』のオナッターズという三つの記憶がカオスになっている。
『ギルガメッシュないと』で「ティッシュタイム」と南麻衣子が言うと、エロビデオが流れて、あと少しというところでイジリー岡田のアップが映されていたような記憶になっている。余談である。
629:日本@名無史さん
18/01/06 14:41:40.84 .net
▽弥助砲
先日、九段下に行ったところ、交差点そばの歩道に妙な物が立っているのをみつけました。どうやら大砲の砲身のようです。さて、この大砲の正体は何者かと調べてみると「弥助砲」であるとの説明が一般にされているようです。
弥助砲とは、明治初期に日本で生産された2種の大砲の通称で、薩摩藩の砲兵隊にいた大山弥助(後の元帥大山巌)が開発しました。
URLリンク(blog-imgs-34-origin.fc2.com)
630:日本@名無史さん
18/01/06 14:44:41.34 .net
弥助砲には、幕末の主力火砲であるフランス製四斤山砲を長砲身化したものと、十二斤臼砲の二種がありますが、そのうちの四斤山砲型であると伝えられているようです。
四斤山砲型は、薩摩藩の集成館及び大阪造兵廠(明治3年以降)で相当数が生産されています。なお、「斤」といっても英式重量ポンドではなく、フランス式なのでkg表記であり、砲弾重量が4kgであることを示します。
URLリンク(img01.militaryblog.jp)
631:日本@名無史さん
18/01/06 14:55:08.19 .net
▽観戦武官
この制度の起源は明らかではないが、19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため自然に消滅した。
日本では、1870年に普仏戦争を大山巌が観戦している。また、1898年の米西戦争では秋山真之海軍大尉・柴五郎陸軍少佐(義和団の乱では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。
632:日本@名無史さん
18/01/06 15:06:40.78 .net
▼普仏戦争
フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。
普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
633:日本@名無史さん
18/01/06 15:08:25.87 .net
当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した。
次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。
634:日本@名無史さん
18/01/06 15:10:58.42 .net
戦争の直接的な要因は、1868年に空位となっていたスペインの王位にプロイセン王の親戚ホーエンツォレルン家レオポルトが推挙されたことにある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。
フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。
635:日本@名無史さん
18/01/06 15:13:44.82 .net
フランスとの開戦準備を進めていたプロイセン宰相ビスマルクは、この事件をめぐるプロイセン王ヴィルヘルム1世からのフランスとの交渉報告電報を、“フランス大使の非礼な要求に立腹したプロイセン国王がフランス大使を強く追い返した”ように編集して、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。
ヴィルヘルム1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。
636:日本@名無史さん
18/01/06 15:14:55.40 .net
エムス電報事件に刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌7月15日に動員令を発令した。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。
637:日本@名無史さん
18/01/06 15:34:20.36 .net
この戦争を予測していたプロイセンは、普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣し、観光客にまぎれこませて偵察させ、地図を作成するなど万全な準備を整えていた。
参謀総長大モルトケ率いるプロイセン軍は、フランス軍正面と右翼を攻撃した。フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。
638:日本@名無史さん
18/01/06 15:38:36.57 .net
ナポレオン3世は自ら戦地に赴きセダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動に出ていた。
フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の9月4日、ナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための新政府の設立が決議された。
※セダン URLリンク(www.vivonet.co.jp)
639:日本@名無史さん
18/01/06 15:44:30.08 .net
プロイセン軍は、各地の要塞や残存部隊を包囲し、各個撃破しつつパリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された。
プロイセン軍は、背後にあるメッツ要塞のバゼーヌ元帥指揮の軍団を警戒して、一気に攻め込むことはしなかった。
10月27日、メッツ要塞で大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
640:日本@名無史さん
18/01/06 15:54:58.65 .net
1871年1月5日、パリに砲撃開始。
同年1月18日、パリ砲撃が続く中、プロイセン王はヴェルサイユ宮殿で、新しく樹立されたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世として即位した。
URLリンク(bundestor.com)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(kotobank.jp)
641:日本@名無史さん
18/01/06 16:00:38.88 .net
大山巌にふれているのは、同じ薩摩人でも、東京にいる者とフランスにいる者とがまったく別な体験をし、国家についての危機感に関しても別種なものを抱くにいたっていることを理解したいためである。
けっして世界史の復習をするためではない。
642:日本@名無史さん
18/01/06 16:04:45.48 .net
▽モンパリヤン堡
モンパリヤン堡 に一致する情報は見つかりませんでした。
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643:日本@名無史さん
18/01/06 16:14:43.08 .net
▽明治5年1月9日
司馬さんは、この日、大山弥助がパリに入ったと叙述されている。これは普仏戦争観戦のための外遊のときではない。
大山は普仏戦争終了後、一度日本へ帰国している。明治4年12月3日に、再び渡欧している。
まえの段落からの流れだと、ドイツ軍によるパリ陥落後の話のように読めるが、お間違えのないように。
644:日本@名無史さん
18/01/06 16:20:12.10 .net
明治2年、普佛戰爭に際し、29歳の壯齡で選まれて渡歐した公は始終、普軍に從ひ、その本營にあつて戰況の進行と共に巴里に進み、巴里攻圍の實戰を目撃して、大いに自家の戰術に裨益するところがあつた。
翌3年1月巴里陷落と共に入城し、一旦歸朝し、竪4年12月3日31歳にして再び渡歐、明治5年は巴里に住んで書生生活を營み、フランス語の勉強などをしてゐたのであるか、元來の目的は砲術の研究にあるので5年の秋頃から瑞西のゼネバヘ行つた。
645:日本@名無史さん
18/01/06 16:22:36.12 .net
そして明治7年10月3日、34歳になつて歸朝したのであつた。歸朝した時、大山公は恐らく日本第一のハイカラであり、新知識であつたらしい。少くとも實地に見學修得した歐洲諸強國の戰術軍制は、公の頭腦を異常に發逹させ、公をして其後も永く、日本陸軍部内に於ける進歩派たらしめるに十分であつた。
646:日本@名無史さん
18/01/06 17:53:56.80 .net
▽Grand Hotel de Paris
大山は明治5年1月9日にパリに入り、幕末以来日本の高官の定宿のようになっているグランドホテルに投宿した。
画像で見ると五階建てである。川路・河野・沼間が投宿した宿も五階建てであった。
ルーヴル美術館から200mというのも、司馬さんの叙述と合致する。特定しましたよ〔>>60〕。
URLリンク(images.xaccom.com)
URLリンク(img1.superbreak.net)
URLリンク(www.unnamedproject.com)
647:日本@名無史さん
18/01/06 18:02:40.92 .net
このホテルから大山弥助は、仏蘭西がなぜ普仏戦争に敗れたかの理由を、山縣有朋宛に書き送っている。
「ヨーロッパのいかなる小国の士官学校にも、プロシアは留学生を最低七、八人は送っています。ヨーロッパ諸国でそういうことをしないのは仏蘭西だけです」〔>>600〕
648:日本@名無史さん
18/01/06 18:03:36.88 .net
大山弥助は、この留学中にスイスを好きになっている。
649:日本@名無史さん
18/01/06 18:11:22.61 .net
▽スイス
ローマ時代にはケルト人の一派が居住していたが、カエサルのガリア進出の際にこの地もローマの属州とされた。ゲルマン民族の移動によって、ブルグンド族などの支配を受けた後、フランク王国の領土となった。
ケルト人は、中央アジアからヨーロッパに来たインド・ヨーロッパ語族で、ケルト語派を話す人達です。特に、ガリアと呼ばれる地域に住んでいたケルト人をガリア人と呼んでいます。
※ケルト人の美女
URLリンク(m.msmstatic.com)
650:日本@名無史さん
18/01/06 18:13:06.11 .net
ついで神聖ローマ皇帝がイタリア政策を遂行するための重要な交通路としたために、皇帝の直轄地とされた。特にサン・ゴタール峠はドイツとイタリアを結ぶルートとして重視された。スイスの出身であるハプスブルク家が皇帝位に付くと、本拠をウィーンに移してからもスイスを直轄地として支配し、圧政を加えた。
651:日本@名無史さん
18/01/06 18:20:46.42 .net
ハプスブルク家の支配に対して、1291年、ウーリ・シュヴィーツ・ウンターリンデンの三州が協力して「自由と自治」を守るための「永久同盟」を結成した。この誓約はスイス国家の出発点とされ、この三州は「原初三州」といわれている。
1316年には神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世によって承認され、次第に周辺の州も同盟に加わり、1353年には8州による「盟約者団会議」が成立した。
URLリンク(www.geocities.jp)
652:日本@名無史さん
18/01/06 18:25:38.97 .net
スイスに対する支配権を回復しようとするハプスブルクの騎士軍を1386年のゼンパハの戦いでスイス民兵が破り、その後の戦闘でもスイス側が勝利し、1389年には実質的独立が達成された。
なおもハプスブルク家の名目的な支配が続いたが、1499年のシュヴァーベン戦争で最終的にハプルブルク帝国からの分離が確定した。
URLリンク(www2m.biglobe.ne.jp)
URLリンク(skyticket.jp)
URLリンク(d18gmz9e98r8v5.cloudfront.net)
URLリンク(d2ygv0wrq5q6bx.cloudfront.net)
653:日本@名無史さん
18/01/06 18:28:27.67 .net
ア ホレ スイスイ スーダララッタ スラスラ スイスイスイ ♪
URLリンク(www.hakubutu.jp)
654:日本@名無史さん
18/01/06 18:31:12.02 .net
スイスの独立運動というと、ウィリアム・テルの話が有名である。ウーリ州のアルトルフという村で圧政をしく神聖ローマ帝国ハプスブルク家の代官に反抗したテルが、自分の子供の頭にのせたリンゴをみごと射ぬき、代官をこらしめる話である。
ただしこの話はまったくの作り話で、しかも15世紀にアイスランドから伝えられたものだった。それがシラーの戯曲やロッシーニのオペラで有名になったにすぎない。
URLリンク(www.bar-taian.com)
URLリンク(blog-imgs-93.fc2.com)
655:日本@名無史さん
18/01/06 18:33:53.80 .net
16世紀の宗教革命の時期には、チューリヒにツヴィングリが現れ、またジュネーヴではフランス人のカルヴァンが福音主義を説いてその市政を握るなど運動の中心地となった。その後カルヴァン派はフランスでユグノーといわれて増加し、1598年のナントの勅令で信仰を認められた。
※ユグノー戦争 URLリンク(stat.ameba.jp)
656:日本@名無史さん
18/01/06 18:40:10.85 .net
ドイツの宗教戦争である三十年戦争でハプスブルク家劣勢のまま講和となったため、スイスの独立が国際的に承認されることとなり、1648年のウェストファリア条約によってスイスの独立が確定した。
その後、フランスでルイ14世がナント勅令の廃止を行ったため(1685年)、ユグノーの多くがスイスに移住した。ユグノーは商工業者層に多く、その中の時計職人がスイスの時計産業を興したという。ファブルブラント商会参照〔>>585〕。
657:日本@名無史さん
18/01/06 18:44:21.03 .net
スイスは、ウェストファリア条約で独立が国際的に承認されたが、各州の対立から統一が進まず、フランス革命時にナポレオンの征服を受けた。
ナポレオン没落後の国際会議であるウィーン会議では、スイスの安定はヨーロッパ各国の安全にとって重要な意味があると認識されたので、1815年のウィーン議定書で、カントンといわれる自治体22州からなる連邦国家の独立があらためて確認され、同時に永世中立国となることが承認された。
658:日本@名無史さん
18/01/06 21:47:58.72 .net
▽下加治屋町
旧薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町。下加治屋町出身の著名人を下の掲げる。
西郷隆盛、大山巌〔>>558〕、西郷従道、井上良馨、黒木為楨、東郷平八郎〔>>500〕、村田新八〔>>338〕
樺山資紀、大久保利通、吉井友実〔>>247〕、池上四郎、有馬新七、山本権兵衛〔>>210〕、篠原国幹
URLリンク(www.kyushu-sanpo.jp)
659:日本@名無史さん
18/01/06 21:49:33.52 .net
西郷の末弟である西郷小兵衛は、東郷平八郎の素読の師匠。
660:日本@名無史さん
18/01/06 21:59:34.90 .net
◆三条実美
幕末、宮廷をゆるがしたいわゆる過激公卿はみな下級公卿であったが、三条実美のみは家柄がよく、自然その棟梁株に立てられた。幕末の過激公卿はほぼ長州系であった。長州人が出入りして彼らに長州風の尊王攘夷思想を教えたが、逆に長州に都合のいいような宮廷工作の道具にもなった。
文久三年の政変で京から長州色が一掃されたとき、三条はいわゆる「七卿落ち」で京を去ったが、維新の成立とともに太政大臣として日本国の首相となった。
661:日本@名無史さん
18/01/07 11:02:18.22 .net
>>603
「翔ぶが如く」のなかに出てきたかどうかは忘れたましが、司馬作品によく出てくる西郷の台詞に「新しい国は、戦争の焦土の中から生まれる」というのがあるじゃないですか。普仏戦争によって生まれたドイツ帝国がモデルですよね。
662:日本@名無史さん
18/01/07 11:08:25.50 .net
▽手弱女〈たおやめ〉
やさしい女。しとやかな女。対義語は、益荒男〈ますらお〉。意味は、雄々しく強い男。立派な男。ますらおのこ。
なお、成人男性の7割は「手弱女」を「てごめ」と読むという調査結果があります。
663:日本@名無史さん
18/01/07 11:12:58.99 .net
>>625は表の意味で、「益荒男」「手弱女」には裏の意味もある。武人・もののふ vs 浮かれ女・あそびめ・たわれめ、である。
司馬さんは、三条実美の性格を表現して「手弱女ぶりの芯の強さ」とおっしゃっている。「手弱女」を遊女の意味で用いています。
664:日本@名無史さん
18/01/07 11:21:30.63 .net
三条実美は、小骨の間の微量の肉まですくいあげて、魚が骨格標本のようになるまで、魚を上手に食べる。
665:日本@名無史さん
18/01/07 11:27:46.00 .net
▽岩倉具視
文政8年(1825年)- 明治16年
公卿・堀河康親の次男として京都に生誕する。朝廷儒学者・伏原宣明は、岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかった。
URLリンク(kosenkaitori.info)
666:日本@名無史さん
18/01/07 11:37:07.15 .net
文久2年(1862年)7月、徳川慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職として復帰した。こうした情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。
岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから、尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。
667:日本@名無史さん
18/01/07 11:40:15.03 .net
正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。
しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美・姉小路公知など13名の公卿が連名で、岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子を、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を、関白・近衛忠煕に提出するにいたる。
いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は、朝廷を去った。
668:日本@名無史さん
18/01/07 12:57:28.89 .net
▽三条家
藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。その下は大臣
669:家。 ※藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立つ五摂家……近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家 ※大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる七清華家……久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川
670:日本@名無史さん
18/01/08 19:58:30.00 .net
▽孝明天皇毒殺説
真偽のほどは筆者には分からない。噂話を載せておく。出典は、アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)。
「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。
この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。
反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」
671:日本@名無史さん
18/01/08 20:09:14.32 .net
「これはカステラでございますか」
「松風どす」
672:日本@名無史さん
18/01/08 20:13:21.91 .net
▽松風
松風は、小麦粉を主体とする「和風カステラ」といい表わしてもよい京菓子。ただし、カステラのように卵や油は入っていない。
粉っぽさがなく、グルテン(小麦などの胚乳から生成されるタンパク質の一種)の弾力を生かした歯ごたえがあり、噛んでいるうちになめらかになっていく。
URLリンク(www.shichikuan.com)
673:日本@名無史さん
18/01/08 20:24:54.48 .net
▽山縣有朋
天保9年(1838年)- 大正11年
明治2年に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年、アメリカ経由で帰国。その後は大村益次郎の実質的な後継者として、西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行し、徴兵制を取り入れた。
明治4年 (1871年)、兵制統一の必要性から廃藩置県を提議し、有力者間の根回しを行った〔>>289〕。
URLリンク(blog-imgs-46.fc2.com)
674:日本@名無史さん
18/01/08 20:26:35.94 .net
明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年4月に陸軍大輔を辞任。しかし山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿として復職した。物語のこの時期、山縣は陸軍卿に復職したばかりであった。