17/12/21 20:28:38.41 .net
このスレに書かれてあることで司馬先生の叙述と矛盾があれば、原則として司馬先生が間違っていると考えてください。
さて、ご質問の件ですが、まず司馬先生の叙述の「幕末になって」が間違っています。
平野家は江戸時代を通じて交代寄合の格式で、大名ではなく、参勤交代をおこなう旗本でした。
明治元年(1868年)に平野家を田原本藩として立藩させたのは、江戸幕府ではなく明治政府です。
これを「維新立藩」といいます。明治4年の廃藩置県までは藩が存在したことを思い出してください。
31:日本@名無史さん
17/12/21 20:33:17.61 .net
司馬さんは「十何代目」かの権平と間違えていますが、第10代平野家当主の平野長裕のことです。
長裕は、明治元年(1868年)7月14日、新政府の計らいで実高に高直しされ、1万石で大名に列し、ここに田原本藩を立藩した。
明治2年(1869年)7月20日には藩知事となる。翌年6月24日、東京で死去した。享年28。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
32:日本@名無史さん
17/12/21 20:41:08.77 .net
なお、司馬先生の書かれ方ですと、平野長裕が田原本を知行地として加増されたように読めます。
しかし、田原本を加増されたのは、権平五千石の主人公である平野長泰ですので、お間違えなく。
賤ヶ岳の戦いの功績により河内国で3,000石の知行、文禄4年(1595)8月に2,000石の加増となり、大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられたのは、初代の長泰です。
明治政府が平野長裕を大名にしたのは、加増ではなくて、表高を実高(内高)に合わせただけです。
33:日本@名無史さん
17/12/21 20:44:09.91 .net
俺がこれだけ調べるのに25分しかかかっていない。
文献で調べるか、ネットで調べるかの差なんだろうな。
そうだとすると、司馬を越える小説家が出てきてもよさそうなものだが、実際にはバカばかりなんだよな。
34:日本@名無史さん
17/12/22 06:56:11.25 .net
他人を攻撃するときの舌鋒の鋭さは、まるで沼間守一のようだなw
35:日本@名無史さん
17/12/22 06:59:50.47 .net
>>30
丹波守長祥〈ながあき〉は、「その当時」の人なので、平野家第三代当主・平野長政ではないですね。
架空の人物なんだけど、平野長政の官位と諱と法名の三つを合体させてオリキャラ名にした。
36:日本@名無史さん
17/12/22 07:02:10.60 .net
以上は余談である。
37:翔ぶが如く
17/12/22 07:19:47.17 .net
第1章 パリで
「パリ近くで列車の窓から大便をほうり投げた者がいる。それが保線夫に命中した。保線夫が怒り、それを警察署へもってゆくと、警察署にアジアの事情に明るき者がおり、これは日本文字なり、投げた者はおそらく日本人なるべし、と証明した」
パリに着いた翌日に買った新聞を沼間守一がもってきて、そのくだりを指でたたいた。国辱と思わないかね、君、と沼間はいった。
「薩摩人はどうも行儀がよくない」
と、旧幕臣でそれも代々の旗本の子である沼間は、川路をばかにしきったような顔でいった。
38:日本@名無史さん
17/12/22 07:22:41.79 .net
ウンコ キタァ━━( ´∀`)━━!!!
39:日本@名無史さん
17/12/22 07:26:46.73 .net
この大長編をうんこネタで始めるところなんかは、司馬の卓抜した手腕だな。
明治政府は、欧米と日本の文明の濃度の差を、自己の課題というよりコンプレックスとして持ち続けた政権だ。
冒頭のうんこネタは、その点を見事に表現した挿話として高く評価できる。
40:日本@名無史さん
17/12/22 07:28:37.81 .net
人
(__)
(__)
ウンコー (・∀・,,)
O┬O )
_| ̄|○ キコキコ ◎┴し'-◎ ≡
人 <ウンコー !
(__) (,,・∀・)
(__) ( O┬O
_| ̄|○i|! ≡ ◎-ヽJ┴◎ キコキコ
41:日本@名無史さん
17/12/22 10:00:11.12 .net
★マルセーユ
▽川路利良〈としなが〉
天保5年(1834年)- 明治12年(1879年)
当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名したようである。通称は正之進。
維新後の明治4年(1871年)、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。
明治5年、邏卒総長に就任し、9月、司法省の西欧視察団(8人)の一員として欧州各国の警察を視察する。
URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)
42:日本@名無史さん
17/12/22 10:06:24.08 .net
▽マルセーユ
前600年にギリシアのフォカイア人が築いた植民都市「マッシリア」にはじまるフランス最古の都市。また、フランス最大の港湾都市でもある。
人口は約82万人でパリに次ぎフランス第二位、都市圏人口ではパリとリヨンに次ぎ第三位の規模を誇る。漢字による表記
43:は馬耳塞。 温暖で湿潤な冬と全体的に乾燥する夏を持つ地中海性気候である。最も寒いのは1月と2月で、平均気温は8℃から9℃である。 https://travel.rakuten.co.jp/kaigai/europe/img/france.gif http://worldtenki.net/wp-content/uploads/2015/05/Marseille_01.jpg http://www.city.kobe.lg.jp/culture/international/sister/img/marseilles1.JPG
44:日本@名無史さん
17/12/22 10:13:01.26 .net
▽沼間守一
天保14年(1843年)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第二子として生まれる。弘化6年(1849年)、沼間平六郎の養子となる。
慶応元年(1865年)、幕府陸軍伝習所に入所。
慶応4年(1868年)1月、歩兵奉行並に昇進。3月、士官約20名を連れ兄・須藤時一郎とともに江戸を脱走。会津で遊撃隊(銃隊)を編成する。
4月、日光方面にて大鳥圭介とともに板垣退助らの新政府軍と戦う。7月、会津に戻り遊撃隊を伝習し、下旬に庄内藩へ移動、農兵を訓練する。
9月に庄内藩が降伏したため12月に江戸へ護送される。
URLリンク(1.bp.blogspot.com)
45:日本@名無史さん
17/12/22 10:21:06.62 .net
▽河野敏鎌
天保15年(1844年)- 明治28年(1895年)。幼名は万寿弥。
土佐藩郷士の河野通好の長男として高知に生まれる。土佐勤王党に加入して武市半平太や坂本龍馬らと交友関係を持つ。
文久3年(1863年)に藩主・山内容堂が佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換し、河野は投獄され6年間の獄中生活を送る。
慶応4年(1868)に罪を免じられて出獄。同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、江藤新平の知遇を得る。
URLリンク(www.mext.go.jp)
46:日本@名無史さん
17/12/22 10:21:56.10 .net
川路は河野より10歳年長なんだな。沼間ですら河野より1歳年長。
47:日本@名無史さん
17/12/22 10:26:28.11 .net
パリの緯度は樺太の南部に相当する。
48:日本@名無史さん
17/12/22 10:32:07.93 .net
▽窈窕たる淑女
美しくしとやかであるさま。
『窈』は、穴+幼 から作られた形声文字です。意味は「おくぶかい」「うつくしい」です。
『窕』は、穴+兆 から作られた形声文字です。意味は『窈』と同じ「おくぶかい」「うつくしい」です。
「窈窕淑女」は『詩経』周南・関雎(カンショ)にでている四字熟語。
URLリンク(i.ytimg.com)
49:日本@名無史さん
17/12/22 10:36:22.96 .net
▽田舎教師らしい中年男とその妻女
後ろの座席で川路がうんこをしていることに気づかなかった二人である。
50:日本@名無史さん
17/12/22 10:42:59.27 .net
▽ふかしたての饅頭のようなうんこ
川路は横浜で刊行されていた日本の新聞紙でうんこを包んだ。
URLリンク(pbs.twimg.com)
51:日本@名無史さん
17/12/22 10:46:14.34 .net
>>14
時系列が複雑。あっちに飛び、こっちに飛ぶ。
これから横浜からマルセーユへの船旅だ。
52:日本@名無史さん
17/12/22 10:47:01.11 .net
うんこネタを冒頭にもってきたかったので、船旅は後回しにしたのさ。
53:日本@名無史さん
17/12/22 14:35:53.76 .net
▽薩摩与力
薩摩の与力は、薩摩藩家臣団の最下級の家格に属する。
城下士に含まれない低い身分であった。川路の家格は与力である。
桐野は郷士で城下士ではないが、郷士の家格は城下士最下級の御小姓与と同格とされた。
54:日本@名無史さん
17/12/22 14:37:40.17 .net
島津重豪の藩政改革によって、郷士は徐々に城下士より下に見られるようになったよね。
55:桐野利秋
17/12/22 14:38:35.65 .net
>>51
おいは城下士っごあんど。
56:日本@名無史さん
17/12/22 14:40:00.53 .net
要するに、薩摩与力は、城下士からも郷士からも差別される家格だ。
57:日本@名無史さん
17/12/22 14:44:19.59 .net
>>40
うちの兄ちゃんが、テレビ・ドラマに川路利良が出てきたときに、ドラマの中で「としよし」と呼ばれていたのを、「利良と書いて〈としなが〉と読むんだ」と知ったかぶりして言っていました。
兄ちゃんは間違ってますね?
58:日本@名無史さん
17/12/22 14:45:06.41 .net
間違っているけど、悪口を言っていると、兄ちゃんからお年玉を貰えないよ。
59:日本@名無史さん
17/12/22 14:50:39.39 .net
▽示現流
川路は示現流剣法の達人であった。
薩摩藩内では江戸後期に島津斉興より御流儀と称され、分家の佐土原藩を除き、藩外の者に伝授することを厳しく禁じられていた御留流である。
『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』と云われ、髪の毛一本でも早く打ち下ろせと教えられる。初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。
URLリンク(www.youtube.com)
60:日本@名無史さん
17/12/22 14:53:04.52 .net
しかしまあ、一般のイメージとは違って、初太刀からの連続技も伝えられているし、初太刀を外された場合に対応する技法も伝授されているんだよね。
61:日本@名無史さん
17/12/22 15:03:49.45 .net
▽蛤御門の変
川路利良は、元治元年(1864年)、蛤御門の変(禁門の変)で長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して斃すという戦功を挙げ、西郷隆盛から高く評価された。
正確には、川路に狙撃された後、来島又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。享年48。
※来島又兵衛:『奇兵隊』(1989年 / NTV年末時代劇スペシャル)の竜雷太
URLリンク(koimousagi.com)
62:日本@名無史さん
17/12/22 15:16:13.23 .net
★パリ
▽ホテル
ルーブル宮近くにはホテルが多くて特定は不可能。
開業年次は不明であるが、「ル・ムーリス」の画像を掲げておく。
河野敏鎌一行は、下宿が決まるまでの数日間、ホテルに宿泊した。
URLリンク(t-ec.bstatic.com)
URLリンク(t-ec.bstatic.com)
63:日本@名無史さん
17/12/22 15:19:57.04 .net
▽ルーブル宮
歴代フランス王の王宮として使用されていた宮殿。パリのセーヌ川右岸に位置する。
1682年にフランス王ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に遷宮するまで、事実上の歴代フランス王宮としての役割を果たしている。
その後ルーヴル宮殿内にルーヴル美術館が創設され、また、様々な官公庁部署が収容されていった。
※見えている部分は全てナポレオン3世時代のもの
URLリンク(image.space.)
64:rakuten.co.jp/lg01/72/0000895872/06/img6833ce60zik6zj.jpeg
65:日本@名無史さん
17/12/22 16:12:31.29 .net
▽勝海舟
沼間守一が勝海舟を暗殺しようとしたのかどうかは、筆者は知らない。
>>42を今少し詳しく講釈する。
会津藩家老西郷頼母は、沼間守一に藩士へはフランス式練兵を、少年に英語の教授を依頼した。そして「会津の三郎」こと山川健次郎、柴四朗、赤羽四郎の他が選抜され、沼間から英語を学ぶように指示された。
しかし、西軍の攻撃で宇都宮城が落ちると、沼間は幕兵と山川大蔵ら会津藩兵とともに日光口に出陣していった。
66:日本@名無史さん
17/12/22 16:26:06.61 .net
▽庄内藩
出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。
藩主の酒井氏は、戦国武将で徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡流。
慶応3年(1867年)12月25日、江戸市中取締役を拝命していた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした。
戊辰戦争では、会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。
URLリンク(uub.jp)
67:日本@名無史さん
17/12/22 16:33:59.87 .net
久保田藩(秋田藩)に続いて、新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。この状況に対して、白河へ兵を向けようとしていた庄内藩は一部の部隊を北方へ派遣し、明治元年7月14日に新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。
さらに、庄内藩・仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で、久保田(秋田)領・矢島領・本荘領を制圧していった。総督府に自領を放棄された亀田藩は、庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟軍に参加した。
URLリンク(seuru.pupu.jp)
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
68:日本@名無史さん
17/12/22 16:36:08.73 .net
また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することを決定した。8月9日に盛岡藩は久保田藩(秋田藩)に攻め込み、大館城を攻略した。
しかし、佐賀藩を中心とする援軍の到着により久保田軍(秋田藩)は勢いを盛り返し、9月7日には盛岡軍を藩境まで押し戻した。
庄内藩も、9月12日に上山藩が降伏したことで南方の不安が増したため、17日に退却し以後は自領防衛に徹した。
9月22日、会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決すると、同日盛岡藩が降伏し、24日に庄内藩・亀田藩も降伏した。
69:日本@名無史さん
17/12/22 16:53:03.83 .net
▽千住から赤羽
沼間は味方であった庄内藩兵に捕えられ、江戸まで護送された。
千住から舟に乗り赤羽の手前まで着たとき、明治二年元旦の初日が昇るのを見た。
「ああ たった六十余州か けさの春」
URLリンク(d1lfxha3ugu3d4.cloudfront.net)
※多摩川・六郷の渡し〔参考〕
URLリンク(touyoko-ensen.com)
70:日本@名無史さん
17/12/22 16:56:51.92 .net
▽「おのれの好悪の情を他人に喋々するは男子の事に非ず」
沼間の薩摩嫌いの言に対して、川路が述べた言葉。
今日まで筆者は、この言葉は自分が考えたものだと勘違いして、方々でこれを述べていた。
「翔ぶが如く」に書かれてあったんですな。すんません。
71:日本@名無史さん
17/12/22 17:12:52.40 .net
▽下宿屋ふうの安ホテル
静寧川〈セーヌ川〉にかかる阿爾ロ馬橋〈アルマ橋〉の近くにある。
URLリンク(d1d37e9z843vy6.cloudfront.net)
URLリンク(www.kantabi.com)
URLリンク(cooljapanx.web.fc2.com)
72:日本@名無史さん
17/12/22 17:20:24.67 .net
▽ノートルダム大聖堂
ゴシック建築を代表する建物であり、フランスはパリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。
1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されている。
URLリンク(d18gmz9e98r8v5.cloudfront.net)
URLリンク(weblio.hs.llnwd.net)
URLリンク(20sqp4er1g81zsnf23x1og78.wpengine.netdna-cdn.com)
73:日本@名無史さん
17/12/22 17:29:09.79 .net
▽司法制度調査団の序列
河野敏鎌……司法少丞
沼間守一……司法省七等出仕 / 警保助
川路利良……邏卒総長
鶴田皓………明法助
岸良兼養……権中判事
74:日本@名無史さん
17/12/22 17:31:52.26 .net
▽後発組
井上毅………司法中録
名村泰蔵……司法省七等出仕
益田克徳……司法省八等出仕
75:日本@名無史さん
17/12/22 17:35:54.89 .net
▽鶴田皓〈あきら〉
天保6年(1836年)- 明治21年(1888年)
佐賀藩多久邑出身。父は多久家家臣鶴田斌。東京帝国大学法学部講師。諸法典編纂に参加。
URLリンク(www.city.taku.lg.jp)
76:日本@名無史さん
17/12/22 17:38:54.22 .net
▽岸良兼養〈かねやす〉
天保8年(1837年)- 明治16年(1883年)
薩摩藩士・岸良兼善の長男として生まれる。島津久光の小姓として、久光、島津忠義父子と精忠組との連絡役を務めた。
明治時代の司法官。元老院議官、大審院長。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
77:日本@名無史さん
17/12/22 17:42:59.01 .net
▽井上毅
天保14年(1844年)- 明治28年(1895年)
肥後国熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
明治憲法の起草者として受験日本史に頻出の人物。
URLリンク(www.sankei.com)
78:日本@名無史さん
17/12/22 17:46:16.20 .net
▽名村泰蔵
天保11年11月1日(1840年)- 明治40年(1907年)
長崎出身。北村元次郎と名乗っていたが、名村元義の養子となり泰蔵と改めた。名村家は代々阿蘭陀通詞を継承した家柄であったため、オランダ語を学び、さらに英語・ドイツ語・フランス語も学んだ。
1867年(慶応2
79:年)、パリ万国博覧会に派遣された徳川昭武に随行した。 https://rekijin.com/wp-content/uploads/2014/12/31857fa56d268921d7aea40d20372f57-150x150.jpg
80:日本@名無史さん
17/12/22 17:50:53.14 .net
▽益田克徳〈かつのり〉
1852年(嘉永5年) - 1903年(明治36年)
佐渡生まれ。佐渡奉行所の役人・益田鷹之助の次男で、益田孝の弟。
司法省に出仕した後、民間に下り、沼間守一〔>>42〕の嚶鳴社に入って自由民権運動に参加する。
1879年(明治12年)東京海上保険会社勤務となり支配人となる。東京米穀取引所、王子製紙、明治生命、石川島造船所の取締役を歴任する。
URLリンク(www.tohoshuppan.co.jp)
81:日本@名無史さん
17/12/22 18:28:07.11 .net
▽ジブスケ
デュ・ブスケのこと。1837年 - 1882年。
ベルギー生まれのフランスの軍人。後に明治政府のお雇い外国人。
歩兵中尉だった1866年、徳川家茂の要請でナポレオン3世が派遣したシャルル・シャノワーヌ大尉を隊長とする第一次遣日フランス軍事顧問団に選ばれた。
幕府崩壊により軍事顧問団は解雇されたが、デュ・ブスケは帰国せず、フランス公使館の通訳として日本に残った。
旧幕陸軍時代の沼間守一の俊才ぶりに驚いた。
82:日本@名無史さん
17/12/22 18:31:21.85 .net
▽メスロー
第一次遣日フランス軍事顧問団の一員で、デュ・ブスケと似たような経歴をもつ。
カタカナ表記が統一されていないのか、資料が少ない。
83:日本@名無史さん
17/12/22 18:35:29.11 .net
▽ヘボン博士
1815年 - 1911年。
米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師。ペンシルベニア州ミルトン出身。
ヘボン式ローマ字の考案者。
Hepburn の音訳としては「ヘップバーン」が普及したことから、彼の姓もそれに従って表記される場合がある。
URLリンク(www.01-radio.com)
84:日本@名無史さん
17/12/22 18:39:15.46 .net
むしろ、この女優をオードリー・ヘボンと呼ぶべきではないか?
URLリンク(www.geocities.jp)
URLリンク(images2.fanpop.com)
URLリンク(top.tsite.jp)
URLリンク(img.ellegirl.jp)
85:日本@名無史さん
17/12/22 18:42:49.63 .net
▽横浜のフランス人の洋服屋
フランス語ができない沼間守一のために、英語で会話した。
河野敏鎌らは、この情景を見て、沼間を仏蘭西学者であると勘違いした。
なお、沼間は英語を横浜在住のヘボン博士〔>>79〕から学んだ。
86:日本@名無史さん
17/12/22 18:46:46.80 .net
後発組の司法制度調査団の中には、長崎通詞の名村泰蔵〔>>75〕がいるのだから、何も心配する必要はないんだけどね。
司馬さんは、後発組は東京で通訳のフランス人を傭って出かけると述べられているが、名村泰蔵の通訳の技能をすっかり忘れている。
87:日本@名無史さん
17/12/22 18:59:35.30 .net
>>80
そのとおりである。
われわれ日本人がパソコンのキーボードを打つことができるのは、ヘボン博士のおかげである。
88:日本@名無史さん
17/12/22 19:07:51.72 .net
▽小栗忠順〈ただまさ〉
文�
89:ュ10年(1827年)- 慶応4年(1868年)。文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。 徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首された。 https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/takatoki_hojo/20170527/20170527124205.jpg
90:日本@名無史さん
17/12/22 19:11:35.64 .net
明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から、幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。
司馬遼太郎は、『明治という国家』 のなかで、小栗を「明治の父」と記した。
本章では、沼間守一が尊敬する人物として、小栗上野介と河野敏鎌の名が挙げられている。
91:日本@名無史さん
17/12/22 19:16:00.47 .net
▽秋霜
秋の冷たい霜。きびしいこと、鋭く光る物、白髪などのたとえ。
※秋霜烈日
秋の冷たい霜や夏の激しい日差しのような気候の厳しさのことで、刑罰・権威などが極めてきびしく、また厳かであることのたとえ。
日本における検察官記章(バッジ)のデザインに対する呼称。
URLリンク(matsushige.cocolog-nifty.com)
92:日本@名無史さん
17/12/22 19:20:29.83 .net
沼間守一は弱気になっている鶴田皓〈あきら〉に対して、「私は三河武士の末裔」から始まる長広舌をふるっている。
ちなみに、鶴田は佐賀藩士〔>>72〕。
93:日本@名無史さん
17/12/22 19:26:01.43 .net
長広舌をふるうと聞いて、さわやかな弁舌を思う人はほとんどいないであろう。古くは弁舌が巧みであることを表す場合もあったが、最近では単に長々としゃべることの代名詞のようになってしまっている。
この言葉、もともとは仏にそなわる勝れた相(すがた)としての三十二相の一つである広長舌相(こうちょうぜっそう)に由来している。
仏の舌は広くて長く、しかも軟らかいために、その顔を覆うことができるという。
大きいから立派だという話ではない。実際に顔全体を覆っている舌などを見たら、びっくりするだけである。これは仏の説く言葉が広く響きわたることを広く長い舌の相(すがた)によって表しているのである。
94:日本@名無史さん
17/12/22 19:28:57.35 .net
蘇東坡の詩でも「渓声便是広長舌」になっていますよね。
もともとは「広長舌」であったものが、阿呆が聞き間違えるか、言い間違えるかして「長広舌」に変化した。
95:日本@名無史さん
17/12/23 17:57:26.48 .net
★羅尼
▽栗本鋤雲
文政5年(1822年)- 明治30年(1897年)
幕府の典医を務めていた喜多村槐園の三男として生まれる。1858年(安政5年)2月24日、蝦夷地在住を命じられ箱館に赴任する。
以後、幕末に外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以後はジャーナリストとして活躍した。
96:日本@名無史さん
17/12/23 18:00:54.06 .net
徳川昭武の一行が、1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に訪問したときには、その補佐を命じられたため鋤雲もフランスに渡った。
日本学者のレオン・ド・ロニーとも交流している。これが本章に登場する羅尼ことロニーである。
そして仏蘭西で、外国奉行川勝広道から大政奉還と江戸幕府の滅亡の報を受けた。
※横須賀製鉄所建設に尽くした小栗上野介の協力者である栗本瀬兵衛
URLリンク(s2s.jp)
97:日本@名無史さん
17/12/23 18:06:52.40 .net
▽安宿の痩せた主婦
今朝セーヌ川が凍った。フランス中が寒いのであるから、暖房はつけないと宿泊客に宣言した。
ドケチであるが、若い頃はパリジェンヌであった。
URLリンク(www.glitty.jp)
URLリンク(primemarket.info)
URLリンク(img.hadalove.jp)
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
98:日本@名無史さん
17/12/23 18:10:01.11 .net
▽レオン・ド・ロニー
1837年 - 1914年。フランスの民俗学、言語学、日本学者。
ノール県ロース(Loos) に生まれる。父および祖父ともに有名な学者であった。
当初植物学者を志したが、やがてコレージュ・ド・フランスで中国語の研究に没頭する。さらに、独力で日本語の研究を開始した。
99:日本@名無史さん
17/12/23 18:12:11.63 .net
1862年に文久遣欧使節がフランスを訪問した際にはその通訳を務めただけでなく、一行がフランスを出国した後も同行した。この間、福澤諭吉や福地桜痴と親交を重ねた。
しかし、1864年に横浜鎖港談判使節団が訪仏した際には、政府から日本人との接触を禁じられた。
1867年のパリ万国博覧会では科学委員となった。1867年から翌年にかけて、幕府の特使として栗本鋤雲〔>>90-91〕がパリに滞在していたが、この間にロニーと深い接触があった。
URLリンク(expositions.bnf.fr)
100:日本@名無史さん
17/12/23 18:17:28.79 .net
ロニーはてっきりオリキャラだと思っていたのに、実在した学者でしたかヾ( ゚∀゚)ノ゙
101:日本@名無史さん
17/12/23 18:19:50.10 .net
いつもなら司馬さんが「後年のことになるが、このロニーが云々」てな感じで解説をするのに、ロニーに関しては特に余談のかたちで解説していないので、オリキャラだと思ってしまいますよね。
102:日本@名無史さん
17/12/23 18:26:14.43 .net
福澤諭吉が『西航記』にロニーのことを書いている。
103:日本@名無史さん
17/12/23 18:36:57.70 .net
暗い若者(にせ)であったが、稚児好きの薩摩モンなら食指が動くかもしれないと、川路はロニーの顔について感想を述べている。
しかし、ロニーは明治5年の時点で35歳であるから、稚児好きの薩摩モンでも食指は動かないと思う。
104:日本@名無史さん
17/12/23 18:40:09.37 .net
《35歳のニューハーフ》
稚児好きの薩摩モンでも食指は動かない
URLリンク(vip-video77000-thumbnail2.fc2.com)
URLリンク(file.asobi-no.com)
105:日本@名無史さん
17/12/23 18:44:43.68 .net
どうでもいいが、テンポが遅いよ。
まだ10頁しか進んでいないのに、もう100だよΣ(゚д゚lll)ガーン
106:日本@名無史さん
17/12/23 19:01:12.13 .net
▽第一回:文久遣欧使節
江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた新潟・兵庫の両港および江戸・大坂の両都の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。
正使は竹内下野守保徳、副使は松平石見守康直(康英)、目付は京極能登守高朗であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり総勢36名となり、さらに後日通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。
URLリンク(home.e01.itscom.net)
107:日本@名無史さん
17/12/23 19:03:26.42 .net
ロニーは、福澤諭吉や福地桜痴と親交を重ねた〔>>94〕。
108:日本@名無史さん
17/12/23 19:09:36.70 .net
▽第二回:横浜鎖港談判使節団
池田筑後守長発を正使、河津伊豆守祐邦を副使、河田相模守熙を目付とし、文久3年から元治元年にかけて(1864年)幕府がフランスに派遣した外交団である。使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うことであった。
109:日本@名無史さん
17/12/23 19:09:48.91 .net
孝明天皇は文久3年5月10日(1863年)をもっての攘夷勅命を発しており、これに従って幕府は5月9日に各国公使に対して開港場の閉鎖を通達するが、諸外国は当然これを拒否し、幕府も9日後にはこれを撤回していた。
更に下関事件や薩英戦争ならびにフランス士官カミュ殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。このような状況で、幕府は攘夷派を懐柔するため使節団を派遣するが、もとより達成不可能な任務であった。
URLリンク(bushoojapan.com)
110:日本@名無史さん
17/12/23 19:12:23.60 .net
ロニーは、1864年に横浜鎖港談判使節団が訪仏した際には、政府から日本人との接触を禁じられたのであるが〔>>94〕、司馬さんは、ロニーは池田筑後守らの宿泊しているホテルを訪ねていると述べられている。
111:日本@名無史さん
17/12/23 19:19:09.84 .net
▽第三回:徳川昭武使節団
徳川昭武は、慶応3年1月(1867年2月)に将軍慶喜の名代として使節団を率いて約50日をかけて渡仏した。使節団の中には、外国奉行の栗本鋤雲、会計係として渋沢栄一、随行医として高松凌雲、通訳に山内堤雲がいた。ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
112:日本@名無史さん
17/12/23 19:20:34.41 .net
このときもロニーはホテルを訪ね、栗本鋤雲と深い接触があった〔>>94〕。
113:日本@名無史さん
17/12/23 19:39:23.02 .net
川路は凱旋門にも興味を示さなかった。
ちなみにバラゴンは凱旋門に興味がなかったわけではない。地底怪獣の矜持をもってパリで凱旋門を破壊したかった。
しかし、残念ながら着ぐるみが……。
URLリンク(blog-imgs-56.fc2.com)
114:日本@名無史さん
17/12/23 19:45:34.84 .net
▽パリの下水溝
ロニーは川路にパリの下水溝を見学するように勧めたが、川路はそれにも興味を示さなかった。
「花の都」パリ。しかし100年ほど前までは、街中がトイレと化した「悪臭の都」パリであった。下の写真はかつての下水用溝が残るパリの通り。通りの真ん中にある溝に家庭から出たあらゆる汚物が流さていて、パリ全体が悪臭を放っていた。
URLリンク(www.geocities.jp)
115:日本@名無史さん
17/12/23 19:54:23.77 .net
▽パリのポリス
パリのポリスといっても、ポリスのパリ公演のことではない。
URLリンク(howe-gtr.air-nifty.com)
邏卒総長の川路は、仏蘭西の警察制度を日本に移植するためにパリに着たのである。
URLリンク(pds.exblog.jp)
116:日本@名無史さん
17/12/23 19:55:52.74 .net
「おやっとさぁ」
117:日本@名無史さん
17/12/23 20:00:50.20 .net
▽パリのガス灯
川路は薩摩人がよくやるように、ガス灯を擬人化して話しかけた。
薩摩人は横光利一ばりの新感覚派である。
URLリンク(image.news.livedoor.com)
URLリンク(dacapo.magazineworld.jp)
118:日本@名無史さん
17/12/23 20:07:27.07 .net
▽日本のガス灯
1857年(安政4年)には、鹿児島の仙巌園において、既存の石灯籠にガスの管を繋ぎ照明としてガスを燃焼させた。この装置の製作を命じたのは島津斉彬である。
日本で最初に西洋式ガス灯が灯されたのは、1871年(明治4年)大阪市の造幣局周辺においてである。
翌年の1872年(明治5年)9月1日に、実業家高島嘉右衛門とフランス人技師プレグランの尽力により、横浜市に最初のガス灯が造られた。常設のガス灯としては、これが日本初といってよい。
URLリンク(2.bp.blogspot.com)
119:日本@名無史さん
17/12/23 20:15:42.02 .net
東京では浜崎町にガス発生所が設けられて、1874年(明治7)12月18日に金杉橋から京橋までの銀座通り沿いに85基のガス街灯が灯った。
はじめ公営であった東京のガス事業は、後に初代の社長となる渋沢栄一の手腕により発展し、1885年(明治18)年には民間会社となった。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
120:日本@名無史さん
17/12/23 20:25:16.48 .net
▽フランスの警察
古くはフランスの警察活動は王権や封建領主とその軍隊によって行われてきたが、フランス革命以降はコミューンが警察権を有するようになり、自治体警察が主となった。その後、統領政府体制下の1800年、首都パリではパリ警視庁が設置され、警察の国家化が図られた。
ジョゼフ・フーシェ(1759 - 1820)は、ナポレオン体制では警察大臣を務め、タレーランと共に体制の主要人物となった。
近代警察の原型となった警察機構の組織者で、特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名である。
権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物。「カメレオン(冷血動物)」の異名を持つ。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
121:翔ぶが如く
17/12/24 09:52:53.19 .net
第2章 東京
「英雄ほど、悍馬にのせられる。英雄とは時勢の悍馬の騎乗者のことをいう。西郷という人がそうであった。時勢の悍馬に騎り、二百七十年の徳川幕府をあっという間にうち倒してしまった。幕府は時勢という悍馬に蹴散らされたのであって、西郷その人に負けたのではない。
が、世間はそうは思わず、倒幕の大功を西郷に帰せしめた。このため維新後、西郷はとほうもなく巨大な像になり、ただ一個の人格をもって明治政府に対抗できるという、史上類のない存在になった」
風が烈しくなった。沼間はしきりに髪を掻きあげた。
122:日本@名無史さん
17/12/24 10:23:29.79 .net
★地中海
▽広小路口
彰義隊と新政府軍の間で行われた上野戦争における激戦地。ふつう「黒門口の戦い」と呼ばれる。
川路はこの戦いで睾丸のつけ根あたりに被弾し、今も弾痕が残る。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
123:日本@名無史さん
17/12/24 10:24:05.84 .net
男根のそばに弾痕があるんですね。
124:日本@名無史さん
17/12/24 10:30:55.74 .net
「沼間さァの弾は好色女ごわしてナ。寒びっとねえ痛み申さ」
「自分は彰義隊のような空元気の集団になどおったことはない。土佐の板垣と闘っておったわ」
125:日本@名無史さん
17/12/24 10:38:07.14 .net
▽大奈翁
「奈」は奈破崙 (ナポレオン) の略。河野の尊敬する人物。
1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれ、フランス本土で兵学校に入りフランス革命政府の軍人となる。
ジャコバン派のロベスピエールを支持したためテルミドールの反動で一時危うかったが、王党派の武装蜂起鎮圧に功を上げて軍司令官に昇進した。
URLリンク(www.theordealofconsciousness.com)
126:日本@名無史さん
17/12/24 10:40:42.29 .net
1796年からのイタリア遠征でオーストリア軍を連破し、カンポ=フェルミオの和約で南ネーデルラントとロンバルディアを獲得して名声を高めた。1798年にはイギリスのインド支配を妨害するためエジプト遠征を実行した。
そのころ総裁政府は弱体化しており、1799年にナポレオンは政府に無断でパリに帰還し、ブリュメール18日のクーデターで権力を握った。
第一統領となったナポレオンは、12月15日「革命暦第8年憲法」を制定して、フランス革命の終結を宣言した。
127:日本@名無史さん
17/12/24 10:43:51.78 .net
ナポレオンは、さらに革命理念の全ヨーロッパへの拡張を称えて、ナポレオン戦争といわれる征服戦争を展開し、国内ではブルジョワ・小ブルジョワ・農民の幅広い支持を背景に、1804年にナポレオン1世として即位し皇帝となった(第一帝政)。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
128:日本@名無史さん
17/12/24 10:45:41.04 .net
しかし、ヨーロッパ支配の野望は1812年のロシア遠征に失敗したことから急転し、各国に解放戦争が起こってナポレオンは1814年に退位した。
まもなく配所のエルバ島を脱出し、パリに帰還し皇帝に復したが、1815年6月、ワーテルローの戦いに敗れて「百日天下」に終わり、セントヘレナ島に流され、1821年に死去した。
時代はウィーン体制という反動期に向かっていく。
129:日本@名無史さん
17/12/24 10:53:43.12 .net
▽ガンベ・グロース
川路利良に登用され警視局の法律顧問を務めた御雇外国人教師。警察官僚のためにフランス刑法を講義した際の講義録が残されている。
気の毒そうな顔をして、川路にバルバール(Barbar)の意味を教えた。英語ではBarbarian。
URLリンク(bravewords.com)
130:日本@名無史さん
17/12/24 11:08:07.82 .net
▽ルイ・ナポレオン
ナポレオン1世の退位とともに亡命生活に入り、七月王政期にフランスに戻り、1848年の二月革命後の第二共和政下における大統領選挙に出馬して当選し、1851年のクーデタで実権を握り、同年末に皇帝に即位しナポレオン3世となる。
その後、第二帝政期のフランスを統治
131:して、産業資本家や農民の幅広い支持でボナパルティズムといわれる独裁を行う。 その間、クリミア戦争など積極的な対外政策を展開して国民的支持を受けたが、普仏戦争に敗れて1871年に退位した。 http://bunka.nii.ac.jp/heritage/12257/_162649/12257_162649120314102244341_300.jpg
132:日本@名無史さん
17/12/24 11:16:52.30 .net
▼フランス革命
1787年 三部会召集
1789年 フランス革命。バスティーユ陥落 →絶対王政から立憲君主政へ
1792年 王政廃止。共和制へ
1793年 ルイ16世、マリーアントワネット王妃処刑、ジャコバン派の恐怖政治
133:日本@名無史さん
17/12/24 11:24:38.62 .net
1794年 テルミドールの反動、ジャコバン派指導者のロペスピエール処刑 →テルミドール派の総裁政府
1799年 軍人ナポレオンが、政府の第一統領に就任。
1804年 ナポレオンが皇帝に就任 →第一帝政
1814年 対フランス連合軍に敗れたナポレオンをエルバ島に追放。ウイーン会議。
1815年 ナポレオンの百日天下。
1815年 ワーテルローの戦いで、英国・プロシア軍に敗れ、ナポレオン再度追放。
134:日本@名無史さん
17/12/24 11:29:41.24 .net
▼ウィーン体制
フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを革命前の絶対王政に戻した体制。時期は1815年から1848年の二月革命・三月革命まで。
その指導的立場にあったのがオーストリアのメッテルニヒ。
その理念とされたがフランスのタレーランの提唱した正統主義。
URLリンク(media-2.web.britannica.com)
135:日本@名無史さん
17/12/24 11:32:40.88 .net
《焼肉屋における一コマ》
「少なくなっているね。注ごうか?」
「タレイラン。塩でいい」
136:日本@名無史さん
17/12/24 11:39:05.21 .net
▼フランス復古王政
1814年のナポレオン没落後、1830年の七月王政成立までの時代。
ブルボン朝の国王ルイ16世が廃位・処刑された後、第一共和政(1792年 - 1804年)、第一帝政(1804年 - 1814年、1815年)が続いた。
しかし、第六次対仏大同盟がナポレオンを破って第一帝政が終わり、ルイ16世の後継者による王政が復活した。
復古王政期のブルボン朝は、アンシャン・レジームのような絶対王政ではなく立憲王政であった。
※シャルル10世(1824年 - 1830年)
URLリンク(www.thefamouspeople.com)
137:日本@名無史さん
17/12/24 11:54:42.80 .net
▼七月革命(1830)
1830年、フランス復古王政のシャルル10世の言論弾圧などに対して、ブルジョワ共和派を支持するパリ市民が蜂起して絶対主義体制を倒し、七月王政を出現させた変革。
ヨーロッパの各地の反動勢力にも大きな打撃となり、ウィーン体制を大きく動揺させた。
※ドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』
URLリンク(pds.exblog.jp)
138:日本@名無史さん
17/12/24 11:57:06.49 .net
高校生の頃、自由の女神のおっぱいポロリを見て、興奮してしまいました(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ
139:日本@名無史さん
17/12/24 12:33:14.29 .net
▼二月革命(1848)
七月王政のもとで普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動が強まる中、ギゾー内閣はそれを拒否し続けていた。政府によって集会が禁止されたため、普通選挙を要求する人びとは改革宴会という形で運動を続けたが、政府は宴会禁止令をだして、それも取り締まろうとした。
1848年2月、激昂したパリの市民・労働者が蜂起して、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立した →第二共和政
140:日本@名無史さん
17/12/24 12:35:40.76 .net
フランスに共和政を復活させた二月革命は、ただちにベルリンとウィーンに飛び火して三月革命を勃発させ、ヨーロッパ全土に及ぶ1848年革命の口火となった。その結果、ナポレオン没落後の保守反動体制であるウィーン体制は崩壊した。
141:日本@名無史さん
17/12/24 12:38:24.15 .net
1848年12月の大統領選挙では、ルイ=ナポレオン(1808~1873)が当選した。
大統領選挙は第二共和政憲法に基づいたものであり、当選したルイ=ナポレオンは、フランスで最初の男子普通選挙によって撰ばれた大統領となった。
142:日本@名無史さん
17/12/24 12:46:09.97 .net
▼第二帝政
第二共和政の大統領ルイ=ナポレオンは、1851年のクーデターを決行して議会から共和派を追放し、パリで起こったクーデタ反対の市民蜂起を鎮圧した。
1852年11月、元老院(上院)の帝政復活提案を受け、同月20日に国民投票を実施した結果、783万対25万の圧倒的支持で承認される。12月2日のクーデタ記念日に、ルイ=ナポレオンはナポレオン3世として帝位につく〔>>125〕。こうして第二帝政が始まった。
143:日本@名無史さん
17/12/24 12:57:10.84 .net
▼クリミア戦争
オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めるロシアに対し、イギリスとフランスが警戒した。
まず、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に対し、イェルサレムの聖地管理権を要求し認めさせた。それに対して、ロシアのニコライ1世は、オスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護を口実に同盟を申し込む。
144:日本@名無史さん
17/12/24 13:00:56.34 .net
オスマン帝国がロシアの申し出を拒否したので、1853年7月、ロシアはオスマン帝国に宣戦する。ロシアは、オスマン帝国の支配圏のルーマニアに侵攻し戦闘が始まった。
1854年3月、イギリスのパーマーストン内閣はナポレオン3世にはかり、オスマン帝国を支援するため参戦した。またサルデーニャ王国がフランスの好意を得ようとして英仏側に参戦した。こうして戦争は、ロシア対オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国の図式となった。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
145:日本@名無史さん
17/12/24 13:03:36.12 .net
フランス軍3万、イギリス軍2万1千、オスマン帝国軍6千がクリミア半島に上陸、セヴァストーポリ要塞5万の守備隊との攻防戦が焦点となった。英仏軍の補給も困難で戦闘は長期化したが、当初中立を宣言していたオーストリアが、軍をロシア国境に集めて圧力を加えてロシアの孤立が決定的となり、ようやく55年8月、セヴァストーポリが陥落してロシアの敗北で終わった。
URLリンク(blog-imgs-58.fc2.com)
146:日本@名無史さん
17/12/24 13:04:53.43 .net
また世界史になっとるな。司馬氏の叙述と無関係ではないが、余談が長すぎる。
147:日本@名無史さん
17/12/24 13:09:44.07 .net
クリミア戦争に26歳の砲兵少尉として参加したトルストイは、『セヴァストーポリ』という文学作品を著している。
この戦争にイギリスの看護婦ナイティンゲールが派遣され、イスタンブールの対岸のスクタリの病院で傷病兵の看護にあたった。
URLリンク(www.livingwithfaith.org)
URLリンク(www.tamabi.ac.jp)
URLリンク(www.tamabi.ac.jp)
148:日本@名無史さん
17/12/24 13:19:32.73 .net
▼アロー戦争(1856~69)
清の太平天国の乱の最中、宣教師殺害を口実にイギリスとともに出兵し北京を攻撃。北京条約
149:で布教の自由などを清に認めさせる。 ▼インドシナ出兵(1858~62) ラオス、カンボジア、ベトナムに出兵し、フランス領インドシナ植民地の基礎を築く。
150:日本@名無史さん
17/12/24 13:25:01.03 .net
▽第三共和政(1870年から1940年)
普仏戦争の敗北によってナポレオン3世はイギリスに亡命し、第二帝政は終わりを告げた。さらにドイツ軍にパリを包囲される中、臨時政府がドイツへの降伏を決定すると、パリ市民が降伏に反対して立ち上がり、パリ=コミューンという独自政権を樹立する(1871年3月)。
しかし、ドイツ軍の力で市民・労働者の決起を押さえつけたブルジョワ政権のもと第三共和政が成立することとなる。
151:日本@名無史さん
17/12/24 13:26:53.97 .net
川路らの一行がパリを訪れたのは、パリ=コミューンの1年後、つまり第三共和制の成立直後の1872年であった。
ここまで余談である。
152:日本@名無史さん
17/12/24 13:28:16.29 .net
すまん。打ち忘れていた。>>142の次に、普仏戦争を入れてくれ。
▼普仏戦争(1870年)
ナポレオン戦争の復讐戦をもくろむプロイセンのビスマルクの挑発に乗り開戦する。スダンの戦いで皇帝自身が捕虜となったため退位に追い込まれた。結局、対外冒険主義の外交がナポレオン3世の命取りとなった。
153:日本@名無史さん
17/12/24 14:14:55.54 .net
▽奕々たる
非常に美しいさま。
沼間守一には理解できない西郷隆盛の人格的光芒を「奕々たる」を形容している。
▽光芒
細長く伸びる一筋の光
154:日本@名無史さん
17/12/24 14:54:00.88 .net
★東シナ海
▽靉気〈あいき〉
雲が去りかねてただようさま。
司馬遼太郎の小説「梟の城」の序盤に、「靉気の粒に光が宿り、紅雲が降りてあたかも庵を包むようにみえた」という文章もあります。
155:日本@名無史さん
17/12/24 17:32:16.62 .net
▽安南人のボーイ
フランス統治時代のベトナム北部から中部を指す歴史的地域名称で、唐代の安南都護府に由来する。
これはフランス側の呼称であって、阮朝ベトナムの行政区分における中圻(チュンキ)に相当している。
※ボーイの画像はなかったが、売春婦の画像ならあった。
URLリンク(www.nsleloi.co.jp)
156:日本@名無史さん
17/12/24 17:39:22.84 .net
東京は征韓論でもって灰神楽の立つような騒ぎだ。
新政府に不満をもつ連中は、ことごとく騎乗の西郷を仰いで第二の維新を願望するだろう。
薩人は今後、日本中を舞台に骨肉相争う騒ぎを演ずるにちがいない。
君は薩人として業火に煮られるだろう。
157:日本@名無史さん
17/12/24 17:45:02.59 .net
▽業火〈ごうか〉
仏教で、悪業 (あくごう) が身を滅ぼすのを火にたとえていう語。
また、罪人を焼き苦しめる地獄の火。
158:日本@名無史さん
17/12/24 17:48:03.20 .net
新東宝の『地獄』(昭和35年)のポスターは怖かった。もちろん総天然色。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
159:日本@名無史さん
17/12/24 17:53:55.26 .net
三ツ矢歌子が出ていたな。あのころの三ツ矢歌子は、ほんとうに綺麗だった。
以上、余談である。
URLリンク(utako-fan.up.seesaa.net)
160:日本@名無史さん
17/12/24 17:58:08.05 .net
>>147
文学的な香り高い文章というと、「梟の城」が最高なんだよな。
161:翔ぶが如く
17/12/24 20:09:42.01 .net
第3章 鍛冶橋
【一】江藤司法卿
大久保は大久保で、明治四年の暮から同六年五月まで欧米を視察して帰り、内務省の必要を感じ、みずから内務省を設立することによってそれを梃子にして新国家をつくろうとしていた。
江藤も司法省を梃子にして新国家創造のしごとをしており、しかも不幸なことに両者は犬猿の仲で、たがいに連絡はない。さらにいえば、この大久保・江藤のほかの大官たちは国家の骨格をつくりあげるような青写真をもっておらず、その能力もなかった。
要するに、両雄が屹立している。たがいに異なる青写真をにぎって、たがいに異なる日本をつくりあげようとしている。当然、どちらかがどちらかを殺す以外に解決の道はないであろう。
162:日本@名無史さん
17/12/24 20:12:28.05 .net
自分は工場や建築現場において青写真を手にした技師が仕事をしている情景を見たことがある。
若い人たちは青写真やガリ版刷りを見たことがあるのだろうか?
163:日本@名無史さん
17/12/24 20:25:46.86 .net
★内桜田鍛冶橋
▽旧津山藩上屋敷跡
津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄11年(1698)9月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側(現在の東京駅付近)に7千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用した。
津山藩鍛冶橋藩邸は、警視庁舎としての利用を経て、現在は東京駅の敷地の一部となっている。
URLリンク(www.city.tsuyama.lg.jp)
URLリンク(blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp)
URLリンク(blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp)
164:日本@名無史さん
17/12/24 20:32:25.71 .net
▽国家学
19世紀ドイツを中心に発達した学問分野で、国家の本質 (存在理由) ・起源・作用・構造などを研究対象とする。
英米系の政治学に対応する学問であるが、政治学が政治現象を動態的にとらえ国家論を包容する形で発展していったのに対し、国家学は国家の社会に対する統制機能が強大であった当時のドイツの社会状況を反映して、政治現象をもっぱら国家の統治行為と解する点に特徴がある。
※ゲオルグ・イェリネック(Georg Jellinek)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
165:日本@名無史さん
17/12/24 20:39:52.43 .net
▽不浄役人
町奉行所の同心や与力は、罪人を捕縛・処罰するような仕事が穢れる任務として蔑視されたところから不浄役人と呼ばれた。そのため世襲とはせず、代替わりの際には新規召抱えとした。
しかしながら治安維持という任務上、その職務に精通している事が必須であるため、事実上世襲が行われていた。
URLリンク(imgc.nxtv.jp)
166:日本@名無史さん
17/12/24 21:00:27.48 .net
▽プロシア野戦憲兵
1810年、プロイセン王国において、ナポレオン・ボナパルトがフランスで編成したジャンダルムリ (Gendarmerie) を模した地方警察部隊の編成が始まった。 プロイセン王国の国家憲兵は陸軍での兵役を終えた歩兵科および騎兵科の軍人によって編成されていた。
彼らの身分は軍人であり装備および給与は陸軍省から提供されていたが、平時は内務省の指揮下で警察活動に従事していた。
167:日本@名無史さん
17/12/24 21:05:02.78 .net
先走って述べてしまったが〔>>144〕、ナポレオン三世の第二帝政の崩壊と第三共和制の成立は、普仏戦争(1870年)と密接に関わっている。
普仏戦争が明治3年、パリ=コミューンと第三共和制の成立が明治4年、川路らの訪仏が明治5年である。
168:日本@名無史さん
17/12/24 21:13:12.39 .net
▽坂元純熙〈すみひろ〉
警察部内において川路より上席の警保助であり、川路が海外視察中の警察を掌握していた薩摩出身の坂元純熙は、西郷の対韓政策を支持していた。
そして坂元は、参議辞任後の西郷復職運動を行った。ところが、川路はあろうことか「ポリスは政治運動をすべきではない」と言って、それに反対し妨害したという。
本章で坂元は川路に対し、帰国の挨拶は郷党の先輩から先にしろと忠告している。
169:日本@名無史さん
17/12/24 21:14:54.08 .net
司馬さんは、坂本は川路と同役の邏卒総長としているね。
面倒だから調べないけど……。
170:日本@名無史さん
17/12/24 21:17:09.72 .net
残り4人の邏卒総長は、水野元靖、安藤則命、桑原譲、田辺良顕。
171:日本@名無史さん
17/12/24 21:20:02.00 .net
『警視庁史』によれば、>>163の4人に、川路・坂元を加えた6人で間違いないよ。
172:日本@名無史さん
17/12/24 21:26:38.04 .net
▽安藤則命〈のりみち〉
1828年(文政11年)- 1909年(明治42年)
薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・安藤十郎の息子として生まれる。英学を修めて子弟に教授した。川路と同役の邏卒総長。
1879年、藤田組贋札事件を担当したが、積極的な捜査を行おうとして当局の忌避に触れ、同年12月27日、免本官・位記返上を命ぜられた。
1882年、司法大書記官として復帰する。1890年、貴族院勅選議員に任じられ、1909年11月、貴族院議員在任中に病のため死去した。
173:日本@名無史さん
17/12/24 21:31:18.55 .net
▽桑原譲……旧土佐藩の郷士
▽田辺良顕……旧福井藩出身
▽水野晴郎……「いやー、映画って本当にいいもんですね~」。水野元靖についてはこれといった情報がない。
174:日本@名無史さん
17/12/24 21:39:11.88 .net
▽合議制
江戸時代の官僚制は縦型組織であったが、役職上位のものから命令や指示を一方的に伝えるような上意下達ではなく、組織末端の役人の意向を順次汲み上げていくような特性を持っていた。
藩の意思決定方式も合議制が基本であるが、その合議の範囲は、重臣だけでなく、それより下位の役人にまで拡大されていた。
複雑化・専門化した行政問題については、行政の実務に携わる役人の判断や見解に依存しなければならなかったので、実務役人の見解が決定に大きな影響を与えていたのである。
175:日本@名無史さん
17/12/24 21:53:04.38 .net
▽徴士
慶応4年 (1868) 1月17日の三職分科の制によって生れた明治政府初期の議事官。
各藩および民間から有才の者が選ばれ、下の議事所の議事官として太政官に出仕した。翌2月の改制により参与・各局判事に任命されたが、旧藩出身ということから太政官との間に間隙が生じ、翌明治2年 (1869) 6月27日に廃止された。1年半しか続かなかった制度である。
176:日本@名無史さん
17/12/24 22:36:08.55 .net
▽散髪脱刀令
明治4年8月9日に太政官によって出された法令。一般には、断髪令という名称で呼ばれる。
「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム」
177:日本@名無史さん
17/12/24 22:40:21.69 .net
▽廃刀令
明治9年3月28日に発せられた。大礼服着用の場合並びに軍人や警察官吏などが制服を着用する場合以外に、刀を身に付けることを禁じる
178:内容の太政官布告。 明治8年12月、山縣有朋の建議が採用された。「従来刀を帯びていたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」というものであった。
179:日本@名無史さん
17/12/24 22:48:27.76 .net
▽司法省
調べたけれど、場所がわかりません。
法務省旧本館は、旧司法省庁舎として1895年に竣工した建物なので、この小説の当時、江藤司法卿が執務していた場所ではない。
URLリンク(pds.exblog.jp)
180:日本@名無史さん
17/12/25 0
181:8:36:56.66 .net
182:日本@名無史さん
17/12/25 08:41:26.33 .net
明治3年(1870年)1月、佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが、後に中央に呼び戻され、同年11月に太政官中弁となる。
司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任する。その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進する。
特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であった。
URLリンク(www.saga-hizen150.com)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
183:日本@名無史さん
17/12/25 09:05:32.04 .net
▽刑部省
明治2年7月8日、太政官に設置された省庁の一つで、裁判や刑罰の執行、欧米の法令の翻訳などを管轄していた。
明治4年7月9日に弾正台と合併して司法省と改称された。
名称は古代日本における律令制下の八省の一つ。平安時代に検非違使が設置されて以降、ほとんどの職掌を検非違使に奪われ有名無実化していた。
184:日本@名無史さん
17/12/25 09:09:26.88 .net
▽弾正台
明治2年5月22日、太政官制に基づき設置された明治新政府の省庁である。弾正台はそれまでの刑法官監察司に代わる監察機関として設置され、東京の本台のほかに留守官として京都に支台がおかれた。
この省庁の設置に際しては、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に彼らを多く採用したいきさつがある。
したがって、新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであったため、他の官庁との対立が深まった。しかし、監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さかった。
185:日本@名無史さん
17/12/25 09:12:24.98 .net
弾正台の名称は、律令制下の八省の一つである。
古代の弾正台は、律令体制における監察・警察機構であった。弾正台の主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の�
186:謔闥ワりであり、左大臣以下の非違を摘発し奏聞できた。 しかし、裁判権・警察権は刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はなかった。
187:日本@名無史さん
17/12/25 16:14:11.78 .net
▽内務省
明治6年11月に設置され、昭和22年12月に廃止された日本の中央官庁。
地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政を担った。初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初から国民生活全般への強度の監視を課題としており、行政事務の枠にとどまらなかった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
188:日本@名無史さん
17/12/26 10:05:27.52 .net
▽司法省法典編纂局
明治政府は、不平等条約の改正(治外法権の撤廃・関税自主権の回復)を目指したが、近代的な法制を欠くことが諸外国から問題視されたため、法典編纂が急務となった。
政府は、ヨーロッパ各国において法制の模範とされてきたフランス法を参考にすることとした。明治政府において法典編纂を主導したのは、江藤新平であった。まず箕作麟祥にフランスの法律を翻訳させ、独力で民法典の編纂を試みた。
189:日本@名無史さん
17/12/26 10:13:48.20 .net
▽箕作麟祥
1846年(弘化3年)- 1897年(明治30年)。和仏法律学校(現・法政大学)初代校長。
箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸の津山藩邸に生まれた。祖父は蘭学者の箕作阮甫で、父・省吾は阮甫の婿養子、母・しんは阮甫の四女だが、父・省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家の家督を相続した。
なお、蘭学者の箕作秋坪〔>>101〕は、阮甫の二女・つねと結婚した婿養子。麟祥にとっては義理の伯父。
URLリンク(kotobank.jp)
190:日本@名無史さん
17/12/26 10:15:12.07 .net
「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」(江藤新平)
191:日本@名無史さん
17/12/26 10:23:41.58 .net
《箕作麟祥が考案した翻訳語》
民権・動産・不動産・未必条件・治罪法・憲法など。
箕作麟祥は、フランス法理論の基礎をなす自由および人権思想を理解し、『国政転変ノ論』の訳稿で人民の抵抗権・革命権を認めるなど、法学官僚としては異色の存在であった。また、明六社に参加して啓蒙活動を行った。
司馬さんは、民権の訳語は江藤と箕作麟祥の共同作業のように書かれている。
192:日本@名無史さん
17/12/26 10:25:16.87 .net
江藤は民権家というよりも、自由民権思想の鎧を着たマキャベリストなんだよね。
司馬さんの叙述を読んでも、そんな感じ。
193:日本@名無史さん
17/12/26 10:28:28.79 .net
▽有司専制
明治政府の政治が、政府内の特定藩閥政治家数名で行われていると批判した言葉。
明治六年政変後の大久保利通の主導権が確立された時期から、大日本帝国憲法成立までの時期を指す。
194:日本@名無史さん
17/12/26 10:37:55.96 .net
▽ビスマルク(1815年 - 1898年)
プロイセン東部の地主貴族(ユンカー)の出身。代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命され、ドイツ統一戦争に乗り出した。
1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
195:日本@名無史さん
17/12/26 10:41:42.97 .net
明治6年(1873年)3月15日、ドイツを訪問中だった岩倉使節団がビスマルクから夕食会に招かれた。
その席上ビスマルクは「貴国と我が国は同じ境遇にある。私はこれまで三度戦争を起こしたが、好戦者なわけではない。それはドイツ統一のためだったのであり、貴国の戊辰戦争と同じ性質のものだ。英仏露による植民地獲得戦争とは同列にしないでいただきたい。私は欧州内外を問わずこれ以上の領土拡大に興味を持っていない」と述べた。
196:日本@名無史さん
17/12/26 10:44:01.56 .net
「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。大国は利があれば万国公法を守るだろうが、不利とみれば万国公法に代わって武力を用いるだろう」とも述べた。
197:日本@名無史さん
17/12/26 10:45:57.10 .net
「英仏は世界各地の植民地を貪り、諸国はそれに苦しんでいると聞く。欧州の親睦はいまだ信頼の置けぬものである。貴方達もその危惧を感じているだろう。私が非難を顧みずに国権を全うしようとする本心もここにある。いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である」
198:日本@名無史さん
17/12/26 10:47:22.11 .net
ビスマルクは、「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう」と語った。
199:日本@名無史さん
17/12/26 10:49:45.58 .net
小国プロイセンを軍事力で大国ドイツに押し上げたビスマルクの率直な言葉は、使節団に深い印象を残したようである。
欧州各国は不平等条約の改正に応じる条件として、日本に万国公法に沿った法整備を行うよう外圧をかけていたが、ビスマルクだけがそれを否定する発言を使節団の前で公然と行ったからである。
とりわけ大久保利通はビスマルクに強い感銘を受け、「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クアルベシ。我、大イニウナズク」と書いている。
200:日本@名無史さん
17/12/26 10:56:01.49 .net
「これからはこれぜよ」と言って『万国公法』という本を見せた坂本龍馬は、ビスマルクの話を物陰で聞いていた。
201:日本@名無史さん
17/12/26 10:56:21.91 .net
龍馬、涙目。・゚・(ノД`)・゚・。
202:日本@名無史さん
17/12/26 11:01:27.84 .net
恐喝漢坂本は、いろは丸事件で、紀州藩に対する賠償金算出の基準に万国公法を使っただけだろう。
203:翔ぶが如く
17/12/26 11:11:48.19 .net
第3章 鍛冶橋
【二】大久保利通
ところが大久保はこの川路の案件に対し、「タチンコンメ」という超最大級の裁決をあたえた。
「東京警視庁」というのが、川路がこの献策のときに考えた首都警察の呼称であった。
大久保が、川路の案件を即決してこの設立をいそがせたのはたしかにタチンコンメであり、明治七年一月十五日には発足してしまっているのである。川路がそのただ一人の総指揮官になった。あたらしい呼称による彼の官職は「大警視」である。
204:日本@名無史さん
17/12/26 11:22:51.37 .net
鹿児島弁の「タチンコンメ」について解説が必要であろうと思う。
「タ」「チンコ」「ンメ」の三つの部分に分かれる。
「チンコ」はそのまま。「ンメ」は“うめえ”、つまり、おいしいという意味。「タ」は“立った”、つまり勃起したという意味。
幕末の品川の遊郭で娼妓にフェラチオを所望した薩摩藩士に対して、娼妓は「タチンコンメ」
205:(勃起したチンコはおいしい)と答えていた。 転じて、最大級の承認・承諾を意味する言葉として、薩摩では「タチンコンメ」が使われるようになった。
206:日本@名無史さん
17/12/26 11:25:07.58 .net
(゚Д゚)ゴルァ!! 違うだろ!
207:日本@名無史さん
17/12/26 11:47:45.88 .net
★下谷竜泉寺町
▽戸田様の御下屋敷
東京都台東区竜泉一丁目~竜泉三丁目。
樋口一葉は龍泉寺町には21から22歳にかけて住んだ。この一葉の家から吉原と反対方向に10軒ほど行ったところが四つ角で、その向うに広い屋敷地が二つある。
初代警視総監の川路利良と大垣の殿様である戸田家の屋敷があった。戸田家九代の氏正がこの屋敷で明治に入って没しているが、維新までは川路邸の分まで含めて大垣藩の下屋敷であった。
URLリンク(magazine.moonbark.net)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
208:日本@名無史さん
17/12/26 11:56:01.32 .net
▽戸田家
大垣藩主。大垣藩は寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。
三河戸田氏は、三河国渥美郡二連木城(愛知県豊橋市)や田原城(愛知県田原市)によった国人領主。
戸田氏の嫡流〔松本藩主〕は、徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつに数えられた。
209:日本@名無史さん
17/12/26 12:04:55.06 .net
▽溜池
赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」は、かつては「溜池」とよばれた外堀兼用の上水源であった。長さ1.4km、幅45m~190mという大きさで、細長い池であるため「ひょうたん池」とも呼ばれていた。
この周辺に戸田家の上屋敷があった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
210:日本@名無史さん
17/12/26 12:08:24.83 .net
この戸田家上屋敷は、かの鼠小僧次郎吉が忍び込んだことで有名である。彼はもっぱら大名屋敷の女性たちの居所である奥向や長局(ながつぼね)を専門に荒らした。これは警備が手薄で入り込みやすかったからで、世上言われている義侠の話はかなり怪しい。
URLリンク(contents.oricon.co.jp)
211:日本@名無史さん
17/12/26 16:13:15.98 .net
▽芝将監橋
港区芝大門二丁目にある古川に架かる橋。付近に金森将監の屋敷があったので、この呼び名となった。
根尾庄右衛門清長は、金森長近に従い数多くの戦功を重ねて長近の最も信頼する筆頭家老となり、長近から「金森姓」を賜った。
以後、清長の家は代々金森将監を名乗った。
本章では、芝将監橋付近に戸田家〔>>197〕の中屋敷があったと紹介されている。物語の本筋とは、ほとんど関係ありません。
URLリンク(www.city.minato.tokyo.jp)
212:日本@名無史さん
17/12/26 17:28:19.31 .net
▽つんぐらめ
蝸牛。カタツムリ。鹿児島では、このように呼ぶ。
わしらの地方は、でんでん虫じゃった。
URLリンク(image.itmedia.co.jp)
柳田國男の『蝸牛考』によると、ナメクジ
213:と呼ぶ地方もあるらしいが、ナメクジはナメクジよ。 https://www.ondanka-net.jp/data/articlefile/000000002017030915.jpg
214:日本@名無史さん
17/12/26 17:30:09.95 .net
ナメクジを指でつまんだ後の指の匂いは、マスターベーションをした後の指の匂いと似ている。
215:日本@名無史さん
17/12/26 17:32:25.75 .net
▽川路沢子
川路の妻の名。
216:日本@名無史さん
17/12/26 17:40:15.70 .net
>>201
美容のためなら、鴬の糞を顔に塗り、蝸牛を顔の上で這わせる。
女はたいへんじゃのうw
217:日本@名無史さん
17/12/28 22:07:33.41 .net
★大久保邸
▽荒屋敷
明治8年に建てた洋館に入居する以前の大久保の屋敷の所在地は書かれていない。
司馬さんによると、荒屋敷だったそうだ。
218:日本@名無史さん
17/12/28 22:10:53.24 .net
▽伊東祐之〈すけゆき〉
伊東祐之と山本権兵衛による大久保利通についての印象が書かれてある。
伊東によると「余は今までに大久保さんほど厳格でこわい人に出会ったことがない」のだそうだ。
219:日本@名無史さん
17/12/28 22:15:09.52 .net
>>206
間違えた。
伊東祐之は慶応4年に亡くなった薩摩藩士である。
大久保利通についての印象を述べたのは、日露戦争当時の海軍軍令部長だった伊東祐亨〈すけゆき〉の方だ。
220:日本@名無史さん
17/12/28 22:18:22.96 .net
▽伊東祐亨〈すけゆき〉
天保14年(1843年) - 大正3年。
薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である。
勝海舟の神戸海軍操練所で、塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らとともに航海術を学ぶ。薩英戦争にも従軍。薩摩藩邸焼き討ち事件で江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
URLリンク(blog-imgs-98.fc2.com)
221:日本@名無史さん
17/12/28 22:23:45.22 .net
>>206
こっちの伊東祐之〈すけゆき〉の次女のあさは般若三郎の妻となり、般若〈はんにゃ〉豊(埴谷雄高:はにや ゆたか)を産んだとされる。
URLリンク(www.gimu.fks.ed.jp)
222:日本@名無史さん
17/12/28 22:29:35.31 .net
▽山本権兵衛
1852年 (嘉永5年) - 1933年 (昭和8年)。日露戦争当時の海軍大臣。
鹿児島城下加治屋町に薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれる。諱は盛武。薩英戦争及び戊辰戦争に従軍した。
戊辰戦争後の明治2年に西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所そして海軍兵学寮と、海軍軍人への道を歩むことになった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
223:日本@名無史さん
17/12/28 22:33:19.74 .net
山本権兵衛による大久保利通の印象も、伊東祐亨と同じく「大久保さんは、いかにも怖い顔をしておられた。自然、人気は西郷さんのほうにあつまった。わが輩も大久保さんより西郷好きであった」と述べている。
224:日本@名無史さん
17/12/28 22:44:02.74 .net
▽伊藤博文
天保12年(1841年)- 明治42年。
伊藤による大久保評は、「あの人の威厳は一種天稟であった。めずらしいほどの広量な人物で、公平無私であり、人というものがそれが何者であっても重んずる風があった」である。
伊藤や大隈のような才腕家たちは、西郷・木戸よりも大久保を押し立てることによって新国家を作り上げようとした。
URLリンク(www.yoshida-shoin.com)
URLリンク(www.ndl.go.jp)
225:日本@名無史さん
17/12/28 22:53:24.91 .net
▽木戸孝正
1857年(安政4年)- 1917年(大正6年)
長州藩士来原良蔵とハル(木戸孝允妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった孝正の実弟・木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し明治17年に侯爵を襲爵する。明治23年2月、貴族院侯爵議員に任じられ、死去するまで在任した。
妻は、木戸好子(木戸孝允長女)。いとこ婚である。
URLリンク(pds.exblog.jp)
226:日本@名無史さん
17/12/28 22:56:45.51 .net
木戸孝正は伊藤博文から「憚らずに申せば、君の先代の木戸公は心のひろいほうではなく、むしろ狭いほうで、人を容れることができなかった。そこへゆくと、大久保利通という人はまことに度量が広かった」と言われた。
227:日本@名無史さん
17/12/28 23:00:12.98 .net
川路が大久保邸を訪ねたところで時間が停止している。
もうひとり、同時代人による大久保の印象を語るために、奈良原繁が登場する。
228:日本@名無史さん
17/12/29 16:58:39.71 .net
▽奈良原繁
天保5年(1834年)- 大正7年(1918年)
薩摩藩出身。通称喜八郎。兄・喜左衛門は、熱心な薬丸自顕流の門弟であるが、繁は鎗の使い手として知られた。
文久2年(1862年)の島津久光の卒兵上京に従い、寺田屋事件では鎮撫使の一人として活躍した。
その年の生麦事件では、リチャードソンに斬りつけたのは兄の喜左衛門ではなく、弟の繁であると子孫から異議が申したてられている。
229:日本@名無史さん
17/12/29 16:58:52.93 .net
翌年の八月十八日の政変では、高崎正風らと暗躍し、京から長州藩追放に成功している。
薩英戦争には、兄の喜左衛門は加わっているが、弟の繁は加わっていない。
西郷隆盛らの討幕路線に反対していたため、明治2年(1869年)2月に戊辰戦争より帰国した下級藩士たちより、藩政から退けられる。
明治4年(1871年)12月、沖縄特使として鹿児島県へ出仕。明治7年(1874年)2月、島津忠義家の家令となる。
230:日本@名無史さん
17/12/29 16:59:02.93 .net
明治12年(1879年)に内務権大書記官、明治14年(1881年)に農商務権大書記官、明治16年(1883年)に静岡県令。
明治17年(1884年)には日本鉄道社長に就任した。
明治23年(1890年)9月に貴族院勅選議員に任じられ同25年(1892年)5月まで在任した。
明治25年(1892年)に沖縄県知事に就任する。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
231:日本@名無史さん
17/12/29 17:06:55.15 .net
▽有馬新七
文政8年(1825年)- 文久2年4月23日(1862年)
薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛の子として薩摩国日置郡伊集院郷古城村で生まれるが、父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となり、鹿児島城下の加治屋町に移住した。
過激な尊皇攘夷活動を続け、文久2年、同志達とともに寺田屋に集っていたところ、島津久光の「説得に応じずば上意討ちもやむなし」との命により鎮撫に訪れた大山格之助らによって粛清された(寺田屋事件)。
この際、小刀が折れて討手の道島五郎兵衛の懐に入り壁に押し付けた状態で、橋口吉之丞に「オイゴト刺セ」と言って最期を遂げた。享年38。
232:日本@名無史さん
17/12/29 17:12:31.96 .net
※NHK「西郷どん」:有馬新七役は増田修一朗〔左端〕
右から、大山格之助:北村有起哉
有村俊斎:高橋光臣
村田新八:堀井新太
有馬新七:増田修一朗
URLリンク(pbs.twimg.com)
233:日本@名無史さん
17/12/29 17:14:33.76 .net
有馬新七は、文政10年生まれの西郷吉之助よりも2歳年長である。
234:日本@名無史さん
17/12/29 17:25:15.46 .net
▽芋掘り
酔って管をまく乱酔癖のことを薩摩語では「芋掘り」と言うらしい。
※管を巻く
「管」とは機織りで糸を紡ぐときに用いる軸のことで、これを「糸繰車」に差して糸を巻くと「ぶうんぶうん」と単調な音で鳴る。
管巻きの音や糸を巻く動作が、酒に酔った人が同じことを繰り返し、くどくど言う姿に似ていることから、「管を巻く」と形容されるようになった。 漢字で「まく」を「撒く」と表記するのは誤りである。
URLリンク(www.i-rekihaku.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)
235:日本@名無史さん
17/12/29 20:07:27.18 .net
奈良原繁は明治11年に官に仕えた。
ある宴席で奈良原が「芋掘り」納めをしようと思った。
その場で同席していた大久保の一瞥をくらった。
「悪ルゴアシタ」
236:日本@名無史さん
17/12/29 20:08:07.51 .net
次は後藤象二郎による大久保評。長いわ。飽きてきた。
237:日本@名無史さん
17/12/29 20:11:37.16 .net
▽後藤象二郎
天保9年(1838年)- 明治30年。
土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。少年期に父を失い義理の叔父・吉田東洋に預けられて育ち、東洋が開いた少林塾に学ぶ。吉田東洋とは血族ではない。
URLリンク(kyoto-np.co.jp)
238:日本@名無史さん
17/12/29 20:12:57.52 .net
「大久保と議論を上下すれば、まるで岩石にぶつかっているような心地で、じつに議論のしにくい男だった」
239:日本@名無史さん
17/12/29 20:18:03.73 .net
川路が半時間ばかり客間で待った。読者はそれ以上に待った。待ちくたびれて、飽きてきた。
大久保評を書くのはよいが、二人か三人にできなかったのだろうか。
やがて大久保が出てきて、丁寧にお辞儀をした。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(gallery.wox.cc)
240:日本@名無史さん
17/12/29 20:26:07.85 .net
▽ローレンツ・フォン・シュタイン(1815年 - 1890年)
ドイツの法学者・思想家。
伊藤博文にドイツ式の立憲体制を薦めて、大日本帝国憲法制定のきっかけを与えた人物としても知られている。1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文は、ウィーンのシュタインを訪問して2ヶ月間にわたってシュタイン宅で国家学の講義を受けた。
URLリンク(kosi.la.coocan.jp)
241:日本@名無史さん
17/12/29 20:29:19.99 .net
司馬さんは、大久保利通もシュタインの別荘を訪ねて講義を聴いたと書かれておられるが、この部分は創作である。
シュタインに師事して強い影響を受けたのは、伊藤博文である。
242:日本@名無史さん
17/12/29 20:34:57.10 .net
シュタインの国家学は、ヘーゲルの国家論の影響下に、共同社会を社会と国家の二つの構成要素に区分した。
そして、利益の原理に貫かれた社会〔レッセフェール型の自由放任社会〕では、有産者と無産者との間の階級対立が不可避であるのに対し、自由な人格たる国家〔ウェルフェア型の福祉国家〕は、この社会次元の対立過程を社会政策によって緩和すると考えた。
こうした立場は一に当時のプロイセンの王政を擁護するものであったが、同時にドイツ行政学確立のための理論的支柱をなした。
243:日本@名無史さん
17/12/29 20:45:16.50 .net
▽ドイツの地方自治
日本の地方制度の改正は、ドイツ人顧問モッセの助言の下、明治20年代に山県有朋内務大臣を中心に進められた。
その目的は、対外的には欧米先進資本主義国家の信頼を得るだけの中央集権的地方制度をつくりあげる必要があったことであり、対内的には自由民権運動の自治権拡充の要求に先手を打つ必要があったことである。
その結果、日本の市町村制(1988年)は、1890年の郡制・府県制とともに、政府の強い統制の下におかれたが、地方自治が制度的には確立されたという意義はある。
244:日本@名無史さん
17/12/29 20:48:26.07 .net
人
(_)
(__)
(´・∀・) ウンコー!
( )
| | |
(∩_)_)
| |_∧|
| |゚Д゚) 富国強兵のためにのみ人間は存在する
| |
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./| ∩ |
U U
245:日本@名無史さん
17/12/29 20:49:37.42 .net
歴史はこの種の人間を強者とした。
246:日本@名無史さん
17/12/29 20:54:19.28 .net
▽中江兆民
弘化4年(1847年)- 明治34年(1901年)
高知城下の山田町(高知市はりまや町三丁目)に生まれる。
中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。土佐藩の足軽であった中江は、大久保との面識はないものの、政府の要路にあたる大久保ならば自分の留学の志を聞き入れてくれるだろう、と大久保邸を訪問した。
247:日本@名無史さん
17/12/29 20:55:46.41 .net
明治7年にフランスから帰国した中江は、帰朝復命の挨拶と留学中の見聞について陳述するため、大久保のもとを即座に訪問している。
だが、報告しているうちに中江は不機嫌になる。熱心に語っているにもかかわらず、大久保は目を閉じ、話を聴いているのか聴いていないのか、起きているのか眠っているのかすらわからない態度だった。
248:日本@名無史さん
17/12/29 20:57:50.24 .net
それを聞いた大久保は目を閉じたまま微笑した。
「予は決して眠っているのではない。君が熱心なる意見を聴取するにあたり、目を開き、端座して相対するよりは、君に腹蔵なく満腔の所見を十分に陳述させようと思うがために、ことさらに目を閉じ、逐一傾聴しているのである」
自身の眼光の威力を知っていた大久保は、中江が萎縮することないように気遣い目を閉じていたのであった。
※中江篤介 URLリンク(kotobank.jp)
249:日本@名無史さん
17/12/29 20:59:51.24 .net
「それは御評定になりますまい」
「それはトクと考えておきます」
「それは御評定にかけましょう」
250:日本@名無史さん
17/12/29 21:04:27.15 .net
▽タチンコンメ
日本語でいうと「太刀の来ぬ前」。転じて「今すぐやる」。
イッコンメという同義語もある。日本語では「一騎来ぬ前」という。
251:日本@名無史さん
17/12/29 21:05:56.01 .net
要するに、川路は江藤を売ったんだな。
252:翔ぶが如く
17/12/29 21:32:37.27 .net
第3章 鍛冶橋
【三】西郷隆盛
桐野は、征韓論がいかに正義論であるかを語り、さらには天下の不平武士たちが、汚濁にまみれたいまの東京政府をいかに激しく呪っているかを説き、政府に対してもはや蜂起寸前の情勢にある、といった。
それを征韓によって一挙に解決しようというのが桐野の意見であり、桐野は説きおわると、
「いけんや?」
と、にわかに薩摩言葉にもどった。
253:日本@名無史さん
17/12/29 21:42:52.34 .net
★日本橋小網町
▽日本橋小網町
東京都中央区日本橋小網町。現在も同じ町名である。
日本橋地域の南部に位置し、日本橋川の北岸にあたる。
江戸時代に将軍の御前で網を引いた漁師が御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得た故事により、この漁師たちの一丁目の町角に漁網を一張干しておく風習から生じた町名と推定される。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
254:orekisi/20131201/20131201042327.gif http://arukitabiouen.up.n.seesaa.net/arukitabiouen/image/Image4-661f9.jpg?d=a0
255:日本@名無史さん
17/12/29 21:53:40.94 .net
▽酒井雅楽頭の中屋敷
「下馬将軍」と呼ばれた大老・酒井忠清の家系。
徳川四天王である酒井忠次の嫡流は出羽庄内藩を知行された〔>>63〕。いわゆる左衛門尉酒井家。
雅楽頭酒井家は、忠清当時が上野国前橋藩、その後、播磨国姫路藩15万石を知行された。
256:日本@名無史さん
17/12/29 22:03:00.68 .net
《雅楽頭酒井家系譜》
正親……山岡荘八『徳川家康』の松平広忠時代の家老として大活躍する雅楽頭
重忠……天正4年(1576年)、父・正親が死去するとその跡を継いで三河西尾城主となった。
忠世……慶長10年(1605年)に将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄
忠行……寛永9年(1632年)、徳川秀忠の死後に本丸奏者に任じられ将軍家光に仕えた。
忠清……第4代将軍徳川家綱の治世期に大老となる。
257:日本@名無史さん
17/12/29 22:12:41.24 .net
▽思案橋
江戸時代初期においては、近くに元吉原という遊廓もあり、劇場のある堺町・葺屋町をひかえての橋です。橋の途中で、どちらへ行くかを思案したため、思案橋という橋名がつきました。
小網神社の前あたりに思案橋があったが、現在は道路になっているので名残はない。
なお、「思案橋ブルース」(昭和43年)は長崎の思案橋についての歌であって、江戸の思案橋とは関係がない。
URLリンク(www.hirooka10.net)
258:日本@名無史さん
17/12/29 22:21:52.17 .net
▽汐留橋
川崎市にも同名の橋がある。
江戸の汐留橋は、外濠川と合流後の汐留川を東に向かいます。土橋、難波橋の次が新橋で、その下流にあるのが汐留橋。
後藤象二郎〔>>225〕が長崎の高島炭鉱(軍艦島)を明治政府から55万円で払い下げを受けて、明治7年11月に完成した商社「蓬莱社」の建物が近くにある。この蓬莱社の拠出金で同年5月に汐留橋の石橋が完成して「蓬莱橋」と改名された。
URLリンク(pds.exblog.jp)
259:日本@名無史さん
17/12/29 22:34:19.64 .net
▽西郷隆盛
通称は吉之助。諱は隆盛。
もっとも隆盛は友人の吉井友実が、亡父西郷吉兵衛の諱を勘違いして政府に届け出たもので、本当は隆永という。
※左が西郷吉之助役の鈴木亮平、右は大久保一蔵役の瑛太。
URLリンク(contents.oricon.co.jp)
260:日本@名無史さん
17/12/29 22:43:56.32 .net
▽吉井友実
文政11年(1828年)- 明治24年(1891年)。別名は幸輔。
薩摩藩士・吉井友昌の長男として鹿児島城下加治屋町に生まれる。藩主・島津斉彬の藩政改革の下、安政3年(1856年)に大坂薩摩藩邸留守居役などを務めて諸藩の志士との交流を重ね、若手改革派の1人として活躍する。
明治4年に大久保の推挙で宮内大丞、宮内少輔に就任、宮中の改革に尽力し明治天皇の輔導に努める一方、明治6年の政変で大久保に協力して西郷と袂を分かった。
※NHK「龍馬伝」吉井幸輔役は及川いぞう
URLリンク(blog-owner.yakushihair.com)
261:日本@名無史さん
17/12/29 22:52:05.23 .net
▽西郷吉兵衛
文化3年(1806年)- 嘉永5年(1852年)。諱は隆盛。
弘化4年(1847年)、父隆充の隠居により、家督を相続する。その二年前に御勘定方小頭となっている。
嘉永2年(1850年)、お由羅騒動で赤山久晋の死を見届ける。
※NHK「西郷どん」風間杜夫 URLリンク(news-topics24.com)
262:日本@名無史さん
17/12/29 22:57:30.85 .net
「西郷どん」幾島役・斉藤由貴さんの降板を受け、代役として南野陽子さんの出演が決定しました。
URLリンク(pbs.twimg.com)
263:日本@名無史さん
17/12/29 22:57:40.77 .net
この半乳は見れないのか(;´Д`)ハアハア
URLリンク(twitterism.net)
URLリンク(www.toho-ent.co.jp)
264:日本@名無史さん
17/12/29 23:03:58.74 .net
ついでに、祖父母と母親じゃ。
西郷龍右衛門 (祖父/?-1852)…大村崑
URLリンク(s.eximg.jp)
西郷きみ (祖母/?-?)…水野久美
URLリンク(blog-imgs-62.fc2.com)
西郷満佐子 (母/?-1853)…松坂慶子
URLリンク(blog-imgs-77.fc2.com)
265:日本@名無史さん
17/12/29 23:34:11.71 .net
▽西郷慎吾
天保14年(1843年) - 明治35年(1902年)。西郷吉兵衛の三男。
諱は隆道であるが、戸籍の役人に「ジュウドウ」と言ってしまったために、以後「従道」が諱になってしまった。
名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。
URLリンク(db.nichibun.ac.jp)
※NHK「西郷どん」錦戸亮
URLリンク(scontent.cdninstagram.com)
266:日本@名無史さん
17/12/29 23:39:47.96 .net
▽萩原乙彦〈おとひこ〉
文政9年(1826)- 明治19年。戯作者、俳人。
関為山の門に入って学び、当時書家として有名な萩原秋厳の養子となった。
明治13年2月、静岡新聞再興のため社長として招かれたが長つづきせずに転落の一途をたどり、明治17年の夏ごろ、谷村の門弟・水口弥八をたより、俗に六軒長屋と呼ばれた官員長屋に住み、生花や茶道の先生をしていた。
267:日本@名無史さん
17/12/29 23:43:29.74 .net
萩原乙彦は、日本橋川を「これ即ち五大洲へ、遠く行くべき水原」と表現している。
ー 東京開化繁昌誌(明治7年)ー
268:日本@名無史さん
17/12/29 23:47:11.77 .net
▽魚河岸
日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原町一帯(日本橋本町1丁目~日本橋室町1丁目)にあった魚市場。
17世紀の初めに開設され、昭和10年に築地市場への移転が完了するまで、300年以上にわたって、江戸と東京の人びとの食生活を支えつづけた。
URLリンク(nihombashi-tokyo.com)
URLリンク(nihombashi-tokyo.com)
269:日本@名無史さん
17/12/29 23:52:07.45 .net
▽日本橋電信局
1869(明治2)年に横浜・築地間に敷かれた電信線が、1872(明治5)年に延伸され、日本橋の南東詰に電信局が開局された。
歌川国輝による「東京各大区之内 日本橋電信局」。電信線と電信柱が描かれている。
URLリンク(smtrc.jp)
270:日本@名無史さん
17/12/29 23:56:17.27 .net
巨大な紙鳶(凧)を揚げると電信線にひっかかるので、東京府第136号布告により禁止された。
URLリンク(singer-comedian.c.blog.so-net.ne.jp)
271:日本@名無史さん
17/12/30 00:02:04.33 .net
▽海運橋
兜町の東京証券取引所から50mほど南を東西に走る一方通行の小さな通りが、旧・楓川を渡る橋である。
江戸時代の初期には『高橋』と呼ばれる橋がここに架かっていたというが、明治政府による兜町一帯の商業化計画に伴って、水運の中心となることや「開運」にも結びつく縁起の良い名称ということで『海運橋』と命名された。
昭和37年に廃橋された。
URLリンク(www.geocities.co.jp)
272:日本@名無史さん
17/12/30 00:08:27.21 .net
▽第一国立銀行
海運橋は、現在首都高速都心線の真下にあたるところに流れていた楓川と日本橋川が合流する入口に架かっていた橋です。
明治6年に創業したわが国最初の国立銀行「第一国立銀行」の建物です。設計施工は清水組(現清水建設)の二代目清水喜助です。
URLリンク(www.tokyochuo.net)
URLリンク(www.kahaku.go.jp)
273:日本@名無史さん
17/12/30 00:17:01.51 .net
▽瑯邪台
前述した萩原乙彦〔>>253〕は、第一国立銀行の建物を、「越王〔勾践〕の起こしたる瑯邪台も斯や有けむ」と、賛嘆している。
URLリンク(img2.rakutabichinastatic.com)
274:日本@名無史さん
17/12/30 00:20:21.58 .net
▽鎧橋
東京都中央区の日本橋川に架かる橋である。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、同下流側は日本橋茅場町となり、東京証券取引所も近い。上空は首都高速の高架橋に覆われている。
初代の橋が架けられたのは1872年(明治5年)で、三井・小野・島田の3人の豪商が費用を出し合って建設された。
URLリンク(bunka.nii.ac.jp)
URLリンク(www.kanda-gawa.com)
275:日本@名無史さん
17/12/30 00:25:10.46 .net
川路は鎧橋をわたって西郷の屋敷へゆくと、西郷は不在であった。
「こげんたんと余談ンば挟ンじょって不在とな?先生は何処おじゃしたか?」
物語の本筋が2%、残り98%が余談であった。川路は疲れきっていた。
276:日本@名無史さん
17/12/30 00:35:24.48 .net
>>258
江戸時代には、海賊奉行・向井将監に由来する「海賊橋」があったんじゃないのか?
277:日本@名無史さん
17/12/30 00:38:32.30 .net
>>259
第一国立銀行の敷地は、丹後田辺藩牧野豊前守家の上屋敷(約6,800坪)であった。
URLリンク(30d.jp)
278:日本@名無史さん
17/12/30 00:46:28.62 .net
★西郷屋敷
▽熊吉
西郷家の下僕。西郷が生まれたときからその成長を見守り、貧乏な西郷一家を支え続けた。幕末の動乱の中、江戸へ京へと西郷に従い、西南戦争では西郷の息子・菊次郎を戦地から救出した。義理人情に厚い男で、生涯、西郷に尽くす。
「西郷どん」にも登場するらしい。熊吉役は塚地武雅。
URLリンク(pbs.twimg.com)
279:日本@名無史さん
17/12/30 00:50:27.86 .net
「田原坂」の高品格さんの熊吉は良かったよな。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
280:日本@名無史さん
17/12/30 00:52:57.35 .net
▽与助 薩摩伊集院出身
▽市助 薩摩谷山出身
▽矢太郎 同上
281:日本@名無史さん
17/12/30 00:54:47.53 .net
▽小牧新次郎
鹿児島城下出身の書生。
282:日本@名無史さん
17/12/30 00:57:33.44 .net
>>244
明治9年に旧会津藩士永岡久茂らが思案橋事件を起こすね。
あとでまた登場する。
283:日本@名無史さん
17/12/30 01:48:23.82 .net
あんなに予告していたのに、北斗の人は読んでいないのかあ。
僕は読み始めていたのに……。
284:日本@名無史さん
17/12/30 17:02:14.13 .net
>>270
申し訳ない。急遽、予定変更です。
285:日本@名無史さん
17/12/30 17:09:24.70 .net
▽桐野利秋
天保9年(1838年)- 明治10年(1877年)
明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられたとき、第一大隊の隊長となった。
明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入された。同年7月20日、兵部省出仕となり、28日、陸軍少将に任じられ、同時に従五位に叙せられた。
明治5年(1872年)3月、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官に任命され、熊本に赴任した。
明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所所長を兼任し、6月25日、正五位に叙せられた。
※日本テレビ『田原坂』(1987年):勝野洋
286:日本@名無史さん
17/12/30 17:11:56.57 .net
桐野は「維新後、いきなり陸軍少将になった」のではなく、明治4年、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したときである。
287:日本@名無史さん
17/12/30 17:16:53.56 .net
★廃藩置県
▽戊辰戦争
明治元年5月15日、上野戦争が始まり、西郷隆盛は正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。
5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した。
288:日本@名無史さん
17/12/30 17:20:39.13 .net
北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、明治元年7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。
新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。
このとき、西郷は黒田清隆に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた〔>>63-65〕。この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。
289:日本@名無史さん
17/12/30 17:23:35.10 .net
明治2年(1869年)2月25日、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、西郷は鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。
以来、藩政の改革や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。
5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。
帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って鹿児島へ帰った。
290:日本@名無史さん
17/12/30 17:26:20.21 .net
明治2年7月、鹿児島郡武村(現在の鹿児島市武二丁目の西郷公園)に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。
明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利元徳に謁見したのちに鹿児島へ帰った。
291:日本@名無史さん
17/12/30 17:28:46.56 .net
明治3年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が、時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。
これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢
292:により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した。 12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。
293:日本@名無史さん
17/12/30 17:33:58.27 .net
▽薩摩常備隊
一個大隊=八個小隊
城下士の常備大隊……四個大隊
郷士の常備大隊……十三個大隊
予備大隊……三十二個大隊
294:日本@名無史さん
17/12/30 17:37:30.75 .net
▽城下士常備大隊
一番大隊長……桐野利秋
二番大隊長……篠原国幹
三番大隊長……川村純義
四番大隊長……野津鎮雄
295:日本@名無史さん
17/12/30 17:45:03.02 .net
▽川村純義
天保7年(1836年)- 明治37年(1904年)
西郷の従妹・椎原春子の夫。川村は西郷に実弟のように可愛がられたという。戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として、特に会津戦争で奮戦した。
戊辰戦争から薩摩に凱旋すると、門閥排斥の先頭に立った。純義は藩主・島津忠義の面前で藩主の弟の島津久治を詰問し、その結果、久治はピストルで自殺している。
明治維新後は、明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、海軍中将に任ぜられる。
URLリンク(pds.exblog.jp)
296:日本@名無史さん
17/12/30 17:56:37.28 .net
椎原春子の父が椎原国幹。『田原坂』では下川辰平。その父、つまり西郷の母方の祖父が椎原与右衛門国紀で田中春男。
ついでに、『田原坂』の川村与十郎純義役は松山英太郎。椎原春子は登場していなかった。
椎原国幹は、西郷の母・政(まさ)の弟で、西郷隆盛の叔父に当たるが、西郷とは年齢が近かったため実際には兄のような存在であった。
西郷の母は、NHK「西郷どん」では、満佐子とされている〔>>251〕。
297:日本@名無史さん
17/12/30 18:03:18.67 .net
▽野津鎮雄
天保6年(1835年)- 明治13年(1880年)
慶応4年(1868年)、戊辰戦争では五番隊長となり鳥羽・伏見の戦い、奥羽・箱館に転戦した。
明治2年(1869年)1月、藩兵四番大隊長を任ぜられる。続いて明治4年(1871年)3月、上京し御親兵大隊長となり、7月より陸軍に奉職。
佐賀の乱では大久保利通指揮の下、大阪鎮台隷下の歩兵2個大隊砲兵大隊を率い、佐賀城奪回に貢献した。
西南戦争では第一旅団司令長官をつとめた。戦後陸軍中将となる。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
※『田原坂』では玉生司朗 URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
298:ab.jpg
299:日本@名無史さん
17/12/30 18:09:15.55 .net
▽山下房親
天保12年(1841年)、鹿児島県西田町に生れた。
初代警視総監の川路利良とともに近代警察組織を立ち上げ、鍛冶橋監獄で典獄(刑務所長)を務めた人物。
ジャズ・ピアニスト山下洋輔の母方の曽祖父である。詳しく知りたい方は、山下洋輔『ドファララ門』をお読みになってください。
URLリンク(www.motionblue.co.jp)
300:日本@名無史さん
17/12/30 18:13:39.93 .net
(山下房親)「川路どんが入っておりませんな」
「ああ、正どんのこっな」
『翔ぶが如く』に自分の曽祖父が登場していて驚いたという話は、山下洋輔が司馬全集の月報に書いていたような気がする。
301:日本@名無史さん
17/12/30 18:18:17.93 .net
山下洋輔は、1942年(昭和17年)、東京・渋谷の金王町に生まれた。
渋谷金王町の関係でも『翔ぶが如く』に絡んでいるな。
302:日本@名無史さん
17/12/30 18:30:26.02 .net
>>265
熊吉は、永田という姓までわかっている。
西郷が明治政府に呼ばれた時には日本橋の西郷邸に住み、身の回りの世話から金銭管理まで任されていた。西郷が征韓論で下野し、東京から鹿児島に戻る際には日本橋の土地や家を売るのに尽力した。
西南戦争の際に延岡・和田越えの戦闘にて右足に銃弾を受け膝下を切断する負傷をおった西郷菊次郎を背負い、西郷従道のもとへ投降したことで知られる。
明治19年(1886年)には西郷従道に呼ばれて再上京し、以後、西郷従道に仕え目黒の西郷邸に住み、庭師などをして現在の西郷山公園の原形を作ったといわれる。